この本のテーマは、プロカメラマンになるためのヒントを述べることでした。エレクトロニクスの驚異的な進歩により、写真を写す技術はコンピュータが「ひとの勘」の代替わりをし、誰でも簡単に写真を綺麗に写せるのが現在です。プロカメラマンのアマとの差別化は、撮影においては難しくなっています。アマとの差別化のプロカメラマンに残された最後の武器は、「ものの見方と考え方」だけです。それは、ひとのメカニズムを侵食し万能に思えるコンピュータでも、その分野までは、まだ開発されていないからです。
そのために、内なる世界(脳内のこと)と外なる世界(世間・歴史)の裏側からの見方を提示したわけです。その提示の仕方も思いつくままに書き殴ったため、脱線をして何を目的の記述か理解不能の箇所が多々あったかと反省しております。
さて、限られた人生で、目標に到達するためには、無駄な努力をしないことです。無駄な努力をしなければ、それだけ目標に向けてエネルギーを最大限に放出できるからです。しかし、日常の出来事を振り返れば、かなりのエネルギーロスを実感できることでしょう。その多くは、無駄と思われる思考をすることです。つまり、解決のつかないどうしようもないことに思い悩むことです。
そこで、その悩みから脱出する目的で、カウンセリングや宗教ビジネスなど色々な事を試すわけですが、それらで解決がつけば万万歳です。でも、そこで解決がつかないひとは、生まれ変わることを願望する傾向があるようです。つまり、変身願望です。
この変身願望は、悩める大人だけではなく、小さな子供にも強くあるようです。少年向け漫画の根性物語(修行物語)やそのものスバリの平凡な子供が超人に変身するストーリなどは、子供の潜在変身願望に向けての訴求でしょう。
細胞からみれば、身体は一年を過ぎれば、変身しているのです。身体の細胞は毎日毎日新陳代謝をして、一年も過ぎれば全く新しい細胞に変身しているのです。そのように、「身体」は時間が経てば変身しているのに、何故に「意識」は変化しないのでしょうか。
悩んでいるひとの中には、何十年も前のことを未だに悩んでいるひとも珍しくはないようです。そのシツコイ悩みから開放される方法のひとつは、脳の一時記憶保持器官である海馬の機能を停止させることですが、そうなれば過去の記憶を呼び起こすことができないため「わたし」が誰なのかも分らなくなってしまいます。
尊徳は、事を天道と人道とに分けて考えます。例えば、庭先に柿木があるとします。柿木は自然の摂理で秋になれば実をつけ、冬に向けて葉を落とします。落葉は毎日毎日積もります。しかし、庭先の落葉を放っておくのは人道ではありません。人道で落葉を掃除しても、次の日にはまた落葉は積もります。それは天道だから仕方ありません。その落葉にこころを煩わしこころを労して、一葉落ちたからといって、箒を持ってきて掃除をすることは、ゴミに使われていることになります。賢いことではありません。
では、どのような仕方があるのでしょうか。そこで尊徳の考えによれば、落葉が積もるのは天道だから、人道をもって毎朝一度は掃除をすること。掃除の後、また落葉が積もっても、それは放っておくこと。何故ならば、無心の落葉(物)にひとが使われるのは愚かなことだ、毎朝一度掃除をすることが人道である。それで善しとする。
この考え方を応用すれば、悩む対象が、もし、天道の範疇であれば、人道を試みても上手く行かないのであればキッパリと「あきらめる」ことが大切だ。何故ならば、天道は自然で、人道は不自然だから。つまり、人道は天道に随うのが「自然」だから。
自然は、ひとにはコントロールすることはできません。コントロールできない事を思い悩むことは賢いことではありません。それには、「仕方が無い」と「あきらめる」ことも悩みを解決するひとつの方法です。
「生」とは生きることで、生きることにおいての悩みは色々ですが、その悩みの多くは経済的なもののようです。その経済的悩みが解決できたひとは、次に生きることの意味について悩むようです。
「生」についての経済的問題の解決方法のひとつは、分限を知ることです。分限とは、自分の収支の経済状態を知ることです。そして、収入の八割で暮らす智恵を持つことです。一月百万円の収入のひとは、八十万円で、十万円の収入のひとは、八万円で暮らすことです。そして、余りの二割を貯蓄し、無収入でも三年間暮らせるだけの資産を作ることで、経済的悩みから開放されることでしょう。これらのことは全て人道です。
生きる意味についての悩みは、答えの出ない問題のようです。未だに、納得できる答えにめぐり合っていません。もしかしたら、これは天道の範疇のものかもしれません。もし、そうだとしたら、答えが出ないのは「仕方が無い」と「あきらめる」こともひとつの方法かもしれません。
基本的に悩みの根底にあるものは「欲」です。「欲」が満たされれば、悩みは解決します。何故ならば、「欲」は行動の起爆剤ですから、その「欲」が満たされて消滅してしまえば、「悩む」と言う行動自体も消滅してしまうからです。
本性が求める「欲」は、生得的にプログラミングされているもので、それらの基本は食欲・性欲・睡眠欲です。これらの「欲」は、満たされてしまえば直に消滅してしまいます。
「欲」と「欲望」とはどこが異なるのかと言えば、基本的には、「欲」は「本性のプログラム」により作動することです。それに対して、「欲望」は「わたし」が想像力で「欲」のエネルギーを増大させることです。
「わたし」が「わたしの想像力」をコントロールすることが可能だということは、「欲望」を喚起させる技術をビジネスとしている企業が存在していることでも証明できるでしょう。それは広告代理店です。広告代理店の「おしごと」は、クライアントの望む売上を達成させるための戦略と戦術を実行することです。
ひとは、自分の意志で自分をコントロールしていると言う幻想を信じ込んでいるようですが、ひとが行動するパターンは決まっているようです。その法則とは広告業界では、「アイドマの法則」と呼んでいます。
アイドマ(AIDMA)とは、A=Attention(注目)、I=Interest(興味)、D=Desire(欲求)、M=Memory(記憶)、A=Action(行動)の頭文字です。
この一連の流れの中で、最も重要なことは「記憶」です。ひとは自分の意志で行動していると信じているようですが、自分の意志で行動しているのは、一日でもほんのわずかな時間でしかありません。大部分の時間は、「記憶」された情報を基に行動しているのです。
注目→興味→欲求を喚起させるのは簡単です。それは、ひとの「本性の欲」である、食欲(御馳走)、性欲(魅力的な異性)、睡眠欲(安らぎ)の情報を提供すれば、一般のひとは、注目→興味→欲求の流れに乗せることができるでしょう。
しかし、「記憶」させるには一工夫が必要です。広告業界で一般的に使われるその技術は、「感染魔術」です。「感染魔術」とは、ある物に、ある者が触れると、その者の影響力が感染すると言う「錯覚」です。その技術例として、あるイメージを持ったタレントが宣伝物を持ってのニッコリポスターを挙げることができるでしょう。
そのような宣伝技術で、任意の情報を刷り込まれて「記憶」として保持されてしまえば、あとは「行動」あるのみです。そうして、日常生活に不必要なブランドと言うガラクタが押入れに詰め込まれ続けていくわけです。
例えば、ユダヤ・キリスト教原理主義者に、夢枕に「ブッダ」を立たせることはできないでしょう。その逆に、仏教原理主義者に「アブラハムの神」を夢枕に立たせることなどできるはずはないのです。つまり、刷り込まれていない情報は、ひとには想像することもできないからです。
ですから、「欲望」をコントロールするには、今までの自分に不都合な「記憶」を消去し、新たに、不健康な実現不可能な情報を避け、自分に望ましい実現可能な情報を自分に刷り込むことです。
例えば、上野の森の西郷隆盛の銅像にある顔は、本物の西郷隆盛ではないようです。除幕式で奥方が銅像の顔を見て、「これは西郷ではナカ。」と言ったことは有名な話です。しかし、何を目的かは分りませんが、学校の歴史教科書などにはドングリ目玉のあの西郷ドンの顔(ウソの情報)が、今でも堂々と掲載されています。これまでに刷り込まれた西郷ドンの顔が「ウソ」だと分ったからと言っても、一度刷り込まれてしまった情報である西郷ドンの顔(ウソの情報)の「記憶」を消すことは困難であることが分るでしょう。
では、「記憶」は消すことが困難なら、どのように対処すれば良いかと言えば、今までの刷り込まされた記憶情報以上に、新しい自分に相応しい情報を、「他人に頼らず」、自分が自分に不都合な記憶が気にならなくなるまで刷り込み続けることです。このことが、こころを自立させる出発点になるのです。
人生ゲーム或はプロカメラマンゲームを進めていく上で、それらのゲームを行なうフィールドについて調べておかなければならないことがあります。
見知らぬ国を旅する場合でも、予めそれらの国の実状や歴史などを調べて、情報として保持していれば、これからの旅もし易くなるし、楽しくもなるわけです。
そこで、ゲームのフィールドとしては色々考えられますが、ここでは日本について考えてみることにしましょう。そう言っても、学校で日本について社会科や歴史の教科で学習したから、今更調べる必要などない、と思っているひともいることでしょう。
しかし、学校等で学習した情報は、庶民(王権の子孫ではないひと。王権の子孫は嫡民。)にとって本当に正しいものなのでしょうか。
二十一世紀に入り、軍事大国米国は、イラクを先制攻撃しフセイン政権を打倒しました。勝利宣言をしたブシュジュニァは、記者会見で、新生イラク統治の疑問を発した記者に対して、「百五十年前の日本の統治のように上手くいく。」と自信ありげに答えました。
百五十年前?
勉強があまり得意ではなかったブシュジュニァのことだから、太平洋戦争後の日本統治の五十年前を、百年多く言い間違えたのだろとの新聞記事が掲載されたものです。
本当に新聞記事の言うように単なる言い間違えなのでしょうか。百五十年前と言えば、丁度「明治維新」の頃です。
エール大学の秘密結社スカル&ボーンの結社員であるブシュジュニァは、明治維新の闇の部分を知っていたからの発言ではなかったのでしょうか。
闇の世界に興味のあるひと達が囁いていることがあります。
日本国の旧五千円札と米国の一ドル紙幣を用意して下さい。まず、五千円札の裏にある逆さ富士を眺めてください。一般的常識では、湖面は鏡と同じで、対象物はシンメトリーとなって映し出されるはずです。五千円札を逆さにして湖面に映る富士山を眺めて下さい。それは富士山に見えますか。あるひとが言いました。それはシナイ山だ。
日本国の経済の血液である紙幣に、外国の山がサブリミナルで掲載されている、と言うひともいます。
紙幣が国の経済の血液であれば、政治の骨格は国会議事堂でしょう。国会議事堂と言えば、あの独特の屋根を思い浮かべるでしょう。では、あの屋根を設計したひとは誰なのでしょうか。それが分らないのです。百年も経っていないのに、誰があの屋根を設計したのか分らないのです。でも、設計公募により採用されたデザインによれば、その屋根はドームであったのです。誰かが何かの目的で、屋根のデザインをドームからピラミッドに変更したわけです。ピラミッドは王家の墓場です。そこで、米国一ドル紙幣の裏を見てください。そこには、上部に目があるピラミッドがあります。このピラミッドは、世界的ネットワークを持つ結社のマークと言われています。
五千円札を発行しているのは株式会社日本銀行です。その株の三十八%保有しているところがあります。それはイングランド銀行だと言われています。株式投資を行なっているひとなら分ると思いますが、ある会社の株の四十%を保有していれば、その会社は連結決算の対象となり、一般的には、その会社は「子会社」と呼ばれています。
時代の夜明と言われている、「明治維新」の闇の世界で一体何があったのでしょうか。
この国には確かに闇の部分があるようです。その闇は、庶民に対して陰湿なイジメの基のように感じられます。そのイジメの戦略は、「夷をもって夷を制す。」と言う中華主義そのもののようです。それは、その王権も庶民も四世紀から七世紀の間に、中国大陸や朝鮮半島から渡来した民族だからのようです。つまり、中華式統制は、「八色の姓」でひとの貴賎を差別し、「新撰姓氏録」で出自の差別をするという制度的で、北面するキタナイ庶民がキタナイ庶民をイジメルのを南面する嫡民が遠くで眺める図式です。
これは中華思想によるもので、王権にあって「君子は南面す。」であり、王城の北に位置し、南面することを許されざる者=北に座所をもてない者が、「北無し」つまり、「ヨゴレモノ」で王権傘下のひとでない者であるわけです。大乗仏教と供に中華思想が侵略してくる前の「倭国」(シャーマニズムの世界。巫女(女)が神とコンタクトする女尊男卑の母系社会。呪術カラー赤色。)では神の位置は東西であったのが、倭国改め七世紀に「日本国」(ヒンズー教化した仏教の世界。僧侶(男)が仏とコンタクトする男尊女卑の父系社会。呪術カラー金色。)となってからは神の位置は南北になっている。北は夷(えびす)の棲む蝦夷の国であるのです。
そして、そのイジメの図式(王権にまつろわぬ者→キタナキ者→ヨゴレ者→穢れ者→エンガチョ)は、現在では普通の小学校や普通の会社でよくみられるようです。そのイジメのカラクリを知るには、日本国の歴史を別の角度(庶民側・敗者側)から眺めることです。そして、その闇の扉を開けるヒントは、お祭りの神輿にあるようです。そこで、神輿について調べることにより、この国の闇の部分に、微かではあるけれども光を投じてみることにしましょう。
この国で出世を望むなら、「本音と建前」のテクニックを修得しておく必要があります。出世とは、「ハレ」の場に出ることで、それは高貴な公家衆の前にかしこまることです。庶民の前ではなく、公人や殿上人の前に出ることが「ハレ」で、このことを「世に出る」、つまり、この国での「出世」と言われている本当の意味です。
「本音と建前」とは、本質を言えば、「本当とウソ」のことです。この国では、「ハレ」の場では「本音」はタブーで、「建前」で話さないと「出世」できないのです。
今のように時間潰しの色々な遊技がない頃の日本国では、子供達の楽しみのひとつは秋祭りでした。子供の頃から不思議に思っていたことがありました。それは、祭りでの神輿のことです。威勢よく街路をワッセワッセと練り歩く神輿に向かって、見物人が「水」や「塩」を撒いていたのです。誰かが歌っていた祭りの歌の歌詞の中で、「景気をつけろ、水撒いておくれ、塩撒いておくれ、ワッショイワッショイ、ソレソレソレお祭りだぁ。」というのがありました。しかし、子供の頃の神輿の思い出は、景気付けのための「水」や「塩」ではないように感じていたものでした。
神社へ行くと、本殿の裏にみすぼらしく今にも朽ち果てそうな祠がありました。そのような配置は、あらゆる神社で目撃することができました。本殿の裏の湿気の多い場所にいる神様は一体誰なのか、疑問に思っていたものです。
神輿が日本の記録に現われるのは、天平勝宝四年(752年)奈良の大仏(大ビルシャナ仏=太陽の神)建立にあたり、宇佐八幡を勧請する祭聖武帝の常輿のほうれんをもって代行した時とされています。
宇佐八幡が神輿の日本国におけるルーツだとしたら、その神輿に祭られている神様は誰なのでしょうか。現在の宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后そして宗像の三姫神と言われていますが、それは「建前」で、「本音」は、延喜式(905年から927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯(たらし)姫神、姫神の三神とあるそうです。
では、宇佐八幡の意味はどのようなものかと言えば、宇佐氏とは海部出身で「ウサ」とは「スサ」即ち産鉄民族系の意味で、それが基で地名となったようです。これは、京都の山背の「太秦」と同じで、「うず」とは「宇豆」(偉大、尊いなどの意味)で、「まさ」は「勝」で「すぐり」つまり、朝鮮の「村長」の意味です。ですから「太秦」とは、秦氏一族の勝(すぐり)の偉大な統領が住んだ地を表しているわけです。
では、八幡とは何を意味しているのでしょうか。八幡は「はちまん」ではなく、古名では「やはた」です。「八」は末に広がる多さを表し、「幡」は「秦」を表し、「八幡」とは秦一族か栄えることを願う意味です。更に、「幡」は「秦」で、「秦氏」は「新羅」からの渡来者です。すなわち、八幡の神は朝鮮半島から渡来した外来神であるわけです。
新羅の呪術カラーは白です。鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じ、源氏の旗を「白」とし、守護神を八幡神としたのもそのためなのです。
八幡神社は全国に約二万四千あるそうです。日本国で一番多いのは稲荷社で約三万五千と言われています。「稲荷」も「夷なり」で、渡来神のようです。(その頃の中央にいた大乗仏教も渡来神です。日本国の神の多くは渡来神です。)
この新羅の神は、七世紀に日本国を金ピカの「大乗仏教」をバックに支配した百済系氏族により中央から追い落とされていくわけです。
童歌(こどもの歌ではなく、闘いに破れたひとたち、つまり、王権から子ども扱いされたひとたちの哀歌)の「とうりゃんせ」がこのことをよく表しています。
「とうりゃんせ、とうりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっととおしてくだしゃんせ。ご用のない者とうしゃせぬ。行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ。」
この童歌からも分るように、王権から庶民に落とされたひとたちは、自分達の氏神様にもおいそれとはお参りもできなかったようです。
童謡の歌詞の「建前」ではなく「本音」を知ると、思わずゾッとするものが多くあるのは、庶民が「ハレ」の場所から、湿っけの多い場所「け」に追い落とされた怨念が込められているからでしょうか。
では、新羅や百済とはどのような民族なのでしょうか。それらの民族は元々朝鮮半島に居たわけではなく、新羅(騎馬系民族。太陽「ラー」を信仰。「白」を民族カラーとする。)は西アジアから陸路で半島に辿り着き、百済(海洋系民族。海照「アマテル」を信仰。「赤」を民族カラーとする。)はインド周辺から海路で半島に辿り着いたようです。
倭国は元々海洋民族(ワダツミ)で、北九州と朝鮮半島南部がテリトリーであったので、663年の白村江の闘いでは、倭軍は百済と同盟し、唐・新羅軍と闘い敗れるわけです。そして、倭国は670年には中国の歴史から消滅し、それに替わって「日本国」が現われるわけです。
朝鮮半島での百済国は滅亡しても、コロニーである日本国内の百済系氏族は健在です。白村江の闘いで勝利した唐軍が日本列島に侵攻してくるから、国内の華僑や出自が異なる民族が団結して、倭国王家の基に「日本国」が創られた、というのが歴史的通説のようですが、果たして「本音」はどうなのでしょうか。
七世紀に新生「日本国」が誕生し「近江律令」(668年)などで政治制度が変わったからと言って、民族の血の流れが変わるわけではありません。この国には、「赤」「白」「金」それに「黒」を民族カラーとする集団が存在しているのです。「黒」は、「黒幕」と言えば、事件の背後にいる表にでないひとのことを言うように、正体不明の民族です。
新生日本国が誕生する背景には、仏教による神への勝利があります。激しい戦いの後、神は生き残るため仏の軍門に下り、本地垂迹説が展開されるわけです。神は本来の「血による祭儀」を殺生禁止の仏教に否定され、「火による祭儀」に変化させられていくわけです。
「血による祭儀」とは、祟りを静める儀式であるわけで、仏教によりその儀式が否定されても、その儀式は違う形で生き延びていくわけです。それが宿神であるわけです。神と交流し彷徨える魂(祟り)を静める「宿神」には三つあります。それらは、部落の宿神、能の宿神そして天皇の宿神です。
当時の先進国中国大陸での宗教の始まりは、母系氏族社会において、生き残るために氏族の結束を目的に、日常生活における問題点を解決するためのひとつの手段として自然発生したものです。その信仰(しがみ付く)対象として、自然崇拝、トーテム崇拝、天神崇拝、祖先崇拝などですが、母系社会制度の中で最も特徴的なのは女性崇拝です。女性特有の感情の激しさ、その逆の優しさは、まさに自然そのものです。
その母系氏族の生き方の中から、道家、道教そして神仙の学が現われてくるわけです。
氏族が小規模の部落として暮らしているならば、自然を崇拝しそれに従っていればよかったものが、人口の増加で暮らしのために自然を克服する必要性が生じてくるわけです。そのひとつが、農地の確保のための治水事業です。その治水事業とは、自然に闘いを挑むことになるのです。そこで力の強いものが、氏族を統率することになるのです。それがやがて父系氏族を生み、そして父権家長制の階級社会へと移行していくわけです。
自然に随う母系氏族を源とする道家、道教そして神仙学から、自然に挑戦する父系氏族から厳しい刑法や繁雑な礼儀などにより統制を行なう宗法礼教が確立され、女尊男卑の世界から、男尊女卑の世界と変化し、その流れから儒教が現われるわけです。
そのような宗教の変革の流れが、後進国である日本列島に渡来人達により断続的にもたらされるわけです。
そして、日本国が誕生する前に渡来した神(仏)が大乗仏教というわけです。しかし、その仏教も何かの闇があるようです。
宗教とはひとにとって何なのでしょうか。
宗教は、一方ではひとびとの苦難を救うための手段でもあるわけですが、もう一方ではひとびととの争いの基(宗教戦争)や差別の基にもなるわけです。そのような、宗教の本質は一体何なのでしょうか。
宗教を別の見方から考えれば、それは、日常生活における行動の規範を決める「教え」を無条件に信じることです。このことは、王権側にとっては、最大の武器となるのです。つまり、武力を使うこともなしに庶民を思いのままにコントロールすることができるからです。
日本国での律令制下では、仏教は鎮護国家のための武器でした。その時代の「穢れ」とは、国家の秩序を乱す者のことでした。しかし、平安末期に仏教が民衆に広がっていくと、その「穢れ」の思想が、「不具者・ライ病者」への差別に変化してしまうわけです。その差別の原因のひとつが、「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。
かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。
大乗仏教の布教により、この「法華経」の「業の思想」が一般民衆に浸透すると日常生活の規範として「不具者・ライ病者」が、律令国家では「穢れ者」ではなかったものが、平安末期(藤原氏の時代)には「穢れ者」になってしまうわけです。ここにこの国における「穢多」の差別の芽生えがあるわけです。
「穢」の意味には本来は「ケガレ」の意味はなかったようです。穢の本来の意味は、「神をまつる。」ということです。「穢」から稲の意味の禾偏を除いた「歳」は年、祭そして祀と同じに「神をまつる」という意味です。しかし、その祭る方法がことなるのです。「歳」は犠牲を用い、それに対して「年」は舞によりまつるのです。
では、日本国に渡来した「仏教」とはそもそも何なのでしょうか。その日本国に渡来した仏教の闇をかすかに照らす光は、弥勒菩薩にあるようです。
弥勒菩薩とは何かと言えば、「建前」では、釈迦牟尼世尊(釈迦族の福徳ある聖者=ブッダ)に次いでブッダ(悟った人或は目覚めた人)になると約束された菩薩(悟りを求めて修行する人)で、兜率天(とそつてん)に住し、釈尊(釈迦牟尼世尊の略)入滅後、56億7千万年後にこの世に下生して、竜華三会により衆生をことごとく済度するという未来仏ということになっています。しかし、「本音」を言えば、弥勒菩薩とはインドでは「マイトレーヤ」と言われ、実はミトラ教の神様なのです。
宗教に興味がないひとも、キリストの誕生日を知っているでしょう。その12月25日(クリスマスの日と言われている。)は、実はミトラの誕生祭の日なのです。
世界的宗教であるユダヤ・キリスト教と大乗仏教に影響を与えている「ミトラ教」とは一体何なのでしょうか。
ミトラ教の起源は、古代メソポタミアに遡れます。ミトラ教は太陽を崇拝し、牡牛を犠牲に捧げる祭儀を持ち、太陽の死と再生の分岐点である冬至はミトラ誕生に相応しい日としているのです。
この冬至の死と再生復活の儀式は、時空を越えて、日本の天皇家の皇位継承である大嘗祭(太陽崇拝の新羅系の第二代天皇の天武天皇が初めてこの儀式を行ったと言われている。第一代天皇の天智天皇は百済系。)に影響を与えています。「建前」では、大嘗祭は収穫祭ということになっているようですが、「本音」は新たに位につかれた天皇が、皇祖天照大神の寝床の枕もとで、神様に食事をさしあげる儀式で、天皇が一代で一度だけ執り行う、亡くなられた天皇が新たに再生するという儀式のようです。もし、単なる収穫祭なら何故「秋」に行わないのでしょうか。陰暦の11月の上巳は冬のまんなか(冬至)の月、つまり「冬」であるわけです。
太陽を崇拝し、牡牛の犠牲を捧げるミトラ教の特徴のひとつは、救世主(メシア)思想と結びついていることです。この思想は苦難にある民衆を惹きつける力が強いため、ミトラ教の思想はあらゆる宗教に取り入れられていくわけです。
古ミトラ教では、三人の神(アフラ・ミトラ・アバムナバート)を崇拝していたのが、拝火教のゾロアスター教(古ミトラ教から分離)により、善神アフラマズダと悪神アーリマンの二元論になっていくわけです。この二元論が、天国(極楽)と地獄の思想を創り出して行くわけです。しかし、三人の神の三原論は、ユダヤ・キリスト教(父と子と聖霊)や日本の神社(三者祭)に受け継がれていくのです。
ローマ帝国での布教を成功させたミトラ教も、新興宗教であるユダヤ・キリスト教がユスティニアス帝と結びつくことにより、311年にユダヤ・キリスト教の寛容令が出ることにより、その組織はユダヤ・キリスト教徒達により地上から抹殺されていくわけです。そして、ミトラ教に替わって、392年にユダヤ・キリスト教はローマの国教となるわけです。ここに西方におけるミトラ教は歴史から消え去るのです。
しかし、東に向かったミトラ教は、時の勢力のある宗教組織の内部に入り込むことにより生き延びていくわけです。
ミトラ教の特徴を整理すると、太陽崇拝、牡牛を犠牲とする祭儀、救世主思想、秘教占星術、イニシエーションの密儀、七つの位階、そして火による密儀等です。
東に向かったミトラ教は、紀元前五世紀にインド(シャカ国)でゴーダマ・シッダルタに出会うのです。
ブッダと言えば、宗教にあまり興味がないひとは、ひとりしか存在していないと思っているかもしれませんが、ブッダとは、「モーセ」と同じに、固有名詞ではなく一般名詞なのです。ですから、ブッタは複数人いたわけで、ゴーダマ・シッダルタ=ブッダだけではないのです。
釈尊(釈迦牟尼ブッダ=釈迦族の聖者であるブッダ=ゴーダマ・シッダルタ)以前にもブッダは六人居たらしのです。さらにブッダは如来(修行を完成したひと)とか阿羅漢(尊敬に値するひと)などとも呼ばれていたようです。
釈尊がブッダになるために、以下のような真理を悟ったと言われています。「幸福とは、聖なる真理を見ること、聞くこと、そして一人心の内に安らぎを体得することである。幸福とはこの世の情と欲とを乗り越えることである。自我意識を乗り越えることこそ、間違いなく最大の幸福である。」
釈尊はその教えを書き残してはいません。では何故その教えが今日まで知られているかと言えば、それは愛弟子のアーナンダが釈尊の教えを全て暗記していたからと言われています。その教えの基本は、八正道にあると言われています。
八正道とは、正見(正しい見解)、正思(正しい決意)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい想念)そして正定(正しい瞑想)の八つの教えです。
当時のインドでは、カースト制度に胡座をかいた儀式偏重の上流階級に向けられた宗教でバラモン達(聖職者階級)が幅を利かせていました。そのような社会では、生活に困窮している非征服者の下層階級のひとたちは、誰でも理解でき実行できる釈尊の教えに救いを求めることは自然の流れです。
暗黒の霊的遺産の管理者を辞任し、神との交信をするための複雑な儀式を考案し独占するバラモン達が説く世界は、人間の魂の奥底の本性である個我(アートマン)は、絶対者(ブラフマン)の不変の本性と同一であるというわけです。しかし、釈尊は永遠不変の自我という考え方を受け入れず、存在は不断の変転と苦悩の中にあると説くわけです。そして、「自我」の真の存在を否定し、「無我」を説いたのです。
その「教え」はやがてひとびとに受け入れられ、裕福な商人のスポンサーが現われ「祇園精舎」ができるわけです。時代と供に釈尊の集団は膨れ上がり釈尊入滅後にはその教えの解釈の違いから、釈尊入滅後四百年して、仏教教団は大分裂するわけです。それは大乗仏教と小乗仏教と呼ばれています。
大乗仏教は、すべてのひとの中に「ブッダとなるための種子」が存在しているから、さまざまな救いの道があると説き、解脱の核心は、憐れみと普遍の愛の実践に基ずいて、生けるものの全てに対して無限の共感を抱くことにある、そして、他者を救うことが必要であるとするわけです。
それに対して、小乗仏教は、一切の観念的思弁を嫌い、現世と人間の苦悩を現実のものとして見て、修行僧として生きることによってのみ救われると説くわけです。
この二つに分裂した教団の思想の違いが、やがて教団の運命を決めるわけです。一般大衆への仏教布教という拡大路線は、権力者の支配権拡大と同じベクトルを持っていることになるのです。つまり、大乗仏教は、時の権力者が庶民をコントロール(統治)する武器として利用されていくわけです
仏教教団が二つに分裂する前の紀元前三世紀ガンターラ地方を支配した第三代アショカ王は仏教に帰依することにより、軍事拡大路線から統治へと政治を変えるための手段として仏教を利用しています。
大乗仏教は、一世紀以降、バビロニア、ペルシャそしてギリシャの西洋文化と交易により接触していたガンダーラ地方で発達を遂げるわけですが、そこで考えられないことが起こるのです。それは、仏像の出現です。
釈尊の存命中のインドでは、魑魅魍魎の宗教世界があり、呪術が現実のものと信じられていたようです。そこで、釈尊は入滅後呪術を掛けられないように仏像を作ることを戒めていたようです。ですから、釈尊入滅後での礼拝対象は、遺骨、仏塔そして菩提樹であったようです。
仏像が作成されたのはカンダーラ説とマトゥラ説のふたつがあるようですが、本々インドには三次元の像を作る文化はなかったので、当然その像はギリシャ的な立体像であるわけです。
では何故仏像を作る必要があったのでしょうか。
宗教の宿命として、信者達の願望に迎合しなければならないことがあります。それは、信者達の願望を満たさないと、その宗教自身が成立たなくなるからです。ですから、僧侶が新天地で布教活動を成功させるには、その土地の土着の神のイメージを取り入れなければならないわけです。
宗教とは、どのような組織でも、その基本は教祖の「教え」を信者に刷り込むことです。その刷り込みの手段も、ひとの脳の構造に合わせて変成してきたようです。
ひとの脳は、爬虫類の脳(脳幹・小脳=いのち)→哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)→ひとの脳(大脳皮質=思い)を積み重ねているわけです。爬虫類の脳と哺乳類の脳は言葉を理解できません。これらの脳に働きかけるには、音と動作です。それに対してひとの脳は言葉を理解できます。
そこで、宗教のプロパガンダの手段として、まず音と動作を駆使した「呪術」が開発され、その後、ひとの言葉の発達に合わせ「経典」によるプロパガンダが開発されて行くわけです。
小アジアのボアズキョイで見つかった紀元前1400年前のヒッタイト王たちに関係する楔形文字の契約文書には、古代インドで崇拝されていた神々の名前が記されています。それらは、ミトラ、ヴァルナ、インドラ、ナサティアスなどです。
呪術は経典ほどの伝播力がありません。それは、ひとを介さないと伝播することができないからです。しかし、文字で書かれた経典は、時空を越えて伝播していきます。
ひとは「呪術」でも「経典」でも、一度刷り込まれた情報はなかなか消去することができません。このことは、旧約聖書「出エジプト記」にみることができるでしょう。
シナイ山(五千円札の裏にある逆さ富士)に登ったモーセは四十日四十夜その山に篭りました。そこで、モーセの帰りが遅いので民はとんでもないことをするのです。
出エジプト記第三十二章の七
主はモーセに言われた。「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と言っている」。
聖書研究家によれば、旧約聖書は長い年月をかけて創作された物語の寄せ集めのようですが、最も古いものでも紀元前八百五十年以降ということです。その古い書物の内容でも紀元前九三ニ年に死んだソロモン王の前後の物語のようで、その物語も驚くほど短いものだったようです。そして、モーセ五書といわれる物語が今日のように纏め上げられたのが、紀元前五五十年ごろから紀元前四五十年ぐらいの間のようです。
紀元前八百年から紀元前二百年までの時代は、思想史において輝ける時代のようです。今日の思想の根底は、その時代に大いに影響されているどころか、全く同じと言えるほどです。
それらの思想家としては、釈迦牟尼ブッダ、孔子、老子、プラトン、ソクラテス、ゾロアスター、エリア、エレミアなどです。これらの人達は、万物は根本的に二つの領域に分けられる、と考えたようです。それらは、「主観と客観」、「精神と物質」、「心と体」などです。そして、「本来の人間は、肉体に繋がれ、肉体に覆い隠され、欲望に捕らわれ、自己自身をぼんやりとしか意識せず、開放と救済を求めているが、しかしこの世界の中において解放と救済を手にできるものである。」とそれらの思想家は皆同じ結論を出したようです。
思想家とは、言葉を駆使してイメージを創造するひとです。この思想家がこの世に出現した時期が、呪術独占の世界が崩壊するターニンク゜ポイントなのです。ここから「呪術」と「経典」の長い闘いが始まるのです。
呪術と経典はどちらとも、神ではなくひとが発明したものですが、発明するのに使用する脳の回路が異なるようです。呪術は情動系回路(爬虫類の脳と哺乳類の脳)で、経典は思考系回路(ひとの脳)により発明されたようです。ですから、呪術は「いのち」と「こころ」に響きます。それに対して、経典は「思い」に語りかけます。
情動系回路は今を生き延びるために作動する回路です。それに対して、思考系回路は明日を生き延びるために作動する回路です。ですから、呪術と経典との場(時空)は異なるのです。呪術は今目の前に起こっている現象をコントロールするための技術です。それに対して、経典は思考することにより問題の解決を、現在から過去或は未来に求めることが可能です。それは、俗に言う「方便」(ウソのこと)ということです。
そのような異なるバックグラウンドを持つ呪術と経典が争った場合、呪術は不利です。呪術は戦う場が現在の今しかないからです。問題解決の為の技術が成功しなければ、その呪術は瞬時に抹殺されていまうわけです。しかし、経典はたとえ現在の今の問題が解決できなくても、思考することにより(ウソを考えることにより)解決の場を過去や未来に振り向けることが可能です。
呪術より有利な闘いをする経典は、問題解決の場を現在だけではなく過去や未来にと駆使することで、苦悩するひとびとを惹きつけていくのです。しかし、時間の流れの考え方の違いにより、その経典も変化いていくわけです。メソポタミアから西に向かうほど、時間の流れは一方向を目指していくようです。
西に向かった時間の流れにのった経典は、救世主思想を秘めた三神の古ミトラ教は、拝火教のゾロアスター教により善悪二神となり、更にユダヤ・キリスト教により一神教へ変化していくわけです。
しかし、東に向かった時間の流れは、インドで円を描くのです。それが、輪廻・転生の思想です。インド文明はこの輪廻・転生に基づいているわけですから、仏教でもジャイナ教(釈尊の良きライバル)でもヒンズー教でも、西に向かった排他的な他の一切の神を認めない一神教と異なり、あらゆる異教の神をも取り入れる要素を持っているわけです。
インドでジャイナ教やヒンズー教と共存していた仏教も十一世紀にイスラム軍がインドに侵入してくると、釈迦牟尼ブッダはヒンズー教の中でヴィシュヌ神の化身として崇拝されていくわけです。ここでインドでの仏教は消滅するわけです。しかし、ジャイナ教は今日まで細々と存続しています。
権力者・宗教教団と同じベクトルを持った集団が現われるのです。それは国際交易商人です。商人は新しい市場を求めて世界を流離います。未知の国の市場開拓には、その国の情報を手に入れる必要があります。その情報入手先に打って付けの組織があります。それが宗教教団です。
宗教教団の活動は物的破壊をすることもないので、困窮するひとびとを救う「教え」の布教を目的に未知の国に、商人と比べれば比較的入り込みやすいのです。そこで、宗教教団と国際交易商人との利害は一致します。例えば、ユダヤ・キリスト教の布教国と国際交易商人の市場開拓地がオーバーラップしているのはそのためです。「僧侶→商人→軍隊→植民地化」、この流れはインドやインドネシアの歴史の流れそのものです。
仏教はインドを経由して更に東の中国を目指しました。
前漢の武帝(紀元前140年〜紀元前78年)が「シルクロード」を開いたと言われています。そして、西国の商人達は、その中国の絹を求めてシルクロードを旅したわけです。その中に仏教もありました。
世間では中国四千年と言われていますが、その実体は、漢民族が四千年を統治していたわけではありません。中国の地には、満州人、モンゴル人、中国人、チベット人そしてイスラム人などの異民族が、昔も今も存在しているのです。
その異民族支配を基に中国を区分すると、秦・漢の中国、随・唐・宋(遊牧民族の鮮卑人が支配)の中国、明(漢人が支配)の中国そして中華民国・中華人民共和国の中国の四つの中国が歴史上存在していたのです。では、「元」や「清」は何かと言えば、元はモンゴル人によるモンゴル帝国であり、そして清は満州人による満州帝国であったわけです。と言う訳で、中国四千年は「建前」であるわけです。
インドで仏教と出合ったミトラ教は、輪廻・転生の思想に飲み込まれ仏教の中で釈尊の次に現われる弥勒菩薩として生き残るわけです。しかし、経典理論に優れる仏教においては、ミトラ教の多分に呪術的な牡牛を屠ることや星辰思想などの密儀部分は闇に葬られ(日本国で九世紀空海により合体し密教となる。)、仏教においてはミトラ教の救世主としての性格だけが維持されていくわけです。
四世紀、趙王朝は、漢民族ではなく遊牧民族の匈奴族による王国で、漢民族の文化に対抗し、そして漢民族を支配する目的で仏教を取り入れ、そして仏教の布教に力を入れるわけです。
五世紀の北魏の時代になると、救世主思想の弥勒信仰が盛んになっていくわけです。時代が困難になればなるほど、ひとびとは救済を求め、弥勒信仰は栄えるわけです。しかし、平穏な時代になると宗教は堕落するのが歴史が示すとおりです。200万人の僧侶がいた北魏も、仏教の戒律が乱れ、446年には廃仏を行うほど秩序が乱れるわけです。
国際交易商人は、シルクロードの終着点の日本列島の奈良を目指して、中国大陸を縦断して行くわけです。それは、日本列島が資源に溢れていたからです。それらの資源とは呪術に使用の朱砂(主な化学成分は硫化第二水銀=鎮静・催眠効果がある=道教では不老長寿の秘薬)鉱物資源に限らず、温暖な気候が桑の育成に最適だったからです。養蚕を営むには最適な場所が日本列島だったのです。その途中には朝鮮半島があるわけです。
国際交易商人と供に仏教が朝鮮半島に伝わるのは、三韓時代と言われています。
1148年に成立した朝鮮史の「三国史記」によれば、新羅は紀元前57年に、高句麗は紀元前37年に、そして百済は紀元前18年となっていますが、それは「建前」で、「本音」は、高句麗が先で、次に百済、最後に新羅が紀元四世紀に建国されたのです。何故、「三国史記」に実際とは逆に建国の歴史が書かれたかと言えば、それは、著者が新羅王家の一族だったからです。あらゆる歴史書は、これと同じ構造で記述されているようです。
中国大陸を通過する内に仏教は色々な宗教組織と出会うわけです。それらは、道教、神仙学、儒教そして景教などです。
景教は不思議な宗教で、キリスト教のような仏教のようなヒンズー教のような得体の知れない宗教組織です。物の本によるとシリア地方に発生した原始キリスト教(ネストリウス派)と記述されているようですが、その僧侶達は、古ミトラ教の発生した地のペルシャ人のようです。
その色々な宗教組織に遭遇した仏教は、紀元三世紀、前秦の北中国から陸路により高句麗に伝来し、三世紀後半百済には海路により南中国の東晋から伝来し、更に、新羅には紀元五世紀初めに陸路により高句麗から伝来しました。
その朝鮮半島で、北の陸路からの仏教と南の海路からの仏教が融合することにより、弥勒菩薩も変身するわけです。
弥勒菩薩の本来の姿は、ミトラ神の変身であるわけですから、正義の力と慈悲の力とで困難にある民衆を救う菩薩であるわけです。それが、インドより海路で朝鮮半島にもたらされた「観音思想」の影響を受け、弥勒菩薩の性格が変身してしまうのです。
観音とは、輪廻・転生思想におけるインドのヒンズー教のシヴァ神などの影響下で誕生した、変化自在により民衆の「現世利益」をもたらす菩薩であるわけです。
本来の弥勒菩薩は未来を志向します。それに対して、観音菩薩は現在に生きるわけです。しかし、困窮する民衆の欲望を満たすために、或は貴族の現世利益を求める流れに合わせて、その二つの菩薩の性格は都合よく合体し、そしてそれぞれが民衆の願望に合わせて変身してしまうわけです。
そして、弥勒菩薩像も、朝鮮半島で変身するのです。
ギリシャ文化の影響で、ガンダーラで創作された像は立像が多かったのが、そして中国大陸では椅子に腰掛ける像が多かったのが、朝鮮半島に辿り着いた弥勒菩薩は片足胡座の坐像となってしまったのです。その座り方は、ガンダーラ仏の三尊像のひとつである、観音菩薩であったわけです。その特徴的姿の弥勒菩薩は、朝鮮と日本にしか存在しません。その弥勒菩薩は、秦氏により、日本列島の倭国にもたらされるわけです。
ここで、朝鮮半島と日本列島が描かれている地図を百八十度回転して下さい。すると、朝鮮半島が南(下)にあり、北(上)に日本列島があることになります。
ひとの脳には、時間の流れと、場の移動の流れが、予めインプットされているようです。時間の流れは、左から右に流れているようです。映像における未来を目指す流れは、大体そのように描写されています。
それに対して、場の流れは南(下)から北(上)に移動するようです。車を運転するひとなら理解できると思いますが、カーナビを北上固定にして南行した場合と、同じ条件で北行した場合との心理的違いを比べてください。前の条件の方が、後の条件よりも運転がしずらいはずです。
そのように地図の見方を少し変えるだけで、歴史の流れ(民族移動の流れ)に変化が起こることでしょう。
紀元五世紀、日本列島が上部に描かれた地図を朝鮮半島側の下部から眺めると、そこには、中国大陸で闘いに敗れた王族、新興宗教や土着の道教・儒教等との闘争に敗れた仏教教団や得体の知れない景教、あるいは市場開拓のための国際交易商人達の新天地が扇状の島々として広がっているわけです。
日本列島は、徐福の時代(秦の始皇帝の時代=紀元前210年)から蓬莱山として方士達(呪術者の一種)に不老長寿の秘薬(朱砂)の産地として知れ渡っていたのです。
しかし、その列島には先住者達が小さな国々を経営して暮らしているのです。
日本列島は、二つの異なる生活環境が存在します。それは、名古屋以北の落葉樹林文化圏と名古屋以南の照葉樹林文化圏です。この異なる文化圏は味覚の違い(醤油・味噌の味の違い)として、現在でも存在しています。
朝鮮半島南端は、照葉樹林文化圏であるわけですから、日本列島の名古屋以南が同じ文化圏に属するわけです。そこで、列島の最初の上陸地点としては対馬列島の先にある北九州となるわけです。しかし、そこには、シャーマンの巫女が支配する国々を引き継いだ「神」を祭る部族国家があるわけです。
シャーマン(中国大陸で発明された道教的呪術者)が活躍する以前の日本列島では、縄文人の世界観による、「カミ」、「モノ」という得体の知れない偉大な存在を認識していました。その「カミ」、「モノ」は、ある時はひとびとに恵みをもたらす善の存在として、そして、時にはその逆に災いをもたらす恐ろしい存在でもあるわけです。
それは、ユダヤの神の性格と似ていますが、違うところは、ヤハウェ(太陽神信仰の古代エジプトのイクナトンの神を模倣=イクナトンの神は太陽信仰のミトラ神を模倣)ひとりが「神」として世界の全てを支配するのではなく、その「カミ」、「モノ」はあらゆる場所や物、或は空間に宿っていると信じられているところです。つまり、縄文の「カミ」、「モノ」はアニミズム(多神教)であるわけです。
縄文人の支配する日本列島は、輪廻・転生思想のインドと同じに、あらゆる「神」を、一神教の「神」のように排斥・絶滅させるのではなく、取り入れてしまう懐の深い所であったわけです。
縄文の「カミ」、「モノ」に取り込まれた、外来の神は、弥生時代の「シャーマン」→古墳時代の「神」(道教色に染まったカミ・モノ。神を「ジン・シン」と呼ぶのは中国大陸宗教思想の影響。神社は仏教建築思想から生まれた。元々「カミ・モノ」は森羅万象に存在しているから、特定の場所(神社)に鎮座するのは可笑しなことです。神社は、本地垂迹説に基づいて仏教側が敵(神)の怨霊を封じ込める場所とてして発明した。)→藤原氏支配時代の国家鎮護の「仏」→明治維新後の「神(お宮参り)・イエス・キリスト(クリスマス)・仏(葬式)」と、現在まで日本列島では受け入れられていますが、その精神的根本には、なんら変化はなく縄文の「こころ」が生き続けているわけです。つまり、現在の「日本人」が、外国の神や文化等なんでも見境なく取り入れる下地は、遥か昔の縄文人のアニミズムに原因があるわけです。
さて、紀元三世紀に出現した「神」を崇める部族が支配する「ヤマト」連合国(卑弥呼の時代。卑弥呼は魏国に、近畿地方に出現した国際交易商人連合国「ヤマト」とウソをついて朝貢した。)を攻略するには、「仏教」は有利です。
「神」側には、仏教教団のような、仏像・経典・伽藍・金ピカ法衣もありません。「神」ができることは、霊を巫女により降臨させ宣託を受け、それに随わせるか(女帝称徳天皇での道鏡事件のように)、或は化学物質や薬物を使用しての「呪術」(忍者の元祖)を執り行うかの戦術しかないからです。
そして、「神」が「仏」に敗れた最大の原因は、仏教のようになリッパな「経典」がなかったからです。(後に、「神」は仏教儀式を真似て、修験道などに変身し理論武装をしていくわけです。)では、その仏教の最大の武器「経典」とはどのようなものなのでしょうか。
江戸時代、大阪商家生まれの町儒学者の富永仲基が、法華経をはじめとする、いわゆる大乗仏教関係の経典は、すべて後世のひとによる創作物であって、釈尊の説法をアーナンダが記憶していたものではない、と「出定後語」という書籍のなかで述べました。
江戸時代は、仏教は庶民統制の道具として権力側から優遇されていたわけですから、仏教の闇を暴露するその書籍は当然無視されました。
ひとの脳力は、時空を越えてシンクロ(同調)するようです。紀元前の思想家出現ラッシュと同じに、日本国における大乗仏教仏典の疑問に後れること数十年、ヨーロッパで聖書について疑問を持ったひとたちが出現するのです。
その「仏典」と「聖書」の疑問についての流れが、二十世紀になり、「仏典」と「聖書」との共通性が指摘されるのです。その基本的疑問は、大乗教仏典と新約聖書の成立年度が前後することと、釈尊とキリストの「説教の内容」と、それぞれの「奇跡の物語構成」が同じだということです。
説教の共通点としては、「憎しみは憎まないことで乗り越えよ。」、「求める者には、だれにでも与えなさい。」、「無条件の愛を求める命令に従う者は誰でも神の子となる。(神に近づく)」等です。
奇跡の共通点としては、「荒れる水面上を歩く釈尊とキリストの奇跡」、「数人分の食事で多くの弟子のお腹を満腹にし、更に食べ残させる奇跡」等です。
国際交易商人が活躍するガンダーラで、大乗仏教は紀元一世紀に突然出現するのです。ギリシヤ風仏像が出現すると同時に、大乗仏教の経典群も同時に出現するのです。経典成立順序としては、般若経系、維摩経、法華経、華厳経そして無量寿経、阿弥陀経などですが、その中で一番古いと言われる般若経でも紀元前一世紀までがせいぜいで、多くは紀元五十年から書き始められたようです。
そして、経典についての疑問は、それらの経典は用語の使用が稚拙なサンスクリットで書かれていることです。
それに対して、新約聖書は、キリスト時代に使用されていたアラム語(シリア語)ではなく、何故にギリシャ語で書かれているのでしょうか。
釈尊は、弟子達に「教え」を、敵対宗教であるバラモン(カースト制度の祭祀階級)達の言葉であるサンスクリットで伝えることを禁じていました。釈尊が使用した言葉は、パーリ語とは少し違う「マガダ語」であったわけです。大乗仏教はサンスクリットで、小乗仏教は「マガダ語」に似ているパーリ語を使用して経典を作成しているのです。
何故、大乗経仏典はサンスクリットで書かれているのでしょうか。
どうも、国際交易国ガンダーラで紀元一世紀、突然出現した大乗仏教は、仏像もその経典群も国際的な情報をもとに創作されたようです。
仏像に関連する蓮華台とは、そもそもどこからもたらされたのでしょうか。元々、釈尊の存命の時は、仏像など存在しなかったのですから、インドのものではないでしょう。
蓮の花は、古代エジプトでは、太陽の母であったのです。蓮は日の出と供に花が開くので、古代エジプトのひとたちは、太陽は蓮の花から生まれると考えたようです。
仏像には、太陽に関するものがもうひとつあります。それは、後光の日輪です。この後光はキリスト像やイコンにもあります。さらに、キリスト教には、マルタクロス(太陽の輝き)を模倣した十字架もあります。
仏教とキリスト教は、表向きは太陽信仰ではありません。
では、何故それら太陽信仰神の象徴であるものが、それらの宗教組織がプロパガンダに利用しているのでしょうか。
そこで考えられることは、それらのふたつの宗教は、太陽信仰神の経典や物語を参考にして創作されたのではないか、と言うことです。
シルクロードは、ガンダーラから東に向かえば、中国の長安を越えて、海を渡り日本列島の奈良に辿り着けます。そして、西に向かえば、ギリシャを越えてローマに辿り着けます。そのシルクロードは、東西の物品だけではなく、文化や宗教も国際交易商人達により運ばれて行くわけです。
シルクロードは、記録上紀元前二世紀に開発されたようです。紀元前一世紀、ローマ軍はペルシャを攻撃して、シリア地域をその支配下に置きました。その時期から、絹織物がローマで爆発的な需要を起しました。なにしろ、絹(布の宝石)と金とが同じ価値なのですから。
ひとの行動を起す起爆剤は、脳の化学物質です。それらは、一般的に「欲」により産出されると考えられています。その「欲」は三つに分けられます。それらは、「性欲」「物欲」「名誉欲」です。「性欲」は爬虫類の脳(幹脳・小脳=いのち)に刺激を与えます。「物欲」は哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)に刺激を与えます。「名誉欲」はひとの脳(思い)に刺激を与えます。
これらの「欲」は、諸刃の武器となります。「欲」の本質を悟り、それをコントロールする技術を開発し、利用できるひとは、その道の専門家となります。それらは、智恵の深さによります。権力者、宗教家そして商人とは、それらの「欲」を自分たちに都合良く利用して、ひとびとをコントロールできる技術を持ったひと達であるわけです。
建前では、歴史はひとりの権力者(ドイツ共和国のヒットラーのように)により作られると歴史教科書では記載していますが、本音は、その三者の協力により創られていくわけです。
ガンダーラから東の果てのChinestan(stan=国)から絹が運ばれて来ると知ったシリアの商人達は、大挙して東を目指すわけです。しかし、そこに辿り着く前には、異教の国々があるわけです。
世間一般では、宗教を困窮するひとびとを救済する「技術」としか見ていないようですが、別の角度(異教徒側)から見ると、それはソフトな武器であるわけです。
他国を侵略するには、その国の情報を手に入れる必要があります。それには、宗教は打って付けの武器となるのです。
宗教組織の異教国侵略の常套手段は、まず貧民救済の病院を設立します。そこで、被救済者から為政者の負の情報を収集します。その慈善活動を異教の為政者に認めてもらえると、次に学校を設立します。そこで裕福なひと達のシンパを組織するのです。そのような手段で入手した侵略のための情報を、宗教組織に多大に寄付する商人に渡します。商人は、シンパの中から有能な商売の代理人を育てるわけです。そして、代理人を反体制組織員とし、支部を開設して全国的に展開するのです。後は、軍隊の出番を待つだけです。
例えば、この流れを日本国の明治維新前に当てはめれば、江戸末期、長崎の出島にシーボルト(ある宗教団体の信者)という医者が来日するわけです。彼は、一生懸命貧民の病気を治療し名声を得るわけです。そして、しばらくすると医学生を養成するために鳴滝塾という医学校を開設するのです。その学校の人脈の中から、伊能忠敬の遠縁の者と知り合うのです。シーボルトは、伊能忠敬の地図をその者と世界地図との交換で入手するわけです。地図は最大の軍事秘密であるわけです。シーボルトは、その伊能忠敬の地図を複写してオランダに持ち帰るのです。それから後、伊豆沖にペリーの艦隊が出現することは、学校の歴史教科書にあるとおりです。
ペリーの来航は、建前では捕鯨のための中継基地と水と食料補給となっているようですが、本音は、オランダ東インド会社(オランダ国ではなく実権は国際交易商人にある。)が長崎出島で独占する、絹織物、金、陶器等の貿易をすることです。明治維新後、急速に日本国が軍事大国に変身できた原因のひとつが、絹織物の輸出だったのです。
歴史は繰り返すようです。
絹織物は、紀元二〜三世紀頃に中国大陸南部からの渡来者達によりもたらされた繭(ポンビックス・モリ)による養蚕の日本列島照葉樹林地域での事業展開により、四〜五世紀の倭国は世界的生産基地のひとつとして国際交易商人達に知れ渡っていたのです。
さて、そのような宗教組織の異教国潜入戦略に基づいて、絹織物を廻って、明治維新前と同じようなことが、日本列島の四世紀から七世紀にかけての倭国で、「神」(倭国の神は、現在の神社に鎮座する「神様」ではなく、道教色に染まった呪術を使う神様。現在の神は仏教色に染まってしまっている。)と「仏」の闘いとして起こるのです。その「神」と「仏」との闘いの本質は、「自然」と「人工」と言えるかも知れません。
縄文の流れにある「神」は、爬虫類の脳(いのち)と哺乳類の脳(こころ)とにより創られた概念です。それらは、ひとの意志でコントロールできません。それは自然そのものだからです。それに対して、大乗の「仏」はひとの脳により創られた概念です。ですから、ひとの意志でコントロールすることができます。ひとがコントロールできることは、世間では「人工」と呼んでいます。
暗黒のヨーロッパでの、魔女対ユダヤ・キリスト教の闘いも、「自然」対「人工」と言えるかも知れません。その闘いの原因のひとつは、病めるひとたちの治療に対する対処の技術です。魔女は、小動物の内臓や草木での「自然」の秘薬での治療を行うのです。それに対して、ユダヤ・キリスト教は、言葉により創作した祈りという「人工」で対抗するわけです。
自然は「ウソ」をつけませんが、人工は「ウソ」を無限につけます。それにより、魔女はユダヤ・キリスト教に敗れ、聖なる「火」により火炙りにされて十八世紀に絶滅されてしまったわけです。
ひとと動物の違いのひとつは、ひとは言葉の使用により、時空を超えて「ウソ」を無限につく事ができるということです。更に、ひとは現実から逃避するために「ウソ」でも信じることができることです。ひとが、最も動物と際立つところは、他の物事や概念を模倣し、ウソの物語を創作することができることです。
小さなウソは、直ぐにバレてしまいますが、大きなウソを見抜くには、「疑い深いトマス」ほどのひとでない限り無理でしょう。
日本の古代史が面白いところは、謎(ウソ)が多く、百人いれば百通りの解釈が成立つところです。特に、大乗仏教の日本列島侵入に関しては、納得できる解釈にお目にかかったことがありません。
仏像に関する文献を探すと、「日本書紀」の推古十一年として、
皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。秦造河勝進みて曰く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。
と言うことで、建前では聖徳太子が秦河勝に仏像を授けたとの説明です。
が、しかし、聖徳太子は実在の人物ではありません。その根拠として、日本書紀には「聖徳太子」との記述は一切ありません。日本書紀にあるのは、厩戸皇子、豊聡耳皇子、東宮聖王、上宮太子、上宮聖徳法王などの名前で記述されているのです。
聖徳太子として歴史上に登場するのは、死後(?)約百年後です。
死後約百年後の登場人物として思い出されるのは、イエス・キリストです。キリストと聖徳太子の共通性は昔から言われています。
聖徳太子が厩で生まれたのは、キリストと偶然としても、少年時代の「神」を崇める物部氏との闘いは、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデの物語構成と同じです。更に、成人しても、聖徳太子と言われているのは、モーセと同じです。「太子」も「モーセ」も、「子供」と言う意味なのですから。ダビデ、モーセそしてキリストのイメージを彷彿させる聖徳太子とは、一体何者なのでしょうか。歴史教科書では解明できないでしょう。
では、秦河勝が授けられた仏像は何かと言えば、それは国宝第一号の「弥勒菩薩」であるわけです。ここでは、もう弥勒菩薩の説明の必要はないでしょう。
その仏像を安置する蜂岡寺とは、太秦寺(ウズマサ寺)つまり、広隆寺であるわけです。広隆寺では、平安時代(藤原氏の時代)から「牛祭り」の儀式を行っています。その祭りの主人公は「摩多羅神」(マタラ神・ミトラ神?)と言われています。
日本国での歴史上有名人が外国の神と共通する事績があることなど、一般のひとは信じることなどできないかもしれません。
更に信じられないことがあります。それは、日本書紀は旧約聖書を参考に創作されたのではないかということです。それらのふたつの書物は、建前では、その民族の成立ちを綴った歴史書と言うことですが、本音は、「簒奪」が共通テーマと言うことです。
そもそも、旧約聖書はどのような背景で創作されたのでしょうか。
旧約聖書物語の創作背景を知るには、渡り鳥の「カッコウ」の習性を知ると理解し易いでしょう。
カッコウは、時代によりその名が変化しているようです。奈良時代は「カホドリ」、そして、平安時代は「ハコドリ」或は「カンコドリ」と呼ばれていたようです。その習性から「冥土の鳥」と言われているように、他の鳥と異なる習性(行動マニュアル)を持っています。それは、自分の卵を他の小鳥の巣に産みつけ繁殖していくのです。
その習性は、自分の卵に一番似通った卵を産んだ小鳥の巣を探し、その親鳥の一寸した隙に卵を産み付けるのです。その産み付けられたカッコウの孵化は他の卵より早く、それだけ他の雛より成長が早いのです。そこでカッコウの雛は不可思議な行動をするのです。それは、親鳥が不在の時を狙って、他の卵や雛を巣から一匹一匹と親鳥に気付かれないように排除してしまうのです。最後に残るのは、カッコウだけです。それとも知らない、親鳥はセッセとカッコウの雛を成鳥するまで育てるのです。
イスラエルの十二部族と言われるのは、後世の創作です。本音は、ヨセフを先祖とする部族、つまり、ヨセフの息子のエフライムとマナセの二部族だけが、いわゆるイスラエルと呼ばれた地方に移り住むようになってからが、イスラエル部族の誕生です。
その二部族に、エジプトの太陽信仰アトン(紀元前十四世紀エジプトを統治していたイクナトンの神)の信仰が広まり、その信仰に同調する他部族がしだいに集まることにより十二部族(八世紀にカザール民族を加え十三部族と言われています。)となるのです。そして、アトンの神は、どういう訳かヤハウェに変身して行くわけです。
そのエフライムとマナセの部族、つまりイスラエル部族の巣に、カッコウがやって来るのです。そのカッコウとはレビ族です。そのカッコウが産んだ卵から孵った雛が、アロン(祭祀者・頭に油を注ぎ王様を誕生させる部族。日本国で言えば中臣氏か。)であり、モーセ(立法者・自分達部族に都合の良い法律を作るひと。日本国で言えば藤原不比等か。)であるわけです。そして、その末裔がダビデであり、ソロモンであるわけです。
では、元々の巣の雛たちであるエフライム部族達はどうしたかと言うと、簒奪者ソロモン王が死ぬとすぐに、エフライム族を頭に十部族が、ベニヤミン部族を残して、ユダ族と決別し、イスラエル王国を創るわけです。しかし、そのイスラエル王国も、紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、真性イスラエルの十部族は歴史から消え去ってしまうのです。
後に残ったのが、レビ族の末裔であるユダ王国です。その王国も紀元前六世紀にバビロニアに滅ぼされてしまうのです。
旧約聖書物語とは、読む角度を替えれば、エフライム部族の歴史を基本に、後から参入したレビ族が、カッコウのように少しずつ敵対部族を抹殺し、イスラエルの王権を簒奪したことを隠すために創作されたものとみなすこともできます。
この簒奪物語のストーリを日本書紀に当てはめて、敗者側から眺めてみると、日本の歴史がガラリと変化して見えてくることでしょう。
古代史を知ろうとするひと達が史料とする重要なバイブル的書籍は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。しかし、物の見方を少しずらしてみると、「日本書紀」とは可笑しなネーミングです。
倭国、或は日本国は、文化の輸入先として中国大陸の国々を選択していました。その中国大陸の国々の史書には、その書籍の体裁により、「書」と「紀」との区別をつけていました。「書」とは、帝紀や列伝を備えた紀伝体の歴史書のことを言うわけです。それに対して、「紀」とは、編年体の歴史書のことを言うわけです。
そのような書籍の体裁により「書」と「紀」とを分けているのに、日本国の国史は「日本書紀」となっているのです。書籍の体裁からすれば、「日本紀」が正しいのではないでしょうか。
その日本書紀は、「続日本紀」によれば、「紀三十巻系図一巻」とあるようですが、系図一巻は今日には伝わっていないようです。では、その現存する三十巻はどのような構成で書かれているかといえば、神代上・神代下・神武・綏靖〜開花・崇神・垂仁・景行〜成務・仲哀・神功・応神・仁徳・履中〜反正・充恭〜安康・雄略・清寧〜顕宗〜仁賢・武烈・継体・安閑〜宣化・欽明・敏達・用明〜崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武上・天武下・持統となっているわけです。
このように、神代から持統天皇まで記述されている書籍を太平洋戦争敗戦までは、日本国民の大多数が史実として信じていたのです。では、昔から史実として信じられていたかと言うと、そうとは言えないようです。
江戸時代、大名貸の升屋の山片ばんとうは、記紀について、
「文字ノ出来ハ国ノ開クルナリ、文字ナケレバ開ケザルナリ。」と考え、
日本へ文字渡リシコトハ、応神天皇ノ御宇ニシテ、ソノ後ノコトハ事実明白ナリ、ソレマデノコトハ、口授伝説ニシテ実ヲ得ベカラズ。日本紀神代ノ巻ハ取ルベカラズ、願クハ神武己後トテモ大抵ニ見テ、十四五代ヨリヲ取リ用ユベシ、然リト雖モ、神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ、応神ヨリハ確実トスベシ。
江戸後期には、天皇を裏でコントロールしている藤原氏の勢力も微弱で、九州南端や山口県南端で隠棲していたので、そのような大胆な事も堂々と発言できたのです。それから百数十年後の太平洋戦争敗戦前、その論説と同様なことを「神代史の研究」で発表した津田左右吉は、「皇室ノ尊厳ヲ冒スル文章ヲ著作シ」ということで有罪を宣告されてしまったのです。
明治維新で、藤原氏が復活し、それに伴い、江戸時代に京都で隠棲していた天皇家も復活するわけです。と同時に、八世紀に、藤原不比等によりプロデュースされた、江戸時代に「古事記伝」四十四巻を創作した本居宣長に「唐ごころ」に染まっていると言われた「日本書紀」も、十九世紀の明治維新で「大和ごころ」として復活するのです。
では、なにを目的に日本書紀が創作されたのかと言えば、それは天皇という君主の正当性を保証するために作られたわけです。天武天皇(新羅の王族金多遂)のお妃の持統天皇(百済系天智天皇の娘)が、日本国の正当な天皇である、と言いたいのです。
では、第一代天智天皇、第二代天武天皇そして持統天皇である「雛」を育てた「巣」は、元々誰が作ったのでしょうか。中学生向けの歴史教科書には、日本国において天皇が誕生する経緯を次のように記述しています。
聖徳太子(厩戸皇子)の死後、蘇我氏の勢力はさらに強くなり、ほかの豪族も蘇我氏をおそれた。中国では、唐が強大な帝国となり、朝鮮半島の諸国に大きな影響をおよぼしていた。中大兄皇子や中臣鎌足は、天皇中心の政治のしくみをつくるため、645年に蘇我入鹿とその父蝦夷をたおした。
そのころ朝鮮半島では、唐と新羅が百済をほろぼそうとしていた。朝廷は百済に援軍を送ったが、白村江の戦いで大敗した。そこで、朝廷は西日本の守りをかため、都を大津に移した。中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
天智天皇の死後、その弟と子の大友皇子が天皇の位を争い、豪族をまきこんだ大戦乱となった。勝利した弟の大海人皇子は、即位して天武天皇となった。天武天皇は、みずから政治をおこない、唐にならって律令にもとづく政治のしくみをつくろうとした。またこのころ、天皇は「大王は神である」と歌われ、天皇の称号が正式に使われるようになった。
学校の歴史教科書によれば、日本国の天皇が誕生する前の「巣」の所有者は、どうも「蘇我氏」ということになるようです。では、その蘇我氏とは一体何者なのでしょうか。再び、歴史教科書に戻り時代を逆行してみます。
六世紀頃、勢力をのばしてきた大臣の蘇我氏は、渡来系の豪族と結びつき、仏教をさかんにしょうとした。六世紀末には、仏教の受け入れに反対する大連の物部氏をほろぼし、政治の実権をにぎった。さらに蘇我氏は、蘇我氏に対立する天皇を殺害した。
かわって即位したのが、女帝の推古天皇である。推古天皇は、593年においの聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とした。聖徳太子は、蘇我氏とともに新しい政治をおこなった。聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。
学校の歴史教科書では、理論整然と日本国における天皇の誕生を説明しています。しかし、別の角度からの情報と照らし合わせてみると、その説明には「ウソ」があるようです。
「ウソ」の第一は、「本朝皇胤紹運録」によれば、弟である天武天皇が天智天皇より四歳年上であるということです。第二は、聖徳太子など実在の人物ではないのですから、蘇我氏とともに新しい政治などできるわけはないでしょう。
そのような「ウソ」を無視して、想像力を使って眺めてみると、渡来系騎馬民族の蘇我氏が渡来系の氏族(蘇我氏をバックアップしたのは突厥の皇子タルトウで、それが聖徳太子のモデルと言われている。)をバックに、海洋系民族連合軍の物部部族を倒し、六世紀に飛鳥の地を統治していた「大王」であったのだろうということです。
しかし、六世紀に忽然と現われたその蘇我氏の出自は、九世紀に突然天下人となり、十ニ世紀には壇ノ浦から忽然と消えた「平氏」のように、どこから来たのか分らないのです。
しかし、ヒントはあります。それは、大乗仏教にあります。騎馬民族系の蘇我氏が、倭国に大乗仏教を持ち込んだという事実は、その出自は中国大陸の可能性が大です。中国大陸での騎馬民族は、農耕民族である漢民族の儒教文化に対抗するために、北魏のように大乗仏教を武器としていたわけです。トルコ民族の言伝えでは、中央アジアにいたトルコ民族(遊牧系チュルク人)は大昔東西に分かれた。西に向かったのが現在のトルコで、東に向かったのが日本人(トルコ系日本人=胡の付く村に住む)となった、と言われています。
日本列島には、元々馬が生息していなかったのに、五世紀に馬が出現するわけです。では、その馬はどのようにして、日本列島に辿り着いたのかと言えば、それはひとと一緒に渡来したわけです。
日本列島は海に囲まれているので、一般的に孤立していると考えられているようですが、それは間違えです。日本列島は、大昔から、海の道(海流)を交通手段として国際的なのです。
中国の史書によると、倭人は自分達の出自は、呉であるとし、又、習俗の刺青や断髪や海に潜り漁をすることは越のものと同じであると記述しています。呉も越も海洋民族で、大きな構造船で近隣諸国と貿易或は戦をおこなっていたのです。その呉は紀元前473年、越により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。その子孫が九州に辿り着き弥生文化を伝えたわけです。それから約百四十年後の紀元前334年、越は楚軍の侵略により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。
越の子孫が日本列島に辿り着いた時には、中国大陸で敵対していた呉の子孫が九州に倭国を作っていたので、日本海を黒潮に乗りさらに北上し、能登、新潟、津軽、北海道そして太平洋を南下して、陸奥、常陸などに上陸し国を作るわけです。そのように、丸木舟ではなく、大量の荷物を輸送する構造船は、弥生時代の日本列島と中国大陸とを海の道により行き来していたのです。歴代の中国皇帝の魔除けの翡翠は、日本国の糸魚川産であることからでも分るように、昔から、日本列島は海の道により国際的であったことが理解できるでしょう。
そのように四方を海に囲まれた日本列島は、縄文時代の昔から海の道により近隣諸国の天変地変や争乱の影響を強く受けていたのです。
では、六世紀に近畿地方を支配していた蘇我氏の前の情勢はどのようであったのでしょう。再び、歴史教科書により時代を逆行してみましょう。
三世紀の末頃、大和や河内の地域には、とくに巨大な古墳が数多く見られる。これは、この地域の豪族たちが連合して強力な政権を作っていたためと考えられる。この政権を大和政権という。大和政権の王は大王といわれた。大王が政治をおこなう場所を朝廷という。大和政権は、しだいに吉備(岡山県)・出雲(島根県)・筑紫(福岡県)・日向(宮崎県)・毛野(群馬県・栃木県)などの地域の豪族をしたがえていた。
歴史教科書によれば、大和朝廷は大和の地の中央に鎮座して、地方の豪族を従えていたように記述しています。では、大和朝廷は、どのような生産手段で、そのような広域の豪族達を養っていたのでしょうか。山々に囲まれた大和地域には、農作物や物品を全国に供給する程の生産力はないのです。
大和の地は、縄文時代から交易のメッカで、地方の物産が集まる地であったのです。ですから、地方の豪族は、大和の地に支店を出していたのです。その各地方の支店の連合会が「大和政権」と言われている実態です。
やがて四世紀には朝鮮半島で、百済や新羅が勢力を増して、日本列島に進出してくると、日本列島に点在する豪族達は、百済系と新羅系とに収束していくわけです。
やがて、「大和支店」の勢力圏は、交易の利害関係や中国大陸や朝鮮半島の政治情勢の影響で、西の葛城と東の磯城との対立に発展し、その流れが、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫→百済(海洋系)の系列となり、それに対抗して、磯城→山城→近江→越・若狭→出雲→新羅(騎馬系)の系列となるわけです。その部族間の流れは、百済国や新羅国を中継基地として中国大陸の国々との交易のルートとなり、物や文化或は部族が行き来するわけです。
日本国の歴史を、教科書を基に三世紀から六世紀までをみてきたわけですが、一寸気になることがあります。それは、中国大陸の物や文化あるいはひとの流れが、朝鮮半島だけからのようだからです。本当に、中国大陸からの日本列島へのルートは、朝鮮半島を経由して北九州または出雲だけなのでしょうか。
中国大陸の南北朝の対立時代の512年に勃興した「梁」の国史「梁書」によれば、扶桑国(北海道南端の国)は北魏(南朝の儒教文化に対抗して大乗仏教を国策として保護していた。)と交通して、北魏の首都洛陽には扶桑館が立てられ優遇されていたとの記述があります。扶桑国は越の末裔の海洋民族国で、敵対する呉の末裔が北九州に倭国を立て南朝と交易していたので、北朝の北魏と海の道により交易をしていたわけです。
更に、日本書紀によれば、蝦夷の部族長アテルイの敗北による王化までは、集団で馬を駆使し短い弓矢を使い、蕨刀(ペルシャの腰刀か)を振り回す(この戦い方は、正に西アジアの騎馬民族の戦法です。)蝦夷(えみし・髭のあるエビスの意味・中東遊牧民族)が住む文化のない野蛮な未開の地、と記述されている東日本の日本海側には、野代(能代)、出羽(秋田)、佐渡、福良津(能登)などの港が、北魏との交易ルートとして確立されていたのです。
何故、日本書紀は、六世紀における中国大陸の国々と東日本の国々との交易の「歴史」を抹殺したのでしょうか。
それは、七世紀に誕生した「日本国」を裏でコントロールした、日本書紀をプロデュースした藤原不比等の戦略によるようです。
それは、藤原氏の出自を、蘇我氏と同じに知られたくなかったからのようです。
藤原氏の誕生は、645年の大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原不比等の父)が、蘇我氏を滅ぼしたその活躍により天智天皇から「藤原」の姓を賜ったからとの説明です。(この説明は、旧約聖書の創生期第三十二章のヤコブがイスラエルになった物語を彷彿させます。)
しかし、大和の地で大化の改新(乙巳の変)などなかったのです。野史(官製ではない歴史。敗者の歴史)によれば、それは朝鮮半島での争乱だと説明しています。だとすれば、日本国の誕生から現在までの国策に影響力を「裏で」発揮する藤原氏の先祖は、一体どこから渡来して来たのでしょうか。
それが解明できれば、この国におけるヒンズー教化している大乗仏教を利用した政策的イジメの「穢多」(人間以下の下層階級・日本的カースト制度)の発生の謎、そして、祭りの神輿に向かって「水」又は「塩」を振り掛ける意味が理解できるかもしれません。
元々この国には、大乗仏教が騎馬民族の蘇我(ワレハミナモトの意味)氏と伴に中国大陸から五世紀に、農耕に適した照葉樹林文化圏の北九州ではなく、狩猟牧畜に有利な落葉樹林文化圏の東日本へ侵入してくる前には、「穢多」の差別思想などなかったのです。
古代インドでヒンズー教化してしまった大乗仏教は、白人種のアーリア系民族が有色人種の非アーリア系土着民族を統治するために発明した呪縛思想のカースト制度を、その教義に取り入れ布教したことにより、わが国の藤原氏が支配する平安時代末期に、「穢多」の思想が庶民に流布されていくわけです。そして、この呪縛は、現在まで生きていて、小学生の「イジメの素=エンガチョ」となっているわけです。
「ブッダのことば」(大乗仏典にあるブッタの言動は後世のひとが創作したものです。)の中には、騎馬民族や狩猟民族の生活基盤を根本的に否定する「教え」が沢山あります。
「生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者、おまえは地獄に堕ちる者だ。」
「生きものをみずから害してはならぬ。また他人をして殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。」
「この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、かれを賎しい人であると知れ。」
大乗仏教の釈迦は、殺生を禁止し狩猟を嫌悪し、猟人、漁師、肉を売買する人々(セダラ)を最も卑しい人々と考えていたようです。そのような倫理観で屠殺に従事するセダラは、低い倫理観しかない人々の集団と位置づけられていくのです。つまり、大乗仏教の釈迦が殺生戒の内容を充実させていくにつれ、セダラ差別が深まっていくのです。そこで、ウソも方便で、僧が食べる肉を「浄肉」とし、セダラの食べる肉を「穢れた肉」との差別思想を発明するわけです。浄、不浄は相対的なものです。(カミ・モノが支配するこの国には、元々浄・不浄の区別などなかったのです。仏教で不浄とされる便所(仏教徒は御不浄と言う。)にも「便所のカミ様」が鎮座していたのです。)僧は、そのようにセダラを見下し、「三浄肉」つまり、動物を直接殺すのを見ない、動物の刹那のうめき声を聞かない、疑わないの三要素を含んだ肉を食べることは、殺生戒を犯したことにはならない、などの方便を発明するのです。
そのような、農耕民族の生活基盤に立って考え出された大乗仏教の殺生戒は、狩猟民族、牧畜民族或は漁労民族には、とんでもない思想なのです。
はっきり言ってしまえば、新生「日本国」における「穢多」の差別思想の布教は、「騎馬民族」を貶めるためのものです。大乗仏教を利用して、騎馬民族と他の民族とを隔離して、壊滅させることが、騎馬民族の蘇我氏の王権を簒奪した民族の戦略なのです。
では、どのような戦術で、「穢多」の思想をこの国に広めたのでしょうか。
古代インドでのカースト制度は、数百年の歳月を費やして「完成」したものです。この国のカーストの差別思想も、平安時代末期から約六百年も費やして、ようやく江戸時代に「完成」したのです。
では、誰がその差別思想を創作し、誰がその差別思想を実行し、どのようにして広められたのでしょうか。
そのカラクリを述べる前に、もう一度この国の歴史の流れの大筋をお浚いしてみましょう。
縄文人が、呉の子孫と北九州で遭遇したのが、紀元前二三世紀のようです。やがて、呉の子孫が北九州に倭国を作るのが一世紀頃です。そして、倭国の女王が魏に使いを送るのが三世紀です。そのころ朝鮮半島で高句麗、百済そして新羅が次々と建国し、日本列島に交易のために進出してくるわけです。そのころにはまだ「日本国」は誕生していません。
中国大陸からの亡命者や交易商人達が、日本列島各地に集落を作り、そこで力を蓄え、縄文時代からの交易地「畿内」をめぐって争奪戦を行うわけです。やがて、国際交易商人連合会が大和にできるのが四世紀頃です。その連合会で有利な立場をとったのが百済国の商人です。北九州の倭国は、百済と同じ海洋民族で、距離的にも近いので友好国として百済人をバックアップしたわけです。その交易ルートに対抗して、新羅は、出雲や敦賀などの別ルートを開拓して畿内との交易を行うわけです。日本列島からの主な交易品は、絹、朱砂、金、銀、銅、翡翠そして奴隷などです。
日本列島各地から出張してきた中国大陸出身の支店長が亡くなると、交易で儲けた莫大な資金で、競って大きな墓を作るわけです。その集大成である前方後円墳は、北九州、出雲、吉備、畿内そして北関東の五つの地域の埋葬文化を集合させたものです。それを歴史書は天皇の墓と言っています。実際に、天皇が誕生するのは七世紀なのです。
五世紀になると、その畿内に突然、九州からの西方ではなく、関東から騎馬民族が現われるのです。それが、「ワレハミナモト」の意味の「蘇我氏」です。蘇我氏は、中国大陸から馬を連れてきた渡来者で、北関東で勢力を張っていた民族です。
そして、蘇我氏は、飛鳥の地に石を多用して水をモチーフにしたペルシャ式庭園などを作り、畿内の「大王」として君臨したのです。君臨していたと言っても、騎馬民族の政治は、合議制なので独裁的ではなかったでしょう。それは、生活様式が関係しているようです。移動式テントのパオの中で車座になって議論をすれば、皆の意見が同等になるからです。それに、騎馬民族は、海洋民族と同じに漂泊性のため、土地に執着することもないからです。
蘇我氏は、中国大陸出身なので、同じ騎馬民族国家「随」や「唐」と交易を盛んにするわけです。
七世紀になると、俄かに政局が激変してくるのです。それは、朝鮮半島での新羅の動きです。三韓の内で一番弱小だった新羅が勢いを増して、百済を攻めたからです。更に、百済にとって最悪は、唐も新羅と共同戦線で攻めてきたからです。
それに対応して、日本列島の畿内で革命が起こるのです。それは、百済系民族による蘇我氏の壊滅作戦です。(歴史ではこれを大化の改新と言っている。)敗れた蘇我氏は、元の勢力地の北関東へ敗走するわけです。
蘇我氏の政治は合議制なので、色々な部族とも友好関係を保っていたわけです。物部氏もそのひとつです。物部氏は、海洋民族の連合民族で色々な部族が混成していたのです。蘇我氏と伴に戦った物部氏は、敗れて後、外物部氏(中央にいるのは内物部氏)と言われるようになるわけです。その外物部氏は伊勢に逃げ込むわけです。
畿内での革命が成功して、北九州の同盟国倭国の海軍と百済救済に赴いても、唐・新羅軍には太刀打ちできず、663年白村江の戦いで、倭国と百済軍は壊滅し、倭国も百済国も歴史から消えてしまうのです。
日本の歴史書では、中大兄皇子(百済国の王子)が668年大津に都を移し、天智天皇として即位した、となっています。そして、七世紀末に、中国の歴史から倭国が消え、それに替わり、日本国が登場するのです。
敗戦国移民の百済系民族に、チャンスが訪れるのです。それは、同盟国の唐と新羅が戦争を始めたからです。唐は、百済を壊滅させ、次に高句麗を攻めるのです。その唐と高句麗の戦いの最中、新羅は、朝鮮半島から、唐軍を追い出し、半島統一国「新羅国」となるわけです。日本国と半島統一新羅国はほぼ同時に建国したわけです。
現在の日本人(百済系日本人)が、韓国人(新羅人)を蔑視する原因のひとつが、ここ(新羅国が百済国を滅ぼしたこと。)にあるのです。
白村江の戦い後、唐の日本列島進駐軍は、新生日本国で、百済系日本人に肩入れし、敵国移民の新羅系日本人を追い落とそうとするわけです。それに対抗して、新羅の王族金多遂(大海人皇子)が、伊勢の外物部氏(海洋民族・赤旗)と関東の蘇我氏(騎馬民族・白旗)の残党の力を借りて、近江朝の百済政権に戦いを挑むわけです。これを、歴史教科書では、壬申の乱と言っています。この戦いに勝って、大海人皇子が天武天皇として即位するのです。
そして、蘇我氏の元の都「飛鳥」に都を建設するわけです。そして、戦いの功労者の外物部氏の伊勢の神社を天武朝の神として祭るわけです。(しかし、第五十代百済系桓武天皇になってから伊勢神宮にお参りしていないのは何故か。そして、約千年後の明治天皇になってからお参りが復活したのは何故か。)
新生日本国の大王となった天武天皇は、百済系日本人を中央から追い払うのです。このことが後の世で、新羅系日本人(騎馬民族)が、藤原氏にコントロールされた百済系桓武天皇からイジメられる原因のひとつにもなるのです。「奢れる者久しからずや。」
やがて、天武天皇が亡くなられると、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が朝廷に返り咲くのです。それと同時に、百済系日本人の地位が向上し、それに反して、新羅系日本人は中央から追い出されてしまうわけです。
ここから、天武天皇系人脈と天智天皇・藤原氏人脈との熾烈な戦いが始まるのです。
七世紀の中頃突然日本の歴史に現われた「カッコウ・藤原氏」は、天武天皇家の巣に入り込み、その人脈がひとり、またひとりと消されてしまうわけです。そして、天武王朝は八世紀後半に、奈良の大仏建立を発案した聖武天皇(神輿の元祖)の子供の称徳天皇の代で滅びてしまうわけです。
では、誰が、天武天皇系・新羅系日本人のイジメ方を考え、そして実行したのでしょうか。
日本国の王権の簒奪方法を、旧約聖書を参考にして推測すれば、出自不明の「レビ族」が「藤原氏」、頭に油を注ぐことにより王様を創る祭祀の「アロン」が外物部氏の伊勢神宮を簒奪した「中臣氏」、自分の部族に都合の良い法律を作る「モーセ」が大宝律令を創作した「藤原不比等」、では、エフライム族のイスラエルを乗っ取り自国のエルサレムに神殿を勝手に作った「ダビデ」は一体誰になるのでしょうか。
それは、日本国のダビデは藤原仲麻呂(恵美押勝)の他には考えられないでしょう。
藤原仲麻呂は、天武天皇の皇子で藤原氏よりの舎人親王の子供の大炊王を息子の嫁にあてがうことにより、養子のように囲い、王として即位させ、この王が即位した後、天皇から「父」と呼ばれるようにした。(天皇に女をあてがうのは、藤原氏の伝統のようです。)
更に、藤原仲麻呂は、仲麻呂一家で太政官を独占してしまうのです。太政官とは国政の最高機関で、天皇の決済のための御璽(ハンコ)をあずかり、業務をおこなう役人です。つまり、天皇は飾りで、実務は藤原仲麻呂一家が取り仕切っていたわけです。
更に、藤原仲麻呂は、天皇からお金を鋳造する権利と仲麻呂の私邸に印(恵美家印)を持つ権利を与えられるのです。これはどういうことかと言えば、仲麻呂家が国家そのものと言うことです。
そのような独裁的性格の藤原仲麻呂の先祖は、中国からの渡来者で合議制で政治を行い、諸外国(特に新羅国)と全方位外交を行う蘇我氏の存在が邪魔であったわけです。
そこで、藤原仲麻呂は、蘇我氏の先祖を貶めるために、皇后に言い寄ったなどのデタラメ物語を挿入し、日本書紀を改竄するのです。更に、蘇我氏や新羅系日本人を貶めるため、それらの歴史的人物に蔑称を付けるのです。
それらの蔑称は動物の名を付けることです。(動物・鳥・魚・昆虫の名前を付けられた氏族は、蘇我氏系か新羅系のひとのようです。)蘇我氏や新羅系のひとには動物の名前、例えば蘇我馬子、蘇我蝦夷(エミシ=エビのようなヒゲのあるエビスの意)、蘇我入鹿などです。その祖父と子供の名前の一字を合わせると「馬鹿」になるように、日本書紀等の歴史書を改竄して手の込んだイジメをするわけです。
そのかわり、高句麗人や百済系人などは、朝鮮名を隠し日本名(勿論日本名藤原の前は朝鮮名です。)にするわけです。そして、藤原仲麻呂は、新羅系天皇に対抗するため、藤原氏を高位におく系図集の「氏族志」を創作するのです。
更に、日本書紀は、新羅系天武天皇の命令で創られたとのトリックを考えるのです。その内容はまったく逆で、百済系天皇に有利に、そして、蘇我氏・新羅系天皇には不利なものとなっているのです。
そのように暴虐不仁の藤原仲麻呂の行動に対して、天武天皇の血が流れている聖武天皇は黙って見ていたわけではありません。天平十二年(740年)、九州の藤原広嗣の乱のさなか平城京から姿を消し、伊勢神宮に行くのです。その頃の伊勢神宮は二派に分かれていて、元々の外物部氏の社(海洋民族の神天照・アマテルと天武天皇の神を祭る)と藤原氏の息のかかった中臣氏の社(中臣神道の儀式はユダヤ教の臭いがする。灯篭にダビデ紋がある。)とがあるわけです。外物部氏は天武天皇派で反藤原氏(反仏教)です。
藤原氏に支えられている百済系役人達に、中央から追い落とされた蘇我氏や新羅の騎馬系民族の人々や外物部氏の海洋系民族の人々は、農奴となるのを拒否して表の世界から闇の世界に入っていくわけです。つまり、仏の敵「鬼」になるのです。しかし、農奴になったもの達は関東に屯田兵として送られ、「夷を以って夷を制す」の戦法の道具として、蝦夷討伐の尖兵とされてしまうのです。この子孫が、後の源氏(白旗)や古平氏(赤旗)の武士となるのです。
もともと鬼の素性は、騎馬民族と海洋民族の子孫であるわけです。つまり、漂泊する非農耕民族であるわけですから、藤原氏などの貴族(律令制度で発明された王権側の奴隷)に農産物を貢かず、政府に反抗する鬼達は、「やくさぬもの」、つまり、役に立たないもの、アウトサイダーの「ヤクザ」との烙印を押されてしまうのです。
その鬼が反藤原闘争を企てる聖武天皇と接近するのです。そして、鬼(部落の宿神)が天皇を「裏で」支える見返り(天皇の宿神)として、鬼達は通行の自由、税、諸役の免除などの特権を得るのです。この流れから、江戸時代、穢多頭の弾左衛門が支配する芸能民、勧進、遊女、鋳物師、木地屋、薬売りなどの「歩き筋」と言われる非農耕民達は税が免除されていたのです。
その聖武天皇が、巨大寺院の東大寺建立を発願するのです。それに対して、鬼達(反体制派の騎馬系や海洋系の漂泊民)の故郷である陸奥の国から、大仏塗金の材料として大量の黄金が寄進されるのです。しかし、王御宝(おおみたから)の体制派の農耕民族には過度の負担を負わせたため、政治が混乱するのです。
では、何のための大仏建立なのでしょうか。そのような体制派の農耕民族を苦しめる大仏建立は護国のためだけではないでしょう。それは、聖武天皇の真の狙いは、平城京を見下ろす丘の上にある藤原氏の春日大社や興福寺(この二つの建物は、鬼との戦いの時は砦となる戦略的建築物。)を、ルシャナ仏(太陽の神/日本国では「大日如来」と言われているが、実体は「遍照鬼」で、インド正統派のバラモン教系の神格ではない、被征服民族の救世主。古ミトラ神の化身か?この東大寺を、平安時代に、海洋民族の百済系平氏=桓武平氏=インド系庸兵団が焼き討ちで全焼させ、後の鎌倉時代に、騎馬民族で太陽信仰の新羅系源頼朝が再建するのです。)で封じ込めるためではないかということです。何故ならば、東大寺が、そのニ寺を見下ろす山の上に建立されているからです。
その東大寺建設に対して、藤原仲麻呂は何度も妨害するのです。そして、やっと天平勝宝四年(752年)に東大寺が完成すると、鬼達は、聖武帝の常輿のほうれんをもってお祝いするのです。これが神輿のルーツと言われているものです。つまり、神輿は「鬼達の神」を祭るものだったのです。
東大寺の大仏開眼の後、756年聖武天皇は亡くなり、騎馬民族天武朝最後の女帝孝謙天皇(聖武天皇の娘)が、藤原仲麻呂との闘争を、父聖武天皇から引き継ぐのです。
孝謙天皇の基本的考えは、「事としいわば、王を奴となすとも、奴を王というとも、汝の為んまにまに。」の言葉に表れています。孝謙天皇は、鬼達の力を借りて、764年宿敵藤原仲麻呂を滅ぼすのです。
旧約聖書における簒奪物語は、ダビデの死後、正当な後継者から祭祀アロンと結託したソロモンはダビデの王権を簒奪し、そして、エフライム族達の正統派イスラエル民族をエルサレムの神殿から追い払い、その財宝を独り占めするわけです。
これが原因で、ソロモンの死後、イスラエル王国と、ユダ国に分裂するわけです。その時、旧約聖書は、エフライム族からレビ族の物語に改竄されるのです。この時にはまだ旧約聖書のモーセの五書は創作されていません。それが創作されるのは、ずっと後の紀元前六世紀から紀元前五世紀の間になるのです。
ダビデの王権を不正な手段で簒奪したソロモン王を日本国に求めると、それは、天武王朝の簒奪者百済系桓武天皇となるでしょう。「桓」とは「韓」で、「武」とは「王」の意味で、桓武天皇とは、「韓の国の王」と言う意味です。
藤原百川の陰謀の助けによりの簒奪者百済系桓武天皇が、新羅系天武天皇が発明した伊勢神宮での世襲儀式の「大嘗祭」を止め、百済系王族を交野に集め、中国式の「封禅の儀」を執り行うのです。そして、桓武天皇以降、明治天皇が即位するまでの約千年間、歴代の天皇は伊勢神宮に参内していないのは、桓武天皇から天皇の血筋が替わったことを意味していると言えるでしょう。つまり、天皇家の万世一系は神話だったのです。
更に、平安京へ遷都した桓武天皇は、その時、今までの完全な漢音式ではなく、倭国の故郷の中国江南地方の「呉音」で祝詞を奏上したのです。ここに、京都「小中華帝国」が出来上がるのです。
そして、桓武天皇はインド系庸兵団(後の桓武平氏の祖先。外物部氏は同じ海洋民族でもその出自が異なるため古平氏と言われる。氏名があるのが古平氏で、インド系傭兵団の子孫の桓武平氏は、「平の何某」と明記され氏名がない。)の軍事力を、桓武天皇のバックスポンサーである唐国が求める金、銀、銅、水銀、朱砂などの鉱物奪取の目的で東北侵略に向けるのです。
唐国の経済を支えていた「絹」は、六世紀に、西域の修道院僧により「繭」が盗まれたことにより、そして、その絹織物の製法も盗まれたことにより、七世紀中頃にはヨーロッパでの需要は激減してしまうのです。その結果、唐国の経済を支えていたシルクロードの交易は日に日に衰えていくわけです。そのような影響が、唐国、新羅国を通して、絹織物生産国の日本国の社会にも影響を与えるわけです。
では、この頃の日本国の情勢について、教科書の歴史はどのように述べているかをみてみましょう。
奈良時代も後半になると、天皇の後継者をめぐって貴族の争いがはげしくなり、政治が混乱した。そこで、母が渡来系の子孫である桓武天皇は、794年に今の京都の地に新しい都をつくり、ゆらいできた律令政治を立て直そうとした。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでのおよそ400年間を平安時代とよんでいる。桓武天皇は、都づくりと東北地方の蝦夷支配に力をそそいだ。
貴族の争いとは、天武系と百済・唐系との争いということで、当時の先進国唐国のバックがある百済系貴族は、百済系でない者を、「百済ではない。」、つまり「クダラナイ」と言うことで、新羅系貴族を中央から追い落としていくわけです。そして、桓武天皇は、百済系貴族に不利な書物を焚書し、日本書紀を改竄し、そして、続日本紀を編纂するのです。
それらの歴史改竄により、現在の日本人は、飛鳥時代、そして奈良時代の実体を知ることが出来なくなってしまったわけです。
更に、桓武天皇は、天武朝系の聖武天皇の遺品を納めた正倉院の保管物を適当に処分することにより、天武朝の北方騎馬文化の臭いを消してしまうのです。
正倉院とは、正倉つまり重要物品を納める蔵が幾棟も集まった所を言うのです。その正倉院には、756年に没した聖武天皇の遺品が納められていたのです。その中に、北の果ての地方豪族が乗るような馬の装具が十具あったのです。これはどう言うことなのか。(平安時代の貴族は、牛を交通手段として利用し、馬(騎馬文化)を蔑視していたので、天皇が馬に乗るなどの発想はなかったのです。)
更に、正倉院の建築方法から、前史の謎解きができるのです。
正倉院は湿気を防ぐための校倉造りで造られているから、それは当然南方系の建物かと思われていますが、実は、中央アジアの遊牧民族スキタイ族の冬の住まいがルーツであるわけです。遊牧民族の建物は、移築可能な組み立て式で、移動が簡単にできるようになっているのです。その正倉院に保管されていた物の中に、不思議なものが多くあるのです。ペルシャ地方の王様をかたどった面の「酔胡王面」、パミール高原の少数部族が使用するワッチ太鼓の「くれの鼓」、そして中国から出土していないカスピ海周辺で制作された「白瑠璃椀」など、西域地方の物品が多数あるのです。
平安時代、文化の面でも、北方系ルーツの伎楽を止め、インドから東アジア経由の雅楽を宮廷音楽とするのは、北方系文化抹殺の手段なのでしょう。
そのように、北方騎馬文化が前史にあったことがバレルと、騎馬民族の蘇我氏が「大臣(臣とは奴隷という意味)」ではなく、実は「大王」であったことが知れてしまい、その結果、後のひと達に、百済王朝が簒奪王朝だと知れてしまうからです。
特に、仏教伝来のストーリ、538年百済王聖王が仏像・経巻を倭王に贈り、「未開の野蛮人の倭人を教化した。」が崩れてしまうからです。
504年に、中国の南梁に渡った北倭国僧慧深の記事が「梁書扶桑伝」にあります。北倭国僧慧深の北倭国についての説明によれば、北倭国は、山陰・北陸の文身国、伊勢・美濃一体の女国、そして相模・武蔵の大漢国に分かれていて、それらを統治していたのが扶桑国(北海道南端の国)であるということです。その扶桑国には、馬車や鹿車(トナカイのソリか?)が交通手段として利用されていたということです。五世紀の東日本については、「日本書紀」には「蝦夷の国」としか記述していないのに、中国史書の「梁書」には北倭国のことが記述してあるのはどう言うことなのでしょうか。
そのような北方文化の目で、飛鳥時代、そして奈良時代を見てみると、やはり行き着くところは「聖徳太子」の謎(ウソ)です。
聖徳太子と言えば、日本人であれば誰でも知っている超有名人です。しかし、「古事記」と「日本書紀」以外の史料は全て裏付けのないものばかりです。(「古事記」、「日本書紀」の史料は信用できるとは保証できませんが。)
いやそれは違う、一昔前の一万円札に、聖徳太子の肖像があったではないか、と反論するひともいるでしょう。でも、その正倉院御物聖徳太子像は、中国大陸人が描いた中国大陸人の像であって、聖徳太子とは全く別なひとであるわけです。
その聖徳太子像は、どこからもたらされたかと言えば、元は法隆寺ではなく、大陸色(騎馬文化色)の強い「川原寺」(天武天皇が建立か?仏教行事には、平安朝廷のインド系雅楽ではなく、大陸調の伎楽を専門的に執り行っていた。)からです。
その聖徳太子像には、二人の侍童を伴っていることは、何を意味しているのでしょうか。
太陽神の古ミトラ教は、三神で構成されています。それらは、日の出の神、天中の神そして日没の神です。日の出の神は「ケプリ」で「創造」を、そして日没の神は「アトン」で「完成」を表しています。その二人の神をともなって、ミトラ神は救世主(メシア)となるわけです。
そこで思い出されるのは、仏像が聖徳太子から秦河勝に渡され、仏像安置のために建立した寺の名前です。蜂岡寺が広隆寺となるのですが、それは後に太秦寺(ウズマサデラ)と言われるのです。その太秦寺とは、中国大陸では、ペルシャ寺と言われているのです。その太秦寺では、牛祭りを行い、ご本尊が魔多羅神(ミトラ神?)であるわけです。
ミトラ神が、牡牛を屠るには意味があります。それは、今から五六千年前のチグリス・ユーフラテス河の住民には、農耕のためには牛は最も大切な労働力であるわけです。毎年、耕作の開始の春分の頃、太陽が通過する星座を牡牛座と呼ぶようになったらしいのです。まだ暦の知識がない時代でしたので、牡牛座が、永遠に太陽の新しい出発点となる聖なる星座と信じられるようになると、「牡牛」そのものが「太陽神のシンボル」に変身してしまうわけです。太陽は、死と再生を繰り返すと信じられたため、太陽のシンボルを屠ることにより、人工的に再生を創り出そうとしたわけです。
太陽の光が最も衰える12月25日の冬至(太陽の死)は、太陽が復活する聖なる日になるわけです。この聖なる日がミトラ教に取り入れられ、そのミトラ教を乗っ取ったユダヤ・キリスト教は、救世主イエスの誕生日とするわけです。
そのミトラ神が、仏教の寺にいることは、一体何を意味しているのでしょうか。
聖徳太子が活躍(?)した時代を飛鳥文化と呼んでいます。その時代を歴史教科書は
どのように説明しているのか調べてみましょう。
聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。太子が建てた法隆寺は、今も残る世界最古の木造建築であり、釈迦三尊像や玉虫厨子などのすぐれた美術工芸品がある。また、奈良の中宮寺と京都の広隆寺には、美しい弥勒菩薩が残っている。この文化は朝鮮からの渡来系の人々の手によるところが大きく、その中心が飛鳥地方にあるので飛鳥文化とよばれている。
一万円札にある聖徳太子像が「ウソ」であるならば、607年に聖徳太子により創建されたと信じられている法隆寺は、一体誰が建てたのでしょうか。
教科書によれば、「朝鮮からの渡来人」、となっているから新羅人か百済人だと誰でも考えてしまうでしょう。しかし、それらの飛鳥文化を代表する元興寺や飛鳥寺は、蘇我馬子により中国大陸から招聘された太丈羅未大(タザラーミド)、白味淳(バイミズン)などの非東洋人(ペルシャ人?)の建設指導者により建立されているのです。
では、法隆寺もそれらの非東洋人により建立されたのかと言うと、調べ様がないのです。それは、日本書紀によれば、670年に焼失してしまったからです。しかし、その日本書紀の記述はウソだったのです。発掘された元の法隆寺跡には焼失の痕跡が見つからなかったからです。
更に、法隆寺跡から少し離れた場所に再建された新法隆寺の心柱をエックス線年輪年代学によって調べた結果、その心柱の最終年輪は591年であることが確定したのです。これは一体どう言うことなのでしょうか。
法隆寺の建物にウソがあるように、その建物に納められている釈迦三尊像や救世観音にもウソがあるようです。日本書紀によれば、法隆寺は天智9年に焼失したのならば、それらの仏像(飛鳥時代に制作された。)は焼けなかったとでも言うのでしょうか。
四世紀後半、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教は、敵であるミトラ教の神殿を破壊して、その神殿の上にキリスト教会を建設するのです。ですから、ローマ帝国内の全ての教会の地下を発掘すればミトラ神殿(神殿は地下に建設された。)が現われて来ると言われています。
敵神殿の跡に教会を建てることは二重の意味があるのです。ひとつは、敵宗教の痕跡を歴史から消すことができるからです。もうひとつは、敵宗教の地理的歴史を乗っ取れるからです。
その新法隆寺建立の謎を解いたひとによれば、その法隆寺と呼ばれている寺は、北九州から移築されたと言うのです。更に、奈良に現存する飛鳥時代・奈良時代初期の寺は、全て北九州からの移築だと言うのです。北九州には、無数の倭国時代の廃寺が存在します。
何のための移築かと言えば、それは、蘇我氏、つまり飛鳥時代以降の歴史を隠蔽するためです。飛鳥時代の寺が現存していない(あの秦河勝の広隆寺も再建です。元は現在地ではない所に建立されていた。)と言うことは、抹殺された廃寺は何を物語っているのでしょうか。
日本書紀によれば、大化の改新の時、蘇我氏の館が焼失した時に、国の歴史書は全て焼失してしまったことになっているのです。だから、飛鳥時代の歴史は分らない。
更に時代が下がって、騎馬系天武天皇の流れにある聖武天皇の遺品を納めた正倉院には、西域の楽器や食器、或はお面はあっても、本邦の当時の風俗を顕わす絵画や彫像など一切のものがないのです。しかし、日記類はないのに歴史書はあるのです。だから、飛鳥・奈良時代の風俗は分らない。
では、聖徳太子(=藤原氏による蘇我馬子の事績を基に創作された合成人物像)が広めたと信じられている飛鳥時代の仏教とは、本当のところ何なのでしょうか。
聖徳太子が実在の人物でないとすれば、日本の仏教史どころか古代史のストーリは書き換えなければならなくなるでしょう。それは、古代史のメーンテーマである、「大化の改新」が起こる必然性の根拠(蘇我氏が聖徳太子の遺児一家を滅ぼした。)が消滅してしまうからです。
では、聖徳太子の事績が蘇我馬子だとしたら、渡来した仏像はどのようなものだったのでしょうか。
仏教史によれば、聖徳太子(蘇我馬子)が弥勒菩薩像を秦河勝に渡したことにより、仏教が倭国に広まったことになっているわけです。そして、その仏像安置のための寺が広隆寺であるわけです。しかし、その広隆寺では、仏教開祖の「釈尊」ではなく、素性不明の「魔多羅神」を祭っているのです。更に、その広隆寺の再建前の寺(太秦寺・ペルシャ寺)は、どうも仏寺ではなく、景教寺であったようです。
では、その弥勒菩薩像とは、「本音」ではどのような背景を持った仏像なのでしょうか。弥勒菩薩とは、インドではマイトレーヤと言われ、その素性はミトラ神であるわけです。そのミトラ神の素性の一端は、ローマ帝国内で繁栄したミトラ神に見ることができるようです。
紀元四世紀にユダヤ・キリスト教に滅ぼされた、ローマ帝国内で崇められていたミトラ神(ラテン語ではミトラス神・不敗の神)は、紀元一世紀にローマ帝国軍がシリア地方を攻略した時、敵側の軍神であったわけです。その敵側の軍神のミトラ神が、ローマ帝国軍の軍人達により、ローマ帝国に持ち込まれ、瞬く間に広まったわけです。
敵側の軍神がローマ帝国内に広まった理由のひとつは、戦いの困窮時に現われて救いの手を差し伸べる救世主思想だけではなく、オリエントの神秘としてのイニシエーションの密儀、秘教占星術、そして牡牛を犠牲とする祭儀などを行うからです。(現在の秘密結社の入会儀式は、ミトラ教の「死と再生」の儀式を真似したものと言われています。)
太陽神のシンボルである牡牛を犠牲とし、その血を飲み、肉を食べる密儀式は、現在ではユダヤ・キリスト教に取り込まれ、赤ブドウ酒とパンに変成してしまっていますが、元の意味は、太陽神と一体になることです。
視点をずらせば、戦争とは、「宗教と武器開発の祝祭」とも考えることもできるわけですから、「神」は常に戦場に現われるわけです。つまり、神には、常に軍神としての需要があるわけです。
聖徳太子(蘇我馬子)から弥勒菩薩像を渡された秦河勝の祖先は、五世紀に新羅国からの渡来人であるわけです。そして、その弥勒菩薩は、元は新羅国を経由して、秦人により倭国にもたらされたものなのです。
では、新羅国の軍人は、どのような神を崇拝していたのでしょうか。
新羅人は、元々朝鮮半島にいたわけではなく、出自は西域からです。その西域からの新羅人が四世紀に朝鮮半島南端に小さな国を興した後に、職能集団・国際交易商人の秦人が入り込んだようです。そのように、外からの異民族が流入することにより、新羅国は強大な国に変身していったのです。
その新羅国の軍隊の中核をなすのが「花郎」(この組織運営は九州に渡り「兵児二才」となり、日本国の武士育成の礎となる。美少年天草四郎の青年武士団もこの流れにある。)です。
花郎の源流は、氏族社会において青少年の集団生活をとおして、心身の鍛練と氏族社会の規範を教え込み、有事の際、戦闘員として役立つように組織された機関です。この風習が、六世紀の朝鮮半島の動乱に、新羅国の真興王(540〜575)により、在来の青少年集団を正規軍の国軍として組織化を図ったわけです。つまり、国家軍の総指揮者を「花主」と称し、その下に「花郎」をおいて軍卒を統率指揮したのです。そして、その軍隊は、仏教(騎馬民族は、漢民族の儒教に対抗して仏教を保護した。)の弥勒菩薩を深く信じて、自らを弥勒の化身だと確信していたようです。
「花郎」の「花」とは「弥勒」の訓借字で、「郎」とは「男」の意味です。つまり、「花郎」とは、「弥勒の男」という語義をもつものであるわけです。
そのように、軍神の背景を持つ弥勒菩薩を、蘇我馬子(聖徳太子)が秦河勝に渡したという意味は何なのでしょうか。その意味は、単なる仏教の布教だけではないのでしょう。
蘇我氏が倭国の歴史に突然現われた時代背景をみてみましょう。
まず、新羅国が百済国に屈服した。大和の地を中心に、四十七箇所に屯倉が設置された。そして、突如、蘇我稲目(蘇我馬子の父)が、政治の中央に躍り出た、ということです。
中国大陸の動乱に影響されて、朝鮮半島の高句麗、百済そして新羅は、三つ巴の戦いに明け暮れていたのが、六世紀の東アジアであったわけです。
そのような時代に、朝鮮半島三国のコロニーがいがみ合う倭国において、大乗仏教は殺生禁止の仏の教えを布教していた、とでも言うのでしょうか。そもそも、仏教は、他民族を統治するための、騎馬民族の武器のひとつであるわけです。
ではどうして、その騎馬民族の武器のひとつである仏教が、平安時代になると、騎馬民族を「セダラ」と蔑むようになったのでしょうか。
その謎は、六世紀の近畿地方の政治情勢、つまり「百済系民族」対「新羅系民族」の抗争に原因があるようです。そして、仏教が反騎馬民族となるその謎を解くひとつのヒントは、「聖徳太子の発明」にあるようです。
仏教史によると、仏教が倭国に導入された時、二度の争いがあったということです。一回目は、物部尾輿対蘇我稲目、そして二回目は、物部守屋対蘇我馬子です。(この戦いの時14歳の聖徳太子が登場するのです。)その原因は、仏教史では「神」対「仏」の戦いということです。
しかし、それは可笑しい。その原因が「宗教戦争」と言うのなら、本当に物部氏は「神」だけを崇拝する部族だったのでしょうか。
物部氏は海洋民族の連合部族で、その中核には始祖ニギハヤシの伝説を持つように、新羅系部族とも関連がある部族もいるのです。それに、蘇我馬子のお妃は、物部氏の出なのです。
では何が原因かと言えば、それは「経済戦争」、つまり、大和の地での物流経路の縄張り争いだったのです。
四世紀、大和の地に国際交易商人達が「大和支店」を開設し、その後、その利権を得るために、朝鮮三国の高句麗、百済そして新羅が大和の地に進出してくるわけです。
やがて六世紀、朝鮮本国での三国の争いが、大和の地にも影響して、それぞれの流通経路が確立していくわけです。それが、「高句麗・百済」→筑紫→吉備→難波→紀伊→葛城と、「新羅」→出雲→越・若狭→近江→山城→磯城の二つの物流系列となるわけです。この、「高句麗・百済」対「新羅」の経済戦争が、軍事部族の出番となるわけです。それが、「物部氏」対「蘇我氏」の戦いの本質でしょう。
その戦いで圧倒的な強さを示した蘇我氏の軍事力の基は、なんと言っても「軍馬」でしょう。
十六世紀、スペイン人がインカ帝国を滅ぼしました。その戦いで、「軍馬」の威力を知ることができるでしょう。
インカ帝国最後の皇帝ワイナ・カパクの死後、帝位相続にからむ内戦のさなか、北部エクアドル・インカ帝国のアタワルパが南部インカの帝都クスコを陥落させ、北部カハマルカに数万の軍隊で陣取っていました。そこへスペイン軍が突入するのです。その数、180名。その180名の軍隊が数万のインカ帝国軍を陥落させた原因のひとつが、「軍馬」であったのです。
蘇我軍の強さのひとつは「軍馬」ですが、それに「石弾」が加わるのです。蘇我氏の都「飛鳥」(アスカとはペルシャ語で大鷲の意味。)の遺跡で石が多く見られるのは、それは軍事物資の貯蔵所でもあるわけです。平和時では、道路や堀に石を敷き詰め、戦争時には、それらを掘り起こして「武器」とするわけです。石投げは、騎馬民族の弓が発明される前は、重要な武器のひとつであったわけです。旧約聖書で、少年ダビデが敵将巨人ゴリアテを倒すのも、「石」であったわけです。
六世紀の朝鮮三国の争乱に乗じて、その軍事力をバックに、大和の地の物流ニ系列を支配したのが、蘇我稲目であったわけです。そして、軍事力保持のため、蘇我稲目は、大和の地の四十七ヶ所に屯倉を設置するのです。
歴史教科書では、屯倉とは大和朝廷の直轄地ということですが、本当なのでしょうか。
645年(乙巳の変)を境に、つまり、蘇我王朝の滅亡を境に、屯倉の存在意義も異なったようです。蘇我氏の時代の屯倉は、軍事施設であったわけです。それは、交通上そして軍事上にも拠点になるところに設置していたのです。それに、百済から海路で大和に入る重要拠点の吉備には、541年に蘇我稲目は自ら赴き、吉備五郡に白猪屯倉を設置するのは、高句麗・百済軍を迎撃するための基地としたからです。
では何故に、大和の地が争いの素となったのでしょうか。それは、弘法大師の空海が開いた高野山に原因があるのです。高野山は、銀鉱脈の地(鉱脈は伊勢まで続いている。壬生も水銀の産地。江戸時代、高野山では「京おしろい」、伊勢では「伊勢丹」として水銀を原料に白い粉を、表向きは「白粉」として、裏では男には回春薬として妊婦には堕胎薬として販売していた。江戸末期、九州の出島よりオランダ貿易商人から広まった梅毒の特効薬として白い粉は再び脚光を浴びた。)でもあるわけです。その高野山の入口の関所となるのが、大和の地であるわけです。
古代宗教儀式には朱砂・水銀は重要な道具です。朱砂は、呪術時代には、霊力のある「モノ」であったのです。それは、キズが化膿しているところに塗ると、治癒するからです。その朱砂の効能を知るひとは、呪術者として生きられたわけです。化学を知らない時代では、化膿していたキズを治すのは「カミ」の技であったわけです。
しかし、その治癒力は「カミ」の技ではなく、水銀の威力だったのです。朱砂は、硫化第二水銀です。このキズの消毒にたいする「赤」の力は、日本国では昭和48年まで続いていたのです。(水銀毒が指摘され製造中止となった。)昭和生まれのひとなら知っていると思いますが、それは「赤チン」と呼ばれていました。赤チンは正式にはマーキュロクロムと言われ、「有機水銀化合物」であったわけです。
やがて、この朱砂は布に染み込ませると、海の悪魔「サメ」を撃退することを知るひとが出現するのです。そこで、海洋民族は、海に潜るとき「赤褌」をすることにより、水銀毒でサメを避けることを知るのです。やがて、その赤布は、海洋民族の呪術のシンボルの「赤旗」になるわけです。海洋民族の「古平氏」や「平氏」が赤旗を掲げる意味がここにあるのです。(それに対する騎馬民族は、太陽神のシンボル「白旗」です。新羅を「シラギ」と読むのは「蔑称」です。そのシラギとは、「新羅の奴」と言う意味です。新羅はシンラ或はシルラと読み、その意味は新しい「ラー=太陽」と言う意味です。)
貨幣経済の発達していない縄文・弥生時代では、朱砂は呪術の道具の重要な物質であったのです。
やがて、ヨーロッパや中国大陸で銀の需要が増してくると、銀の争奪戦が行われるわけです。そこに、宗教組織も参戦するわけです。
古代の宗教家とは、科学者、化学者そして医者でもあったわけです。只、一般人と異なるところは、宗教家の目的は金儲けではなく、意識の変成つまり、神に近づくことにあるわけです。
中国の道教では、不老長寿が実践され、仙人になるための手段として、錬丹術が開発されるわけです。それは、朱砂の、鎮静・催眠効果そして殺菌効果を呪力として信じていたわけです。
インドでのバラモン教では、水銀による知覚神経や自律神経を麻痺させる効果を知ることになり、水銀の利用方法が、宗教の名の下で開発されて行くわけです。しかし、水銀毒についての知識が増すと、表の術から裏の術、つまり密教となっていくわけです。
このバラモン教の密教が平安時代に、空海(水銀中毒で即身仏となる。)によりもたらされる訳ですが、蘇我氏が持ち込んだ仏教との関連性はあるのでしょうか。どうも、蘇我氏の仏教と平安時代の仏教とは、同じではないようです。それは、拝む対象の「仏」が異なるからです。
蘇我馬子が秦河勝に与えたのが、軍神「弥勒菩薩」であるなら、どうして、物部守屋との戦いの時、蘇我馬子側の十四歳の聖徳太子は、軍神「弥勒菩薩」ではなく、「ぬりで」で四天王の像を造り、それを頭に縛り付け「もしこの戦いに勝利したならば、護世四王のために寺を建てようぞ。」と祈願したのでしょう。
そもそも、四天王とはどのような素性の者なのでしょうか。仏教史によりますと、四天王とは、釈迦を守護する、持国天、広目天、増長天そして多聞天ということになっています。それは、仏教世界の中心の須弥山の中腹で、東西南北の四方を守るとされ、持国天が東方を、広目天が西方を、増長天が南方を、そして多聞天(ビシャモンテン)が北方をそれぞれ守護するわけです。しかし、このコンセプトは、大乗仏教のものではなく、ヒンズー教(バラモン教)の「世界守護」(ローカバーラ)であるのです。
ヒンズー教のローカバーラとは、東方はバラモン教のインドラ(実力神)が、西方はバラモン教のヴァルナ(水の神)が、南方はバラモン教のヤマ(死者の王)が、そして北方はヒンズー教のクベーラ(財宝神)が守護するわけです。
クベーラ(財宝神)は、日本国にはビシャモンテンの仏名ではいってきたのですが、それは、インド南回りの仏であるわけです。それがどうして、北回りの騎馬民族の蘇我氏の軍神となるのでしょうか。これは可笑しい。そもそも、仏教を拓いた釈尊は、反バラモン教だったのです。それに、バラモン教は、菜食主義の神であり、騎馬民族の牧畜・肉食主義とは反する教義を持っているわけです。
見方を変えれば、十四歳の聖徳太子の、物部守屋対蘇我馬子との戦いでの不自然な物語(少年ダビデと同じコンセプト。)は、どうも蘇我氏のペルシャ系北方仏に、無理やりインド系南方仏を接木するためのものではないか、と言うことです。
そのような見方で、平安時代の仏像を見てみますと、インドのヒンズー教(バラモン教は、やがてヒンズー教に取り込まれて消滅。)の神々が、日本国の仏寺に鎮座しているのが分るでしょう。例えば、金毘羅はクビラで、吉祥天はラクシュミーで、そして鬼子母神はハーリーティで、それらの仏像はインドではバラモン教の「外道の神」であるわけです。それが如何して、反バラモン教の仏寺に鎮座しているのでしょう。そこで考えられることは、蘇我氏の時代の仏教と平安時代の仏教は、「異なる」ということです。
そのように考えるとすれば、蘇我氏が建立した飛鳥時代の仏寺(ペルシャ寺)は、平安時代に徹底的に破壊され、その跡に、北九州(秦王国・辛国)の寺を移築した理由が理解出来るでしょう。それは、恐らく、飛鳥時代の「仏寺」は、仏像を安置するための建物ではなく、戦略的建築物であったのです。
飛鳥時代の戦いは、中国大陸で使用されるような破壊的大型武器などを持たない、槍や弓矢そして石を武器とする先住民相手なので、守備としては環濠を巡らした城郭で充分であったようです。現在のような城が出来る流れとして、朝鮮式山城(奈良時代)→都城・城柵(平安時代)→山城(鎌倉時代)→平山城(室町時代)→平城(江戸時代)となるわけです。
国を運営するには、政治、経済、軍事そして宗教が必要です。しかし、政治と宗教とが分離するのは、約千年後の国民国家成立(1776年アメリカ建国)まで待たなければなりません。それ以前の国家では、政治と宗教とが癒着していたのです。そのような時代に、時の為政者が替わることなく、コンセプトの全く異なる宗教組織だけが替わることはありえません。
では、飛鳥時代の仏教を隠蔽するには、どのようなトリックが考えられるのでしょうか。
そのトリックのひとつが、接木としての人物の創造です。
紀元前932年、ソロモンが死ぬと、レビ族の末裔に苛められていたエフライム族達の末裔は、イスラエル王国を建て、ソロモンは「ヤコブだ」、と言い始めるわけです。「ヤコブ」とは、不正な手段で簒奪した者を意味する言葉です。そこで、レビ族の末裔は、あるトリックを考えるのです。
それは、旧約聖書の創世記第三十五章の九
さてヤコブがパダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現われて彼を祝福された。神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。
そして、この物語をエフライム族の先祖のヨセフの物語の前に挿入するのです。
これはどう言うことになるのか。それは、つまり、ソロモンを「ヤコブ」ということは、エフライム族の先祖のヨセフ(イスラエル)を「ヤコブ」(簒奪者)と言うことになってしまうわけです。そのようなトリックにより、やがてレビ族の末裔ソロモンは、「ヤコブ」と呼ばれなくなるのです。
接木は時代と伴に、その接合面が分らなくなりますが、よおく目を凝らして眺めると、ある不自然さを感じるようです。
では、日本の接木の「聖徳太子」はどのようにして創造されたのでしょうか。
聖徳太子を現在のように有名にした人物のひとりとして、804年遣唐使として唐に渡って、後に天台宗を創設した最澄がいます。最澄のバックを調べると、何故、死後百年後の聖徳太子を宣伝したのかを理解できるでしょう。
最澄を遣唐使にと、百済系桓武天皇に推挙したのは、あの道教事件で、騎馬民族天武天皇系最後の称徳天皇(=孝謙天皇)の逆鱗に触れ、島流しにされた和気清麻呂(しかし、百済系光仁天皇の時代になると豊前国司となり八幡宮の三神職の世襲を決めた。このことは、新羅の神を祀る北九州倭国の八幡宮が、百済系王朝(京都王朝)に乗っ取られたということです。)の子弘世と真綱であるわけです。つまり、百済系日本人が聖徳太子の宣伝隊であるわけです。
では、何故、架空の人物「聖徳太子」(結果として、ヒンズー教のカースト制度を日本国に持ち込み騎馬民族を苛めた人)を、新羅系日本人は疑わなかったのでしょうか。
ローマ帝国には、四世紀にユダヤ・キリスト教が国教となるまで、強力な宗教組織が存在していませんでした。そこで、軍人や国際交易商人達がオリエントやエジプトから神々を勧請していたのです。
紀元前五世紀から、エジプトのイシスの神はローマ帝国で崇拝されていました。その大地母神イシスは、子供とセットの母子の神だったのです。その子ホルスを抱くイシス神は、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教に取り込まれ、イエスを抱く聖母マリアへと変身するわけです。古代エジプトでは、「子供」それ自体が「神」であったわけです。その「子供=神」は、古代エジプトでは「モーセ」と言うわけです。旧約聖書に登場のモーセも、聖徳太子と同様に、エジプトの神(アトン=太陽神)とユダヤの神(ヤハウェ)の接木のようです。ユダヤの神とイスラエルの神は、元々は異なるようです。元々のイスラエルの民(紀元前十四世紀、イクナトン王失脚のためエジプトを追われたヨセフ直系のエフライム族)は、金の子牛(太陽神のシンボル)を祭っていたからです。
西域からの渡来民族の新羅にも、母子神がいたのです。巫女が降神させる神霊の呼称を「太子」と言うわけです。巫女と太子とは、「母子」のセットであるわけです。新羅でも「子供=太子」それ自体が「神」として崇められていたのです。つまり、太子信仰は、新羅民族には、馴染みであったわけです。
この太子信仰を刷り込まされている新羅民族の末裔の新羅系日本人が、死後百年後の聖徳太子(成人しても聖徳「皇子」と言わずに、聖徳「太子」と命名したトリックは、新羅国における「太子信仰」をオーバーラップすることにあったのです。)の輝かしい事績を刷り込まされてしまえば、その存在を疑う気持ちも持てないことが理解できるでしょう。
もしかしたら、聖徳太子を創造したひとは、旧約聖書のヤコブの物語を知っていたのかも知れません。
この、モーセ(神の子)、ダビデ(敵将を倒す少年)、そしてキリスト(厩で誕生し、死後?約百年で復活)のニオイがする「聖徳太子」が架空の人物で、歴史上存在しないとすれば、飛鳥時代はどのようになるのでしょうか。
歴史教科書的に言えば、蘇我稲目の台頭、そしてその息子馬子と聖徳太子の積極的な崇仏の働きかけによって、廃仏派の物部氏を倒し、飛鳥を中心に、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺そして葛木寺の「聖徳太子伝建立七寺」の建立により、仏教は飛鳥を中心に日本列島に受け入れられて行った、ということになっているようです。
しかし、六世紀に仏教伝来の当初は、仏像の保管場所の伽藍と伴にではなく、単独で仏像が秦氏により朝鮮半島からもたらされた時、仏像は「仏神」、「蕃神」そして「他国の神」と呼ばれ、ともすればひとびとの命を奪い、病にさそう偶像ともみられていたのです。つまり、今日考えられているように、仏像はひとびとの命を延ばし、病を回復させ、ひとびとに利益を与える、というようなことにはなっていなかったのです。
では、仏像がもたらされる前は、飛鳥はどのような宗教環境であったのかと言えば、ペルシャ文化の色が濃い蘇我王朝は国際的であったので、飛鳥の地は、シャーマニズム、アニミズム、道教、景教、そして朝鮮民間宗教などの「宗教の坩堝」だったのです。
しかし、蘇我・新羅系天武王朝を倒した百済王朝は、ペルシャ文化の色を抹殺するために、蘇我王朝の戦略的建築物を破壊し、その跡に、九州・秦王国の寺を移築し、「聖徳太子伝建立七寺」とするわけです。
では、そのようなことが「ウソ」であるならば、後世のひとびとは、今日までその「ウソ」を語継ぐはずである、と思うでしょう。しかし、ひとの語継ぐのは、せいぜい三代までの、約百年です。
このことは、先祖のお墓の引継ぎで理解できるでしょう。都心の墓地の募集チラシをよく見るでしょう。そのチラシのキャッチコピーに「永代管理」が書かれているでしょう。もし、永代に渡り墓地を使用していれば、初回に完売をすれば、その後は、墓地の募集などできるはずはありません。なぜならば、「永代使用」だからです。しかし、墓地のチラシ広告は撒かれ続けます。それは、三代続けて管理する家が精々で、四代目になると、墓地の管理に無頓着になる家があるからです。つまり、日々の暮らしが豊かではない家では、先祖代々の墓も百年も立てば、忘れ去られる運命にあるわけです。
だから、英雄(キリスト・聖徳太子)は百年後に現われるのです。
では、書物に残せば、後世のひとびとに「ウソ」を伝えられるであろうと考えても、簒奪者は、焚書で対抗するわけです。蘇我王朝の歴史書の国記・帝記も、645年に藤原氏により焚書されてしまったわけです。
では、飛鳥時代の教科書的「ウソ」を知ることは出来ないのでしょうか。そこで、勝利者側の書籍が活躍するのです。勝利者の歴史は、必ず簒奪された側を悪く言う傾向があります。それに、前政権の事実を抹殺できない場合、「接木」を用意します。その「接木」した個所を丹念に調べれば、前史のことを推測することが可能でしょう。
飛鳥の地を少し広げた地域を「大和」と言います。この「大和」の実体を推測する手ががりとしての「接木」が「万葉集」に見つかるでしょう。
「万葉集」は、八世紀に大伴家持が、四千五百十六首の歌を編纂したものです。その歌のなかにある「大和」の枕詞に、「虚見津」があります。それは「ソラミツ」と読むわけですが、ソラミツは、「空見津」、「虚見都」などの記述がみられますが、一体、大和の枕詞のソラミツとは何を意味しているのでしょうか。
教科書的説明では、神武帝より先に大和国を治めていたニギハヤヒが、天空から大和を眺め、住みよさそうな処と天降ったのにちなみ、「虚空みつ大和」となった、と言うことです。さらに、神武帝が丘に登り、山頂から国見をした故事にならった、と言うことです。しかし、万葉集の研究家には、その語義が定かではない、と考える人もいるようです。
では、大和の枕詞の「ソラミツ」とは、本音では、どのような意味が考えられるのでしょうか。
「空」の字義は「穴」で、それは「むなしい」「うつろ」、「つきる」そして「なにもない」の意味があるわけです。「虚」の字義は、「実なし」、「物なし」の意味で、「ソラ」に転用されたものであるようです。
そこで考えられる解釈として、「ソラミツ大和」とは、「実体の伴わない、空虚な大和国」、と考えられることができるわけです。つまり、「大和国はウソッパチ」となるわけです。では何がウソッパチかと言えば、大和の国の全ての寺は、秦王国から移築された寺である、ということです。では、飛鳥の寺は、仏像を祀る処ではないのであれば、一体何をおこなう処だったのでしょうか。
一般的に、ひとは、一度刷り込まれた情報を訂正することは、非常に困難なようです。このことは、「聖徳太子は歴史上存在しなかった。」、と言うことを素直に認めることができないことで、理解できるでしょう。
歴史とは、あるひとが、ある目的のために綴った物語です。ですから、その物語が全て真実であった、などとは言うことができないわけです。それは、その真実と思われる事柄も、別の角度(敗者側)から眺めると、全く異なる物語となる可能性もあるからです。
一般的に言えることは、現在存在する「歴史」は、勝者側の物語です。それでは、敗者側の歴史は、勝者側に焚書されてしまうから、存在できないのでしょうか。
そこで智恵ある敗者は、勝者の歴史の「ウソ」を、後世のひとに知らせる方法を考えるのです。その方法は、勝者の歴史書に、暗号として「ウソの解き方」を挿入するのです。
例えば、「モーセはいなかった。」と言うことを後世のひとに知らせるために、ヨハネは「ヨハネの黙示録」を書いたのです。それは、暗号として述べた文章を解読させることで、その真実(敗者側の)を後世のひとが知ることができるように工夫したのです。その暗号とは、ヨハネの黙示録第十三章十八節に、
ここに、智恵が必要である、思慮あるものは、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。
この666の謎を研究したひとによれば、エズラ記の第二章十三節に「アドニカムの子孫は六百六十六人」の言葉を見つけ、ギリシャ文字(聖書はギリシャ文字で書かれていた。)による数字の表現方法を「666」に当てはめるのです。その方法によると、A=1 R=100 N=50 O=70 U=400 M=40、そしてE=5とし、「ARNOUME」という単語を探り当てるのです。その単語の合計は「666」です。そして、そのARNOUMEとは、「否定する」という意味です。そこで、その解読単語を先の文章「アドニカムの子孫は六百六十六人」に当てはめると、アドニカムとはヘブライ語で「主はよみがえる」と言う意味からすると、「アドナイ(主)を否定せよ。」となるわけです。
モーセの五書には、二つの異なる文章が存在します。それは、エロヒム(神)とヤハウェ(アドナイ・主)とを主語とする文章です。そこで、ヨハネの暗号解読によれば、「主を否定せよ。」ですから、主が主語の文章は「ウソ」だ、と言うことになるわけです。そこで、モーセ五書の出エジプト記を読んでみると、モーセは「否定」されるわけです。
では、日本国の「聖徳太子」はどのようにして「否定」されるのでしょうか。
日本版「聖書」は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。では、日本版「ヨハネの黙示録」は何かと言えば、それは「古事記」でしょう。
歴史教科書によれば、古事記は712年、日本書紀は720年に完成したことになっているようです。しかし、古事記の712年(和銅5年)は「ウソ」です。古事記は、そこから百年後の平安時代に、忽然と現われたのです。では何故に、712年に完成と信じ込まされているかと言えば、それは、古事記の序に、和銅5年の記述があるからです。
ではなにを目的に、平安時代に古事記は出現したのでしょう。それは、「日本書紀」の「ウソ」を、後世のひとに知らせるためです。
平安時代とは、百済系桓武天皇の時代で、天武天皇系の蘇我・新羅系日本人には生きるのが苦しい時代だったのです。それは、ひとの貴賎を決め付ける「新撰姓氏録」などで、百済系日本人を「貴」とするデタラメ書籍(敗者側にとって)なとで、蘇我・新羅系日本人を政策的に「賎」と貶めたためです。このことは、古事記の序文の天武天皇の言葉(平安時代、多人長側が創作した言葉)に表れています。
私が聞くところによると、諸家のもたらした帝記と旧辞とは、既に真実と違い、偽りを多く加えているという。今この時において、その誤りを改めないならば、幾年も経たないうちにその本旨は滅びてしまうであろう。この帝記と旧辞とは即ち国家組織の根本となるものであり、天皇の政治の基礎となるものである。それゆえ、帝記と旧辞を良く調べて正し、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えようと思う。
それでは、古事記は昔から読まれていたかと言えば、そうではないようです。それは、古事記より八年後に完成した、日本書紀に古事記の存在すら記述されていないからです。勿論、平安時代に創作された続日本紀にもありません。
では、誰が古事記の存在を知らしめたかと言えば、それから千年後の江戸時代、古事記伝四十四巻を著した、反仏教派の国学者の本居宣長であるわけです。
古事記の存在を知るのは、平安初期(812年)に多人長(おおのひとなが/新羅系秦氏の末裔)が書いた、日本書紀の講義録の「日本書紀私記」の序にある、古事記の紹介文によるのです。
古事記を研究したひとによれば、日本書紀と比べると不思議なことを知るのです。そのひとつとして、先に書かれたと信じられている古事記に、日本書紀の脚注の全てに符合する事柄が記述されているからです。更に不思議なことは、古事記は「天之御中主神」から始まるのに対し、日本書紀は「国常立尊(命)」から始まるのです。この「神」と「尊」の対比は、モーセ五書の「神」と「主」の関係を彷彿させます。
更に、古事記に、天武天皇の序があるのならば、それに、後世のために偽りを正すのならば、何故に、四十代天武天皇まで記述しないで、三十三代推古天皇までの記述で終わっているのでしょうか。古事記が、日本書紀を意識して創作されたのであれば、日本書紀に対抗して、せめて天武天皇まで記述するのが当然でしょう。
そこで考えられるのは、サイファー式の暗号解読法です。そのひとつとして、同じ文章か数字がある場合は、その文章か数字を「否定せよ」ということです。このことは、古事記は三十三代推古天皇までで、日本書紀は更に四十一代持統天皇までの記述があるわけです。と言うことは、日本書紀の「初代神武天皇から三十三代の推古天皇までの歴史は否定せよ。」と言うことになります。と言うことは、推古天皇の摂政である「聖徳太子」も、当然否定されるわけです。
つまり、古事記の序で天武天皇(多人長側・敗者)が述べられている、「帝記(日本書紀)と旧辞(古事記)を良く調べ正し、偽りを削り、真実を定める。」とは、日本書紀を読む人に、「日本書紀の神武天皇から推古天皇までは、敗者側にとってウソが語られているから」気おつけなさい、ということにも解釈できるわけです。
では、聖徳太子が歴史上存在しないとすれば、どのように飛鳥時代の歴史は書き換えることが出来るのでしょうか。
新羅系秦人の末裔の多人長のメッセージを解読して、古事記と日本書紀とを精査すると、歴史教科書的古代史の呪縛が解けることでしょう。すると、飛鳥時代の舞台で、輝かしいスポットライトを浴びていた「聖徳太子」が、その舞台からスーッと消えていなくなり、すると、聖徳太子の活躍の光の影にいた、蘇我馬子がスーッと現われてくるでしょう。
正八角形(8はペルシャの聖数)の赤い堂の中で、碧眼の蘇我馬子が車座になっている十数人を前にして、何かを交渉しています。それらの人たちの多くは西域人で、話す言葉も古代朝鮮語や唐語などではなく、アラム語や西域の遊牧民族のものです。飛鳥時代では、朝鮮半島からの瀬戸内海ルート交易は、高句麗、百済、新羅の三国による半島争乱のため途絶えているので、その間隙を縫って、大陸の国際交易商人達は、中国内陸の争乱を避けるため、ペルシャからロシヤステップロードを経由して中国大陸のポシェット港から敦賀などの日本海側の港から飛鳥を目指して来たのです。その交渉で飛び交う数ヶ国語を通訳している若者は、突厥(チュルク系騎馬民族)の皇子タルトウです。
その交易品は、蘇我氏側が絹織物、朱砂、水銀、そしてロクジョウ(鹿角)・ハンピ(乾燥蝮)などで、西域の商人側はペルシャの装飾品やインドの香木などです。
奈良の都に、何故、鹿が多くいるのかといえば、それは小鹿の角を取るためです。小鹿の角(ロクジョウ)は、道教の長生術には朱砂と同じに必要なものです。現在でも、高級ドリンク剤に添加されているように、古代も現在も小鹿の角は高価な強壮剤として服用されているのです。
蘇我氏の館では、豪族達の子弟に講義をおこなっています。講義内容は、仏教経典ではなく、天文地理、易、暦、医術、方術、政治や外交そして軍事などです。その講師陣は、渡来の仏教僧や道教士など最新の大陸の知識をもった者達です。しかし、大和の地に仏教の読経が聞こえるのは、天武天皇の病気平癒祈願(684年)の時まで待たなければなりません。
蘇我氏の時代では読経が公に聞こえたのは、北九州の秦王国です。六世紀の北九州の秦王国は、北魏の廃仏令(446年〜452年)により大陸を追われた200万人の大乗仏教僧の一部が、朝鮮半島に辿り着き、更に、朝鮮三国の争乱勃発により渡来した仏教僧達により、仏寺の建設ラッシュであったのです。
しかし、北九州の秦王国から先に、飛鳥の地に入ったのは、仏教ではなく道教です。道教は、騎馬民族には、仏教に比べると、馴染みやすいからです。それは、仏教の火による祭儀(ゾロアスター教の儀式の模倣)ではなく、犠牲を用いて祭祀をおこなうからです。更に、騎馬民族に馴染みの、天を崇めるからです。漂泊する民族(騎馬民族・海洋民族)は、土着の農耕民族より、「星」・「月」・「太陽」(三神)を特別な存在(神)として崇めていたのです。
道教は、騎馬民族系で天文台を建設し北極星と交信する天武天皇の時代までは、仏教に比べ、かなりの勢力を持っていたようです。それは、家格を示す称号の「八色の姓」から理解できるでしょう。その家格は、上から、「真人」「朝臣」「宿禰」(スクネ:アラム語で勇敢な者の意味)「忌寸」「導師」「臣」「連」「稲置」と格付けされ、その「真人」「導師」とは、道教に大いに関係する事柄だからです。
更に、天武天皇から「天皇」の称号が公に使われてきたわけですが、そのアイデア(天皇=神)は、中国古代(紀元前一世紀)の天文学で天体観測の基準となる北極星(太一)を神格化したものです。その天皇である北極星の紫宮に仕えるのが「真人」というわけです。ここから紫色が日本国では高貴な色になるわけです。その「真人」が八色の姓の最上にいることは、道教は天武天皇から優遇されていたことを証明しています。
道教の始まりは定かではありません。それは、自然信仰を軸に、あらゆる土着の信仰を巻き込み、更に、二世紀頃には大乗仏教の思想までをも取り込んでしまう「現世利益」の宗教だからです。その中で特徴的なものは、長生術のために開発された呪術医療でしょう。その医学医療と薬学の技術を持って、瞬く間に異教の国に侵攻するわけです。
異教国侵攻の法則、「宗教家」→「国際交易商人」→「軍隊」→「植民地化」の流れには、乱世の庶民に対して、現世利益の道教は、時の権力に迎合する文殊の徒により創作された無数の仏典布教をおこなう仏教に比べて、受け入れやすかったのです。
五世紀末その道教は、北九州の秦王国から百済系葛城と新羅系磯城が争う国際交易都市「飛鳥」に、物部氏(三世紀頃、高句麗から侵攻してきたツングース系遊牧民族と呉の末裔の南方海洋民族の連合軍事部族)に従う「奇巫」(道教シャーマン)として登場したようです。その半世紀後、東国から現われた弥勒信仰を持つ騎馬民族の蘇我稲目が軍事力で物部氏を倒し、飛鳥の地を平定した事が、仏教史に言う、物部尾輿対蘇我稲目の「神仏の戦い」と言われている実体のようです。しかし、この時代には、「神道」など、日本列島に存在しなかったわけですから、「神仏戦争」と言っても、「道教」対「弥勒信仰」の図式しか考えられません。(神道は、天武天皇の崩御後、藤原氏系の中臣氏により道教思想の基に発明された。その後室町時代、藤原氏系卜部氏の末裔の吉田兼倶により、儒教・仏教・陰陽五行(道教)を基に吉田神道として復活。)
更に、587年、蘇我馬子は、北九州の秦王国から「豊国法師」を、47の軍事施設である屯倉で固め、石を敷き詰めた軍道を張り巡らせた軍事都市国家「飛鳥」に呼び寄せています。この時期が、仏教史で言う、物部守屋対蘇我馬子との「第二次神仏戦争」と言われている時代のようです。
その当時、飛鳥の地には、高句麗僧恵便が居たわけで、「神事」或は「仏事」を行うだけならば、わざわざ遠方の北九州から「奇巫」や「豊国法師」など呼ばなくてもよいはずです。その訳は、百済系葛城と新羅系磯城との経済戦争に介入した、物部氏対蘇我氏との二度の戦闘で傷ついた兵士を介護するための「医師」としての「奇巫」と「豊国法師」であったのでしょう。
そのように「医療従事者」として、異国に入り込んだ「宗教家」の次なる行動は、異教国侵攻の法則により、革命分子育成のための拠点の「学校」を設立する事です。(教育とは昔も今も権力者にとって両刃の剣であるわけです。)そこで、学校建設のための職人を飛鳥に招聘するのですが、「日本書紀」には不思議な名前の職人が記述されているのです。それらは、「太良未・ダラミタ」「将徳白昧淳・ショウトクハクマイジュン」「麻奈文奴・マナモンヌ」「「昔麻帝弥・シャクマタイミ」などです。それらは、実は漢語ではなく、漢字表記のペルシャ語です。
720年に完成の、百済からの仏教伝来(538年)の経緯を説くが、天武天皇朝の祀りの基本思想である道教についての一切の記述がない「日本書紀」の編纂時には、約百年前の漢字を使用したペルシャ語を理解する事が出来なかったのか、又は単なる編集上のミスか、勝者側は漢語表記のペルシャ語の記述を改竄できなかったようです。
それらの意味は、ひとの名前ではなく、寺院大工、露盤、屋根葺、鬼瓦などの建築に関連する職業名や物品のことです。そのような異国のペルシャの職人達は、飛鳥の地でどのような建築物を造ったのでしょうか。仏教徒でもないペルシャ人達に、蘇我馬子は仏教寺を建設させた、などと想像することはできません。が、しかし、教科書歴史では、聖徳太子と蘇我馬子との崇仏者により仏寺が建立され、日本での仏教寺の発祥地が「飛鳥」となっているのです。
では、蘇我氏の時代、飛鳥の地では、蘇我氏の神(弥勒神)はどのようにして祭られていたのでしょうか。
古代ペルシャでは、ミトラ神(太陽神)は、東方の大きな山の頂きから誕生(再生)すると信じられていました。それがやがて時代の流れにより、東方の山の洞窟に替わり、更に、山から里に下りてくるようになると、窪みのある岩に替わり、それがやがて大石から誕生(再生)すると信じられていたようです。
六世紀、仏像が持ち込まれていなかったペルシャ文化色の濃い飛鳥の地でも、多分、そのような流れで、「山」や「石」を信仰対象としたのでしょう。それは、そこから神(死者)が再生すると信じられていたからです。ですから、蘇我氏の時代には、仏像など存在していないわけですから仏寺などでなく、冬至に太陽が登る「東の山=吉野山」や「石」が神の「住まい」として祀られていたのでしょう。
「山」と「石」で「神を祀る」ということを、広い意味から考えると、石室を内蔵した小山の「古墳」が想像されます。
古墳は、日本列島に出現するのは、三世紀頃のようです。そして、古墳が消滅するのが七世紀後半、天武天皇陵の八角形墳墓「檜隈大内陵」(8はペルシャの聖数・お妃の持統天皇が合祀されている。)で終わるようです。
(天武天皇の死後、左遷されていた藤原不比等の復活と伴に、大和の地に読経が公に聞こえてきたようです。その後平安時代、蘇我馬子の陵である七十七トンの石室の石舞台古墳は、藤原氏により破壊され暴かれてしまったようです。)
死者の祀り方は、その神の基本思想を反映しています。
蘇我馬子が、もしも本当に仏教信奉者だとすれば、当然、葬儀は仏式で行うはずです。それが何故、626年歿の蘇我馬子は、寺ではなく、古墳に祀られたのでしょうか。(歴史教科書では、仏教伝来538年といわれているのです。)
日本に存在する古墳は、ほとんど誰が祀られているのか分らないようです。そのなかで、数少ない祀られているのがわかる古墳があります。そのひとつが、「檜隈大内陵」の天武・持統天皇の古墳です。それが何故天武天皇陵と分ったのかと言えば、それは、1235年(文暦2年)に盗掘にあい、その経緯が「阿不幾乃山陵記」に書き残されていたからです。その書によれば、「件の陵の形八角、石壇ひとめぐり、一町ばかり、五重也」とあり、更に、持統天皇は、「火葬されていた」とあるのです。それに対し、天武天皇は、古墳での伝統的埋葬である「土葬で祀られていた」のです。同じ陵に、異なる埋葬方法、土葬と火葬が合祀されているのです。これは可笑しい。
古墳は、死者の再生(復活)ための装置です。ですから、再生のためには、死者は生前のままで埋葬されなければならないわけです。古墳時代では、死者は、唯の物質ではなかったのです。
それに対して、大乗仏教の死者に対する考え方は、それとは全く異なります。大乗仏教では、生き物は輪廻転生します。この思想はインドで、バラモン(=宗教ブローカー)が発明したものであり、そのカルマから逃れるため「釈尊」は輪廻転生からの解脱を実践、つまり、出家し乞食し、仏と人の中間人の「非人」となったのです。釈尊の思想は、大乗仏教の「他力本願」とは異なる、「自力本願」であるわけです。
その釈尊の思想とは異なる大乗仏教の思想では、肉体は唯の「霊」の借り物にすぎないのです。ひとは、生前の行いにより、人間になったり畜生になったりするのです。つまり、大乗仏教の思想において肉体は、「霊」の乗り物である唯の物質に過ぎないわけです。つまり、死者は唯の物質ですから、腐れば「不浄」な物質に変化するわけです。ですから、その「不浄の死者」は聖なる火で浄物(成仏と方便)にするわけです。つまり、大乗仏教の思想では、死者は「穢れ」であるわけです。
ここから推測できることは、道教思想の天武天皇が崩御した時、その王朝を簒奪した、天智天皇の娘の持統天皇は、道教を排斥し、仏教を、藤原不比等の指導のもと、飛鳥の地に導入したのでしょう。だから、ペルシャ文化の蘇我王朝、そして道教思想の天武王朝の、仏教思想とは異なる文化を抹殺・隠蔽するには、仏教伝来は、538年でなくてはならなかったのです。
つまり、飛鳥時代での天皇の祀り方が変わったということは、「神」が変わったということです。それは、道教から仏教への変換です。そのためのトリックのひとつが、平安時代に発明された「聖徳太子」だったのです。
神輿の黙示録(2)(多民族国家日本の成立とイジメの発生)
三世紀前に日本列島に古墳が存在しなくて、その後、短期間に古墳が出現したということは、今までの「神」と「異なる神」の出現を示唆しています。
その古墳出現も時系列でみると、北九州から畿内へよりも、東北・北関東から畿内への流れのほうが古墳数が多いようです。それも、小古墳から巨大古墳への流れも、西からではなく、東から畿内への流れが多いようです。
そして、四世紀代の古墳に、馬具が埋葬されているということは、元々日本列島には「馬」が生息していなかったわけですから、四世紀に「馬と共存する部族」の出現を示唆しています。そして、その鉄製の馬具の出現は何を意味しているのでしょうか。
金属機器の歴史的流れは、紀元前三千年の西アジアでの青銅器発明から紀元前千四百年のヒッタイトでの鉄器発明への流れです。
時系列的には、日本列島には、先に青銅器が出現してから後、鉄器が後れて出現するのが道理です。それが、北九州・出雲・近畿地域の青銅器文化と時を同じくして、日本列島広域に鉄器が出現し、そして四世紀に東北・北関東に鉄製の馬具が出現するのです。これは、一体なにを意味しているのでしょうか。
それは、四世紀の東北・北関東に、朝鮮半島からだけではなく、ロシアステップロードから直接日本海沿岸からも、オリエントの鉄器文化が、馬を持った部族により日本列島各地にもたらされたことを示唆しているようです。
歴史上謎の部族が存在します。そのひとつに、イスラエル民族がいます。日本にも謎の部族がいます。それは、「秦氏」です。日本版イスラエル民族の「秦氏」とはどのような部族なのでしょうか。日本の古代史の謎を説く鍵のひとつは、その「秦氏」にあるようです。そして、その秦氏を知ることにより、「日本人とは何者か」のヒントが得られることでしょう。
異民族が対峙した時、言葉は強力な武器のひとつとなります。更に、言葉を固定できる文字を持っていることは、最強の武器となります。それは、言葉や文字を駆使することにより、イメージ操作ができるからです。
ひとの行動は、自分の意志で全てコントロールしているわけではありません。自分でコントロールできることは、自分で思うほど多くはありません。ひとの日常の行動は、遺伝子により刷り込まれている本能以外は、生得的な刷り込みにより創られたイメージ(幻想)によりコントロールされているのです。そのイメージは、そのひとの生育に携わったひと達から与えられた言葉や文字により創造されるのです。
ですから、敵対する相手を前にして、自民族の優位性を示し、それに対して、敵民族の劣位性を言葉や文字で示せば、自民族には良いイメージ創りとなり、それに対して、敵民族には悪いイメージの刷り込みができ、その結果、敵側の行動をコントロールできるわけです。
その戦術のひとつが、蔑称です。蘇我馬子・蝦夷・入鹿などの蔑称を、敵側(藤原氏)から付けられてしまえば、その人物が実際は偉大な大王だったとしても、人物像が矮小化してしまいます。このことを理解している民族は、全力で「歴史書」を創作するのです。
文字はイメージを固定します。多くの文字の中でも、「漢字」にはイメージを固定する
呪縛性があるようです。例えば、「祀る」ということを表すには、「祭」と「穢」とで表現できます。「祭」は「歌や踊ることにより祀る」わけですが、「穢」は「犠牲を捧げることにより祀る」わけです。祀ることは同じであっても、「祭」と「穢」とは同じイメージではないでしょう。そうです、漢字には「貴賎」・「善悪」のイメージが元々潜んでいるのです。
例えば、「聖」という漢字の呪縛性は、「侵すべからず。正しいものである。」というイメージを与えます。だから、「聖」の漢字を使用した「ひと」や「もの」に対して、「疑うこと」はタブーとなるようです。例えば、「聖徳太子」や「聖書」などがそれです。「聖徳太子」のウソは、前節で述べましたので、ここでは「聖書」のウソについて考えてみましょう。
「旧約聖書」の物語を一度でも読んだことがあるひとは、異民族壊滅作戦の物語については、史実であってほしくない、と願わずにはいられないでしょう。では、旧約聖書の物語は本当に史実なのでしょうか。それに、消えたイスラエル十部族とユダヤ民族は、本当に同じ民族なのでしょうか。
紀元前十四世紀、鉄器文化を起した小アジアのヒッタイト帝国から、エジプトを目指す鍛冶集団がいました。その頃、エジプトでは、アメンホテプ4世(=イクナトン紀元前1377年〜紀元前1358年)が、独善的祭祀集団からの政治介入を逃れて、新都市アケトアテン造営のため、建設に携わる有能な職人を海外から招聘していたのです。
イクナトン王は、お妃をオリエントから迎いいれました。そのお妃は、オリエントで流行りの太陽神(ミトラ神)を信仰していたのです。その頃のエジプトでは、祭祀階級が勝手に神々を創造して王族や臣民をコントロールしていたので、イクナトン王は、その太陽神を唯一の神(アトン神)として、多神教を奉ずる祭祀階級を排除する宗教改革を強行したのです。そして、イクナトン王は、有能な外国人を高級官僚として迎い入れたため、祭祀階級だけではなく、元からの部下にも評判がよくなかったのです。
ヒッタイト帝国からの鍛冶集団は、その時勢に乗り高級官僚の地位まで上り詰めました。その鍛冶集団は「ヨセフ族」と呼ばれていました。
イクナトン王の強引な多神教から一神教への宗教改革は、不満分子を増加させていき、紀元前1358年まで持ちこたえるのが限度でした。そこで、イクナトン王の高級官僚のヨセフ族は、身の危険を感じてエジプトを脱出するわけです。(モーセの「出エジプト物語」は、それから約500年後のバビロニア幽囚後に創作されたものです。モーセの葦の揺り篭が河に流される物語は、古代メソポタミアのアッカドのサルゴン王(紀元前2350〜紀元前2294年)の物語にソックリです。それに、エジプト時代のヨセフ族は、日干しレンガを造る奴隷ではありません。古代エジプトでは、建築資材は「石」で、「日干しレンガ」は使いません。日干しレンガは、古代メソポタミアでの建築資材であるわけです。それに、古代エジプトではピラミッドや都市建設には、奴隷身分の者は参加できないのです。更に、モーセはいなかったことは、パトモス島のヨハネの黙示録の「666の謎」を解読したひとには、これ以上説明する必要はないでしょう。)
エジプトを脱出した頃には、部族が増えエフライム族とマナセ族の二部族となっていました。そして、イスラエルと呼ばれる地方に移り住むようになってから、その二部族はイスラエル民族と呼ばれるわけです。イスラエル民族は、元の鍛冶技術に加え、都市建設のテクノロジー、物流、労務管理、経理、会計記録、石物の建築技術(メーソン)、運河の掘削などの土木建築全般のノウハウをエジプトで修得していたのです。
シナイ半島を漂泊する鍛冶集団イスラエル民族に加わる部族が出現するのです。それがレビ族です。レビ族はイブリと呼ばれる漂泊する部族です。そのレビ族を加えたイスラエル民族は、エジプト軍が廃墟としたカナンの地に紀元前十一世紀に辿り着くのです。しかし、そのレビ族の祭祀アロンと結託したダビデによりの統一王国も、紀元前932年のソロモン王の死と伴に、イスラエル王国とユダ王国に分裂するわけです。元々、エフライム・マナセ族(太陽神アトン=ミトラ神)とレビ族(ヤハウェ)は異なる神を祀っていたわけですから、強力な統率者の存在がなければ、一緒に居られるはずはないでしょう。
イスラエル王国は多神教で、太陽神のシンボル牡牛やバアル神等を祀ったのに対し、ユダ王国は唯一神ヤハウェであるわけです。旧約聖書では、紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に敗れたのは、異教神を祀り、ヤハウェを祀らなかったからだと述べています。
イスラエル王国を飲み込んだアッシリア帝国も、紀元前625年にはメディア帝国に滅ぼされ、そのメディア帝国も紀元前550年に、アケメネス朝ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。
石物建設の技術を持ち、そして、太陽神を信仰し漂泊する鍛冶集団のイスラエル民族は、アッシリア帝国、メディア帝国、そしてアケメネス朝ペルシャ帝国の砂漠に、その歴史と伴に消えてしまうわけです。
それらの帝国には、共通する神の存在がありました。それは、ミトラ神です。ミトラ神の起源は定かではありませんが、紀元前19世紀にオリエントで発明されたようです。考古学的証拠では、紀元前14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都ボガズキョイ出土(1907年発掘)の条約文によりますと、印欧語族の一部がミトラ神を自らの宗教体系に取り入れていたようです。ミトラとは、「盟約」の意味を含み、崇高な光の世界を支配する陣営にあり、全てを見通す力を持ち、不正など世界の秩序を乱すあらゆる事柄に対する復讐者でもあるわけです。ですから、契約者はミトラ神に誓って契約を交わすわけです。この契約の履行を見守るミトラ神は、国際交易商人と伴に異教の世界に広がっていくわけです。
それがやがてオリエントの土着の宗教儀式を吸収して、太陽崇拝、牡牛を屠る祭儀、救世主思想、イニシエーションの密議(牛の肉を食べ、生血を飲むこと。)、七つの位階、占星術、そして火による密議(ゾロアスター教へ導出)などの儀式をおこなうミトラ教となっていくわけです。
そのような宗教環境のペルシャ帝国内を、エジプト時代から太陽神アトンを祀るイスラエル民族は流離うわけです。
一方のレビ族の末裔のユダ王国は、紀元前586年、バビロニア王国に滅ぼされてしまうわけです。そして、ユダヤ民族は、バビロニア王国で幽囚されてしまうわけです。そのバビロニア王国も、紀元前538年、ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。この時代を前後して、レビ族の末裔は、「モーセ五書」の創作にとりかかるわけです。
約50年後に戻った時のカナンの地は、既に異民族が住んでいました。そこで、幽囚中にカナンの地を占拠していた先住民を追い出すために、神から授かった「旧約聖書」を改竄するわけです。その目的のひとつの、カナンの地の先住民を追い出すための「ヨベルの年」等の法律を、唯一神ヤハウェがユダヤ民族に与えたことを立証するために発明されたのが、「神との契約者=モーセ」というわけです。
紀元前6世紀のペルシャ帝国に、再び、ヨセフ族の末裔とレビ族の末裔が存在したわけですが、ヨセフ族の末裔のイスラエル十部族のその後は定かではありません。しかし、レビ族の末裔は紀元前515年、エルサレム寺院を再建するわけです。それが、今に続くユダヤ民族です。
では、日本版イスラエル民族の「秦氏」は、どのようにして日本列島に辿り着いたのでしょうか。
時代は飛んで、官軍の砲撃が迫った慶応三年の江戸は浅草新町の屋敷に、薩摩藩の密使が訪れるのです。その屋敷には、長屋門(大名格の屋敷門)があり、その門には「丸に十の字」の紋がある提灯に灯りが入っていました。大玄関を入り数間を通り立派な床間を持した数十畳もある表座敷に、その屋敷の主人を前にして、筒袖のむさ苦しい髭面の大男が、「おまはんと島津家は同族ぞ。いにしえは秦氏ぞ。今こそ秦氏の恨みを晴らす倒幕ぞ。」と言うのです。
南九州で鎌倉時代から六百年も続く豪族の島津氏は、「島津」と名のる前は、惟宗氏(これむね)と名乗っていました。それは、鎌倉幕府を拓いた源頼朝により薩摩国島津荘の地頭職安堵により「島津氏」を名乗ったのが始まりです。その惟宗氏とは秦氏が平安時代に改名したものです。
その屋敷の主人の名は、弾左衛門、穢多を束ねる頭です。弾家の祖先は、鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼です。その昔、この族より秦左衛門尉武虎という武勇者が出、鎌倉の源頼朝に認められ、鎌倉長吏(警察業務をおこなう人。平安時代では、専門的な職能をもって、朝廷に使える集団構成員のうち、特に優れた者を長吏と言った。これが何故、江戸時代にアウトカーストになったのか。江戸時代に長吏は、穢多と蔑称された。)の頭領と成り、秦氏を弾氏と改めたのです。
薩摩の密使の言うことは事実でした。しかし、不思議です。江戸時代の身分制度の士農工商のカースト制度の中に入らない穢多頭の弾家が、そのカーストの最上級の士族と同族であることです。そして、その弾家は、昔は藤原氏(平安時代の貴族)を名乗っていたことです。
鎌倉幕府を拓いた源氏は、新羅系の末裔です。その新羅の先は、中央ユーラシアの「ペルシャ帝国」と、紀元前六世紀、騎馬戦車で戦った「スキタイ」の流れを汲む騎馬民族鮮卑の一部族の拓跋部の末裔「元氏」を先祖としていたようです。
その中央ユーラシアから東ユーラシアを疾走する騎馬部族の流れは、「ジンギスカン義経説」の人気を支える要因のひとつのようです。騎馬民族ジンギスカン軍も騎馬民族義経一族も、同じ「笹リンドウ」を部族のシンボルとして戦をおこなっていたからです。新羅系日本人のDNAには、モンゴルの草原が「フルサト」として刷り込まれているからでしょうか。
では、騎馬民族とはどのような民族なのでしょうか。でも、騎馬民族の歴史を知ることは困難です。それは、漂泊する民族の特性として、歴史書をもたないからです。ですから、農耕民族であるヘロドトス(紀元前484年〜紀元前425年)が書いた「ヒストリア」や農耕漢民族の司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年)による「史記」を基に推測するか、あるいは遺跡や考古物を基に推測する以外に方法がないからです。
しかし、農耕民族が書き残した「ヒストリア」や「史記」では、騎馬民族を、凶暴・残虐・略奪の民族として蔑視する視線で書かれているため、それを差し引いて推測する必要があるようです。
農耕民族の漢民族は中華意識により、胡(トルコ系遊牧民族)等の漂泊民族に対して、東夷(夷とは弓と矢をつがえる人間の形象。)、西戎(戎とは鉞で森林を伐採する山岳狩猟民族を指す。)、南蛮(蛮とは蛇竜などを背中、身体に文身刺青をする海洋漁労民を指す。)、そして北狄(狄とは獣の皮を身につけている民族を指す。)などの蔑称をつけていたのです。
騎馬民族の必需動物の馬の出現は、牛ほど確かではありません。牛は、紀元前二千年には、信仰の対象(ミトラ神のシンボル)として崇められていたことが粘土板に記録されています。しかし、馬は、信仰の対象とならなかったからか、記録に現われるのはずっと後のようです。
馬が棲息していたのは、ステップ草原地帯です。ウクライナのデレイフカ遺跡出土の馬頭骨は、紀元前四千年と言われていますが、どうも信憑性に欠けるようです。
オリエント諸国に馬をもたらしたのは、カッシートなどの山地牧畜民のようです。そして、馬と戦車が結びついたのは、紀元前二千年のメソポタミアの北方のミタンニ王国のようです。そのミタンニ王国からヒッタイト帝国、アッシリア帝国そして紀元前六世紀にアケメネス朝ペルシャへ騎馬戦車が引き継がれていくわけです。そのペルシャ帝国に対峙するスキタイも騎馬戦車を駆使して中央ユーラシアを支配していたのです。
騎馬民族スキタイは、民族名ではなく、国家名です。ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、スキタイ国は、農耕・通商・航海をおこなう都市居住民、商業風の農業経営民、純粋農業民、草原地帯に住む遊牧民、そして草原で天幕生活をする支配部族(鎌倉幕府の幕府とは天幕の意味。)を中心としての異部族の「かたまり」であるようです。
この騎馬民族のスキタイ国の国家運営方法は、商社主導の連合国家とも考えることができるようです。本社機能が草原の天幕にあり、農業や牧畜をおこなう生産支社が各地にあり、それらの支社を運営する支社長が現地部族長というわけです。
騎馬民族国家とは、別の見方では、生産に携わるのではなく、情報を操作して物流で稼ぐ国際商社とも考える事が出来るでしょう。支配民族に対して、軍事、警察、そして外交をおこなうことで、更に、囲郭のある都市を草原に造り、そこに技能者とくに平和時には農具などを造り、戦争時には武器が造れる鍛冶集団を、そして、異部族を統制するための、そして他民族国家の情報を収集させるための宗教者などを集めて住まわせ、そこを兵站基地として支配地域を拡大して行ったのです。
そのような商社機能を持った騎馬民族が、市場拡大のため、騎馬戦車などを武器として、他国を侵略するわけです。そこで当然、戦争も起こるわけです。しかし、戦争をおこなうのは最後の手段で、大抵は現地の部族長と婚姻関係を結んで支配地を拡大して行ったのです。そのためか、スキタイでは、騎馬戦車が幌馬車へ変身し、ひとや荷物を大量に早く運ぶものになっていくわけです。
この紀元前二千年オリエントで発明された騎馬戦車が、ユーラシアの草原を東に進み、紀元前十四世紀の殷商後期の遺跡から古代騎馬戦車が出土しているのです。
古代の世界は、現在のひと達が考えているより狭いのです。そのように考えられないのは、タクラマカン砂漠を駱駝の商隊が歩む、テレビ番組の「シルクロード」の刷り込みにあよるようです。
地球の北半球の大陸を、三層のケーキに譬えるなら、真中がオアシス国家などがある乾燥地帯で、その下が湿気の多い照葉・熱帯樹林地帯で、そして、一番上が草原・針葉樹林地帯です。その一番上のケーキがユーラシアの概念です。つまり、東は太平洋、そして西は大西洋までの地がユーラシア大陸なのです。
ヨーロッパから中国までの商業ルートは、その三層にそれぞれあるわけです。砂漠ルート、南洋海路ルート、そして草原ステップルートです。東西貿易ルートとしては、その三ルートがあるのに、何を意図してか、テレビ番組は定期的に「シルクロード」番組を制作・放映しているのです。
シルクロードは、前漢の武帝(紀元前141年〜紀元前87年)に開発されたのではなく、ドイツの地質・地理学者リヒトホーフェンが、十九世紀末に、西と東とは「絹の道」で繋がれていたらいいな、という思いで、「ザイデン・シュトラーゼ」と書いてしまったことに始まるのです。つまり、シルクロードは十九世紀末に発明された言葉なのです。(砂漠ルート「シルクロード」のオアシス国家は、元々匈奴(紀元前三世紀〜一世紀)が支配していたのを、前漢の武帝が、武力でそのオアシス国家を匈奴から略奪したにすぎません。このことを歴史書はシルクロードの始まりとしているのです。)
貿易は効率を大切にします。砂漠を何十ヶ月、或は何年もかけるよりも、海路で行けば、大量の荷物を傷つけずに短期間で運べます。草原ルートでしたら、海難事故もなく、馬車で短期間で運べます。冬にでもなれば、馬車そりを使えば、草原は高速道路に早や代わりします。
しかし、海洋民族も騎馬民族も、漂泊性のため、歴史書を持っておりませんから、そのような南海ルートや草原ルートは歴史書に記述されることもありません。
そのような、二つのルートからも、日本列島に歴史以前の時代から色々な部族や文化が流れ込んでくるわけです。
秦氏の末裔の島津氏や弾家を優遇した騎馬民族の鎌倉源氏も、元を正せば、その草原ルートからの渡来人であるわけです。その源氏に敗れた海洋民族の平氏も、南海ルートからの渡来人であるわけです。中国で言う「南船北馬」とはよくいったものです。
では、それらの異なる民族は、戦いの時、どのような識別方法を持っていたのでしょうか。その識別方法を知ることにより、その部族の出自を知るヒントが得られるでしょう。
源平時代の軍事部族は、白旗(源氏:ペルシャ→突厥→新羅)と赤旗(平氏:フェニキア→インド→百済)で敵味方を識別していました。それが、戦国時代になると、部族を表す「家紋」が突然現われるのです。その発祥地は何所かと言えば、それはオリエントからです。ですから、それらの家紋は、オリエント周辺の動植物や漂泊民族が崇拝する星月などを基にデザインされているのです。「十六花弁のキク」も、その源を正せば、オリエント(ペルシャ)原産であるわけです。戦国時代に突然現われた軍事部族のシンボルとしての「家紋」は、古代オリエントでの戦いに敗れた軍族や進駐軍の傭兵が、その部族のシンボルと伴に、砂漠ルート、南海ルート、そして草原ルートにより、歴史書以前から日本列島にもたらしていたのでしょう。
しかし、家紋はオリエント時代のままではなく、改造することもあったようです。その一例として、島津氏と弾家の家紋は、元は「丸」がなくて、ただの「十字」であったようです。この「十字」家紋は、何をシンボルとしていたのでしょうか。
秦氏は、四世紀の朝鮮半島に小さな国として誕生した新羅から、五世紀には、北九州に秦王国を築いていたようです。では、その北九州の秦王国を拓いた秦氏を先祖に持つ、島津氏と弾家、「士族と賎民」との差別は、一体どのようにして発生したのでしょうか。
その差別の謎を解くヒントは、北九州の秦王国と平安時代の大乗仏教との関係にあるようです。
「キサマ!それでも日本人か!」
「何所の馬の骨か分らぬ奴!」
「クダラヌ奴!」
平安の都で、罵声が飛び交っています。
罵声を浴びせているのは百済系日本人、浴びせられているのが新羅系日本人と秦人達です。
歴史教科書が言うように平安時代は、その漢字の意味とは異なり、実際は、藤原氏と百済系日本人以外には、「平安」ではなかったようです。この時代から「鬼」や「妖怪」が、日本国に出現するわけです。それは、822年に完成の、仏教宣伝パンフレット「日本霊異記」などで、仏教僧が妖怪物語を庶民にひろめた結果によるのです。では、鬼や妖怪の実態は何かといえば、それらは、朝廷にまつろわない漂泊民族や天を祀る道教士達であるわけです。
延暦十五年(796年)、平安遷都から二年目、桓武天皇は、風紀を乱すという名目で、「星祭」の禁令を発します。引き続き、その三年後の延暦十八年、京都近郷の百姓が、斎王(神を世話する巫女)が伊勢斎宮へ入御する日に、北辰を祀ってはならぬと厳しく通達を出しています。北辰(北極星)とは、道教の神で天武天皇が最も崇拝する星であるわけです。
その発令の裏で、桓武天皇は、延暦十六年(797年)、「斎内親王葛野川(桂川)に祓い、すなわち移りて野宮に入る」、とあるように伊勢斎王の潔斎所を死穢の地(墓地)に設けるわけです。平安時代では、大乗仏教思想により、死は穢れで、その穢れを葬る墓地は、穢れの最たる所であるわけです。
何故、桓武天皇は、伊勢神宮の聖所である潔斎所を、そのような穢れた場所にわざわざ設けなければならなかったのでしょうか。
そもそも、斎王派遣の制度を始めたのは、壬申の乱(672年)で百済系天智天皇の皇子(後の弘文天皇)を滅ぼした新羅系天武天皇からです。その天武天皇が始めた制度を否定したことは、その時点で、天武天皇系貴族の没落を意味しています。
更に、桓武天皇は、驚くべき事を、延暦四年(785年)に既に行っていたのです。それは、天神を交野(百済亡命貴族の居留地)の柏原に祀っていたからです。唐制の天神の祀りでは、遠い祖先の高祖あるいは太祖を置くのですが、桓武天皇は、日本書紀にある「天照大神」か「神武天皇」を置くべきところを、なんと父親の「百済系光仁天皇」を置いていたのです。これは、光仁天皇から「新しい王朝」が始まったことを公に主張していることになるわけです。
更に、平安時代から「天皇は男」でなければならないことになるのです。つまり、第四十八代称徳天皇(天武王朝)までは「女帝でも可」であったのが、平安時代から「天皇は男」のみとなるのです。それは、藤原氏の陰謀です。その意味は、大嘗祭(壬申の乱後、天武天皇が始めた、先帝から王権を引き継ぐ一世一代の再生儀式。天津神と国津神の聖婚。)を毎年行うことにより、天皇に聖婚させるための斎王(巫女。藤原氏の女)を捧げることができる為です。歴代の天皇の側室(場合によっては皇后となる。)に藤原氏の女が多くいるのはそのためです。
では、その百済系光仁天皇とその子供の桓武天皇は、どのようにして天皇になったのでしょうか。
桓武天皇の父白壁王(後の光仁天皇)は百済系皇族でしたが、無位の時代が長く続くのです。名もない百済系下級書記官の娘高野新笠を娶り、山部王(後の桓武天皇)が生まれた時に、白壁王は無官から、やっと従四位下に叙せられたばかりでした。この白壁王に目を付けたのが藤原式家の良継でした。藤原良継は、皇位継承権利者である天武天皇の血を引く井上皇后とその息子他戸(おさべ)皇太子を無実の罪で殺害し、白壁王を光仁天皇とするのです。
藤原氏は、藤原氏の基本戦略「夷を以って、夷を制す。」により、日本国乗っ取りの為、この百済系天皇親子(夷)を使い「ニッポン化計画」を実行に移すわけです。その戦略は、飛鳥時代の藤原不比等(天武天皇から左遷されたひと。)により計画されていたものです。それは、藤原氏が、神としての天皇を裏から直接コントロールすることにより、日本国の庶民を間接的にコントロールすることです。
それには、私権を公権にする「装置としての儀式」が必要です。そして、その公権に権威をつけるためには「歴史」(歴史書とは客観を装った主観的物語)が必要です。(藤原不比等は、そのために720年に「日本書紀」を創作していた。その呪縛は現在も健在。)
藤原氏は、儀式としての装置として、仏教(インド・バラモン僧によるヒンズー教化仏教の開発=公費留学僧・最澄の天台宗と聖徳太子の出現。私費留学僧・真言宗の空海は秦氏の末裔のため、桓武天皇から嫌われていたので、桓武天皇崩御まで京都を避けていた。)と神道(天武天皇崩御後、藤原氏と関係が深い中臣氏が開発した中臣神道で、伊勢神宮を支配。)を利用するのです。そのためには、飛鳥時代からの「道教」と「景教」は邪魔な存在です。更に、それらの神を祀る新羅系日本人と秦人も邪魔な存在です。そこで、新羅系日本人と秦人を政権中央から追い出すのです。そのための装置として、814年に「新撰姓氏録」を創作して、「皇・神・蕃(渡来人)」の序列を造り、貴族と賎民とを創り出すのです。(しかし、実際には「皇」も「神」も渡来人です。)勿論、藤原氏と百済系日本人は「皇」の貴種(貴族)となるのです。(ここから現在の皇族の歴史が始まる。)そして、道教の観は「神社」に、そして景教寺(十字寺)は「仏寺」に改造させるのです。(光仁・桓武天皇親子は、「道鏡事件」の主犯の和気清麻呂を使い、北九州の宇佐八幡を乗っ取り、その地の無数の仏閣を解体し、瀬戸内海から船で奈良・京都に運び、道観や景教寺を壊し、それらの地で秦王国の仏閣を組立てるわけです。その和気清麻呂が、桓武天皇に平安京(京都)遷都を進言するのです。)
景教とは秦氏の宗教です。景教の「景」とは、日の京を意味します。それは太陽を祀る国を目指す教えであるわけです。(早朝のお天道様を祀ること。)日本列島に無数に存在する景教の祀り所は、権力の目を誤魔化すために、「稲荷」(表向き「イナリ」と読ませる。)としてカモフラージュするわけです。その意味は、先祖を祀る「塚」つまり「ジュガ=つか」が、「稲(ジュ)荷(ガ)」、つまり「稲荷神社」となるわけです。そして、秦氏のトーテムの「狼」は「狐」に化けるわけです。
そして、秦一族は、権力からの弾圧を避けるため自ら出自を隠し、秦の氏名を、ニッポン名(中国式の一文字から、上・中・下・山・川・田などを加えて二文字にすること。)に替えるのです。それは、645年の蘇我王朝滅亡以降から始まるのです。
そして飛鳥時代の権力者、あの聖徳太子のブレーンと言われている秦氏の統領の秦河勝の墓(大阪・寝屋川に存在)も、秦氏の支配地だった京都(山城国)の地にはないのです。これは何を意味しているのでしょうか。
そして、その秦氏のニッポン名は、「ハタ・パタ」畑、端、畠、渡を基本として、羽田、波多、波蛇、八田、半田、矢田、秦野、畠山、畠田、畑川、波多野、畑中、八幡、服部、林、神保、宗、朝原、太秦、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛島、小松、大蔵、三林、小宅、高尾、高橋、原、常、井出、赤染、大幡へと、時代の激変時(平安・鎌倉・戦国時代)に改名されていくのです。日本国における苗字の流れとしては、飛鳥・奈良時代:氏(うじ)=血縁・地縁名→姓(かばね)=家格名。平安時代:字名(あざな)=私有地名→名字(みょうじ)=家名と変化していくわけです。
では、その秦氏は、いつ何所から日本列島に渡来したというのでしょうか。新撰姓氏録では応神天皇十四年、融通王が百二十七県の百姓を率いて帰化、とあるようですが、その渡来時期は本当なのでしょうか。(言葉や文字は、「日本書紀」のように無限にウソをつくことができます。)
では、秦氏はいつ何所から渡来したというのでしょうか。本当のことは謎の中のようですが、教科書歴史が述べる朝鮮半島からだけの渡来とは異なり、ロシア草原ルートの北からの渡来もあったようです。秦氏は、新撰姓氏録が言うように、秦始皇帝の末裔どころか、もっと西の方から日本列島に長い時間を掛けて渡来してきたようです。
飛鳥時代以前(推古天皇以前)の歴史は、多人長(秦氏の末裔)が812年に創作した古事記の暗号が理解できなければ、藤原氏の陰謀策略(聖徳太子・中臣鎌足・大化の改新の創作による蘇我王朝の抹殺)により、殆ど分らないのが現状のようです。
いや違う、古代の歴史を知るには「日本書紀」があるではないか、と言っても、それは藤原不比等が720年にプロデュースし完成したもので、飛鳥時代の真実を語っているとは信じることはできません。
しかし、「書籍」は無限にウソをつくことが可能ですが、「自然」はウソをつくことがきません。
ひとは誰でも、仙人とは異なり、霞みを食べて生きていくことはできません。そこで、その部族が暮している自然環境に合わせて食生活を営むわけです。その異なる食生活により部族を分けるとすれば、三つです。農耕民部族、漁労採取民部族、そして牧畜民部族です。
そのような三種類の食生活により、日本列島渡来部族を時系列に眺めてみますと、縄文時代の漁労採取部族、弥生時代の農耕部族、そして古墳時代の牧畜部族が考えられるでしょう。
魚介類の渡来ルート特定は困難のようですが、野菜・穀類は可能です。それは、野菜や穀類は、野生植物とは異なり、ひとの世話なくしては育たないからです。
日本列島は、二つの文化圏に分けることが出来ます。それは、名古屋以南の照葉樹林文化圏と名古屋以北の落葉樹林文化圏です。それら二つの文化圏の植生は異なります。
オオムギは世界中で栽培されていますが、大きく分けると、二つに収束します。それは、東洋型(E型)と西洋型(W型)です。
E型の分布の流れは、チベット→ヒマラヤ高地→中国→日本列島中南部(名古屋以南)です。そして、W型の分布の流れは、ヨーロッパ→アフリカ北部→西アジア→インド平原→シベリア→満州→日本列島東北部(名古屋以北)です。
日本列島には昔から、出自の異なる二種類のオオムギが栽培されていたのです。それは、日本列島には、「南」と「北」の二つの渡来ルートがあったことを示唆しているようです。
その他の渡来穀物である、ソバ、ヒエ、アワ、イネ、野菜類のサトイモ、ヒョウタン、マクワウリは、弥生時代に華南から渡来したひと達(海洋民族)と伴に、日本列島照葉樹林文化圏に伝播したものです。
しかし、不思議なのは、中央アジア原産の野菜類が、京都の地(山城国)で栽培されているのです。それも、奈良時代以前からのようです。それらは、胡麻(ごま)、胡葱(ねぎ)、胡瓜(きゅうり)、そして人参です。(京都では金時ニンジンといわれている。漢民族はペルシャ渡来の物やひとには「胡」の漢字をつけて識別していた。)
馬の好物の人参は、肉の臭みを消すので、遊牧民族には好まれる野菜です。でも、中国大陸の農耕民の漢民族は人参を好まないため、中国では長く栽培されることはなかったようです。(現在は、西洋ニンジンを栽培している。)
その中央アジア原産の人参が京都の地で、奈良時代以前から栽培されていたことは、奈良時代以前から中央アジアから渡来して来た部族が暮らしていたことを示唆します。
そして、平安時代になると、そのキュウリ(胡瓜)は、ゲスな野菜に落されてしまうのです。(そのゲスのキュウリは、道教の水神の馴れの果て「カッパ=間の抜けた妖怪」の好物とされてしまうのです。これは手の込んだイジメである。)
そのキュウリは、祇園さんの「神紋」となっているのです。祇園さんは、牛頭天皇を祀ります。牛頭とは、氏神でもあるわけです。そして、山背国(桓武天皇は、その地が山に囲まれ要塞化していることで、「山城国」と名付けた。)を拓いた秦氏の氏寺の大秦寺(景教寺)は、魔多羅神による「牛祭り」を行っています。
平安時代初期には、山城国では氏神を祀るため、牛を犠牲にしていたことは、804年に牛の屠殺禁止令が出でいることで理解できるでしょう。
その祇園御霊会において「牛頭天皇の神輿」が、京都御所の近くに来ると、神輿違御幸(みこしたがえのみゆき)と称して、天皇や皇族達は、穢れを避けるため一時凌ぎに都から避難していました。つまり、「牛頭天皇の神輿」は、「穢れの神」「疫病神」であったわけです。これが後に、中臣神道の「清目(キヨメ)の思想」により、「お祓い」の儀式が開発されると、清目のために「水」や「塩」を「穢れた神輿」に撒くことになるわけです。
京都の先住民の氏神が、「穢れ神」であるのなら、その氏子も「穢れびと」であるわけです。その氏子達を、「何所のウマの骨」扱いをすることは、京都の貴族達(藤原氏・百済系日本人)は、先住民(秦人・新羅系日本人)の出自を、騎馬民族であることを知っていたからでしょう。
穢れ(インド・カースト思想)は、平安時代に、朝廷にまつろわない騎馬民族・漁労民族を貶める目的に、藤原氏が、庶民のためではなく鎮護国家の目的のため、「ヒンズー教化仏教=貴族仏教」と「中臣神道=貴族神道」を使い、貴族達に広めた思想です。
この穢れ思想は、平安末期になると、都の貴族が没落したため、貴族のスポンサーを失った仏教教団は武士団や庶民へ布教を広げたため、全国に広がっていくのです。つまり、日本国における民族的差別(イジメ)は、平安の京都から始まったのです。
しかし、その秦人が、西域から日本列島に渡来していなかったら、日本の文化・技術は萌芽しなかったでしょう。
神輿の黙示録(3)(敗者の反撃:武士団と芸能民の発生)
戦国部将を三名あげなさいとの問いに、戦後教育を受けた日本人であるならば、即座に答えることができるでしょう。それらの部将とは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。そして、それぞれのキャラクターも即座に答えることができるでしょう。それらは、織田信長は古い体制を壊す「革命家」、豊臣秀吉は下層階級から天下人となった「努力家」、そして、徳川家康は抜け目の無い「タヌキ親爺」となることでしょう。
教育という「刷り込み」とは恐ろしいものです。一度でも情報が刷り込まれてしまえば、その後、訂正することが非常に困難だからです。
では、それらの部将達は、戦国の昔からそのような評判を得ていたのでしょうか。それは違います。そのような部将達のキャラクターを創作したのは、実は、戦国末期からではなく、明治時代からなのです。
戦国時代末期には、織田信長と豊臣秀吉が敵対する非戦闘員の人民・婦女子に行ったことを調べれば、彼等が下層階級から憎まれていたことが理解できるでしょう。そのことを裏付ける根拠のひとつとして、織田信長と豊臣秀吉の遺骨がこの世にはないのです。
織田信長は、ユダヤ・キリスト教一派のイエズス会(右手に聖書、左手に銃を持つ教団。侵略目的地に病院設立→学校設立→交易代理人育成→軍事顧問招聘→軍隊侵攻→植民地化。インドとマカオの歴史の流れ。)のフロイス(織田信長と18回謁見した。1569年に謁見後の信長軍の軍備が充実した。特に銃。1575年三河長篠の戦いで信長軍鉄砲隊で武田勝頼を敗退さす。)の報告が事実とするならば、本能寺で「爆殺」されてしまったため遺骨が存在しないのです。織田信長の敵は、明智光秀だけではなかったのです。
豊臣秀吉は、法名「国泰祐松院殿霊山俊龍居士」があり、京都市の阿弥陀ヶ峰にある豊国廟に祀られているから遺骨があるのではないか、と思うかもしれません。しかし、そこにあるのは他人の遺骨らしいのです。始めは、秀吉の遺体は「平氏」としてミイラ状態で埋葬されたのです。その後、大阪夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡すると、その墓を、徳川家康が暴き、そのミイラを火葬にし、どこかに葬ってしまったのです。そして、代わりの遺骨が埋葬された山奥の人も通わぬ墓が、阿弥陀ヶ峰にあるわけです。
しかし、明治時代になると、立派な豊国神社が京都(百済系桓武王朝の都。廃墟寸前の御所は明治時代になると新装されて立派な御所となって今日に至。)に創建されるのです。
では何故、徳川家康が、そのようなことをしたのかを解くヒントは、織田信長も豊臣秀吉も、自称「平氏」を名乗っていたことです。ちなみに、徳川家康は「源氏」を名乗っていました。
と言うことは、慶長5年(1600年)の関が原の戦いとは、平氏(豊臣氏)と源氏(徳川氏)との「第二次源平合戦」とも考えることができるかもしれません。
それでは、日本国の軍事部族、「源氏」と「平氏」とは、どのようにして歴史上出現してきたのでしょうか。ではその前に、武士のおこりを歴史教科書では、どのように記述しているかをみてみましょう。
国司は新しい開墾地にも重い税をかけた。そこで、有力な農民などは国司との争いや、土地をめぐる争いに、武力を使うようになった。争いのときには、一族や下人とよばれる従者をひきいて戦った。これが武士のおこりである。やがて、武士は有力な豪族のもとに結集して、武士団をつくった。武士は、開拓がさかんで良馬の産地である東日本に、とくに多くなった。また、任期が終わった国司なども、そのまま地方に住みつき、各地の武士を家来として、勢力をのばした。武士団のなかで、とくに有力となったのが源氏と平氏であった。
教科書の記述によれば、「有力な農民など」が、武士の前身であるとのことです。では、その武士達は、どのような暮し向きをしていたのでしょうか。
武士は荘園や公領のなかの、土塀や堀をめぐらした屋敷に、武家屋敷といわれる建物を建てて住んでいた。屋敷のまわりに広い田畑をもち、ふだんは下人を使って耕作したり、近くの農民に小作させたりしていた。有力な武士は地頭や荘園の管理者として、荘園を管理し、自作する農民から年貢を取り立てて、荘園領主へ送った。
当時、武士の家は「弓馬の家」といわれた。武士は馬に乗り、弓を引いて一騎打ちの戦いをした。夫をなくした女主人は、武士団を統率もした。結婚しても生家の姓を名のり、その地位はかなり高かった。
政府公認の権威ある教科書の記述なので、武士のおこりの説明をすんなりと納得してしまいます。しかし、よく考えてみると可笑しなことが多々あるのです。
其1、国から派遣された国司に対して、農民が鍬や鋤などの農具を武器として互角に戦えるものなのでしょうか。
其2、何故、東日本が開拓がさかんで良馬の産地であったのでしょうか。
其3、何故、外から襲われることも無いのに、武士は屋敷を土塀や堀をめぐらしていたのでしょうか。
其4、農民が馬を飼育することは納得できても、乗馬しながら弓を引くことなどの高等技術は、どのようにして習得したのでしょうか。
其5、儒教思想を庶民管理に利用した大乗仏教支配の平安時代の「男尊女卑」の世界で、何故、武家の社会では「女尊」であったのでしょうか。
以上の、武士のおこりに対する疑問の答えを探すには、平安時代以前に戻らなくてはならないようです。
平安時代に出現した「武士」と「芸能民」との発祥は同じです。それは、武士のことを、「武芸者」ということからも理解できるでしょう。では、その両者の源(芸)とは何かと言えば、それは清目(キヨメ)です。では、その清目とは何のことなのでしょうか。
清目と言えば、すぐに思いつく事は、葬儀後の「塩」か「食事」のことでしょう。しかし、平安時代に発明された「清目」とは、個人的な葬儀に対してではなく、国家の鎮護(怨霊を、「犠牲」もしくは「舞踏」により祀ること。)を司る重大なことであるわけです。
では平安時代には何を清目たのでしょうか。それは、「敵神の怨霊」です。その原因は、平安時代を築く目的で、藤原氏や桓武天皇は、敵対する「道教の神」や「景教の神」を、ヒンズー教化仏教を道具として呪殺したからです。
更に、式家の藤原兄弟の良継と百川は、白壁王(後の光仁天皇)を天皇にする目的のために、その井上皇后と息子の他戸皇太子(天武天皇の血を継ぐ最後の皇太子)を謀略で殺害しています。そして、その光仁天皇の息子の桓武天皇は、実弟を無実の罪で殺害しているのです。これらのことは、旧約聖書によれば、ダビデの王権を祭祀アロンと結託して謀略により簒奪し、実兄弟を抹殺したソロモンと同じことが、時空を越えた平安時代に再現されたわけです。
古代の神は、「祟り」と「守護」を兼ね備えていたのです。飛鳥・奈良時代では、神に敵対する者は「祟られ」、神を祀る者は「守護された」わけです。
そのため、平安の都は、怨霊の祟りによる奇怪な事件が続発していたのです。藤原氏と桓武天皇は、それらの祟り(怨霊)を静めること(清目)を目的に、敗者の神の氏子(秦氏・新羅系日本人)を「令外官」として雇い入れたのです。それらが、武士と芸能者の先祖であるわけです。
平安時代、天皇を怨霊から守る清目の仕事とは、天皇直属官人として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会、祭礼の守護、行幸路地の巡検及び普請・清掃、そして橋・河などの公界的な場の管理などです。(では何故、鎌倉末期になると、「清目」が下層階級の「汚れ仕事」になってしまったのでしょうか。)
物理的な守護は、正規軍の「武術者」が行うわけですが、怨霊など目に見えない「モノノケ」に対しての守護は、敗者神の氏子の「武芸者」でなければならなかったわけです。(この見えない彷徨う怨霊(宿神)を清めることを、歌謡と舞踏で表現した芸が、後の「能」となるわけです。ですから、嗜みのひとつとして、武士は「能」を舞えなければならなかったのです。ちなみに芸能の「祖」は、秦氏の統領の秦河勝「翁・宿神」です。)これは、王権側の「穢れ」攻撃に対する反作用です。自ら創作した怨霊を恐怖するこころが、そのような敵側の氏子により天皇を直接守護する集団を創りだしてしまったわけです。
その清目の仕事は、やがて「検非違使」という政府権力組織に発展していくわけです。平安時代の検非違使の仕事とは、鎌倉時代以降の「穢多」の仕事などではなく、天皇を護る高貴な仕事であったのです。
このことは、「長吏」にも言えます。鎌倉時代の末期には、長吏は「穢多」の仕事になってしまうのです。では、元々の長吏の仕事はどのようなものだったのでしょうか。
平安時代になると、桓武天皇は、まつろわぬ秦人や新羅系日本人を、京の都から追放するわけです。その追放先は、山や河川のジメジメした湿地帯や中州、或は、産鉄民族の鉱区跡の「別所」「散所」「湯浅」「海渡」などと呼ばれた山奥の小さな盆地です。
しかし、多くの追放者達は、鈴鹿の関を越えて北関東・東北の諏訪(トルファン)、武蔵(ムクラ、これを「ムサシ」と読ませた人は天才です。)、常磐(トコハン=東胡+フン)へ移住するのです。それらの地域は、古代にユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の第二の故郷だったからです。(平安時代、王権は、騎馬民族文化抹殺のため居住所名をニッポン語化していた。西日本は常民「王権に従う民」の中に部落が存在していたが、東日本では部落の中に常民が存在していた。)
しかし、藤原氏にコントロールされた百済王朝が支配する近畿地方に留まった者たちは、過酷な生活環境を克服していくのです。
秦氏とは、元々は民族名ではなく、騎馬民族国家スキタイと同じに、あらゆる職能者の連合部族であるわけです。そこに騎馬民族の末裔のネットワークが加われば、生活圏は無限に広がるわけです。騎馬民族は、その組織機能からして、国際交易商人と同じだからです。
秦人たちは、古代エジプトで土木・建築技術を習得したイスラエル民族のように、灌漑・土木・堀削の技術を駆使して、河内湖を干拓し、湾近くの河川敷に「津」を造り、海外と交易を開始するわけです。その拠点は、「難波」です。やがて、難波は日本一の貿易都市となるのです。それは、難波は、古代からペルシャとシルクロードで繋がっていたからです。
紀元前六世紀、アケメネス朝ペルシャは、騎馬民族国家スキタイ(女戦士が多数存在した。草原に囲郭を造り集落を築く。幌馬車で移動。)と交戦していましたが、紀元前四世紀になると、西方のマケドニアからアレキサンダー大王がペルシャに侵攻してくるわけです。その戦いに敗れた、ペルシャ・スキタイの残党は、西に東に移動するわけです。
スキタイは、紀元前三世紀には、歴史から消え、その後に、騎馬技術と馬上弓射を習得した匈奴(漢民族による蔑称。チュルク系騎馬民族。漢民族と異なり髭が濃い。)が、シベリアの草原に現われるわけです。その匈奴は、シベリア草原から南下してタクラマカン砂漠に「楼蘭」という国際交易都市を造るわけです。
その「楼蘭」も、紀元前一世紀、匈奴が前漢の武帝に敗れると、やがて砂漠の中に消えてしまうのです。そして、前漢の時代、朝鮮半島の根本に「楽浪」の国際交易都市が建設されるわけです。
その「楽浪」は、二世紀の中頃、高句麗が興ると、高句麗の国際交易都市となるわけです。やがて、四世紀になると、日本列島に交易のため侵攻してきた高句麗、百済、そして新羅の三国の商人達が、朱砂、水銀、絹織物等を争奪するため、近畿地域で貿易覇権をかけて三つ巴の戦いを繰り広げるわけです。その、近畿への上陸地点の「津」のひとつが、「難波」であるわけです。
「楼蘭」→「楽浪」→「難波=浪速」、この流れは何を語っているのでしょうか。それは、共通読みの「ロウラン」が答えてくれるでしょう。
平安時代、都を追われた者たちの「津」の交易先は、新羅国(百済系京都王朝の敵国)となるわけです。その津は、いつしか「渡辺津」(新羅の末裔と信じる源義経は、この渡辺津から屋島の合戦へ出陣した。)と呼ばれるようになるわけです。その意味は、「鮮卑(拓跋)」→「済(渡る)」→「渡」への出自隠しの変化によるようです。
教科書歴史では、鎖国を日本国で始めたのは、江戸時代の徳川家康からであると教えています。しかし、それは違います。
811年、新羅人が対馬にやって来るのです。それは、蘇我王朝から天武王朝の奈良時代までは、新羅国とは友好的に交易を行っていたからです。しかし、この後も何度も新羅国の使者が来航するのですが、平安朝廷は、新羅の使節使が唐服を着てきたからなどと色々な難癖を付けて追い返すのです。つまり、新羅国に対して事実上鎖国政策をするわけです。
そして、平安朝廷は、奈良時代まで使用していた貨幣の流通を禁止するわけです。(鎌倉時代になってから貨幣使用が復活する。しかし、その貨幣は中国・宋銭です。)それは、朝廷にまつろわぬ秦人が、海外貿易で貨幣を溜め込み、勢力を再び増強しないようにする目的のためです。
では、新羅国は何を交易品として求めてきたかといえば、それらは、水銀、銀、そして琥珀です。
シルクロードでの絹貿易は、六世紀に繭と絹織物の技法を僧侶に盗まれてしまった結果、ヨーロッパでの需要が衰退したため、ヨーロッパでの需要逼迫の水銀、銀、琥珀を日本国から輸入したかったからです。(銀は、メキシコ銀鉱山が開発されていない十六世紀までは、日本国が世界最大の産出国だった。)
樹脂が化石化した琥珀は、古代から交易品の上位にありました。それは、呪術に関係していたからです。琥珀が歴史上に現われるのは、紀元前十二世紀です。琥珀ロードは、シルクロードより先に開発されていたのです。その琥珀ロードの開発者とは、海洋民族フェニキアです。
そして、その琥珀の産地は二箇所です。ひとつはバルト海沿岸です。そしてもうひとつは日本列島の岩手県久慈であるわけです。
紀元前十一世紀頃、赤いマントを羽織る海洋民族フェニキアは、紅海に面したエドムの港から大型外洋船タルシシ船で、その交易先のインドからクジャク、香木、紫檀、サル等を、琥珀を貨幣の換わりにしてカナンの地に輸入していたのです。
日本国における琥珀は、二万年前の北海道千歳「柏台遺跡」と縄文晩期の日高地方「新冠古墳」から出土しています。教科書歴史では、八世紀までは未開の地となっている北海道最北端の宗谷岬には、紀元前十世紀にはオンコロマナイ文化が栄えていたのです。ロシア草原ルートは、バルト海沿岸から北海道(渡り島)まで続いているのです。
それでは本土ではどうかと言えば、三世紀から出現する奈良盆地周辺に点在する古墳から琥珀製の勾玉・夷玉が出土しているのです。そして、奈良時代に仏教が栄えると、仏教七宝のひとつとして琥珀の数珠が霊力ある道具として珍重されるわけです。このことは、古代から陸奥国と近畿地方とは、交易ルートで繋がっていたことを示唆しています。
その平安時代の難波での交易も、朝廷の鎖国政策と貨幣使用禁止のため長くは続かなかったのです。そこで、秦人たちは、穢れ思想を逆手にとって新たな経済活動を行うわけです。
神社とは、道教の穢れ神(平安初期の「ケガレ」とは、汚れていると言う意味ではなく、反体制の意味。)を封じ込める装置として、国家権力(仏教側)により発明されたものです。その穢れ神を祀る所は、その氏子にとっては神聖な場所であるわけです。しかし、王権はその氏神と氏子との交流を切断する装置を発明するわけです。それが結界を示す鳥居です。そして、その鳥居に標縄(しめなわ)をめぐらし、幽界に氏神を封じ込めるわけです。(ここから「ナワバリ」意識が始まる。つまり、内「公界」と外「異界」です。)
しかし、そのように永遠に氏神を封じ込めては、氏子の不満は爆発することでしょう。そこで王権は、年に一度だけ、氏神と氏子との交流を認めるわけです。それが、神輿による祭りです。しかし、氏神の乗り物の神輿から怨霊が抜け出ないように、神輿の扉は「閉め扉」となっているわけです。
やがて、穢れ思想(王権の秩序を乱すこと。)が変化してしまう鎌倉末期になると、公界の娑婆を穢さないように、清目として、神輿に向かって「水」や「塩」を撒くことになって今日にいたるわけです。(現在では、「清目」の本来の意味が分らなくなり、「塩」や「水」を神輿に撒くことは、「景気付け」と解釈されているわけです。)
この穢れ場所は、神を祀る「社」(やしろ)で、「会」とはネットワークを意味し、その「社」に集まることは、「社会」となるわけです。でも、その社に集まる人達は、王権から疎外された人達ですから、公には集うことは、「とうりゃんせ」の歌詞にあるように、「行きはよいよい、帰りは怖い」、わけです。それは、神社の境内にある横屋の王権側の監視所から、常に参拝者の動向が見張られているからです。
ですから、その「社会」は、必然的に「秘密結社」となるわけです。そして、その秘密結社と王権とを繋ぐ顔役(仕切り人)を「長吏」というわけです。つまり、長吏の仕事とは、疎外された人達を守る(任侠=弱い立場の人たちの間を狭めること。)ために、王権との調停を行う代理人であったわけです。
平安時代、その長吏たちが経済活動を行う場所は、王権が手を出せない、標縄を張り巡らされた神社境内や橋のない中洲であったわけです。ここが経済活動の場であり、「島」(カル=銅。銅が採取できる山=カル山=香具山。神社の祭りで出店を経営するひとを香具師・ヤシと言う。)であったのです。この島が、鎌倉末期になると「穢れ場」となるのです。何故か?
長吏は、王権の穢れ戦略を逆手にとって、無税の地で経済活動を広げていくわけです。そして、財をなすことで独占的販売システムを確立していくわけです。それが「座」です。それに対して王権側の仏寺は、門前「市」でビジネスを行うわけです。
平安貴族達が、朝廷に奉ろう農耕民を奴隷化して利益を独占する装置としての「税制」と貨幣使用禁止の逆手を取って、長吏たちは神社をネットワークに「座」を全国に広げていくわけです。しかし、その特権を維持するには護衛が必要です。それらの護衛任務を行うひとを「神人」(じにん)、そしてその武装集団を「神兵」というわけです。
そのような逆特権の場を利用して、物語を聞かせたり、歌謡をする集団を組織し芸能業を興し、更に、馬を利用しての運輸業や倉庫業等を手広く経営していくわけです。
その全国にまたがる物流を行なう過程で、決済のための為替や小切手の仕組み、つまり、金融業も経営していくわけです。更に、事業の資金調達のため「株」を発行し、「座」の利益を配当する株組織も開発するわけです。その「座」を仕切る「顔役」のことを「役座」(やくざ)というわけです。
つまり、平安時代の「役座」が、物産開発(素麺座の三輪素麺等)、馬を使用した物流業、歌謡・舞などの芸能プロダクション業、為替・株等の金融業を日本で初めて創業したのです。
そして、戦国時代末期に、織田信長が出現するまでは、役座が「難波」を拠点に全国の神社ネットワークを使用して体制外経済をコントロールしていたわけです。(その平安時代の役座が、江戸時代になるとアウトローの「ヤクザ」となり、「与太者」と呼ばれるわけです。「与太」とは、奈良時代までは、道教寺の「観」で、霊を降臨さすために、フェルト状の布の「真床追衾・まとこおうすま」のハンモックのようなものを「揺する」与太職の神職であったのです。その「揺する」が「強請り」と変化して、ひとを脅すヤクザとなってしまうわけです。更に、落語では、「騎馬民族に対する蔑称」の「馬鹿」の代名詞「与太郎」に貶められてしまうのです。)
戦国末期、この日本一の商業都市の「座」の利権を得る目的で、イエズス会の銃器・弾薬で武装した自称平氏の織田信長は、全国の座組織を支配している拠点の「難波」を十一年間も攻撃しても壊滅させることができず、朝廷に和議斡旋の願いを出し、和議勧告の最中、戦闘態勢を崩した難波軍(鉄砲隊の雑賀衆徒や安芸の毛利水軍も援助していた。)を攻めて、その地を壊滅したのです。そして、織田信長はその地を乗っ取り、諸国の市・座組織を解体して「楽市楽座」をおこなったのです。
そして、1582年その難波の地に大阪城を建設する直前に、織田信長は、本能寺で誰かにより仕掛けられた爆薬で、「爆殺」されてしまったのです。しかし、翌年には、羽柴秀吉は、大阪城の建設にとりかかるのです。(この手際よさ、つまり、織田信長が爆殺されるのを予知していたかのごとく、戦闘中の毛利氏と即決和睦し、本能寺に駆けつけるのです。そして、翌年には大阪城の建設に着手するのです。)
そして、渡邊津の住人をその地から追い出し、大阪湾の湿地帯に追いやるのです。そして、1588年あの有名な「刀狩」を行なうのです。それは、大仏を造る(完成した大仏は木製の金張りでした。)という名目ですが、実際は、公家(亡命百済人と藤原氏の末裔)に唆された豊臣秀吉は、朝鮮・明国支配の妄想にかかり、その朝鮮侵略のための武器としていたのです。そして、豊臣秀吉軍は、難波で行ったことを、朝鮮半島でも行なっていたのです。(このことにより、秦氏の末裔により創作された「能」では、豊臣秀吉は善人としては描かれることは決してないのです。)
それらの同族(騎馬民族・新羅人)に対する豊臣秀吉軍の朝鮮半島での「人間にあるまじき仕打ち」に対して、自称源氏の徳川家康は許すことができず、豊臣秀吉の遺体をこの世から抹殺したのでしょう。
朝鮮蔑視をした自称平氏の豊臣秀吉(「豊臣」とは、豊国の僕と言う意味です。では豊国とは何かと言えば、それは九州・秦王国のことです。百済京都王朝は、九州・秦王国を乗っ取って豊国と名称を替えたのです。その豊国から多数の仏閣を移築した都が京都と言うことです。つまり、京都とは豊国の亜流都なのです。と言うことは、豊国の僕は、京都王朝より挌上という理屈になるわけです。)に対して、自称源氏の徳川家康は朝鮮国を敬っていた(朱子学を朝鮮の学者から学んでいた。)のです。ですから、徳川家康は、朝鮮王朝に朝鮮国における豊臣秀吉軍の蛮行の詫びを入れて、国交を復活するのです。
そして、それに対して徳川家の代替わりには、四百人以上の朝鮮通信使が日本国を訪れるわけです。朝鮮通信使たちは、徳川幕府最高の礼遇で日本国に迎い入れられたのです。そして、江戸時代に都合12回の来日があったのです。
平氏発祥の基は、亡命百済人です。そして、明治維新で藤原氏により政府中央に返り咲いた亡命百済人の末裔(夷)は、663年の出来事を忘れる事が、今でもできないようです。
明治維新勃発の謎を解くヒントは、明治維新軍の中核であった薩摩藩の島津氏の天璋院篤姫が、藤原氏の総本家の近衛家の養女となっていることです。(藤原氏の姻戚戦略)つまり、秦氏改め惟宗氏が、鎌倉時代に薩摩国島津荘の地頭職となって「島津氏」に改めたわけですが、その薩摩国島津荘のもとの荘園主が「藤原氏の総本家の近衛家」であったわけです。つまり、鎌倉時代より、島津氏(秦氏)と近衛家(藤原氏)は姻戚関係であるわけです。
ちなみに、日の丸の旗は、江戸時代、島津氏が琉球王国との密貿易に使用した船に付けて自船を識別していたものです。
明治維新で藤原氏が復活して、平安時代の王政復古(摂関政治=近衛家が天皇家を支配)を唱えたことは、「そのこと」で説明できるかもしれません。つまり、藤原氏の基本戦略は、平安時代も明治時代も、「夷(百済系天皇=平氏)を以って、夷(新羅系日本人=源氏)を制す」だからです。
神輿の黙示録(4)(日本密教の発明:「穢れ」から「ケガレ」へ)
ひとは、儀式や呪文の由来や意味が分らないのに、昔からの言伝えだからと、それらの真意を疑ったり、調べようとはしない傾向があるようです。
例えば、子供の頃の真夏の昼下がり、ゴロゴロと雷鳴を聞くなり「クワバラ、クワバラ」と、蚊帳の中で両手を合わせ拝む祖母を見た記憶のあるひとは少なからずいることでしょう。その呪文の意味を祖母に聞いても、「昔からの言伝え」だからと、明確な理由を聞くことができなかったことでしょう。
では、その「クワバラ、クワバラ」の呪文は、いつ頃発明されたのでしょうか。それは、平安時代の延喜3年(903年)以降の約千年前です。
貴種ではないけれども菅原道真は醍醐天皇にも引き立てられ、894年遣唐使として抜擢されるほどの才能がある人でした。しかし、その才能や醍醐天皇に接近したために危機感を募らせた、天皇を裏でコントロール(摂関政治)している藤原時平の陰謀により、菅原道真は、延喜1年(901年)九州の大宰府に左遷させられてしまうのです。そして、翌々年菅原道真は失意のまま、59歳でその地で没してしまうのです。
怨霊とは祟り神です。それは、やましいこころに宿ります。菅原道真を無実の罪で死に追いやった藤原氏は、菅原道真が雷神となって祟ることを恐れて、その怨霊を封じ込める目的でその地に「神社」を建立するわけです。しかし、それでも菅原道真の怨霊は静まりません。(平安時代では、自然現象でも怨霊の仕業だと信じていた。)そこで、その雷神の祟り祓えを発明する陰陽師(道教士が仏教側に寝返った呪術師)が現われ、雷避けの呪文を唱えるわけです。それが、「クワバラ、クワバラ」です。その意味は、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。つまり、「クワバラ・桑原」の呪文を聞いた怨霊(雷神)は、生誕地を避ける、と言う理屈です。
宗教(呪術)は使い方によっては、ひとを幸福にしますが、間違った使い方をするとひとを不幸にしてしまいます。このことを、革命家のカール・マルクス(1818年〜1883年)は、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である。」を引用して、「宗教は、逆境に悩める者のため息であり、それは民衆の阿片である。」と言ったそうです。そのように、宗教を批判したカール・マルクスの唱える「マルクス主義」も、ユダヤ教(旧約聖書とタルムードを信じる宗教。キリスト教は旧約聖書と新約聖書を信じる宗教。ヘブライ語の旧約聖書は、意外にも西暦90年頃確立した。それは丁度、新約聖書が確立した頃です。更に、大乗仏教経典群成立と時を同じにしているのは何故でしょうか。70人訳ギリシャ語聖書は、それらよりも早く紀元前280年エジプトのアレキサンドリアで成立していました。)を換骨奪胎して再構築した「宗教」だったようです。
しかし、マルクスの言ったことは真実でした。それは、阿片は宗教儀式で実際に使用されていたからです。
アヘン・ケシ(学名バパベル・ソミフェルム)の花が散った後の子房を傷つけると、ミルク状の樹液が滲んできます。その樹液が空気に触れると茶褐色の樹脂となります。これが生阿片です。原産地は地中海沿岸で、紀元前四千年頃、オリエントのシュメール人や古代エジプトの神官が、宗教儀式に使用したのが、始まりのようです。その阿片は、シルクロードの国際交易商人や僧侶たちにより、地中海沿岸→ペルシャ→インド→中国へと流れ、659年に著された唐の医学書に「阿芙蓉」と掲載されています。
ひとの意識を、ある種の物質で瞬時に変格させる研究をした宗教組織がありました。そのひとつが、バラモン教です。
紀元前十三世紀、地中海沿岸からインドへ侵入してきた民族がいました。それはアーリア人と呼ばれていました。アーリア人は、インドの先住民の牧畜・農耕民族のドラヴィダ人を支配する装置としての宗教を発明するのです。それが菜食主義のバラモン教です。アーリア人は、ドラヴィダ人を支配するために、複雑怪奇な儀式を発明するわけです。そして、ブラーフマン(梵)を主神として、祭祀(カルマ)、知識(ジュニャーナ)、神への絶対的帰依(バクティ)などの難解な思想で先住民を支配するために、絶対身分制度のカーストを発明するわけです。そして、その制度から絶対に抜け出る事が出来ない装置の、「輪廻転生」の思想も発明するわけです。(釈尊は、このバラモン教のカルマから解脱するために、「非人」となり「乞食」し、「無我」の思想を発明した。)
それらの身分とは、上から司祭階級(バラモン)→王族(クシャトリア)→庶民(ヴァイシャ)→隷民(シュードラ)、そして不可触賎民(セダラ・鎌倉末期にセダラ=穢多が歴史上に現われる。)です。(鎌倉末期、この肉食を極端に蔑視するカースト思想を、騎馬民族を貶めるため、京都王朝側が仏教徒により布教。この思想が、江戸時代に完成する身分制度の、「士農工商穢多非人」となるわけです。)
このインドの地で、秘密の宗教の「密教」が、バラモン教により発明されるわけです。「密教」を一口で言えば、「原初的な科学・化学・薬学・心理学による意識の変成の技術」と言えるかもしれません。つまり、密教とは、錬金術でもあるわけです。(錬金術の真の意味は、卑金属を貴金属に替えることではなく、こころを神の境地に達成させるための技術。)
そのために、バラモン教(四世紀頃ヒンズー教に吸収される。)は組織を上げて、末梢神経や中枢神経をコントロールする「物質」を探究するわけです。そのひとつが、固体→液体→気体→固体→液体→気体と、無限に変成する「水銀」の研究となるわけです。その水銀は、まさに「輪廻転生」の具現化であるわけです。そのため、水銀は、高価な交易品となるわけです。
水銀は、朱砂が採掘される所に埋蔵されています。その朱砂は、日本列島では、縄文時代から呪術の道具として利用されていました。それは、埋葬時に死者の身体に朱砂を塗ると、いつまでも死者は腐ることがないためです。
時代は下がり、四世紀になると、吉野山での水銀の発掘利権をめぐり、ユーラシア大陸から国際交易商人達が、近畿地方に侵攻してくるわけです。
更に時代が下がり飛鳥・奈良時代は、ユーラシア大陸を故郷とする騎馬民族王朝(蘇我・新羅王朝)が続いていましたが、平安時代になるとインド・中国南朝からの海洋民族王朝(百済王朝)になるわけです。このことにより、百済国を滅ぼした新羅国とは国交を断絶したため、[水銀」の交易ルートも変更となるわけです。遣唐使とは、純粋学問探究だけではなく、新交易ルートの開発係りの意味合いもあったのです。
平安京に遷都してから十年後、公費で百済系末裔の最澄を唐に使わしたのは、表向きは仏典の輸入となっているようです。が、しかし、私費の秦氏の末裔の空海が、最澄と時を同じくして唐に渡った意味が理解できません。何か隠された意図でもあったのでしょうか。
当時の留学費は、下級官人の息子の空海に出せる程の金額ではないでしょう。不思議なのは、空海が仏籍に入ったのは、留学の前年なのです。(京都の大学を中退した空海は、四国で鉱山探索をしていたようです。後に寺を建立した付近には銅山・銀山が開発されていたからです。)
そして、最澄が805年帰朝すると、空海も806年帰朝するのです。普通の留学期間は二十年が相場のようです。そのような一二年間で、言葉もあまり通じない異国の地で、仏教の何を学んできたと言うのでしょうか。そして、帰朝するなり、最澄は天台宗を、空海は真言宗を興すのです。
これらのことを考慮すると、二人の行動の裏には、得体の知れない大きな組織のニオイが感じられます。ふたりの唐留学は、実は学問のためではなく、交易ルートの新契約、或は、銀鉱山探索技術や鉱山開発工具購入ではなかったのでしょうか。(空海の「法具」には鉱山開発工具のニオイがします。)
空海は、806年に帰朝後から3年して、やっと九州から京都朝廷へ呼び出されるのです。それは、百済系色の強い桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も病気で退位したため、好奇心旺盛の嵯峨天皇が即位したからです。
そして、812年に、高尾山寺神護寺で、正式に恵果阿闍梨から唐で譲り受けた密教灌頂を開くことが、京都朝廷から許されるのです。その後、京の都から遠く離れた、銀鉱脈がある吉野山に近い、山奥の「高野山」に寺を建立するわけです。
空海の密教は、すんなり京都朝廷に受け入れられたわけではないのです。それは、奈良の東大寺系修験道との繋がりを、京都朝廷は警戒していたからです。
東大寺は752年、反藤原氏の聖武天皇が、河内国の秦氏の末裔の行基(ヨーガの呪術を駆使して賎民に平等思想を布教。)の土木技術や全国行脚により資金調達の援助を基に、建立したものです。
その東大寺の廬舎那仏は大日如来(遍照鬼=無量光仏=ミトラ神=太陽神)とも言われています。その大日如来は平安時代になると、空海が発明した「密教」の、仏菩薩、天(「テン」とはサンスクリット語で「神」の意味。)、明王など、唐、インド、ペルシャなどのあらゆる神々を統一する、「仏」になってしまうのです。
この空海が発明した密教の、大日如来があらゆる神々を統率する「汎神論的理論」が、後に、平安仏教側が、神社ネットワークの座を経営する、朝廷にまつろわぬひとびとを壊滅させる戦略に利用されてしまうわけです。それが、本地垂迹理論です。
本来の本地垂迹とは、永遠不滅の絶対的理想仏としての「仏陀」を想定し、この仏陀を「本地仏」(本当の仏)とし、それに対して、歴史上実在した生身の仏陀を「垂迹仏」(仮の仏)とする考え方です。この「本地仏」と「垂迹仏」との関係を、平安仏教側は、「仏」と「神」の関係に置き換えてしまうのです。つまり、「仏」が現実世界へ「神」の姿で化現すると、理論展開してしまうわけです。これが、神仏習合の基本理論です。
そして、平安朝廷は、それまで九州宇佐八幡神(古は、新羅国から渡来した秦氏の神様。しかし、和気清麻呂により乗っ取られて百済王朝の支配下となる。)で天皇家を祀っていたものを、空海の真言密教(神仏習合・加持祈祷)で祀ることになるわけです。つまり、八幡神宮が、神仏習合の第一号となるわけです。
このことにより、体制側が手出しできなかった「異界」の神社境内の空間が、仏教側の支配下になってしまうわけです。それにより、反体制の民が経済支配できるのは、中洲(河原)か街道だけとなるわけです。ここから「アルキ」筋が発生するわけです。つまり、漂泊する芸能民の発生です。
その漂泊芸能民は「七道の者」と呼ばれるわけです。
では、その「道」とは何を意味しているのでしょうか。「武道」「華道」「茶道」等など色々な「芸」につけられる「道」です。それらは「清目」の者達の「技」についているわけです。
その「道」の意味は、敵の大将の首を刃ね、その首を手に掲げ、包囲する敵陣へ向かって少しずつ歩むことにより、敵陣側に自ずから拓く間隙を進むことです。つまり、生死を賭けて敵陣へ進んで行くことが「道」であるわけです。
その七道の者とは、猿楽、アルキ白拍子、アルキ巫子、かねタタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼です。つまり、それらの芸能民とは、清目の者達なのです。
清目の技の「芸」とは、弱い立場のひとたちに対して、歌や舞や色々な技で、こころの怨霊を取り除く「神芸」であるわけです。元々は、氏神を祭る(歳る)ための技が基であるわけです。それが、王権側に祀り場が奪われてしまったため、中州や街道で清目を行なうことになってしまったわけです。芸能民の清目達は、ひとびとを清めた(こころの怨霊を祓う)返礼として、銭や品物の喜捨を受けるわけです。
そして、このアルキ筋は、平安時代では藤原氏の氏寺の「興福寺」の支配下にあったものが、鎌倉時代になると、穢多頭の弾佐衛門の支配下となってしまうのです。何故か?
701年、藤原不比等が日本国を支配する装置としての「大宝律令」による私有地保持禁止も、ひとの物欲を統制することができずに、「三世一身法」や「墾田永世私財法」等と法律を作り替えても、ひとびとの物欲を押さえることができませんでした。その行き着く先が、荘園の経営となるわけです。
私財に余裕のある貴族や寺社は、農奴を銭で掻き集め、未開拓地を開墾するわけです。それにより、税の負担を軽減させるわけです。この荘園経営が広まることにより、税収減になり朝廷の財政が苦しくなってしまうわけです。
藤原氏は、天皇家を支配するために、藤原の女を側室として提供したことにより、天皇家では子沢山となり、それらの子供たち全てを養うことができなくなってしまったのです。(嵯峨天皇は56歳の生涯で、后妃夫人30人以上。皇子皇女50人。)
そこで考え出されたことが、臣籍降下です。つまり、准皇族を作り出すことにより、側室や皇子皇女の養育費を削減するわけです。それが、臣籍降下の「源氏」姓の誕生です。
814年には嵯峨源氏の賜姓となり、825年には公家桓武平氏の賜姓となるわけです。つまり、源氏も平家も天皇家の臣籍であるわけです。(同じ天皇家から源氏と平氏のニ姓を創作したのは、藤原氏の「分断して、統治せよ」の戦略のようです。それは、天皇家の臣下にある源氏と平氏が、やがて争うことになるからです。)
荘園経営の規模を拡大する寺社は、荘園のナワバリを確保するために、武装集団を組織するわけです。それが僧兵です。百済系比叡山の僧兵と、藤原氏系の興福寺の僧兵が、我が物顔で京の都をのし歩くのです。神輿を担いで強訴することも度々です。(仏敵の氏神の乗り物である「神輿」を、仏教僧達が手荒く担ぐとは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、「イヤガラセ」の何ものでもありません。)
それに対して、氏神を祀る役座側も神兵で武装組織して、神社や中洲の神域権益のナワバリを確保するわけです。
それに対して、天皇や貴族を護る嵯峨源氏も騎馬民族の「武士」で武士団を組織するのです。桓武平氏は海洋民族の武士団を組織するのです。しかし、平安初期の武士の仕事は、怨霊から天皇を護る「清目」です。
源平の軍事力としての武士団の実力が認められるのは、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱まで待たなければなりませんでした。このふたつの乱により、武士が貴族の支配から解放されることになるわけです。
では、814年の「源氏」発生まで、軍隊は存在しなかったのかと言えば、そうではありません。
宝亀五年(774年)、百済系光仁天皇は、藤原氏のコントロールにより、蝦夷の国(東北)を侵略するわけです。その目的は、本国百済を滅ぼした敵の子孫の新羅系日本人追討と陸奥国の「金」と「琥珀」の簒奪です。
その侵略戦争は、光仁天皇、桓武天皇、そして嵯峨天皇までの38年間にも及ぶわけです。そして、その戦いに動員された兵の延べ人数は、六回の出陣で約20万人です。当時の推定人口は600万人と言われているのに比べれば、20万人の軍人の多さが国家挙げての大事業であったことが分るでしょう。それでも、軍事武力により、戦馴れしている騎馬民族の蝦夷を降服さすことができませんでした。
では、その20万人の軍隊は、どのような属性の人達かと言えば、それは定かではないのです。陸奥の敵将アテルイを騙した二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂の容姿は、日本後紀によれば、「赤面黄鬚」とあるようです。この表現を物の本によれば、赤ら顔で「金糸の付け顎髭」をしていた、と説明しています。しかし、それは可笑しい。戦いに望む部将が、何ゆえ「金糸のあごひげ」をつけなければならないのか、説得力に欠けます。極論を言えば、坂上田村麻呂は、「金髪の白人種」であったのでしょう。つまり、亡命王朝の京都百済王朝は、外国の傭兵軍により軍事行動や治安維持をしていたのでしょう。歴史上実際に、北魏国には、ペルシャの傭兵軍が存在していました。
このことは、後の源平合戦の時、源氏勢力に叩かれ兵力が削がれても、暫くすると、再び平氏の軍勢が増すことは、その都度、海外(インド・宋国)の傭兵軍を雇い入れていたからでしょう。それは、平家王朝は、福原の津で、インドと交易をしていた宋国と貿易を行なっていたからです。
平安時代初期までは、日本列島は国際人で溢れていたのでしょう。しかし、その渡来部族の実体を知ることは、藤原氏による焚書のため、できません。それは、藤原氏の出自隠しのためです。日本版レビ族「藤原氏」の出自も、645年に突然歴史上出現する「中臣鎌足」が先祖であることなど、とても信じることはできません。
日本人は本来、複合民族により構成されているのです。それを無理やり単一民族などと刷り込みをおこなうから、色々な弊害、例えば「イジメ」などが発生してしまうわけです。
複合民族を統制するために、平安の王権側は、朝廷にまつろわないひとたちを「鬼」「妖怪」などと創作して、色々な物語を考え出すわけです。そして、更に、反王権のひとたちを精神的トラウマに陥らす目的に、「地獄」世界を平安時代に、ヒンズー教思想を真似て、発明するのです。現在の、閻魔様(ヒンズー教の神様)が、地獄に落ちたひとの「舌」を抜くイメージは、この平安時代に創作されたものです。
10世紀末、平安仏教は、「六道」の世界観を布教するのです。その根底はヒンズー教です。空海の発明した「日本密教」が平安仏教界に取り入れられると、仏寺のあちこちから「おん・ばさら・あらたんのう・うん・なも・あきゃしゃば・らば・おん・あみりきゃ・ありぼ・そわか」の梵語による真言呪文が聞こえてくるわけです。平安の都は、正にヒンズー教世界の様相を示していたようです。そして、寺にはヒンズー教の神々が仏像に成りすまして鎮座して、その神々に対して、ゾロアスター教の拝火を真似て、護摩を炊いて、祈祷するわけです。
江戸末期、大阪の商人学者の富永仲基は、大乗仏教非仏教説を唱えていました。つまり、大乗仏教は、釈尊の唱えた仏の道ではない、ということです。
僧侶が護摩を炊くとき、十字を切るのは何故でしょう。忍者も術をする前に、十字を切ります。忍者の服部家は、もとは秦氏です。秦氏の氏寺は「十字寺」とも言われていました。その十字寺は、景教寺とも言われていました。景教徒の墓には、マルタクロス(十字架)があります。景教の儀式は、ミトラ教(太陽神)を基にしています。そのミトラ教を模倣したキリスト教も、十字架をシンボルとして利用しています。そして、秦氏の末裔の士族の島津家と穢多頭の弾家の家紋は同じで、それは十字です。何故、秦氏の末裔の空海が、大日如来(ミトラ神)を崇拝し、護摩(ゾロアスター教の拝火は、ミトラ儀式を模倣)を炊き、十字(太陽のシンボルのマルタクロス)を切ることは、もしかすると空海にはオリエントの血が流れていた為でしょうか。
そして、984年、源信は「往生要集」を著し、地獄世界を貴族達に布教するのです。(トップダウンによるコミニュケーション戦術。)
六道の世界観とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、そして天です。その「地獄」については、更に詳しく記述するのです。その地獄世界は八つに分けられているのです。それらは、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、そして無間地獄です。(極楽のイメージを布教しないで、地獄ばかり布教するのは何故でしょうか。)
そして、これらの地獄世界を布教することにより、騎馬民族・漁労民族を貶めるのです。それは、等活地獄へは、動物を殺すこと(血の禁忌)により、落ちることになっているからです。つまり、「殺生禁止」のために、この等活地獄を布教するのです。この思想により、騎馬民族・漁労民族の生活基盤が揺らいでしまうわけです。更に、農耕民族による、騎馬民族・漁労民族への蔑視や「イジメ」の根拠になってしまうのです。つまり、藤原氏の戦略、「分断して、統治せよ。」となるわけです。(この思想を発明した菜食主義のバラモンには、植物にも、動物と同様に生命があることが理解できていなかったようです。)
そして、プロパガンダ(布教)の常套手段のビジュアルとコピーで、それらの地獄世界を、庶民に訴求するのです。ビジュアルとしては、六道絵、地獄絵、そして「北野天神縁起絵巻」などです。コピーとしては、地獄草紙、餓鬼草紙などです。この平安時代の地獄世界の刷り込みが、千年後の現在の日本人を呪縛しているのです。
それらの平安仏教の思想布教に伴って、穢れ祓いの「清目」=王権に逆らう者達(怨霊)から護ることの仕事が、汚い物の清掃業務に変えられてしまうのです。つまり、「穢れ」から「ケガレ」となってしまうのです。それには、王権側のもうひとつのトリックがあったのです。
それは、ライ病者(皮膚病者)の扱いです。平安仏教は、仏敵に対して、仏罰の結果がライ病者であると、「法華経」により布教して、そのライ病者の世話を「清目」達の部落に押し付けたからです。これより、反体制の民の顔役の長吏の仕事が、ケガレの仕事になってしまうわけです。
釈尊の説いた仏の道は、弱い立場のひとたちの為にあったのではないのでしょうか。それから考えると、平安仏教(貴族仏教)は、何を目的に、仏の道を説いていたのでしょうか。
「賭博」と「高利貸し」は、役座が創業したビジネスのように思われているようですが、それは違います。日本国で最初にはじめたのは、大乗仏教徒のようです。歴史上では、大乗仏教徒が、唐国よりもたらしたサイコロを使った「双六賭博」が始めのようです。天武天皇が貴族達と双六賭博をおこなったことが「日本書紀」に記述されています。そして、高利貸しの方も、奈良時代の仏寺が始めたことが、「続日本紀」に記述されています。(戦国時代、武士の大将が、必勝祈願に仏寺にお参りしたのは、実際は、武器弾薬を購入するための金策だったようです。昔も今も、宗教組織の教団維持には、金貸し業は、重要な収入源のようです。)
賭博用語で、「テラ銭」とはチップのことですが、それは、賭博を「寺」でおこなっていたから、「寺銭」と言うわけです。寺で賭博をおこない、負けると寺から金を借りる。これは、正に、現代のパチンコとサラ金の関係と同じです。
貸した金を返してもらうことは、昔も今も同じように困難な仕事です。高利貸しは、金を貸すときは「菩薩」と言われ、返済を迫ると「鬼」と言われるようです。
そこで、高利貸しの寺は、貸した金をスムーズに返済させるための仕掛けを考えるわけです。それが、「ウソ」をつくと、地獄に落ち、閻魔様に舌を抜かれる、という刷り込みです。仏教の宣伝パンフレットの「日本霊異記」には、借りたものを返さないことにより、地獄に落ちる物語が多く掲載されているのは、そのためなのでしょう。
平安時代、仏徒が、神徒(道教の神、景教の神、八幡の神を祀る反体制のひと。道教を崇める天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、ケガレ祓いを発明した「中臣神道」は、天武天皇が崩御後、藤原氏系中臣氏により創作された「体制側の神」。ヒンズー教思想が導入される前の日本国には、「浄・不浄思想=穢れ思想」は存在していなかった。ちなみに役座は道教の薬草学の神農様を祀る。)を目の敵としたのは、神徒が、仏徒ビジネスの真似をして、「異界」の神社ネットワークを利用して賭博と高利貸しのビジネスを興したからかもしれません。
しかし、大乗仏教側が発明した日本版本字垂迹説を基に、神仏習合により、怨霊封じ込め施設である「異界」の神社は、ついに、仏教側の支配下になってしまうわけです。そこで、仏教徒による寺の「賭博」「高利貸し」と、アウトローによる闇の「賭博」「高利貸し」が発生するわけです。
「ケガレ」思想を、平安仏教徒が布教した原因のひとつは、もしかしたら神徒側の「賭博」や「高利貸し」のビジネスから庶民を隔離して、仏徒側のビジネスのナワバリ確保のためだったのかもしれません。
神輿の黙示録(5)(鎌倉源氏の謎:何故新羅の神を祀るのか)
奈良時代から平安時代への流れは、物理的に、単に都が奈良から京都へ移っただけではないようです。それは、内外への政策が前政権(天武王朝)とガラリと激変しているからです。それらは、対外的には、新羅国との鎖国です。そして、国内的には、陸奥国(東北)への軍事侵略です。
新羅国に対しては沿岸警備兵の防人で北九州沿岸へ防衛線を築き、そして、陸奥国へは征夷大将軍(征夷とは、弓矢を使うエビスを征伐するという意味。)により延べ20万の軍勢で侵略をおこなったからです。
天武王朝の時代では、719年新羅国は騾馬を元正天皇に献上するほどでしたが、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が政界中央に復帰後から、次第に新羅国からの使節を粗野に扱うようになるのです。
そして、飛鳥時代、陸奥国の蝦夷達は、ペルシャ式庭園を築いた斉明天皇により飛鳥の都に招かれ饗応されていたのものが、百済系桓武天皇の父親の光仁天皇の時代になると、宝亀5年(775年)大友駿河麻呂を始めとして、二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂(初代は大伴弟麻呂)指揮下の外国傭兵軍により、38年もかけて陸奥国への軍事侵略をおこなうわけです。
そこで不思議なことに気付くのです。
それは、陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍と戦った、金髪の坂上田村麻呂率いる軍団の、進撃ルートは知られているのに、蝦夷軍との戦いに使用した武器や装備が史料として遺されていないのです。野史によれば、田村麻呂軍は、腰弓や幅広の剣など中国大陸型の武器で武装していたようです。それに対する蝦夷軍は、チュルク(突厥:トルコ系騎馬民族)の戦術(短い弓矢で、敗走しながら後ろ向きで騎射。)で、応戦するわけです。蝦夷軍の剣は、ペルシャの剣に似た蕨刀です。
外国傭兵の京都朝廷軍は、歩兵が主で、陸奥国の国情や地形を知らないため、当然苦戦するわけです。そこで、坂上田村麻呂は、敵将のアテルイを騙して、京の都に連れて行き、そこで、アテルイを惨殺するわけです。大将を失った蝦夷軍は、弘仁2年(811年)2万の文室綿麻呂軍により壊滅されてしまうのです。
坂上田村麻呂は、弘仁2年(811年)54歳で没しました。それから3年後、嵯峨源氏が誕生するのです。桓武平氏は、それから14年後に誕生するわけです。
そこで、また不思議なことに気付くのです。
それは、征夷大将軍の坂上田村麻呂が没して、間もなく、軍事部族としての源氏と平家が誕生するわけですが、その軍備や武器などの前時代からの継続性が、史料などで確認できないのです。源氏も平家も、中国大陸型の武器ではなく、突然、片刃の日本刀(古墳から出土するのは両刃の剣ばかりです。)と豪華絢爛な鎧兜(装飾過剰で実戦には不向きな武具です。)で武装しているのです。これらの武器の、ほんの少し前の征夷軍の武器や装備からの飛躍は、どのように説明することができるのでしょうか。
645年の政変(「大化の改新」はフィクションです。)の時、蘇我王朝の皇紀と国記は、藤原氏により焚書されてしまいました。(教科書歴史では、蘇我蝦夷が焚書したことになっています。)そして、奈良時代の史料は、藤原氏にコントロールされている桓武天皇により焚書されてしまったのです。正倉院(北方スキタイの建築様式。歴史教科書では、湿気を防ぐ南方系建築様式と説明している。)にあった天武系聖武天皇の遺品も、百済系桓武天皇に都合の悪い物品は、桓武天皇により処分されてしまったのです。
ですから、その時代を知るには、焚書されることのない公家(百済系日本人と藤原氏)の日記などに頼ることになるわけです。しかし、その日記には公家に都合の悪いことは記述されていません。ですから、歴史の真実(あるとしての前提ですが。)を知るには、智恵が必要になるのです。それは、公家の日記にさりげなく悪く書かれている事柄に真実の種が隠されていることもあるからです。
平安時代から日記を書くひとが多くなるのは、大乗仏教の「地獄思想」布教のおかげです。それは、地獄に落ちないように、死の裁判の時、閻魔様に生前の善行の証拠を示すためが、日記を書くことの主な動機のひとつになったようです。
戦国時代、公家の中院通秀の日記「十輪院内府記」に、「およそ源氏の氏神は、平野社を以って正と為すなり、八幡宮に於いては、清和源氏義家以来の事なり。」とあるのです。源義家とは、後の「八幡」太郎義家のことです。弟には、「新羅」三郎(源義光)がいます。源氏の名字に「八幡」や「新羅」をつける意味は何なのでしょうか。
「平野社を以って正と為す。」とは、源氏の氏神の本社は平野社ということです。それは、平野社は、百済系桓武天皇の祖先神を祀る高貴な所だからです。源氏が百済系桓武天皇の先祖神を祀るのは、何故か。それは、源氏も平氏も、基は百済系貴族だからです。その源氏と平氏の貴族達が、下人(武士)として雇った部族が、源氏が新羅の末裔であり、平氏が出自不明(フェニキア・インド軍事部族の末裔)の海洋民族であるわけです。
嵯峨源氏は貴族出であるのに対して、清和源氏は昇殿できる四位のものはほとんどいない、下級の武家源氏であるわけです。つまり、源氏といっても、平安時代では二種類あるわけです。それは、昇殿できる公家源氏と、昇殿できない武家源氏(鎌倉源氏)です。
その昇殿できない武家源氏の清和源氏の氏神が「八幡宮」である、と言う意味はなんなのでしようか。
戦いで勝ち残るための条件のひとつは、兵力と武器です。武器は、最新のハイテク技術で開発されていくわけです。ですから、戦いは、常にテクノロジーの戦いでもあるわけです。
石器武器は、青銅器武器に敗れ、その青銅器武器も鉄器武器に敗れました。槍で武装した軍団は、弓矢で武装した軍団に敗れ、弓矢の武装集団も鉄砲軍団に敗れました。そのように、武器は戦いの勝敗を左右するための重要な要素なのです。ですから、最新式武器は、敵対民族に瞬く間に伝播していくわけです。
武器の伝播は、ひとを介しておこなわれます。ですから、武器の伝播経路を辿れば、軍団の侵攻経路の推測も可能であるわけです。
では、源平の武士集団が発生した時代、世界はどのようなうねりに翻弄されていたのでしょうか。
西暦571年、西アジアでひとりの偉大な男が誕生しました。その名はマホメットです。マホメットは神の啓示を受け、宗教を興すのです。それがイスラム教です。イスラム教は旧約聖書とコーランを信じる宗教です。そのイスラム教は、貴賎に関係なく誰にでも「平等」を説くことにより、戦争による貧困に喘ぐ下層階級の民に瞬く間に広がるわけです。それがサラセン帝国を興すエネルギーとなるわけです。
サラセン帝国は、やがてイスラム帝国となり、ササン朝ペルシャやインドのグプタ朝を飲み込んでしまうわけです。イスラム軍団に敗れたペルシャ軍団やインド軍団は、周辺諸国に敗走するわけです。そして、紀元八世紀には、イスラム帝国は、西は北アフリカから東はインドまでの大帝国に発展するわけです。
紀元八世紀後半、イスラム帝国の膨張に伴い、カスピ海(カザールの海の意味。)周辺で、草原ロード、南海ロードそしてシルクロードにより西(ヨーロッパ)と東(ウィグル・唐・新羅)との国際交易をおこなっていたカザール王国は、東ローマ帝国(キリスト教=旧約聖書+新約聖書)とイスラム帝国(イスラム教=旧約聖書+コーラン)に挟まれてしまうわけです。そこで、カザール王国の民は、生き残るための選択をおこなうわけです。その選択のひとつが、キリスト教でもなくイスラム教でもない、弱小宗教のユダヤ教(旧約聖書+タルムード)に改宗することにより生き残るわけです。しかし、改宗しない者達は、国際交易で得た莫大な財宝と伴に国際交易ロードの彼方に消えてしまうわけです。
紀元十世紀の東アジアに転じると、907年に唐が滅び、そして935年に新羅国が滅んでしまうのです。国が滅ぶ原因は、二つあります。それは、外国からの攻撃と、内側からの崩壊です。その二つの原因の根本は、経済です。国の経済がしっかりしていれば、国内統制も充分におこなうことができるし、武器や軍隊を調える事により外敵を防ぐことも出来ます。
西と東の交易をおこなっていたカザール王国の崩壊は、周辺諸国だけではなく、遠く極東の国々にも大きな影響を与えていたのです。
そのような激動する国際情勢の中に、百済系平安王朝は誕生したのです。
国が崩壊する少し前に、最初に脱出するのは、昔も今も同じです。それらは、権力者、高級軍人、祭祀者、金持ち、そして権力と何らかの関係があるひとたち等です。
奈良時代後半から平安時代初期にかけて、唐からインド高級僧侶達が多数渡来したのは、西アジアの国際情勢を、国際交易商人や諸外国を遊行する僧侶達からの情報で知って、イスラム教軍団がインド侵攻前に、唐に亡命していたからです。(イスラム教がインドで布教開始すると、やがて仏教は消滅し、「ブッダ」はヒンズー教の「ビシュヌ神の化身」になった。インド亡命僧が、日本国にカースト思想を持ち込んだ。インドの神々は七福神に変身して渡来した。)
そして、平安時代になると、新羅国も盛んに使節を送ってきたのは、実際は、朝貢ではなく、新羅国中枢の亡命打診であったのかもしれません。
では、平安貴族の「嵯峨源氏」に雇われた武士達は、何所から来たのでしょうか。
映画の「ラストサムライ」ではありませんが、日本国最後の武士として敗れたのは、明治10年(1877年)の旧薩摩藩でした。薩摩藩は、武士育成のための教育手段として、名門の美少年を「稚児様」として奉り、青少年に武士道の教育や戦の訓練をおこなっていました。
この「稚児様」を中心にした青少年への武士育成のための教育方法は、何所から導入されたのかと言えば、それは新羅です。五世紀の新羅では、「花郎」(ファンラン=弥勒の男=ミトラ神=戦の神)と呼ばれる貴族の美少年を奉じて、騎士道精神を教育し、青年武士団を形成していたのです。
薩摩藩の島津氏(鎌倉時代に改名)は、平安時代では惟宗氏を名乗り、五世紀に、新羅から渡来した秦氏を先祖としていたのです。ですから、新羅の文化は、秦氏をとおして、日本列島(「日本国」の表号は、七世紀から始まる。それ以前は、魏国から倭国と言われていた。)にもたらされていたのです。
日本国の中枢は、平安時代に、藤原氏の陰謀により、百済の亡命政権に乗っ取られてしまったため、敵国新羅の末裔による日本国における事績(新羅・秦氏の末裔の居住地名をニッポン語化してしまった。例えば、「トルファン」は諏訪。「ムクラ」は武蔵。「ジュジ」は住吉など。それらの旧地名は、騎馬民族の故郷の北東ユーラシアでの地名です。)を抹殺してしまったため、日本の武士道のルーツも全く分らなくなっていたのです。
百済(ペクチェ)は、西暦346年、北方ツングースから渡来した夫余や高句麗の末裔と、南海ルートからの渡来民族により建国されたようです。
それに対して、新羅(シルラ・シンラ)は、西暦356年、二つの異民族により建国されたようです。それは、天孫(征服族)三姓の朴(パク)、昔(ソク)、金(キム)と、六土姓(先住民)の李(イー)、崔(チュー)、孫(ソン)、鄭(チョン)、裴(ぺ)、薛(ソル)です。つまり、新羅は、日本国と同じに、天孫族による、先住民に対する征服王朝だったのです。
では、新羅国の、日本の武士道のルーツとなった騎士道精神は、どこからもたらされたのでしょうか。
新羅の王都慶州(キョンジュ)の155号古墳から、天馬の絵が発見されました。その天馬は、騎馬民族スキタイでは、ペガサスと呼ばれ、騎馬民族の族長クラスの馬につけられた名称です。つまり、新羅国の天孫族は、高句麗や夫余のツングース(東胡=トコ=常=常陸=ツングース族の渡来地。)とは異なり、スキタイ・シベリア系の騎馬民族であったのです。
紀元前六世紀、スキタイ(騎馬部族連合国)はペルシャ(騎馬部族複合国)と何度も戦をおこなっていたので、ペルシャの騎士道精神が、スキタイに受け継がれていたのでしょう。
日本の武士による、戦いにおける「名乗り」と「一騎打ち」は、ペルシャ騎士道の真似です。ペルシャの軍隊は、傭兵で構成されていたので、戦いに敗れると、国王は莫大な借金を背負い込むことになるのです。そこで考え出されたのが、全軍激突ではなく、一騎同士による戦いです。これならば、万が一敗れたとしても、負債は最小限にとどまります。
日本の武士道の発生ルート(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅)は分りましたが、では、嵯峨源氏の武士達はどのようにして渡来したのでしょうか。
子沢山の嵯峨天皇は、源氏姓の基です。つまり、嵯峨源氏が、全ての源氏姓の基締めであるわけです。天長八年(831年)、嵯峨源氏が初めて公卿になっても、天暦五年(951年)源等の死により、嵯峨源氏は政界の表舞台から姿が消えてしまうのです。
藤原氏の傀儡政権の百済系光仁天皇、桓武天皇、平城天皇までは、藤原氏のコントロールもよく効いていたようです。しかし、四代目の嵯峨天皇になると、人情も三代過ぎれば何とやら、の譬えのように、反体制側の秦氏の末裔の「空海」を都に呼び親しく交わるなど、桓武天皇時代ではありえないこともおこなわれたのです。ちなみに、桓武天皇は、百済の末裔の「最澄」(架空人物・「聖徳太子」の宣伝隊長。)を寵愛し、比叡山延暦寺を建立するわけです。
嵯峨天皇の、藤原氏を無視する行動に対して、藤原氏は、奈良の興福寺(710年藤原不比等が名付け親。)を拠点として、反撃に転じるわけです。それに対して、百済系比叡山延暦寺も対峙するわけです。
都では、延暦寺の僧兵と、興福寺の僧兵との諍いもよくあったようです。更に、延暦寺側(清水坂)と興福寺側(奈良坂)との、清目(穢れである怨霊を清める重役。しかし、鎌倉時代になると現物の汚れ物の清掃業務となる。古来、「モノ」とは、祟りと守護を兼ね備えた精霊であった。その思想も、仏教伝来により消滅。)のナワバリを廻っての争いも、頻繁にあったようです。
藤原氏の反撃は巧妙です。それは、藤原氏は、陰に隠れ決して攻撃の前面には出てこないからです。(イジメの原点)しかし、藤原氏の異民族支配のための基本戦略を知ってしまえば、その行動を予測する事が可能です。その基本戦略は三つです。それらは、「夷を以って、夷を制す。」「分断して、統治せよ。」「敵の敵は、味方。」です。
藤原氏は、天皇の反乱には、藤原の女を使い、摂政関白のシステムでコントロールすることができても、竹取物語(藤原不比等をコケにした物語)のセリフではありませんが、きたなき都の京で起こる多くの不吉な事件は別です。平安時代では、怨霊の祟りは、清目の武芸者により護ることしかできなかったのです。
そこで、朝廷や貴族達は、近辺護衛のため「清目の武芸者」を募るのです。それが、桓武平氏のライバル、嵯峨源氏の末裔の源綱です。(夷を以って、夷を制す。)源綱は、やがて渡邊綱と名乗り、清目として渡邊党を興すのです。渡辺綱は、清目の大将らしく、怨霊が具現した羅生門の「鬼」退治の伝説に登場するのです。でも、その鬼は、首を斬られるのではなく、腕を斬られ、後ほど、鬼が取り返すストーリーは、同族(清目)が同族(鬼)を退治するからでしょう。本当に、鬼を抹殺したいのならば、腕ではなく、首を落していたでしょう。(ペルシャの腰刀や日本刀の小刀は、敵の首を落すための武器です。ペルシャの騎士も日本の武士も首切りの伝統があったのです。21世紀のイラクでは、現在でもおこなわれているようです。)
名前は、「氏=血族」→「姓=階級」→「字名=地名」→「名字=個人名」と、時代と伴に変化したようです。
そこで、源綱が渡辺綱になったということは、「綱」が「渡辺」という地域に居住したということになるわけです。では、その渡辺の意味は何なのでしょうか。そのヒントは、渡辺党の組織は、松浦党の組織により構成されていたということです。
では、その松浦党とは、何なのでしょうか。その源は、北九州です。魏志倭人伝に出てくる末慮国が、松浦の元です。
松浦党は、海洋軍事部族(河川での船の運航には馬を使役。騎馬部族も構成員として存在。)です。松浦党の基本的考えは、「はじめてのものは後来者をこばまず、後来者は先住者をおしのけず。」との、渡来異部族との共存共栄関係樹立です。その考えにより、連判状の記銘順序も、部族の優劣に関係なく、くじ引きで決めるほどです。
松浦源氏においては、ギリシャ民主制のように、権力者(棟梁)への忠誠規定のない合議制の掟が支配していたようです。これは、藤原氏の支配体制とは全く異なる政治形態です。明治初期まで十三代続く、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門家も、世襲ではなく、頭は、各国組織の推挙による合議制で決められていたのです。
でも、松浦党は色々な渡来部族の連合体であるため、党内の争いを避けるため、「松浦党掟」を定めていました。それが、やがて武士道の心得の基に成っていったようです。
漢字は、それ自体イメージを内蔵しているため、その扱いにより、色々なトリックを考え出せるのです。ですから、王権側が、或は、自らが出自を隠すため、出身地名をある意味を持った「字」に置き換える場合もあるわけです。例えば、鮮卑(魏)=筑紫(ジュジ)=住吉(ジュジ)。匈奴=胸(ムネ)=宗像など。名前では、新羅国の貴族が日本国に渡来すると、朴=パク=ハク=シロ(日本名:白○、志○)、昔=ソク=セキ(日本名:関○)、金=キム=カネ(日本名:金○)に変身するわけです。
松浦は、「マズラ」、或はマがメに変化して、「メズラ」とも読めるわけです。そのメズラ地域を拠点に、日本地図をズームアウトすると、朝鮮南端の島、珍島が視野に入るでしょう。珍島は、チントウではなく、「メズラ」島であるわけです。玄海灘の対馬を挟んで、「メズラ」が対峙しているのです。何故でしょうか。
紀元32年、高句麗(コクリョ)が漢に入貢し、王と称し、そして、紀元ニ世紀に、朝鮮半島を南下するまでは、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏であったのです。
それは、紀元前四世紀、海洋民族「越」に敗れた海洋民族「呉」の末裔が、黒潮に乗り北上し、対馬で西と東に分かれて上陸した所が、朝鮮半島南端と北九州であったからです。呉の末裔はそれぞれの地域に土着し、漢民族により、倭族(イゾク)と呼ばれていたのです。潮目が読める海洋民族には、玄界灘は庭先のようなものです。朝鮮半島南端と北九州では、倭族が頻繁に行き来していたことでしょう。
やがて、紀元四世紀、高句麗、百済、新羅の三国により、朝鮮半島での三つ巴の戦いにより、朝鮮半島南端の倭族は、同朋のいる北九州に押し出されてしまうわけです。追い出された倭族は、航海技術を利用して、半島と交易を始めるわけです。
北九州は、中国大陸から見れば、日本列島の玄関です。つまり、中国大陸の色々な民族、文化が訪れる最初の地であるわけです。と言うことは、京都より、北九州の方が、文化がより進んでいることになるわけです。
その北九州の地に、紀元五世紀、秦一族が新羅国より渡来するわけです。そこで興したのが「秦王国」です。
秦一族の渡来は、446年の北魏の廃仏令(主な原因は、戒律の乱れと現世利益の道教の隆盛。)による、200万人とも言われる仏教僧の追放が原因のひとつかもしれません。
秦氏の神は、仏ではありません。しかし、秦王国には、寺がびっしりと建立していたのです。それは、秦氏は、北魏で、鍛冶技術を駆使して、仏像の制作販売をしていたのかもしれません。秦氏は、仏像販売のための新市場開拓のために、仏教僧と伴に渡来したのかもしれません。
仏寺建造物は、クギを極力使用しない、組み立て式が多いようです。それは、移動に都合がいいからです。北魏で解体された仏寺や仏像は、倭族の船で玄海灘を渡り、秦王国に移築・移動されたことでしょう。
では、秦氏は、どのような神を祀っていたのでしょうか。それは、八幡の神です。では、その八幡神はどのような性格の神かと言えば、それは、鍛冶神です。
秦氏の神山は、香春岳です。その香春岳には、古い採銅所があります。香春とは、カル、つまり銅のことです。機織りで知られる秦氏には、鍛冶技術もあったのです。渡来する前は、加羅で鉱山の開発をおこなっていたのです。
鍛冶には、燃料としての大量の樹木が必要です。ですから、鍛治民族は、燃料を求めて常に大移動する運命にあるわけです。鍛治民族ヒッタイトの滅亡の原因のひとつは、燃料の多量消費のため、緑の山が禿山になって、鍛治に必要な薪が枯渇したからだと言われています。日本では鍛冶は、別名「タタラ」とも言われ、それは、中央アジアの「タタール」が語源とも言われています。
鍛冶は、火と風と水と金属をコントロールする秘術であり、神のチカラを必要とするため、神と交流するシャーマンの業でもあるわけです。そして、火をコントロールするのは鳥(火の鳥)であると考えられていたので、秦氏は、その鳥のシンボルを「鷹」としたのです。「鷹」は、「高」の字に置き換えられ、鉱脈が探索できるように「高」のつく山に、秦氏の神を祀ったわけです。例えば、高尾山、高巣山、高取山などです。
秦氏の神は、魔多羅神と言われています。新羅の花郎は、弥勒の男と言われています。弥勒の神は、山中の洞窟に潜んでいると信じられていました。そこで、弥勒の神に出会うため、花郎は、山岳修行するわけです。修行のため、山に篭るとは、弥勒の神との出会いを求めることです。
魔多羅神は、鍛治神でもあるわけですから、鉱脈探しのために、山の穴に祀られることもあるわけです。やがて、鉱脈探索の穴は、弥勒の神の住む穴にもなるわけです。ここに、魔多羅神と弥勒の神が出会うわけです。でも、その二神は、元々は同じ神であったのです。それは、ミトラ神です。
ミトラ神は、東の山から再生すると信じられていたのです。そのミトラ神とは、太陽神だったからです。西の山に死んだ(沈んだ)太陽は、次の日、再び東の山から再生するわけです。死と再生を繰り返す、太陽神(ミトラ神)は、死を賭して戦う、武士には、心の支えとしてなくてはならない神であったのです。その神を祀るのが、新羅から渡来した八幡の社であるわけです。
源義家が八幡太郎義家、そして、源義光が新羅三郎と自ら名乗るのは、八幡の神は新羅から渡来し、そして、源氏の武芸者も新羅から渡来したからです。
神輿の黙示録(6)(鎌倉源氏の没落:何故三代で滅亡したのか)
日本刀は、「武士の魂」と言われているようです。しかし、「日本刀」は、明治時代に発明された言葉なのです。明治以前までは、直刀は「剣」(つるぎ)で、反りのある片刀は「太刀」(たち)と呼ばれていたようです。
源平時代の実戦主武器は、弓、薙刀、槍です。時代が下がって、戦国時代の実戦主武器は、鉄砲です。歴史上実戦闘では、首切り用以外は、太刀はあまり武器として使用されていなかったようです。それは、すぐ刃こぼれしたり、曲がったり、折れたりしたからのようです。
永禄8年(1565年)、十三代足利義輝が、松永久秀の謀反にあい、刀が折れたり曲がったりするから、名刀を何振りもとりだして応戦したことは有名な話です。いや違う、刀は実戦に使われていた証拠として、剣豪宮本武蔵は、多数の敵に対して、二刀流で応戦したではないか、と言っても、宮本武蔵は、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」との合成人物であったのです。
では、実戦で主武器として使用されない反り刃の太刀が、何故に「武士の魂」なのでしょうか。
奈良時代から平安中期頃までに、刀は直刀から湾刀へ変化したようです。つまり、清目の武士達が登場した時期と同じ頃です。この時代の刀匠として、現在のところ、在銘最古は、伯耆国(島根県)の安綱です。安綱の作品としては、清目の大将渡辺綱が羅生門で鬼の腕を切ったと言われている、「鬼切丸」があります。
刀の学術書によれば、反りの発明は、徒歩戦から、馬上戦へと戦い方が変化したからだと説明されているようです。だとしたら、騎馬民族の蝦夷との戦いで、坂上田村麻呂は、何故に反り刀を使用しなかったのでしょうか。ちなみに、坂上田村麻呂は、自称、漢帝国の末裔と称していました。
どうも、反り刀(日本刀)は、実戦の武器として発明されたものではないようです。では何かと言えば、それは、怨霊との戦い(清目)で、武士の「魂を護る」ための武器であったようです。
平安時代は、源氏物語などによる平安文学の華麗な世界とは異なり、実際は、亡命インド僧達がもたらした魑魅魍魎のバラモン的世界観により、穢れや地獄などのオカルト世界に貴族達は埋没し、藤原氏の陰謀により呪殺されたひとたちの怨霊が渦巻く、おどろおどろしい時代であったようです。
平安の都で、穢れや怨霊退散の祈祷が流行るということは、その需要があるということです。そこで登場したのが清目の武士です。武士による清目とは、「武芸」による「祈祷」でもあるわけです。その祈祷のパフォーマンスに使用されたのが、反り刀(日本刀)であったのです。そして、その清目の儀式の衣装として発明されたのが、豪華絢爛な鎧兜であったのです。その根拠として、この時代に、鎧は、錆びやすく重い鉄製(40kg〜70Kg)から、軽い漆塗りの総皮製に変化しているからです。(鉄砲が渡来してから、鎧は再び鉄製に戻った。)
その武芸者の嵯峨源氏が、天暦五年(951年)に源等の死と伴に、政界の表舞台から消えてしまい、それに替わり、武家の清和源氏が登場するのは何故でしょうか。
嵯峨源氏と清和源氏とは、同じ源氏でも、名前が一字と二字の違いからも分るように、身分が異なります。国風化までは、漢風の一字名の方が、二字名よりも挌上だったのです。
清和源氏の政界登場は、安和ニ年(969年)の安和の変からです。
安和の変とは、藤原師尹(もろただ)による陰謀です。藤原師尹は、村上天皇の次の皇位をめぐって、醍醐天皇の皇子左大臣源高明を貶めるために、源満仲(清和源氏)に「源高明が皇太子守平親王の廃位を図っている。」と密告させるのです。(藤原氏の第三者を使う手立ては道鏡事件とそっくりです。)それにより、藤原氏の有力敵は全て抹殺され、他氏族との権力闘争が終わりを告げ、これより後、摂政・関白を藤原氏が独占するわけです。そして、この手柄により、清和源氏の政界での基礎固めが確立するわけです。
清和源氏は、藤原氏と結び、武士として東国での地位を不動のものにするわけです。しかし、実際には、清和源氏は、清目としてではなく、藤原氏の手先としての軍事部族として利用されていくわけです。
そして、鎌倉源氏(清和源氏)の滅亡から、清目の内容が変化していく訳は何故でしょうか。
鎌倉時代以降、武家の基は清和源氏となっているようです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。万世一系の天皇家の系図も、四歳年下の第三十八代天智天皇が第四十代天武天皇の兄となっていることからも分るように、不確かなものなのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、安和の変で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
その頃、京の都は、平将門の乱(承平5年・935年)と藤原純友の乱(天慶2年・939年)の後遺症により、平将門の手下が京に侵攻してくるとの噂で、大混乱していた時代なのです。
目を外国に転じると、935年平将門の乱が起こった時、935年新羅国は高麗により滅ぼされていたのです。日本国の争乱は、朝鮮半島の争乱と連動していたようです。
そのような都の争乱に、藤原氏の一族は何をしていたのかと言えば、文芸に励んでいたのです。藤原氏の一族は、佐藤(左兵衛府の藤原氏)、首藤(主馬寮の首の藤原氏)、近藤(近江の藤原氏)、尾藤(尾張の藤原氏)などが存在していたのですが、貴種は武人になりえず、の格言どうり、朝廷サロンで美女を相手に歌などを詠んでいたわけです。
優れた軍人になるには、幼年の頃から軍事訓練を行なわなければ、騎馬弓射などの高等軍事技術を習得できないわけです。ですから、京の都では、氏素性など問題にせず、軍事技術のある武士は、就職の口はいくらでもあったわけです。
戦国時代、何故、尾張国の部将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が、数多ある戦国部将の中から頭角を現わしたのでしょうか。知力があったから、或は運が良かったからでしょうか。それは、海外との貿易港として、尾張国には桑名港があったからです。
戦闘は、兵力と武器との差により、勝敗が決まると言っても過言ではありません。つまり、武器弾薬、兵力の補充がより充実している軍団が、戦いの勝利者となるわけです。
織田信長は、イエズス会と組んで、鉄砲や弾薬の調達を行なっていました。更に、軍事顧問として、ジョバンニ・ロルテス(イタリア人。日本名山科羅久左衛門勝成。イエズス会宣教師オルガンティーノと伴に来日。聖ヨハネ騎士団に所属。キリシタン大名蒲生氏郷に砲術師として召抱えられる。蒲生氏郷没後日本国を去る。)を配下に置いていたのです。徳川家康は、ヤン・ヨーステン(1600年渡来。オランダ人。国際航海家。東京駅八重洲の名の基)を顧問として雇っていたのです。日本列島における戦は、飛鳥時代の古より、外国の軍事力の影響下にあったのです。実は、明治維新も水面下では、イギリス東インド会社(薩長官軍)とフランス東インド会社(幕府軍)との戦いだったのです。
そして、その戦国部将の出自は、三人とも不詳です。特に、自称平氏の豊臣秀吉は、いつ何所で生まれたのかも、分りません。自称平氏の織田信長は、先祖が神官だそうですが、四代先が分りません。ですから、武功を立てても、自称源氏の徳川家康(慶長八年・1603年)以外は、征夷大将軍にはなれなかったのです。
では、平安時代の「桑名港」はどこかといえば、それは、摂津国の浪速(難波)です。浪速(難波)は、飛鳥時代、西域から鍛治技術、灌漑技術、都市建設技術、土木技術などをもたらした秦氏により開拓された土地です。浪速は古くから、楼蘭(ロウラン)→楽浪(ロウラン)→筑紫(ジュジ)→浪速(ロウラン)→住吉(ジュジ)の国際交易ルートとして栄えていたのです。その、浪速(難波)の国際港がある摂津国の鍛治・産鉄部族が多く暮す多田荘(多田党はタタール族の末裔か?)から、49歳の源満仲が現われたのです。
平安時代の東アジアは、日本国の戦国時代のように、正に異民族が入り乱れた動乱の真っ只中であったようです。
907年の唐帝国の崩壊→916年の遼(契丹)の建国→960年宋の建国。935年新羅の滅亡→936年高麗の建国。目まぐるしく変わる王権。それに伴う臣民の離散と集合。そのような動乱期に、真っ先に国外逃亡するのが王族、貴族、金持ち、高級軍人など、国を支えていた支配層達です。そして、いつの時代でも、下層階級は、抹殺されるか、奴隷になるかの選択肢しか残されていないようです。
そのような時代に、五代十国の呉越国の天台山(中国本社)に、比叡山延暦寺(日本支社)の僧日延は、呉越国の国際交易商人蒋承勲(しょうしょうくん)の国際貿易船に乗って、呉越国と難波を往き来していたのです。
ちなみに、比叡山延暦寺は、百済系桓武天皇が最澄(日本国天台宗の祖・支社長)のために建立した寺です。
その流れから、比叡山延暦寺僧侶の法薬禅師が現われるのです。法薬禅師は、宋国の国際交易商人から大宰府役人への賄賂の融資を受けて、大山寺を北九州の借上活動(金融営業)の拠点としたのです。そして、宋の国際交易商人は神人(寺の奉仕人。本来は、神社の氏子。神仏混交により寺の使用人となる。)として活躍したのです。
平安時代から鎌倉時代に、比叡山延暦寺が日本国最大の金融業者となったのは、宋国との貿易活動と国際交易港がある北九州での金融業による荒稼ぎによるわけです。
主な輸出品は「真珠、水銀、硫黄、鷲の羽」です。輸入品は唐物の装飾雑貨類や羊やクジャクなどの珍しい動物です。その貿易の決済に使われたのが、陸奥国の金です。そのために、桓武天皇から始まる東北経営とは、蝦夷討伐を名目に、漢帝国の末裔の坂上田村麻呂などの傭兵軍を使役して、陸奥国の金の簒奪のことだったのです。その豊富な財産を保持した百済系延暦寺は、僧兵を組織して、興福寺と春日社を経営する藤原王朝と対峙するわけです。
藤原氏は、武家源氏の軍事武力を背景に、摂政関白システムを駆使して、京の都でやりたい放題を行なっていたのです。それは、藤原道長の、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」、の歌が示しています。でも、藤原氏の栄華は道長が頂点でした。
それに対して、百済系後三条天皇が、藤原氏の摂政関白システムを排斥する、「院政」で対抗するわけです。その院政のシステムとは、天皇を社長と譬えれば、天皇が引退して、代表権のある名誉会長に就任