やおさんの

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北区初の公認サッカー場が実現
⇒きのうはサッカーを堪能しました2009.6.14
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  ◆サッカー歴

 ボールを蹴ったのは、小学校の4年生くらいかな。蹴っただけ。当時、キックベース(?)という遊びがあったような気がします。

 ブラジルからサントスという選手が日本にきて、どこかの会場の舞台の上で、リフティングをやってもらうシーンが放映されたのを見て、丸いボールを地に落とさずにいつまでも蹴り続けていることが不思議でなりませんでした。(いまでもわたしには不思議です。)

 北区立神谷中学校時代にサッカー部に入りました。

 当時はツーバックシステムで、たまたま左足で蹴ったボールが飛んだのを見た先輩が、「おまえレフトハーフ」。それがどおゆうポジションなのかも知らないまま、やりました。蹴ったり蹴られたり(ボールではなくて)痛い思いを何度もしながら、それでも夢中になってボールをおいかけました。

 ツーバックシステムとは、2・3・5。

 クラブ担当の先生が、サッカーを知らなくて、走らないと竹刀を持って追いかけて来るという練習。リフティングも壁パスも教えてくれません。キックアンドラッシュばかり。失敗するとウサギ跳びでグランド1周。東京オリンピック(1964)をまえにした、まだサッカーがマイナーもいいとこの時代。



  ◆そのままやっていればよかっったのに  しばし中断

  ◆夢中でサッカーが出来たのは21歳の時。

 日本油脂王子工場に入社し、サッカー部に。
 当時の東京Bリーグに加入。Bの下くらいのレベルでゲームをやりました。

 グランドは江戸川の河川敷しかない、サッカーにとって貧しい貧しい時代でした。
 私はどちらかというと「りろんは」で、このころ本屋で手に入れた「サッカー教本」で勉強しました。

 このときの経験から、その後退社して専従となった民青同盟(日本民主青年同盟)内にサッカーチームを作り、創設した新スポーツ連盟(当時新日本体育連盟)の主催するスポーツ祭典のサッカー大会を主宰。

 8チームの熱い(暑いではない)夏の大会は、昔の北運動場で行われましたが、そのとき北区内には、正規のサッカー場はありませんでした。
 このときの苦労話を取り入れての、私の区議会本会議における「北区に五カ所のサッカー場を」の質問をぜひお読みください



  ◆スポーツは大好きで、水泳、ボクシング、キックボクシング、空手などを少しかじったりしました。

 スポーツと健康、けがの予防、テーピング(このころはテープはまだ市販されていませんでしたが)、科学的トレーニング( ストレッチング理論もまだありませんでした)方法なども勉強し、トレーナでもやりたいなーなどと思ったことも。



  ◆私は、26歳で区議会議員になりましたが、その前後は「政治活動」がいそがしく、スポーツからは縁遠くなり、肉体的衰えは信じられないくらい。

 29歳になる頃は、からだがガタガタに。
 これではいけないとたばこをやめるなど「努力」はしたものの、久しぶりのスポーツ祭典では、グランドに立っているのがやっと。
 ボールを追いかけたのは、最初の5分間でした。

 西が丘のトレーニングサウナに通うようになったのもこのころから。
 「健全なる身体に、健全な思想が宿る」とは、かの偉人の言葉。肉体大改造作戦に乗り出したのですが……。



  ◆監督

 クラブをつくり監督をやっています。
 また、いくつかのチームと親交を深め、ゲームを楽しんでいます。
 高齢になってもサッカーは出来る、このことを実証したいな。そおいうチーム作りをしています。
 毎週1回程度、十条中学校校庭で、夜間ですが、ミニゲームを若い人たちと一緒にやっています。また、50才を越えた方たちのチームづくりをしたい。
 ご希望の方。ご連絡をどうぞ。



◆スポーツ大好き人間の私ですが、身体をこわしたりして、健康に生きることの大切さ、スポーツを生活の一部として取り入れる、あるいはとけ込まして生きる。そおいうことの大切さを知りました。

  生涯スポーツ、
 そのための環境づくりが
 私の仕事だと思っています。





●最初の質問でスポーツ施設の拡充要求(1975年6月)
 そしてスポーツ総合計画作成を要求(1976年11月)
 さらに北区内に5カ所のサッカー場をもとめる