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十条基地
自衛隊が〃軍事訓練〃
イラク戦争にも連動

9月3日には防災訓練に名を借りた〃行軍〃
2006.7.5

  

十条自衛隊駐屯地内で〃軍事訓練〃(06年5月31日・上十条在住I氏撮影)。かつての「補給処」時代の基地内でも、格闘訓練をしている自衛隊員の姿を見て、「身体をふるえさせて怖がっていた」という障害者施設に通う子供らの訴えを聞いた覚えがあります。イラク戦争へは、この十条基地からも隊員が派兵されており、基地周辺は緊張感につつまれています。

「地域の少年サッカーなどにグランドを開放します」との基地建設時の約束も、ほとんど守られていません。昨年の話ですが北区平和委員会と私(八百川孝)と八巻直人区議は、ヘリコプターの離発着陸訓練による騒音防止の申し入れを行いました。

 「災害時に役に立ってくれるから」と宣伝してきた人もいましたが、もともと十条基地の自衛隊は災害時の出動部隊ではなく、その根拠はありませんでした。石原都知事の下で、広域避難広場の地域指定も撤廃してしまい(共産党は反対しましたが)、地震災害時の対応などは眼中にないというのが、いまの十条基地の実態といえます。

 わたしたちはいまでも、広大な敷地を占有する自衛隊基地が、まちの中心部、しかも文教施設地域の真ん中に居座り続けることは、まちづくりにとって「百害あって一利無し」だと考えます。

 まして、戦争拠点基地となってきたことを見過ごすわけにはいきません。さいきんの米軍再編にともなって自衛隊もまた再編され、強化されています。とくに有事法制・国民保護法が通り、自治体の保護計画づくりが進められるなかで、地域住民が、自衛隊の下で様々な形で戦争動員されるという仕組みが作られようとしています。

 それだけに、地域に自衛隊基地があり、しかも、自衛隊協力会などが組織され、自衛隊への協力があたりまえだとの雰囲気づくりが進んできた十条高台地域においては、この問題を深刻に受け止めて、十条地域を平和なまちへと変えていくわたしたちのいっそうの努力と行動が求められると思います。

      北区議会議員 八百川 孝

ここまで来ている基地開放

○1958年(昭和33)に突然自衛隊が米軍接収跡地(十条地区・旧TOD第四地区)と、赤羽地区(旧TOD第二地区)にはいってくる。北区と区議会は反対決議をあげるも居座る。霞ヶ浦基地と連動する武器補給処として稼働 しかし、80年代にはいると十条駐屯地が遊休施設化していることが明らかにされ、再び基地開放の気運が高まる。「北区から基地をなくす会」結成。

○1968年(昭和43)米政府 米軍王子キャンプ(王子本町・十条台)あとに米陸軍王子病院(ベトナム戦争野戦病院)を建設。王子野戦病院反対運動は、党派を超えた一大区民運動となり、病院閉鎖、そして米政府からの返還を実現し、都立障害者センター(養護学校スポーツセンター等)や1975年(昭和50)に北区中央公園開設となる。

○1987年(昭和62)8月防衛庁は「自衛隊再配置計画」を発表 十条駐屯地を「補給統制関連本部基地」として建設し、恒常化を図る 北区議会は赤羽地区の一部だけ解放させ賛成とする「一部解放」を自民党、公明党らにより推進し、基地恒常化を容認。全面解放を求める共産党や社会党(当時)と対立紛糾する。社会党は、一部開放を条件に容認に態度を変える。

○区長の特例許可承認で、建築違反の十条基地の建設がはじまる 全面解放運動が盛り上がるなか赤羽地区の一部が公園用地として解放、他は空地として利用計画定まらず 十条地区の一部も解放、中央公園・稲荷公園に さらに中央図書館の建設計画

○文科省が赤羽地区跡地にナショナル・トレセンを建設
北区は跡地にスポーツ公園(北区サッカー場ほか)の建設計画、区議会で利用計画化 現在ワークショップ開催
 北区は農村が軍都となって「栄えたまち」でした。終戦をむかえた時でも区内面積の約10%をしめる軍用地が残っていました。明治のころには、弾薬を製造・貯蔵する施設がつくられ、十条地区には東京第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)が置かれていました。戦中、まちの人たちは「勤労動員」とうことで子どもたちも含めて、こうした基地内で働かされました。

 十条基地内で、女子高生らが、何をつくらされているのかは知らないまま、アメリカ本土空爆のための「ふうせん爆弾」の製造をしていたという事実もありました。
 軍事施設は、空襲の標的にされて、「大空襲」を何度も受けました。

 終戦とともに、こうした旧軍用地は、アメリカ占領軍により接収され、北区は、外国軍基地のまちにと変貌しました。朝鮮戦争時には、現在の中央公園のところに極東米軍地図局が置かれ、朝鮮半島の戦略地図などの製造所となりました。

 こうした軍事施設・基地を解放しては、工場や住宅、
小中高大学校をはじめとする教育施設などにつくりかえてきた歴史が、北区の戦後史そのものであったのです。
 朝鮮戦争時には、極東米軍地図局がおかれました。ベトナム戦争時には、現在の中央公園のところに王子野戦病院がつくられました。

 現在の十条基地は、陸海空自衛隊への物資を発注・契約する「補給基地」として、3000人を超える隊員が従事しています。

 航空自衛隊のジェット戦闘機やその部品なども、アメリカ政府から買い付けています。この自衛隊への補給が、日米物品役務提供協定(ACSA・アクサ)を根拠に、アフガンやイラクで戦争するアメリカ軍への物資補給につながっています。その財政負担は日本政府が行っています。こうした「軍事財政負担」が、日本の国債をふくれあがらせている原因の一つにもなっています。十条基地は、このような戦争推進の要として動いているのです。

 自衛隊の中枢基地を十条のまちの「ど真ん中」にいつまでも居座らせておく必要はどこにもありません。当初、自衛隊側が宣伝していた「防災」にも役立たないうえ、商店街の「繁栄」にも、ほとんど結びついてはいません。
 そればかりか、有事法制(国民保護法等)や海外派兵で、自衛隊がかかえる「戦争」が、まちに持ち込まれる危険性すら増大しています。
 いま、あらためて十条基地を開放して、まちづくりに役立たせることが強く求められています。
ここから下の写真は7月3日夜から翌日までかけておこなわれた、陸上自衛隊練馬駐屯地第一連隊など300名による〃防災訓練〃に名を借りた後進訓練。

集合場所となった北区・岩淵の青水門周辺。この日は、午後5時30分に練馬駐屯地を出発したトッラクや「ジープ」に乗った自衛隊員が、午後6時過ぎころから続々と集まり、集団で約30キロメートル以上の長距離をデモンストレーション。

このような基地外・市街地に出ての自衛隊による訓練は、これまでは、「憲法違反」、あるいは市街における軍事訓練と指摘を受け、非難されてきたことから、ほとんど行ったことがありませんでした。

それが、ここにきて石原都知事が推進していることもあって、我が物顔で、市街訓練を始めてきたわけです。