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| 北区議会・憲法9条を守る会が 「3.26大田昌秀・講演会」につづき 「4.16〜18沖縄視察」を実施 2010.5.31 北区のホームページに紹介されている「平和マップ」 |
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沖縄の米軍基地問題は、1972年の施政権返還後は、日米安全保障条約・日米地位協定に基づく問題としてとらえる必要があります。ちょうど今年2010年は、1960年の日米安保条約の改定から50年目の節目の年となりました。 60年当時沖縄は、大戦後の米軍占領下から、サンフランシスコ講和条約に基づく米政府の施政下・沖縄となっていました。この頃に沖縄の米軍基地群は、「銃剣とブルドーザー」によって強奪され、米政府施政下で朝鮮戦争やベトナム戦争の出撃基地にされていました。 そのベトナム戦争の終結期に入るかという1972年に、沖縄の施政権がようやくにして日本に返還されました。沖縄の核と、出撃基地という「おまけ付き」で、沖縄が日米安保体制下に入り、同時に日米安保は、核安保であり、戦争出撃安保となったわけです。佐藤栄作氏による核密約は、このときに交わされたものでした。
大田平和総合研究所
視察2日目、佐喜眞美術館を訪ねたその足で、大田昌秀元沖縄県知事が主宰する大田平和総合研究所を訪問しました。 3月26日、北区議会・憲法9条を守る会が開いた結成5周年記念講演会で、講演してもらったお礼をかねての訪問でした。 私として、再度、聞いておきたいこともあっての訪問でした。 那覇市内にある研究所の看板は、写真のとおり。 室内は、書籍やファイルがぎっしりつまった書棚がズラリ。スタッフの方にご案内いただき中へ進むと、大田さんがにこやかに迎えてくれました。 となりに座らしていただき、私は、「いまの沖縄は以前のときとまったく違う。今回は、途中で妥協勢力が出てくるような動きにはならないのではないのか」と口火を切りました。 大田さんは深くうなずきながら、口を開きました。 大田「普天間基地を返還するかわりに代替施設をといいますが、グアムにはすでに4本の滑走路をもつ基地があります。これを使わない手はないでしょう。私はグアムやテニアンの関係者と会っているが、向こうでは海兵隊が来ることを歓迎しています。マスコミはなかなかこういうことを書きませんね。」 私「日本政府がそうしている」 大田(うなずきながら)「この間、グアムの知事にお会いした時に、『地元の反対はありませんか』と尋ねたら、『基地の移転には、いつでも反対する人がいます。でもそれはグアムの問題ですから、日本のみなさんが心配することではありません』と言ってくれました」と、グアム知事の発言を紹介しました。 グアムでは、B52などが、米国本土に帰ってしまい、米軍による本土からの「恩恵」が薄れています。そこに沖縄からの海兵隊の受け入れが決まり、そのための整備が進んでいるのです。地元グアムでは、こうした事情から、沖縄からの基地移設に「歓迎」の意思をあらわにしているわけです。 米国内問題とはいえ、グアム知事のような 基地歓迎の考え方には、釈然としないものを感じます。 一つは軍事優先のままでいいのか、という問題です。 お国柄といえばそうなのですが、米国では、世界でダントツの軍事予算をくんで、世界中に米軍基地群を置き、その軍事施設を維持管理するために莫大な米ドルを流出させて、それが収支の赤字の原因にもなっています。帝国主義、単独主義などと呼ばれてきた所以です。日本は、その米国の赤字国債を日本で国債を発行して大量に数百億円分も、買ってあげたりしています。 その予算規模は、いまや世界第二位いともでいわれる中国のなんと10倍近いものです。日本は、じつはその中国の軍事予算と規模においては同じくらいのレベルになっています。最近まで、日本の軍事費は、米国に次ぐ位置にいましたが、ここ二年来で、日本より中国の方が上回ったと言われています。 軍事からものを語ろうとする人は、軍事バランスで、釣り合いをとっておいて、国と国との外交が成立すると考えます。 それでいけば、日本の立場は、ロシアを含めてのアジアにおいて、ダントツのアメリカと世界第二位の日本の軍事ブロックこそが、「帝国」をなしており、は、 どの国でも軍事が優先されると、社会保障関連予算が圧迫もしくは縮減してしまいます。そして、その国の経済を、軍事優先のもとにゆがめていきます。「軍栄えて福祉枯れる国」へと変貌していくのです。旧ソ連邦は、絶えず国家予算の三分の一から四分の一が軍事費で、それが体制崩壊の要因ともなりました。 中国における社会保障諸制度は、「未分化のレベル」であり、最初から低水準でしたが、軍事補の増大は、貧困層の広がりに、いっそう拍車をかけるものとなっています。一方、先進国と呼ばれながらも、その社会保障制度の劣悪さでは世界でトップクラスのアメリカでしたが、そのアメリカ並みの社会保障制度にしようというのが、日本ということになります。小泉構造改革がそれでしたが、この構図を見ると、軍事優先の国ほど、社会保障は薄いということが、よくわかります。 そおした「お国柄」ですから、グアム島のような小国内に、米軍基地施設が拡大されること自体への拒否感は薄いのかもしれませんが、いつまでも軍事頼みの島でいいのか。太平洋の真ん中に、アジア諸地域ににらみをきかすように、米軍基地施設が整備されている姿そのものに、何の疑問も持たないでいいのか。私はグアム知事の発言を聞くにつれて、複雑な心境になります。 日本でも、貧しい財政の元に置かれている地方自治体では、例えば北海道などに出向くと、「自衛隊歓迎」の看板を掲げて、誘致運動をしているところが、けっこうたくさんあります。原子力発電所を誘致する自治体もそうした事情の元に置かれています。青森県六ヶ所村は、同様の理由から、核物資廃棄物の「ゴミ捨て場」になっています。どうやら、米国政府も日本政府も、「貧しさ」につけ込んでの、安全保障体制をつくりあげてきたようです。ほかならぬ沖縄がその典型であったのではないでしょうか。 もう一つの問題は、海兵隊とは、殴り込み部隊であって、けっして「国を守る」軍隊ではない。ましてや日本を守るなどという意識にはない。その戦争仕掛け部隊が、日夜、戦闘訓練に明け暮れているわけですから、米軍基地群周辺の街では、いつも危険と隣り合わせに置かれてしまうわけです。 その危険とは、少女暴行事件にみるような強姦事件、強盗、あるいはひき逃げなどの交通事故、このほとんどは酔っぱらい運転によるものですが、こうした事件が頻発する。これは、しかも米兵の身柄拘束が思うようにできない、あるいは起訴して裁判することができないなどの「治外法権」ぶりですが、そうしたことを含めての危険にさらされながら島民は日常生活をしなければならない、そういう危険です。
また、飛行機やヘリコプターの墜落事件や、射撃訓練による誤爆も多く起きています。読谷村の項で、空からトレーラーが降ってきた事件を紹介しましたが、米軍にとっては沖縄県民は「虫けら」同然なのです。 これが「基地の町」の実態でもあるならば、それをグアムのみなさんに押しつけてよしとするわけにはいかないのは、当然のことです。 左写真は、まだ記憶に新しい2004年のヘリ墜落事故の模様です。普天間基地の写真(下)に墜落現場位置がわかるように●印を入れておきました。 じつは、普天間基地のような危険な基地は、アメリカ本土では、それこそ砂漠の中にしかまず造ることができません。ニューヨークの真ん中に普天間基地があることを想定してみてください。信じられない光景が浮かぶはずです。沖縄では、その信じられないことが、現実のことであり、それがずーっと続いてきたのです。 ですから、私たちは、単純に米軍基地は全部グアムに行けという言い方はしていません。米軍基地は、すべてアメリカに戻れと言っているわけです。あとは基地群を引き取るアメリカ政府が、考えるべきことだというのが、私たちの基地撤去を求める立場です。しかし、グアム移転問題では、すでに米政府の方針により、その再編計画に則った形で、沖縄の海兵隊の移設計画が進行しています。それによれば、海兵隊員8000人とその家族9000人が、グアムに移転する。そのための基地整備を行うにあたり、その費用負担を日本政府に行わさせるとしたのです。 そこをとらえての、大田さんの発言であったのです。 大田元県知事や、宜野湾伊波市長、あるいは名護稲嶺市長もそうでしたが、いま沖縄では、普天間返還が日程に上り、グアムへの海兵隊移動が具体化されるにつれて、なにも辺野古に米軍基地をつる必要はないのでは、との議論が大きく盛り上がっています。日本政府は代替え施設があたりまえのようなことを言いますが、今回の規模のグアム移転が実現できるならば、また、グアムの飛行場整備が進むのならば、なにも辺野古に新基地を建設してあげることなどの必要性は、なくなるのだというわけです。 私たちが目の当たりにしている普天間基地問題とは、そもそもどのような問題なのでしょうか。なぜ、米軍基地問題の中で、この普天間基地だけが大きな問題とされてきたのでしょうか。 話は、1995年にまでさかのぼります。 あの少女暴行事件は、その年の9月4日に起きました。 近くの文房具店で買い物をした小学生・少女を、3名の米兵が襲いかかり、車に押し込んで、抵抗する少女の目と口をガムテープでふさぎ、2キロほど離れた農道にまで連れ提起、車の中で繰り返し暴行を加え、車から放り出して逃走したという事件でした。 少女は、現場から一キロほど離れた集落まで歩いてたどりつき、民家に入って、そこから自宅に電話をして、事件が発覚したのでした。 通報を受けた沖縄県警は、捜査を開始。レンタカーの線から元海軍一等水兵22歳、海兵隊一等兵20歳、同21歳の3名の黒人兵を割り出しました。基地内のゴミ箱から、粘着テープ、ティッシュ、血痕の残る布や少女が買ったノートが見つかり、血液型、指紋などから、この3名の容疑が固まり、県警は、裁判所に逮捕状を請求。身柄の引き渡しを要求しました。それが7日でした。 しかし、米軍は、地位協定17条5項Cをたてに引き渡しを拒否、身柄は米軍が拘束したまま、米軍憲兵が付き添って県警に出頭させ、捜査をすすめさせるという状況が続きました。那覇地検は29日にようやく公訴を提起し、そのときに3名の米兵は、捜査機関に身柄がわたされました。 事件が明るみに出たのは、8日付の地元夕刊紙の報道を通じてでした。 県民の怒りは大きな渦巻きのようにして広がりました。 県民の怒りの広がりには、大きな理由があります。 犯罪そのもの残忍さもさることながら、沖縄では、米兵による女性に対する強姦・殺害事件はあとを絶たずに起きてきました。 1972年(昭和47年)8月宜野湾市大謝名での、米陸軍兵による日本人女性37歳に対する殺害の上の強姦。無期懲役となりましたが、9年間で仮出獄しています。 同年12月には、キャンプ瑞慶覧での、日本人女性22歳強姦の上殺害。無期懲役になるも、9年で仮出獄。 1982年(昭和57年)キャンプ・シュワーブ所属米海兵隊員による日本人女性33歳強姦未遂殺害。懲役13年。等々の強姦殺人事件が相次ぎ起きるものの、無期懲役となっても仮出獄といった具合で、本土に帰還した後は、自由の身となってしまっています。 強姦致傷でも、じっさいには泣き寝入りしているケースも多くあって、米兵の犯罪は、まさにあとを絶たないのです。私は、以前の視察の際に、金武町長からその話を伺いました。 地位協定17条にみられる、日本の従属国それを思わせる有様もまたひどいものがあります。 この少女暴行事件でも、日本政府のとった対応はひどいものでした。米軍は、関係者家族に対し、「一片の詫び状」を寄越しただけです。日本の村山首相(当時・社会党)は、米軍が身柄を拘束し捜査しているのだから、引き渡しは必要ない」とまで言って、アメリカ政府を擁護しました。抗議の声のひとかけらもありません。こうした日本政府の対応に、県民は、琉球処分以来続く、沖縄県にたいする日本の根強い差別意識を見るわけです。 ○由美子ちゃん事件。(強姦、殺害事件) 1955年9月3日、石川市永山盛吉さんの次女由美子ちゃん(当時6歳・幼稚園児)が、嘉手納空軍所属のセイ・ジャック・ハート軍曹21歳に拉致され、暴行された上惨殺された事件。「嬉々として遊んでいた純真無垢な幼女が、一夜明ければ嘉手納海岸の砂浜に、凶暴な野獣の餌食となり、草の葉をにぎりしめ、くちびるをかたくかんだまま、無残な死体となって、投げ出されていた」(沖縄県教職員会・屋良会長) 米軍完全占領下の当時においては、琉球政府の捜査権も裁判権も米兵には及ばず。県民は無念の思いに駆られました。軍曹には死刑判決が出されていますが、即本国送還となり、その死刑が執行されてのかどうかもわからずじまいで、事件は「落着」しています。 ○国場君事件 1963年2月28日 学校帰りの那覇市上之山中学校一年生の国場秀夫君(12歳)が、、一号線(現在の国道58号線の横断歩道を青信号で横断中に、信号を無視して暴走してきた海兵隊員ドナルド・ジャック二等兵(21歳)の車にはねられて死亡した事件。軍事裁判で無罪。 ○金城トヨさん撲殺事件 1970年9月18日、糸満市内道路を歩行中の金城トヨさん(61歳)を制限速度15マイルを超える60マイルの猛スピードで暴走してきた酒気運転の米兵がはねとぼして即死させた事件。軍事裁判で無罪。この事件をきっかけとして、コザ暴動事件が発生しました。 〈復帰前の主な事件・事故〉 1955年由美子ちゃん事件から1971年10月ジェット機墜落事件までに95件の事件・事故が発生しています。そのうちの米軍人・軍属による刑法犯罪事件は、主なものだけでも72件も発生しています。 〈復帰後の主な事件・事故〉 復帰後から1994年までの間の23年間。米軍による刑法犯罪は4675件。その内容は殺人、強盗、放火、婦女暴行ナドノ凶悪犯罪が508件。身柄引き渡し拒否は19件。 〈このほかに米軍機墜落による人身事故、演習時事故がある〉 復帰直後に起きた事件としては1975年5月の女子中学生暴行事件があります。 午後3時頃に、海水浴に来ていた女子中学生に米兵が襲いかかり、重さ1.5キロもの石で頭を殴りつけて暴行に及んだという事件でした。当時日本共産党衆議院議員であった瀬長亀次郎氏は、少女が握りしめていた草の葉をかざしつつ、この蛮行を国会で暴き糾弾。海兵隊の即時撤退を要求しました。 政府の答弁は、「海兵隊そのものについては、日米安保の目的、すなわち、日本の平和と安全に寄与する存在」とするとして「安保絶対主義」の立場を変えるものではありませんでした。 最近国会質問で、取り上げられた沖縄普天間基地問題です。 日本共産党赤嶺正賢衆議院議員 http://jcpakamine.jugem.jp/?eid=319 沖縄県基地対策課がまとめた『沖縄の米軍及び自衛隊基地(統計資料集)』(平成22年3月)では、その92nから94nに、「米軍構成員等による犯罪検挙状況(※復帰後)によると1972年(昭和47年)から2009年(平成21年)までの間の凶悪犯、粗暴犯、窃盗犯、知能犯、風俗犯、その他の犯罪件数が年時ごとに示されており、その数は、強姦、殺人などの凶悪犯だけでも、次のようになっています。 (「―」は未時計統計)
次に紹介する資料は、沖縄県基地対策課が作成した『沖縄の米軍基地』です。基地問題のほぼすべてが、ここに示されています。米軍基地と経済問題の所は、必見です。また地方自治体が、中央政府により、様々な形で「財政支援」を受けている実態も、解明されています。それがいわば、「飴と鞭」となって、中央政府と米政府による沖縄支配が続いているのです。 県民が総ぐるみで日本政府と米政府にたいして怒りをあらわす最大の理由がここにあるわけです。 1996年(平成8年)4月当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日大使との間で、普天間基地の全面返還の約束がなされたのは、こうした県民の奥深い怒りの声を配慮してのものであったのです。このままでは、沖縄の怒りを抑えておくことができなくなる。それが日本政府をして、米軍基地返還の約束となりました。 それを日本政府は、「安保絶対主義」の立場から、普天間基地の代替え施設を建設しない限り全面返還はしないという「移設先探し」に問題をすり替えてしまったのです。 まず、沖縄の基地群の実態図をお示しします。同資料から。
この地図上にある米軍基地群が、那覇空港から、国道58号線沿いに北部に向かって展開されていることを、まず、つかんでください。 焦点の普天間基地は、那覇空港から、主に左手に展開する牧港の補給基地、その先右手に展開される飛行場です。 ここで、資料として基地返還を決めた、消えたSACO最終報告1996年(平成8年12月2日)をのせておきます。この「最終報告」で日本政府は、普天間基地をはじめとする米軍基地施設の返還を約束させておきながら、「代替施設」として、沖縄県内に新基地建設を約束してしまったのです。SACOにおける基地返還の約束とは、あの少女暴行事件に端を発した、沖縄県民の米軍基地撤去の要求の高まり、怒りの爆発をおそれた日本政府が、その運動の高揚を押さえ、怒りを和らげるために、とったものでした。約束通りに基地の返還と移設が進めば、沖縄の米軍基地面積は約20%は、縮減することにはなったのです。
日本政府は、全国の米軍基地再編成にたいして、5ないし6年間で、なんと3兆円もの移設費用を負担することを小泉内閣時に閣議決定し、その中身として、このグアム移転経費・約6900億円を、鳩山内閣が誕生する直前に訪日したヒラリー・クリントンとの間で、「協定」してしまったのです。これらの経費負担は、「思いやり予算」とはまったく別物です。 宜野湾市では、市長を先頭にした基地撤去の粘り強い運動が展開されていますが、普天間飛行場のヘリ部隊のグアム移転については、次のように見解を出しています。「1」では、資料をリンクしておきましたが、「宜野湾市が調査したグアム移転に関する米軍資料によれば、普天間飛行場のヘリ部隊を含め、地上部隊や砲撃部隊など実戦部隊が、全体的にグアム移転することが判明していることから、普天間飛行場代替施設建設の必要性については改めて検証すべきであると政府に求めている」(宜野湾市基地政策部基地渉外課パンフレットから) つまり、日本政府が、あえて代替施設として辺野古にV字型滑走路つきの基地を造る必要性はないと言うことなのです。 この日本政府のおかしな新基地建設論にたいして、日本のメディアは一言もこの問題を指摘しようともしません。さきに指摘したグアム移転経費についても、その「協定化」は、あっという間の早業で、ことの重大性を指摘する新聞記事は、沖縄の報道機関は別にして、本土の商業ジャーナリズムの中では、まったくといっていいほどに見られなかったのです。 それは、日米安保条約に関する事柄についての、メディアの報道姿勢が、政府提供の情報のみに偏っているからに他なりません。つまり、情報が政府により、ほぼ完全にコントロールされており、メディアを通じてでは、日本国民は、安保体制の諸問題を、まったくといっていいほど知ることができないようになっているのです。つまり、国の平和と安全保障上の諸問題が、日本という国においては、1951年・サンフランシスコ講和条約締結以来、国民には隠され続けてきたのだといっても過言ではない。あの「核密約」問題は、その端的な事例です。 日本政府は、こと米軍についての情報は、ひた隠しに隠し続けており、また、自衛隊の米軍との関わりについても、秘密主義を貫き通しているのです。つまり、日本政府は、国民に真実を伝えようとはしていないのです。私たちはこの問題を、報道機関内の「安保タブー」という呼び方で指摘し続けてきました。 本土の「安保タブー」現象は、ある意味でメディアの自殺行為でもあるのですが、日本のメディアは、権力からの自立心に乏しいのです。いまや、日本政府とメディアは、日米安保絶対主義といっていいでしょう。あくまでも、本土の、という条件付きですが。 寺島実郎氏が雑誌『世界』2010年2月号で「常識に還る意思と構想」と題する一文を寄せています。その冒頭部分を紹介します。 「 中国の作家魯迅は、二○世紀初頭の中国について、植民地状況に慣れきった中国人の顔が「奴顔」になっていると嘆いた。「奴顔」とは虐げられることに慣れて強いものに媚びて生きようとする人間の表情のことである。自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな表情、それが奴顔である。 普天間問題を巡る二〇〇九年秋からの報道に関し、実感したのはメディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」であった。日米の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰には驚くしかない。 常識に還るということ、日本人に求められるのは国際社会での常識に還って「独立国に外国の軍隊が長期間にわたり駐留し続けることは不自然なことだ」という認識を取り戻すことである。誰弁や利害のための主張を超えて、この問題に向き合う強い意思を持たぬ国は、自立した国とはいえない。直視すべき事実をもう一度明記しておく。 @戦後六五年目を迎え、冷戦の終焉から二〇年が経過しようとしている日本に、約四万人の米軍兵力(他に軍属、家族が約五万人)と約一〇一〇平方q(東京二三区の一・六倍)の米軍基地が存在していること A米国が世界に展開している「大規模海外基地」上位五つのうち四つが日本にあること(横須賀、嘉手納、三沢、横田) B「全土基地方式」が採用され、日米政府代表による日米合同委員会がどこを基地として提供するかを決めることができる(地位協定二条)ため、国会承認なしで全国どこにでも基地が提供でき、東京首都圏に横田、横須賀、座間、厚木など世界に例がないほどの米軍基地が存在すること C米軍駐留経費の七割を受け入れ国たる日本側が負担するという、世界に例のない状態が続いていること D在日米軍の地位協定上のステータスは、占領軍の基地時代の「行政協定」を引きずり、日本側の主権が希薄であるのみならず、地位協定にも規定のない日本側コスト負担が拡大してきたこと」、という具合です。 実に見事に、日本の博識ある人々の堕落しきった姿を言い当てているではありませんか。商業新聞では、サンケイ新聞を筆頭に読売新聞が、堕落した「博識者の群れ」の双璧をなしていると、私は見ているのですが。 視察終了直後の4月25日に、「10万人大集会」が開かれました。沖縄県は全市町村あげて、沖縄から米軍基地は出て行くように求める決議をあげました。もういかなる妥協もしないぞという決意にあふれています。いままでは、市にお金がおちることをよしとして、基地移転、建設を認めるという対応が多くあらわれました。 それはある意味で、米軍基地は日米安保条約がある限り、撤去されないものであるとの、「与件」に立っての、ある種のあきらめを前提としてのものでした。 米軍基地撤去・土地の返還を求めても、日本政府がその防壁となり、県民を懐柔し、あるいはペテンを弄して、基地依存のまちづくりを押しつけて今日まで来てしまった。それならば、とりあえずは、沖縄を戦場にするわけではないのだから、基地関連であがる様々な補助金を取れるだけとって、失業の解消、雇用の増大、基地建設によるもうけ、税収のアップ等々をはかることの方が得策なのではないのか。つまり、目先の利得を追求する方がよいという「現実主義」的な姿勢に立つ県知事が誕生し、また、市町村長が誕生してきたのでした。 しかし、今回の沖縄は、真っ正面から基地返還を求め、基地は沖縄に入らないと、堂々と宣言し、そのために中央政府と闘争するぞと宣言を発しているのです。私は、大田さんとの二度にわたる懇談の中で、あらためて、このことを深く確信したのでした。1月には名護の市長が、もう基地はいらないと宣言しました。4月には、沖縄市長が再選を果たしました。そして沖縄県知事選挙が、今年11月に迫っています。 宜野湾市 http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2552/2715/1111.html 下写真に収まる市街地域に人口にして8万9532人、3万6021世帯(平成18年4月末現在)が生活をしています。
上の写真が米軍普天基地です。つまり市内の真ん中に アフガンやイラクの戦争地域に直結した飛行場がデンと居座り続けているのです。●印が国際大学・墜落現場位置です。 左下が那覇空港方面です。 那覇空港は、沖縄の空の玄関口。嘉手納ラプコンについては「1」で触れました。この空港は、72年施政権返還後、米軍の後を継いだ自衛隊機が駐留する「軍民共用空港」になっています。 牧港(まきみなと)補給基地が東シナ海側に続き、この写真になります。 この基地は、キャンプ・キンザー(約274ヘクタール)。国道58号線沿いにあります。浦添市の14.4%を占有しています。ベトナム戦争時には、戦争に必要なすべての物資が軍需物資として、この基地を経由してベトナムに運び込まれました。つまりは兵站基地(へいたんきち)ということになります。「トイレットペーパーからミサイルまで」などと言われ、有名になりました。13棟の高層マンション、ダンスホール、劇場、学校、通信施設などがあって、これの諸施設が、「思いやり予算」で建設され、管理・維持されています。 牧港の補給基地も、旧米軍住宅地が細切れに返還され、現在は、「那覇新都心」として生まれ変わりました。この場所は今回視察でも訪れ、東京・銀座を思わせるショッピングゾーンや、日本銀行那覇支店などの公共機関が集中する町にと変貌していました。1998年からの後利用計画にもとづくいわば再開発がはじまったわけですが、すべてが民有地であったところ。土地所有者特定と、土地区画の明確化が、困難を極めて、せっかくの解放地域が、いつまでも広大な野原と化したままになっていました。こうした複雑な条件もあって、返還開始から本格的な跡利用までに、約23年もかかってしまいました。 日本政府が、本気になって、土地再利用のための、特別の補助制度を設けてのたとえば「区画整理事業」を手法として導入するなどしていれば、新都心再開発は、もっと早くに形を見ていたでしょう。誤解を避けるために付言しておきますが、区画整理事業そのものは、個人の財産を「減歩」と称して取り上げておいて、一つの町を、文字通り区画整理するものですから、評判はすこぶる悪くて、戦後の一時期をのぞいて、反対者が多くてうまくいきませんでした。 この那覇の跡地もそうした問題にぶつかったわけです。が、しかし、この個人財産を守りうる、「補助制度」などが組み込まれると、有力な、まちづくりの手法となります。 もちろん、そこに生活をしてきた地権者の権利を守り抜くことが大前提ですが、じつは北区・田端地域における区画整理事業は、そうした意味からは、一歩も二歩も前進したものであったのです。それでも、区画整理後の町並みが、昔の面影をまったくといっていいほどに消し去ってしまっていますから、せっかくの「田端文士村」が泣いているという、新たな問題が発生しています。 こういう点から見ても、日本政府の基地返還後の対応は、すべてにわたり消極的であり、お粗末なものであったといえます。 このあたりの話は、私たち地方政治に携わるものにとっては、注目するものでもあるのですが、『観光コースでない沖縄』では、次のように、基地跡地開発による経済効果を紹介しています。 「返還当時の基地関連収入は、約51億5000万円で軍用地料が主だが、基地従業員の給与、軍人らの消費支出なども含めている。区画整理開始以来の年平均直接経済効果は、約735億円と返還前の14.3倍拡大した。基地従業員は返還時52人だったが、現在の雇用者数は、約3000人に上る。 『新都心地区』は、基地の跡利用にも沖縄戦の影を引きずっていることを浮き彫りにする一方、返還跡地の経済効果が計り知れないことも示す。基地返還の明の部分が暗の部分をくすませ、北谷町のハンビー飛行場跡地ともに、「沖縄は基地がないとやっていけない」という見方を覆した象徴的な地域といえるだろう。」(137n) この指摘は、現在の沖縄を語る上で、たいへんに重要です。 この経済復興の姿を沖縄の人々は、すでに実感してきたのです。基地がない方が経済振興が進むのだと言うことを実証してきたのです。沖縄はもうだまされないという私の感想は、こうした経済復興を目の当たりにしてのものです。 普天間航空基地 写真の基地です。鳩山前首相のおかげで超有名になりました。 この基地の広さは、市域の約24%を占有しての約481ヘクタール。北区にあった自衛隊基地、陸上自衛隊十条駐屯地が、十条地区と赤羽地区をあわせて24ヘクタールでしたから、沖縄の基地群の広さは想像を絶するほどの規模であることがわかります。公認サッカー場のグランドの広さが約1.8ヘクタールほどですから、その何十倍、何百倍もの広大な面積を、一つの基地が占有していることになります。 沖縄を占領した米軍が真っ先に建設に乗り出したのがこの普天間基地です。米軍は、この地にあった普天間神宮の美しい松並木を根こそぎ伐採して、日本本土攻撃のためにB29重爆撃機用の滑走路を建設しました。その後拡張され、1960年に海兵隊航空基地として整備されました。
普天間基地は、海兵隊のヘリ部隊が常駐していますが、米国外で常駐部隊を置いているのは、この普天間基地だけです。米軍としては、嘉手納基地とならんでの最重要基地として位置づけており、それだけに警備も厳重です。 ここで言っておきます。 1972年施政権返還前の沖縄は、米政府の核戦略上の要衝としての役割と、いま言ったところの出撃基地としての役割を兼ね備えていたわけです。それが、施政権が本土に「復帰」した時点で、安保条約下の沖縄になったわけです。が、そのことで、沖縄の軍事要衝の役割が、本土並みに変わったのかというという点は、はっきりとさせておかなければなりません。 結論を言えば、本土の沖縄化が進んでしまった。それが、米政府と佐藤栄作・自民党政府の狙いであったのでしょうが、安保条約は「核・安保」へと「レベルアップ」し、日本全土が、「出撃基地化」してしまいました。沖縄を含めての日本全土が、米軍の要塞となり、かつ出撃基地となったわけですから、再び「アジア諸国の脅威的存在」になった、といえるのです。 日本政府は、米軍基地を置かせていることが「核抑止」であり、侵略「抑止」なのだと言っています。そうすると、日本政府は、いつかは中国や北朝鮮が、日本に攻めてくるものと言っていることになります。 しかし、じっさいには、日本の米軍の「核の傘」に入った超軍事大国的存在がアジア諸国に最大の脅威を与え続けているのだということを、自覚しなければなりません。 じっさいに72年以降、自衛隊は、米軍の指揮下に入りながら、世界各地の紛争や戦争に、「間接的な形」をとりながらも、参加する。共同作戦に与する能力を備えた軍隊へと変貌していくことになったのです。沖縄には、早速、自衛隊基地の整備がはじまりました。自衛隊はあくまでも、米軍の指揮下に入ることで戦争を遂行する能力を発揮する、そういう軍隊へと「成長」させられていったのです。日本の軍事費が、旧ソ連邦を追い越したのは、1990年前後の東欧社会主義の崩壊とそれに続く旧ソ連邦社会主義崩壊後ということになります。 その激動を見越したかのように、米政府は手を打って、1980年代後半に、日米安保共同宣言を発表し、世界各地における「紛争地域」への「介入」を、共同作戦の中身にしてきたのです。もう「極東の範囲」どころではなくなっているのです。 そしてこの普天間飛行場があります。写真下部分が沖縄戦最大の激戦地となった嘉数地域があります。写真下は嘉数高台公園の展望台でのスナップ。後方に普天間基地が見えます。 公園は、戦時の嘉数高地跡に造られたものです。写真上方面から攻め入る米軍と正面から「衝突」し、旧軍もまたこの地で最初で最後の総力戦を展開した地でもあります。 この嘉数高地から、一つ町をはさんで、浦添市・前田高地があります。この二つの高地の激戦で、旧軍は、その兵力の八割にあたる兵士を戦死させてしまったのです。1945年4月のことでした。 この地には、前の視察の際にも訪れましたが、頂上には、1964年4月に建立された「京都の塔」があります。沖縄戦で戦没した京都府出身者2536名を祀っています。 京都府出身の将兵は、第62師団に所属し、その大半が、この嘉数の激戦で命をおとしています。 私たちが、4月16日嘉数高地視察の直後に、元自民党幹事長を務め、辣腕で名をはせた、野中広務氏が、慰霊に訪れるという話が耳に入りました。 そういえば、野中氏は、京都府出身で、兵隊にとられた経験の持ち主でした。じつは、私たち北区議会・憲法9条を守る会による「講演会」に、野中広務氏をお呼びしたことがあり(大田氏の前の講演会)、その際に、自民党幹事長時代のイメージを払拭させられる逸話の数々を知ることができました。 私に言わせれば、野中氏は、政治権力の闇の世界でも第一人者となった人物ですから、その闇、汚れた部分と、自らの生い立ちと体験の中で培ったある種の反戦・平和思想とを併せ持った人物であって、無条件に褒め称えることのできる人物ではないのですが、率直にいって、「興味深い人物」の一人なのです。 野中氏は、毎年、この地を訪れて「慰霊」をささげているそうです。 安保条約の本質がずばり解明されている本を紹介いたします。 安保がわかるブックレット3 『日本の軍事費』巨大なムダと利権 400円 安保がわかるブックレット4 『思いやり予算と米軍天国』 400円 安保がわかるブックレット5 『今日の日米同盟』 400円 安保がわかるブックレット6 『普天間問題と安保50年』 400円 いずれも発行は安保破棄中央実行委員会 日本の軍事予算は、アメリカに次いで世界第二位のとこrまで「成長」しています。この5兆円にも上る予算の使い道をたどると見えてくるものがあります。それは、アメリカとの癒着、そして膨大なるムダの固まり、利権です。是非お読みいただきたい一冊です。現在の日本で、軍事費のムダと利権を問題にしている本は、この一冊を置いてほかにはありません。 |
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