TSUYOSHIの読書日記



2000年5月22日
現代科学・発展の終焉
村上陽一郎、ひろさちや著

 この本は、いわゆる科学とは何か?そして我々の社会における科学の役割とは何か?科学者と技術者とはどのような人たちなのか?、が書かれている、村上陽一郎氏とひろさちや氏の対談集である。

 当初、私がこの本を手にしたときに期待していたことは、私が日頃感じていたことがあるのだが、その思いの根源にあるものは何なのか、ということのヒントが隠されているのではないか、ということだった。私が日頃感じていたこととは何かというと、「経済学を含めて科学とは、キリスト教・聖書とは切っても切れない流れの中にあるのではないか」というものだ。

 ニュートン、アインシュタインにしても、神の作った摂理を1つ1つ解明し、神の意思を少しでも知ることであった。

 さて、では現在、科学の父とは誰かと問うたならば、おそらくガリレオ、ニュートン、コペルニクスあるいはケプラーなどの名前を挙げるのではないだろうか。大体、16〜17世紀くらいに集中しているだろう。しかし、これらの人々も、現在の科学という概念から見るととても科学者といえるものではない。例えば、コペルニクスは、地動説を唱え、それまでの常識と考えられていた天動説を真っ向から否定した。しかし、その考えに至る動機はとても科学的と呼べるものではない。村上氏は次のように述べている;

それまでの伝統的な考え方では地球が中心と考えられていた。それに対してコペルニクスは、太陽が宇宙の中心にあるべきだと考えた。その理由はいくつかあるんですが、まず、最も重要な理由の一つはユダヤ・キリスト教の聖典の一つである「創世記」なんです。「創世記」では神が最初にこの世界をつくったときに、神はまず「光あれ」と言った。そうすると光があった。そして昼と夜が分かれた。これ第一日なり、というものです。その光というものは抽象的な光ではなくて、本当にわれわれの目に見える太陽ではないか、と彼は考えたわけです。そこから間接的に他のものがつくられた、神の愛がすべてのものを等しくやさしく貫くように、その熱や光もあらゆるものに向かって広がっていく、というような言い方をしています。だから太陽はすべての中心になければならない、これがコペルニクスの考えです。
引用:p56

 ちょっと長い引用になってしまったが、この部分は私にとってまさに、我が意を得たり、と感じた部分である。

 が、すぐに、私の考えはさらに次の段階に進まなければならないことに気が付いた。ダーウィンの「種の起源」である。これにより、科学が神学から独立する最後の決め手になっている。しかし、これすらも私には、キリスト教・聖書の影響を受けていると思えてならない。勿論、その中身は神の存在の否定であるが、わざわざそのことを読み手が連想せざるを得ないのもまた、確かなのではないだろうか。

 「種の起源」の要点は2つある。まず1つめは、勿論種が長い時間の中で進化してきたということ。そして2つ目は、進化するメカニズムは完全な偶然に任せられていること、である。当然そこには、キリスト教社会の考える、この自然界は神の計画に現れている場所である、という計画性とは無縁の世界である。

 ここで、「種の起源」についてよくありがちな誤解を明確にしておかなければならないだろう。その誤解とは、「種の起源」は弱肉強食、優勝劣敗、優れたものが勝って劣ったものが敗れて死んでいく、という風に考えられていることである。これは明らかに違う。「種の起源」には、そのようなことは書かれていない。正確に言うと、書かれているのは、「適者生存」である。

 両者の考えはまるで違う。適者生存とは、環境にうまく適応した種が生き残る、というものである。種と種、あるいは個体と個体とを比較して、強いものが勝つ、あるいは優れたもの勝つ、という考えではない。環境(自然)によって篩にかけられ、ふるい落とされなかったものが生き残る、そしてその篩というメカニズムは、偶然に任せられている、ということである。

 このような「種の起源」の誤解と、優生学の悪用、とが結びついてでてきたのがナチスによるホロコースト、アーリア人至上主義なのではないかと、私は思う。

 「種の起源」とキリスト教との間には最近でも、様々なことが起こっている。例えば、1950年代のアメリカで、スコープス裁判というのがあった。これは、スコープスさんという高校の教師が学校でダーウィンの進化論を教えたために、告訴され、罰金を支払ったというものである。しかし、その後 1969年、州がこの判決を撤回した。すると今度は、教条主義者達がまた裁判を起こした。ダーウィンの進化論は否定はしないがそれは1つの仮説である、聖書の中の「種の創造説」も1つの仮説であると考えているので、両方を並行して学校で教えるべきだ、というもの。結局これはノーという結論になったが、これもまた、現代科学の最先端をいっているはずの、アメリカの1つの側面だろうと思う。

 また、昨年(1999年)、ローマ法王のヨハネ・パウロ二世が、ダーウィンの進化論も認めうる対象である、と発言して世界中が大騒ぎになった。

 私にとっては、2例とも、何を今更、という気がしないでもないが、これも現代社会の歴然とした姿なのだろう。

 さて、本書の中身に戻るが、科学の1つとして、経済学のことにも触れている。この話題については私は少々不満を持っている。経済学者として登場してくる人物は殆どがマルクス経済学者達である。近代経済学者で出てくるのはケインズくらいのものであった。そしてそれでもって、経済学ではこう考えているようだ、とまとめてしまっている。おいおいおい、と思ってしまった。

 長くなってしまったので、そろそろ終わりにするが、本書は科学の役割と批判を改めて考える上で、非常に示唆に富んだ本であった。

現代科学・発展の終焉(1994)
村上陽一郎/ひろさちや著
主婦の友社
ISBN 4-07-940068-3




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