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| ■第一話:神谷にあった飛行場「岸飛行場」 |
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わが国で初めて飛行機が飛んだのは明治四十三年のことでした。アメリカからマースという曲芸飛行家が来日して、妙技を有料興行しましたが、その後軍隊だけでなく民間飛行家も追々に増加し、小規模ながらも各地に民間飛行場が設けられました。
現在の清掃工場のあたり、神谷の荒川岸から西へ、京浜東北線のレールの近くまで十八万坪の広大な敷地に、岸飛行場と呼ぶ、民間の飛行場がありました。
この飛行場は、大正五年に築地明石町の耳鼻科院長だった岸一太博士が開設したもので、四万坪を整地して、そこに風洞、電機溶鉱炉、乾燥室等を備えた飛行機製造工場を併設していました。これらは、後に航空機産業開発の参考になったといいます。その開場式には、博士自作の「つるぎ号」でテスト飛行が試みられたと言われています。また、工場では、機体だけでなく発動機の製作まで手掛けたということから、日本の飛行界に残した博士の功績は特筆されるべきです。
しかし、時期尚早だったため経営が不振でわずか二年後に閉鎖されてしまいました。跡地は放置され飛行場原と呼ばれていましたが、やがて工場地帯となり現在では当時を偲ぶものは何一つ残っていません。その頃は土地の値段が一坪一円にもならなっかたそうで、地価高騰の今日からは夢のような話です。
当時は、国産の飛行機が軽快に飛ぶ雄姿を時おり仰いだといいますが何しろ落ちるのが珍しくない時代でしたから、高い木の上に不時着した姿なども見られたということです。
※北区の昔がたり(東京都北区教育委員会発行)より。 |
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| ■第二話:王子の狐「岸町」 |
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明治の初めまで、王子周辺にはたくさんの狐がいたようです。王子稲荷の裏山には狐穴が幾つもありました。装束榎(しょうぞくえのき)の狐火の話などが伝えられているからでしょう。「王子」と言えば「狐」と言われるくらいで、とくに、落語の「王子の狐」ですっかり有名になりました。
その落語の「王子の狐」の話ですが、狐が年増の女に化けることところを通りがかりの男が見たのです。男は化かされたふりをして、その狐を近くの料理屋に連れ込み、たらふく酒を飲ませました。女に化けた狐が酔いつぶれている内に、男はそっと抜け出し、「勘定はあの女が支払うから‥」と店の者に告げて帰宅しました。
家に帰った男は、お稲荷さんのお使いである狐をだましたので、たたりがあるのではないかと心配になり、翌日、狐の好物を持ってお詫びに行き、子狐にことづけて帰ってきました。
子狐は親狐にそれを見せました。親狐は包をひらくと「馬糞かも知れないから食べてはいけないよ」と、子狐に注意するという内容で、いつも人をだましている狐の気持ちを落語にしたものです。実はこの話、もともと関西落語にあったものを、関東風に改め、稲荷で有名な王子を舞台にしたようです。
※北区の昔がたり(東京都北区教育委員会発行)より。 |
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| ■第三話:保昌(やすまさ)の杉「東十条 |
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昔、丹波の大江山に酒呑(しゅてん)童子を頭(かしら)とした悪鬼どもがいました。これを源氏の大将頼光が家来の四天王を率いて征伐した時、四天王と共に戦って手柄をたてたのが平井保昌でした。
保昌は文武に秀でた達人でした。ある月夜、横笛を吹きながら、野道をたどっている保昌を、袴垂(はかまだれ)という盗賊が襲おうとしました。しかし、保昌の笛の音色には少しの乱れもなく、五体に一分のすきもなかったので、さすがの大悪党も遂に手が出せなかったそうです。
その保昌が東国を巡視した時に十条の崖下を通り、岸村の浪打ちぎわで昼食をしました。弁当をひろげたところ箸がありません。そこで、かたわらの杉の小枝を地面に突き刺して「源氏万代に栄えるものならば、この箸、根や葉を生じて繁茂せよ」と念じたということです。
ところが不思議なことに、その小枝は二本とも根や枝葉をつけて成長し、幹の周りが三メートルもの巨木となってそびえました。村木は御神木とあがめ、正月十四日に焼く習わしだったといいます。
しかし、明治四十三年の暴風でこの巨木が倒れてしまったので、村人はその跡に「平井保昌之遺跡」の碑を建てて保昌を偲びました。その場所が鉄道用地になったので碑は転々としましたが、現在は元の場所に面して置かれています。北区立郷土資料館に保昌の杉で作った額が掲げてあります。
※北区の昔がたり(東京都北区教育委員会発行)より。
その他には、馬に乗った大蛇(赤羽西)、姥ヶ橋の地蔵様(上十条)、河童の恩返し(岩淵)、錆槍甚兵衛(豊島・王子)などがあります。
北区の図書館で借りられます。 |
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| ■第四話:北区ゆかりの著名人 |
| 【徳川吉宗】 |
八代将軍:徳川吉宗でが、享保の改革の施策のひとつに行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたのです。 |
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| 【徳川秀忠】 |
二代将軍:元和五年に日光に社参した際、岩槻街道を通り、岩淵の渡しを初めて渡ったと言われています。その後、家康も吉宗もここを通り日光に通ったそうです。 |
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| 【豊島清光】 |
地方豪族:王子東地区。この地区は、かつて豊島一族が支配していました。清水寺に豊島氏の木像が建てられています。豊島氏は平安時代から武蔵平氏の一門の名族。 |
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| 【永井荷風】 |
小説家:浮間ヶ原の「さくら草」について、著書「葛飾土産」で書かれています。幼少の頃、よく浮間ヶ原にさくら草の採集に行かれていたそうです。 |
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| 【田山花袋】 |
小説家:浮間ヶ原の「さくら草」について、著書「一日の行楽」で紹介しています。 |
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| 【芥川龍之介】 |
小説家:田端を愛し、その田端と、文士村の仲間達のことを「田端人」で書かれています。 |
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| 【近藤勇】 |
新撰組局長:滝野川が最後の地。この地に隊士の永倉新八が墓碑を建て、今でも多くの方がお参りされています。 |
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| 【渋沢栄一】 |
実業家:日本また北区の産業発展に多大な功績を残された方。その功績を展示する渋沢栄一資料館が北区郷土資料館にあります。 |
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| ※資料:北区観光ガイドブック、北区時めぐり街めぐり |
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| ■第五話:略年表で見る北区の歴史 |
| 先土器 |
・北区に人類登場(約3万年前)
・赤羽台遺跡 |
| 縄文 |
・独木舟、縄文土器(中里遺跡出土)
・土偶(東谷戸遺跡出土) |
| 弥生 |
・鉄剣(田端西台道遺跡出土)
・鉄釧(七社神社前遺跡出土)
・ガラス小玉鎮型(豊島遺跡出土) |
| 古代 |
・赤羽台第3号古墳石室
・西ヶ原に武装国豊島郡衛創設 |
| 中世 |
・前九年の役(1051年)
・後三年の役(1083年)
・承久の乱(1221年)
・鎌倉幕府の確立
・上杉禅秀の乱(1416年)
・永享の乱(1438年)
・結城合戦(1440年)
・豊島氏滅亡(1478年)
・太田氏の活躍
・徳川家康の江戸入府(1590年)
・徳川家康が王子権現に200石を所領安堵(1591年) |
| 近世 |
・将軍秀忠、第一回目の日光社参(1617年)
・幕府が王子権現社、王子稲荷神社、別当金輪寺を造営(1634年)
・「若一王子縁起」絵巻完成(1641年)
・平塚社に所領50石の朱印状下賜(1641年)
・将軍家光、西ヶ原御殿山にて犬追物を上覧(1647年)
・将軍吉宗、飛鳥山に桜を植樹(1720年)
・飛鳥山が王子権現の所領になる(1737年)
・王子に料理屋の海老屋、扇屋が開業(1799年)
・「額面著色鬼女図」王子稲荷社に奉納(1840年)
・滝野川村に反射が建設始まる。(1864年) |
| 近・現代 |
・田端、中里、上中里、西ヶ原、瀧野川村が東京府へ編入(1868年)
・梶原堀ノ内、船方村が東京府へ編入(1869年)
・豊島、王子、十条、神谷、稲村、志茂、赤羽根、岩淵本宿、袋村が東京府へ編入(1872年)
・北区城が北豊嶋郡に所属(1878年)
・北区域が一町二村(岩淵町、王子村、瀧野川村)制になる(1889年)
・王子村が王子町に改称(1898年)
・瀧野川村が瀧野川町に改称(1913年)
・浮間が岩淵町に編入(1926年)
・王子区、瀧野川区発足(1932年)
・北区発足(1947年) |
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| ※資料:北区略年表より。東京都北区教育委員会発行 |
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