| top 子どもたちの未来を 原発に託していいのか 原発ゼロの世界をつくろう ――主張bQ―― 2011.8.1 朝日新聞 石原慎太郎 広瀬隆 |
| この間、原子力発電の今後に関して、二つの特徴的な論説が示された。 一つは、朝日新聞の社説『原発ゼロ社会―いまこそ 政策の大転換を〈社説特集〉2011年7月13日』。もう一つは、都知事石原慎太郎氏の『原発について 冷静な判断を』である。 朝日新聞は、従前の「原発推進路線」から、無反省のままに、二十年後の原発ゼロの実現への「路線転換」を表明している点が注目はされるが、よく考えてみれば、いまや原発は、放っておいても、来春には、ほぼすべての原発が点検のための休止状態に入る予定でもあり、二十年後のゼロとは、それまで原発を延命させることに他ならないという言い方もできそうな「提言」でもある。 石原氏のそれは、 原発推進論者が、福島原発事故程度のことで、原発推進の構えを捨ててはならない、フランスを見習えと号令をかけているのに等しい論調を前面に押し出している点で、いかにもこの人ならではの発言となっている。彼は、柏崎・刈羽原発の事故を前にして、「東京湾に原発をつくったっていい」と言い放った人間である。そもそも、原発くらい安全でクリーンエネルギーはないと信じ込んでいる。であるから、二千年に一度来るか来ないかの大地震と大津波で起きた事故による、リスクを過大視して、つまりは冷静さを失い、ヒステリックに「原発ゼロ」を目指すなどと言ってはならない。福島原発の事故は、自然災害が原因で起きたが、その収束をすべき政府の手落ちによって、放射能汚染の拡散を防げなかったのは「人災」である。菅が悪い。無能な首相を持った国民は、不幸だとまでいいのけている。フランスを見習えとまで言ってのけた。 そうこう拙論をすすめている内に、二つのニュースが飛び込んできた。 一つは、メルトダウンした福島原発の一号機と二号機の間の配管付近からの放射線量が、なんと、1万ミリシーベルト/毎時以上を記録したというのである。(2011年8月1日現在)。 この被曝数値そのものが意味するものは何か。数分間の被曝で吐き気を催し、数時間の被曝で、一月後には、人を死に至らしめる数値である。「以上」の意味は、線量計の針が振り切れてしまったからで、明日また計り直すという。原因は不明と言うが、東京電力は、福島原発の深刻な状況を、ひた隠しに隠してきたことは疑いない。事態は深刻の度を超えてしまっているのだ。 もう一つのニュースとは、広瀬隆氏の刑事告発のニュースである。私としては、とうとうやったか! という感が強い。その文書は、あとに載せるのでお読み頂きたい。 まずは、この三つの論説を読み比べていただきたい。 朝日 大軒由敬(論説主幹) 日本のエネルギー政策を大転換し、原子力発電に頼らない社会を早く実現しなければならない。 いまだに収束が見えない福島第一原発の事故を前に、多くの国民もそう思っている。朝日新聞の世論調査では、段階的廃止への賛成が77%にのぼった。 なにしろ「止めたくても止められない」という原子力の恐ろしさを思い知った。しかも地震の巣・日本列島の上にあり、地震が活動期に入ったといわれるのだ。再び事故を起こしたら、日本社会は立ち行かなくなってしまう。 そこで、「原発ゼロ社会」を将来目標に定めるよう提言したい。その方策については、社説特集をオピニオン面に掲載したので、お読みいただきたい。 脱原発を進めるポイントは、時間軸をもつことである。 これまで電力の3割近くを原発に頼ってきた。ここで一気にゼロとすれば電力不足となり、生活や経済活動が大きな打撃を受けるだろう。過度に無理せず着実に減らしていく方が現実的であり、結局は近道にもなるはずだ。 原発の寿命は40年がひとつの目安とされている。もう新たな原子炉は建設せずに40年で順に止めていくと、2050年にはゼロになる。これでは遅すぎるが、代替電源の開発・導入に力を入れ、節電にも努めれば、ゼロの日をそれだけ早めることができる。 代替電源の希望の星は、風力や太陽光を始めとする自然エネルギーだ。これを増やす方向へエネルギー政策を転換し、電力会社による地域独占体制を抜本的に改めて自由化を進める。それが社説で描いたシナリオである。 これまでは、原発増強を最優先させ、自然エネルギーを陰に陽に抑制してきた。自然エネルギー源は各地に分散していて地域密着の発電になるので、自由化による新規参入が欠かせない。需給に応じて変動する電気料金にすれば、節電を促すことにも役立つ。 ただし、まだまだコストが高い。急激に導入すれば電気料金を押し上げ、暮らしや経済活動の重荷になる。どのていどの値上げなら受け入れ可能か。危険な原発を減らすことと天秤(てんびん)にかけ、国民的な合意をつくりつつ廃炉のテンポを決めていくことが大切だ。 また、それまでには時間がかかるので、当面は天然ガスなどの火力発電を強化せざるをえない。二酸化炭素を出し、地球温暖化の防止にはマイナスに働くが、自然エネルギーの開発と省エネを進めていき、長期的には脱原発と両立させねばならない。それが日本の国際的な責任でもある。 以上の努力を重ねていって、ゼロにできるのはいつか。 技術の発展や世界の経済情勢に左右され見通すのは難しいが、20〜30年後がめどになろう。 そこで、たとえば「20年後にゼロ」という目標を思い切って掲げ、全力で取り組んでいって、数年ごとに計画を見直すことにしたらどうだろうか。 現在は、54基ある原発のうち35基がすでに休止しており、8月までにさらに5基が検査で止まる。この状態であっても、私たち一人ひとりの節電努力でこの夏の需要最盛期を乗り切れたなら、かなりの原発はなくても大丈夫であることを証明したことになる。 今後は安全第一で原発を選び、需給から見て必要なものしか稼働させなければ、原発はすぐ大幅に減る。ゼロへの道を歩み出すなら、再稼働へ国民の理解も得やすくなるに違いない。 戦後の原子力研究は「平和利用」を合言葉に出発した。しかし、原発が国策になり、地域独占の電力会社と一体になって動き始めると、反対論を敵視してブレーキが利かなくなった。 多くの国民も電力の源についてとくに考えずに、好きなだけ電気を使う生活を楽しんできた。 原発から脱し分散型の電源を選ぶことは、エネルギー政策をお任せ型から参加型へ転換し、分権的な社会をめざすことにつながる。それは、21世紀型の持続可能な社会を築くことにも通じる。 きょうの社説特集は「原発ゼロ社会」へ向けたデッサンにすぎない。必要なのは国民的に議論を深めながら、やれることから早く実行へ移していくことである。 石原慎太郎 原発についての冷静な討論を 2011.8.1 03:09 東日本大災害がもたらした原発事故によって原子力の利用について改めての議論がかまびすしいが、それを論じる時事をもう少し冷静に、もう少し多元的に考え論じる必要がありそうだ。原発の存続についての現下の議論の中から幾つか大切な問題が弾きだされてしまっているような気がする。 日本は世界で唯一の被爆国であり、その痛ましい経験が一種のトラウマを造成し、それがさらにこと原子力に関しては、それを疑い忌避する強いセンチメントをもたらしていることは否めない。ものごとを論じる時、ある種の感情ほど厄介な障害はない。ことは恋愛に似ていてあんな男、あんな女と一緒になったら必ず不幸になるぞと周りがいくら説いても、一旦抱いた恋愛感情はその結果の不幸を体験しない限り払拭出来るものではない。 アナキスティックで政治の運用に関しては無能に近い菅首相の原発に関する言動は、自らの地位の保身のために国民の多くが潜在的に抱いている原子力に関するセンチメントに卑屈に媚(こ)びるものでしかなく、原発に関して国民の将来のために冷静な討論と選択を導きだすものでは決してない。一国の最高指導者としてはあまりにも軽率といおうか、国家の運命を損ないかねまい。 原発の問題を論じるときにまず第一に念頭に置かなくてはならぬことは、我々が将来いかなる社会、いかなる生活を望むかということに違いない。今日我々が享受しているこの過剰ともいえる奢侈贅沢(しゃしぜいたく)をはたして失うことが出来るのかということ。 そしてその維持を望むならそれを支えている経済産業のために、文明工学的に不可欠な電力をいかに供給出来るかという冷静な分析が必要に違いない。周りが懸念している不幸をもたらす結婚に敢えて落魄(らくはく)を覚悟で臨む決意があるならそれはそれで良かろうが。自然エネルギーの活用というのは耳ざわりはいいが、果たして太陽光や風力への依存で世界で有数な日本経済が成り立ち得るのかを冷静に計量計算する必要があるはずだ。 第二に、今回の原発事故の被害の拡大はチェルノブイリやスリーマイル島の事故と本質的に似ていて、さまざまな要因による人災であるという認識が必要だ。その反面、多くの電力を原発に頼っているフランスが、原発を断念したドイツやイタリーに今後も原発による電力の供給を拡大して続けるという事態の意味を考えるべきではないか。フランス人に出来ている原発の管理が、なぜ日本人に出来なかったかということへの反省が不可欠なはずだ。既存の法律体系がその障害となって困難だ、と担当大臣はいっているが、ならばそれを変えることをなぜしようとしないのか。既存の法律体系を超える、超法規の試みを行うことこそ政治家の責任ではないか。 IAEAが指摘したように日本の場合には、電力会社と経済産業省とこれにからむ政治家たちのもたれ合いという複雑な体制がことのすみやかな解決の障害となった。それは反省の上に立って、合理化出来ぬものでは決してあるまい。 それに加えて現政府の、官僚を無視した行政運営の杜撰(ずさん)な独善性が、被害を拡大させ的確な対策を遅延させてしまった。支援に到来したアメリカの空母が一時退避してしまった所以(ゆえん)は、建屋の中に充満している放射能を風向きを計って当事者が当然取るべきベンチレイションによる海への拡散を予期してのことだったが総理のヘリによる現地視察が障害となって遅延し、行った時には風向きが一変して逆の奥地への拡散被曝(ひばく)となってしまった。こうした基本的作業を遅滞させてしまう情報の混乱錯乱は本来あり得ぬことなのにそれが結果として多くの国民に体内被曝をもたらしてしまったのだ。 第三に、原発に関わるエネルギー問題を考える時、現在世界全体を覆ってきている異常気象が表象する温暖化現象を忘れる訳にはいかない。この問題は人類全体の存在を左右しかねないものであって、ことが大きすぎるために念頭から離れがちだが事態は歴然として進行している。NASAのハンセン教授が指摘しているようにこのままでいけば北極海の氷は後十五年ほどで溶けきってしまうだろう。そうした現象がさらに進んで人間全体の存在にどのような影響をもたらすかは決して想像外のことではあるまいに。 そのためにも、それぞれの立場の者たちがCO2削減のためにさまざまな手立てを講じているのだが、多くの電力供給手段の中で原発は、管理さえ行きとどけば温暖化の抑制のためにはコストバランスからも格好の手立てであった筈(はず)だ。 一方発展途上国は効率の良い発電施設として原発に頼ろうとしている。原子力に関してフランスに並んだ先進国の日本がそれに応えて責任を果たすこともまた、国家の存在感を強め新しい連帯をはぐくむ術に違いないが、国民のセンチメントにおもねって保身を計る首相は自ら売り込んだ原発プロジェクトを自ら否定してかかる体たらくだ。 国家の存亡をきめるものは決して経済産業だけではないが、しかしそれを敢えて阻害してでも何を望むのかという討論をこそ政府が主導すべきなのに、自らの地位の保身のために繰り返される軽率短絡的な首相の言動は、持たれるべき、我々の命運を左右しかねぬ真摯(しんし)で冷静な討論を阻害してかかるものでしかない。我々はこんな人物に国家の運命をゆだねる訳にはとてもいかない。 「事故の責任者を刑事告発した理由」 広瀬隆原発破局を阻止せよ! (週刊朝日2011年7月29日号配信) 福島第一原発メルトダウン事故が起こってからの私たちは、日本全土に放射能被曝をもたらした許されざる事故責任者たちが、毎日毎日テレビに登場して、平然と事故の解説をする姿を見せつけられてきた。また福島県に雇われた学者たちは、福島県内のすさまじい被曝状態の中に児童を放置しながら、それを安全だと触れ回ってきた。彼らには、まったくと言っていいほど、この大事故を起こしたことに対して、また被曝の深刻さに対して、反省の色が見られない。 福島第一原発メルトダウン事故が起こってからの私たちは、日本全土に放射能被曝をもたらした許されざる事故責任者たちが、毎日毎日テレビに登場して、平然と事故の解説をする姿を見せつけられてきた。また福島県に雇われた学者たちは、福島県内のすさまじい被曝状態の中に児童を放置しながら、それを安全だと触れ回ってきた。彼らには、まったくと言っていいほど、この大事故を起こしたことに対して、また被曝の深刻さに対して、反省の色が見られない。 そこでルポライターの明石昇二郎氏と私・広瀬隆は、このままでは次の大事故が誘発されることをおそれ、それを食い止めるため、7月8日に、東京地方検察庁特捜部に対して、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一・長崎大大学院教授、神谷研二・広島大原爆放射線医科学研究所長、高村昇・長崎大大学院教授および高木義明・文部科学相らが、福島県内の児童の被曝安全説を触れ回ってきたことに関して、それを重大なる人道的犯罪と断定し、業務上過失致傷罪にあたるものとして刑事告発した。 また、原子力安全委員会委員長・班目春樹、東京電力会長・勝俣恒久、東京電力前社長・清水正孝、前原子力安全委員会委員長・鈴木篤之(現・日本原子力研究開発機構理事長)、原子力安全・保安院長・寺坂信昭ら多数も、未必の故意によって大事故を起こした責任者として、やはり重大なる人道的犯罪と断定し、業務上過失致死傷罪にあたるものとして刑事告発した。 特捜部に提出した証拠書類としては、7月15日に発刊した明石昇二郎氏との共著『原発の闇を暴く』(集英社新書)、拙著『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書)といった2人の過去の著書などがある。これらは、大地震に原発は耐えられず、津波に対しても十分な対策がなされていなかったことなど、起こり得るとわかっていた「原発震災」の危険性を証拠づけ、この福島第一原発メルトダウン事故が「想定外」ではなく、「未必の故意」に該当する重罪であることを論証したものである。 福島県内の保護者らでつくる「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」主催の放射能の危険性についての学習会で、私は、7月2日にいわき市、3日には福島市と郡山市で、多くの不安を抱えた父母を前に、福島県内の放射能汚染の実態を話さなければならなかった。会場では、事実を知って涙ぐむ人がいた。私自身も涙をこらえることができなかった。 告発した内容は、それらの会場で語ったことと同じである。事故責任者に罪の意識がなく、福島県民の一生を台なしにし、大きな被害を日本社会に与え、とりわけ福島県内の児童の生命を危険な状態に放置している、その罪状を急いで明らかにするため、被害者に代わって特捜部による司法の捜査と裁きを求めるものである。国民の多くが裁きを求めているにもかかわらず、彼らの犯罪が放置されていることは、にわかに信じ難いことである。国民に代わって、急ぎ被告発人たちの罪と悪事を白日の下に晒(さら)し、法に基づく正義が実行されることを求める。 非常に多くの日本人は、いま、放射能の言葉におびえなければならない状況にある。大変な被害を受けていて、内心では原因も責任者も知って腹立ちを覚えながら、それを口にすると自分にはねかえってくる被害が大きくなるので、口をにごさなければならない。 福島県の学習会に向かう途次に見た光景は、水田の稲が青々と育つ姿であった。いったい、秋になってこれが収穫されたときに、どこへ流通するのだろうか。福島県内で聞いたのは、「収穫して、それをほかの産地のものに混入する」という言葉であった。「すでに原乳は混入されているし、福島県産の野菜は値崩れして安いので、そちこちで外食産業などに流れている」という話まで聞いた。頼むから、学校給食にだけは混入しないでほしいと願うが、給食を担当する人たちの意識がどこまで高まっているか、はなはだ疑問である。 ◆認められた権利、災害の罪を問う◆ 福島では、そうした危険性に気づいた父母が自衛しようと、自分の子供に「給食に筍(たけのこ)とシイタケが出たら、残すように」と言っている。そして子供が給食の筍とシイタケを取り分けて残したところ、先生が「食え!」と言って食べさせたという。このおそろしい話を聞いて、いったい日本はどうなるのだろうかと暗然とした気持ちにとらわれた。 そうした学校関係者の背後に、文部科学省がいることは間違いない。大事故を起こしただけでも取り返しがつかないというのに、子供たちに放射能汚染食品を「安全だ」と叫んで食わせる人間たちとは、どのような悪魔なのだろうか。 東京地方検察庁特捜部は、傲慢な東京電力の本社ビルに入って家宅捜索し、山のような段ボールに内部資料を詰めて、トラック数十台にそれを積み込んで、すぐに捜査にかからなければならない。特捜部は、名誉回復のためにも、これをしなければなるまい。 この刑事告発は、告発人が裁判を必要としないことに、すぐれた特長がある。捜査して裁くのは、告発状を受理した司直の人たちの職務である。前出『原発の闇を暴く』のあとがきで、明石氏がこう書いている。 −−広瀬さんと私はさらに「闇」の部分を暴くべく、東京電力の幹部や御用学者たちを刑事告発し、司直の手に委ねることを決意した。刑事告発は何も特別なことではなく、広く国民に認められた権利であり、制度だからだ。手間と時間がかかる民事裁判とは異なり、刑事告発で必要なのは「告発状」と新聞記事などの「証拠」、そして告発する本人の「陳述書」のみ。これらを最寄りの地方検察庁か警察に提出するだけでいい。警察署で尋ねれば、やり方を教えてくれる。また、自分は事故の被害者だと思っている方なら、第三者の立場でおこなう刑事告発よりも「刑事告訴」のほうをお勧めしたい。−− つまりすべての日本人が、私たち2人と同じように告発状を書いて、配達証明で司直に郵送し、これらの告発状が何万通も届くことを願っている。「別冊宝島」1796号・特集「原発の深い闇」2011年8月14日号(7月14日発売)に、明石氏が告発状のひな型を紹介したので、参考にしていただきたい。 日本が法治国家であると言うなら、被害者自身が、あるいはもの言えぬ被害者に代わって多くの日本人が、原子力災害・放射能災害の罪を問わなければなるまい。(構成 本誌・堀井正明) ⇔ |