プロカメラマンになれる本(3)

自立篇




この本のテーマは、如何にして、プロカメラマンとして自立していくのかを、技術として取得するためのヒントを述べることです。
プロカメラマンとして自立する早道は、
@写真の仕事を取ってくる技術と、
Aその仕事を遂行することができる技術と、
Bそして、その仕事をお金と交換する技術とを、修得することです。
そのためには、ひとのこころの流れ、仕事の流れ、お金の流れ、そして人脈の流れを研究し、それらの流れを自己実現の方向へコントロールするための技術を修得することです。
この本の目的は、撮影技術を修得するためではなく、ものの見方や考え方、或は生き方に対し、そのヒントを提示することです。
撮影技術を修得しようとするカメラマンは、他の撮影技術書籍で勉強して下さい。

第一章  こころの流れ  


    プロカメラマンの自立とは   




カメラマンを職業としている人なら誰でも、自己の撮影能力を何の束縛もなしに表現したいと思う欲求を持っていることでしょう。
では、現実はどうなのでしょうか。カメラマンという職業は、表面上は自由気ままのように見えるようですが、実際は色々な束縛があるようです。
カメラマンの職業も含めて、あらゆる仕事を遂行する上では、色々な制約や面倒な約束事があるものです。
それは、仕事とは相手の要求を満たすために、自己の技術や能力などを提供し、そのことに対して代償を受け取るゲームですから、自己中心ではなく、他者中心となるからです。つまり、相手の要求に合わせることが、仕事の基本というわけです。
その仕事において、自己のこころをいかなる条件下でもコントロールすることができるとするならば、仕事相手のいかなる要求にも気軽に応じることが可能でしょう。
と言うことは、自己のこころをコントロールする技術を修得することができれば、相手の要求を満たすことと、自己主張との葛藤も回避することも可能でしょう。
そのように考えるとするならば、自己のこころをコントロールできることは、プロカメラマンとして自立するためには絶対必要条件であることが分るでしょう。
それでは、どのようにすれば、仕事上のあらゆる条件下でも自己のこころをコントロールすることができるプロカメラマンになれるのでしょうか。
そこで思いつくのが「心理学」の学習です。しかし、心理学を学ぶだけで、ことは解決するのでしょうか。
物質文明をもたらした知性尊重の西欧文明の基礎である分析的思考の結果か、あらゆることは、分析的思考をすることにより解明できると信じ込んだ多くの人達は、理論的に矛盾を孕んだ原始的な魔術の世界を引きずった「多神教」を蔑視し、契約により選民になれる「一神教」を信じるようになり、更に、その宗教世界の矛盾点に気づいた一部の分析的思考のできる人達は、その宗教世界から決別して、宇宙の根本的原理を理論という言葉を道具として分析する学問である「哲学」を研究するようになっていったのでしょう。
しかし、その崇高な学問である哲学も、ひとのこころの不可思議な働きを哲学用語では分析することが出来なくなった結果か、多分に文学的才能を要する「心理学」を発明したのでしょう。
その心理学は、ひとびとの注目を集めることができたのは、ひとのこころの働きを、文学的に易しく表現したことによるのかもしれません。
そこで、文学的才能で、言葉を道具として、分析機器を駆使して科学的証拠集めとして、理論的にひとのこころを「心理学」すれば、ひとのこころの根本的悩みを解明でき、そのことにより、こころの不可思議をコントロールすることができる方法を、見つけることができると信じたのでしょう。
しかし、その科学的心理学も、時代の流れとともに色々な理論を発明しても、結局、こころを分析すればするほど、その実体もその流れも知ることが出来ないだけでなく、コントロールさえも出来ないと悟った心理学者の中には、その分厚い書物を投げ出し、再び宗教世界へと向かっているようです。
心理学の弱点は、原因が分れば、こころの問題は解決すると考えていることです。そのことは、漢字を多く知っていれば、小説が書けると思っていることと似ています。漢字を知っていることと、文章を上手に書くこととは、次元が異なるのです。
こころは、分析をして、原因を解明したところで、それをコントロールすることはできません。次元が違うからです。
さて、話を現実の世界にもどして、そのこころの流れを考えてみましょう。
例えば、あなたが一所懸命努力して撮影した写真作品を、クライアントに提示したとします。その自信のある作品に対して、「アンタそれでもプロカメラマン?」とか「これがプロの写真?」などとマイナスイメージの評価を、面と向かって言われた場合、あなたの期待に膨らんでいたこころは、憤りとも悲しみとも表現できないような気持ちに落ち込むことでしょう。
それは、自己の写真作品に対しての期待が大きければ大きいほど、その期待に反する対応を相手から受けるとすれば、自己のこころの流れは怒涛のようになり、その流れを抑えようとすればするほど、その流れは沈静するどころか、ますます手がつけられなくなってしまうことでしょう。
そのような時、言葉を道具として、そのこころの流れを自己分析したところで、その解決の糸口を見つけることができないだけではなく、抑えることもできないことは、「心理学」を少しでも勉強したひとには理解できるでしょう。
こころの流れを心理学的に分析することと、その流れをコントロールすることとは別の次元のことであり、「なぜ」とか「どうして」とかの理論的疑問を言葉を道具としてこころを分析したとしても、そのようなこころの流れをコントロールすることができないことは、東洋では、紀元前五百六十五年にインドに生まれたゴータマ・シッタルダ(シャカ)は、菩提樹(一説にはいちぢくの木)の下で悟っていました。
悟りとは、言葉を理論的に展開して思考することではなく、思考を停止し、智恵(般若)を使い、ものごとをあるがままにこころで感じとることです。
そのような、思考を停止し、瞑想により答えを求める非理論的なこころへのアプローチ方法を蔑視する、西欧文明を上位と信じる知性尊重の科学的文化人の中には、理論的ではなく、非理論的に展開するこころの流れについては、それを解決するための何の知識も持ち合わせていないどころか、その流れの存在を無視する傾向があるようです。
しかし、実際にこころは一瞬とも安定せず、流れているのです。
そこで、あなたが、その流れの存在を無視するひとたちの仲間ではなく、その流れの存在を認識し、その流れをコントロールする方法を研究し、それを必要とする時、その技術を実行することができるとするならば、仕事上、クライアントのどのような態度にも応じることができるようになり、仕事も今以上にやり易くなり、さらにクライアントを満足させることにより、その結果、仕事を依頼されることが増えて、プロカメラマンとして楽しく生活ができることでしょう。
そのように考えるならば、プロカメラマンとして自立するとは、撮影技術を修得するだけではなく、自己のこころの流れを、どのような条件下でもコントロールすることができる技術を修得しなければならない、ということが理解できるでしょう。
一般的に、ひとは日常における色々な出来事に対処するために、自分のこころの流れを観察するよりも、その出来事の対象物について観察する傾向があるようです。
例えば、対人関係においてトラブルがあるとすると、自分のこころの反応やその連続の流れについてではなく、相手がどのように反応しているのかなどの情報を得ようとする傾向があるようです。
そして、その相手の反応に対して、「なぜ」とか「どうして」などの疑問を解く言葉により、分析する傾向があるようです。それで事が解決するのであれば、その方法も有意義でしょう。しかし、自分のこころも流れているのと同じに、相手のこころも流れているのです。そのような、安定していないこころを、言葉を道具として分析したとしても、その答えが出るはずはありません。堂々廻りをするだけです。
「あのひとはなぜ、、、」とか「どうしてあのひとは、、、」などと言葉を道具として分析したとしても、流れているこころを分析などできるはずはないのです。その「なぜ」、「どうして」を、何十年間も問い続けているひとは、結構いるものです。
そして、その出ない答えを得ようとして、自己のこころのコントロールを失ってしまうと、自己の殻に篭るか、或はそれを紛らわすために、酒を飲んだり、ギヤンブルをしてこころの乱れを忘れようとする傾向があるようです。篭ることや酒、ギャンブルは否定しません。使い方を考えるべきです。篭ることはエネルギーを充電するために、そして酒やギャンブルは、人生の目的とするのではなく、人生の骨休めと考えるべきです。
そこでこの章では、プロカメラマンとして自立するために、その流れをコントロールする技術の修得の仕方のヒントを中心に話を進めていくことにしましょう。

なぜ思うようにいかないか   



一般的に、プロカメラマンとして自立するということは、写真の仕事をすることにより暮らしを立てる、と考えられているようです。そこで、そのように自立を望むプロカメラマン予備軍は、写真撮影技術に磨きをかけて、努力するわけですが、そのように撮影技術を修得できれば、すぐにでもプロカメラマンとして自立できるのであれば、この世は幸福なプロカメラマンで溢れていることでしょう。
しかし、どうでしょう。毎年写真学校卒業生が、この世界に送り出されているのに、自立したプロカメラマンは増えているのでしょうか。
写真の需要が多くあった高度成長時代であるならば、その仕事量に比例して、プロカメラマン予備軍も自立できたことでしょう。しかし、低成長あるいはマイナス成長では、プロカメラマン予備軍が市場に供給されたとしても、写真の仕事の需要が、それに比してないわけですから、プランドマーケティングにより新人プロカメラマンが一人自立したとしたら、当然その市場から既存のプロカメラマンが一人抜ける結果になるわけです。
そのようなパイの奪い合いのようなカメラマン市場に、仕事の開拓の仕方や人脈の作り方も知らないプロカメラマン予備軍が、ブランドカメラマンと仕事の獲りあいをしたとしても、勝負にならないことは理解できるでしょう。
それでは、プロカメラマン予備軍は、永遠に自立できないのでしょうか。
そんなことはありません。仕事の開拓の仕方や人脈作りの方法が分れば、ブランドカメラマンと互角に戦えるでしょう。
そして、写真を上手に撮影できることと、写真の仕事を開拓することとは、別の次元のことである、と認識することです。
さて、この世には、物事に行き詰まってしまって「人生は思うように行かない。」と言うひとがいるかと思えば、同じ時の流れにいても物事がトントン拍子でうまく行き、「人生は思うとおりに行く。」と言うひとがいるのはどうしてなのでしょうか。
「人生は思うように行かない」ひとは、運が悪かったから、それとも生まれが悪かったからでしょうか。
運や生まれは、ひとにはコントロールできません。ですから、それらを嘆いたところで、何の解決にもならないでしょう。
では、生まれが悪いひとは、人生が思うように行かないのでしょうか。そのようなことはないでしょう。現在の名家や財閥でも、何代か遡れば、一般レベルの祖先がいるものです。その一般レベルのひとが、何かのキッカケで、時の流れに乗って、財が財を呼び、名家や財閥になれたわけです。この世には、初めから名家や財閥として生まれたひとなどひとりもいないのです。
それでは、何がその分岐点となったのでしょうか。
世間のひとたちの言動をよく観察してみますと、二種類のひとがいることが分るでしょう 。
考え方の違いでは、ひとりは、物事を悪い方へ、悪い方へと解釈し、そして、もうひとりは、その同じ物事をよい方へ、よい方へと解釈するのです。
感情については、ひとりは自己の感情に振り回されていて、そして、もうひとりは、自己の感情を上手にコントロールしているのです。
このように異なる考え方や行動は、一体何によるのでしょうか。
その原因のひとつに考えられるのは、幼い頃からの情報のインプットです。
その主な情報とは、
@一生懸命努力すれば成功する。
A悪いことをせず、言われたとおり真面目に働けば成功する。
B偉い人の言うことに従っていれば成功する。
Cよい学校を卒業すれば成功する。
D怠けると人生の落伍者となる。
等など、物心付いた幼児のころから、両親や周りの大人達により、嫌と言うほど聞かされてきたことでしょう。それにより、これらの呪文は、こころの回路に刷り込まれ、強迫観念のように信じ込んでしまっているひとも多くいることでしょう。
それらの呪文を唱えて暮らして行けば、人生の成功者となり、楽しく暮らせるのであれば結構なことです。しかし、それらの呪文で人生はバラ色に染まるのでしょうか。
それらの呪文は、ある条件下では、ご利益を得ることができるかもしれません。その条件下とは「他者中心」で、「自己中心」に考えないということです。
@自分が一所懸命努力したからといって、それを認めてくれる他人がいなければ、そんな努力は無駄骨であるわけです。他人に認められる方法を考えましょう。
A命令するひとは、そのひと自身のために他人を働かせているのです。言われたとおりに働いても、その働きに報われることはないでしょう。自分のスキルアップのために働きましょう。
Bそもそも何が偉いかは、相対的な問題です。偉い人の言うことが必ずしも正しいとは限りません。自分に都合のよいことだけ受け入れましょう。
Cよい学校などイメージで実体などないのです。自分の能力に相応しい学校がよい学校です。偏差値が高いのがよい学校ではないのです。実力の世界では、イメージは通用しません。学歴を誇るひとは、実力のないひとだと考えましょう。
D怠けるとは、別表現では充電期間のことです。充電することで、パワーアップすることができるのです。怠けられる時はおおいに怠けましょう。但し充電のために。
そのように呪文を解釈できるとすれば、ご利益を得ることが可能でしょう。しかし、親達がそれらの呪文を唱える時は、「子羊」のように反抗もせず従順にせよ、と脅しに使うようです。
世の中のシステムが、自分が思うように作動しない時、その原因を外に求めるのではなく、まず自分のこころの中を探してみましょう。そして、不都合な思考回路が見つかったら、それを消去しましょう。
なぜ思うようにいかないかの原因のひとつは、言葉の使い方の技術を正確に修得していないからです。これは、あなたには責任ありません。多分両親がその責を負うことでしょう。それは、子育ての時、両親がポジテイブに言葉を使っていたのではなく、ネガティブに使っていたことが原因のひとつなのです。
言葉には力が潜在しているのです。その言葉が組み合わされ、思考という行動を左右する大きな力になるわけです。ですから、これからは言葉の使い方に注意しましょう。ポジティブな言葉を使うことにより、行動もポジティブになるからです。
話を戻して、
「人生は思うように行く」プロカメラマンは、仕事上の無理難題を、自己中心的に処理しようとするのではなく、相手の本心を読んで、その解決方法を自己の智恵を使い、そしてその結果をよい方へよい方へと解釈することにより、「人生は思うように行く」ことが自然の流れとなるわけです。
例えば、仕事の開拓のために、潜在顧客を訪問して、提示した自信作に対して、その潜在顧客が、「アンタそれでもプロカメラマン」とか、「ウチとしてはこの程度の腕では仕事を発注できないね。」とかを面と向かって言われた場合、それを言われたプロカメラマンが頭にカチンと来て、ドアーを後ろ足でバタンと閉じて帰るのではなく、「この潜在顧客は、自分の撮影技術の未熟さを、授業料も取らずに指摘してくれた」と考え感謝し、その場の自己のこころの流れを上手にコントロールして、「それでは、どのような作品をお望みですか」とか「具体的にどのようにすれば仕事を発注されるのでしょうか。」とかを、その潜在顧客に素直に教えを乞えば、十人に一人ぐらいは、それらの質問に真面目に答えてくれるだけではなく、後々のアドバイザーとなってくれる可能性だってあるわけです。
そのように考えられるプロカメラマンであるならば、仕事を上手にことわられたことにより、後々のお付き合いのキッカケが出来る場合もあるわけです。
しかし、実際問題として、自己に不都合な条件下では、そのような絵に描いたような立派な態度で物事に対処することは、なかなか難しいことでしょう。たとえ、よい方へと考えることは出来たとしても、怒涛のようなこころの流れを上手にコントロールして、それを態度に示すことは、非常に難しいことです。
そこで、どのようにすれば、波立つこころの流れをコントロールすることができるのかを、次に考えてみましょう。

意志の力は逆作用   



ひとは、こころをコントロールできなくなると、その解決を外に求める傾向があるようです。宗教にそれを求めるのが一般的のようですが、知的なひとは「心理学」に求めるようです。そのことを証明するかのように、知的雑誌の特集には「○○の心理学」というタイトルを多く目にすることでしょう。
心理学って、言葉によりこころを分析することでひとの悩みを簡単に解決することができる、宗教より凄い、学問なのでしょうか。
ひとのこころの働きのひとつとして、感情があります。この本では、感情のことを「こころの流れ」と言っています。その感情について、心理学の本で、コントロールする技術を修得しようと勉強しても、スッキリした説明が得られないのは私だけでしょうか。
例えば、感情について、心理学書や哲学書の索引を調べれば、そのことが納得できるでしょう。たまたま、それらの書籍の索引に感情についての項目があったとしても、その説明は、「感情は持続的で、より平静な情感性を指し、表面にあらわれる身体的変化はわずかである。また広義の感情は、快、不快、情動感情、情念(情熱)、情操などすべての情感的体験を含めていう。」(現代哲学辞典:講談社)のような説明以上は望めないほど、理解するのに困難が生じるでしょう。
そのように理解困難なのは、感情とは固体のように形のあるものではなく、また気体のように眼にみえないものだからでしょう。さらに感情は、長時間その状態を維持することができるものではなく、液体のように流れているからでしょう。
ですから、感情について、理論的科学的用語や最新科学的測定器を駆使してデータを集積し、それらの情報を基にそれを定義しょうと試みても、感情は時の流れに流され、一定の状態を留められないため、感情について納得できる説明はできないのでしょう。
でも、感情を、川の流れに浮かぶ「うたかた」と考えるとすれば、そのイメージを理解することができるかもしれません。川の流れにある「うたかた」は、かつ結びかつ消えてとどまるためしはないのです。
さらに感情は、シャボン玉のように、今赤色になったかと思えば、すぐに緑色になってしまうように刻々と変化しているのです。
そのような捉えどころのない感情をコントロールするのに、科学的にコトバや測定器械を駆使して分析したところで、解決できないことは「現代哲学辞典」を読んだひとには理解できるでしょう。
感情を分析することと、それをコントロールすることとは、次元が異なるのです。
でも、感情は捉えどころがなくても、実際にひとのこころにあり、時としてひとびとを悲しませたり、楽しませたりしているわけです。
何がそのようにさせるのかは分かりませんが、同じ刺激を与えても、ある子は泣くし、他の子は笑うことも日常的にあるわけです。そのように観察すると、感情とは、外界の刺激だけによるのではなく、そのひとのこころの中に、喜怒哀楽の種(子供の頃に構築された潜在回路)があるようです。
それでは、感情を言葉で定義づけすることができないため、それをコントロールする方法は見つからないのでしょうか。
物事を分析し、その原因を解明できなければ、その解決方法が見つからないことはないでしょう。たとえばそれは丁度、最先端医療のアロパシー医学では病気の原因を突き止めないと「くすり」を処方することができませんが、しかし、古来から伝承されている東洋医学の治療方法では、その病気の原因に対してではなく、病人の体質や状態を考慮して「くすり」を処方するようなことです。病気の原因を分析して病名を確定し、その原因を叩くのも治療法のひとつなら、病気の原因を追求するのではなく、そのひとに合った「免疫力」を高める治療もひとつの方法なのです。
しかし、東洋医学は、西洋医学よりも治療法が劣っていると信じられているのは、そのくすりの薬理効果がエビデンス(科学的な証拠による裏付け)に基づいていないからでしょう。
でも、その考え方はおかしいです。治療の目的は、病気を癒すことです。原因を見つけることは、手段のひとつなのです。目的と手段が転倒している医療を揶揄するとすれば、瀕死の病人に向かって、「検査ができるような体力が付いたら来院して下さい。」と言うようなものです。
それに、薬理理論だけが病気を癒すのではありません。自然の法則下にある、いまだ科学的に解明されていない自然治癒力も、有用な治療方法のひとつなのです。
自然治癒力とは、分厚い書籍を読まなければその力を利用できないわけではなく、ことさら学習しなくても、その力を利用することができるのです。自然治癒力は、言葉が発明される以前から存在しているものです。そして、だれにでも内在しているのです。
ひとにはその自然治癒力のほかに、まだまだ未知の力が内在しているようです。最新科学で証明できないことは、存在していないことの証明にはなりません。その科学で証明できない未知の力を利用することにより、こころの流れをコントロールすることができるかもしれません。
そこで、こころの流れをコントロールする理論をコトバで構築するのではなく、実践でこころの流れをコントロールする方法を探してみましょう。
そこで思い出すのが、基礎篇の「リラックスの仕方」を訓練していた状態です。その自律訓練法を実行したひとには、次のような困難が生じたことでしょう。
それは、指示された暗示語を「さりげなく」ではなく、効果を出そうと「一所懸命」に思い浮かべ続けていると、何がなんだか分からないけれど、気がつくとその指示された暗示語とは全然関係ないことを次から次えと考えてしまっていることです。
つまり、効果を早くだそうと、意志の力で「一所懸命」その暗示語を思い続けていると、いつしか暗示語とは全く別のことを考えてしまうわけです。
意志の力を使い一所懸命努力すると上手くいかないなんて、「常識的」に考えればおかしなことです。意志を使い、一所懸命努力することが、物事を成就する早道だと、子供の頃から両親達に学習させられてきませんでしたか。
こころの不可思議には、その逆もあるようです。
そのこころの不可思議とは、忘れようとすればするほど思い出してしまう、ということです。
例えば、何かのミスをしてしまい、必要以上と思われるほど人前で罵倒されてしまった場合、こころの流れは怒涛となり、煮え繰り返ってしまうことでしょう。そのような状態を、「なぜ」とか「どうして」とかで言葉を理論的に使っても沈静出来ない場合、そのことを忘れようとする意図を持って、酒を飲んだり、ギヤンブルをしたりする傾向があるようです。(大人になりきれないひとや子供の場合、弱い者イジメにはしる傾向があるようです。)
そのような解決法を探すのではなく、こころの憂さを転化するような方法で、嫌な思い出をすぐにでも忘れられるならば、この世は幸福者で溢れていることでしょう。しかし、この世で幸福者を探すのは難しいでしょう。
それは、忘れようと、意志の力を利用して一所懸命努力することにより、益々忘れることができなくなるからです。その忘れようと思っていることが、一年前どころか数十年前のことであることなど、別に珍しいことではないでしょう。
そこで、この不可思議な相反するこころの働き、つまり、意志の力で努力して思い続けていると忘れてしまい、それとは逆に、意志の力で努力して忘れようとすればするほどいつまでも忘れられないことを、感情のコントロールに応用できないか、と思いつくわけです。
一般的に、ひとは楽しい思い出を意志の力で努力して思い続けているうちに、いつしかその楽しい思い出は忘れ去られてしまい、それとは逆に、意志の力で努力して、悪い思い出を忘れようとすることにより、何十年も忘れることができないのです。ですから、こころの中には、楽しい思い出が消え去り、悪い思い出だけが残ってしまうわけです。
そこで、その逆をすることにより、幸福者(悪い思い出を消し去り、楽しい思い出を保持しているひと)の仲間になれるかもしれません。
「アンタそれでもプロカメラマン」とクライアントから言われて、こころの流れが乱れてしまった場合、そのことを、酒を飲んだりギャンブルしたりして努力して忘れようとするのではなく、その言われたことによるこころの乱れた状態を、客観的態度で意志の力で努力して思い続けてみることです。
そのこころの乱れが怒りとなっていれば、その怒りの感情を意志の力で努力して思い続けてみるのです。或は、悲しみであるならば、その悲しい状態を、惨めな状態ならその状態を、意志の力で努力して思い続けてみるのです。
そのように思い続けていれば、いつしかはその悪い思い出はこころから消え去ることでしょう。たとえ消え去ることができなくても、酒やギャンブルとは無縁となっていることでしょう。
そのような状態がこころに反映されたとすれば、それはもうこころの流れをコントロールできたことになるわけです。
つまり、意志の力は、こころに対して、逆作用を生じるわけです。
そのようにこころの流れをコントロールする技術を修得できれば、全ては解決できるほどプロカメラマンのビジネスゲームは単純ではありません。
それでは、こころの流れをコントロールするだけでは対処できない場合を、次に考えてみましょう。

「仕方がない」の発想   



仕事にはトラブルがつきものです。そこで、プロカメラマンとして自立する早道は、仕事上のトラブルを回避する技術を修得するか、または起こってしまったトラブルを上手に処理する技術を修得することです。
それには、自己中心にではなく、仕事相手の気持ちを読んで対処することです。このことは、「営業マンは、勝ったら負け。」と言われていることです。ビジネスゲームでは、真理を相手に語ったところでなんにもなりません。そもそも、トラブルにおいて、どちらが正しいかは神様にも分らないでしょう。それは、トラブルの原因は、相対的なもので、自分が正しければ相手は正しくないし、その逆に、相手が正しければ自分は正しくないからです。
このトラブルの処理の仕方を、昔のひとは、「金持ち喧嘩せず。」とか「商人は損をしているうちに倉が建つ。」と言っているわけです。
そこで、前節で、こころの流れをコントロールする技術を考えたわけですが、仕事をとってくるには、更にビジネスゲームの基礎知識を知る必要があるでしょう。
よく聞く話ですが、学校で優秀な成績で卒業したひとほど営業マンには向いていない、或は、優良会社の営業マンは転職先で活躍はできない、と言われています。
何故でしょう。
学校での優秀とは、与えられた課題を期間内に要領よく纏め上げられる技術力のことを言っているのです。優良会社の営業マンの仕事は、相手先が、その営業マン個人よりもその会社のブランドを信頼して発注しているわけです。
ここのところを理解していないと、新人営業マンも元優良会社の営業マンも、新会社で一日中机に座っていることになってしまうわけです。
営利企業での仕事は、机に座っていてもとれません。それでは、どのようにして仕事をとってくるのでしょうか。
仕事の基本は、相手の要求を自分の能力で満たすことです。それには、自分の能力を必要とする相手を探すことです。探すことが、営業マンの仕事の初歩なのです。しかし、優秀なひとほど、相手が自分を求めてくると信じているわけです。ですから、一日中机に座り、電話が鳴るのを待っているわけです。
何日も待っていても仕事が来ない、そこでやっと獲物を求めて新規開拓となるわけです。
野生の動物でも、獲物を獲得するための技術を修得していない子供の頃、何かの事情でひとに飼育されてしまうと、大人になったから自分で獲物が取れるだろうと考え自然に帰そうとしても、野生の世界に溶け込むことができないようです。野生動物でさえも、子供の頃、親から獲物(仕事)の獲り方の技術を修得させてもらえなければ、生きてはいけないのです。
新人営業マンや転職営業マンも、暫くは机に一日中座っていることが赦されるでしょうが、在る期間がすぎれば、外回りをする羽目になることでしょう。そこで、仕事をとるための技術を修得していれば問題ないのですが、その訓練を受けていないとすれば、子供の頃、両親達から与えられた呪文「一所懸命努力すれば成功する。」を忠実に守って行動することになるわけです。
しかし、仕事は相手在っての仕事です。仕事をとるために、自分中心の努力を一所懸命したからといって、仕事がすぐ手に入ることはないでしょう。
新規の仕事を受注することは、「千三つ」と昔から言われているように大変なことなのです。「千三つ」とは、千回訪問して三つ仕事をもらえれば上々だということです。このことを理解しているのなら、営業周りも苦にならないことでしょう。
しかし、自分中心の世界で暮らしていた優秀なひとや獲物の獲り方の技術を修得していないひとは、前述の両親達の呪文に呪縛され、猪突猛進で仕事獲得を目指すわけです。そのようにして、仕事がとれれば結構なことです。
しかし、上手く行かなかった場合、努力に努力を重ねてしまうことでしょう。目的達成のため、一所懸命努力することは、特別な場合以外は、してはいけないことなのです。それは、無理をするとか死に物狂いで事に当たるとは、自然なことではなく、不自然なことだからです。不自然なことは、当然長続きすることはないでしょう。そこで、その結果が、自己挫折か転職或は再転職となってしまうわけです。
それでは、「千三つ」の呪文を唱えながら、一所懸命努力しても仕事がとれない場合、どのようにしたらよいのでしょうか。
その方法のひとつは、「仕方がない」の発想をすることです。
「仕方がない」の発想とは、状況に対処するための方法が無いと考え、その目標に立向かうことを一時放棄し、あきらめることです。
一般的に、ひとは目標に向かって、短期間にそこへ到達する方法を考え、それを実行する傾向があるようです。そこで、事が上手く行くのなら結構なことですが、計画どうり短期間にその目標に到達できない場合、一度引いて、再度計画を立て直す余裕を持つのではなく、その行き詰まりを解消するために、自己のエネルギーを虚脱状態になるまで一所懸命努力して放出してしまい、それでも解消できない場合、その目標に向かうことを完全に放棄してしまう傾向があるようです。
今流行りの不登校や引き篭もりも、このメカニズムによるのかもしれません。社会のシステムと今まで家庭で学習してきたシステムとの歪みを解消しょうと一所懸命努力した結果、生命エネルギーを過放出してしまい、最後の一線の枯渇を回避するために、潜在意識が内側に篭りエネルギーを充電するための回路を作動させた結果が、子供の場合不登校で、大人の場合引き篭もりなのかもしれません。
不登校や引き篭もりには、生命エネルギーの充電が必要です。焦らずゆっくり休ませ、その充電が完了するのを待つことです。そうすれば、再び行動を起すことでしょう。何故かと言えば、ひとはそのようにできているからです。
さて、仕事を獲得する為の一直線的行動は、学習能力のないニワトリの行動に似ています。
ニワトリをコの字形の金網に入れ、空いている側を背にして金網のすぐ外側に餌を置くと、そのニワトリはその金網の状態を三百六十度調べるのではなく、状況を無視して、その金網に直進して餌を食べようと疲れきるまでその行動をやめようとしないでしょう。そして、最後はその餌の存在を完全に無視してしまうことでしょう。
このことは、ひとの行動にも言えるでしょう。餌(仕事)が欲しければ、その状況を観察して、今していた行動が結果を出せないのなら、その行動を一時止め、全方向を観察してみるのです。そのように観察して、後ろに解決の道があると思われたら、そこへ向かうことです。
問題の解決方法は一つだけではありません。目標に立ち向かうことを完全に諦める前に、「仕方のない」の発想をして、成功の早道と信じていた考えを一時放棄して、現在の状況を客観的に把握して、その情報を基に、今までとは逆の考え方、つまり「失敗しない仕方」を考えてみるのです。
そして、その「成功する仕方」ではなく、「失敗しない仕方」を、結果をみながら何度も何度も、一所懸命努力するのではなく、「千三つ」の呪文を唱えながら「さりげなく」実行し続けたならば、後に残るのは「成功への道」でしょう。
例えば、写真の仕事をもらおうと、潜在顧客を何度も訪問しても、思うような結果が得られない場合、「どうしたら仕事がもらえるか」と考えるのではなく、「どうしたら断られないか」と考えることも、仕事をもらうひとつの方法なのです。
仕事をもらうということを、拡大解釈すれば、その基本は物乞いと同一であると考えることも出来るでしょう。そのように考えられるならば、正攻法で仕事をもらえなくても、その逆の方法で仕事をもらうヒントを「ウパニシャド」の文中に見つけることができるでしょう。

かかる人のウパニシャド(聖隠語)は「乞うなかれ」である。喩えれば村落を行乞していたが一物も貰えなかった場合、「おれはこの村の人間のくれるものは食わないぞ」と決心して座り込んでしまうと、却って、往きには彼に拒んだ人達が「あげましょう」といって彼の処へ寄って来るようなものである。これが物乞いの法である。他の場合においても、物乞いの法を守るならば世人の方から「あげましょう」といって寄って来るものである。

仕事をもらおうとするその態度が、それを求めた相手のこころに、仕事をあげようとする気持ちを起させない原因となる場合もあるわけです。そのような相手に対しては、「仕事を下さい」と懇願するのではなく、「あなたの仕事などしたくありません」と無視する態度を示すことも、仕事をもらう方法のひとつになるわけです。
実際に、そのような態度で仕事をもらっている芸術家や芸能人を、あなたは何人も知っていることでしょう。
そのような「仕方がない」の発想をして、目標に向かって行っても、解決できない場合もあることでしょう。それは、自己中心に世界が回っていないことと、時の流れはコントロールすることができず、ただ好機を待つしか方法がないからです。
そこで、更に目標に向かって前進するために、新たな方法を考えてみましょう。その方法とは、「全とりかえ」の発想です。

「全とりかえ」の発想   



世界は自分中心に回っているのではなく、それに、時間の流れもコントロールすることもできません。しかし、自分の考えや行動が、その回転や流れにたまたま偶然に合ったことにより、自分中心に世界が回っているような錯覚を、誰もが人生で一度や二度は経験していることでしょう。
でも、それは錯覚ですが、自己観察力の欠しいひとは、己の能力を過信して、惨めな結果をみることは、経済界でよく見るパターンです。よく言われているように、超一流経済雑誌に記事としてとり上げられた時が、そのひとのピークなのです。後は、下り坂が待っているだけです。
人生は、偶然の連続で出来ているのです。それも一直線ではなく、山あり谷ありです。そして、頂上にいるひとは、下り坂が待っているし、谷底にいるひとは、登りの道が待っているわけです。頂上にいるひとは自惚れることなく、谷底にいるひとは悲観することなく生きたいものです。
さて、前節で自分の思うような流れに乗れない場合、「仕方がない」の発想で切り抜ける方法を考えました。しかし、その発想では、乗り越えられない壁もあるわけです。その壁とは、時の流れ、ビジネスゲームの流れ、そして世間の流れのことです。
ひとの人生は、一般に、運命という巡り合わせにより左右されるようです。
ひとの運命とは、魔術篇で述べたように、簡単に言えば、時間の流れと所在の移動との交点の連続線のことであるわけです。
そこで、今までの運命が良くないと考え、それを変えよとするには、時間の流れはひとにはコントロールできませんから、ひとのコントロール可能な所在の移動について考えることです。
それでは、その所在の移動とは何かと言えば、それは転業、転職、転社、そして転居など色々と考えられますが、要は、今までの自分の周りの環境を変えることです。
つまり、人生の流れ(運命)=時の流れ×所在(環境)の移動
となるのですから、人生の流れが、自分の思うように流れていない場合、所在(環境)を変えることにより、人生の流れ、つまり、運命も多少変化させることができる理屈になるわけです。
そこで、環境を変えるため、所在の移動をしたところで、そのひと自身も変えなくては、完全とはいえないでしょう。それは、自分自身を含めて身の回りも環境の範疇にあるからです。
更に、性格も変えられたら完璧なのですが、性格=遺伝による素質×生活環境、となるわけですから、生活環境を変えたからといっても、そうはいかないでしょう。
でも、ひとの外観を変えることにより、人生の流れも多少は変化するのです。
そこでまず、現在の自分の身の回りの環境を観察してみて下さい。それらの身の回りのもの全てのものが、今現在の環境を構成している部分ですから、それらの環境の一部分を変えてみることにより、運命の流れも多少は変わる理屈になるわけです。
さて、まずは自分の身体を包んでいるものを点検してみて下さい。
下着は清潔ですか。ズボンやシャツはどうですか。靴はどうですか。髪は整えてありますか。メガネをかけているひとはどのようなセンスのものをしていますか。時計はどういうものを使用していますか。
それらの点検が終わったら、次にプロカメラマンの商売道具について点検してみて下さい。
カメラや三脚、カメラバックはどのようなものを使用していますか。感材はどこのメーカのものですか。
更に、事務所または住居はどうですか。室内は綺麗に整頓されていますか。
そのように、身の回りの環境を構成しているものを客観的に点検した結果、それらのものが一流プロカメラマンのイメージを壊すものであるとしたならば、「全とりかえ」の発想をすることにより、運命の流れも多少変化することでしょう。
「全とりかえ」の発想とは、喩えれば、トランプの「ポーカーゲーム」で、配られたカード五枚が思うようなものでない場合、そのカード五枚全てを取り替えることにより、今より良い組み合わせを期待するようなことです。
潜在顧客を何度も訪問しても、思うように行かない場合、その原因が相手にあるのではなく、自分自身にあると考えられるカメラマンは、新しい流れに乗ることができるでしょう。
ひとは、初対面の人物に対して、そのひとの身に付けているものや服装などの情報により、それらを素材としてイメージ化して人物評価する傾向があるからです。アクセサリーや服装などのブランドマーケテイングは、ひとのその潜在欲求を満たすことにより成功するわけです。
今までのセールスが上手くいかなかったのは、潜在顧客に与えたイメージが、意図するも のでなかったからかもしれません。気心が知れている仲ならば、作品自体やその撮影技術だけで勝負できるでしょうが、初対面のひとから信頼感を得るには、まずそのひとの外観の情報が重要な素材となるのです。
そこで外観を取繕うために、自分の目指すプロカメラマン像をこころの中に描いてみましょう。そして、次に、頭のてっぺんからつま先まで、そのイメージに近づけるように身の回りの環境を整えてみましょう。
そのようにして、外観を取繕い自分の目指すプロカメラマン像が完成したら、再び潜在顧客を訪ねてみましょう。そうすれば、今までとは異なる相手の対応の微妙な変化を感じとることができることでしょう。そして、その相手の対応の変化が、自分自身へのリアクションとなり、その結果、自信を湧かせることになるでしょう。(このことは、ビデオで「マイフェアレディ」を見ることで理解できるかもしれません。)
「全とりかえ」の発想とは、つまるところ、今までの身の回りのものを全て破棄し、捨て去ることにより、今までの自分をつくっていたイメージを払拭することにより、新たな運命の出発点とすることです。
しかし、「全とりかえ」の発想を実行して、外観を「変身」させたとしても、それは実像ではなく、イメージにすぎません。一度や二度の仕事であるならば、そのようなイメージ創りで仕事をもらえるかもしれませんが、長い付き合いをするには、実体が伴わなければだめでしょう。メッキはあくまでメッキで、本物とは異なるからです。
ですから、とりあえず目指すプロカメラマン像の外観を執り創ったら、それで終わりとするのではなく、次にその内観も変身させることです。
つまり、精神的な「変身」というわけです。
その精神的変身をするには、まずこころの自己点検をすることです。それは、簡単な方法で行なうことができます。その方法のひとつは、自分の商談会話をレコーダで録音して、後で聞いてみるのです。
ひとのコミニュケーションの手段は、大きく分けるとすれば、二種類となるでしょう。ひとつは態度で、もうひとつは言葉です。態度のほうは、演技をすることにより取繕うことが可能です。しかし、言葉の使い方はそのように上手くはいかないでしょう。なぜならば、何十年間も学習した結果が、現在の言葉の使い方となっているからです。
さて、そのようにして録音した会話を聞いてみましょう。
そのチェックポイントは、話し方のスピード、リズム、音声の高低、話の間のとりかた、相手の話をどれだけ理解して答えているか、そしてその答えはネガティブかポジティブかなどです。
そのようなチェックポイントを自己点検した結果、自分の商談会話の欠陥を客観的に指摘できるならば、今までの言葉の使い方を変えることで、新たな流れに乗ることができるでしょう。
その方法は、人格を変えてみることです。そうは言っても、人格は変えることができるのでしょうか。次に考えてみましょう。

人格を変換することとは   



外観を整えたり内観を変える目的は、潜在顧客との良好なコミニュケーションをとることです。それでは、そのコミニュケーションとは、そもそもどういうことなのでしょうか。
言語を持たない時代のコミニュケーションとは、ひとにおいては、生き残りのための技術であったわけです。その技術とは、脳の発達で言語を道具として利用できると伴に複雑に変化してしまいましたが、基本的には、敵か味方か識別することと、子孫を増やすためのものでした。見知らぬ者と遭遇した時、相手の外観や一寸した動作の変化で、生死を争う相手か、或は生殖に相応しい相手かを一瞬の内に識別するための技術が、コミニュケーションの基本であったわけです。
しかし、言語を使う技術が発達してしまうと、コミニュケーション情報を解析する対象が、動作と言葉の二つになってしまうわけです。そこで、動作と言葉が同じ情報を発信しているのなら問題はないのですが、動作と言葉のメッセージが相反することもあるわけです。そこに、猜疑心が生まれるわけです。その猜疑心を払拭するために、色々なコミニュケーション技術が、今日まで発明されて来ているわけです。
さて、現在でもビジネスにおける初対面のひとに対する相手のこころの状態は、大昔と少しも変わらないでしょう。初対面のひとに対する相手側のこころの奥には猜疑心があるわけです。でも、意識下での態度や言葉はコントロールできますから、無駄な争いは避け生き残りのため、表面上は穏やかに取繕うことで、トラブルを回避しているわけです。
そこで、ビジネス場面では、その猜疑心を消滅させる目的で、自分は何者であるかを証明するための名刺などを、初対面の相手に提示するわけです。その名刺にブランドカンパニーの社名があるとしたら、感染魔術により、そのひとは相手に信用されるわけです。更に相手は、初対面のひとの情報を得ようと、爪先から頭の天辺までを観察するわけです。そして、二三質問するのです。その答えに、出身地が同じ、卒業学校が同じ、或は共通の知人がいれば、コミニュケーションはぐっと近くなるわけです。
そのようなコミニュケーション手段、或は技術で当面は取り繕うことができるかもしれませんが、こころの奥には原初的な識別回路が、相手の動向をチェックしているわけです。そのひとつが、直感です。
ひとの情報処理は、各器官からの入力情報を、脳の各部分に蓄積された過去の情報と照らし合わせて、それを基に修正を加えながら行なうわけです。そのような経路で情報を処理していたら、タイムラグのため、不穏な相手側の一瞬の攻撃をかわせない場合も想定されるでしょう。そこで、そのようにならないために、ひとには別の情報識別装置があるのです。その装置は、脳の眼窩上皮質の回路にあるのです。その装置の働きは、異常を感知することです。
物事に囚われてしまう強迫性障害のひとは、この異常感知装置の反応が、一般のひとに比べて極端に盛んのようです。そして、同じ動作を繰り返し行なうことは、この装置警報解除のスイッチが押されないためのようです。現在の研究では、神経伝達物質を使うことで、その行動をコントロールすることが可能のようです。
それでは、直感は何を情報源として、判断を下すのでしょうか。
ここにギターがあるとします。そこで、同じ太さの二本の弦を、同じ音が出るように張ります。そして、一方の弦を弾いてみましょう。そうしますと、物理的になにもしない弦が、震え出します。その結果、二本の弦は同じ音をだします。このことを共鳴といいます。
しかし、一方の弦の張りを少しづつかえていくと、共鳴は消えてしまうのです。更に張りを強く調整していくと、その張りが、ある所まで行くと、又共鳴が発生するのです。共鳴は、調整可能であることを覚えておいて下さい。
さて、「想像力顕微鏡」でひとを観察してみましょう。ひとの細胞が見えます。その細胞にズームアップすると、それを構成している蛋白分子が見えるでしょう。更にズームアップしていくと、蛋白分子を構成している原子が見えるでしょう。更にズームアップすれば、原子核の周りをグルグルまわる中性子が見えるでしょう。更にズームアップすると、光と振動で瞬時に変化しているクオークというものが見えるでしょう。更にズームアップすると、そこにはもう「波動」しかありません。という言は、ひとは「波動」で構成されているのかもしれません。
それでは、その「波動」からズームアウトしていきましょう。心臓の細胞が規則正しく脈打っているのが見えるでしょう。そのシステム化された「波動」は、いったい何によって制御されているのでしょうか。更に脳のほうに移動してみましょう。各ニューロン間は、電気信号のパルスにより情報を交換しているのが見えるでしょう。そのパルスは一瞬の内、波紋のように広がっているのが見えるでしょう。その波紋は、脳がリラックスしていたり、興奮したりの働き状態により、ある種の波を形成しているのがわかるでしょう。
そのように、ひとのからだは、「波動」により各細胞間の情報を交換しているのです。その「波動」を、東洋では「気」と言っているようです。
「気」は、ひとの五感では認識できないけれども存在しています。視覚や聴覚などの感覚器官が捕らえられない情報を、体が感じることは、誰でも一度や二度は経験していることでしょう。それらは、「殺気」や「胸騒ぎ」などと表現されているものです。それらは「科学的」に証明することは困難ですが、時空を超越した情報を、ひとびとにもたらすことは、否定できないでしょう。
この「気」については、日常の動作においてとり入れられています。例えば、周囲に対して「気を配ったり」、又、間違いがないように「気をつけたり」しているでしょう。昔の子供などは、童歌の「カゴメの歌」を歌いながら、「後ろの正面」のひとを、両手で目隠ししながら「気」で当てる遊びにとりいれていました。
そのように、ひとには生き残りの技術として、「気」による潜在情報収集能力もあるわけです。
そこで、初対面のひとと対峙した時、動作や言葉で友好関係を確認したとしても、その「気」による判断もあるわけです。その場合、言葉では、何故「気に入る」か、「気に入らない」かを説明することができないでしょう。強いて言えば、「何となく」とか「どうしても」とかが答えとなることでしょう。
その「気に入る」とか「気に入らない」とかは、一般的に日常会話では、「波長が合う」、或は「合わない」と表現していることと同じです。
それでは、その波長が合わないひととのコミニュケーションは、どのようにしたらよいのでしょうか。
その方法のひとつとして、ギターの調弦のように、こころが共鳴する閾値を探してみることです。身体が共鳴するとは、こころが通じ合うことだからです。
ひとは無駄な闘争を避けるために、「智恵」を使うことがあります。その「智恵」とは、意識下で動作や言葉をコントロールすることです。しかし、潜在意識は、その作為を「直感」で見抜いています。
そのようにして表面上友好関係を取繕ってみたところで、自分が相手と波長が合わないと潜在意識下で感じとっていることは、相手もそのように感じていることでしょう。しかし、ひとは、一時的に感情をコントロールすることが可能ですから、その場は何とか「言葉」で取繕うこともできるでしょう。
ひとには、学習能力があります。そこで、フィードバックの手法で、解決を図ってみることにしましょう。
自分の動作が、相手の動作を誘発して、それが再び自分の動作に影響を与える、ということを「フィードバック」と言います。このことを応用することで、こころの糸を調弦することが出来るかも知れません。
その方法のひとつとして、自身のこころの流れをコントロールすることを考えてみましょう。
それでは、こころは何処にあるのでしょうか。多くのひとは、心臓の辺りを指差します。では、そのこころを所有している「私」は、何処にあるのでしょう。多くのひとは、自分の鼻の辺りを指差します。その指差した処の延長線上に、脳の前頭葉があります。そうです、「私」とは、その前頭葉で各回路からの情報により合成された「概念」なのです。
その「私」の「こころの流れ」を、生物学的あるいは医学的に調整しようと試みた結果、それらをコントロールしているであろう物質が発見されてきました。それらは、神経伝達物質と呼ばれ、現在では五十種類あまりあるようです。
主なものとして、
ドーパミン
脳のいろいろな場所で喚起レベルをコントロールし、身体面の動機づけを与える。
セロトニン
気分や不安感に大きな影響を及ぼす。それ以外にも、睡眠や食欲、或は血圧にも関係している。
アセチルコリン
脳のなかで注意、学習、記憶に関する領域をコントロールする。
ノルアドレナリン
興奮性の化学物質で、身体的、精神的に高ぶった状態を作り出し、気分を高揚させる。
グルタミン酸塩
興奮性の神経伝達物質の代表で、学習や長期記憶を受け持つニューロンの結びつきを強める。
エンケファリン・エンドルフィン
脳内で合成される一種の麻酔薬で、痛みをやわらげ、ストレスを減らし、浮かんでいるような感覚を引き起こす。呼吸などの身体機能を低下させ、依存性状態を作り出すことがある。
現代医学の発達は、こころの流れをコントロールする物質の解明には、眼を見張るものがあります。しかし、「何故」の答えは用意できても、「如何して」の答えは明確にできないようです。神経伝達物質が、増減すると身体のコントロールが困難になることは分っていても、それでは、今まで普通に生活していたひとが、「如何して」神経伝達物質をコントロールできなくなってしまうのでしょうか。自然の摂理なのでしょうか。それとも、運命なのでしょうか。
運命と諦める前に、こころの流れをコントロールしている「私」である「脳」は、どのようにして開発されて来たかを考えてみましょう。
地球誕生間もなく、原子が集まり分子となり、それが巨大蛋白分子となり、やがて海に生物が誕生したことは、生物の教科書に書かれているとおりです。
ひとの脳の始まりは、海に棲む魚が、身体の各部を制御するためのコントロール中枢と身体の各部分を神経で連結するために、一本の管を発達させたことによるのです。
魚の脳は、脊椎の先のふくらみに過ぎなかったものが、やがて神経が役割を分担して、分子に反応するところは臭覚をつかさどり、光に反応するところは眼になっていくように、独自の回路を作るようになっていくわけです。
やがて、海から陸に上がり爬虫類に進化するようになると、運動神経が発達して、それを専門に管理する小脳が開発され、機械的に運動を管理する意識をもたない脳幹と繋がって行くわけです。ひとの脳の脳幹も、基本的には今もその当時とほとんど変わっていないようです。
爬虫類から定温に身体を進化させるようになると、脳幹の上に、更に回路を開発するのです。それらは、視覚、臭覚、聴覚を総合的に活用できる視床、原始的な記憶システムである扁桃体と海馬、そして外からの刺激により敏感に反応するための視床下部などです。
それらの回路は、まとめて大脳辺縁系と呼ばれていますが、情動はここで生み出されていますが、この時点では、まだ意識は生まれていません。
やがて哺乳類として進化している間に、感覚回路に触発されて、古い回路の上に薄い細胞基質が開発されていくわけです。そこでは、薄い割に沢山の神経接続がおこなわれていて、やがて意識の源である皮質に変化していくわけです。
ひとへと進化した哺乳動物は、その皮質が非常に大きくなってしまったため、小脳は後ろに押しやられてしまうわけです。その発達が著しいのは、思考、計画、組織化そして意思疎通(コミニュケーション)を行なう回路でした。
やがて、言語という道具を開発したひとは、原始人から現代人へと進化していくわけです。言葉を道具として使用できるようになると、色々多くのことを考えられるようになり、それに伴って、新しい脳の組織回路が必要になってくるわけです。その新しい組織回路とは、前頭葉で、新しく開発された大脳新皮質の多くを占めるようになり、特に開発が著しいのは、前頭前野と呼ばれている所です。そこが、ひとが「私」と指差した所です。
そのように、何の力(或るひとは、それを「神」と言っています。)か分りませんが、長い時を経て開発されてきた「私」が、何故コントロールを失ってしまうことがあるのでしょうか。
そのように開発されて来たひとの脳も、生まれたときから完璧に作動できるわけではないようです。そこで、どのようにして、ひとの脳の回路が作動して行くのかを考えてみましょう。
赤ん坊の脳は、生物の進化に比例して形成されているようです。その進化とは、魚→爬虫類→哺乳類→ひとの流れです。脳もその順序で形成されているようです。しかし、ひととしての脳は未完のままで、この世に生まされているようです。
それらは、聴覚と視覚の連絡、網膜と視床(音を認知するところ)との連絡などです。更に、意識的な感情体験(私という概念)と結びつく回路は機能前の状態であるわけです。
赤ん坊は、無意識の感情で行動しているのですが、それは、認識できる感情(私と他人を区別できること)は、生存のためにはそれほど重要でないためです。
それでは、意識がないのであるならば、幼い時にトラウマを受けても大丈夫であるかといえば、そうではなく、無意識の感情は、厳密な意味では、経験したことにはならないけれども、脳にはそのままの形で記憶されてしまいます。
一般に、三歳以前の出来事を覚えていないのは、海馬(意識的な長期保存場所)が、十分に成長していないからです。
しかし、感情に結びつく回路は脳の奥深くにあって、出生と同時に働き始める「扁桃体」という小さな回路に蓄えられるのです。幼い頃に受けたこころのキズの基は、この扁桃体に記憶されているのです。
赤ん坊が成長すると伴に、神経細胞の髄鞘形成が進んで行き、脳の各回路との接続が徐々におこなわれていくわけです。
一番最初に接続されるのは、空間を認識する頭頂葉です。「いないないバー」を楽しむ回路がそれです。
生後六ヶ月頃から、認知の回路が作動するようです。更に、六ヶ月して一歳頃になると、大脳辺縁系の衝動をコントロールできるようになるので、本能ではなく、気に入ることをする、つまり認識することができるようになるわけです。
生後一年半を過ぎる頃になると、言語回路が活発に活動してくるわけです。しかし、言語を理解するウェルニッケ領域のほうが、発話能力をつかさどるプローカ領域よりも早く発達するので、親の言葉は理解できても、言葉で反応できない時期でもあるわけです。「タダをこねる」とは、この反応のことなのです。
そのように、ひとの脳が完成するには、更なる時が必要になっているのです。
注意を必要とするのに大きな役割を果たす網様体の回路が完成するには、髄鞘形成が進行する思春期を経なければなりません。ですから、思春期の子供達は、各回路の接続が上手く行かない為、意識を上手にコントロールすることが困難な為、あらゆることに注意が散漫し、注意力が持続しないことは「アタリマエ」のことなのです。その髄鞘形成が完了するのは、成人してからなのです。
そのようにして、ひとが成人したとしても、その成長過程での回路に入力された情報により、そのひとだけの精神の回路が出来上がってしまっているわけです。それを一般では、「性格」と言っているわけです。
ですから、「性格」は、個人個人異なっているわけですから、同じ物を見たり、聞いたりしたとしても、各自同じ反応をすることは稀なわけです。
「性格」とは、長い期間における、そのひとなりの思考傾向と言うこともできるでしょう。
ひととのコミニュケーションを調整するために、相手の性格に、自分の性格を合わせることは不可能ではないにしても、過大なエネルギーを必要とすることでしょう。何故ならば、性格とは、遺伝形質と生後の環境により形成されているからです。
では、ひとの性格は、変えることが出来ないのでしょうか。
性格は、遺伝形質が作用していますから、完全に変えることはできないでしょう。しかし、性格と類似する「人格」は、変えることができるかもしれません。
「人格」とは、ある固体の認識的、感情的、意志的および身体的な諸特徴の体制化された総体、と広辞苑にはでていますが、詰まるところ、生得的な「思考傾向」であるわけです。
小説「宮本武蔵」は、世の中が不穏な状態に突入している時に、よく読まれる傾向があるようです。その原因のひとつに、どうしょうも無い不良少年が、立派な武士に変身するところにあるのかもしれません。つまり、人格の変成です。
小説「宮本武蔵」では、不良少年「タケゾウ」は、城の屋根裏部屋で三年間幽閉され、その間これまでの人脈や生活環境を強制的に断たれ、その期間そこで、書籍を黙読することにより自己の歴史を遡り、先祖の歴史を遡り、そして人類の歴史を遡り、その新たな知識を基に瞑想することにより、こころに一条の光を見出すことにより、「ムサシ」に人格が変成するわけです。
小説では、その幽閉の前に、「タケゾウ」を沢庵和尚が木に何日間か吊るし、仮死状態にさせる場面がありますが、その方法は、死に直面させることにより、脳の回路を初期化していることになるわけです。それは、前に述べた旧約聖書の瞑想法の、断食と同じ効果があります。
そのようにして人格を変成した「ムサシ」は、以前の「タケゾウ」の痕跡を全て消去しているかといえば、そうではないでしょう。変成したのは、思考回路だけです。
ひとをハードウェアと考えれば、そのソフトウェアは二つ考えられます。ひとつは、先祖から引き継いだ「情動系回路」、そしてもうひとつが、生後学習により修得した「思考系回路」です。
情動系回路とは、「今を生きるための回路」で、動物的に生命を維持増進させるプログラムを司ります。脳の場所で言えば、大脳辺縁系です。
思考系回路とは、「未来を生きるための回路」で、ひととして生きていくためのプログラムを司ります。脳の場所で言えば、前頭葉系です。
その情動系回路と思考系回路とにより創り出される身体的な諸特徴を、「性格」と言い、思考系回路により創り出される身体的な諸特徴を、「人格」と言うわけです。
情動系回路と思考系回路とが、同じベクトルを持っているのならば、人生において問題は発生しないでしょう。しかし、ベクトルが異なってしまった時は、どうなるのでしょう。
そのことは、「分っちゃいるけど(思考系回路)、やめられない(情動系回路)。」とか、「一本(ペン・理想・思考)より、二本(箸・食べること)の方が強い。」と言うように、思考系回路より情動系回路が優位になる傾向があるわけです。
ですから、人格を変成したからといって、こころの流れを全てコントロールすることが出来るわけではないのです。しかし、人格を変成することにより、こころの広さが変わることにより、相手のこころを受け入れられる許容量が増すことは事実です。つまり、共鳴する音域が広がるわけです。
それでは、こころの流れを更にコントロールするために、情動系回路を変成することはできないのでしょうか。
情動系回路は、学習により修得した思考系回路と異なり、遺伝的形質によるわけですから、変成はできないとしても、何かの方法で情動系回路をコントロールすることを、次に考えてみましょう。

行動パターンを変換すること   



脳のメカニズムに対する研究には、眼を見張るものがあります。そのひとつに、情動系回路の解明があります。それにより、何故「分っちゃいるけど、やめられない。」か、が納得できるでしょう。
その行動パターンは、次のようなメカニズムによるようです。
まず外からの刺激を、身体の各感覚器により大脳辺縁系が認知します。それが欲求として(潜在意識により)意識される衝動を作りだします。その欲求を満たすために新皮質(意識)が身体に色々な指示をだします。その活動に対してのリアクションを各感覚器が、大脳辺縁系に送り返すと、その報酬として大脳辺縁系はエンドルフィンなどの麻薬物質に似た神経伝達物質を分泌し、それによりドーパミン濃度が上がることにより脳に満足感が生みだされるわけです。
このメカニズムを知れば、何故パチンコやスロットに「ハマル」か説明できるでしょう。そのゲームで当たりを引くと、脳内に麻薬物質が放出され、ドーパミン濃度が上がるわけですから、その結果、身震いするような快感を得られるわけです。その快感を追い求めることが「ハマル」ということです。病的に「ハマル」には、更に快感の思い出を保持するための記憶のメカニズムも絡んでいます。
それでは、その「ハマル」メカニズムを応用して、バクチではなく、コミニュケーションを円滑にするために、こころの流れをコントロールする方法を考えてみましょう。
その「ハマル」メカニズムを「アメ」とすれば、当然それを制御する「ムチ」(セロトニンなどを枯渇させること。)も存在するわけです。
「アメ」は、別の見方をすれば、エネルギー放出のメカニズムです。そのように、「アメ」を舐め続けていれば、充電もせずエネルギーを放出し続けていることになるので、やがて身体エネルギーが枯渇してしまうでしょう。そこで、それを制御するための「ムチ」で、エネルギーの放出を止めるわけです。
この「アメとムチ」のメカニズムが程よく調和していれば、ひとの身体は健康状態(健康なひとなど、この世にはひとりもいません。たまたま健康状態にいるひとを健康人、たまたま調子の悪いひとを病人と言っているだけです。)を保てるわけです。
この「アメとムチ」のメカニズムは、情動系回路だけでひとが作動しているのならよいのですが、ひとにはもうひとつの思考系回路があるわけです。この思考系回路は、言葉という道具を利用して、色々なトリック(思想やイメージ)を考えだしてしまうのです。
そこで、「アメとムチ」のメカニズムが、思考系回路が考え出した「理論」と合っていれば問題が発生したとしても、致命的にならないけれど、それが合っていないと、身体メカニズムを狂わす原因となってしまうこともあるわけです。
例えば、パチンコで負けたとします。「アメとムチ」だけで作動していれば、負けたことにより、快の神経伝達物質が制御され(ムチ打たれ)、心身は「うつ」状態になるため、なにもする気が起きることがなく、その後の行動は抑制される方向に向かうわけです。しかし、思考系回路に「お前はギヤンブルに強い。」、或は、勝利できるとの「思考やイメージ」をパチンコ情報誌などで刷り込まれてしまっている場合、その負けを素直に認めるのではなく、データを集め理論武装したり、過去の勝利の記憶を呼び覚ましたりして、「アメとムチ」のメカニズムに再挑戦してしまうことになるわけです。その結果は、マチキン(サラリーローン)一直線であることは、新聞の三面記事でよく見かけるストーリです。
さて、色々なタイプのひととコミニュケーションを上手にとるには、前節で述べたように人格の幅を、先輩達の言動を学習することにより広げることですが、更に身体エネルギーの保持増進を図ることも必要です。それには、「アメとムチ」のメカニズムにおいて、「ムチ」にあわないようにすることです。
でも、「アメ」を求めれば、「ムチ」にあうこともたまにはあることでしょう。そこで、「ムチ」にあってしまった場合、そこから脱出するために、こころの流れを調節する仕方を考えてみましょう。
情動系回路と思考系回路のトラブルでは、思考系回路が勝つことは稀です。それは、そのようにひとは創られているからです。そこで智恵を働かせることができるのであれば、そのトラブルも回避できることでしょう。
しかし、ひとは、その解決を図る仕方として、「考える」ことを最重要視してしまう傾向があるようです。それは、そのように「よく考えれば必ず答えが見つかる。」、あるいは「腹を割って話し合えば問題は必ず解決する。」と、家庭や学校で呪文をかけられてきたからです。この世には、真剣に考えても答えがでない問題など、山ほどあるのが現実です。
その考え過ぎの結果が、心身の「うつ」です。うつ状態とは、「もう考えるのは止めて、エネルギーを蓄えましょう。」と、こころの奥から発信された「サイン」のひとつなのです。「うつ」状態とは、脳生理学的観点ではなく、別の観点からみれば、それはエネルギーの充電期間なのです。そのような状態にさせた原因は、思考系回路と情動系回路とのトラブルにより、身体エネルギーの枯渇によるのです。
それでは、うつ状態からの脱出方法はどのようにしたらよいのでしょうか。それには、まず「考えることを止める」ことです。
そうは言っても、この考えることを止めることは、口で言うほど簡単ではありません。自分でトライしてみれば、何も考えないようにすることが、どれだけ大変なことか理解できるでしょう。瞑想をしている時、雑念が浮かばないひとなどいないでしょう。
「うつ」をこころが壊れた状態だと考えれば、修理をすればよいのです。今まで正常に作動していた物が壊れた場合、修理をします。こころも壊れたら修理をすればよいのです。
一般に、修理の仕方は二つあります。ひとつは、専門家による修理方法で、もうひとつは素人修理方法とです。どちらが良いかは、その故障した物が直ればよいわけで、問題はその方法ではありません。
例えば、ここに映らなくなってしまったテレビジョンがあるとします。普通、電気屋さんへ修理に出すでしょう。それが一般的修理方法だからです。しかし、あるリサイクルショップでは、まったく信じられない方法で、映らなくなってしまったテレビジョンを再生(修理ではありません。)しているのです。
その方法とは、物理的外傷を検査して、何もなければ、カバーを外し、中性洗剤を薄めた液をテレビジョンにたっぷりかけて、その後は、ぬるま湯で中性洗剤を洗い流し、後は乾燥させるだけです。そのような方法で、数台の内、何台かは映るようになるようです。
ひとが「うつ」状態になってしまった時、そのようなぬるま湯をかけるだけで再生できれば結構なことでしょう。脳のメカニズムを知ることも、くすりを飲むことも、カウンセリングも、更に宗教ポイ理屈もいらないからです。
ひとにも、そのようにして、心身の乱れを再生する方法はないのでしょうか。
インドのアーユルベーダに、温めたオリーブ油を頭部に垂れ流す療法があるようです。では、本邦にはそのような療法はないのでしょうか。それがあるのです。その方法とは、白隠禅師の「ナンソの法」がそれです。
白隠禅師は、悟りを得ようとあらゆる難解な仏典を勉強しているうちにノイローゼ(流行言葉では「うつ」)になってしまったのです。そこで、ノイローゼから立ち直るために、「ナンソの法」を実践したのでした。その結果、こころが再生すると悟りが訪れたのです。
その悟りとは、

自己の本当の相を観る修行は、別に難しいものではない。ゆったりと呼吸をし気持ちを落ち着ければよい。そのようにすれば、仏の悟りも、自己の悟りも特別変わっていないことが分るだろう。なぜならば、自分自身のこころの中に、すべてが存在しているからだ。実在は自分以外のなにものでもない。これを外に求めるから、様々な迷いが生じるのだ。難解な書籍に答えを求めて、何と時間を無駄に費やしてきたことか。今悟った、自分自身が仏であったのだ。

と言うことです。
その「ナンソの法」とは、温かいバターのようなものが、頭に在り、それが体温で融けて頭から後頭部、後頭部から首筋、首筋から肩へとゆっくり流れる様を「想念」するだけです。 その方法は、リサイクルショップの再生と同じことです。悪いものをイメージを駆使して洗い流すことにより、こころの流れが再生できることもあるのです。
さて、そのようにして、心身をリフレッシュしたら、次は、より良いコミニュケーションを確立するために、好ましい行動がとれるようにすることです。
ひとの日常行動の大部分は、意識して行なっているのではなく、無意識によるものです。その無意識がコントロールしている日常行動を、いかにして望ましい行動に変えていくかを考えてみましょう。
一般的に、ひとが目標を成就しようと思うと、まず計画をたてます。そして、その計画を遂行できるように、精神に渇をいれる目的で、必勝とかガンバロー的スローガンを書いて、壁などに貼るようです。
そのように、青春一直線的行動で、ことが成就できればバンバンザイです。しかし、どうでしょう、その希望溢れる計画は、三日も過ぎれば重荷となることでしょう。
何故そう言えるかは、情動系回路のプログラムを無視した、思考系回路だけによる意志の力は、三日が限度だからです。俗に言う、「三日坊主」がそれです。
しかし、悪癖は、意志の力で止めようと努力しても、なかなか止めることができないでしょう。
可笑しなことです。一方は、ねじり鉢巻で意志の力で、一所懸命努力しても目標達成を「行うことができない」のに、もう一方は、悪癖を止めようと一所懸命努力しても「行なってしまう」のです。これは何故でしょうか。
それは、「身体を動かす回路」と「こころを動かす回路」が異なるからです。そこを理解していないと、こころが身体を全てコントロールしていると誤解してしまうでしょう。
身体は、ニューロン(ギリシャ語・神経の意)とホルモン(ギリシャ語・呼び覚ますの意)により影響を強く受けています。その二つの身体影響系物質は、言葉を理解できません。簡単に言ってしまえば、言葉を理解できないものは、言葉でコントロールできないわけです。
しかし、言葉を固めた意志の力でも、時には身体をコントロールできます。例えば、走ろうと思えば走れるし、歩みを止めようと思えば止められます。それだったら、意志の力で、努力すれば何でもできる理屈になるわけです。
でも、意志の力だけでは、身体を全てコントロールできません。それでは、身体は何よってコントロールされているのでしょうか。
身体の動きは、二重構造になっているようです。それは、意識下による行動と意識外、つまり無意識下による行動とです。
意識とは、「我思う故に我在り」と言うことで、「私」という主人公が居る世界です。それに対して、無意識とは、「私」が居ない世界です。それでは、「私」の居ない世界では、誰が身体をコントロールしているのでしょうか。
それは、情動系回路にある自動行動プログラムによるのです。そのプログラムは、先祖からの贈物で、その基本は「身体の生き残り」です。身体の生き残りプログラムは、倫理的に良いとか悪いとかの判断ではなく、生きるか死ぬかをその判断基準にしています。
その「私」の居ない世界での自動行動プログラムは、情動系回路に組み込まれて、身体の生き残りのために、日夜活用されているわけです。
その生き残りのためのプログラムも、時として場違いなところで現れてしまうこともあるのです。
それは、強迫性障害の場合、一種の儀式、例えば手を何回も洗う、戸締りを何回も確認する、あるいは数字にこだわるなどです。一般に、それらを行なう人は性格の問題で、後天的に身につけた個人的な記憶だと思っているようですが、それは、自動行動プログラムに刷り込まれている生き残りの行動なわけです。
手を洗うということは、清潔を保つためで、何かおかしなことがないかを確認することは、安全のためで、数字にこだわることは、秩序とバランスを保つことなどです。それらは、大昔、ひとが火や武器を発明していない暗い穴倉に隠れ住んでいた時代では、身体の生き残りのために必要なプログラムであったわけです。
しかし、身体的安全であると思われる現在の状況で、それらのプログラムが、時として現われて問題になっているのは、本来のプログラム意図から離れて孤立して出現しまっているため、誇張された行動となり目立っているだけです。それらは、一寸先が闇の危険溢れる世界では、生き残りの為には絶対に必要な行動だったのです。
このことは、アレルギー反応と同じで、ばい菌が化学の力で脅威でなくなったため、身体の免疫系が、本来の戦う相手がいないため、花粉などの取るに足らないものを「敵」とみなし過剰攻撃しているようなことです。
アレルギー反応を改善する方法に、アレルゲンに少しずつ被爆させ免疫力を高める減感作療法があるように、その問題行動を改めるには、その行動の背景を認識する認知療法や行動療法、或は薬物療法などがあるようです。
いずれにしても、強迫性障害の問題行動は、思考系回路を総動員して理論的解決策を発明したとしても、「言葉で」その行動を改めることは困難が予測されます。つまり、「分っちゃいるけど、やめられない。」のです。
それでは、その問題行動を指令している自動行動プログラムに働きかける方法はないのでしょうか。
情動系回路は、言葉ではコントロールできません。それでは、どのような方法があるのか考えてみましょう。
強迫性障害のひとは、とても善良なひとが多く、誤った道に進むことを何としても避けようとし、道徳観があり、徹底的に正直であろうとする傾向があるようです。その為か、宗教の道に入って行くひとが多くいるようです。
宗教組織には独特な儀式があり、その儀式に埋没することにより、自己の問題儀式を一時的に忘れさせてくれるようです。その教祖の言動や宗教儀式も世間的常識から外れていればいるほど、そのひとたちには魅力があるようです。それは、自己の問題儀式がちっぽけなものに感じられるからです。
更に、同じ悩みを持ったひとたちといることは、波長が合うため居心地がよいようです。最近の若いひとたちの新興宗教ブームには、そのような背景が見て取れます。
宗教がある種のこころの問題を解決することは事実です。それでは、それは、その宗教の教祖や儀式によるかは疑問です。その答えは、白隠禅師が述べているように、調息にあるのです。つまり、呼吸のことです。
こころの問題を解決する目的の技法、例えば、禅、ヨーガ、自立訓練法、各種の瞑想法などは、必ず呼吸の調整がその基本となっているようです。
身体をコントロールする機能のひとつとして、神経系があります。主なものは、自律神経系で、それは、交感神経と副交感神経に分けられるようです。その交感神経と副交感神経は、原則として反対の機能を発揮しているようです。
例えば、心臓において、交感神経は促進作用(パワーアップ)を示し、副交感神経は抑制作用(リラックス)を示します。しかし、腸の場合、交感神経が抑制作用を示し、副交感神経が促進作用を示します。そのように、身体の各臓器は、交感神経と副交感神経が同時に分布していて、ひとが意識していなくても、それらの拮抗作用により各臓器のバランスが維持されているのです。
そのようにひとの臓器は、自動行動プログラムにより管理されていますが、ただひとつ、肺臓だけは、ひとの意志を多少なりとも反映することができるようです。試しに、意志の力で、息を吐いたり吸ったりしてみて下さい。生命の危険を脅かされない範囲で、肺の動きを呼吸という手段で、コントロールできることが分るでしょう。
普通の呼吸では、吸息の時に気道が広がり、呼息の時には狭くなりますが、これは気道壁の筋肉が呼吸に伴って、収縮・弛緩するからです。その気道壁の筋肉の収縮・弛緩は、副交感神経を多く含む迷走神経と交感神経とでコントロールされているのです。
呼吸において、息を吐く時は迷走神経で、息を吸う時は交感神経が作用するようです。つまり、吐く時は筋肉の緊張を、吸う時は筋肉の弛緩を示します。
このことは、例えば、ゴルフをする時に実感できるでしょう。息を吸いながらテークバックをし、トップで息を止め、ダウンスイングに入ると同時に息を吐くでしょう。それは、何にを意味しているのかと言えば、息を吸うことは弛緩で、エネルギーを蓄えることで、トップできり返し、息を吐くことで緊張、つまりエネルギーを放出するわけです。ゴルフのスイングの時、その逆をしてみると、呼吸がいかに筋肉をコントロールしているかを理解できるでしょう。息を吸いながらダウンスイングしたとしたら、ボールは通常より飛ばないでしょう。
以上のことを簡単にまとめますと、呼吸をコントロールすることにより、身体の筋肉をパワーアップさせたり、またはリラックスさせたりすることができるということです。
身体が問題行動を起している時の筋肉を調べてみて下さい。それは多分、リラックスしているのではなく、コリコリに緊張していることでしょう。
極一般的な日常行動は、筋肉の緊張の後は、リラックスすることにより筋肉の疲労を回復することができるわけです。仕事の後、「一服する。」ということです。一服すると言うことは、息を吸うことを意味していて、息を吸うことは、それはリラックスするということになるわけです。
しかし、身体が常に緊張状態であるひとは、呼吸が浅いか乱れている傾向があるようです。そこでもし、身体がその様な状態であるならば、呼吸を調整することで、身体の緊張を解きほぐすことができるでしょう。
その方法は簡単です。緊張状態をつくる吐く息ではなく、リラックス状態をつくる吸気にさりげなく注意を向けているだけでよいからです。時間をかけてゆっくり息を吸い、少し止めて、自然な状態で息を一気に吐けばよいのです。その時の姿勢は、座っていてもよいし、寝ていてもよいのです。不自然な座禅やヨーガのポーズも必要ないでしょう。
その様に、さりげない態度で、呼吸の調整をしていれば、今までの不必要な身体の緊張は解きほぐされていくことでしょう。その効果が現われるのは、ひとによりますが、「三日、三月、三年」の内でしょう。そのエビデンスはありませんが、それは自然治癒力のサイクルのようです。
呼吸法により、身体がリラックスできたかを知るには、食事と睡眠をチェックすればよいでしょう。身体からの不調の警告は、基本的に二つです。食欲がない、眠れないという信号は、交感神経と副交感神経とのバランスが崩れていることにより、身体が過度な緊張状態にあることを警告しているのです。
食欲が増し、よく眠れるようになったということは、それは交感神経と副交感神経とのバランスが保たれている状態であるわけです。それは、情動系回路が正常であるということを意味しています。
その様に呼吸法で、情動系回路を回復させたとしても、問題行動は完全に改められないかもしれません。それは、思考系回路にも問題が潜んでいるかもしれないからです。
ひとの行動は、情動系回路と思考系回路とのバランスによりコントロールされているわけですから、問題行動は、その二つを改めないと、解決できないでしょう。
そこで、こころの問題を解決する専門家のひとたちを訪ねてみましょう。
精神分析家は言うでしょう。そのこころの問題は、幼い時受けたトラウマによるのです。こころを催眠により退行させて、その問題点を探り、それを認識し、昇華させれば、こころの問題は解決します。
薬物治療家は言うでしょう。そのこころの問題は、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れているだけです。よいおくすりがあります。おくすりを指示どおり飲んでいれば、こころの問題は解決します。
キリスト者は言うでしょう。そのこころの問題は、日々の行いによるのです。悔い改めましょう。神に祈れば、こころの問題は解決します。
大乗仏教者は言うでしょう。そのこころの問題は、前世の行いによるのです。輪廻転生の悪循環を断つために、先祖を供養し、徳を積み、お布施をし、お経を唱えれば、こころの問題は解決するでしょう。
ひとの思考系回路は、色々なトリックを考えるものです。それでは、それらの専門家達のアドバイスは、問題解決に有効なのでしょうか。それは、相談するひとによるでしょう。そのひとが、そのアドバイスを信じることができれば有効ですが、信じなければ無効でしょう。
それは、催眠術と同じで、催眠術は、術師が催眠をかけるから催眠術にかかるのではなく、かけられるひとが勝手にその術にかかることにより、催眠術にかかるのです。もし、かけられるひとが、その催眠術師の技術を信じていなければ、絶対に催眠術にはかからないのです。
では、信じるということは、一体どういうことなのでしょうか。
辞書によると、「正しいとして疑わないこと。」とありますが、それでは「誰」が疑わないのでしょうか。それは、意識の世界にいる「私」です。
「私」が「正しいとして疑わない」ことを、「信じる」ということならば、その「私」はなにを基準に正しいと判断するのでしょうか。
四人の専門家達のアドバイスを、全て信じるひともいるでしょう。しかし、その全てを信じないひともいることでしょう。その信じるひとも、そのアドバイスの内容を信じるのか、そのアドバイスを言っている人物のバックグラウンドを物語る肩書きの立派さを信じているのかは分りません。
そのようにドンドン言葉により「信じる」ことを分析していくと、何が何だか分らなくなることでしょう。それもそのはず、言葉により構築された思想(信じるということも含む)は、より魅力ある思想により変成されてしまうからです。
「信じる」ということは、思想の別形体で、考え方の別表現であるわけです。ですから、自身のこころにある考え方と同じ内容の「思想」であれば、それはこころに受け入れられます。そのこころに受け入れられることを、「信じる」といっているわけです。
このことを応用しているのが、宣伝広告のブランドマーケティングでしょう。
ブランドを潜在顧客に「信じ込ませる」ことにより、物やサービスの販売促進を狙っているわけです。そのために、より魅力ある思想を「キャッチコピー」に凝縮して、テレビや新聞などのマス媒体で何遍も露出することにより「信じさせ」、絶対に必要で無い物までも購買させているのです。
その宣伝広告の基本は、「刷り込み」です。「嘘も百辺唱えれば真実となる。」と、誰かが言っていたようですが、刷り込みが成功すれば、「白も黒」と「信じて」しまうこともあるのです。
その刷り込みは、何により完成するのでしょうか。それは、記憶です。
脳のブレインマッピングによれば、記憶は種類ごとに、その保存や取り出し方が異なっており、更に、記憶に関している脳の領域もたくさんあるようです。
しかし、その基本は同じで、記憶はニューロン集団の連合であるということです。ひとつのニューロンが刺激を受け、隣のニューロンに刺激を伝達し、その伝達がその隣へと、広がって行き、それがひとつの集団となり、その集団が他の集団と連合していくことにより、思想や観念、或は妄想などになり、記憶として脳に保持されていくわけです。
その記憶には、脳のいろいろな場所がかかわっているようです。
側頭葉 皮質に長期記憶を植え付ける。
被殻 動作の手順記憶が保管される。
海馬 個人的な記憶や道順の記憶を定着させたり、取り出したりする。
扁桃体 無意識に深く傷ついた記憶がここに蓄えられる。
尾状核 遺伝子によって記号化された記憶、つまり「本能」はここから発生している。
そのように、記憶はいろいろな場所にあり、各保存所と連絡をとりながら、それぞれの働きをしているのです。例えば、長期記憶となるであろう経験は、まず海馬に送られ、そこに二三年保管され、その間、その経験は何度も繰り返し再現され、それがやがて皮質に焼き付けられる(刷り込まれる)と、海馬の力を借りなくても記憶を喚起できるわけです。
その海馬による、皮質に刷り込ますための経験の再現は、昼より夜に行なわれているようです。夢の一部は、起きている時の出来事を海馬により再現されているわけで、昔のひとが、「寝る前に争いごとをしてはならない。夢に見るぞ。」と言っていたのは、このことをいっていたわけです。それに対して、寝る前の子供に、楽しい物語を語ってあげることは、智恵ある親の行動です。
さて、信じることは、行動に影響を与えるわけですから、今までの行動が、問題行動であるとしたら、今まである記憶を、消し去ってしまえばよいわけです。つまり、記憶の初期化です。
しかし、記憶の保管場所により、初期化が可能なものと、そうでないものとがあるわけです。初期化が可能なのは、皮質の記憶でしょう。それは、思考回路系情報であるわけですから、より魅力的な思想を与えれば、今まで信じていた思想を改めることが、比較的簡単にできるでしょう。
しかし、被殻、海馬、篇桃体そして尾状核にある古い記憶は、思考回路の言葉を道具として初期化は難しいでしょう。そもそも、それらの記憶はイメージとなって固まっているわけですから、言葉では如何ともしがたいわけです。
それでは、どのようにしたら良いかを考えてみましょう。
問題行動を起していると信じられている、不登校の子供の行動を観察してみましょう。
不登校の原因は、今だはっきりしていないようですが、その子供達に共通していることは、「恐怖」です。その恐怖の対象は、そのこどもの今までの生活環境によるようですが、この本は不登校対策ではなく、復活プロカメラマンになるためのヒントを述べることですから、話を先に進めましょう。
その子供達は、ある一定のプロセスをたどることにより、「自立」して行くようです。そのプロセスは、大の大人が真似をするには大いに勇気が必要ですが、復活のためのヒントを多く含んでいるようです。
そのプロセスとは、不登校初期では、昼夜逆転、暗い部屋にひきこもり、一日中じっとして動きません。やがて、エネルギーが蓄えられてくると、親などに当たれる環境の子供は、親に「クソババア!クソジジィ!」と言いながら暴力を振るうようです。
親に暴力が出来ない時は、ドアーや壁が代用されるようです。その時の子供の無意識は何を求めているかと言えば、親が自分を無限に受け入れてくれるか、ということです。暴力が受け入れてくれたと感じたら、次は、「アレを買え、今すぐコレをしろ!」の無理難題の要求です。その要求が満たされたと感じたら、次に想像もできないことが起こるのです。それは、「幼児がえり」です。
その幼児がえりは、その子供の「ボタンの架け違い」の時期に戻るようです。或る子供は「バブバフ」かもしれませんが、或る子供は「ママぬいくるみがほしいでッゥ。」と幼児言葉で要求するかもしれません。
身体が、母親よりも大きくなった子供の突然の幼児がえりに、ビックリする親もいることでしょう。
そのような一連の行動は、何によって為されたのでしょうか。
それは、子供達が思考系回路を駆使して考えて行なっているのではなく、情動系回路にある自動行動プログラムの自己修復プログラムが作動したからでしょう。
そのように、幼児がえりでの、子供の要求に対しての適切な親の行動により、子供達は見る見るうちに、「自立」に向かって動き出すのです。その子供の行動は、育児の再現と言っても良いほどです。添い寝を要求したり、童話を読むことを要求したり、親の布団に潜り込んできたり、仕事をしている時後ろから抱き付いてきたりと、様々です。
でも、適切に対処したとしたとしても「自立」には、どの位の時期を必要とするのかは分りません。大雑把に言えば、「三日、三月、三年」かもしれません。
いずれにしても、不登校の子供の「自立」への出発点は、「幼児がえり」からです。
そもそも、幼児がえりとは、いったい何なのでしょうか。それは、記憶の初期化かもしれません。今までの自分の問題プログラムを消去するための行動なのかもしれません。つまり、人格形成の零からのやり直しです。
さて、問題行動を起している大人の「自立」の出発点は、それでは何処なのでしょうか。
十代二十代ならまだしも、いい年をした大人が、幼児がえりをするにはよっぽどの覚悟がいるし、出来たとしても、年老いた親がするわけにはいがず、親の役をするひとがいないでしょう。
では、大人の記憶の初期化は、どのようにすればよいのでしょうか。

こころの流れに希望をのせて   



ひとの言動が、記憶に影響されるのならば、もし、その言動に問題があり、それを修正したいと望むのならば、その問題を起す原因の記憶を消去して、新たに望む記憶を刷り込むとすれば、望む言動を行なうことができる理屈になるわけです。
そこで、言動を改めるために記憶の修正を行なうわけですが、その修正個所は、大きく分けて二つあるわけです。ひとつは、情動系回路で、もうひとつが思考系回路です。
そこで、前節でそのふたつの修正方法を考えたのですが、大人の情動系回路は、子供の修正方法で行なうには、不都合であると述べました。
そこで、この節では、おとなの情動系回路にある不都合な記憶を消去して、新たな記憶の刷り込み方を考えてみることにしましょう。
電子媒体の記憶の消去は、初期化のプログラムを使用することで簡単にできます。それでは、ひとの場合はどうなのでしょう。
初期化とは、記憶のない状態を言います。ひとの場合で、そのような状態を探してみましょう。すると、思い当たる事が二三浮かぶでしょう。そのひとつに、極々親しい身近なひとの突然の悲しい知らせを聞いた時です。思い出して下さい、その時、呼吸が止まり、一瞬心臓も停止したように感じたことでしょう。そのような状態を一般的に、「頭の中が真っ白になった。」と表現しているでしょう。
ひとが受けるストレスの強さは、死に直面した時を除けば、「悲しみ」と「恐怖」でしょう。それらの強いストレス下にあるひとの顔の表情の特徴は、表情の固定化です。つまり、物質のような顔の状態です。
一般に、ひとの顔の表情は、プログラムとして、自動行動プログラムの中に組み込まれています。その基本的表情は、悲しみ、満足、嫌悪、怒り、そして恐怖です。それらは、感情という情報操作により、その基本的表情の組合せで、日常生活場面で刻一刻変化して表現されているわけです。
その感情作りの材料としての情報を流す器官のひとつとして、扁桃体があります。その扁桃体には、恐怖と怒りの情報が記憶として保持されています。
怒りと恐怖は、問題行動の重要素です。言葉でその二つの感情の素をコントロールしようとしてできないことが、更に強いストレス下では、消失し現われることがないわけです。
身体のメカニズムの一時停止。顔の表情の固定化。感情の消失。これらのことは、一瞬ではありますが、記憶の消去とも考えられるでしょう。つまり、一時的な記憶の初期化です。
このメカニズムは、人格変成の専門家には昔から熟知されていて、技術として応用されています。
宗教専門家は、断食などにより身体極限の状態に自身を追い込むことにより、人格の変成を図ろうとします。
結社組織の構成員を洗脳するには、死の儀式(骸骨を抱いて穴に埋める。ナイフで血を流し、血判状を作る等。)を通過させることにより、組織員としての人格変成を図るわけです。
企業向けセミナーでは、企業戦士育成のために、今までの人格を徹底的に破壊(初期化)する目的で、死ぬほど恥ずかしいことを人前でさせることでしょう。
小説「宮本武蔵」では、前述したように、身体が極限状態になるまで、タケゾウを木に吊るすわけです。
いずれにしても、強いストレスは、人格を変成させます。よい方向で行けば、これほど簡単な人格変成の方法はないでしょう。しかし、悪い方向に行ってしまうと、新たな問題が生じるかもしれません。それは、心的外傷後ストレス障害です。
つまり、従来の記憶を消去するための、新たなストレスが、消去ではなく、扁桃体に焼き付けられてしまった場合、もう自分ではコントロールできないため、身体が自動的に反応してしまい、その感覚が完全にリプレイされながら、トラウマを再体験することになってしまうこともあるのです。
では、問題行動を改めるために、自動行動プログラムを新たにするには、どのような方法があるかを考えてみましょう。
以上で述べた人格変成の方法をハードプログラムとすれば、瞑想はソフトプログラムとも言えるでしょう。思考系回路の停止、情動系回路の抑制を行なうこと、つまり、瞑想はソフトな「死の儀式」であるわけです。
紀元前五世紀前後の偉人賢人の輩出は、何が原因であるかを、以前仮説とした述べました。それは、当時、脳の尾状核に遺伝子により記号化されて記憶されている宇宙的規模の情報を、何らかの方法で探り出す、アラジンの魔法のランプの中に居る魔人を呼び出す「呪文」のようなものを、極少数の智恵あるひとたちが知っていて、利用していたからではないかということです。
その技術のひとつは、紀元前五世紀頃創作された「旧約聖書」の一部に封印されているのではないかということを、「魔術篇」の「誰にでもある潜在信仰心」で述べました。その方法は、瞑想により光の中に到達することでしたね。
光と人格変成の関係は、古今東西言われていることで、あの「空海」も瞑想していると、口の中に光が飛び込んできた、と述べているようです。
瞑想方法は、色々ありますから、瞑想の専門書で勉強して下さい。いずれにしても、瞑想の基本は「呼吸」にあるわけです。ですから、自分に合った瞑想法(呼吸法)を見つけることは大切です。
さて、自分に合った瞑想法で光の中に到達できたとしたら、それは、初期化が完成したことを意味していますから、次の行動を起すことです。
その行動とは、望ましい行動の「刷り込み」です。
その刷り込みの方法は簡単です。ここでは「何を」刷り込むか決まっているからです。それは、「プロカメラマンになるための好ましい行動を起すこと」です。
しかし、この簡単なメカニズムによる刷り込みも、ある呪文により、思うように刷り込めないのです。その呪文とは、「自由意志」という概念です。
「自由意志」とは、「私」が「私の意志」により、「私」を「自由に」コントロールできるという幻想です。
今を生きるのが情動系回路とすれば、思考系回路は明日を生きることを目指します。しかし、一秒先も、ひとは見ることも知ることもできません。見えないことや知ることができないことは、ひとに恐怖感を与えます。恐怖感は前進を阻止します。そこで、色々なトリックを考え出す思考系回路は、ひとに希望を持たすために、ひとつの幻想を発明したのです。それが、「ひとは自分で何でもできます。」を意味する「自由意志」です。
しかし、実際は、ひとは「ハンマー」を持たせられると、出っ張ったクギを探し出し、それを叩こうとするし、又、「くぎ抜き」を持たせられると、打ち付けられたクギを抜きにかかります。ひとは、他人の言動を気にして、与えられたことを信じて、自分の頭で考えることをしないのです。
いやそんなことはない、と思っていても、現実はそうなのです。宗教教団は、そのメカニズムを基に成立しているのです。その宗教組織の布教メカニズムを応用した、不必要なものでも購買させてしまう宣伝広告(プロパガンダ)の繁栄をみれば分るでしょう。
宣伝広告のプロは、ひとびとのイメージを、クライアントの都合の良いイメージに変換させる目的で、人口統計や心理統計に依拠するのです。
人口統計のデータは、年令、性別、経済状態による嗜好の相違を教えてくれます。心理統計のデータは、ひとが内在させているファンタジーやごく個人的な性癖についての情報を教えてくれます。
そのようなデータは、消費者のパーソナルなプロフィールを提供してくれることにより、宣伝広告のプロは、彼らの宣伝広告を、ひとびとのプロフィールに合うように作成できるのです。
そのようになると、宣伝広告のプロは、ひとびとを自由にコントロールすることができるようになり、その結果、買わなくてもよい物までも購買してしまうわけです。
ひとは、全て自分自身の判断(自由意志)で商品を買う決断を下していると信じているようですが、実際はそうではありません。ひとびとはそのメカニズムを知らないだけで、実際そのような条件下の「自由意志」で日常生活をしているのです。
ブランドマーケティングなどは、その良い例でしょう。高級嗜好に弱いひとに向かって、長期間にわたって刷り込みを行なうことで、「マーク」が物語りをするのですから。
「私」は、外からの刷り込みに影響を受け、コントロールされているだけではありません。ひとの意志は、外部の情報を基に、今までの蓄積された記憶を材料にして、思考回路を駆使して、ひとつのイメージとして構築し、固定化したものです。その情報を外部から得るための感覚器官は、「私」ではなく、自動行動プログラムによりコントロールされているのです。
例えば視覚、自動車を運転して、時速50キロメートルの公道から、高速道路に入り、加速し時速100キロメートル以上のスピードをキープして運転したことを思い出して下さい。始めは、早く感じたスピード感も、時間が経つにつれ、スピード感がなくなってくるのを感じたことでしょう。前方の車と同じ速度で運転していると、100キロメートル以上のスピード感を視覚できなかったことでしょう。そして、今度は、高速道路から、時速50キロメートルの公道に下りてみましょう。すると、町の時間の流れがスローモーションのように視覚できるでしょう。しかし、数秒もすると、また元の感覚に戻ることでしょう。
聴覚も同じです。寝る前に、ラジオをつけるのです。すると、神経が沈静していく過程で、ボリュームを何度も下げることになるでしょう。
そのように、「私」は自由意志の下で全て行動しているわけではなく、情報収集器官の視覚も聴覚も自動行動プログラムにより管理されているのです。
意識的な(自由意志のコントロール下)レベルにおいては、ひとは物事の善悪とか、自分自身の利害関係とか、その他個人的な嗜好の動機から、対象物を取捨選択したり、合理化したりすることができます。つまり、あるものを、受け入れるか、拒絶するか、考慮に入れるかどうかを、自由意志で決めることができます。
しかし、自動行動プログラム(潜在意識)に与えられた情報(生き残りのための情報)に対しては、意識を越えて入力してしまうため、合理的に選択したり、防御したりする可能性はまったく無いに等しいのです。
「私」は、自分の行動を全てコントロールできるという「自由意志」の幻想から目が覚めたら、次の行動に移りましょう。
その行動とは、刷り込む「何か」を明確にすることです。
この本において自動行動プログラムに刷り込むことは、プロカメラマンになることです。そのために、その目標に到達するための言動を、二つの回路に刷り込み、それを情報として保持させることです。
そのひとつの回路である思考系回路は、より魅力的な思想を与えること(ハンマーを持たせること)により簡単に刷り直しは可能です。思考は言葉を道具として構築されたトリック(虚構)ですから、既成の思考を初期化するには、その思考の矛盾点を突いて、それに代わる新しい思想(クギ抜きを持たせること)を刷り込めばよいからです。
しかし、情動系回路への刷り込みは、理論的な言葉では刷り直しが困難です。情動系回路は、言葉ではコントロールできないからです。それではどのような方法で刷り込むことができるのでしょうか。その方法は、言葉ではなく、イメージです。そのイメージ作りの材料は、視覚と聴覚からの情報です。
前述しましたように、生き残りのための情報は、意識を越えて無意識(潜在意識)にダイレクトに到達します。その生き残りの情報とは、要約すれば二つです。ひとつは「死」、そしてもうひとつは「生殖」です。このふたつの情報を含んだイメージは、ダイレクトに潜在意識下の情動系回路に到達します。
このことは、広告業界では、サブリミナル・テクニックとしての技術が確立していることは、魔術篇で述べたとおりです。
成功した広告戦略のベースには、「死」或は「生殖」のイメージを含んだメッセージを、サブリミナル(潜在意識)に働きかけた結果によるわけです。
意識下における認識がたとえどのように立派に脚色されていようとも、ひとの言動をコントロールするには情動系回路が作動しなければ、ひとは行動を起さないのです。その情動系回路は潜在意識のコントロール下にあるわけです。
つまり、成功する宣伝広告とは、意識下では理想的なメッセージを伝え、潜在意識下では「死」或は「生殖」のイメージを伝えることです。
例えば、男が女を射止めるイメージがあります。そのイメージは、大抵のひと達には思い浮かぶことでしょう。そうです、ハートのマークに矢が突き刺さったものです。
意識下の解釈では、「ハートは女性の心臓」で、「矢は男の思い」ということになっているようです。しかし、よく考えてみると何か変なのです。心臓がハートマークに似ていないということはさておき、ハートに矢を突き刺したら、その女性は死んでしまいます。そして、その矢の突き刺さる位置は、決まってハートの真中です。
何故、ひとの生死を司る臓器である心臓の真中を、矢で射抜くことが、男が女を手に入れるイメージとして認識されているのでしょうか。意識下の解釈では、納得できなくても、一流のマスコミや文化人などが、堂々とその表のイメージを吹聴していれば、思考系回路は、よりもっともらしい思想に染まってしまう為、何の疑問も意識下では生じないわけです。
しかし、潜在意識下では、その本当の意味をちゃんと理解しているのです。それは、ハートとは女性性器のシンボルで、矢とは男性性器のシンボルなのです。だから、矢はハートの真中に突き刺さらなければならないわけです。
潜在意識下でそのように理解できるのに、何故意識下では同じように理解できないかは、「思想は、より良いと信じられる思想に簡単に染まる。」ということが理解できれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
一般的に、潜在意識の気づきに、意識が反応し、その合理的理論展開により、明日の為の生き残り戦略を考えているわけです。しかし、宣伝広告のプロは、意識と潜在意識をコントロールする技術により、そのメカニズムを不必要な物品を販促する宣伝広告テクニックに悪用しているのです。
意識は、権威に弱いのです。有名人、権威者からの推薦広告は、宣伝広告テクニックの基本中の基本です。そのために、ひとをコントロールするための権威を創作する必要があるわけです。有名学者、著名文化人、大芸術家、有名評論家そして人徳政治家等等、色々な権威者が存在する必要性がそこにあるのです。それらの権威者は、現代の祭祀者なのです。それらの口から述べられる言葉は、呪文となり、ひとびとの意識をコントロールしているのです。
言葉に「本音と建前」があるように、物事の受け取り方にも、「意識と無意識」とがあることを認識しましょう。
さて、ひとの言動をリニューアルするために、思考系回路と情動系回路を初期化し、情報の刷り直しをするわけですが、その方法のヒントを、宣伝広告テクニックのなかに見つけることが出来るでしょう。
宣伝広告の場合、潜在顧客とのコミニュケーションの手段として、視覚へのポスターなどのビジュアル、そして聴覚へのCMソングがあります。その視覚と聴覚へ任意の情報を伝えることにより、ひとびとの意識そして無意識をコントロールして、クライアント商品の販売促進を図るわけです。
それでは、問題行動を改めようとするひとは、どのようにして新たな情報を刷り込めばよいのでしょうか。それにはまず、自分の望む行動及びその目標について、宣伝広告テクニックのように、言葉ではなく映像としてイメージ化することです。
言葉でもって自分の望む行動及びその目標を書き、その文章を意識及び潜在意識に刷り込もうとしても、思考系回路へはなんとか刷り込めたとしても、情動系回路への刷り込みは成功しないかもしれません。情動系回路は言葉を理解できないからです。それらに働きかけられるのは映像と音だけです。
そのように自分が望む映像をイメージ化できましたら、次に刷り込み方法を考えてみましょう。
情動系回路は、生き残りのための情報を収集することを第一の目的としていますので、一瞬の情報でも入力は可能です。そのメカニズムを応用したものが、宣伝広告映像におけるサブリミナル・テクニックです。何十分の一秒における映像でも、その情報が生き残りのためであるのならば、潜在意識は、意識を飛び越えて、その情報を把握できます。しかし、意識が覚醒していれば、その潜在能力は発揮できないようです。意識が潜在意識の情報処理を無視してしまうからです。
刷り込みのためには、意識が覚醒するのではなく、朦朧としてもらわなくてはならない訳は、意識とは、潜在意識へ入る前の情報チェック機関の門番であるからです。意識が覚醒しているということは、それだけ検査が厳しいことを意味し、その反対に、意識が朦朧としてしていれば、それだけ検査が甘くなるわけです。
意識を朦朧とさせるテクニックは、宗教儀式にみられるでしょう。聴覚は、単調なリズムの繰り返しに弱いのです。お経や牧師の単調なお説教を聴いているうちに眠くなってしまったことを経験しているひとは多くいることでしょう。興味のない授業などもその範疇に入るでしょう。
いずれにしても、意識を朦朧とさせることは、情動系回路への刷り込みの基本です。そのように意識を朦朧とさせているうちに、刷り込むイメージをこころに思い浮かべるのです。ここで断っておかなくてはならいことは、朦朧とは、意識が眠っている状態ではないということです。意識が眠ってしまっているのならば、情動系回路への刷り込みは成功しないでしょう。
その朦朧の状態とは、瞑想で三昧に入っている状態に似ているでしょう。覚醒と眠りの中間の状態は、潜在意識への働きかけには最適です。その状態で情動系回路を司る潜在意識に働きかけることにより、無意識の言動がコントロールできるわけです。
しかし、一回や二回で刷り直しは完了しません。ひとの基本的性格は、大体三歳で確定してしまうそうです。あらゆる情報を蓄えられる海馬から、大脳皮質への情報の焼き付けは、毎晩見る夢として行なわれるわけですが、その情報が定着するには三年程かかるようです。昔のひとは、大脳生理学など分らなくても、「石の上にも三年」との格言を残しています。 そのように、刷り込みに三年をかけたものが、瞬時に刷り直しなどできません。ですから、気長に刷り直しを行なうことです。
その方法のひとつとして、ユダヤ・キリスト教の刷り込みテクニックを真似ることです。安息日を真似て、七日目ごとに、刷り込みを行なうことです。毎日毎日行うことは、記憶力を増すことにならないからです。好きな音楽を毎日毎日聞いている内に、やがてその大好きな音楽が意識外のものになってしまうことを理解できれば、このことが分るでしょう。それよりも、ある一定の間隔を置いて刷り込むほうが、記憶が保持されやすいのです。レミニセンス現象のように、刷り込んだ情報は、その直後よりも後の方が、思い出しやすいからです。
そのようにして刷り直しをしたとしても、全ての言動をリニューアルすることはできないでしょう。それは、遥か彼方の先祖からの遺産としての遺伝子に刷り込まれた記憶は、刷り直しができないからです。しかし、生後、躾あるいは学習の名目で刷り込まれた情報は、刷り直しが可能でしょう。
今の生活状態が、望むものでないのならば、それは多分、社会の問題ではなく、ひとのこころの問題でしょう。そしてそのこころの問題は、多分そのひとの責任ではなく、親を含めた三歳までの養育環境によるのです。しかし、社会や親を恨んでも何の解決にもなりません。その親も、先代の親からの被害者なのですから。
これから先、何年生かされるのかは分りませんが、人生はやり直しが出来ません。ただただあの世に向かって進んで行くだけです。生まれ変われるものならば、人生はやり直しができます。しかし、ひとは生まれ変われません。
でも、ひとには誰にでも「今を生きるため」の「智恵力」があり、また「明日を生きるため」の「想像力」もあるのです。このふたつの力を利用することにより、これからの人生も変えることが出来るでしょう。何故ならば、そのふたつの力は、あらゆる問題を解決することができるからです。そして、そのふたつの力をコントロールできることにより、「こころの自立」が達成されるのです。
プロカメラマンになりたいのならば、そして、人生を楽しみたいのならば、それに相応しい言動を行なうことです。そのためには、外に問題の解決を求めるのではなく、こころの流れをコントロールする技術を修得し、その流れに、成りたい自分のイメージを浮かべることです。潜在意識に受け入れられ、情動系回路に刷り込まれた情報は、やがて現実の世界に現われるでしょう。つまり、こころの流れに希望をのせることで、目的の地に必ず辿り着けるのです。

第二章  仕事と遊び  


    何をたよりに生きようか   


自立するということが、他のひとたちの力を頼ることなしに、自分の力だけで人生を歩んで行くのならば、どのような方法で暮らして行けばよいと言うのでしょうか。
こころが自立することにより、今まで見えなかったことが見えるようになることでしょう。でも、そのことは良いことばかりではないでしょう。つまり、こころが自立するということは、今まで権威者から教育あるいは学習の名目で刷り込まれ真実と信じていたことが、こころが覚醒することにより、虚構であると知ることにもなってしまうことになるからです。
眠っていた脳細胞が覚醒すれば、今までとは異なる世界が現われます。迷える子羊であるならば、神の思し召しで何んにも考えることなしに暮らして行けたわけです。しかし、覚醒した羊は、果たして神の言葉を今までどおり素直に信じることが出来るのでしょうか。
ひとは、生まれただけではひととして自立できません。ひとは、三歳頃(大脳皮質の各ブロックとの連絡網完成期)までに、親を含め他のひとたちに養育される経験を持たなければ、ひととして生きることもできないのです。その養育期間を例えば狼に育てられたとすれば、大脳の配線構造が「狼少年型」となり、後から教育として、ひとの言動を刷り込もうと努力しても、ひととして自立はできないでしょう。
小説ターザンでは、チンパンジーに養育され、後にひととしての言動を刷り込まれて、ひととして自立し、そして、ひとの欺瞞に満ちた社会に失望し、再び森に帰っていくようですが、そのようなことは現実には起こりえないことです。「私」が創造される期間をチンパンジーに養育されたとしたら、そのひとの人格の基本(配線パターン)はチンパンジーとなっていることでしょう。
そのようにして創造される「私」が、他のひとの助けもなしに「自立」することなどできるものなでしょうか。
二三歳に「私」(思考系回路による幻想としての人格)を認識したひとも、そこですぐに自立できるわけではなく、両親やその他のひとたちの保護や養育の手助けが、それから十数年も続くのです。今の法律では、成人となるには二十歳を基準としているようです。しかし、成人式を迎えても、自他伴に自立していると認識できるひとは、一体何人いることでしょうか。
さて、ひとの自立の条件を大きく分けるとすれば、二つあります。ひとつは、こころの自立(精神的自立)で、そしてもうひとつは経済的自立です。
こころの自立に関しての書籍は、本屋さんに沢山見受けられます。しかし、経済的自立に関しての書籍は、それ程多くはないようです。ましてや、プロカメラマン向けの経済的自立についての書籍は、今だ見た記憶がありません。
そこで、プロカメラマンの経済的自立についてのヒントをここで考えてみることにしましょう。
ひとが生きて行く為に、何が必要かを次のような物語で考えてみましょう。その物語とは、

むかしむかし、中東のある国で革命が起こりました。そこで、その国のお金持ち達が、お金を出し合い大きな船をチャータして脱出しました。二三日もすると船旅も退屈になってきます。そこで、この船の中で誰が一番裕福かの自慢話をすることになりました。
先ず始めに、羊飼いの親方が言いました。「この船で一番の裕福者はこのオレ様だ。甲板の羊たちを見るがよい。百頭もの羊を持っているヤツは、この船にはおらんだろう。」
そういい終わらないうちに、商人が言いました。「いいや、オレ様の方が裕福さ。羊は草がなければ乳が出ない。それに餌代だってばかにならない。そこえゆくと、紙幣のお金は、どこへでも簡単に運べるし、欲しい物は何だって買うことが出来るのさ。」そう言って、カバンの中の沢山の紙幣を皆に見せました。
それを見た両替商が言いました。「あんたの紙幣は紙屑同然さ。革命で倒れた国の紙幣なんてお金ではないんだぞ。それはタダの紙屑さ。それに比べて、オレ様は金貨を沢山持っている。これならば、どんな国でも通用する。だから、オレ様がこの船で一番の裕福者だ。」
皆がその話に納得しているのに、旅の導師だけは納得しないようです。そこで、両替商が聞きました。「お見かけしたところ、導師は何も物を持っておらんようですな。それだったら、オレ様がこの船で一番の裕福者だと何故認めなさらないんじゃ。」すると、導師が言いました。「もう暫くすると、誰が一番裕福者か分るだろう。」
暫くすると、北風が強く吹き付け、船は木の葉のように波にもまれ、やがて、船は沈没してしまいました。全乗組員は、着の身着のままで、やっとのことで岸に辿り着きました。そこで導師が皆に言いました。「物はいつかはなくなる。しかし、智恵力と想像力だけは無限だ。無くなることもないものを、誰もが持っていることを忘れないように。」そう言って、導師は去って行きました。

一般的にひとは、金の卵を産むにわとりを探すのではなく、金の卵を集めようとしているようです。それは、金の卵と異なり、金の卵を産むにわとりは、ひとの目には見えないからです。、そのにわとりとは、比喩で実は、「智恵力」と「想像力」のことなのです。そのふたつの力がひとつになると(この瞬間を一般的には「ひらめき」と言っています。)、ある問題を解決することができ、その結果として「金の卵」が手に入ることになるわけです。
それでは、問題解決するための問題(仕事)とは、何処にあるのでしょうか。

旅の導師は、やがて賑やかな街に辿り着きました。
導師はこの街の様子を聞こうと、暇そうにしている客待ち籠の人足に尋ねました。「この街で一番裕福な者と一番貧乏な者の家を知っておるか。」「ワシら、この街で生まれたもんで、この街のことならなんでも知っとるよ。」「では、教えていただけるかな。」「ようござんす。籠にお乗りなせい。」「お金はもっておらんぞ。それでもよいか。」それを聞いた人足が、相棒とごそごそ相談を始めました。「お金はもっておらんが、それを手に入れる方法を教えることができる。それでどうかな。」人足達は互いに頷いて、「ようござんす。お連れしましょう。乗っておくんなせい。」
人足達は、それらの家に導師を案内し終わりました。「ところでダンナ、尋ねた用件は何で。」「この街が住み易いかどうかを知りたかったのじゃ。」「そんなことなら、ワシらに聞けば済むってことよ。何で金持ちと貧乏人なんで。」「それらの者達に尋ねると、この街で何が足りていて、何が足りていないか解かるからじゃ。」「オレ達には、理解できねえことだ。それよりも、約束のこと早く教えてくんな。」
導師は、懐から紙と筆を取り出し、さらさらと何かを書いて、その半紙ほどの紙を人足に渡しました。「なんでい、こんな紙切れでお金が手に入るんか。」「その紙を籠の目立つ所に貼るのじゃ。そうすれば、客が列をなすだろう。」そう言って、導師は立ち去りました。 その紙には、「道に迷っている方へ。この街のことなら何処へでもご案内できます。」と書かれてありました。

金の卵を手に入れるためには、まず、それを産むにわとりを探すことです。そのにわとりが自分の所に居ることを知っているひとは、次に、そのにわとりに仕事をさせることです。 にわとりは、仕事をしなければ、卵は産みません。そこで、仕事を探すわけですが、何処に仕事があるのでしょうか。
旅の導師は、金持ちと貧乏人を訪ね、情報収集しました。このことは、広告業界では、「マーケティングリサーチ」と呼んでいることです。
ひとが仕事を探す基本は、自分に足りているものと足りていないものとをチェックすることです。そして、次に、社会(マーケット)で今足りているものと足りていないものを調べることです。
足りていないものは、それを穴埋めするエネルギーを要求します。その要求に、自分の足りているもので対処することが、仕事の基本であるわけです。
例えば、乳児が泣いています。それは、「仕事」を母親に要求しているとも考えられるでしょう。そして、泣いている乳児が、オッパイが欲しいのか、オムツが濡れているのか、はたまた遊んで欲しいのかを見極め、それらの欲求を母親が満たしてあげるとすれば、乳児はニッコリと笑顔を示すわけです。
実際の仕事の基本も、乳児での仕事と同じです。この場合、「ニッコリ笑顔」が「お金」ということになります。
現実の世間で足りていないものは、時代の流れにより刻々と変化していきます。では、これからの近未来では、一体何が足りなくなるのでしょうか。
未来を知ることが出来れば、この世は幸福者や成功者で満ち溢れてしまうことでしょう。しかし、そのようなひとたちを現実の世界で探すには、困難が生じることでしょう。では、未来を知ることは出来ないのでしょうか。

旅の導師が街を歩いて行くと、ひとだかりが目に止まりました。近づいて行くと、なにやら言い争いが聞こえてきます。「なにかあったんですかな。」導師がひとの輪の端に居る背伸びして見ているひとに聞くと、「客が予言が当たらなかったんで、相場でスッタお金を返せと預言者にどなりこんでいるわけださ。」
導師がひとの輪の中へゆっくり割入って行くと、「導師さま、この男をなだめてくださらんか、お願いします。」預言者は困り果てていたところにチャンスとばかりに助けを求めました。「どういうことか聞かせてくれんか。」導師は、腹の出っ張った男に向かって言いました。「よく聞いてくれ。」男は身振り手振りを交えて言うには、今年の春、預言者に今年の秋の収穫を占ってもらったら、今年は大旱魃になり不作の年になるだろう、ということだったので、それでもって、穀物相場で全財産「ウリ」に掛けたところ、予言が外れて、全財産無くしてしまった、この責任を全て預言者がとれ、ということでした。
「では聞くが、去年も預言者に聞いて相場を張ったのかな。」「もちろんでっさ。」「それでどうじゃった。」「去年はたんまり儲けさせていただきやした。」「ところで占い師に聞くが、去年は儲けのお裾分けを頂いたのかな。」「いいえ、予言料金だけで。」導師は、男に向かって、「去年予言で儲けて、お裾分けをしない者が、損した時だけ無心するとは、いかがなものかな。それに、相場とは、美人コンテストで一位の者を当てるようなもので、自分の選んだ者は大体外れるものじゃ。」周りで聞いていた群集も、導師の話に頷くと、それを見た男は、地面にペッと唾を吐いて立ち去りました。
「ありがとうございます。」預言者は導師にお礼を言うと、導師が「ところで、収穫の予言はどのようにして行なうのじゃ。」「それは秘密ですが、今回は特別にお教えしましょう。」そう言うと、導師の耳元で小声で言いました。「カマキリの巣が例年より下にあれば旱魃、上にあれば雨が多く降る、という事です。」「なるほど理に叶っている。」「ところで導師さま、本当にこの世の未来を予測できるものなのでしょうか。」「ふむ、難しい質問じゃ。未来を予測することは困難かも知れんが、その種なら分る。」「未来の種とは何ですか。何処で手に入るのですか。」「それはこころの中にある。こころの乾きが未来の種じゃ。」そう言って、導師は立ち去りました。

ひとは一秒先の世界も知ることが出来ません。そこで、その渇きを癒すことを「仕事」にするひとの需要があるわけです。宗教などもその範疇にはいるでしょう。ひとには、未来にたいする「精神的不安」と「物質的不安」とが誰にでもあるようです。そこで、「預言者」はいつの時代でも、ひとびとのこころの乾きを癒すために必要とされているのです。
現代のひとは、物語の預言者の行動を笑えません。それは、現在でも、その物語と基本的に同じことが日常的に行なわれているからです。現代では、物質的渇きの根源である経済金融業界の預言者として、「経済学者」、「経済アナリスト」そして「エコノミスト」などが考えられます。でも、科学時代の現代のそれらのひとたちの「予言」は、本当に「たより」にできるものなのでしょうか。もし、たよりにできるものならば、現在のような不況など、簡単に克服できたことでしょう。
そもそも、現代経済学によるの経済予測(予言)は実際に役に立っているのでしょうか。
現代経済学が、どのようにしてひとびとを惑わすようになったかを簡単に述べますと、それは、単なる統計学上の意味を、「科学上の重要性」と同一視したことによるようです。これは、医学にも言えることです。統計学は、単なる仮説により成立つ学問です。それは、科学ではなく、予言の範疇です。
現代人は、「科学」の絶対信奉者です。「科学」に信仰心を持っていると言ってもよいかもしれません。
現代経済学の誤りは、単なる黒板上の統計による存在証明を、科学上の真理とみなしてしまったことによるのです。(広告業界では、ブレゼンテーションで、このテクニックで「広告リーチ率」なる数式でもってクライアントを幻惑させています。)
さらに、それらの擬似科学的経済学を実際に経済政策に適用して、ひとびとの生活における消費行動を「予言」し、管理しようと試みる過ちを犯してしまったようです。
現代経済学の「たより」にできない本質は、コンピュータを駆使して数学的証明手続きを重んじることにより、ひとびとのこころの中の渇望を無視したことにあるようです。
物質にたいする渇望を解決する答えのヒントは、黒板上にある数式にあるのではなく、ひとびとの実生活のなかにあるはずです。
では、物質ではなく精神的渇望にたいする「宗教」は、「たより」にできるものなのでしょうか。
キリスト教についての虚構性は以前述べましたので、ここでは大乗仏教について考えてみましょう。
書店に行けばわかるように、仏教に関する書籍は沢山あります。それは、万巻の書といってもよいかもしれません。しかし、ブッダは教えを書き残してはいないのです。
ブッダの入滅直後、ラージャグリハに集まった修行僧たちに、ブッダの愛弟子のアーナンダが、師の説法を一語一語復唱してみせた、その記憶力のもとが、仏典の基となったようです。
では、ブッダはどのような説法をしていたのでしょうか。

「修行僧たちよ。修行僧は二つの極端に偏ってはならない。ふたつの極端とは何か。一方には官能的快楽、低く、卑しく、世俗的で、下等で、無益なもの、の喜びにふけるものがある。もう一方には苦行、苦しく、下等で、これも無益なもの、にふけることがある。修行僧たちよ、完成した者(如来)は、これらの極端を捨て、中道を見出した。これにより、洞察と認識とが得られ、寂滅、悟り、目覚め、涅槃にいたるのである。」

ブッダは、人生における苦悩を避ける方法を「八正道」に求めたのです。その「八正道」とは、政見(正しい見識)、正思(正しい決意)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい瞑想)です。
ブッダのそのようなシンプルな教えが、後になって、解釈の違いにより二つに分裂するのです。ひとつが、日本に渡来の大乗仏教で、もうひとつが南方仏教です。
インドの方言のマガディ語のブッダの説法が、パーリ語の仏典となり、それがサンスクリット語の仏典となり、さらに漢語となり、それを日本語に翻訳したのが、日本の仏典であるわけです。何人ものひとたちの解釈による「書物」は、果たしてブッタの言葉が生かされているのでしょうか。
ひとが「自立」するには、「精神的自立」と「物質的自立」のふたつの関所を通らなければなりません。そのために、ひとの思考系回路は、明日への生き残りの為、「宗教」や「経済学」などのトリック(虚構)を考え出してきたわけです。しかし、それらのお金集めの為の「宗教」や世界金融シンジケートにコントロールされた「経済学」のトリックは、一般庶民の今の生活状態の渇望を満たすことができているのでしょうか。
もし、それらのものに「たよれない」のであれば、それでは、ひとは「何をたよりに」生きていけばよいというのでしょうか。
「自立」とは、自分以外にたよるものが無い、と悟ることから始まるのです。そして、ひとには、「智恵力」と「想像力」の無限の力があることに気づくことから始まるのです。
それでは、実生活で「自立」するにはどのようにすればよいかを、次に考えてみましょう。

    仕事の基本はかわらない   


プロカメラマンとして自立していくには、仕事をして収入を得なければならないでしょう。一昔前でしたら、プロカメラマンの仕事の流れは大体決まっていたわけです。被写体は何かは別としても、カメラで撮影し、フィルムを現像し、それをクライアントに渡せば、後は集金をするだけでした。
しかし、現在では、プロカメラマンの仕事の流れは激変してしまっているのです。
それは、銀塩フィルムだけではなく、デジタル記憶媒体もあるわけです。そして、そのデジタル記憶媒体は、現像という化学反応をさせなくても、パソコン上で被写体を像として確認出来るのです。さらに、その像は、インターネットにより遣り取りできるのです。
従来の銀塩カメラでしたら、撮影時の確認はポラを切らないとできませんでした。しかし、デジカメは、撮影したその時点で、その像を瞬時に確認できるのです。
デジカメの出現により、プロカメラマンの仕事の流れも概念も変わってきたようです。
物やサービスの流れは、著名な経済学者に教わらなくても分ります。同じ物だったら、安い方に需要があります。同じ値段でしたら、より機能が優れた物に需要があります。
ひとの能力にも、同じことが言えます。
銀塩カメラしか使えないプロカメラマンより、銀塩もデジカメも使えるプロカメラマンは需要があるでしょう。
では、デジカメの技術は、どこで修得すればよいのでしょうか。
現在の各種専門学校の写真科の紹介ページは、数十年前と比べるとホンノ少ししかないようです。これは何を意味しているかと言えば、写真を学びたい生徒の減少かもしれません。でも、街中を見渡せば分るように、カメラを持った若者は多く見られます。しかし、そのカメラの多くは、銀塩ではなくデジカメでしょう。
銀塩カメラは、デジカメに比べてその操作は、ひとの感に頼ることが多くありました。ですから、勘違いにより撮影の失敗も当然あるわけです。しかし、デジカメの場合、プロもアマも、撮影上の技術の差は多くは認められないようです。たとえ、撮影で意図することができなくても、事後処理で修復は可能だからです。
銀塩カメラの場合、事後処理は、その道の匠の技術が必要でした。しかし、デジカメの場合、パソコンと情報処理のソフトウエァがあれば、誰でも簡単に画像処理ができてしまうのです。
そうです、デジカメは、銀塩カメラと似て非なるものなのです。ですから、その技術も、従来と異なるのです。つまり、デジカメを駆使するには、コンピュータの基礎知識が必要なわけです。
現在のチラシ制作過程を知ればこのことは理解できるかもしれません。
以前でしたら、チラシに製品写真が必要な場合、撮影が終わると、フィルムをプロラボに現像に出して、数時間後に製品である「写真」を取りに行き、それをクライアントに届けたわけです。しかし、今や簡単な写真でしたら、デジカメで撮り、そのデジカメの記憶媒体をクライアントに渡せばよいのです。現像行程はいらないことにより、制作時間の短縮が図れるのです。
更に、デジカメ・カメラマンがパソコンに強い場合などは、自宅のパソコンで画像処理したものを、画像がそれ程重くない時など、パソコンネットを使い、その画像を送ることなど実際に行なわれています。
被写体を撮影することは同じでも、銀塩とデジカメとでは、その技術も機能も異なるのです。デジカメの技術は、従来の写真学校では修得が無理でしょう。ひょっとして、コンピュータ専門校がプロカメラマン養成の場となるかもしれません。
時代は流れているのです。そして、仕事の内容も時代の流れに合わせるように、変化して行くのです。
ひとは、そのように流れて行く時代に合わせて日々の暮らしを成り立たせる為に、仕事の技術を学んで行くわけです。
仕事の流れをズームアウトしてみて見ましょう。
狩猟・農業時代でしたら、足腰が強いひとが優位でした。ですから、そのような時代では、身体の優れた人がリーダになれたわけです。
ひとには、身体をコントロールするための情動系回路があると同時に、色々なトリックを考え出す思考系回路もあるわけです。
身体が脆弱でも、考える力があるひとが、ひとの働きを器械にさせることを発明していくわけです。その帰結が、産業革命となり、器械がひとに代わって働く為、思考系回路ではなく、ただの身体だけが頑強なひとは優位でなくなるわけです。産業革命時代の器械は自立装置がないため、ひとの手を必要とするわけです。それが技術者です。ですから、その技術を修得したひとが優位になれたわけです。
器械はひとと異なり、疲れを知りません。やがて、需要より供給が多くなるわけです。すると、余剰製品を何処かに売りに行かなくては成らないわけです。流通の問題がおこるわけです。更に、在庫の調整や工場での労務管理を必要とするわけです。そこで、技術者と異なる管理をするひとの需要がおこるわけです。技術者のブルーカラー(汚れ服)に対するホワイトカラー(白い清潔なシャツ)の管理者の出現です。
管理するためには、色々な技術が必要です。更に、色々なひとたちと接する為、教養も必要です。そこで、それら経理、法律そして流通管理のことを修得する学校が流行るわけです。
そこで、良い仕事を得るための人生の流れができるわけです。その流れとは、良い生活を手に入れるには、給料の良い会社に就職すること。そのためには、良い学校を卒業すること。よい学校に入学するには、一所懸命に受験勉強をすること。ざっと、このような流れは、つい最近の二十世紀には通用していたわけです。
少し前の時代でしたら、良い生活をするには、ホワイトカラーの管理職になればよかったのです。しかし、二十世紀末に、思考系回路はとんでもないもの発明してしまったのです。それは、コンピュータです。
ひとの身体の代わりが「器械」だとすれば、ひとの脳の代わりが「コンピュータ」となるでしょう。つまり、ひとの脳の働きの、記憶、計算、管理はコンピュータが行なうことができるのです。つまり、工場から器械により労働者が追い出されたと同じように、会社からコンピュータによりホワイトカラーが追い出されているのが現在なのです。
現在の社会の混乱の原因のひとつは、時代の流れが、従来の流れと異なってきたと認識していないことにあるようです。
以上の流れを簡単に述べますと、狩猟・農業時代→産業時代→流通時代→情報時代、となるでしょう。現在は、情報時代にあるわけです。ですから、従来の流通時代でのルールでは、事は上手くいかないわけです。
では、情報時代において、どのようにしたらプロカメラマンとして生計が立てられるかのヒントを考えてみましょう。
流通時代と情報時代における仕事をゲームと考えれば、情報時代での仕事の内容が流通時代と比べて激変していることが理解できるでしょう。
流通時代のゲームのルールは、売れ筋をいち早く仕入れ、それを安く大量に販売することでした。
物の流れとしては、生産者→卸→小売店→消費者でした。
サービスとしては、情報提供者→情報加工業者(プロダクション等)→情報発信社(出版社、新聞社、放送局など)→消費者でした。
物やサービスを競合他社より有利に販売するために、流通時代では、「権威(ブランド・肩書き)」が必要でした。それらの権威とは、物の場合は有名デザイナーや有名小売店の包装紙で、サービスの場合は有名作家や有名評論家そして世界的有名芸能人の肩書き等です。
つまり、流通時代では、虚構である「権威」を創造することに長けている部門、物の場合は「小売店」が、サービスの場合は「情報発信社」がそのゲームの主役だったのです。ですから、それらの時代では、物やサービスは、「小売店」や「情報発信社」の威光によりゲームが進められていたわけです。
では、情報時代では、どのようにゲームが変化してしまったのでしょうか。その変化は、二つに集約できるでしょう。ひとつは「中抜き」、そしてもうひとつは「ボーダレス」です。
情報時代でのコンピュータネットワークにより、コミニュケーションが激変してしまったことにより、必ずしも「小売店」や「情報発信社」などの中継者は必要とされなくなってしまったのです。
例えば、或る物が欲しいと思えば、以前でしたら「小売店」へ行きました。しかし、今では、パソコンがその要求を満たします。又、作家としてデビューしたいと思ったら、以前でしたら「情報発信社」の出版社へ売り込みに行かなければ成りませんでした。しかし、今では、パソコンとサーバーとがあれば、個人により情報は広く発信できるのです。
つまり、情報時代の物、サービスの流れは、変化してしまったのです。
物の流れとしては、生産者(パソコンネット)→消費者となり、
サービスの流れとしては、情報提供者(パソコンネット)→消費者となってしまったのです。
「中抜き」とは、コンピュータネットワークにより、今まで必要であったものが、必要でなくなったということです。これは、会社組織でいえば、パソコンにより中間管理職がリストラされたことに似ているかもしれません。
「中抜き」されると、どのように流通ゲームが変化するかといえば、それは「権威」の失墜です。
もともと、権威とは、思考系回路が明日を生きるために発明したトリック(虚構)なのです。流通時代においては、例えば情報分野では、権威者により情報操作をすることにより、色々な思想操作をすることができたわけです。ある組織にコントロールされた著名な大学教授が、権威ある「学会」でその組織に有利な論文を発表し、それを「権威」ある新聞社が掲載すれば、何も知らない(情報制限されている)ひとたちは、その情報を「真実」だと信じ込んでしまうでしょう。
例えば、「○○○の日記」というのを大昔小学校の授業で学習させられました。その物語は、文部省推薦図書で、歴史的事実であるとのふれ込みでした。戦時下の可哀相な十二歳の少女は、残酷な戦争の犠牲となってしまったのでした。当時の学童たちは、その著者である少女に深い感銘と敵国に憎しみを抱いたものでした。しかし、時が経ち、イギリスの歴史家、デヴィッド・アーヴィングが、1988年のトロント裁判で、日記の一部はボールペンで書かれてあることを証言したのでした。少女が亡くなったのは1945年で、ボールペンが市販されたのは1951年以降だったのです。
権威を作る「情報発信社」は、色々なトリックを発明して「神話」を創造し、権威者を利用して、何も知らない読者を騙していたわけです。
情報の統制がパソコンネットで崩壊した結果の「権威」の失墜は、どのような変化を与えるかといえば、専門家と非専門家との壁がなくなることです。つまり、「ボーダレス」です。
情報時代では、知識の流れもその範疇に入ります。流通時代では、知識を得るには「学校」へ通わなければなりませんでした。知識は、学校の「教師」が独占していたわけです。
しかし、情報時代では、大学で学習する内容の知識など、全世界の図書館へパソコンでアクセスできる技術を持っているひとでしたら、瞬時に手に入れることが可能です。知りたいことは、学校という「中継ぎ」を通さなくても入手できる時代なのです。それも、権威者からの一方的な情報ではなく、別の角度からの情報も簡単に手に入れることが出来るのです。
ゲームは変わったのです。そして、そのルールも変わったのです。
それでは、情報時代における仕事は、どのようにしたら探せるのでしょうか。
情報時代といえども、そのゲームをしているひとたちが、今までのひとたちと違うということはないのです。ゲームやルールが変わっただけなのです。ですから、流通時代のゲームやルールを忘れることです。そして、情報時代の物やサービスの流れを見極めることです。
時代がどのように変化しようとも、物やサービスの流れの行き着く先は、決まっているのです。それはお客様である消費者なのです。
現在は、江戸時代に喩えれば、バブルの元禄時代から享保の改革に向かっているようです。バブルに踊った武士階級は没落の一途を辿り、商才のある小売商人の出番となるわけです。
「権威」で飯が食えなくなると、生活の糧をえる手段として、武士も商人とならざるをえません。そこで、武士階級から商人に変身した先輩である、石田梅岩のビジネスにおける考え方をみてみましょう。

学者−−−それならば商人の心得はどうしたらよいでしょうか。
答え−−−前にも言ったように、「一事によって万事を知る」ことが第一です。一例をあげれば、武士は君主のために生命を惜しまなければ士とはいわれないでしょう。商人もこれさえ知っていれば、自分の道がはっきりわかります。買ってもらう人に自分が養われていると考え、相手を大切にして正直にすれば、たいていの場合に買い手の満足が得られます。買い手が満足するように、身を入れて努力すれば、暮らしの心配もなくなるでしょう。

どのような時代でも、仕事の基本はかわらないのです。仕事の基本を忠実に守っていれば、たとえ時代の流れが変化し一時的に落ち込んでしまっても、また新しいゲームやルールを知ることにより、這い上がれることが出来るのです。
仕事は楽しくできることに越したことはありません。それでは、楽しく仕事をするためのヒントを次に考えてみましょう。

    仕事と遊び   


年令的ではなく、精神的な意味で、「おとな」と「こども」との境界線は、「仕事」と「遊び」との区別が付くか、ということかもしれません。
ひとが、小鳥のように毎日空を自由に飛び回って暮らしていけたら、なんと素晴らしい人生を送れることでしょう。更に、小鳥であるならば、ひとに比べて思考系回路が発達していないため、毎日の暮らし向きや将来の不安に対して考えることもないのかもしれません。
それに比べて、ひとはどうでしょう。ひとの脳は、外界に適応するために、今を生きるための情動系回路の他に、明日を生き残るための思考系回路を発達させてきました。この二つの回路がバランス良く保たれていれば、外界の刺激に上手く反応できるために、人生におけるあらゆるトラブルも回避することが可能でしょう。
しかし、この二つの回路は、ベクトルが異なるのです。そのため、その取り扱いを誤ると、色々な不都合が発生してしまうことになるのです。そのように、ひとの行動は、小鳥に比べて複雑なメカニズムにより制御されているのです。
このひとの行動メカニズム機構を自動車に喩えれば、情動系回路がアクセルで、思考系回路がブレーキと言えるかもしれません。そして、それらをコントロールするのが「私」で、その「私」をコントロールしているのが「意識と潜在意識」となるでしょう。
意識は思考系回路(ブレーキ)をコントロールします。そして、潜在意識が情動系回路(アクセル)をコントロールします。そこで、「私」の意識と潜在意識とが同じベクトルでいられるのであれば、アクセルとブレーキを上手く制御できるため、自動車を任意の方向で走らせることができるでしょう。
しかし、何らかの不都合で、「私」の中で、意識と潜在意識とが拮抗してしまった場合は、アクセルとブレーキとの制御は難しくなることでしょう。情動系回路が思考系回路を無視すれば、自動車は猛スピードで驀進することでしょう。その反対に、思考系回路が情動系回路を押さえ込めば、自動車は少しも前に進めないでしょう。進めないどころか、車のクラッチ機構が摩擦熱のため破損して、自動車自体が使い物にならなくなってしまうことでしょう。
ひとを上手に運転する(自分を上手くコントロールする)には、自動車を上手に運転するには自動車教習所で訓練しなければならないように、生まれたそのままでは上手に運転できない為、人間教習所(家庭、学校等)で訓練を受けなくてはならないのです。
その人間教習所で人格形成時に、「私」の運転技術を修得していなければ、人生という路上で色々なトラブルが発生してしまうことになるでしょう。
そのひとつが「悩み」です。悩みとは、情動系回路の行動指示に対して、思考系回路がストップをかけて、進路がとれない状態のことです。この状態は、二つの回路のエネルギー衝突ですから、前に進もうとしても動けないため、やがてエネルギーの枯渇となり、精神的と身体的との疲弊をまねくことでしょう。その結果がガス欠のノイローゼ、流行り言葉では「うつ」と言っていることです。
思考系回路が発達していない小鳥が、「うつ」になったということは聞いたことなどありません。小鳥は、思考系回路ではなく、情動系回路の今を生き残る為だけにエネルギーを使っているからです。
では、その人間教習所では何を訓練しているかと言えば、主に受験勉強という暗記ゲームを行なっているわけです。やっと最近、そのゲームの弊害が認識されたためか、「ゆとり教育」などのレトリックを発明して、子供のためではなく、公務員教師のための週休二日制を実現させました。そのため、子供は土曜日は塾通いです。
しかし、明治の富国強兵の時代ではなく、今の情報時代では、「歯車人間」は必要ではないことが、教養ある教育者には今だ理解されていないようです。国語算数理科社会と同じように、ひとのこころのメカニズムをコントロールさせることを子供の頃から学習させ、個性を発揮させることは、情報時代を生き残るには大切なことなのです。
さらに、人間教習所で、人格形成時にお金に対しての教育をすることも大切なことなのです。
世間一般では、子供が遊ぶのではなく、仕事をしてお金を稼ぐことは「悪いこと」と考え、それに対して、大人が仕事をするのではなく、遊びでお金を浪費することは「悪いこと」、と考えているようです。
その延長線上で、お金を報酬目当てに仕事をすることは、無料奉仕のボランテアの仕事に比べて、卑しいイメージを与えているようです。さらに、お金を条件に仕事をすることを「悪い」ことと考え、無料奉仕のボランテアは「良い」ことと考えているようです。それでは、仕事の仕方に、善悪などあるのでしょうか。
そこで、子供の頃から子守や薪売りでお金を稼いでいた二宮尊徳が、善悪に対してどのように考えていたのかをみてみましょう。

翁曰、善悪の論甚むずかし。本来を論ずれば、善も無し悪も無し。善と云て分かつ故に、悪と云物出来るなり。元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり。故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒蕪を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒らすを善とするなるべし。世法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗を善とし是を制する者を悪とするならん。然れば、如何なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ。此理明弁し難し。

尊徳の考えでは、善悪は相対的なもので、立場が替われば善も悪になり、又悪も善になるということで、単純に善悪の線引きはできないということです。この考え方は正に、キリスト教的単純な善悪二元論ではなく、全てを飲み込む縄文的(あらゆるものに神が宿っていると考える善悪の区別が曖昧な多神教的)考え方と言えるかもしれません。
そのような尊徳的考え方であらゆる仕事の内容を認識できれば、仕事の種類に「善悪」も「貴賎」も区別をつけることもなくなるため、仕事の幅も広がり、どのような種類の仕事でも楽しく出来るかもしれません。
しかし、実際にはどうでしょう。この国では大昔から、現在の学校での子供同士のイジメのようなことを、体制側が弱い立場の者に行なっていたのです。それが制度上廃止されたのが、明治4年8月28日の賎民廃止令です。

布告
エタ・非人等の称廃せられ候条、自今身分職業とも平民同様たるべき事。

そのように発令された差別廃止の制度も、実際、差別をこの世からなくしたのではないことは、明治維新政府の為政者の言動を調べれば理解できるでしょう。
そのひとりに福沢諭吉がいます。彼は「学問のすすめ」の中で、「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となる」の言葉は赦せるとしても、「無学なる者は貧人となり下人となるなり」と平民を脅して、学問の無い者を「愚民」呼ばわりしているのです。このような功利主義的人物が日本の教育界の創始者であったことが、新たな教育差別を生み出していくわけです。
楽しく人生を暮らしていくことと、学問のあるなしは関係ないことです。学問がなければ、貧人、下人になるわけでもありません。情報時代では、真理を追究するための学問ではなく、給料の高い会社に就社するために他人を蹴落とすための暗記力主体の学問などなくても、ひととしての道に外れることなく楽しく仕事ができさえすれば、貴人にも冨人にもなれるのです。
そこで、そのような差別がどのようにして、この国に生まれたのかを考えてみることにしましょう。
お化けも、その正体を突き詰めれば、ある物体をこころの中で勝手に創造したにすぎません。それでは、その差別は、誰によってどのようにして創造されたのでしょうか。
いつの時代でも、歴史の流れは「支配する者」と「支配される者」とで構成されてきています。前者は少数で圧倒的な武器を持ち、後者は多数ではあるが武器を取上げられてしまい、今や戦う意識もなく無気力な状態にいるわけです。
支配する側の武器とは、軍隊や警察力だけではありません。最も強力な武器は「歴史」です。この武器が強力なのは、目には見えませんが、敵側のこころを劣位にし、戦う前に戦う気力を奪い取ってしまうからです。
明治維新が成功し、江戸時代の古い因習が、明治元年とともに「新しい夜明」を迎えたかのようなイメージを持っているひとたちが多くいることでしょう。更に、歴史も江戸時代から明治時代に、ページを捲るように劇的に変化したように信じているひとも多くいることでしょう。
しかし、実際は異なるようです。
明治新政府は、欧米との交流において気づいたことがありました。そのひとつに、欧米に対抗できるような、日本建国から現在までの歴史書がないということです。そこで、1887年(明治維新から二十年後)ユダヤ系ドイツ人ルードヴィヒ・リースという人を、東京に創設させたばかりの帝国大学(東大)の史学科の教授に招聘するわけです。ここから魔術国家「神国日本」が誕生するのです。
現在のマスコミのタブーのひとつとして、「天皇」と「部落」の問題があります。それは、この二つの問題を追及して行くと、ひとつの問題に収束してしまうからです。ですから、支配する側は、この問題をタブーとしてきたわけです。
しかし、支配する側が、ある目的をもって史学学会やマスコミ中枢をコントロールしたとしても、ひとの遺産としての記憶までもコントロールすることはできません。
これから述べる「支配される側からの歴史」は、敗者の歴史は勝者により焚書されてしまっているため、断片的な情報、それも伝聞という情報なので、文献などの証拠を提示できるわけではありません。更に、記憶としての情報なので、時系列的に疑問も生じるかもしれません。そして、歴史を眺める視点が敗者側なので、学校で学習した歴史(勝者側の歴史)と異なるかもしれません。そのようなことを基盤として話を進めていくことにしましょう。
日本での差別が、明治4年に制度上終わったと述べました。その差別のことを、学校では、「士農工商エタ非人」と教えていました。しかし、それは間違いです。「士農工商」までは「ひと」で、エタ非人は「異界の人達」であったわけです。ひととしての同系列での差別などではなかったのです。そのエタ非人にも区別がありました。非人は、「士農工商」のひとが罪を犯した結果です。それに、野非人は十年以内に功労が認められれば「ひと」になれるチャンスがあるのです。それに比べて、エタはエタのままで生涯を終えるのです。それではエタとは何者なのでしょうか。明治4年の賎民廃止令で、新平民のエタの支配者十三代弾直樹(左衛門)の祖先は誰だったのでしょうか。
その糸口が、明治二十五年六月二十五日の「朝野新聞」に掲載されていました。

浅草区亀岡町(往時は新町と伝ふ)に住む弾直樹と伝ふ人なん、往昔よりエタの君主と仰がれたる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以って氏とせり。抑も我国において秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩後扶蘇逃れてかいはくに入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以って百二十七県の民を率い、金銀玉はくを齎して帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を緒郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹ぱく柔軟にしてよく肌膚にかなふを以って天皇特に波多の姓を賜へりと。是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。其後この族より秦左衛門尉武虎といふもの出て武勇を以って平正盛に事へたりしが、適ま正盛の女の姿色艶麗いとろう丈けてたをやかなるに掛想し筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅く高嶺の花のえも折られず、いよいよ想ひ余りて寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく漏れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱としも頼む武虎にかかる不義の振舞あらんとは奇怪なり、いで物見せんとて討手を差向けたるよし、武虎逸早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし関東は源氏の根拠なれば、屈きょうの隠れ処なりとて鎌倉さして落ち延びぬ。此れより武虎は鎌倉長吏(エタの古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦しけるとなん。

以上の記事を全て信じることはできないでしょう。しかし、「エタ」を解明するための二三のヒントが見受けられます。
以前、悪魔(ルシファー)は、敵側の神で、闘いに敗れた者であると述べました。勝者は常に、敵対する者を再び這い上がれないように思索を練ります。そのひとつが、「ひと」以外の存在とする「辱め」です。それが、差別の基です。
中世ヨーロッパでは、キリスト教が、医療行為を独占する目的のひとつとして、草木や小動物の内臓を煮詰めての薬で、病人を治療していた民間治療者の婦人達を、「魔女」のレッテルを貼ることにより、聖なるキリスト教会は魔女裁判を行い、火炙りにして虐殺していました。
日本では、七世紀以降、あるひとたちを貶める目的で、カッパ、鬼、土蜘蛛、大蛇、天狗(山にいるカッパ)などの妖怪を発明してきました。しかし、実際は、それらの妖怪達は、闘いに敗れた側の神様であったわけです。
そのような視点で、朝野新聞記事の「エタ」を考えてみれば、その祖先は「藤原氏」であるということです。それでは、その藤原氏とはどのような素性のひとたちなのでしょうか。敗者側から調べますと、この藤原氏は、歴史上不思議な存在です。
学校での歴史教科書では、藤原氏とは、「大化の改新」で活躍した中臣鎌足(中臣鎌子が後に鎌足となった。何故、「足」をタリの、古朝鮮読みをしているのでしょうか。)が、褒美として天皇からの賜命された「姓」である、との説明です。しかし、東大系歴史学者ではないひとたちによりますと、この「大化の改新」はフィクションではないかということです。更に、その中臣鎌足の出自はどこかというと、定かではないのです。茨城の鹿島出であるとの説もあるようですが、どうも腑に落ちないのです。そのような「日本国の夜明」の基礎を創った立派な人物の出自が、「日本書紀」に掲載されていないことは、いったい何を意味しているのでしょうか。
そこで、朝野新聞記事に述べられているように、藤原氏の祖先は「秦氏」であるのかと調べてみますと、この秦氏も謎の一族であるわけです。
どうも、明治二十年以降に創作された、外国人の指導による「日本国歴史」には、なにかを隠蔽しているのではないか、と考えることは勘ぐり過ぎなのでしょうか。
そこで闇の日本史を調べることにより、その覆いを取り除けてみましょう。
「日本史の黙示録」を解くヒントは、「エタ」、「藤原氏」、「秦氏」です。

歴史を勉強するとは、仏教伝来ゴミヤサン(538年)のように、受験勉強のための歴史年代を暗記をすることではありません。明日を生き残る為の情報を得ることが、その目的のひとつなのです。
何故、過去の出来事を知ることが、明日を生き残る為になるのかと言えば、それは、ひとの行動は、過去に刷り込まれた(学習させられた)情報に左右されるからです。このことを一般に、「歴史は繰り返される。」と言っていることです。
例えば、ポマードの首相は、国際金融機関の侵入を防御する壁を崩すキッカケを作りました。その結果、外国金融資本の侵入で、今や日本経済は壊滅状態です。そして、ワープロの首相は、突然真夜中に消費税を3%から5%に上げました。その増税分はいったい何処に行ってしまったのでしょうか。そのふたつの理解不能の行動は、どう考えても庶民の生活を守るためだとは考え難いことだったのです。
それでは、その二人は、誰の指令で、誰のためにそのような行動を行なったのでしょうか。ニッケイヨクヨムを読んでも、サッパリ分りません。
しかし、その二人の首相は、実は藤原氏の末裔であるとの情報を持っていたとしたら、大体の想像はついたことでしょう。
歴史などを勉強しても、一銭にもならないと考えているひとには、七世紀に突然日本に出現した藤原氏一族が、現在の日本国の中枢(天皇の後ろに隠れて)で、今も活躍(?)していることなど、信じることが出来ないでしょう。更に、日本古来の風習にはユダヤ・キリスト教に影響されているものがある、と言っても、学校で日本歴史を学習したひとたちには、誰も信じることはできないかもしれません。

四世紀の終わり頃、日本の差別発祥の地「京都」に、ある一族、約一万八千六百名が、半島から訪れるのです。彼らは、秦の始皇帝の末裔の秦一族と名乗り、絹、麻、木綿織物、土木技術、瓦の製造、刀剣、金細工、酒造さらに遊芸楽器演奏などの技術者集団だったのです。
秦一族の来島はその後も続き、主として半島を島伝いに、そして、中国から海路の、ふたつのルートを使っていたことを覚えておいてください。
中国では、「南船北馬」と言って、ひとや物の移動は、南方(海洋民族)では「船」で、北方(騎馬民族)では「馬」を利用していたのです。そして、馬を伴って来たひとたちも、船できたひとたちも、皆、「秦」と名のっていました。
彼ら秦一族は、京都右京区太秦(うずまさ)に、大酒神社(おおさけじんじゃ。元は大辟神社と称されていた。)を創建するのです。この神社は、不思議な神社で、天台宗の覚深(かくじん)は、「天竺・支那・扶桑の神なりや、その義知りがたし。支那の神にあらず、また日本の神にもあらざれば、知らざる人疑い起こす輩もあるべきことなり。」と述べています。その祭りは、魔多羅神の祭り、後に「牛祭り」と言い、「おどるもあり。はねるもあり。ひとえに百鬼夜行に異ならず。」と言われるほど、意味不明の祭りだったそうです。
それでは、大酒神社の元である「大辟」とはどのような意味であるかと言えば、「大」は「ダー」で、「辟」は「ビ」と読み、中国語では、ダビデ大王は、大闢(ダービー)大王と表記しています。つまり、大辟神社とは、イスラエルのダビデ大王の神社と読めるわけです。
更に、秦酒公(はたのさけきみ)の六代目秦河勝(はたのかわかつ)は、新羅国が太子に献上した弥勒菩薩を納めるために、「広隆寺」を建立しました。広隆寺は山号を峰岡山と称し、別名は、峰岡寺、秦寺、大秦寺、太秦寺、秦公寺、葛野寺、桂林寺、草野寺、そして、「景教寺」と呼ばれていました。それでは、その景教とは何かといえば、それは、キリスト教の異端とされるネストリウス教であるわけです。更に、弥勒菩薩とは、釈迦の弟子で、釈迦の次にこの世に現われる未来仏ということになっていますが、その「弥勒」とは、サンスクリット語のマイトレイヤの発音を中国語で表したもので、元来はインドのバラモン経典(ヴェーダ)にででくるミトラ、つまり、キリスト教に多大な影響を与えた、太陽信仰のミトラスの神(一世紀頃、キリスト教徒により壊滅)であるわけです。

時代が飛んで、穢多頭の弾左衛門の仕事を、「朝野新聞」で調べてみましょう。

関東の穢多無慮一万戸。之れを総轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は実に関東穢多の中央政府とも主権者ともいふべきものにて、今当時の実際に就いて聞く所一として奇警ならざるはなし。試にそが生活の有様を問へ云く、少くとも万石以上の一諸侯に比すべしと。そが貸殖の有様を問へば云く殆んど東洋の「ロスチャイルド」ともいふべき財産ありしと。そが第宅の有様を問へば云く中爵門大玄関溝へにして門外幾百の家は挙げて皆その家来の居宅なりしと。

穢多は、被差別民であるから貧困かと言うと、そうではなく、東洋のロスチャイルドのように財産があるということです。更に、関東に家来が一万戸もいるということです。では、その家来達は、何を「仕事」にしていたのでしょうか。
その「仕事」を系統別に分けると、武器、防具そして馬具など、皮革による軍事物資生産の仕事。城作りなどの土木の仕事。灯心、草履などの生活物資生産の仕事。渡守、山守、関守などの見張りの仕事。戦況を占う陰陽師。筆結。墨師。そして、獅子舞、傀儡子、舞舞、猿楽(能の基)、鉢たたき、放下などの芸能の仕事などをシノギとしていたようです。
「風姿花伝」の著者、世阿弥は、「猿楽の租は秦河勝である。」と述べています。
秦氏と弾左衛門との「仕事」は、千数百年の時空を越えてオーバーラップしている事実は、一体何を意味しているのでしょうか。

「ペンは剣よりも強し。」の言葉の意味を問えば、一般的な答えとして「正義は勝つ。」或は、「言論は武器に勝る。」などとなるでしょう。しかし、原文の意味は、「ペン(言論)は剣(武力)より残酷だ。」ということです。
翻訳者が意図してか、或は読解力不足のためか、原文を誤訳してしまったものが、この国ではひとり歩きしているのが現状です。
「言葉は残酷だ。」の意味は、ひとのこころに入り込み記憶された言葉は、その言葉がそのひとの口から、他のひとへ発せられ、それを受けたひとの記憶に入り込み、そのようにな連続性で永遠に言葉の呪力は続いて行くからです。だから差別語は、どんなに時が経っても消滅しない。
この言葉の呪力を理解しているひとは、これを武器として利用することを考えるでしょう。そのひとつが「歴史」です。歴史は恐ろしい武器なのです。
ひとは、一度刷り込まれてしまった記憶を消すことには困難を生じます。ましてや、刷り込まれたことを変更することは、それ以上の困難を生じます。
言葉により創られた記憶は、思考に影響を与えます。そして、その思考は、行動を左右します。と言うことは、「言葉」をコントロールすることにより、他のひとをコントロールできる理屈が成立つわけです。ですから、ペンは武器より残酷なのです。
では、「穢多」の言葉を、誰が、どのようにしてひとびとの記憶に刷り込んだのでしょうか。
穢多の文字が、日本の文献上に登場するのが鎌倉時代の「塵袋」の中です。

天竺にセンダラというは屠者なり、生き物を殺して売る、エタ体の悪人なり。

この「天竺(インド)」の言葉で分るように、この国に差別語を持ち込んだのは、紀元一世紀、インド北部に忽然と現われた大乗仏教徒です。(自分たちは南方仏教より偉いんだということで「大乗(大きな乗り物)」と称していた。ちなみに南方仏教を「小乗仏教」とし、蔑視していた。)
もともと釈迦の仏教には差別語も差別思想もなかったのですが、釈迦の入滅後数百年も経つと、釈迦の教えを勝手に解釈するどころか、ヒンドゥー教の教義に染まっていくわけです。元々の仏教には、仏像もなければ(釈迦は仏像を作ることを厳禁していた。)、加持祈祷もないし、閻魔様もいませんでした。それらは、ヒンドゥー教の影響です。
インドのカースト制の思想を日本に持ち込んだ大乗仏教徒達は、釈迦の教えを勝手に解釈した仏典や仏教説話で「穢れ」の概念を、日本の支配者層に刷り込んでいくのです。
それでは、その大乗仏教の「穢れの思想」を日本に招き入れ、利用したひとは誰なのでしょうか。

日本には、二つの文化圏があります。ひとつは落葉樹林文化圏(狩猟・採取)と、もうひとつは照葉樹林文化圏(農耕)とです。食料確保の行動は、その土地の植物の植生に作用されます。ですから、それらの文化圏に生活する人たちの行動も思想も自ずから異なるわけです。その文化圏の境界線は、東海の名古屋と北陸の富山を結んだ線で、東西に分けられます。
大乗仏教による、屠殺に対しての「穢れ」の差別意識が、東日本(騎馬系民族の渡来地)より、西日本(農耕系民族の渡来地)に強いのは、この文化圏の違いかもしれません。
騎馬系民族の屠殺は、農耕系民族が穀物を食べるのと同じことなのですが、文化が異なれば、その解釈も異なってしまうのです。つまり、気候の違いも、衣料に影響を与えます。裸同然で生活できる温暖な地域と、マイナス数十度の厳寒地域では、衣服にも違いがでるのは当然でしょう。厳冬に暮らす民族が、毛皮で身体の保温を保つことは必然のことです。そのことは、温かい地域に暮らすインドの仏教徒には理解できないことでしょう。
狩猟民族の流れを汲む東日本の住民には、屠殺は生活の基盤であり「穢れ」なとではないのです。だから、東日本では、西日本ほど、今も「穢多」の差別が弱いのかもしれません。
その文化圏の違いは、日本国だけではなく、大陸までも含んでいます。そして、大陸の争乱から逃れる為の来訪者も、日本のそれぞれの文化圏に入植していくわけです。
日本には、縄文時代以来の考え方がありました。その考え方は、モノや植物に神(シン・ジン)が宿るということです。それは、ひとの力の及ばない「モノ」であったわけです。「モノ」には神の意味があったわけです。しかし、八世紀になると、「モノ」は悪の代名詞「鬼」と変化させられていくのです。
このような改ざんを行なったひとの行動を突き詰めれば、差別語を何故この国で使用したのかを解明できるかもしれません。その謎のひとを解明する鍵は「聖書」です。
ミステリー小説の醍醐味は、事件が起こり、それに係わった生き残りグループの中で、最も犯人らしくない人が、真犯人であることを突き止め、その動機を解明することです。
現在の世界をコントロールしているひとは誰であるかは、世界で最高の武器である歴史書をもっている民族を探し出せば、自ずと解明できるでしょう。それでは、大昔から現在まで「生き残っている」歴史書は何かといえば、先ず、「聖書」が考えられるでしょう。
つまり、世界最高の武器である聖書をもっている民族が、良い意味でも、悪い意味でも、この世界をコントロールしているのです。
それでは、日本の国をコントロールしている一族は誰でしょうか。日本での最大の武器としては、古事記と日本書紀が思い浮かぶでしょう。しかし、古事記は三巻で、それに対し、日本書紀は三十巻です。いや、古事記は四十四巻あるぞ、と言っても、それは「古事記伝」で、江戸時代に、本居宣長が著したものです。
何故、本居宣長が、古事記伝を著したかと言えば、日本書記は「漢国の言」で記されていて、「後代の意」に汚されている、それに対し、古事記は、「古の語言のまま」で記されている、「皇国の古言」を解明すれば、「上代の清らかなる正実」が得られる、と考えたようです。
つまり、日本書記は、「中国語」で書かれているではないか、それに対して、古事記は「大和言葉」で書かれている、だから、古事記の文章を解明すれば、昔の正しい事柄を知ることができる、と言う訳です。
しかし、古事記全三巻は、中途半端な書物です。と言うことは、日本最大の武器は、日本書記となるわけです。つまり、日本の国をコントロールしていた、そして、今もしているのは、日本書紀を創作させ、今日まで利用している一族になるわけです。その一族が、ある目的で差別語「穢多」を、大乗仏教を利用して日本国中に広めさせたのです。
それでは、その日本書紀は、どのようにして創作されたのでしょうか。
日本書紀を研究したひとによりますと、漢語の文章が、全体をとおして一貫していないと言うことです。特に、「分注」の割書き(説明文)におかしいところがある、と言うことです。その分析によりますと、三つに分類されるのです。
それらは、A群−漢語と日本の風習を完全に理解している、B群−漢語は完璧だが、日本の風習を理解していない、そして、C群−漢語は不完全だが、日本の風習は理解している、と言うことです。
更に、不思議なのは、どうもB群は、A群よりも先に書かれているようなのです。
そこで思い出すのは、「旧約聖書」です。旧約聖書の創世記から始まるモーセの五書は、年代的には、後の物語より、年代的に新しいのです。
更に、日本書記と聖書に共通することは、日本書紀の巻末にある「不改常典」と、ヨハネの黙示録第二十二章十八節「この預言書の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加えれる者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加える。」ということです。
それでは、日本書紀のライターは誰かと言うと、B群は、続守言(ショクシュゲン)と薩弘格(サツコウカク)と言う唐人で、C群の三十巻は、紀清人と推測されています。しかし、A群の「神代から安康」までを誰が書いたか特定できないようです。
そこで、当時、漢語が完璧で日本の風習を良く知っているひとを探してみると、「日本書紀」天武十年、十二月の記に「柿本臣佐留(さる)」の名が記されています。柿本臣佐留とは、百済からの亡命者で、中国語が完璧な歌人「柿本人麻呂」のことです。
それでは何故、佐留(さる)などの言葉を名前に付けられてしまったのでしょうか。
佐留(猿)という言葉は、歴史上いろいろな時代に出てきます。例えば、神代に出てくる「猿田彦」、秦氏が基の「猿楽」、更に時代が下がって、織田信長は秀吉に向かって「猿」と言っていました。秀吉の顔が猿に似ているからと言うのが定説ですが、秀吉の肖像画を見ると、その顔は、「猿」というよりも、「ねずみ」或は「きつね」に似ています。更に、徳川家康が、豊臣秀吉の策略により、穢戸(えど・江戸)へ移り住む時、弾左衛門が馬のお守りに、猿飼(大道芸人の猿回しとは異なる。渡来系騎馬民族の末裔。)を使わしたのは、馬の守護神が「猿」であることを、徳川家康(家康が弾左衛門を穢戸へ招いた。)も知っていたからです。
では、猿(佐留)とは、本来はどのような意味だってのでしょうか。それは、「渡ってきた」、つまり、「渡来」ということです。ですから、猿田彦とは、「渡来人の彦」で、猿楽とは、「渡来の踊り」です。しかし、時代が下がると、本来の意味が忘れられてしまい、「人間に似ているが劣ったヤツ」、との蔑称に変化して行くわけです。しかし、信長は、秀吉の家系を知っていたのかも知れません。(秀吉の周りには、一夜城を作る土木関係者及び間者(スパイ)としての漂白の民がいました。)
それでは、差別語を利用した「真犯人」を特定しましょう。それは、藤原不比等です。
では何の為に、差別語「穢多」を広めたのでしょうか。それは、ライバルの新羅系(騎馬民族系)を追い落とし、日本を乗っ取る為です。(藤原氏の世を「平安時代」と言います。そして、現在の年号は「平成」です。これは、偶然なのでしょうか。)
藤原氏が日本国を乗っ取るための武器は、中国語で書かれた「日本書記」です。そして、その種本は、「百済記」、「百済本記」、そして「聖書」です。
では、藤原氏の姓は、何を語源としているのでしょうか。それは、韓国語の「ブルボン」と言われています。そして、その意味は「日の国」です。つまり、この国で「貴種」とされた藤原氏とは、百済からの渡来者(猿)だったのです。

日本国以外で、「部落」と言えば、村ほどでもない、一族郎党の住む小さな集合体を意味しているでしょう。しかし、この日本では、「部落」と言えば、その前に「特殊」の文字が付け加えられてしまうのです。(特に、今でも西日本においては顕著のようです。)では、その政治的意味付けされてしまった「部落」は、この国では何時代に発明されたのでしょうか。
その「部落」が発明されたのは、どうも藤原氏の時代、つまり「平安時代」のようです。それでは、その藤原氏の時代になる前に、この国で覇権を競っていた部族は何かといえば、それらは、「源平藤橘」でしょう。
「源」とは、源氏系(新羅系騎馬民族)で、「藤」とは、百済系海洋民族で、「橘」とは、契丹(トルコ系)民族です。では、「平」の平氏とは何処からの民族なのでしょうか。
その謎解きのヒントは、平氏の民族カラーである「赤」にあるようです。(因みに、源氏は「白」です。江戸時代、川越人側は「赤フン」で、馬方は「白フン」で区別されていた。)
日本に、半島から秦氏を名乗って上陸した民族は、元々の半島の民族ではなく、大陸内部の争乱を逃れて、騎馬系は中央アジアから、海洋系は中東からインド・中国を経て遥々半島にやって来たのです。
騎馬系のルートは、紀元前からあるシルクロードからですが、では、海洋系のルートは、どこからなのでしょうか。
奈良の正倉院の宝物の中には、遠くペルシャを越えて、エジプトの螺鈿技術の才を極めた美術品も多くあります。それらの緻密で精巧な美術品は、ラクダの背中に揺られてシルクロードを東に辿り、遥々日本へ来たと言うのでしょうか。
インドでは、大昔から現在までも、三角帆を張った木造船「ダウ」が、インドとアフリカ大陸との交易に活躍しています。エンジンがなくても、帆と海流とがあれば、広い世界を陸路より快適に短時間に移動が可能なのです。
ひとや物の移動に付いて、海路による歴史的役割の軽視は、海上文化の担い手を、漁民、漂海民族や土地に住めない弱小民族などの下層民のものとする先入観に基づくのか、或は、知られては不都合の為に隠蔽する政治的意味合いによるのかもしれません。
紀元前千二百年頃、中東カナンの地に、海洋民族が出現するのです。かれらは多民族から構成された海洋商人達で、識別のため「赤い衣装」を纏っていました。その「赤い衣装の商人」のことを、ギリシャ語で「フェニケス」後にフェニキア人と呼ばれていました。
そのフェニキア人商人達は、大型構造船と大きな帆で地中海、アラビア海、そしてインド洋で活躍していましたが、紀元前四世紀にアレキサンダー大王の中東進出で、その活路が塞がれ、その「赤い衣装の商人達」はやがて歴史から消えてしまうのです。
中東から日本までの航海は、陸路のシルクロードよりも安全で短期間で到達可能でしょう。インド洋を海流とモンスーンと海表面に発生する吹送流を帆に受ければ、フィリッピンまではエンジンがなくても到達できます。更に、夏であれば、黒潮に乗れば、対馬海流により、朝鮮半島南端、又は、北九州にたどり着くことでしょう。それとは逆に南下するには、冬の北風を利用すればよいのです。
更に時代が下がり、紀元前二百十九年、総勢三千名の集団が船団を組み、中国大陸から桃源郷を目指すのです。それを先導したのが、秦の始皇帝から不老長寿の仙薬を求められた「徐福」です。徐福到来の伝説は、半島だけではなく日本全国にもあります。
日本へ到達した「赤」を民族カラーとする海洋民族「平氏」は、ペルシャ(西アジア全体を含む地域を平安時代はペルシャと言っていた。)の末裔だったのです。
ここで、「源平藤橘」の渡来民族ルーツが解明されたわけです。
日本民族とは、先住民族の縄文人をベースにした多民族国家だったのです。いや違う、日本は大和民族で単一民族だ、と言っても、その皇国史観は、第二次世界大戦中に発明されたものです。
では、虚構民族・単一大和民族を纏める「天皇」はどのような策略で発明されたのでしょうか。
その解明により、中国語で書かれた「日本書紀」を武器として藤原氏が「平・橘」を利用して、源氏の騎馬民族を「穢多」、「部落」の差別セットで、如何にして落とし込んだかを理解できるでしょう。
歴史は、医学が純粋な科学ではないのと同じように、科学ではありません。それは、不可思議なこころの問題が介在するからです。では、歴史書は何かと言えば、それは文学書とでも言えるでしょう。歴史という物語を書くということは、何かの目的があるからです。その目的のひとつは、こころの問題を解決するためです。
例えば、勝者の場合、以前の不都合な履歴を消し、自分がどれほど偉いか、そして、自分の祖先は如何に偉大であったかを述べることです。それに対して、敗者の場合、自分を落とし込んだ勝者の実態を暴き、今の自分の姿は仮であって、本当の姿は別にあり、祖先は高貴であった、と言うことを述べることです。
そこで、敗者の側から勝者の歴史書である日本書紀を眺めてみることにしましょう。
日本書紀によりますと、神武天皇は紀元前六百六十年に活躍したそうです。しかし、中国の史料によりますと、「倭国」は六百七十年を最後に姿を消し、替わって「日本国」は七百一年、はじめて唐に使いを遣わしたそうです。その倭国が消滅した六百七十年とは、天智天皇の即位第三年ということです。
と言うことは、日本国で最初の天皇とは、「天智天皇」か「天武天皇」かその御后の「持統天皇」か、はたまた天武天皇と持統天皇の孫の「文武天皇」のいづれかでなければ、中国の史料と辻褄が合わないでしょう。
更に、天皇家は万世一系であると言われていますが、壬申の乱(672年)後と明治維新(1868年)とで、天皇家の血脈が取り替わっているようです。つまり、天智天皇(海洋系)と天武天皇(騎馬系)は、日本書記で言うところの兄弟(日本書紀とは逆で天武天皇が年長)ではなく、そして、明治維新での「北朝系」睦仁天皇が明治天皇になったのではなく、「南朝系」大室寅之祐が明治天皇に変身した、と敗者の歴史では語られているようです。
では、そのようなトリックを考えたのは誰でしょうか。
そこで、「カゴメの歌」を思い出してください。鶴(騎馬系)と亀(海洋系)を戦わせ、その後ろで操るのは「カゴメ(ヘキサグラム・藤原氏の子孫は666。)」である「秦氏」でしたね。それでは、その「秦氏」とは何者かと言えば、それは「藤原氏」であるわけです。
ここまで来れば、闇の日本史の半分が解明できたも同然です。
ひとの思考系回路は、明日を生き残る為に、色々な虚構を考え出します。そのひとつに、「民族」という概念があります。
この民族の概念は、第一次世界大戦前年の千九百十三年(大正時代)に、日本で発明されたのです。 その定義は、ソ連のスターリンによる、「民族とは、言葉、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である。」からの借用です。しかし、その論文の題名は、「マルクス主義と国民問題」であり、その定義は、「国民(ナーツィヤ)」についてであるわけです。その国民主義のことを、「民族主義」と訳してしまったのが、この国での「民族」の概念の始まりと言うわけです。
日本人の潜在意識下には、五つの部族(源平藤橘+先住民)から構成された日本国のイメージがありますから、スターリンの論文を理解するのに、「国民」を構成する単位を更に分ける「民族」の訳語が必要であったのでしょう。
その「民族」を束ねるものは何かと言えば、そのひとつに「宗教」があります。
では、日本で天皇が発明された時代では、どのような種類の宗教があったのでしょうか。
学校での歴史授業では、その七世紀での重要項目に「大化の改新(645年)」があります。何故、その大化の改新が、日本の歴史で重要かといえば、その意味はふたつあります。ひとつは、天皇制の始まりを示すことと、藤原鎌足の登場です。しかし、闇の日本史では、それらのふたつは虚構となっています。
大化の改新では、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、蘇我入鹿を滅ぼすことになっておりますが、では、その蘇我氏とは、どのような部族であったのでしょうか。
教科書的には、蘇我氏は聖徳太子と共謀して、土着の豪族で反仏教派の物部氏(この国では古くから、「モノ」とは「神」の意味がある。)を滅ぼし、仏教を導入したことになっております。では、その「神道」を奉ずる物部氏を滅ぼした、仏教派の聖徳太子とは何者であったのでしょうか。
昔から、聖徳太子はキリストではないかと囁かれていました。その根拠に馬屋で生まれたからというものです。しかし、聖徳太子の影には、もうひとりの人物が見えるのです。それは「ダビデ」です。
蘇我氏と物部氏との闘いで、蘇我氏は何度攻撃しても、物部氏を攻め落とせません。そこで十三歳の聖徳太子が登場して、「いまもし我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王のために寺を起しましょうぞ。」と願掛けを行うことにより、その強大な物部守屋は自ら崩れてしまったと言うことです。
この物語は、旧約聖書の「サムエル記上」のダビデの少年時代の事績に似ています。サウルとイスラエルは、ペリシテびとに何度対峙しても敵いません。そこで、ペリシテの大男のゴリアテに、少年のダビデは挑み、ゴリアテを打ち負かしてしまうのです。
そこで不思議に思うのは、天智天皇が、神道派の物部氏を滅ぼし(日本書紀では蘇我氏と聖徳太子が滅ぼしたことになっているが、それは疑問です。)、仏教を導入したのなら、万世一系であるはずの現在の天皇家も「神道派」ではなく、「仏教派」でなくてはならないわけです。
そこで、西垣晴次著書「お伊勢まいり」の第一章「伊勢神宮、昔と今」を読むと、

明治天皇の神宮参拝を天皇として史上最初のことだというと、疑問をもつ人もいるかもしれない。一般に、伊勢神宮は皇室の氏神であり天皇家の祖神をまつる神社であると理解されている。だとすると、自分の家の氏神に一家・一族の主の地位にある天皇が明治二年まで全くその社前にぬかずいたことがないというのはおかしいのではないかという疑問である。
さらに、もう一つ注意すべきは、古代以来永年にわたって天皇の神宮参拝の事実がなかったのに、明治になってはじめて参拝があったのは、神宮と天皇、神宮と国家との関係が変化し、神宮自体の性格もそれまでとは変わったことを示すものにほかならない。

伊勢神宮に奉仕する王権の皇女、王女が斎王として送り込ませたのは、七世紀後半の天武天皇時代からです。しかし、後醍醐天皇の時代(1318年)以降は、その制度は廃絶されてしまい、再開されたのは、明治二年であったのです。
そこから推測すると、日本国最初の天皇である天智天皇は仏教派で、壬申の乱後の天武天皇は神道派で、それ以降の天皇は伊勢神宮へ参拝していないわけですから神道派ではないということは仏教派で、明治天皇は神道派であるということです。
それでは、伊勢神宮とはどのような闇の歴史があるのでしょうか。
伊勢は元々は、近江付近にあったものが、三世紀頃半島から侵入してきた部族に追いやられ、今の伊勢に五十余年の歳月をついやして辿り着いたようです。風土記の伊勢国号の由来によりますと、

そもそも伊勢の国は天日分命(あめのひわけのみこと)が平定した国である。天日分命は神武天皇が九州から東の国を征討された時、天皇に従って紀伊の国(和歌山)の熊野の村についた。その時、天日分に命令して「はるか天津の方に国がある。ただちにその国をたいらげよ」といわれて、将軍として標の剣を賜った。天日分は東に入ること数百里であった。その村に神があって名を伊勢津彦といった。その神が神武天皇に国を明渡すことを嫌がったので、天日分が殺そうとしたところ、神は恐れて「私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう」と誓い、東の方へ去っていった。

この物語は、穢多の弾左衛門が、鎌倉へ逃亡するストーリと似ています。つまり、都落ちです。三世紀での伊勢以北は、異界であったのです。十二世紀の鎌倉以北も異界であり、十七世紀の穢戸(江戸)以北も異界であったのです。
では、天武天皇は、何故異界の伊勢神宮を奉ったかといえば、それは、壬申の乱の時、その伊勢にいる異界の「鬼」達のバックアップを受けたからです。
ここまでくれば、「穢多」と「部落」の歴史背景が読み取れるでしょう。
藤原不比等は、天智天皇の娘である、天武天皇の后、「持統天皇」をコントロールして、天武天皇派の武将ら一族郎党を、仏教を利用して、「夷(海洋系)を持って、夷(騎馬系)を制す。」の戦略で、「穢多」に落とし込め、橋の無い中州に閉じ込め、そこを「部落」としたわけです。そこから、河原者→河衆→カッパとなるわけです。
「穢多」も「部落」も、その発生は平安時代まで遡るのです。そして、その差別も、現在も続いているのです。日本書紀の呪縛がある限り、この物語は永遠に続くでしょう。「ペンは剣より残酷です。」
お化けの正体を知ってしまえば、それほど怖くわないのと同様に、差別の根源を知ってしまえば、差別をされても卑屈になることも無いでしょう。なにしろ、「穢多」は、天武天皇の流れに居るわけですから。貴賎も善悪も、所詮ひとの思考系回路が、明日を生き残る為に、勝手に考え出した概念にすぎないのです。
江戸時代も残りわずかな時、浅草の穢多頭、第十参代弾左衛門宅へ、薩摩藩の使者が秘密裏に訪れるのです。「島津家も弾家も、古は秦族ぞ。家紋も同じぞ。つまり、同族ぞ。」と、倒幕を誘うのです。
島津氏の元は、藤原氏とも言われ、平安末期、九州の南端に京都から侵入してきた部族です。先住民を制圧し地盤を固め、琉球王国を支配し、江戸時代、鎖国の禁を破り、諸外国との密貿易を行っていました。諸外国との貿易で使用の船に、「日の丸」の旗を付けていました。日の丸は、古来よりいろいろな形で使用されていましたが、日本の印にすることを江戸幕府に提案したのは、島津家です。鎖国を進める幕府には、諸外国に対する日本国という意識はありませんでした。
江戸末期、諸外国船が開国を求め多数日本国に来るようになり、日本の船との識別が要求されていたのです。更に、東アジアの欧米列国による植民地化に危機を感じた幕府は、部族を超えて団結する必要を感じていたのです。
そこで、1854年(安政元年)、幕府は「日の丸」を我国の総船印にすることを決定したのです。
そこで思い出すのが、藤原氏の語源です。それから連想すれば、藤原氏→ブルボン→日の国→日本→日の丸→国旗となるわけです。
以上、述べてきた「穢多・秦氏・藤原氏」の物語は、学校で学習してきた歴史とは掛け離れているかもしれません。しかし、物事には、表と裏があるのです。その両方の物語を知ることにより、歴史が立体的に見えるのです。そのように見えることができれば、思考の視野が広がる為、ある目的を持っているひとの「策略」を見抜くことができるでしょう。
時代の流れは、昔も今も止まってはいません。しかし、ひとの思考回路のパターンは、昔も今もそれ程変化していません。と言うことは、昔のひとの行動を分析することにより、未来の時代の流れを予測できることが可能なわけです。つまり、「歴史は繰り返される。」のです。
さて、もし、平成の現在が、古の平安時代の流れを辿っているとしたら、その次の流れは、武士の時代になるわけです。つまり、バブルの時代を謳歌していた平成時代のサラリーマン貴族は、虐げられていた野武士にとって代わられるわけです。
では、平成時代の野武士とは、どのようなタイプのひと達で、どのようにして仕事を獲得していくのでしょうか。
そこで、次章で、未来の流れに乗って、生き抜くためのヒントを考えてみましょう。

第三章  温故知新  


   こころのなかに未来がある   


ひとが自立をするためには、経済的自立と精神的自立との、ふたつのハードルを越えなければならないことは、以前述べました。その方法としては、自分以外に頼る者が無い、と悟ることが、その基礎であるわけです。
しかし、人生ゲームでの道程で、何らかのトラブルに遭遇してしまった時、白隠禅師が、ノイローゼの結果、「救いを求める為、難解な仏典を理解しようと無駄な時間を使ってしまった。今悟った。自分自身が仏(解脱したひと)であったのだ。」と悟ったように、自分自身の中にそのトラブルの解決策があることを知らない為、多くのひとのなかには、他のひとや神仏に頼ろうとする傾向があるようです。
ひとが人生ゲームを進めて行く場合、そのゲームの概略を研究し、そのゲーム展開の予測をたてます。そして、その予測の基に、色々な戦略・戦術を企画し、人生ゲームを進めて行くわけですが、予測は、あくまで予測に過ぎないわけで、実際とは異なります。
そこで、その予測が狂ってしまい、人生ゲームが上手くいかない場合に遭遇してしまった時、そのひとの「智恵力」の差が現われて来るのです。
一般的に、ひとは、トラブルを回避或は解決する目的で、情報を集めるようです。しかし、その情報が、トラブルを回避又は解決をするわけではありません。それでは、何が回避或は解決するのかと言えば、それは、そのひとの思考回路です。
ですから、その思考回路に、あらゆるトラブルを回避或は解決するプログラムがインプットされていれば、あらゆるトラブルを他に頼ることなく自分自身で解決できるため、人生ゲームを楽しくできるわけです。
つまり、情報はあくまで情報に過ぎず、その情報を明日を生き残る為のものとするには、思考回路にあるプログラムの良し悪しが、未来への行動を決定してしまうのです。このことを、「二人の靴のセールスマン」の話で考えてみましょう。

ある靴のメーカーが、新製品の靴を販売するにあたって、靴販売の未開拓地アフリカを新市場として開拓する為、二人の優秀なセールスマンを派遣し、靴市場の実施調査をさせて、その調査結果の情報を基に、本社の新製品販売戦略会議において、報告させることにしました。
二人はアフリカで現地調査を一所懸命にし、あらゆる情報を集め、そして帰国し、その情報を基にレポートにまとめ、新製品販売戦略会議に臨みました。
その会議の議長である社長が、パイプをくゆらしながら、二人の報告を聞いています。
「社長、自分の考えでは、アフリカは新製品の靴の市場としては有望ではありません。何故ならば、アフリカでは誰も靴を履いていませんから。」、そう言い終わると、そのセールスマンは満足げに席に戻りました。社長は沈黙しています。
もうひとりのセールスマンが言います。「社長、私の考えではアフリカは新製品の靴の有望市場となります。何故ならば、アフリカでは誰も靴を履いていませんから。」
そのセールスマンが席に戻る時、社長を見ると、社長はパイプを片手に、笑みをうかべていました。

このアフリカのセールスマンの話は、色々なバージョンで広く語られています。この話の意味するところは、どのように正確に情報を集めて分析したとしても、その情報を未来の行動のために「思考」しなければ、それは「唯の情報」に過ぎないということです。
それでは、その「思考」とは、どのようなことで、そして、どのようなメカニズムで、ひとは「思考」するのでしょうか。
「思考」を広辞苑で引くと、「広義には人間の知的作用の総称。狭義には、感性の作用と区別して、概念・判断・推理の作用をいう。ある思想を惹起する心的過程。ある課題に対処する心的操作。」、との説明文があります。
いつも思うのですが、辞書の説明は分るようで、分らない。この広辞苑の「思考」の説明も、分るようで、分らない。
それでは、「思考」をもっと噛み砕いて「思考」すると、次のように説明できるかもしれません。それは、思考とは、あるイメージを情報源として、記憶の中から言葉を引き出し、それらを繋ぎ合わせて、ひとつの物語を創作すること。
この説明を先の物語で考えてみると、アフリカの二人のセールスマンは、同じ情報(アフリカでは誰も靴を履いていない。)を得ていたのに、記憶の中から言葉を引き出し、繋ぎ合わせ物語を創作すること(思考)において、全く反対の結論を導き出してしまったのです。このことは、どのように説明したらよいのでしょうか。
このことを簡単に説明すれば、ひとは外界の情報を在りのままに認識することができない、ということです。さらに、ひとは外界をこころの中に記憶された世界で認識してしまう、ということです。
ですから、上向思考のひととは、なんでも自分に都合良くできている世界のイメージ情報をこころに持っているひとで、それとは反対に下降思考のひととは、「何をやってもダメなんだ。」のイメージ情報をこころの中に刷り込まれてしまっているひと、であるわけです。
いやそんなことはない、ひとは正確に、客観的に外界を認識している、と信じているひとも多くいることでしょう。しかし、そうではないことは、伝言ゲームをしたことがあるひとには理解できるでしょう。
そのゲームの概略は、数十人のひとたちを並べて、最初のひとにある情報を流すのです。そして、最後のひとが受け取った情報と、最初の情報とを比べて、その食い違いを知ることにより楽しむゲームです。
もしも、ひとは、受けた情報を正確に理解し、その情報を在りのままに他のひとに伝えることが出来るのならば、この「伝言ゲーム」などの遊びは流行らないでしょう。
では、ひとの思考のメカニズムはどのようになっているのでしょうか。
思考は、記憶している情報を基に行われるとするならば、その記憶を導き出すメカニズムとはどのようになっているのでしょうか。
ブリストル大学のアラン・バットリー教授の説によれば、「記憶」と「思考」とには厳密な境界線がないことが明らかになったようです。記憶と思考を処理することを、「作動記憶」の概念で説明すると、そのメカニズムは、三つの回路に分かれているようです。
それらは、異なる情報を統合し、整理し、古い記憶を取り出し、他のふたつの回路からの情報を統合する「中央実行部」と、画像を保持している「空間視覚スケッチブック」と、音響情報、発話情報を保持している「音韻ループ」とです。それらの三つの回路が働くことにより、「思考」が行われる、と考えているわけです。
この思考系回路が、外界の情報を刺激として、今まで保持していた映像情報や言語情報を、その都度組み合わせることにより、新しい物語を創作するわけです。このことを、一般では「思考」と言っているわけです。ですから、記憶も思考もその都度創作されるため、その物語は一定していないということです。つまり、記憶も思考も普遍ではないのです。
それでは、その物語のストーリ創作は、「誰が」行うのでしょうか。
そこで登場するのが、「我思う故に我在り」の「自我」です。この自我は、「私は知らないことを知っている」、と認識するほどの得体の知れないものです。
自我は、思考には必要なものです。その自我と切っても切れないものが「意識」です。つまり、自我(私)は、意識することにおいて、「思考」するわけです。
では、意識とは何なのでしょうか。
この意識も広辞苑で引くと、今していることが自分で分っている状態。われわれの知識・感情・意志のあらゆる働きを含み、それらの根底にあるもの、とあります。
意識は、自分と他との区別が前提で、明日を生き残る為に、客観的世界を認識し、情報を集め未来を予測し、その目標に向けて戦略・戦術を練り、状況を判断し決定を下し、価値観の評価を行う役割を「演じて」いるようです。つまり、意識とは、自覚・知覚・自意識・注意・内省を含む精神活動であるわけです。
それでは、意識は何処にあるかと言えば、それは、大脳皮質の前頭葉に位置しているようです。
では、意識がそのように問題解決の為の精神活動を行うことができるのであれば、人生ゲームでのトラブルなど簡単に解決することが出来ると思うでしょう。しかし、前頭葉で活躍する意識も、神経伝達物質であるドーパミンやセロトニン、アドレナリンなどの超微量化学物質の分泌が、何らかの原因で少しでも乱れたとしたら、物事の感じ方や考え方、或は行動の決定に著しい影響を受けてしまうのです。
では、そのような神経伝達物資をコントロールしているのは「誰」なのでしょうか。それは、どうも、今を生きるための情動系回路であるようです。この情動系回路は、大脳辺縁系と言われているもので、感情面の結びつきを作る上で重要な役割をはたしているものです。ですから、感情がハイの状態の時は、神経伝達物質の放出も盛んであるわけです。その逆、神経伝達物質が何らかの原因で枯渇することにより、感情が沈むこともあるわけです。
であるならば、意識の活動を盛んにするには、感情をハイの状態にすれば良いのではないかと考えるでしょう。しかし、ことはそう簡単ではないようです。
と言うのは、思考系回路と情動系回路を同時に作動できないように、ひとは創られているようです。ひとは、熱狂するライブ会場では「思考」することは困難です。又、数学の難問を思考しながら劇の物語に感情移入をするのは困難です。
そこで、意識が、今を生きるための情動系回路に左右されることを少しでも回避することを、大脳は考え出します。それが、意志です。
意志は、意識上で思考した物語の固定化を図ります。しかし、思考系回路は、所詮、情動系回路が長い時間を掛けて創り出したものです。ですから、思考系回路と情動系回路とが拮抗した場合、意志は感情に負けてしまうのです。つまり、男の固い意志も、女の涙一粒で揺らいでしまうのです。
そこで、思考は、意志に自由の文字を更に加え、「自由意志」の概念を発明するのです。その自由意志の力により、ひとは、自分中心に自由に思考することであらゆる問題を解決できると錯覚してしまうのです。しかし、ひとを意識上で自由意志の力でコントロールすることが出来ると考えるのは、思考系回路が創造した幻想です。
ひとの行動は、子孫を残す為に、機械的な仕組みにより制御されているようです。しかし、それでは大脳を発達させたため、その仕組みを「私に悟られる」ことにより「私」が幻滅を感じてしまわないように、明日を生き残る為の夢物語を無限に創作するための「思考力」を、思考系回路が発明したのかもしれません。
思考は、感情に勝つことはできません。このことは、トラブルを回避又は解決するためには、知っておかなければ成らないことです。
ですから、意志と感情が拮抗してしまった場合、意志の力で感情を押さえ込むのではなく、感情は長時間持続することができませんから、ただ静まることを待つことです。そして、感情が静まったと思われる時、意志の力を使い思考することです。それが、トラブルを回避又は解決するためのヒントです。つまり、感情は、決して思考ではコントロールできないのです。
それでは、何が解決するかと言えば、それは「智恵力」です。そして、それは、誰のこころの中にあるものです。
さて、人生ゲームが上手くいっていないひとは、どのようにすれば、上手くいくのでしょうか。
上手くいかないひととは、思考回路に問題があるわけですから、その思考回路に家庭や学校で刷り込まれた不都合な情報を、今までとは全く異なる人生に前向きになる情報に入れ替えれば良いのです。
では、どのようにすればよいのでしょうか。

旅の導師は、次の街に行くために山を二つ越えなければ成りませんでした。お天道様が頭上にあります。ひとつの山を越えたところで小さな集落が目に入ってきました。のどが渇いたので、集落を目指して歩いて行くと、小さな畑を耕しているじい様が、導師に声を掛けました。
「旅の人よ、一服なさらんかい。」じい様は、滅多に他国のひとに会うこともないため、この部落を通るひとに声をかけ、街の話を聞くことを楽しみにしているのです。
「街の様子はどのようじゃ。」
「みなは不景気と言っていたが。」
「この間の旅の人は、街は景気がよいと言っていたがの。景気とはころころ変わるものかな。わしゃ学問がないからわからんよ。」
導師は、粗末な湯のみを飲み干して、「この部落は住み易いか。」と聞きました。
「食う為のものは贅沢をしなければある。夜露をしのぐあばら家もある。景気に左右されんからここは天国じゃ。」
「この部落は見受けたところ楽しみが何にも無いようにみえるが、じい様は未来にたいして何か希望をもっておるんか。」
「わしゃ、未来にたいして希望なんか何んももってねえ。今を生きるだけじゃ。」
「それでは、将来に不安や恐怖を感じないのか。」
「不安、恐怖。そんなもん、わしにゃ関係ねえ。今を生きるだけじゃ。」
「ふむ。」
「希望も恐怖もわしゃ関係ねえ、だからわしゃ自由なのじゃ。」、そう言って、カラカラ笑った口に歯が二本ありました。

人生が上手くいかないとは、どのようなことなのでしょう。好きなことが出来ないから、あるいは欲しい物が手に入らないからなのでしょうか。
それでは、それは何が原因なのでしょう。社会が悪いから、あるいは回りの人達が悪いからなのでしょうか。
人生を楽しんでいないひと達に共通していることがあります。そのひとつが、愚痴です。 その愚痴とは、「こんな私に誰がした。」と言うことです。
昔の偉い人が、「人生とは、そのひとが思っていることそのものである。」と言ったように、今の自分の人生の原因は、そのひと自身の考え方にあるのです。
では、人生が上手くいっていないひとの考え方を改めれば、人生は変わるのでしょうか。それは、変わります。
しかし、その考え方を変えるには、「記憶」を変えなければなりません。なぜならば、考え方の全ての材料は、その記憶だからです。
ひとの記憶は、自己の生命を護ることを第一にしているため、身に危険を及ぼした情報を、楽しみ情報より、強く保持します。そのための特別の記憶装置を脳は自ら創り出しました。それは大脳辺縁系にある扁桃体と呼ばれるものです。ここには無意識に深く傷ついた記憶が、この世に生を受けた時期より保持されています。
ひとが過去を思い出せるのは、大体二三歳までであるようです。それは、大脳の記憶を保持する脳細胞同士の配線が完成するのが、その年令だからのようです。
しかし、扁桃体は、それ以前の自己を傷つけた記憶を保持しているようです。それは、身に危険を及ぼした情報を保持することにより、来るべき危機に備えるためです。それは、危険が渦巻く太古の時代には必要な情報器官だったのでしょう。
乳幼児の最大の危機は、母親に「見捨てられる」ことです。乳幼児は、母親が少しの間でも居ない気配を感じると泣き叫びます。目の機能が作動するようになると母親を目で追います。やがて言葉を理解するようになると、母親の言うことを聞かなくなります。その時の母親の子供をコントロールする時に発する言葉が、子供のこころを深く傷つけます。その言葉のひとつとして、「お前なんか私の子供ではない。橋の袂から拾ってきたのだ。」と言うことです。この一言で、子供はすぐに泣き止むのです。それは、「見捨てる」意味を含んでいるからです。その言葉を聞いた時、扁桃体の見捨てられ記憶が蘇り、言葉と感情が複合し、子供に強い衝撃(パニック)を与えるわけです。
この言葉は、母親は無意識で言う傾向があるようですが、その母親も昔子供の頃自分の母から言われているはずです。
そのような家庭で養育された子供(悪い星の下に生まれたひと)は、母親に見捨てられまいと、本来の自由でありたいこころを懸命にコントロールして、偽りの自分を演技して行動するようになるのです。偽りを演技できなくなると、反抗するのです。それは大体思春期(自立準備期)と呼ばれる年令です。しかし、良い子を演じ続けて、反抗期(自立期)を経ない場合、その「見捨てられ」感が、人生を楽しくさせない原因のひとつとなってしまうのです。 人生ゲームの基本は、人間関係です。しかし、「見捨てられ」感をこころの奥深くに保持しているひとは、在りのままの自分を表現できないため、人間関係に疲れやすくなるため、引き篭もり傾向になるようです。
引き篭もり傾向のひとは、自分が母親に「見捨てられた」と意識下で記憶していることにより、自分自身も「見捨てて」しまう傾向があるようです。
自分を見捨ててしまったひとが、人間関係を上手くできるはずはありません。つまり、人生ゲームが上手くできないのは、「自分が自分を見捨てている」ことも原因のひとつなのです。
このジレンマから脱却するには、どのような方法があるのでしょうか。
それには、まず、「ゆるす」ことです。何をゆるすかと言えば、それは、見捨てたひとであり、そして自分自身を見捨てたことです。
「ゆるす」ことは、「にくむ」ことに比べて、エネルギーの向きが正反対です。つまり、「ゆるす」ことは、エネルギーを充電することになるのです。
引き篭もりとは、ガス欠のエネルギー欠乏状態ですから、そのような状態でさらに「にくむ」ことを行えば、こころがやがて破壊するのは当然なことです。ですから、「にくむ」のではなく、「ゆるす」のです。
そして次に行うことは、記憶を変えることです。しかし、記憶には二種類あることを知らなければならないでしょう。
記憶には、無意識に傷ついた情報としての記憶(扁桃体)と遺伝子によって記号化された本能としての記憶(尾状核)があります。そして、意識下に大脳皮質の脳細胞に焼き付けられた情報を基に創られた記憶があります。
前者の記憶を変えることは出来ないようですが、後者の記憶は変えることは可能です。このことは、記憶と思考との境界線を決めることが難しいことが理解できれば、その説明も必要ないでしょう。
意識下にある記憶も思考も、大脳皮質に刷り込まれた情報を材料に創造されたものだからです。つまり、それらの情報は「学習させられた」ものだからです。
刷り込みのメカニズムは、感覚器から入力された情報は、一時「海馬」に保管され、脳が眠っている時、海馬からそれぞれの大脳皮質に焼き付きを行うのです。これが、夜見る「夢」の正体です。
記憶を長期保存するには、焼き付き期間は三年かかるそうです。
昔の人が、何かを達成するために、「石の上にも三年」と言ってたのはこのことなのです。信念を、こころに刻むには、三年の歳月が必要なのです。そして、こころに刻まれた信念は、やがて実際の行動となって現われるのです。
さて、「思考は思考により変えられる」わけですから、「記憶は記憶により変えられる」ことができるわけです。
記憶を変えるには、その前に以前の記憶の初期化が必要です。その初期化は、精神的ショックにより簡単にできます。つまり、人生の最大のピンチ時が、新しい記憶を創るスタートになるわけです。「ピンチはチャンスだ。」の意味はここにあるのです。
人生が何もかも嫌になってしまった時、「こんな私に誰がした。」と「うらむ」のではなく、「こんな私にしたひと」を「ゆるす」ことです。
「笑う」ことが体の免疫力を高めることは本当です。そして、「ゆるす」ことは、こころの免疫力を高めるのです。
そのように「ゆるす」気持ちを持って、目指す方向の情報を「三年」を目処にこころに刷り込むことです。
何を刷り込むかで人生はかわります。何故ならば、人生とはそのひとが考えたそのものだからです。
未来は、他のひとから与えられるものではなく、自分で切り拓くものです。そして、その未来の種は、こころの中にあるのです。
そこで、次に未来の種とは何かを考えてみましょう。

   隣り百姓の智恵   


ひとは、誰にコントロールされているのでしょう。こう問い掛けると、「自分の意志」に決まっている、と答えるひとが多くいることでしょう。
では、もし、その「自分の意志」により日々の考えや行動をコントロールできるのであれば、「強迫性障害」などの「止めたいのに、止められない、思考や行動」で、ひとのこころを長期間苦しめる現象などは存在しないはずです。しかし、この強迫性障害に悩むひとは、現実に百人に三人の割合で存在しているようです。
そこから考えると、どうも、ひとは、自分の思考や行動は「自分の意志」でコントロールできると言う幻想を、誰かによりもたされているように感じられるのです。
昔からこのこころの問題の解決を求めるため、自分を影でコントロールしているモノを、宗教では「神仏」、神秘主義では「霊」、心理学では「潜在意識」、そして、昔のひとは「知恵」と言っているようです。
その呼び方は色々でも、そのモノ達の「こころの問題解決方法」は皆同じであるようです。それらは、ひとの意識下に働きかけ、ひとの思考や行動に多大の影響力を与えることです。
一般的な常識では、ひとは自由に思考ができ、自由に行動できると信じられています。しかし、このことは本当なのでしょうか。
もしそうだとしたら、こころの問題など存在しないため、宗教家も神秘学者そして心理学者も皆失業してしまうことでしょう。しかし、それらをカンバンのビジネスは廃れることもなく、益々繁盛しているのが現状です。
こころの問題のビジネスには、主に、「偉大な力」の仲介者がいるようです。、神仏には宗教家(牧師)、霊には神秘主義者(霊能力者)そして潜在意識には臨床心理士(精神科医)などが仲介者となっているようです。
しかし、「偉大な力」のひとつである「智恵力」には、その仲介者は存在していません。それに、「智恵力」は、ある集団に入会(入院)しなくても、その影響力を発揮できるのです。つまり、「智恵力」は、こころの問題を持ったひとと、その「智恵力」とは、仲介者を必要とせず、直接コンタクトできるのです。それに、「智恵力」は誰に教えられることもなく、誰のこころにも潜在しているのです。だから、「智恵力」について、有力ビジネス組織が存在できないのかもしれません。
「バアチャンの智恵」と、理論的思考をする知識人から揶揄されている「智恵力」は、問題解決の有力な武器のひとつなのです。では、その「智恵力」とは何で、どのようにすればその影響力を享受できるのでしょうか。

旅の導師は、旅を続けています。
村々を通り過ぎる度に、その村の暮らし易さを尋ねているうちに、あることに気付いたのです。それは、それぞれの裕福さは、畑の広さや立地の良し悪しではないということです。
ある村では、広い立地の良い畑があるのに、村人の暮らし向きも人情もあまり良くありません。それに対して、この村では、山間の狭い畑しかないのに、村人達の暮らし向きも人情も良いのです。そこで、導師は、質素ではあるが風格のある小さな農家を尋ねてみました。
「この村は、隣村と比べて畑が少ないし狭いが、隣村と比べて暮らし向きが良いと感じられるが、何か農業以外の産業があるのかな。」
「いいえ、畑の収穫だけです。」村の若者が答えます。
「では、特別な農法でも開発しているのかな。」
「いいえ。ただ隣の源平さんの真似をしているだけです。」
「それは、どういうことかな。」
「隣の源平さんが、天気の良い日に朝早く畑に出たら、わしも畑に行きます。そして、雨の日、鎌を研いでいたら、わしも研ぎます。わしは、源平さんを尊敬しておるので、源平さんの真似をして暮らしておるのです。」
そこで、導師はその裕福村を一軒一軒訪ね歩き、最後に源平さんの家を訪ねました。
そして、導師は例の質問をしました。それに対して、源平さんは言いました。
「何も特別なことはしていねえだ。隣の伝平さんの真似をしているだけさ。」

ひとは、ひとに教えられなければ「言葉」を話せません。それと同様に「仕事の仕方」も、ひとに教わらなければ出来ません。
しかし、ひとの思考や行動は、自由意志の力でコントロール出来るとの幻想を持っているひとは、自分中心の解決策で、問題を解決しようとする傾向があるようです。
そのような方法で、問題が解決できれば、結構なことです。しかし、そうではない場合、自分に内在している「智恵力」に頼るのではなく、こころの問題解決専門家を尋ね、すがる傾向があるようです。
それらの専門家の存在を否定はしませんが、それらのひとたちは、問題解決のキッカケを与えてくれるひとたちです。実際は「問題を解決するのは自分自身」であるのです。そこのところを理解していないと、長期間こころの専門家に指導されたとしても、精神的な自立は難しいかもしれません。
つまり、自立とは、自分以外に、他に頼る者が居ない、と悟ることから始まるからです。
しかし、だからといって、他のひとたちの「言葉」に耳を塞げと言っているのではないのです。それらは、アドバイスとして受け入れればよいのです。
ひとの特徴のひとつは、「真似」をすることができる、ということです。その特徴をビジネスに取り入れたのが「宣伝・広告」です。
広告の基本は、クライアントの物やサービスを、テレビや雑誌などの宣伝媒体により幻想世界を創造し、その世界を潜在顧客に刷り込みモデルの真似をさせることで、購買力を喚起させることです。莫大な資本を投下して宣伝・広告をすることができるのは、「ひとは真似をする」ことをクライアントが充分理解しているからです。
それらの宣伝・広告に影響されない「自由のひと」の数は、それほど多くはないでしょう。だから、広告代理店は何時の時代でも廃れないのです。
ひとは、人真似をする傾向があります。その傾向を否定するのではなく、その特徴を利用することは、ひとつの「智恵」です。
そこで、今の暮し向きが良くないのであれば、「隣の源平さん」を探すことは、その問題解決方法のひとつかもしれません。
人生ゲームを優位に進めるには、尊敬できる人の生き方を真似ることは、ひとつの方法ですが、しかし、その目標とする人物の生き方を真似たとしても、環境や時代背景が異なります。そこで、人生ゲームの基本ルールを復習することが必要かもしれません。
何故ならば、その基本ルールを知ることにより、喩え環境や時代背景が異なるとしても、臨機応変に対処できることにより充分ゲームを楽しめるからです。
人生ゲームの基本ルールは四つあります。

1.「ひとは永遠に生きられない。」
ひとの寿命を八十年とすれば、29.200日しかゲーム時間はないということです。四十歳とすれば、ゲーム時間は14.600日です。悩んでいる暇もないでしょう。
2.「ひとは過去には戻れない。」
過去を反省するにしても、その経験を明日を生き残るためのものとしなければ、ゲーム時間のロスとなります。たとえゲームで失敗したとしても、「ああすれば良かった。」と立ち止まらずに、「今度はこうしょう。」と前向きに考えましょう。
3.「このゲームはひとりで行うものである。」
人生ゲームは、孤独なゲームです。たとえ一時的に複数人で行っていても、時が来れば、またひとりでゲームを続け、ひとりでゴールを目指して行くのです。ですから、ゲームの途中で気の合う仲間と出会ったら、その時を大切にしましょう。一期一会。
4.「ゲームには、ひとにはコントロールできないサイクルがある。」
草花の春夏秋冬のサイクルと同じように、ゲームにも発芽期、成長期、収穫期、衰退期のサイクルがあります。ですから、今自分がどこの時期に居るのかを知ることにより、将来の不安が解消できるでしょう。その各時期は、三年ごとで移行しているようです。つまり、人生ゲームは、12年をひとつのサイクルとしているわけです。
喩え今が衰退期(リストラ中)だとしても、次に来るのは発芽期であるわけです。ですから、衰退期にいるひとは、次の発芽期を目指しての種まきの時期にいるわけです。

以上のような人生ゲームの基本ルールを復習しましたら、次は「隣の源平さん」を探しに行きましょう。

   無一文から身を起した二宮尊徳   


人生ゲームを楽しめるひとと、そうでないひととは、何が原因なのでしょう。それは、プロローグで述べたように、「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」ことと、「悪い星の下に生まれた」こともその原因のひとつでしょう。その喩えは、自立した両親のもとに生まれたか、そうでないかの違いです。そして、その自立には、精神的と経済的とを含んでいます。
この世に、精神的と経済的に自立しているひとたちは、それ程多くはいないでしょう。何故ならば、一般的に、多くのひとたちは、ものごとを対立する二元論的に考えてしまう傾向があるからです。

ある高校で、倫理の時間に、先生が生徒達に質問をしました。
「君達、世の中を暮らしていくのに、太ったブタか痩せたソクラテスかどちらを選ぶかね。」
「太ったブタとか、痩せたソクラテスとかってどんな意味なんですか。」問題児とされている生徒が聞きました。
「いい質問だ。太ったブタとは、お金儲けしか頭にないひとのことで、痩せたソクラテスとは、赤貧ではあるが志の高いひとのことだ。」
そう説明して、質問した生徒に、先生が問いました。
「君は、どちらを選ぶかね。」
生徒は、暫く考え、答えました。
「太ったソクラテスです。」

この世で、「太ったブタ」や「痩せたソクラテス」を探すことは、それ程難しくはないでしょう。しかし、「太ったソクラテス」を探すには困難を生じることでしょう。それは、家庭や学校で、ものごとを、対立する方向で考えるように学習させられてきているからでしょう。
その対立する考えとは、宗教では「天国と地獄」、政治では「主流(右派)と反主流(左派)」、経済では「資本主義と共産主義(社会主義)」、そして心理学では「右脳と左脳」等などです。
そのように対立するように物事を二分して考えさせることは、支配する側から好都合なわけです。
例えば、宗教で迷える人達を自分の組織に組み入れるには、自分側を「天国」にして、その他の組織を「地獄」に二分して、どちらを選ぶかを純真なひとに迫れば、大部分のひとたちは「天国」を選ぶことでしょう。
しかし、それらの対立は、見かけ上のもので、実際はものごとの裏表で、立場を換えてみれば、表(天国)は裏(地獄)になり、その反対に、裏(地獄)は表(天国)になるのです。
でも、そのように、ものごとを相対的に(相手側に立って)見ることができるひとは、それ程多くはないでしょう。ですから、現在の世界も、ゾロアスター教世界のままで、「光(善)と闇(悪)の永遠の闘い」を繰り広げているわけです。
ものごとは、表だけ、或は裏だけでは存在できません。表と裏が合わさって初めて完結するのです。
生き方もそうです。お金儲けだけ、或は真理追究だけでは、人生ゲームを上手に続けることは困難でしょう。
そこで、「隣の源平さん」を探す条件としては、「太ったブタ」や「痩せたソクラテス」ではなく、「太ったソクラテス」の精神的と経済的に自立しているひとになるわけです。その条件に合うひとの一人として、「二宮尊徳」がいます。
二宮尊徳のことを知っているひとは、団塊の世代までかもしれません。それは、太平洋戦争後、アメリカ占領軍が、敗戦国日本の教育に介入し、その思想を教育(刷り込み)することを禁止したからです。
思想は、強力な武器のひとつです。
つまり、その思想を実践することにより自立することができたひとに、アメリカ式民主主義(新聞・テレビ・映画がコントロールする幻想的世界観。善悪の二元論により分割して統治する戦術。600万人が二億五千万人を統治する戦術。)を刷り込むには困難が生じるからです。(明治新政府から敗戦まで、富国強兵を目的に、その思想を曲解して国民に刷り込みを行っていたことも原因のひとつです。)
思想を広める方法として、二つあります。それらは、「雀の学校方式」と「めだかの学校方式」とです。
「雀の学校方式」とは、偉い先生がいて、「むちをふりふりちいぱっぱ」と強制的に刷り込むことです。
「めだかの学校方式」とは、偉い先生はいません。「誰が生徒か先生か、みんなでお遊戯している」ようにして刷り込みをおこなうことです。
二宮尊徳の思想も、本人が「雀の学校」で広めたわけではありません。それは、「めだかの学校」で広まって行ったのです。
二宮尊徳の生き方や仕事の仕方は、誰にでも真似をすることができることではないし、時代背景も異なりますので、「隣の源平さん」とするには不都合なように思えますが、よくよくその思想を研究してみると、時代を超え、現代にも通じる何かがあるようです。

二宮尊徳は、1787年(天明七年)7月23日、小田原の栢山村に生まれました。祖父の銀右衛門の蓄財による財産も、彼が四歳の頃には、父利右衛門の財産管理運営能力のなさと、天災のため、一つ一つなくなっていき、裕福だった農家は貧乏になっていました。十三歳の時、他家の子守のお礼の二百文で松苗を二百本買い、それを酒匂川の堤防に植えたことは、もうその頃から投資についての才覚があったことを示していました。十四歳の時に父が、十六歳の時には母が他界し、二人の弟の四歳の富次郎と十三歳の友吉は、母の実家に、そして、十六歳の尊徳は、伯父萬平衛の家へ身を寄せ、そこで十八歳まで過ごしました。伯父は根っからの百姓で、六歳から七歳ころに始まった尊徳の読書ぐせは、伯父の叱るところとなりました。尊徳の読書は、乱読ではなく、書物に対して一定の基準を持っていたようです。

兎も角も、人世には益なき書は見るべからず。自他に益なき事は為すべからず。光陰は矢の如し、人生は六十年といへども、幼老の時あり、疾病あり、事故あり、事を為すの日は至って少なければ、無用の事はなすなかれ。(「二宮翁夜話」、以後引用)

尊徳の考えでは、人生には限りがあり、その人生も六十年としても、色々な出来事にであうことにより、実際のゲーム時間はそれ程あるわけではないので、自分のためにならない書物は見ない方が良いし、無駄なことをすることはない、と言う事です。
ためになるかならないかは、そのひとの生き方によりますから、これはダメあれはダメと指摘はできませんが、「他人に誇る為だけの読書や事を行うこと」は、無駄なことと言えるかもしれません。
それでは、尊徳はどのような書物を読んでいたのかと言えば、それらは、「仮名頭」、「実語敬」、「大学」そして「論語」などです。そのような書物を夜中に油の灯の下で読んでいるところを、伯父に叱られたことから、夜、気兼ねなく読書ができるように、菜種油の収穫を思い立ち、友人から菜種五勺を借り、それを堤の廃地に蒔き(税金が掛からない。)、それが翌年には、七升以上の収穫となりました。このように小さなことから、大きなことになることを尊徳は、次のように言っています。

翁曰、大事をなさんと欲せば、小さな事を、怠らず勤むべし、小積もりて大となればなり。凡小人の常、大なる事を欲して、小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて、出来易き事を勤めず。夫故、終に大なる事をなす事あたわず。夫大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり。

尊徳は、菜種の収穫の経験から、小さなことでも、事を行えば、大きくなる事を学んだだけではなく、もう一つの事も学んだようです。それは、封建制度における節税のことです。つまり、廃田や廃地、それに川の堤などからの収穫は、貢租の対象外であったわけです。
その後、尊徳は捨苗を拾い集め、それらを廃田の水溜めに植えておくと、その秋に、それは一俵の収穫となり、いよいよ自分の仕事の仕方を固めて行きました。
十九歳の時には、荒地を拓いて二十俵の米を収穫しました。当時の税制における六公四民、あるいは七公三民において、青年一人で実質二十俵を自己の所得とすることは、正当に働いただけでは到底考えられないことですが、尊徳は税制の盲点を突く「智恵」を働かせ、正当な節税をして、二十俵のうちから税として一俵も納めませんでした。
そのような仕方で働き、二十歳の時、生まれた屋敷に帰って独立の生計を営むようになっていました。もうその時には、尊徳は、他家の仕事をすることで冨貴への道を歩めると考えていたようです。
二十二歳から二十三歳まで、小田原の武家の屋敷に奉公に出て、そのかたわら薪を山から採ってきては小田原の町に売りに出たり、米穀を城下町に売り込みながら、その一方武家へ出入りも忘れませんでした。つまり、武家との人脈づくりです。
そのころの尊徳は、自分は一文の税金もかからない仕事をして、税金がかかる仕事は他人にまかせていました。例えば、薪売り、米穀売り、奉公人としての収入には、貢租の対象外の仕事であったわけです。
節税は合法です。プロカメラマンを目指すひとも、現在の税制を研究しておく必要があるでしょう。
二十六歳の時には、学問をするために、小田原藩の家老、服部十郎兵衛の若党となり、そこで奉公のかたわら、学問をし、さらに家人達に小金貸しをしていたようです。もうそのころには、人脈の流れ、お金の流れを知っていたようです。
二十九歳の時、奉公をやめ、自宅に帰り、三十一歳の時、妻を娶りました。晩婚の尊徳には、尊徳なりの結婚観があったようです。

其村に貧人の若者あり。困窮甚しとしへ共、心掛宣し。曰、我貧窮は宿世の因なるべし、是余儀なき事なり。何卒して、田禄を復古し、老父母を安ぜんと云て、昼夜農事を勉強せり。或人両親の意なりとて、嫁を迎ん事を勧む。某曰、予至愚且無能無芸、金を得る方を知らず、只農業を勉強するのみ。かさねて考えるに、只妻を持つ事を遅くするの外、他に良策無しと決定せりと云いて、固辞す。翁是を聞て曰、善哉其志や。事を為さんと欲す者は勿論、一芸に志す者といへ共、是を良策とすべし、如何となれば人の生涯は限りあり、年月は延す可ならず。然ば妻を持を遅くするの外、益を得る策はあらざるべし。誠に善き志なり。

人生ゲームでの分岐点は、大きく分けて三つあるでしょう。それらは、この世に生まれて来たことと、ゴールまでの道程でのパートナー選びと、そしてあの世への旅立ちです。
人生ゲームの出発点の「誕生」とゲーム終了の「死」とは、ひとの意志でコントロールすることはできません。それらの時期は、「偉大な力」にコントロールされているわけです。
しかし、パートナー選びは、自由意志の力を多少なり(ひとの行動の大部分は無意識によりコントロールされているが、意志は己が主役と信じ込んでいる。)とも参加させることができます。
そのパートナーとは、学生時代の友達、会社での先輩後輩、事業での協力者などが考えられますが、人生ゲームでの最も重要なパートナーは配偶者でしょう。
その配偶者選びにより、人生ゲームの進展が左右されると言っても過言ではないでしょう。あるひとは、結婚によりゲーム展開が良い方向に進展するかもしれないし、又、あるひとは暗転するかもしれません。それほど配偶者選びは人生ゲームでは重要なのです。ですから、適齢期の強迫概念により行動するのではなく、配偶者選びに自信のない時は、無理に結婚することもないでしょう。
尊徳も、仕事に没頭するあまり家庭を顧みず、初婚の女房キノに離婚され実家に帰られてしまっているのです。
そこで尊徳は、妻を養うほどの収入の無い者は、収入が得られるまで独身でいることは良い仕方であり、又、目標を持つ者や一芸に秀でようとする者にも良い仕方である、と考えていたわけです。つまり、人生には限りがあるから、金銭的あるいは精神的に女房を養うほどの余裕の無い者は、余裕ができるまで結婚を遅くすることは、目標に早く到達する仕方である、と考えていたわけです。
尊徳三十一歳の時、服部家の整理を依頼されました。それは、薪売りや米売りなどしながら武家への人脈作りの結果です。
尊徳の考えからすれば、貧富の判断基準は、その収入の多少だけによるのではなく、その収入に対する支出の仕方を基準に考えていたようです。

翁又曰、世人口には、貧富驕倹を唱ふるといへども、何を貧と云ひ何を富と云ひ、何を驕と云ひ何を倹と云ふ、理を詳にせず。天下固より大も限りなし小も限りなし。十石を貧と云へば、無禄の裳のり、十石を富といへば百石のものもあり、百石を貧といへば五十石の者あり、百石を富といへば千石万石あり。千石を大と思へば世人小旗本といふ、万石を大と思へば世人小大名といふ。然らば、なに認て貧富大小を論ぜん。譬ば売買の如し、物と価とを較べてこそ、下値高値を論ずべけれ。物のみにして高下を言べからず、価のみにて又高下を論ずべからざるが如し。是世人の惑ふ処なれば、今是を詳に云べし。曰く千石の村戸数一百、一戸十石に当る。是自然の数也。是を貧にあらず冨にあらず。大にあらず小にあらず、不偏不イ(もたれかかる)の中と云ふべし。此中を越るを富と云。此十石の家九石にて経営むを是を倹といふ。十一石にて暮すを是を驕奢と云。故に予常に曰く中は増減の源、大小両名の生ずる処なりと。されば貧富し一村一村の石高平均度を以って定め、驕倹は一己一己の分限を以って論ずべし。其分限にて依ては、朝夕膏梁に飽き錦繍を纏ふも、玉堂に起臥するも奢にあらず。分限に依ては米飯も奢也、茶も煙草も奢也。みだりに驕倹を論ずる事なかれ。

尊徳の考えからすれば、貧富の基準は、収入と支出との相対関係にあるので、むやみに貧と冨とを区別することはできない、強いて言えば、収入が十ある人が、十一の支出で生計を立てれば貧への道を歩き、それとは別に、九で生計を立てれば富の道を歩いていける、と言うことです。
例えば、月に九十万円を支出したとしても、収入が百万円あれば、それは贅沢をしているわけではなく、それにたいして、たとえ月に十万円で暮らしを立てていても、その月の収入が九万円しかない人は贅沢をしていることになるわけです。
つまり、収入以上で生活することは贅沢で、それにたいして、収入以下で生活することは堅実であるわけです。
尊徳のそのような金銭感覚からすれば、服部家の財政が傾いたのは、収入以上で生活していたのが原因である、と結論づけられるわけです。そこで、尊徳は、緊縮政策と米の投機の二本立てにより、服部家の財政を立て直そうと試みることにしました。しかし、米の投機で百三両の損が生じてしまい、それ以降は緊縮政策一本で、財政を五年間で立て直しました。
尊徳の始末の仕方は、ただ倹約をするだけではなく、利殖の智恵も使うわけです。
尊徳は、五常講と言う金融システムを考え、それを実行するのです。そのシステムは、使用人などが薪の節約や日常の工夫などにより捻出した余裕金を積んで、それを元金として金貸しをするわけです。その金融システムでは、あえて利子をとらないけれども、最後の返済時に、お礼というかたちでチャッカリ利子を取るのです。そのような一寸したアイデアなどにより、服部家の借金は、五年目で完済できたのです。
お金の価値は、不偏ではありません。それは、時間を基準に評価されているのです。つまり、時間の対価がお金の価値と、考えることもできるかもしれません。
そのような考えからすれば、金持ちとは、ひと(サラリーマン)の時間を安く買い入れ、それを物やサービスに転化して商品化して、顧客に高く販売しているひとである、ともいえるかもしれません。つまり、サラリーマンがどんなに一生懸命働いたとしても金持ちにはなれないのは、自分の貴重な時間を売っていることに気付いていないからです。
時間は貯めることはできませんが、ひとの時間を買うことは出来ます。尊徳はそのことを知っていたのでしょう。
尊徳三十四歳の時、十六歳の波と再婚。その時には、三町八反ほどの農地、小作米三十九俵三斗、自作米二十四俵一斗、その他三百五十両の資産家となっていました。
無一文から身を起した尊徳に、そのような資産が出来たのは、ただ努力一直線に働き、そして倹約をしたからではないでしょう。
お金を貯めるだけのために働くのではなく、そのお金を有効に働かせることで「時間」を買い、その時間を有効に働かせる(利息・不労所得)ことにより、資産が増えていったわけです。正に「時は金なり」です。
尊徳三十六歳の時、桜町仕法の正式命令を受ける。野州桜町の領主宇津家は、領地から三千百俵しか収入がないのを偽って、公称四千石と称し、江戸に大きな邸宅を構え収入以上の生活を営んだため、宇津家の経済が破綻してしまったのです。
尊徳の貧富驕倹の金銭哲学からみれば、収入以上の支出で生活を営めば、経済が破綻するのは自然の流れとなる理屈です。そのような破綻経済を立て直す基本は、収入の実際を調べることです。
そこで尊徳は、宇津家の領地を廻村という仕方で実地調査をするのです。その実地調査の仕方は、村民の厠をも調べ、さらに各戸の台所の釜の内容も調査し、その結果、収入以上の生活をしている者に対して、白米と粟との比率をいちいち指導するのです。
そのような調査と指導とにより、その村の実質収入を割り出し、その収入に見合う倹約を村民ならびに宇津家に実行させた結果、十年後には、九百六十二俵の収入が実質三千百俵を越えていました。
尊徳は、勤勉倹約だけのひとではなく、将来の災難のための備えも考えていました。
1832年の初夏の頃、宇津家で茄子を食べた時、その茄子が秋茄子の味がしたのに気付き、天候が秋季の状態に変化してしまっているのではないかと直感し、村民に稗を蒔かせて貯蔵させたため、天保四年の大飢饉にも、尊徳の村では、一人の餓死者も出ませんでした。続いて、天保七年の大飢饉のときには、富者も貧者も平等に一年分の食料の貯蔵をさせました。尊徳は、飢饉対策を次のように述べています。

翁曰、人世の災害凶歳より甚敷はなし、而して昔より、六十年間に必ず一度ありと伝ふ。左もあるべし。只飢餓のみにあらず。大洪水も大風も大地震も、其余非常の災害も必六十年間には、一度は必あるべし。縦令無き迄も必有る物と極めて、有志者申合せ金穀を貯蓄すべし。穀物を積囲ふは籾と稗とを以て、第一とす。田方の村里にても籾を積み、畑方の村里にては、稗を囲ふべし。

尊徳は、災害は自然の流れにあり、六十年間に一度は必ずあると昔から言われている、だから、それに備えて、金銭や食料を貯蓄しておかなければならない、と考え、そして実行していました。更に、将来のアクシデントに備え、三年間無収入でも生活できるほどの貯蓄をすることを勧めています。

翁曰、世の中に事なしといへども、変なき事あたわず、是恐るべき第一なり。変ありといへども、是を補ふの道あれば、変なきが如し、変ありて是を補ふ事あたわざれば、大変に至る。古語に、三年の貯蓄なければ国にあらず、と云り。兵隊ありといへども、武具軍用備らざればすべきやうなし。只国のみにならず。家も又然り。夫万の事有余無れば、必差支へ出来て家を保つ事能わず。然るをいわんや、国天下をや。人は伝ふ、我が教、倹約を専らにすと、倹約を専らとするにあらず、変に備んが為なり。人は云ふ、我道、積財を勤むと、積財を勤るにあらず、世を救ひ世を開かんが為なり。

二宮尊徳の一般的イメージは、勤勉倹約、薪を背負い読書をする堅物です。しかし、尊徳の思想に少しでも触れてみると、それは表面的なイメージにすぎないことが理解できるでしょう。
人生ゲームには、必ずアクシデントが発生します。それに備えるための蓄財は、守銭奴(太ったブタ)のそれとは異なります。
1830年9月1日、尊徳に突然の啓示がやってくるのです。
その後、尊徳は、自分の考え方をあらゆる人達に話し聞かせ、その考えを実行していくうちに、五十六歳の時、御普請役格の待遇で幕府の役人となり、以後、北関東の農業の復興に尽くして行くのです。
「隣の源平さん」の尊徳の思想の粗筋をみてきたわけですが、それをそのまま現在の人生ゲームに利用することは難しいかもしれません。そこで次に、その思想を現代風にアレンジしてみることにしましょう。

   二宮尊徳的生き方の応用   


人生ゲームを、苦しむのではなく、楽しく進めるには、大きく分けて二つの基本ルールを知る必要があるでしょう。ひとつは人間関係についてのルールで、もうひとつは生活を維持する道具としてのお金を集めるためのルールです。
そこでこの節では、尊徳の思想において、交際と投資について研究し、現在の人生ゲームで行なえるように、その応用方法を考えてみることにしましょう。
まず、人間関係のルールからみてみましょう。
人生ゲームの基本のひとつは、他人とのコミニュケーションを手段として、物やサービスを対価と交換することです。つまり、人生ゲームは、動物や物ではなく、ひとを相手に行うゲームなのです。ですから、人間関係が苦手だからと避けることはできないでしょう。
そこで、人間関係を円滑にするひとつの方法として、ハンバーガー屋さんの接客マニュアル訓練が想い浮かぶかもしれません。
しかし、こころの伴わない作り笑いの対応では、人間関係が上手くいくかは疑問です。
世間には、うわべの交際上手を揶揄する言葉として、「巧言令色少し仁」があります。その意味は、「言葉巧みにおせいじを言うひとには、相手を思いやるこころがない。」、ということです。
それでは、尊徳は、ひととの交際の仕方をどのように考えていたのでしょうか。

儒者の説甚むづかしくて、用をなさず。近く譬れば、此湯船の如し。是を手にて己が方に掻けば、湯我が方に来るが如くなれども、皆向ふの方へ流れ帰る也。是を向ふの方へ押す時は、湯向ふの方へ行くが如くなれども、又我方へ流れ帰る。少く押せば少く帰り、強く押せば強く帰る。是天理なり。夫仁と云は、向ふへ押す時の名なり。我方へ掻く時は不仁となり不義となる、慎まざるべけんや。

尊徳は、世間を湯船に譬えて、ひととの交際の基本を説いています。それは、世間とは閉ざされた所ではなく、循環していると考えているわけです。そこで行われる事は、廻り廻って自分のところに帰ってくるわけです。
ですから、自分の都合のよいことだけを独り占めにしたところで、それはやがて他人の処へ行ってしまうでしょう。だったら、まず、都合のよいことは他人に与えることです。そうすれば、その都合のよいことは、やがて自分に帰ってくるわけです。
その他人に対して、都合のよいことを行うことを、「仁」と言うわけです。そして、その反対に、他人を無視して、自分に都合のよいことだけを行うことを、「不仁」或は「不義」と言うのです。
「仁」を行うことは、日常いたる処にあるでしょう。
例えば、乗り物で席をさりけなく譲るとか、階段で重い荷物を持っている人をさりげなく助けるとか、です。昔の人は、このことを、「自分の欲することを他人に施せ。」と言っていました。
そのような考え方で、毎日を暮らしていければ、よいことが、忘れた頃に、自分に訪れることでしょう。
世間を憎めば、その憎しみはやがて自分に帰ってくるならば、世間を楽しい所と考えることです。たとえ今は、楽しい所ではなくても、自分から楽しいことを考え、行っていけば、やがて、世間が楽しい所に変わっていくはずです。
ひとは、暗いところではなく、明るいところに集まる習性があります。そして、ひとは、暗い人ではなく、楽しく明るいひとに集まる習性があります。
「仁」を理解し、そして、その「仁」を実行できるひとには、やがてひとが集まってくるでしょう。そのようにして、ひとが集まって来たら、ひととの交際の仕方を考えることです。

翁曰、交際は人道の必用なれど、世人交際の道を知らず。交際の道は碁将棋の道に法とるをよしとす。夫将棋の道は強き者駒を落して、先の人の力と相応する程にしてさす也。甚しき違ひに至ては、腹金とか又歩三兵と云までに外す也。是交際上必用の理なり。己富、且才芸あり学問ありて、先の人貧ならば、富を外すべし。先の人不才ならば、才を外すべし。無芸ならば、芸を外すべし。不学ならば、学をはづすべし。是将棋をさすの法なり。此の如くせざれば、交際は出来ぬなり。己貧にして不才、且無芸無学ならば、碁を打が如く心得べし。先の人冨て才あり、且学あり芸あらば、幾目も置て交際すべし。是碁の道なり。此理独、碁将棋の道にあらず。人と人と相対する時の道も、此理に随ふべし。

一般的な会話で、あのひとは背が高いとか、低いとかを話題にする時、その基準は話し手である自分自身の背の高さであるわけです。つまり、一般的にひとは自分自身を基準に、物事を判断・評価する傾向があるようです。ですから、ひととの交際において、互いに異なる基準で、コミニュケーションをとっているかもしれません。
そこで、主観的ではなく客観的な会話を望む少し智恵あるひとは、平均値(在りもしない数値)という虚構(ウソ)を、価値基準・評価基準とすることでしょう。
ひととの交際を成立させる基本は、話題の基準値を決めることなのです。
そこで尊徳は、格差のあるひととの交際の基本を、碁と将棋とのゲームの仕方で説いているわけです。
まず、自分が相手より富んでいて、且つ学歴や職歴が高いという場合、相手が貧しければ富んでいることを誇るのではなく、又、相手が無学無芸であるならば学歴や職歴を誇ってはいけないと諭すわけです。つまり、相手の目線に合わせ、自らを低めることが格差のあるひととの交際の基本です。
その反対に、自分よりも相手が富んでいて、且つ高学歴・高職歴の場合、無理をして背伸びをするのではなく、相手の優位を素直に認め、そして敬い交際することがその基本である、と説いています。
そのように、自分中心ではなく、相手の立場、地位、性格等を考慮し、それら交際相手を基準に対応することで、他人との一般的交際は上手くいくはずです。
しかし、交際には、一般的なものと特別なものとがあります。その特別な交際のひとつに、男女交際(配偶者選び)があるでしょう。
未来の配偶者を得る為の交際には、一般的交際の基本を越えた工夫が必要でしょう。それは、一般的な交際であるのならば、たとえ生理的に受け付けないひとであっても、数時間を我慢しさえすればよいからです。しかし、配偶者であるならば別です。それは、二十四時間×数十年の時を共有することになるからです。
その気の遠くなる時を楽しくするも、そうでなくするもお互いのコミニュケーション(交際の仕方)にかかってくるわけです。
世間的常識では、時間をかけて話し合うとすれば、色々な難問も解決できる、と考えられているようです。それは、果たして本当なのでしょうか。
もし、それが真理であるとすれば、世の中は、もっと楽しい場所になっているはずです。
しかし、現実はどうでしょう。
それでは、男女交際におけるコミニュケーションを上手くするにはどうしたらよいのでしょうか。

初夏の汗ばむ午後、旅の導師は丘を一つ越えた向こうに、大きな木の下で四五人の男達が何かを言い争っているのが見えました。
導師が近づくと、「丁度いいところに導師が来た。」、とそのなかのひとりが言いました。 男が手短に今の言い争いの状況を話すには、神が自分に似せて人間を創ったか、それとも人間が自分に似せて神を創ったかをここ数時間も議論しているところである、ということです。
「導師様はどちらだと思いますか。」、とおとこは明確な答えを得られることを期待して聞きました。
「ふむ、難しい質問じゃな。ワシもこのように旅をしている目的のひとつもそれじゃ。 その答えの前に、はたして神は本当に存在するのかを見極めなくてはならないだろうな。」
「神が存在しないとでも言うのですか。」
「居るとも言えないし、居ないとも言えない。なんせワシはこのように旅を続けておるが、今まで神に会ったことも、見たこともないでな。」
そう導師が言うや、また男達は議論を始めました。
やがて日が傾いてきても、男達の議論は続きます。
そこへ背に乳幼児を、両手に幼児を連れた小太りなおんなが、「なかなか帰ってこないと思ったら、こんなところで何してんだい。町での商いはどうだったんだい。」、とすごい剣幕でその中のおとこに詰め寄りました。
「なにも怒る事はあるめいに。俺達は神について勉強しているところだ。文句あるんか。」
「神だかなんだか知らないけれど、子供達は父ちゃんが帰ってくるのを腹をすかして待っていたんだょ。それがどうだい、いい男達が昼間っから夕方ちかくまで、木陰でくだらない事で遊びほけって。」
「俺達、遊んでいるじゃねえやぃ。明日を生きる希望を持ちてえから、神について議論しているんでぃ。」
「えっ、何かい、神様が子供達におまんまを食わせてくれるって言うんかい。そんな夢みたいなこと言って、おまえさんは、女房子供を腹いっぱいにできないだらしない男だよ。」、とおんなは捨て台詞を言うと、おとこの耳を引っ張って議論の輪から連れ出していきました。
それを見た残りの男達がいいました。「夢のねえおんなだ。」

現代の風潮では、男女間には性差が存在しないことになっているようです。しかし、分子生物学的には、男と女は、その染色体の構造が、XYとXXとで異なっています。
性差とは、ふたつの意味合いがあります。ひとつは分子生物学が示すように構造的なことと、社会的風潮のことです。
社会的な性差は、時代と伴に変化して一定ではないでしょう。特に、都会化された社会では、その性差は、非都会化の社会に較べて、ほとんど無いと言ってもよいかもしれません。
尊徳が生活していた江戸時代も、都会での商人屋では、おんなが店や家庭を切り盛りしていたものが多く見受けられていました。商家の娘に、丁稚で優秀なものを婿にすることなど日常茶飯事であったわけです。女房にガミガミ言われる頭の上がらない主人は、お妾さんをかこうことで精神のバランスを保っていたわけです。
都会化することは、非都会化と異なり、筋力での勝負ではありません。それは、物やサービスをお金との交換で生活の糧を得ることです。それは、煎じ詰れば、時間の切り売りでもあるわけです。そうであるならば、男と女の時間には、性差がありませんから、男も女も同じ土俵に登れるわけです。
現在の日本は都会化の傾向にあるわけですから、社会的には性差の存在は薄らいで行くのが自然の流れでしょう。
しかし、構造的には性差は依然として存在しています。
その構造的性差の現われのひとつとして、ひとの行動をコントロールしている大脳の左右半球の情報連絡を司る脳梁があります。この脳梁は、男女では異なります。それは、女のほうが男よりも情報交換的に優れている構造をしているのです。と言うことは、脳梁が大脳の左右半球を、千分の一秒の単位で大量の情報交換をしているわけですから、男と女の情報処理が異なる可能性は大なわけです。
イメージとして、右手と左手を、どちらが男か女かを問うとしたら、一般的傾向として、右手が男で、左手が女であるようです。と言うことは、身体側と大脳半球は交差して連絡しているわけですから、左半球が男のイメージで、右半球が女のイメージと言えるかもしれません。
そうであるのならば、左半球の情報処理は言葉を駆使する理論で、右半球の情報処理は空間の把握やイメージ(感覚)を司ることと一致しているようです。
このことが、「男は空想的で、女は現実的」を意味していることかもしれません。
左半球を駆使するのが得意な男が、議論を好むのはこのためかもしれません。それに対して、右半球は感情の巣であるわけで、それは情動系回路に繋がるわけですから、情動系回路は、明日を生き残る為の思考系回路と異なり、今を生き残る為に働くわけですから、女が現実的な考えになるのは当然なことかもしれません。
男女間の交際の基本として、この大脳の男女間の異なる情報処理機構を知る必要があるでしょう。
男が長々と理論的な日常的でない話題を得意になって喋っていても、女はその理論の立派さなどを、男が思っているほどに、聞き入ってはいないかもしれません。
女が思いつくままに、理論非整然と日常のこまごましたことや旅行や食べ物のことを楽しそうに喋っていても、男は退屈することでしょう。
つまり、男と女が同じ場所に居ても、大脳の中では、異なる次元にいるのです。
更に、男の会話の時制が未来形か過去完了形とすれば、女の会話の時制は現在進行形と言えるかもしれません。そのように次元や時制が異なる会話において、男と女が長時間話し合えば、話し合うほど、お互いのこころの距離は離れていくことでしょう。そのようにならないためには、男女間の会話の基本ルールを知る必要があるでしょう。
それは、相手が話している時は、相手の目を見てしっかり聞いていることです。そして、相槌を打つことです。決して、納得できなくても反論しないことです。これが男女間の会話における基本ルールです。
男女間がある問題を話し合えば、話し合うほどこころが離れていく原因のひとつに、「うそ」の存在があります。
「うそ」とは、相手を騙す目的に虚構話をすることですが、それには、意識的「うそ」と無意識的「うそ」があります。
意識的「うそ」については説明の必要はないでしょう。問題は、無意識的「うそ」です。男女間の会話でのトラブルの原因の大部分は、この無意識的「うそ」なのです。
無意識的「うそ」とは、自分では「うそ」をついているつもりがないのだけれど、結果的に「うそ」をついてしまっていることです。
例えば、ある中近東の独裁国家が超大国の宣戦布告を受けました。その国民全体は、敵に対して武器を持って命を賭して戦うとの忠誠心をこころから示しました。しかしどうでしょう。圧倒的に敵が攻込んでくると、死を持ってその独裁国家へ忠誠を誓った国民の大部分は、敵側の国旗を振りかざして敵国兵士の凱旋を歓迎してしまったのです。
この行動が、無意識的「うそ」の主なパターンです。当人は、戦争が始まるまでは、心底から敵に対して武器を取ることを信じていたのでしょう。しかし、戦闘状況を観察した結果、自分では意識しないのだけれど、何の理論展開(言い訳)もなく、それまでの考えを百八十度変換してしまったのです。
何故、そのような無意識的「うそ」がつけるのかと言えば、思考は一定していないからです。つまり、思考とは、思考系回路により創作され、その基本戦略は明日を生き残る為です。そのため、状況が変化すれば、それに合わせて思考は自動的に(無意識に)変化してしまうのです。
つまり、思考は無意識的に「うそ」をついてしまう宿命にあるのです。そのように思考が変化してしまわないように、「思考は思考を固める」必要があるのです。そのひとつが、「思想」です。
思想とは、任意の思考を固めたものです。しかし、思想も、所詮、思考を固めたものですから、時代が変化して、状況が変わってしまえば、それは「うそ」になる可能性があるわけです。(もしかして、マルクス主義とかフロイトの精神分析なども、その範疇に入るのかもしれません。)
さて、男と女との会話で、女は男に向かって、「うそつき」を連発するのは、以上の説明で理解できるでしょう。
男が、何故に無意識的「うそ」を平気でつけるのかと言えば、それは、情報の入力と出力とが、女と若干異なるからかもしれません。
ひとの行動が思考によりコントロールされていることは事実ですが、もうひとつのコントロール系統があるのです。それが、情動系回路です。
ひとには、情報処理回路がふたつあるのです。ひとつが思考系回路で、もうひとつが情動系回路です。そして、その入力情報は異なるのです。思考系回路は、情報を言葉により入力します。それに対して、情動系回路には、祖先からの遺伝子情報を既に入力されているのです。
つまり、思考系回路は生後の教育(刷り込み)情報を基に構築され、それに対して、情動系回路には自動行動プログラムが遺伝によりインプットされているのです。ですから、生まれたての赤ん坊でも、言葉は喋れないけれども、物事に反応して感情の表出はできるのです。
男に較べて、女は情動系回路が発達しているようです。その情動系回路の入力情報は、言葉ではなく、感覚器からもたらされるものです。その情報のひとつに「ニオイ」があります。
男は、コミニュケーションを主に「言葉」に頼るようです。しかし、女には、「ニオイ」のコミニュケーションは無視できないようです。
女が生理的に嫌悪する「男」に対して、「何かニオウのよね。」と表現することがあるようです。その意味がどういうことかは分りませんが、大体、女の男に対する「感」は当たるようです。それは、言葉と異なり、「ニオイ」は「ウソ」をつかないからです。
男は、女と交際する時、この「ニオイ」について研究しておく必要があるでしょう。
「ニオイ」は、他の感覚情報と異なり、直接本能(情動系回路)に働きかけます。つまり、ある「ニオイ」を嗅ぐと、その情報が脳の情動系回路に直接入力されてしまい、それに対して、瞬時に出力(行動すること。)されてしまいますから、「ニオイ」に対してはごまかし(ウソ)がきかないのです。そして、その出力は、主に「顔」に表現されてしまうのです。ですから、思考と異なり、「ニオイ」に対するゴマカシの手段はないのです。
だからと言って、、化粧品会社の広告戦略に乗って、高い香水を買うこともないでしょう。
目的とする女の好む「ニオイ」は、どのようなものかは、そのひとがどのような「ニオイ」と接してきたか、そして、どのような「ニオイ」に気を配ってきたかの歴史によるようです。
「ニオイ」の個人歴史は、他の情報のように脳の各引出しにそれぞれ分解されて、必要な時、それぞれの情報を繋ぎ合わせ再構築するのではなく、ホログラフィーのように保存されてあるようです。つまり、ある「ニオイ」を嗅ぐと、その時の空間記憶全体が瞬時に思い起こされるようです。
配偶者を選択するには、見た目のカッコ良さよりも、気持ちが和むかに重点をおきたいものです。それには、生まれた環境と育児をした両親を観察することが必要かもしれません。そして、結論を出す前に、両目(言葉だけではなく、感覚器の情報も判断材料とすること。)で良く見ることです。
それでも、結果として検討違いの場合、話し合って問題が解決すると思わないことです。男女間の問題解決の最良の仕方は、「片目をつぶる」ことです。場合によっては。「両目をつぶる」必要のあるひともいるかもしれません。

それでは、次に、投資について考えてみましょう。
投資とは、お金を集めることを第一の目的に行動することです。しかし、この事は今も昔も、世の中ではあまり良くは評価されていないようです。
江戸時代の尊徳も、このことに対して、「人は云う、我道、積財を勤むと、積財を勤るにあらず、世を救ひ世を開かんが為なり。」、とお金を集めることへの自己弁明をしています。
それでは、お金を集めることは、良いことではなく、本当に悪なのでしょうか。
「翁曰、善悪の論甚むづかし。本来を論ずれば、善もなし悪もなし。善と云て分つ故に、悪と云物出来るなり。」、と尊徳が考えているように、お金を集めることを、単純に善悪に分けられないのが現状でしょう。
でも、投資を考える前に、お金を集めるための「目的と基準」を、決めておかなければならないでしょう。と言うのは、お金には不思議な力があり、それに魅せられてしまうと、お金を集めることが、人生ゲームの最終目的となってしまうことになりかねないからです。
それでは、世間一般において、「お金」に対して、どのようなイメージを持っているのでしょうか。
その考えの象徴のひとつとして、「投げ銭」の行動があります。「投げ銭」とは、文字どおり、お金を投げる行動です。まず、そのひとつが、田舎芝居でのひいき俳優へのご祝儀としての「投げ銭」(おしねり)です。そして、もうひとつが、神社仏閣の賽銭箱にお金を投げる行動です。
後者の場合、尊い神仏に対して、お金をはだかのまま投げつけることなどは不謹慎だとは思いませんか。でも、その行動に、お金に対する一般人の潜在認識があるようです。
つまり、賽銭箱にお金をはだかのまま投げ入れることの裏の意味は、ひとの穢れをお金に感染させて、「穢れ落とし」をすることなのです。ですから、賽銭箱に向けて、紙に包んで(おしねり)そおっと置くのではなく、お金をはだかのまま投げつけるわけです。
昔、近所のおばあさんが、お金を「汚い」ものだと言い、お金を触った後、手を洗っていたのを思い出します。お金は穢れていて、それを扱う「商人」もそのように思われていたのでしょう。中世ヨーロッパと同じように、江戸時代の金融業者も、身分としては低かったのも、そのような「穢れ思想」が原因だったのでしょう。つまり、お金は「穢れて」いる、と昔から考えられていたようです。
しかし、その穢れの思想は、日本国古来のものではなく、紀元一世紀突然ガンダーラ地方に現われた、ヒンズー教化した差別思想(平等主義のはずの大乗仏教が、センダラについての不平等思想を否定することなく、仏敵として仏典に掲載している。)の金ピカ豪華絢爛の大乗仏教が、シルクロードの貿易商人等(秦一族)と伴に、日本国に侵略侵攻・支配のための戦術としての布教宣伝に広めた思考なのです。
本来、「お金」は、ひとと同じに、穢れてはいません。
尊徳が、「故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。」、と言うように、「穢れの思想」は、時(538年)の権力を握った者達(大乗仏教徒)が、日本国の先住民達を、精神的・物質的に支配するための「夷を以って夷を制す」の戦術として、従属する農耕民族系を「善人」とし、それに対して反抗する騎馬民族系を「悪人」(センダラ)と勝手に決めた「ウソも方便」にすぎません。
それでは、「お金」をどのように位置付ければよいのでしょうか。
その考えのひとつとして、「道具」と考えることです。つまり、人生ゲームを遂行するための、「お金は道具」なのです。
そのように考えれば、お金(道具)を集めることは、悪いことではないでしょう。しかし、必要以上に集めたところで、それは唯の道具集めにすぎないわけです。つまり、その道具を上手く使って、何にかを創り上げることが、人生ゲームの最終目的なのです。
それでは、道具としての「お金」はどのようにして集めたらよいのでしょうか。
尊徳の人生ゲームから「投資」行動を見てみれば、十三歳の時、他家の子守の駄賃の二百文を、アメなどの消費物に換えるのではなく、松苗を二百本買い、それを酒匂川の堤防に植えたこと、そして、十六歳の時、友人から菜種五勺を借り、それを堤の廃地に蒔き、翌年七升以上の収穫を得たことなどは、投資の基本行動とも言えるでしょう。
しかし、投資は良いことばかりではないことを、尊徳は服部家の財政建て直しで経験しました。それは、米の投機で百三両の損を生じてしまったことです。
ですから、投資や投機は、時によりお金が多く集まるかもしれないし、時には、お金を全て失うかもしれない、ということを知っておくべきでしょう。
いずれにしても、投資には、種銭が必要です。種銭の作り方は、尊徳のように、他家の子守りをする(自分で稼ぐ)ことと、友人に借りる(借り入れ)ことのふたつの仕方があります。
先ほども述べましたように、投資は必ず成功するとの保証などはありません。ですから、将来の成功を夢見て、種銭を借りることは、得策ではないでしょう。と言うことは、種銭は自分で作ることです。つまり、他家の子守りをすることで、投資のための種銭を稼ぐことです。
しかし、今現在の収入からの天引きだけでは、望むような種銭はできないかもしれません。それでは、どのような仕方があるのでしょうか。
尊徳は、そのためのヒントを次のように述べています。

夫汝未壮年なり、終夜いねざるも障りなかるべし。夜々寝る暇を励して勤て、草鞋壱足或は二足を作り、明日開拓場に持出し、草鞋の切れ破れたる者に与えんに、受る人礼せずといへども、元寝る暇にて作りたるなれば其分なり。礼を云人あれば、夫丈けの徳なり。又一銭半銭を以て応ずる者あれば是又夫丈の益なり。

無一文から種銭を作るには、まず、自分の時間を他のひとに売ることです。一部のひとは気付いているようですが、実は「時間」とは誰にでも平等に保持している「資産」なのです。しかしそれは、金持ちであろうと、貧乏人であろうと誰にでも貯めて増やすことが出来ない、一日一日で使い切らなければならない「資産」なのです。
でも、その「資産」である時間を買ってくれるひとを探すには、困難が予想されるでしょう。それは、ひとの目には見えない「資産」だからです。
でも、ひとが必要とする目に見える物(商品)を、自分の時間を管理して造り、それを必要としているひとに差し出すとすれば、その物を買ってくれる可能性は大でしょう。
尊徳の考え方では、夜なべしてワラジを一二足作り、翌日それを作業現場に持っていき、ワラジの破れたひとに差し出すのです。その場合、ワラジを貰ったひとがお礼をしなくても、元々余暇(売れない時間)に作ったものであるから、それまでのことで、場合によってはお礼を言ってくれるひとがいれば気分が良いし、更に、一銭半銭を支払ってくれれば儲けもの、と言うわけです。
この考え方は、あらゆるビジネスを成功させるエッセンスを多分に含んでいます。
一般的に、ビジネスでお金を儲けようと考えるひとは、事業の初めから、潜在顧客の利益ではなく、自分だけが利益を得られるようにと考えて行動してしまう傾向があるようです。その利益獲得行動も、目先のわずかな利益を出すことだけを考えてしまうことにより、長期展望に立ってではなく、一二年の短期で結果を出そうとする傾向があるようです。
しかし、昔から、「石の上にも三年」と言われているように、事を成就するには、最低三年間は必要です。その根拠は、以前述べましたように、潜在顧客の脳に新事業のゲームを記憶として刷り込むには、脳の一時記憶装置の海馬から、新皮質の細胞に長期記憶させるための焼き付け期間は、二三年を必要とするからです。ですから、世界的ブランド創り(刷り込み)などは、仕掛けも大掛かりとなるため最低十年はかかるのです。つまり、ブランドとは、別の角度から見れば、「濃縮された時間」でもあるわけです。
お金を集める気の利いた物が作れないひとは、自分の余暇時間を売ることを考えてみましょう。
それでは、時間を買ってくれるひとは、どのような時間を買ってくれるのかと言えば、例えば、身体各部で言えば、物を運ぶ「足」の時間、物を加工する「手」の時間、物事を考える「アタマ」の時間、そして、ひととひととを結びつける「顔」の時間です。
時間売りの単価は「足」から「顔」へ行くほど高く売れます。
「足」の単価が安いのは、それだけ多くのひとが簡単にできる時間の売り方です。ですから、どの時間を売るかを迷っているひとは、まず、「足」の時間を売ることです。
「足」の時間売りとは、物を運ぶ仕事です。(運送業)
「手」は技術の仕事です。(制作業)
「アタマ」は物事を処理したり、自分の知識を売る仕事です。(塾などの教育業)
「顔」とはコーディネータとしての紹介の仕事です。(コンサルタント業)
自分の売れる時間を考えてみましょう。そして、休日や余暇を利用して、その時間を買ってくれる所を訪ねてみることです。
そのように、本業ではなく、副業で稼いで種銭ができましたら、次は、投資先を探しましょう。
尊徳は、松苗を自家の畑ではなく、川の堤防に植えました。そして、菜種を廃地に蒔きました。それは何故でしょう。その理由は、リスクがあるけれども税金が掛からないからです。
投資は、元金保証の貯金と異なり、儲けと消失との間を往き来しています。そして、危険が大きければ大きいほど、成功した場合の儲けも大きくなります。だからと言って、危険な所に投資をしなさい、と言っているのではありません。
何事も危険は避けたいものです。ですから、投資先としては、一回勝負の投機ではなく、長期戦を行える所が良いでしょう。そのひとつに、「株式投資」があります。
株式投資は、簡単なゲームです。
それは、安いところで買い、高くなったら売って、その差益を得るゲームです。それとは逆に、プロや機関投資家が行う、逆張りと言って、加熱している株を売り、下落した時点で買い戻し差益を得るゲームの仕方もあります。
いづれにしても、株式ゲームには、「買い」と「売り」しか選択肢はありません。
では、こんな簡単な二者択一のゲームなのに、勝つひとと、負けるひととを分けるのは何なのでしょうか。
世間一般では、一流経済情報誌や一流経済学者による講演会などで最新情報を誰よりも早く入手することが、勝者になる必要条件だと信じているようです。果たして、それは本当なのでしょうか。

旅の導師が、ある村に辿り着きました。
その村の一番高い木の陰でひと休みしました。何となく上を見ると、ど真ん中に矢が刺さっている的がぶら下がっているのが目に止まりました。そこに、村のじいさまが通りました。
「じいさま、この村には弓の名人がおるのか。」、導師は遥か遠くを指差して聞きました。
「弓の名人などいねえ。」
「では、あんなに遠くにある的のど真ん中を射ったのは誰ぞ。」
「このわしじゃ。」
「では、じいさまが弓の名人であったのか。」
「いやちがう。わしは名人などではねえ。あんなこと、誰にでもできることじゃぞ。」、そう言って、的にくくりついている紐を緩めて降ろし、的から矢を抜き取り、「これからどのようにしてど真ん中を射ったか見せてやるベえ。」、と言いました。
導師は、これから起こる奇跡を目撃できることに、少し興奮を覚えました。
「導師さま、よおく見ていておくんなせい。」
そう言うと、じいさまは、的を足元に置いて、矢先を的のど真ん中に触れるほどにして、弓の弦を引き、そして、放しました。

予想を的中させることは、株式ゲームの勝者になるには必要なことです。しかし、ひとは未来を知ることは出来ません。そこで、未来を知るために、情報を集めることを考えるわけです。そのための手段として、テレビの経済情報番組や新聞の経済欄を見るわけです。
しかし、そのようして集めた情報は、株式ゲームの勝者になるために、果たして有用な情報となるのでしょうか。
米国のある大統領が、「経済に偶然などは存在しない。物事はそのようになるために、予め仕組まれている。」と言っていたことは、どのような意味なのでしょうか。
マスコミに登場する経済予測の良く当たるひとがいます。そのひとは、どのようにして未来の経済状態を予測し、当ててしまうのでしょうか。
そのことを知るには、株式ゲームはどのようにして発明されて、どのような仕組みで運営されているのかを調べる必要があります。
株式ゲームの胴元である世界初の株式会社は、通説では、1602年設立のオランダの東インド会社であると言われています。いや違う、1600年設立のイギリスの東インド会社であると言っても、イギリスの東インド会社は、株式会社ではなく、一回こっきりの組織である「当座会社」として発足していたのです。
それでは、どうしてイギリスの東インド会社が、オランダの東インド会社より歴史的に有名になってしまったかの理由は、それは、歴史を自分達に都合よく改ざんしたからです。歴史を英語でヒストリーというように、それは過去から現在までの事件や出来事を自分達に都合よく繋ぎ合わせた物語であり、それは時の権力を握ったひと達が、自分達に都合よく他の人達をコントロールする目的で、記憶させるべき価値があると判断した情報を記述し書物に残し、そうではないものは抹殺、或は改ざんし、その組織の好みの筋書きにしてしまうからです。
そのような不確かな物語に真実味をあたえるために、歴史上では「史料」というものが存在しますが、「史料はウソをつく」と言うのが、「常識のある歴史家」の常識です。古い時代の資料の「史料」が「ウソ」をつくように、新しい時代の資料も「ウソ」をつきます。
例えば、中東の独裁国を先制攻撃する目的で、ある超大国の中央情報局は、「独裁国は大量破壊兵器を隠し持っていて、最近アフリカからウランを購入した。」、と議会で報告しました。更に、その超大国を援護する目的で、紳士の国の女王陛下の情報局の報告書の資料に基づき、「四十五分以内に大量破壊兵器がスタンバイできる情報を入手した。」、とその国の首相は議会で大演説をしました。その結果、その二つの国は、先制攻撃で独裁国家を短期間で壊滅してしまいました。しかし、その戦闘で、その独裁国は大量破壊兵器を使わず、更に戦後、独裁国をくまなく探索しても、大量破壊兵器は見つかりませんでした。
どんなに優れた組織が収集した最新情報で資料を作成したとしても、「資料」は真実を語っているかは疑問です。
元々、情報自体には「ウソ」などありません。その情報を物語(資料・史料)として整理する過程でひとのこころが、情報に「ウソ」をつかすのです。ひとの思考回路は、明日を生き残るためにあるのです。ですから、明日を生き残るためには「ウソ」も平気(無意識)でつけるのです。
株の取引をする場合、経済情報は大切な「相場観」の根底になります。
相場観とは、簡単に述べれば、今から先の相場が上がるか下がるかの、考え方です。先ほども述べましたように、ひとは一秒先も知ることは出来ません。ですから、誰も、この先の相場の動向を知る術はないのです。そこに、相場の流れを予測する経済情報の需要が起こるのです。
それらの需要を満たす基が、経済学者や株のアナリスト等です。
しかし、それらのひとたちの経済情報は「信じて」もよいのでしょうか。もし、それらのひとたちが、最新経済情報を先進国のシンクタンクから入手し、相場の予測を正確に当てることが出来るのであれば、この世は大金持ちで溢れかえっていることでしょう。
ひとの思考は千差万別で、ある情報を与えたとしても、それに対する反応は「アフリカの靴のセールスマン」のように様々です。
例えば、経済において悪い材料が表出した場合、普通の世界では、マイナスの反応が起こることでしょう。しかし、相場の世界では、悪材料が出尽くしたと思考し、相場はプラスの反応を示す傾向があります。その反対に、良い材料が発表されると、材料出尽くしと思考し、相場は、マイナスの反応を示す傾向があるのです。相場の世界の行動は、世間一般とは逆なのです。
何故そのように世間一般とは異なる反応を示すのかと言えば、相場は、今ではなく、近未来(半年から一年)を予測するゲームだからです。
更に、相場に勝つには、「ニッパチの法則」を知る必要があるでしょう。
「ニッパチの法則」とは、二割のひとが八割の富を分け合い、八割のひとが二割の富を奪い合うということです。
何故そのような法則が成立つのかは、ひとのこころには「希望」と「恐怖」が内在しているからです。その二つは、実は「欲望」の変形ですが、向かう方向が逆です。「希望」は前に進もうとする「欲」です。「恐怖」は後退(現状を守る)しようとする「欲」です。一般的に、そのふたつがこころの中で戦った場合、「希望」は「恐怖」に負け越す傾向があるようです。その割合がニッパチ(二割対八割)です。
この二つの「欲」を、上手くコントロールできるひとが二割のグループに入り、「欲」に振り回されてしまうひとが、八割のグループとなるわけです。
株式会社は、元々海賊貿易(戦艦の大砲で脅して物品を略奪すること。)をするために、危険を分散する目的で、多くの人達からお金を集めるための方法として発明されたものです。
イエズス会から東インドの地元情報を入手したオランダ東インド会社は、インドネシアを中心に香辛料を略奪していました。イギリス東インド会社は、オランダに出遅れたため、インドを足ががりに「三角貿易」をしていました。
「三角貿易」とは、イギリスの工業製品をインドへ輸出し、その代金で「アヘン」を購入し、それを中国に持って行き、「アヘン」をお茶に換えてイギリスに持ち込むというシステムです。その三角貿易の結果、1840年イギリスと清国は「アヘン戦争」をしたことは学校の歴史で学習したことでしょう。
このイギリス東インド会社の人脈が、明治維新の影のプランナーです。そのプランによって、明治維新が企画され、「日本の夜明」となるわけです。日本国の株式会社の雛型は、イギリス東インド会社なのです。
株式会社の発足当時から、株式会社は市場開拓のため、裏の世界では「アブナイ」ことをしていたのです。
更に、相場と「戦争」は昔からお友達なのです。
ナポレオン戦争とロスチャイルドの相場戦略は、戦争の情報が莫大な富を得ることを証明しています。この話は有名です。粗筋を述べますと以下のようになるでしょう。
イギリスの相場で、ナポレオン軍が勝てば相場は暴落し、負ければ暴騰するとの刷り込みを行い、多くの金持ちに戦争国債を買わすのです。ナポレオン軍が劣勢の情報を流し、「希望」という「欲」に火をつけるのです。相場が加熱して最高潮の時、ナポレオン軍が優勢とのウソ情報を流すのです。すると、「恐怖」という「欲」が国債を投売りにするのです。その投売りのただ同然の国債をロスチャイルドが拾います。実際の情報は、ナポレオン軍の敗退です。その真実の情報を知ると、国債は暴騰します。そこをすかさず「売り逃げる」ことにより「富」が手に入るわけです。
この古典的情報操作は、現在の相場にも健在です。
それでは、情報操作を影で行うひとが、相場でひとり勝ちをしてしまうのかといえば、そうではないでしょう。それほど、株式ゲームは甘くはありません。株式ゲームには、ひとがコントロールできることと、できないことがあるのです。
このことを尊徳は、「天道」と「人道」という考え方で捉えています。
「天道」とは、ひとがコントロールできないことで、それこそお天道さまがコントロールしていることです。例えば、自然現象の台風や雷などは、ひとがいくら努力してもコントロールすることはできないでしょう。
それに対して、「人道」とは、戦争や情報操作など、ひとがコントロールできる事柄です。
この考え方で、相場をみてみますと、株を買おうとする企業の業績資料を集め、分析することは、「人道」でしょう。そして、その分析により、今後の株価を予測したとしても、それはあくまで「人道」です。しかし、ひとは一秒先も知ることは出来ません。未来のことは、ひとがコントロールできない「天道」だからです。つまり、相場とは、「人事を尽くして天命を待つ」ことです。
株の初心者が行う過ちのひとつは、一流経済学者や株のアナリスト等は特殊な才能や最新情報を握っていると錯覚し、それらのひとたちからの未来の株価予測動向を信じてしまうことです。しかし、どんなに優れている人でも、未来を知ることは出来ません。それは、「天道」にあるからです。
それでは、株の専門家の株価予測情報が信じられないのであれば、どのようにして株を買うチャンスを得ればよいのでしょうか。
そのヒントのひとつとして、傘のビジネスが参考になるかもしれません。
傘は、雨が降る日には必需品ですが、晴れてる日には邪魔者です。物には相場というものがあります。需要のある時は、需要のない時より、相場は高くなります。ですから、傘も雨の日は需要がありますから、当然相場は高くなります。品薄の時などは、売り手の指値で売れることでしょう。
ですから、傘を仕入れる時は、日照り続きの時がチャンスなのです。そして、雨の降るときが売りのチャンスなのです。こんなことは、誰にでも理解できることです。
しかし、株の素人が行うことは、「株を買ったところが最高値」で、そして、「売ったところが最安値」だ、ということです。
何故そのようになってしまうのか言えば、「天道」と「人道」のことを理解していないから、「希望」と「恐怖」への情報操作をされることにより、「皆で渡ればコワクナイ。」の心境に落ちいってしまうからです。
そのようにならないためには、証券会社がカンコドリの時株を買い、そして、証券会社が賑わい出したら売ることです。
ひとは未来を知ることはできませんが、予兆を感じることはできます。
尊徳は、初夏に食べた茄子が秋茄子の味がしたので、気候の変化の予兆を感じ、秋の不作を想定し、粟や稗を植えることで、凶作からの危機を脱したのです。
株での予兆もそれと同じことがいえるかもしれません。靴磨きの少年が株を話題にしたり(昔の米国での譬え話)の、株に対してのひとの不自然な行動は、株の売りのサインかもしれません。
さて、今は株の買い時ですか、それとも、売り時ですか。

   時代と伴に変わるもの、変わらないもの   


尊徳の生き方を応用して、ひととの交際の技術を修得して、コミニュケーションの輪を広げることが出来、そして、投資の基本技術を修得して、無収入でも生活できる三年分の資産を持てるとすれば、それにより、人生ゲームにおいて、自分の思いどうりに行動できるわけです。これが、自立のための基礎です。
そのように、人生ゲームの基礎が出来た上に、プロカメラマンゲームが展開できるのです。人生ゲームでの基礎がしっかり出来ていなければ、プロカメラマンゲームも上手く行かないことでしょう。
ひとは、仙人と異なり、山奥にひとり住みそして霞みを食べて生きていくことはできません。そのためには、実社会で生きていくための、生活する為の土台が必要になるわけです。
土台が完成したら、その上に建物を建設する(プロカメラマンになること。)わけですが、その周りの環境(写真市場)を調べないと、思わぬトラブルを背負い込むことにもなりかねません。そこで、専門家(プロカメラマン)や書籍などにより、色々な資料を調べることになるのですが、そのことにより、必要とする情報を知ることができるのでしょうか。
そもそも、ひとは物事を調べることにより、一体何を知ることができるというのでしょうか。

旅の導師は、歴史のありそうな街に辿り着きました。
「もしもし」とうら若き女性が、導師に話し掛けました。
「この街のことを知りたいのですが、ご存知でしょうか。」
「いや、わしは旅のもので、今この街にたどりついたところで、とんとわかり申さぬ。」
そこへ、若者が通りかかりました。
「もしもし。この街のことを知っておるかな。この女性が知りたいそうじゃ。」
「ええ、よく知っておりますとも。」そう言って、若者は、旅行マップを広げ、この街の名所旧跡を教え始めました。
「どうもありがとうございました。それで、この街の四季はどうなのでしょうか。」
「申し訳ありません。わたしは、旅をしている者で、昨日この街に着いたばかりです。」
そこへ、この街の住人らしき男が通り過ぎました。
「もしもし、この女性がこの街の四季を知りたいそうじゃ。教えて下さらんか。」
「この街の四季はよおく知っております。」そう言って、男は丁寧に四季の移り変わりを説明しました。
「ありがとうございました。それで、この街はどのような歴史があるのでしょうか。」
「わっしは、三年前に引っ越してきたもんで、そこまでは知りません。拙宅に居候の歴史学者に聞いたらよかろう。」そう言って、導師と女性を案内して行きました。
「学者先生。この女性がこの街の歴史を知りたがっているそうで。」
「ふむふむ。この街の歴史はわしがよう知っとる。古文書も沢山集めて研究したでな。」そう言って、歴史学者は、この街の歴史を語り始めました。
そこへ、誰かが尋ねて来ました。
「先生。先日お貸したうちの古文書を返してくだされ。あの古文書は三代先のじいさまの道楽で、系図屋に書かせたもので、学問のたしにもならないものですから。」

ひとは、一体何を知っていると言うのでしょうか。
痩せたソクラテスは言います。ひとは、「何も知らないということを知っているだけだ。」
「知る」ということは、マクロからミクロへ向かうほど、問題は複雑になり、その答えを知ることができなくなるようです。物理学における物質の根源の最近の知見、「物質は震動(波動)だ。」、もそのひとつでしょう。この物質探究の話はまだまだ続くことでしょう。
では、このクソ面白くもないと思っている世界のことを、ひとはよく知っているのでしょうか。
世界のことや歴史は、学校で学習したから知っている、と思っていても、それは前述の歴史学者先生と同じかもしれません。
そもそも、世界観を構築する為の歴史観が、ひとが知ろうとするフレームを狭めてしまっていることに、多くのひとは気付いていないようです。
歴史とは、元々脈絡がない出来事を、誰か(権力を握った者)の目的を遂行する為に作られた物語なのです。そのような道筋の曖昧な物語りを、「科学的」なものにすりかえてしまったひとがいました。それが、かの有名なマルクスです。
かれの史的唯物論(マルクス主義の根幹)は、その当時流行のダーウィンの生物進化論のアイデアに啓発されたことはよく知られていることです。その唯物史観とは、歴史には一定の方向があり、原始的なものから近代的へと進化(変化)するというアイデアです。つまり、原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→現代資本制→未来の共産制へ辿り着き、そこで歴史は止まるということです。
この刷り込み「歴史は一定方向に進む。」は、今の学校歴史にも健在です。(歴史年表のとうりに世界が動いてきたと信じている多くのひとがいることは驚異です。今学校で学習しているのはユダヤ・キリスト教を基にした世界史の歴史です。世界史はその他無数にあるのです。)しかし、この思想(以前、思想はウソをつくと述べました。)は、1991年共産主義の大本のソ連が崩壊しても生き延びています。
刷り込み(学習)とは、恐ろしいものです。一度刷り込まれてしまうと、修正することは困難だからです。
そのような唯物史観を刷り込まれてしまった多くのひとは、自分の歴史もそのようなフレームで観てしまう傾向があるようです。つまり、未完から完成へ一定方向へ進む。或は、貧乏人から金持ちへ、又は、カオスからコスモスへと自分の歴史は「科学的」に流れて行く、という錯覚です。
世界の歴史が、不条理で、理論や法則など何もないように、ひとの歴史にも、生命保険会社作成の人生の設計図のような、決まった道筋など何もありません。ひとの人生の歴史(物語)は、「天道」と「人道」との、事の巡り合わせの偶然で、創られて行くわけです。
でも、「学校で」そのような唯物史観を刷り込まれてしまったフレームを取り外し、自由に思考することができるのであればよいのですが、そうではないひとが、人生ゲームやプロカメラマンゲームについて、多くの資料を集め調べたとしても、必要とする情報を手に入れることは出来ないかもしれません。

あなたが持っている情報は、あなたが必要とする情報ではありません。
あなたが欲しい情報は、あなたに必要な情報ではありません。
あなたが必要な情報は、あなたが手に入れられる情報ではありません。
あなたが手に入れられることができる情報は、あなたが払ってでもいいと思っているより以上のコストがかかります。

「知る」ということは、思考のフレームを広げることができますが、同時に、「知らない」という自覚を大きくしてしまう結果にもなってしまいます。「無知の知」、このことを端的に述べたのが、マーフィーの法則、「ひとは無能のレベルに行き着く。」です。このことは、この国でも昔のばあちゃん達が、「道楽もしないで勉強ばかりしていると、バカになるよ。」と言っていました。
最先端技術を研究する科学者が、それとは正反対に位置する宗教や神秘主義に惹かれるのは、無能のレベルから脱却しバランスをとるために、無意識のこころが指図しているのかもしれません。
ひとは、世界や歴史、或は世間の事を知っているつもりでいても、その実、何んにも知らないのと同じように、ひとは自分のこころについても何んにも知らないでいるようです。
世の中は、ひとによりコントロールできない「天道」と、ひとがコントロールできる「人道」との組合せの偶然により運営されているように、ひとのこころも、意志の力でコントロールできない「情動系回路」と、意志によりコントロールできる「思考系回路」との組合せの偶然で運営されているわけです。
ですから、世の中の出来事が、法則性に則っていないように、ひとの行動にも法則性など何もないのです。
そのように法則性のない世の中の流れに上手く乗るには、「天道」に合わせて「人道」を行えばよいのです。つまり、晴れている日は畑を耕し、雨の日は読書に勤しめばよいのです。それは自然なことです。でも、その逆は、不自然で、いくら努力(意志の力を使うこと。)しても無駄なことなのです。それと同じように、ひとの行動(ゲーム)を無理なく行うには、「情動系回路」に逆らわないように、「思考系回路」を作動させればよいでしょう。
つまり、今を生き残る為の「情動系回路」の戦略に合わせて、明日を生き残る為の「思考系回路」を作動させることです。
でも、トラブルを抱えている多くのひとは、その逆を行っているようです。
いくら「思考系回路」を駆使して考えたとしても(思考しても)、その思考系回路は、「情動系回路」が長い長い年月をかけて少しずつ創り上げたものなのです。ですから、今を生き残る為の行動を無視して、明日を生き残る為のことだけを考えたとしても、事は上手くいかないのは道理なのです。
例えば、「思考系回路」が「情動系回路」の戦略を無視したものとして、太平洋戦争後、占領軍の法律で闇米(正規のルート外の米)の購入禁止を施行し、真面目にその法律(思考系回路が考え出した決まりごと。)を必死に守り抜いた法律学者が、その結果餓死してしまった話などは、笑い話にもならない悲惨な例です。
しかし、一般の多くのひとたちは、「思考系回路」が創りだした、「本音と建前」の理論を上手に使い分けて、闇米を購入することで、戦後を生き延びたわけです。
では、その「本音」とは何かと言えば、それは「情動系回路」の戦略で、「今を生き残る為には何んでもする」ということです。そして、「建前」とは、「明日を生き残る為には何でもする(米国の大統領や英国の首相のようにウソも平気でつく)」ということです。
平たく言えば、ひとの基本行動は、場面場面により、この「本音」と「建前」のせめぎ合いによりコントロールされているわけです。
この「本音と建前」を別の言葉で表現するとすれば、「性悪説と性善説」と言えるかもしれません。
一般的にひとは、「太ったブタか痩せたソクラテスか」の二原論の罠に嵌ってしまい、どちらか一方に組するように学習させられてしまっているようです。しかし、ひとのこころは、そのような「白黒」(この言葉の裏の意味は非仏教派か仏教派かを区別することで、勿論「白」は神徒系で「黒」は仏教系です。)の二原論で割り切れるほど単純なものではありません。
ひとのこころには、本音と建前が同居しているように、自分さえ良ければ何をしても良いとの「性悪説」と、自分を犠牲にしてまでも他のひとのことを思い遣る「性善説」も同居しているのです。
そのような複雑怪奇なこころを持っているひとが、複雑怪奇なこの世の中を、どのような方法で人生ゲームやプロカメラマンゲームを進めて行けばよいのでしょうか。
そのためには、それぞれのゲーム背景と自分のこころの作動パータンを調べることが必要です。
でも、それらの事を行うには、「あなたが手に入れられることができる情報は、あなたが払ってでもいいと思っているより以上のコストがかかります。」
この場合の「コスト」とは、お金のことではなく、今まで信じていたものが信じられなくなったり、自分の本当の姿を見ることになる、ということです。つまり、この場合の「コスト」とは「不安」のことなのです。
この世の全ての事は、ひとのこころが信じたとおりのものなのです。このことをあるひとは、「振り返れば、人生は夢のまた夢。」と表現していました。ひとは、外界の出来事を在りのままに見ているのではなく、自分が信じている(実際は信じさせられている。)ものだけを見ているにすぎません。
ですから、自分のゲームを有利にするために世の中を変える、或は、自分が思う自分に変身するためには、今まで信じていた全ての情報を疑い精査し、そして少しでも疑わしいと思われる情報は破棄することにより、初めて実現するわけです。
つまり、自立するということは、今まで記憶させられた納得できない情報を破棄し、だまされ易い「思考系回路」だけではなく、本能をバックにした「情動系回路」の「感」などを駆使して情報を集めそして分析し、その結果、「人道」においては、絶対正しい情報など何も無い、と気付くことです。或は、白隠禅師のように「難解な書物を理解しょうと無駄な時間を使ってしまった。今気付いた。自分自身が仏であったのだ。」と、自分以外に頼る者がいない、と悟ることから始まるのです。
そのような自立した立場で、今の自分を一歩引いて眺めて見ましょう。
今現在の状況は、自分の努力で築いたものなのでしょうか。それとも、誰かの力で導かれたものなのでしょうか。或は、誰かのせいで今の状態に落とし込められたのでしょうか。
人生ゲームを進める上で、「未来」がどのように見えるかは大切なことです。「未来」が明るく見えるひとは、この文章の先を読む必要はないでしょう。今のままで進んで行けば、未来は拓けることでしょう。
しかし、「未来」が明るく見えないひとは、自己点検する必要があるかもしれません。
では、「未来」が明るく見えないひとに問います。「過去」はどのように見えますか。
「未来」が明るくない多くのひとには、「過去」が輝く傾向があります。社会現象でも、経済が閉塞状態に陥っている時代は、回顧主義が跋扈しているようです。つまり、懐古趣味の復活がある時代は、不景気のどん底です。それと同じように、ひとのどん底状態のこころは、「未来」ではなく、「過去」に向かうようです。
では、その輝く「過去」は、本当に輝いていたのでしょうか。
時代が閉塞状態にある場合、歴史が脚光を浴びるのは、ひとびとのこころが、未来ではなく、過去に向かうからです。そこで、「未来」に向けて再び進むための情報を得るために、過去に向かうのならよいのですが、「昔は良かった。」と「現在」を否定するためのものだけであるならば、考えものです。
「現在」が生き難い時代であるように、「過去」も今とは違う基準で生き難い時代であったはずです。ですから、少しでも生き易くするために、ひとびとは創意工夫して時代時代の難問を解決して来たし、これからもそのようにして行くはずです。そのような創意工夫の積み重ねが時代の流れとなり、それが「歴史」と呼ばれる過去の物語となっていくわけです。
誰かが、「歴史はすべて現代史だ。」と言ったように、ひとの歴史(個人の経歴)も、現在の解釈の仕方で、ひとの過去の出来事は如何様にも解釈できるわけです。
例えば、過去の輝かしい肩書きが、紙切れ一枚の辞令で、リストラ状態に陥ってしまって身動きできない場合、今の状態の解釈の仕方で、人生ゲームの進み方は異なるでしょう。
人生ゲームを唯物史観的に解釈するひとであれば、時代は一定方向に共産主義世界の明るい未来に「科学的」に流れているわけですから、会社組織の出世の流れから外れてしまえば、「未来」はお先真っ暗となってしまうことでしょう。
しかし、「人生は一寸先が闇。」、「山があれば谷もある。」、「ケセラセラなるようになる、明日のことはわからない。」と、人生一直線ではなく、フレキシブルに「明るく」考えられるひとには、「挫折」は人生ゲームの仕方を変える分岐点となりえるし、人生の教訓「人生とはその思うことそのものだ。」を知る機会となることでしょう。
では、時代の流れが読めず人生ゲームの迷路に迷い込んでしまって、そこから脱出するにはどのようにしたらよいのでしょうか。
時代は確かに流れているし、目まぐるしく変化しているように実感できます。
カメラの機能及び画像処理を考えてみただけでも、その変化の説明は必要ないでしょう。銀塩カメラの操作情報は、デジカメには不必要です。銀塩カメラの画像処理の情報は、デジカメには不必要です。写真界は激変してしまったのです。それに伴い、印刷業界でも激変し、時代の流れは、銀塩カメラではなく、デジカメに有利でしょう。
そのように、時代は物のあり方や使用方法を変え、仕事の内容も変えていきます。しかし、それらの時代の流れから生産される物やサービスを受けるひとのこころは、時代と伴にかわっていくのでしょうか。
時代が要求する物やサービスを考え出す「思考系回路」は、明日を生き残るために、絶えず新しいものを創造していくことでしょう。しかし、「情動系回路」から産出される「感情」は、今を生き残るために作動するわけですから、「今」しか存在できません。ですから、「感情」は、時代と伴にかわることはないわけです。
では、その「感情」とは何かと言えば、それはひとの行動の「原動力」であるわけです。でも、その「感情」は、直接見ることは出来ないし、又、触ることもできません。唯、身体の出力により、「感情」は、基本的に「喜怒哀楽」の四つに表現されているのですが、ひとの遭遇する環境の場面場面により、それらの四つの感情は瞬時に変化し、一定の状態を保つことはできないようです。
ですから、それらの変化を克服するために、「平常心」の状態に保とうとするわけですが、その技術修得は、並大抵の修行では出来ないようです。
感情は、場面場面により瞬時に変化し、ひとの行動に重大な影響を与えます。しかし、それらの感情は、「情動系回路」により出力されるわけですから、「感情」はひとにはコントロールすることは不可能に近いことなのです。
つまり、ひとの事を成そうとするための修行の原点は、煎じ詰めれば、事において、感情をコントロールするために「平常心」の状態を保つことであるわけです。
ひとの行動の基本は、「感情」が高揚している時は、「思考」は低迷します。ですから、目的を達成するために、ひとの行動をコントロールするには「思考力」を増すことだと思い込み、ひとは「感情」を抑えるために「平常心」を心掛けるわけです。
そのような「思考」が正しければ、この世は成功者で満ち溢れていることでしょう。
人生ゲームが上手くいかないひとの多くは、「感情」と「思考」について、逆に考えているようです。つまり、「感情」は「時」と伴にかわっていき、それに対し「思考」は変化しない、と。
でも実際は逆なのです。「感情」は場面場面で瞬時に変化することは事実ですが、その出力パターンは時代と伴に変化はしません。このことに疑問があるひとは、自分の感情パターンを振り返って考えてみて下さい。同じ様な場面で、同じ様な感情を出力しているはずです。それに対し、「思考」は、場面場面で変化し、一定ではありません。その事実を隠すために、「思考」は絶えず「言い訳」を「思考」しているわけです。
人生ゲームが上手く行かないひとの歴史は、「言い訳の歴史」と言っても過言ではないでしょう。
ですから、人生ゲームを上手く行うようにするには、書物や偉い人の言う事を聞き「思考力」を増す様に努力することよりも、「感情」の反応パターンを変えることが必要なことは理解できるでしょう。
でも、「感情」は、ひとがコントロールできない「情動系回路」により出力されているのに、その反応パターンを変えることは可能なのでしょうか。
「感情」と「思考」とにより、ひとの「基本人格」は形成されています。これらのバランスが上手くとれていれば、人生ゲームの流れに上手く乗れるわけです。しかし、そのバランスが取れていないと、人生ゲームでトラブルに巻き込まれてしまいます。そのひとつが犯罪です。
犯罪を繰り返し犯すひとは、その「感情」と「思考」とのバランスが崩れているひとが多く見受けられるようです。では、それらの犯罪者は、人生ゲームの終着点まで、そのような「人格」を保っているのでしょうか。
ひとつの例として、極刑を受けたひとが「死」と真面目に向き合い「生」の本当の意味を悟り、そのことにより死刑執行実施前に「聖人」に変身していた、ということは、小説「宮本武蔵」の中ではなく、実際にありえることです。
どうも、ひとが変身するためのメカニズムのひとつに、「死」が関係しているようです。つまり、「バカは死ななきゃ直らない」と言われているように、「情動系回路」の初期化は「死」によりできるようです。
しかし、「人格」を変えるために、死んでしまったら、人生ゲームはゲームセットになってしまいます。ひとは一度しか死ぬことはできません。そこで、それに代わることを考えなければならないでしょう。
そのための代替として、古くから色々な宗教儀式や修行が行われて来ているようですが、ひとは「精神的に死ぬことにより人格は変わる」ことができることを昔のひとは、心理学者に教えられなくても、「智恵」で知っていたようです。
物が壊れた時、それを修復するために、その物を構成している部品を解体し、原因を突き止めることは、正しい行動です。
ひとの行動も同じことが言えるかもしれません。
今、人生ゲームが上手く行かないのは、自分の「人格」が故障しているのではないかと考えることは、その解決のひとつの方法です。
人格は、感情と思考とにより基本的に構成されているわけですが、ひとの行動の原動力は、「感情」ですから、「思考」よりも、「感情」の構成を点検することは、人格を変えるために必要なことです。
「分っちゃいるけど、止められない。」と言うことは、「思考」において理解はできたとしても、ひとには行動を起す「感情」をコントロールすることは出来ないことを表現しているわけです。
では、コントロール不能な「感情」の構成を点検するには、どのようにしたらよいかを次に考えてみましょう。
ひとのこころを点検する時、人生の流れについて誤解を与えたマルクスの史的唯物論と同じように、こころのメカニズムについて誤解を与えた思想があります。それは「精神分析」を発明したフロイトの思想です。
フロイトの思想も、マルクスと同じに、「科学的」を冠に付けることによりひとびとを惑わせました。
科学的とは、万人が立証可能な思想です。万人が検証不可能であれば、それは「科学的」ではありません。更に、科学的な思想は、時と伴にひとつの仮説に収束していきます。異なる仮説が平行して長期に成立つ思考は、科学的ではありません。
そのような前提で「精神分析」の思想を調べると、何故、フロイト派から1911年にアドラーが、1912年にシュテーケルが、そして1914年にユングが離脱して、それぞれが派を創り 、それぞれが似たようでいるのに微妙にちがっていたり、矛盾することがある「精神分析」を今だに行っているのが分るでしょう。
もし、「精神分析」がこころの奥底を「科学的」に探れるとしたら、そのように沢山の矛盾する思想は同時に存在できないはずです。
神経組織や脳細胞の働きを研究する「精神医学」においては、科学的な分析は可能でしょう。しかし、今だにこころがどこにあるかも特定できないのに、色々な測定器具を発明したところで計測することは不可能です。
思想は時代の需要に答えます。
1856年、モラビィアの王で伝説上の英雄ジークムントの名をつけた赤ん坊が、チェコスロバキアの小都市に生まれました。やがて成人したジークムント・フロイトは医学を学び、医師の道を歩み始めました。フロイトは自身のこころの悩み(うつ病と言われている。)から、フランスでヒステリーを研究しているシャルコーを知ることになります。彼こそが、フロイトの思想にヒントを与えた人物です。
催眠術を治療に利用していたシャルコーから、ヒステリーは無意識の心理作用から起こることを学び、更に、ヒステリーは性欲が関係している(性が開放された現代では当て嵌まらない。)ことも学んだのです。
そのようなシャルコーの思想に、自身の歴史を重ね合わせ、マルクスの唯物史観のように、口唇期→肛門期→エディプス期などの時系列での発達段階思想を発明していくわけです。
更に、「科学的」にこころを分析するために、無意識や超自我などの「心理学」用語を次々に発明していくわけです。
そこで、後々困ったことが起こってくるわけです。心理学用語(業界言葉)を使うことにより、一般の世界から、こころの究明が離れていくことです。そして、たまねぎの皮を剥くように、こころを解明する為に、物資の究明と同じように、次々と新しい心理学用語が発明されていくわけです。
結論から言ってしまえば、こころの問題は「精神分析」により「科学的」に解明することは不可能に近い、です。
では、現在、精神分析による治療はどのようなものかと言えば、患者の保持している問題イメージをカウンセラーの思い込みによるイメージに、言葉を利用して置き換える作業をしているわけです。その結果、カウンセリングを受けた医師の数と同じ数の「人格」を創られてしまった患者もいるそうです。
精神分析医の著書が面白いのは、精神分析は、科学よりも「文学」に近いからでしょう。毎日、患者の語るフィクション(患者は真実を語れない。)を自分流に解釈してフィクションの再生をしているわけですから。
と言う事で、「精神分析」は、今の時代のこころの問題解決技術の流れから外れて行くようです。
では、今、問題を抱えているひとに、自分の問題点を見つけ、そこから抜け出すヒントを与えてくれるのは何かと言えば、それは、「境界例」の考えです。
境界例とは、一昔前の心理学辞典には出ていないかもしれませんが、今では本屋さんの心理学書の棚には多く見受けられるタイトルとなっています。
現在では、境界例は、正式には「境界性人格障害」と命名された立派な臨床単位であり、その特徴は、こころの不安定さと激変し易い(キレやすい)感情の起伏です。
感情をコントロールするためのヒントが、何故境界例にあるのかと言えば、それは、境界例のひとは、通常は一般人と何ら変わりが無い(境界例のひとは思考系回路が発達しているひとが多いようです。)のに、ある状況下で、或はある言葉に敏感に反応し、感情のコントロールが効かなくなってしまうからです。
その原因のひとつと考えられているのが、フロイト思想の主張である性欲ではなく、幼い頃の母親との負の関係です。つまり、幼い頃母親から「みすてられた」との強迫観念が、情動系回路へ重大な影響を与える器官のひとつである扁桃体(恐怖の倉庫)に刷り込まれ、それがある状況下で、フラッシュバックして思考系回路を混乱させる「感情の爆発」を起すのではないかと考えらているようです。
ひとは、自分の実像を見ることはできません。鏡や写真で見ることができると言っても、それは実像ではなく、虚像です。それと同じに、自分の感情の実体を知ることはできません。
「知る」と言うことは、思考系回路が正常に起動していないとできません。感情が優位となっている時、思考系回路は劣位となります。ですから、感情が激情している時の自分の感情は、言葉では正確には説明できないことは、「言葉で表現できないほど感動しました。」と一般的に表現されています。
では、自分の感情の実体を知ることはできないのでしょうか。
自分の実像を見ることはできませんが、鏡などでその虚像をとおして、実像を推測することは可能であるように、自分の感情の実体を「映す鏡」を利用することで、自分の感情出力パターンを推測することは可能でしょう。
では、その「鏡」とは何なのでしょうか。それは、母親です。「三つ子の魂百までも」と言われているように、ひとの基本人格は、大体三歳位に確立されるようです。その人格に重大な影響を与えた原因のひとつが「母親」です。
ですから、母親の感情出力パターンを観察することで、自分の感情の実体を推測することができるかもしれません。
そのように、親の影響が子供の人格形成に重要な意味を持つことは、心理学者に教えられなくても、昔から、問題行動を起すワルガキに向かって、ばあちゃん達が「まったく、親の顔を見たいもんだょ。」と棄てゼリフを言っています。
そこで、人生ゲームが上手く行かない原因のひとつが、自身の人格の故障かもしれないと思われるなら、母親の感情出力パターンを観察してみることです。
そこで注意が必要なのは、感情は時代と伴に変わることはないのですが、人生の流れの中で、何かのキッカケで悟りを得たりした場合、感情の出力パターンが変化しているかもしれないと言うことです。このことを一般に「年と伴にひとは丸くなる。」と言っています。
感情のエネルギー源は「欲」です。ですから、欲の深いひとは、物凄いエネルギーを内在しているわけですから、感情の放出量も膨大です。所かまわずワンワン泣く赤ん坊などは「欲の塊」と考えることもできるかもしれません。
と言う事は、ひとは、年と伴に「欲」が減少していく傾向にあるようですから、年と伴にひとは丸くなる傾向にあるわけです。
そこで、今現在の丸くなった母親を観察するだけではなく、今を基点として乳幼児時代に接した母親まで時代を遡ってみましょう。その場合、アルバムやビデオなどの映像資料を使うことは優位なことです。その訳は、こころは顔に現われるからです。
何の為に、昔の母親に会いに行くのかと言えば、今現在の「不安感」の原因を探る為です。
人生ゲームを優位に進めるための大きな障壁となるもののひとつが、「不安感」です。「不安感」は、ひとが危険を回避するための危機管理には必要な感情です。しかし、それが度をすぎると、前に進めなくなります。それが嵩じると「引きこもり」の原因となります。つまり、人間関係が上手く行かない原因のひとつが、「不安感」なのです。
その「不安感」の感情を起す原因と考えられているのが、乳幼児期における母親との負の関係です。
「不安感」とは、原因が特定できないため、対処の手段がとれない状態にとどまる事にたいするイラダチの感情です。つまり、感情を放出できない状態です。ですから、「不安感」を起させる原因を見極めることにより、「不安感」を克服する手段が考えられることで、「不安感」から脱出できる可能性を得られるでしょう。
病的な「不安感」の原因のひつとは、乳幼児時代(三歳頃まで)に母親から「みすてられた」と感じたことですが、それは個人個人で異なりますから、記憶を辿る過程でどのような場面がフラッシュバックするかは分りませんが、引きこもりの子供が母親を責めるように、記憶の中で憎むべき状態の母親を感じたとしても、そのことを責めることはできないでしょう。
それは、子供が母親から色々な情報を刷り込まれるのと同じように、その母親もその母親から、同じような情報を刷り込まれているからです。つまり、負の連鎖です。不幸な家庭は皆似通っています。それは、人間関係の粗雑さです。
この負の連鎖を断ち切る方法のひとつは、「不安感」を刷り込んだひとを「うらむ」のではなく、「ゆるす」ことです。
記憶を遡る旅で、「不安感」の原因が特定できたら、それで「不安感」が消えるわけではありません。しかし、何故、病的な「不安感」が生じたのかの原因を知ることで、そして、その原因を作ったひとを「ゆるす」ことで、感情の出力パターンが今までとは異なることにより、今までとは異なる人間関係を築くことができるようになることでしょう。

   「わたし」をコントロールするのは「意識」か「潜在意識」か


人生ゲーム、それにブロカメラマンゲームを優位に進めるために、色々なヒントを今までに述べてきたわけですが、それらのヒントを基にプロカメラマンになるための戦略や戦術を計画したとしても、「計画は破られる為に計画される。」と言われているように、それらを実行することは容易ではないかもしれません。
それは、「わたし」という身体を、「わたし」という概念がコントロールすることが難しいからです。
その難しさを知るためには、「わたし」とは一体誰なのかを知る必要があるでしょう。
概念の「わたし」が、身体の「わたし」を知るのは、おおよそ三歳位からのようです。つまり、基本的人格が形成される頃です。その時期になると、鏡に映る身体の「わたし」は、本物の「わたし」でないことに気付き、鏡の後ろに本物の「わたし」が隠れているのではないかと推測し、鏡の裏を観察するようです。これが、「他人」と「わたし」との概念としての区別の始まりです。
そこで、一般的に考えられていることは、ひとはそれぞれ独立した「わたし」を内包して、「わたし」が「わたし」の行動をコントロールしている、という幻想を信じてしまっていることです。
そこで「わたし」とは誰なのかを知ろうという「欲」が「想像力」の力で、fMRIなどの精密検査機器を発明させた結果、脳の各分野の解明が一段と進み、ブレインマッピングが完成にちかづいてきた現在では、ひとの行動は機械的な仕組みでコントロールされているのではないかとの「思考」が支持されてきているようです。つまり、ひとはプログラミング可能な機械である、ということです。
しかし、そのようにひとの行動が、ドーパミン、セロトニンそしてアドレナリンなどの脳内活性物質などにより機械的にコントロールされていると「科学的」に証明されていても、ひとは、「わたし」の自由意思で「わたし」をコントロールしているという「幻想」を、生得的に刷り込まれてしまっているために、未だに「わたし」が「わたし」をコントロールしている、と信じて疑わないわけです。
この幻想は、「わたし」をして大脳皮質の前頭葉にある思考系回路を駆使して「思考」を展開することにより、無限の「欲」を追求するための「想像力」を発達させてきています。
紀元前四世紀にエピクロスというひとは、「本性が要求する豊かさは限られており、容易に獲得できるが、怠惰な想像が要求するそれは、無限に広がる。」と述べているようです。
ひとの行動は、どうも「欲」を追求する「想像力」に動かされているようです。このことを、十九世紀にジョン・ラスキンというひとが、「世界の需要の四分の三は、ビジョンや理想主義や希望や感情にもとづく空想的なものだ。財布の管理とは、要するに想像力と心の管理なのである。」と述べています。
現代では、ひとの行動の原動力は、「欲」と「想像力」であることが研究され、それは宣伝・広告ビジネスの基本となっています。
広告屋さんは、心理学者と同じに、時代が要求する色々な業界フレーズを発明してきていますが、「ブランドマーケティング」と言ったところで、その基本は、「欲」に火をつけ、「想像力」で煽ることにより、人生ゲームにおいて不必要な物やサービスを購入させ、或はブランドという幻想を刷り込んでいるだけです。ひとの「欲」には、紀元前四世紀も現在も何ら変化はないのです。
この「欲」と「想像力」がひとの行動の原動力であるならば、それらをコントロールするか、或は反対にコントロールされるかでは、人生ゲーム或はプロカメラマンゲームを遂行していく上で、結果は大いに異なることでしょう。
では、どのようにしたら、「欲」や「想像力」をコントロールできるのでしょうか。
ゴルフゲームは、人生ゲームとよく似ていると言われています。それは、両ゲームとも計画どおりに行かない、と言うことです。
そこで、ゴルフゲームにおいて、如何に概念の「わたし」が、身体の「わたし」をコントロールすることが難しいかをみてみましょう。
初めてのゴルフプレーを思い出してください。

生まれて始めてのティショット。ガクガクした膝を抑えようとしても抑えきれずに、パー4のミドルホール。150ヤード程(練習場では軽く200ヤードを飛ばしている。)の右側に横たわる広いバンカー。右にボールが行かないように、「わたし」は左足を開き、身体を左側の広いグリーンに向けます。先輩から教わった「チャー、シュー、メン」のリズムで、思いっきりボールを叩きます。するとボールは勢いよく左側の広いグリーンを目指して飛んでいきます。真っ直ぐ目標に向かっていたのは最初だけ。やがて、ボールは、右旋回してバンカーに着地します。
「何故だ。」と「わたし」は原因を探ります。そのように自問しながら何ホール目かを回っているうちに、「わたし」はあることに気付きます。それは、身体が目標に向かって左に向いていると、ボールは右に曲がりやすく、その反対に、身体が右に向いていると、ボールが左に曲がりやすくなる、ということです。
他のプレーヤーの何倍もボールを打ったことと、「何故だ」の自問でヘトヘトになった大きな池越えの最終ホール。大きな池のことなど考えることもなく無心で振ったクラブは、ナイスショット。終わってみたら最終ホールはパー。「何故だ。」

ゴルフゲームで、「わたし」が「わたし」をコントロールしようとすると、何故に事が上手くいかず、それとは反対に、何も考えないと事が上手くいくのでしょうか。
それは、コース設計者の罠に嵌ってしまっているからです。
何も障害物がない、広い芝生でプレーをしたら、シングルプレーヤもダブルプレーヤもそれほどの差はつかないでしょう。
そのようなゴルフ場は、すぐ倒産してしまうでしょう。面白くないからです。そこで、コース設計者は、ひとの「欲」と「想像力」を刺激するトリックを、木、バンカー、池、白杭、コースのデコボコなどを利用して考え出すのです。
同じコースでも、初心者が見るコースとシングルプレーヤが見るコースとでは大いに異なります。
ひとは、眼を開けば物が見えて、それが何であるかを無意識に認識していますが、その「見る」ということは、多大な脳の働きにより行われているのです。
眼から取り込まれた情報は、網膜に映し出されます。その情報により物事を認識するのであれば、事は簡単です。しかし、ひとが「物を見る」ということは、その網膜に映った情報を更に脳の各分野に伝達し、脳の各分野に格納されている過去の記憶情報などにより、外界の情報は歪められ、或は全く違う情報に創り変えられてしまう場合もあるのです。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花。」
その外界の情報を創り変えてしまう原因のひとつが、「想像力」です。脳の思考系回路は明日を生き残る為の究極の「うそ」、「想像力」を発明しました。脳は、外界からの情報を自分に都合が良いように、自ら想像することで、「わたし」に外界と異なる像を見せてくれます。その反対に、自分に不都合な場合、眼に像として映っていても、「見えない」こともありえます。つまり、「わたし」が見ている外界は、「個人的な世界」(虚構の世界)であるのです。
ですから、場数を踏んだシングルプレーヤは、それだけコース設計者のトリックを情報として入力されているわけですから、初心者と同じコースを見たとしても、脳では同じには見ていないのです。
では、その「欲」や「想像力」で動かされてしまう「わたし」がいない時(無心の時)、ナイスショットをしたのはどうしてなのでしょうか。いったい、誰が「わたし」にナイスショットさせたのでしょうか。
無心とは、意識の無い(「わたし」が存在しない)状態のことです。では、「意識」とは何かと言えば、それは、何かに気付いている状態で、その気付くことの主体は「わたし」です。「意識」は、さまざまな視点を選んで、見るものをある流れに乗せます。その流れに統一を与え、同一視することによりひとつのまとまりを創ります。それが概念となり、そして「わたしの世界」が誕生します。
しかし、それは虚構の世界です。多重人格のひとは、多くの「わたしの世界」を創り出します。
「わたし」は、虚構の世界という不安定な状態に常にいるので、何かをみると、つながりを創り、そして意味を見出そうとします。「わたし」についても、「わたしは何処から来て、何者で、そして何処へ行くのか」をたえず自問しています。その答えを求める潜在要求があるからこそ「完全なひとや理論」を求めるためその帰結として、いつの時代でも時代のニーズを満たす新興宗教ビジネスやブランドビジネスが成立つのです。
「意識」は、「わたし」をして、外界の情報に対処するために、色々な行動を起させます。しかし、ゴルフゲームからも分るように、行動を起させるのは、「意識」だけではないようです。
ひとの思考や感情、或は日常で体験するあらゆる感覚は、脳の神経細胞であるニューロンが発する電気信号の相互交信により引き起こされています。その電気信号の流れは、沢山の波紋を産み出しては消えていきます。「わたし」は、その波紋の大きなものだけを「意識」し、残りは「無意識」の活動として処理されているようです。
では、「無心」と「無意識」とは同じことなのでしょうか。
「無心」とは、物事に対峙した時、こころのなかに「わたしの世界」(想像力による架空の世界)を創造せず、そのままの外界情報と交流する状態です。武道の世界では、「無心」とは相手の身体の部分的動作に囚われるのではなく、相手の「気」全体に対応する状態のことです。
「無意識」とは、物事に対峙した時、「わたし」が何らかの都合で、その物事を認識できない状態です。
と言うことは、両者の根本的違いは、「無心」の時は「わたし」は存在しませんが、「無意識」の場合は「わたし」は存在しています。
では、「わたし」が存在しない「無心」の時、誰が身体である「わたし」をコントロールしているのでしょうか。
概念としての「わたし」が存在しない乳幼児でも、外界の情報に素早く反応し、そしてそれに対処する行動を起します。その状態は、「無意識」ではなく、「無心」の状態に当て嵌まるかもしれません。
ひとの行動は、二つに分けられます。随意と不随意とです。つまり、「意識」でコントロールできる行動と、「意識」してもコントロールできない行動です。
では、「意識」でコントロールできない行動は、誰がコントロールしているのでしょうか。
「意識」は、脳の大脳皮質の各分野のネットワークをコントロールするために創りだされたものです。その大脳皮質の働きをバッアップしているものが、脳幹と小脳(爬虫類の脳)と大脳辺縁系(哺乳類の脳)です。
脳幹と小脳は、身体をコントロールする器官で、大脳辺縁系は外界の情報に素早く対処するために、「感情」というエネルギーの素を創りだす器官です。ですから、爬虫類には「感情」は存在しませんが、哺乳類には「感情」が存在します。
大脳皮質の各分業分野との連携をとるために「意識」を創りだしたのと同じように、大脳辺縁系も各臓器器官との連携をとるために「イシキ」を創りだしたようです。それは、「潜在意識」(一般的には「本能」とよばれている。)と呼ばれるものです。
物の本には、「無意識」と「潜在意識」とを混同して解説しているものもあるようですが、以上で述べたように、それは違います。「無意識」には「わたし」が存在しますか゜、「潜在意識」には「わたし」は存在しないからです。
大脳辺縁系は別名、「情動系回路」と言われているところで、その主な働きは、今を生き残る為です。今を生き残ることが、「潜在意識」の主な使命なのです。
「潜在意識」は「哺乳類の意識」ですが、言葉を理解し、利用できないため、「わたし」は存在しません。「わたし」は「意識」により発明された概念だからです。
「意識」による行動のコントロールは、言葉により可能ですが、言葉を道具として利用できない「潜在意識」に働きかけるにはどのようにしたら良いのでしょうか。
ひとが思い巡らす方法は二つあります。ひとつは「言葉」を道具として構築する「理論」で、もうひとつが「イメージ」です。「イメージ」を創るには言葉は必要ではありません。
他の人に自分のイメージを伝えるには、言葉と映像があります。映像は、言葉よりも多くの情報を内在させています。
映像は、「潜在意識」にメッセージを伝える重要な手段なのです。これを利用(悪用)した宣伝・広告手段が、「サブリミナル」テクニックです。
自分の世界に異質な情報が潜入しないように働く意識が認知できない数十分の一秒で、映像を流すことにより、「潜在意識」にダイレクトに任意の情報を刷り込むことにより、任意の行動を起させる意図で行なうのです。そのように、広告業界は、「潜在意識」に任意の情報を刷り込む作業を「TV・映画」等で日夜行なっているのです。
「潜在意識」は、「欲」をコントロール下に置いています。「欲」は、行動の起爆剤です。 ひとが行動を起すには、「欲」の力が必要です。その力を増幅するには「想像力」が有効です。
「欲」は「情動系回路」により創りだされます。それに対して、「想像力」は「思考系回路」により創りだされます。
「情動系回路」は「潜在意識」にコントロールされています。それに対して、「思考系回路」は「意識」にコントロールされています。
では、「わたし」を人生ゲーム或はプロカメラマンゲームの目標に向かってコントロールするには、「意識」と「潜在意識」をどのように扱ったら良いのでしょうか。
ひとに行動を起させるのは、「欲」と「想像力」であるならば、その二つをコントロールする技術を修得すれば、「わたし」は人生ゲーム或はプロカメラマンゲームにおいて優位に進んでいけるわけです。そこで、「欲」と「想像力」はどのようにして喚起されるのかを考えてみましょう。
「欲」と「想像力」とは、お互いに影響し合い、その力を無限に増幅させていきますが、それらは、それぞれ別の系にあるようです。
簡単に述べれば、「欲」←「情動系回路」←「潜在意識」←「イメージ」←「こころ」の系と、「想像力」←「思考系回路」←「意識」←「言葉」←「わたし」、となるでしょう。「欲」と「想像力」とは、その発生系が異なるのです。そして、「欲」は「こころ」に現われます。「想像力」は「わたし」に夢を見させます。
この「こころ」と「わたし」の系がお互いに影響し合い、人生の場面場面で、それぞれの情報を交換し合い、色々な問題を解決していくわけです。
しかし、人生の道程で、色々なトラブルを解決できないことがあるのは、その「こころ」と「わたし」が上手くバランスが取れていないのが原因のひとつです。
問題解決ができないひとの多くは、「こころ」は「わたし」がコントロールできる、或は、「こころ」は「わたし」のコントロール下にあると思い込んでいるからです。
「こころ」についての定義は、今だ確定していないのは、心理学辞典にその定義が明確にされていないことからも理解できるでしょう。
でも、実際問題として、「こころ」の働きは、「わたし」ではコントロールすることが難しく、その為日常の行動に大いに影響していることは、心理学者でなくても、誰でも気付いていることです。「こころ」の働きの「憎しみ」、「妬み」、「恨み」そして「嫉妬」等などの人生においてのマイナスのエネルギー源を「わたし」がコントロールできたとしたら、人生はバラ色となることでしょう。しかし、実際はその逆のようです。
この「こころ」は、「こころ内にあれば色外にあらわる」と言われるように正直者です。しかし、「わたし」は「米国の大統領や英国の首相」のように嘘つきです。
この「正直者」(「こころ」)と「嘘つき」(「わたし」)を、どのようにしたら仲良くさせることができるのでしょうか。
「こころ」と「わたし」とは同じではないことは、ひとの「こころ」についての個体差を「性格」と言い、それに対して「わたし」の個体差については「人格」と言うことからも理解できるでしょう。
「性格」とは、ひとの「こころ」を身体表現したものです。その「性格」は、遺伝情報を基本に生活環境情報により創られたものです。
「人格」とは、遺伝情報よりも生得的な情報を基に、そのひとの人生の道程における、「家柄」、「学歴」、「職歴」などの情報を材料として創造されたものです。
ですから、「性格」は遺伝情報が基本なので変化し難いけれども、「人格」は生得的に与えられた情報なので変化し易いのです。
ゴルフゲームが面白いのは、「立派な人格者」が、ゲームの途中で林の奥深くボールを打ち込んで困難に陥ってしまった時に、地の「性格」が現われて「セコイこと」を行なうことがよくあるからです。それは、全く人生ゲームと同じです。「立派な人格者」イコール「立派な性格者」ではありません。
そこで困るのですが、「人格」は「言葉」を駆使する「意識」の系にあるわけで、そのことにより物事を「わたし」に都合の良いほうに解釈する傾向があるからです。本当は、「人格」は、「性格」の上に乗っかっているものなのに、「わたし」は、「人格」が「性格」をコントロールしていると誤解し、信じてしまっているのです。
人生ゲームでの問題を解決できない多くのひとの傾向として、「人格」を「性格」よりも優位に考えるか、或は「人格」と「性格」を同じものだと考えてしまうことです。
そのことにより、「人格」は「言葉」を利用して「わたし」に都合の良い「理論」を展開することで、あらゆる問題は解決できると信じているわけです。しかし、それですべての問題は解決するわけではありません。言葉で問題解決できるのは、「人格」上のものだけです。「性格」は、「こころ」の問題で、「こころ」は「言葉」を理解できません。
例えば、文章があるとします。文法上、または語彙が正確に綴られていたとしても、それにより「こころ」を感動させることはできないかもしれません。それに対して、文法上、または言葉遣いが間違っている稚拙な詩が、ひとの「こころ」の琴線を振るわすことは実際にありえることです。
では、人生ゲームあるいはプロカメラマンゲームで困難な問題に直面してしまった場合、「こころ」と「わたし」を仲良くさせるにはどのような方法があるのでしょうか。
ひとの複雑な身体機構をコントロールしていることを表す言葉があります。それは、「ホメオスタシス」です。ホメオスタシスとは、体温、体内の酸素濃度、身体のペーハーなどを自動的にコントロールすることを表す概念です。
この概念は、西洋医学では身体だけに適用できるものと考えられているようですが、東洋では「こころ」と「わたし」とをコントロールするために昔からある概念です。
それは、「こころ」と「わたし」とをコントロールするものは、東洋では「良心」と呼ばれているものです。「良心」とは、利己に偏らない判断のことです。それに対して、「わたし」だけに都合よく「こころ」と「わたし」とをコントロールしようとすることは「私心」と呼ばれています。
ですから、昔のひとは、物事に直面した時、「我れに私心あるやなしや」と、「こころ」と「わたし」に問、その問題解決の判断としたのです。
では、どのようにしたら、「良心」の基により「こころ」と「わたし」に問い、その結果により正しい問題解決の行動を起せるのでしょうか。
行動を起させるには、「欲」と「想像力」が必要です。その二つに問いかけるには、どのような方法があるのかは、宣伝・広告テクニックにヒントがあるようです。
宣伝・広告の基本道具として、クライアントの望む任意の行動を起させるには、「キャッチコピー」と「ビジュアル」とがあります。
キャッチコピーは、任意の行動を思考系回路に訴求します。それに対して、ビジュアルは、イメージとして情動系回路に訴求します。
それらの二つの道具により、ひとの二つの異なる回路に同時に働きかける例は、ポスターに見られます。広告・宣伝の手段としてのキャッチコピーとビジュアルにより構成されたポスターは、潜在顧客に対して任意の行動を喚起させる基本技術なのです。
この技術の源は宗教ビジネスです。それは、「プロパガンダ」と言われ、プロテスタントの布教(宣伝・広告)活動を揶揄したカソリックが発明した言葉です。
この世に、キリスト者は一人しかいません。仏教徒も一人しかいません。ひとりは十字架の上で、そして、もうひとりは流離の旅路で昇天してしまっています。それら二人は人間であるわけですが、プロパガンダ(キャッチコピーとしての経典とビジュアルとしてのイコン)により、二人は神と仏にされてしまったのです。もし、二人がこの世に再来したとしたら、現在のその二つの宗教における立派な法衣と伽藍による活動儀式を見て言うでしょう。「これはいったい何と言う宗教なのですか。」
優れたキャッチコピーとビジュアルを、思考系回路と情動系回路に同時に刷り込まれてしまえば、「うそ」も真実となり、唯の人間も神・仏に変身してしまうのです。
では、その技術を、人生ゲームあるいはプロカメラマンゲームで応用するにはどのようにしたらよいのでしょうか。
まず、目標地点に辿り着いた状況を想像することです。お金持ちが目標だったら、具体的なイメージを、目標がブロカメラマンだとしたら、どのようなプロカメラマンとして活躍しているかのイメージを具体的に想像するのです。想像が固まったら、それらを簡潔に表現する短い文章を考えるのです。それがキャッチコピーです。そして、その場面を象徴する画像を創作するのです。それがビジュアルです。それらの二つの道具を利用することにより、それぞれのゲーム目標に導く道が拓けるのです。
しかし、それらの道具を二つの回路に刷り込むには、もうひとつのハードルを越える必要があります。それは、「常識」と言う壁です。
常識とはひとが日常生活する上で、必要な情報と思われているようですが、角度を変えて見れば、常識を持つということは、思考停止状態にいる、と言うことができるかもしれません。
つまり、常識とは、その時代における社会での議論の余地のない情報のことです。ですから、その常識に対して疑問を持つことは、その社会に敵対することになりかねません。だからと言って、常識が常に正しいとは言えません。
ヴァン・モリソンが言いました。「心で考え、頭で感じるようになれば、世界はまったく新しいものに見えて、何が本物かわかるだろう。」
こころは正直です。こころは自然現象を観察し、なにも脚色なしにそのままのことを感じます。それに対して、頭は色々な情報を集め、それらを分析し、推測しそして新しい物語を創作します。
自然現象を観察し、その時代の常識に疑問を持つたひとが1564年イタリアに現われました。彼の名は、ガリレオ・ガリレイ。自ら制作した望遠鏡で天体を観察することにより、コペルニクスの地動説を説明し、地球が動いていることを発表してしまったのです。その時代では、地球の周りを太陽が回っていることが「常識」でした。
コペルニクスの「天球回転論」は、1543年に出版されましたが、ローマ・カソリック教会は、その理論を暦の計算を簡単にする為の道具であり、数学的な仮説であると考え出版を許可したようです。
その地動説の理論が出版される4年前、キリスト教原理主義者でカソリックと敵対するプロテスタントの旗手マルチン・ルターは、「聖書で、ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽であって、地球ではない。」と言って、地動説を批判しました。それに対して、ローマ・カソリック教会は、1633年にガリレオを宗教裁判にかけました。
カソリックもプロテスタントも、虚構の聖書の世界が正しと信じてしまって、地球が太陽の周りを回っていることを認めたのは、1980年に法王ヨハネス=パウロ2世なってからのことです。
何故キリスト教信者は、そのように実際の世界ではなく虚構の世界に楽しく暮らせたかというと、ヨハネの福音書の冒頭の「はじめに言葉ありき」の呪文に洗脳されてしまい、数百年も思考停止していたからかもしれません。
言葉(ロゴス)は、「わたし」の道具で、「うそ」の素です。それに対して、自然(こころ)は「うそ」はつけません。
人生ゲームやプロカメラマンゲームにおいて、ゴルフゲームにおけるバンカーや池などのような障害物が目の前に現われると、前に進むことが躊躇されてしまうでしょう。そこで、障害物を克服し前に進むエネルギーを得る為に、キャッチフレーズとビジュアルの力により、想像力を利用して欲を増大させようと思考系回路と情動系回路に刷り込みを行なおうと試みても、「意識」という門番が、現状の虚構世界の秩序を守ろうと、その情報の刷り込みを拒否することでしょう。
この「意識」の門番は、思考停止させるか、混乱させるかにより、任務遂行はできないようです。
思考を停止させるには、特殊な修行や宗教ビジネスのように大規模な仕掛けと膨大な時間が必要です。しかし、意識を混乱させることは、短時間にできます。
その「意識」を混乱させて呪文を刷り込む宣伝・広告技術は、毎晩見ているTVCFでその例を見ることができます。その技術とは、意識では考えられないような場面や想像力を越えるビジュアルを提示することです。そのように通常の意識では判断できない状態に意識を持ち込んでしまえば、意識は混乱し、呪文は簡単にふたつの回路に刷り込まれてしまいます。呪文が刷り込まれてしまえば、後は、無意識にその呪文どおりの行動を示すことでしょう。
そのように、一般のひとが広告屋さんの刷り込み技術を真似をすることは、できないこともないけれども、莫大な費用と時間とアイデアが必要です。ですから、ひとの意識が混乱する場面を他に考えてみることです。そのひとつが、ピンチの時です。精神的・肉体的にビンチの時は、意識も混乱しています。その時が、刷り込みのチャンスなのです。「ビンチはチャンス」とは、このことを言っているのです。
さて、障害物としての「常識」のひとつとして、「よーく考えて計画し、そして行動すればすべての問題は解決する。」と言う思考があります。その常識を信じてしまったひとは、問題解決のために色々な情報を集めることでしょう。しかし、それで問題が解決できれば万々歳です。しかし、実際は、考えれば考えるほど解決から遠ざかって行くのは何故でしょう。
それは、「こころ」のことを考えていないからです。
「わたし」と言う身体は、「こころ」と概念としての「わたし」によりコントロールされています。概念としての「わたし」は言葉を道具として「思考」ができます。「思考」は条件を変えることによりあらゆる理論を展開できます。
しかし、「こころ」は言葉を道具として使えません。外界の情報を、唯、好きか嫌いかを感じるだけです。その感じた情報を概念としての「わたし」に伝えることは直接できません。一旦、意識により言葉に変換して、やっと概念の「わたし」に伝えることができるのです。その「わたし」が「こころ」を感じた状態のことを「気持ち」と言っています。
「気」とは、「こころ」の言葉です。この「気」に気付くことが、身体のバランスをとるには必要だし、その「気」を無視して、言葉により身体の「わたし」をコントロールしようとしても、いつかは無理がきてしまうでしょう。なぜならば、「気」は身体の言葉でもあるからです。
良く練られた計画も、実行に移せなかったり、計画の途中で挫折してしまうのは、「こころ」と「わたし」のバランスがとれていなかったのが原因のひとつだったのです。
では、バランスがとれていないと感じ、その状態を是正したいと思うひとには、どのような方法があるのでしょうか。
明治時代の教育は、富国強兵のスローガンの基、こころを育てるのではなく、知識の詰め込みに傾いていました。先進諸国の最先端の情報を、思考回路をフル回転させて刷り込みをさせていたわけです。国が貧しく、そこから脱出するには、その方法は最善ではないにしても、必要な教育だったのでしょう。
しかし、現在では、明治時代の貧しさはどこを見渡しても見つからないでしょう。それなのに、現在の学校でも、こころの豊かさを育む音楽や美術よりも、数学、理科などの思考系回路を駆使する学科を優位だと考えて刷り込み学習をしているでしょう。
一般でも、生活に潤いを与える情動系回路が創りだす音楽や美術よりも、思考系回路の訓練に多くの時間を割く傾向があるでしょう。
そのように、教育現場や家庭でも「こころ」のことを訓練することを考えもしないし、その必要もないと思っているのでしょう。こころの専門家が利用する心理学辞典にも、「こころ」についての学術的情報もないほどです。
しかし、身体である「わたし」は、概念としての「わたし」と「こころ」とによりコントロールされているのです。その概念としての「わたし」は、明日を生き残る為に言葉を駆使することにより、あらゆる理論を展開することにより、時代の流れに沿って物質世界の扉を開き、物質文化を創り上げました。
でも、今を生き残る為の情動系回路による「こころ」は、時代の流れと伴に進化していません。古典文学を現在でも理解できるのもそのためです。
物質文明の現代では、「わたし」と「こころ」のバランスは危険状態と言ってもいいかもしれません。一寸したキッカケにより、簡単にバランスが崩れる可能性が大です。
身体の恒常性がバランスを崩すと病気になります。その原因のひとつに「こころ」があります。「こころ」は情動系回路により創られ、その情動系回路である大脳辺縁系は、身体をコントロールしている脳幹と小脳に、感情の素であるエネルギーを送っているからです。ですから、「こころ」のバランスが崩れると、食欲不振、不眠、下痢の症状が現われることでしょう。
では、快食快眠快便でないひとは、どのような方法でバランスを回復できるのでしょうか。
「こころ」は大脳辺縁系つまり「哺乳類の脳」にあるわけですから、哺乳類の生き方にそのヒントが見つかるはずです。
野生の哺乳類は自然を相手に生活をしています。それに比べて、ひとはどうでしょう。自然を克服(逆らって)することにより、日常生活に便利なものを発明してきました。そのひとつに電気があります。この電気により、ひとの生活サイクルに狂いが生じてしまいました。ひとの体内時計は約25時間サイクルのようです。その25時間は、電気が発明される前までは、野生の哺乳類と同じに太陽の運行に管理されていました。しかし、現代ではどうでしょう。商業主義の享楽のために、自然に逆らって、寝る間を惜しんで活動(?)しています。
睡眠は、ただ眠るだけではなく、身体の修復の時間であり、又、脳における昼間の情報整理の時間でもあるわけです。ですから、自然に逆らって、睡眠時間を極端に減らすことは、「体」と「こころ」に悪影響を与えるわけです。
ひと昔前、「書をすてて街に出よう。」と言ったひとがいましたが、「わたし」と「こころ」のバランスを回復させる方法のひとつは、「書をすてて(思考することを止めて)自然に帰ろう。」です。
ひとは、矛盾する存在です。「意識」は想像力により色々な人工物を発明して自然を破壊してきていますが、「こころ」は昔も今も自然の一部なのです。

終章


何処から来て、何者で、何処へ行くのか


街を歩けば、カメラを持ったひとが多く見受けられます。でも、よくそれらのカメラを観察すると、二種類のカメラが存在しているのを実感できるでしょう。
昭和の時代でしたら、カメラの主流は銀塩カメラです。しかし、平成の時代になりデジカメの驚異的な進化で、今や銀塩カメラはレトロとなり、実用機ではなくカメラコレクションの対象になりつつあります。
コンピュータチップは日に日に極小となり、昭和の時代では考えられないような製品を次々発明しています。カメラ付携帯電話などは、デジカメ中級機並の200万画素を出現させ、更に進化を遂げつつあります。時間を切り取り映像として記録するカメラの機能や概念も、今や昔の面影も薄れつつあるのが現在です。
そのように撮影機材が変革をしつつある現在で、映像を記録する仕事は、どのように変化していくのでしょうか。撮影機材の流れから推測すれば、撮影の技術に関しては、プロとアマの垣根はどんどん低くなっていくことは間違いありません。写真を撮影するということにおいては、誰でもプロカメラマンになれるのが時代の流れでしょう。と言うことは、逆に考えれば、これからはプロカメラマンを職業として日々の生業を稼ぐことは難しい時代となることでしょう。
テクノロジーの発達は、一面ではひとびとに幸福をもたらしますが、そのテクノロジーにより駆逐された仕事に従事していたひと達にとっては不幸をもたらします。これからは、プロカメラマンという職業も、テクノロジーの変革で激変していくことでしょう。
そもそも、日本にプロカメラマンとしての職業が成立したのは、明治の時代からです。百数十年前にはなかった職業なのですから。
では、これから先はどうなるかと尋ねられても、誰もはっきりとは答えることはできないでしょう。でも、時代の流れから一歩外れたとこから眺めてみれば、未来がかすかに見えるかもしれません。
消費文化の流れが早やすぎて、新製品の操作に慣れた時には、その製品よりも性能がよく且つ安い新製品が発売されるのが現在です。このことは、製品だけではなくあらゆることにも言えるでしょう。歌手の名前と曲を一致させることができた時には、もう新人歌手の登場です。それは、芸能プロダクションが生き残りの為、芸能学校を運営したことにより、その卒業生を次々とデビューさせる必要があるからです。
消費文化は利潤や効率を重視します。そのため、使える物まで棄てさせます。ひとも同様で、一流企業でも三十歳台で早期退職勧告です。そのような見識のない行いをするこの国は、一体どのようになっていくのでしょうか。
その結果が、今流行っているのは、宗教、占い、カウンセリング、精神安定剤発売の製薬企業、癒し系業等、こころの問題に関係するビジネスです。
こころの病は時代を反映するようです。だからと言って、昔はよかったと言うこともできません。小説「草枕」で「とかくこの世は住み難い。」と言った明治の文豪夏目漱石は、先進国である西洋からもたらされた哲学思考「我レ思フ故ニ我アリ」の「自我」という呪文に惑わされ、思考の無限の渦巻きに取り込まれ「うつ病」となり、行き着いた先が禅の世界の「則天去私」(他力本願?)です。
夏目漱石も、江戸時代の実践的思想家二宮尊徳の単純な二元論ではない「天道(他力本願)と人道(自力本願)」の考え方を実生活に取り入れていたら、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。」と癇癪を起こさず胃潰瘍にもならなかったかもしれません。
ひとの「こころ」は自然です。自然はひとの力ではコントロールすることはできません。ですから、人生で気に食わないことがたとえ起こったとしても、自然の声に耳を傾け、決して逆らわずに、人道を尽くし好機がくるまで辛抱強く待つだけです。
しかし、ひとの大脳新皮質により創造された「自我」(思い込みにより意思が固まったもの)は自然ではありません。その自我に内在する「意思(方向性を持つた意識)」はひとがコントロールすることは可能です。だからと言って、同じ脳の機能のひとつである「こころ」を、「意思」の力ではコントロールすることができないことは、「天道と人道」の考え方を理解しているひとには説明することもないでしょう。
しかし、明治維新後に輸入された、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」、そして、世界や物事を「天国と地獄」、「神と悪魔」の二つに単純に分ける、ユダヤ・キリスト教を信奉する西洋文化は、神である言葉による科学的思考(哲学)により分析すれば自然も克服できると信じているようです。しかし、実際の世界では、「初めに自然があった。その後に言葉が発明された。言葉はウソの始まりであった。」、つまり、言葉では自然は克服できないわけです。
西洋文化崇拝の明治時代に輸入された西洋哲学思考により、「こころ」をセルフコントロールできないひとは一人前の大人ではない、と今では世間一般のひとも信じているようです。その思考(言葉は神であった。)の行き着く先が、カウンセリングルームでないことを祈ります。
では、時代の流れが読めず、その結果「こころ」が不安定な状態に陥ってしまったひとには、どのような脱出方法があるのでしょうか。
前節で、思考回路の混乱からの脱出方法のヒントとして、哺乳類の生き方に学ぶことを述べました。それは、ひとの思考の基である大脳新皮質をバックアップしている大脳辺縁系は、哺乳類の脳であるからです。
それと同様に、「こころ」が何らかのトラブルを起しているのなら、爬虫類の生き方に学ぶことです。それは、大脳辺縁系をバックアップしている小脳と脳幹は、爬虫類の脳だからです。現在、亀やトカゲなど爬虫類のペットが癒しの目的で静かなブームとなっているのは、そのためかもしれません。
ひとの脳は三重層になっていて、爬虫類の脳(小脳と脳幹=本能)の上に、哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)があり、その上にひとの脳(大脳新皮質=わたし)が乗っかっているわけです。下の基礎土台(本能)がしっかりしていないと、上モノ(こころ→わたし)も安定しません。
「わたし」と言う意識が創造した概念は、言葉を巧みに加工して、明日を生き残るため色々なウソを無意識についてしまいますが、もの言わぬ「こころ」は、そのウソを全て見抜いています。そこで、そのウソの許容限度を越えてしまうと、「わたし」に気付かせるため「こころが痛み」、小脳と脳幹から身体に色々な信号(食欲不振・不眠・下痢)を送るわけです。
「わたし」が「わたし」に、ウソをついていることに気付いたひとは、自分探しの旅に出るようです。旅に出るとは、今までの時間的・空間的系を断ち切ることを意味します。つまり、過去の記憶情報の破棄が、自分探しの旅の目的のひとつです。つまり、旅に出ることにより生まれ変わりたいのです。
では、旅に出れば、過去の記憶情報は簡単に消えるのでしょうか。
旅に出れば、確かに意識に変化を与えます。それにより、今までの自分を忘れることはできるでしょう。しかし、それは一時的なものです。
通常のありふれた情報は、意識が意識外のものとして処理するため、そのような情報は、脳が「見ても見ないこと」にしてしまうからです。ですから、一日を振り返っても、一時記憶の保管所の海馬には記号としての情報が蓄積されていないため、何もない怠惰な一日であったと意識(わたし)が認識するわけです。
それに対して、日常の住み慣れた場所から、未知の場所への移動である旅は、希望と緊張の連続です。一秒先に何が起こるかは予想できません。意識は、常にON状態です。ですから、空気の微かな香りや風のささやきにも敏感に反応します。旅先の何もかもが新鮮だから、それらは海馬に記憶されます。ですから、旅先の一日は、日常の怠惰な一日と比べれば、長く感じられるわけです。そのような、意識の一時的変化は、旅に出なくても経験できます。その方法は、今履いている靴底を五センチ高くすれば、見慣れた街角も新鮮に見えることでしょう。
でも、それらの素晴らしい記憶も、旅先から帰り日常生活をニ三日もすれば、その素晴らしさも日に日に薄らいでいくことでしょう。
今の状態のままで旅に出たところで、旅先で死に直面するようなアクシデントにでも遭遇しない限り、自分の意識も変わらないし、自分探しもできない可能性もあります。それは、外界の情報は、そのまま脳に刷り込まれることではないことを理解しているひとには、その説明も必要ないでしょう。
脳の思考系回路は、自分に都合のよいように勝手に外界を認識させてくれます。ですから、その思考系回路を換えない限り、たとえ未知の世界に旅だっても、情報としては記憶に残っても、新しい情報で今までの情報を消すことなどはできないでしょう。思考系回路を換えることなしには、自分を変えるような旅にはならないし、自分を探すこともできないでしょう。
では、思考系回路は換えることはできるのでしょうか。
科学時代の現在でも、多くのひとは宗教ビジネスの良きお得意様であるわけです。それは、紛れもないご利益があるからです。では、その宗教の教義や儀式そのものが、お得意様にご利益を与えているかといえば、そうとも言えません。そのご利益を与える基本がなければ、宗教ビジネスは成立たないのです。その基本とは、「信仰心」です。
「信仰心」と言えば、宗教ビジネスの独占物だと理解しているひとが多くいるようですが、「信仰心」は、宗教には関係なく誰にでも内在しているものです。「信仰心」の源は、「しがみつく」ことです。赤子が、自らの生命を守るために、無心で「母親」にしがみつくことが、信仰心の始まりです。
理工系の利発な学生が宗教資料(マタイによる福音書と法華経)を科学的に分析して、キリストの奇跡とブッダの奇跡がソックリだということや、聖書に書かれているように男から女が創造されたのではないことは、男の染色体のYは女の染色体のXから変化したことなどの矛盾をついて宗教の非科学性を蔑視して、「私は、神など信じません。信仰心もありません。」などと言うようですが、その学生は、自分が「科学」にしがみついて(科学を信仰して)いることに気付いていないだけです。
無宗教者でも、ひとは、何かにしがみついていないと生きられない動物です。あるひとは「お金」に、あるひとは「家柄、学歴、職歴」に、又あるひとは「思想」(「宗教は麻薬だ。」と言ったマルクスは、共産主義にしがみついていた。)にと。
自分探しの旅をしているひとは、多分、今までの信仰の対象が崩壊し、新しい信仰の対象が見つからない状態にいるのでしょう。信仰の対象が見つかれば、自分が何者か分るかも知れません。つまり、自分とは、信仰心の上に創造された虚構概念なのかもしれません。(もしかしたら自分とは、チルチルミチルの青い鳥かもしれません。)
信仰心は、思考系回路を変えることはできないけれども、意識に何らかの変化を与えることは現実にありえます。
では、何にしがみつくかは、そのひとの生き方の問題で、百人いれば百通りの信仰対象があるわけです。では、どのようにしたら、信仰対象が見つかるのでしょうか。その方法のひとつは、全てのものを「こころで考え、頭で感じる。」ことです。
「こころで考える。」とは、比喩です。こころは動物的直感で、ものごとを判断します。その特徴は、言葉を理解できないことです。ですから、人為的に言葉で創られたものは無視します。それらの無視する対象は、ブランドと言うレッテルです。人物を評価する時、そのひとの行いだけを対象とし、家柄、学歴、職歴を無視することです。書物を読む時は、誰が書いたかを無視することです。勿論、聖書を読む時は、神様が書いたなどの呪文は無視することです。
「頭で感じる。」とは、本来の頭(大脳新皮質)の働きは物事を細分化して分析して推測することですが、過去の情報を基に理論展開をすることを中止して、現在の在りのままを見ることです。感じることは、過去や未来ではなく、今現在しかできません。過去や未来ではなく、今現在のことだけを見ることで、今までとは何かが違って見えるはずです。
そのように、「こころで考え、頭で感じる。」ことにより、この世で何が本物で、誰が偽者(対象としては政治家や経済学者が最適)かが分ることでしょう。
そのような視点を換えた物事の捉え方をすると、今まで信じていた色々なことに疑問が生じてくることでしょう。そのひとつに、「自分自身」があります。「自分の事は、自分がよく知っている。」と信じているひとが多くいるようです。でもそれは、本当なのでしょうか。もしそうであるのなら、この世の悩みの大部分は、存在できないかもしれません。「悩み」とは、答えの出ない状態のことです。その悩む主体は「自分」です。もし、自分自身のことを良く知っているのなら、ある問題に直面した場合、自分の行くべき方向など簡単に結論を出すことができるでしょう。何故ならば、自分自身に対する問題の答えを出すのは、自分自身しかありえないからです。
そこで、答えが出せず自分自身が分らなくなってしまったひとは自問するわけです。「わたしは何処から来て、何者で、何処へ行くのか。」と。
その疑問は、ひとが言葉を発明した大昔からあるようです。まず最初に、その疑問に答えたひとがいました。そのひとは、その答えを求めて瞑想に耽り悟りを開き、ひとつの答えを出しました、それは、「神が人間を創造し、罪深きは人間で、この世で神の僕となり良き行いをしたひとは天国に旅立つ。」、という物語です。
やがて、その物語に疑問を持ったひとが出てきました。そのひとは、言葉を駆使して客観的思考をし、色々な道具を発明して、観察や実験を繰り返して結論を出しました。「150億年前のビックバーンにより物質の基が宇宙に拡散し、その原子が集まり分子となり、それらの分子が集合して蛋白質となり、そこから生物が発生し、五六百万年前に類人猿が出現し、その流れから人類は進化して人間となった。人間は考える葦である。そして心臓と脳機能が停止すると唯の物質に戻る。」、というストーリです。
もし、全能の神が、自分に似せて人間を創造したのなら、何故に不完全な人間を創ったのか。そして、神は全能なら、全世界を七日で創造したのなら、何故に天国と地獄があるのか。
もし、ビックバーンが宇宙の始まりなら、その前はどのような状態だったのか、科学は解明していない。科学が、全てのことを客観的理論で説明できるのなら、「こころ」はどこにあるのか、そしてそのメカニズムはどのようになっているのかを解明していない。
前者の物語は、分り易く「こころ」に感じるのだけれども、科学的には納得できません。後者のストーリは、理論的に納得できても、温かさがなく「こころ」に響きません。
その疑問に対する「こころ」と「頭」を同時に納得させる完璧な答えを出すには、まだしばらくの時間が必要なようです。
でも、ひとの欲と想像力の結果、脳の機能が徐々に解明されつつある現在、ひとは何者であるかは解明されつつあるようです。その思考のひとつとして、「ひとはプログラミング可能な機械である。」ということです。
もしそうであるのならば、人生の迷路に入り込んでしまったひとが、そこから抜け出せるヒントが手に入るかもしれません。

出発は「こころ」の自立から


この本のテーマは、プロカメラマンになるためのヒントを述べることでした。エレクトロニクスの驚異的な進歩により、写真を写す技術はコンピュータが「ひとの勘」の代替わりをし、誰でも簡単に写真を綺麗に写せるのが現在です。プロカメラマンのアマとの差別化は、撮影においては難しくなっています。アマとの差別化のプロカメラマンに残された最後の武器は、「ものの見方と考え方」だけです。それは、ひとのメカニズムを侵食し万能に思えるコンピュータでも、その分野までは、まだ開発されていないからです。
そのために、内なる世界(脳内のこと)と外なる世界(世間・歴史)の裏側からの見方を提示したわけです。その提示の仕方も思いつくままに書き殴ったため、脱線をして何を目的の記述か理解不能の箇所が多々あったかと反省しております。
さて、限られた人生で、目標に到達するためには、無駄な努力をしないことです。無駄な努力をしなければ、それだけ目標に向けてエネルギーを最大限に放出できるからです。しかし、日常の出来事を振り返れば、かなりのエネルギーロスを実感できることでしょう。その多くは、無駄と思われる思考をすることです。つまり、解決のつかないどうしようもないことに思い悩むことです。
悩む結果、目標に向けて進んでいけるのであれば、それも可です。でも、実際は悩むことで人生の限られた時間をロスするのが大部分でしょう。
そこで、その悩みから脱出する目的で、カウンセリングや宗教ビジネスなど色々な事を試すわけですが、それらで解決がつけば万万歳です。でも、そこで解決がつかないひとは、生まれ変わることを願望する傾向があるようです。つまり、変身願望です。
この変身願望は、悩める大人だけではなく、小さな子供にも強くあるようです。少年向け漫画の根性物語(修行物語)やそのものスバリの平凡な子供が超人に変身するストーリなどは、子供の潜在変身願望に向けての訴求でしょう。
細胞からみれば、身体は一年を過ぎれば、変身しているのです。身体の細胞は毎日毎日新陳代謝をして、一年も過ぎれば全く新しい細胞に変身しているのです。そのように、「身体」は時間が経てば変身しているのに、何故に「意識」は変化しないのでしょうか。
悩んでいるひとの中には、何十年も前のことを未だに悩んでいるひとも珍しくはないようです。そのシツコイ悩みから開放される方法のひとつは、脳の一時記憶保持器官である海馬の機能を停止させることですが、そうなれば過去の記憶を呼び起こすことができないため「わたし」が誰なのかも分らなくなってしまいます。
では、悩みから開放される方法はないのでしょうか。
そこで、先人の智恵を拝借することは、賢い方法です。悩みについての二宮尊徳の考え方をみてみましょう。
尊徳は、事を天道と人道とに分けて考えます。例えば、庭先に柿木があるとします。柿木は自然の摂理で秋になれば実をつけ、冬に向けて葉を落とします。落葉は毎日毎日積もります。しかし、庭先の落葉を放っておくのは人道ではありません。人道で落葉を掃除しても、次の日にはまた落葉は積もります。それは天道だから仕方ありません。その落葉にこころを煩わしこころを労して、一葉落ちたからといって、箒を持ってきて掃除をすることは、ゴミに使われていることになります。賢いことではありません。
では、どのような仕方があるのでしょうか。そこで尊徳の考えによれば、落葉が積もるのは天道だから、人道をもって毎朝一度は掃除をすること。掃除の後、また落葉が積もっても、それは放っておくこと。何故ならば、無心の落葉(物)にひとが使われるのは愚かなことだ、毎朝一度掃除をすることが人道である。それで善しとする。
この考え方を応用すれば、悩む対象が、もし、天道の範疇であれば、人道を試みても上手く行かないのであればキッパリと「あきらめる」ことが大切だ。何故ならば、天道は自然で、人道は不自然だから。つまり、人道は天道に随うのが「自然」だから。
自然は、ひとにはコントロールすることはできません。コントロールできない事を思い悩むことは賢いことではありません。それには、「仕方が無い」と「あきらめる」ことも悩みを解決するひとつの方法です。
しかし、無限の「うそ」を創造する思考系回路は、あらゆる解決方法を思考するわけですが、ひとはひとが解決できる問題しか解決することができません。
ひとの思い悩む基本は、「生老病死」と言われています。
「生」とは生きることで、生きることにおいての悩みは色々ですが、その悩みの多くは経済的なもののようです。その経済的悩みが解決できたひとは、次に生きることの意味について悩むようです。
「老」とは老いることです。ひとはこの世に生まれた時から、老化が始まっています。このことは、神様でも止めることはできません。
「病」とは病気のことです。この世に健康なひとなどひとりもいません。不規則な生活を続ければ、誰でも病人の予備軍なのです。
「死」とは死ぬことです。これはいつお迎えが来るかわかりませんが、ひとは一度しか死ぬことができません。
尊徳的「天道と人道」とにより「生老病死」を考えれば、悩みの多くは解決できるかもしれません。
「生」についての経済的問題の解決方法のひとつは、分限を知ることです。分限とは、自分の収支の経済状態を知ることです。そして、収入の八割で暮らす智恵を持つことです。一月百万円の収入のひとは、八十万円で、十万円の収入のひとは、八万円で暮らすことです。そして、余りの二割を貯蓄し、無収入でも三年間暮らせるだけの資産を作ることで、経済的悩みから開放されることでしょう。これらのことは全て人道です。
生きる意味についての悩みは、答えの出ない問題のようです。未だに、納得できる答えにめぐり合っていません。もしかしたら、これは天道の範疇のものかもしれません。もし、そうだとしたら、答えが出ないのは「仕方が無い」と「あきらめる」こともひとつの方法かもしれません。
「老」は天道ですから、悩んでも解決できないでしょう。素直に受け入れるしか方法はないでしょう。
「病」は天道と人道に係わります。規則正しく暮らすのが病気から遠ざかる方法です。もしも、病気になってしまったら、自然治癒力の天道に委ねることもひとつの方法です。
「死」は天道ですから、いつお迎えが来てもいいように、常に心の準備をしておく以外に方法はないでしょう。
基本的に悩みの根底にあるものは「欲」です。「欲」が満たされれば、悩みは解決します。何故ならば、「欲」は行動の起爆剤ですから、その「欲」が満たされて消滅してしまえば、「悩む」と言う行動自体も消滅してしまうからです。
それでは、多くの悩みが消えないのは何故でしょう。
「欲」には、大きく分けて二つあります。ひとつは、「本性が求める」もので、もうひとつは思考系回路が創りだす「想像力が求める」ものです。
本性が求める「欲」は、生得的にプログラミングされているもので、それらの基本は食欲・性欲・睡眠欲です。これらの「欲」は、満たされてしまえば直に消滅してしまいます。
しかし、想像力が創りだす「欲望」は、無限の増殖力があります。ですから、いつまでも満たされることができないため、悩みもいつまでも消滅することができないのです。
では、その「欲望」をコントロールする方法はないのでしょうか。
「欲」と「欲望」とはどこが異なるのかと言えば、基本的には、「欲」は「本性のプログラム」により作動することです。それに対して、「欲望」は「わたし」が想像力で「欲」のエネルギーを増大させることです。
「本性のプログラム」を「わたし」がコントロールすることはできませんが、「わたしの想像力」を「わたし」がコントロールすることは可能です。
「わたし」が「わたしの想像力」をコントロールすることが可能だということは、「欲望」を喚起させる技術をビジネスとしている企業が存在していることでも証明できるでしょう。それは広告代理店です。広告代理店の「おしごと」は、クライアントの望む売上を達成させるための戦略と戦術を実行することです。
その「おしごと」の基本は、潜在顧客の眠れる「欲望」に火を点けることです。
ひとは、自分の意志で自分をコントロールしていると言う幻想を信じ込んでいるようですが、ひとが行動するパターンは決まっているようです。その法則とは広告業界では、「アイドマの法則」と呼んでいます。
アイドマ(AIDMA)とは、A=Attention(注目)、I=Interest(興味)、D=Desire(欲求)、M=Memory(記憶)、A=Action(行動)の頭文字です。
ひとに行動を起させるには、注目→興味→欲求→記憶→行動、の手順が必要になるわけです。
この一連の流れの中で、最も重要なことは「記憶」です。ひとは自分の意志で行動していると信じているようですが、自分の意志で行動しているのは、一日でもほんのわずかな時間でしかありません。大部分の時間は、「記憶」された情報を基に行動しているのです。
ですから、優秀なアドマンは、クライアントに依頼された任意の情報を「記憶」させるために、色々なトリックを駆使するわけです。
注目→興味→欲求を喚起させるのは簡単です。それは、ひとの「本性の欲」である、食欲(御馳走)、性欲(魅力的な異性)、睡眠欲(安らぎ)の情報を提供すれば、一般のひとは、注目→興味→欲求の流れに乗せることができるでしょう。
しかし、「記憶」させるには一工夫が必要です。広告業界で一般的に使われるその技術は、「感染魔術」です。「感染魔術」とは、ある物に、ある者が触れると、その者の影響力が感染すると言う「錯覚」です。その技術例として、あるイメージを持ったタレントが宣伝物を持ってのニッコリポスターを挙げることができるでしょう。
そのような宣伝技術で、任意の情報を刷り込まれて「記憶」として保持されてしまえば、あとは「行動」あるのみです。そうして、日常生活に不必要なブランドと言うガラクタが押入れに詰め込まれ続けていくわけです。
さて、以上の説明で、「欲望」をコントロールするヒントが理解できましたでしょうか。
「欲望」をコントロールするには、想像力をコントロールすることです。その想像力は、今までに刷り込まされてきた情報を基に創造されるのです。
例えば、ユダヤ・キリスト教原理主義者に、夢枕に「ブッダ」を立たせることはできないでしょう。その逆に、仏教原理主義者に「アブラハムの神」を夢枕に立たせることなどできるはずはないのです。つまり、刷り込まれていない情報は、ひとには想像することもできないからです。
ですから、「欲望」をコントロールするには、今までの自分に不都合な「記憶」を消去し、新たに、不健康な実現不可能な情報を避け、自分に望ましい実現可能な情報を自分に刷り込むことです。
しかし、一度刷り込まれた「情報」は「記憶」として保持されてしまえば、簡単には消去することはできないでしょう。
例えば、上野の森の西郷隆盛の銅像にある顔は、本物の西郷隆盛ではないようです。除幕式で奥方が銅像の顔を見て、「これは西郷ではナカ。」と言ったことは有名な話です。しかし、何を目的かは分りませんが、学校の歴史教科書などにはドングリ目玉のあの西郷ドンの顔(ウソの情報)が、今でも堂々と掲載されています。これまでに刷り込まれた西郷ドンの顔が「ウソ」だと分ったからと言っても、一度刷り込まれてしまった情報である西郷ドンの顔(ウソの情報)の「記憶」を消すことは困難であることが分るでしょう。
では、「記憶」は消すことが困難なら、どのように対処すれば良いかと言えば、今までの刷り込まされた記憶情報以上に、新しい自分に相応しい情報を、「他人に頼らず」、自分が自分に不都合な記憶が気にならなくなるまで刷り込み続けることです。このことが、こころを自立させる出発点になるのです。

神輿の黙示録(1)(日本人とは何者か)


人生ゲーム或はプロカメラマンゲームを進めていく上で、それらのゲームを行なうフィールドについて調べておかなければならないことがあります。
見知らぬ国を旅する場合でも、予めそれらの国の実状や歴史などを調べて、情報として保持していれば、これからの旅もし易くなるし、楽しくもなるわけです。
そこで、ゲームのフィールドとしては色々考えられますが、ここでは日本について考えてみることにしましょう。そう言っても、学校で日本について社会科や歴史の教科で学習したから、今更調べる必要などない、と思っているひともいることでしょう。
しかし、学校等で学習した情報は、庶民(王権の子孫ではないひと。王権の子孫は嫡民。)にとって本当に正しいものなのでしょうか。
二十一世紀に入り、軍事大国米国は、イラクを先制攻撃しフセイン政権を打倒しました。勝利宣言をしたブシュジュニァは、記者会見で、新生イラク統治の疑問を発した記者に対して、「百五十年前の日本の統治のように上手くいく。」と自信ありげに答えました。
百五十年前?
勉強があまり得意ではなかったブシュジュニァのことだから、太平洋戦争後の日本統治の五十年前を、百年多く言い間違えたのだろとの新聞記事が掲載されたものです。
本当に新聞記事の言うように単なる言い間違えなのでしょうか。百五十年前と言えば、丁度「明治維新」の頃です。
エール大学の秘密結社スカル&ボーンの結社員であるブシュジュニァは、明治維新の闇の部分を知っていたからの発言ではなかったのでしょうか。
闇の世界に興味のあるひと達が囁いていることがあります。
日本国の旧五千円札と米国の一ドル紙幣を用意して下さい。まず、五千円札の裏にある逆さ富士を眺めてください。一般的常識では、湖面は鏡と同じで、対象物はシンメトリーとなって映し出されるはずです。五千円札を逆さにして湖面に映る富士山を眺めて下さい。それは富士山に見えますか。あるひとが言いました。それはシナイ山だ。
日本国の経済の血液である紙幣に、外国の山がサブリミナルで掲載されている、と言うひともいます。
紙幣が国の経済の血液であれば、政治の骨格は国会議事堂でしょう。国会議事堂と言えば、あの独特の屋根を思い浮かべるでしょう。では、あの屋根を設計したひとは誰なのでしょうか。それが分らないのです。百年も経っていないのに、誰があの屋根を設計したのか分らないのです。でも、設計公募により採用されたデザインによれば、その屋根はドームであったのです。誰かが何かの目的で、屋根のデザインをドームからピラミッドに変更したわけです。ピラミッドは王家の墓場です。そこで、米国一ドル紙幣の裏を見てください。そこには、上部に目があるピラミッドがあります。このピラミッドは、世界的ネットワークを持つ結社のマークと言われています。
五千円札を発行しているのは株式会社日本銀行です。その株の三十八%保有しているところがあります。それはイングランド銀行だと言われています。株式投資を行なっているひとなら分ると思いますが、ある会社の株の四十%を保有していれば、その会社は連結決算の対象となり、一般的には、その会社は「子会社」と呼ばれています。
時代の夜明と言われている、「明治維新」の闇の世界で一体何があったのでしょうか。
この国には確かに闇の部分があるようです。その闇は、庶民に対して陰湿なイジメの基のように感じられます。そのイジメの戦略は、「夷をもって夷を制す。」と言う中華主義そのもののようです。それは、その王権も庶民も四世紀から七世紀の間に、中国大陸や朝鮮半島から渡来した民族だからのようです。つまり、中華式統制は、「八色の姓」でひとの貴賎を差別し、「新撰姓氏録」で出自の差別をするという制度的で、北面するキタナイ庶民がキタナイ庶民をイジメルのを南面する嫡民が遠くで眺める図式です。
これは中華思想によるもので、王権にあって「君子は南面す。」であり、王城の北に位置し、南面することを許されざる者=北に座所をもてない者が、「北無し」つまり、「ヨゴレモノ」で王権傘下のひとでない者であるわけです。大乗仏教と供に中華思想が侵略してくる前の「倭国」(シャーマニズムの世界。巫女(女)が神とコンタクトする女尊男卑の母系社会。呪術カラー赤色。)では神の位置は東西であったのが、倭国改め七世紀に「日本国」(ヒンズー教化した仏教の世界。僧侶(男)が仏とコンタクトする男尊女卑の父系社会。呪術カラー金色。)となってからは神の位置は南北になっている。北は夷(えびす)の棲む蝦夷の国であるのです。
そして、そのイジメの図式(王権にまつろわぬ者→キタナキ者→ヨゴレ者→穢れ者→エンガチョ)は、現在では普通の小学校や普通の会社でよくみられるようです。そのイジメのカラクリを知るには、日本国の歴史を別の角度(庶民側・敗者側)から眺めることです。そして、その闇の扉を開けるヒントは、お祭りの神輿にあるようです。そこで、神輿について調べることにより、この国の闇の部分に、微かではあるけれども光を投じてみることにしましょう。
この国で出世を望むなら、「本音と建前」のテクニックを修得しておく必要があります。出世とは、「ハレ」の場に出ることで、それは高貴な公家衆の前にかしこまることです。庶民の前ではなく、公人や殿上人の前に出ることが「ハレ」で、このことを「世に出る」、つまり、この国での「出世」と言われている本当の意味です。
「本音と建前」とは、本質を言えば、「本当とウソ」のことです。この国では、「ハレ」の場では「本音」はタブーで、「建前」で話さないと「出世」できないのです。
今のように時間潰しの色々な遊技がない頃の日本国では、子供達の楽しみのひとつは秋祭りでした。子供の頃から不思議に思っていたことがありました。それは、祭りでの神輿のことです。威勢よく街路をワッセワッセと練り歩く神輿に向かって、見物人が「水」や「塩」を撒いていたのです。誰かが歌っていた祭りの歌の歌詞の中で、「景気をつけろ、水撒いておくれ、塩撒いておくれ、ワッショイワッショイ、ソレソレソレお祭りだぁ。」というのがありました。しかし、子供の頃の神輿の思い出は、景気付けのための「水」や「塩」ではないように感じていたものでした。
神社へ行くと、本殿の裏にみすぼらしく今にも朽ち果てそうな祠がありました。そのような配置は、あらゆる神社で目撃することができました。本殿の裏の湿気の多い場所にいる神様は一体誰なのか、疑問に思っていたものです。
神輿が日本の記録に現われるのは、天平勝宝四年(752年)奈良の大仏(大ビルシャナ仏=太陽の神)建立にあたり、宇佐八幡を勧請する祭聖武帝の常輿のほうれんをもって代行した時とされています。
宇佐八幡が神輿の日本国におけるルーツだとしたら、その神輿に祭られている神様は誰なのでしょうか。現在の宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后そして宗像の三姫神と言われていますが、それは「建前」で、「本音」は、延喜式(905年から927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯(たらし)姫神、姫神の三神とあるそうです。
では、宇佐八幡の意味はどのようなものかと言えば、宇佐氏とは海部出身で「ウサ」とは「スサ」即ち産鉄民族系の意味で、それが基で地名となったようです。これは、京都の山背の「太秦」と同じで、「うず」とは「宇豆」(偉大、尊いなどの意味)で、「まさ」は「勝」で「すぐり」つまり、朝鮮の「村長」の意味です。ですから「太秦」とは、秦氏一族の勝(すぐり)の偉大な統領が住んだ地を表しているわけです。
では、八幡とは何を意味しているのでしょうか。八幡は「はちまん」ではなく、古名では「やはた」です。「八」は末に広がる多さを表し、「幡」は「秦」を表し、「八幡」とは秦一族か栄えることを願う意味です。更に、「幡」は「秦」で、「秦氏」は「新羅」からの渡来者です。すなわち、八幡の神は朝鮮半島から渡来した外来神であるわけです。
新羅の呪術カラーは白です。鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じ、源氏の旗を「白」とし、守護神を八幡神としたのもそのためなのです。
八幡神社は全国に約二万四千あるそうです。日本国で一番多いのは稲荷社で約三万五千と言われています。「稲荷」も「夷なり」で、渡来神のようです。(その頃の中央にいた大乗仏教も渡来神です。日本国の神の多くは渡来神です。)
この新羅の神は、七世紀に日本国を金ピカの「大乗仏教」をバックに支配した百済系氏族により中央から追い落とされていくわけです。
童歌(こどもの歌ではなく、闘いに破れたひとたち、つまり、王権から子ども扱いされたひとたちの哀歌)の「とうりゃんせ」がこのことをよく表しています。
「とうりゃんせ、とうりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっととおしてくだしゃんせ。ご用のない者とうしゃせぬ。行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ。」
この童歌からも分るように、王権から庶民に落とされたひとたちは、自分達の氏神様にもおいそれとはお参りもできなかったようです。
童謡の歌詞の「建前」ではなく「本音」を知ると、思わずゾッとするものが多くあるのは、庶民が「ハレ」の場所から、湿っけの多い場所「け」に追い落とされた怨念が込められているからでしょうか。
では、新羅や百済とはどのような民族なのでしょうか。それらの民族は元々朝鮮半島に居たわけではなく、新羅(騎馬系民族。太陽「ラー」を信仰。「白」を民族カラーとする。)は西アジアから陸路で半島に辿り着き、百済(海洋系民族。海照「アマテル」を信仰。「赤」を民族カラーとする。)はインド周辺から海路で半島に辿り着いたようです。
倭国は元々海洋民族(ワダツミ)で、北九州と朝鮮半島南部がテリトリーであったので、663年の白村江の闘いでは、倭軍は百済と同盟し、唐・新羅軍と闘い敗れるわけです。そして、倭国は670年には中国の歴史から消滅し、それに替わって「日本国」が現われるわけです。
朝鮮半島での百済国は滅亡しても、コロニーである日本国内の百済系氏族は健在です。白村江の闘いで勝利した唐軍が日本列島に侵攻してくるから、国内の華僑や出自が異なる民族が団結して、倭国王家の基に「日本国」が創られた、というのが歴史的通説のようですが、果たして「本音」はどうなのでしょうか。
七世紀に新生「日本国」が誕生し「近江律令」(668年)などで政治制度が変わったからと言って、民族の血の流れが変わるわけではありません。この国には、「赤」「白」「金」それに「黒」を民族カラーとする集団が存在しているのです。「黒」は、「黒幕」と言えば、事件の背後にいる表にでないひとのことを言うように、正体不明の民族です。
新生日本国が誕生する背景には、仏教による神への勝利があります。激しい戦いの後、神は生き残るため仏の軍門に下り、本地垂迹説が展開されるわけです。神は本来の「血による祭儀」を殺生禁止の仏教に否定され、「火による祭儀」に変化させられていくわけです。
「血による祭儀」とは、祟りを静める儀式であるわけで、仏教によりその儀式が否定されても、その儀式は違う形で生き延びていくわけです。それが宿神であるわけです。神と交流し彷徨える魂(祟り)を静める「宿神」には三つあります。それらは、部落の宿神、能の宿神そして天皇の宿神です。
当時の先進国中国大陸での宗教の始まりは、母系氏族社会において、生き残るために氏族の結束を目的に、日常生活における問題点を解決するためのひとつの手段として自然発生したものです。その信仰(しがみ付く)対象として、自然崇拝、トーテム崇拝、天神崇拝、祖先崇拝などですが、母系社会制度の中で最も特徴的なのは女性崇拝です。女性特有の感情の激しさ、その逆の優しさは、まさに自然そのものです。
その母系氏族の生き方の中から、道家、道教そして神仙の学が現われてくるわけです。
氏族が小規模の部落として暮らしているならば、自然を崇拝しそれに従っていればよかったものが、人口の増加で暮らしのために自然を克服する必要性が生じてくるわけです。そのひとつが、農地の確保のための治水事業です。その治水事業とは、自然に闘いを挑むことになるのです。そこで力の強いものが、氏族を統率することになるのです。それがやがて父系氏族を生み、そして父権家長制の階級社会へと移行していくわけです。
自然に随う母系氏族を源とする道家、道教そして神仙学から、自然に挑戦する父系氏族から厳しい刑法や繁雑な礼儀などにより統制を行なう宗法礼教が確立され、女尊男卑の世界から、男尊女卑の世界と変化し、その流れから儒教が現われるわけです。 そのような宗教の変革の流れが、後進国である日本列島に渡来人達により断続的にもたらされるわけです。
そして、日本国が誕生する前に渡来した神(仏)が大乗仏教というわけです。しかし、その仏教も何かの闇があるようです。
宗教とはひとにとって何なのでしょうか。
宗教は、一方ではひとびとの苦難を救うための手段でもあるわけですが、もう一方ではひとびととの争いの基(宗教戦争)や差別の基にもなるわけです。そのような、宗教の本質は一体何なのでしょうか。
宗教を別の見方から考えれば、それは、日常生活における行動の規範を決める「教え」を無条件に信じることです。このことは、王権側にとっては、最大の武器となるのです。つまり、武力を使うこともなしに庶民を思いのままにコントロールすることができるからです。
日本国での律令制下では、仏教は鎮護国家のための武器でした。その時代の「穢れ」とは、国家の秩序を乱す者のことでした。しかし、平安末期に仏教が民衆に広がっていくと、その「穢れ」の思想が、「不具者・ライ病者」への差別に変化してしまうわけです。その差別の原因のひとつが、「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

大乗仏教の布教により、この「法華経」の「業の思想」が一般民衆に浸透すると日常生活の規範として「不具者・ライ病者」が、律令国家では「穢れ者」ではなかったものが、平安末期(藤原氏の時代)には「穢れ者」になってしまうわけです。ここにこの国における「穢多」の差別の芽生えがあるわけです。
「穢」の意味には本来は「ケガレ」の意味はなかったようです。穢の本来の意味は、「神をまつる。」ということです。「穢」から稲の意味の禾偏を除いた「歳」は年、祭そして祀と同じに「神をまつる」という意味です。しかし、その祭る方法がことなるのです。「歳」は犠牲を用い、それに対して「年」は舞によりまつるのです。
では、日本国に渡来した「仏教」とはそもそも何なのでしょうか。その日本国に渡来した仏教の闇をかすかに照らす光は、弥勒菩薩にあるようです。 弥勒菩薩とは何かと言えば、「建前」では、釈迦牟尼世尊(釈迦族の福徳ある聖者=ブッダ)に次いでブッダ(悟った人或は目覚めた人)になると約束された菩薩(悟りを求めて修行する人)で、兜率天(とそつてん)に住し、釈尊(釈迦牟尼世尊の略)入滅後、56億7千万年後にこの世に下生して、竜華三会により衆生をことごとく済度するという未来仏ということになっています。しかし、「本音」を言えば、弥勒菩薩とはインドでは「マイトレーヤ」と言われ、実はミトラ教の神様なのです。
宗教に興味がないひとも、キリストの誕生日を知っているでしょう。その12月25日(クリスマスの日と言われている。)は、実はミトラの誕生祭の日なのです。
世界的宗教であるユダヤ・キリスト教と大乗仏教に影響を与えている「ミトラ教」とは一体何なのでしょうか。
ミトラ教の起源は、古代メソポタミアに遡れます。ミトラ教は太陽を崇拝し、牡牛を犠牲に捧げる祭儀を持ち、太陽の死と再生の分岐点である冬至はミトラ誕生に相応しい日としているのです。
この冬至の死と再生復活の儀式は、時空を越えて、日本の天皇家の皇位継承である大嘗祭(太陽崇拝の新羅系の第二代天皇の天武天皇が初めてこの儀式を行ったと言われている。第一代天皇の天智天皇は百済系。)に影響を与えています。「建前」では、大嘗祭は収穫祭ということになっているようですが、「本音」は新たに位につかれた天皇が、皇祖天照大神の寝床の枕もとで、神様に食事をさしあげる儀式で、天皇が一代で一度だけ執り行う、亡くなられた天皇が新たに再生するという儀式のようです。もし、単なる収穫祭なら何故「秋」に行わないのでしょうか。陰暦の11月の上巳は冬のまんなか(冬至)の月、つまり「冬」であるわけです。
太陽を崇拝し、牡牛の犠牲を捧げるミトラ教の特徴のひとつは、救世主(メシア)思想と結びついていることです。この思想は苦難にある民衆を惹きつける力が強いため、ミトラ教の思想はあらゆる宗教に取り入れられていくわけです。
古ミトラ教では、三人の神(アフラ・ミトラ・アバムナバート)を崇拝していたのが、拝火教のゾロアスター教(古ミトラ教から分離)により、善神アフラマズダと悪神アーリマンの二元論になっていくわけです。この二元論が、天国(極楽)と地獄の思想を創り出して行くわけです。しかし、三人の神の三原論は、ユダヤ・キリスト教(父と子と聖霊)や日本の神社(三者祭)に受け継がれていくのです。
ローマ帝国での布教を成功させたミトラ教も、新興宗教であるユダヤ・キリスト教がユスティニアス帝と結びつくことにより、311年にユダヤ・キリスト教の寛容令が出ることにより、その組織はユダヤ・キリスト教徒達により地上から抹殺されていくわけです。そして、ミトラ教に替わって、392年にユダヤ・キリスト教はローマの国教となるわけです。ここに西方におけるミトラ教は歴史から消え去るのです。
しかし、東に向かったミトラ教は、時の勢力のある宗教組織の内部に入り込むことにより生き延びていくわけです。
ミトラ教の特徴を整理すると、太陽崇拝、牡牛を犠牲とする祭儀、救世主思想、秘教占星術、イニシエーションの密儀、七つの位階、そして火による密儀等です。
東に向かったミトラ教は、紀元前五世紀にインド(シャカ国)でゴーダマ・シッダルタに出会うのです。
ブッダと言えば、宗教にあまり興味がないひとは、ひとりしか存在していないと思っているかもしれませんが、ブッダとは、「モーセ」と同じに、固有名詞ではなく一般名詞なのです。ですから、ブッタは複数人いたわけで、ゴーダマ・シッダルタ=ブッダだけではないのです。
釈尊(釈迦牟尼ブッダ=釈迦族の聖者であるブッダ=ゴーダマ・シッダルタ)以前にもブッダは六人居たらしのです。さらにブッダは如来(修行を完成したひと)とか阿羅漢(尊敬に値するひと)などとも呼ばれていたようです。
釈尊がブッダになるために、以下のような真理を悟ったと言われています。「幸福とは、聖なる真理を見ること、聞くこと、そして一人心の内に安らぎを体得することである。幸福とはこの世の情と欲とを乗り越えることである。自我意識を乗り越えることこそ、間違いなく最大の幸福である。」
釈尊はその教えを書き残してはいません。では何故その教えが今日まで知られているかと言えば、それは愛弟子のアーナンダが釈尊の教えを全て暗記していたからと言われています。その教えの基本は、八正道にあると言われています。
八正道とは、正見(正しい見解)、正思(正しい決意)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい想念)そして正定(正しい瞑想)の八つの教えです。
当時のインドでは、カースト制度に胡座をかいた儀式偏重の上流階級に向けられた宗教でバラモン達(聖職者階級)が幅を利かせていました。そのような社会では、生活に困窮している非征服者の下層階級のひとたちは、誰でも理解でき実行できる釈尊の教えに救いを求めることは自然の流れです。
暗黒の霊的遺産の管理者を辞任し、神との交信をするための複雑な儀式を考案し独占するバラモン達が説く世界は、人間の魂の奥底の本性である個我(アートマン)は、絶対者(ブラフマン)の不変の本性と同一であるというわけです。しかし、釈尊は永遠不変の自我という考え方を受け入れず、存在は不断の変転と苦悩の中にあると説くわけです。そして、「自我」の真の存在を否定し、「無我」を説いたのです。
その「教え」はやがてひとびとに受け入れられ、裕福な商人のスポンサーが現われ「祇園精舎」ができるわけです。時代と供に釈尊の集団は膨れ上がり釈尊入滅後にはその教えの解釈の違いから、釈尊入滅後四百年して、仏教教団は大分裂するわけです。それは大乗仏教と小乗仏教と呼ばれています。
大乗仏教は、すべてのひとの中に「ブッダとなるための種子」が存在しているから、さまざまな救いの道があると説き、解脱の核心は、憐れみと普遍の愛の実践に基ずいて、生けるものの全てに対して無限の共感を抱くことにある、そして、他者を救うことが必要であるとするわけです。
それに対して、小乗仏教は、一切の観念的思弁を嫌い、現世と人間の苦悩を現実のものとして見て、修行僧として生きることによってのみ救われると説くわけです。
この二つに分裂した教団の思想の違いが、やがて教団の運命を決めるわけです。一般大衆への仏教布教という拡大路線は、権力者の支配権拡大と同じベクトルを持っていることになるのです。つまり、大乗仏教は、時の権力者が庶民をコントロール(統治)する武器として利用されていくわけです
仏教教団が二つに分裂する前の紀元前三世紀ガンターラ地方を支配した第三代アショカ王は仏教に帰依することにより、軍事拡大路線から統治へと政治を変えるための手段として仏教を利用しています。
大乗仏教は、一世紀以降、バビロニア、ペルシャそしてギリシャの西洋文化と交易により接触していたガンダーラ地方で発達を遂げるわけですが、そこで考えられないことが起こるのです。それは、仏像の出現です。
釈尊の存命中のインドでは、魑魅魍魎の宗教世界があり、呪術が現実のものと信じられていたようです。そこで、釈尊は入滅後呪術を掛けられないように仏像を作ることを戒めていたようです。ですから、釈尊入滅後での礼拝対象は、遺骨、仏塔そして菩提樹であったようです。
仏像が作成されたのはカンダーラ説とマトゥラ説のふたつがあるようですが、本々インドには三次元の像を作る文化はなかったので、当然その像はギリシャ的な立体像であるわけです。
では何故仏像を作る必要があったのでしょうか。
宗教の宿命として、信者達の願望に迎合しなければならないことがあります。それは、信者達の願望を満たさないと、その宗教自身が成立たなくなるからです。ですから、僧侶が新天地で布教活動を成功させるには、その土地の土着の神のイメージを取り入れなければならないわけです。
宗教とは、どのような組織でも、その基本は教祖の「教え」を信者に刷り込むことです。その刷り込みの手段も、ひとの脳の構造に合わせて変成してきたようです。 ひとの脳は、爬虫類の脳(脳幹・小脳=いのち)→哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)→ひとの脳(大脳皮質=思い)を積み重ねているわけです。爬虫類の脳と哺乳類の脳は言葉を理解できません。これらの脳に働きかけるには、音と動作です。それに対してひとの脳は言葉を理解できます。
そこで、宗教のプロパガンダの手段として、まず音と動作を駆使した「呪術」が開発され、その後、ひとの言葉の発達に合わせ「経典」によるプロパガンダが開発されて行くわけです。
小アジアのボアズキョイで見つかった紀元前1400年前のヒッタイト王たちに関係する楔形文字の契約文書には、古代インドで崇拝されていた神々の名前が記されています。それらは、ミトラ、ヴァルナ、インドラ、ナサティアスなどです。
呪術は経典ほどの伝播力がありません。それは、ひとを介さないと伝播することができないからです。しかし、文字で書かれた経典は、時空を越えて伝播していきます。
ひとは「呪術」でも「経典」でも、一度刷り込まれた情報はなかなか消去することができません。このことは、旧約聖書「出エジプト記」にみることができるでしょう。
シナイ山(五千円札の裏にある逆さ富士)に登ったモーセは四十日四十夜その山に篭りました。そこで、モーセの帰りが遅いので民はとんでもないことをするのです。
出エジプト記第三十二章の七
主はモーセに言われた。「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と言っている」。
聖書研究家によれば、旧約聖書は長い年月をかけて創作された物語の寄せ集めのようですが、最も古いものでも紀元前八百五十年以降ということです。その古い書物の内容でも紀元前九三ニ年に死んだソロモン王の前後の物語のようで、その物語も驚くほど短いものだったようです。そして、モーセ五書といわれる物語が今日のように纏め上げられたのが、紀元前五五十年ごろから紀元前四五十年ぐらいの間のようです。
紀元前八百年から紀元前二百年までの時代は、思想史において輝ける時代のようです。今日の思想の根底は、その時代に大いに影響されているどころか、全く同じと言えるほどです。 それらの思想家としては、釈迦牟尼ブッダ、孔子、老子、プラトン、ソクラテス、ゾロアスター、エリア、エレミアなどです。これらの人達は、万物は根本的に二つの領域に分けられる、と考えたようです。それらは、「主観と客観」、「精神と物質」、「心と体」などです。そして、「本来の人間は、肉体に繋がれ、肉体に覆い隠され、欲望に捕らわれ、自己自身をぼんやりとしか意識せず、開放と救済を求めているが、しかしこの世界の中において解放と救済を手にできるものである。」とそれらの思想家は皆同じ結論を出したようです。
思想家とは、言葉を駆使してイメージを創造するひとです。この思想家がこの世に出現した時期が、呪術独占の世界が崩壊するターニンク゜ポイントなのです。ここから「呪術」と「経典」の長い闘いが始まるのです。
呪術と経典はどちらとも、神ではなくひとが発明したものですが、発明するのに使用する脳の回路が異なるようです。呪術は情動系回路(爬虫類の脳と哺乳類の脳)で、経典は思考系回路(ひとの脳)により発明されたようです。ですから、呪術は「いのち」と「こころ」に響きます。それに対して、経典は「思い」に語りかけます。
情動系回路は今を生き延びるために作動する回路です。それに対して、思考系回路は明日を生き延びるために作動する回路です。ですから、呪術と経典との場(時空)は異なるのです。呪術は今目の前に起こっている現象をコントロールするための技術です。それに対して、経典は思考することにより問題の解決を、現在から過去或は未来に求めることが可能です。それは、俗に言う「方便」(ウソのこと)ということです。
そのような異なるバックグラウンドを持つ呪術と経典が争った場合、呪術は不利です。呪術は戦う場が現在の今しかないからです。問題解決の為の技術が成功しなければ、その呪術は瞬時に抹殺されていまうわけです。しかし、経典はたとえ現在の今の問題が解決できなくても、思考することにより(ウソを考えることにより)解決の場を過去や未来に振り向けることが可能です。
呪術より有利な闘いをする経典は、問題解決の場を現在だけではなく過去や未来にと駆使することで、苦悩するひとびとを惹きつけていくのです。しかし、時間の流れの考え方の違いにより、その経典も変化いていくわけです。メソポタミアから西に向かうほど、時間の流れは一方向を目指していくようです。
西に向かった時間の流れにのった経典は、救世主思想を秘めた三神の古ミトラ教は、拝火教のゾロアスター教により善悪二神となり、更にユダヤ・キリスト教により一神教へ変化していくわけです。
しかし、東に向かった時間の流れは、インドで円を描くのです。それが、輪廻・転生の思想です。インド文明はこの輪廻・転生に基づいているわけですから、仏教でもジャイナ教(釈尊の良きライバル)でもヒンズー教でも、西に向かった排他的な他の一切の神を認めない一神教と異なり、あらゆる異教の神をも取り入れる要素を持っているわけです。
インドでジャイナ教やヒンズー教と共存していた仏教も十一世紀にイスラム軍がインドに侵入してくると、釈迦牟尼ブッダはヒンズー教の中でヴィシュヌ神の化身として崇拝されていくわけです。ここでインドでの仏教は消滅するわけです。しかし、ジャイナ教は今日まで細々と存続しています。
権力者・宗教教団と同じベクトルを持った集団が現われるのです。それは国際交易商人です。商人は新しい市場を求めて世界を流離います。未知の国の市場開拓には、その国の情報を手に入れる必要があります。その情報入手先に打って付けの組織があります。それが宗教教団です。
宗教教団の活動は物的破壊をすることもないので、困窮するひとびとを救う「教え」の布教を目的に未知の国に、商人と比べれば比較的入り込みやすいのです。そこで、宗教教団と国際交易商人との利害は一致します。例えば、ユダヤ・キリスト教の布教国と国際交易商人の市場開拓地がオーバーラップしているのはそのためです。「僧侶→商人→軍隊→植民地化」、この流れはインドやインドネシアの歴史の流れそのものです。
仏教はインドを経由して更に東の中国を目指しました。
前漢の武帝(紀元前140年〜紀元前78年)が「シルクロード」を開いたと言われています。そして、西国の商人達は、その中国の絹を求めてシルクロードを旅したわけです。その中に仏教もありました。
世間では中国四千年と言われていますが、その実体は、漢民族が四千年を統治していたわけではありません。中国の地には、満州人、モンゴル人、中国人、チベット人そしてイスラム人などの異民族が、昔も今も存在しているのです。
その異民族支配を基に中国を区分すると、秦・漢の中国、随・唐・宋(遊牧民族の鮮卑人が支配)の中国、明(漢人が支配)の中国そして中華民国・中華人民共和国の中国の四つの中国が歴史上存在していたのです。では、「元」や「清」は何かと言えば、元はモンゴル人によるモンゴル帝国であり、そして清は満州人による満州帝国であったわけです。と言う訳で、中国四千年は「建前」であるわけです。
インドで仏教と出合ったミトラ教は、輪廻・転生の思想に飲み込まれ仏教の中で釈尊の次に現われる弥勒菩薩として生き残るわけです。しかし、経典理論に優れる仏教においては、ミトラ教の多分に呪術的な牡牛を屠ることや星辰思想などの密儀部分は闇に葬られ(日本国で九世紀空海により合体し密教となる。)、仏教においてはミトラ教の救世主としての性格だけが維持されていくわけです。
四世紀、趙王朝は、漢民族ではなく遊牧民族の匈奴族による王国で、漢民族の文化に対抗し、そして漢民族を支配する目的で仏教を取り入れ、そして仏教の布教に力を入れるわけです。
五世紀の北魏の時代になると、救世主思想の弥勒信仰が盛んになっていくわけです。時代が困難になればなるほど、ひとびとは救済を求め、弥勒信仰は栄えるわけです。しかし、平穏な時代になると宗教は堕落するのが歴史が示すとおりです。200万人の僧侶がいた北魏も、仏教の戒律が乱れ、446年には廃仏を行うほど秩序が乱れるわけです。
国際交易商人は、シルクロードの終着点の日本列島の奈良を目指して、中国大陸を縦断して行くわけです。それは、日本列島が資源に溢れていたからです。それらの資源とは呪術に使用の朱砂(主な化学成分は硫化第二水銀=鎮静・催眠効果がある=道教では不老長寿の秘薬)鉱物資源に限らず、温暖な気候が桑の育成に最適だったからです。養蚕を営むには最適な場所が日本列島だったのです。その途中には朝鮮半島があるわけです。
国際交易商人と供に仏教が朝鮮半島に伝わるのは、三韓時代と言われています。
1148年に成立した朝鮮史の「三国史記」によれば、新羅は紀元前57年に、高句麗は紀元前37年に、そして百済は紀元前18年となっていますが、それは「建前」で、「本音」は、高句麗が先で、次に百済、最後に新羅が紀元四世紀に建国されたのです。何故、「三国史記」に実際とは逆に建国の歴史が書かれたかと言えば、それは、著者が新羅王家の一族だったからです。あらゆる歴史書は、これと同じ構造で記述されているようです。
中国大陸を通過する内に仏教は色々な宗教組織と出会うわけです。それらは、道教、神仙学、儒教そして景教などです。
景教は不思議な宗教で、キリスト教のような仏教のようなヒンズー教のような得体の知れない宗教組織です。物の本によるとシリア地方に発生した原始キリスト教(ネストリウス派)と記述されているようですが、その僧侶達は、古ミトラ教の発生した地のペルシャ人のようです。
その色々な宗教組織に遭遇した仏教は、紀元三世紀、前秦の北中国から陸路により高句麗に伝来し、三世紀後半百済には海路により南中国の東晋から伝来し、更に、新羅には紀元五世紀初めに陸路により高句麗から伝来しました。
その朝鮮半島で、北の陸路からの仏教と南の海路からの仏教が融合することにより、弥勒菩薩も変身するわけです。
弥勒菩薩の本来の姿は、ミトラ神の変身であるわけですから、正義の力と慈悲の力とで困難にある民衆を救う菩薩であるわけです。それが、インドより海路で朝鮮半島にもたらされた「観音思想」の影響を受け、弥勒菩薩の性格が変身してしまうのです。
観音とは、輪廻・転生思想におけるインドのヒンズー教のシヴァ神などの影響下で誕生した、変化自在により民衆の「現世利益」をもたらす菩薩であるわけです。
本来の弥勒菩薩は未来を志向します。それに対して、観音菩薩は現在に生きるわけです。しかし、困窮する民衆の欲望を満たすために、或は貴族の現世利益を求める流れに合わせて、その二つの菩薩の性格は都合よく合体し、そしてそれぞれが民衆の願望に合わせて変身してしまうわけです。
そして、弥勒菩薩像も、朝鮮半島で変身するのです。
ギリシャ文化の影響で、ガンダーラで創作された像は立像が多かったのが、そして中国大陸では椅子に腰掛ける像が多かったのが、朝鮮半島に辿り着いた弥勒菩薩は片足胡座の坐像となってしまったのです。その座り方は、ガンダーラ仏の三尊像のひとつである、観音菩薩であったわけです。その特徴的姿の弥勒菩薩は、朝鮮と日本にしか存在しません。その弥勒菩薩は、秦氏により、日本列島の倭国にもたらされるわけです。
ここで、朝鮮半島と日本列島が描かれている地図を百八十度回転して下さい。すると、朝鮮半島が南(下)にあり、北(上)に日本列島があることになります。
ひとの脳には、時間の流れと、場の移動の流れが、予めインプットされているようです。時間の流れは、左から右に流れているようです。映像における未来を目指す流れは、大体そのように描写されています。
それに対して、場の流れは南(下)から北(上)に移動するようです。車を運転するひとなら理解できると思いますが、カーナビを北上固定にして南行した場合と、同じ条件で北行した場合との心理的違いを比べてください。前の条件の方が、後の条件よりも運転がしずらいはずです。
そのように地図の見方を少し変えるだけで、歴史の流れ(民族移動の流れ)に変化が起こることでしょう。
紀元五世紀、日本列島が上部に描かれた地図を朝鮮半島側の下部から眺めると、そこには、中国大陸で闘いに敗れた王族、新興宗教や土着の道教・儒教等との闘争に敗れた仏教教団や得体の知れない景教、あるいは市場開拓のための国際交易商人達の新天地が扇状の島々として広がっているわけです。
日本列島は、徐福の時代(秦の始皇帝の時代=紀元前210年)から蓬莱山として方士達(呪術者の一種)に不老長寿の秘薬(朱砂)の産地として知れ渡っていたのです。
しかし、その列島には先住者達が小さな国々を経営して暮らしているのです。
日本列島は、二つの異なる生活環境が存在します。それは、名古屋以北の落葉樹林文化圏と名古屋以南の照葉樹林文化圏です。この異なる文化圏は味覚の違い(醤油・味噌の味の違い)として、現在でも存在しています。
朝鮮半島南端は、照葉樹林文化圏であるわけですから、日本列島の名古屋以南が同じ文化圏に属するわけです。そこで、列島の最初の上陸地点としては対馬列島の先にある北九州となるわけです。しかし、そこには、シャーマンの巫女が支配する国々を引き継いだ「神」を祭る部族国家があるわけです。
シャーマン(中国大陸で発明された道教的呪術者)が活躍する以前の日本列島では、縄文人の世界観による、「カミ」、「モノ」という得体の知れない偉大な存在を認識していました。その「カミ」、「モノ」は、ある時はひとびとに恵みをもたらす善の存在として、そして、時にはその逆に災いをもたらす恐ろしい存在でもあるわけです。
それは、ユダヤの神の性格と似ていますが、違うところは、ヤハウェ(太陽神信仰の古代エジプトのイクナトンの神を模倣=イクナトンの神は太陽信仰のミトラ神を模倣)ひとりが「神」として世界の全てを支配するのではなく、その「カミ」、「モノ」はあらゆる場所や物、或は空間に宿っていると信じられているところです。つまり、縄文の「カミ」、「モノ」はアニミズム(多神教)であるわけです。
縄文人の支配する日本列島は、輪廻・転生思想のインドと同じに、あらゆる「神」を、一神教の「神」のように排斥・絶滅させるのではなく、取り入れてしまう懐の深い所であったわけです。
縄文の「カミ」、「モノ」に取り込まれた、外来の神は、弥生時代の「シャーマン」→古墳時代の「神」(道教色に染まったカミ・モノ。神を「ジン・シン」と呼ぶのは中国大陸宗教思想の影響。神社は仏教建築思想から生まれた。元々「カミ・モノ」は森羅万象に存在しているから、特定の場所(神社)に鎮座するのは可笑しなことです。神社は、本地垂迹説に基づいて仏教側が敵(神)の怨霊を封じ込める場所とてして発明した。)→藤原氏支配時代の国家鎮護の「仏」→明治維新後の「神(お宮参り)・イエス・キリスト(クリスマス)・仏(葬式)」と、現在まで日本列島では受け入れられていますが、その精神的根本には、なんら変化はなく縄文の「こころ」が生き続けているわけです。つまり、現在の「日本人」が、外国の神や文化等なんでも見境なく取り入れる下地は、遥か昔の縄文人のアニミズムに原因があるわけです。
さて、紀元三世紀に出現した「神」を崇める部族が支配する「ヤマト」連合国(卑弥呼の時代。卑弥呼は魏国に、近畿地方に出現した国際交易商人連合国「ヤマト」とウソをついて朝貢した。)を攻略するには、「仏教」は有利です。
「神」側には、仏教教団のような、仏像・経典・伽藍・金ピカ法衣もありません。「神」ができることは、霊を巫女により降臨させ宣託を受け、それに随わせるか(女帝称徳天皇での道鏡事件のように)、或は化学物質や薬物を使用しての「呪術」(忍者の元祖)を執り行うかの戦術しかないからです。
そして、「神」が「仏」に敗れた最大の原因は、仏教のようになリッパな「経典」がなかったからです。(後に、「神」は仏教儀式を真似て、修験道などに変身し理論武装をしていくわけです。)では、その仏教の最大の武器「経典」とはどのようなものなのでしょうか。
江戸時代、大阪商家生まれの町儒学者の富永仲基が、法華経をはじめとする、いわゆる大乗仏教関係の経典は、すべて後世のひとによる創作物であって、釈尊の説法をアーナンダが記憶していたものではない、と「出定後語」という書籍のなかで述べました。
江戸時代は、仏教は庶民統制の道具として権力側から優遇されていたわけですから、仏教の闇を暴露するその書籍は当然無視されました。
ひとの脳力は、時空を越えてシンクロ(同調)するようです。紀元前の思想家出現ラッシュと同じに、日本国における大乗仏教仏典の疑問に後れること数十年、ヨーロッパで聖書について疑問を持ったひとたちが出現するのです。
その「仏典」と「聖書」の疑問についての流れが、二十世紀になり、「仏典」と「聖書」との共通性が指摘されるのです。その基本的疑問は、大乗教仏典と新約聖書の成立年度が前後することと、釈尊とキリストの「説教の内容」と、それぞれの「奇跡の物語構成」が同じだということです。
説教の共通点としては、「憎しみは憎まないことで乗り越えよ。」、「求める者には、だれにでも与えなさい。」、「無条件の愛を求める命令に従う者は誰でも神の子となる。(神に近づく)」等です。
奇跡の共通点としては、「荒れる水面上を歩く釈尊とキリストの奇跡」、「数人分の食事で多くの弟子のお腹を満腹にし、更に食べ残させる奇跡」等です。
国際交易商人が活躍するガンダーラで、大乗仏教は紀元一世紀に突然出現するのです。ギリシヤ風仏像が出現すると同時に、大乗仏教の経典群も同時に出現するのです。経典成立順序としては、般若経系、維摩経、法華経、華厳経そして無量寿経、阿弥陀経などですが、その中で一番古いと言われる般若経でも紀元前一世紀までがせいぜいで、多くは紀元五十年から書き始められたようです。
そして、経典についての疑問は、それらの経典は用語の使用が稚拙なサンスクリットで書かれていることです。
それに対して、新約聖書は、キリスト時代に使用されていたアラム語(シリア語)ではなく、何故にギリシャ語で書かれているのでしょうか。
釈尊は、弟子達に「教え」を、敵対宗教であるバラモン(カースト制度の祭祀階級)達の言葉であるサンスクリットで伝えることを禁じていました。釈尊が使用した言葉は、パーリ語とは少し違う「マガダ語」であったわけです。大乗仏教はサンスクリットで、小乗仏教は「マガダ語」に似ているパーリ語を使用して経典を作成しているのです。
何故、大乗経仏典はサンスクリットで書かれているのでしょうか。
どうも、国際交易国ガンダーラで紀元一世紀、突然出現した大乗仏教は、仏像もその経典群も国際的な情報をもとに創作されたようです。
仏像に関連する蓮華台とは、そもそもどこからもたらされたのでしょうか。元々、釈尊の存命の時は、仏像など存在しなかったのですから、インドのものではないでしょう。
蓮の花は、古代エジプトでは、太陽の母であったのです。蓮は日の出と供に花が開くので、古代エジプトのひとたちは、太陽は蓮の花から生まれると考えたようです。
仏像には、太陽に関するものがもうひとつあります。それは、後光の日輪です。この後光はキリスト像やイコンにもあります。さらに、キリスト教には、マルタクロス(太陽の輝き)を模倣した十字架もあります。
仏教とキリスト教は、表向きは太陽信仰ではありません。
では、何故それら太陽信仰神の象徴であるものが、それらの宗教組織がプロパガンダに利用しているのでしょうか。
そこで考えられることは、それらのふたつの宗教は、太陽信仰神の経典や物語を参考にして創作されたのではないか、と言うことです。
シルクロードは、ガンダーラから東に向かえば、中国の長安を越えて、海を渡り日本列島の奈良に辿り着けます。そして、西に向かえば、ギリシャを越えてローマに辿り着けます。そのシルクロードは、東西の物品だけではなく、文化や宗教も国際交易商人達により運ばれて行くわけです。
シルクロードは、記録上紀元前二世紀に開発されたようです。紀元前一世紀、ローマ軍はペルシャを攻撃して、シリア地域をその支配下に置きました。その時期から、絹織物がローマで爆発的な需要を起しました。なにしろ、絹(布の宝石)と金とが同じ価値なのですから。
ひとの行動を起す起爆剤は、脳の化学物質です。それらは、一般的に「欲」により産出されると考えられています。その「欲」は三つに分けられます。それらは、「性欲」「物欲」「名誉欲」です。「性欲」は爬虫類の脳(幹脳・小脳=いのち)に刺激を与えます。「物欲」は哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)に刺激を与えます。「名誉欲」はひとの脳(思い)に刺激を与えます。
これらの「欲」は、諸刃の武器となります。「欲」の本質を悟り、それをコントロールする技術を開発し、利用できるひとは、その道の専門家となります。それらは、智恵の深さによります。権力者、宗教家そして商人とは、それらの「欲」を自分たちに都合良く利用して、ひとびとをコントロールできる技術を持ったひと達であるわけです。
建前では、歴史はひとりの権力者(ドイツ共和国のヒットラーのように)により作られると歴史教科書では記載していますが、本音は、その三者の協力により創られていくわけです。
ガンダーラから東の果てのChinestan(stan=国)から絹が運ばれて来ると知ったシリアの商人達は、大挙して東を目指すわけです。しかし、そこに辿り着く前には、異教の国々があるわけです。
世間一般では、宗教を困窮するひとびとを救済する「技術」としか見ていないようですが、別の角度(異教徒側)から見ると、それはソフトな武器であるわけです。
他国を侵略するには、その国の情報を手に入れる必要があります。それには、宗教は打って付けの武器となるのです。
宗教組織の異教国侵略の常套手段は、まず貧民救済の病院を設立します。そこで、被救済者から為政者の負の情報を収集します。その慈善活動を異教の為政者に認めてもらえると、次に学校を設立します。そこで裕福なひと達のシンパを組織するのです。そのような手段で入手した侵略のための情報を、宗教組織に多大に寄付する商人に渡します。商人は、シンパの中から有能な商売の代理人を育てるわけです。そして、代理人を反体制組織員とし、支部を開設して全国的に展開するのです。後は、軍隊の出番を待つだけです。
例えば、この流れを日本国の明治維新前に当てはめれば、江戸末期、長崎の出島にシーボルト(ある宗教団体の信者)という医者が来日するわけです。彼は、一生懸命貧民の病気を治療し名声を得るわけです。そして、しばらくすると医学生を養成するために鳴滝塾という医学校を開設するのです。その学校の人脈の中から、伊能忠敬の遠縁の者と知り合うのです。シーボルトは、伊能忠敬の地図をその者と世界地図との交換で入手するわけです。地図は最大の軍事秘密であるわけです。シーボルトは、その伊能忠敬の地図を複写してオランダに持ち帰るのです。それから後、伊豆沖にペリーの艦隊が出現することは、学校の歴史教科書にあるとおりです。
ペリーの来航は、建前では捕鯨のための中継基地と水と食料補給となっているようですが、本音は、オランダ東インド会社(オランダ国ではなく実権は国際交易商人にある。)が長崎出島で独占する、絹織物、金、陶器等の貿易をすることです。明治維新後、急速に日本国が軍事大国に変身できた原因のひとつが、絹織物の輸出だったのです。
歴史は繰り返すようです。
絹織物は、紀元二〜三世紀頃に中国大陸南部からの渡来者達によりもたらされた繭(ポンビックス・モリ)による養蚕の日本列島照葉樹林地域での事業展開により、四〜五世紀の倭国は世界的生産基地のひとつとして国際交易商人達に知れ渡っていたのです。
さて、そのような宗教組織の異教国潜入戦略に基づいて、絹織物を廻って、明治維新前と同じようなことが、日本列島の四世紀から七世紀にかけての倭国で、「神」(倭国の神は、現在の神社に鎮座する「神様」ではなく、道教色に染まった呪術を使う神様。現在の神は仏教色に染まってしまっている。)と「仏」の闘いとして起こるのです。その「神」と「仏」との闘いの本質は、「自然」と「人工」と言えるかも知れません。
縄文の流れにある「神」は、爬虫類の脳(いのち)と哺乳類の脳(こころ)とにより創られた概念です。それらは、ひとの意志でコントロールできません。それは自然そのものだからです。それに対して、大乗の「仏」はひとの脳により創られた概念です。ですから、ひとの意志でコントロールすることができます。ひとがコントロールできることは、世間では「人工」と呼んでいます。
暗黒のヨーロッパでの、魔女対ユダヤ・キリスト教の闘いも、「自然」対「人工」と言えるかも知れません。その闘いの原因のひとつは、病めるひとたちの治療に対する対処の技術です。魔女は、小動物の内臓や草木での「自然」の秘薬での治療を行うのです。それに対して、ユダヤ・キリスト教は、言葉により創作した祈りという「人工」で対抗するわけです。
自然は「ウソ」をつけませんが、人工は「ウソ」を無限につけます。それにより、魔女はユダヤ・キリスト教に敗れ、聖なる「火」により火炙りにされて十八世紀に絶滅されてしまったわけです。
ひとと動物の違いのひとつは、ひとは言葉の使用により、時空を超えて「ウソ」を無限につく事ができるということです。更に、ひとは現実から逃避するために「ウソ」でも信じることができることです。ひとが、最も動物と際立つところは、他の物事や概念を模倣し、ウソの物語を創作することができることです。
小さなウソは、直ぐにバレてしまいますが、大きなウソを見抜くには、「疑い深いトマス」ほどのひとでない限り無理でしょう。
日本の古代史が面白いところは、謎(ウソ)が多く、百人いれば百通りの解釈が成立つところです。特に、大乗仏教の日本列島侵入に関しては、納得できる解釈にお目にかかったことがありません。
仏像に関する文献を探すと、「日本書紀」の推古十一年として、

皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。秦造河勝進みて曰く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。

と言うことで、建前では聖徳太子が秦河勝に仏像を授けたとの説明です。
が、しかし、聖徳太子は実在の人物ではありません。その根拠として、日本書紀には「聖徳太子」との記述は一切ありません。日本書紀にあるのは、厩戸皇子、豊聡耳皇子、東宮聖王、上宮太子、上宮聖徳法王などの名前で記述されているのです。
聖徳太子として歴史上に登場するのは、死後(?)約百年後です。
死後約百年後の登場人物として思い出されるのは、イエス・キリストです。キリストと聖徳太子の共通性は昔から言われています。
聖徳太子が厩で生まれたのは、キリストと偶然としても、少年時代の「神」を崇める物部氏との闘いは、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデの物語構成と同じです。更に、成人しても、聖徳太子と言われているのは、モーセと同じです。「太子」も「モーセ」も、「子供」と言う意味なのですから。ダビデ、モーセそしてキリストのイメージを彷彿させる聖徳太子とは、一体何者なのでしょうか。歴史教科書では解明できないでしょう。
では、秦河勝が授けられた仏像は何かと言えば、それは国宝第一号の「弥勒菩薩」であるわけです。ここでは、もう弥勒菩薩の説明の必要はないでしょう。
その仏像を安置する蜂岡寺とは、太秦寺(ウズマサ寺)つまり、広隆寺であるわけです。広隆寺では、平安時代(藤原氏の時代)から「牛祭り」の儀式を行っています。その祭りの主人公は「摩多羅神」(マタラ神・ミトラ神?)と言われています。
日本国での歴史上有名人が外国の神と共通する事績があることなど、一般のひとは信じることなどできないかもしれません。
更に信じられないことがあります。それは、日本書紀は旧約聖書を参考に創作されたのではないかということです。それらのふたつの書物は、建前では、その民族の成立ちを綴った歴史書と言うことですが、本音は、「簒奪」が共通テーマと言うことです。
そもそも、旧約聖書はどのような背景で創作されたのでしょうか。
旧約聖書物語の創作背景を知るには、渡り鳥の「カッコウ」の習性を知ると理解し易いでしょう。
カッコウは、時代によりその名が変化しているようです。奈良時代は「カホドリ」、そして、平安時代は「ハコドリ」或は「カンコドリ」と呼ばれていたようです。その習性から「冥土の鳥」と言われているように、他の鳥と異なる習性(行動マニュアル)を持っています。それは、自分の卵を他の小鳥の巣に産みつけ繁殖していくのです。
その習性は、自分の卵に一番似通った卵を産んだ小鳥の巣を探し、その親鳥の一寸した隙に卵を産み付けるのです。その産み付けられたカッコウの孵化は他の卵より早く、それだけ他の雛より成長が早いのです。そこでカッコウの雛は不可思議な行動をするのです。それは、親鳥が不在の時を狙って、他の卵や雛を巣から一匹一匹と親鳥に気付かれないように排除してしまうのです。最後に残るのは、カッコウだけです。それとも知らない、親鳥はセッセとカッコウの雛を成鳥するまで育てるのです。
イスラエルの十二部族と言われるのは、後世の創作です。本音は、ヨセフを先祖とする部族、つまり、ヨセフの息子のエフライムとマナセの二部族だけが、いわゆるイスラエルと呼ばれた地方に移り住むようになってからが、イスラエル部族の誕生です。
その二部族に、エジプトの太陽信仰アトン(紀元前十四世紀エジプトを統治していたイクナトンの神)の信仰が広まり、その信仰に同調する他部族がしだいに集まることにより十二部族(八世紀にカザール民族を加え十三部族と言われています。)となるのです。そして、アトンの神は、どういう訳かヤハウェに変身して行くわけです。
そのエフライムとマナセの部族、つまりイスラエル部族の巣に、カッコウがやって来るのです。そのカッコウとはレビ族です。そのカッコウが産んだ卵から孵った雛が、アロン(祭祀者・頭に油を注ぎ王様を誕生させる部族。日本国で言えば中臣氏か。)であり、モーセ(立法者・自分達部族に都合の良い法律を作るひと。日本国で言えば藤原不比等か。)であるわけです。そして、その末裔がダビデであり、ソロモンであるわけです。
では、元々の巣の雛たちであるエフライム部族達はどうしたかと言うと、簒奪者ソロモン王が死ぬとすぐに、エフライム族を頭に十部族が、ベニヤミン部族を残して、ユダ族と決別し、イスラエル王国を創るわけです。しかし、そのイスラエル王国も、紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、真性イスラエルの十部族は歴史から消え去ってしまうのです。
後に残ったのが、レビ族の末裔であるユダ王国です。その王国も紀元前六世紀にバビロニアに滅ぼされてしまうのです。
旧約聖書物語とは、読む角度を替えれば、エフライム部族の歴史を基本に、後から参入したレビ族が、カッコウのように少しずつ敵対部族を抹殺し、イスラエルの王権を簒奪したことを隠すために創作されたものとみなすこともできます。
この簒奪物語のストーリを日本書紀に当てはめて、敗者側から眺めてみると、日本の歴史がガラリと変化して見えてくることでしょう。
古代史を知ろうとするひと達が史料とする重要なバイブル的書籍は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。しかし、物の見方を少しずらしてみると、「日本書紀」とは可笑しなネーミングです。
倭国、或は日本国は、文化の輸入先として中国大陸の国々を選択していました。その中国大陸の国々の史書には、その書籍の体裁により、「書」と「紀」との区別をつけていました。「書」とは、帝紀や列伝を備えた紀伝体の歴史書のことを言うわけです。それに対して、「紀」とは、編年体の歴史書のことを言うわけです。
そのような書籍の体裁により「書」と「紀」とを分けているのに、日本国の国史は「日本書紀」となっているのです。書籍の体裁からすれば、「日本紀」が正しいのではないでしょうか。
その日本書紀は、「続日本紀」によれば、「紀三十巻系図一巻」とあるようですが、系図一巻は今日には伝わっていないようです。では、その現存する三十巻はどのような構成で書かれているかといえば、神代上・神代下・神武・綏靖〜開花・崇神・垂仁・景行〜成務・仲哀・神功・応神・仁徳・履中〜反正・充恭〜安康・雄略・清寧〜顕宗〜仁賢・武烈・継体・安閑〜宣化・欽明・敏達・用明〜崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武上・天武下・持統となっているわけです。
このように、神代から持統天皇まで記述されている書籍を太平洋戦争敗戦までは、日本国民の大多数が史実として信じていたのです。では、昔から史実として信じられていたかと言うと、そうとは言えないようです。
江戸時代、大名貸の升屋の山片ばんとうは、記紀について、

「文字ノ出来ハ国ノ開クルナリ、文字ナケレバ開ケザルナリ。」と考え、
日本へ文字渡リシコトハ、応神天皇ノ御宇ニシテ、ソノ後ノコトハ事実明白ナリ、ソレマデノコトハ、口授伝説ニシテ実ヲ得ベカラズ。日本紀神代ノ巻ハ取ルベカラズ、願クハ神武己後トテモ大抵ニ見テ、十四五代ヨリヲ取リ用ユベシ、然リト雖モ、神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ、応神ヨリハ確実トスベシ。

江戸後期には、天皇を裏でコントロールしている藤原氏の勢力も微弱で、九州南端や山口県南端で隠棲していたので、そのような大胆な事も堂々と発言できたのです。それから百数十年後の太平洋戦争敗戦前、その論説と同様なことを「神代史の研究」で発表した津田左右吉は、「皇室ノ尊厳ヲ冒スル文章ヲ著作シ」ということで有罪を宣告されてしまったのです。
明治維新で、藤原氏が復活し、それに伴い、江戸時代に京都で隠棲していた天皇家も復活するわけです。と同時に、八世紀に、藤原不比等によりプロデュースされた、江戸時代に「古事記伝」四十四巻を創作した本居宣長に「唐ごころ」に染まっていると言われた「日本書紀」も、十九世紀の明治維新で「大和ごころ」として復活するのです。
では、なにを目的に日本書紀が創作されたのかと言えば、それは天皇という君主の正当性を保証するために作られたわけです。天武天皇(新羅の王族金多遂)のお妃の持統天皇(百済系天智天皇の娘)が、日本国の正当な天皇である、と言いたいのです。
では、第一代天智天皇、第二代天武天皇そして持統天皇である「雛」を育てた「巣」は、元々誰が作ったのでしょうか。中学生向けの歴史教科書には、日本国において天皇が誕生する経緯を次のように記述しています。

聖徳太子(厩戸皇子)の死後、蘇我氏の勢力はさらに強くなり、ほかの豪族も蘇我氏をおそれた。中国では、唐が強大な帝国となり、朝鮮半島の諸国に大きな影響をおよぼしていた。中大兄皇子や中臣鎌足は、天皇中心の政治のしくみをつくるため、645年に蘇我入鹿とその父蝦夷をたおした。
そのころ朝鮮半島では、唐と新羅が百済をほろぼそうとしていた。朝廷は百済に援軍を送ったが、白村江の戦いで大敗した。そこで、朝廷は西日本の守りをかため、都を大津に移した。中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
天智天皇の死後、その弟と子の大友皇子が天皇の位を争い、豪族をまきこんだ大戦乱となった。勝利した弟の大海人皇子は、即位して天武天皇となった。天武天皇は、みずから政治をおこない、唐にならって律令にもとづく政治のしくみをつくろうとした。またこのころ、天皇は「大王は神である」と歌われ、天皇の称号が正式に使われるようになった。

学校の歴史教科書によれば、日本国の天皇が誕生する前の「巣」の所有者は、どうも「蘇我氏」ということになるようです。では、その蘇我氏とは一体何者なのでしょうか。再び、歴史教科書に戻り時代を逆行してみます。

六世紀頃、勢力をのばしてきた大臣の蘇我氏は、渡来系の豪族と結びつき、仏教をさかんにしょうとした。六世紀末には、仏教の受け入れに反対する大連の物部氏をほろぼし、政治の実権をにぎった。さらに蘇我氏は、蘇我氏に対立する天皇を殺害した。
かわって即位したのが、女帝の推古天皇である。推古天皇は、593年においの聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とした。聖徳太子は、蘇我氏とともに新しい政治をおこなった。聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。

学校の歴史教科書では、理論整然と日本国における天皇の誕生を説明しています。しかし、別の角度からの情報と照らし合わせてみると、その説明には「ウソ」があるようです。
「ウソ」の第一は、「本朝皇胤紹運録」によれば、弟である天武天皇が天智天皇より四歳年上であるということです。第二は、聖徳太子など実在の人物ではないのですから、蘇我氏とともに新しい政治などできるわけはないでしょう。
そのような「ウソ」を無視して、想像力を使って眺めてみると、渡来系騎馬民族の蘇我氏が渡来系の氏族(蘇我氏をバックアップしたのは突厥の皇子タルトウで、それが聖徳太子のモデルと言われている。)をバックに、海洋系民族連合軍の物部部族を倒し、六世紀に飛鳥の地を統治していた「大王」であったのだろうということです。
しかし、六世紀に忽然と現われたその蘇我氏の出自は、九世紀に突然天下人となり、十ニ世紀には壇ノ浦から忽然と消えた「平氏」のように、どこから来たのか分らないのです。
しかし、ヒントはあります。それは、大乗仏教にあります。騎馬民族系の蘇我氏が、倭国に大乗仏教を持ち込んだという事実は、その出自は中国大陸の可能性が大です。中国大陸での騎馬民族は、農耕民族である漢民族の儒教文化に対抗するために、北魏のように大乗仏教を武器としていたわけです。トルコ民族の言伝えでは、中央アジアにいたトルコ民族(遊牧系チュルク人)は大昔東西に分かれた。西に向かったのが現在のトルコで、東に向かったのが日本人(トルコ系日本人=胡の付く村に住む)となった、と言われています。
日本列島には、元々馬が生息していなかったのに、五世紀に馬が出現するわけです。では、その馬はどのようにして、日本列島に辿り着いたのかと言えば、それはひとと一緒に渡来したわけです。
日本列島は海に囲まれているので、一般的に孤立していると考えられているようですが、それは間違えです。日本列島は、大昔から、海の道(海流)を交通手段として国際的なのです。
中国の史書によると、倭人は自分達の出自は、呉であるとし、又、習俗の刺青や断髪や海に潜り漁をすることは越のものと同じであると記述しています。呉も越も海洋民族で、大きな構造船で近隣諸国と貿易或は戦をおこなっていたのです。その呉は紀元前473年、越により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。その子孫が九州に辿り着き弥生文化を伝えたわけです。それから約百四十年後の紀元前334年、越は楚軍の侵略により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。
越の子孫が日本列島に辿り着いた時には、中国大陸で敵対していた呉の子孫が九州に倭国を作っていたので、日本海を黒潮に乗りさらに北上し、能登、新潟、津軽、北海道そして太平洋を南下して、陸奥、常陸などに上陸し国を作るわけです。そのように、丸木舟ではなく、大量の荷物を輸送する構造船は、弥生時代の日本列島と中国大陸とを海の道により行き来していたのです。歴代の中国皇帝の魔除けの翡翠は、日本国の糸魚川産であることからでも分るように、昔から、日本列島は海の道により国際的であったことが理解できるでしょう。
そのように四方を海に囲まれた日本列島は、縄文時代の昔から海の道により近隣諸国の天変地変や争乱の影響を強く受けていたのです。
では、六世紀に近畿地方を支配していた蘇我氏の前の情勢はどのようであったのでしょう。再び、歴史教科書により時代を逆行してみましょう。

三世紀の末頃、大和や河内の地域には、とくに巨大な古墳が数多く見られる。これは、この地域の豪族たちが連合して強力な政権を作っていたためと考えられる。この政権を大和政権という。大和政権の王は大王といわれた。大王が政治をおこなう場所を朝廷という。大和政権は、しだいに吉備(岡山県)・出雲(島根県)・筑紫(福岡県)・日向(宮崎県)・毛野(群馬県・栃木県)などの地域の豪族をしたがえていた。

歴史教科書によれば、大和朝廷は大和の地の中央に鎮座して、地方の豪族を従えていたように記述しています。では、大和朝廷は、どのような生産手段で、そのような広域の豪族達を養っていたのでしょうか。山々に囲まれた大和地域には、農作物や物品を全国に供給する程の生産力はないのです。
大和の地は、縄文時代から交易のメッカで、地方の物産が集まる地であったのです。ですから、地方の豪族は、大和の地に支店を出していたのです。その各地方の支店の連合会が「大和政権」と言われている実態です。
やがて四世紀には朝鮮半島で、百済や新羅が勢力を増して、日本列島に進出してくると、日本列島に点在する豪族達は、百済系と新羅系とに収束していくわけです。
やがて、「大和支店」の勢力圏は、交易の利害関係や中国大陸や朝鮮半島の政治情勢の影響で、西の葛城と東の磯城との対立に発展し、その流れが、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫→百済(海洋系)の系列となり、それに対抗して、磯城→山城→近江→越・若狭→出雲→新羅(騎馬系)の系列となるわけです。その部族間の流れは、百済国や新羅国を中継基地として中国大陸の国々との交易のルートとなり、物や文化或は部族が行き来するわけです。
日本国の歴史を、教科書を基に三世紀から六世紀までをみてきたわけですが、一寸気になることがあります。それは、中国大陸の物や文化あるいはひとの流れが、朝鮮半島だけからのようだからです。本当に、中国大陸からの日本列島へのルートは、朝鮮半島を経由して北九州または出雲だけなのでしょうか。
中国大陸の南北朝の対立時代の512年に勃興した「梁」の国史「梁書」によれば、扶桑国(北海道南端の国)は北魏(南朝の儒教文化に対抗して大乗仏教を国策として保護していた。)と交通して、北魏の首都洛陽には扶桑館が立てられ優遇されていたとの記述があります。扶桑国は越の末裔の海洋民族国で、敵対する呉の末裔が北九州に倭国を立て南朝と交易していたので、北朝の北魏と海の道により交易をしていたわけです。
更に、日本書紀によれば、蝦夷の部族長アテルイの敗北による王化までは、集団で馬を駆使し短い弓矢を使い、蕨刀(ペルシャの腰刀か)を振り回す(この戦い方は、正に西アジアの騎馬民族の戦法です。)蝦夷(えみし・髭のあるエビスの意味・中東遊牧民族)が住む文化のない野蛮な未開の地、と記述されている東日本の日本海側には、野代(能代)、出羽(秋田)、佐渡、福良津(能登)などの港が、北魏との交易ルートとして確立されていたのです。
何故、日本書紀は、六世紀における中国大陸の国々と東日本の国々との交易の「歴史」を抹殺したのでしょうか。
それは、七世紀に誕生した「日本国」を裏でコントロールした、日本書紀をプロデュースした藤原不比等の戦略によるようです。
それは、藤原氏の出自を、蘇我氏と同じに知られたくなかったからのようです。
藤原氏の誕生は、645年の大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原不比等の父)が、蘇我氏を滅ぼしたその活躍により天智天皇から「藤原」の姓を賜ったからとの説明です。(この説明は、旧約聖書の創生期第三十二章のヤコブがイスラエルになった物語を彷彿させます。)
しかし、大和の地で大化の改新(乙巳の変)などなかったのです。野史(官製ではない歴史。敗者の歴史)によれば、それは朝鮮半島での争乱だと説明しています。だとすれば、日本国の誕生から現在までの国策に影響力を「裏で」発揮する藤原氏の先祖は、一体どこから渡来して来たのでしょうか。
それが解明できれば、この国におけるヒンズー教化している大乗仏教を利用した政策的イジメの「穢多」(人間以下の下層階級・日本的カースト制度)の発生の謎、そして、祭りの神輿に向かって「水」又は「塩」を振り掛ける意味が理解できるかもしれません。
元々この国には、大乗仏教が騎馬民族の蘇我(ワレハミナモトの意味)氏と伴に中国大陸から五世紀に、農耕に適した照葉樹林文化圏の北九州ではなく、狩猟牧畜に有利な落葉樹林文化圏の東日本へ侵入してくる前には、「穢多」の差別思想などなかったのです。
古代インドでヒンズー教化してしまった大乗仏教は、白人種のアーリア系民族が有色人種の非アーリア系土着民族を統治するために発明した呪縛思想のカースト制度を、その教義に取り入れ布教したことにより、わが国の藤原氏が支配する平安時代末期に、「穢多」の思想が庶民に流布されていくわけです。そして、この呪縛は、現在まで生きていて、小学生の「イジメの素=エンガチョ」となっているわけです。
「ブッダのことば」(大乗仏典にあるブッタの言動は後世のひとが創作したものです。)の中には、騎馬民族や狩猟民族の生活基盤を根本的に否定する「教え」が沢山あります。
「生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者、おまえは地獄に堕ちる者だ。」
「生きものをみずから害してはならぬ。また他人をして殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。」
「この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、かれを賎しい人であると知れ。」
大乗仏教の釈迦は、殺生を禁止し狩猟を嫌悪し、猟人、漁師、肉を売買する人々(セダラ)を最も卑しい人々と考えていたようです。そのような倫理観で屠殺に従事するセダラは、低い倫理観しかない人々の集団と位置づけられていくのです。つまり、大乗仏教の釈迦が殺生戒の内容を充実させていくにつれ、セダラ差別が深まっていくのです。そこで、ウソも方便で、僧が食べる肉を「浄肉」とし、セダラの食べる肉を「穢れた肉」との差別思想を発明するわけです。浄、不浄は相対的なものです。(カミ・モノが支配するこの国には、元々浄・不浄の区別などなかったのです。仏教で不浄とされる便所(仏教徒は御不浄と言う。)にも「便所のカミ様」が鎮座していたのです。)僧は、そのようにセダラを見下し、「三浄肉」つまり、動物を直接殺すのを見ない、動物の刹那のうめき声を聞かない、疑わないの三要素を含んだ肉を食べることは、殺生戒を犯したことにはならない、などの方便を発明するのです。
そのような、農耕民族の生活基盤に立って考え出された大乗仏教の殺生戒は、狩猟民族、牧畜民族或は漁労民族には、とんでもない思想なのです。
はっきり言ってしまえば、新生「日本国」における「穢多」の差別思想の布教は、「騎馬民族」を貶めるためのものです。大乗仏教を利用して、騎馬民族と他の民族とを隔離して、壊滅させることが、騎馬民族の蘇我氏の王権を簒奪した民族の戦略なのです。
では、どのような戦術で、「穢多」の思想をこの国に広めたのでしょうか。
古代インドでのカースト制度は、数百年の歳月を費やして「完成」したものです。この国のカーストの差別思想も、平安時代末期から約六百年も費やして、ようやく江戸時代に「完成」したのです。
では、誰がその差別思想を創作し、誰がその差別思想を実行し、どのようにして広められたのでしょうか。
そのカラクリを述べる前に、もう一度この国の歴史の流れの大筋をお浚いしてみましょう。
縄文人が、呉の子孫と北九州で遭遇したのが、紀元前二三世紀のようです。やがて、呉の子孫が北九州に倭国を作るのが一世紀頃です。そして、倭国の女王が魏に使いを送るのが三世紀です。そのころ朝鮮半島で高句麗、百済そして新羅が次々と建国し、日本列島に交易のために進出してくるわけです。そのころにはまだ「日本国」は誕生していません。
中国大陸からの亡命者や交易商人達が、日本列島各地に集落を作り、そこで力を蓄え、縄文時代からの交易地「畿内」をめぐって争奪戦を行うわけです。やがて、国際交易商人連合会が大和にできるのが四世紀頃です。その連合会で有利な立場をとったのが百済国の商人です。北九州の倭国は、百済と同じ海洋民族で、距離的にも近いので友好国として百済人をバックアップしたわけです。その交易ルートに対抗して、新羅は、出雲や敦賀などの別ルートを開拓して畿内との交易を行うわけです。日本列島からの主な交易品は、絹、朱砂、金、銀、銅、翡翠そして奴隷などです。
日本列島各地から出張してきた中国大陸出身の支店長が亡くなると、交易で儲けた莫大な資金で、競って大きな墓を作るわけです。その集大成である前方後円墳は、北九州、出雲、吉備、畿内そして北関東の五つの地域の埋葬文化を集合させたものです。それを歴史書は天皇の墓と言っています。実際に、天皇が誕生するのは七世紀なのです。
五世紀になると、その畿内に突然、九州からの西方ではなく、関東から騎馬民族が現われるのです。それが、「ワレハミナモト」の意味の「蘇我氏」です。蘇我氏は、中国大陸から馬を連れてきた渡来者で、北関東で勢力を張っていた民族です。
そして、蘇我氏は、飛鳥の地に石を多用して水をモチーフにしたペルシャ式庭園などを作り、畿内の「大王」として君臨したのです。君臨していたと言っても、騎馬民族の政治は、合議制なので独裁的ではなかったでしょう。それは、生活様式が関係しているようです。移動式テントのパオの中で車座になって議論をすれば、皆の意見が同等になるからです。それに、騎馬民族は、海洋民族と同じに漂泊性のため、土地に執着することもないからです。
蘇我氏は、中国大陸出身なので、同じ騎馬民族国家「随」や「唐」と交易を盛んにするわけです。
七世紀になると、俄かに政局が激変してくるのです。それは、朝鮮半島での新羅の動きです。三韓の内で一番弱小だった新羅が勢いを増して、百済を攻めたからです。更に、百済にとって最悪は、唐も新羅と共同戦線で攻めてきたからです。
それに対応して、日本列島の畿内で革命が起こるのです。それは、百済系民族による蘇我氏の壊滅作戦です。(歴史ではこれを大化の改新と言っている。)敗れた蘇我氏は、元の勢力地の北関東へ敗走するわけです。
蘇我氏の政治は合議制なので、色々な部族とも友好関係を保っていたわけです。物部氏もそのひとつです。物部氏は、海洋民族の連合民族で色々な部族が混成していたのです。蘇我氏と伴に戦った物部氏は、敗れて後、外物部氏(中央にいるのは内物部氏)と言われるようになるわけです。その外物部氏は伊勢に逃げ込むわけです。
畿内での革命が成功して、北九州の同盟国倭国の海軍と百済救済に赴いても、唐・新羅軍には太刀打ちできず、663年白村江の戦いで、倭国と百済軍は壊滅し、倭国も百済国も歴史から消えてしまうのです。
日本の歴史書では、中大兄皇子(百済国の王子)が668年大津に都を移し、天智天皇として即位した、となっています。そして、七世紀末に、中国の歴史から倭国が消え、それに替わり、日本国が登場するのです。
敗戦国移民の百済系民族に、チャンスが訪れるのです。それは、同盟国の唐と新羅が戦争を始めたからです。唐は、百済を壊滅させ、次に高句麗を攻めるのです。その唐と高句麗の戦いの最中、新羅は、朝鮮半島から、唐軍を追い出し、半島統一国「新羅国」となるわけです。日本国と半島統一新羅国はほぼ同時に建国したわけです。
現在の日本人(百済系日本人)が、韓国人(新羅人)を蔑視する原因のひとつが、ここ(新羅国が百済国を滅ぼしたこと。)にあるのです。
白村江の戦い後、唐の日本列島進駐軍は、新生日本国で、百済系日本人に肩入れし、敵国移民の新羅系日本人を追い落とそうとするわけです。それに対抗して、新羅の王族金多遂(大海人皇子)が、伊勢の外物部氏(海洋民族・赤旗)と関東の蘇我氏(騎馬民族・白旗)の残党の力を借りて、近江朝の百済政権に戦いを挑むわけです。これを、歴史教科書では、壬申の乱と言っています。この戦いに勝って、大海人皇子が天武天皇として即位するのです。
そして、蘇我氏の元の都「飛鳥」に都を建設するわけです。そして、戦いの功労者の外物部氏の伊勢の神社を天武朝の神として祭るわけです。(しかし、第五十代百済系桓武天皇になってから伊勢神宮にお参りしていないのは何故か。そして、約千年後の明治天皇になってからお参りが復活したのは何故か。)
新生日本国の大王となった天武天皇は、百済系日本人を中央から追い払うのです。このことが後の世で、新羅系日本人(騎馬民族)が、藤原氏にコントロールされた百済系桓武天皇からイジメられる原因のひとつにもなるのです。「奢れる者久しからずや。」
やがて、天武天皇が亡くなられると、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が朝廷に返り咲くのです。それと同時に、百済系日本人の地位が向上し、それに反して、新羅系日本人は中央から追い出されてしまうわけです。
ここから、天武天皇系人脈と天智天皇・藤原氏人脈との熾烈な戦いが始まるのです。
七世紀の中頃突然日本の歴史に現われた「カッコウ・藤原氏」は、天武天皇家の巣に入り込み、その人脈がひとり、またひとりと消されてしまうわけです。そして、天武王朝は八世紀後半に、奈良の大仏建立を発案した聖武天皇(神輿の元祖)の子供の称徳天皇の代で滅びてしまうわけです。
では、誰が、天武天皇系・新羅系日本人のイジメ方を考え、そして実行したのでしょうか。
日本国の王権の簒奪方法を、旧約聖書を参考にして推測すれば、出自不明の「レビ族」が「藤原氏」、頭に油を注ぐことにより王様を創る祭祀の「アロン」が外物部氏の伊勢神宮を簒奪した「中臣氏」、自分の部族に都合の良い法律を作る「モーセ」が大宝律令を創作した「藤原不比等」、では、エフライム族のイスラエルを乗っ取り自国のエルサレムに神殿を勝手に作った「ダビデ」は一体誰になるのでしょうか。
それは、日本国のダビデは藤原仲麻呂(恵美押勝)の他には考えられないでしょう。
藤原仲麻呂は、天武天皇の皇子で藤原氏よりの舎人親王の子供の大炊王を息子の嫁にあてがうことにより、養子のように囲い、王として即位させ、この王が即位した後、天皇から「父」と呼ばれるようにした。(天皇に女をあてがうのは、藤原氏の伝統のようです。)
更に、藤原仲麻呂は、仲麻呂一家で太政官を独占してしまうのです。太政官とは国政の最高機関で、天皇の決済のための御璽(ハンコ)をあずかり、業務をおこなう役人です。つまり、天皇は飾りで、実務は藤原仲麻呂一家が取り仕切っていたわけです。
更に、藤原仲麻呂は、天皇からお金を鋳造する権利と仲麻呂の私邸に印(恵美家印)を持つ権利を与えられるのです。これはどういうことかと言えば、仲麻呂家が国家そのものと言うことです。
そのような独裁的性格の藤原仲麻呂の先祖は、中国からの渡来者で合議制で政治を行い、諸外国(特に新羅国)と全方位外交を行う蘇我氏の存在が邪魔であったわけです。
そこで、藤原仲麻呂は、蘇我氏の先祖を貶めるために、皇后に言い寄ったなどのデタラメ物語を挿入し、日本書紀を改竄するのです。更に、蘇我氏や新羅系日本人を貶めるため、それらの歴史的人物に蔑称を付けるのです。
それらの蔑称は動物の名を付けることです。(動物・鳥・魚・昆虫の名前を付けられた氏族は、蘇我氏系か新羅系のひとのようです。)蘇我氏や新羅系のひとには動物の名前、例えば蘇我馬子、蘇我蝦夷(エミシ=エビのようなヒゲのあるエビスの意)、蘇我入鹿などです。その祖父と子供の名前の一字を合わせると「馬鹿」になるように、日本書紀等の歴史書を改竄して手の込んだイジメをするわけです。
そのかわり、高句麗人や百済系人などは、朝鮮名を隠し日本名(勿論日本名藤原の前は朝鮮名です。)にするわけです。そして、藤原仲麻呂は、新羅系天皇に対抗するため、藤原氏を高位におく系図集の「氏族志」を創作するのです。
更に、日本書紀は、新羅系天武天皇の命令で創られたとのトリックを考えるのです。その内容はまったく逆で、百済系天皇に有利に、そして、蘇我氏・新羅系天皇には不利なものとなっているのです。
そのように暴虐不仁の藤原仲麻呂の行動に対して、天武天皇の血が流れている聖武天皇は黙って見ていたわけではありません。天平十二年(740年)、九州の藤原広嗣の乱のさなか平城京から姿を消し、伊勢神宮に行くのです。その頃の伊勢神宮は二派に分かれていて、元々の外物部氏の社(海洋民族の神天照・アマテルと天武天皇の神を祭る)と藤原氏の息のかかった中臣氏の社(中臣神道の儀式はユダヤ教の臭いがする。灯篭にダビデ紋がある。)とがあるわけです。外物部氏は天武天皇派で反藤原氏(反仏教)です。
藤原氏に支えられている百済系役人達に、中央から追い落とされた蘇我氏や新羅の騎馬系民族の人々や外物部氏の海洋系民族の人々は、農奴となるのを拒否して表の世界から闇の世界に入っていくわけです。つまり、仏の敵「鬼」になるのです。しかし、農奴になったもの達は関東に屯田兵として送られ、「夷を以って夷を制す」の戦法の道具として、蝦夷討伐の尖兵とされてしまうのです。この子孫が、後の源氏(白旗)や古平氏(赤旗)の武士となるのです。
もともと鬼の素性は、騎馬民族と海洋民族の子孫であるわけです。つまり、漂泊する非農耕民族であるわけですから、藤原氏などの貴族(律令制度で発明された王権側の奴隷)に農産物を貢かず、政府に反抗する鬼達は、「やくさぬもの」、つまり、役に立たないもの、アウトサイダーの「ヤクザ」との烙印を押されてしまうのです。
その鬼が反藤原闘争を企てる聖武天皇と接近するのです。そして、鬼(部落の宿神)が天皇を「裏で」支える見返り(天皇の宿神)として、鬼達は通行の自由、税、諸役の免除などの特権を得るのです。この流れから、江戸時代、穢多頭の弾左衛門が支配する芸能民、勧進、遊女、鋳物師、木地屋、薬売りなどの「歩き筋」と言われる非農耕民達は税が免除されていたのです。
その聖武天皇が、巨大寺院の東大寺建立を発願するのです。それに対して、鬼達(反体制派の騎馬系や海洋系の漂泊民)の故郷である陸奥の国から、大仏塗金の材料として大量の黄金が寄進されるのです。しかし、王御宝(おおみたから)の体制派の農耕民族には過度の負担を負わせたため、政治が混乱するのです。
では、何のための大仏建立なのでしょうか。そのような体制派の農耕民族を苦しめる大仏建立は護国のためだけではないでしょう。それは、聖武天皇の真の狙いは、平城京を見下ろす丘の上にある藤原氏の春日大社や興福寺(この二つの建物は、鬼との戦いの時は砦となる戦略的建築物。)を、ルシャナ仏(太陽の神/日本国では「大日如来」と言われているが、実体は「遍照鬼」で、インド正統派のバラモン教系の神格ではない、被征服民族の救世主。古ミトラ神の化身か?この東大寺を、平安時代に、海洋民族の百済系平氏=桓武平氏=インド系庸兵団が焼き討ちで全焼させ、後の鎌倉時代に、騎馬民族で太陽信仰の新羅系源頼朝が再建するのです。)で封じ込めるためではないかということです。何故ならば、東大寺が、そのニ寺を見下ろす山の上に建立されているからです。
その東大寺建設に対して、藤原仲麻呂は何度も妨害するのです。そして、やっと天平勝宝四年(752年)に東大寺が完成すると、鬼達は、聖武帝の常輿のほうれんをもってお祝いするのです。これが神輿のルーツと言われているものです。つまり、神輿は「鬼達の神」を祭るものだったのです。
東大寺の大仏開眼の後、756年聖武天皇は亡くなり、騎馬民族天武朝最後の女帝孝謙天皇(聖武天皇の娘)が、藤原仲麻呂との闘争を、父聖武天皇から引き継ぐのです。
孝謙天皇の基本的考えは、「事としいわば、王を奴となすとも、奴を王というとも、汝の為んまにまに。」の言葉に表れています。孝謙天皇は、鬼達の力を借りて、764年宿敵藤原仲麻呂を滅ぼすのです。
旧約聖書における簒奪物語は、ダビデの死後、正当な後継者から祭祀アロンと結託したソロモンはダビデの王権を簒奪し、そして、エフライム族達の正統派イスラエル民族をエルサレムの神殿から追い払い、その財宝を独り占めするわけです。
これが原因で、ソロモンの死後、イスラエル王国と、ユダ国に分裂するわけです。その時、旧約聖書は、エフライム族からレビ族の物語に改竄されるのです。この時にはまだ旧約聖書のモーセの五書は創作されていません。それが創作されるのは、ずっと後の紀元前六世紀から紀元前五世紀の間になるのです。
ダビデの王権を不正な手段で簒奪したソロモン王を日本国に求めると、それは、天武王朝の簒奪者百済系桓武天皇となるでしょう。「桓」とは「韓」で、「武」とは「王」の意味で、桓武天皇とは、「韓の国の王」と言う意味です。
藤原百川の陰謀の助けによりの簒奪者百済系桓武天皇が、新羅系天武天皇が発明した伊勢神宮での世襲儀式の「大嘗祭」を止め、百済系王族を交野に集め、中国式の「封禅の儀」を執り行うのです。そして、桓武天皇以降、明治天皇が即位するまでの約千年間、歴代の天皇は伊勢神宮に参内していないのは、桓武天皇から天皇の血筋が替わったことを意味していると言えるでしょう。つまり、天皇家の万世一系は神話だったのです。
更に、平安京へ遷都した桓武天皇は、その時、今までの完全な漢音式ではなく、倭国の故郷の中国江南地方の「呉音」で祝詞を奏上したのです。ここに、京都「小中華帝国」が出来上がるのです。
そして、桓武天皇はインド系庸兵団(後の桓武平氏の祖先。外物部氏は同じ海洋民族でもその出自が異なるため古平氏と言われる。氏名があるのが古平氏で、インド系傭兵団の子孫の桓武平氏は、「平の何某」と明記され氏名がない。)の軍事力を、桓武天皇のバックスポンサーである唐国が求める金、銀、銅、水銀、朱砂などの鉱物奪取の目的で東北侵略に向けるのです。
唐国の経済を支えていた「絹」は、六世紀に、西域の修道院僧により「繭」が盗まれたことにより、そして、その絹織物の製法も盗まれたことにより、七世紀中頃にはヨーロッパでの需要は激減してしまうのです。その結果、唐国の経済を支えていたシルクロードの交易は日に日に衰えていくわけです。そのような影響が、唐国、新羅国を通して、絹織物生産国の日本国の社会にも影響を与えるわけです。
では、この頃の日本国の情勢について、教科書の歴史はどのように述べているかをみてみましょう。

奈良時代も後半になると、天皇の後継者をめぐって貴族の争いがはげしくなり、政治が混乱した。そこで、母が渡来系の子孫である桓武天皇は、794年に今の京都の地に新しい都をつくり、ゆらいできた律令政治を立て直そうとした。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでのおよそ400年間を平安時代とよんでいる。桓武天皇は、都づくりと東北地方の蝦夷支配に力をそそいだ。

貴族の争いとは、天武系と百済・唐系との争いということで、当時の先進国唐国のバックがある百済系貴族は、百済系でない者を、「百済ではない。」、つまり「クダラナイ」と言うことで、新羅系貴族を中央から追い落としていくわけです。そして、桓武天皇は、百済系貴族に不利な書物を焚書し、日本書紀を改竄し、そして、続日本紀を編纂するのです。
それらの歴史改竄により、現在の日本人は、飛鳥時代、そして奈良時代の実体を知ることが出来なくなってしまったわけです。
更に、桓武天皇は、天武朝系の聖武天皇の遺品を納めた正倉院の保管物を適当に処分することにより、天武朝の北方騎馬文化の臭いを消してしまうのです。
正倉院とは、正倉つまり重要物品を納める蔵が幾棟も集まった所を言うのです。その正倉院には、756年に没した聖武天皇の遺品が納められていたのです。その中に、北の果ての地方豪族が乗るような馬の装具が十具あったのです。これはどう言うことなのか。(平安時代の貴族は、牛を交通手段として利用し、馬(騎馬文化)を蔑視していたので、天皇が馬に乗るなどの発想はなかったのです。)
更に、正倉院の建築方法から、前史の謎解きができるのです。
正倉院は湿気を防ぐための校倉造りで造られているから、それは当然南方系の建物かと思われていますが、実は、中央アジアの遊牧民族スキタイ族の冬の住まいがルーツであるわけです。遊牧民族の建物は、移築可能な組み立て式で、移動が簡単にできるようになっているのです。その正倉院に保管されていた物の中に、不思議なものが多くあるのです。ペルシャ地方の王様をかたどった面の「酔胡王面」、パミール高原の少数部族が使用するワッチ太鼓の「くれの鼓」、そして中国から出土していないカスピ海周辺で制作された「白瑠璃椀」など、西域地方の物品が多数あるのです。
平安時代、文化の面でも、北方系ルーツの伎楽を止め、インドから東アジア経由の雅楽を宮廷音楽とするのは、北方系文化抹殺の手段なのでしょう。
そのように、北方騎馬文化が前史にあったことがバレルと、騎馬民族の蘇我氏が「大臣(臣とは奴隷という意味)」ではなく、実は「大王」であったことが知れてしまい、その結果、後のひと達に、百済王朝が簒奪王朝だと知れてしまうからです。
特に、仏教伝来のストーリ、538年百済王聖王が仏像・経巻を倭王に贈り、「未開の野蛮人の倭人を教化した。」が崩れてしまうからです。
504年に、中国の南梁に渡った北倭国僧慧深の記事が「梁書扶桑伝」にあります。北倭国僧慧深の北倭国についての説明によれば、北倭国は、山陰・北陸の文身国、伊勢・美濃一体の女国、そして相模・武蔵の大漢国に分かれていて、それらを統治していたのが扶桑国(北海道南端の国)であるということです。その扶桑国には、馬車や鹿車(トナカイのソリか?)が交通手段として利用されていたということです。五世紀の東日本については、「日本書紀」には「蝦夷の国」としか記述していないのに、中国史書の「梁書」には北倭国のことが記述してあるのはどう言うことなのでしょうか。
そのような北方文化の目で、飛鳥時代、そして奈良時代を見てみると、やはり行き着くところは「聖徳太子」の謎(ウソ)です。
聖徳太子と言えば、日本人であれば誰でも知っている超有名人です。しかし、「古事記」と「日本書紀」以外の史料は全て裏付けのないものばかりです。(「古事記」、「日本書紀」の史料は信用できるとは保証できませんが。)
いやそれは違う、一昔前の一万円札に、聖徳太子の肖像があったではないか、と反論するひともいるでしょう。でも、その正倉院御物聖徳太子像は、中国大陸人が描いた中国大陸人の像であって、聖徳太子とは全く別なひとであるわけです。
その聖徳太子像は、どこからもたらされたかと言えば、元は法隆寺ではなく、大陸色(騎馬文化色)の強い「川原寺」(天武天皇が建立か?仏教行事には、平安朝廷のインド系雅楽ではなく、大陸調の伎楽を専門的に執り行っていた。)からです。
その聖徳太子像には、二人の侍童を伴っていることは、何を意味しているのでしょうか。
太陽神の古ミトラ教は、三神で構成されています。それらは、日の出の神、天中の神そして日没の神です。日の出の神は「ケプリ」で「創造」を、そして日没の神は「アトン」で「完成」を表しています。その二人の神をともなって、ミトラ神は救世主(メシア)となるわけです。
そこで思い出されるのは、仏像が聖徳太子から秦河勝に渡され、仏像安置のために建立した寺の名前です。蜂岡寺が広隆寺となるのですが、それは後に太秦寺(ウズマサデラ)と言われるのです。その太秦寺とは、中国大陸では、ペルシャ寺と言われているのです。その太秦寺では、牛祭りを行い、ご本尊が魔多羅神(ミトラ神?)であるわけです。
ミトラ神が、牡牛を屠るには意味があります。それは、今から五六千年前のチグリス・ユーフラテス河の住民には、農耕のためには牛は最も大切な労働力であるわけです。毎年、耕作の開始の春分の頃、太陽が通過する星座を牡牛座と呼ぶようになったらしいのです。まだ暦の知識がない時代でしたので、牡牛座が、永遠に太陽の新しい出発点となる聖なる星座と信じられるようになると、「牡牛」そのものが「太陽神のシンボル」に変身してしまうわけです。太陽は、死と再生を繰り返すと信じられたため、太陽のシンボルを屠ることにより、人工的に再生を創り出そうとしたわけです。
太陽の光が最も衰える12月25日の冬至(太陽の死)は、太陽が復活する聖なる日になるわけです。この聖なる日がミトラ教に取り入れられ、そのミトラ教を乗っ取ったユダヤ・キリスト教は、救世主イエスの誕生日とするわけです。
そのミトラ神が、仏教の寺にいることは、一体何を意味しているのでしょうか。
聖徳太子が活躍(?)した時代を飛鳥文化と呼んでいます。その時代を歴史教科書は どのように説明しているのか調べてみましょう。

聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。太子が建てた法隆寺は、今も残る世界最古の木造建築であり、釈迦三尊像や玉虫厨子などのすぐれた美術工芸品がある。また、奈良の中宮寺と京都の広隆寺には、美しい弥勒菩薩が残っている。この文化は朝鮮からの渡来系の人々の手によるところが大きく、その中心が飛鳥地方にあるので飛鳥文化とよばれている。

一万円札にある聖徳太子像が「ウソ」であるならば、607年に聖徳太子により創建されたと信じられている法隆寺は、一体誰が建てたのでしょうか。
教科書によれば、「朝鮮からの渡来人」、となっているから新羅人か百済人だと誰でも考えてしまうでしょう。しかし、それらの飛鳥文化を代表する元興寺や飛鳥寺は、蘇我馬子により中国大陸から招聘された太丈羅未大(タザラーミド)、白味淳(バイミズン)などの非東洋人(ペルシャ人?)の建設指導者により建立されているのです。
では、法隆寺もそれらの非東洋人により建立されたのかと言うと、調べ様がないのです。それは、日本書紀によれば、670年に焼失してしまったからです。しかし、その日本書紀の記述はウソだったのです。発掘された元の法隆寺跡には焼失の痕跡が見つからなかったからです。
更に、法隆寺跡から少し離れた場所に再建された新法隆寺の心柱をエックス線年輪年代学によって調べた結果、その心柱の最終年輪は591年であることが確定したのです。これは一体どう言うことなのでしょうか。
法隆寺の建物にウソがあるように、その建物に納められている釈迦三尊像や救世観音にもウソがあるようです。日本書紀によれば、法隆寺は天智9年に焼失したのならば、それらの仏像(飛鳥時代に制作された。)は焼けなかったとでも言うのでしょうか。
四世紀後半、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教は、敵であるミトラ教の神殿を破壊して、その神殿の上にキリスト教会を建設するのです。ですから、ローマ帝国内の全ての教会の地下を発掘すればミトラ神殿(神殿は地下に建設された。)が現われて来ると言われています。
敵神殿の跡に教会を建てることは二重の意味があるのです。ひとつは、敵宗教の痕跡を歴史から消すことができるからです。もうひとつは、敵宗教の地理的歴史を乗っ取れるからです。
その新法隆寺建立の謎を解いたひとによれば、その法隆寺と呼ばれている寺は、北九州から移築されたと言うのです。更に、奈良に現存する飛鳥時代・奈良時代初期の寺は、全て北九州からの移築だと言うのです。北九州には、無数の倭国時代の廃寺が存在します。
何のための移築かと言えば、それは、蘇我氏、つまり飛鳥時代以降の歴史を隠蔽するためです。飛鳥時代の寺が現存していない(あの秦河勝の広隆寺も再建です。元は現在地ではない所に建立されていた。)と言うことは、抹殺された廃寺は何を物語っているのでしょうか。
日本書紀によれば、大化の改新の時、蘇我氏の館が焼失した時に、国の歴史書は全て焼失してしまったことになっているのです。だから、飛鳥時代の歴史は分らない。
更に時代が下がって、騎馬系天武天皇の流れにある聖武天皇の遺品を納めた正倉院には、西域の楽器や食器、或はお面はあっても、本邦の当時の風俗を顕わす絵画や彫像など一切のものがないのです。しかし、日記類はないのに歴史書はあるのです。だから、飛鳥・奈良時代の風俗は分らない。
では、聖徳太子(=藤原氏による蘇我馬子の事績を基に創作された合成人物像)が広めたと信じられている飛鳥時代の仏教とは、本当のところ何なのでしょうか。
聖徳太子が実在の人物でないとすれば、日本の仏教史どころか古代史のストーリは書き換えなければならなくなるでしょう。それは、古代史のメーンテーマである、「大化の改新」が起こる必然性の根拠(蘇我氏が聖徳太子の遺児一家を滅ぼした。)が消滅してしまうからです。
では、聖徳太子の事績が蘇我馬子だとしたら、渡来した仏像はどのようなものだったのでしょうか。
仏教史によれば、聖徳太子(蘇我馬子)が弥勒菩薩像を秦河勝に渡したことにより、仏教が倭国に広まったことになっているわけです。そして、その仏像安置のための寺が広隆寺であるわけです。しかし、その広隆寺では、仏教開祖の「釈尊」ではなく、素性不明の「魔多羅神」を祭っているのです。更に、その広隆寺の再建前の寺(太秦寺・ペルシャ寺)は、どうも仏寺ではなく、景教寺であったようです。
では、その弥勒菩薩像とは、「本音」ではどのような背景を持った仏像なのでしょうか。弥勒菩薩とは、インドではマイトレーヤと言われ、その素性はミトラ神であるわけです。そのミトラ神の素性の一端は、ローマ帝国内で繁栄したミトラ神に見ることができるようです。
紀元四世紀にユダヤ・キリスト教に滅ぼされた、ローマ帝国内で崇められていたミトラ神(ラテン語ではミトラス神・不敗の神)は、紀元一世紀にローマ帝国軍がシリア地方を攻略した時、敵側の軍神であったわけです。その敵側の軍神のミトラ神が、ローマ帝国軍の軍人達により、ローマ帝国に持ち込まれ、瞬く間に広まったわけです。
敵側の軍神がローマ帝国内に広まった理由のひとつは、戦いの困窮時に現われて救いの手を差し伸べる救世主思想だけではなく、オリエントの神秘としてのイニシエーションの密儀、秘教占星術、そして牡牛を犠牲とする祭儀などを行うからです。(現在の秘密結社の入会儀式は、ミトラ教の「死と再生」の儀式を真似したものと言われています。)
太陽神のシンボルである牡牛を犠牲とし、その血を飲み、肉を食べる密儀式は、現在ではユダヤ・キリスト教に取り込まれ、赤ブドウ酒とパンに変成してしまっていますが、元の意味は、太陽神と一体になることです。
視点をずらせば、戦争とは、「宗教と武器開発の祝祭」とも考えることもできるわけですから、「神」は常に戦場に現われるわけです。つまり、神には、常に軍神としての需要があるわけです。
聖徳太子(蘇我馬子)から弥勒菩薩像を渡された秦河勝の祖先は、五世紀に新羅国からの渡来人であるわけです。そして、その弥勒菩薩は、元は新羅国を経由して、秦人により倭国にもたらされたものなのです。
では、新羅国の軍人は、どのような神を崇拝していたのでしょうか。
新羅人は、元々朝鮮半島にいたわけではなく、出自は西域からです。その西域からの新羅人が四世紀に朝鮮半島南端に小さな国を興した後に、職能集団・国際交易商人の秦人が入り込んだようです。そのように、外からの異民族が流入することにより、新羅国は強大な国に変身していったのです。
その新羅国の軍隊の中核をなすのが「花郎」(この組織運営は九州に渡り「兵児二才」となり、日本国の武士育成の礎となる。美少年天草四郎の青年武士団もこの流れにある。)です。
花郎の源流は、氏族社会において青少年の集団生活をとおして、心身の鍛練と氏族社会の規範を教え込み、有事の際、戦闘員として役立つように組織された機関です。この風習が、六世紀の朝鮮半島の動乱に、新羅国の真興王(540〜575)により、在来の青少年集団を正規軍の国軍として組織化を図ったわけです。つまり、国家軍の総指揮者を「花主」と称し、その下に「花郎」をおいて軍卒を統率指揮したのです。そして、その軍隊は、仏教(騎馬民族は、漢民族の儒教に対抗して仏教を保護した。)の弥勒菩薩を深く信じて、自らを弥勒の化身だと確信していたようです。
「花郎」の「花」とは「弥勒」の訓借字で、「郎」とは「男」の意味です。つまり、「花郎」とは、「弥勒の男」という語義をもつものであるわけです。
そのように、軍神の背景を持つ弥勒菩薩を、蘇我馬子(聖徳太子)が秦河勝に渡したという意味は何なのでしょうか。その意味は、単なる仏教の布教だけではないのでしょう。
蘇我氏が倭国の歴史に突然現われた時代背景をみてみましょう。
まず、新羅国が百済国に屈服した。大和の地を中心に、四十七箇所に屯倉が設置された。そして、突如、蘇我稲目(蘇我馬子の父)が、政治の中央に躍り出た、ということです。
中国大陸の動乱に影響されて、朝鮮半島の高句麗、百済そして新羅は、三つ巴の戦いに明け暮れていたのが、六世紀の東アジアであったわけです。
そのような時代に、朝鮮半島三国のコロニーがいがみ合う倭国において、大乗仏教は殺生禁止の仏の教えを布教していた、とでも言うのでしょうか。そもそも、仏教は、他民族を統治するための、騎馬民族の武器のひとつであるわけです。
ではどうして、その騎馬民族の武器のひとつである仏教が、平安時代になると、騎馬民族を「セダラ」と蔑むようになったのでしょうか。
その謎は、六世紀の近畿地方の政治情勢、つまり「百済系民族」対「新羅系民族」の抗争に原因があるようです。そして、仏教が反騎馬民族となるその謎を解くひとつのヒントは、「聖徳太子の発明」にあるようです。
仏教史によると、仏教が倭国に導入された時、二度の争いがあったということです。一回目は、物部尾輿対蘇我稲目、そして二回目は、物部守屋対蘇我馬子です。(この戦いの時14歳の聖徳太子が登場するのです。)その原因は、仏教史では「神」対「仏」の戦いということです。
しかし、それは可笑しい。その原因が「宗教戦争」と言うのなら、本当に物部氏は「神」だけを崇拝する部族だったのでしょうか。
物部氏は海洋民族の連合部族で、その中核には始祖ニギハヤシの伝説を持つように、新羅系部族とも関連がある部族もいるのです。それに、蘇我馬子のお妃は、物部氏の出なのです。
では何が原因かと言えば、それは「経済戦争」、つまり、大和の地での物流経路の縄張り争いだったのです。
四世紀、大和の地に国際交易商人達が「大和支店」を開設し、その後、その利権を得るために、朝鮮三国の高句麗、百済そして新羅が大和の地に進出してくるわけです。
やがて六世紀、朝鮮本国での三国の争いが、大和の地にも影響して、それぞれの流通経路が確立していくわけです。それが、「高句麗・百済」→筑紫→吉備→難波→紀伊→葛城と、「新羅」→出雲→越・若狭→近江→山城→磯城の二つの物流系列となるわけです。この、「高句麗・百済」対「新羅」の経済戦争が、軍事部族の出番となるわけです。それが、「物部氏」対「蘇我氏」の戦いの本質でしょう。
その戦いで圧倒的な強さを示した蘇我氏の軍事力の基は、なんと言っても「軍馬」でしょう。
十六世紀、スペイン人がインカ帝国を滅ぼしました。その戦いで、「軍馬」の威力を知ることができるでしょう。
インカ帝国最後の皇帝ワイナ・カパクの死後、帝位相続にからむ内戦のさなか、北部エクアドル・インカ帝国のアタワルパが南部インカの帝都クスコを陥落させ、北部カハマルカに数万の軍隊で陣取っていました。そこへスペイン軍が突入するのです。その数、180名。その180名の軍隊が数万のインカ帝国軍を陥落させた原因のひとつが、「軍馬」であったのです。
蘇我軍の強さのひとつは「軍馬」ですが、それに「石弾」が加わるのです。蘇我氏の都「飛鳥」(アスカとはペルシャ語で大鷲の意味。)の遺跡で石が多く見られるのは、それは軍事物資の貯蔵所でもあるわけです。平和時では、道路や堀に石を敷き詰め、戦争時には、それらを掘り起こして「武器」とするわけです。石投げは、騎馬民族の弓が発明される前は、重要な武器のひとつであったわけです。旧約聖書で、少年ダビデが敵将巨人ゴリアテを倒すのも、「石」であったわけです。
六世紀の朝鮮三国の争乱に乗じて、その軍事力をバックに、大和の地の物流ニ系列を支配したのが、蘇我稲目であったわけです。そして、軍事力保持のため、蘇我稲目は、大和の地の四十七ヶ所に屯倉を設置するのです。
歴史教科書では、屯倉とは大和朝廷の直轄地ということですが、本当なのでしょうか。
645年(乙巳の変)を境に、つまり、蘇我王朝の滅亡を境に、屯倉の存在意義も異なったようです。蘇我氏の時代の屯倉は、軍事施設であったわけです。それは、交通上そして軍事上にも拠点になるところに設置していたのです。それに、百済から海路で大和に入る重要拠点の吉備には、541年に蘇我稲目は自ら赴き、吉備五郡に白猪屯倉を設置するのは、高句麗・百済軍を迎撃するための基地としたからです。
では何故に、大和の地が争いの素となったのでしょうか。それは、弘法大師の空海が開いた高野山に原因があるのです。高野山は、銀鉱脈の地(鉱脈は伊勢まで続いている。壬生も水銀の産地。江戸時代、高野山では「京おしろい」、伊勢では「伊勢丹」として水銀を原料に白い粉を、表向きは「白粉」として、裏では男には回春薬として妊婦には堕胎薬として販売していた。江戸末期、九州の出島よりオランダ貿易商人から広まった梅毒の特効薬として白い粉は再び脚光を浴びた。)でもあるわけです。その高野山の入口の関所となるのが、大和の地であるわけです。
古代宗教儀式には朱砂・水銀は重要な道具です。朱砂は、呪術時代には、霊力のある「モノ」であったのです。それは、キズが化膿しているところに塗ると、治癒するからです。その朱砂の効能を知るひとは、呪術者として生きられたわけです。化学を知らない時代では、化膿していたキズを治すのは「カミ」の技であったわけです。
しかし、その治癒力は「カミ」の技ではなく、水銀の威力だったのです。朱砂は、硫化第二水銀です。このキズの消毒にたいする「赤」の力は、日本国では昭和48年まで続いていたのです。(水銀毒が指摘され製造中止となった。)昭和生まれのひとなら知っていると思いますが、それは「赤チン」と呼ばれていました。赤チンは正式にはマーキュロクロムと言われ、「有機水銀化合物」であったわけです。
やがて、この朱砂は布に染み込ませると、海の悪魔「サメ」を撃退することを知るひとが出現するのです。そこで、海洋民族は、海に潜るとき「赤褌」をすることにより、水銀毒でサメを避けることを知るのです。やがて、その赤布は、海洋民族の呪術のシンボルの「赤旗」になるわけです。海洋民族の「古平氏」や「平氏」が赤旗を掲げる意味がここにあるのです。(それに対する騎馬民族は、太陽神のシンボル「白旗」です。新羅を「シラギ」と読むのは「蔑称」です。そのシラギとは、「新羅の奴」と言う意味です。新羅はシンラ或はシルラと読み、その意味は新しい「ラー=太陽」と言う意味です。)
貨幣経済の発達していない縄文・弥生時代では、朱砂は呪術の道具の重要な物質であったのです。
やがて、ヨーロッパや中国大陸で銀の需要が増してくると、銀の争奪戦が行われるわけです。そこに、宗教組織も参戦するわけです。
古代の宗教家とは、科学者、化学者そして医者でもあったわけです。只、一般人と異なるところは、宗教家の目的は金儲けではなく、意識の変成つまり、神に近づくことにあるわけです。
中国の道教では、不老長寿が実践され、仙人になるための手段として、錬丹術が開発されるわけです。それは、朱砂の、鎮静・催眠効果そして殺菌効果を呪力として信じていたわけです。
インドでのバラモン教では、水銀による知覚神経や自律神経を麻痺させる効果を知ることになり、水銀の利用方法が、宗教の名の下で開発されて行くわけです。しかし、水銀毒についての知識が増すと、表の術から裏の術、つまり密教となっていくわけです。
このバラモン教の密教が平安時代に、空海(水銀中毒で即身仏となる。)によりもたらされる訳ですが、蘇我氏が持ち込んだ仏教との関連性はあるのでしょうか。どうも、蘇我氏の仏教と平安時代の仏教とは、同じではないようです。それは、拝む対象の「仏」が異なるからです。
蘇我馬子が秦河勝に与えたのが、軍神「弥勒菩薩」であるなら、どうして、物部守屋との戦いの時、蘇我馬子側の十四歳の聖徳太子は、軍神「弥勒菩薩」ではなく、「ぬりで」で四天王の像を造り、それを頭に縛り付け「もしこの戦いに勝利したならば、護世四王のために寺を建てようぞ。」と祈願したのでしょう。
そもそも、四天王とはどのような素性の者なのでしょうか。仏教史によりますと、四天王とは、釈迦を守護する、持国天、広目天、増長天そして多聞天ということになっています。それは、仏教世界の中心の須弥山の中腹で、東西南北の四方を守るとされ、持国天が東方を、広目天が西方を、増長天が南方を、そして多聞天(ビシャモンテン)が北方をそれぞれ守護するわけです。しかし、このコンセプトは、大乗仏教のものではなく、ヒンズー教(バラモン教)の「世界守護」(ローカバーラ)であるのです。
ヒンズー教のローカバーラとは、東方はバラモン教のインドラ(実力神)が、西方はバラモン教のヴァルナ(水の神)が、南方はバラモン教のヤマ(死者の王)が、そして北方はヒンズー教のクベーラ(財宝神)が守護するわけです。
クベーラ(財宝神)は、日本国にはビシャモンテンの仏名ではいってきたのですが、それは、インド南回りの仏であるわけです。それがどうして、北回りの騎馬民族の蘇我氏の軍神となるのでしょうか。これは可笑しい。そもそも、仏教を拓いた釈尊は、反バラモン教だったのです。それに、バラモン教は、菜食主義の神であり、騎馬民族の牧畜・肉食主義とは反する教義を持っているわけです。
見方を変えれば、十四歳の聖徳太子の、物部守屋対蘇我馬子との戦いでの不自然な物語(少年ダビデと同じコンセプト。)は、どうも蘇我氏のペルシャ系北方仏に、無理やりインド系南方仏を接木するためのものではないか、と言うことです。
そのような見方で、平安時代の仏像を見てみますと、インドのヒンズー教(バラモン教は、やがてヒンズー教に取り込まれて消滅。)の神々が、日本国の仏寺に鎮座しているのが分るでしょう。例えば、金毘羅はクビラで、吉祥天はラクシュミーで、そして鬼子母神はハーリーティで、それらの仏像はインドではバラモン教の「外道の神」であるわけです。それが如何して、反バラモン教の仏寺に鎮座しているのでしょう。そこで考えられることは、蘇我氏の時代の仏教と平安時代の仏教は、「異なる」ということです。
そのように考えるとすれば、蘇我氏が建立した飛鳥時代の仏寺(ペルシャ寺)は、平安時代に徹底的に破壊され、その跡に、北九州(秦王国・辛国)の寺を移築した理由が理解出来るでしょう。それは、恐らく、飛鳥時代の「仏寺」は、仏像を安置するための建物ではなく、戦略的建築物であったのです。
飛鳥時代の戦いは、中国大陸で使用されるような破壊的大型武器などを持たない、槍や弓矢そして石を武器とする先住民相手なので、守備としては環濠を巡らした城郭で充分であったようです。現在のような城が出来る流れとして、朝鮮式山城(奈良時代)→都城・城柵(平安時代)→山城(鎌倉時代)→平山城(室町時代)→平城(江戸時代)となるわけです。
国を運営するには、政治、経済、軍事そして宗教が必要です。しかし、政治と宗教とが分離するのは、約千年後の国民国家成立(1776年アメリカ建国)まで待たなければなりません。それ以前の国家では、政治と宗教とが癒着していたのです。そのような時代に、時の為政者が替わることなく、コンセプトの全く異なる宗教組織だけが替わることはありえません。
では、飛鳥時代の仏教を隠蔽するには、どのようなトリックが考えられるのでしょうか。
そのトリックのひとつが、接木としての人物の創造です。
紀元前932年、ソロモンが死ぬと、レビ族の末裔に苛められていたエフライム族達の末裔は、イスラエル王国を建て、ソロモンは「ヤコブだ」、と言い始めるわけです。「ヤコブ」とは、不正な手段で簒奪した者を意味する言葉です。そこで、レビ族の末裔は、あるトリックを考えるのです。
それは、旧約聖書の創世記第三十五章の九

さてヤコブがパダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現われて彼を祝福された。神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。

そして、この物語をエフライム族の先祖のヨセフの物語の前に挿入するのです。
これはどう言うことになるのか。それは、つまり、ソロモンを「ヤコブ」ということは、エフライム族の先祖のヨセフ(イスラエル)を「ヤコブ」(簒奪者)と言うことになってしまうわけです。そのようなトリックにより、やがてレビ族の末裔ソロモンは、「ヤコブ」と呼ばれなくなるのです。
接木は時代と伴に、その接合面が分らなくなりますが、よおく目を凝らして眺めると、ある不自然さを感じるようです。
では、日本の接木の「聖徳太子」はどのようにして創造されたのでしょうか。
聖徳太子を現在のように有名にした人物のひとりとして、804年遣唐使として唐に渡って、後に天台宗を創設した最澄がいます。最澄のバックを調べると、何故、死後百年後の聖徳太子を宣伝したのかを理解できるでしょう。
最澄を遣唐使にと、百済系桓武天皇に推挙したのは、あの道教事件で、騎馬民族天武天皇系最後の称徳天皇(=孝謙天皇)の逆鱗に触れ、島流しにされた和気清麻呂(しかし、百済系光仁天皇の時代になると豊前国司となり八幡宮の三神職の世襲を決めた。このことは、新羅の神を祀る北九州倭国の八幡宮が、百済系王朝(京都王朝)に乗っ取られたということです。)の子弘世と真綱であるわけです。つまり、百済系日本人が聖徳太子の宣伝隊であるわけです。
では、何故、架空の人物「聖徳太子」(結果として、ヒンズー教のカースト制度を日本国に持ち込み騎馬民族を苛めた人)を、新羅系日本人は疑わなかったのでしょうか。
ローマ帝国には、四世紀にユダヤ・キリスト教が国教となるまで、強力な宗教組織が存在していませんでした。そこで、軍人や国際交易商人達がオリエントやエジプトから神々を勧請していたのです。
紀元前五世紀から、エジプトのイシスの神はローマ帝国で崇拝されていました。その大地母神イシスは、子供とセットの母子の神だったのです。その子ホルスを抱くイシス神は、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教に取り込まれ、イエスを抱く聖母マリアへと変身するわけです。古代エジプトでは、「子供」それ自体が「神」であったわけです。その「子供=神」は、古代エジプトでは「モーセ」と言うわけです。旧約聖書に登場のモーセも、聖徳太子と同様に、エジプトの神(アトン=太陽神)とユダヤの神(ヤハウェ)の接木のようです。ユダヤの神とイスラエルの神は、元々は異なるようです。元々のイスラエルの民(紀元前十四世紀、イクナトン王失脚のためエジプトを追われたヨセフ直系のエフライム族)は、金の子牛(太陽神のシンボル)を祭っていたからです。
西域からの渡来民族の新羅にも、母子神がいたのです。巫女が降神させる神霊の呼称を「太子」と言うわけです。巫女と太子とは、「母子」のセットであるわけです。新羅でも「子供=太子」それ自体が「神」として崇められていたのです。つまり、太子信仰は、新羅民族には、馴染みであったわけです。
この太子信仰を刷り込まされている新羅民族の末裔の新羅系日本人が、死後百年後の聖徳太子(成人しても聖徳「皇子」と言わずに、聖徳「太子」と命名したトリックは、新羅国における「太子信仰」をオーバーラップすることにあったのです。)の輝かしい事績を刷り込まされてしまえば、その存在を疑う気持ちも持てないことが理解できるでしょう。
もしかしたら、聖徳太子を創造したひとは、旧約聖書のヤコブの物語を知っていたのかも知れません。
この、モーセ(神の子)、ダビデ(敵将を倒す少年)、そしてキリスト(厩で誕生し、死後?約百年で復活)のニオイがする「聖徳太子」が架空の人物で、歴史上存在しないとすれば、飛鳥時代はどのようになるのでしょうか。
歴史教科書的に言えば、蘇我稲目の台頭、そしてその息子馬子と聖徳太子の積極的な崇仏の働きかけによって、廃仏派の物部氏を倒し、飛鳥を中心に、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺そして葛木寺の「聖徳太子伝建立七寺」の建立により、仏教は飛鳥を中心に日本列島に受け入れられて行った、ということになっているようです。
しかし、六世紀に仏教伝来の当初は、仏像の保管場所の伽藍と伴にではなく、単独で仏像が秦氏により朝鮮半島からもたらされた時、仏像は「仏神」、「蕃神」そして「他国の神」と呼ばれ、ともすればひとびとの命を奪い、病にさそう偶像ともみられていたのです。つまり、今日考えられているように、仏像はひとびとの命を延ばし、病を回復させ、ひとびとに利益を与える、というようなことにはなっていなかったのです。
では、仏像がもたらされる前は、飛鳥はどのような宗教環境であったのかと言えば、ペルシャ文化の色が濃い蘇我王朝は国際的であったので、飛鳥の地は、シャーマニズム、アニミズム、道教、景教、そして朝鮮民間宗教などの「宗教の坩堝」だったのです。
しかし、蘇我・新羅系天武王朝を倒した百済王朝は、ペルシャ文化の色を抹殺するために、蘇我王朝の戦略的建築物を破壊し、その跡に、九州・秦王国の寺を移築し、「聖徳太子伝建立七寺」とするわけです。
では、そのようなことが「ウソ」であるならば、後世のひとびとは、今日までその「ウソ」を語継ぐはずである、と思うでしょう。しかし、ひとの語継ぐのは、せいぜい三代までの、約百年です。
このことは、先祖のお墓の引継ぎで理解できるでしょう。都心の墓地の募集チラシをよく見るでしょう。そのチラシのキャッチコピーに「永代管理」が書かれているでしょう。もし、永代に渡り墓地を使用していれば、初回に完売をすれば、その後は、墓地の募集などできるはずはありません。なぜならば、「永代使用」だからです。しかし、墓地のチラシ広告は撒かれ続けます。それは、三代続けて管理する家が精々で、四代目になると、墓地の管理に無頓着になる家があるからです。つまり、日々の暮らしが豊かではない家では、先祖代々の墓も百年も立てば、忘れ去られる運命にあるわけです。
だから、英雄(キリスト・聖徳太子)は百年後に現われるのです。
では、書物に残せば、後世のひとびとに「ウソ」を伝えられるであろうと考えても、簒奪者は、焚書で対抗するわけです。蘇我王朝の歴史書の国記・帝記も、645年に藤原氏により焚書されてしまったわけです。
では、飛鳥時代の教科書的「ウソ」を知ることは出来ないのでしょうか。そこで、勝利者側の書籍が活躍するのです。勝利者の歴史は、必ず簒奪された側を悪く言う傾向があります。それに、前政権の事実を抹殺できない場合、「接木」を用意します。その「接木」した個所を丹念に調べれば、前史のことを推測することが可能でしょう。
飛鳥の地を少し広げた地域を「大和」と言います。この「大和」の実体を推測する手ががりとしての「接木」が「万葉集」に見つかるでしょう。
「万葉集」は、八世紀に大伴家持が、四千五百十六首の歌を編纂したものです。その歌のなかにある「大和」の枕詞に、「虚見津」があります。それは「ソラミツ」と読むわけですが、ソラミツは、「空見津」、「虚見都」などの記述がみられますが、一体、大和の枕詞のソラミツとは何を意味しているのでしょうか。
教科書的説明では、神武帝より先に大和国を治めていたニギハヤヒが、天空から大和を眺め、住みよさそうな処と天降ったのにちなみ、「虚空みつ大和」となった、と言うことです。さらに、神武帝が丘に登り、山頂から国見をした故事にならった、と言うことです。しかし、万葉集の研究家には、その語義が定かではない、と考える人もいるようです。
では、大和の枕詞の「ソラミツ」とは、本音では、どのような意味が考えられるのでしょうか。
「空」の字義は「穴」で、それは「むなしい」「うつろ」、「つきる」そして「なにもない」の意味があるわけです。「虚」の字義は、「実なし」、「物なし」の意味で、「ソラ」に転用されたものであるようです。
そこで考えられる解釈として、「ソラミツ大和」とは、「実体の伴わない、空虚な大和国」、と考えられることができるわけです。つまり、「大和国はウソッパチ」となるわけです。では何がウソッパチかと言えば、大和の国の全ての寺は、秦王国から移築された寺である、ということです。では、飛鳥の寺は、仏像を祀る処ではないのであれば、一体何をおこなう処だったのでしょうか。
一般的に、ひとは、一度刷り込まれた情報を訂正することは、非常に困難なようです。このことは、「聖徳太子は歴史上存在しなかった。」、と言うことを素直に認めることができないことで、理解できるでしょう。
歴史とは、あるひとが、ある目的のために綴った物語です。ですから、その物語が全て真実であった、などとは言うことができないわけです。それは、その真実と思われる事柄も、別の角度(敗者側)から眺めると、全く異なる物語となる可能性もあるからです。
一般的に言えることは、現在存在する「歴史」は、勝者側の物語です。それでは、敗者側の歴史は、勝者側に焚書されてしまうから、存在できないのでしょうか。
そこで智恵ある敗者は、勝者の歴史の「ウソ」を、後世のひとに知らせる方法を考えるのです。その方法は、勝者の歴史書に、暗号として「ウソの解き方」を挿入するのです。
例えば、「モーセはいなかった。」と言うことを後世のひとに知らせるために、ヨハネは「ヨハネの黙示録」を書いたのです。それは、暗号として述べた文章を解読させることで、その真実(敗者側の)を後世のひとが知ることができるように工夫したのです。その暗号とは、ヨハネの黙示録第十三章十八節に、

ここに、智恵が必要である、思慮あるものは、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。

この666の謎を研究したひとによれば、エズラ記の第二章十三節に「アドニカムの子孫は六百六十六人」の言葉を見つけ、ギリシャ文字(聖書はギリシャ文字で書かれていた。)による数字の表現方法を「666」に当てはめるのです。その方法によると、A=1 R=100 N=50 O=70 U=400 M=40、そしてE=5とし、「ARNOUME」という単語を探り当てるのです。その単語の合計は「666」です。そして、そのARNOUMEとは、「否定する」という意味です。そこで、その解読単語を先の文章「アドニカムの子孫は六百六十六人」に当てはめると、アドニカムとはヘブライ語で「主はよみがえる」と言う意味からすると、「アドナイ(主)を否定せよ。」となるわけです。
モーセの五書には、二つの異なる文章が存在します。それは、エロヒム(神)とヤハウェ(アドナイ・主)とを主語とする文章です。そこで、ヨハネの暗号解読によれば、「主を否定せよ。」ですから、主が主語の文章は「ウソ」だ、と言うことになるわけです。そこで、モーセ五書の出エジプト記を読んでみると、モーセは「否定」されるわけです。
では、日本国の「聖徳太子」はどのようにして「否定」されるのでしょうか。
日本版「聖書」は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。では、日本版「ヨハネの黙示録」は何かと言えば、それは「古事記」でしょう。
歴史教科書によれば、古事記は712年、日本書紀は720年に完成したことになっているようです。しかし、古事記の712年(和銅5年)は「ウソ」です。古事記は、そこから百年後の平安時代に、忽然と現われたのです。では何故に、712年に完成と信じ込まされているかと言えば、それは、古事記の序に、和銅5年の記述があるからです。
ではなにを目的に、平安時代に古事記は出現したのでしょう。それは、「日本書紀」の「ウソ」を、後世のひとに知らせるためです。
平安時代とは、百済系桓武天皇の時代で、天武天皇系の蘇我・新羅系日本人には生きるのが苦しい時代だったのです。それは、ひとの貴賎を決め付ける「新撰姓氏録」などで、百済系日本人を「貴」とするデタラメ書籍(敗者側にとって)なとで、蘇我・新羅系日本人を政策的に「賎」と貶めたためです。このことは、古事記の序文の天武天皇の言葉(平安時代、多人長側が創作した言葉)に表れています。

私が聞くところによると、諸家のもたらした帝記と旧辞とは、既に真実と違い、偽りを多く加えているという。今この時において、その誤りを改めないならば、幾年も経たないうちにその本旨は滅びてしまうであろう。この帝記と旧辞とは即ち国家組織の根本となるものであり、天皇の政治の基礎となるものである。それゆえ、帝記と旧辞を良く調べて正し、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えようと思う。

それでは、古事記は昔から読まれていたかと言えば、そうではないようです。それは、古事記より八年後に完成した、日本書紀に古事記の存在すら記述されていないからです。勿論、平安時代に創作された続日本紀にもありません。
では、誰が古事記の存在を知らしめたかと言えば、それから千年後の江戸時代、古事記伝四十四巻を著した、反仏教派の国学者の本居宣長であるわけです。
古事記の存在を知るのは、平安初期(812年)に多人長(おおのひとなが/新羅系秦氏の末裔)が書いた、日本書紀の講義録の「日本書紀私記」の序にある、古事記の紹介文によるのです。
古事記を研究したひとによれば、日本書紀と比べると不思議なことを知るのです。そのひとつとして、先に書かれたと信じられている古事記に、日本書紀の脚注の全てに符合する事柄が記述されているからです。更に不思議なことは、古事記は「天之御中主神」から始まるのに対し、日本書紀は「国常立尊(命)」から始まるのです。この「神」と「尊」の対比は、モーセ五書の「神」と「主」の関係を彷彿させます。
更に、古事記に、天武天皇の序があるのならば、それに、後世のために偽りを正すのならば、何故に、四十代天武天皇まで記述しないで、三十三代推古天皇までの記述で終わっているのでしょうか。古事記が、日本書紀を意識して創作されたのであれば、日本書紀に対抗して、せめて天武天皇まで記述するのが当然でしょう。
そこで考えられるのは、サイファー式の暗号解読法です。そのひとつとして、同じ文章か数字がある場合は、その文章か数字を「否定せよ」ということです。このことは、古事記は三十三代推古天皇までで、日本書紀は更に四十一代持統天皇までの記述があるわけです。と言うことは、日本書紀の「初代神武天皇から三十三代の推古天皇までの歴史は否定せよ。」と言うことになります。と言うことは、推古天皇の摂政である「聖徳太子」も、当然否定されるわけです。
つまり、古事記の序で天武天皇(多人長側・敗者)が述べられている、「帝記(日本書紀)と旧辞(古事記)を良く調べ正し、偽りを削り、真実を定める。」とは、日本書紀を読む人に、「日本書紀の神武天皇から推古天皇までは、敗者側にとってウソが語られているから」気おつけなさい、ということにも解釈できるわけです。
では、聖徳太子が歴史上存在しないとすれば、どのように飛鳥時代の歴史は書き換えることが出来るのでしょうか。
新羅系秦人の末裔の多人長のメッセージを解読して、古事記と日本書紀とを精査すると、歴史教科書的古代史の呪縛が解けることでしょう。すると、飛鳥時代の舞台で、輝かしいスポットライトを浴びていた「聖徳太子」が、その舞台からスーッと消えていなくなり、すると、聖徳太子の活躍の光の影にいた、蘇我馬子がスーッと現われてくるでしょう。

正八角形(8はペルシャの聖数)の赤い堂の中で、碧眼の蘇我馬子が車座になっている十数人を前にして、何かを交渉しています。それらの人たちの多くは西域人で、話す言葉も古代朝鮮語や唐語などではなく、アラム語や西域の遊牧民族のものです。飛鳥時代では、朝鮮半島からの瀬戸内海ルート交易は、高句麗、百済、新羅の三国による半島争乱のため途絶えているので、その間隙を縫って、大陸の国際交易商人達は、中国内陸の争乱を避けるため、ペルシャからロシヤステップロードを経由して中国大陸のポシェット港から敦賀などの日本海側の港から飛鳥を目指して来たのです。その交渉で飛び交う数ヶ国語を通訳している若者は、突厥(チュルク系騎馬民族)の皇子タルトウです。
その交易品は、蘇我氏側が絹織物、朱砂、水銀、そしてロクジョウ(鹿角)・ハンピ(乾燥蝮)などで、西域の商人側はペルシャの装飾品やインドの香木などです。
奈良の都に、何故、鹿が多くいるのかといえば、それは小鹿の角を取るためです。小鹿の角(ロクジョウ)は、道教の長生術には朱砂と同じに必要なものです。現在でも、高級ドリンク剤に添加されているように、古代も現在も小鹿の角は高価な強壮剤として服用されているのです。
蘇我氏の館では、豪族達の子弟に講義をおこなっています。講義内容は、仏教経典ではなく、天文地理、易、暦、医術、方術、政治や外交そして軍事などです。その講師陣は、渡来の仏教僧や道教士など最新の大陸の知識をもった者達です。しかし、大和の地に仏教の読経が聞こえるのは、天武天皇の病気平癒祈願(684年)の時まで待たなければなりません。
蘇我氏の時代では読経が公に聞こえたのは、北九州の秦王国です。六世紀の北九州の秦王国は、北魏の廃仏令(446年〜452年)により大陸を追われた200万人の大乗仏教僧の一部が、朝鮮半島に辿り着き、更に、朝鮮三国の争乱勃発により渡来した仏教僧達により、仏寺の建設ラッシュであったのです。
しかし、北九州の秦王国から先に、飛鳥の地に入ったのは、仏教ではなく道教です。道教は、騎馬民族には、仏教に比べると、馴染みやすいからです。それは、仏教の火による祭儀(ゾロアスター教の儀式の模倣)ではなく、犠牲を用いて祭祀をおこなうからです。更に、騎馬民族に馴染みの、天を崇めるからです。漂泊する民族(騎馬民族・海洋民族)は、土着の農耕民族より、「星」・「月」・「太陽」(三神)を特別な存在(神)として崇めていたのです。
道教は、騎馬民族系で天文台を建設し北極星と交信する天武天皇の時代までは、仏教に比べ、かなりの勢力を持っていたようです。それは、家格を示す称号の「八色の姓」から理解できるでしょう。その家格は、上から、「真人」「朝臣」「宿禰」(スクネ:アラム語で勇敢な者の意味)「忌寸」「導師」「臣」「連」「稲置」と格付けされ、その「真人」「導師」とは、道教に大いに関係する事柄だからです。
更に、天武天皇から「天皇」の称号が公に使われてきたわけですが、そのアイデア(天皇=神)は、中国古代(紀元前一世紀)の天文学で天体観測の基準となる北極星(太一)を神格化したものです。その天皇である北極星の紫宮に仕えるのが「真人」というわけです。ここから紫色が日本国では高貴な色になるわけです。その「真人」が八色の姓の最上にいることは、道教は天武天皇から優遇されていたことを証明しています。
道教の始まりは定かではありません。それは、自然信仰を軸に、あらゆる土着の信仰を巻き込み、更に、二世紀頃には大乗仏教の思想までをも取り込んでしまう「現世利益」の宗教だからです。その中で特徴的なものは、長生術のために開発された呪術医療でしょう。その医学医療と薬学の技術を持って、瞬く間に異教の国に侵攻するわけです。
異教国侵攻の法則、「宗教家」→「国際交易商人」→「軍隊」→「植民地化」の流れには、乱世の庶民に対して、現世利益の道教は、時の権力に迎合する文殊の徒により創作された無数の仏典布教をおこなう仏教に比べて、受け入れやすかったのです。
五世紀末その道教は、北九州の秦王国から百済系葛城と新羅系磯城が争う国際交易都市「飛鳥」に、物部氏(三世紀頃、高句麗から侵攻してきたツングース系遊牧民族と呉の末裔の南方海洋民族の連合軍事部族)に従う「奇巫」(道教シャーマン)として登場したようです。その半世紀後、東国から現われた弥勒信仰を持つ騎馬民族の蘇我稲目が軍事力で物部氏を倒し、飛鳥の地を平定した事が、仏教史に言う、物部尾輿対蘇我稲目の「神仏の戦い」と言われている実体のようです。しかし、この時代には、「神道」など、日本列島に存在しなかったわけですから、「神仏戦争」と言っても、「道教」対「弥勒信仰」の図式しか考えられません。(神道は、天武天皇の崩御後、藤原氏系の中臣氏により道教思想の基に発明された。その後室町時代、藤原氏系卜部氏の末裔の吉田兼倶により、儒教・仏教・陰陽五行(道教)を基に吉田神道として復活。)
更に、587年、蘇我馬子は、北九州の秦王国から「豊国法師」を、47の軍事施設である屯倉で固め、石を敷き詰めた軍道を張り巡らせた軍事都市国家「飛鳥」に呼び寄せています。この時期が、仏教史で言う、物部守屋対蘇我馬子との「第二次神仏戦争」と言われている時代のようです。
その当時、飛鳥の地には、高句麗僧恵便が居たわけで、「神事」或は「仏事」を行うだけならば、わざわざ遠方の北九州から「奇巫」や「豊国法師」など呼ばなくてもよいはずです。その訳は、百済系葛城と新羅系磯城との経済戦争に介入した、物部氏対蘇我氏との二度の戦闘で傷ついた兵士を介護するための「医師」としての「奇巫」と「豊国法師」であったのでしょう。
そのように「医療従事者」として、異国に入り込んだ「宗教家」の次なる行動は、異教国侵攻の法則により、革命分子育成のための拠点の「学校」を設立する事です。(教育とは昔も今も権力者にとって両刃の剣であるわけです。)そこで、学校建設のための職人を飛鳥に招聘するのですが、「日本書紀」には不思議な名前の職人が記述されているのです。それらは、「太良未・ダラミタ」「将徳白昧淳・ショウトクハクマイジュン」「麻奈文奴・マナモンヌ」「「昔麻帝弥・シャクマタイミ」などです。それらは、実は漢語ではなく、漢字表記のペルシャ語です。
720年に完成の、百済からの仏教伝来(538年)の経緯を説くが、天武天皇朝の祀りの基本思想である道教についての一切の記述がない「日本書紀」の編纂時には、約百年前の漢字を使用したペルシャ語を理解する事が出来なかったのか、又は単なる編集上のミスか、勝者側は漢語表記のペルシャ語の記述を改竄できなかったようです。
それらの意味は、ひとの名前ではなく、寺院大工、露盤、屋根葺、鬼瓦などの建築に関連する職業名や物品のことです。そのような異国のペルシャの職人達は、飛鳥の地でどのような建築物を造ったのでしょうか。仏教徒でもないペルシャ人達に、蘇我馬子は仏教寺を建設させた、などと想像することはできません。が、しかし、教科書歴史では、聖徳太子と蘇我馬子との崇仏者により仏寺が建立され、日本での仏教寺の発祥地が「飛鳥」となっているのです。
では、蘇我氏の時代、飛鳥の地では、蘇我氏の神(弥勒神)はどのようにして祭られていたのでしょうか。
古代ペルシャでは、ミトラ神(太陽神)は、東方の大きな山の頂きから誕生(再生)すると信じられていました。それがやがて時代の流れにより、東方の山の洞窟に替わり、更に、山から里に下りてくるようになると、窪みのある岩に替わり、それがやがて大石から誕生(再生)すると信じられていたようです。
六世紀、仏像が持ち込まれていなかったペルシャ文化色の濃い飛鳥の地でも、多分、そのような流れで、「山」や「石」を信仰対象としたのでしょう。それは、そこから神(死者)が再生すると信じられていたからです。ですから、蘇我氏の時代には、仏像など存在していないわけですから仏寺などでなく、冬至に太陽が登る「東の山=吉野山」や「石」が神の「住まい」として祀られていたのでしょう。
「山」と「石」で「神を祀る」ということを、広い意味から考えると、石室を内蔵した小山の「古墳」が想像されます。
古墳は、日本列島に出現するのは、三世紀頃のようです。そして、古墳が消滅するのが七世紀後半、天武天皇陵の八角形墳墓「檜隈大内陵」(8はペルシャの聖数・お妃の持統天皇が合祀されている。)で終わるようです。
(天武天皇の死後、左遷されていた藤原不比等の復活と伴に、大和の地に読経が公に聞こえてきたようです。その後平安時代、蘇我馬子の陵である七十七トンの石室の石舞台古墳は、藤原氏により破壊され暴かれてしまったようです。)
死者の祀り方は、その神の基本思想を反映しています。
蘇我馬子が、もしも本当に仏教信奉者だとすれば、当然、葬儀は仏式で行うはずです。それが何故、626年歿の蘇我馬子は、寺ではなく、古墳に祀られたのでしょうか。(歴史教科書では、仏教伝来538年といわれているのです。)
日本に存在する古墳は、ほとんど誰が祀られているのか分らないようです。そのなかで、数少ない祀られているのがわかる古墳があります。そのひとつが、「檜隈大内陵」の天武・持統天皇の古墳です。それが何故天武天皇陵と分ったのかと言えば、それは、1235年(文暦2年)に盗掘にあい、その経緯が「阿不幾乃山陵記」に書き残されていたからです。その書によれば、「件の陵の形八角、石壇ひとめぐり、一町ばかり、五重也」とあり、更に、持統天皇は、「火葬されていた」とあるのです。それに対し、天武天皇は、古墳での伝統的埋葬である「土葬で祀られていた」のです。同じ陵に、異なる埋葬方法、土葬と火葬が合祀されているのです。これは可笑しい。
古墳は、死者の再生(復活)ための装置です。ですから、再生のためには、死者は生前のままで埋葬されなければならないわけです。古墳時代では、死者は、唯の物質ではなかったのです。
それに対して、大乗仏教の死者に対する考え方は、それとは全く異なります。大乗仏教では、生き物は輪廻転生します。この思想はインドで、バラモン(=宗教ブローカー)が発明したものであり、そのカルマから逃れるため「釈尊」は輪廻転生からの解脱を実践、つまり、出家し乞食し、仏と人の中間人の「非人」となったのです。釈尊の思想は、大乗仏教の「他力本願」とは異なる、「自力本願」であるわけです。
その釈尊の思想とは異なる大乗仏教の思想では、肉体は唯の「霊」の借り物にすぎないのです。ひとは、生前の行いにより、人間になったり畜生になったりするのです。つまり、大乗仏教の思想において肉体は、「霊」の乗り物である唯の物質に過ぎないわけです。つまり、死者は唯の物質ですから、腐れば「不浄」な物質に変化するわけです。ですから、その「不浄の死者」は聖なる火で浄物(成仏と方便)にするわけです。つまり、大乗仏教の思想では、死者は「穢れ」であるわけです。
ここから推測できることは、道教思想の天武天皇が崩御した時、その王朝を簒奪した、天智天皇の娘の持統天皇は、道教を排斥し、仏教を、藤原不比等の指導のもと、飛鳥の地に導入したのでしょう。だから、ペルシャ文化の蘇我王朝、そして道教思想の天武王朝の、仏教思想とは異なる文化を抹殺・隠蔽するには、仏教伝来は、538年でなくてはならなかったのです。
つまり、飛鳥時代での天皇の祀り方が変わったということは、「神」が変わったということです。それは、道教から仏教への変換です。そのためのトリックのひとつが、平安時代に発明された「聖徳太子」だったのです。

神輿の黙示録(2)(多民族国家日本の成立とイジメの発生)


三世紀前に日本列島に古墳が存在しなくて、その後、短期間に古墳が出現したということは、今までの「神」と「異なる神」の出現を示唆しています。
その古墳出現も時系列でみると、北九州から畿内へよりも、東北・北関東から畿内への流れのほうが古墳数が多いようです。それも、小古墳から巨大古墳への流れも、西からではなく、東から畿内への流れが多いようです。
そして、四世紀代の古墳に、馬具が埋葬されているということは、元々日本列島には「馬」が生息していなかったわけですから、四世紀に「馬と共存する部族」の出現を示唆しています。そして、その鉄製の馬具の出現は何を意味しているのでしょうか。
金属機器の歴史的流れは、紀元前三千年の西アジアでの青銅器発明から紀元前千四百年のヒッタイトでの鉄器発明への流れです。
時系列的には、日本列島には、先に青銅器が出現してから後、鉄器が後れて出現するのが道理です。それが、北九州・出雲・近畿地域の青銅器文化と時を同じくして、日本列島広域に鉄器が出現し、そして四世紀に東北・北関東に鉄製の馬具が出現するのです。これは、一体なにを意味しているのでしょうか。
それは、四世紀の東北・北関東に、朝鮮半島からだけではなく、ロシアステップロードから直接日本海沿岸からも、オリエントの鉄器文化が、馬を持った部族により日本列島各地にもたらされたことを示唆しているようです。
歴史上謎の部族が存在します。そのひとつに、イスラエル民族がいます。日本にも謎の部族がいます。それは、「秦氏」です。日本版イスラエル民族の「秦氏」とはどのような部族なのでしょうか。日本の古代史の謎を説く鍵のひとつは、その「秦氏」にあるようです。そして、その秦氏を知ることにより、「日本人とは何者か」のヒントが得られることでしょう。
異民族が対峙した時、言葉は強力な武器のひとつとなります。更に、言葉を固定できる文字を持っていることは、最強の武器となります。それは、言葉や文字を駆使することにより、イメージ操作ができるからです。
ひとの行動は、自分の意志で全てコントロールしているわけではありません。自分でコントロールできることは、自分で思うほど多くはありません。ひとの日常の行動は、遺伝子により刷り込まれている本能以外は、生得的な刷り込みにより創られたイメージ(幻想)によりコントロールされているのです。そのイメージは、そのひとの生育に携わったひと達から与えられた言葉や文字により創造されるのです。
ですから、敵対する相手を前にして、自民族の優位性を示し、それに対して、敵民族の劣位性を言葉や文字で示せば、自民族には良いイメージ創りとなり、それに対して、敵民族には悪いイメージの刷り込みができ、その結果、敵側の行動をコントロールできるわけです。
その戦術のひとつが、蔑称です。蘇我馬子・蝦夷・入鹿などの蔑称を、敵側(藤原氏)から付けられてしまえば、その人物が実際は偉大な大王だったとしても、人物像が矮小化してしまいます。このことを理解している民族は、全力で「歴史書」を創作するのです。
文字はイメージを固定します。多くの文字の中でも、「漢字」にはイメージを固定する 呪縛性があるようです。例えば、「祀る」ということを表すには、「祭」と「穢」とで表現できます。「祭」は「歌や踊ることにより祀る」わけですが、「穢」は「犠牲を捧げることにより祀る」わけです。祀ることは同じであっても、「祭」と「穢」とは同じイメージではないでしょう。そうです、漢字には「貴賎」・「善悪」のイメージが元々潜んでいるのです。
例えば、「聖」という漢字の呪縛性は、「侵すべからず。正しいものである。」というイメージを与えます。だから、「聖」の漢字を使用した「ひと」や「もの」に対して、「疑うこと」はタブーとなるようです。例えば、「聖徳太子」や「聖書」などがそれです。「聖徳太子」のウソは、前節で述べましたので、ここでは「聖書」のウソについて考えてみましょう。
「旧約聖書」の物語を一度でも読んだことがあるひとは、異民族壊滅作戦の物語については、史実であってほしくない、と願わずにはいられないでしょう。では、旧約聖書の物語は本当に史実なのでしょうか。それに、消えたイスラエル十部族とユダヤ民族は、本当に同じ民族なのでしょうか。
紀元前十四世紀、鉄器文化を起した小アジアのヒッタイト帝国から、エジプトを目指す鍛冶集団がいました。その頃、エジプトでは、アメンホテプ4世(=イクナトン紀元前1377年〜紀元前1358年)が、独善的祭祀集団からの政治介入を逃れて、新都市アケトアテン造営のため、建設に携わる有能な職人を海外から招聘していたのです。
イクナトン王は、お妃をオリエントから迎いいれました。そのお妃は、オリエントで流行りの太陽神(ミトラ神)を信仰していたのです。その頃のエジプトでは、祭祀階級が勝手に神々を創造して王族や臣民をコントロールしていたので、イクナトン王は、その太陽神を唯一の神(アトン神)として、多神教を奉ずる祭祀階級を排除する宗教改革を強行したのです。そして、イクナトン王は、有能な外国人を高級官僚として迎い入れたため、祭祀階級だけではなく、元からの部下にも評判がよくなかったのです。
ヒッタイト帝国からの鍛冶集団は、その時勢に乗り高級官僚の地位まで上り詰めました。その鍛冶集団は「ヨセフ族」と呼ばれていました。
イクナトン王の強引な多神教から一神教への宗教改革は、不満分子を増加させていき、紀元前1358年まで持ちこたえるのが限度でした。そこで、イクナトン王の高級官僚のヨセフ族は、身の危険を感じてエジプトを脱出するわけです。(モーセの「出エジプト物語」は、それから約500年後のバビロニア幽囚後に創作されたものです。モーセの葦の揺り篭が河に流される物語は、古代メソポタミアのアッカドのサルゴン王(紀元前2350〜紀元前2294年)の物語にソックリです。それに、エジプト時代のヨセフ族は、日干しレンガを造る奴隷ではありません。古代エジプトでは、建築資材は「石」で、「日干しレンガ」は使いません。日干しレンガは、古代メソポタミアでの建築資材であるわけです。それに、古代エジプトではピラミッドや都市建設には、奴隷身分の者は参加できないのです。更に、モーセはいなかったことは、パトモス島のヨハネの黙示録の「666の謎」を解読したひとには、これ以上説明する必要はないでしょう。)
エジプトを脱出した頃には、部族が増えエフライム族とマナセ族の二部族となっていました。そして、イスラエルと呼ばれる地方に移り住むようになってから、その二部族はイスラエル民族と呼ばれるわけです。イスラエル民族は、元の鍛冶技術に加え、都市建設のテクノロジー、物流、労務管理、経理、会計記録、石物の建築技術(メーソン)、運河の掘削などの土木建築全般のノウハウをエジプトで修得していたのです。
シナイ半島を漂泊する鍛冶集団イスラエル民族に加わる部族が出現するのです。それがレビ族です。レビ族はイブリと呼ばれる漂泊する部族です。そのレビ族を加えたイスラエル民族は、エジプト軍が廃墟としたカナンの地に紀元前十一世紀に辿り着くのです。しかし、そのレビ族の祭祀アロンと結託したダビデによりの統一王国も、紀元前932年のソロモン王の死と伴に、イスラエル王国とユダ王国に分裂するわけです。元々、エフライム・マナセ族(太陽神アトン=ミトラ神)とレビ族(ヤハウェ)は異なる神を祀っていたわけですから、強力な統率者の存在がなければ、一緒に居られるはずはないでしょう。
イスラエル王国は多神教で、太陽神のシンボル牡牛やバアル神等を祀ったのに対し、ユダ王国は唯一神ヤハウェであるわけです。旧約聖書では、紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に敗れたのは、異教神を祀り、ヤハウェを祀らなかったからだと述べています。
イスラエル王国を飲み込んだアッシリア帝国も、紀元前625年にはメディア帝国に滅ぼされ、そのメディア帝国も紀元前550年に、アケメネス朝ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。
石物建設の技術を持ち、そして、太陽神を信仰し漂泊する鍛冶集団のイスラエル民族は、アッシリア帝国、メディア帝国、そしてアケメネス朝ペルシャ帝国の砂漠に、その歴史と伴に消えてしまうわけです。
それらの帝国には、共通する神の存在がありました。それは、ミトラ神です。ミトラ神の起源は定かではありませんが、紀元前19世紀にオリエントで発明されたようです。考古学的証拠では、紀元前14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都ボガズキョイ出土(1907年発掘)の条約文によりますと、印欧語族の一部がミトラ神を自らの宗教体系に取り入れていたようです。ミトラとは、「盟約」の意味を含み、崇高な光の世界を支配する陣営にあり、全てを見通す力を持ち、不正など世界の秩序を乱すあらゆる事柄に対する復讐者でもあるわけです。ですから、契約者はミトラ神に誓って契約を交わすわけです。この契約の履行を見守るミトラ神は、国際交易商人と伴に異教の世界に広がっていくわけです。
それがやがてオリエントの土着の宗教儀式を吸収して、太陽崇拝、牡牛を屠る祭儀、救世主思想、イニシエーションの密議(牛の肉を食べ、生血を飲むこと。)、七つの位階、占星術、そして火による密議(ゾロアスター教へ導出)などの儀式をおこなうミトラ教となっていくわけです。
そのような宗教環境のペルシャ帝国内を、エジプト時代から太陽神アトンを祀るイスラエル民族は流離うわけです。
一方のレビ族の末裔のユダ王国は、紀元前586年、バビロニア王国に滅ぼされてしまうわけです。そして、ユダヤ民族は、バビロニア王国で幽囚されてしまうわけです。そのバビロニア王国も、紀元前538年、ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。この時代を前後して、レビ族の末裔は、「モーセ五書」の創作にとりかかるわけです。
約50年後に戻った時のカナンの地は、既に異民族が住んでいました。そこで、幽囚中にカナンの地を占拠していた先住民を追い出すために、神から授かった「旧約聖書」を改竄するわけです。その目的のひとつの、カナンの地の先住民を追い出すための「ヨベルの年」等の法律を、唯一神ヤハウェがユダヤ民族に与えたことを立証するために発明されたのが、「神との契約者=モーセ」というわけです。
紀元前6世紀のペルシャ帝国に、再び、ヨセフ族の末裔とレビ族の末裔が存在したわけですが、ヨセフ族の末裔のイスラエル十部族のその後は定かではありません。しかし、レビ族の末裔は紀元前515年、エルサレム寺院を再建するわけです。それが、今に続くユダヤ民族です。
では、日本版イスラエル民族の「秦氏」は、どのようにして日本列島に辿り着いたのでしょうか。
時代は飛んで、官軍の砲撃が迫った慶応三年の江戸は浅草新町の屋敷に、薩摩藩の密使が訪れるのです。その屋敷には、長屋門(大名格の屋敷門)があり、その門には「丸に十の字」の紋がある提灯に灯りが入っていました。大玄関を入り数間を通り立派な床間を持した数十畳もある表座敷に、その屋敷の主人を前にして、筒袖のむさ苦しい髭面の大男が、「おまはんと島津家は同族ぞ。いにしえは秦氏ぞ。今こそ秦氏の恨みを晴らす倒幕ぞ。」と言うのです。
南九州で鎌倉時代から六百年も続く豪族の島津氏は、「島津」と名のる前は、惟宗氏(これむね)と名乗っていました。それは、鎌倉幕府を拓いた源頼朝により薩摩国島津荘の地頭職安堵により「島津氏」を名乗ったのが始まりです。その惟宗氏とは秦氏が平安時代に改名したものです。
その屋敷の主人の名は、弾左衛門、穢多を束ねる頭です。弾家の祖先は、鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼です。その昔、この族より秦左衛門尉武虎という武勇者が出、鎌倉の源頼朝に認められ、鎌倉長吏(警察業務をおこなう人。平安時代では、専門的な職能をもって、朝廷に使える集団構成員のうち、特に優れた者を長吏と言った。これが何故、江戸時代にアウトカーストになったのか。江戸時代に長吏は、穢多と蔑称された。)の頭領と成り、秦氏を弾氏と改めたのです。
薩摩の密使の言うことは事実でした。しかし、不思議です。江戸時代の身分制度の士農工商のカースト制度の中に入らない穢多頭の弾家が、そのカーストの最上級の士族と同族であることです。そして、その弾家は、昔は藤原氏(平安時代の貴族)を名乗っていたことです。
鎌倉幕府を拓いた源氏は、新羅系の末裔です。その新羅の先は、中央ユーラシアの「ペルシャ帝国」と、紀元前六世紀、騎馬戦車で戦った「スキタイ」の流れを汲む騎馬民族鮮卑の一部族の拓跋部の末裔「元氏」を先祖としていたようです。
その中央ユーラシアから東ユーラシアを疾走する騎馬部族の流れは、「ジンギスカン義経説」の人気を支える要因のひとつのようです。騎馬民族ジンギスカン軍も騎馬民族義経一族も、同じ「笹リンドウ」を部族のシンボルとして戦をおこなっていたからです。新羅系日本人のDNAには、モンゴルの草原が「フルサト」として刷り込まれているからでしょうか。
では、騎馬民族とはどのような民族なのでしょうか。でも、騎馬民族の歴史を知ることは困難です。それは、漂泊する民族の特性として、歴史書をもたないからです。ですから、農耕民族であるヘロドトス(紀元前484年〜紀元前425年)が書いた「ヒストリア」や農耕漢民族の司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年)による「史記」を基に推測するか、あるいは遺跡や考古物を基に推測する以外に方法がないからです。
しかし、農耕民族が書き残した「ヒストリア」や「史記」では、騎馬民族を、凶暴・残虐・略奪の民族として蔑視する視線で書かれているため、それを差し引いて推測する必要があるようです。
農耕民族の漢民族は中華意識により、胡(トルコ系遊牧民族)等の漂泊民族に対して、東夷(夷とは弓と矢をつがえる人間の形象。)、西戎(戎とは鉞で森林を伐採する山岳狩猟民族を指す。)、南蛮(蛮とは蛇竜などを背中、身体に文身刺青をする海洋漁労民を指す。)、そして北狄(狄とは獣の皮を身につけている民族を指す。)などの蔑称をつけていたのです。
騎馬民族の必需動物の馬の出現は、牛ほど確かではありません。牛は、紀元前二千年には、信仰の対象(ミトラ神のシンボル)として崇められていたことが粘土板に記録されています。しかし、馬は、信仰の対象とならなかったからか、記録に現われるのはずっと後のようです。
馬が棲息していたのは、ステップ草原地帯です。ウクライナのデレイフカ遺跡出土の馬頭骨は、紀元前四千年と言われていますが、どうも信憑性に欠けるようです。
オリエント諸国に馬をもたらしたのは、カッシートなどの山地牧畜民のようです。そして、馬と戦車が結びついたのは、紀元前二千年のメソポタミアの北方のミタンニ王国のようです。そのミタンニ王国からヒッタイト帝国、アッシリア帝国そして紀元前六世紀にアケメネス朝ペルシャへ騎馬戦車が引き継がれていくわけです。そのペルシャ帝国に対峙するスキタイも騎馬戦車を駆使して中央ユーラシアを支配していたのです。
騎馬民族スキタイは、民族名ではなく、国家名です。ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、スキタイ国は、農耕・通商・航海をおこなう都市居住民、商業風の農業経営民、純粋農業民、草原地帯に住む遊牧民、そして草原で天幕生活をする支配部族(鎌倉幕府の幕府とは天幕の意味。)を中心としての異部族の「かたまり」であるようです。
この騎馬民族のスキタイ国の国家運営方法は、商社主導の連合国家とも考えることができるようです。本社機能が草原の天幕にあり、農業や牧畜をおこなう生産支社が各地にあり、それらの支社を運営する支社長が現地部族長というわけです。
騎馬民族国家とは、別の見方では、生産に携わるのではなく、情報を操作して物流で稼ぐ国際商社とも考える事が出来るでしょう。支配民族に対して、軍事、警察、そして外交をおこなうことで、更に、囲郭のある都市を草原に造り、そこに技能者とくに平和時には農具などを造り、戦争時には武器が造れる鍛冶集団を、そして、異部族を統制するための、そして他民族国家の情報を収集させるための宗教者などを集めて住まわせ、そこを兵站基地として支配地域を拡大して行ったのです。
そのような商社機能を持った騎馬民族が、市場拡大のため、騎馬戦車などを武器として、他国を侵略するわけです。そこで当然、戦争も起こるわけです。しかし、戦争をおこなうのは最後の手段で、大抵は現地の部族長と婚姻関係を結んで支配地を拡大して行ったのです。そのためか、スキタイでは、騎馬戦車が幌馬車へ変身し、ひとや荷物を大量に早く運ぶものになっていくわけです。
この紀元前二千年オリエントで発明された騎馬戦車が、ユーラシアの草原を東に進み、紀元前十四世紀の殷商後期の遺跡から古代騎馬戦車が出土しているのです。
古代の世界は、現在のひと達が考えているより狭いのです。そのように考えられないのは、タクラマカン砂漠を駱駝の商隊が歩む、テレビ番組の「シルクロード」の刷り込みにあよるようです。
地球の北半球の大陸を、三層のケーキに譬えるなら、真中がオアシス国家などがある乾燥地帯で、その下が湿気の多い照葉・熱帯樹林地帯で、そして、一番上が草原・針葉樹林地帯です。その一番上のケーキがユーラシアの概念です。つまり、東は太平洋、そして西は大西洋までの地がユーラシア大陸なのです。
ヨーロッパから中国までの商業ルートは、その三層にそれぞれあるわけです。砂漠ルート、南洋海路ルート、そして草原ステップルートです。東西貿易ルートとしては、その三ルートがあるのに、何を意図してか、テレビ番組は定期的に「シルクロード」番組を制作・放映しているのです。
シルクロードは、前漢の武帝(紀元前141年〜紀元前87年)に開発されたのではなく、ドイツの地質・地理学者リヒトホーフェンが、十九世紀末に、西と東とは「絹の道」で繋がれていたらいいな、という思いで、「ザイデン・シュトラーゼ」と書いてしまったことに始まるのです。つまり、シルクロードは十九世紀末に発明された言葉なのです。(砂漠ルート「シルクロード」のオアシス国家は、元々匈奴(紀元前三世紀〜一世紀)が支配していたのを、前漢の武帝が、武力でそのオアシス国家を匈奴から略奪したにすぎません。このことを歴史書はシルクロードの始まりとしているのです。)
貿易は効率を大切にします。砂漠を何十ヶ月、或は何年もかけるよりも、海路で行けば、大量の荷物を傷つけずに短期間で運べます。草原ルートでしたら、海難事故もなく、馬車で短期間で運べます。冬にでもなれば、馬車そりを使えば、草原は高速道路に早や代わりします。
しかし、海洋民族も騎馬民族も、漂泊性のため、歴史書を持っておりませんから、そのような南海ルートや草原ルートは歴史書に記述されることもありません。
そのような、二つのルートからも、日本列島に歴史以前の時代から色々な部族や文化が流れ込んでくるわけです。
秦氏の末裔の島津氏や弾家を優遇した騎馬民族の鎌倉源氏も、元を正せば、その草原ルートからの渡来人であるわけです。その源氏に敗れた海洋民族の平氏も、南海ルートからの渡来人であるわけです。中国で言う「南船北馬」とはよくいったものです。
では、それらの異なる民族は、戦いの時、どのような識別方法を持っていたのでしょうか。その識別方法を知ることにより、その部族の出自を知るヒントが得られるでしょう。
源平時代の軍事部族は、白旗(源氏:ペルシャ→突厥→新羅)と赤旗(平氏:フェニキア→インド→百済)で敵味方を識別していました。それが、戦国時代になると、部族を表す「家紋」が突然現われるのです。その発祥地は何所かと言えば、それはオリエントからです。ですから、それらの家紋は、オリエント周辺の動植物や漂泊民族が崇拝する星月などを基にデザインされているのです。「十六花弁のキク」も、その源を正せば、オリエント(ペルシャ)原産であるわけです。戦国時代に突然現われた軍事部族のシンボルとしての「家紋」は、古代オリエントでの戦いに敗れた軍族や進駐軍の傭兵が、その部族のシンボルと伴に、砂漠ルート、南海ルート、そして草原ルートにより、歴史書以前から日本列島にもたらしていたのでしょう。
しかし、家紋はオリエント時代のままではなく、改造することもあったようです。その一例として、島津氏と弾家の家紋は、元は「丸」がなくて、ただの「十字」であったようです。この「十字」家紋は、何をシンボルとしていたのでしょうか。
秦氏は、四世紀の朝鮮半島に小さな国として誕生した新羅から、五世紀には、北九州に秦王国を築いていたようです。では、その北九州の秦王国を拓いた秦氏を先祖に持つ、島津氏と弾家、「士族と賎民」との差別は、一体どのようにして発生したのでしょうか。
その差別の謎を解くヒントは、北九州の秦王国と平安時代の大乗仏教との関係にあるようです。

「キサマ!それでも日本人か!」
「何所の馬の骨か分らぬ奴!」
「クダラヌ奴!」
平安の都で、罵声が飛び交っています。
罵声を浴びせているのは百済系日本人、浴びせられているのが新羅系日本人と秦人達です。
歴史教科書が言うように平安時代は、その漢字の意味とは異なり、実際は、藤原氏と百済系日本人以外には、「平安」ではなかったようです。この時代から「鬼」や「妖怪」が、日本国に出現するわけです。それは、822年に完成の、仏教宣伝パンフレット「日本霊異記」などで、仏教僧が妖怪物語を庶民にひろめた結果によるのです。では、鬼や妖怪の実態は何かといえば、それらは、朝廷にまつろわない漂泊民族や天を祀る道教士達であるわけです。
延暦十五年(796年)、平安遷都から二年目、桓武天皇は、風紀を乱すという名目で、「星祭」の禁令を発します。引き続き、その三年後の延暦十八年、京都近郷の百姓が、斎王(神を世話する巫女)が伊勢斎宮へ入御する日に、北辰を祀ってはならぬと厳しく通達を出しています。北辰(北極星)とは、道教の神で天武天皇が最も崇拝する星であるわけです。
その発令の裏で、桓武天皇は、延暦十六年(797年)、「斎内親王葛野川(桂川)に祓い、すなわち移りて野宮に入る」、とあるように伊勢斎王の潔斎所を死穢の地(墓地)に設けるわけです。平安時代では、大乗仏教思想により、死は穢れで、その穢れを葬る墓地は、穢れの最たる所であるわけです。
何故、桓武天皇は、伊勢神宮の聖所である潔斎所を、そのような穢れた場所にわざわざ設けなければならなかったのでしょうか。
そもそも、斎王派遣の制度を始めたのは、壬申の乱(672年)で百済系天智天皇の皇子(後の弘文天皇)を滅ぼした新羅系天武天皇からです。その天武天皇が始めた制度を否定したことは、その時点で、天武天皇系貴族の没落を意味しています。
更に、桓武天皇は、驚くべき事を、延暦四年(785年)に既に行っていたのです。それは、天神を交野(百済亡命貴族の居留地)の柏原に祀っていたからです。唐制の天神の祀りでは、遠い祖先の高祖あるいは太祖を置くのですが、桓武天皇は、日本書紀にある「天照大神」か「神武天皇」を置くべきところを、なんと父親の「百済系光仁天皇」を置いていたのです。これは、光仁天皇から「新しい王朝」が始まったことを公に主張していることになるわけです。
更に、平安時代から「天皇は男」でなければならないことになるのです。つまり、第四十八代称徳天皇(天武王朝)までは「女帝でも可」であったのが、平安時代から「天皇は男」のみとなるのです。それは、藤原氏の陰謀です。その意味は、大嘗祭(壬申の乱後、天武天皇が始めた、先帝から王権を引き継ぐ一世一代の再生儀式。天津神と国津神の聖婚。)を毎年行うことにより、天皇に聖婚させるための斎王(巫女。藤原氏の女)を捧げることができる為です。歴代の天皇の側室(場合によっては皇后となる。)に藤原氏の女が多くいるのはそのためです。
では、その百済系光仁天皇とその子供の桓武天皇は、どのようにして天皇になったのでしょうか。
桓武天皇の父白壁王(後の光仁天皇)は百済系皇族でしたが、無位の時代が長く続くのです。名もない百済系下級書記官の娘高野新笠を娶り、山部王(後の桓武天皇)が生まれた時に、白壁王は無官から、やっと従四位下に叙せられたばかりでした。この白壁王に目を付けたのが藤原式家の良継でした。藤原良継は、皇位継承権利者である天武天皇の血を引く井上皇后とその息子他戸(おさべ)皇太子を無実の罪で殺害し、白壁王を光仁天皇とするのです。
藤原氏は、藤原氏の基本戦略「夷を以って、夷を制す。」により、日本国乗っ取りの為、この百済系天皇親子(夷)を使い「ニッポン化計画」を実行に移すわけです。その戦略は、飛鳥時代の藤原不比等(天武天皇から左遷されたひと。)により計画されていたものです。それは、藤原氏が、神としての天皇を裏から直接コントロールすることにより、日本国の庶民を間接的にコントロールすることです。
それには、私権を公権にする「装置としての儀式」が必要です。そして、その公権に権威をつけるためには「歴史」(歴史書とは客観を装った主観的物語)が必要です。(藤原不比等は、そのために720年に「日本書紀」を創作していた。その呪縛は現在も健在。)
藤原氏は、儀式としての装置として、仏教(インド・バラモン僧によるヒンズー教化仏教の開発=公費留学僧・最澄の天台宗と聖徳太子の出現。私費留学僧・真言宗の空海は秦氏の末裔のため、桓武天皇から嫌われていたので、桓武天皇崩御まで京都を避けていた。)と神道(天武天皇崩御後、藤原氏と関係が深い中臣氏が開発した中臣神道で、伊勢神宮を支配。)を利用するのです。そのためには、飛鳥時代からの「道教」と「景教」は邪魔な存在です。更に、それらの神を祀る新羅系日本人と秦人も邪魔な存在です。そこで、新羅系日本人と秦人を政権中央から追い出すのです。そのための装置として、814年に「新撰姓氏録」を創作して、「皇・神・蕃(渡来人)」の序列を造り、貴族と賎民とを創り出すのです。(しかし、実際には「皇」も「神」も渡来人です。)勿論、藤原氏と百済系日本人は「皇」の貴種(貴族)となるのです。(ここから現在の皇族の歴史が始まる。)そして、道教の観は「神社」に、そして景教寺(十字寺)は「仏寺」に改造させるのです。(光仁・桓武天皇親子は、「道鏡事件」の主犯の和気清麻呂を使い、北九州の宇佐八幡を乗っ取り、その地の無数の仏閣を解体し、瀬戸内海から船で奈良・京都に運び、道観や景教寺を壊し、それらの地で秦王国の仏閣を組立てるわけです。その和気清麻呂が、桓武天皇に平安京(京都)遷都を進言するのです。)
景教とは秦氏の宗教です。景教の「景」とは、日の京を意味します。それは太陽を祀る国を目指す教えであるわけです。(早朝のお天道様を祀ること。)日本列島に無数に存在する景教の祀り所は、権力の目を誤魔化すために、「稲荷」(表向き「イナリ」と読ませる。)としてカモフラージュするわけです。その意味は、先祖を祀る「塚」つまり「ジュガ=つか」が、「稲(ジュ)荷(ガ)」、つまり「稲荷神社」となるわけです。そして、秦氏のトーテムの「狼」は「狐」に化けるわけです。
そして、秦一族は、権力からの弾圧を避けるため自ら出自を隠し、秦の氏名を、ニッポン名(中国式の一文字から、上・中・下・山・川・田などを加えて二文字にすること。)に替えるのです。それは、645年の蘇我王朝滅亡以降から始まるのです。
そして飛鳥時代の権力者、あの聖徳太子のブレーンと言われている秦氏の統領の秦河勝の墓(大阪・寝屋川に存在)も、秦氏の支配地だった京都(山城国)の地にはないのです。これは何を意味しているのでしょうか。
そして、その秦氏のニッポン名は、「ハタ・パタ」畑、端、畠、渡を基本として、羽田、波多、波蛇、八田、半田、矢田、秦野、畠山、畠田、畑川、波多野、畑中、八幡、服部、林、神保、宗、朝原、太秦、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛島、小松、大蔵、三林、小宅、高尾、高橋、原、常、井出、赤染、大幡へと、時代の激変時(平安・鎌倉・戦国時代)に改名されていくのです。日本国における苗字の流れとしては、飛鳥・奈良時代:氏(うじ)=血縁・地縁名→姓(かばね)=家格名。平安時代:字名(あざな)=私有地名→名字(みょうじ)=家名と変化していくわけです。
では、その秦氏は、いつ何所から日本列島に渡来したというのでしょうか。新撰姓氏録では応神天皇十四年、融通王が百二十七県の百姓を率いて帰化、とあるようですが、その渡来時期は本当なのでしょうか。(言葉や文字は、「日本書紀」のように無限にウソをつくことができます。)
では、秦氏はいつ何所から渡来したというのでしょうか。本当のことは謎の中のようですが、教科書歴史が述べる朝鮮半島からだけの渡来とは異なり、ロシア草原ルートの北からの渡来もあったようです。秦氏は、新撰姓氏録が言うように、秦始皇帝の末裔どころか、もっと西の方から日本列島に長い時間を掛けて渡来してきたようです。
飛鳥時代以前(推古天皇以前)の歴史は、多人長(秦氏の末裔)が812年に創作した古事記の暗号が理解できなければ、藤原氏の陰謀策略(聖徳太子・中臣鎌足・大化の改新の創作による蘇我王朝の抹殺)により、殆ど分らないのが現状のようです。
いや違う、古代の歴史を知るには「日本書紀」があるではないか、と言っても、それは藤原不比等が720年にプロデュースし完成したもので、飛鳥時代の真実を語っているとは信じることはできません。
しかし、「書籍」は無限にウソをつくことが可能ですが、「自然」はウソをつくことがきません。
ひとは誰でも、仙人とは異なり、霞みを食べて生きていくことはできません。そこで、その部族が暮している自然環境に合わせて食生活を営むわけです。その異なる食生活により部族を分けるとすれば、三つです。農耕民部族、漁労採取民部族、そして牧畜民部族です。
そのような三種類の食生活により、日本列島渡来部族を時系列に眺めてみますと、縄文時代の漁労採取部族、弥生時代の農耕部族、そして古墳時代の牧畜部族が考えられるでしょう。
魚介類の渡来ルート特定は困難のようですが、野菜・穀類は可能です。それは、野菜や穀類は、野生植物とは異なり、ひとの世話なくしては育たないからです。
日本列島は、二つの文化圏に分けることが出来ます。それは、名古屋以南の照葉樹林文化圏と名古屋以北の落葉樹林文化圏です。それら二つの文化圏の植生は異なります。
オオムギは世界中で栽培されていますが、大きく分けると、二つに収束します。それは、東洋型(E型)と西洋型(W型)です。
E型の分布の流れは、チベット→ヒマラヤ高地→中国→日本列島中南部(名古屋以南)です。そして、W型の分布の流れは、ヨーロッパ→アフリカ北部→西アジア→インド平原→シベリア→満州→日本列島東北部(名古屋以北)です。
日本列島には昔から、出自の異なる二種類のオオムギが栽培されていたのです。それは、日本列島には、「南」と「北」の二つの渡来ルートがあったことを示唆しているようです。
その他の渡来穀物である、ソバ、ヒエ、アワ、イネ、野菜類のサトイモ、ヒョウタン、マクワウリは、弥生時代に華南から渡来したひと達(海洋民族)と伴に、日本列島照葉樹林文化圏に伝播したものです。
しかし、不思議なのは、中央アジア原産の野菜類が、京都の地(山城国)で栽培されているのです。それも、奈良時代以前からのようです。それらは、胡麻(ごま)、胡葱(ねぎ)、胡瓜(きゅうり)、そして人参です。(京都では金時ニンジンといわれている。漢民族はペルシャ渡来の物やひとには「胡」の漢字をつけて識別していた。)
馬の好物の人参は、肉の臭みを消すので、遊牧民族には好まれる野菜です。でも、中国大陸の農耕民の漢民族は人参を好まないため、中国では長く栽培されることはなかったようです。(現在は、西洋ニンジンを栽培している。)
その中央アジア原産の人参が京都の地で、奈良時代以前から栽培されていたことは、奈良時代以前から中央アジアから渡来して来た部族が暮らしていたことを示唆します。
そして、平安時代になると、そのキュウリ(胡瓜)は、ゲスな野菜に落されてしまうのです。(そのゲスのキュウリは、道教の水神の馴れの果て「カッパ=間の抜けた妖怪」の好物とされてしまうのです。これは手の込んだイジメである。)
そのキュウリは、祇園さんの「神紋」となっているのです。祇園さんは、牛頭天皇を祀ります。牛頭とは、氏神でもあるわけです。そして、山背国(桓武天皇は、その地が山に囲まれ要塞化していることで、「山城国」と名付けた。)を拓いた秦氏の氏寺の大秦寺(景教寺)は、魔多羅神による「牛祭り」を行っています。
平安時代初期には、山城国では氏神を祀るため、牛を犠牲にしていたことは、804年に牛の屠殺禁止令が出でいることで理解できるでしょう。
その祇園御霊会において「牛頭天皇の神輿」が、京都御所の近くに来ると、神輿違御幸(みこしたがえのみゆき)と称して、天皇や皇族達は、穢れを避けるため一時凌ぎに都から避難していました。つまり、「牛頭天皇の神輿」は、「穢れの神」「疫病神」であったわけです。これが後に、中臣神道の「清目(キヨメ)の思想」により、「お祓い」の儀式が開発されると、清目のために「水」や「塩」を「穢れた神輿」に撒くことになるわけです。
京都の先住民の氏神が、「穢れ神」であるのなら、その氏子も「穢れびと」であるわけです。その氏子達を、「何所のウマの骨」扱いをすることは、京都の貴族達(藤原氏・百済系日本人)は、先住民(秦人・新羅系日本人)の出自を、騎馬民族であることを知っていたからでしょう。
穢れ(インド・カースト思想)は、平安時代に、朝廷にまつろわない騎馬民族・漁労民族を貶める目的に、藤原氏が、庶民のためではなく鎮護国家の目的のため、「ヒンズー教化仏教=貴族仏教」と「中臣神道=貴族神道」を使い、貴族達に広めた思想です。
この穢れ思想は、平安末期になると、都の貴族が没落したため、貴族のスポンサーを失った仏教教団は武士団や庶民へ布教を広げたため、全国に広がっていくのです。つまり、日本国における民族的差別(イジメ)は、平安の京都から始まったのです。
しかし、その秦人が、西域から日本列島に渡来していなかったら、日本の文化・技術は萌芽しなかったでしょう。


神輿の黙示録(3)(敗者の反撃:武士団と芸能民の発生)


戦国部将を三名あげなさいとの問いに、戦後教育を受けた日本人であるならば、即座に答えることができるでしょう。それらの部将とは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。そして、それぞれのキャラクターも即座に答えることができるでしょう。それらは、織田信長は古い体制を壊す「革命家」、豊臣秀吉は下層階級から天下人となった「努力家」、そして、徳川家康は抜け目の無い「タヌキ親爺」となることでしょう。
教育という「刷り込み」とは恐ろしいものです。一度でも情報が刷り込まれてしまえば、その後、訂正することが非常に困難だからです。
では、それらの部将達は、戦国の昔からそのような評判を得ていたのでしょうか。それは違います。そのような部将達のキャラクターを創作したのは、実は、戦国末期からではなく、明治時代からなのです。
戦国時代末期には、織田信長と豊臣秀吉が敵対する非戦闘員の人民・婦女子に行ったことを調べれば、彼等が下層階級から憎まれていたことが理解できるでしょう。そのことを裏付ける根拠のひとつとして、織田信長と豊臣秀吉の遺骨がこの世にはないのです。
織田信長は、ユダヤ・キリスト教一派のイエズス会(右手に聖書、左手に銃を持つ教団。侵略目的地に病院設立→学校設立→交易代理人育成→軍事顧問招聘→軍隊侵攻→植民地化。インドとマカオの歴史の流れ。)のフロイス(織田信長と18回謁見した。1569年に謁見後の信長軍の軍備が充実した。特に銃。1575年三河長篠の戦いで信長軍鉄砲隊で武田勝頼を敗退さす。)の報告が事実とするならば、本能寺で「爆殺」されてしまったため遺骨が存在しないのです。織田信長の敵は、明智光秀だけではなかったのです。
豊臣秀吉は、法名「国泰祐松院殿霊山俊龍居士」があり、京都市の阿弥陀ヶ峰にある豊国廟に祀られているから遺骨があるのではないか、と思うかもしれません。しかし、そこにあるのは他人の遺骨らしいのです。始めは、秀吉の遺体は「平氏」としてミイラ状態で埋葬されたのです。その後、大阪夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡すると、その墓を、徳川家康が暴き、そのミイラを火葬にし、どこかに葬ってしまったのです。そして、代わりの遺骨が埋葬された山奥の人も通わぬ墓が、阿弥陀ヶ峰にあるわけです。
しかし、明治時代になると、立派な豊国神社が京都(百済系桓武王朝の都。廃墟寸前の御所は明治時代になると新装されて立派な御所となって今日に至。)に創建されるのです。
では何故、徳川家康が、そのようなことをしたのかを解くヒントは、織田信長も豊臣秀吉も、自称「平氏」を名乗っていたことです。ちなみに、徳川家康は「源氏」を名乗っていました。
と言うことは、慶長5年(1600年)の関が原の戦いとは、平氏(豊臣氏)と源氏(徳川氏)との「第二次源平合戦」とも考えることができるかもしれません。
それでは、日本国の軍事部族、「源氏」と「平氏」とは、どのようにして歴史上出現してきたのでしょうか。ではその前に、武士のおこりを歴史教科書では、どのように記述しているかをみてみましょう。

国司は新しい開墾地にも重い税をかけた。そこで、有力な農民などは国司との争いや、土地をめぐる争いに、武力を使うようになった。争いのときには、一族や下人とよばれる従者をひきいて戦った。これが武士のおこりである。やがて、武士は有力な豪族のもとに結集して、武士団をつくった。武士は、開拓がさかんで良馬の産地である東日本に、とくに多くなった。また、任期が終わった国司なども、そのまま地方に住みつき、各地の武士を家来として、勢力をのばした。武士団のなかで、とくに有力となったのが源氏と平氏であった。

教科書の記述によれば、「有力な農民など」が、武士の前身であるとのことです。では、その武士達は、どのような暮し向きをしていたのでしょうか。

武士は荘園や公領のなかの、土塀や堀をめぐらした屋敷に、武家屋敷といわれる建物を建てて住んでいた。屋敷のまわりに広い田畑をもち、ふだんは下人を使って耕作したり、近くの農民に小作させたりしていた。有力な武士は地頭や荘園の管理者として、荘園を管理し、自作する農民から年貢を取り立てて、荘園領主へ送った。
当時、武士の家は「弓馬の家」といわれた。武士は馬に乗り、弓を引いて一騎打ちの戦いをした。夫をなくした女主人は、武士団を統率もした。結婚しても生家の姓を名のり、その地位はかなり高かった。

政府公認の権威ある教科書の記述なので、武士のおこりの説明をすんなりと納得してしまいます。しかし、よく考えてみると可笑しなことが多々あるのです。
其1、国から派遣された国司に対して、農民が鍬や鋤などの農具を武器として互角に戦えるものなのでしょうか。
其2、何故、東日本が開拓がさかんで良馬の産地であったのでしょうか。
其3、何故、外から襲われることも無いのに、武士は屋敷を土塀や堀をめぐらしていたのでしょうか。
其4、農民が馬を飼育することは納得できても、乗馬しながら弓を引くことなどの高等技術は、どのようにして習得したのでしょうか。
其5、儒教思想を庶民管理に利用した大乗仏教支配の平安時代の「男尊女卑」の世界で、何故、武家の社会では「女尊」であったのでしょうか。
以上の、武士のおこりに対する疑問の答えを探すには、平安時代以前に戻らなくてはならないようです。
平安時代に出現した「武士」と「芸能民」との発祥は同じです。それは、武士のことを、「武芸者」ということからも理解できるでしょう。では、その両者の源(芸)とは何かと言えば、それは清目(キヨメ)です。では、その清目とは何のことなのでしょうか。
清目と言えば、すぐに思いつく事は、葬儀後の「塩」か「食事」のことでしょう。しかし、平安時代に発明された「清目」とは、個人的な葬儀に対してではなく、国家の鎮護(怨霊を、「犠牲」もしくは「舞踏」により祀ること。)を司る重大なことであるわけです。
では平安時代には何を清目たのでしょうか。それは、「敵神の怨霊」です。その原因は、平安時代を築く目的で、藤原氏や桓武天皇は、敵対する「道教の神」や「景教の神」を、ヒンズー教化仏教を道具として呪殺したからです。
更に、式家の藤原兄弟の良継と百川は、白壁王(後の光仁天皇)を天皇にする目的のために、その井上皇后と息子の他戸皇太子(天武天皇の血を継ぐ最後の皇太子)を謀略で殺害しています。そして、その光仁天皇の息子の桓武天皇は、実弟を無実の罪で殺害しているのです。これらのことは、旧約聖書によれば、ダビデの王権を祭祀アロンと結託して謀略により簒奪し、実兄弟を抹殺したソロモンと同じことが、時空を越えた平安時代に再現されたわけです。
古代の神は、「祟り」と「守護」を兼ね備えていたのです。飛鳥・奈良時代では、神に敵対する者は「祟られ」、神を祀る者は「守護された」わけです。
そのため、平安の都は、怨霊の祟りによる奇怪な事件が続発していたのです。藤原氏と桓武天皇は、それらの祟り(怨霊)を静めること(清目)を目的に、敗者の神の氏子(秦氏・新羅系日本人)を「令外官」として雇い入れたのです。それらが、武士と芸能者の先祖であるわけです。
平安時代、天皇を怨霊から守る清目の仕事とは、天皇直属官人として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会、祭礼の守護、行幸路地の巡検及び普請・清掃、そして橋・河などの公界的な場の管理などです。(では何故、鎌倉末期になると、「清目」が下層階級の「汚れ仕事」になってしまったのでしょうか。)
物理的な守護は、正規軍の「武術者」が行うわけですが、怨霊など目に見えない「モノノケ」に対しての守護は、敗者神の氏子の「武芸者」でなければならなかったわけです。(この見えない彷徨う怨霊(宿神)を清めることを、歌謡と舞踏で表現した芸が、後の「能」となるわけです。ですから、嗜みのひとつとして、武士は「能」を舞えなければならなかったのです。ちなみに芸能の「祖」は、秦氏の統領の秦河勝「翁・宿神」です。)これは、王権側の「穢れ」攻撃に対する反作用です。自ら創作した怨霊を恐怖するこころが、そのような敵側の氏子により天皇を直接守護する集団を創りだしてしまったわけです。
その清目の仕事は、やがて「検非違使」という政府権力組織に発展していくわけです。平安時代の検非違使の仕事とは、鎌倉時代以降の「穢多」の仕事などではなく、天皇を護る高貴な仕事であったのです。
このことは、「長吏」にも言えます。鎌倉時代の末期には、長吏は「穢多」の仕事になってしまうのです。では、元々の長吏の仕事はどのようなものだったのでしょうか。
平安時代になると、桓武天皇は、まつろわぬ秦人や新羅系日本人を、京の都から追放するわけです。その追放先は、山や河川のジメジメした湿地帯や中州、或は、産鉄民族の鉱区跡の「別所」「散所」「湯浅」「海渡」などと呼ばれた山奥の小さな盆地です。
しかし、多くの追放者達は、鈴鹿の関を越えて北関東・東北の諏訪(トルファン)、武蔵(ムクラ、これを「ムサシ」と読ませた人は天才です。)、常磐(トコハン=東胡+フン)へ移住するのです。それらの地域は、古代にユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の第二の故郷だったからです。(平安時代、王権は、騎馬民族文化抹殺のため居住所名をニッポン語化していた。西日本は常民「王権に従う民」の中に部落が存在していたが、東日本では部落の中に常民が存在していた。)
しかし、藤原氏にコントロールされた百済王朝が支配する近畿地方に留まった者たちは、過酷な生活環境を克服していくのです。
秦氏とは、元々は民族名ではなく、騎馬民族国家スキタイと同じに、あらゆる職能者の連合部族であるわけです。そこに騎馬民族の末裔のネットワークが加われば、生活圏は無限に広がるわけです。騎馬民族は、その組織機能からして、国際交易商人と同じだからです。
秦人たちは、古代エジプトで土木・建築技術を習得したイスラエル民族のように、灌漑・土木・堀削の技術を駆使して、河内湖を干拓し、湾近くの河川敷に「津」を造り、海外と交易を開始するわけです。その拠点は、「難波」です。やがて、難波は日本一の貿易都市となるのです。それは、難波は、古代からペルシャとシルクロードで繋がっていたからです。
紀元前六世紀、アケメネス朝ペルシャは、騎馬民族国家スキタイ(女戦士が多数存在した。草原に囲郭を造り集落を築く。幌馬車で移動。)と交戦していましたが、紀元前四世紀になると、西方のマケドニアからアレキサンダー大王がペルシャに侵攻してくるわけです。その戦いに敗れた、ペルシャ・スキタイの残党は、西に東に移動するわけです。
スキタイは、紀元前三世紀には、歴史から消え、その後に、騎馬技術と馬上弓射を習得した匈奴(漢民族による蔑称。チュルク系騎馬民族。漢民族と異なり髭が濃い。)が、シベリアの草原に現われるわけです。その匈奴は、シベリア草原から南下してタクラマカン砂漠に「楼蘭」という国際交易都市を造るわけです。
その「楼蘭」も、紀元前一世紀、匈奴が前漢の武帝に敗れると、やがて砂漠の中に消えてしまうのです。そして、前漢の時代、朝鮮半島の根本に「楽浪」の国際交易都市が建設されるわけです。
その「楽浪」は、二世紀の中頃、高句麗が興ると、高句麗の国際交易都市となるわけです。やがて、四世紀になると、日本列島に交易のため侵攻してきた高句麗、百済、そして新羅の三国の商人達が、朱砂、水銀、絹織物等を争奪するため、近畿地域で貿易覇権をかけて三つ巴の戦いを繰り広げるわけです。その、近畿への上陸地点の「津」のひとつが、「難波」であるわけです。
「楼蘭」→「楽浪」→「難波=浪速」、この流れは何を語っているのでしょうか。それは、共通読みの「ロウラン」が答えてくれるでしょう。
平安時代、都を追われた者たちの「津」の交易先は、新羅国(百済系京都王朝の敵国)となるわけです。その津は、いつしか「渡辺津」(新羅の末裔と信じる源義経は、この渡辺津から屋島の合戦へ出陣した。)と呼ばれるようになるわけです。その意味は、「鮮卑(拓跋)」→「済(渡る)」→「渡」への出自隠しの変化によるようです。
教科書歴史では、鎖国を日本国で始めたのは、江戸時代の徳川家康からであると教えています。しかし、それは違います。
811年、新羅人が対馬にやって来るのです。それは、蘇我王朝から天武王朝の奈良時代までは、新羅国とは友好的に交易を行っていたからです。しかし、この後も何度も新羅国の使者が来航するのですが、平安朝廷は、新羅の使節使が唐服を着てきたからなどと色々な難癖を付けて追い返すのです。つまり、新羅国に対して事実上鎖国政策をするわけです。
そして、平安朝廷は、奈良時代まで使用していた貨幣の流通を禁止するわけです。(鎌倉時代になってから貨幣使用が復活する。しかし、その貨幣は中国・宋銭です。)それは、朝廷にまつろわぬ秦人が、海外貿易で貨幣を溜め込み、勢力を再び増強しないようにする目的のためです。
では、新羅国は何を交易品として求めてきたかといえば、それらは、水銀、銀、そして琥珀です。
シルクロードでの絹貿易は、六世紀に繭と絹織物の技法を僧侶に盗まれてしまった結果、ヨーロッパでの需要が衰退したため、ヨーロッパでの需要逼迫の水銀、銀、琥珀を日本国から輸入したかったからです。(銀は、メキシコ銀鉱山が開発されていない十六世紀までは、日本国が世界最大の産出国だった。)
樹脂が化石化した琥珀は、古代から交易品の上位にありました。それは、呪術に関係していたからです。琥珀が歴史上に現われるのは、紀元前十二世紀です。琥珀ロードは、シルクロードより先に開発されていたのです。その琥珀ロードの開発者とは、海洋民族フェニキアです。
そして、その琥珀の産地は二箇所です。ひとつはバルト海沿岸です。そしてもうひとつは日本列島の岩手県久慈であるわけです。
紀元前十一世紀頃、赤いマントを羽織る海洋民族フェニキアは、紅海に面したエドムの港から大型外洋船タルシシ船で、その交易先のインドからクジャク、香木、紫檀、サル等を、琥珀を貨幣の換わりにしてカナンの地に輸入していたのです。
日本国における琥珀は、二万年前の北海道千歳「柏台遺跡」と縄文晩期の日高地方「新冠古墳」から出土しています。教科書歴史では、八世紀までは未開の地となっている北海道最北端の宗谷岬には、紀元前十世紀にはオンコロマナイ文化が栄えていたのです。ロシア草原ルートは、バルト海沿岸から北海道(渡り島)まで続いているのです。
それでは本土ではどうかと言えば、三世紀から出現する奈良盆地周辺に点在する古墳から琥珀製の勾玉・夷玉が出土しているのです。そして、奈良時代に仏教が栄えると、仏教七宝のひとつとして琥珀の数珠が霊力ある道具として珍重されるわけです。このことは、古代から陸奥国と近畿地方とは、交易ルートで繋がっていたことを示唆しています。
その平安時代の難波での交易も、朝廷の鎖国政策と貨幣使用禁止のため長くは続かなかったのです。そこで、秦人たちは、穢れ思想を逆手にとって新たな経済活動を行うわけです。
神社とは、道教の穢れ神(平安初期の「ケガレ」とは、汚れていると言う意味ではなく、反体制の意味。)を封じ込める装置として、国家権力(仏教側)により発明されたものです。その穢れ神を祀る所は、その氏子にとっては神聖な場所であるわけです。しかし、王権はその氏神と氏子との交流を切断する装置を発明するわけです。それが結界を示す鳥居です。そして、その鳥居に標縄(しめなわ)をめぐらし、幽界に氏神を封じ込めるわけです。(ここから「ナワバリ」意識が始まる。つまり、内「公界」と外「異界」です。)
しかし、そのように永遠に氏神を封じ込めては、氏子の不満は爆発することでしょう。そこで王権は、年に一度だけ、氏神と氏子との交流を認めるわけです。それが、神輿による祭りです。しかし、氏神の乗り物の神輿から怨霊が抜け出ないように、神輿の扉は「閉め扉」となっているわけです。
やがて、穢れ思想(王権の秩序を乱すこと。)が変化してしまう鎌倉末期になると、公界の娑婆を穢さないように、清目として、神輿に向かって「水」や「塩」を撒くことになって今日にいたるわけです。(現在では、「清目」の本来の意味が分らなくなり、「塩」や「水」を神輿に撒くことは、「景気付け」と解釈されているわけです。)
この穢れ場所は、神を祀る「社」(やしろ)で、「会」とはネットワークを意味し、その「社」に集まることは、「社会」となるわけです。でも、その社に集まる人達は、王権から疎外された人達ですから、公には集うことは、「とうりゃんせ」の歌詞にあるように、「行きはよいよい、帰りは怖い」、わけです。それは、神社の境内にある横屋の王権側の監視所から、常に参拝者の動向が見張られているからです。
ですから、その「社会」は、必然的に「秘密結社」となるわけです。そして、その秘密結社と王権とを繋ぐ顔役(仕切り人)を「長吏」というわけです。つまり、長吏の仕事とは、疎外された人達を守る(任侠=弱い立場の人たちの間を狭めること。)ために、王権との調停を行う代理人であったわけです。
平安時代、その長吏たちが経済活動を行う場所は、王権が手を出せない、標縄を張り巡らされた神社境内や橋のない中洲であったわけです。ここが経済活動の場であり、「島」(カル=銅。銅が採取できる山=カル山=香具山。神社の祭りで出店を経営するひとを香具師・ヤシと言う。)であったのです。この島が、鎌倉末期になると「穢れ場」となるのです。何故か?
長吏は、王権の穢れ戦略を逆手にとって、無税の地で経済活動を広げていくわけです。そして、財をなすことで独占的販売システムを確立していくわけです。それが「座」です。それに対して王権側の仏寺は、門前「市」でビジネスを行うわけです。
平安貴族達が、朝廷に奉ろう農耕民を奴隷化して利益を独占する装置としての「税制」と貨幣使用禁止の逆手を取って、長吏たちは神社をネットワークに「座」を全国に広げていくわけです。しかし、その特権を維持するには護衛が必要です。それらの護衛任務を行うひとを「神人」(じにん)、そしてその武装集団を「神兵」というわけです。
そのような逆特権の場を利用して、物語を聞かせたり、歌謡をする集団を組織し芸能業を興し、更に、馬を利用しての運輸業や倉庫業等を手広く経営していくわけです。
その全国にまたがる物流を行なう過程で、決済のための為替や小切手の仕組み、つまり、金融業も経営していくわけです。更に、事業の資金調達のため「株」を発行し、「座」の利益を配当する株組織も開発するわけです。その「座」を仕切る「顔役」のことを「役座」(やくざ)というわけです。
つまり、平安時代の「役座」が、物産開発(素麺座の三輪素麺等)、馬を使用した物流業、歌謡・舞などの芸能プロダクション業、為替・株等の金融業を日本で初めて創業したのです。
そして、戦国時代末期に、織田信長が出現するまでは、役座が「難波」を拠点に全国の神社ネットワークを使用して体制外経済をコントロールしていたわけです。(その平安時代の役座が、江戸時代になるとアウトローの「ヤクザ」となり、「与太者」と呼ばれるわけです。「与太」とは、奈良時代までは、道教寺の「観」で、霊を降臨さすために、フェルト状の布の「真床追衾・まとこおうすま」のハンモックのようなものを「揺する」与太職の神職であったのです。その「揺する」が「強請り」と変化して、ひとを脅すヤクザとなってしまうわけです。更に、落語では、「騎馬民族に対する蔑称」の「馬鹿」の代名詞「与太郎」に貶められてしまうのです。)
戦国末期、この日本一の商業都市の「座」の利権を得る目的で、イエズス会の銃器・弾薬で武装した自称平氏の織田信長は、全国の座組織を支配している拠点の「難波」を十一年間も攻撃しても壊滅させることができず、朝廷に和議斡旋の願いを出し、和議勧告の最中、戦闘態勢を崩した難波軍(鉄砲隊の雑賀衆徒や安芸の毛利水軍も援助していた。)を攻めて、その地を壊滅したのです。そして、織田信長はその地を乗っ取り、諸国の市・座組織を解体して「楽市楽座」をおこなったのです。
そして、1582年その難波の地に大阪城を建設する直前に、織田信長は、本能寺で誰かにより仕掛けられた爆薬で、「爆殺」されてしまったのです。しかし、翌年には、羽柴秀吉は、大阪城の建設にとりかかるのです。(この手際よさ、つまり、織田信長が爆殺されるのを予知していたかのごとく、戦闘中の毛利氏と即決和睦し、本能寺に駆けつけるのです。そして、翌年には大阪城の建設に着手するのです。)
そして、渡邊津の住人をその地から追い出し、大阪湾の湿地帯に追いやるのです。そして、1588年あの有名な「刀狩」を行なうのです。それは、大仏を造る(完成した大仏は木製の金張りでした。)という名目ですが、実際は、公家(亡命百済人と藤原氏の末裔)に唆された豊臣秀吉は、朝鮮・明国支配の妄想にかかり、その朝鮮侵略のための武器としていたのです。そして、豊臣秀吉軍は、難波で行ったことを、朝鮮半島でも行なっていたのです。(このことにより、秦氏の末裔により創作された「能」では、豊臣秀吉は善人としては描かれることは決してないのです。)
それらの同族(騎馬民族・新羅人)に対する豊臣秀吉軍の朝鮮半島での「人間にあるまじき仕打ち」に対して、自称源氏の徳川家康は許すことができず、豊臣秀吉の遺体をこの世から抹殺したのでしょう。
朝鮮蔑視をした自称平氏の豊臣秀吉(「豊臣」とは、豊国の僕と言う意味です。では豊国とは何かと言えば、それは九州・秦王国のことです。百済京都王朝は、九州・秦王国を乗っ取って豊国と名称を替えたのです。その豊国から多数の仏閣を移築した都が京都と言うことです。つまり、京都とは豊国の亜流都なのです。と言うことは、豊国の僕は、京都王朝より挌上という理屈になるわけです。)に対して、自称源氏の徳川家康は朝鮮国を敬っていた(朱子学を朝鮮の学者から学んでいた。)のです。ですから、徳川家康は、朝鮮王朝に朝鮮国における豊臣秀吉軍の蛮行の詫びを入れて、国交を復活するのです。
そして、それに対して徳川家の代替わりには、四百人以上の朝鮮通信使が日本国を訪れるわけです。朝鮮通信使たちは、徳川幕府最高の礼遇で日本国に迎い入れられたのです。そして、江戸時代に都合12回の来日があったのです。
平氏発祥の基は、亡命百済人です。そして、明治維新で藤原氏により政府中央に返り咲いた亡命百済人の末裔(夷)は、663年の出来事を忘れる事が、今でもできないようです。
明治維新勃発の謎を解くヒントは、明治維新軍の中核であった薩摩藩の島津氏の天璋院篤姫が、藤原氏の総本家の近衛家の養女となっていることです。(藤原氏の姻戚戦略)つまり、秦氏改め惟宗氏が、鎌倉時代に薩摩国島津荘の地頭職となって「島津氏」に改めたわけですが、その薩摩国島津荘のもとの荘園主が「藤原氏の総本家の近衛家」であったわけです。つまり、鎌倉時代より、島津氏(秦氏)と近衛家(藤原氏)は姻戚関係であるわけです。
ちなみに、日の丸の旗は、江戸時代、島津氏が琉球王国との密貿易に使用した船に付けて自船を識別していたものです。
明治維新で藤原氏が復活して、平安時代の王政復古(摂関政治=近衛家が天皇家を支配)を唱えたことは、「そのこと」で説明できるかもしれません。つまり、藤原氏の基本戦略は、平安時代も明治時代も、「夷(百済系天皇=平氏)を以って、夷(新羅系日本人=源氏)を制す」だからです。

神輿の黙示録(4)(日本密教の発明:「穢れ」から「ケガレ」へ)


ひとは、儀式や呪文の由来や意味が分らないのに、昔からの言伝えだからと、それらの真意を疑ったり、調べようとはしない傾向があるようです。
例えば、子供の頃の真夏の昼下がり、ゴロゴロと雷鳴を聞くなり「クワバラ、クワバラ」と、蚊帳の中で両手を合わせ拝む祖母を見た記憶のあるひとは少なからずいることでしょう。その呪文の意味を祖母に聞いても、「昔からの言伝え」だからと、明確な理由を聞くことができなかったことでしょう。
では、その「クワバラ、クワバラ」の呪文は、いつ頃発明されたのでしょうか。それは、平安時代の延喜3年(903年)以降の約千年前です。
貴種ではないけれども菅原道真は醍醐天皇にも引き立てられ、894年遣唐使として抜擢されるほどの才能がある人でした。しかし、その才能や醍醐天皇に接近したために危機感を募らせた、天皇を裏でコントロール(摂関政治)している藤原時平の陰謀により、菅原道真は、延喜1年(901年)九州の大宰府に左遷させられてしまうのです。そして、翌々年菅原道真は失意のまま、59歳でその地で没してしまうのです。
怨霊とは祟り神です。それは、やましいこころに宿ります。菅原道真を無実の罪で死に追いやった藤原氏は、菅原道真が雷神となって祟ることを恐れて、その怨霊を封じ込める目的でその地に「神社」を建立するわけです。しかし、それでも菅原道真の怨霊は静まりません。(平安時代では、自然現象でも怨霊の仕業だと信じていた。)そこで、その雷神の祟り祓えを発明する陰陽師(道教士が仏教側に寝返った呪術師)が現われ、雷避けの呪文を唱えるわけです。それが、「クワバラ、クワバラ」です。その意味は、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。つまり、「クワバラ・桑原」の呪文を聞いた怨霊(雷神)は、生誕地を避ける、と言う理屈です。
宗教(呪術)は使い方によっては、ひとを幸福にしますが、間違った使い方をするとひとを不幸にしてしまいます。このことを、革命家のカール・マルクス(1818年〜1883年)は、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である。」を引用して、「宗教は、逆境に悩める者のため息であり、それは民衆の阿片である。」と言ったそうです。そのように、宗教を批判したカール・マルクスの唱える「マルクス主義」も、ユダヤ教(旧約聖書とタルムードを信じる宗教。キリスト教は旧約聖書と新約聖書を信じる宗教。ヘブライ語の旧約聖書は、意外にも西暦90年頃確立した。それは丁度、新約聖書が確立した頃です。更に、大乗仏教経典群成立と時を同じにしているのは何故でしょうか。70人訳ギリシャ語聖書は、それらよりも早く紀元前280年エジプトのアレキサンドリアで成立していました。)を換骨奪胎して再構築した「宗教」だったようです。
しかし、マルクスの言ったことは真実でした。それは、阿片は宗教儀式で実際に使用されていたからです。
アヘン・ケシ(学名バパベル・ソミフェルム)の花が散った後の子房を傷つけると、ミルク状の樹液が滲んできます。その樹液が空気に触れると茶褐色の樹脂となります。これが生阿片です。原産地は地中海沿岸で、紀元前四千年頃、オリエントのシュメール人や古代エジプトの神官が、宗教儀式に使用したのが、始まりのようです。その阿片は、シルクロードの国際交易商人や僧侶たちにより、地中海沿岸→ペルシャ→インド→中国へと流れ、659年に著された唐の医学書に「阿芙蓉」と掲載されています。
ひとの意識を、ある種の物質で瞬時に変格させる研究をした宗教組織がありました。そのひとつが、バラモン教です。
紀元前十三世紀、地中海沿岸からインドへ侵入してきた民族がいました。それはアーリア人と呼ばれていました。アーリア人は、インドの先住民の牧畜・農耕民族のドラヴィダ人を支配する装置としての宗教を発明するのです。それが菜食主義のバラモン教です。アーリア人は、ドラヴィダ人を支配するために、複雑怪奇な儀式を発明するわけです。そして、ブラーフマン(梵)を主神として、祭祀(カルマ)、知識(ジュニャーナ)、神への絶対的帰依(バクティ)などの難解な思想で先住民を支配するために、絶対身分制度のカーストを発明するわけです。そして、その制度から絶対に抜け出る事が出来ない装置の、「輪廻転生」の思想も発明するわけです。(釈尊は、このバラモン教のカルマから解脱するために、「非人」となり「乞食」し、「無我」の思想を発明した。)
それらの身分とは、上から司祭階級(バラモン)→王族(クシャトリア)→庶民(ヴァイシャ)→隷民(シュードラ)、そして不可触賎民(セダラ・鎌倉末期にセダラ=穢多が歴史上に現われる。)です。(鎌倉末期、この肉食を極端に蔑視するカースト思想を、騎馬民族を貶めるため、京都王朝側が仏教徒により布教。この思想が、江戸時代に完成する身分制度の、「士農工商穢多非人」となるわけです。)
このインドの地で、秘密の宗教の「密教」が、バラモン教により発明されるわけです。「密教」を一口で言えば、「原初的な科学・化学・薬学・心理学による意識の変成の技術」と言えるかもしれません。つまり、密教とは、錬金術でもあるわけです。(錬金術の真の意味は、卑金属を貴金属に替えることではなく、こころを神の境地に達成させるための技術。)
そのために、バラモン教(四世紀頃ヒンズー教に吸収される。)は組織を上げて、末梢神経や中枢神経をコントロールする「物質」を探究するわけです。そのひとつが、固体→液体→気体→固体→液体→気体と、無限に変成する「水銀」の研究となるわけです。その水銀は、まさに「輪廻転生」の具現化であるわけです。そのため、水銀は、高価な交易品となるわけです。
水銀は、朱砂が採掘される所に埋蔵されています。その朱砂は、日本列島では、縄文時代から呪術の道具として利用されていました。それは、埋葬時に死者の身体に朱砂を塗ると、いつまでも死者は腐ることがないためです。
時代は下がり、四世紀になると、吉野山での水銀の発掘利権をめぐり、ユーラシア大陸から国際交易商人達が、近畿地方に侵攻してくるわけです。
更に時代が下がり飛鳥・奈良時代は、ユーラシア大陸を故郷とする騎馬民族王朝(蘇我・新羅王朝)が続いていましたが、平安時代になるとインド・中国南朝からの海洋民族王朝(百済王朝)になるわけです。このことにより、百済国を滅ぼした新羅国とは国交を断絶したため、[水銀」の交易ルートも変更となるわけです。遣唐使とは、純粋学問探究だけではなく、新交易ルートの開発係りの意味合いもあったのです。
平安京に遷都してから十年後、公費で百済系末裔の最澄を唐に使わしたのは、表向きは仏典の輸入となっているようです。が、しかし、私費の秦氏の末裔の空海が、最澄と時を同じくして唐に渡った意味が理解できません。何か隠された意図でもあったのでしょうか。
当時の留学費は、下級官人の息子の空海に出せる程の金額ではないでしょう。不思議なのは、空海が仏籍に入ったのは、留学の前年なのです。(京都の大学を中退した空海は、四国で鉱山探索をしていたようです。後に寺を建立した付近には銅山・銀山が開発されていたからです。)
そして、最澄が805年帰朝すると、空海も806年帰朝するのです。普通の留学期間は二十年が相場のようです。そのような一二年間で、言葉もあまり通じない異国の地で、仏教の何を学んできたと言うのでしょうか。そして、帰朝するなり、最澄は天台宗を、空海は真言宗を興すのです。
これらのことを考慮すると、二人の行動の裏には、得体の知れない大きな組織のニオイが感じられます。ふたりの唐留学は、実は学問のためではなく、交易ルートの新契約、或は、銀鉱山探索技術や鉱山開発工具購入ではなかったのでしょうか。(空海の「法具」には鉱山開発工具のニオイがします。)
空海は、806年に帰朝後から3年して、やっと九州から京都朝廷へ呼び出されるのです。それは、百済系色の強い桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も病気で退位したため、好奇心旺盛の嵯峨天皇が即位したからです。
そして、812年に、高尾山寺神護寺で、正式に恵果阿闍梨から唐で譲り受けた密教灌頂を開くことが、京都朝廷から許されるのです。その後、京の都から遠く離れた、銀鉱脈がある吉野山に近い、山奥の「高野山」に寺を建立するわけです。
空海の密教は、すんなり京都朝廷に受け入れられたわけではないのです。それは、奈良の東大寺系修験道との繋がりを、京都朝廷は警戒していたからです。
東大寺は752年、反藤原氏の聖武天皇が、河内国の秦氏の末裔の行基(ヨーガの呪術を駆使して賎民に平等思想を布教。)の土木技術や全国行脚により資金調達の援助を基に、建立したものです。
その東大寺の廬舎那仏は大日如来(遍照鬼=無量光仏=ミトラ神=太陽神)とも言われています。その大日如来は平安時代になると、空海が発明した「密教」の、仏菩薩、天(「テン」とはサンスクリット語で「神」の意味。)、明王など、唐、インド、ペルシャなどのあらゆる神々を統一する、「仏」になってしまうのです。
この空海が発明した密教の、大日如来があらゆる神々を統率する「汎神論的理論」が、後に、平安仏教側が、神社ネットワークの座を経営する、朝廷にまつろわぬひとびとを壊滅させる戦略に利用されてしまうわけです。それが、本地垂迹理論です。
本来の本地垂迹とは、永遠不滅の絶対的理想仏としての「仏陀」を想定し、この仏陀を「本地仏」(本当の仏)とし、それに対して、歴史上実在した生身の仏陀を「垂迹仏」(仮の仏)とする考え方です。この「本地仏」と「垂迹仏」との関係を、平安仏教側は、「仏」と「神」の関係に置き換えてしまうのです。つまり、「仏」が現実世界へ「神」の姿で化現すると、理論展開してしまうわけです。これが、神仏習合の基本理論です。
そして、平安朝廷は、それまで九州宇佐八幡神(古は、新羅国から渡来した秦氏の神様。しかし、和気清麻呂により乗っ取られて百済王朝の支配下となる。)で天皇家を祀っていたものを、空海の真言密教(神仏習合・加持祈祷)で祀ることになるわけです。つまり、八幡神宮が、神仏習合の第一号となるわけです。
このことにより、体制側が手出しできなかった「異界」の神社境内の空間が、仏教側の支配下になってしまうわけです。それにより、反体制の民が経済支配できるのは、中洲(河原)か街道だけとなるわけです。ここから「アルキ」筋が発生するわけです。つまり、漂泊する芸能民の発生です。
その漂泊芸能民は「七道の者」と呼ばれるわけです。
では、その「道」とは何を意味しているのでしょうか。「武道」「華道」「茶道」等など色々な「芸」につけられる「道」です。それらは「清目」の者達の「技」についているわけです。
その「道」の意味は、敵の大将の首を刃ね、その首を手に掲げ、包囲する敵陣へ向かって少しずつ歩むことにより、敵陣側に自ずから拓く間隙を進むことです。つまり、生死を賭けて敵陣へ進んで行くことが「道」であるわけです。
その七道の者とは、猿楽、アルキ白拍子、アルキ巫子、かねタタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼です。つまり、それらの芸能民とは、清目の者達なのです。
清目の技の「芸」とは、弱い立場のひとたちに対して、歌や舞や色々な技で、こころの怨霊を取り除く「神芸」であるわけです。元々は、氏神を祭る(歳る)ための技が基であるわけです。それが、王権側に祀り場が奪われてしまったため、中州や街道で清目を行なうことになってしまったわけです。芸能民の清目達は、ひとびとを清めた(こころの怨霊を祓う)返礼として、銭や品物の喜捨を受けるわけです。
そして、このアルキ筋は、平安時代では藤原氏の氏寺の「興福寺」の支配下にあったものが、鎌倉時代になると、穢多頭の弾佐衛門の支配下となってしまうのです。何故か?
701年、藤原不比等が日本国を支配する装置としての「大宝律令」による私有地保持禁止も、ひとの物欲を統制することができずに、「三世一身法」や「墾田永世私財法」等と法律を作り替えても、ひとびとの物欲を押さえることができませんでした。その行き着く先が、荘園の経営となるわけです。
私財に余裕のある貴族や寺社は、農奴を銭で掻き集め、未開拓地を開墾するわけです。それにより、税の負担を軽減させるわけです。この荘園経営が広まることにより、税収減になり朝廷の財政が苦しくなってしまうわけです。
藤原氏は、天皇家を支配するために、藤原の女を側室として提供したことにより、天皇家では子沢山となり、それらの子供たち全てを養うことができなくなってしまったのです。(嵯峨天皇は56歳の生涯で、后妃夫人30人以上。皇子皇女50人。)
そこで考え出されたことが、臣籍降下です。つまり、准皇族を作り出すことにより、側室や皇子皇女の養育費を削減するわけです。それが、臣籍降下の「源氏」姓の誕生です。
814年には嵯峨源氏の賜姓となり、825年には公家桓武平氏の賜姓となるわけです。つまり、源氏も平家も天皇家の臣籍であるわけです。(同じ天皇家から源氏と平氏のニ姓を創作したのは、藤原氏の「分断して、統治せよ」の戦略のようです。それは、天皇家の臣下にある源氏と平氏が、やがて争うことになるからです。)
荘園経営の規模を拡大する寺社は、荘園のナワバリを確保するために、武装集団を組織するわけです。それが僧兵です。百済系比叡山の僧兵と、藤原氏系の興福寺の僧兵が、我が物顔で京の都をのし歩くのです。神輿を担いで強訴することも度々です。(仏敵の氏神の乗り物である「神輿」を、仏教僧達が手荒く担ぐとは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、「イヤガラセ」の何ものでもありません。)
それに対して、氏神を祀る役座側も神兵で武装組織して、神社や中洲の神域権益のナワバリを確保するわけです。
それに対して、天皇や貴族を護る嵯峨源氏も騎馬民族の「武士」で武士団を組織するのです。桓武平氏は海洋民族の武士団を組織するのです。しかし、平安初期の武士の仕事は、怨霊から天皇を護る「清目」です。
源平の軍事力としての武士団の実力が認められるのは、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱まで待たなければなりませんでした。このふたつの乱により、武士が貴族の支配から解放されることになるわけです。
では、814年の「源氏」発生まで、軍隊は存在しなかったのかと言えば、そうではありません。
宝亀五年(774年)、百済系光仁天皇は、藤原氏のコントロールにより、蝦夷の国(東北)を侵略するわけです。その目的は、本国百済を滅ぼした敵の子孫の新羅系日本人追討と陸奥国の「金」と「琥珀」の簒奪です。
その侵略戦争は、光仁天皇、桓武天皇、そして嵯峨天皇までの38年間にも及ぶわけです。そして、その戦いに動員された兵の延べ人数は、六回の出陣で約20万人です。当時の推定人口は600万人と言われているのに比べれば、20万人の軍人の多さが国家挙げての大事業であったことが分るでしょう。それでも、軍事武力により、戦馴れしている騎馬民族の蝦夷を降服さすことができませんでした。
では、その20万人の軍隊は、どのような属性の人達かと言えば、それは定かではないのです。陸奥の敵将アテルイを騙した二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂の容姿は、日本後紀によれば、「赤面黄鬚」とあるようです。この表現を物の本によれば、赤ら顔で「金糸の付け顎髭」をしていた、と説明しています。しかし、それは可笑しい。戦いに望む部将が、何ゆえ「金糸のあごひげ」をつけなければならないのか、説得力に欠けます。極論を言えば、坂上田村麻呂は、「金髪の白人種」であったのでしょう。つまり、亡命王朝の京都百済王朝は、外国の傭兵軍により軍事行動や治安維持をしていたのでしょう。歴史上実際に、北魏国には、ペルシャの傭兵軍が存在していました。
このことは、後の源平合戦の時、源氏勢力に叩かれ兵力が削がれても、暫くすると、再び平氏の軍勢が増すことは、その都度、海外(インド・宋国)の傭兵軍を雇い入れていたからでしょう。それは、平家王朝は、福原の津で、インドと交易をしていた宋国と貿易を行なっていたからです。
平安時代初期までは、日本列島は国際人で溢れていたのでしょう。しかし、その渡来部族の実体を知ることは、藤原氏による焚書のため、できません。それは、藤原氏の出自隠しのためです。日本版レビ族「藤原氏」の出自も、645年に突然歴史上出現する「中臣鎌足」が先祖であることなど、とても信じることはできません。
日本人は本来、複合民族により構成されているのです。それを無理やり単一民族などと刷り込みをおこなうから、色々な弊害、例えば「イジメ」などが発生してしまうわけです。
複合民族を統制するために、平安の王権側は、朝廷にまつろわないひとたちを「鬼」「妖怪」などと創作して、色々な物語を考え出すわけです。そして、更に、反王権のひとたちを精神的トラウマに陥らす目的に、「地獄」世界を平安時代に、ヒンズー教思想を真似て、発明するのです。現在の、閻魔様(ヒンズー教の神様)が、地獄に落ちたひとの「舌」を抜くイメージは、この平安時代に創作されたものです。
10世紀末、平安仏教は、「六道」の世界観を布教するのです。その根底はヒンズー教です。空海の発明した「日本密教」が平安仏教界に取り入れられると、仏寺のあちこちから「おん・ばさら・あらたんのう・うん・なも・あきゃしゃば・らば・おん・あみりきゃ・ありぼ・そわか」の梵語による真言呪文が聞こえてくるわけです。平安の都は、正にヒンズー教世界の様相を示していたようです。そして、寺にはヒンズー教の神々が仏像に成りすまして鎮座して、その神々に対して、ゾロアスター教の拝火を真似て、護摩を炊いて、祈祷するわけです。

江戸末期、大阪の商人学者の富永仲基は、大乗仏教非仏教説を唱えていました。つまり、大乗仏教は、釈尊の唱えた仏の道ではない、ということです。
僧侶が護摩を炊くとき、十字を切るのは何故でしょう。忍者も術をする前に、十字を切ります。忍者の服部家は、もとは秦氏です。秦氏の氏寺は「十字寺」とも言われていました。その十字寺は、景教寺とも言われていました。景教徒の墓には、マルタクロス(十字架)があります。景教の儀式は、ミトラ教(太陽神)を基にしています。そのミトラ教を模倣したキリスト教も、十字架をシンボルとして利用しています。そして、秦氏の末裔の士族の島津家と穢多頭の弾家の家紋は同じで、それは十字です。何故、秦氏の末裔の空海が、大日如来(ミトラ神)を崇拝し、護摩(ゾロアスター教の拝火は、ミトラ儀式を模倣)を炊き、十字(太陽のシンボルのマルタクロス)を切ることは、もしかすると空海にはオリエントの血が流れていた為でしょうか。

そして、984年、源信は「往生要集」を著し、地獄世界を貴族達に布教するのです。(トップダウンによるコミニュケーション戦術。)
六道の世界観とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、そして天です。その「地獄」については、更に詳しく記述するのです。その地獄世界は八つに分けられているのです。それらは、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、そして無間地獄です。(極楽のイメージを布教しないで、地獄ばかり布教するのは何故でしょうか。)
そして、これらの地獄世界を布教することにより、騎馬民族・漁労民族を貶めるのです。それは、等活地獄へは、動物を殺すこと(血の禁忌)により、落ちることになっているからです。つまり、「殺生禁止」のために、この等活地獄を布教するのです。この思想により、騎馬民族・漁労民族の生活基盤が揺らいでしまうわけです。更に、農耕民族による、騎馬民族・漁労民族への蔑視や「イジメ」の根拠になってしまうのです。つまり、藤原氏の戦略、「分断して、統治せよ。」となるわけです。(この思想を発明した菜食主義のバラモンには、植物にも、動物と同様に生命があることが理解できていなかったようです。)
そして、プロパガンダ(布教)の常套手段のビジュアルとコピーで、それらの地獄世界を、庶民に訴求するのです。ビジュアルとしては、六道絵、地獄絵、そして「北野天神縁起絵巻」などです。コピーとしては、地獄草紙、餓鬼草紙などです。この平安時代の地獄世界の刷り込みが、千年後の現在の日本人を呪縛しているのです。
それらの平安仏教の思想布教に伴って、穢れ祓いの「清目」=王権に逆らう者達(怨霊)から護ることの仕事が、汚い物の清掃業務に変えられてしまうのです。つまり、「穢れ」から「ケガレ」となってしまうのです。それには、王権側のもうひとつのトリックがあったのです。
それは、ライ病者(皮膚病者)の扱いです。平安仏教は、仏敵に対して、仏罰の結果がライ病者であると、「法華経」により布教して、そのライ病者の世話を「清目」達の部落に押し付けたからです。これより、反体制の民の顔役の長吏の仕事が、ケガレの仕事になってしまうわけです。
釈尊の説いた仏の道は、弱い立場のひとたちの為にあったのではないのでしょうか。それから考えると、平安仏教(貴族仏教)は、何を目的に、仏の道を説いていたのでしょうか。
「賭博」と「高利貸し」は、役座が創業したビジネスのように思われているようですが、それは違います。日本国で最初にはじめたのは、大乗仏教徒のようです。歴史上では、大乗仏教徒が、唐国よりもたらしたサイコロを使った「双六賭博」が始めのようです。天武天皇が貴族達と双六賭博をおこなったことが「日本書紀」に記述されています。そして、高利貸しの方も、奈良時代の仏寺が始めたことが、「続日本紀」に記述されています。(戦国時代、武士の大将が、必勝祈願に仏寺にお参りしたのは、実際は、武器弾薬を購入するための金策だったようです。昔も今も、宗教組織の教団維持には、金貸し業は、重要な収入源のようです。)
賭博用語で、「テラ銭」とはチップのことですが、それは、賭博を「寺」でおこなっていたから、「寺銭」と言うわけです。寺で賭博をおこない、負けると寺から金を借りる。これは、正に、現代のパチンコとサラ金の関係と同じです。
貸した金を返してもらうことは、昔も今も同じように困難な仕事です。高利貸しは、金を貸すときは「菩薩」と言われ、返済を迫ると「鬼」と言われるようです。
そこで、高利貸しの寺は、貸した金をスムーズに返済させるための仕掛けを考えるわけです。それが、「ウソ」をつくと、地獄に落ち、閻魔様に舌を抜かれる、という刷り込みです。仏教の宣伝パンフレットの「日本霊異記」には、借りたものを返さないことにより、地獄に落ちる物語が多く掲載されているのは、そのためなのでしょう。
平安時代、仏徒が、神徒(道教の神、景教の神、八幡の神を祀る反体制のひと。道教を崇める天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、ケガレ祓いを発明した「中臣神道」は、天武天皇が崩御後、藤原氏系中臣氏により創作された「体制側の神」。ヒンズー教思想が導入される前の日本国には、「浄・不浄思想=穢れ思想」は存在していなかった。ちなみに役座は道教の薬草学の神農様を祀る。)を目の敵としたのは、神徒が、仏徒ビジネスの真似をして、「異界」の神社ネットワークを利用して賭博と高利貸しのビジネスを興したからかもしれません。
しかし、大乗仏教側が発明した日本版本字垂迹説を基に、神仏習合により、怨霊封じ込め施設である「異界」の神社は、ついに、仏教側の支配下になってしまうわけです。そこで、仏教徒による寺の「賭博」「高利貸し」と、アウトローによる闇の「賭博」「高利貸し」が発生するわけです。
「ケガレ」思想を、平安仏教徒が布教した原因のひとつは、もしかしたら神徒側の「賭博」や「高利貸し」のビジネスから庶民を隔離して、仏徒側のビジネスのナワバリ確保のためだったのかもしれません。

神輿の黙示録(5)(鎌倉源氏の謎:何故新羅の神を祀るのか)


奈良時代から平安時代への流れは、物理的に、単に都が奈良から京都へ移っただけではないようです。それは、内外への政策が前政権(天武王朝)とガラリと激変しているからです。それらは、対外的には、新羅国との鎖国です。そして、国内的には、陸奥国(東北)への軍事侵略です。
新羅国に対しては沿岸警備兵の防人で北九州沿岸へ防衛線を築き、そして、陸奥国へは征夷大将軍(征夷とは、弓矢を使うエビスを征伐するという意味。)により延べ20万の軍勢で侵略をおこなったからです。
天武王朝の時代では、719年新羅国は騾馬を元正天皇に献上するほどでしたが、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が政界中央に復帰後から、次第に新羅国からの使節を粗野に扱うようになるのです。
そして、飛鳥時代、陸奥国の蝦夷達は、ペルシャ式庭園を築いた斉明天皇により飛鳥の都に招かれ饗応されていたのものが、百済系桓武天皇の父親の光仁天皇の時代になると、宝亀5年(775年)大友駿河麻呂を始めとして、二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂(初代は大伴弟麻呂)指揮下の外国傭兵軍により、38年もかけて陸奥国への軍事侵略をおこなうわけです。
そこで不思議なことに気付くのです。
それは、陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍と戦った、金髪の坂上田村麻呂率いる軍団の、進撃ルートは知られているのに、蝦夷軍との戦いに使用した武器や装備が史料として遺されていないのです。野史によれば、田村麻呂軍は、腰弓や幅広の剣など中国大陸型の武器で武装していたようです。それに対する蝦夷軍は、チュルク(突厥:トルコ系騎馬民族)の戦術(短い弓矢で、敗走しながら後ろ向きで騎射。)で、応戦するわけです。蝦夷軍の剣は、ペルシャの剣に似た蕨刀です。
外国傭兵の京都朝廷軍は、歩兵が主で、陸奥国の国情や地形を知らないため、当然苦戦するわけです。そこで、坂上田村麻呂は、敵将のアテルイを騙して、京の都に連れて行き、そこで、アテルイを惨殺するわけです。大将を失った蝦夷軍は、弘仁2年(811年)2万の文室綿麻呂軍により壊滅されてしまうのです。
坂上田村麻呂は、弘仁2年(811年)54歳で没しました。それから3年後、嵯峨源氏が誕生するのです。桓武平氏は、それから14年後に誕生するわけです。
そこで、また不思議なことに気付くのです。
それは、征夷大将軍の坂上田村麻呂が没して、間もなく、軍事部族としての源氏と平家が誕生するわけですが、その軍備や武器などの前時代からの継続性が、史料などで確認できないのです。源氏も平家も、中国大陸型の武器ではなく、突然、片刃の日本刀(古墳から出土するのは両刃の剣ばかりです。)と豪華絢爛な鎧兜(装飾過剰で実戦には不向きな武具です。)で武装しているのです。これらの武器の、ほんの少し前の征夷軍の武器や装備からの飛躍は、どのように説明することができるのでしょうか。
645年の政変(「大化の改新」はフィクションです。)の時、蘇我王朝の皇紀と国記は、藤原氏により焚書されてしまいました。(教科書歴史では、蘇我蝦夷が焚書したことになっています。)そして、奈良時代の史料は、藤原氏にコントロールされている桓武天皇により焚書されてしまったのです。正倉院(北方スキタイの建築様式。歴史教科書では、湿気を防ぐ南方系建築様式と説明している。)にあった天武系聖武天皇の遺品も、百済系桓武天皇に都合の悪い物品は、桓武天皇により処分されてしまったのです。
ですから、その時代を知るには、焚書されることのない公家(百済系日本人と藤原氏)の日記などに頼ることになるわけです。しかし、その日記には公家に都合の悪いことは記述されていません。ですから、歴史の真実(あるとしての前提ですが。)を知るには、智恵が必要になるのです。それは、公家の日記にさりげなく悪く書かれている事柄に真実の種が隠されていることもあるからです。
平安時代から日記を書くひとが多くなるのは、大乗仏教の「地獄思想」布教のおかげです。それは、地獄に落ちないように、死の裁判の時、閻魔様に生前の善行の証拠を示すためが、日記を書くことの主な動機のひとつになったようです。
戦国時代、公家の中院通秀の日記「十輪院内府記」に、「およそ源氏の氏神は、平野社を以って正と為すなり、八幡宮に於いては、清和源氏義家以来の事なり。」とあるのです。源義家とは、後の「八幡」太郎義家のことです。弟には、「新羅」三郎(源義光)がいます。源氏の名字に「八幡」や「新羅」をつける意味は何なのでしょうか。
「平野社を以って正と為す。」とは、源氏の氏神の本社は平野社ということです。それは、平野社は、百済系桓武天皇の祖先神を祀る高貴な所だからです。源氏が百済系桓武天皇の先祖神を祀るのは、何故か。それは、源氏も平氏も、基は百済系貴族だからです。その源氏と平氏の貴族達が、下人(武士)として雇った部族が、源氏が新羅の末裔であり、平氏が出自不明(フェニキア・インド軍事部族の末裔)の海洋民族であるわけです。
嵯峨源氏は貴族出であるのに対して、清和源氏は昇殿できる四位のものはほとんどいない、下級の武家源氏であるわけです。つまり、源氏といっても、平安時代では二種類あるわけです。それは、昇殿できる公家源氏と、昇殿できない武家源氏(鎌倉源氏)です。
その昇殿できない武家源氏の清和源氏の氏神が「八幡宮」である、と言う意味はなんなのでしようか。
戦いで勝ち残るための条件のひとつは、兵力と武器です。武器は、最新のハイテク技術で開発されていくわけです。ですから、戦いは、常にテクノロジーの戦いでもあるわけです。 石器武器は、青銅器武器に敗れ、その青銅器武器も鉄器武器に敗れました。槍で武装した軍団は、弓矢で武装した軍団に敗れ、弓矢の武装集団も鉄砲軍団に敗れました。そのように、武器は戦いの勝敗を左右するための重要な要素なのです。ですから、最新式武器は、敵対民族に瞬く間に伝播していくわけです。
武器の伝播は、ひとを介しておこなわれます。ですから、武器の伝播経路を辿れば、軍団の侵攻経路の推測も可能であるわけです。
では、源平の武士集団が発生した時代、世界はどのようなうねりに翻弄されていたのでしょうか。
西暦571年、西アジアでひとりの偉大な男が誕生しました。その名はマホメットです。マホメットは神の啓示を受け、宗教を興すのです。それがイスラム教です。イスラム教は旧約聖書とコーランを信じる宗教です。そのイスラム教は、貴賎に関係なく誰にでも「平等」を説くことにより、戦争による貧困に喘ぐ下層階級の民に瞬く間に広がるわけです。それがサラセン帝国を興すエネルギーとなるわけです。
サラセン帝国は、やがてイスラム帝国となり、ササン朝ペルシャやインドのグプタ朝を飲み込んでしまうわけです。イスラム軍団に敗れたペルシャ軍団やインド軍団は、周辺諸国に敗走するわけです。そして、紀元八世紀には、イスラム帝国は、西は北アフリカから東はインドまでの大帝国に発展するわけです。
紀元八世紀後半、イスラム帝国の膨張に伴い、カスピ海(カザールの海の意味。)周辺で、草原ロード、南海ロードそしてシルクロードにより西(ヨーロッパ)と東(ウィグル・唐・新羅)との国際交易をおこなっていたカザール王国は、東ローマ帝国(キリスト教=旧約聖書+新約聖書)とイスラム帝国(イスラム教=旧約聖書+コーラン)に挟まれてしまうわけです。そこで、カザール王国の民は、生き残るための選択をおこなうわけです。その選択のひとつが、キリスト教でもなくイスラム教でもない、弱小宗教のユダヤ教(旧約聖書+タルムード)に改宗することにより生き残るわけです。しかし、改宗しない者達は、国際交易で得た莫大な財宝と伴に国際交易ロードの彼方に消えてしまうわけです。
紀元十世紀の東アジアに転じると、907年に唐が滅び、そして935年に新羅国が滅んでしまうのです。国が滅ぶ原因は、二つあります。それは、外国からの攻撃と、内側からの崩壊です。その二つの原因の根本は、経済です。国の経済がしっかりしていれば、国内統制も充分におこなうことができるし、武器や軍隊を調える事により外敵を防ぐことも出来ます。
西と東の交易をおこなっていたカザール王国の崩壊は、周辺諸国だけではなく、遠く極東の国々にも大きな影響を与えていたのです。
そのような激動する国際情勢の中に、百済系平安王朝は誕生したのです。
国が崩壊する少し前に、最初に脱出するのは、昔も今も同じです。それらは、権力者、高級軍人、祭祀者、金持ち、そして権力と何らかの関係があるひとたち等です。
奈良時代後半から平安時代初期にかけて、唐からインド高級僧侶達が多数渡来したのは、西アジアの国際情勢を、国際交易商人や諸外国を遊行する僧侶達からの情報で知って、イスラム教軍団がインド侵攻前に、唐に亡命していたからです。(イスラム教がインドで布教開始すると、やがて仏教は消滅し、「ブッダ」はヒンズー教の「ビシュヌ神の化身」になった。インド亡命僧が、日本国にカースト思想を持ち込んだ。インドの神々は七福神に変身して渡来した。)
そして、平安時代になると、新羅国も盛んに使節を送ってきたのは、実際は、朝貢ではなく、新羅国中枢の亡命打診であったのかもしれません。
では、平安貴族の「嵯峨源氏」に雇われた武士達は、何所から来たのでしょうか。
映画の「ラストサムライ」ではありませんが、日本国最後の武士として敗れたのは、明治10年(1877年)の旧薩摩藩でした。薩摩藩は、武士育成のための教育手段として、名門の美少年を「稚児様」として奉り、青少年に武士道の教育や戦の訓練をおこなっていました。
この「稚児様」を中心にした青少年への武士育成のための教育方法は、何所から導入されたのかと言えば、それは新羅です。五世紀の新羅では、「花郎」(ファンラン=弥勒の男=ミトラ神=戦の神)と呼ばれる貴族の美少年を奉じて、騎士道精神を教育し、青年武士団を形成していたのです。
薩摩藩の島津氏(鎌倉時代に改名)は、平安時代では惟宗氏を名乗り、五世紀に、新羅から渡来した秦氏を先祖としていたのです。ですから、新羅の文化は、秦氏をとおして、日本列島(「日本国」の表号は、七世紀から始まる。それ以前は、魏国から倭国と言われていた。)にもたらされていたのです。
日本国の中枢は、平安時代に、藤原氏の陰謀により、百済の亡命政権に乗っ取られてしまったため、敵国新羅の末裔による日本国における事績(新羅・秦氏の末裔の居住地名をニッポン語化してしまった。例えば、「トルファン」は諏訪。「ムクラ」は武蔵。「ジュジ」は住吉など。それらの旧地名は、騎馬民族の故郷の北東ユーラシアでの地名です。)を抹殺してしまったため、日本の武士道のルーツも全く分らなくなっていたのです。
百済(ペクチェ)は、西暦346年、北方ツングースから渡来した夫余や高句麗の末裔と、南海ルートからの渡来民族により建国されたようです。
それに対して、新羅(シルラ・シンラ)は、西暦356年、二つの異民族により建国されたようです。それは、天孫(征服族)三姓の朴(パク)、昔(ソク)、金(キム)と、六土姓(先住民)の李(イー)、崔(チュー)、孫(ソン)、鄭(チョン)、裴(ぺ)、薛(ソル)です。つまり、新羅は、日本国と同じに、天孫族による、先住民に対する征服王朝だったのです。
では、新羅国の、日本の武士道のルーツとなった騎士道精神は、どこからもたらされたのでしょうか。
新羅の王都慶州(キョンジュ)の155号古墳から、天馬の絵が発見されました。その天馬は、騎馬民族スキタイでは、ペガサスと呼ばれ、騎馬民族の族長クラスの馬につけられた名称です。つまり、新羅国の天孫族は、高句麗や夫余のツングース(東胡=トコ=常=常陸=ツングース族の渡来地。)とは異なり、スキタイ・シベリア系の騎馬民族であったのです。
紀元前六世紀、スキタイ(騎馬部族連合国)はペルシャ(騎馬部族複合国)と何度も戦をおこなっていたので、ペルシャの騎士道精神が、スキタイに受け継がれていたのでしょう。
日本の武士による、戦いにおける「名乗り」と「一騎打ち」は、ペルシャ騎士道の真似です。ペルシャの軍隊は、傭兵で構成されていたので、戦いに敗れると、国王は莫大な借金を背負い込むことになるのです。そこで考え出されたのが、全軍激突ではなく、一騎同士による戦いです。これならば、万が一敗れたとしても、負債は最小限にとどまります。
日本の武士道の発生ルート(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅)は分りましたが、では、嵯峨源氏の武士達はどのようにして渡来したのでしょうか。
子沢山の嵯峨天皇は、源氏姓の基です。つまり、嵯峨源氏が、全ての源氏姓の基締めであるわけです。天長八年(831年)、嵯峨源氏が初めて公卿になっても、天暦五年(951年)源等の死により、嵯峨源氏は政界の表舞台から姿が消えてしまうのです。
藤原氏の傀儡政権の百済系光仁天皇、桓武天皇、平城天皇までは、藤原氏のコントロールもよく効いていたようです。しかし、四代目の嵯峨天皇になると、人情も三代過ぎれば何とやら、の譬えのように、反体制側の秦氏の末裔の「空海」を都に呼び親しく交わるなど、桓武天皇時代ではありえないこともおこなわれたのです。ちなみに、桓武天皇は、百済の末裔の「最澄」(架空人物・「聖徳太子」の宣伝隊長。)を寵愛し、比叡山延暦寺を建立するわけです。
嵯峨天皇の、藤原氏を無視する行動に対して、藤原氏は、奈良の興福寺(710年藤原不比等が名付け親。)を拠点として、反撃に転じるわけです。それに対して、百済系比叡山延暦寺も対峙するわけです。
都では、延暦寺の僧兵と、興福寺の僧兵との諍いもよくあったようです。更に、延暦寺側(清水坂)と興福寺側(奈良坂)との、清目(穢れである怨霊を清める重役。しかし、鎌倉時代になると現物の汚れ物の清掃業務となる。古来、「モノ」とは、祟りと守護を兼ね備えた精霊であった。その思想も、仏教伝来により消滅。)のナワバリを廻っての争いも、頻繁にあったようです。
藤原氏の反撃は巧妙です。それは、藤原氏は、陰に隠れ決して攻撃の前面には出てこないからです。(イジメの原点)しかし、藤原氏の異民族支配のための基本戦略を知ってしまえば、その行動を予測する事が可能です。その基本戦略は三つです。それらは、「夷を以って、夷を制す。」「分断して、統治せよ。」「敵の敵は、味方。」です。
藤原氏は、天皇の反乱には、藤原の女を使い、摂政関白のシステムでコントロールすることができても、竹取物語(藤原不比等をコケにした物語)のセリフではありませんが、きたなき都の京で起こる多くの不吉な事件は別です。平安時代では、怨霊の祟りは、清目の武芸者により護ることしかできなかったのです。
そこで、朝廷や貴族達は、近辺護衛のため「清目の武芸者」を募るのです。それが、桓武平氏のライバル、嵯峨源氏の末裔の源綱です。(夷を以って、夷を制す。)源綱は、やがて渡邊綱と名乗り、清目として渡邊党を興すのです。渡辺綱は、清目の大将らしく、怨霊が具現した羅生門の「鬼」退治の伝説に登場するのです。でも、その鬼は、首を斬られるのではなく、腕を斬られ、後ほど、鬼が取り返すストーリーは、同族(清目)が同族(鬼)を退治するからでしょう。本当に、鬼を抹殺したいのならば、腕ではなく、首を落していたでしょう。(ペルシャの腰刀や日本刀の小刀は、敵の首を落すための武器です。ペルシャの騎士も日本の武士も首切りの伝統があったのです。21世紀のイラクでは、現在でもおこなわれているようです。)
名前は、「氏=血族」→「姓=階級」→「字名=地名」→「名字=個人名」と、時代と伴に変化したようです。
そこで、源綱が渡辺綱になったということは、「綱」が「渡辺」という地域に居住したということになるわけです。では、その渡辺の意味は何なのでしょうか。そのヒントは、渡辺党の組織は、松浦党の組織により構成されていたということです。
では、その松浦党とは、何なのでしょうか。その源は、北九州です。魏志倭人伝に出てくる末慮国が、松浦の元です。
松浦党は、海洋軍事部族(河川での船の運航には馬を使役。騎馬部族も構成員として存在。)です。松浦党の基本的考えは、「はじめてのものは後来者をこばまず、後来者は先住者をおしのけず。」との、渡来異部族との共存共栄関係樹立です。その考えにより、連判状の記銘順序も、部族の優劣に関係なく、くじ引きで決めるほどです。
松浦源氏においては、ギリシャ民主制のように、権力者(棟梁)への忠誠規定のない合議制の掟が支配していたようです。これは、藤原氏の支配体制とは全く異なる政治形態です。明治初期まで十三代続く、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門家も、世襲ではなく、頭は、各国組織の推挙による合議制で決められていたのです。
でも、松浦党は色々な渡来部族の連合体であるため、党内の争いを避けるため、「松浦党掟」を定めていました。それが、やがて武士道の心得の基に成っていったようです。
漢字は、それ自体イメージを内蔵しているため、その扱いにより、色々なトリックを考え出せるのです。ですから、王権側が、或は、自らが出自を隠すため、出身地名をある意味を持った「字」に置き換える場合もあるわけです。例えば、鮮卑(魏)=筑紫(ジュジ)=住吉(ジュジ)。匈奴=胸(ムネ)=宗像など。名前では、新羅国の貴族が日本国に渡来すると、朴=パク=ハク=シロ(日本名:白○、志○)、昔=ソク=セキ(日本名:関○)、金=キム=カネ(日本名:金○)に変身するわけです。
松浦は、「マズラ」、或はマがメに変化して、「メズラ」とも読めるわけです。そのメズラ地域を拠点に、日本地図をズームアウトすると、朝鮮南端の島、珍島が視野に入るでしょう。珍島は、チントウではなく、「メズラ」島であるわけです。玄海灘の対馬を挟んで、「メズラ」が対峙しているのです。何故でしょうか。
紀元32年、高句麗(コクリョ)が漢に入貢し、王と称し、そして、紀元ニ世紀に、朝鮮半島を南下するまでは、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏であったのです。
それは、紀元前四世紀、海洋民族「越」に敗れた海洋民族「呉」の末裔が、黒潮に乗り北上し、対馬で西と東に分かれて上陸した所が、朝鮮半島南端と北九州であったからです。呉の末裔はそれぞれの地域に土着し、漢民族により、倭族(イゾク)と呼ばれていたのです。潮目が読める海洋民族には、玄界灘は庭先のようなものです。朝鮮半島南端と北九州では、倭族が頻繁に行き来していたことでしょう。
やがて、紀元四世紀、高句麗、百済、新羅の三国により、朝鮮半島での三つ巴の戦いにより、朝鮮半島南端の倭族は、同朋のいる北九州に押し出されてしまうわけです。追い出された倭族は、航海技術を利用して、半島と交易を始めるわけです。
北九州は、中国大陸から見れば、日本列島の玄関です。つまり、中国大陸の色々な民族、文化が訪れる最初の地であるわけです。と言うことは、京都より、北九州の方が、文化がより進んでいることになるわけです。
その北九州の地に、紀元五世紀、秦一族が新羅国より渡来するわけです。そこで興したのが「秦王国」です。
秦一族の渡来は、446年の北魏の廃仏令(主な原因は、戒律の乱れと現世利益の道教の隆盛。)による、200万人とも言われる仏教僧の追放が原因のひとつかもしれません。
秦氏の神は、仏ではありません。しかし、秦王国には、寺がびっしりと建立していたのです。それは、秦氏は、北魏で、鍛冶技術を駆使して、仏像の制作販売をしていたのかもしれません。秦氏は、仏像販売のための新市場開拓のために、仏教僧と伴に渡来したのかもしれません。
仏寺建造物は、クギを極力使用しない、組み立て式が多いようです。それは、移動に都合がいいからです。北魏で解体された仏寺や仏像は、倭族の船で玄海灘を渡り、秦王国に移築・移動されたことでしょう。
では、秦氏は、どのような神を祀っていたのでしょうか。それは、八幡の神です。では、その八幡神はどのような性格の神かと言えば、それは、鍛冶神です。
秦氏の神山は、香春岳です。その香春岳には、古い採銅所があります。香春とは、カル、つまり銅のことです。機織りで知られる秦氏には、鍛冶技術もあったのです。渡来する前は、加羅で鉱山の開発をおこなっていたのです。
鍛冶には、燃料としての大量の樹木が必要です。ですから、鍛治民族は、燃料を求めて常に大移動する運命にあるわけです。鍛治民族ヒッタイトの滅亡の原因のひとつは、燃料の多量消費のため、緑の山が禿山になって、鍛治に必要な薪が枯渇したからだと言われています。日本では鍛冶は、別名「タタラ」とも言われ、それは、中央アジアの「タタール」が語源とも言われています。
鍛冶は、火と風と水と金属をコントロールする秘術であり、神のチカラを必要とするため、神と交流するシャーマンの業でもあるわけです。そして、火をコントロールするのは鳥(火の鳥)であると考えられていたので、秦氏は、その鳥のシンボルを「鷹」としたのです。「鷹」は、「高」の字に置き換えられ、鉱脈が探索できるように「高」のつく山に、秦氏の神を祀ったわけです。例えば、高尾山、高巣山、高取山などです。
秦氏の神は、魔多羅神と言われています。新羅の花郎は、弥勒の男と言われています。弥勒の神は、山中の洞窟に潜んでいると信じられていました。そこで、弥勒の神に出会うため、花郎は、山岳修行するわけです。修行のため、山に篭るとは、弥勒の神との出会いを求めることです。
魔多羅神は、鍛治神でもあるわけですから、鉱脈探しのために、山の穴に祀られることもあるわけです。やがて、鉱脈探索の穴は、弥勒の神の住む穴にもなるわけです。ここに、魔多羅神と弥勒の神が出会うわけです。でも、その二神は、元々は同じ神であったのです。それは、ミトラ神です。
ミトラ神は、東の山から再生すると信じられていたのです。そのミトラ神とは、太陽神だったからです。西の山に死んだ(沈んだ)太陽は、次の日、再び東の山から再生するわけです。死と再生を繰り返す、太陽神(ミトラ神)は、死を賭して戦う、武士には、心の支えとしてなくてはならない神であったのです。その神を祀るのが、新羅から渡来した八幡の社であるわけです。
源義家が八幡太郎義家、そして、源義光が新羅三郎と自ら名乗るのは、八幡の神は新羅から渡来し、そして、源氏の武芸者も新羅から渡来したからです。

神輿の黙示録(6)(鎌倉源氏の没落:何故三代で滅亡したのか)


日本刀は、「武士の魂」と言われているようです。しかし、「日本刀」は、明治時代に発明された言葉なのです。明治以前までは、直刀は「剣」(つるぎ)で、反りのある片刀は「太刀」(たち)と呼ばれていたようです。
源平時代の実戦主武器は、弓、薙刀、槍です。時代が下がって、戦国時代の実戦主武器は、鉄砲です。歴史上実戦闘では、首切り用以外は、太刀はあまり武器として使用されていなかったようです。それは、すぐ刃こぼれしたり、曲がったり、折れたりしたからのようです。
永禄8年(1565年)、十三代足利義輝が、松永久秀の謀反にあい、刀が折れたり曲がったりするから、名刀を何振りもとりだして応戦したことは有名な話です。いや違う、刀は実戦に使われていた証拠として、剣豪宮本武蔵は、多数の敵に対して、二刀流で応戦したではないか、と言っても、宮本武蔵は、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」との合成人物であったのです。
では、実戦で主武器として使用されない反り刃の太刀が、何故に「武士の魂」なのでしょうか。
奈良時代から平安中期頃までに、刀は直刀から湾刀へ変化したようです。つまり、清目の武士達が登場した時期と同じ頃です。この時代の刀匠として、現在のところ、在銘最古は、伯耆国(島根県)の安綱です。安綱の作品としては、清目の大将渡辺綱が羅生門で鬼の腕を切ったと言われている、「鬼切丸」があります。
刀の学術書によれば、反りの発明は、徒歩戦から、馬上戦へと戦い方が変化したからだと説明されているようです。だとしたら、騎馬民族の蝦夷との戦いで、坂上田村麻呂は、何故に反り刀を使用しなかったのでしょうか。ちなみに、坂上田村麻呂は、自称、漢帝国の末裔と称していました。
どうも、反り刀(日本刀)は、実戦の武器として発明されたものではないようです。では何かと言えば、それは、怨霊との戦い(清目)で、武士の「魂を護る」ための武器であったようです。
平安時代は、源氏物語などによる平安文学の華麗な世界とは異なり、実際は、亡命インド僧達がもたらした魑魅魍魎のバラモン的世界観により、穢れや地獄などのオカルト世界に貴族達は埋没し、藤原氏の陰謀により呪殺されたひとたちの怨霊が渦巻く、おどろおどろしい時代であったようです。 平安の都で、穢れや怨霊退散の祈祷が流行るということは、その需要があるということです。そこで登場したのが清目の武士です。武士による清目とは、「武芸」による「祈祷」でもあるわけです。その祈祷のパフォーマンスに使用されたのが、反り刀(日本刀)であったのです。そして、その清目の儀式の衣装として発明されたのが、豪華絢爛な鎧兜であったのです。その根拠として、この時代に、鎧は、錆びやすく重い鉄製(40kg〜70Kg)から、軽い漆塗りの総皮製に変化しているからです。(鉄砲が渡来してから、鎧は再び鉄製に戻った。)
その武芸者の嵯峨源氏が、天暦五年(951年)に源等の死と伴に、政界の表舞台から消えてしまい、それに替わり、武家の清和源氏が登場するのは何故でしょうか。
嵯峨源氏と清和源氏とは、同じ源氏でも、名前が一字と二字の違いからも分るように、身分が異なります。国風化までは、漢風の一字名の方が、二字名よりも挌上だったのです。
清和源氏の政界登場は、安和ニ年(969年)の安和の変からです。
安和の変とは、藤原師尹(もろただ)による陰謀です。藤原師尹は、村上天皇の次の皇位をめぐって、醍醐天皇の皇子左大臣源高明を貶めるために、源満仲(清和源氏)に「源高明が皇太子守平親王の廃位を図っている。」と密告させるのです。(藤原氏の第三者を使う手立ては道鏡事件とそっくりです。)それにより、藤原氏の有力敵は全て抹殺され、他氏族との権力闘争が終わりを告げ、これより後、摂政・関白を藤原氏が独占するわけです。そして、この手柄により、清和源氏の政界での基礎固めが確立するわけです。
清和源氏は、藤原氏と結び、武士として東国での地位を不動のものにするわけです。しかし、実際には、清和源氏は、清目としてではなく、藤原氏の手先としての軍事部族として利用されていくわけです。
そして、鎌倉源氏(清和源氏)の滅亡から、清目の内容が変化していく訳は何故でしょうか。
鎌倉時代以降、武家の基は清和源氏となっているようです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。万世一系の天皇家の系図も、四歳年下の第三十八代天智天皇が第四十代天武天皇の兄となっていることからも分るように、不確かなものなのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、安和の変で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
その頃、京の都は、平将門の乱(承平5年・935年)と藤原純友の乱(天慶2年・939年)の後遺症により、平将門の手下が京に侵攻してくるとの噂で、大混乱していた時代なのです。
目を外国に転じると、935年平将門の乱が起こった時、935年新羅国は高麗により滅ぼされていたのです。日本国の争乱は、朝鮮半島の争乱と連動していたようです。
そのような都の争乱に、藤原氏の一族は何をしていたのかと言えば、文芸に励んでいたのです。藤原氏の一族は、佐藤(左兵衛府の藤原氏)、首藤(主馬寮の首の藤原氏)、近藤(近江の藤原氏)、尾藤(尾張の藤原氏)などが存在していたのですが、貴種は武人になりえず、の格言どうり、朝廷サロンで美女を相手に歌などを詠んでいたわけです。
優れた軍人になるには、幼年の頃から軍事訓練を行なわなければ、騎馬弓射などの高等軍事技術を習得できないわけです。ですから、京の都では、氏素性など問題にせず、軍事技術のある武士は、就職の口はいくらでもあったわけです。
戦国時代、何故、尾張国の部将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が、数多ある戦国部将の中から頭角を現わしたのでしょうか。知力があったから、或は運が良かったからでしょうか。それは、海外との貿易港として、尾張国には桑名港があったからです。
戦闘は、兵力と武器との差により、勝敗が決まると言っても過言ではありません。つまり、武器弾薬、兵力の補充がより充実している軍団が、戦いの勝利者となるわけです。
織田信長は、イエズス会と組んで、鉄砲や弾薬の調達を行なっていました。更に、軍事顧問として、ジョバンニ・ロルテス(イタリア人。日本名山科羅久左衛門勝成。イエズス会宣教師オルガンティーノと伴に来日。聖ヨハネ騎士団に所属。キリシタン大名蒲生氏郷に砲術師として召抱えられる。蒲生氏郷没後日本国を去る。)を配下に置いていたのです。徳川家康は、ヤン・ヨーステン(1600年渡来。オランダ人。国際航海家。東京駅八重洲の名の基)を顧問として雇っていたのです。日本列島における戦は、飛鳥時代の古より、外国の軍事力の影響下にあったのです。実は、明治維新も水面下では、イギリス東インド会社(薩長官軍)とフランス東インド会社(幕府軍)との戦いだったのです。
そして、その戦国部将の出自は、三人とも不詳です。特に、自称平氏の豊臣秀吉は、いつ何所で生まれたのかも、分りません。自称平氏の織田信長は、先祖が神官だそうですが、四代先が分りません。ですから、武功を立てても、自称源氏の徳川家康(慶長八年・1603年)以外は、征夷大将軍にはなれなかったのです。
では、平安時代の「桑名港」はどこかといえば、それは、摂津国の浪速(難波)です。浪速(難波)は、飛鳥時代、西域から鍛治技術、灌漑技術、都市建設技術、土木技術などをもたらした秦氏により開拓された土地です。浪速は古くから、楼蘭(ロウラン)→楽浪(ロウラン)→筑紫(ジュジ)→浪速(ロウラン)→住吉(ジュジ)の国際交易ルートとして栄えていたのです。その、浪速(難波)の国際港がある摂津国の鍛治・産鉄部族が多く暮す多田荘(多田党はタタール族の末裔か?)から、49歳の源満仲が現われたのです。
平安時代の東アジアは、日本国の戦国時代のように、正に異民族が入り乱れた動乱の真っ只中であったようです。
907年の唐帝国の崩壊→916年の遼(契丹)の建国→960年宋の建国。935年新羅の滅亡→936年高麗の建国。目まぐるしく変わる王権。それに伴う臣民の離散と集合。そのような動乱期に、真っ先に国外逃亡するのが王族、貴族、金持ち、高級軍人など、国を支えていた支配層達です。そして、いつの時代でも、下層階級は、抹殺されるか、奴隷になるかの選択肢しか残されていないようです。
そのような時代に、五代十国の呉越国の天台山(中国本社)に、比叡山延暦寺(日本支社)の僧日延は、呉越国の国際交易商人蒋承勲(しょうしょうくん)の国際貿易船に乗って、呉越国と難波を往き来していたのです。
ちなみに、比叡山延暦寺は、百済系桓武天皇が最澄(日本国天台宗の祖・支社長)のために建立した寺です。
その流れから、比叡山延暦寺僧侶の法薬禅師が現われるのです。法薬禅師は、宋国の国際交易商人から大宰府役人への賄賂の融資を受けて、大山寺を北九州の借上活動(金融営業)の拠点としたのです。そして、宋の国際交易商人は神人(寺の奉仕人。本来は、神社の氏子。神仏混交により寺の使用人となる。)として活躍したのです。
平安時代から鎌倉時代に、比叡山延暦寺が日本国最大の金融業者となったのは、宋国との貿易活動と国際交易港がある北九州での金融業による荒稼ぎによるわけです。
主な輸出品は「真珠、水銀、硫黄、鷲の羽」です。輸入品は唐物の装飾雑貨類や羊やクジャクなどの珍しい動物です。その貿易の決済に使われたのが、陸奥国の金です。そのために、桓武天皇から始まる東北経営とは、蝦夷討伐を名目に、漢帝国の末裔の坂上田村麻呂などの傭兵軍を使役して、陸奥国の金の簒奪のことだったのです。その豊富な財産を保持した百済系延暦寺は、僧兵を組織して、興福寺と春日社を経営する藤原王朝と対峙するわけです。
藤原氏は、武家源氏の軍事武力を背景に、摂政関白システムを駆使して、京の都でやりたい放題を行なっていたのです。それは、藤原道長の、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」、の歌が示しています。でも、藤原氏の栄華は道長が頂点でした。
それに対して、百済系後三条天皇が、藤原氏の摂政関白システムを排斥する、「院政」で対抗するわけです。その院政のシステムとは、天皇を社長と譬えれば、天皇が引退して、代表権のある名誉会長に就任し、皇太子を代表権のない社長にすることです。これにより、名誉会長は、社長をコントロールする藤原氏の呪縛から解放されるわけです。そして、その後三条天皇の院政システムは、白河天皇により完成するわけです。
しかし、白河天皇が、父後三条天皇から冷遇されたことが、後に、清和源氏に不幸を呼ぶのです。
後三条天皇の即位は、冷泉系王族に対して奉仕を忘れなかった武家の清和源氏に、好期をもたらすのです。それは、清和源氏の氏神である岩清水八幡宮の放生会に、後三条天皇が勅使を派遣したことにより、その氏寺が国家的地位を獲得したからです。そのことにより、源頼義、義家(八幡太郎)親子は、王権に奉仕する最大の軍事貴族としての地位を獲得したのです。
前九年の役(1051年)での勝利に対して、源頼義は、後三条天皇から褒賞を賜ったものが、後三年の役(1083年)では反後三条天皇の白河天皇により「私戦」と断定され、何の恩賞も受けることができなかったのです。しかし、その戦いで活躍した源義家の声望は全国に高まって行ったのです。
父後三条天皇に冷遇された白河天皇は、清和源氏に対抗する軍事部族を招聘するのです。それが、伊勢に根拠をもつ平正盛です。
伊勢の地は、古より、壬生水銀の国際交易港として栄えた所です。壬申の乱(672年)では、赤旗を掲げた海洋民族の外物部(高句麗・ツングース族と倭族の末裔)の軍事部族が、天武天皇軍として、百済系近江王朝に向けて出陣した所です。
出自不明の平正盛は、水銀の国際交易で稼いだ私財を武器に、白河天皇の愛娘の菩提を弔う六条院御堂に伊賀国の土地を寄進して、白河天皇に取り入って、平家栄華の道を拓いたのです。
更に、平正盛と忠盛親子は、白河天皇の「不義」の世界を主催する愛妾祇園女御にも取り入り、その院近臣としての地位を確立したのです。そして、平忠盛は、白河天皇の胤を宿した祇園女御を娶り、その妻が平清盛を産むわけです。このことにより、栄華を誇った源義家は、武家の棟梁の座から滑り落ちるわけです。
やがて、天皇家の内紛により、貴族の世界から、武家の世界になっていくわけです。それが保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)です。
保元の乱とは、後白河天皇方が平清盛・源義朝×鳥羽院方が源為義・源為朝・平忠正の戦いで、院方が敗れるわけです。
平治の乱とは、藤原信頼・源義朝×平清盛の戦いで、平清盛が勝利するわけです。これにより、武家平家の天下が約束されたわけです。この戦いにより、源義朝は殺害され、その子息の源頼朝は、伊豆に配流されるわけです。ここから鎌倉源氏が誕生するのです。
武家源氏は、新羅の末裔で構成されていたようです。では、武家平家とは何者なのでしょうか。武家平家の異質性は、宗教に対する態度に表れています。
白河天皇が、どうにもならないものとして、「加茂川の水(洪水)、サイコロ(賭博)、神輿・神木を担いだ僧兵の強訴」を挙げていたのに、1147年(久安3年)祇園会において、祇園社所司と平忠盛との争いに介入した、父平清盛は、所司を傷つけ、氏神様の乗り物である神輿に矢をつきたてたのです。更に、1172年(承安2年)平重盛が、伊賀国住人(平家の土地)と春日社の神人とが争った時、興福寺の僧徒が春日の神木を奉じて、伊賀国の住人の処罰を要求した時、これを武力で阻止したのです。更に、1183年(寿永2年)平重衡が、武家源氏の氏神を祀る八幡神社と関係が深い東大寺に放火して延焼させてしまうのです。
これらの神仏に対する態度から推測すると、武家平家には日本人のこころが宿っていないようです。これらのことが、武家平家は、インド傭兵軍の末裔といわれる所以です。それは、京の都の寺に鎮座している仏像の多くは、インドではバラモンの外道の神々であるからです。だから、それらの仏像や寺を蔑視し、崇拝の対象とはみなしてはいなかったのでしょう。
武家平家の国際性は、1173年の摂津兵庫島の築湾に現われています。平清盛は、平安時代の鎖国政策を無視して、宋国と貿易を行い、財貨を溜め込んでいたのです。その福原の港には、定期的に宋国の貿易船が入港していたのです。宋船が福原に入港の時、平清盛は後白河天皇を福原山荘に招いて、宋国の貿易商人を引き合わせていました。この掟破りは「天魔の所行」と言われていました。
平安京の神仏を崇拝しない平清盛も、瀬戸内海海賊が崇拝する海の神を祀る祠を大改造して、1168年安芸厳島神社を造営しています。それは、朱色のベンガラ染め(インドのベンガル地方から産出される赤色の染料。)にされた厳島神社は、従来の神社のコンセプトから全く外れた発想の建築物のようです。
やがて、1180年(治承4年)源頼朝が挙兵し、それが源平合戦の始まりと言われているのですが、腑に落ちないことがあります。それは、源氏軍に多くの平氏が参加しているからです。
そして、1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開くのですが、1219年には源実朝が公曉に暗殺され、三代で鎌倉源氏は、身内の平氏の北条氏により滅ぼされてしまうのです。
更に腑に落ちない事は、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、秦氏の末裔、惟宗氏を藤原氏が経営していた薩摩国島津荘の地頭職安堵とし、「島津氏」を名乗らせ、そして穢多頭の弾左衛門頼兼には、石橋山の合戦で破れた源頼朝を救ったお礼として、「長吏」としての御墨付きを与えたことになっているのです。惟宗氏も弾左衛門頼兼も、摂津国出身です。そして、清和源氏の祖の源満仲も摂津国の出身です。
この鎌倉初期(鎌倉源氏滅亡後)が、日本国における民族的差別の発生の原点のようです。つまり、百済系日本人と新羅系日本人とのいがみ合いの発生です。その発生地は近畿の摂津国です。
663年に百済国が滅ぶと、亡命貴族が多数日本列島に渡来したのと同じように、935年新羅国が滅ぶと、多数の亡命貴族が同族である秦氏の末裔が暮している摂津国に渡来するわけです。
藤原氏は、源頼朝に平泉藤原氏を滅ぼされ、九州の藤原氏が経営する荘園を惟宗氏に与えたことにより、没落の一途に陥るわけです。しかし、本家の藤原氏は、島津氏と藤原氏得意の「乗っ取り戦術」である婚姻関係を作ることにより、百済系天皇を裏でコントロールしていたのと同じに、島津氏を裏でコントロールして生き残るわけです。それは、やがて明治維新へと繋がっていくわけです。
藤原氏は、新羅系天武天皇から、先祖藤原不比等が左遷させられた恨みから、新羅系日本人に対して良い感情を持っていなかったのでしょう。
藤原氏は、新羅系最後の第四十八代女帝称徳天皇が崩御すると、亡命百済貴族の光仁天皇を謀略で擁立したのです。そして、天皇家をコントロールするシステムとして、藤原氏と亡命百済貴族とで「公家組織」をつくるわけです。
更に、奈良の興福寺と春日社を経営することにより、宗教界も謀略の手先としてコントロールするわけです。
鎌倉時代初期、そのような謀略家の藤原氏により、百済系天皇を手先として、バラモン教思想の「穢れ」思想を武器として、新羅系日本人は賎民に落されていくわけです。
時代を少し遡って、摂津国の亡命新羅人を武家源氏として藤原氏が雇ったのは、百済系天皇が独自の武装集団を組織したからでしょう。そのひとつが、出自不明の平正盛の海洋軍事組織であるわけです。
嵯峨源氏と桓武平氏は、れっきとした天皇家の臣籍です。しかし、武家源氏と武家平氏は、唯の軍事傭兵団にすぎないわけです。つまり、天皇家の臣籍ではありません。
その天皇も凌ぐ軍事勢力となった武家平家を滅ぼす手段として、新羅亡命貴族による武家源氏であったのでしょう。つまり、藤原氏の基本戦略、「夷を以って、夷を制す。」です。ですから、1185年に壇ノ浦で平氏が滅ぶと、藤原氏にとって、鎌倉源氏は最早用はない存在であったのです。

神輿の黙示録(7)(貴族仏教の退廃と芸能民の黎明)


大乗仏教は、平安時代、敵対する道教徒や景教徒などの非仏教徒達を貶めるために、数々の妖怪を創作しました。そして、それらの信徒を仏教徒がコントロールするために、インドのバラモン教思想の「地獄世界」を布教しました。地獄とは、サンスクリット語やパーリ語の「ナラカ=奈落」を漢訳した言葉です。それは、地下の牢獄を意味し、仏教の教えに逆らう悪人が死後に落ちて苦しみを受けるところです。仏教渡来前には、地獄思想など、日本列島土着宗教にはなかったものなのです。
平安王朝は、そのように外来の仏教思想を道具として、敵対する道教や景教などの宗教組織を次々に壊滅して行ったのです。更に、まつろわぬ部族に対しては、侮蔑の物語を創作したり、蔑称をつけたりして、それらのことを仏教徒に布教させることにより、常民(主に農耕部族)から隔離させていったのです。
カッパは元々は、道教の水の神様でした。しかし、王権により、相撲好きの間抜けな妖怪に貶められてしまったのです。では、氏神の祭りに登場する助平で間抜けな「ヒョットコ」とブスの代名詞の「オカメ」の正体は何でしょうか。
産鉄・鍛治部族は、王権が最も警戒する部族です。それは、戦いの道具である武器を造ることができるからです。ですから、それらのまつろわぬ部族は、王権から真っ先に壊滅される運命にあるわけです。
祭りで神輿を担ぐ氏子達を調子者と言うそうです。延暦寺や興福寺の僧兵が、無理難題を朝廷に強訴する時、怨霊(体制側に対しての怨霊=被征服民族の氏神様)を封じ込めた神輿を手荒く担ぎそこらあたりを破壊活動する様に、氏子が年に一度の祭りだからと、日頃の鬱憤を祓うために調子に乗って(神輿を担いで)、破目をはずすと、その祭りの後に、その氏子達に王権から「調子に乗りやがって」、とキツイしっぺ返しが待っているのです。
神輿同士の喧嘩は、王権の望むところです。「夷を以って、夷を制す。」ことができるからです。祭りの喧嘩は、王権にとって年に一度の「ガス抜き」でもあるわけです。祭りの後の氏子は、元の被征服民族の立場に戻らなくてはならないのです。祭りの後の侘しさは、そのような歴史があるからでしょう。
「ヒョットコ」とは、「火男」のことで、産鉄部族の男の意味です。「オカメ」とは、産鉄部族の神様の「宇賀神」に奉仕する巫女(ウカメ)のことです。これが、氏神を祀る被征服民族の年に一度の神社のお祭りに登場する、オカメのホトを狙う助平なヒョットコ踊りの舞台裏です。
更に、王権は、産鉄部族を貶めるために、安来節の間抜け男(出雲国の八幡神を祀る産鉄・鍛治部族の末裔。日本書紀で「八俣オロチ」として貶められる。王権に追われ、北関東に逃れ氷川神社を祀る。)を創作するのです。安来節とは、「ドジョウすくい」とも言われています。一般人に認識されているのは、川魚のどじょうを捕る動作の間抜け踊りとされているようです。しかし、本当は、「ドジョウすくい」の「ドジョウ」とは、土壌の意味で、「ドジョウすくい」とは、「タタラ」のために川砂鉄を採取することなのです。
古来から伝聞されている物語や言伝えも、よく考えてみると、可笑しなことが多々在ることがわかります。そのひとつに、平家落ち武者部落伝説があります。一般的常識では、源平合戦の壇ノ浦で敗れた平家は、源氏の追討を逃れて山深く分け入り、そこに部落を造った、ということです。
しかし、よく考えてみれば分ることですが、海洋民族が、どうして山深く逃げ込まなければならないのでしょうか。普通、海洋民族の逃亡ルートは、山ではなく、海上です。たとえ、山奥に逃亡できたとしても、日々の糧はどのようにして得るのでしょうか。食性は、短期間に替えることはできないし、魚を捕るように、野山の動物を獲ることは簡単にはできません。
では、源平合戦後、山奥に逃れた武士達は、平家でないのならば、一体誰なのでしょうか。そのヒントは、氏神を祀る社にあります。桓武平氏であるならば、それは平野社(百済系桓武天皇の祖先神を祀る社。公家源氏も桓武平氏も同じ百済系臣籍。)でしょう。武家平氏であるならば、厳島神社系列の「海の神」を祀る社となるでしょう。
では、日本全国に存在する平家落ち武者部落には、それらの「海の神」を祀る社があるのでしょうか。それらの山里でよく見かける社は、八幡様か稲荷様が圧倒的でしょう。しかし、平家部落にそれらの神様を祀る根拠は、可能性としては無いでしょう。何故ならば、それらの神様は、元々は新羅国から秦氏により、日本列島に持ち込まれた神様だからです。つまり、それらの神様は、武家源氏の神様であるわけです。
八幡は、「ハチマン」ではなく、「ヤハタ=秦氏が栄える」です。そして、稲荷は、稲の神様ではなく、秦氏の祖先を祀る「塚→ツカ→ジュガ=稲荷」が、王権にとって、その神様は「夷なり=蛮族の神=イナリ」となるわけです。
では、何故に、鎌倉幕府を拓いた武家源氏(鎌倉源氏)の末裔が、山に追われなければならなかったのでしょうか。
それは、文覚=北面の武士(摂関システムにより天皇をコントロールする藤原氏の影響力排除のため、白河上皇により院中に創設された親衛隊。上皇の身辺警備、及び都の治安維持が任務。)であった遠藤盛遠という真言宗の修験僧の謀略によるのです。文覚は、後白河天皇の逆鱗に触れ、伊豆(イズ=夷が棲む処)に配流されていたのです。それは、後白河天皇は、平清盛の武力を背景に、朝廷を牛耳る藤原氏の勢力を都から排除しようと企てていたからです。その結果、我が世の春を詠った藤原氏も、都から追われ、一方は陸奥国の俘囚清原氏を取り込み、奥州藤原氏となり、もう一方は、南九州の薩摩国に隠棲するわけです。そしてこの藤原氏が、約六百年後、薩摩の島津氏を手先として明治維新を企画し、王政復興の号令の元、明治天皇をコントロールする近衛家として復活するわけです。
伊豆の文覚は、蛭ヶ小島という狩野川の中州(賎民の棲む処)に、前右兵衛佐・源頼朝の存在を知るのです。そこで、文覚は、後白河天皇を追い落とす前提として、武家平氏壊滅のため、平治の乱で北関東に敗走した武家源氏の蜂起を促すアジテーションをおこなうのです。そのために、源氏の頭として、源頼朝を担ぎ出したのです。
しかし、源頼朝は、軍事には疎い男でした。でも、その男を担ぎ出さなければ、関東一帯に先住していた物部氏の末裔の平氏の北条氏や平氏の千葉氏などの海洋民族の末裔では、武力に勝るインド傭兵団の武家平氏には対抗できないのです。都の武家平氏を打倒するには、武家源氏の騎馬軍団がどうしても必要だったのです。
源頼朝は、初めから軍事的に当てにされない存在だったようです。鎌倉源氏の初陣は、伊豆の代官山木兼隆を討ったことです。しかし、実際は、源頼朝は参戦せず、妻の父北条時政親子など身内数十名の殴りこみであったのです。つまり、源氏挙兵とは、文覚の脚本を基に、北条時政が演じたものであったのです。次の戦いの石橋山では、にわか軍団の北条軍団は、伊東祐親と大庭景親の軍勢に大敗を帰してしまうのです。しかし、源頼朝は、鎌倉党の一族の梶原景時の目こぼしにより(この時、弾左衛門=秦武虎が権五郎景政の片腕として、源頼朝の逃亡を援助した。)、安房に脱出するわけです。そして、その地の豪族千葉介常胤により、相模国鎌倉郷への進撃を勧められるのです。
そして、安房の地を出た時は、数十騎であったものが、穢土(江戸)湾沿いに安房国分寺→上総国分寺→下総国分寺と廻り、鎌倉の地に辿り着くと数万騎となっていたようです。その国分寺とは、反藤原氏の天武系(=新羅系)聖武天皇が741年から各国に建立したものです。
平安時代、武家平氏も武家源氏も、先住民からは歓迎されない部族であったようです。それは、居住地を調べれば分ることです。
平家一門が館を構えたところが、六波羅です。その六波羅とは、平安京の町中ではなく、鴨川をへだてた郊外の洛東の地であるのです。その地は、髑髏原と通称されるように、平安京の葬送地鳥辺野の一画であるのです。そして、その平家一門の館の近くには、弓矢町があり、「犬神人・つるめそ」と呼ばれる祇園社(インド祇園精舎からの借名。穢れ神の道教思想の影響による牛頭天皇=インド・武塔天神を祀る。明治維新での廃仏毀釈により八坂神社と改名。)の神人が棲んでいたのです。
更に、そこから清水寺に通じる坂は、清水坂と呼ばれ、清目の神人や白拍子と呼ばれる男装の遊女が棲んでいた処なのです。
では、武家源氏が、幕府を拓いた鎌倉はどうかと言えば、その地も、地獄谷の地名があるのからも分るように、葬送地であったのです。ですから、現在でも、鎌倉の地を掘ると人骨が多く見られるようです。
その鎌倉幕府が拓かれる前の領主は、鎌倉党の権五郎景政であったのです。権五郎景政は、産鉄民族、ワダツミの末裔です。鎌倉源氏が進出して来るまでは、伊豆、鎌倉、千葉などは、物部氏(高句麗の末裔。遊牧部族のツングース族と海洋部族の倭族との混成部族→北条氏・千葉氏)の末裔の古平氏の土地であったのです。(都の清盛平氏はインド系末裔)
その鎌倉の地に幕府を拓いた源頼朝も、頼家、実朝の三代で、古平氏の北条氏の陰謀により滅亡し、更に、北条執権に入ると同時に、鎌倉源氏の中枢であった、梶原氏、畠山氏、和田氏の一族は、ことごとく北条氏により抹殺されてしまったのです。
鎌倉時代は、武家源氏の活躍した時代と思っているひとがいるようですが、実体は、古平氏(物部氏の末裔)が統治した時代であったのです。
北条氏に追われたのは、鎌倉源氏の一族郎党だけではありません。源頼朝の庇護を受けていた鎌倉党の権五郎景政の片腕の弾左衛門も、警察長官の立場である長吏身分から、非人仕事の掃除人としての賎民へと落とされてしまうのです。つまり、ここから、長吏=賎民と身分が変化するのです。
そのような状況へ、更なる追い討ちが、それらの都を追われたひとたちに襲い掛かるのです。それが鎌倉仏教思想です。
平安時代末期から、荘園体制が、「御恩と奉公」の鎌倉武家の土地支配体制の守護地頭により崩壊したため、その経済基盤により、なんの労働もしないでぬくぬくと暮らしていた貴族、公家、都の大乗仏教僧侶達は、没落の一途を辿るわけです。
経済が崩壊すると、人心も崩壊するようで、貴族や公家への加持祈祷や寄付などを主な収入源としていた貴族仏教組織も戒律が乱れていくのです。悲劇の主人公源頼朝を担ぎ出した張本人の文覚(騎馬軍団の武家源氏により都から武家平氏を追い出した後、文覚上人となる。)は、高雄山神護寺再建の起請文のなかで、その貴族仏教の状態を次のように記述しています。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

そのような「飲む、打つ、買う」の三悪禁制を掲げるということは、そのような僧籍者にあるまじきことを、京の都の仏寺で実際におこなっていたことの証明です。
そして、そのように堕落した京の都の貴族仏教に反発する若き仏教徒が、百済系比叡山延暦寺(日本国最大の金融業組織の頂点。織田信長の比叡山焼き討ちにより、市・座が延暦寺支配から開放され「楽市楽座」となる。)から鎌倉の地に現われるのです。しかし、それらの若き仏教徒達は、平安仏教思想の根本(バラモン教・ヒンズー教の差別思想を取り入れた平安大乗仏教思想)を良く理解していなかったため、結果として、本来は護るべきひとたちを、更に奈落の底に落とし込めてしまうのです。それが、インドのカースト制度思想です。そして、民族的差別用語の穢多は、この鎌倉仏教の布教と伴に日本全国に広められていくのです。
宗教に全く関心の無い多くの人達は、日本国は仏教国だと信じているようです。そのように信じ込んでいるのは、歴史教育の刷り込みが原因のようです。
その日本国仏教導入の歴史とは、538年百済の聖王が仏像と経論を日本国(歴史上、日本国は7世紀に誕生。それ以前は倭国。)に持ち込み、587年崇仏派の蘇我氏が、廃仏派の物部氏を滅ぼし、仏教を正式に導入し、聖徳太子が、603年秦河勝に仏像安置のための広隆寺(蜂丘寺)を建てさせ、仏教を日本国に広めた、と言うことです。しかし、このストーリは可笑しい。それは、聖徳太子は、以前に延べましたように歴史上実在しない人物だからです。では、大乗仏教は、歴史事実として、どのようにして日本列島に侵攻したのでしょうか。日本書紀一辺倒の教科書歴史では、そのことを解明することはできないでしょう。
仏教日本国導入物語のトリックを知るには、聖徳太子との関係が深い法隆寺の歴史を調べることです。現在世界最古の木造建築と言われている法隆寺は再建で、実は北九州の秦王国から移築された建物なのです。前法隆寺は一体どのような建物であったのでしょうか。仏寺であったとの証拠はありません。もしかしたら、それはミトラ神殿跡のキリスト教会の戦術であったのかもしれません。つまり、仏教伝来538年とは、近畿の飛鳥王朝ではなく、北九州秦王国への渡来であったのでしょう。
この聖徳太子の創作が、日本国乗っ取り戦略の陰謀において、現在でもこのトリックが多くの人に見破れないように、藤原不比等の冴がみてとれるのです。それは、ローマ帝国でのミトラ教を乗っ取り、そして、歴史上抹殺させ、キリスト教をローマ帝国に布教した戦略に通じるものがあるようです。
キリスト教は、392年にローマ帝国の国教になると、ミトラ教の教義や祝日(ミトラ神の誕生日=クリスマスの祭日)を取り入れ、そして、ローマ帝国全土のミトラ神殿を破壊尽くして、それぞれのミトラ神殿の上にキリスト教会を建てるのです。それらのことにより、百年もすると、ミトラ教は、ひとびとの心から消え去ってしまったのです。ですから、よほど宗教歴史に興味があるひと以外は、キリスト教以前に、ミトラ教がローマ帝国で栄えていたなどは知らないわけです。
秦氏は、五世紀に新羅国から渡来した、機織りだけではなく、産鉄・鍛治・灌漑・建築土木技術を持った複合部族です。そして、魔多羅神(ミトラ神)を祀る「景教=太陽神を崇拝」を信じる部族です。
秦氏が仏教徒ではない証拠として、明治元年(1868年)神仏分離令が明治新政府から発令され、廃仏毀釈運動が全国で起こると、真っ先に、秦氏の末裔が多く棲む、薩摩国(秦氏は時代がわりごとに氏名を変えるのは何故か。飛鳥時代は秦氏→平安時代は惟宗氏→鎌倉時代は島津氏。)では、仏寺がことごとく破壊されたのです。(現在の鹿児島県は、全国でも仏寺が最も少ない県です。禅寺は別。)
秦氏が仏教徒でないことは、広隆寺となる前は、十字寺(景教寺)と言われていたからでも分るでしょう。それは正に、ミトラ神殿の跡地にキリスト教会を建てた戦術と同じです。
更に、聖徳太子の登場は、蘇我王朝の抹殺のトリックとしては最高です。つまり、蘇我氏は、日本国に仏教を広めた聖人「聖徳太子」の一族を滅亡させた「大悪人」のストーリが完成するからです。
そして、仏教を日本に広めたと言われる聖徳太子は、平安時代、比叡山延暦寺の最澄により、大乗仏教のプロパガンダのキャラクターとして華々しく歴史上に登場するわけです。その訳は、延暦寺は、反新羅(秦氏)の百済系桓武天皇の支配下にあったからです。
そのような、反新羅(秦氏)の宗教施設で勉学した鎌倉仏教開祖の僧侶達(浄土宗=法然、浄土真宗=親鸞、日蓮宗=日蓮。時宗の一遍は、他の教祖とは異なる思想を持っていたようです。臨済宗や曹洞宗は、宋国直輸入の禅宗で、指導僧は日本語があまり理解出来なかったため、修行僧の質問に意味不明な答えをしたところ、それが「禅問答」として哲学的思考となり現在に至る。禅宗は、語学力不足のため菜食主義の差別思想を布教できなかったため、騎馬民族の末裔の武士達に受け入れられた。曹洞宗の教えは、「只管打坐=黙って坐るだけ」。)は、聖徳太子の実在性を信じ込み、更に、差別思想を含む「法華経」やバラモン思想の「輪廻転生」、「因果応報」、「地獄世界」を、仏教思想に無知な庶民達に吹き込むのです。
この時代に、富永仲基(1715年〜1746年)のようなひとがいたならば、鎌倉仏教も、結果として、賎民を苦しめることもなかったかもしれません。富永仲基は、江戸時代、大乗仏教の約六千巻の仏典すべては、文殊の徒により創作されたものであり、釈迦により説かれたものではない、と「出定後語」で論証したのです。
「輪廻転生」、「因果応報」、「地獄思想」、この三つの思想は、支配者による、被征服民族を永遠に統治する、強力な武器なのです。これらの思想は、紀元前十三世紀、アーリア人が、カスピ海周辺からインドに侵入し、先住民の牧畜部族のトラヴィダ人を永久に支配するために創作されたものです。それも、祭祀バラモンが、神(ブラーフマン・梵)から受け継いだ思想だと、先住民に刷り込むわけです。
更に、アーリア人支配を永遠にするために、血の階級=カースト制度を発明するわけです。それは、バラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族・士族)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(隷民)、そして、人間ではないセダラ(不可触選民)です。
釈迦は、賎民を苦しめるバラモン思想から賎民達を解放するために、輪廻転生を断ち切る手段として、出家し、乞食し、非人となるのです。その結果「無我」の境地に至り、他力本願の仏教思想(八正道)を発明したのです。しかし、残念な事に、釈迦の四姓平等思想には、最も仏の救済が必要なセダラは入っていなかったのです。
このセダラ思想が、鎌倉時代、インド仏教僧(バラモン・ヒンズー教僧)により、日本国に持ち込まれるわけです。「塵袋」に、「穢多とは、セダラのような悪人である。」が歴史上最初に記述されたもののようです。バラモン教にとって、セダラが何んで悪人になるのか、との根拠を言えば、屠殺をおこなうからなのです。
バラモン教徒は、菜食主義だから、そのように狩猟漁労民族とは異なる食性で暮すことができますが、農耕部族でない部族は、それではどのようにして暮らしを立てれば良いと言うのでしょうか。
結果として、平氏北条執権の秘密警察・六波羅探題による源氏一族抹殺を背景に、鎌倉仏教は、この菜食主義のバラモン教思想を武器として、武家源氏の騎馬民族(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅の末裔)を貶めることになってしまうわけです。
念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説、と他宗教を攻撃する日蓮宗の日蓮は、自らセダラの子と吹聴するわけですが、「仏敵はライ病者になる。」と宣伝する差別思想を含む「法華経」を、仏の救いが最も必要な賎民に布教してしまうわけです。
平安時代、天武天皇から奈良時代まで続いた新羅王朝を藤原氏の陰謀で乗っ取った、京の百済王朝は、新羅系日本人の神徒を貶めるために、ライ病者を清目部落に世話をさせていたのです。平安時代は、仏教は護国安堵の加持祈祷のビジネスのため貴族に擦り寄っていたので、セダラ・穢多思想が一般庶民に布教されてはいなかったのです。
鎌倉時代になると、海洋民族の末裔北条氏は、鎌倉源氏三代を抹殺すると、実権を握った源頼朝の妻政子は、尼将軍となり、武家源氏の氏神「八幡神」ではなく、武家平氏の氏神を祀る厳島神社の神を祀るのです。
清目部落は、奈良末期に百済・藤原氏に敗れた新羅・秦氏の末裔が棲む処です。その新羅・秦氏の氏神を祀る源氏の「八幡神」を、源頼朝の妻の尼将軍が支配する北条政権は、切り捨てたのです。
承久の乱(1221年)で、天皇支配から解放された鎌倉北条政権は、藤原氏と同じに、一門の勢力をふるうのです。その結果、都を追われた源氏・秦氏の末裔は、漂泊の芸能民として生きていくわけです。
その芸能民に対して、チャンスが訪れるのです。それは、1236年に、藤原氏が支配する奈良の興福寺の僧兵が、北条政権に盾を突いたからです。それは直ぐに鎮圧され、興福寺は、藤原氏から北条政権の支配下となり、その興福寺に支配されていた奈良坂の清目・芸能民は、藤原氏の支配から解放されたからです。
しかし、その芸能民の多くは、新羅・秦氏の末裔なのです。鎌倉執権は、源氏抹殺を狙う平氏の末裔北条氏です。そのような状況で、立場の弱い芸能民を護る組織ができあがるのです。その組織の頭が、源頼朝執権時代に警察業務の頭(長吏)であった弾左衛門となるのです。
奈良時代、藤原氏と桓武天皇により、本字垂迹説の武器に敗れ、仏門に下った氏神を祀る神人やその軍事組織である神兵の信徒達は、寺に隷属されてしまいましたが、平安時代になっても信徒達は秘密結社を構成し、神社ネットワークを維持していたのです。(童謡「とうりゃんせ」の歌詞の裏の意味は、裏社会に集う神人達の結社員の心情を謳っていたのです。)
藤原氏は奈良の興福寺により奈良坂の清目部落を支配し、百済系天皇は比叡山延暦寺により京の清水坂の清目部落を支配していたのです。
そのような京都と奈良との清目部落支配のバランスを壊す天皇が現われるのです。それが、後白河天皇です。後白河天皇は、上皇になると、藤原氏の天皇支配システムを壊滅するために、歴代の天皇のように藤原の女ではなく、側室に遊女(後の従二位丹波局。没するまで寵す。)を迎えるのです。そして、遊女に皇子を生ませると、その皇子を六十三代天台座主・承仁法親王にしてしまうのです。更に、藤原氏の息の根を止めるように、平清盛を使い、その子の平重衡に奈良の東大寺と藤原氏経営の興福寺を破壊させるのです。
この時、藤原氏に隷属していた秦武虎(はたぶこう=弾左衛門)は、産鉄・鍛治部族の同族である鎌倉党の権五郎景政を頼って鎌倉に逃亡することになるわけです。そして後、前述したように、石橋山の合戦で敗れた源頼朝に遭遇することになるわけです。

神輿の黙示録(8)(芸能民とは何か:平安時代の遊女は、何故読み書きできたのか)


イジメを回避する最上の戦略は、イジメられる側から、イジメ側に寝返ることです。
日本国のイジメの陰湿性は、首謀者は表に出ず、イジメを実行する者が、元イジメられ側の者であることです。そのイジメのルーツは、平安時代に流行したゲームに現われています。そのゲームとは、将棋です。
将棋は、紀元前三世紀、古代インドの四人制のチャトランガと言われるサイコロ将棋が基本となっているようです。そのチャトランガが西に向かいチェスとなり、そして、インド→東南アジア→中国へと東進して、奈良時代、遣唐使の吉備真備が日本国に持ち帰ったと言われています。
その将棋が、平安時代に、仏寺での賭博として貴族間に流行ると、他国の将棋ルールと異なってしまうのです。それは、敵側の兵隊は、抹殺することなく、味方の兵として再生して、元味方側を再攻撃する兵となるのです。つまり、この平安時代に発明された新ルールの日本将棋は、藤原氏の異民族征服戦略の「夷を以って、夷を制す。」をゲーム化したもののようです。
そして、この日本版将棋ゲームには、負けた王様を貶める仕掛けもあるのです。それは、敵側に、味方の兵を奪われ、その元味方の兵士が追い立てて、王様を隅に追い詰める戦術を「雪隠攻め」と言うのです。雪隠とは、鎌倉時代に宋国の禅宗が日本国にもたらした「便所」のことです。平安時代までは、家に便所なるものは存在しませんでした。貴族達は桶で用をたしていたのです。ですから、平安時代の家は、臭気がきついのでインドの香木は、貴族社会では生活の必需品であったわけです。庶民は、川に小屋(川屋・かわや→厠)を作り、用をたしていたのです。
大乗仏教の浄不浄思想では、便所は「不浄」であるわけです。ですから、仏教徒は、便所のことを、「ご不浄」というわけです。(浄不浄の思想を持たない日本土着の神は、便所にも鎮座していた。)その不浄場所である「雪隠」で、敵の王様は最後を遂げることになるわけです。つまり、敗れた王様は、不浄の穢れ者に貶められてしまうわけです。そして、最後まで敗れた王様に忠誠を誓った臣民も、穢れ人に貶められてしまうのです。
しかし、そのように最後まで敗れた王様に忠誠を誓う臣民は、希のようです。味方の旗色がわるくなると、寝返るのが日本の武士の平均的生き方のようでした。つまり、「勝ち馬に乗る」ことが、武士の処世術であったようです。
源平合戦でも、古平氏の北条・千葉氏は、平氏のシンボルカラー赤旗ではなく、源氏のシンボルカラー白旗を掲げて、武家平氏に戦いを挑んでいたのです。平家滅亡への、屋島の合戦、そして壇ノ浦の合戦敗北の原因のひとつは、瀬戸内海の海賊達の、平家から源氏への寝返りだったのです。
「神仏の戦い」と言うと、一般的に、六世紀の廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子との戦いを思い浮かべることでしょう。しかし、その戦いは「ウソ」です。何故ならば、その戦いに、敵将巨人ゴリアテを投石で倒す少年ダビデのような、十四歳の「聖徳太子」が登場することで証明できるでしょう。
では、「神仏の戦い」とは何でしょうか。それは、新羅系天武天皇が崇拝した「道教の神」と藤原氏が導入した「大乗仏教の仏」との戦いであるわけです。(日本書紀には道教渡来の記述は皆無です。446年、北魏では、戒律の乱れた大乗仏教は、廃仏令により現世利益の道教に駆逐されたのです。中国大陸では、大乗仏教と道教は敵対関係にあったのです。しかし、中国大陸の民衆は、その宗派の区別がつかなかったようです。)
天皇家の神の祀り所が、神話時代から伊勢神宮と思っているひとは多いようです。しかし、それは違います。それは、天武天皇が、672年壬申の乱で活躍した赤旗を掲げる海洋民族の外物部氏(都を追われた物部氏)の神を祀るために建立したのが、伊勢神宮であるのです。つまり、685年が伊勢神宮式年遷宮の始めとなるのです。それまでは、都を追われた外物部氏の神は、畿内を彷徨っていたのです。
しかし、686年に天武天皇が崩御すると、天武天皇に左遷された藤原不比等が、天武天皇のお妃の、百済系天智天皇の娘の持統天皇(日本初の火葬された天皇。)を懐柔して、藤原氏が支配する中臣氏により、伊勢神宮を乗っ取ってしまうのです。そして、中臣氏は、ユダヤ教の儀式に似た、中臣祓えの中臣神道を発明するわけです。神話時代から神道が存在している、と錯覚しているひとは多くいるようです。日本神道は、仏教・道教思想を取り入れて開発されたようです。それは、「穢れ思想」はヒンズー教化仏教により日本国にもたらされたからです。その穢れ祓え(禊)の儀式をおこなう中臣神道(中臣祓えは、ユダヤ教のヨムキプルに酷似。)は、日本土着の宗教とは異質です。日本古来のあらゆるモノに存在する精霊の「カミ」「モノ」思想には、「穢れ=不浄」など存在しないからです。塩や水による禊は、ユダヤ教の儀式。日本の宗教関係が歴史的に理解できないのは、日本版レビ族の藤原氏の陰謀により、大乗仏教と中臣神道により、日本古来の「カミ・モノ」の精霊、そして、道教、景教を、ミトラ教の儀式を取り込んでキリスト教に摩り替えたように、隠蔽してしまったからです。
もしも、天武天皇崩御後も、伊勢神宮が天皇家の祀り所であるのならば、769年の道鏡事件の時、和気清麻呂は、九州の宇佐八幡宮ではなく、伊勢神宮に託宣に行かなければならなかったでしょう。
更に、百済系桓武天皇から明治天皇になるまでの約千年間、歴代の天皇が伊勢神宮にお参りに行かなかったのは何故でしょう。それは、天武天皇が建立した伊勢神宮は、天皇である北極星の「太一」を祀る道教の「観」であったからです。だから、現在の天皇家は、天武天皇系の天皇を祀ってはいないようです。
女帝称徳天皇まで続いた天武王朝の臣民は、770年、藤原氏による「夷」の百済亡命貴族達により乗っ取られ、平安時代の光仁・桓武王朝となり、貶められていくのです。
日本将棋のルールによれば、敗れた王様は、「雪隠詰」となり、穢れてしまうのです。そして、勝者の王様にまつろわない、敗者の王様の臣民達も穢れてしまうのです。
鎌倉時代に発明された賎民への蔑称「穢多」の頭・弾左衛門は、その賎民達を統率していました。その統率していた賎民達のプロフィールは、治承四年(1180年)源頼朝が秦武虎(弾左衛門)に与えたと言われている「頼朝公の御朱印」に記述されています。それは、六代目弾左衛門により、賎民支配の正当性を訴えるため江戸町奉行に提出されたものです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

この御朱印書の信憑性は、風呂屋は鎌倉時代にはなく、江戸時代に開発されたものであることから、疑われています。しかし、賎民の史料は、王権から焚書されない公家史料と異なり、多くは存在していないので、御朱印書は鎌倉時代の賎民の職業を推測するには充分な史料と思われます。
それらの職業から推察されるのは、その賎民一団は、「国を護る軍事組織」であったようです。それは、「皮」は中世では重要な軍事物資であったからです。皮は、武器や鎧兜の防具や馬具を作るには必需品であるわけです。鋳物師は、槍や太刀などの戦闘用武器を製造できます。弦差は、武士の重要な武器である弓の弦を作る人です。王権に貶められて犬神人・つるめそとなる。石切(石工・メーソンの技術は古代エジプトに遡る。)や壁塗は城作りに必要です。渡守や山守や関守は、国を護る情報の管理者としては無くてはならない存在です。異部族の臣民を統率するには、「祀り」が必要です。その祀りには、陰陽師(占い、加持祈祷をする者)や舞舞(謳い踊る者)、猿楽(能の祖)、鉢たたき(念仏踊り)、獅子舞、傀儡子(人形回し、今様を唄う女)、傾城(ケイセイ・遊女その元は巫女)などの神様を楽します「芸」が必要です。更に、臣民の日常生活に必要な物を作る、土鍋師、笠縫、土器師、鋳物師、箕作、青屋(藍染め師)などの職業はなくてはならないものでしょう。
そのように、弾左衛門が統率する賎民一団は、社会の落ちこぼれなどではなく、戦いに敗れたが、プライドを捨てて寝返ることなく、更に、王権にもまつろわないで、生きる道を自らの力で開拓する技術を持ったひと達であったのです。
戦いに敗れた者達に待っていることは、その社会からの追放です。「漂泊・放浪」は追放から始まるのです。日本国で始めて追放されたことを記述されたひとは、スサノウです。スサノウの追放状況を日本書紀では、次のように記述しています。

時に霖(ながあめ)ふる。スサノウの尊、青草を結束ひて笠蓑として、宿を衆神に乞ふ。衆神の曰、「汝はこれ躬の行濁悪しくして遂ひ謫めらるる者なり、如何にぞ宿を我に乞ふ」といひて遂に同に距ぐ。是を以て、風雨甚だふきふるといえども、溜り休むことえずして、辛苦(たしな)みつつ降りき。

日本版聖書である日本書紀の神話(ギリシャ神話に酷似)での悪役のスサノウとは、百済国の敵国新羅の皇子なのです。そのスサノウは、神々の国(藤原氏の支配圏)から、豪雨のなかを笠と蓑ひとつで、鬚を切られ爪を剥がされ(武装解除され)追放されるのです。
このスサノウの姿とオーバーラップするのが、昭和の団塊生まれの人なら、TV時代劇渡世人ドラマ「木枯らし紋次郎」(竹細工の技術を持つのは、ササラ部族の末裔か。長楊枝が武器。)の編み笠とカッパをひるがえして、雨の中当て所も無く荒野を目指す後ろ姿でしょう。つまり、スサノウは、渡世人の標準スタイルの編み笠にカッパ姿で追放されたのです。ちなみに、役座が祀る「神農様」も、蓑笠姿です。そして、「蓑と笠」は、百姓などが勝手に作ることができない、弾左衛門の一族しか制作できない、神事に関係する神聖なものなのです。
では、弾左衛門の一族は、どのようにして王権から追放されたのでしょうか。それは、秦氏の氏名の時代ごとの秦氏(飛鳥・奈良時代)→惟宗氏(平安時代)→島津氏・弾家(鎌倉時代)の変換にヒントがあるようです。つまり、追放された者による出自隠しです。
飛鳥時代の秦氏は、蘇我氏の下で、土木・石工技術を駆使して、ペルシャ式庭園や石を敷き詰めた軍事道路や石垣で囲んだ城柵(「城」とは、建物ではなく、土を盛り立てた塀のこと)構築などに従事していたのでしょう。
飛鳥時代の秦河勝などは、山背国に、チュルク系騎馬民族の末裔の蘇我馬子(聖徳太子)に、ローマ軍の軍神ミトラ神(弥勒菩薩)の安置場所を依頼され、景教寺(広隆寺)を建立するほどの権勢を誇っていたのです。しかし、山背国の太秦の「スグリ」であった秦河勝の墓は、その山背国にはなく、大阪の寝屋川にあるのです。これは可笑しい。
その意味は、645年の藤原氏と百済系亡命貴族による叛乱で、飛鳥の蘇我王朝が壊滅したため、蘇我氏の臣下である秦氏一族(エフライム族→イスラエル民族)が、藤原氏(レビ族→ユダヤ民族)により飛鳥の都(エルサレム)から追放されたからです。
秦氏については色々な謎があります。そのひとつとして、五世紀に朝鮮半島から色々な先進技術を持込んだ集団なのに、何故王権の中枢ではなく、下位の位置に居たのか。そして、鎌倉時代に穢多と差別され、江戸時代、国学者から、弾左衛門一族は、異形の異民族と言われたのか。その謎を解くヒントは、秦氏が渡来した時期(五世紀)の新羅にあるようです。
新羅については、ツングース系の高句麗、百済と同じ民族であり、そして、シルクロードから渡来した仏教の国である、と思っているひとが多くいるようです。しかし、それは違います。中国大陸での南北朝時代の南朝の梁(502年〜557年)の国書「梁書」の緒夷傳によれば、新羅は、高句麗と百済とは全く異なる文化であったようです。

服牛乗馬。男女有別。某官名、有子賁旱支、齋旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支。其冠曰遺子禮、襦曰尉解、袴曰柯半、靴曰洗。其拜及行與與高驪相類。無文字、刻木爲信。語言持百濟而後猛焉。

新羅には、「文字が無い。」と言うことは、何を意味しているのでしょうか。それは、「漢字」の文字が無かったと言うことです。では、新羅では、何語が使用されていたのでしょうか。
朝鮮民族の形成は、日本民族の形成と同じに、謎が多く存在します。その謎を解くヒントは、三世紀から六世紀の渡来民族の移動にあるようです。朝鮮半島の民族は、大きく分けると二つです。それは、北の朝鮮民族と南の韓民族です。
朝鮮民族の始まりは、紀元前五世紀の春秋時代から紀元前三世紀の戦国時代の燕に隣接する箕氏朝鮮が始まりのようです。しかし、箕氏朝鮮は、中国人の国です。その箕氏朝鮮も、紀元前194年衛氏朝鮮に滅ぼされてしまうのです。そして、その衛氏朝鮮も、紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされてしまい、その地は中国人の直轄地としての楽浪郡などの四郡を設置されてしまうのです。つまり、北朝鮮は、長らく「中国人」の国で中国文化が営まれていたのです。その地に、紀元前一世紀の北からツングース族が渡来し、高句麗を興すのです。
では、南朝鮮半島の韓民族はどのようにして渡来したのでしょうか。紀元前473年、華南の海洋民族国家の呉は、海洋民族国家の越に滅ぼされてしまいました。その呉の難民の多くは、大型外洋船で黒潮に乗り、遼東半島、朝鮮半島南、そして北九州に上陸するわけです。それらの渡来民族は、中国権力から、倭族(いぞく)と呼ばれるわけです。
その後、紀元前334年、越も楚に滅ぼされ、その難民の多くは、大型外洋船で黒潮に乗り、呉の難民と同じコースを辿るわけです。しかし、呉の植民地に上陸できない難民達は、更に北を目指し、日本列島に越の国々を興すのです。
中国大陸の遼東半島に居住していた倭族は、内乱を逃れるために、朝鮮半島南端に移住すると、その民族は、韓族と呼ばれるわけです。つまり、倭族と韓族は、呉か越の末裔の同族であるわけです。
そのように、北の中国人とツングース族による朝鮮民族と、南方系海洋民族の末裔の韓民族とは、四世紀半ばまでは、高句麗と韓(馬韓・弁韓・辰韓)の国々とで分かれていたわけです。しかし、346年、モンゴル系(モンゴル語は、古代シリアの国際語であるアラム語の流れにある。オリエントと中央アジアは、国際交易商人達により交流があった。)の夫餘族が、馬韓を乗っ取り、百済を興すわけです。つまり、百済とは、倭族と韓族の先住民を征服した、渡来王朝なのです。
では、356年に建国の新羅は、どのような民族なのでしょうか。
382年、新羅の初代の奈勿王は、前秦(351年〜384年)に遣使を送るのです。その前秦の国書「秦書」に、新羅の使者にたいして、「今の新羅は古とは同じではないのは何故か。」、と前秦王の符堅(=大秦天王・テンノウ。天王とは騎馬民族の王様→騎馬民族が日本に渡来し、大海皇子が七世紀に日本歴史上初の天皇となる。)が問いただしている文書が残されています。それは、前の辰韓の文化と、356年建国の新羅の文化の違いを、符堅は聞いていたのです。
その謎は、「奈勿王」に隠されています。奈勿王は、前秦には、新羅王楼寒(ローカン)としているのです。サンスクリット語(古代ペルシヤ語と文法と発音が酷似。しかし、文字は異なる。紀元一世紀、忽然と現われた法華経の仏陀説話と新約聖書のキリストの説話とが酷似しているのは、古代ペルシャ語とサンスクリット語とが酷似していることと関係がありそうです。)で、「世界」と言う意味です。
しかし、新羅王楼寒は、新羅国内では、奈勿王としているのです。それは、朝鮮語では、ローカンの「L」音は語頭に立たないからです。では、奈勿は、朝鮮語でどのように読むのでしょうか。それは、「nam−oel」です。「nam」とは、異邦人の意味です。新羅の王は、倭族や韓族ではない異民族であったのです。
つまり、四世紀から六世紀までの新羅も、夫餘族の征服王朝の百済と同じに、倭族や韓族の先住民に対する征服王朝だったのです。では、新羅の奈勿王(楼寒)とその渡来一族は、何族で何所から来たのでしょうか。
中国大陸での輸送は、「南船北馬」と言われているように、南中国では「船」が主な輸送手段で、北中国では「馬」が主な輸送手段であるわけです。
では、朝鮮半島での輸送手段は、何だったのでしょうか。南朝の梁の「梁書」によれば、新羅では「服牛乗馬」とあるのです。つまり、牛を使役し、臣民は、馬に乗っていたわけです。これは、高句麗と百済との生活様式が異なっていたので、梁書に記述したのでしょう。
更に、新羅が、朝鮮半島の高句麗と百済との文化が異なるのは、528年まで仏教が公認されていなかったのです。では、356年から528年までの新羅は、どのような文化を保持していたのでしょうか。中国古代史の基礎知識のあるひとには信じられない事ですが、四世紀から六世紀中頃の新羅は、どうもギリシャ・ローマ文化国家であったようです。
このことは、由水常雄氏著書の「ローマ文化国家−新羅」に、慶州古墳発掘物を基に、新羅がギリシャ・ローマ文化を保持していたことが、理論整然と述べられています。
新羅の古墳は、石室を持つ高句麗や百済と異なり、大きな穴を掘り棺の回りに川石を積み上げ、土を被せ小山にするわけです。この古墳は、「積石木槨墳」と呼ばれているものです。この古墳様式は、スキタイの流れをくむ騎馬民族特有のものです。
そして、新羅の埋葬物は、高句麗や百済の古墳埋葬物にはない、多くのギリシャ系王冠、ネックレス、耳飾、ブレスレットなどの金製品やローマン・グラス(紀元前27年ローマ帝国誕生から476年西ローマ帝国滅亡までのガラス器の総称。新羅へのローマン・グラスの渡来ルートは、古代シリアで四〜五世紀生産→クリミア半島ケルソネソス地方→ロシヤ・草原ロード→高句麗→慶州)があることです。
では、高句麗や百済の古墳から出土しない金製品は、どのような民族により新羅慶州に渡来したのでしょうか。
騎馬民族は、ヘロドトスの「ヒストリア」や司馬遷の「史記」に述べられているような、狩猟や略奪を行なうだけの野蛮な民族ではありません。交易や貿易も主な経済活動であるわけです。つまり、国際交易商人の顔も、騎馬民族にはあるのです。
騎馬民族スキタイ(紀元前7世紀〜紀元前3世紀)は、中央アジアの黒海・南ロシアの草原地帯に、部族同盟国家を興すのです。そこで、黒海北部に勢力を張るギリシャ植民都市と交易を始めるわけです。スキタイは、ギリシャから金銀製品・青銅器・オリーブ油などを「金」との交換で交易を行なうわけです。
スキタイの交易品の「金」は、南ロシヤのアルタイ山脈から多く産出していたのです。モンゴル語(シリアの国際語アラム語の流れにある。)で、「金」は「アルタン」と言います。アルタイ山脈とは、「金」が産出するところから名付けられたわけです。
そのスキタイの墳墓から、ギリシャ製の金の装飾品や飲食器の莫大な量が出土されていることは、スキタイとギリシャとの交易が頻繁に行なわれたことを示唆します。その金製品製造所があるギリシャのマケドニアは、紀元前146年にローマ共和国の属州となってしまうのです。
紀元前一世紀、ローマ共和国はアウグスツスによりローマ帝国(大秦)となり、オリエントの二世紀のパルチア王国、四世紀のササン朝ペルシャ王国と対峙するわけです。そのオリエント諸国との戦闘で、オリエントの神々をローマ帝国に勧請するわけです。それは、ローマ軍には取り立てて強力な宗教がなかったからです。
ローマ帝国に取り入れられた宗教は、大地母神イシス(キリスト教で聖母マリアとなる。)、デア・シリア女神、マルス神、アシュート大女神、キュベレ神、グノーシス各派、ユダヤ教、キリスト教、そしてミトラ教(ラテン語でミトラス教)などです。
では、新羅慶州の古墳からの武器出土には、どのようなものがあったのでしょうか。多くの武器の中で特徴的なものは、中国武器には少ない騎馬戦用の鉄製の闘斧です。それに騎馬戦用の短い弓です。そして、中国系高句麗軍や百済軍にはない馬面甲や馬全身を被う馬甲と、異なる甲冑や脛甲などです。それらの新羅の埋葬武器から推測されるのは、ローマ軍や匈奴軍(スキタイより騎馬戦闘を習得。)などの北方騎馬民族の新羅への渡来です。 356年に建国の新羅の文化が、辰韓の文化と異なるのは、ギリシャ・ローマ文化を持った民族の渡来を示唆しています。
では、新羅が528年まで仏教公認していなかった訳は、どのように推測できるのでしょうか。
新羅の青年戦士団は、「花郎」と呼ばれる美少年の下に結束し、戦闘に赴いていました。その「花郎」とは、「ミロクの男」と言う意味です。ミロクとは、漢語訳で「弥勒」で、その元は、「ミトラ」です。ミトラ神は、ローマ帝国軍の軍神です。
国家の宗教が、異なる宗教と取り替えられるということは、支配者の交替を示唆しています。528年に新羅の宗教が「仏教」に替わったということは、支配者が替わったということです。
では、ギリシャ・ローマ文化を保持していた新羅の敗者の民族は、どこへ行ったのでしょうか。
騎馬民族の歴史を知るには困難が予想されます。それは、騎馬民族は基本的には歴史書を持たないからです。それに、短期間に、大勢の一族が点から点へ大移動し、そして、居留地に固定した地上建築物を建設しないからです。更に、自然を大切にするために、墓は地下に建設するため、考古学者の発掘にあう確率が、農耕民族の遺跡に比べて低いからです。
騎馬民族の移動を知るには、歴史書を持たないため、やはり古墳が有力な史料となります。それは、騎馬民族は、馬を大切にするため、墓に埋葬者と伴に馬具を埋葬する習慣があるからです。農耕民族や海洋民族は、墓に馬具を埋葬することはありえません。ですから、埋葬物に馬具がある古墳を、時系列的に調べれば、騎馬民族の渡来ルートが推測できるわけです。
日本列島に古墳が出現するのは、三世紀頃からです。そして、馬具の埋葬物が古墳に現われるのが四世紀頃からです。と言うことは、四世紀より、騎馬民族が、日本列島に渡来していたことが示唆されます。
中国南朝の「梁書」に、扶桑国僧慧深の報告として、「以角載物、至勝二十斛、車有馬車、牛車、鹿車。」と記述してあります。扶桑国とは、四世紀頃、北海道南端から下北半島一帯に存在していた国です。その国では、馬や鹿が使役されていたのです
北海道、東北地方は、地上建築物の歴史的遺物の発掘が認められないため、坂上田村麻呂の侵略まで、文化的歴史がないように思われますが、岩手県久慈は、紀元前の古代より、バルト海沿岸に匹敵する世界的な「琥珀の産地」であったのです。つまり、古代より、バルト海沿岸から岩手県久慈には、「琥珀ロード」があったのです。古代では、琥珀は、呪術の道具として、或は、貨幣の代用物として需要があったのです。そのように、馬を使役する民族や国際交易商人は、古来から日本列島に渡来していたのです。
五世紀から六世紀にかけて造られた、奈良県の新沢千塚から発掘された埋葬物は、新羅からの騎馬民族の渡来を示唆しているようです。馬具のほかに、冠を飾る金具、ガラス椀、ガラス皿、そして耳飾、帯飾りなどの金製品が出土しているからです。
東アジアでは新羅からしか出土していない馬冑が埋葬物にあれば、騎馬民族の新羅から日本列島への渡来が証明されるのですが、新沢千塚からは出土しなかったようです。しかし、日本列島に馬冑が出土していたのです。それは、和歌山県の大谷古墳からです。築造時期は、五世紀から六世紀半ばです。この馬冑は、東アジアでは、新羅と日本でしか、今のところ発掘されていません。これは、騎馬民族の日本列島渡来を有力に示唆しています。
528年、新羅が仏教国に変身した頃、日本列島にはどのような変化があったのでしょうか。
日本書紀に、気になる文があるのです。それは、宣化元年(536年)の条に、「又蘇我稲目宿爾を以って大臣とす」とあるのです。この蘇我稲目は、仏教伝来物語では、重要な人物です。しかし、その出自は不明なのです。歴史書では、その出自を、「竹内宿爾→韓子→高麗→蘇我稲目」、としていますが、竹内宿爾、韓子、高麗などは歴史上証明できない人物なのです。
このように出自の不明な蘇我稲目が、突然536年大臣となり、更に、異教の仏教を、「西方の諸国で信奉しているのに、我が国だけがどうして背けましょうか。」、と従来の神に替えて祀るように天皇(この頃に天皇は存在していない。天皇は七世紀の天武天皇が始め。)に進言したと、教科書歴史は言うのでしょうか。どうも、この仏教伝来物語には、「うそ」があるようです。
では、蘇我稲目の出現は、どのように推測できるのでしょうか。
日本の古代史を、教科書的に学習すると、三世紀から四世紀の畿内に突然箸墓古墳や纏向古墳などの巨大古墳群が出現するわけです。その理由として、教科書歴史では、四世紀に大和朝廷が樹立されていたとしています。そこで、畿内で大和朝廷は、天皇中心の政治をおこなっていたという設定です。特に、593年から628年大和朝廷を統治した推古天皇の時代に、日本国の基礎となるような改革を、聖徳太子とおこなったとの説明です。そして、その黎明期の日本国を乱し、天皇を暗殺した大悪人が蘇我馬子で、聖徳太子の遺児を殺害したのが蘇我蝦夷と蘇我入鹿親子だとの設定です。でも、これらのことは、史実なのでしょうか。
そこで、古代史を調べることになるわけですが、日本書記の呪縛により、史実は闇の中で蠢くわけです。その藤原不比等の呪縛を解くために、「ヨハネの黙示録」で「666の謎」により聖書のモーセの存在を否定したように、日本版パモス島のヨハネである多人長(秦氏の末裔)は、推古天皇ならびに聖徳太子の存在を否定するため、平安時代の弘仁三年(812年)に「古事記」を世にだすわけです。
では何故、古事記は和銅五年(712年)を奥付に記述したのでしょうか。それは、和銅六年(713年)に好字令が発令されていたからです。
686年天武天皇が崩御すると、藤原不比等は持統天皇を懐柔して、蘇我王朝の流れにある天武王朝体制の壊滅を目指すのです。そのひとつが、日本書記の作成(720年完成)です。そして、各地区の歴史を改竄するため、各地の豪族の史料提出の基に風土記(713年に撰上の詔)を作成し、天武王朝の各地区における事績を隠蔽するわけです。
地区名は、その地域を支配した豪族の名となります。ですから、その地の呼び名を知ることにより、誰がその地を支配していたかを知ることができるからです。
好字令とは、今までの中国王権が名付けた一字文字の漢風名を、日本語化の二字にすることです。そのことにより、中国王権の支配からの解放を示したのです。そして、オリエントから国際交易商人、軍人、そして宗教家達により日本列島にもたらされた異国文字(ペルシャ語:大きな鳥の意味の「アスカ」→飛鳥。アラム語:尊称の閣下の意味の「マロ」→麻呂。勇敢な者の意味の「スクネ」→宿爾。アラム文字は、奈良時代にパフラヴィ語的文字利用法をヒントにカタカナ文字に変身した。)と同時に渡来文化(ギリシャ、ローマ、ペルシャ、スキタイ文化)の遺跡も、王権を握った藤原氏は、392年以降キリスト教の教徒がローマ帝国内のミトラ教神殿を破壊し、その跡にキリスト教の教会を建設してミトラ神を隠蔽したように(目に見える物は改竄したり破壊できるが、ひとの記憶までは改竄や破壊ができないため、ミトラ神が復活する冬至の12月25日の誕生日は、ミトラ教を乗っ取ったキリスト教はキリストの誕生日のクリスマスの日に改竄した。)、仏寺と神社により道教の観と景教の寺を隠蔽したのです。
では、日本書記の闇のベールを剥がすには、残された敗者の歴史資料も存在していない状態で、どのようにしたらよいのでしょうか。
歴史を勝者の都合の良いようにコントロールするには、歴史書を改竄することです。もしも改竄できない時は、焚書をすればよいのです。遺跡も同様です。しかし、日常生活で使用している「ことば」は、勝者の都合により、敗者の使用している「ことば」を改竄したり、抹殺したりすることはできません。禁止用語を設定したところで、表面上は使用禁止をすることができても、裏の世界での使用禁止の実行はできないでしょう。(本音と建前)それは、「ことば」は、「精神世界のDNA」だからです。つまり、「ことば」は、先祖から連綿と受け継がれてくるわけです。
そこで、敗者の歴史を推測する「ことば」を捜してみると、三つの「ことば」をピックアップできるでしょう。それらは、「ウダウダ言うな!」、「すみません。」そして「葛藤」です。これらの日常語の歴史的背景を探ってみると、勝者と敗者との因果関係を推測できるのです。それらの「ことば」が発明されたのは、およそ近畿地方に巨大古墳が出現した頃です。
では、それらの三つの「ことば」の背景を探ることにより、日本書記の闇のベールを剥がすことにしましょう。
「ウダウダ言うな」の意味は、弱者(敗者)が正当な理由を述べて抗議していることに対して、強者(勝者)が一喝して黙らせる時に使う「ことば」です。その恫喝に対して、弱者は「すみません。」と言うわけです。そして、それらの弱者と強者とのイザコザのことを、「葛藤」と言うのです。
それらの三つの「ことば」の真の意味は、辞書を引いても分らないでしょう。それは、辞書は、勝者の立場で編纂されているからです。
では「建前」ではなく「本音」での、「ウダウダ」のウダとは何でしょうか。それは地名です。奈良県宇陀郡宇陀町の「ウダ」です。そして、「すみません。」とは、「住みません。」が原語です。更に、「葛藤」とは、「葛(くず→国栖→土蜘蛛)」対「藤原氏」との戦いのことです。
奈良の盆地の三輪山付近には、古く縄文時代から「市」がありました。それは、遠い国から日本海を渡り、「赤い土」を求めるひとたちがいたからです。
縄文人は、赤い土を傷を治すために採取していたのです。そして、埋葬の時には、死者を悪霊から護る(防腐剤)ために、死者に赤い土を塗布していたのです。
紀元前七世紀になると、中央アジアの黒海近くの騎馬民族国家スキタイでは、アマルガム法の金メッキの技術で、銅にメッキをして「金銅」を制作していたのです。そのアマルガム法の金メッキには、「水銀」が必要です。自然界で「水銀」を採取するのは困難ですが、「赤い土」は容易です。あるひとが、「赤い土」を焼いて、その煙を蒸留すると「水銀」を得ることができることを発見したのです。そのことにより、赤い土の需要がおこるのです。そこで、騎馬民族スキタイの赤い土探索が始まるのです。
中国大陸では、赤い土は辰砂と呼ばれていました。それは、中国湖南省辰州で産出したからです。日本名は、朱砂。
紀元前に朱砂を求めたのは騎馬民族スキタイだけではありません。バラモン教徒や道教士も、金メッキの素材としてではなく、中枢神経を刺激する長生術や回春術の素材として、朱砂・水銀を求めていたのです。道教士は、その水銀薬を「丹」と呼んでいました。
朱砂・水銀を求めたひとたちは、アリが砂糖に群がるように、遠くオリエントやインドから海を渡り、日本列島を目指したのです。では、日本列島の何所をめざしたのでしょうか。
日本の歴史地図で古墳の分布図を見てください。古墳が群集している所が特定できるでしょう。それらは、常陸から北関東、名古屋、伊勢、大和、和泉、香川、大分、そして熊本です。その古墳群の分布に線を引くと、それは、中央構造線と重なります。つまり、古墳時代のひとたちは、中央構造線に沿って暮らしていたわけです。
中央構造線は、日本列島が形成された時につくられたものです。その両側は、異なる地質であるわけです。日本海側の内帯は領家変成帯と呼ばれ、太平洋側の外帯は三波川変成帯と呼ばれています。それらの異なる地質は、マグマの移動圧力で、段差を形成しているのです。つまり、中央構造線は、段差により地下の鉱物が地表に現われている所なのです。その中央構造線に沿って、縄文人は「赤い土」を採取していたのです。その最もよく「赤い土」が採取できたのが、奈良の大和の地を流れる飛鳥川の源流にある宇陀地方だったのです。
この宇陀地方は、日本書記によれば、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと:762年〜764年、淡海三船により選定され追贈された漢風諡号により「神武天皇」と変身。)により、宇陀の統治頭のエウカシを、オトウカシの裏切りの密告により、滅ぼしたことになっているのです。つまり、日本書紀では神武軍が、「夷を以って、夷を制す」ことにより、宇陀の地を略奪したことになっているのです。
しかし、このことは史実ではないようです。それは、史跡の埋葬物が証明しています。
日本の初代天皇である「神武天皇」の在位は、紀元前660年から紀元前585年となっているようです。しかし、その宇陀地方の埋葬物は、縄文文化が紀元300年まで続いていたのです。つまり、宇陀地方は、縄文人の支配が、弥生前期(紀元前200年〜紀元前100年)・中期(紀元前100年〜紀元100年)を飛ばし、弥生後期(紀元100年〜紀元300年)まで続いていたのです。
日本書紀の記述が史実だとすると、神武天皇は縄文晩期(紀元前1.000年〜紀元前350年)に活躍したひとです。神武天皇は、縄文人ではなく、九州の日向国から進軍した天孫族の渡来人であるのに、何故、宇陀の支配地が、紀元300年まで縄文文化を保持していた理由が説明できません。
宇陀地方の史跡の埋葬物が、紀元300年に、縄文文化からいきなり弥生文化に変化したことは、弥生人による縄文人の支配を示唆しているようです。では、紀元300年に、宇陀地方はどのようにして、弥生人に侵略されたのでしょうか。
宇陀地方は、16世紀にも、渡来人により支配されていました。それは、イエズス会です。イエズス会は、長崎に外科医のアルメイダを派遣し、洋式医療で現地民衆に取り入ると、日本人修道士のロレンソと供に、キリシタン大名である高山右近ジュストが支配する山奥の宇陀地方に教会を建てるのです。その目的は、キリスト教布教のためだけではないようです。
イエズス会の異教国侵略順序は、医師派遣→病院設立→学校設立→国際商人進出→軍事顧問派遣→軍隊進行→植民地化、となるわけです。
イエズス会の日本国軍事侵略では、尾張の反仏教の自称平氏の弱小武将である織田信長に、銃と弾薬と傭兵軍を与えるのです。そして、キリシタン大名の蒲生氏郷の部下である山科羅久呂左衛門(イタリア人:本名ジョバンニ・ロルテス:マルタ騎士団戦士)を軍事顧問として、織田信長軍の軍事指導をするわけです。(織田信長による比叡山の僧侶皆殺しは、正に「キリスト教傀儡軍=織田信長軍」と「大乗仏教軍」との宗教戦争の結果であったのです。)
では、何故、イエズス会は、軍事的には価値のない山奥の宇陀地方に教会を建設したのでしょうか。それは、紀元3世紀の弥生人と同じ目的、「水銀」の採取です。(十六世紀、メキシコ銀山が開発されるまでは、日本列島は錬金術・鉱山師「空海」の銀山開発により世界有数の銀産出国であったのです。空海は「朱砂・水銀・銀」を求めて山野で修行をしていたのです。空海が四国で中央構造線に沿って建立した寺の近くには、「銀山・銅山」が多く存在しています。空海の宗教的拠点の高野山は、正に銀鉱脈がある山なのです。)
では、弥生人はどのようにして、宇陀地方を侵略したのでしょうか。それは、イエズス会と同じ方法です。「医療と宗教儀式」、これが昔も今も、異教国侵略の有効な手段なのです。そして、その侵略装置が、前方後円墳の巨大古墳なのです。
畿内の前方後円墳は、教科書歴史では天皇陵と言うことになっているようです。それは、畿内の前方後円墳が、他の地域の前方後円墳より巨大(最大約500メートル級、他の地域は200〜50メートル級)だからと言うわけです。そのような他の地域(九州・吉備・北関東)より巨大な前方後円墳を造営できたのは、三世紀に大和の地に巨大な権力を保持していた「天孫族」が存在していたからとの説明です。しかし、その説明は可笑しい。
現代でも、巨大な建築物を構築できる地域は、建設敷地として余裕のある地(僻地)が選ばれるわけです。ひとびとが密集して生活している都市部には、巨大建築物を造るには、色々な困難が予想されるからです。
三世紀の大和の地は、九州や吉備に比べて未開発の僻地(縄文人の勢力範囲)であったのです。更に、大和の地は、河川が入り組んでいて、沼や湖がある湿地帯でもあったのです。
畿内の前方後円墳には多くの謎があります。それらは、何故に円墳や方墳のように竪穴式ではなく、高句麗式の横穴式の石室であるのか、そして、円墳や方墳のように「木棺」ではなく「石棺」が多くみられるのか、更に、その石棺の石は、何故遥か遠くの九州の阿蘇溶結疑灰岩が多くみられるのか、と言うことです。
そして、畿内の巨大前方後円墳が大和の地を支配していた偉大な「天皇の墓」だとすると、その埋葬物が、何故規模が数十倍も小さい円墳や方墳に比べて、「貧弱」なのかを説明するには困難が生じます。
そこで考えられるのは、畿内の巨大前方後円墳は、第一の目的が「墓」ではない、ということです。それは、三世紀の大和の地は、エウカシ、ナガスネヒコ、そしてオオクニヌシなどの勇猛な先住民の土蜘蛛達が支配していたので、渡来侵入者の天皇が崩御してから、延べ60万人の労働者で10年〜20年もかけて「墓」を造れるような社会情勢ではなかったからです。
それから二世紀後の仏教隆盛といわれる飛鳥時代でも、桜井の地などの「くんなか」には、渡来新興宗教の仏寺を建立できないほど、大和地方は先住民の力が強かったのです。
では、三世紀に全国規模(北は岩手県、南は九州まで)で造営された世界でも希な巨大前方後円墳(前方後円墳の地上構造物は古代オリエントの日干しレンガ造りの技術を駆使し、石室及び石棺の造営は古代エジプトのピラミッド構築技術を駆使しているようです。特に、飛鳥の古墳の石室は、古代エジプトの高度な石切技術を駆使しているようです。)は、「誰」により「何を目的に」発明されたのでしょうか。
それには、弥生人の解明が必要です。紀元前三世紀頃に渡来した弥生人とは「誰」でしょうか。それを知るために、紀元前三世紀の中国大陸での社会情勢を調べることにしましょう。
古代の国家を調べる時、注意が必要です。それは、古代の国家は、「国民国家」ではないということです。古代の国家と国民国家との大きな違いは、古代の国家には固定した国境がないということです。
国民国家の歴史的誕生は、1776年のアメリカ合衆国が初めです。イギリス王国が支配する北アメリカの私有地を、その被支配者達の武力で奪い取ったのが、国民国家の始まりです。
北アメリカの被支配者達は、各自武装して支配地を確定し固定化し、その地を侵略する者達に対して、軍事力を行使したのです。これが、現在の国境の始まりです。それに対して、古代の国境は、その国の力の及ぶ範囲であったのです。つまり、力の強い王国は常に国境が膨張し、それに対して、軍事力の弱わまった国は消滅してしまうわけです。つまり、1776年以前までは、固定化した国境などはなかったのです。ですから、古代の国家は、常に軍事力が強い傭兵を、地域や部族に関係なく求めていたのです。
そして、古代の国家と国民国家との軍隊構成の違いは、古代の国家は傭兵により軍隊を組織していたのです。古代の国家は、国民国家ではないので、臣民(奴隷)に武器を渡し、軍事訓練などで優秀な軍人に仕立て上げれば、何時反旗を翻すかわからないから、因果関係のない他部族の軍隊を雇い入れていたのです。そのように、古代の国家の軍隊は、その国の臣民で構成されていたわけではないのです。
紀元前221年、紀元前403年から始まる戦国時代を制して、中国大陸を統一した国が誕生しました。その国は、「秦国」です。その秦国が、列強の燕や楚などを武力で圧倒できたのは、秦国の軍隊の戦い方でした。長い槍を持ち、太鼓の合図で攻撃を仕掛ける歩兵軍団や騎馬戦車そして鎧馬に乗る長い槍を持った騎馬戦士は、漢族の農耕軍団や匈奴などの騎馬軍団とは異なり、強力な軍事力を発揮していたのです。
それらの秦国の軍隊は、色々な国からの寄せ集めでした。長い槍を持ち、集団行動の歩兵軍団はローマ軍の特徴です。鎧馬の騎馬戦士はペルシャ軍です。騎馬戦車はスキタイ軍です。
秦国の王、始皇帝は、軍人であろうと民間人であろうと、有能であれば外国人であろうと、どんどん重用したのでした。財務関係などは、その多くが国際商人のペルシャ人(飛鳥時代に、漢語で波斯人:はしじん。大和言葉で間人:はしひと、と呼ばれていた。)でした。
その始皇帝の祖先は、元々中原にいたわけではなく、漂泊する遊牧民族であったわけです。始皇帝の顔立ちは、漢族のようにノッペリしたのではなく、鼻が高く目がくぼんでいたようです。目の色は、「黒」ではないようです。すだれのある冠を被って、目の色を悟られないようにしていたようです。
秦軍の戦は、敵の首を取ることです。それは、敵の首を取った数が、恩賞の対照となるからです。この戦の評価の仕方は、日本の武士の戦の評価と同じです。そして、秦軍は、窮地に立って、進退に窮すると、自害したのです。これも、日本の武士と同じです。秦軍は、誇りの高い軍隊です。日本の武士も、「武士は食わねど高楊枝」と言われるごとく、誇りを大事にします。何故、秦の軍人と日本の武士との特徴が似ているのでしょうか。(秦国の軍団は、異民族の寄せ集め軍団ですから、規律を破る者に対して、見せしめのため刑罰は残酷を極めたのです。その刑罰の、軽罪は刺青から重罪は獄門さらし首まで、江戸時代の刑罰と類似しているのは何故か。そして、その刑罰を実行する者が、自称源氏の徳川家康から警察補助を委託された、秦氏の末裔の弾左衛門の配下であるのは何故か。更に、日本人は農耕民族であると言われているのに、遊牧民族の割礼の風習が、明治の初めまで高知県、兵庫県、山形県等の一部にあったのは何故か。)
紀元前三世紀、その始皇帝は、徐福という方士(長生術をおこなう呪術師)を蓬莱国(日本列島か)に仙薬を採取するために派遣するのです。

「後漢書」倭伝
秦始皇、法士徐福を遣わし、童男女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れて敢えて還らず。遂にこの洲に止まる。

徐福は、斉の沿岸で盛んになった神仙術士のなかでも、医・薬・化学に長けた方士であったのです。仙薬の主成分は、朱砂(辰砂)です。その朱砂(辰砂)は、中国湖南省と日本列島が産地であったのです。
始皇帝は、大変に神仙術に興味を持っていたので、徐福に仙薬を求めさせるために、技術者、軍隊(ローマ軍・スキタイ軍・ペルシャ軍の末裔)と少年少女三千名を、神仙の聖地である山東半島の煙台より百艘の船に乗せて、蓬莱国へ派遣したのです。
徐福が率いる百艘の船は、中国の山東半島から蓬莱国を目指したのですが、ある集団は九州(博多←伯太←はた←秦←徐福の姓)、更に黒潮を北上して朝鮮半島(辰韓=秦韓。四世紀にギリシャ・ローマ文化を保持した新羅となる。)に、またある集団は和歌山県熊野に辿り着いたようです。(後に、秦氏による中国山東省・朝鮮半島新羅・日本国熊野の国際交易トライアングルを形成。)
その徐福一行が、日本列島に辿り着いた頃が、縄文時代から弥生時代の移行期であったのです。では、弥生時代の黎明期には、徐福一行だけの渡来だったのでしょうか。
縄文人・弥生人などの名称があると、そのような人種が歴史上存在していたように錯覚してしまいますが、そのような人種は存在しません。弥生時代に埋葬された人骨の分析によりますと、縄文人とは異り長身で、面長でノッペリした特徴がある弥生人にも、大男から小男まで色々な民族出身者がいたようです。その中でも華南人の特徴に類似した弥生人の骨が、弥生時代の墓から多く出土するようです。
華南人といえば、紀元前14世紀の地中海で活躍した海洋民族フェニキア(フェニキア語はアルファベットの素。アラム語・ヘブライ語もここから派生した。)の末裔、海洋民族呉・越が思い浮かびます。呉は紀元前473年に滅び、越も紀元前334年に滅び、その多くの亡命者達は、大型外洋船で、黒潮に乗り、朝鮮半島や日本列島各地にたどり着き、時の中国王権により倭(「い」と読む。藤原不比等は、日本書紀で、倭を「わ」と読ませ、「倭→和」に変換し、大の字を加え「大和」を「ヤマト」に変身させ、自らの渡来歴史の抹殺を企画した。ちなみに、倭とは「小さくて醜い」の意味。)と呼ばれる渡来民族(後に、その倭の軍事部族が、北方のツングース族の渡来により合体して物部氏となる。)となるわけです。その倭が、縄文晩期の日本列島に、稲作と戦争と人工神をもたらすのです。
農業は、一般的に「自然」の技のように思われていますが、それは違います。農業は、不自然で、人工的な作業なのです。つまり、自然の摂理に逆らう技術なのです。
人力により、自然の山を切り開き、川の流れを変え、自然に自生している草木(農業者は雑木・雑草と言う。)を切り倒し、農地とし、植物の自然の摂理に逆らい一定の地に同じ植生の植物を多量に植え、ひとの手により管理育成するからです。
人工(農業)は「自然」には勝てません。そこで知恵者(司祭者)が、自然をコントロールできるとする「人工神」を発明するわけです。つまり、人工神は、自然を克服できるとする農業技術の発達の過程で、発明されたものなのです。
しかし、ひとが考え出した物や思考は、時が来れば必ず「ほころび」がくるわけです。ですから、人工神は自然に絶対に勝てませんから、賞味期限が過ぎた神に替わり、その時々に都合のよい神々が発明されるわけです。(農耕民族の無数に存在する神々は、自然に従い畏怖する海洋民族や遊牧民族とは異なり、「自然をコントロールできる」とするところが特徴。)
農業をおこなうには農地が必要です。そこで、自然の地(農業者は荒地と言う。)を開拓(自然を破壊)するわけです。これらの作業をおこなう者は、自然の下に暮らす鹿や猪にとっては、生活圏を破壊する侵略者です。そして、それらの鹿や猪の肉を生活の糧にする狩猟採取の縄文人にとっても、生活圏を破壊する侵略者なのです。そのように、自然に対する考え方が、まったく異なる縄文人と弥生人とが、平和に共存できるはずはありません。つまり、弥生時代とは、平和でのどかな時代ではなく、戦争が日常茶飯事の時代だったのです。
縄文前期と晩期とでは、縄文人の集落形態が大きく異なっていきます。縄文晩期では、集落の周りに深い溝を何重にも掘り、弥生人の外敵に対しての防衛体制(環濠集落)をひくわけです。そして、その集落は平地から山中(さんちゅう)へ移動するわけです。奈良の宇陀の地が、弥生人の侵略に対して弥生晩期まで持ちこたえたのは、活断層があり険しい山奥であったので防衛しやすかったからでしょう。
弥生人が、農業技術と供に戦闘技術を日本列島にもたらした証拠として、縄文時代の墓には見当たらない、首のない人骨や戦闘武器の破片が残る人骨が多く出土することがあげられます。(敵の首を取るのは、秦軍の特徴。漢民族は首狩を行わない。)
農業技術を持った弥生人は、日本列島に上陸した海岸地点付近に集落を造り、しばらくすると、武力を背景に農地確保のために内陸に向け進行していくわけです。
農耕民族にとって農地は、生命維持の源です。ですから、その地を広げ、そして死守するために、軍事武力を行使するわけです。これは、18世紀に誕生した「国民国家」の考え方と同じです。違うのは、弥生時代の国々は、「国民皆兵」ではなく、戦闘専門の傭兵軍により、軍事行動を行っていたことです。
攻める弥生人も必死なら、守る縄文人も必死です。弥生時代の紀元前350年から紀元300年までの650年間は、その侵略速度が遅かったのが、紀元300年から始まる古墳時代になると、その速度が増すのは何故でしょうか。
その前方後円墳の日本列島出現は、何を意味するのでしょうか。短期間に日本列島に普及した、約500メートル級から50メートル級までの大小様々の相似形の古墳は、最新のテクノロジーを集成したもののようです。そのような相似形巨大古墳を、短期間に日本列島各地の活断層近くに造るには、幾何学の知識が絶対に必要です。更に、石室や石棺を造るには、石を削る鋼鉄工具を造る技術が絶対に必要です。そして、巨大な建造物を、10年から20年もかけて建設するには、人事管理と物流管理の技術が必要なのです。しかし、それらの最新技術はその当時の日本列島にはありません。では、これらの最新技術は、何処から誰によりもたらされたのでしょうか。
古墳については謎が多く存在しますが、その中でも不思議なのは、日本国の成り立ちから日本国最初に火葬された女帝持統天皇まで記述してある日本書紀を調べてみても、前方後円墳築造についての記述がみあたらないのです。
日本書紀では、仏教の渡来については詳しく述べているのに、仏教伝来以前に渡来していた道教・景教については何も述べていないように、世界に誇れる前方後円墳の日本列島出現には、藤原氏ならびに天孫族には不都合な何かがあったからなのでしょうか。
古墳が出現するのが紀元3世紀、そして巨大古墳が消滅するのが、騎馬民族末裔の蘇我王朝滅亡時期と同じ紀元7世紀後半です。(飛鳥・奈良時代まで貴族の乗り物として利用された「馬」が、百済亡命貴族統治の平安時代になると「馬」から「牛」になるのは何故か。)それと同時に、大乗仏教寺院が、藤原氏が君臨する奈良の都に乱立するのです。(そのほとんどは九州からの移築ですが。)
それでは、日本国の基礎がどのような複合民族により成り立ち、そして、どのようにして成立していくのかを古墳時代に戻り、日本書紀の闇のベールを剥がしてみることにより解明してみましょう。
死者の埋葬方法は「宗教的」です。部族が存続する限り埋葬方法が替わることはありえません。しかし、葬儀方法は「政治的」です。時代の流れにより葬儀内容は変化します。例えば、仏式の戒名は、キリスト教のホーリーネームからの借用ですが、その戒名制度はトラブルなしに非仏教徒にも受け入れられますが、埋葬方法の土葬から火葬はそうではありません。つまり、埋葬方法は、その渡来部族の宗教歴史を現しているからです。
死者の埋葬方法は、その部族の宗教観念を表したものです。死者がその後、何処へ行くのかは、その部族の「宗教的観念」によるのです。鳥が神の使いと信ずる部族では、死者の肉を鳥についばんでもらい、神の居る地へ死者の霊を運んでもらう「鳥葬」をおこなうわけです。それに対して、ひとは土から生まれたと信ずる部族は、再生のため死者を、深い穴を掘り直接死者を葬り、土に帰すわけです。
そこで疑問が起こるのです。死者を収める石棺は、どのような宗教観念を持った部族により発明されたのか、ということです。この埋葬方法は、死者を土に帰し再生を願う部族とは異なる宗教観念を持った部族のものだからです。と言うことは、巨大古墳を築造した部族は、先住民である縄文人のアミニズム宗教とは全く異なる宗教観を持った部族の渡来を示唆します。
石棺に死者を収める民族を歴史上に求めると、それはエジプトに行き着きます。古代エジプトでは、死者とは魂が抜けている状態であるので、魂が戻るまでその肉体は生前の状態を保たなければならなかったのです。その肉体保存技術が、「ミイラ」です。石棺に死者を収める部族は、その部族が消滅するまで、そのような埋葬方法をおこなうわけです。
その石棺を収める巨大前方後円墳の出現は、教科書歴史では、弥生人のもたらした農業で富を蓄えた地方豪族の墓であると説明しています。(畿内にある巨大古墳は天皇陵であるとの説明です。)では、その地方豪族とは誰なのでしょうか。倭人は、甕棺に死者を埋葬する習慣ですので、石棺の死者は倭人の豪族ではないでしょう。縄文人は土葬であるので、論外です。
日本列島に分かっているだけでも約5200基あるといわれている古墳を発掘調査をすれば、どのような渡来部族・民族が巨大古墳を築造したか簡単に答えが出せるのに、当局のお達しでそれも叶いません。ですから、乏しい資料を駆使して、推測していくことしかできません。
そこで、巨大前方後円墳築造の第一の目的は「墓ではない」との発想の転換を図ることで、何ゆえに日本列島各地に短期間に巨大古墳が出現したかを考えてみることにしましょう。
戦国時代も終わる天正18年(1590年)、織田信長の跡目を藤原氏の謀略により略奪した自称平氏の豊臣秀吉(豊臣氏とは何か。秀吉は日本一の武将を目指し、日本古来のリーダー氏の「源平藤橘」を越える氏を発明した。それが豊臣氏です。その意味は、豊国の臣という意味で、豊国とは北九州の秦王国のことです。ヤマトの地は、元々北九州から侵攻した秦王国だったのです。その秦王国を乗っ取ったのが、日本国の「源平藤橘」だったのです。)は、比叡山や一向宗の仏教軍団壊滅のために散々利用したキリシタン大名達を権力中枢から追い落とし没落させ、高山右近ジュストなどは海の果てのマニラへ追放すると、最大のライバル自称源氏の徳川家康も、辺境の地「穢土=えど=江戸」へ追放するのです。
その当時の江戸の地は、室町時代に活躍した太田道灌が、平氏の末裔千葉氏との戦いの砦としていた、ひとが住めぬ湿地帯であったのです。今では想像ができませんが、江戸の地は、多摩川、荒川、利根川の支流が流れ込み、葦が生い茂る不毛の地であったのです。
しかし、徳川家康は、この豊臣秀吉の家康壊滅の陰謀を素直に受け入れたのです。それは、徳川家康には、秦氏の末裔弾左衛門とのコネクションがあったからです。秦氏は、遠い昔に鍛冶・土木技術を日本列島に持ち込んだ民族だったからです。
徳川家康は、江戸城を造るのに、江戸湾にそそぐ神田堀の大運河を造るために掘り出した厖大な土を盛り上げ、人工山を築いたのです。ですから、太田道灌の砦は、皇居の下10メートルにあるのです。勿論、靖国神社の地も人工山です。更に、徳川家康は、多摩川、荒川、利根川の流れを変え、関東平野を広大な農地にしたのです。その土木事業を支えたのが、弾左衛門一族だったのです。
ですから、関八州の地に、弾左衛門は、灯心草の栽培権を家康から認められていたのです。徳川家康に庇護されていた弾左衛門は、二刀差しの羽織袴で籠により江戸城に登城していたのが、徳川三代目の百済系の血をひく家光(1623年〜1651年)の代になると、新羅系の血をひく弾左衛門一族は、再び賎民へ落とされてしまうのです。更に、徳川五代目綱吉(1680年〜1709年)による「生類憐みの令」発布により、鎌倉時代に発明された「穢多」の汚名を再びきせられてしまうのです。
徳川家康は、江戸城の築城過程において、ひとも住めぬ湿地帯に、大運河を堀りその残土で巨大な人工山を造ることにより、そして、川の流れをかえることにより、ひとも住めぬ湿地帯を広大な農地に変えてしまったのです。更に、それらの工事に従事するひとびとを多く集めたため、江戸の地には、それらの作業人相手の商人達も多数流入してきたのです。
この物語を、前方後円墳築造に当てはめてみると、その出現の謎解明のヒントがあるようです。つまり、「前方後円墳」とは、古墳時代の二重堀の中の巨大人工山にある「江戸城」なのです。
三輪山麓の市(バザール)での交易品である「朱砂」を、喉から手が出るほど求める国際交易商人達は、その朱砂の産地である宇陀の攻略方法を考えるのです。
朱砂は、秦の始皇帝が、徐福に技術者、軍隊、そして童男女三千名を組織させて、見知らぬ蓬莱国に百隻もの船で派遣し求めたように、紀元前三世紀においても大変高価な交易品であったのです。それから六百年後の奈良盆地には、朱砂を求める国際交易商人達で溢れていたことでしょう。
一度目の渡航で徐福一行がたどり着いた紀元前三世紀の畿内は、徳川家康が江戸の地を初めて見たように、淀川や大和川に挟まれた地は、湖あり沼ありの大湿地帯であったのでしょう。湿地帯は自然の城です。(城とは建物の意味ではなく、土を盛り上げた壁の意味。室町時代に平地に建てた砦を城というようになってから「城」は建物のことになった。)
そして、河内地方などは、陸地ではなく、湾であったのです。湿地帯は、攻め難いが、守り易い戦略的な地帯です。徐福が、一度目の航海(紀元前219年)に失敗したのは、稚拙な弓矢と石棒で武装した先住民を見下し攻略を試みたが、湿地帯による防御に手こずったからかもしれません。鯨により渡海が失敗したと始皇帝に言い訳をし、技術者、軍人、そして童男女三千名を組織した二度目の航海(紀元前210年)は、浪速を避けて和歌山県熊野を選んだのは、何かの計画があったからでしょうか。
異教国への侵略への手順にはパターンがあるようです。医者(呪術者・宗教家)→病院設立→学校設立→交易商人→軍事顧問→軍隊進行→植民地、この流れは古今を問わないようです。
徐福は、方士(長生術の呪術者)の中でも、元々医学・薬学・化学についての知識が豊富であったのです。第二回目の渡海において、中国の神仙の聖地である山東半島で、童男女三千名を集めて、渡海訓練をしたとの記述があるのは、医学・薬学・化学の情報習得をさせていたのかもしれません。
日本列島における、徐福渡来伝説の地を探すのは、それほど困難ではありません。それ程、徐福一行の行動範囲は広かったのでしょう。そのように行動範囲を広げられたのは、徐福一行が、先住民から侵略者としてではなく、医療従事者として認めてもらえていたのかもしれません。
そのようにして、日本列島各地で朱砂の産地を探索し特定すると、そこに秘密の印をつけるのです。その印とは、水銀薬を表す「丹」です。「丹」を木枝で作れば、それは、鳥居の原型となります。やがて、朱砂の埋蔵地の印である「丹」は、その意味が時代と供に失われ、新しい権力者(藤原氏)により、前権力者(蘇我氏)を貶めて封じ込める、あの世とこの世との、「結界の印」の「鳥居」へと変化していくわけです。
日本列島の朱砂や水銀鉱脈の近くに、丹生神社があるのは、このためです。しかし、今日に繋がる神社は、前権力者(敗者)の怨霊の祟りを封じ込める施設で、大乗仏教が伝来した後に発明されたことは以前に述べたとおりです。では、徐福の末裔達は、どのような社(やしろ)で、どのような神を祀ったのでしょうか。
三世紀から蘇我稲目が現れるまでの歴史、つまり、古墳が日本列島に現れ全国に普及する歴史を知ることは、645年の藤原氏の陰謀により、蘇我王朝を倒し、その館の蔵書すべてを焚書してしまったためにできません。ましてや、藤原不比等のプロディュースによる日本書紀では全く無理です。それは、そこで書かれた推古天皇までの歴史の多くは、オリエントや朝鮮半島での出来事を素材に創作された物語で、日本列島で起こった事柄ではないからです。
蘇我氏の蔵書が一冊でも存在すれば、日本の古代史も今とは全く異なっていたことでしょう。一体、古墳時代の国際都市の飛鳥では、何語が話されていたのでしょうか。
今の時点では、すべては、外国の史料か日本書紀を裏読みするか、或いは微かに残る史料の断片により類推するしか方法はないようです。
608年、遣隋使小野妹子の倭国についての情報を確かめるために来朝した隋使裴世清の皇帝への報告書によると、北九州には中国本土と同じ暮らしをしている秦王国があり、そこでは多くの文字があったということです。(裴世清は、倭国で男王に謁見しているのですが、日本書紀によりますと、その時の天皇は女帝推古天皇となっているのです。日本書紀よりも後に書かれた古事記が、何故に推古天皇の代で終わっているかの謎はそこにあります。つまり、「同じ記号は消去せよ。」のサイファー式暗号解読法により、古事記の推古天皇までの記述で、日本書紀の推古天皇以前の記述の全てを「否定」しているのです。)
806年、ある事情で奈良の都を放棄したため、古墳時代に秦氏が築いた、中国・朝鮮半島・熊野の国際交易トライアングルの再構築を図るために渡唐し、唐から帰朝した空海は、中国山東半島の寺院で習得した真言密教の呪文、「阿梨・那梨・莵那梨・阿那盧・那覆・拘那覆」を唱えるのです。
この呪文は、イエス・キリストがアラム語で語ったと言われている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」を漢訳したものです。その意味は、「神よ、どうしてわたくしを見捨てるのですか。」です。中国山東半島にアラム語の呪文が存在するのならば、その交易先の日本の熊野にもアラム語の呪文が伝わっていたはずと思われます。
文化や技術は、ひとを介さないと伝播はしません。その伝達手段は、言葉と動作と文字によります。ですから、その時代に使われていた言葉や文字を知れば、古墳時代最後に活躍した蘇我王朝を構成していた渡来民族を確定でき、前方後円墳築造の謎が解明できるのに、蘇我王朝の蔵書のすべては、藤原氏により焚書されてしまったのです。そうしておいて、藤原不比等は日本書紀を創作したのです。古事記は、何度でも言うように、712年ではなく、平安時代の812年に、日本書紀の記述を否定するために創作された、「黙示録」なのです。そのように古事記が読まれては困るひとたちは、史料は真実が書かれていると信じている歴史ファン達に、古事記は国内向け歴史書で、日本書紀は国外向けに書かれた歴史書である、と説明しているようです。
では、飛鳥時代の文字に代わるものはないかと探すと、その民族の精神的シンボルをデザインした「文・もん」にたどりつくのです。そのひとつが、「唐草文」です。
唐草文とは何かと説明するには、団塊世代のひとには、漫才師の東京ポンタが背負っていた風呂敷の模様と言えば理解できるかもしれません。あるいは、時代劇のドロボウが盗品を包む風呂敷の模様と言えば理解できるかもしれません。そのように見下されてしまった唐草文は、飛鳥時代では、高貴な人が使用するデザインであったのです。
唐草文は、英語でパルメットと言い、椰子のパームを語源としているのです。発祥は古代エジプトで、国際交易商人により、ギリシャ・インドへ伝播する過程で、椰子だけではなく、蓮の花もパルメットの仲間入りをするのです。古代エジブトでは、蓮の花は「太陽神」の化身と信じられていたのです。この思想がインドへ伝播すると、蓮の花は、お釈迦様の台座に借用されるのです。漢の時代にインドからパルメットが伝播すると、中国では龍や雲気文がそのパルメットに混じりこむわけです。そして、飛鳥時代、中国からパルメットが伝播すると、すいかずら(忍冬)の模様が取り入れられて、「忍冬唐草模様」が完成するわけです。そのように、飛鳥の都は、古代エジプト文化と繋がっていたのです。そして、それらのオリエントの国々の文化を伝播する国際交易商人が使用する言葉は、主にアラム語だったのです。
文化だけではなく、技術も遠い国から伝播しているようです。鉄製品を作る方法は、二つあります。ひとつは、鉄の塊を熱してたたいて作る鍛鉄法と、もうひとつは、鋳型を作りその型に1525度の高温で熱した鉄を流し込み作る鋳鉄法です。
日本刀の製作は、たたいて鍛える鍛鉄法です。全ての技術が中国からの渡来であるというのならば、日本刀は鋳鉄法で製作されたはずです。中国では金属製品は、その鋳鉄法で生産されていたからです。では、日本の鍛冶屋(江戸時代、何故、鍛冶屋は村はずれに住居したのでしょうか。)が鉄製品を製作する鍛鉄法は何処からもたらされたのでしょうか。そもそも、鍛鉄法の発祥地は何処なのでしょうか。それは、紀元前二千年に、オリエントに興ったヒッタイト帝国です。何故、ヒッタイト帝国で発明された鍛鉄法が、中国の鋳鉄法を乗り越えて、古代の日本列島に伝播したのでしょうか。
巨大前方後円墳を築造する技術のひとつである、鉄器工具製作の技術がヒッタイト(何故かヒッタイト語の文法は、日本語の文法SVOと同じである。)、そして、死者を収める石棺(藤ノ木古墳石棺の各寸法は、古代エジプトの寸法単位の神聖キュビト46cmで割り切れる数値となっている。ちなみに、キュビトとは、ラテン語訳で腕の長さの意味。)への埋葬思想は古代エジプトです。何故、近隣の中国ではなく、それらの技術・思想は遥か遠くのオリエントなのでしょうか。
技術や文化は、言葉や文字により伝播していきます。そこで、日本国の古(いにしえ)を知ろうと日本語の原語探しが江戸時代から始まるのです。その研究に最も影響を与えた学者のひとりとして、仏教嫌いの国学者本居宣長がいます。しかし、本居宣長は、藤原不比等の日本書紀の飛鳥以前の歴史改竄のトリックを見抜けなかったために、後世のひとたちに、日本列島の古代史を理解不能にしてしまったのです。(このことが、藤原不比等の企画したことです。)
本居宣長は、実際は812年に完成した古事記を、日本書紀(720年)よりも八年も早く完成していたので、日本古来のことを「やまとことば」で記述していると錯覚してしまったのです。古事記は奈良時代ではなく平安時代に、秦氏の末裔で万葉語学者・日本書紀解説者である多人長が記述した、藤原不比等の日本書紀のトリックを見抜くための解説書の「黙示録」であるのに、中国文化・仏教憎しの本居宣長は、「やまとことば」で記述している古事記(古事記も漢語で記述。)こそ日本の「まこと」が記述されたものであり、漢語で記述された中国文化・日本書紀を否定するものだ、と確信してしまったのです。
古事記が、日本書紀の記述を否定する事例のひとつとして、日本列島国に最初に出現する「尊・神」があります。日本書紀では、国常立尊(くにとこたちのみこと)で、古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬし)です。国常立尊とは、「この国を建てたのは常(トコ→トーコ→東湖→ツングース族の一派)の王である。」、と言う意味です。それを否定する多人長は古事記で、天之御中主神が日本列島国の最初の神である、と主張するのです。つまり、天之御中主神とは、天の真ん中に座す北極星(天皇)で、それは、今の平安の都に君臨する百済系天皇ではなく、騎馬民族・新羅系蘇我氏の流れにある天武天皇である、と主張するのです。
本居宣長は、漢語で記述してある三巻の古事記を「やまとことば」で再録して、四十四巻の「古事記伝」として寛政10年(1798年)に完成させるのです。この古事記伝の神話を素に、後日、日本国の神々のイメージが構築されてしまうのです。そして、天武天皇が建立した、倭とツングース族の末裔外物部氏の神を祀る「道教の観」である伊勢神宮は、藤原氏によりユダヤ教に類似した中臣神道に乗っ取られてしまっているのに、日本古来の皇祖神の社であると本居宣長は勘違いしてしまうのです。このことにより、実際は、仏寺の後に開発された神社は、仏寺より古くから存在していたと、後世の人は信じ込んでしまうのです。(この本居宣長の日本国の皇祖神を祀る伊勢神宮との誤った思想は、秦氏の末裔十字家紋の島津氏が支配する薩摩国に隠棲する藤原氏の本流近衛家により、明治維新の道具として、再び利用されてしまうのです。)
日本語の原語は、今現在も分かっていません。ある言語学者は、その基は、ウラル・アルタイ語であると言い、またある学者はトラヴィダ語(タミル語)と言い、またある学者は、万葉集は古代朝鮮語で解読できると言います。しかし、どれもこれも核心を突いていないようです。
工藤進氏著書の「日本語はどこから生まれたか」−「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説−によりますと、「日本列島の縄文時代前期の言語と、中央アジアまで来ていた印欧祖語(ギリシャ・ラテン語、インド・イラン語、バルト・スラブ語、ケルト・ゲルマン語の原語)とは通底していた。」と、氏は確信しているようです。(縄文時代、バルト海沿岸と岩手県久慈は琥珀ロードで繋がっていた。)
そのようなグローバルな視点で「やまとことば」の語源を調べることにより、古代「ヤマト」の地にどのような部族・民族が生活していたかを知る手掛かりが得られそうです。
蝶は、「やまとことば」では、「てふてふ」と言うそうです。では、その「てふてふ」とは、どのような語源からきているのかの納得できる説明を探すのは困難なようです。しかし、語源を朝鮮・中国語の視点から印欧祖語まで広げると、その解説が納得できそうです。「てふてふ」の「てふ」とは、古代エジプト語では、ひも結びのことです。つまり、蝶結びのことを「てふ」と言うのです。(日本語の漢字読みには、音読みと訓読みとがあります。音読みは中国語読みで、訓読みは日本語に置き換えた読み方と言われています。しかし、意味が分からない時、音読みをアラム語「爾宿=すくね=勇者、間人=はしひと=ペルシャ人」、訓読みを古代エジプト語で読むと、その言葉の本来の意味が分かるかもしれません。)
そのように、「やまとことば」の語源を古代エジプトに求めると、色々な「やまとことば」の意味が解明できるようです。例えば、「やまとことば」の「水」に関する言葉は、N音、M音、W音に収束できるようです。一例として、「ワダツミ」とは、ワタ(波)タツ(起こる)ミ(神)=「海神」、と言うことです。
W音は、水に関する「ことば」を意味します。「ワタ」とは、「波」のことです。これが、朝鮮に伝播すると「パタ・海」となるわけです。ですから、渡辺氏の「わたなべ」とは、「波の訪れる所=湊・津」の意味です。浪速(ローラン:紀元二世紀に高句麗の楽浪/ローランから渡来した部族の湊・後の難波。)近くにできた飛鳥・奈良時代の「湊=津」が、「渡辺津」(ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した部族の湊。吉野・熊野への交易ルート基地。その交易道は後に、熊野詣の参道となる。源平合戦では、源義経が屋島への出陣地となる。ローマ軍の末裔の新羅花郎軍団が源氏軍の基。)と呼ばれるのは、正に「波の訪れる所」であるわけです。
異民族が、交易等で最初に使う言葉は、数に関する言葉です。では、ヤマトでは、どのような数に関する言葉が使われていたのでしょうか。日本語では、数に関する言葉は、大きく分けると二系統です。ひとつは、「ひぃ、ふ、み、よ、いつ、む、」で、もうひとつは「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぅ、ろく」です。何故、数をかぞえるのに二系統の言葉が存在するのでしょうか。それは、その言葉を使う民族が異なっていたからです。
「ひぃ、ふ、み、よ」は、今でも商人が商品をかぞえる時に使う言葉です。これは元々砂漠国楼蘭/ローランからの渡来の国際交易商人部族が古代で使っていた言葉だからです。それに対して、「いち、にぃ、さん、しぃ」は、数をかぞえるよりは、多人数の力をあわせて行動を調整する時に使う軍事部族の言葉です。今でも、軍事歩行の掛け声は、「いち、にぃ、さん、しぃ」です。
その「いち、にぃ、さん、しぃ」の言葉は、どこから日本列島に来たのでしょうか。中国には、秦始皇帝の末裔と信じる「客家・はっか」という民族がいます。客家は、円楼と呼ばれる城郭に集団で生活しています。かれらの生活信条は、「克苦耐労」、「剛健弘毅」、「創業勤勉」、「団結奮闘」です。そして、客家は、軍人か警官になることを好むようです。その客家が使う数字読みが、「いっ、にー、さーむ、しー」です。
秦始皇帝の末裔とは、紀元前三世紀の徐福一族も名乗っていました。そして、徐福の姓のひとつは、「秦氏」です。客家が秦始皇帝の末裔であるならば、徐福の末裔秦氏も日本列島で、「いっ、にー、さーむ、しー」と言いながら朱砂を集団で力をあわせ採取していたことでしょう。
弥生時代には、人口増加があまり認められないのに、三世紀の古墳時代にはいると人口は全国的に急激に増加するのです。これは、弥生人のもたらした農業技術の発展による自然増などではなく、中国国内の漢民族と騎馬遊牧民族との覇権争いを逃れるための軍事部族と、日本列島の天然資源開発を目論む国際交易商人達による、開発技術者達の集団渡来によるのです。
その日本列島侵略渡来民族を阻止する武装縄文人を懐柔して、異民族の集団渡来を可能にしたひとつが、前方後円墳築造です。前方後円墳築造は、異民族国に侵入するための有効な手段となります。それは、学校設立と同じ目的を達成できるからです。
侵入者は、侵略の前に、異民族の中から同調者を育成する必要があります。それは、その同調者から侵略する国の軍事情報を得るためです。いつの時代でも、宗教組織の学校経営として、仏寺や教会で、原住民の師弟を教育する目的のひとつは、侵略国(布教国)同調者育成なのです。
湿地帯の葦の生い茂るヤマトの盆地では、弥生後期でも、山中に隠れ稚拙な武器で攻撃をしているエウカシのような勇敢な縄文人が活躍していたのです。湿地帯は、頑強な防御施設となります。特に、騎馬民族の軍事行動阻止には有効です。ですから、侵略軍は軍馬を有効に使うには、湿地帯を平地にする必要があるのです。
いつの時代でも、何処においても、異文化に強く興味を持つのは、壮年ではなく、若者です。その異民族の若者達に、前方後円墳築造のために、運河を掘らせたり、山を切り崩させたりの仕事をわずかな報酬で依頼し、「いっ、にー、さーむ、しー」の掛け声にあわせて集団行動の訓練をし、その前方後円墳築造過程で徐々に異文化の「思想」や「ことば」を刷り込み、そして、同調者へ変身した若者達に、土木道具の鍬や鋤の代わりに、槍や弓などの武器を渡せば、それにより現地軍の組織が完成するわけです。
宇陀の山中の強固な砦に陣取るエウカシは、侵略軍により組織された現地軍のオトウトカシに破れたのは、「夷を以って、夷を制す。」戦略に敗れたのです。
前方後円墳が完成した地域は、湿地帯から平地となり、堀は湊に続く運河となります。ヤマトの地にある運河や道幅12mもある軍事道路は、大阪湾にある浪速や渡辺津に続くわけです。その先は、中国山東半島、高句麗、百済、そして新羅に繋がり、その先は、南海ロード、シルクロード、そして草原ロードによりエジプト、オリエント、ローマへと繋がるわけです。前方後円墳築造により、湿地帯から平地になったヤマトの地には、朱砂、水銀、銀などを求めるアラム語やエジプト語などを話す各国の国際交易商人達で賑やかだったことでしょう。そのように異民族が集まれば、当然利権争いが起こります。そこで、軍事部族の登場となるわけです。
古墳時代に日本列島に渡来した軍事部族を知るには困難が生じます。それは、古墳時代最後の蘇我王朝が645年その歴史と供に抹殺され、713年には、風土記作成と好字令の発令により、日本列島各地にあったグローバルな歴史は箱庭物語のように矮小化され、そして、土地名や豪族名は日本名の二字として改竄されてしまったからです。更に、風土記(713年撰上の詔)、日本書紀(720年完成)、そして万葉集(759年完成)などの創作物語や「やまとことば」による歌で、過去のグローバルな歴史が隠蔽されてしまえば、古代日本国建国の真実は闇の中です。
日本列島の古墳時代(三世紀〜七世紀)は、朝鮮半島の三国軍事紛争時代と重なります。漢族とツングース族との紀元前一世紀建国の高句麗。倭族、韓族と扶余族との346年建国の百済。倭族、韓族とギリシャ・ローマ文化を保持する民族との356年建国の新羅。その高句麗、百済、そして新羅の三国が、朝鮮半島で資源獲得のために覇権をとなえるのと同じように、紀元四世紀に資源奪取のため未開拓の日本列島に侵攻し、三国の軍事部族が経済支配を目指し争いをおこなうわけです。
高句麗は373年、百済は385年に中国王権の圧力により、シャーマン宗教国から仏教国になるのです。それは、大乗仏教は、困窮する民を救うためではなく、殺生禁止のお題目により、異民族、特に勇猛な騎馬遊牧民族を統治するには有効だからです。(大乗仏教の基であるバラモン教は、その「殺生禁止」の教義により遊牧民族の生活基盤を破壊し、遊牧民族トラヴィダ部族を賎民としてしまった。)
しかし、ギリシャ・ローマ文化国新羅が仏教国になるのは528年です。この宗教の違いが、ヤマトの地での支配地を分けたようです。
国際バザールが開催される三輪山麓の海石榴市(つばきち)は、先住民の力が依然強いため、前方後円墳築造がかないません。せいぜい国中(くんなか)の桜井の地の南までが、侵略軍の支配地です。ですから、三輪山を挟んで、新羅支配地(後の磯城)と高句麗・百済支配地(後の葛城)とに分かれるのです。
その新羅と高句麗・百済の進駐軍事部族がにらみ合うヤマトの地に、536年(宣化元年)突如、馬冑・鎧馬に乗る鎧武者が現れるのです。それが、蘇我稲目です。
五世紀末頃、何処からともなく橿原市曽我町あたりに、蘇我氏の先祖が現れるのです。六世紀初期には、蘇我氏の先祖は、曽我川に沿って南に勢力を広げ、畝傍山の南をまわり桧隈・身狭そして飛鳥へ侵攻するのです。それらの地は、後の巨勢氏、紀氏、平群氏、葛城氏に変身する渡来人の居住地であるわけです。
そして、飛鳥の地に侵攻した蘇我稲目は、飛鳥川に沿う湿地帯にある丘の上に頑強な砦を築くのです。それは、その地が、朱砂の埋蔵地の宇陀から三輪山麓で開催されるバザールへの交易道の主要地であったのと、三輪山の地の背後地で、先住民を征服した倭族とツングース族の混成軍事部族の物部氏や大伴氏の襲撃から守りやすかったからです。
蘇我氏が元々ヤマトの住人(強いて言えば、ヤマトの先住人は縄文人。歴史上日本人が生まれるのは七世紀。)ではなく、遥か海の彼方からの渡来人である証拠に、この飛鳥の地には、不思議な石造物やオリエント系噴水のある庭園やガラス器製造工場遺跡等が多く発掘されるのです。
蘇我氏も、秦氏と同じに、多くの謎があるようです。蘇我氏は、「上宮聖徳法王帝説」には「巷奇・こうき」とあり、「元興寺縁起」には「巷宜・こうぎ」とあります。それらの意味は、「甲賀」(甲賀忍者の対抗忍者服部氏は秦氏の末裔。)の語源の「コーカサス」と言うことです。
蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘は、「刀自子の郎女・いらつめ」と言われています。刀自子とは、トルコ(turk/チュルク・突厥は、チュルクの音写による漢語。遊牧民族の突厥は、漢族式鋳鉄ではなく、ヒッタイト系鍛鉄技術で鉄製武器を造っていた。)の漢語訳「土耳古」の「とじこ」です。つまり、蘇我馬子の娘は、「トルコの娘」と言われていたわけです。(昭和の終わり頃まで、藤原氏の末裔は、蘇我氏の末裔を貶める目的で、特殊浴場を「トルコ風呂」と言っていた。)
トルコ民族の先祖は遊牧民族のため、ユーラシア大陸で広範囲な移動をしていました。そのトルコ民族がオリエント諸国と遭遇するのは、紀元前のペルシャ帝国からです。
紀元前722年、イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされ、そのアッシリア帝国も紀元前612年メディア王国に滅ぼされ、そのメディア王国も紀元前550年にペルシャ帝国に滅ぼされるのです。
ペルシャ帝国は交易立国であったので、国際交易商人の顔を持ち、ユーラシア大陸の隅々まで騎馬で移動する遊牧民族のトルコ(突厥)とは友好関係を構築できたのです。しかし、そのペルシャ帝国も紀元前四世紀には、ギリシャ系のアレクサンダー大王に支配されてしまうのです。
イスラエル王国を滅ぼし、イスラエル十部族(エジプトの神官が勝手に神々を発明し王族を支配している状況を打破するため、紀元前十四世紀に、アメンホテプ四世・イクナトンは、オリエントの太陽神ミトラを基に唯一神アトンを発明し、新都アケトアテン建設を実行するのです。そこへ、鉄器を発明したヒッタイト帝国からエジプトへ移住した鍛冶集団がいるのです。それがヨセフ族です。ヨセフ族は、エジプトの地で石切、運河の掘削、都市建設、人事・物流管理の技術を習得するのです。やがてヨセフ族は、太陽神アトンを信仰し、その化身の牡牛を祀るのです。紀元前1358年イクナトンが崩御すると、多神教の神を祀る神官達の巻き返しが興り、ヨセフ族の末裔はエジプトを去るのです。それがイスラエル民族の始まりです。太陽神を祀るイスラエル民族は、イスラエルを乗っ取るため、ヤコブ物語を捏造し、ヤコブをヨセフの父とした、唯一神ヤーヴェを祀る漂泊民族のレビ族の末裔のユダヤ民族が、紀元前六世紀のバビロン捕囚時に創作した、モーセ物語を知らない。太陽神アトンとその化身の牡牛を祀るイスラエル民族と、偶像崇拝を否定し唯一神ヤーヴェを祀るユダヤ民族とは同じ民族ではない。)を飲み込んだアッシリア帝国も、交易立国です。広く外国と交易をおこなっていたのです。そして、それらの商人達が使う言葉は、海洋民族フェニキア人が国際交易の場で使用していた「アラム語」だったのです。そのアッシリア帝国を滅ぼしたペルシャ帝国もアラム語で交易をしていたのです。
ペルシャ帝国の版図を飲み込んだアレクサンドル王領は、マウリャ朝インド文化と接触すると、そのことによりギリシャ文化とインド文化が融合するヘレニズム文化が興るのです。つまり、西洋文化と東洋文化との融合です。この文化の融合が、紀元前二世紀から、大月氏国(バクトリアの後継国)により、西洋と東洋との交易の架け橋の基となるわけです。そして、このヘレニズム文化が花咲くアラム語が話される大月氏国の地(後のガンダーラ)で、キリスト教(ギリシャ語聖書が書かれたのは大月氏国か。)と大乗仏教(ギリシャ系仏像の制作地は大月氏国か。)の「奇跡物語の基」が、国際交易商人により創作されるのです。(日本仏教に多大の影響を与えた日本密教を発明した錬金術師空海が、アラム語の呪文を唱えた原因のひとつと言われるのが、キリスト教大乗仏教一卵性双生児説です。)
国際交易国家大月氏国(月で表現される国は、トルコ系国。月・星はトルコの神聖なシンボル。)は、太陽神ミトラから発生した拝火のゾロアスター教(紀元前六世紀成立)の伝道国でもあったのです。何故か、そのゾロアスター教が、遥か極東の蘇我氏が支配する飛鳥の地にも渡来していたのです。
西域文化溢れる飛鳥時代には、どのような歴史があったのでしょうか。その歴史を知る糸口のひとつは、随書倭国伝にある、608年に渡来した隋使裴世清の報告でしょう。難波から上陸した裴世清は、桜井の地近くの「イワレ」で「男王」に謁見し、中国人と同じハイレベルな文化を持った人々を確認していたのです。では、隋使裴世清が遭遇した中国人と同じハイレベルな人々とは誰なのでしょうか。
しかし、その時期は、日本書紀によれば、日本人の先祖であるヤマト人が崇める女帝推古天皇の時代なのです。そして、聖徳太子が活躍し、更に、聖徳太子の行動をバックアップする秦河勝も活躍していたのです。藤原不比等は、日本書紀で飛鳥時代の何を隠そうとしたのでしょうか。
謎の時代・飛鳥の時代前後に起こった内外の出来事を列記してみましょう。そのことにより、日本書紀が何を隠そうとしたかを知ることができるかもしれません。

446年、鮮卑一派の拓跋部支配の北魏、仏教弾圧。道教の隆盛。200万の仏教僧侶国外脱出。
504年、梁、仏教を国教とする。
523年〜28年、北魏、人民の反乱。
527年、筑紫国造磐井の反乱。
528年、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅が仏教国となる。
536年、蘇我稲目、飛鳥に現る。
538年、百済より仏教伝来。(?)
544年、肅愼人(みしはせ)、佐渡に漂着。
552年、突厥帝国成立。
568年、東ローマ帝国の返使ゼマルクス突厥庭に入る。(庭とは神の宿る場所。神聖な朝廷のこと。)
581年、隋成立。
582年、突厥、隋に侵攻。
583年、突厥、東西に分裂。
584年、隋、突厥に侵攻して勝つ。
585年、物部守屋等仏寺・仏像を焼き棄つ。
587年、蘇我氏、物部氏を滅ぼす。
589年、隋、中国統一。
600年、大和朝廷(実は秦王国)隋に遣使。
602年、百済、新羅を侵して敗れる。
607年、蘇我氏、ヤマト防衛のため国ごとに屯倉を置く。
608年、隋使、小野妹子を伴い来朝。小野妹子再び入隋。
609年、小野妹子帰朝。
618年、隋滅び、唐興る。
627年、百済、新羅を攻める。新羅、唐に救いを求める。
630年、唐の攻撃により、東突厥散ず。
645年、蘇我王朝滅亡。

飛鳥時代の東アジアでは、鮮卑系の騎馬民族が支配する北魏→隋→唐と、チュルク系騎馬民族が支配する突厥とが、中国大陸の南と北の領地をめぐり闘争を繰り広げていた時代であったのです。
地政学的には、北魏・隋・唐は、朝鮮半島を突厥側に支配されてしまえば、遼東・山東の側面を海側から攻撃されてしまうわけです。
しかし、朝鮮半島は、仏教国の高句麗・百済と、ギリシャ・ローマ文化国の新羅とで覇権を競っていたのです。では、突厥が、その朝鮮半島を支配するにはどのようにしたらよいのでしょうか。
東アジアの地図を百八十度回転させ、南側を上にすれば、日本海は内海となり、日本列島はシベリアの地から朝鮮半島に続く地となるわけです。つまり、日本列島の中心地ヤマトを押さえれば、日本列島全土を、朝鮮半島を攻撃する基地にすることが可能となるわけです。
しかし、紀元五世紀における突厥の本隊は中央ユーラシアでの小国として、近隣諸国と対峙していたわけです。その時期の日本列島のヤマトでは既に、エジプトで開発され高句麗経由の横穴式石室を持つ巨大前方後円墳の築造により、先住民のオオクニヌシやナガスネヒコ等は、高句麗・百済の進駐軍事部族(後の物部氏・大伴氏)により畿内の山奥か、畿外の地に追い払われていたわけです。
五世紀の三輪山麓のヤマトは、高句麗・百済支配地と新羅支配地を交易地として、国際交易商人が宇陀地方から産出される朱砂を奪取していたのです。その地を武力で制圧していたのが、高句麗・百済をバックとした倭族とツングース族の混合軍事部族の物部氏であるわけです。と言うことは、物部氏を倒せば、ヤマトを武力で支配できるわけです。と同時に、高句麗・百済勢力もヤマトの地から駆逐できるわけです。
国際交易港の大阪湾の浪速(後の難波)は、「ローラン」と言われるように、高句麗の楽浪(ローラン)と海路で繋がっているわけです。そこで、蘇我氏の先祖は、高句麗支配の浪速を避け、和歌山県に流れる紀ノ川河口に勢力を張る軍事部族(後の紀氏)に接近するわけです。この紀ノ川支流は、ギリシャ・ローマ系の金装飾品やガラス器の埋蔵物が多く発掘される古墳群があるように、非仏教国新羅からの渡来部族の基地だったのです。
六世紀、突厥は突如中央ユーラシアから西東に膨張し、西はササン朝ペルシャ、東は北魏と対峙する大帝国に発展するわけです。そして、552年突厥帝国が興るわけです。その流れで、突厥帝国に駆逐された他民族は周辺国へ逃避するわけです。
朝鮮半島も、突厥に侵攻された柔然(蠕蠕・ぜぜ/日本列島に渡来し近江の「膳所」となる。)が東進することにより、高句麗が南下し、百済や新羅を圧迫するわけです。
高句麗は、372年前秦の圧力により仏教国となり、百済は、384年東晉の圧力により仏教国となっていたのです。しかし、新羅は528年までは、仏教国ではなかったのです。高句麗と百済は、仏教により繋がりがあったのですが、新羅とは思想上繋がりは527年までありません。528年仏教国となった新羅から駆逐された非仏教部族は、何処へ逃避したのでしょうか。
朝鮮半島最南端は、百済にも新羅にも属さない倭族が支配する無法地帯です。半島倭族は北九州の倭族と海路を利用して、朝鮮半島と日本列島との海上交易経営をしていたのです。半島倭族と北九州倭族は、元々海洋民族「呉・越」の末裔の同族ですので、玄界灘は庭先のようなものです。その半島倭族と新羅から駆逐された非仏教部族とが、高句麗軍により半島から駆逐され、北九州に渡来すると、北九州先住民族との戦争が起こるわけです。それが527年の「筑紫国造磐井の反乱」の実態でしょう。その後に、隋使裴世清が目撃した、中国人そっくりの高度文化を保持した「秦王国」が興るわけです。
徐福の末裔の秦氏は、紀伊半島熊野、新羅、中国山東半島とのトライアングルにより、朱砂の交易を弥生時代からおこなっていたのです。その新羅と中国山東半島との交易港は、北九州博多(はかた・伯太・はた・秦)であるわけです。秦氏は、石切、運河掘削、都市建設、鍛造製鉄器具製作、人事・物流管理の技術集団であるわけです。秦氏の技術は、前方後円墳築造に貢献したことでしょう。と言うことは、当然ヤマトの地にも拠点があったわけです。
蘇我稲目が、騎馬による圧倒的軍事力でヤマトを制圧すると、飛鳥の地に、水銀製造工場 、金属工場、ガラス工場施設が建設されるのです。この工場施設建設にも秦氏の技術が利用されるわけです。
騎馬民族は、スキタイ帝国の金メッキ技術開発の例にもあるように、研究・開発型交易民族でもあるわけです。そして、馬による物流だけではなく、工業製品や装飾製品を開発・製造するノウハウを駆使して、広範囲に交易地を広げる民族でもあるわけです。スキタイ、突厥、モンゴル帝国も、その版図が世界的スケールで広がるのは、騎馬民族には国際交易商人の思想が元々あったからです。
608年、隋使裴世清が突如来朝したのは、蘇我王朝のテングリ(天子)・蘇我馬子が、隋のテングリ(天子)・陽帝に交易依願に対しての、交易品製造工場視察であったのでしょう。小野妹子が持ち込んだギリシャ・ローマ製品に劣らぬ交易品サンプル「貴金属製品・ガラス器」の精巧さは、陽帝を驚かせたことでしょう。それでも、隋の陽帝は、東海の小島国で「テングリ」を名乗る蘇我王国を信用できず、工場視察を裴世清に命じたのでしょう。その視察でヤマトで見たものは、中国と同じ高度文化を誇る飛鳥工場施設群であったのでしょう。この交易交渉が即決となったのは、すぐさま小野妹子は隋に旅立ったことからでも推察できます。それにしても、一年のうちに隋とヤマトを往復できるほど、飛鳥時代の航海術は優れていたのです。しかし、平安時代になると遣唐使船の遭難は日常茶飯事でした。これは何を意味しているのでしょうか。
そこで疑問が起こるのです。そのようなチュルク系騎馬民族の蘇我氏により輸出製品製作工場を建設し、広く海外と国際交易が行われた飛鳥時代に、日本書紀は、何故「女帝推古天皇」(当時天皇は存在していなかった。天皇の初めは、天武天皇。天皇の表号は、騎馬民族の「テングリ」が基。)や「聖徳太子」を登場させたのでしょうか。
その時代に「女帝」など存在しなかったことは、隋使裴世清が「男王」に謁見したことで証明できるでしょう。更に、その時代に摂政聖徳太子(厩戸皇子・キリスト?)が存在していなかったことは、「摂政」とは、858年に藤原良房が始めの「官職」であったことで証明できるでしょう。
そのように日本書紀が架空の人物を創造する根拠は、蘇我氏と秦氏の「実体」を隠す必要があったからでしょう。だとすると、秦河勝が広隆寺を建造し、大乗仏教を蘇我馬子と聖徳太子が広めたという「物語」は、何を意味しているのでしょうか。
大乗仏教には多くの謎があるようです。その渡来の謎もさることながら、仏教隆盛の地である奈良にある南都六宗の東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の末寺が、平安京にはひとつもないのです。宗教活動の基本は布教です。京の都に奈良の末寺がないのは、何を意味しているのでしょうか。そして、平安京遷都初期には仏寺がなかったのです。今現在の京都の仏寺の多くは、鎌倉時代以降の創建なのです。
平安時代、都の仏教は、唐留学一年の最澄の天台宗と二年の空海(空海は、渡唐一年前に仏籍に入る。)の真言宗の「新興仏教」が取り仕切るのです。この仏教の奈良と京の関係の謎を解くヒントは、飛鳥時代にあるようです。
仏教の教祖は、「ほとけ」と言われています。しかし、日本列島における隠語では、「ほとけ」は「死人」を意味しているのです。この落差は、何を意味しているのでしょうか。
「ほとけ」とは、朝鮮語で「ブッダ」のことです。ブッダのサンスクリット語を漢訳すると、「浮屠」(ふと)となります。この「ふと」に朝鮮語での尊敬語尾の「け」を加えて、「ふとけ」が、日本列島に渡来すると「ほとけ」に変化するわけです。
大乗仏教は、本当に538年に、蘇我稲目によりアスカの都に受け入れられたのでしょうか。どうも大乗仏教は、「日本書紀」が記述しているように、飛鳥時代には受け入れられていなかったようです。
大乗仏教の渡来時期は、「日本書紀」によれば欽明天皇十三年(552年)、「元興寺縁起」、「上宮聖徳法王帝説」では欽明天皇七年(538年)となっているようです。しかし、この渡来時期には多いなる疑問が生じます。それは、703年に漢訳された「最勝王経」の如来寿量品の文章ソックリが、538年(552年?)に百済王聖明が伝えたという表文に用いられているからです。
703年に漢訳された文章では、

是の金光明最勝王経は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。声聞・縁覚も、尚し知りたまふこと能はず此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す

552年百済王聖明の「日本書紀」の文章では、

是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す

更に、仏教伝来に関する謎は、蘇我稲目と物部尾興との、「蕃神・仏」を祀るかどうかの崇仏・廃仏論争です。これも、ソックリ物語が、「高僧伝」巻九の仏図澄伝にあるのです。その物語の舞台は中国です。後趙王の石虎が仏教導入の是非について諮問したところ、中書の王度が「蕃神・仏」を祀ることを反対するのです。しかし、石虎はそれに対して「仏」(戎神・異民族の神)を祀るのです。
そのように仏教伝来物語には多くの謎があるのですが、更に、日本書記には多くのトリックが隠されているようです。それは、「神」と「神社」についてです。
女帝推古天皇が支配する飛鳥時代に、在来の「神」と戦い、勝利したのが「仏」であった、と言うのが「日本書紀」における、仏教伝来物語です。では、在来の「神」とは何でしょうか。
一般的常識では、「神社」とは神代の昔から存在した日本国最古の建物である、ということです。しかし、神社とは、仏教渡来以降の寺院の影響下で開発された「祟り封じ」の建築物であるわけです。
日本列島の在来の神(かむい・カムイと言えば、団塊世代のひとは白土三平氏劇画「カムイ伝」を思い浮かべることでしょう。それは、江戸時代前期、反体制の非人部落の日常を描いた物語です。しかし、そこに描かれている物語は、実際は「穢多部落」です。穢多は、鎌倉時代に、藤原氏、百済系日本人、海洋民族末裔物部氏の流れにある北条氏により、インドからもたらされた「セダラ」民族差別思想を基に、騎馬民族末裔蘇我氏・秦氏・新羅系日本人を貶めるために発明された「蔑称」です。鎌倉時代、騎馬民族新羅の末裔源頼朝一族を抹殺した、海洋民族の末裔北条氏による騎馬民族「源氏」壊滅戦略により、その思想を庶民に布教したのが、平安時代に空海・最澄が発明したヒンズー教化仏教に染まった鎌倉仏教僧侶達です。飛鳥時代は、自然神を祀る騎馬民族が統治した時代で、農業神の人工神の仏教の時代などではなかったのです。)は、仏教神の人工神とは異なり、自然神であるので姿形がありません。姿形がないので、「かむい」を祀る建物(神社)など日本列島にはどこにも存在していなかったのです。ですから、オオクニヌシ・ナガスネヒコが外敵から死守したヤマトの三輪山には「神社」など存在しないわけです。(「出雲風土記」のトリックは、オオクニヌシを、畿内ではなく、島根県出雲の住人としていることです。オオクニヌシは、弥生時代に畿内三輪山を統治していた先住民の部族長だったのです。)
そこで疑問が起こるのです。それは、仏教と戦ったのは「何神」かということです。神道でないことは確かです。神道は、天武天皇崩御後、藤原氏が支配する中臣氏により発明されたものだからです。
蘇我稲目が崇仏で、物部尾興が廃仏であると、「日本書紀」は記述していますが、では物部氏はどのような「神」を祀っていたのでしょうか。
物部氏は、倭族とツングース族との混合軍事部族の末裔です。そして、日本列島には、高句麗の軍事部族として渡来したわけです。高句麗は、372年に仏教国となっています。と言うことは、物部氏は仏教の影響を受けていたことでしょう。
蘇我氏は、騎馬民族チュルク系の末裔です。チュルク族は、自然神の月・星を祀る民族です。自然神を祀る民族が、蕃神の人工神の仏を外国から導入する根拠が希薄です。
しかし、日本書紀では、蘇我氏が崇仏で、物部氏が廃仏となっています。これはどういうことなのでしょうか。
日本書紀に、蘇我氏と物部氏の宗教戦争が二度も記述してあるのは何故でしょう。そして、二度目の戦争で、崇仏派の蘇我馬子により廃仏派の物部氏は壊滅され、仏教が世に広まったと記述しているのです。
では、仏教と戦った「神」とは、どのような神が考えられるのでしょうか。それは、「道教」と「景教」(太陽神ミトラを祀る教え。一般的に、景教をネストリウス系キリスト教であると認識されているようですが、キリスト教は、ミトラ教の教義・儀式・誕生日等多く取り込んでいる。)です。
飛鳥時代に活躍した部族として、軍事部族の蘇我氏と技術部族の秦氏があげられます。蘇我氏はチュルクの末裔なので、月・星を祀っていました。では、秦氏は何を祀っていたかといえば、太陽神とその化身の牡牛です。
しかし、歴史上、藤原不比等の日本書紀によれば、大乗仏教と中臣神道は存在するが、日本列島には、蘇我氏と秦氏の神は存在していなかったことになっているのです。これは、392年ローマ帝国の国教にキリスト教がなった時、それ以前まで存在していた「ミトラ教」の存在を歴史的抹殺により、消してしまったことと共通しているようです。
道教と景教との共通点は、天にあるものを祀っていることです。道教は北極星(太一)を祀り、景教は太陽(ミトラ)を祀っていたのです。
645年蘇我王朝の崩壊と供に、蘇我氏と秦氏の神々は、王権の支配地から追放され、抹殺されていくわけです。飛鳥の地では、蘇我氏の神を祀る「パオ」に似せた八角形の社は、破壊されその上に飛鳥寺が新築されるわけです。山背の地では、秦氏の神を祀る景教寺は破壊され、その上に広隆寺が新築されるわけです。このことは、四世紀のローマ帝国でおこなわれた、ミトラ神殿を破壊して、その上にキリスト教教会を新築して、ミトラ教を歴史上から抹殺した戦術と同じです。やがて時代と供に、戦いに敗れた神々はひとびとから忘れられ、悪神・穢れ神として王権から貶められていくわけです。
藤原氏と百済系亡命貴族により、奈良の都から平安京に都が移され、新しい宗教が最澄と空海により発明されるわけです。しかし、その都に不思議な神様が賎民達により祀られていたのです。それらは、穢れ神「牛頭天皇」と「魔多羅神」です。
魔多羅神は、秦氏の元支配地の比叡山の神様でした。平安時代、百済系桓武天皇により、秦氏が比叡山から追放されると、最澄が天台宗を興し、比叡山に延暦寺を建立し、中国山東半島と交易をするわけです。
比叡山には、もうひとりの神様がいました。王権に反抗しない蕃神は幸福です。その神は、中国天台山の土俗信仰神「山王・シャンワン」です。この中国の山王神は、日本の神として変身するわけです。山王は、スサノウの孫の「大山咋の神」となり、日枝(イルギ→日吉・ひよし。出自不詳の自称平氏の豊臣秀吉が幼少のころ「日吉丸」と言われていたのは、その出生地が中国だったからか?)の神様へ変身するわけです。
農業神の神は、農産物の豊作を約束します。では、騎馬民族の神は、何を約束するのでしょうか。それは、部族の安全の他に、他民族との交易の安全を約束するわけです。
オリエントで発掘された紀元前十四世紀の交易文章によれば、オリエントの商人達はミトラ神の下に契約を交わしていたようです。他民族との交易は、等価交換ではなく、不等価交換が前提です。特に、自然物と人工物(装飾品、ガラス器)との交換は、注意が必要です。ひとが作る物は必ず「ほころび」が生じます。ですから、交易後、その「ほころび」を発見し、交易の無効を訴えることが多く発生したことでしょう。そのように、後からクレームをつけられては商売になりません。ですから商人は、異民族との交易において絶対服従の「神」が必要だったのです。交易の場を「神聖地」とし、そこで「神」に誓って交易書にサインしたら、後のクレームは受け付けないということです。
古墳時代、ヤマトの国際バザールが開かれた三輪山麓の海石榴市(つばきち)は、まさにそのような「聖地」であったのでしょう。飛鳥時代では、「屯倉」が、軍事施設と供に、そのような交易の聖地の役目も果たしていたのでしょう。やがて、交易地は先祖を祀る場所(古墳・塚)が利用されるようになり、定期的にひとが集まることにより、「まつり・バザール」が形成されていくわけです。やがて鎌倉時代を経て室町時代になると、仏教教団が支配する商業地の「市」に対して、王権から賎民として落とされたひとたちにより、蕃神を祀る化界の地である神社境内で商いをする同類者が集まり「座」が形成され、その世話をするひとが選ばれるわけです。その座を世話する顔役は、後に「役座・ヤクザ」と言われるわけです。
異民族が混在する都市で、交易を安全におこなうには、異民族も認める契約の神の神格化が必要です。そのためには、神を神格化させる装置としての儀式の開発が必要です。カリスマとは、私的な権威をある種の儀式により公的な権威に摩り替えることに成功したひとのことです。
騎馬民族に共通する神を祀る儀式としては、「犠牲」があります。羊・牛などが「犠牲」となり神に捧げられるわけです。
しかし、この犠牲の儀式は、騎馬民族や遊牧民族には有効でも、農耕民族には強烈すぎます。そこで、犠牲に代わる儀式が開発されるのです。それが、歌と踊りです。そこで、宗教儀式専門の部族が発生するわけです。
645年以前のヤマトでは、古墳や塚の周りで定期的におこなわれる市・バザールでは、バザールを仕切るひと達等により「神を祀る」歌や踊りが披露されていたことでしょう。しかし、645年以降は、蘇我王朝を倒した勢力により、古墳や塚の地には仏寺が建てられていくのです。土壁の頑強な塀に囲まれた耐火用瓦の家屋、そして警報装置の鐘を装備した仏寺は、仏像を祀る施設と同時に、当時は先住民に対する軍事施設の「砦」でもあったのです。(戦国時代でも、織田信長が宿営地に「本能寺」を選んだのは、仏寺に「砦」の機能が存続していたからです。)
飛鳥時代のヤマトは国際交易都市なので、渡来異国民がそれぞれの言葉を使用していたのです。南方系ポリネシヤ語、トラヴィダ語、タミル語。大陸系ウラル・アルタイ語、突厥語、朝鮮語。西域系アラム語、ペルシャ語、エジプト語、ギリシャ語。飛鳥時代のヤマトの地での国際交易を通じて、それらのグローバルな各国言語が融合して、やがて「やまとことば」を形成していったのです。
明治時代初期、明治新政府を発足させるため、薩摩藩を中心に各藩の有力者が江戸に集り会議をしました。しかし、その当時、日本語が発明されていなかったので、その会議では「各藩のことば」によりコミニュケーションをとれなくて、「筆談」でことを済ませたようです。
江戸時代までは、各藩の「ことば」は、その臣民の先祖の渡来先により異なっていたからです。遥か南海国と交易をしていた尾張の国などでは、「あいうえお」の五母音ではなく、「八母音」の言葉を使用していたのです。(現在も使用している。)そこで明治新政府は、日本国統一言語を、「廓言葉・くるわことば」を基にして発明したわけです。それが今の「東京弁」の標準語というわけです。
日本語の原語が特定できないのは、飛鳥時代のヤマトが国際都市であったと認識していないからです。国際都市であれば当然、各国の言葉が使用され、それらはやがて融合して「やまとことば」となるわけです。
その「やまとことば」を使用して「神」を祀っていたひと達は、645年には蘇我王朝と伴に、ヤマトの地から追放されるわけです。そして、都が奈良へ遷都される奈良時代に、徐々に賎民へ落とされていくわけです。奈良時代が、太陽と月と星を祀る民族と、新興仏教の仏を祀る民族との闘争の時代だったのです。
しかし、平安時代から、日本列島文化の価値観が百八十度変換してしまったのです。
初めて「鬼」が現われるのがこの時代からです。そして、飛鳥時代は、蘇我王朝と天武王朝と友好関係にあった「蝦夷」が、蛮族に貶められてしまうのです。そして、桓武天皇より、奈良仏教は「穢れ仏」を祀る穢れ宗教と貶められて、奈良仏教僧が平安京へ入ることを厳しく禁止されてしまうのです。更に、天武天皇系貴族の伊勢神宮の神に奉仕していた斎王としての「郎女・いらつめ」が「遊女」と貶められ、伊勢神宮の神を祀っていた歌や踊りは、平安貴族への余興へと変化してしまうのです。そして、「星祭」を禁止された太陽・月・星を祀る祭祀集団は、都から河原へ追放されてしまうわけです。
平安時代、百済系桓武天皇により貶められた、騎馬民族の末裔である遊女や河原者は、やがて有力な指導者に統率され、闇の世界の支配者となっていくわけです。その闇の世界のひと達が開発・発展させた技術・芸能なくしては、今日の日本文化は語れないのです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判


神輿の黙示録(9)(大乗仏教とは何か:鎌倉時代の賎民は何を拝んだのか)


「イジメはいけない、差別はいけない。」、と世間は言います。それは当然です。しかし、この国では、平安時代に「鬼」なる概念を創作して、王権自身が「鬼」をイジメ、差別してきたのです。
カリスマとは、「私的権威」をある種の儀式により「公的権威」に変身させることに成功したひとのことです。それと逆のことが「鬼」に言えます。「鬼」とは、ある部族が持つ「私的怨念」をある種の儀式により「公的怨念」に摩り替えられたことにより創作された負の概念です。では、王権に追放された部族を「鬼」にしたのはどのような儀式だったのでしょうか。この節では、そのことについて考えてみたいと思います。
ひとが「ことば」を知るようになった歴史は分かりません。でも、文字は、エジプトの遺跡から、神聖文字(ヒエログリフ)が、紀元前2781年には存在していたことが証明できます。
ひとは、「ことば」や「文字」を知ることにより、「思考する悩み」を持ってしまったのです。思考とは、あることを思い、そして考えることです。その行き着く先が、「何故」、「どうして」の疑問です。その疑問に対する答えが、「思考」することにより解決できれば問題はないのですが、ひとの脳には、全てを解決する能力は未だ備わってはいないのです。
その需要に答えるのが宗教です。宗教とは、ひとが持つ「生老病死」に対するあらゆる疑問に答えることができるとする幻想です。ひとが考えることには必ず「ほころび」が生じます。その「ほころび」を繕うために、更なる「答え」が創作されます。そのようにして無数に紡がれた「思考」はやがてひとつの系となります。それが経典の基となるのです。つまり、宗教(幻想)の発生です。
紀元前二千年、カスピ海・黒海周辺からアーリア人が南下するのです。その一部がインドに到達すると、先住民族トラヴィダを倒し、その地を支配するわけです。
紀元前八世紀、アーリア人は、先住民族である遊牧民族トラヴィダ族を支配する目的に、「菜食主義」のバラモン教を発明するわけです。ここから宗教による差別思想(菜食=善、肉食=悪)である「カースト制度」(祭司者バラモン、王族・武士クシャトリア、平民ヴァイシャ、奴隷スードラ、そして不可触賎民アチュート/屠殺者センダラの階級制度。このカースト思想が、平安時代に大乗仏教僧により日本列島に持ち込まれ、弘仁六年・815年編纂の「新撰姓氏録」で「皇・神・蕃」の序列となり、鎌倉時代には、大乗仏教僧により「セダラ」から「穢多」が発明され、江戸時代には、「士農工商・穢多・非人」の日本版カースト制度が完成する。)が、歴史上発生するわけです。
紀元前五世紀、その「カースト制度」に疑問を唱えるひとが現れるのです。それが、ゴウタマ・シッタルタ(釈尊・シャカ)です。
バラモン教は、聖職者であるバラモンが、四姓の最上に永遠に君臨するトリック「輪廻転生」を唱えていたのです。釈尊は、その輪廻転生に対して疑問を持ち、それに対抗する「思想」を考え出したのです。それは、現世のわだかまりの系を断つために「出家」し、物欲の基であるあらゆる生産手段の系を断つために「乞食・こつじき」し、そして輪廻の系を断つために「非人」となることです。釈尊の教えである「仏教修行」の基本は、その「出家」、「乞食」、「非人」にあるのです。
紀元一世紀、中央アジアの地、大月氏(騎馬民族チュルクが支配)を駆逐したクシャナ朝のガンダーラで、ギリシャ系仏像(釈尊は仏像を否定していた。)とサンスクリット語(釈尊は、バラモンが話すサンスクリット語の使用を禁止し、パーリ語を使用していた。)の法華経など多数の経典を持つ不思議な宗教が突然発生するのです。それが大乗仏教です。
大乗仏教は、釈尊が否定した、バラモン教が発明した「輪廻転生」を、その思想に取り入れているのです。更に、釈尊は、「非人」となり転生を否定しているのに、大乗仏教は、死後の「西方浄土」を約束するのです。
この釈尊の思想と全く異なる、バラモン教に類似した大乗仏教が、平安時代の日本国に「鬼」を普及させたのです。そのプロパガンダの手段が、サル・イヌ・キジを伴い鬼退治をする「桃太郎」のお話です。桃太郎物語の種本は、大乗仏教物語のひとつである、ラーマヤナ物語にあるのです。その物語の大筋は、悪魔が王の后をさらって鬼が島に立てこもるのです。それに対して、ラーマ王が、サル・クマ・タカをお供に、鬼が島に乗り込み鬼を退治するというものです。
では、平安時代の日本国で、敗者がどのようにして「鬼」となっていったのかを調べて見ることにしましょう。
平安時代、百済系桓武天皇は、何故に奈良仏教を忌み嫌い「穢れ仏教」として避けたのでしょうか。その謎を解くヒントは、平安時代に作られた金銅の仏像にあります。奈良時代のキンピカ仏像は、アマルガム法金メッキにより造られていたのが、平安時代のキンピカ仏像は、金箔の漆接着で造られていたのです。何故、キンピカ仏像の金塗装法が、アマルガム法から金箔漆接着に変化したのでしょうか。
その原因は、奈良の大仏鋳造(747年〜749年)にあります。反藤原氏の聖武天皇(724年〜749年)は、全国に国分寺(741年発令。平安時代になると各国の国分寺にある仏像は、穢れ仏像と貶められ行方不明となる。源頼朝は、挙兵のため、関東にある廃墟となった国分寺で関東源氏の部将を召集した。)を建立し、奈良には、藤原氏の寺である興福寺(710年山階寺を奈良に移築)を見下ろす丘の上に、その総本尊として大仏を鋳造したのです。その製作過程で、大量の銅とアマルガム法金メッキのために大量の水銀を使用したのです。
医療が発達していなかった古代、中世、近代まで、病気とは目で確認できる症状である皮膚病関連がその範疇だったのです。目で確認できない神経症状を呈する病気は、悪霊の祟りの仕業と信じていたのです。(奈良時代、中臣神道が皮膚病も悪霊の祟りと宣伝し、平安時代には、大乗仏教も法華経で仏罰者がハンセン氏病者だと宣伝したため、鎌倉時代には、目に見える皮膚病も悪霊の祟りと信じられていく。)
奈良の大仏鋳造作業での、多量の銅の精錬カスや金メッキのための水銀のカスは、河に流れ込み奈良の都へ運ばれるわけです。それは今で言う鉱毒による環境汚染です。鉱毒は、身体の神経系を徐々に侵し、やがて手足が萎えてしまうのです。これは当時では、病気ではなく、悪霊の祟りの仕業であったのです。
祟りには、祟られる原因がなくてはなりません。奈良の都を影で支配していた藤原氏の前政権の蘇我氏に対する仕打ちやその同族を数々の陰謀により抹殺した仕打ちは、祟られるのに十分過ぎるほどでした。その藤原氏を祟った本家は、興福寺を見下ろす大仏だったのです。では、祟られる藤原氏とは何者なのでしょうか。
藤原氏は、七世紀半ばに突然権力の中枢に現れたのです。藤原氏の前姓の中臣氏は千葉の鹿島出身と言われていますが、信憑性に欠けます。藤原氏も、蘇我氏と同じに、出自不明の氏族なのです。
藤原氏の歴史上の出現は、蘇我王朝の崩壊の時期と一致します。645年、蘇我王朝が倒れると、すぐに仏教興隆の詔が発せられるのです。(このことは、それ以前は仏教が一般大衆に広く布教されていなかったことを意味します。飛鳥時代は、歴史教科書の言う、聖徳太子と蘇我馬子による仏教興隆の時代などではなかったのです。)それと同時に、古墳や塚の近くに仏寺が建てられるのです。仏寺は、表向きは仏像の安置場所ですが、実際は、先住民や蘇我氏残党に対する「軍事的砦」だったのです。
蘇我王朝時代では、騎馬民族特有の広角外交により多くの国と国際交易を盛んにしたわけです。ですから、交易ルートも、南中国交易ルートの基地としての百済国へは、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫と、北中国交易ルートの基地としての新羅国へは、磯城→山城→近江→若狭→出雲の二系統となるわけです。藤原氏の、蘇我王朝打倒の目的のひとつが、この国際交易ルートの略奪だったのです。
藤原氏の凄さは、その謀略の緻密さです。蘇我王朝を倒すと、その事跡を抹殺する謀略をおこなうわけです。
一般的常識では、一部族には一宗教です。しかし、藤原氏は、仏教系の興福寺を持ちながら、神系の春日神社若宮を新設するのです。藤原氏にとっては、宗教とは先祖を祀ることではなく、臣民を支配する政治的道具であったようです。
春日神社の「若宮」とは、先住民(太陽・月・星を祀る騎馬遊牧民)が祭祀してきた本家筋の祭神の勢いを弱め、本家筋への自然神への信仰を折り曲げ、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神などの人工神の官幣氏族神への信仰にふりむけさせるための装置です。
前政権の氏族(騎馬系蘇我氏、秦氏、新羅系日本人)の抹殺は、前王朝時代の神々の抹殺から始まるのです。その仕掛けとしての装置が、春日社と興福寺です。藤原氏は、神系の春日社で太陽神を祀る神々を消し(秦氏の神は、八幡神、稲荷神に変身することで今に生き残る。)、仏教系の興福寺で月・星を祀る神々を消してしまったのです。(道教は、山岳仏教の修験道として生き残る。室町時代、道教の末裔の賎民と蔑称された堂の者達は、自然と対話して「道」を極める表現として、華道、茶道、剣道、弓道などを発明した。)
そして、敗者を賎民(鬼)に貶める仕掛けとして、中臣神道により、中臣祓を発明し、シロト(白癜)とコクミ(象皮病)の皮膚病を「国つ罪」としてしまうわけです。何故、皮膚病が国つ罪なのでしょう。何故、ハンセン氏病が仏罰なのでしょう。この仕掛けが、敗者を賎民に貶める装置として、平安時代から鎌倉時代にかけて効力を発揮するのです。
藤原氏が支配する中臣氏が発明した中臣祓は、ユダヤ教のヨムキプルに似ていると言われています。では、中臣祓では、どのような罪を祓っていたのでしょうか。
祝詞は十世紀初めに編纂されて今日に伝えられているようですが、その初めは、藤原不比等嫌いの新羅系天武天皇の崩御直後であったようです。その趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。
その祓うべき罪は、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられるのです。天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
この中臣祓の内容を精査すると、藤原氏による、騎馬遊牧民族壊滅戦略が浮かんでくるのです。それは、皮膚病者を罪者として世間から排除するための戦略と、騎馬遊牧民族の生活基盤を破壊するための戦略とです。
菜食民族とは異なり、騎馬遊牧民族は家畜や獣を屠殺しその肉を食料とし、そしてその皮を剥ぎ、加工して生活資材とするわけです。しかし、中臣祓では、騎馬遊牧民族としては生活するための当然の行為を、罪悪の所業と規定しているのです。(この戦略は、インドにおける、アーリア人がバラモン教を発明し、先住遊牧民族トラヴィダを賎民に落としたことと同じです。)
藤原氏と進駐百済貴族は、645年の政変に勝利すると、飛鳥の都を破壊し、難波(浪速・ローラン/高句麗・百済交易の湊)の長柄豊碕宮に遷都するわけです。では何故、飛鳥の都は、簡単に破壊されてしまったのでしょうか。それは、百年後の奈良の都が疎まれたのと同じ理由からです。
飛鳥の都は、輸出製品製造工場都市でもあったわけです。そこには、アマルガム法金メッキを施した装飾品やガラス器を製造する工場群があったわけです。川上の工場から鉛の精錬カスや金メッキの廃液を飛鳥川に流せば、下流の農耕民族にはその鉱毒が作物や身体に悪影響を与えます。つまり、農耕民族にとって、川上の飛鳥の都には祟り神が生息していたのです。
更に、農耕民族と騎馬遊牧民族とは、自然に対する考え方が全く異なることも、飛鳥の都を短期間に消滅させた大きな原因のひとつです。農耕民族の繁栄は、騎馬遊牧民族の衰退を意味します。
ヤマトの地は、前方後円墳築造の結果、湿地帯から広々とした農地に変身したわけです。農耕民族は、やがて開墾という名の自然地の破壊を山の麓までおこなうわけです。すると、騎馬遊牧民族の生活の糧である家畜の生活範囲が破壊されてしまうわけです。ですから、農耕民族が自然を破壊して耕作した畔や用水のための溝を、騎馬民族は自らの生活圏を守るため破壊するわけです。すると、その騎馬遊牧民族が行なった当然の行為は、藤原氏の支配する中臣神道により、「畔放、溝埋」の天つ罪とされてしまうわけです。
645年、飛鳥の地を追われた蘇我氏・秦氏・進駐新羅貴族達は、吉野の山奥や鈴鹿の関を越えて化界の地へ逃れていくわけです。やがて、672年進駐新羅貴族を中心に、反百済勢力が伊勢に集結し赤旗をなびかせて、百済コロニーのある近江宮へ進軍するわけです。それが歴史書の言う、壬申の乱です。
壬申の乱に勝利した新羅系大海人皇子が、672年、日本国初の天皇・天武天皇となり、ここに「日本国」が誕生するわけです。(四世紀のヤマトに大和朝廷が存在し、そこで日本人が活躍していたと誤解しているひと達がいるようですが、672年以前には「日本人」は存在していません。)
そして、蘇我王朝のあった飛鳥の浄御原宮に遷都するわけです。更に、壬申の乱で赤旗を掲げて活躍した、都を追われていた海洋民族の末裔の外物部氏の神を祀るため、685年伊勢に遷宮するわけです。(伊勢神宮は、新羅系天武天皇が建立したため、平安時代から明治時代まで、百済系桓武天皇の子孫達はお参りにいっていなかった。)
686年、天武天皇が崩御すると、天武天皇のお妃が女帝持統天皇(百済系中大兄皇子の娘)となるわけです。その女帝持統天皇を裏で操るのが、天武天皇に左遷されていた藤原不比等であるわけです。
この藤原不比等が企画した日本書紀により、ギリシャ神話を真似た神代の物語や、架空の天皇が発明されたため、日本国建国の歴史が全く分らなくなってしまったのです。そして、更に日本の宗教史を分らなくし、そして、日本列島に差別思想を持ち込んだのが、藤原氏による異民族支配の武器のひとつである、大乗仏教なのです。そもそも大乗仏教とは、釈尊でないのであれば、何を目的に、誰により発明された宗教なのでしょうか。
大乗仏教が発明された時代前後を調べてみましょう。そこに、大乗仏教が、何の目的のために、誰により発明されたかのヒントが見つかるかもしれません。
紀元前一世紀、ユーラシア大陸は、騎馬民族匈奴の支配下におかれていたのです。匈奴の強さは、砂漠地帯にあるオアシス国家を支配していたからです。ローマのガラス器(ローマングラス)と洛陽(後の長安)の絹との交易は、匈奴支配の草原ルートか、砂漠地帯のオアシスルートを通ることなくしてできないわけです。
匈奴は、国際交易商人のもたらす消費財や通行税により、国力を維持していたわけです。匈奴が騎馬民族であるならば、そのオアシス国家も騎馬民族により支配されていたわけです。大乗仏教が発明されたガンダーラも、匈奴がユーラシアを支配していた時代は、騎馬民族チュルクが大月氏国を支配していたわけです。
紀元25年、漢民族の後漢の光武帝が、匈奴壊滅作戦を開始するわけです。その戦術は、匈奴の経済を支え、食料・武器の調達先であるオアシス国家を攻撃して、匈奴軍を追い出し、そのオアシス国家を後漢の支配下におくわけです。
経済的基盤を失った匈奴は、紀元48年、北と南とに分裂し、国力が衰退していくのです。当然、オアシス国家を支配していた騎馬民族も、後漢軍により駆逐されてしまうわけです。ガンダーラの地を支配していた騎馬民族国家大月氏国のチュルク民族も駆逐され、紀元45年には、農耕民族トカラ人によりクシャナ朝が興るわけです。
そのように、騎馬民族に支配されていたオアシス国家の絹とガラス器交易の地は、紀元一世紀になると、農耕民族により支配者が交代したわけです。その時代の東西の真中の交易地のガンダーラで、突然無数の経典と仏像による布教を行なう大乗仏教が興るのです。
ローマと後漢との東西交易の中継地点のガンダーラで、新興宗教の大乗仏教が突然出現するのと前後して、ローマ帝国が、紀元六年、ユダヤ王国を壊滅した地に、新興宗教が興るのです。その新興宗教は、イエス(イエスとは、ヨシュア「ヤハウェは救いの意味」をギリシャ語に翻訳した語。)と言う大工により発明されたと言われています。しかし、この宗教は不思議な成り立ちにより創生されているのです。
「油を注がれた者=ユダヤ王」の意味である「メシア=救い主」をギリシャ語に翻訳すると、「クリストス」となります。この「クリストス」が、日本語訳になると、「キリスト」となるわけです。つまり、「キリスト教のイエス」とは、「ユダヤ教の王であるヨシュア」と言う事になります。と言うことは、キリスト教徒とは、ユダヤ教徒でもあり、ナザレのイエスこそがメシアであるということは、ユダヤ教のイエス派が、キリスト教ということです。
このキリスト教徒達は、ユダヤ王国を壊滅した侵略者ローマ帝国軍打倒のために活動するわけです。しかし、どのような訳か、392年には、打倒ローマ帝国のキリスト教が、ローマ帝国の国教となり、ローマ軍の軍神であるミトラ神(ラテン語でミトラス神)の神殿を徹底的に破壊し、その上にキリスト教の教会を建設するのです。
更に、ミトラ誕生日(再生日)である12月25日は、キリストの誕生日クリスマスに改竄され、ぶどう酒(実際は、ミトラ神の化身の牡牛を屠った時の血。)とパン(実際は、牡牛の生肉)のミトラ教密儀も、キリスト教に模倣されてしまうのです。「七」は、ミトラ教の「聖数」です。この「七」は、新約聖書の文中で多く目に付くことでしょう。そのように、キリスト教の儀式の多くは、ミトラ教からのものなのです。(キリスト教の存在を知らないミトラ教徒は、キリスト教の教義や儀式を見せられたとしたら、その全てを瞬時に理解できるでしょう。日本の戦国時代、金箔塗布技術者の高山右近が、イエズス会に入信したり、山奥に暮すひとびと(隠住・おに→鬼)が、イエズス会の教義を理解できたのも、遠い昔ミトラ教(太陽神・お天道様)を信じていたひと達が、日本列島に渡来していたからでしょう。明治時代、秦氏の末裔の穢多頭弾佐衛門が、耶蘇会・キリスト教に一時入信したのも、秦氏は元々太陽神を祀る景教徒(ミトラ教)であったからでしょう。しかし、弾佐衛門が飲んだ聖杯を飲むのを拒んだキリスト教信者が、弾佐衛門を差別したため、四民平等を標榜しながら実際は差別しているキリスト教に失望した弾佐衛門は耶蘇会を脱会した。)
その新興宗教のキリスト教伝導のための「福音書」には、大乗仏教の経典にある、ブッダの物語とソックリな物語が多くあるのです。「銅貨二枚(福音書では二レプタ)をお布施するやもめの賽銭の話」、「水上を歩くブッダとキリスト」、「少ないパンで多くの弟子のお腹を満たし、更にパンが残る話」、「賎民の娘から水を飲ませてもらう話」、これらのキリスト教と大乗仏教とに共通するソックリ物語は、一体どういうことなのでしょうか。
考えられることは三つ。ひとつは、偶然であった。二つは、どちらかが物語を模倣した。三つは、ある目的を持ったひとが、ふたつの宗教の物語の基を創作した。
一番目の「偶然」は、これほどの共通点が存在していれば、説得力はありません。
二番目の「模倣」はどうでしょう。模倣するには、時差が必要です。ブッダは紀元前五世紀のひとで、イエス(ヨシュア)は紀元一世紀のひとと言われています。そこで、ブッタの物語をキリスト教物語作家が模倣したとも考えられますが、紀元一世紀のギリシャ系仏像をビジュアルとして大乗仏教の輪廻転生、西方浄土を説教する「ブッダ」と、紀元前五世紀の偶像を否定し、輪廻転生の系を断ち切るため非人姿で修行する「釈尊」とは同じ人物ではないので、完全な説得力とはなりません。つまり、キリスト教のイエスも大乗仏教のブッダも、紀元一世紀に突然出現した人物だからです。
では、三番目の考えはどうでしょう。
大乗仏教のブッダの説話で最も感銘を与える話のひとつとして、次のようなものがあります。

多くを持つ者のあいだで何も持たずに、わたしは幸せに生きるであろう。持てる者のあいだで、持たずに生きる。
絆を持たずに、わたしは幸せに生きるであろう。
天の使いのように喜びの声をあげるであろう。
戦う者たちのあいだで思い煩いながら戦うことなく、わたしは幸せに生きるであろう。戦う者たちのあいだで、闘うことなく生きる。

このブッダの説話をよく味わいながら、次の説話(山の上の垂訓)を読んでみてください。

マタイによる福音書、第五章
イエスはこの群集を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えてかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみをうけるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。

以上のブッダとイエスの説話の一部を読み比べてみると、そこで言われていることの核心は、表現こそ異なりますが、同じだということです。このことは、どのように解釈できるのでしょうか。それは、ブッダとイエスとが同じ思想を持ち、同じ奇跡を行い、そして、同じ説話を持つのであれば、それは同じ作家により二つの宗教物語が創作されたと考えるのが自然です。
二つの宗教が発明された時代の背景としては、西ではローマ帝国が東進してパルチア王国(226年、アルタクセルクセスにより倒され、ササン朝ペルシャとなる。)を攻め、東では農耕民族・後漢が騎馬民族・匈奴の領土へ侵攻していたのです。その結果、騎馬民族チュルク支配の大月氏国からのオアシスルートは、農耕漢民族の後漢の支配下におかれるわけです。
その西東のローマ帝国と後漢の両国が領土拡大している時、紀元前四世紀にアレクサンドル大王の東進によりインドのマウリャ朝との異文化接触により起こったギリシャとインドとのヘレニズム文化を保持した、東西貿易の拠点のひとつである騎馬民族大月氏国(支配者の騎馬チュルク民族は、紀元45年トカラ人により駆逐され、四世紀に朝鮮半島辰韓に渡来しギリシャ・ローマ文化保持国新羅を興す。)は、農耕民族のクシャナ朝に飲み込まれてしまったのです。そのクシャナ朝の東西貿易の中心地がガンダーラであるわけです。
ガンダーラに居住する国際交易商人達は、ローマ帝国のローマングラスと後漢の絹との交易を、騎馬民族から農耕民族へ支配者が交代したオアシスルートで、今までどおりに交易する戦術を考え出さねばなりません。
戦乱の異民族国に交易のために進行するには、その国の情報が必要です。更に、交易の手助けをする現地代理人が必要です。その異国で諜報を行い、異国での代理人を育てるには、権力者からの警戒感が少ない世俗から掛け離れたひとが有利です。それが宗教者です。
異民族が闘う戦国時代に、国際交易を成功させるには、今までの宗教色のない、騎馬民族向けでもない、農耕民族向けでもない新しい宗教が有利です。新興宗教は、騎馬民族国にも、農耕民族国にも、まだ軋轢がないため、布教の名目で異国に進入できるからです。
異国への進入順序としては、医療従事者(宗教者)→病院設立→学校設立→代理人育成→商人進出→軍事顧問進出→軍隊進行→植民地化となるわけです。
宗教家が時の権力者に取り入った例は、紀元前三世紀の秦の始皇帝に取り入った「徐福」がいます。徐福は、法士と名乗り、長生術のパフォーマンスにより始皇帝に近づいたのです。いつの時代でも、権力者は、長生術と回春術に強い興味を示すようです。
イエスもブッダも異郷の地での最初のパフォーマンスは、弱者の病を癒す術を披瀝する治療行為です。大乗仏教には、修行僧への治療指導書としての経典、「徐一切疾病陀羅尼経」、「能徐一切眼疾病陀羅尼経」、「仏説療痔病経」、「仏説呪歯経」などが多くあるのはそのためです。
そのようにして、僧侶が治療者として異郷の地で認めてもらえると、次におこなうのは、聖地の確保です。そのひとつとして、治療所としての病院が設立されるのです。
唯の地を聖地にするには、ある儀式をおこなう必要があります。その装置のひとつとして、聖なるシンボルの「像」が必要なのです。唯の地を聖地にする「像」の機能としては、二つあります。移動可能な「像」と、固定式「像」とです。
大乗仏教では、移動可能な像が「仏像」です。固定式の像が、岩山を彫りぬいて築造される「魔崖仏」です。その大乗仏教の移動可能の仏像の姿の遍歴には、不思議なことがあるのです。
紀元一世紀に突然出現のガンダーラで創作された仏像は、苦行するガリガリに痩せ細ったギリシャ系の顔をしたものです。しかし、148年、後漢の首都洛陽にパルチアの僧安世高が渡来するころには、仏像の顔が西洋人から東洋人に作り変えられ、更に、ガリガリの体が、ふくよかなみずみずしい女性肌に変身しているのです。
その訳は、後漢の地には、土着宗教から発展した「道教」が活躍していたからです。道教の武器のひとつは、長生術だったのです。大乗仏教は、道教の長生術に対抗する手段として、ギリシャ系の写実的ガリガリ像から、みずみずしい女性肌に仏像を改良したのです。大乗仏教を信じれば、何百年経っても若々しい姿が保てると、ビジュアルとしての仏像で、大乗仏教を宣伝するわけです。現代の広告宣伝手段のキャラクターの元祖が仏像であるわけです。
そのようにして、異国民に仏像が受け入れられると、仏像安置の建物を造ることになります。表向きは、仏像安置ですが、実際は「砦」です。何故、平和の使者である仏像安置の建物の周りに、堀や強固な塀が必要なのでしょう。何故、耐火用の瓦が必要なのでしょう。何故、何キロ先にも聞こえるような大きな鐘が必要なのでしょう。何故、遠くを見晴らす展望台のような高い塔が必要なのでしょう。仏像が、本当に平和のためのものであるのならば、野原に安置するのが自然です。しかし、実際は、堀や壁を廻らせた堅牢な建物の中に安置されているわけです。
その仏像が安置された寺は、どういうわけか神聖な場所となり、治外法権のアジールとなるわけです。そこに、どこからともなく国際交易商人達が集まるのです。しかし、仏寺では、聖地の範囲が寺内だけです。そこで、知恵者が考え出したのが、「魔崖仏」です。(鎌倉時代、魔崖仏の戦略が持ち込まれ、宇陀の山奥の交易要地や水銀鉱脈を埋蔵している山肌に、魔崖仏を彫り、そこを仏教の聖地とすることにより、先住民を追い払った。)
ローマ帝国と後漢との交易ルートとしては、ローマ帝国→パルチア王国→クシャナ朝→西域諸国→後漢となるわけです。このルートで問題なのは、政情不安定な西域諸国です。一応、騎馬民族を駆逐した後漢軍の支配下となっているのですが、騎馬民族を全て抹殺したわけではないのです。そこで、国際交易商人が考え出したのが、「魔崖仏」です。魔崖仏が造られた岩山一体が、唯の山から「聖地」となるからです。その聖地を創り出す魔崖仏は、交易ルートに沿って、サマルカンド→カシュガル→ローラン→敦煌の巌谷に沿って造られていくわけです。
交易道路沿いの岩山に魔崖仏を彫るには、先住民を追い出さなければなりません。それには、先住民に魔崖仏の効力を示さなければ、立ち退きは成功しません。では、大乗仏教はどのような手段で、先住民を立ち退かせたのでしょうか。
大乗仏教布教の武器のひとつとして、経典があります。しかし、紀元一世紀に突然ガンダーラに出現した仏典の数々は、バラモン僧が使用のサンスクリット語で書かれていたわけです。西域諸国や後漢では、サンスクリット語は通用しません。そこで漢語バイリンガルの龍樹(ナーガルジュナ・180年〜240年)などが漢訳するわけですが、そこで不思議なことが起こるのです。それは、漢訳されると原本のサンスクリット経典は全て焚書されてしまったのです。ですから、今日のサンスクリット仏典は後世のものなのです。
その理由は、中国領土を支配した王族が原因です。秦の始皇帝が紀元前三世紀に中国を統一するまでは、農耕民族や遊牧民族の国々が点在していたのです。
紀元前221年、秦国の建国により漢民族が台頭してきたのですが、紀元前205年、秦国が倒れ、北方から騎馬民族匈奴の冒頓単于(ボクトツゼンウ)が来襲してくると、農耕民族の漢族では対抗できません。後漢の光武帝が一世紀に匈奴軍を打ち破るまで、騎馬民族匈奴が、北東ユーラシアを支配していたのです。
五世紀、大乗仏教が西域諸国での布教に成功し、仏教僧が大挙して渡来した北魏(423年、鮮卑拓跋部の太武帝。騎馬民族拓跋部は、奈良時代晩期、日本列島の渡邊津に渡来し、源氏の基となる。)では、支配層は漢化に染まった騎馬民族鮮卑の末裔で、被支配の事務職が漢民族であったわけです。中華思想は、騎馬民族には武力では劣るが、頭脳明晰の農耕民族の漢族の屈折した心境により創作されたものです。
北魏の太武帝(423年〜452年)は、鮮卑末裔の騎馬民族であるので、騎馬民族蔑視観を内在する仏教を弾圧して、僧侶200万人を国外追放したのです。(この一部が朝鮮半島経由で北九州秦王国に渡来した。)このことは、仏教史で、三武一宗の法難(仏教弾圧皇帝は、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗。)とよばれているものです。元々大乗仏教は、騎馬民族蔑視のバラモン教に類似の教義を持つために、騎馬系皇帝には良く思われていなかったのです。そして、騎馬系皇帝の支配構造は、隋(589年〜618年)→唐(618年〜907年)→宋国(960年〜1129年)まで続くわけです。
そのように、中国大陸での支配者は、農耕民族と騎馬民族の覇権争いの結果により、そのたびに代わっていたのです。サンスクリット仏典の漢訳は、その時の支配者である皇帝の許可がなければできません。つまり、漢訳仏典は、騎馬系か農耕系皇帝か、その時々の皇帝の勢力都合により内容を改竄されていたわけです。
そのような時の権力により内容が変化する仏教経典だけでは、大乗仏教思想は異民族には受け入れられません。そこで、大乗仏教は、キリスト教がミトラ教の儀式を取り入れたように、他宗教の魅力ある教義や儀式を取り入れたのです。
異民族に受け入れられる技術は、基本として、医療技術と長生術と回春術です。医療技術は、紀元前六世紀にはアユルベーダ医術が開発されていました。長生術としてのヨーガも紀元前五世紀には、釈尊も実践したように、開発されていました。しかし、それらの有能な技術は、一般の人には受け入れられない高度な知識と技術が必要です。
ヨーガの達人になるには、長い年月の苦行が必要なのです。ヨーガ実践の八段階として、自制(ヤマ)、規律(ニヤマ)、座法(アーサナ)、調息(プラーナーヤーマ)、制感(プラティヤーハーラ)、留意(ダーラナー)、黙想(ディヤーナ)、専心(サマーディ)の苦行が必要なのです。釈尊は、ヨーガの辛い修行の途中で挫折し、うつ病となり、木の下で黙想することにより病回復後に、苦行を避け「中庸」の思想を発明するわけです。
ですから、一般のひとたちには、アユルベーダ医学やヨーガより簡単で、魅力ある「術」が要求されるわけです。そのひとつが、「タントラ」です。
「タントラ」とは、バラモン教を取り込んだヒンズー教と大乗仏教の境界に位置するものです。そのタントラの特徴は、呪力ある言葉(マントラ・ダーラニー)、護符(ヤントラ)、お守り(カヴァチャ)、手印(ムドラー)などのまじないを含む「魔術的技術」です。その「タントラ」とは、日本語では「密教」と呼ばれているものです。
魔術と科学とは、古代では区別がありません。両方とも、手でおこなう操作を必要とし、その手の操作により、不可思議な現象を起こすことを意図するものです。つまり、密教とは、原初的な科学により意識変格を目指す、技術であるわけです。(平安時代初期、錬金術師空海は、密教を中国から輸入し、アラム語の呪文と手印で信者を惑わせていた。江戸時代、藤原氏にとっての奈良の穢れ大仏(遍照鬼=ミトラ神?反バラモンの神)は観光資源として、悪霊を放つ手印を封じる目的で、顔だけ観覧できる「窓」を造ることにより、飛躍的に観覧者が増えたのはそのためです。)
密教開発者達は、ひとの意識の変格を興すために、薬物の開発(水銀薬・アルコール類・大麻・芥子の樹液)と視覚幻覚装置としての像・図画(マンダラ)を開発するわけです。
医療技術と長生術は、「表の技術」として発展していくわけですが、回春術は「裏の技術」として発展していくわけです。平安時代初期、空海が中国唐から輸入した真言密教の流れを汲む「立川流」は、そのひとつです。
何故、聖地の近くに遊郭が存在するのでしょうか。それは、世界共通のことのようです。何故でしょうか。
宗教が発明される前は、魔術や呪術が隆盛でした。その魔術・呪術の基本は、類似魔術と感染魔術です。
類似魔術とは、似ているものは影響し合うという錯覚を起こさせる技術です。顔をメイクで似せることにより、同じ性格をしていると錯覚させるようなことです。例えば、影武者などです。この錯覚技術を発展させると、太陽神のシンボルが牡牛となるわけです。
感染魔術とは、触れたものは、その影響力が感染すると錯覚させる技術です。強いもの、聖なるものに触れるのはこのためです。その反対が「えんがちょ」です。
農業技術が発展し、自然との対決が過酷になっていくに従い、自然をコントロールできるとする人工神の需要が強くなるのです。農耕民の人工神に対する要求は、豊穣です。そのために、祭祀者は、豊穣を約束するための儀式を新たに発明するわけです。そのために使われる魔術・呪術が「類似魔術」です。
農耕民が豊穣を期待して大地に種を蒔く様子を、ひとに置き換える儀式のために発明されたのが「大地母神」です。その神に、ひとの種を蒔く儀式により、農耕民に豊穣を約束するわけです。
大地母神は、豊穣を約束する神ですが、ひとの意識や理性が発達してくると、羞恥心のためにその儀式に拒否反応を示すひとが現れてくるわけです。その拒否反応に対して、祭祀者は、ひとの種を蒔かれる大地母神を、聖母、観音、弁天、比丘尼、巫女などに変身させ、種を蒔く儀式を止め、「お祈り」と「踊り」(舞)の儀式に改変するわけです。
ヒンズー教に吸収される前のバラモン教は、生活手段と資金稼ぎのために、献馬祭(アシュヴァメーダ)の儀式を発明していたのです。その儀式とは、女王に馬の種を蒔く儀式です。この儀式には、金儲けの意味と、もうひとつの意図があります。それは、女王を貶めることです。
騎馬民族のスキタイやギリシャ・ローマ文化保持国新羅の女王の墓の遺跡から金の王冠が発掘されるように(因みに、男王の墓からは銀・金銅の王冠が発掘される。)、騎馬民族は、時には女王が支配する「女尊男卑」の国なのです。それに対して、大乗仏教は、男尊女卑を目指すわけです。
そのようにして豊穣を約束する卑猥な儀式は、意識が覚醒したひとには受け入れられないものです。そこで、やがて、聖所と「種蒔き儀式場=遊郭」とが程よい距離に分離され、今日に至るわけです。(江戸時代、粋な遊び人は、遊郭に行くことを、「観音様を拝みにいく。」、「弁天様を拝みにいく。」、「宮参りする。」、「お篭りする。」などと言っていたわけは、それらの遊女のいる「遊郭」は、大昔は大地母神により豊穣の神事をおこなう「聖所」だったことを知っていたからです。)
北東ユーラシアの市場開拓を目指す、ガンダーラに居住する大乗仏教のバックスポンサーである国際交易商人は、その地に土着するシャーマンや道教士による実生活に密着する魅力ある儀式に対抗するために、大乗仏教に他宗教の魅力ある儀式を導入するわけです。
そのひとつとして、バラモン教の護摩の儀式があります。バラモン教は、護摩を焚き、その中に乾燥大麻を投入することにより、信者を至福の世界に誘うわけです。
更に、大乗仏教布教のキャラクターとして、バラモン教やヒンズー教の神々を導入するわけです。元々、修行中心の釈尊の仏教には、念仏頼みの仏像など存在していません。
紀元一世紀に突然、国際交易商人の居住するローマ帝国(ローマングラス)と後漢(絹織物)との交易地であるギリシャ文化保持国の大月氏国のガンダーラで、国際交易商人の支援のもとに、キリスト教(ギリシャ語訳のヨシュア教)の福音書物語ソックリの仏教物語とギリシャ系仏像のセットによる大乗仏教が誕生したわけです。
その大乗仏教に導入されたバラモン教とヒンズー教の仏像群は、基本的には四つの群に分けられるようです。それらは、「如来群」、「菩薩群」、「明王群」、「天群」です。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の大乗仏教に導入された仏像は、時の支配者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な仏像として開発されていくわけです。
そのようなバラモン教やヒンズー教の神々や儀式やカースト差別思想を取り込んだ大乗仏教は、国際交易商人と供にガンダーラから東進して北東ユーラシア、そして朝鮮半島を経て、日本列島に渡来していくわけです。
372年には、前秦は、僧順道により経典を高句麗に送り(実際は、仏僧による諜報活動のため)、384年には、東晉は、西域人(青い目の仏教僧は沢山存在していた。)の僧摩羅難陀を百済に派遣するわけです。
朝鮮半島三韓の新羅が、528年まで仏教導入拒絶のわけは、356年新羅建国の奈勿王は、ギリシャ文化保持国大月氏から渡来の反仏教の騎馬民族チュルクの末裔だったからです。国際交易商人は、騎馬民族の経済活動と競合します。その国際交易商人のバックスポンサーが支援する大乗仏教は、新羅にとっては受け入れられない存在だったのです。
医療従事者としての大乗仏教僧が送り込まれた後には、現地支配者に仏像が贈呈され、そのために、仏像を安置する仏寺(表向きは病院・学校。しかし、実態は砦。)が建立され、そして、その僧達の諜報活動による情報を基に、どこからともなく国際交易商人が仏寺に現れるわけです。その後は、軍隊の侵攻、そして大乗仏教が定着した地は、国際交易商人達に植民地化されてしまうわけです。そして、国際交易商人達により意図された、傀儡支配者が、大乗仏教を武器に、カースト思想の基にまつろわぬ原住民や先住民を賎民(寺奴)として支配していくわけです。では、日本列島は、どのようにして仏教化(ヒンズー教化→カースト化=差別化)されていったのでしょうか。
四世紀、大乗仏教を武器に、国際交易商人が日本列島を侵略することを意図に、北九州を窺がっても、そこには先住民族がいるわけです。海洋民族呉・越末裔の倭族や北方遊牧民族のツングース族、そしてオリエントから渡来の秦氏(紀元前三世紀渡来の徐福の末裔。)などです。それらの民族は、ヤマトの宇陀の朱砂を求めて日本列島に渡来していたのです。呪術全盛のその当時、殺菌力がある朱砂は、貴重な国際交易品であったわけです。(皮膚の化膿を治癒させることは呪術者として認められる条件のひとつ。それが転じて、朱砂は魔除けの素材となる。)
高句麗に居住する国際交易商人は、倭族とツングース族との混成軍団(後の物部氏)により日本列島に侵攻しても、ヤマトの地を死守する先住民族縄文人を攻略できずにいるわけです。難攻不落のヤマトの地は、河川が入り乱れる湿地帯であったからです。しかし、オリエントの土木建設技術を駆使した前方後円墳築造戦略により湿地帯を平地とし、更に前方後円墳築造過程の作業訓練により、現地人を、鍬から武器にかえ号令一番で行動する傭兵軍に仕立て上げることにより、ヤマトの地を死守するエウカシやオオクニヌシやナガスネヒコを壊滅するわけです。つまり、軍事部族の物部氏は、「夷を以って、夷を制す」ることに成功したわけです。
前方後円墳築造中の四世紀のヤマトの地には、遠く遥かオリエントから渡来の国際交易商人達や土木建設技術者達(前方後円墳の石室の内側の寸法は、古代エジプトの石室と同じ長さの単位キュビトで割り切れるのです。)で溢れかえっていたのです。当然、高句麗、百済、新羅の軍隊も、朱砂の交易のために、ヤマト三輪山麓のツバキ市に侵攻してくるわけです。
では、その四世紀に、ヤマトの地に「ニッポン人」がいて、天皇や豪族が統治する「大和朝廷」が存在していたのでしょうか。
歴史書は、基本的には書く側の利益のために創作されるわけです。その創作過程で、自己に不利な事柄は改竄、あるいは削除するわけです。ですから、世にある歴史書とは、勝者の物語であるわけです。そこで、敗者側の知恵者が、子孫のために敗者としての自己の正当性や、勝者の実態を暴くべく、勝者側の物語を装って、勝者側に覚られないように暗号で記述するわけです。
聖書物語におけるユダヤ民族とイスラエル民族との関係(異教神を祀る異民族)は、「ヨハネの黙示録」にある「666の謎」を解くことりより知ることができるでしょう。
聖書物語をベースに創作されたと言われている「日本書紀」物語により、謎の多い氏族である藤原氏と秦氏の関係(両民族ともオリエントからの渡来民)は、多人長による「古事記の謎」を読み解くことで知ることができるかもしれません。
多人長が「古事記」から発する暗号のひとつは、推古天皇から以前の歴史を抹殺せよ、ということです。では、推古天皇期では何があったかというと、聖徳太子と蘇我馬子による仏教の受容です。
日本書紀では、天武天皇が崇拝した道教や秦氏が祀る景教の渡来は無視して、仏教渡来の経緯を詳しく記述しているのです。しかし、日本書紀の552年仏教渡来の記述に疑問が生ずるのは、「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」には仏教渡来538年とあるからです。では、これは、どのように説明できるのでしょうか。
その説明として考えられるのは、国際交易商人により医療従事者として仏教僧は、それ以前から日本列島に、諜報活動のため送り込まれていたのではないかということです。
そして日本書紀仏教伝来物語で疑問が起こるのは、蘇我稲目が祀った仏像が疫病を流行らせたからといって、何故、「飛鳥の堀」ではなく、「難波の堀」へ投棄したのでしょうか。それは、難波(楼蘭→楽浪→浪速/ローラン)の津は、高句麗と百済が支配するオリエントからの国際交易港の地であったからでしょう。つまり、ヤマト侵略の手段としての高句麗・百済の国際交易商人からの仏像贈呈に対して、先住民(騎馬民族チュルク)が拒否した経緯を物語したのが、物部尾興(ツングース族)と蘇我稲目(チュルク族)との廃仏・崇仏論争物語の実態でしょう。
その論拠は、物部氏は、高句麗の影響下にある軍事部族だからです。高句麗が372年、前秦の圧力で仏教を受容しているので、その影響下にある物部氏も仏教を当然受容していたはずです。
それに対して、蘇我氏は、その娘が刀自子(トジコ=トルコ=チュルク)の郎女と言われていたように、騎馬民族チュルクの末裔です。だから、蘇・醍醐(ヨーグルト・バター・チーズ)を食する騎馬遊牧民族の蘇我氏が、「肉食する者は悪人だ。」、「獣の皮を剥ぐのはセダラだ。(アウトカーストの不可触賎民)」などの騎馬遊牧民族の生活を破壊するような「呪文」を唱える大乗仏教など、受容するはずはないのです。
しかし、日本書紀では、事実とは逆に「物部氏が廃仏」で、「蘇我氏が崇仏」となっているのです。これは可笑しい。
このような、一寸考えれば不自然な仏教伝来物語が、頭脳明晰な藤原不比等により日本書紀に記述させている意味は、大乗仏教が、藤原王朝を支える重要な武器だったからです。
「日本書紀」の仏教伝来物語のトリックは、「古事記」が発する暗号を解くことにより、つまり、その歴史物語から推古天皇を消去すれば、簡単に解けます。推古天皇が実在しなければ、聖徳太子も歴史上存在できません。その聖徳太子が実在しなければ、聖徳太子が607年創建した法隆寺などの太子建立七仏寺も存在しないことになります。(法隆寺の謎のひとつは、塔の大地に着かない寸足らず心柱と他の建築木材の伐採時期が75年ほどのズレがあることです。その謎解きのひとつが、北九州秦王国からの法隆寺移築説です。北九州秦王国に仏寺が多くあった理由は、六世紀中頃までには、446年中国・北魏の廃仏令により仏教僧200万人が国外追放となり、その一部が、仏教国高句麗・百済を経由して、北九州秦王国に渡来し、無数の仏教寺院を建設していたからです。仏寺建築は、騎馬遊牧民族スキタイの越冬用建築様式を踏襲していたので、釘を使わない組み立て方式なので、解体そして移築は簡単にできるのです。つまり、飛鳥時代に存在していたと言われる法興寺(558年着工)、難波四天王寺(593年創建)、広隆寺(=蜂丘寺は景教寺・603年創建)、法起寺(638年創建)、浄土寺(山田寺・641年起工)、百済大寺(大安寺・642年造営)等の仏寺の全ては、キリスト教徒達がローマ帝国のミトラ神殿を破壊した跡にキリスト教教会を新築したように、645年以降、藤原氏により、ヤマトの地に建立していた多くの「道教の観」や「景教寺」の全てが徹底的に破壊され、その跡に仏寺が、北九州秦王国からゴッソリと移築されたとの仮説です。この仮説に説得力があるのは、北九州には廃仏寺跡が極めて多くあることです。更に、大型荷物を九州から近畿地方に瀬戸内海の海運を利用して運ぶ技術は、前方後円墳の石室の石材が九州阿蘇産であったことも、この仏寺移築説を裏付けします。この北九州秦王国からの仏寺が移築されたヤマト国のことを、759年編纂の万葉集の枕詞の暗号では「空虚大和・そらみつヤマト=ウソッパチのヤマト国」と言うわけです。)
つまり、推古天皇が日本の歴史上存在しなければ、552年の日本書紀の仏教伝来物語の論拠は崩れ、飛鳥時代(蘇我王朝期)には、仏教は公伝などしていなかったことが証明できるのです。
では何故、藤原氏は、日本書紀で仏教伝来552年にこだわったのでしょうか。それは、蘇我王朝存在の抹殺のためです。その蘇我王権簒奪の事実を隠蔽する装置のひとつが、「架空の推古天皇」と「架空の聖徳太子」と「実在の蘇我馬子大王」を物語した仏教伝来物語だったのです。更に、藤原氏による簒奪の正当性を証明する装置のもうひとつが、蘇我馬子が592年崇峻天皇を謀殺し、蘇我入鹿が仏教擁護の聖徳太子の子孫を抹殺し、天皇家を出し抜いて丘の上に大宮を建て、天皇の舞を勝手に開催したと言う「極悪人蘇我一族」物語なのです。
もし、蘇我氏が本当に崇仏であるのならば、その蘇我王朝(587年〜645年)の跡目を継いだ天武王朝(672年〜686年)も崇仏でなければ理論的破綻を生じます。それは、宗教は王権の虚構権威を支える重要な要素だからです。しかし、天武天皇は、天文台を建設し、道教の占星術を駆使して「祀りごと」をおこなっていたのです。更に、伊勢神宮を685年遷宮し、太一(北極星=天御中主神。古事記に最初に出てくる神。日本書紀では国常立尊。)を祀っていたのです。(騎馬民族は、自然神の月・星を祀る。農耕民族は人工神を祀る。)その自然神の星祭は、百済系桓武天皇が統治する平安時代には、人工神の仏の敵の祭り、と言われ禁止されるのです。
仏寺に占領されたヤマトの地は、自然神を祀る民族が、まともに住める地ではなくなったのです。
天武天皇が崩御した後、藤原不比等は藤原王朝確立のために、戦略をめぐらせるのです。その戦術のひとつが、中国・唐から輸入した律令制度です。(律:犯罪や刑罰に関する法律。令:政治制度を定める法律。律令制度は権力を天皇一極に集中させるためのトリック。その天皇を、藤原氏がコントロールすることにより日本国を乗っ取る戦略。)
藤原氏に反抗する氏族の軍事力を削ぐために、武力により各地を支配している氏族が所有する財産を取り上げるための戦術が、701年発令の大宝律令です。
女帝持統天皇を取り込んだ藤原不比等は、697年傀儡の文武天皇を擁立して、大宝律令の発令により、氏族の私有地を天皇に献上させるのです。そして、恭順を示す氏族には、天皇から領地が与えられ、その反対に歯向かう氏族は国領地から追放するわけです。
更に、歯向かう氏族追放の第二弾が、718年の養老律令です。この二つの藤原不比等が画策した律令戦略により、藤原氏に対抗できる有力な氏族が滅亡してしまうわけです。
藤原氏に反抗した氏族は、元王族の蘇我氏、技術部族の秦氏、武闘派の新羅系日本人です。これらの氏族は、自然神を祀るオリエントから渡来の騎馬民族の末裔です。そこで、藤原氏は、仏教と中臣神道で、それらの民を賎民に貶める戦術をおこなうわけです。その戦術とは、「穢れ思想」の布教です。
しかし、藤原氏一族だけでは、それら軍事力のある騎馬民族末裔を相手にはできません。そこで百済・高句麗亡命貴族と結託するわけです。
七世紀の東アジアでは、中国の覇者が北魏から隋に代わる頃、中央ユーラシアに興った小国の騎馬民族突厥が勢力を増し南下してくるのです。それにより、隋の経済を潤していたオアシスロードは、突厥の支配下に再び置かれてしまうわけです。
隋の経済的打撃はそれだけではありません。絹をつくる繭が、西域の僧により盗まれてしまったのです。それにより、絹織物は、どこでも生産可能な中国地方の特産品ではなくなってしまったのです。更に、草原ロードとオアシスロードとが、騎馬民族に再び支配されてしまったことが、南海ロード開発に拍車をかけたのです。つまり、東西世界の物流革命が起こったのです。
七世紀の物流は、草原ロード、オアシスロードから南海ロードに代わることにより、大量の交易品が運ばれることにより、内陸よりもアラビア→インド→南海→江都(南京)の港町が栄えていくわけです。
そのような時代に618年隋が倒れ、唐が興るわけです。唐は、南下を試みる突厥を撃退すべく、朝鮮半島三韓のうちの小国新羅と同盟し、高句麗・百済を攻めるわけです。その結果、663年に百済が滅び、668年には高句麗が滅ぶわけです。そのことにより、百済と高句麗の亡命貴族が、多数日本列島に渡来するわけです。
この頃にはまだ日本国は存在していません。日本国建国は、672年だからです。ですから、百済や高句麗の亡命貴族は、日本列島につくっていたコロニーが亡命先であったのです。
百済と高句麗が仏教国家であったことが、藤原氏の戦略に合致するのです。それは、飛鳥文化抹殺のために、国家運営での使用文字を漢字化することです。
飛鳥で使用されていた「やまと言葉」は、「蝶」が古代エジプト語の紐の蝶結びを「てふ・てふ」と言うのと同じように、特殊な言葉です。それは、飛鳥が、世界各国から渡来した国際交易商人が暮らしていた国際都市であったからです。そこでは、ポリネシア語、タミル語、エジプト語、アラム語、ソクド語、チュルク語、古代朝鮮語、騎馬遊牧民族の言葉などが入り乱れることにより、独特の言葉が形成されていたのです。しかし、漢字は使用されていなかったでしょう。それは、漢字は、仏教と供に渡来したからです。
645年の藤原氏による蘇我王朝の焚書は、飛鳥の国際文化を証明する物を抹殺する意図もあったのです。飛鳥時代の文字資料を焚書してしまえば、それと同時に飛鳥文化も抹殺できるわけです。そのようにして、藤原朝廷で使用する言葉を漢字としてしまえば、漢字を知らない前政権の重臣は、朝廷での出来事を把握できません。つまり、合法的な政治からの追放です。
そのようにして、漢語による国史・日本書紀を創作しても、漢字が読めない前政権の重臣は、反論もできません。何を記述しているかを把握できないからです。
そのように、亡命百済・高句麗貴族を取り込み皇族とし、前政権の臣民を中央から追い落とした藤原不比等の日本国乗っ取りの戦略も、思わぬ事態により、混乱が生じるのです。それは、藤原氏の武器のひとつである仏教の貴族化と、藤原一族からの反乱です。
二つの律令制度のため、氏族の私有地を取り上げ公有地にしたため、臣民の開墾意欲が減り、その結果、農業が衰退することにより税である祖の収入が減るのと、重い税負担のため農奴の逃亡により多くの田畑が荒れてしまうのです。そこで朝廷は、743年墾田永大私財法を発するのです。
その法律により、国際交易商人の手先であった仏教教団は、寺奴や流人を集め、荒地や未開拓地を開墾することにより、寺の私有地が大幅に広がっていくわけです。これらの私有地からの収入と、貴族相手に至福の煙が出る護摩を焚き、バラモン教のような加持祈祷の大げさな儀式による収入とにより、奈良の仏教教団は莫大な資産を築くのです。更に、有り余る金融資産を基に高利貸もおこなう仏寺もでるわけです。その結果、仏教僧の貴族化がおこり、仏寺が貴族相手に双六や将棋などの博打をおこなう娯楽施設化がおこるのです。
お金でコントロールできるのは貧民だけです。貴族化した仏教僧は、朝廷の命令を聞きません。藤原氏の言うことを聞くのは、秦氏が支配していた山背国にあった山階寺(景教寺)を仏寺に変身させ、710年に奈良に移築した興福寺と、道教の観を抹殺する装置である春日大社若宮だけです。それに追い討ちをかけるように、724年(神亀元年)、聖武天皇が即位すると、藤原氏に公然と反旗を翻すのです。藤原氏のロボットと思われた聖武天皇は、藤原氏のためではなく、藤原氏に貶められた「鬼」のために行動を起こすのです。
聖武天皇は、701年(大宝元年)藤原氏のロボットの文武天皇(19歳)と藤原不比等の娘(宮子夫人)との間に誕生。そして、716年(霊亀2年)藤原不比等の娘(母は橘三千代)の安宿媛(後の光明皇后)を夫人とされる、名実供に藤原氏のサラブレットであるわけです。それが、どのようにして反藤原氏となったのでしょうか。
その転機のひとつと考えられるのが、740年(天平12年)難波宮行幸の折、河内国大県郡智識寺(知識寺)で盧舎那仏像の拝礼です。そして、そのことが、大仏建立の動機となったと考えられています。
何故、盧舎那仏像(大仏)建立が、反藤原氏なのかと言えば、それは、盧舎那仏は、別名遍照鬼(鬼とは敵側の神)と言われ、バラモン教の神の系列から外れた敵神であるからです。藤原氏が支配する大乗仏教の教義は、バラモン教から多く取り入れているのですから、その系列に入らない神は、敵神であるわけです。
聖武天皇は、天武天皇系の旧勢力の巻き返し時期に即位したことも、反藤原氏になった理由とも考えられます。それは、藤原氏は、729年(神亀6年)、漆部(ぬりべ)造君足等の「左大臣正二位長屋王ひそかに左道(道教から派生した陰陽道)を学び国家を傾けんと欲す」とのウソの密告により、長屋王(反藤原氏の天武天皇系皇族)を謀殺したことも、聖武天皇が藤原氏を疎む原因のひとつかもしれません。聖武天皇が、藤原氏による強引な王権簒奪戦略に嫌気がさした、とも考えられるからです。
その長屋王の謀殺の反動か、737年(天平9年)藤原不比等の息子が相次いで死去するのです。4月17日次男死去。7月13日四男死去。7月25日長男死去。8月5日三男死去。このことは、歴史教科書では、天然痘がその原因と述べていますが、あまりにも不思議な事件です。
聖武天皇の行動にも不思議なことがあるのです。藤原氏の子息が相次いで死去した翌年の9月2日に、藤原広嗣が兵を起こすと、聖武天皇は10月29日に伊勢国に行幸するのです。しかし、伊勢神宮には行きません。(天武天皇が建立した伊勢神宮は、そのころ藤原氏の支配下にあったからです。)そして、伊勢より美濃国を経て山城玉井頓宮に行くのです。それらの地は、奈良の都からすれば、他界の「鬼」が住む所なのです。
そして、741年(天平13年)1月11日恭仁遷都を告げ、2月24日諸国に国分・国分尼寺建立の詔を発し、3月9日平城京の兵器を甕原宮に運ばせるのです。
そのようなきな臭い時期の743年(天平15年)盧舎那仏造顕の詔を発するのです。この頃、反藤原氏の行基(15歳で出家し仏門に入るが、18歳〜37歳まで山岳で過す。当時山岳には、藤原氏に都を追われた自然神を祀る道教士や景教僧が「鬼=天狗」となって逃げ込んでいた。その鬼が住む山岳で行基は、道教士から薬草学・治療術を、秦氏の景教僧からオリエント渡来の土木技術を習得する。723年(養老7年)の開墾奨励のための「三世一身法」により、強欲な豪族達が未開拓地開墾のため、行基の土木技術を切望することにより、反仏教の行基の勢力が増す。)が、聖武天皇に接近し、大仏建立のための勧進を始めるわけです。
大仏を建立するために、信楽(紫香楽)に寺地を開くのですが、藤原氏の陰謀による火災により信楽京を放棄して、平城京に再び移るわけです。そして、745年(天平17年)盧舎那大仏鋳造を大和国添上郡山金里(藤原氏の興福寺を見下ろす東大寺の寺地)でおこなうわけです。
その東大寺の大仏建立に、全国の鬼達が協力するのです。では、鬼となった者達とは、前身は何だったのでしょうか。
686年天武天皇が崩御すると供に、藤原不比等に都を追われたのは、道師です。684年に天武天皇が中央集権確立のために発明した階級制度「八色の姓」の内訳は、上位から真人・朝臣・宿祢・忌寸・道師・臣・連・稲置です。その道師とは、道教教団の指導者のことなのです。
道教と大乗仏教とは、歴史的因縁があったのです。それは、中国大陸での「三武一宗の法難」と言われる、四人の皇帝からの廃仏が原因です。この廃仏には、大乗仏教の戒律の乱れも原因のひとつですが、金ピカの仏像とバラモン教やヒンズー教の護摩の儀式や加持祈祷、バリトンの聖歌隊による読経の派手なパフォーマンスを導入したことにより、薬草学による長生術や天に祈る四方拝の儀式をおこなっていた道教が衰退した結果、道教が巻き返しのため、皇帝に大乗仏教の在らぬことを密告したことが原因のひとつと言われているからです。
そのことにより、大乗仏教僧200万人は、中国大陸を追われ、やっとのことで日本列島にたどり着けば、道教士は天武天皇の重臣の「道師・みちのし」として活躍していたのです。大乗仏教教団としては、これは許されるものではなかったのでしょう。そこに目をつけたのが藤原不比等です。騎馬民族の天武天皇系の氏族達を抹殺する戦術に、大乗仏教の「血の穢れ」思想は強力な武器となるからです。その思想は、肉食の禁止を意味するからです。肉食ができなければ、騎馬遊牧民族の日常生活や経済が成り立ちません。それに、獣の皮は、当時では、重要な軍事物資であったのです。武器や防具を作るは、皮革が必要なのです。
そのような大乗仏教の道教追い落としの中、大仏鋳造製作中、聖武天皇の健康が不調となるのです。それは、一説には大仏鋳造の銅毒や塗金のアマルガム法による水銀中毒ではないかということです。それらの鉱毒は、大仏建立後の奈良の都の祟りの原因となるものです。
749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)、聖武天皇の娘が孝謙天皇として即位するのです。そして、大仏建立がまだ完成していないのに大仏開眼を強行する中、孝謙天皇と聖武太上天皇が東大寺に行幸の折、八幡大神の禰宜尼大神朝臣杜女(もりめ)が、「紫色」の輿に乗り東大寺を拝するのです。この輿が、日本の歴史上に現れた初の「神輿」と言われているのです。つまり、神輿とは、鬼の神様を祀るものだったのです。
孝謙天皇・聖武太上天皇をバックに、この鬼達の振る舞いに対して、藤原不比等なき後の光明皇后の甥の藤原仲麻呂は黙ってはいませんでした。孝謙天皇の母の光明皇后(藤原不比等の娘)が後見し、皇太后のために紫微中台を新設し、その長官に藤原仲麻呂を任命したのです。
藤原仲麻呂は、その地位を利用して、敵対する橘奈良麻呂を謀殺し、新羅末裔の天武天皇系の豪族を謀略・密告でことごとく抹殺してしまうのです。そして、758年(天平勝宝2年)孝謙天皇を無理やり退位させ、藤原仲麻呂の娘の子供の大炊王を淳仁天皇(758年〜764年)として即位させて、権力を藤原仲麻呂と光明皇后とが握ってしまうのです。そして、藤原仲麻呂は、国璽(国の印)をこともあろうことか、藤原仲麻呂の自宅に移してしまうのです。つまり、日本国の政治の中心が、藤原仲麻呂私邸になってしまったのです。
更に、百済国を滅ぼした新羅国討伐を試み、新羅の敵対国唐の制度にならって国内制度の名称を独断で変更してしまうのです。(日本の歴史上、藤原氏が権力の中枢を握ると、対朝鮮侵略行動を起こすようです。平安時代の新羅国蔑視政策、藤原氏の傀儡政権の豊臣秀吉の朝鮮出兵、藤原氏の本流近衛家による明治維新政府の征韓論。その原因は、藤原氏の先祖が高句麗・百済亡命貴族の末裔だったからです。つまり、その両国を滅ぼした新羅国の存在がゆるせないのです。21世紀の今も。しかし、日本民族が藤原氏の行動を全て支持しているわけではありません。それは、韓族と倭族とは、海洋民族呉・越の末裔の同族で、日本の武士氏族の源氏はギリシャ・ローマ文化保持国新羅の末裔です。つまり、倭族と源氏とは、韓族と新羅人と同族だからです。日本民族は、歴史教科書が言う単一民族などではないのです。)
760年(天平宝字4年)光明皇后が死去。その翌年孝謙上皇も体調を崩したが、その看病を弓削道鏡が行なうことにより回復したのです。そのことが、藤原氏のロボット淳仁天皇との対立を起こし、762年(天平6年)孝謙上皇は、蝦夷(エミシ・アイヌ民族ではなく、都を追われた主に騎馬系軍事部族達の総称=鬼)の武力を背景に、平城京に帰還し、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げるのです。そして、藤原仲麻呂が行なった新羅討伐計画を中止し、唐制の制度を元にもどすのです。
それに対し、764年(天平宝字8年)光明皇太后の後見を無くした藤原仲麻呂は、鬼達の武力を背景に専制政治を行なう孝謙上皇に焦りを感じ、挙兵するわけです。(恵美押勝の乱)しかし、鬼達の軍事力に圧倒され敗れてしまうのです。勝利した孝謙上皇は、淳仁天皇を都から追放し、孝謙上皇が重祚し、新羅系、天武天皇系最後の女帝天皇、称徳天皇となるのです。(天武天皇系は騎馬民族系なので女帝は常識ですが、百済系桓武天皇系は騎馬民族系ではないので、原則女帝は認めていない。例外、117代後桜町天皇は女帝。)
鬼の勢力を背景に返り咲いた称徳天皇は、聖武天皇の遺言「王を奴となしても、奴を王と言っても、孝謙の好きなようにすればよい。」、を実行に移すのです。藤原氏の勢力を押さえるため、下級貴族の吉備真備を右大臣に用い、道鏡を太政大臣禅師とし、更に、769年(神護景雲3年)宇佐八幡の託宣「道鏡を皇位に就けよ」を受けるのです。これに対し、藤原氏は、和気清麻呂を再度宇佐八幡へ行かせ、神託を受け道鏡の皇位阻止を行なうのです。(伊勢神宮が天皇家の宮であると言うのなら、何故、伊勢神宮で託宣を受けなかったのでしょうか。)
770年(宝亀1年)、天武天皇系最後の女帝称徳天皇が崩御するのです。歴史教科書では、原因は天然痘と言っていますが、一説には毒殺とも言われています。称徳天皇が崩御するとすぐ、藤原永手と藤原百川とが、陰謀により、無名の百済亡命下級貴族の白壁王を天皇に仕立て上げるのです。それが、光仁天皇(770年〜781年)です。しかし、藤原氏の謀略は、ここで再び挫折するのです。それは、光仁天皇の息子の百済系桓武天皇(781年〜806年)は、藤原氏と同じに謀略の名人だったからです。
藤原氏が、平城京を支配し、騎馬系貴族を都から追い落とすために、大乗仏教の「血の穢れ」思想の布教や中臣神道の「穢れ祓い」の儀式を行うために、怨霊による「祟り」思想を布教したのですが、遍照鬼(平城京を見下ろす奈良の大仏)が本当に祟ってしまったからです。(実際は、銅毒と水銀汚染による鉱毒公害)平城京の都は、鉱毒神経症の患者で溢れてしまったのです。更に、中臣神道で単なる皮膚病のシロトやコクミを、国つ罪として宣伝し、大乗仏教は、法華経でハンセン氏病を仏罰だと宣伝し、前政権のまつろわない騎馬系貴族達を坂地に集め部落とし、そこに、それらの国つ罪者や仏罰者を収容させたのです。その戦術は、触れた物はその影響を受けると言う「感染魔術」です。これにより、まつろわぬ元貴族達は「穢れ者」に貶められてしまったのです。
藤原氏は、騎馬系元貴族の貶めが成功したと思っていましたが、しかし、一枚上手の謀略家の桓武天皇は、平城京を「穢れ都」とし、更に藤原氏の影響下にある奈良仏教を「穢れ仏教」としてしまうのです。つまり、「穢れ思想」を逆手に取り、藤原氏の武器のひとつである奈良仏教と中臣神道の抹殺です。その桓武天皇の戦略が成功するのは、奈良仏教の民衆を相手ではなく、貴族・豪族・富者による多額の布施や堂塔の建立、造仏の寄進に対して行う、まがまがしい複雑怪奇な仏教儀式をおこなっていたからです。鉱毒公害に侵された奈良の都の庶民には、僧侶のおこなう持戒・精進・禅定・複雑な教学の研鑽・難しい仏法修行などは、無用の長物でしかなかったのです。
そこで、794年(延暦13年)桓武天皇は、秦氏の元支配地を平安京とし遷都するのです。そして、桓武天皇は、奈良の三論・成実・華厳・倶舎・法相・律の南都六宗を、穢れ仏教として奈良に封印してしまうのです。ですから、平安京には、藤原氏の影響下にある宗教集団は存在しないのです。
そこで、桓武天皇は、漢族の末裔最澄を唐の山東半島(日本国からの中国への貿易先)に留学させ、805年帰朝した最澄は天台宗を創むのです。(中国語も知らない最澄が8ヶ月の留学で何を学んできたのでしょうか。最澄は、空海が唐から持ち込んだ仏典史料を借りて勉強しているのです。)そして、最澄は、秦氏の元支配地であった、ミトラ神(魔多羅神)を祀っていた比叡山の地に、延暦寺を建立するのです。ここから、藤原氏支配の奈良の興福寺と百済系桓武天皇支配の比叡山延暦寺との戦いが始まるのです。
平城京(710年遷都)から平安京(794年遷都)への複雑怪奇な理解を超えた遷都は、見方を変えて見れば、新羅系貴族と藤原氏と百済系亡命貴族との地下での三つ巴の戦いの現われでした。(四世紀から続く朝鮮半島での争いが、日本列島に持ち込まれたのです。)
この争いは、結果的には、百済系亡命貴族の勝ちのようです。それは、藤原氏の勢力を奈良の都に封じ込め、そして、新羅系貴族を賎民に落しこめることに成功したからです。その仕上げとして、百済系新仏教組織構築のために最澄を唐に派遣させ、中国天台宗の日本支部を比叡山に開設できたからです。(仏教寺院は、国際交易に深く関わっていた。)
そこで不思議に思うのですが、最澄の渡唐の遣唐使船(四隻中二隻難破)に合わせて、一年前まで仏籍になかった空海が、何故遣唐使船に乗れたのかということです。ここに、遣唐使船の謎があるようです。
遣唐使船は、630年に始められたようです。それは、蘇我王朝が崩壊する15年前のことです。では何のための遣唐使船なのでしょう。歴史教科書では、唐の文化を輸入するためと、白鳳時代の貴族子弟の留学のため、との説明です。しかし、この遣唐使船には不思議なことがあるのです。それは、度重なる難破です。
何故不思議なのかと言えば、630年に遣唐使船が始まる23年前の、遣隋使船は、607年小野妹子を隋に遣わし、608年小野妹子は隋使裴世清(日本書紀では推古天皇統治時期ですが、裴世清は唐皇帝に男王「蘇我馬子か?」に謁見し、倭国は中国と同じ高度文化を保持していると報告しているのです。)を伴い帰朝し、その年に小野妹子は再び入隋し、609年には小野妹子が帰朝しているのです。23年前の中国渡海を、二年で二往復するほど安全に行なわれていたのに、何故遣唐使船の難破が多発したのでしょう。常識的には、あらゆる技術は、時代と供に、後退ではなく、進化・進歩するものなのです。
一つの考えとして、遣唐使船は、ある目的を持って難破するように仕掛けられていたのです。それは、古代のタイタニック号(相続人のいない富豪が多く乗船していた。)だったのです。遣唐使船は、藤原氏に不都合な人物の合法的抹殺手段だったのです。その犠牲になったのは、蘇我王朝や天武王朝の将来を支える多くの優秀な若者(藤原氏にとっては脅威)だったのです。
その論拠として、894年の遣唐使の廃止令です。下級貴族出身の菅原道真は宇多天皇(887年〜897年)の重臣として反藤原行動を起こすのです。それに対して、藤原氏は、菅原道真を遣唐使に任ずるのです。菅原道真は、藤原氏の遣唐使船による陰謀を良く知っていたので、宇多天皇をして、菅原道真の遣唐使を中止するだけではなく、唐との交易や文化輸入は無意味だと遣唐使制度そのものを廃してしまうのです。(日唐交易は、藤原氏の経済を支えていた。)
それに対して、藤原氏は、901年(延喜1年)菅原道真を大宰権帥に左遷するのです。その二年後に菅原道真は大宰府にて死去してしまうのです。このあまりにも強引な藤原氏の処置に対して、菅原道真の祟りを恐れ、菅原道真を「天神」として神社に封じ込めてしまうのです。(怨霊封じ込め装置の神社が、いつから死者の魂を祀る施設になったのかは不明。日本国における神社設建の歴史は謎です。分かっているのは、仏寺の後に出現したことです。つまり、神社は、日本古来の建築物ではないことは確かです。古墳の近く、或いは古墳上に建設されていることが多い事実が、神社設立の謎解きのヒントのようです。)
では、最澄の渡唐の本当の目的は、何だったのでしょう。唐の優れた仏教を学ぶためだけではないでしょう。通訳を伴うほど、最澄は中国語が分りません。それが、八ヶ月滞在での帰国です。とても天台宗や密教をマスターしたとは思えません。その証拠に、帰国後、年下の空海の弟子と自認して、最澄は空海に密教を学んだり仏典を借りて勉強をしていたのです。
では何かと言えば、それは、山東半島に亡命していた百済貴族の日本国への導きでしょう。
藤原氏の支配を避けるため、百済系桓武天皇は、平安京を「百済の都」にしたかったのです。そのために、中国・唐に亡命していた百済貴族の日本渡来の導きを、漢族末裔の最澄に命じたのです。
では、空海の目的は何だったのでしょうか。
歴史教科書では、最澄を学究の僧、そして空海を修行の僧と説明しています。空海は、その説明のように、弟子を養成するために仏寺で学問をするのではなく、全国各地の山々に分け入り、山岳修行の名目に実際は鉱脈探索に勤しんでいたのです。
日本列島は、十六世紀にメキシコ銀山が開発されるまでは、世界有数の銀産出国であったのです。
唐経済は、菅原道真が指摘していたように、交易の重要商品である「絹織物」が、その原料である「繭」を西域人に盗まれることにより、更に、交易方法が、内陸から海路に代わったことにより交易通行税激減により、疲弊していたのです。そして、ヨーロッパでの交易商品の需要は、絹織物から「銀製品」に変化していたのです。唐の経済立て直しのためには、属国日本列島での銀山開発が急務だったのです。
奈良時代の日本列島での交易戦争に勝ち抜いたのは、蘇我王朝、天武王朝を数々の陰謀で倒した、藤原氏です。しかし、反藤原氏の聖武天皇の祟りにより、その地位が危ぶまれていたのです。その隙を突いたのが、百済国が663年滅亡し、日本列島に亡命していた百済貴族達です。
ひとは理念だけでは生きられません。食物をとらなければ身体を維持できないようになっているからです。国を身体とすれば、食物は経済です。経済は物と物との交換において成り立っています。その経済の流れをみることで、日本史の本流が分かるかもしれません。
大仏造鋳過程で、奥州から金が産出することを知った百済系光仁天皇は、奥州経営のために侵略軍を組織するのです。780年、光仁天皇は、百姓より徴兵し、武術に優れたものを選び出し軍事訓練し、792年桓武天皇は健児兵軍団として組織するのです。
しかし、騎乗弓射する騎馬民族末裔の蝦夷には、何十万の農耕民族軍隊でも太刀打ちできません。そこで騎馬民族末裔である金髪の坂上田村麻呂を鎮守府将軍として、敵将アテルイを、和平条約を結ぶためと、京に連れ出してだまし討ちすることにより、奥州侵略に成功するのです。(奥州は、歴史教科書地図での白地の未開の地などではなかったのです。縄文時代から岩手県久慈では琥珀が産出され、国際交易商人達が訪れていたのです。)
桓武天皇による奥州侵略には、金山略奪のほかに、もうひとつの目的があったのです。それは、蝦夷軍団には騎馬系新羅武士団が多くいたからです。桓武天皇は、百済国滅亡に導いた新羅国に並々ならぬ憎しみをもっていたのです。この憎しみが、百済の都「京都」での差別部落を発生させる原動力となっていくわけです。その差別に手を貸すのが最澄開祖の日本天台宗の、騎馬民族蔑視の法華経の布教です。そのプロパガンダのキャラクターとして開発されたのが「聖徳太子」だったのです。
何故、成人しているのに「聖徳皇子」ではなく「聖徳太子」なのかと言えば、新羅系日本人には、「太子信仰」が受け入れられやすいことを、中国渡来の天台宗僧が知っていたからです。
ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅(356年〜528年・女帝が統治。新羅と同族の天武王朝も女帝が多い。しかし、民族が異なる桓武王朝では女帝は皆無。例外は1人。)では、ギリシャの地母神イシスとその子供ホルスとの「母子神」(このイシス・ホルス母子神がキリスト教に導入され「聖母マリアと幼児キリスト」となる。)が信仰されていたからです。その「母子神」は、やがて母神だけが忘れられ、子神(アル)が祀られていくわけです。それが「太子信仰」の発生となるのです。そして、最澄は、百済仏教布教のため、法華経のキャラクターの聖徳太子の宣伝隊長としてガンバルのです。(桓武焚書と日本書紀の改竄による、百済勢力による新羅追い落とし宣伝に脅威を感じた新羅系秦氏の末裔多人長が考え出した戦術が、「奥付に712年を記述した古事記」出版だったのです。552年の百済仏教伝来物語は、百済系桓武天皇の創作です。古事記の序にある天武天皇の詞「諸氏族が持っている帝記および本辞は、もはや真実と違っていて虚偽を加えている」は、桓武天皇による「日本書紀」改竄を指したものです。)
藤原氏は、桓武天皇の亡命百済人による都建設戦略を見抜くように、「夷を以って、夷を制す」戦略で、秦氏の末裔空海に目をつけるのです。そして、仏籍のない空海を短時間で仏僧に仕立て上げ、遣唐使船に乗船させたのです。
空海は、唐に約二年間滞在中に、仏教や密教の経典を掻き集めながら、錬金術・鉱山開発技術習得や鉱山開発用工具類の購入をおこなっていたのでしょう。
その論拠として、空海が建立した仏寺近くには、銀山や銅山が点在するからです。勿論、空海の本拠地高野山は、中央構造線上にあるのです。空海は、この中央構造線に沿って仏寺を建立しているのです。その中央構造線では、縄文時代から朱砂のとれる場所であったわけです。朱砂(硫黄と水銀の化合物)が採掘されれば、そこには水銀・銀が眠っている可能性があるからです。
では、空海が唐から輸入した仏教とは何だったのでしょう。元々空海は地方下級士族出身で、更に百済ではなく秦氏の末裔でしたので(クダラナイ=百済ではない=高貴ではない)、大学を卒業しても官僚となる道が閉ざされていたのです。空海が大学に入学したといっても、従五位以上の子弟でなければ入学できなかったのを、聴講生の身分で通学していたわけです。中途退学は予定の行動でしょう。それに、漢文を理解できる語学力があったので、仏典の無意味さも知っていたのでしょう。(江戸時代、白隠禅師が、「仏典に仏を求めて無駄な時間を費やしてしまった。」と述べていたように、文殊の徒が創作した六千点もの仏典には、釈尊の真理など存在していなかったようです。)
では、空海は何に興味を示したのでしょうか。それは、七世紀の中国大陸で流行っていた「タントラ」です。
バラモン教を取り込んだヒンズー教が開発した「タントラ」の特徴は、呪文、護符、お守り、手印です。それに、バラモン教の水銀薬の回春術とヒンズー教の護摩と加持祈祷を加えれば、平安時代の秘密仏教(密教)の完成です。
空海は、この「タントラ」を大乗仏教(密教)のひとつとして日本国に持ち込んだのです。しかし、反新羅・反秦氏の桓武天皇は、空海の登都を認めませんでした。空海が京に登れたのは、百済天皇四代目の嵯峨天皇(809年〜823年)の時です。子作りが好きな嵯峨天皇(子供が多すぎて公費では養育費が払えないため、812年皇族籍を抜いた嵯峨源氏を創め。公家桓武平氏は825年淳和天皇が創め。)は、空海の水銀薬を使う回春術に大変興味を持っていたようです。
空海が持ち込んだ密教は、多くの仏教関係者に歓迎されたことでしょう。それは、少数の金持ち相手の仏像販売ではなく、多くの庶民相手にビジネスができるからです。それは、護符・お守りの販売です。神社仏寺での護符・お守り販売の元祖は、高野山であったのです。
しかし、空海のもたらした密教は、良いことばかりではありませんでした。それは、バラモン教のカースト思想そのものを直接日本国に導入してしまったからです。それは、高野山で販売していた「お札」の文句が、バラモン教(=ヒンズー教)の「律法教」からの借用だったからです。
「セダラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れを受ける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない」の宣伝文句で、バラモン僧は浄化儀式を行い金儲けをしていたのです。その文句を高野山のお札では、「栴多羅(せんだら)・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」と借用していたのです。(現在は削除)
この密教の穢れ祓えは、中臣祓えより強烈に騎馬民族にダメージを与えたことでしょう。更に、空海は、騎馬民族末裔の蝦夷を「非人のともがらなり」と蔑んで呼んでいるのです。
これらの空海の言動がやがて、藤原氏と百済系天皇による、騎馬民族末裔の新羅系日本人と秦氏を単なる賎民としてではなく、化界の不可触賎民(穢多)としてしまうのです。
何故それまでして、百済系天皇と藤原氏は、新羅系日本人と秦氏を貶めるのでしょうか。それは、元天武王朝の王族の新羅系日本人の武闘力と臣下であった秦氏の武器製造・土木建築技術を恐れていたからです。それらの技術を持って庶民を味方につければ、簒奪王朝である藤原王朝や百済王朝などは簡単に崩壊されてしまうからです。(桓武王朝は、白壁王(光仁天皇)の皇后である天武天皇系の井上内親王とその子・天武王権相続者の他戸親王を毒殺し、更に実弟の早良親王も自殺させることにより創られた王朝なのです。つまり、桓武王朝は簒奪王朝であったのです。このことを隠す装置が、812年編纂の「新撰姓氏録」です。この名簿には、新羅国出身者がほとんど掲載されていないのです。「新撰姓氏録」は新羅系日本人の歴史上の抹殺です。そして、氏族を「皇・神・蕃」に分け差別するのです。秦氏は、「蕃」の渡来系です。勿論、藤原氏と百済亡命貴族は「皇」です。つまり、「皇族」とは、出自不明の藤原氏と百済亡命貴族のことなのです。)
そのような桓武天皇は、王権簒奪時での自らの行いに対しての「祟り」に怯える毎日だったのです。それは、元の都の「平城京」で「祟り」(鉱毒中毒)に冒されたひと達による本物の地獄絵を見てきたからです。それに輪をかけるように、桓武天皇が支配する延暦寺では、法華経布教の手段として、「極楽」ではなく、「地獄」をビジュアルとしての「地獄絵」(地獄絵は、まさに平城京の都での情景だったのです。)で強力に宣伝していたからです。その「地獄」宣伝の集大成が、985年天台宗の学僧源信による「往生要集」となるのです。(地獄世界描写のリアルさに驚嘆した宋国の商人周文徳は、日本天台宗の本社国清寺に寄進したところ、宋の信者に爆発的な人気となり、「往生要集」は宋国へ書籍として多く輸出されたのです。) この書物が創りだした「地獄界」の概念は、21世紀の今もひとびとの「トラウマ」となっているのです。
怨霊に祟られる京の都で、怨霊退治を行なうひとが現われるのです。それが、密教の呪文と道教の方位術・占星術・薬学術を応用した「陰陽道」です。陰陽師は、超能力者を装う呪術で「怨霊」退治を行なうビジネスを平安京で始めたのです。
怨霊を退治するのは、超能力者の「陰陽師」ですが、怨霊を静めるのは、怨霊者側のひとです。ですから、怨霊を封じ込める神社の神主は、敗者の同族がおこなうわけです。
平安京で祟るのは、無念の死を遂げた元王族達です。それらは蘇我氏・秦氏・新羅系貴族です。すると、それらの怨霊を静めることができるのは、敗者の元王族の賎民達しかできないわけです。元王族の賎民達は、新しい職業を手にするのです。それが、「キヨメ」です。
「キヨメ」は、鎌倉時代になると、北条氏(ペクチェ=百済)が、源頼朝の妻北条政子の謀略により、鎌倉源氏一族(新羅武士団の末裔)を滅ぼすと、単なる清掃業に貶められてしまうのですが、平安時代での「キヨメ」は、天皇・皇族を祟る怨霊を静める警護業であったのです。
そのキヨメ業務者は、816年(弘仁7年)には、王権組織の一員の検非違使(810年薬子の乱後に設置された「令外の官」の嵯峨天皇の親衛隊。やがて、都市警察機能を担うようになり、宮城内部と首都の治安を守る業務を行なう。この首都治安が「キヨメ」の業務と重なり、「キヨメ」も貴人の護衛や処刑を補助するようになる。つまり「キヨメ」の業務が、怨霊から天皇を警護する役目だけではなく、犯罪者の逮捕やその処刑を行なうようになる。武士・モノノフと侍・サムライの違いは、「武士」が怨霊から天皇を警護する業務であるのに対して、「侍」は天皇の側近として賊からの攻撃に対する警護と天皇と官僚組織との連絡係の秘書の業務をおこなうひとです。この武官と文官を兼ねるひとを「蔵人」というわけです。つまり、平安時代では、護衛や刑吏をおこなう「武士」と、天皇の側近にいて「武・警護」と「文・秘書」をおこなう「侍」とは、同じではなかったのです。)の補佐業務をおこなうようになるわけです。しかし、キヨメ達は、ただの賎民ではなく、騎士道精神を持ったローマ軍末裔(太陽神・ミトラ神が軍神)の新羅花郎軍団(花とはミトラの借字)の末裔だったのです。やがて、その武闘力により、武家源氏(太陽神の八幡神を祀る。八幡神は秦氏の神)として伸し上がっていくわけです。その台頭に脅威を感じた、百済五代目の淳和天皇は、825年公家桓武平氏を興すのです。これが後に、武家源氏(新羅系日本人)と公家平氏(百済系日本人)との源平合戦に発展していくわけです。
嵯峨天皇は、その「キヨメ」達を、嵯峨源氏(公家源氏)の配下(後の武家源氏)とするのです。そこで、キヨメ達は、怨霊を静める儀式を発明するのです。それが、鎧兜で武装し(実戦用のためではないので、鉄製ではなく、総皮革製。)、刀(実戦用ではないので刃が薄く軽い。)を持ち舞う「武芸」であるわけです。「武芸」の「芸」とは、神を祀るパフォーマンスであるわけです。(神を祀る「芸」が、一般人を祀る(楽しませる)「芸能」に変化していくのは、鎌倉時代以降から。)
「武芸」は、源平合戦での勝利もつかの間、北条氏の陰謀により、賎民(鎌倉源氏一族は、北条氏の源氏残党狩りを逃れるため、北条氏の同族「平氏」と偽つわり、山奥に平家落武者部落にて、源氏再興の好期を待った。1335年源氏の足利尊氏が、仇敵北条氏に反旗を翻す。)に落とされた鎌倉源氏一族の無念が、室町時代に源氏の足利時代になると、足利氏に保護された秦氏の末裔・賎民の観阿弥・世阿弥親子により「能」に生まれ変わった。鎌倉源氏一族の無念は、平家一族(北条氏の百済平氏ではなく、氏名の無い「平○○」と名乗るペルシャ平家)の無念と重なるため、「平家物語」は、源氏系武士により多く舞われた。)
百済亡命貴族の都「平安京」に遷都し、藤原氏の興福寺・春日社の宗教戦略に習って百済系宗教組織、中国天台宗の日本支社を秦氏の元支配地の比叡山に延暦寺として建立し、騎馬民族末裔の蝦夷の支配地を坂上田村麻呂侵略軍のだまし討ちにより略奪し、奥州の金山から産出された砂金をもとに、唐との交易をおこなうことで経済基盤を確立し、百済純血を保っていた桓武王朝も、六代目の仁明天皇の時代になると、藤原氏の「女」を使う戦略により、徐々に藤原氏に百済王朝は侵食されていくのです。
藤原氏は、天武天皇が発明した、太陽神の冬至再生の儀式の大嘗祭(天皇が一生涯で一度だけ行う、前王権者の死から新しく再生する王権を受け継ぐ儀式)を、収穫祭(真冬に行う収穫祭とは何か。)と改竄し毎年真冬に行うことにより、天皇に「まぐわい=神婚」の相手に「藤原の女」を提供し始めるのです。更に、大嘗祭において五節舞を開催し、藤原の幼女を着飾らして、天皇の前で舞わすのです。天皇が気に入った舞姫は、側室となることは、藤原氏の計画済みです。
そのように藤原氏の血が注入された百済王朝の経済も、907年唐が滅ぶと、疲弊していくわけです。更に、唐王朝崩壊後の935年には、統一新羅国(675年〜935年)が滅亡し、その難民の多くが、新羅系日本人・秦氏(平安時代、出自を隠すために秦氏を惟宗氏に改名。)を頼って日本列島に渡来してくるのです。それらの人たちは、富士山の噴火灰が降り注ぐ不毛の関東の地に追放されるわけです。(713年の好字令:二文字の日本語化により、新羅亡命人達は、関東海岸部は七・八世紀渡来の高句麗・百済系日本人に占領されていたため、関東内陸部に白○部落、志○部落を形成し、後に源氏の元となる。)
日唐交易は、百済王朝の管理下、延暦寺に寄宿する国際交易商人達によりおこなわれていたものが、907年唐が滅亡し、960年宋が興るまで、中国との交易は無秩序となったため、その間、日本列島に南方のアラブ国やインド国からの交易船が直接訪れるのです。それに伴い、外国人も多く渡来するのです。
16世紀イエズス会の渡来の例でも分かるように、国際交易商人は軍隊を伴うのが常識です。大阪の難波は百済系日本人(百済平氏)に、渡邊津は新羅系日本人(武家源氏)が支配していたため、インド・ベンガラ染め衣装を着るペルシャ平家の先祖となる商人と軍隊は未開の伊勢を目指すわけです。伊勢は、中央構造線上に位置するため、海外に宇陀と並んで水銀産地と知られ、後に国際交易人やアラブ・インド傭兵軍隊が渡来して、南蛮交易湊として栄えることになるのです。
戦国時代、尾張に出自不明の織田信長(自称平氏。三代先の出自不明。比叡山の僧侶全員虐殺は反百済か。仏教嫌いで海外文化に染まるのはペルシャ平家の末裔か。)、豊臣秀吉(自称平氏。出生地不明。子供の頃日吉・イルギ丸と呼ばれていたのは中国山東半島渡来の百済の末裔か。)、徳川家康(自称源氏。朝鮮半島の朱子学を尊び、穢多頭の弾佐衛門との親交は、部落出身か。)などの武将が多く輩出されるのは、海外の傭兵軍団が多く渡来したためです。
桓武王朝の百済の血が薄くなると、延暦寺の僧侶達のなかには、仏のこころを忘れ、自己の利益のために行動する者も現れてくるのは自然の流れでしょうか。
延暦寺領の末寺や荘園の預所を兼任していた法薬禅師は、宋商人から賄賂資金を受けて大宰府の役人に賄賂を贈り、大宰府近郊にある大山寺の支配権を有利に進めたのです。そして、その大山寺を拠点として、宋人を神人(神社所属の奴)として借上(高利貸し・奈良時代の仏寺が創め。)をおこなっていたのです。このような優秀な僧侶がいることにより、延暦寺は中世において日本国最大の借上集団を抱え込むようになっていくわけです。
百済王朝の京都の宗教・交易拠点である延暦寺の規律が乱れると、藤原氏の奈良の興福寺の勢いが再び興るのです。藤原氏は、キヨメの武家源氏の武力を背景に、藤原道長(995年〜1017年)が、大嘗祭・五節舞システムにより百済王朝を完全に牛耳るのです。それに対して、百済系天皇・貴族が、藤原氏のそのシステム支配から逃れる装置が、1086年の白河上皇が発明した院政です。
日本国唯一の権力者である天皇を藤原氏の女を使ってロボット化するのが、摂政関白制度です。その摂政関白システムを無力化させるために、天皇が自ら譲位し上皇となって、無力化天皇をコントロールするのが、院政です。この上皇による院政装置により、藤原氏は、天皇をコントロールして朝廷政治を支配できなくなってしまうわけです。
そこで、無力化した天皇の藤原氏側と実権を握った百済系上皇側との闘争が、武力闘争に発展していくわけです。
奥州の乱(藤原氏による金山略奪戦争)で武家源氏が、1051年の前九年の役と1083年の後三年の役で、武闘力を発揮したため、1098年源義家が、初めて昇殿を許されるのです。そこで、武家源氏の昇殿に脅威を感じた百済系白河上皇は、対抗軍事族として、伊勢での水銀南蛮交易で財を成し、天皇家に多大な寄付、ペルシャ系舞姫、南蛮渡来の珍しい品々(孔雀・羊・ベンガルトラの毛皮)などを贈賄する、ペルシャ平家を登用するのです。
この武家源氏とペルシャ平家とが、藤原氏と百済王朝との闘争に参加すると、百済亡命貴族支配の延暦寺を武家源氏が攻撃すれば、それに対して、藤原氏支配の興福寺をペルシャ平家が攻撃することになるわけです。この争いの元は結局、院司(百済系貴族)と朝臣(藤原氏)との代理戦争なのです。
この代理戦争は、やがて、1156年の保元の乱と1159年の平治の乱へと発展し、結果的には、ペルシャ平家が、武家源氏を敗退させ、平清盛の時代(1167年〜1181年)となるのです。そして、源義朝が惨殺され、その息子源頼朝が、1160年に伊豆(夷・エビスの居住地。夷住→イズ。鈴鹿の関以東には、民族差別思想が以西に比べて普及しなかったのは、ヤマト征服者の渡来元の朝鮮半島に向いて「ヤマト」に立ち、右手側が東国・アズマは、それに対して左手側は西国・サツマ、645年から夷・エビスの国であったから。)に配流となるわけです。
1167年平清盛が太政大臣となると、父の平忠盛を真似て、福原に国際交易湊を構築し、宋国との交易独占を図るのです。交易品は、砂金、銀、水銀、朱砂、硫黄、などの鉱物で、宋国からは宋銭を多量に輸入するのです。宋国の貨幣が一般に通用すると言うことは、平安時代の臣民は、中国の経済圏に暮らしていたと言うことです。
平清盛は、藤原氏の国家乗っ取り戦略を真似するのです。平清盛の娘徳子を天皇に嫁がせ、1181年には建礼門院に変身させるのです。そして、その子を安徳天皇とし、後白河法皇を幽閉し、日本国乗っ取りを図るのです。
この行状に対して、藤原氏と百済皇族達は、ペルシャ平家壊滅を図るのです。しかし、後白河法皇や藤原氏によるペルシャ平家打倒の陰謀は、ペルシャ平家の圧倒的な海軍を主とした軍事力によりことごとく粉砕されてしまうのです。その反動として、1180年には、平重衡が鬼の守護寺の東大寺を焼き討ちしてしまうのです。
この時代、海洋軍事部族のペルシャ平家を壊滅できるのは、騎馬民族末裔の武家源氏しか存在していません。そこで、桓武平氏(百済平氏)の末裔北条時政は、その娘政子の夫源頼朝を担ぎ出すのです。しかし、京の公家社会に染まった源頼朝には、モノノフ・武士の魂は存在していなかったのです。
そこで、奥州の金山を支配する奥州藤原清衡は、出自不明の源義経を源頼朝の弟として、ペルシャ平家打倒の尖兵として送り込むのです。
源義経の出自解明のヒントは、屋島の合戦での出陣地が、渡邊津であることです。渡邊津は、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅末裔の居住地であるのです。その同族として、北九州松浦党がいるのです。松浦党は、主に海洋民族ですが、同調する者は異民族でも同族として迎え、日本列島にはない合議制(ギリシャ・ローマ軍は合議制により軍事行動を行っていた。)により行動する軍事部族であるのです。松浦党の主な経済活動は、朝鮮半島との交易です。朝鮮半島とは、珍島(メズラ島→マズラ→松浦)を拠点に交易をおこなっていたのです。(鎌倉源氏滅亡後、百済北条王朝により、中央から追放され「倭寇」となる。)
1185年壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し、ここにペルシャ平家は滅ぶのです。そして、1192年返り咲いた後白河法皇により、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開くのです。しかし、鎌倉源氏は、百済平氏の末裔北条氏の陰謀により、頼朝、頼家、実朝の三代で滅亡してしまうのです。
ここから、北条氏により、645年に蘇我氏、秦氏が藤原氏により賎民に落とされたように、鎌倉源氏一族は賎民に落とされてしまうのです。つまり、鎌倉時代とは、平安時代が百済王朝とすれば、第二百済王朝だったのです。
そこで、第二百済王朝は、仏教を武器として、騎馬民族末裔の賎民を「穢多」と蔑む戦略を展開するのです。その尖兵となるのは、百済が支配する比叡山天台宗の卒業生達です。
平安時代末期の京都比叡山は、中国天台宗本社との交易や借上の事業に勤しむのですが、平安二大仏教のひとつ、空海開祖の真言系の仏寺は、どのような状態であったのでしょうか。文覚上人の、空海が得度を受けた由緒ある高尾山神護寺再興の起請文には、次のような一文があります。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師をいれたりしてはならない。

平安時代末期は、その起請文の禁止事項が仏僧により実際におこなわれていた、大乗仏教が述べる、正に末法の世であったわけです。
末法の世は、日本列島だけではなかったのです。東アジアでは、唐が滅び、宋が興る頃、北方に騎馬民族の女真が勢力を伸ばし、南下を試みるのです。その南下は、日本海をまたぎ、1019年北九州に来襲するのです。この賊を、日本史では「刀伊の入寇」と述べています。
この騎馬民族女真は、やがて勢力を伸ばし、契丹(遼)、高麗を滅ぼし、1115年に金帝国を興すのです。この金帝国は、宋を脅かし、その結果、1127年宋は南退して、南宋(南朝)となり、北半分を金帝国(北朝)に侵略されてしまうのです。
そのような政治的に不安定な中国大陸で、布教活動をしていた禅宗の臨済宗と曹洞宗は、組織の海外脱出先を模索していたのです。
禅宗とは、インドのヨーガに中国土着の思想を加えたものです。「禅」は、サンスクリット語のディヤーナ、パーリ語のジャーナの音写です。意味は、静慮、思惟修習、つまり、「瞑想すること」、或いは、「思うこと」、です。このインドのヨーガ(禅)が、中国に伝来したのは、後漢の頃と言われています。その後、北魏時代に達磨によりヨーガが布教され、中国土着思想(神仙術・儒教・道教)と融合することにより「禅宗」として完成したようです。
鎌倉源氏一族を抹殺した北条政権は、北条王朝の基盤を固めるための装置を開発するのです。それが、1232年御成敗式目の制定です。そして、京都朝廷の手先である延暦寺の支配を鎌倉から排除する装置が、中国からの「禅宗」の導入です。(この戦術は、桓武天皇が、藤原氏の支配を封じるために南都仏教を奈良に封印し、平安京に中国から天台宗を導入したことと同じです。)
北条氏は、百済系ですが、京都を支配する桓武王朝の流れから外れている、百済皇族ではない、武家平氏です。だから、伊豆(夷住)に配置となっていたのです。武家源氏の騎馬による武闘力を利用して、ペルシャ平家を打倒して、やっと手に入れた関東の支配地を、再び桓武王朝に渡すわけにはいかないのです。
京都の桓武王朝は、鎌倉支配の尖兵として比叡山の延暦寺で洗脳した百済仏教修行僧を、北条氏の支配する鎌倉に送り込むのです。それに対して、北条氏は、中国から導入した「禅宗」で対抗するのです。(現在の鎌倉には寺が多くあるのですが、禅宗以外の寺が少ないのは、そのためです。)
歴史教科書や仏教史で、奈良・平安時代は貴族仏教で、鎌倉時代にやっと庶民のための仏教が興った、と述べていますが、実態は、鎌倉大乗仏教が庶民のために布教を創めたのではなく、北条氏により京都百済仏教が鎌倉の地から排除され、それに代わり「禅宗」が鎌倉武家社会に受け入れられたため、大乗仏教は東国で布教する武家相手がいないため、しかたなく庶民を布教対象にしただけです。
更に、布教活動が一歩遅れた者は、鎌倉の都に入れず、自ら「セダラの息子」と名乗り、辺境の賎民居住地や地獄谷近くで賎民相手に布教していたのです。これらの仏教僧が、仏典に記述してある騎馬民族差別思想(カースト制度下の不可触賎民=仏罰者)の本質を知ることもなく法華経を一般庶民に布教することにより、仏罰者といわれる「セダラ」が「穢多」となり、新しい賎民階級が鎌倉時代に生まれるわけです。
そもそも、騎馬民族を蔑視する「法華経」を布教する天台宗の流れを汲む鎌倉大乗仏教は、小難しい宗教教義や宗教儀式などすることもなく唯黙って座るだけの禅宗とは異なり、騎馬民族末裔の「モノノフ・武士」には受け入れられない宗教だったのです。(何故、仏前で、胡坐ではなく、正座をするのでしょう。この正座とは、他国では罪人が座る様式です。胡坐・アグラは、「胡=ペルシャ」で、つまり騎馬遊牧民族のペルシャ式座り方なのです。座禅での座り方は、騎馬遊牧民族には自然な座り方だったのです。もし、座禅が、大乗仏教のように正座だったとしたら、騎馬民族の末裔の武士には受け入れられなかったでしょう。何故、仏前での罪人座りが「正座」なのでしょうか。そこに、大乗仏教の本質があるようです。)
更に、禅宗のシンプルな建築様式は、武家社会に受け入れられ、床の間に中国の神仙を描く墨絵の掛け軸が流行るのです。(その中国禅宗の建築様式は、室町時代になると書院造となるのです。室町時代、中国から神仙の掛け軸が多く輸入されるのはそのためです。)そして、禅宗のシンプルな葬儀様式は、後に、何でも模倣する大乗仏教に取り入れられ、今日に至っているのです。
一般的に、鎌倉時代は、武家源氏の武士が支配していた、と思われていますが、実際に支配していたのは、1192年から1219年までの、わずか27年間に過ぎないのです。後は、百済平氏の末裔北条氏が1335年までの116年間も支配していたのです。この116年間、武家源氏末裔とその一族は、賎民として、源氏再興の時まで待つのです。
百済末裔の北条氏は、藤原氏による倒幕陰謀や源氏再興の芽を摘み壊滅するために、1221年京都に六波羅探題を置き、全国に反北条の情報収集のために密使を放つのです。
更に、落武者源氏一族と庶民との接触による蜂起を恐れ、それに対する装置を開発するのです。それが、まつろわぬ武家源氏末裔を、賎民以下の不可触賎民「穢多」に貶めることです。そこで鎌倉大乗仏教は、平安時代に空海が中国からもたらしたバラモン教祈祷ビジネスの宣伝文句「セダラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れを受ける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない」を布教するのです。更に、真言宗系の寺では、「栴多羅(せんだら)・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」の御札を信者に販売するのです。(平安時代では、セダラ=穢多ではなかった。)
「穢多」が歴史上に現れるのは、13世紀後半に編纂された「塵袋」に「イキ物ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」が初めとされています。更に、武家に取り入れられた禅宗の、庶民への布教拡大に脅威を感じた比叡山の大乗仏教側は、「天狗草紙」の宣伝物で、禅宗を広めていた「放下集団」を天狗(奈良時代に都から追放され山に住む道教士・景教僧)が操る「畜生道」「魔業」として激しく非難しているのです。しかし、「天狗草紙」では、仏敵の天狗は、穢多童(童とは、一人前ではない意味の蔑称)に退治されてしまうのです。(この物語は夷を以って夷を制す戦略を述べたもの。)この天狗草紙出版頃は、「穢多」は、「不可触の穢れた存在」よりも、武士のイメージが残る「武闘力」を認められた存在であったのでしょう。
やがてその第二百済王朝による、新羅末裔の源氏武士壊滅のための、仏教による賎民思想布教も激しくなるのですが、関西と関東とでは、その勢いに差が出るのです。関西の穢多布教は、百済支配の比叡山の法華経の天台宗が直接おこなうわけですが、関東の都の鎌倉は、白隠禅師が江戸時代に述べたように、禅宗は法華経などの仏典に興味はなかったので、仏罰者の「セダラ思想」や「穢多思想」などを禅宗は布教しなかったからです。
関東での賎民思想布教は、結果的には、カースト制度の意味を知らない比叡山延暦寺で法華経を洗脳された、百済平氏末裔の地・千葉出身の「セダラの息子」や鎌倉の地で仏教布教ができなかった者達だけだったのです。(この鎌倉新興仏教に洗脳された賎民は、やがて仏教貴族組織拡大の手先として利用されていくのです。)それに、アズマは、奈良時代からエビス(賎民)の住む地であったのです。ですから、関東では、賎民思想は、関西より流行らなかったのです。
そのような比叡山僧による騎馬民族に対する思想攻撃に対して、鎌倉源氏残党は、自ら「平家落武者」と名乗り、源氏再興まで山奥の「平家部落」でひっそりと暮らすのです。
しかし、武家源氏の臣下にあった技術集団・秦氏の末裔は、百済北条氏の支配する鎌倉時代を逞しく生き抜くのです。新羅系秦氏は、蘇我王朝、天武王朝期では、王族直属の技術集団だったのです。穢多は、唯の賎民ではなかったのです。
穢多頭の初代弾佐衛門(秦武虎)は、1180年源頼朝の挙兵での功労で、源頼朝より御朱印状を賜っていたのです。更に、鎌倉幕府設立に貢献した秦氏一門は、源頼朝より南九州薩摩の島津荘の領主に任命され、惟宗氏改め島津氏を名乗るのです。明治前夜、江戸の弾家を尋ねた島津氏の密使が、「弾家と島津は同族ぞ」と言った根拠が鎌倉時代にあったのです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

神輿の黙示録(10)(戦国時代は第二次源平合戦か:家紋はどこから来たのか)


秦氏の末裔、穢多頭の「弾家」と明治維新での中核士族の「島津氏」とが同族であるとの根拠のひとつとして、「家紋」があります。両家の家紋は「丸に十字」です。しかし、元の家紋には丸がなくて、唯の「十字」だったのです。
十字と言えば、キリスト教(ヨシュア教)を思い出すひともいるかとおもいますが、キリスト教の十字架は、オリジナルではなく、太陽神ミトラ教の太陽のシンボル、マルタクロス(十字)を導入したものなのです。
そして、マルタクロスのシンボルを用いる景教は、キリスト教から分派したネストリウス派だといわれていますが、それは逆です。
ローマ軍神としてミトラ神(ラテン語ではミトラス神)が信仰されていたのに、392年ユダヤ教の一派である反ローマ帝国のヨシュア教(ギリシャ語でキリスト教)が、突然ローマ帝国の国教となり、そのローマ帝国は、395年東西に分裂するのです。428年東ローマ帝国において、ネストリウス派は、キリスト(ヨシュア)の神聖を認めない「人間キリスト」の宗論を展開するのです。それに対して、東ローマ帝国を影で支配する国際交易商人は、キリストを神格化して、キリスト教布教の名目で異教国への侵入手段として、異教国支配を計画していたのです。431年エフェソスの公開議で、人間キリストを主張するネストリウス派は異端と決め付けられ、435年東ローマ帝国から追放されるのです。その追放されたネストリウス派キリスト教徒達は、東ローマ帝国と対立する隣国ササン朝ペルシャ帝国(293年〜642年)に受け入れられるのです。そして、ネストリウス派キリスト教徒は、ペルシャ交易商人と供に、シルクロードを東進し、北魏(農耕民族の漢民族でなく、騎馬民族の拓跋部が支配。拓跋部は源氏の元。423年〜534年)の都洛陽に渡来するのです。そのころ、北魏では、道教が盛んになり、仏教は弾圧されていたのです。
その東ローマ帝国の教皇に破門されたキリスト教ネストリウス派とは、太陽神(ミトラ神)が先祖がえりしたものです。太陽を崇拝する景教は、元々は太陽神ミトラ教の教義を取り込んだ宗教組織で、中国大陸での布教が成功すると、中国王権から太陽を祀る宗教ということで、景=日(太陽)の京(都)の宗教と言われたわけです。
騎馬民族支配の北魏→隋→唐(日本列島では、騎馬民族支配の飛鳥時代から奈良時代)では、絹織物を求めるペルシャ交易商人が商業の拠点として寺を建立するのですが、それは、ペルシャ寺=ネストリウス派教会=景教寺というわけです。(603年創建と言われる、蜂丘寺「後の広隆寺」は景教寺です。)古代では、異教民との商取引は、神聖な神の下(寺・教会・庭=神が宿る場所)でおこなっていたのです。そして、ミトラ神は軍神だけではなく、オリエントでは異教民との商取引を見守る「契約神」でもあったのです。
では何故、秦氏の末裔、弾家と島津氏の家紋が、景教のマルタクロスなのでしょうか。
日本の家紋は、十六世紀半ば突然に戦国時代の武将率いる軍団の、現代の宣伝旗のように露出度を上げるように、更に遠方から確認できるように、軍団ごとの特徴を簡潔なデザインマークとし、その軍事部族のシンボルマークを施した旗物に現れるのです。
家紋が武士の合戦時に敵味方を確認するマークとして必要なものであるのならば、何故十三世紀の源平合戦で、白旗と赤旗ではなく、家紋が登場しなかったのでしょうか。
鎌倉時代末期、元寇による戦後の論功行賞で、戦費持ち出しの武士団に報いられない百済北条政権は、崩壊寸前だったのです。(元は、百済北条氏が支配する鎌倉の都で禅宗が保護されていることを知っていたので、禅宗僧を元軍の使者として、北条政権に交易を求めてきたのです。それも二度です。しかし、北条政権は、元軍の手先の禅宗僧の密使を二度とも惨殺してしまうのです。それに対して、元軍は、日本列島に1274年と1281年に二度来襲するのですが、元軍船は二度とも暴風雨により壊滅してしまうのです。元軍の来襲は、難破船の荷物の中から種籾や農具多数が発見されたため、日本列島征服を本気で考えていたようです。それは、元軍は、日本列島で金・銀が多く産出されることを知っていたからです。この情報が、マルコポーロにより黄金の国「ジパング」と紹介されることにより、ヨーロッパ諸国の東アジア植民地化政策を助長したのです。)
そこに、後醍醐天皇(1288年〜1339年)が、即位後、院政をやめるのです。そして、第二百済王朝の北条鎌倉政権から都を追われていた藤原氏の暗躍により天皇親政を行い、そして、北条氏により山奥の僻地に追われていた源氏一族の楠正成、足利尊氏、新田義貞などの百済北条政権に不満を持つ地方豪族の武力協力により、1333年北条鎌倉幕府を倒すのです。
では、鎌倉北条政権に反旗を翻した後醍醐天皇とは、どのような出自の天皇なのでしょうか。系図では、後宇多天皇の第二皇子ということですが、「醍醐」の天皇名が気になります。
「醍醐」と言えば、藤原氏全盛時代の平安時代に、反藤原氏の菅原道真を大宰府に左遷し藤原氏全盛の基礎を築いた醍醐天皇(885年〜930年)が在位していました。父は宇多天皇で、母は内大臣藤原高藤の娘、藤原胤子となっていますが、疑問符があります。それは、「醍醐」の文字です。
「醍醐」とは、牛乳製品を発酵する段階で生ずる物質である、乳(にゅう)→酪(らく)→生蘇・酥(しょうそ)→熟蘇・酥(じゅくそ)→醍醐の、五味(ごみ)のことを言うのです。この「醍醐」は、馬が生息していなかった日本列島に馬具が古墳から現れる四世紀以降、オリエントから渡来した騎馬遊牧民族により、日本列島に持ち込まれたものです。つまり、チーズ(醍醐)は、騎馬遊牧民族のご馳走であるわけです。しかし、醍醐(チーズ)は、蘇我王朝、天武王朝が壊滅すると、製品としては存在しなくなり、騎馬遊牧民族の末裔ではない百済王朝・藤原王朝の平安時代では、「醍醐味」として、「最高の美味」の意味の言葉としてのみ存在するのです。
食生活でも、飛鳥・奈良時代の貴族と平安時代の貴族との異民族性が証明できるでしょう。それは、飛鳥・奈良時代では貴族は肉食し騎馬により行動していたのです。それに対して、平安時代の貴族は肉食せず、騎馬をせず、牛車を交通手段としていたのです。
そのチーズ(醍醐)と命名された醍醐天皇の血には、騎馬遊牧民族の血が流れていたのです。醍醐天皇は、父宇多天皇が皇子の時、山里で契った騎馬民族の娘の子であったのです。その「醍醐」の名を引き継ぐ後醍醐天皇により、天皇家は南北に分裂し、南北朝が始まるのです。
1334年の建武の中興での恩賞の不公平による足利尊氏の後醍醐天皇からの離反により、1336年後醍醐天皇は、吉野へ逃れ、ここに北朝(京都朝廷=光明天皇)と南朝(吉野朝廷=後醍醐天皇)に分裂するのです。南朝は、北朝の攻勢により九州(秦氏の末裔島津氏の支配地に藤原氏の本流近衛家は隠棲していた。)に逃れ、一時巻き返すのですが、1339年後醍醐天皇が死去し、南朝を支えていた武将もこの世から次々と去ることにより、1392年足利義満の斡旋により南北朝は合体するのです。しかし、それは表面上です。藤原氏、百済皇族、新羅系源氏武士との三つ巴の戦いは更に続くのです。
九州では、南北朝の戦いが明治維新まで続くのです。そして、江戸末期、藤原氏の流れにある菊池氏の末裔西郷隆盛は、北朝の考明天皇を抹殺して、南朝の皇族大室寅之助(薩長藩により睦仁親王を抹殺し、明治天皇に成代わる。)を、「玉」として明治維新に可担ぎ出すのです。これは正に、645年に蘇我王朝を藤原王朝が簒奪した再現劇です。だから、藤原氏復古の王権簒奪王朝の明治新政府は、史実を隠蔽するため王政復古を唱え、645年大化の改新(虚構の改革)を教科書歴史に取り込み、学校で生徒に刷り込んだのです。
1394年足利義満は、太政大臣となり、ここに室町幕府が確立するのです。
足利氏は源氏一族ですので、鎌倉時代に賎民の穢多に貶められた軍事技術集団の秦氏の末裔は表社会に現れ、それらの技術を庶民生活に反映するのです。室町時代は、職能民・芸能民世界の黎明期です。鎌倉時代、百済王朝や大乗仏教から賎民と貶められた職能民・芸能民達を足利政権は、保護育成するのです。そのひとつが、能楽です。世阿弥は、1402年風姿花伝を著すのです。そして、中国禅宗の文化は、源氏武家社会に取り入れられ書院造が完成し、中国神仙画が日本版山水画として完成するわけです。現在の日本文化の多くの基は、源氏支配の室町時代から興るわけです。
騎馬民族は、商業民族と同じです。それは、騎馬により物流管理を行い、遠方へも広く交易をおこなうからです。騎馬民族末裔の新羅系日本人は、百済鎌倉時代の圧政下で、騎馬により日本全国に独自の商業ネットワークを構築していたのです。
「社会」とは、社(やしろ)で会うことにより、ネットワークを広げることです。鎌倉時代、百済北条政権に賎民に貶められた鎌倉源氏一族の集う社(やしろ)とは、藤原氏により怨霊封じ込めの施設として開発された、「鬼」封じ込めの異界である神社境内であるわけです。
神社とは、鳥居にしめ縄を張った、怨霊封じ込めの「結界」であるわけです。そこには、被征服民族の王が「鬼=敵神」として封じ込められて、祟りをしないように鎮魂させている所なのです。
童謡「とうりゃんせ」の歌詞を思い出してください。「とうりゃんせ、とうりゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神様(菅原道真の怨霊を封じ込めるため、天神として封じ込めた。)の細道じゃ、ちょっととうしてくだしゃんせ、この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります、行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ」何故、お参りの帰りが怖いのでしょうか。それは、「神社」が被征服民(反権力者=アウトロー)のネットワーク網の拠点であったからです。そこに集う被征服民の動向を、王権側が探索していたからです。
その結界である神社を商業ネットワークとして、賎民達は同業組合である「座」を組織するのです。その組織を仕切る顔役を、「役座・ヤクザ」と言うわけです。それに対して、比叡山の天台宗は、寺の門前市の所場(しょば)での商業を仕切るのです。この役座が仕切る「座」と仏教組織が仕切る「市」の商業既得権を、戦国時代に織田信長は「楽市楽座」の政策で破壊するのです。
室町時代に庶民の商業活動が活発になったのは、源平時代に平清盛が日宋貿易で、宋銭を多量に輸入していたからです。この流れは、鎌倉時代、室町時代と続くわけです。では、宋銭や明銭は何故日本国に多量に流れ込んできたのでしょうか。それは、日本列島から産出される金、銀、水銀、硫黄などが、宋商人、明商人に多量に持ち出され、その対価としての宋銭であり、明銭であったのです。
この日本列島から産出される鉱物資源に目をつけたヨーロッパ人が、「ジパング」の室町時代末期に訪れるのです。その訪れ方は、宗教者(医者)→病院設立→学校設立→商人の渡来→軍事顧問渡来→軍隊渡来→植民地化の異国侵略方程式そのままです。
鎌倉時代初期から百済王朝や鎌倉北条政権に寄生する皇室・公家・延暦寺配下の寺は国衙領や荘園を経営することによりわが世の春を歌っていたものが、室町時代末期になると、経済的基盤のなかった武士階級は、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士達が、地頭請や下地中分として、その国衙領や荘園を侵食し始めるのです。そして、始めは国衙領や荘園の管理者であった武士が、やがてその土地の支配者となり、ついに守護大名と呼ばれるようになるわけです。しかし、仏教組織は、皇室や公家と異なり、武士による荘園侵略を黙ってみてはいませんでした。それは、借上などの高利貸しによる財力にものを言わせ、仏教組織の武装化が更に強化されていくわけです。その武装化仏教の頂点が比叡山の延暦寺です。
この守護大名が、日本列島に多く現れると、必然的に土地争いに発展していくわけです。そして、軍事力のある名も知れぬ小守護大名が、軍事力のない大守護大名の土地を略奪していくわけです。これが、下克上の世であるわけです。
守護大名が自国領の土地を守るには、武力が必要です。そこで、全国の守護大名は、軍事力に力を入れていくわけです。日本全国での土地争いが頻発に起こると、軍人や武器の需要が増していくのです。そこに目をつけた明国の商人が、1542年種子島に「銃」と「傭兵軍」を売り込みに来るわけです。一説では、1543年ポルトガル船が種子島に漂着とあります。
ポルトガルは、1385年アルジュバロダの戦いでカスチラ軍を破り完全独立を果たしたのです。ポルトガル王国は内陸をカスチラ(1479年イスパニア王国となる。)に抑えられているため、経済活動を海外に求めなければならなかったのです。1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開発するも、イスパニア王国では、1492年にはコロンブスによりアメリカ大陸に到達していたのです。そして、その航海術を駆使して西インドに進出し、そこを支配していたのです。そこで、ポルトガル船は、仕方なく黒潮で北上し種子島に漂着したことに、歴史上はなっているようです。
しかし、種子島は、ポルトガル船により偶然歴史上に現れたわけではないのです。この種子島には、出自不明の藤原氏の謎を解くヒントがあるようです。
藤原薬子の乱により蔵人所を置いた前年、809年百済四代目嵯峨天皇が在位した時、種子島に、藤原氏の氏寺である興福寺の末社として、慈遠寺が建立されるのです。それは、藤原氏が、百済桓武天皇の平安京遷都により、奈良の都に封印されてしまってから15年目です。この種子島の慈遠寺建立は、806年空海が唐から帰朝し、真言宗を興したこととの関係を示唆します。それは、宇陀の水銀・銀の交易ルートが、高野山・金剛峰寺→紀州・根来寺→種子島・慈遠寺→中国山東半島と繋がるからです。
何故藤原氏は、孤島の種子島に慈遠寺を建立したかと言えば、「寺」の表の機能が仏像安置場所とすれば、裏の機能は「砦=城=武器庫」だからです。
種子島は、アラビア海→インド洋を抜けてスマトラ海峡を北上すれば、東シナ海の黒潮ベルトコンベアー上に位置するのです。ですから、平安時代末期、ペルシャ平家の平清盛は、南蛮貿易独占のために種子島を占拠し、曾孫の平信基を島主としたのです。
平安時代、藤原氏は、京の都と国際港難波を百済桓武王朝に支配されたため、中国大陸との交易ルートを、種子島→紀州に変更したのです。そして、紀州には興福寺の末寺の根来寺を建立するのです。つまり、藤原氏の国際交易ルートは、中国大陸→種子島(慈遠寺)→紀州(根来寺)となるわけです。
しかし、鎌倉時代初期、ペルシャ平家を滅ぼした武家源氏の棟梁源頼朝により、藤原氏の島津荘園は、秦氏の末裔惟宗忠久が荘園当主となり、惟宗忠久改め島津忠久となり、島津氏の祖となるのです。そして、藤原氏は、近衛家と変身するわけです。しかし、藤原氏の末裔近衛家は、藤原氏得意の「藤原の女」を使う戦略で、島津氏と縁戚関係を結ぶのです。そして、ここから明治維新まで、近衛家のコントロールにより、島津氏(薩摩藩)は行動するのです。(これは正に、イスラエルのエフライム族の巣を乗っ取る、カッコウ・ユダヤのレビ族の行動ソックリです。)
鎌倉時代の新興宗教日蓮宗は、鎌倉では百済北条氏による禅宗保護のため布教ができないため、京で布教を始めるのです。日蓮宗は、騎馬民族蔑視の法華経を解いたため賎民には受け入れられなかったが、現世利益を解いたため欲深い京の町民たちにより支持をうけたのです。この現世利益の日蓮宗は、種子島11代当主時氏により受け入れられ、慈遠寺は、二系統のネットワークルートを得るのです。それは、従来の慈遠寺→興福寺と、慈遠寺→本能寺(日蓮宗)です。本能寺は、日蓮宗の寺であったのです。この本能寺は、島津氏(藤原氏)により、中国から種子島において南蛮密貿易で仕入れた「硝石=火薬の原料」の秘密貯蔵庫だったのです。(イエズス会宣教師ルイス・フロイスの日本史によれば、織田信長の本能寺での死は、「だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだか判っていない。我らが知り得た事は、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼した事である。」と爆死を暗示しています。)そして、1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、突然鹿児島に現れるのです。
イエズス会が日本列島に現れたのは、丁度戦国時代の真っ只中です。日本列島は、九州の島津貴久、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親、尾張の織田信長、長野の武田晴信、伊豆の北条氏政、信濃の上杉輝虎達の群雄割拠であったわけです。
これらの武将が表の軍団だとすると、裏の軍団が仏教軍団です。仏教教団は、布施などの集金システムで集めた金を、借上の高利貸しで蓄財し、その財力で僧兵軍団を組織していたのです。戦国時代の主な仏教軍団は三つです。それらは、最大組織の百済京都王朝が支配する比叡山の天台宗の延暦寺と、京の町民が支持する本能寺を砦とする日蓮宗(法華宗)と、そして、賎民を引き入れて軍団を組織した浄土真宗です。それらの三つの仏教軍団が京の都の支配権を争っていたのが、戦国時代であったのです。これらの宗教戦争は、藤原氏、百済皇族、新羅武家源氏の鎌倉時代からの火種が基です。
その宗教戦争に巻き込まれてしまったのが、鎌倉北条政権により、穢多に貶められてしまった、鎌倉武家源氏の残党と秦氏の末裔です。室町時代の武家源氏の世になったのもつかの間、藤原氏は、その流れにある日野家の女を使って、源氏足利氏に食い込むのです。三代将軍足利義満の側室日野業子、四代将軍足利義持の側室日野栄子、六代将軍足利義教の側室日野重子、八代将軍足利義政の側室日野富子など、平安時代での百済京都王朝に藤原の女を側室とする戦術そのままを使うことにより、室町時代の源氏足利氏を、貴族化(藤原氏化)とするのです。
その藤原氏の一族日野有範の子息が、1173年(承安3年)に生まれた親鸞です。親鸞は、法華経布教の元祖比叡山の延暦寺で修学に励むのです。しかし、聖徳太子の夢のお告げを聞き、浄土宗の法然の弟子となったと言うことです。しかし、親鸞の言動は、どうも、ユダヤ教のモーセを思わせます。その浄土真宗の教えは、信心に徹底し、信がさだまったときに必ず仏となる者の仲間に入れる。つまり、浄土教を信ずれば、浄土往生以前にこの世で救いが成就する、と説いたのです。そして、絶対他力の教学を説いたのです。
そして、藤原氏の末裔親鸞が百済京都が支配する比叡山により、過酷な攻撃を受けることにより(敵の敵は味方)、反百済の賎民は、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」のキャッチフレーズにより、浄土真宗は賎民の味方だと惑わされてしまうのです。
江戸時代、この親鸞の一神教のような、百済大乗仏教への排他的思想により、穢多は更なる差別を受けることになるのです。親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。

それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう

この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
その一向一揆を煽る浄土真宗本願寺の本陣は、源義経が屋島の合戦の時に出陣した渡辺津近くであるわけです。渡辺津は、百済亡命貴族が憎む(663年新羅花郎軍団により本国百済が滅ぼされた。)武家源氏(新羅花郎軍団の末裔)の居住地であったのです。現在の近畿地方での民族差別の元は、約1500年前の朝鮮半島での百済と新羅との闘争であったのです。
この渡辺津周辺は、戦国時代には日本列島の国際交易の中心地となっていたのです。その津の近くにある上町台地は、大和川と淀川による水運も良く、国際交流の歴史も古いため、戦国時代には、ここを手に入れることは日本列島はもちろん世界への交易権を手に入れることと同じ意味と考えられていたのです。織田信長は、この見晴らしの良い上町台地に着目し「そもそも大阪はおよそ日本一の境地なり。」と唱えたほどです。この小坂(おさか→おおさか・大阪)の台地の占領を企てる集団が、海の向こうから現れるのです。それは、イエズス会と行動を伴にする国際交易商人です。
1549年鹿児島に渡来したイエズス会は、他のキリスト布教教団とは異なっていたのです。それは、右手に「聖書」、左手に「銃」を持つ戦闘的キリスト教団だったのです。更に、国際交易商人も同行していたので、キリスト教布教が目的か、商業支配が目的かはっきりしませんでした。(何故、宇陀の山奥に、高山右近ジュストにキリスト教会を建てさせたのかは、キリスト教布教のためだけではないでしょう。そこに、イエズス会の日本列島渡来の裏の目的が現れています。)
日本列島に渡来するまでのイエズス会は、1509年ディウの海戦でインド洋を制覇し、1510年ゴア・コロンボを占領するのです。そして、1511年インドネシア諸島のマラッカを占拠し、銃の武力を背景にキリスト教を布教していたのです。そして、現地人を取り込むシステムとしての、病院設立→学校設立の異民族征服プロセスを飛ばし、いきなり軍隊侵攻で現地宗教組織を破壊して、現地人による傀儡支配層を構築し、キリスト教教会を設立していたのです。そして、1542年インドにザビエルが現れるのです。
しかし、1548年南方に漂流しイエズス会に入信したヤジロー等からの情報により、日本国はインドやインドネシャ諸島の住民と異なり、文化も軍事力も格段と勝っていることを知り、正規の異教国侵略プロセスを辿ることにより、日本列島キリスト教化を目論むのです。
そのためにイエズス会が最初に訪れたのが鹿児島の島津氏です。島津氏は、元は秦氏の末裔です。秦氏は、太陽神を祀る景教(ミトラ教)を信仰していたのです。キリスト教は、その教義の基本はミトラ教からの借用です。12月25日のクリスマスはミトラ神の再生誕生日です。十字架は太陽のシンボル・マルタクロスで秦氏の家紋です。ぶどう酒とパンの儀式は、ミトラ神の牡牛を屠る儀式からの借用です。
それらのキリスト教と景教との共通点を知ることにより、秦氏の末裔で賎民身分から、下克上により戦国大名に成り上がった武将達は、次々にキリスト教に入信、キリシタン大名となっていくわけです。
イエズス会の目的は、日本列島をキリスト教化することです。しかし、イエズス会を経済的に支援する国際交易商人は、日本最大の交易地の小坂(おさか)を支配することです。その目的を果たすには、どの武将を軍事的に支援するかを考えるわけです。
小坂は、渡辺津からの地続きで、そこは新羅花郎軍団の末裔武家源氏の地です。源氏に対抗する軍事部族は、当然平家です。
平安末期の源平合戦で活躍した、ペルシャ平家の発祥地は、伊勢です。伊勢は、古より水銀を求める国際交易商人達の交易地であったのです。その南蛮との水銀交易で莫大な財産を築いて、後白川法皇に取り入ったのが、ペルシャ平家だったのです。しかし、源平合戦で、ペルシャ平家は、武家源氏に敗れて、日本列島から抹殺されたことに歴史上なっているのです。しかし、ペルシャ平家の平維盛の末裔は、ペルシャ平家発祥の地、伊勢に落ち延び関氏となっていたのです。
そのペルシャ平家末裔の伊勢亀山城主の関一政に、イエズス会宣教師オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴って来るのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、軍事顧問として関一政に仕えるのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、関一政夫人の兄、キリスト教に帰依した蒲生氏郷(1556年〜1595年。洗礼名レオ又はレオン)に、軍事顧問として召抱えられるのです。この蒲生氏郷は、織田信長の娘を妻とする、織田信長の家人だったのです。そして、織田信長に謁見するため、ジョバンニ・ロルティスは、蒲生氏郷により、山科羅久呂左衛門勝成と命名されるのです。ここから、尾張の弱小武将であった織田信長の快進撃が始まるのです。
織田信長は、自称平氏と述べていますが、その織田氏の出自がはっきりしないのです。織田氏は、系図では、初代織田久長→梅定→信定→信秀→信長、となっていますが、梅定以前が不詳です。つまり、三代先が分からないのです。
戦国武将で出自が分からないのは織田信長だけではありません。豊臣秀吉、徳川家康も、その出自が分からないのです。
自称平氏の豊臣秀吉の系図は、木下氏初代弥右衛門の子となっていますが、その弥右衛門も不詳なら、母方はまったくの不詳です。つまり、出生地も誕生日もまったく不詳なのです。だから、織田信長も豊臣秀吉も、源氏ではなく出自不詳のため、侍の最高地位の征夷大将軍にはなれなかったのです。
それに対して、自称源氏の徳川家康の系図は、松平広忠と伝通院夫人の子となっていますが、徳川家康の行動(戦闘時、秦氏の末裔服部忍者のバックアップを受ける。穢多頭弾佐衛門を江戸に招き、籠にて帯刀し登城を許す。豊臣秀吉により、一向一揆において武闘力で活躍したため小坂の領地を没収され賎民穢多村に落とされた渡邊村を役人村に格上げした。朝鮮学者を尊敬し朱子学を学ぶ。豊臣秀吉の朝鮮半島での人間にあるまじき蛮行に対して朝鮮王朝に詫びる。藤原氏傀儡の豊臣秀吉の墓を暴き破壊する。)には賎民擁護の姿勢が強く出ているため、その出自が賎民部落出身で、松平氏ではないと疑われています。(江戸時代、家康存命中までは、賎民達が暮らし易かったが、百済の血が流れている三代将軍家光から第三次百済王朝で、弾佐衛門は再び穢多としてイジメられる。そして、1687年(貞享4年)百済系徳川五代将軍綱吉による、生類憐みの令発布により、日本版カースト制度、「士農工商・穢多・非人」が完成する。)
この戦国武将達の出自も不詳なら、その戦国時代に活躍した武士団にも不思議なことがあるのです。それは、家紋の出現です。
家紋の歴史上の出現は、それほど古くはないようです。天皇家の十六弁八重表菊紋は、1198年後鳥羽上皇が、菊を好み、自らの印として愛用としたのが始まりとされています。公式に菊紋が皇室の紋とされたのは、1869年(明治二年)の太政官布告によるのです。
この家紋の不思議は、その図案の元となる動植物などが、日本列島古来のものではなく、オリエント渡来のものが多いということです。天皇家の菊も、日本列島古来の花ではなく、オリエントから渡来したものなのです。
では、このオリエント渡来の動植物等を元にデザインした家紋を掲げる戦国武士団の出自を、どのようにして説明したらよいのでしょうか。
日本列島における軍人の呼び名は、飛鳥時代の兵(つわもの)、平安時代の武士(もののふ)・侍(さむらい)、鎌倉時代の武士(ぶし)、江戸時代の武士(ぶし)・武芸者(ぶげいしゃ)などと呼ばれているようですが、それらの日本列島での軍人はどのようにして発生したのでしょうか。
飛鳥時代の代表的軍事部族の物部氏は、倭族とツングース族との混成軍事部族です。平安時代の武士は、怨霊封じのキヨメを行う新羅花郎軍団の末裔です。そして、侍は、天皇の警護と秘書業務を兼ねる、百済亡命貴族の末裔です。鎌倉時代の武士は、源氏は新羅花郎軍団の末裔で、ペルシャ平家は伊勢に渡来した南蛮軍事部族の末裔で、平氏は、百済亡命軍団の末裔です。家紋の用途が、戦闘状況下での敵味方の識別マークだとするならば、何故、戦国時代まで家紋が出現しなかったのでしょうか。
そこで考えられるのが、戦国時代までに中国大陸から日本列島への、オリエント由来の軍事部族の渡来です。
642年ササン朝ペルシャは、571年生まれのムハンマドによるイスラーム教軍団により、ニハーヴァンドの戦いで破れ、ササン朝ペルシャ帝国は崩壊するのです。ローマン・グラスと絹織物との交易中継国であるササン朝ペルシャ帝国のヤズデギルド三世は、シルクロード交易先の唐国をたより、東方へ敗走するのですが、651年に暗殺され、ここにササン朝ペルシャは滅亡するのです。
しかし、そのササン朝ペルシャ帝国残存の貴族、軍団、商人の多くは、唐国(618年〜907年)に辿り着くのです。それに対して、北からの騎馬民族突厥(チュルク族)の圧倒的軍事力に悩む唐国は、そのササン朝ペルシャ帝国亡命者を庇護するわけです。そして唐国は、その残存ササン朝ペルシャ軍団を唐軍に組み込むことにより、唐軍団は、パミールの西まで勢力を伸ばすことが出来たのです。
唐国は、ササン朝ペルシャ軍団のほかに、もうひとつの宝を手に入れたのです。それは、ペルシャ商人のソグドです。
ソグド人は、オリエントで紀元前一千年ごろから活躍したアラム人を祖先としているようです。そのアラム人は遊牧民出身の国際商業民であったのです。しかし、紀元前八世紀にアッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)に、アラム人の政治組織(イスラエル王国を含む)は滅ぼされましたが、そのアラム語は、オリエントでの通商語となり、更に中東全域の共通語へと発展していくわけです。そのアラム語がソグド語、アラビア語、モンゴル語の基となるわけです。
唐国のイメージとしては、東洋人の漢民族の国のように思われますが、実態は、東洋色よりも、オリエント色が強いのです。このソグド商人は、国際商人に相応しく、多言語を話すことができたので、各国の情報も豊富だったのです。(804年唐に留学した空海が、帰国後アラム語の呪文を唱えたのは、藤原氏の依頼により水銀交易のためソグド商人と接触したからでしょう。)
642年ササン朝ペルシャが倒れソグド商人が、唐国に現れた時期が、丁度日本列島で蘇我王朝(突厥系王朝)が、出自不明の藤原氏により倒された時期(645年)と符合するのです。
亡命ペルシャ軍を引き入れた唐軍は、657年西突厥を制圧し、663年唐・新羅連合軍により百済を滅ぼし、668年唐・新羅連合軍により高句麗ほ滅ぼすのです。新羅は、元々ミトラ軍神を祀るギリシャ・ローマ軍により建国された国です。ですから、新羅花郎軍団とミトラ神を祀るオリエントから渡来の唐ペルシャ軍団との軍事連携は、可能だったのです。そして、674年ササン朝ペルシャ亡命王子ペーローズが唐国に渡来するのです。
そのような唐国も、イスラーム軍団がオリエントを支配したことと、北方からの騎馬軍団の来襲により滅亡し、五代十国の分裂時代を経て、960年宋国建国へとなるわけです。
その宋国(960年〜1126年。南朝・南宋国1127年〜1279年)も、北方から来襲した騎馬民族女真が結集して金帝国(1115年〜1234年。)となり、その軍事的圧迫をうけるのです。
南宋国(南朝)は、金帝国(北朝)と平和条約を結ぶのですが、その見返りが、金帝国への絹織物と銀の貢物です。南宋国が、日本国から、宋銭を見返りに、銀・水銀を簒奪したのはそのためです。この南宋貿易で、平忠盛は伊勢の水銀・銀の密輸で財を築き、1132年鳥羽上皇への賄賂で、内昇殿を許されるのです。
やがて12世紀(一説1162年)に、金帝国の北方、ブルカン山ちかくの、モンゴルという部族集団にテムジンが生まれるのです。テムジンは、モンゴル部のなかの更に小連合のボルジギン氏の家柄だったのです。
テムジン(チンギス汗と称す。1206年〜1227年)は、モンゴル集団のリーダーへと浮上したころ、金帝国のタタル部征討作戦を行って「王」の称号を受けたケレイト部のワン・カンの権力を簒奪し、高原の東部と中部の覇者としてのし上がっていくのです。チンギス汗(テムジン)率いるモンゴルは、牧民集団を連合体として肥大化していくわけです。しかし、1227年チンギス汗は、西夏を滅ぼし、帰還の途の六盤山にて死去するのです。
後任のオゴダイ(太宗1229年〜1241年)の下に肥大化し、軍事力を増したモンゴルは、金帝国に挑むのです。そして、六年間にわたる戦闘により、1234年金帝国を倒したモンゴルは、「大モンゴル国」として世界帝国に向けて国力を広げていくのです。
では、何故弱小国のモンゴルが、モンゴル大帝国になれたのでしょうか。それは、金帝国に敗れた騎馬民族国家キタイ遼帝国(907年〜1125年)の軍事力を吸収したことと、国際商人のウイグル人の情報収集力によるのです。
唐帝国も元帝国も、漢民族が国家の運営をしたのではないのです。唐帝国は、軍事の中心は亡命ササン朝ペルシャ軍団で、情報管理はオリエントのソグド商人です。そして、元帝国は、軍事の中心は亡命キタイ軍団で、情報管理は、国際商人のウイグル人であったのです。つまり、唐・元時代の中国大陸には、オリエントから渡来した軍族や商人達で溢れていたのです。
そのような東アジアでのモンゴルが、勢力を増している頃、1219年源実朝は、百済北条氏の陰謀により、公暁により暗殺され、ここに鎌倉武家源氏三代の時代が終わるのです。しかし、その源実朝は、暗殺される三年前、1216年に南宋国(1279年元に滅ぼされる。)の仏工陳和卿を引見して、渡宋を企て、大船の製作を依頼しているのです。このことは、歴史上どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に不思議なことがあるのです。それは、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の元軍の来襲です。この二度の元軍の大軍団は、二度とも「神風」により壊滅したことに、歴史上はなっているようです。その説明として、元軍は、海洋民族ではなく、騎馬民族のため、操船に不慣れなため、一寸した一夜の暴風雨でも全滅した、と言うことです。
しかし、この説明は、説明になっていません。それは、フビライ(世祖1260年〜1294年)が経営するモンゴル帝国(1271年元・蒙古帝国)の実情を知らないための説明です。
モンゴル帝国は、1260年をさかいに、前後ふたつのモンゴルに分けることが出来るのです。前期モンゴルは、陸上における領地拡大の時代だったのです。しかし、後期モンゴル(1271年に元国と命名)は、南宋国(源実朝が亡命を企てた国)を接収して、南宋国の海洋渡航技術により、ユーラシアはもとより、北アフリカまでを交易圏にする大構想を持って、海洋貿易立国を推進していたのです。
そのために、中国全土を経済圏とする目的で、南北を連ねる大運河の建設に着手したのです。そのため、元国の貿易船は、内陸運河網により、首都・大都(北京)→通州→直沽(天津)→(渤海湾を経由)→属国・高麗→日本へと大型海船が航行していたのです。
そうでなくとも、中国大陸と外洋船によるアラブやイランとの国際交易は、八世紀からおこなわれていたのです。それらのアラブ人の船員が、中国東海岸地区での港湾都市での出来事を物語したのが、シンドバッド(インドの風を利用して船を帆走させる海洋商人の総称)の冒険物語であるわけです。
そのように、八世紀以降の航海術は、外洋の荒波を乗り越える技術を持っていたのです。では、元寇の二度の「神風」による日本史が解説する壊滅の実体は、史実だったのでしょうか。(「神風」とは、明治の歴史学者が創作した概念。)
元寇の記述がある主な資料は、二つあります。日本側が「八幡愚童記」で、高麗側が「東国通鑑」です。八幡愚童記では、文永の役は、「朝になったら敵艦も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた。」とあり、弘安の役は、「大風あり、沈潜多く、多数溺死あり」とあるのです。しかし、高麗側の史料では、文永の役は、「夜半に大風雨があった。多くの船が沈んだ。」とあり、弘安の役は、日本側史料と同じ内容です。
文永の役に対する、日本側と高麗側の記述の違いは、どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に、不思議なことがあるのです。それは、文永の役の翌年1275年、元国は、交易を求めて杜世忠を正使として送り込んでくるのです。それに対して。鎌倉幕府は、元使杜世忠を大宰府から鎌倉の刑場瀧ノ口へ連行して処刑してしまうのです。更に、1279年元使周福が、交易を求めて博多を訪れるのですが、周福は博多で処刑されてしまうのです。(戦争状態の時期に、無防備の使節を二度も送ってくることがあるのでしょうか。それも二度の使節は、無抵抗で斬首されているのです。更に、杜世忠は晒し首です。)
この不思議な元国と鎌倉幕府との交易外交交渉の謎解きは、両国の情報を操作する「禅僧」にあるよるようです。鎌倉幕府は、元国の情報を「禅僧」から得ていたのです。それは、禅は、元々中国大陸で発明された宗教組織だったからです。
そして、この鎌倉時代に日本列島に土着した禅宗は、日本と中国との国際交易に深く携わっていたのです。鎌倉幕府は、南宋国との交易を行うために、鎌倉に国際湊を築いていたのです。そして、鎌倉禅宗組織は、元国と鎌倉幕府との直接交易を望んではいなかったのです。
そこで、ひとつの推論が成立つのです。それは、文永の役では、「神風」は吹かなかったと言うことです。では、三万人を乗せた九百隻の元軍の船は、どうしたのでしょうか。そもそも、その九百隻は、本当に正規の元軍だったのでしょうか。
1274年、元帝国となったフビライ政府は、南宋国境線の諸方から全面進軍するのです。呂文煥軍が、長江中流の要地を戦わずに開城させ、南宋国の北の守り、長江の天険が元軍に突破されると、南宋国の諸都市は次々と投降したのです。
このことは、紀元前334年の、楚による越の攻撃の記憶をよみがえらせます。敗れた越の王族残党は、大型外洋船で東シナ海に脱出して、黒潮ベルトコンベーアにて北九州・日本列島の東北に渡来するわけです。
1274年の文永の役の元海軍といわれているものが、南宋国の王族亡命旅団だとすると、北九州に上陸することを拒まれた翌日、突然九州沿岸から一夜にして「見えなくなった」理由が理解できます。南宋国王族亡命旅団が上陸交渉で多少のイザコザがあったかもしれませんが、それは侵略戦闘などではなかったでしょう。(両軍の死者の信頼できる史料が両国に存在しない。)
では、歴史教科書の1281年の弘安の役の東路軍4万と江南軍10万の元寇は、どのように推測できるのでしょうか。
1276年杭州の南宋政府は、元帝国軍のバヤン軍に全面降伏するのです。しかし、杭州開城に反対した南宋軍の王族残党が、幼帝の兄弟をかついで、東南沿海岸を大型外洋船で流亡するのです。しかし、広州湾頭の克Rで、1279年滅亡するのです。
では、それらのことにより、1281年の弘安の役はどのように推測できるのでしょうか。東路軍の4万の元海軍は、紀元前三世紀の徐福の蓬莱国への渡航を思わせます。元寇の東路軍の大半は、元国の属国となってしまった誇り高い高麗軍だったのです。
徐福は、秦始皇帝に不老不死の仙薬を取りにいくと、童男女三千名と技術者と軍隊と種籾と農機具を積んだ船百隻で、日本列島に向かったのです。これが秦氏渡来の先遣隊だったのです。
では、東路軍渡来より遅れて来た江南軍はどのように推測できるのでしょうか。それは、旧南宋軍により構成されているといわれていますが、その多くは南宋国王族の亡命旅団だったのでしょう。
そもそも、元寇に対しての史料が乏しすぎます。文献にしても、八幡愚童記にしても、日蓮宗の資料にしても、仏教・禅宗関係の資料が多いのはどうしてでしょうか。教科書でおなじみの「竹崎季長絵詞」(たけざきすえながえことば)にしても、元渡航全軍が布陣した敵陣に突入した、と言うよりも、南宋国や高麗の亡命者上陸の交渉中に、状況判断を間違えた武将が一騎で無謀にも突入したことを、後で空想上で創作した絵であるかもしれないのです。元軍の弓は、ボーガンのように百発百中です。本当に、元軍であったなら、一騎で突入した日本の武将は絶命していたことでしょう。しかし、竹崎季長武将は、論功行賞の交渉のためにわざわざ鎌倉まで出向いているのです。
そこで、国際交易の旨味を知る宗教組織による「元寇フィクション説」が理解できるのです。
禅宗組織が流すガセ情報を基に、1263年(弘長3年)日蓮が著し、北条鎌倉幕府に提出した「立正安国論」の理論展開の結果である「蒙古来襲の予言」も、「虚構の元寇」を史実とする重要史料のひとつとなっているのです。
フビライの元帝国は、1260年から海洋貿易立国を標榜し、アラビア、インド、そして日本国と国際交易をするために使者を派遣していたのです。しかし、元帝国と北条鎌倉政権と直接国際交易が行われることは、南宋国と密貿易をしていた鎌倉禅宗組織には脅威だったのです。そして、世界情勢を何も知らない18歳の北条時宗は、禅僧蘭渓道隆の言われるままに、北九州に流れ着いた南宋国・高麗亡命軍団を、元帝国海軍と信じてしまったのです。
1281年に北九州に現れた、南宋国亡命軍旅団は、暴風雨に襲われいずこともなく去っていくわけです。しかし、不幸にも遭難してしまった船もあったのでしょう。その難破船の残存物が、元寇の正体を証明します。元寇と言われている元軍の難破船の残留物の多くが、武器ではなく、甕に詰められた「種籾」と「農機具」であったのです。
朝鮮半島最南端に近い新安郡の沖合いの海底から引き上げられた沈船は、1323年と確定されました。それは、二度目の元寇来襲といわれてから、わずか四十年ほどです。その船には、二万点に及ぶ陶磁器や金属器、そして、約三十トン近くの銅銭がつみこまれていたのです。この交易船は、朝鮮半島からどこに向かって行ったのでしょうか。
では、元寇といわれた南宋国・高麗の亡命軍団船は、対馬海流に乗ってどこに消えたのでしょうか。
武器は、その部族の歴史を語ります。日本列島における武器の流れとして、縄文・弥生時代のサヌカイトの石刀、石棒、弓矢などがあります。奈良時代後期になると、騎馬民族の騎士に対する歩兵の武器として、刀を長棒にくくりつけた薙刀が発明されます。これは、藤原氏の興福寺、百済京都の延暦寺の僧兵の武器となります。では、戦国武将が使用した槍は、どの時代に日本列島に現れたのでしょうか。それは、丁度元寇の後、朝鮮半島沖で元帝国と日本列島との国際交易船が沈没した頃、後醍醐天皇が在位した南北朝の頃です。そして、歴史上実践で槍が使用されたのは、南北朝以降のようです。
では、何故突然日本列島に槍が出現したのでしょうか。そして、戦国時代になると、なんと十メートルもの槍も出現するのです。
西洋の歴史上での槍の出現は、ローマ時代のようです。有名なロンギヌスの槍は、十字架のヨシュア(キリスト)を刺したものです。ロンギヌスとは、ラテン語でローマ男性の呼称です。ローマ帝国軍の主な武器は、十メートルの長槍だったのです。その十メートルの長槍と似たものが、織田信長の傭兵軍で使われていたのです。
その織田信長軍の長槍は、斉藤道三が考案したものと言われています。斉藤道三は、多くの戦国武将と同じに出自不詳です。その名の道三とは別称で、本名は利政です。それは、油商人→僧侶→武士への職業遍歴により、斉藤道三と呼ばれていたわけです。
油商人とは、神社ネットワークにより同業者組合の油座を構築する、全国的反体制の商業集団の一員なのです。そして、その油座は、645年まで秦氏が支配していた山城国(山背国)の山崎が本拠だったのです。
奈良時代、藤原氏により、秦氏の神(八幡・やはた)は、神社に封じ込められ「八幡・はちまん」とされ、その氏子は賎民に貶められてしまうわけですが、秦氏は元々オリエントから渡来の技術者集団だったので、その技術を駆使することにより色々な商業製品を生産し、異界である神社をネットワークとして、同業者集団組織の「座」を構成することにより、全国に商業製品の販売網を構築していたのです。
1017年、平安時代のわが世の春を謳歌する藤原氏一族は、その神社ネットワークの商業網を支配するために、本地垂迹説(仏が本家で、神は分家)を発明し、神社を仏寺の支配下に置くわけです。
油商人の商品原料のゴマには二種類あります。それは、荏胡麻(えごま)と胡麻です。荏胡麻は、シソ科で、原産地は中国南部です。日本列島への渡来は、縄文時代です。それに対して、胡麻はゴマ科で、原産地は、アフリカです。
胡麻が歴史上に現れるのは、紀元前1377年、イスラエル民族のエフライム族の祖先ヨセフ族が活躍した、エジプトのイクナトンの時代のようです。胡麻の用途としては、ミイラの保存剤、灯明の油、そして医薬品です。イクナトンは、胡麻とオリーブを支配地で栽培させることにより、経済基盤を築いていたのです。しかし、オリーブはエジプトの気候に合わず、ギリシャやオリエントで盛んに栽培され、今日に至るのです。古代エジプトでは、胡麻油やオリーブ油は、聖なる油(アラブの物語での呪文「オープン・ザセサミ/開けゴマ」に使われるほど、胡麻は魔力を持つ食べ物として用いられた。)として貴重品であったのです。ユダヤ教では、オリーブ油を頭に注がれたものは王になれた程です。
そして、胡麻は、紀元前六世紀頃、エジプトからインドへ渡来して、アュルベーダ医学では、温めた胡麻油を頭部に垂れ流す治療術が開発されるのです。その胡麻は、オリエントの国際商人と供に中国に渡来し、朝鮮半島を経由して、日本列島には200年頃渡来したようです。645年の藤原氏による蘇我王朝史料の焚書により、飛鳥時代の胡麻の歴史は闇の中ですが、日本歴史上に現れるのは、騎馬民族王朝の天武天皇(672年〜686年)により、胡麻が栽培され、食用油として使用されたようです。
平安初期に、鉱物汚染の奈良から荏胡麻搾り技術者が、山城国(山背国)の長岡遷都に伴い移住し(元々山背国は、645年までは秦氏の支配地であった。)、そして、宇佐八幡を長岡に遷座した頃、大山崎宮の灯明用に荏胡麻油を奉献したようです。その八幡(やはた)とは、秦氏の神様です。その神社の神人(神社の奴隷)らが、山崎油座を組織し、平安時代末期から室町時代まで、油販売の独占をしていたのです。
と言うことは、油売りの斉藤道三は、反体制側のひとでもあるわけです。その長槍を考案した斉藤道三は、娘の濃姫を織田信長に嫁がせるのです。では、賎民の娘を娶る織田信長とは、その出自は、何者なのでしょうか。
織田信長から三代先、つまり祖父織田信定は、弾正忠信定と呼称されていたのです。弾正忠信定は、南朝の残党・新田四家と津島七党が支配する尾張国随一の港町の津島の勝幡を略奪し、そこを拠点として南蛮と水銀の密貿易を行うのです。そして、1543年(天文12年)弾正忠は、密貿易で稼いだ永楽銭四千貫を内裏の修理費として朝廷に献上するのです。これは正に、1132年(長承1年)ペルシャ平家の平忠盛が、南蛮密貿易で稼いだ金を、鳥羽法皇に献上して、内昇殿を許されたことと同じ行動です。
では、織田信長の祖父は、ペルシャ平家の末裔かというと、その出自はまったくわからないのです。ただ、分かっていることは、弾正忠信定の墓は、処刑場近くの勝幡の御所垣内(ごしょかいと)にあるのです。
垣内(かいと)とは、奈良時代末期、百済王朝に敗れ、百済王朝にまつろわぬ秦氏や新羅系日本人が押し込められた、捕虜収容所です。後に、差別部落となるわけです。その部落に、平安時代に聖徳太子を発明した比叡山の延暦寺が、法華経で宣伝する、仏罰者と決めつけるハンセン氏病者を押し込めることにより、その部落を穢れ部落としたのです。織田信長による、比叡山延暦寺の仏僧を、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と、全員打ち首とした原因のひとつは、ここ(前王朝である蘇我・天武天皇の肉食する騎馬民族末裔を、菜食の仏教教義の名の下に穢多に貶めたこと)にあるのかもしれません。
イエズス会は、キリスト教を日本国の中心である京の都で布教するために、その許可を比叡山延暦寺に願い出るのです。しかし、京の商業利権を持つ延暦寺は、なかなか許可しません。それは、日明貿易において、延暦寺側は、イエズス会のインド・東南アジアにおける情報を知っていたからです。医師・宣教師渡来→貧民救済→病院設立→多数の宣教師渡来→学校設立→国際交易商人渡来→軍事顧問渡来→軍隊侵攻→植民地化の流れは、イエズス会の布教歴史そのものです。
イエズス会は、国際交易港となった渡邊津は、本願寺率いる一向宗である浄土真宗門徒の軍団により、要塞化された仏寺で軍事的に支配されているので、イエズス会が率いる渡来軍団では壊滅できないことを知っていたから、最初の異教軍団の壊滅目標として比叡山延暦寺を選ぶのです。
そのためには、イエズス会の傀儡軍を日本全国に組織する必要があるわけです。そこで目を付けたのが、仏教教団にイジメられている賎民出身の仏教嫌いの織田信長です。織田信長の仏教嫌いは、実父の仏葬儀で、祭壇の位牌に線香灰を投げつけ、葬儀にも参加しないほどです。僧侶に悪態をつくのは日常茶飯事ですから、仏教界の敵であるイエズス会には、親近感を持つのは当然でしょう。つまり、敵の敵は味方と言うことです。
それに、仏教と武士とは相容れない存在なのです。それは、殺生禁止で「血」を禁忌とする仏教教義は、敵の首を取ることが手柄となる武士の思想とは相容れないからです。つまり、仏教を信仰する武士は、自己矛盾の存在であるわけです。ですから、武士が支配した鎌倉時代に、肉食する騎馬民族を蔑視する法華経を布教しない「禅宗」が中国から導入され、瞬く間に禅が武家社会に普及するわけです。
しかし、武士と言っても、鎌倉武士と戦国武士とは同じ出自ではありません。鎌倉源氏三代滅亡後は、鎌倉武士は百済亡命軍の末裔で、百済北条政権の陰謀により、新羅系武士の源氏は都から追放され落ち武者として生き延びるわけです。それが、南北朝→室町時代の応仁の乱を経て、戦国時代の下克上の世になると、山奥で生息していた源氏落ち武者の末裔は、その軍事力により戦国大名となるわけです。
その戦国大名に対して、イエズス会の宣教師は、キリスト教を布教するのです。その布教を手助けしたのが、元琵琶法師であったロレンソ了斎です。身体不自由の琵琶法師の了斎は、イエズス会の手厚い医療行為を受けるうち、仏教僧からキリスト者へ宗旨替えしたのです。元琵琶法師をイエズス会に入信させたことにより、イエズス会の傀儡軍団が急速に組織されていくわけです。それは、琵琶法師は同業組合である「座」のネットワークにより全国を行脚することにより、戦国大名の出自や動向を良く知っていたからです。
戦国大名からキリシタン大名になった者の中には、イエズス会が支給する「銃」と「火薬」を入手することを目的とした者が少なからずいたかもしれませんが、イエズス会が説く、「人民平等思想」に共鳴した者も少なくありません。それは、平安時代の空海が中国唐からもたらした「肉食賎民カースト思想」、鎌倉時代からバラモン教の差別思想を取り込んだ仏教組織により発明された、一方的に肉食者は悪である「穢多」と蔑称された者でしか理解できないでものです。そして、キリスト者が、騎馬遊牧民族と同じに肉食することも、肉食する賎民から成り上がった戦国大名には共感できたのです。
キリシタンに入信した大名や武将は、打倒仏教軍団(イエズス会は、男色する仏僧が住む比叡山延暦寺を悪魔の館とし、それを破壊することが正義としていた。延暦寺焼き討ちで、多数の若い女性と童子が斬首されています。女人禁制の仏の聖地に何故多数の女性がいたのでしょうか。)で結束していくのです。その主な武将は、

明石全登(ジュスト・宇喜田家臣)、有馬義直(アンドレ・肥前島原領主)、有馬晴信(プロタジオ・有馬義直の子)、有馬直純(サンセズ・有馬晴信の子)、一条兼定(ドン・パウロ・土佐中村一条家当主)、伊藤義兼(バルトロメオ)、宇久純尭(ドンルイス・五島島主)、木村純忠(バルトロメオ・日本初のキリシタン大名)、木村喜前(フランシスコ・豊後領主)、織田有楽斎(ジョアン・織田信長の弟)、織田秀信(織田信長の孫)、織田秀則(パウロ・織田信長の孫)、加賀山興良(ディエゴ・細川家の家人)、蒲生氏郷(レオ又はレオン・織田信長の家臣。ローマ十字軍の聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティス=山科羅久呂左衛門勝成を軍事顧問として召抱える)、木下勝俊(ペテロ・若狭小浜城主)、京極高知(豊臣秀吉、徳川家康に仕える)、熊谷元直(メルキオール・安芸異熊谷氏)、黒田長政(ダミアン)、黒田孝高(シメオン)、小早川秀包(シマオ・筑後国久留米城主)、小西行長(アウグスティノ)、小西隆佐(ジョウチン・小西行長の父)、志賀親次(ドンパウロ・大友義統家臣)、高山友照(ダリオ・飛騨守で右近の父)、高山右近(ジュスト・キリシタン大名でマニラにて死す)、内藤如安(ジョアン・マニラで死す)、蜂須賀家政、畠山高政、松浦隆信(源氏松浦28代当主)、毛利高政(豊後佐伯領主)、毛利秀包(筑後久留米城主)、結城忠正(アンリケ)などです。

戦国時代での多くの戦いは、天下統一が目的ではなく、自国の領土保全が主目的だったのです。キリシタン傭兵軍団で組織した織田信長の軍団が現れるまでは、戦国大名の軍事行動は、敵の領土侵略に対しての防御が主目的だったのです。それは、戦国大名が治める多くの国は、所得を数十倍にもすることが可能な商業経済ではなく、天候に左右され所得倍増が難しい農業主体経済で、日本全国を統一できる戦闘専門軍隊を抱えることができるほど国が豊かではなかったからです。
ですから、多くの国では、少数の専門軍団と大多数の農業兼務の武士団により構成されていたのが戦国時代の軍隊組織だったのです。ですから、出陣の多くは、攻めるも守るも農閑期におこなわれていたわけです。春から秋までの農繁期には、大きな戦いがなかったのはそのためです。
しかし、織田信長は、他の戦国大名とは異なる軍隊を組織していたのです。それが傭兵による軍事組織です。この軍事組織は誰のアイディアなのでしょうか。そして、この戦国時代での傭兵軍の出現と同時に、武家家紋が出現したのです。
傭兵軍の始めはローマ軍と言われています。金持ちは軍隊に入るのを拒み、金の力により「雇い兵」を雇うのです。すると生活手段としての農地を持たない部族が、軍事技術を売り物にするわけです。それが傭兵軍団の始まりです。傭兵軍団は、戦場(仕事場)で働きを潜在顧客にアピールするために、軍事部族のシンボルマークを発明して、旗や盾につけるのです。つまり、軍団紋は軍事部族を潜在顧客に宣伝するためのマークだったのです。
その軍団紋を戦士の標識として採用したのが、1095年に組織された十字紋を戦旗に掲げる「十字軍」です。十字軍は、キリスト教(ヨシュア教)の聖地パレスチナ回復のためにトルコ遠征を目指すのです。
四世紀のパレスチナのエルサレムは、ローマ帝国によりキリスト教の聖地とされるのですが、七世紀にイスラーム軍団によりエルサレムはイスラーム教の聖地(668年岩窟寺院建設)とされるのです。しかし、異教に寛容なイスラーム教は、キリスト教を排除せず、エルサレムはキリスト教とイスラーム教が並存する聖地となっていたのです。
しかし、そのパレスチナは、セルジュク・トルコ(1037年〜1157年)に占領されてしまうわけです。それに対して、1095年教皇ウルバヌス二世がクレルモン公会議でトルコ支配のエルサレム遠征を宣言するのです。1099年十字軍はエルサレムを占領し、エルサレム王国(1099年〜1187年)を建設し、イタリアの商人がエルサレム巡礼者を相手にする宿泊所兼療養所を兼ねる修道院組織を「聖ヨハネ騎士団」として、法王パスクワーレ二世により正式に認められるのです。
そして、修道院組織である聖ヨハネ騎士団は、その度重なるトルコとの戦争で、大軍団の攻撃に対する防御技術(城の建設技術)を確立していくのです。そして、その聖ヨハネ騎士団の末裔が、戦国時代の日本国に現れるのです。
織田信長が支配する尾張の伊勢亀山の関一政に、京都でキリスト教を布教していたイエズス会のグッキ・ソリディ・オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴ってくるのです。
聖ヨハネ騎士団は、一時エルサレムで活躍していたが、1291年のアッコン陥落によりエルサレム王国が滅亡し、キプロス島に逃れ、体制を立て直して1308年ロードス島を征服し、そこを基地としてオスマン・トルコ(1299年建国、1405年トルコ帝国再興)と対峙するのです。
しかし、1522年トルコ帝国軍は、二十万の大軍をロードス島に差し向けるのです。それに対する聖ヨハネ騎士団は六千。五ヵ月に及ぶ戦いで、聖ヨハネ騎士団は、敗退し、ロードス島を撤退するのです。戦国時代の日本国に渡来したジョバンニ・ロルティスは、この戦いでの残党と推測されます。そこで、聖ヨハネ騎士団残党は、イエズス会と出会い合流し、日本国への渡来となるわけです。(イエズス会の書簡史料によれば、対オスマン・トルコ軍との再戦のために、日本国に傭兵軍を求めて渡来したのが、聖ヨハネ騎士団の主目的だったようです。)
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いでは、駿府の今川義元軍三万に対して、清洲城に立てこもる織田信長軍は三千です。戦国時代の国が軍隊を維持できる数は、その国の農地面積に比例します。ですから、農地面積が狭い織田信長軍の兵は、当然今川軍よりも少ないわけです。ですから、軍人の少ない弱小織田信長軍の戦法は、白兵戦ではなく、ゲリラ戦・奇襲戦に限られるわけです。
それが、1575年(天正3年)の長篠の戦では、武田勝頼軍一万に対して、織田信長・徳川家康連合軍は二万です。更に、織田信長軍には、一千とも三千とも言われる鉄砲隊も加わるのです。そして、この長篠の戦での設楽ヶ原の攻防戦では、日本国の戦闘では珍しい馬防柵を構築しているのです。(1568年織田信長が入京。本能寺近くに南蛮寺建立。1569年織田信長が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスに謁見した後、信長軍の軍団規模、軍備、戦術が激変しているようです。)
鉄砲を模倣するのは簡単です。しかし、その銃で玉を発射させるための「火薬」はどのようにして調達したのでしょうか。火薬の原料のひとつである「硝石」は、日本国では殆んど産出されていないのです。戦国時代の硝石は、スペインが侵略した南米のチリが、主な産出国であったのです。(戦国時代の硝石供給ルートは二つ。ひとつは、マカオ→伊勢→京都・南蛮寺のイエズス会ルート。ふたつめは、上海→種子島→紀州(雑賀鉄砲衆の拠点)→京都・本能寺の島津氏・藤原氏ルート。本能寺は「寺」と言うよりも、堀を廻らせた「出城」。織田信長は、本能寺を占拠し、そこを京での宿泊所とした。本能寺の変は、興るべくして起こった。織田信長は、火薬庫の上で宿泊していたのだから。)
火薬を調製し、鉛球と火薬を装填し、そして火縄に火をつけ、弾丸を的にめがけて発射する技術習得は、長期間の軍事訓練が必要です。織田信長軍は、周辺の国々に対して休みなく攻撃をしていたのです。では、織田信長軍の三千とも言われる鉄砲隊の射撃訓練は、何処で誰が指揮したのでしょうか。その記録がないのは、射撃技術を持った傭兵軍団の渡来が考えられます。
桶狭間の戦いから、この十五年間における織田信長軍団の激増と西洋軍式戦術の変貌振りは、どのように説明できるのでしょうか。
この1560年から1575年の15年間には、戦国大名との戦闘の他に、宗教軍団との戦いがあったのです。
戦国大名との戦いは、桶狭間の戦いの決着は、奇襲攻撃が功を奏して、短時間で着き、そして、長篠の戦の天王山、設楽ヶ原の戦いは四時間ほどで決着がついたのです。それに比べて、三河・長島一向一揆、石山合戦といわれる宗教軍団との戦争は数年から十年もかかっているのです。これは歴史上どのように説明できるのでしょうか。
歴史教科書の説明には宗教組織と織田信長軍との戦争は、ムシロ旗を掲げ鍬や竹やりを武器とする農民軍団とのイザコザ程度のような記述ですが、織田信長軍は設楽ヶ原の戦いでは、武田勝頼軍一万を四時間ほどで壊滅させるほどの破壊力を持っていたのです。更に、飛び道具の「鉄砲隊」もあったのです。そのような強力軍団との長期戦争は、唯の農民軍団では無理でしょう。では、一揆軍は、どのような組織により構成されていたのでしょうか。
1570年(元亀元年)大阪からの立ち退きと矢銭を要求されていた本願寺との石山十年戦争の緒戦・三好三人衆との戦い。1571年(元亀1年)京都の「座・市」経済を支配する比叡山焼き討ちと僧侶皆殺し。1573年(天正2年)「座」のネットワークを支配する賎民による伊勢長島一向一揆鎮圧などの戦争があるのです。(これらの宗教戦争は、その底辺には、借上の高利貸しをおこない、「座」と「市」を経済支配し、関所を設けて通行税を徴収する比叡山延暦寺を頂点とする仏教組織を壊滅し、織田信長が日本の経済を支配することが目的であったのです。それは、イエズス会の国際交易商人と同じです。日本一の商業都市・大阪の奪取は、織田信長とイエズス会の国際交易商人の悲願だったのです。)
そして、1570年に始まる、毛利氏の物資援助や雑賀衆鉄砲隊が援軍する石山本願寺との戦闘が、1580年(天正8年)まで続くのです。このキリスト傀儡軍と仏教軍団との十年宗教戦争は、戦闘だけでは決着できずに、織田信長が朝廷に講和の斡旋を願い出て、本願寺に物資援助をしている毛利輝元と和議の交渉を段取りする段階で、織田信長の突然の和議斡旋の辞退により、本願寺側は武器や食料の援助が毛利氏より得られないため、戦況は織田信長軍に有利にすすめられ、1579年12月(天正7年)本願寺と織田信長は講和を成立させるのです。
そして、織田信長により大阪の本願寺は焼き払われ、大阪はまさに織田信長の支配一歩手前となるのです。そして、織田信長が、最後の仕上げである雑賀衆残党が支援する本願寺顕如の長男教如を壊滅するために、「本能寺」で逗留している時、1582年本能寺が織田信長と伴に爆発するのです。そして、本能寺近くの南蛮寺にて、それを見聞していたのが、イエズス会の国際交易商人フロイスです。
では、織田信長は、誰により爆殺されたのでしょうか。
歴史教科書によれば、1582年本能寺の変は、明智光秀の謀反ということになっているようです。しかし、一寸調べれば、明智光秀よりも疑わしい者がいるようです。そのヒントは、「敵は本能寺」です。
1582年(天正十年)織田信長が、本能寺で明智光秀の一万三千の軍団に取り囲まれ、寝込みを襲われ闘い敗れるのを察知して、自ら火を放ち自害した物語の基は、側近の太田牛一の「信長公記」による刷り込みが原因です。しかし、この「信長公記」は、本当に史実を語っているのでしょうか。
「信長公記」は、織田信長の側近太田牛一(おおたぎゅういち)が日々したためた日記を基に、豊臣秀吉の校閲のもとに現れた書物のようです。ですから、古来よりその記述内容に対して疑問を投げかける人も少なくありません。しかし、本能寺の変後の豊臣秀吉による緘口令や焚書などにより、「本能寺の暗殺」を知るための信頼される史料は、「信長公記」以外には存在していないのが現状のようです。
歴史を物語る場合、その史料となるものが、遺跡や古文書です。遺跡や遺品には言葉がありません。しかし、古文書はそれ自身が物語りであるのです。それらの古文書の多くのものは、社寺に保存され、そして、公家にも日記として保存されているのです。その理由として、社寺は、借上などの高利貸しの記録から借用書類の史料を保存するわけです。
では、何故、多くの公家は日記を付けたのでしょうか。それは、平安時代の比叡山延暦寺が、寺内で行う双六などの賭博により借上の借金を公家に踏み倒されないように、「往生要集」などで地獄思想を布教し、借金を返さない者やウソをつく者を脅すために発明した、ウソつきの舌を抜く「閻魔様」によるのです。その思想によると、キリスト教を真似た「閻魔様による最後の審判」の時、そのひとの生前の行いにより、地獄か極楽かに振り分けられるのです。
ですから、地獄思想を仏僧により刷り込まれた公家達は死後、地獄ではなく、極楽行きを望むため、日々の「良い行いだけ」を記録し、最後の審判の日に備えるわけです。それが、平安時代からの公家日記の始まりです。ですから、日記にある事柄が全て真実とは限りません。それは、ひとは「ウソ」がつける動物だからです。
本能寺の変が、歴史教科書の記述のようではないと疑われる主な原因としては、三つあります。
一つ目は、討ち入りの主目的は敵将の首を取ることです。焼死遺骨でも首は首です。しかし、信長の焼死体が存在しないのです。(通常火災により骨が全て灰になることは疑問。骨が一瞬にして消滅するのは、何らかの化学的燃焼が示唆されます。)
二つ目は、何故明智光秀は、一万三千の軍団を、分散して妙覚寺には向けずに、それほど大きな建物ではない本能寺だけに集結させたのか。(もし天下を本気で取るのであれば、織田信長の息子のいる妙覚寺も同時に襲うことは常識。妙覚寺の約二時間後の襲撃は何故か。)
三つ目は、何故豊臣秀吉軍は、毛利軍と一日で休戦交渉を成立させ、摂津に四日後に戻れたのか。(戦闘状態の毛利軍と一日での休戦は不可能。何故摂津帰還時で、二万の大軍団の食料調達が事前に行われていたのか。)
「本能寺の変」に関しての状況証拠に疑問がある上に、更に織田信長軍の最高武将達にも疑問があるのです。その最高武将達とは、柴田勝家、滝沢一益、明智光秀、羽柴秀吉です。これらの武将に共通することは、多くの戦国大名と同じに、全員出自不詳であるのです。(豊臣秀吉を除いて、他は中年期に歴史上に出現。)
戦国時代とはいえ、織田信長軍団の最高責任者四人とも子飼いの武将ではなく、中途採用でしかも出自不詳であるのです。「誰」が、出自不明の人物を軍人として織田信長に斡旋したのでしょうか。
斡旋者として考えられるのは、イエズス会の京都担当巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノです。(イエズス会宣教師オルガンティーノが、伊勢亀山城主関一政に十字軍の末裔聖ヨハネ騎士団のジョバンニ・ロルティス「日本名:山科勝成」を軍事顧問として斡旋した先例がある。)つまり、織田信長の最高武将の四人は、明国からイエズス会の傭兵としての渡来も考えられます。それは、本能寺の変の一年前、1581年(天正9年)織田信長は、天下統一を誇示するために、京の都で、日本国始めての軍事パレード(五百頭の馬揃え)を、織田信長軍の影のスポンサーであるイエズス会のヴァリニャーノを主賓として行っていたからです。
明智光秀は、十三代室町将軍足利義輝の次弟覚慶(義昭)が三好三人衆により京都から追放され元足利家臣を頼り、各地を流浪している時、覚慶(後の足利義昭)の臣下となったのです。それ以前の経歴は不詳です。そして、明智光秀が、足利義昭を上洛させるため、織田信長に後見人の依頼を願い出た時、織田信長軍にも採用されたのです。つまり、明智光秀は、二人の主に仕えていたのです。
明智光秀の本当の主は、織田信長ではなく、足利義昭(1568年〜1573年室町幕府滅び、京から追放される。毛利氏をバックに上洛を謀る。)だったのです。織田信長に仕えたのは、足利義昭を織田信長の軍事力を利用して上洛させるためだったのです。このことにより、明智光秀が「天下人」を望んでいた、とする根拠は薄れます。それでは、誰が織田信長暗殺の真犯人なのでしょうか。
真実を知る者が、後世の人に知らせる手段として、公の書物の中に暗号として残すことが、古来から行われています。例えば、新約聖書にあるパモス島のヨハネによる、レビ族の聖書改竄を知らせる「ヨハネの黙示録」の「666の謎」、そして、平安時代の多人長による、藤原氏が旧約聖書を基に創作した「日本書紀」(720年)を、平安時代に更に桓武天皇により、蘇我・新羅系王朝を抹殺し、百済王朝有利に日本書紀が改竄されたことを知らせるための「古事記」(812年)などです。
では、豊臣秀吉による「本能寺の変」の史実隠蔽の時期に、誰が、その首謀者をどのようにして後世の人に知らせようとしたのでしょうか。
豊臣秀吉は、太田牛一に命じて「信長公記」を創作させる他に、「本能寺の変」の四ヵ月後に、五山系の儒僧大村由己(おおむらゆうこ)に、「惟任退治記」(これとうたいじき)の記録書を書かせているのです。惟任とは、織田信長が与えた名で、明智光秀は、惟任日向守とも言われていたのです。
豊臣秀吉が、「明智退治記」とせずに、「惟任退治記」とした意味は、明智光秀が織田信長の忠臣であったことを「強調」する意図がミエミエです。つまり、忠臣を装う極悪人「明智光秀」のイメージ創りです。そして、明智光秀の天下取りの意志がある根拠として、本能寺の変の前日に行われたと言われている連歌の会での明智光秀の歌、「時は今天が知る五月かな」を、その証拠としているのです。時(とき)は、明智氏の本姓土岐(とき)氏に「かけた」ものと言われています。
その「信長公記」と「惟任退治記」とにより、後世の人の歴史的常識として「織田信長殺しは、明智光秀」である、と信じられているのです。しかし、織田信長の家臣太田牛一の「信長公記」の一節、明智光秀軍一万三千が老ノ坂から沓掛に差しかかった時、明智光秀が発した「我が敵は本能寺にあり」、が意味をもってくるのです。従来の解釈では、明智光秀軍の敵は、「本能寺に逗留している織田信長」である、と言うことです。
しかし、「敵は本能寺」を「織田信長の逗留している本能寺」とするのではなく、「本能寺」を所有していた者が本当の「敵」であるとすると、従来の意味とはまったく違ってくるのです。
日蓮宗により建立された砦である本能寺は、1536年「天文法華の乱」の京都仏教戦争により比叡山延暦寺の僧兵により破壊され、その後、藤原氏の興福寺系の種子島の慈遠寺とネットワークを結ぶのです。種子島からの硝石は、紀州根来寺を経由して、京都本能寺へ運ばれて、戦国大名に売りさばかれていたのです。つまり、本能寺は、島津氏(藤原氏)の系列寺であったわけです。その本能寺を、1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて入京した織田信長が摂取したのです。そして、イエズス会に京での布教を許し、その近くに三階建ての南蛮寺の建立を許すのです。そして、織田信長は、1570年近江姉川 の戦いで浅井長政に勝利するのです。
その後、織田信長軍の軍拡が進み、西洋式戦術の快進撃により、近畿周辺国は織田信長の軍門に下ったのです。天下を狙える武将で残るは、織田信長と離反した足利義昭をいただく毛利氏だけです。
その毛利攻めを羽柴秀吉に行わせ、正に天下統一前の時、「本能寺の変」の前日、四十人あまりの公家達を集めて大茶会を、織田信長は本能寺で行ったのです。それらの公家は、近衛公、九条公、一条公、二条公、聖護院の宮、鷹司公、摂家、清華家、などなどです。
近衛公とは、藤原氏の末裔です。鎌倉時代、百済北条政権により、都から追い落とされた藤原氏は、近衛家、日野家、菊池家などに変身していたのです。
この近衛家は、本能寺の変で、不思議な行動を起こしていたのです。「本能寺の変」といわれる「暗殺」が行われてしまった後に、本能寺に集結した明智光秀軍一万三千人は、後続が集結するまで、本能寺から程近くの所で待機していたのです。一万三千人の後続が目的地に到着するには、少なくとも二時間以上は必要だからです。
それは、明智光秀は、織田信長により、征夷大将軍の位を婉曲に拒否する朝廷を脅すため、未明に本能寺に軍団が集結するように密命されていたのです。しかし、本能寺での異変(建物は一瞬の猛烈火のために原型を留めず。)に気づいた明智光秀軍は、父織田信長と確執がある息子信忠が逗留する妙覚寺に向かうのです。
やっと本能寺での異変を知った織田信忠は、妙覚寺より堅牢な建物である隣の二条御所に避難するのです。二条御所に立て篭もれば、援軍が駆けつけるまで持ちこたえることが可能だからです。しかし、二条御所は呆気なく明智光秀軍により陥落してしまうのです。それは、二条御所に隣接する近衛前久邸の屋根から、明智光秀軍の鉄砲隊が一斉射撃をおこなったからです。
何故、近衛前久は、逆賊の明智光秀軍を阻止しなかったのでしょうか。そして、近衛前久は、その後、京から逃亡し、三河の徳川家康に保護を求めていたのです。
その近衛前久の不可思議な行動に勝る不思議が、羽柴秀吉の不思議な昇進です。
毛利軍との戦いを急遽休止して駆けつけたばかりの軍団による、1582年山崎の合戦で、明智光秀軍を壊滅した羽柴秀吉は、1584年最大のライバル徳川家康と小牧・長久手の戦いで敗れますが、1584年(天正12年)従五位に叙爵、その月の内に従四位下参議の口宣案をとりそろえ、翌年の1585年3月正二位内大臣となり、そして、元関白の「近衛前久」の猶子(名義上の子。何故、名義上といえども、出自不詳・賎民の羽柴秀吉が日本古来の貴種である藤原氏の一員となれたのでしょうか。ここに戦国時代の大きな謎が隠れています。)となり、7月には正一位に昇叙し、ここに出自不明・賎民出身初の関白となるのです。
しかし、自称平氏では、源氏武士の最高位の征夷大将軍とはなれないため、更に出自不明では藤原氏を名乗ることができないため、1586年(天正14年)に太政大臣となり、大和王朝の前身王朝「秦王国」の別名「豊国」から、「豊臣」の氏名を発明するわけです。豊国は、藤原王朝より格上であるから、豊国の臣である「豊臣」は、藤原氏より格上であるとの理屈です。
豊臣秀吉(自称平氏)が天下を取ると、反豊臣の武将の末裔(源氏系武士)や改宗しないキリシタン大名(秦氏系武士)は賎民と蔑まれ、穢多部落に押し込められるのです。これは、正に、武家源氏の末裔を穢多として社会的に抹殺した北条鎌倉政権の再現です。そして、1590年、豊臣秀吉の最大のライバル、部落出身の徳川家康(自称源氏)は、関東のひとも住めぬ河口、葦の生える湿地帯「穢土」(えど→江戸)に移封されるのです。そして、そこに現れるのが穢多頭の弾左衛門の一族です。
では、この藤原氏の末裔の近衛前久と豊臣秀吉の不思議な行動と昇進は、誰により、何故おこなわれたのでしょうか。この二人を「駒」として、「本能寺の変」はどのように計画され、そして実行されたのかを推理してみましょう。ヒントは、織田信長軍と行動を伴にしたキリシタン大名は、織田信長暗殺後も引き続き豊臣秀吉と軍事行動を伴に行ったのは何故か、と言うことです。
日本列島の古代が、オリエント諸国での動乱・紛争の結果である、騎馬民族や遊牧部族の東進の影響を大いに受けたように(紀元前三世紀秦氏の先祖徐福の渡来、「ヤマト」のチュルク族渡来の蘇我王朝、そして、645年その王朝を乗っ取ったユダヤ色が漂う藤原氏の渡来などなど。)、中世・戦国時代の日本列島は、ヨーロッパ諸国(ポルトガル・イスパニア)の影響(戦国時代に家紋・エジプト発祥の楕円の印章が出現した。)を大いに受けていたのです。
1347年から1351年間の全ヨーロッパでは、黒死病(ペスト)の大流行により、人口が大幅に減少し、なかには全滅する都市もあったほどです。更に、1353年には、東からトルコ軍のヨーロッパ侵攻も始まるのです。
四世紀ローマ帝国の国教として布教されたヨシュア教(キリスト教)も、中世ヨーロッパでは、国際交易商人が国際交易により富を増大するのに合わせるように、その宗教的権力を増大していくのです。
そのヨーロッパの富の基は、ペスト病を防止すると信じられた「香辛料」です。肉食のヨーロッパでは、肉の腐敗を防止する「香辛料」は、「金」と同等の価値があったのです。しかし、その香辛料の原産地のインド・東アジアは、イスラームの商人達により支配されていたのです。
中世において、キリスト教の布教力を利用して交易地を海外に広げていく国際交易商人は、その香辛料を直接入手(略奪)するために、ユーラシア大陸はトルコとイスラーム勢力に経済的に支配されているため、大西洋の彼方にある未開拓地を目指すのです。その結果が、1492年コロンブス(イスパニア王国)のアメリカ大陸への到達と、1498年ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)のインド航路の発見です。この二人の冒険家(?)により、「香辛料」の原産地のインド・東アジアは、植民地への時代に突入していくわけです。それに手を貸すのが、カソリックの教会組織です。
国際交易商人と結託するカソリック教会組織は、その権力を利用して、1500年キリスト(ヨシュア)降誕祭を利用して、教皇庁は「免罪符」を発売したのです。その「免罪符」を購入すれば、誰でも全ての罪から開放されるというのです。それに対して、1518年マルチン・ルターは95ヶ条の質問を教皇庁に突きつけるのです。これが火種となって、宗教改革に発展していくわけです。この流れから、カソリック教会を脱退して「プロテスタント」組織が生まれるわけです。(広告用語の「プロパガンダ」は、ここから発生した。つまり、カソリック教会側が、プロテスタント布教活動を揶揄して、「ウソッパチの布教・宣伝」として発明された言葉が「プロパガンダ」なのです。)
このプロテスタントの勢力増大に脅威を感じたローマ・カソリック教会は、その巻き返しと、新たな布教地を求める活動を模索するのです。そのようなカソリック教会自身の改革と刷新が推し進められている時、1534年イグナティス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブル、ティエゴ・ライネス、アロンソ・サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・ボバディーリャの七名が、「イエズス会」を誕生させるのです。
この「イエズス会」とは、「イエスの同士」の意味の他に、「イエスの軍団」、「イエスの戦闘部隊」という意味も内包していたのです。この「イエズス会」のキリスト布教教団の特異性は、そのバックに、ローマ教皇とポルトガル国王の庇護と経済的援助、更に国際交易商人組織も支援していたのです。
「イエズス会」の目指すところは、「すべてはより大いなる神の栄光のために」を標榜し、「すべての布教手段は神の基に許され」、「地上の王」カソリックの神の教えを異教徒に広めることです。しかし、ポルトガル国王と国際交易商人の考えている事とは、少しズレがあったようです。
他のヨーロッパ諸国より先に、羅針盤による外洋航海術と造船技術と地理学を習得したポルトガルとスペインとは、それぞれの征服先が、東回りのポルトガルと西回りのスペインとに異なっていたのが、地球が丸いため最終的に一点に集約するため、征服地の帰属問題が生じたのです。その解決のために、ローマ教皇の下、ポルトガルとスペインとが異教世界を二分割に征服する事業「デマルカシオン」を発明するわけです。
ローマ教皇はポルドガルに、ポルトガルの海外侵略と抱き合わせに、キリスト教布教を目論んで、新発見地での原住民を奴隷化する権利と貿易の独占権を与えるわけです。スペインは、それに対して異議を申し立て、1494年トルデシーリャス条約を結び、ベルデ岬諸島の370レグアを通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、そして、西側全域をスペイン領とするのです。
つまり、十五世紀半ばの非キリスト教世界は、ローマ教皇の許可の下に、ポルトガルとスペインの「征服予定地」となってしまったのです。勿論、戦国時代に突入する下克上の群雄割拠の日本国も、ポルトガルの侵略支配地として、ローマ教皇により認められていたのです。
イエスの神の守護の下、イエズス会(ポルトガル)は、1530年ポンペイ占拠、1536年インドのディウを占拠をし、そこをイエズス会の拠点とし、1542年ザビエルがインドに現れるのです。その年1542年ポルトガル人(イエズス会宣教師)を乗せた明国マカオ船が、日本国種子島に来航するのです。その孤島の種子島は、鹿児島の島津氏(島津氏は藤原氏の末裔近衛家と親戚関係)の南蛮密貿易地であったのです。(歴史教科書ではポルトガル船種子島に漂着1543年としている。)これは、1549年ザビエルの鹿児島来航への下調べであったのです。
そして、インドを占拠したイエズス会は、1557年中国・明を支配する拠点としてを占拠するのです。しかし、大国の明国はイエズス会渡来軍団だけでは太刀打ちできません。そこで、このマカオを拠点として、東アジア世界征服戦略を練るのです。そのために、まず手始めとして日本国をキリスト教化にして、その後、日本キリスト教軍団を組織して明国を征服する、と言う計画であったのです。
では、そのような視点により、イエズス会は、どのようなプロセスにより日本国をキリスト教化していったのかを考察してみることにしましょう。そして、そこに織田信長の暗殺者が浮かび上がってくることでしょう。
布教とは、幻想(ウソ)をセールスすることです。ひとは、自我という意識を獲得した時点から、不安と恐怖の感情を保持してしまったのです。その不安と恐怖の感情を、自我の意識でコントロールできれば問題はありません。しかし、未だ意識により、不安と恐怖は克服されてはいません。その穴を埋める技術のひとつが、「宗教」という幻想(ウソ)です。つまり、ひとは幻想(ウソ)無しには生きられない動物なのです。
布教がセールスと同じであることは、現代の広告理論は全て宗教の布教手法を真似ていることからも理解できるでしょう。広告・宣伝を揶揄して、「プロパガンダ」と言っていることからも納得できるでしょう。
物やサービスを売ることの手始めとして、マーケティングをおこないます。マーケティングとは、物やサービスを売るための「仕掛創り」のことです。その仕掛創りを行うための材料集めが、市場調査ということです。
イエズス会の宣教師が、1542年明国船で種子島に渡来したのは、日本国の市場調査のためだったのです。その情報を基に、1549年マカオからザビエルが鹿児島に渡来するわけです。
マーケティング理論が良くても、提供する物やサービスが、潜在顧客が望まないものは売ることはできません。
鹿児島を影で支配する藤原氏(鎌倉時代、藤原氏改め近衛家)は、奈良時代から戦国時代の今まで密貿易をおこなっていたため、イエズス会のザビエルが提供するインドや明国の物(銃と硝石)やサービス(キリスト教)に触手を伸ばさなかったのです。元々藤原氏は、蘇我王朝を倒した645年から「イエズス会のような組織」でしたので、イエズス会の布教戦略には乗らなかったのです。その証拠に、イエズス会傀儡軍である豊臣秀吉軍が、1587年(天正15年)九州で最後に闘ったのが島津軍だったのです。
物や宗教サービスを求めるひとは、貧乏人か病弱者のようです。
イエズス会は、占領地を統治する手法として、医師を派遣し、弱者救済を行い、シンパを育て、そして病院を設立し、そこを布教拠点として、国際商人を招きいれ、学校を設立して現地裕福者の子弟を洗脳し、その中から優秀な者を選び出し、布教の後継者として育成していくわけです。
イエズス会がインドでの布教が短期間でおこなわれた原因のひとつは、インドのカースト制度のおかげです。カーストの最上級階層を取り込んでしまえば、その下のカーストは、上カーストに無抵抗になびくからです。
イエズス会は、インド侵略のために、カースト思想を調べつくしていたのです。そのカースト思想が、日本国にも存在しているのを市場調査で知るのです。そして、そのカースト思想が大乗仏教に取り込まれていることも知るのです。
イエズス会宣教師(商人)のフロイスは、パライヤ(タミル語でカースト思想の不可触賎民のこと)を日本国では「エタ」と認識し、「エタ」は「河原者」とも呼ばれ、猿楽、舞々、ささら(竹細工職人、千利休の茶道と関連)、鉢叩、琵琶法師(フロイスの助手ロレンソ了斎の前職業)などの職業に従事して、体制から差別をうけていることを知るのです。そして、その体制から差別を受けている者を探し出すのです。それが、九州長崎の大村純忠(バルトロメオ)と九州大分の大友宗麟(フランシスコ)です。この両名も、数代先の出自が不明なのです。(豊後には1541年ポルトガル船来航)
イエズス会は、その両国(長崎・豊後)が経済的に疲弊していることを調べ上げ、マカオから持ち込んだ品々を気前良く振舞うのです。それは、日本国の市場調査により、日本人は物品を贈られて始めて行動を起こす、ということを知ったからです。つまり、日本国では、何がしかの物品を与えないと、何事もなしえない、ということです。
イエズス会の贈り物に対して、両国はポルトガル船の湊を構築するわけです。このことにより、ポルトガル船の交易ルートが、ポルトガル→インド・ゴア→中国・マカオ→日本国・長崎・豊後と繋がるわけです。しかし、そこから先の日本国の経済中心地の大阪は浄土真宗軍により支配され、そして、政治の中心地の京都は比叡山延暦寺軍により支配されているわけです。
仏教軍団が支配する都へ侵攻するために、次なる基地を求めることになるのです。その候補が、堺と伊勢です。
インドに拠点を確保したイエズス会は、インド管区長であったヴァリアーノが、巡察師となって日本国を統括するに当たって、市場調査を基に布教戦略(ポルトガル王国にとっては植民地化戦略)を練るのです。日本侵略のマーケティングとして、日本国の重要拠点を三地区とするのです。
第一地区の下地区の長崎を、マカオ貿易の補給基地とイエズス会修道士の日本語養成基地とするために、敵対宗教組織の仏教軍団から防衛するために軍事要塞化とする。
第二地区の豊後地区は、イエズス会修道士のための教育地区として、コレジオ(予備教育機関のセミナリオで修学後、高等教育を受けるための施設)と修練院(修道士としての適正を見極める施設)を建設し、マカオから都への中継基地とする。
第三の都地区は、日本国を精神的に統治している天皇と軍事的に統治している将軍をキリスト教に改宗するために、華麗なる教会を都に建設し、キリスト教の華麗なる教典儀式を都で披露する。それにより、天皇と将軍がキリスト者となれば、日本国はキリスト教王国となる。
そのような綿密な布教戦略に基づいてイエズス会は、日本国にキリスト教を布教(侵略)するために訪れていたのです。しかし、歴史教科書では、ポルトガル船の「漂着」とか、イエズス会が「ふらり」と日本列島に現れたと記述しているのは何故でしょうか。
第一地区、第二地区の基地を確保したイエズス会は、第三地区の「都」に侵攻するために、その上陸地候補の「堺」を市場調査するわけです。
「堺」の名の由来は、摂津国と和泉国との境界にあるところからです。奈良時代から、宇陀の水銀交易(イエズス会に同行する国際交易商人も宇陀の水銀・銀の奪取が目的)のため、摂津の難波と紀州の国際交易港があったために日の目をみなかった「堺」にも、室町時代末期の「応仁の乱」と、京での一向宗軍と法華宗軍との戦闘、そして、法華宗と比叡山との宗論抗争の果ての「宗教戦争」に嫌気を刺した都の知識人や豪商などが、ぞくぞく集まってきたのです。それは、「堺」は、外敵を防ぐ堀を廻らせた要塞都市であったからです。そして、それらの都の乱により、難波や紀州の湊を避け、明国船が「堺」を交易港としたからです。更に、三好三人衆による軍事的保護も、自由都市「堺」を、経済の避難所としていたのです。
戦国時代に、そのような社会情勢により、「堺」は一躍国際交易都市となったのです。経済的に余裕がある処には文化の華が咲きます。賭博の一種であった「茶のみ・闘茶」も、ここ堺で、千利休により「茶道」になったのは、明国からもたらされた豪華な茶器や装飾品によるのです。この「茶器」が、織田信長の命を落とす「道具」であったことは、1582年まで待たなければなりません。(戦国時代の茶器は、鎌倉時代、御恩と奉公のために与える土地が鎌倉末期の幕府にはなくなったため、智慧者が「茶器」は、土地よりも高価なものであると刷り込んだことにより、土地よりも価値あるものとなっていた。)
千利休が開発した「茶道」は、キリスト教の赤ブドウ酒の聖杯を回飲みする儀式を真似たものと言われています。茶に添えるお菓子がパンの役割です。しかし、そのキリスト教の聖杯儀式も、ミトラ教の太陽のシンボル牡牛を、太陽の再生を願って屠った時の血(赤ぶどう酒)と肉(パン)を摂ることにより、自身の再生も願う儀式を真似たものなのです。
千利休が、キリスト教の儀式を真似たのか、ミトラ教の儀式を真似たのかは分かりませんが、千利休の周辺には、太陽神ミトラ教が中国大陸で変身した、「景教」を信じる秦氏末裔の賎民技術集団「穢多」の存在が示唆されます。その一例として、千利休が開発したと言われる、外穂の先端を内に曲げる形状の「茶筅」があります。茶筅は、誰でも作れるものではなく、穢多頭の弾左衛門が支配する「ささら」の限定職人でなければ、同業組合を仕切る「役座」にお仕置きをされてしまいます。
更に、「堺」では、仏教にイジメられていた景教を信じた秦氏末裔の多くが、キリシタンに改宗しているのです。飛騨の山奥に暮す金箔貼り技術者の高山右近もキリシタンとなり、その高山右近ジュストは、千利休の「茶道の弟子」となっているのです。室町幕府十三代将軍足利義輝を、三好三人衆と伴に襲った松永久秀も、千利休の茶同朋衆であったのです。「わび・さび」とは異なり、「きな臭い」本名田中、通称与四郎の千利休とは、「せん」(賎民=秦氏末裔)の利休と言うことなのです。
千利休が賎民と深く関係している根拠として、千利休の開発した茶道に強い影響を与えた茶の師匠である「武野紹鴎・たけのじょうおう」は、「堺」の街で商いをする「皮革商」の子息なのです。閑雅な草庵の茶室、侘びの茶道具を創案し、それを千利休に伝えたのは、限定職の皮製品を扱う賎民の子息武野紹鴎だったのです。鎌倉時代、百済北条鎌倉政権に、「かわた」とイジメられた騎馬民族末裔の秦氏・新羅系源氏武士末裔も、戦国時代になると、軍事物資である「皮革」は、戦国武将の需要に生産が追いつかないほどであったので、その財力は並みの戦国大名以上であったのです。その軍事物資である「皮革」が、新興都市「堺」で扱われていたことは、そこ「堺」には、賎民といわれる技術者集団が多く暮らしていたことを示唆します。「堺」が自由都市と言われるのは、「座・市」を支配する仏教組織から自由であるということです。
因みに、戦国時代に現れた科・化学技術を駆使する忍者集団は、秦氏末裔の軍事集団です。部落出身の徳川家康を護る忍者部族の服部氏は、秦氏の末裔だったのです。
戦国時代の「堺」の町は、豪商と知識人と文化人で溢れていたのです。そのような経済的に余裕のある人には、宗教は必需品ではありません。せいぜい教養のひとつです。しかし、イエズス会は、「堺」で茶同朋衆(反仏教者)とコンタクトを取れたことにより、後の仏教軍団壊滅と「本能寺の暗殺」に結びついていくわけです。
イエズス会の都支配の目的(布教)と、ポルトガル王国と国際交易商人の都支配の目的(黄金の国ジパングで金・銀の奪取が目的)は同じではありません。後者の目的は、日本国の地理的支配と経済的支配です。そのためには、六十余国に分かれている日本国を一つにまとめる必要があるのです。その政治的中心は京都です。そして、経済的中心は大阪です。この二つを支配することで、日本国を完全に支配できるのです。そのためには、各国を支配する戦国大名達を滅ぼして、統一国を造ることと、そして、「座・市」、「借上の高利貸し」、「関所の通行税」などで経済支配をしている仏教組織を壊滅することです。
そこで、イエズス会は、戦国時代の日本国を軍事統一し、そして、仏教軍団を壊滅できる武将を探すのです。
戦国時代の武将の人物像は、江戸時代まで生き残った戦国武将の末裔が、先祖の権威を付けるため系図屋に創作させたり、講釈師により創作されたものが大部分なのです。なかには、客観的史料を装い寺社史料や公家日記などを引用して創作したものもあるかもしれませんが、不都合な書類は焚書・改竄されるのが史料の運命ですから、戦国武将の複数の史料を比較検討すると、史実のわけが分からなくなるのが実状です。つまり、戦国武将の出自を証明する「源平藤橘」に行き着く系図は、江戸時代に注文者の都合にあわせ創作されたものだからです。系図を創る「系図屋」とは、隠語で「いかさま師」の意味なのです。(恐らく、応仁の乱から出現した武将の多くは、鎌倉時代、元寇といわれた南宋国か高麗の亡命武士団の末裔でしょう。)
織田信長の人物像もそのひとつです。織田信長についての史料は、それほど多くはないようです。それは、意図的に誰かにより焚書されているようです。特に、イエズス会との関係資料は、フロイスの日本史がなければ、「日本生まれの革命家」のイメージが思い浮かびます。(第一百済王朝・平安時代。第二百済王朝・北条鎌倉時代。第三百済王朝の徳川家光以来の江戸では、百済の守護寺の比叡山延暦寺を壊滅した織田信長の評判は、最悪だったようです。織田信長が、歴史上脚光を浴びたのは、太平洋戦争敗戦後の昭和三十年頃のようです。旧秩序を破壊した織田信長の業績が、時の政府により「革命家織田信長」として利用されたのです。)
しかし、織田信長の行動は、日本人の基準を遥かに超えています。それらは、ヨーロッパ式軍事行動はもとより、従来の武将とは異なり比叡山全僧打首と仏教信者部落老若男女乳幼児まで殲滅、中世ヨーロッパのキリスト教が魔女を火あぶりしたように正親町天皇から国師号を贈られた快川和尚の高僧を焼き殺したこと、キリストの十字架磔を真似ねてロンギヌスの槍を真似た長竹槍での刑罰、楽市楽座の自由経済思想などがありますが、建築技術、特に築城については、ヨーロッパの築城思想が強く出ているのです。それらの、従来の武将と異なる日本的ではない思想行動・技術知識は、誰により織田信長にもたらされたものなのでしょうか。
日本国が中世から近代に変革したのは、1568年織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った時(翌年イエズス会宣教師フロイスと謁見)からと言われています。それは、城を中心とした城下町のはしりとしての安土城の築城があるからです。
現在知られている天守閣のある「城」の築城は、それほど古くはありません。元々「城」とは、「土」を固めて「成」った、土塀で囲った陣地であったわけです。
四世紀朝鮮半島から渡来した軍団が、戦闘時の避難場所として山頂を土や石を積んで囲んだ陣地を「朝鮮式山城」というわけです。奈良時代になると、海外交易で財を成した藤原氏は興福寺の「寺」を軍事砦とするわけです。鎌倉時代になると、堅牢で耐火瓦の寺建物は、空堀を廻らし土や石の壁で囲まれた山の山頂に立てられるわけです。これが、山城です。やがて室町時代になると、平地にも堀に囲まれた土や石の塀で囲まれた寺を真似た堅牢な建物が現れるのです。これが平城です。戦国時代になると、城郭は、再び山頂や山麓に建設され、独立した曲輪(くるわ)を要所要所に配置するのです。
そして、戦国末期に織田信長は、石垣の上に「天主閣=織田信長の住居。仏像安置の建物を真似た建物」(この頃、織田信長は、自らをイエズス会の神を超えた存在と信じ、織田信長を「神」として拝ませた。だから、織田信長の安土城は「天守閣」ではなく、「天主閣」なのです。この結果、イエズス会の史料では、「デウスが織田信長の歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった」と記述するのです。そして、日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、本能寺での織田信長の死に遭遇するのです。)を頂く安土城を建設するのです。これが今に見る「城」の概念です。この堀を廻らし、強固な土壁の塀に囲まれた石垣の上に建設された「安土城」は、インド管区長・日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノが、ヨーロッパのどの城にも及びも着かない立派な城と賞賛したほどです。
では、ヨーロッパ式城を築城し、ヨーロッパ式軍隊組織を持つ織田信長は、どのようにしてイエズス会と接触したのかを考えて見ましょう。
イエズス会は、ポルトガル→インド→マカオ→長崎→豊後と侵攻し、更に「堺」にも拠点を設けたわけです。その手法は、貿易という甘い蜜です。この貿易は、相手側に多大な利益が得られるため、危険を冒してまでその組織の一員になるとこを望むひとが多くいるわけです。しかし、イエズス会と接触を求めるひとは、交易利益のためだけではないひともいたのです。それは、体制にイジメられている賎民です。つまり、足利義輝体制転覆を画策する、三好氏と内通する堺の茶同朋衆などの賎民組織が、堺のイエズス会結社に集まってくるのです。
日本国の海外との正式交易ルートは古から、中国大陸(楼蘭・ローラン)→朝鮮半島(楽浪・ローラン)→博多(伯太・はた・秦)→難波(浪速・ローラン)→奈良・京都と決まっていました。しかし、イエズス会は、この正式ルートを外れて、マカオ→長崎→豊後→堺としたのです。それは、そのルートに、都を追われた反体制の末裔がいるからです。
新興国際都市堺の交易先は、豊後です。そこは、大友宗麟が支配する国であるのです。豊後にはポルトガル船が、種子島にポルトガル船が来航するより二年も先、1541年には来航していたのです。それは、豊後が、古来から、堺と密貿易をしていたからです。
明国と正式交易をしていない「倭寇」は、その本隊の実態は明国の住民が主で、その本拠地が五島列島であるわけです。つまり、倭寇の交易ルートは、明国→五島列島→豊後→堺となるわけです。その先は、日本の経済の中心地難波港から大阪の地は、浄土真宗軍に支配されているので、堺→雑賀→那智→伊勢となるわけです。このルートが、倭寇と言われる「海賊」の交易ルートだったのです。この海賊ルートを、イエズス会が、日本国侵略に利用するわけです。イエズス会の次の拠点造りは、伊勢です。
伊勢は、縄文時代から海外からの交易人が渡来していたのです。それは、伊勢には、宇陀と同じに「朱砂」が産出していたからです。それは当然で、宇陀と伊勢は、中央構造線上に位置しているからです。更に、伊勢湾には、今でも伊良子岬に椰子の実が流れ着くように、南方から黒潮が流れ着くところなのです。ですから、伊勢には、古来からアラブ、インドの南方から渡来する部族が多くいたのです。
七世紀の壬申の乱での、新羅系天武天皇軍の出発点は、伊勢だったのです。伊勢には、朱砂を求める中国大陸からの国際交易人や南方の海人族が多く住んでいたのです。その海人族のシンボルの赤旗を立てて、百済亡命貴族が支配する近江を、天武天皇軍が攻めるわけです。そして、その戦いの勝利を感謝して海人族の神を祀ったのが「伊勢神宮」です。伊勢神宮は、新羅系天武天皇により建立されたものなのです。しかし、平安時代になると、新羅の敵国百済亡命貴族の末裔桓武天皇が政権を支配すると、比叡山延暦寺が布教する騎馬民族を蔑視する(殺生禁止・血の禁忌)、仏教キャラクターの聖徳太子を創作しての「法華経」布教により、肉食・魚食の仏罰者の住む伊勢は「穢れた地」に貶められてしまうわけです。ですから、百済系天皇は代々、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮を祀るわけです。百済系天皇で、伊勢神宮を祀ったのは、約千年後の明治天皇が始めです。
十二世紀に平安朝廷を支配したペルシャ平家も、その伊勢からの出現です。
この伊勢に渡来した部族には、反体制的心情があるようです。南方から渡来したベンガラ染め(ベンガラ染めとは、インドのベンガル地方から産出する鉄錆の赤染め)のペルシャ平家の平清盛・重衡親子にも、織田信長と同じに、日本の神社仏閣には敵愾心を持っていたようです。怨霊神を封じる神輿に矢を射掛けたり、1180年には平重衡は奈良東大寺の大仏に火を放ち延焼させているのです。
何故、ペルシャ平家は、そのように日本の神仏を嫌ったのでしょうか。それは、ペルシャ平家の京での拠点、祇園にヒントがあるようです。祇園怨霊会が行われると、京の公家達は、穢れ神が来ると、都から避難したのです。つまり、ペルシャ平家の土地神は、平安京の公家達には、穢れ神であったのです。それは、祇園の神は、インドの底カーストの土着神であったからです。
平安時代に、藤原氏の計らいで渡唐の空海により、唐に渡来のインド僧の教えにより、民族差別のカースト思想が、日本国に持ち込まれていたのです。その祇園祭の牛頭天皇とは、インドでの穢れ神であったのです。
しかし、ペルシャ平家も、仏教を笠に着る百済皇室・百済公家には負けてはいません。空海により発明された「日本密教」の神々の全ては、インドのバラモン教・ヒンズー教の神々であることを、ペルシャ平家が知っていたからです。更に、大乗仏教の儀式である、加持祈祷、護符、お守り、呪文などは、空海により密教儀式として発明されたわけですが、それらの儀式は、元々バラモン教・ヒンズー教からの借り物であることも、ペルシャ平家は知っていたのです。
「奈良の大仏」は、空海により「大日如来」に変身したわけですが、その元の名は「遍照鬼」で、インドではバラモン教の系列外の神であったのです。ですから、ペルシャ平家の平重衡は、百済平安政権を守護するその大日如来の遍照鬼(奈良の大仏)に火をつけて燃やしてしまったわけです。
ペルシャ平家は、仏像や仏閣を燃やしてしまいましたが、織田信長は、百済系正親町天皇の高僧を生身のまま燃やしてしまったのです。その異常な仏教嫌悪は、どのようにして生まれたのでしょうか。それは、織田信長の祖父の墓が、刑場近くの垣内(かいと)にあったことが原因のひとつのようです。祖父の実生活は、孫が実際に観察できます。恐らく、織田信長は幼少の頃、伊勢の穢れ地に住む祖父が、仏教者にイジメられていたのを経験していたのかもしれません。「三つ子の魂百までも」、です。
織田信長は、反抗する仏教僧や信者には情容赦をすることはないのに、貧民の身障者には慈悲の心があったようです。それは、織田信長の逸話として、戦のたびに見かける山奥の部落近くにいる皮膚病を患っている身障者を哀れに思い、お忍びでその部落に行き、その部落民を集め、その身障者を生涯面倒を見るように部落民達に強く言い渡し、高価な反物を多く与えた、というものがあるからです。
皮膚病者は、奈良時代では藤原氏が支配する中臣神道により、中臣祓の「国つ罪」の穢れ者とされ、奈良坂の部落に押し込められ、そして、平安時代では、百済系桓武天皇が支配する比叡山延暦寺による法華経により、「仏罰者」として、清水坂の部落に押し込められていたのです。
古代では、病気とは目に見えるもので、その代表が、皮膚病であったわけです。その他の病気は、怨霊により引き起こされていると信じられていたのです。ですから、古代では、御祓いや祈祷は、医療行為だったのです。(現在でも、怨霊退治をビジネスにしているひともいます。)
戦国時代も、法華経により仏罰者と宣伝された皮膚病者は家族から追放され、社会からも追放されていたのです。その皮膚病者を、王権に反抗した秦氏や新羅系源氏武士の末裔の部落に押し込めることにより、穢れ部落を創り出していたのが、藤原・百済王朝だったのです。その社会から追放された皮膚病者を救う組織が、戦国時代の日本国に現れたのです。それが、イエズス会です。
イエズス会の布教基本戦略は、病弱者・貧者を救う活動から始まるのです。1557年九州の大分(大村宗麟・フランシスコの支配地)には、宣教師アルメイダが内科・外科病院を設立して、その一角に、仏罰者と言われる皮膚病者の収容施設を建設しています。1583年には長崎(大村純忠・バルトロメオの支配地)にハンセン氏病者のための病院が設立されていたのです。
そのように、中臣神道や大乗仏教にイジメられていた皮膚病者は、イエズス会の神(デウス)を拝むのは当然でしょう。更に、藤原・百済王権にまつろわなかったために、中臣神道や大乗仏教により、「穢多」として社会的に追放されていた、元貴族や元武士階級やそれに順ずる者も、イエズス会の布教活動に共感を示していくわけです。それらのイエズス会共鳴者達は、神社ネットワークの「座」を拠点に、「役座」の仕切りにより、流浪する遊芸者や各種職人として、鎌倉時代から戦国時代までを、仏教の思想迫害を受けながら生き延びていたのです。
全国を、本地垂迹説により仏教組織が仏寺・神社を支配していた「座・市」を拠点として、流浪する遊芸者や各種職人は、戦国の国々の情報を収集することも、仕事の一部だったのです。そこで、イエズス会も、戦国の国々の情報を得るために、流浪遊芸者と接触するわけです。それが、身障者の流浪琵琶法師である了斎です。了斎は、キリシタンに共鳴してロレンソ了斎となり、イエズス会のための、反政権結社との情報連絡係りとなるわけです。しかし、イエズス会と接触したのは、賎民といわれる流浪遊芸者だけではありません。現政権に不満を持つ公家達もいたのです。
イエズス会は、世界布教(征服)を遂行するために、中国大陸の明国布教(征服)の前哨戦として、明国征服のためのイエズス会日本軍を組織するため、戦国時代の日本国を統一できる人物を物色するわけです。そのための情報協力者としては、公家不満分子、海賊、山賊、流浪遊芸者、密貿易者などの反体制分子です。そして、密貿易地の中継地豊後の大友宗麟からイエズス会に、尾張の国に織田信長という反仏教武将がいることが知らされるのです。
イエズス会は、弱小国ながら少数の軍力で隣国の大軍団とゲリラ戦を行っている織田信長の力量を見極めると、イエズス会日本軍の大将候補として、キリシタンへの取り込みにかかるのです。その戦術が、天皇を頂点として武力で日本統一をスローガンとする「天下布武」の織田信長への刷り込みと、隠れキリシタン公家と藤原氏末裔の陰謀による正親町天皇からの、朝敵征伐の「決勝綸旨」の書状です。
戦国武将達には、全国統一などの概念は、殆んどなかったのです。国の民を養う田畑を他国からの侵略の護りと、他国との境界線の拡張が、戦国武将の戦いの主な目的だったのです。個人経営である荘園経営による農業主体の経済では、日本統一するための兵力は養えなかったのです。つまり、戦国時代の戦いは、農繁期ではなく、刈り入れの終わった農閑期に主におこなわれていたのです。
ただ、農業主体ではなく、伊勢での南蛮密貿易で稼ぐ、尾張の織田信長軍は例外でした。織田信長は、「銭」で、軍人を集めていたのです。「銭」で軍人を集めるための宣伝として、「織田軍には銭があるぞ!」を図案化して、明銭を旗印にしたのが、織田信長軍の銭の旗印だったのです。ですから、織田信長軍は、他の戦国武将と異なり、一年を通して闘うことができたのです。
日本国は、元々各種民族が長い年月を経てオリエント・中国大陸などから渡来し、それぞれの部族国を日本列島内に建設していたのです。それぞれの渡来部族は、それぞれの言語でそれぞれの文化を享受していたのです。その根拠として、戦国時代から約三百年後の明治維新の最初の会議では、各藩出身者の話す言葉がお互いに聞き取れず、理解できないため、筆談で会議をしたほどなのです。(現在でも、地方を旅して、現地のお年寄り同士の会話を聞き取れないことは、誰しも一度は経験しているでしょう。)
国家の統一は、言語の統一から始まるのです。ですから、明治新政府は、日本国統一のため、廓言葉を基本として「標準語」を発明するわけです。
戦国時代に全国統一するためには、コミニュケーションを互いに摂るために、言語の統一が必要だったのです。しかし、日本国では、明治になるまで、各藩はそれぞれの方言で生活していたのです。
織田信長が、もし全国統一を本当に計画していたならば、秦の始皇帝のように、言葉や生活単位の全国統一計画を実行していたはずです。(日本国統一のための行動は、織田信長暗殺後、1582年からの田畑の検地方法や計量基準「6尺3寸・191cmを一間、一間四方を1歩、三十歩を一畝、十畝を一反、十反を一町/米の量りは、京枡に統一した。」を全国一定にした太閤検地からです。この検地により、鎌倉時代からの荘園制度が崩壊して、イエズス会の望む近代日本国中央政権が確立したのです。)
でも、織田信長が、行おうとしていたのは、統一言語の開発や日本全国の検地ではなく、暦の変更で、それも太陰太陽暦を、なんとヨーロッパのグレゴリオ暦(ヨーロッパで紀元前46年から使用されていたユリウス暦からグレゴリオ暦への変更発令は、1582年2月24日だったのです。と言うことは、四ヶ月ほどで、ヨーロッパの最新情報は、イエズス会の情報ルートで日本国に届いていたのです。因みに、日本国では、1873年(明治6年)に、太陰暦から太陽暦「グレゴリオ暦」に改められた。)に換えようと、正親町天皇に強訴していたのです。織田信長は、イエズス会の日本人エージェントから、日本統一思想だけではなく、ヨーロッパの色々な最新知識も刷り込まれていたようです。
イエズス会は、ローマ教皇、ポルトガル王国、そして国際交易商人達の経済援助の下に、日本国統一を目指すために、尾張の弱小武将の織田信長に、ヨーロッパ式軍事戦略、軍資金、武器(ロンギヌスの槍)、銃、火薬、そして秦氏・源氏末裔のキリシタン大名や銃の使用に慣れた傭兵軍団(一時的に、紀州雑賀鉄砲衆傭兵軍も参加していた。後の浄土真宗本願寺派との十年も続く石山合戦では、雑賀鉄砲衆は反織田信長軍の敵対者として活躍した。)を提供してきたのです。それは、日本を統一し、そしてイエズス会日本国軍団を組織して、その武力により、ローマ教皇・ポルトガル王国の最終布教国の中国大陸の明国を、占領するためだったのです。
1580年日本イエズス会は、ポルトガル王エンリケの死を知るのです。イエズス会は、異教国侵略のために、その組織運営資金の多くを、ポルトガル王国から援助されていたのです。
更に、ポルトガル王エンリケの死は、イエズス会に激震をもたらしたのです。それは、イスパニアのフェリペ2世が、ポルトガル王位を兼任し、イスパニア・ポルトガル同君国(1580年〜1640年)としたからです。
イスパニアは世界征服の手先として、ポルトガルのイエズス会に対抗して、托鉢修道会を組織していたのです。そのイスパニアは、1565年フィリッピンを征服し、1571年にはマニラにイスパニアの東洋貿易基地を構築していたのです。十六世紀のマカオのイエズス会(ポルトガル)とマニラの托鉢修道会(イスパニア)は、共に中国大陸への布教を目指して闘っていたのです。
イエズス会にはもう時間がありません。イエズス会が織田信長に軍事援助を始めた桶狭間の戦い(1560年)から本能寺の変(1582年)までの二十二年間に、畿内を中心に、戦国武将軍団、比叡山延暦寺軍、そして浄土真宗軍を壊滅し、政治の中心京都・商業の中心大阪の地を、イエズス会傀儡軍の織田信長が占領したのですが、まだ全国の三分の一を支配したにずきながったのです。
しかし、天下統一直前の織田信長は、残る戦国大名の壊滅に専念するのではなく、天皇をコントロールできる関白の地位を要求して、京での軍事パレードを行ったり、暦の変更を求めたりして、天皇家や公家達と心理戦をおこなっていたのです。それらの織田信長の行動は、早急に、明国侵略手段としての、天皇を傀儡としてイエズス会日本国軍の組織編成を企む、イエズス会の戦略から大きく外れていくのです。そこで、イエズス会は織田信長に見切りを付けて、織田信長に代わるイエズス会日本軍大将候補を選ぶわけです。それらが、源氏末裔の明智光秀と自称平氏の羽柴秀吉です。
そして、正親町天皇と誠仁親王も、無理難題を要求する織田信長を疎ましく思っていたのです。それは、関白の地位を要求され、更に、天皇の祭祀権の根本とも言える古来からの暦を、ヨーロッパで発令されたばかりのグレゴリオ暦への改変を強訴されていたからです。
ここに、イエズス会側と天皇側との暗黙の計画が実行されるのです。それが、1582年6月2日の本能寺の変です。その仕掛けは、本能寺での前日の茶会です。
1587年豊臣秀吉は、薩摩の島津氏を屈服させると、今まで豊臣軍をバックアップしていたキリシタン大名を冷遇し、改宗を迫り、キリスト教の禁止令を発令するのです。それは、イエズス会を経済的に援助していたイスパニアが、イングランドの海外進出のため、海外交易権を奪われ、1588年にはイスパニア無敵艦隊は、イングランド海軍に壊滅されてしまうのです。イエズス会の軍事力は徐々に、イングランドに侵食されていくわけです。
本能寺の変後、明智光秀から直々に援助の要請を受けたが、その申し出を即座に断った高山右近ジュストも、キリシタン迫害の対象者だったのです。その高山右近ジュストの茶道の師匠が、千利休だったのです。
このキリシタン弾圧の豊臣秀吉の変心は、どうして起こったのでしょうか。その原因のひとつとして、1585年に羽柴秀吉が、元関白の「近衛前久の楢子」となったことが考えられます。つまり、羽柴秀吉は、無用者織田信長を謀略により無残に葬る(爆殺)イエズス会の本心を知り、古から天皇を裏でコントロールしている藤原氏側に寝返っていたのです。
何故、出自不明の羽柴秀吉が、名門中の名門藤原氏の流れに入れたのかは、イエズス会と近衛前久や天皇家が関与した織田信長暗殺の弱みを握っていたからでしょう。織田信長に仕えた千利休は、豊臣秀吉にも、茶頭(情報参謀)として仕えていたのです。
1591年2月28日、茶道を開発したと言われる茶人が、豊臣秀吉直々に切腹を命じらるのです。その茶人とは、堺の千利休です。巷では、大徳寺山門の楼上に自身の木造を置いたとか、茶器の売買で暴利を貪ったとか言われていますが、果たして、その史実はどうだったのでしょうか。
1568年上洛した織田信長が、密貿易都市堺に矢銭(軍資金)を課すと、堺の街は二つに分かれるのです。ひとつが抗戦派で、もうひとつが和平派です。その時暗躍したのが、和平派の堺の武器商人の津田宗及と今井宗久です。しかし、その二人は、キリシタンとも内通していたのです。そして、その二人は、茶同朋衆でもあったわけです。その伝で、茶道界を仕切る千利休は、織田信長と知り合うのです。その頃の織田信長は、名器収集に没頭していたのです。そこで、堺の茶道の指導者千利休は、織田信長の茶頭として仕えることになるのです。
織田信長は、三十八の名物茶器を収集していたが、絶品中の絶品と言われる「楢柴」だけが入手していなかったのです。その名器は、博多の武器商人鳥居宗室が所有していたのです。
ここに織田信長暗殺のための仕掛けが完成するのです。茶器は、両手に納まるほどの大きさですが、一国よりも高価であると信じられていた名器は、輸送のため厳重に梱包されたため、大人ひとりが入れる程の梱包物となってしまうのです。
1582年6月に京都に来ていた鳥居宗室は、6月2日には京都を発つ予定だったのです。このことを、千利休は織田信長に伝えたのです。
そこで、織田信長は、6月1日に本能寺で、鳥居宗室に名器「楢柴」の譲渡を要求するため、公家も交えて堺の武器商人達(火薬の原料硝石は、イエズス会との密貿易では最大の交易品)との四十人ほどの茶会開催を企画するわけです。その茶会の前日には、多くの茶道具荷物が本能寺に搬入されていたわけです。
織田信長が、どのような死を迎えたかは知る術はありません。それは、豊臣秀吉の史料焚書と厳しい緘口令、そして公家の日記改竄により、史実が隠されてしまったからです。
分かっていることは、1582年6月2日未明、本能寺は一瞬にして大きな炎に包まれ、、一瞬のうちに全焼してしまったのです。そして、その焼け跡には、織田信長の遺骨の欠片も見つからなかったのです。
逆賊軍と宣伝される、一万三千の明智光秀軍が、本能寺に到着した夜明け前頃には、既に本能寺は焼け落ちていたのです。

神輿の黙示録(11)(日本国統一と新賎民の発生:デウスとブッダは一卵性双生児か)


日本国の歴史教育で疑問があるのです。それは、何ゆえに歴史を、「日本史」と「世界史」とに分けて教育しているのか、と言うことです。その日本史にしても、ヤマトに古から天皇が統治するヤマト民族が居住していた、というイメージで歴史物語を綴っているのです。
世界史の視点から日本史を眺めてみれば、歴史教科書のように、紀元前七世紀から万世一系で純粋培養された天皇に統治されたヤマト単一民族が、今日まで存続していたことは不可能であることが理解できるのです。だから、明治時代に藤原氏末裔の智慧者が、渡来異民族達(秦氏・藤原氏・新羅系渡来部族・百済系渡来部族)が闘い続けてきた本当の日本列島史を庶民に知られては困るため、そして、奴隷状態の物言わぬ庶民のままにとどめる手段として、教科書歴史を世界史と日本史とに分けたのです。
日本列島は、古よりオリエント・中国大陸からの多くの渡来民族・部族が暮らしていたのです。その歴史の結果が、現在の「イジメ」に繋がっているわけです。「イジメ」は、そう簡単には撲滅できないでしょう。しかし、その「イジメ」の本当の歴史的意味を知ることにより、「イジメ」を回避、あるいは防止できるかもしれません。
「イジメ」の歴史的意味を、辞書で調べてみても、知ることはできないでしょう。それは、権威有る辞書は、体制側に都合よく解釈されるか、知られては困ることはウヤムヤに表現する傾向があるからです。ですから、「イジメ」の歴史的意味を調べるには、野史のトンデモ歴史本とか、言い伝えから推測する以外はないのです。その「説」の文献先はなんですか、との問いに答えることができないけれども、納得できる「言い伝え」は多くあるものです。
「イジメ」の歴史的意味は、「夷を絞める」ことで、つまり、夷(イ=エビス・異民族)を絞める(抹殺する)ことです。ですから、「イジメ」とは、ある地域から異民族を排除する手段として、「異民族を殺す」ことですから、小学校生徒でも「イジメ」られた子は、自殺して(排除されて)しまうのです。本来の「イジメ」の歴史的意味は、それほど深刻なものなのです。
小学校の教室で「イジメ」が起こっても、イジメを止めるはずの教師が、イジメ側になっていることも珍しくはありません。それは、日本国に六世紀に渡来した、体制側にイジメられている賎民を救済するはずの大乗仏教も、体制側の手先となって、異民族の賎民を「イジメ」てきた歴史があるからです。
1568年織田信長は、足利義昭を伴って上洛すると、被差別部族「余部」に対して「禁制」の文書を下します。これは、余部が織田信長の支配下に入ったので、これからは余部を「イジメ」てはならないという意味です。織田信長の仏教嫌いは、この余部に対しての処置でも理解できるでしょう。
織田信長の仏教組織に対する常識外れの行動を調べると、賎民は仏教を憎んでいたことが理解できるでしょう。織田信長は、応仁の乱により荒廃してしまった京都二条御所の修築を行うのです。その修築のための石材の多くは、石仏を破壊したものを、わざわざ使用しているのです。石仏は、仏教聖地を創り出す装置です。その石仏を破壊し、更に京都二条御所の修築材とすることは、仏教に対して二重の否定をしているわけです。
何故織田信長は、そのようなことをしたかの理由を推察すれば、それは、京都が日本列島における民族差別発祥の地であったからです。その民族差別の中心が京都二条御所だったのです。
794年百済の血を引く桓武天皇は、長岡京から平安京に遷都するのです。その地は、従来秦氏の支配地であったのです。そして、804年最澄を唐に送り、中国山東半島に亡命していた百済人を平安京に呼び入れるのです。そして、その亡命百済人を政治の中心に置き「公家」とし、穢れ都の奈良(実際は大仏鋳造による鉱毒汚染地)に封じ込めた藤原氏や新羅系貴族を排除するのです。そして、南都仏教も、穢れ仏教として奈良に封じ込めるのです。
平安京は、亡命百済人の都だったのです。そして、山城の機能がある延暦寺を、秦氏の支配地であった比叡山に建立するのです。805年最澄は、中国天台宗のお墨付きを戴き、天台宗日本支社を立ち上げるのですが、八ヶ月での唐留学では、仏教儀式を全て習得することができなかったので、806年帰朝の空海に、仏教儀式のノウハウを教えてもらうのです。
しかし、空海の仏教は、民族差別のカースト思想のヒンズー教・バラモン教の儀式を多く取り入れた密教(加持祈祷・護符・お守り・アラム語の呪文)だったので、日本仏教の基礎となった最澄の仏教は、「釈尊の説いた仏教=輪廻転生を否定。だから極楽浄土は存在しない。そのため前世も後世もない非人となり乞食をする。」とは全く異なった、民族差別仏教(血の穢れ・地獄思想を布教)となってしまったのです。
京や比叡山の地に、ミトラ神(魔多羅神)を祀り百済京都王権にまつろわない秦氏は、桓武天皇により、その支配地を追われ、山の民となるのです。その百済亡命人の山城である比叡山には、天台宗の仏と中国山東半島からの渡来人により持ち込まれた中国土着神・山王(シャンワン)が、日本神・日枝(イルギ→日吉)となり、藤原氏の南都仏教(教典仏教)と春日神(ユダヤ教に酷似した儀式)に対抗するわけです。
秦氏と行動を共にする騎馬・遊牧民族系の新羅系日本人は、その渡来元の新羅は528年までは仏教国ではなくギリシャ・ローマ文化を保持していたので(百済と高句麗人は中国王権と通訳無しに交渉できたが、漢語を知らない新羅人は通訳がなければ交渉できなかった。)、漢字を知らないため仏教にはなじめず秦氏の神(ミトラ神)を祀っていたのです。ですから、新羅花郎(ミトラ)軍団の末裔、源氏武士は、秦氏の神・八幡(やはた)を祀っていたのです。
奈良時代は、チュルク系蘇我王朝の血を引く部族(藤原氏により蝦夷と命名される。蝦夷とは、無ヒゲの漢民族ではなく、チュルク族のヒゲのあるエビスの意味。チュルク=トルコ。トルコ人は今でもヒゲを生やしている。)が、新羅系天武天皇をバックアップしていたので、貴族達は肉食し騎馬で移動していたのです。しかし、645年突然日本列島に現れた藤原氏の陰謀により、770年騎馬民族・天武天皇の血を引く女帝称徳天皇を最後として、百済亡命下級貴族の光仁天皇(桓武天皇の父)が擁立されるのです。
新羅系天武王朝では、女帝を多く輩出していたが、百済系桓武王朝では女帝は二人(109代明正天皇と117代後桜町天皇)を除いて、存在していないのです。騎馬系は女尊男卑ですが、農耕系は男尊女卑です。民族思想が、天皇継承にも現れているのです。だから、現在の百済系天皇家では、女帝が認められていないのです。
ここに貴族の食文化が激変するのです。それは、肉食から菜食です。この菜食する百済亡命貴族は、ヒンズー教化仏教(真言宗・天台宗では、ヒンズー教・バラモン教の神々を日本名に改竄して祀っている。)の「血の禁忌」思想を、肉食・騎馬民族と魚食・海洋民族(織田信長の先祖)「夷絞め・イジメ(抹殺)」に利用するのです。
では、平安時代からの仏教組織による騎馬・遊牧・海洋賎民イジメに対する反撃のための、戦国時代のキリシタン大名からの仏教イジメは、近畿地方だけだったのでしょうか。
戦国時代の仏教イジメは、歴史上には、長崎と大分にもあったのです。その二地区は、日本イエズス会管区内の、マカオ交易の要塞湊の下地区の長崎と交易中継地と教育施設がある豊後地区であったのです。織田信長が支配する都地区と連動するように、イエズス会が支配する二地区でも仏教イジメがおこなわれたことは、イエズス会の布教活動と仏教イジメが連動していたことが示唆されます。
キリシタン大名は、仏寺を破壊すると、その跡に南蛮寺を建立するのです。このことは、六世紀から七世紀にかけての飛鳥時代の出来事を連想させます。それは、日本列島のヤマトに侵攻して来た藤原氏により、「景教寺」は破壊され「仏寺」に、「道教の観」は破壊され「神社」に改ざんされたのです。(この藤原氏のトリックにより、日本列島の最古の宗教が神道であると刷り込まれてしまっているのです。神道は、景教、道教、仏教、ユダヤ教を基に発明されていたのです。神社の日本列島出現は、仏寺出現の後なのです。ですから、物部氏と蘇我氏の二度の崇仏戦争は作り話が濃厚です。史実は、仏教対景教・道教の闘争でしょう。)キリスト教も、四世紀のローマ帝国で、ミトラ神殿を破壊してキリスト教会をその上に建設しているのです。侵略宗教組織による前宗教組織の歴史隠蔽は繰り返されるのです。
そして、イエズス会は、仏教のブッダを「悪魔」と罵るのです。何故ブッダは、イエズス会にとって「悪魔」なのでしょうか。
悪魔とは、元は神の仲間であったのです。それが、神を裏切ったことにより、敵側の神(悪魔)となったのです。ですから、神と悪魔とは、同じ霊力を保持しているのです。
フロイスの日本史で、戦国時代の風俗習慣は「外人の目」で鋭く描写されています。しかし、「仏教を悪魔の教え」と記述しているのに、その根拠を明示してはいません。
イエズス会の教育では、宗教学は勿論、音楽、科学、哲学など現代に通じる知識を幅広く習得させていたのです。免罪符を販売したカソリックの堕落からの巻き返しを行うイエズス会は、他宗教の理論的弱点を突く教育にも力を入れていたのです。それが宗論闘争教育です。敵宗教を理論的に、徹底的に叩きのめすことにより、デウスの優位性を示して、キリスト教布教地区を拡大していくわけです。
そこで、フロイスは、織田信長に再三懇願した結果、延暦寺の高僧との宗論をおこなっていたのです。もし、その宗教論争でキリスト教の神・デウスが、仏教の仏・ブッダより勝っていたのなら、そのことを誇らしげに日本史に記述するはずです。それは、デウスの神が崇高であるということを、フロイス日本史で随所に記述しているからです。
しかし、延暦寺高僧との宗論結果は記述されていないのです。ただ、「仏教は悪魔の教え」であると、記述するのみです。延暦寺側も、同様に、その宗論結果を公表していません。延暦寺側が公表できなかったのは、1571年織田信長により、イエズス会が決め付ける欺瞞者の悪魔の館「延暦寺」は、全焼され、そして、全僧侶は斬首となっているのです。この事件は、「デウスとブッダ」の宗論と関係があるのでしょうか。
悪魔の霊力は、「聖なる炎」により抹殺されるのです。ですから、ヨーロッパでのキリスト教による魔女狩りの犠牲者は火炙りとなり、日本国でも正親町天皇より国師の位を受けた高僧も織田信長により火炙りにより抹殺されたのです。この織田信長の、日本歴史上稀な敵対する宗教者の火炙りも、イエズス会からの教えであったのでしょうか。
何故「デウス対ブッダ」の宗教論争の結果をフロイスが記述しないのかは、次のように推測されます。それは、デウスとブッダとは、あまりにも共通点があったから、ということです。共通点どころか、同じであったので、フロイスは、ブッダを敵側の神=悪魔と言ったと推測されます。
宗教の発生は、ひとの苦難を緩和する装置のひとつとして発明されたわけです。その宗教の中核を成す「神」には、二種類あるのです。ひとつが「自然神」で、もうひとつが「人工神」です。
自然神の神とは、太陽、月、星など自然に存在し、ひとびとの生活に大いに影響する存在であるわけです。自然神は、自然の下に暮す、遊牧狩猟民族、海洋漁労民族が、自然神に加護を求め、或いは怒りを静めるために「犠牲」を捧げて祀ります。
それに対して、人工神とは、ひとの智慧により発明された神で、主に人間を神格化して創られた神です。その目的は、ひとがコントロールできない自然の驚異に対して防御或いは回避するために発明されたもので、それらの脅威の「ケガレ・気が枯れる」を回避又は除去する儀式として、「御祓い」をおこないます。つまり、人工神は、自然の脅威を敵視するわけで、自然と戦い、克服して暮す農耕民族が芸能(生殖に関連する行為)を奉じて祀ります。
デウスもブッダも供に人工神です。人工神は、ひとが神格化されて「神」に成るわけです。そこで、ただの人間を神格化させるために、奇跡の物語が創作されるわけです。
キリスト教と仏教との教えの同一性を論証するには、更なる時間が必要ですが、その奇跡の物語の共通性を述べることは簡単です。そこで、デウスとブッダの共通事項を羅列してみましょう。
デウスもブッダもその家系は王族につながります。デウスの母マリアは、夢の中で白い鳩が体内に入り込むのを見て、デウスを懐妊するのです。それに対して、ブッダの母マーヤー妃は、白い象が天から降りてきて腹に入り、ブッダを懐妊するのです。ふたりの母は伴に、処女懐妊だったのです。
その話を聞いたマリアの婚約者ヨセフも、マーヤー妃の夫シュッドーダナ王も、その不思議な出来事を躊躇なく信じるのです。
やがて、マリアとヨセフは税を払うためよその町に旅をしている時、マリアは厩でデウスを生むのです。それに対して、夫シュッドーダナ王が税を払うため旅をしている時、マーヤー妃は羊飼いの家のかいば桶のなかでブッダを生むのです。
その誕生の時、マリアの産所が眩むばかりの光に包まれ、その星を見た東方の博士が祝福におとずれるのです。それに対して、ブッダの誕生の時、大いなる光があまねく世界を照らしたのです。
そして、幼児デウスは、空中浮遊ができたのです。それに対して、ブッダは、生まれてすぐに七歩あるいたのです。そして、宙に浮くこともできたのです。
神殿での話しで、信心深いシメオン老人は、幼児デウスを抱き、救い主に会ったので安らかに死ねると言うのです。それに対して、信心深い老人アタシは幻の中で、須弥山の神々が大喜びしているのを見るのです。何故神々が喜んでいるのかと、アタシが尋ねると、ブッタとなるものがこの世を幸福にするために生まれたからだと言うのです。
十二歳になったデウスは、神殿で迷子になってしまったと思った両親が見た光景は、そこで学者と議論をしていたのです。それに対して、姿が見えないブッダを探していた父親は、木の下に座り宗教的瞑想にふけるブッダを見つけるのです。その木陰は、夕暮れだと言うのに、真昼のように輝いていたのです。
そのようにデウスとブッダは、共通した奇跡の成長過程を経て聖者となるのです。そして、迷える民に教えを説くのです。デウスの教えでは、「殺すな、姦淫するな、誓いを立てるな、復讐するな」です。それに対して、ブッダの教えでは、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄言、不飲酒」です。
そして、人間から神に変身するための奇跡をおこすのです。デウスは、腹を空かせる弟子達に、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、十二籠のパンの屑を余させるのです。それに対して、ブッダは、物乞いの鉢の中のパンをもって、弟子五百人と僧院のすべての者の飢えを満たし、更にパンを余らせたのです。
更に奇跡は続くのです。マルコの福音書によれば、デウスは弟子達を船に乗せ、自分はひとりで祈りに行くのです。そして、強風のため漕ぎ悩んでいる弟子達の前に、デウスは水の上を歩いて現れたのです。それに対して、ブッダは、雨が降りしきる中、逍遥しながら瞑想しているのです。それを心配した弟子達は、豪雨になったので、ブッダが濁流に流されてしまうのではないかと心配し、小船で探していると、ブッダが水の上にまったく濡れずに歩いているのを発見するのです。
デウスとブッダの愛弟子アーナンダの話にも共通点があるのです。不可触賎民サマリアの女に、デウスは水を所望するのです。しかし、サマリアの女は、自身の身分の低さゆえ辞退するのです。それに対してブッダの弟子は、不可触賎民チャンダーラに水を所望するのです。チャンダーラは自身の身分の低さゆえ辞退するのです。アーナンダは言うのです。「妹よ、わたしはあなたのカーストや家柄について尋ねているのではありません。あなたがわたしに飲み水をわけてくださるかどうかを尋ねているのです。」
そして、貧しい寡婦の献金の話にも共通点があるのです。ひとりの貧しい寡婦が神殿の賽銭箱に二レプタを入れるのです。その行為に対してデウスは言うのです。「貧者のわずかな献金は、金持ちのもっと多くの献金よりも価値が高い。」、それに対して、貧しい寡婦が、ゴミ捨て場で拾った銅貨二枚を布施するのです。それを目撃した阿羅漢は、金持ちの布施には注意を払わなかったが、その貧しい寡婦の敬虔さを讃える歌を歌ったのです。
詳細に調べれば、デウスとブッダとの共通点は、更に見つけることができるでしょう。では、何ゆえに、そのようにデウスとブッダとに、偶然では済まされない共通点が多くあるのでしょうか。推論できることは、それは、ふたりの「神」が、共通の物語から創作されたからです。(キリスト教と大乗仏教との共通性は、教祖の奇跡物語のほかに、色々あります。キリスト教のマルタクロスの十字架は、大乗仏教ではマンジ・卍です。ともに太陽をシンボルとしてデザインしたものです。キリスト教のロザリオは、大乗仏教では数珠です。ともに呪文の唱えた数を確認するものです。キリスト教のホーリーネームは、大乗仏教の戒名です。ともに神・仏の僕となった者の名前です。)
比叡山延暦寺での、フロイスと高僧との宗論が目に見えるようです。お互いに「悪魔と罵りあい」激論を戦わした二人は、やがて長い沈黙に浸るのです。
1570年織田信長は、大阪の地を支配する浄土真宗本願寺に対して、矢銭と立ち退きを要求するのです。大阪の地は、戦国時代の日本国最大の国際港がある処です。イエズス会を支援する国際交易商人は、その大阪の地を奪取することを熱望していたのです。
当然浄土真宗本願寺は、その織田信長の要求を拒否するのです。それは、堺を支配する三好三人衆の存在があったからです。ここに、織田信長と三好三人衆との石山合戦の初戦の火蓋が切られるのです。しかし、この戦いは、この後十年も続くのです。
織田信長の仏教組織壊滅作戦は、1569年イエズス会宣教師フロイスと京で謁見後に行われたのは、イエズス会の指示があったからでしょう。
1570年石山合戦始る。
1571年比叡山延暦寺焼き討ち。
1573年伊勢長島の一向一揆を壊滅。
1577年紀伊雑賀一揆討つ。しかし、雑賀鉄砲隊に反撃される。
1580年石山合戦終わる。加賀一揆鎮圧。
織田信長は、それらの仏教軍団との戦いでは、何万と言う非戦闘員も乳幼児も焼き殺しているのです。その行為は、悪魔の手先を「聖なる炎」で浄化するためなのでしょうか。
イエズス会が軍事援助をするキリシタン大名と連携し、矢継ぎ早に仏教軍団やそれらを支援している傭兵軍団を壊滅し、1580年大阪の地は、織田信長の軍門に下ったのです。ここに、平安時代から寺社領を自営し、僧兵の軍事力により治外法権を確立し、時には天皇に逆らい、政治をほしいままにした仏教組織を支えてきた、日本の仏教軍団は全て壊滅したのです。そして、壮大な寺社領を失った大乗仏教組織は、この後、禅宗の葬儀儀式を導入することにより、葬式仏教となって、江戸幕府の三代徳川家光からの賎民支配の手先になっていくのです。
1582年東国の覇者武田勝頼が自害すると、イエズス会の都地区支配が完成するわけです。そこで、イエズス会の次の戦略(明国征服)を実行するにも、織田信長の存在が問題になってくるのです。1576年安土城を完成させると、織田信長は、デウスの神を祀るどころか、自分を神として祀るように周囲のものに要求していたのです。
京での馬揃え(軍事パレード)を見学した主賓イエズス会日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、日本国を商業(座・市・関所税)・金融(高利貸しの借上)・軍事力(僧兵)で支配する仏教軍団を壊滅したため、もはや織田信長の使命は終わったことを、イエズス会地下組織に知らせるのです。そして、1582年6月2日に本能寺での暗殺が成功したことを、安土城で知ったアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、高山右近ジュスト(織田信長の暗殺に関わった千利休は、高山右近ジュストの茶道の師匠です。織田信長の茶頭だった千利休は、暗殺後、羽柴秀吉の茶頭に抜擢されるのです。)に、ポルトガル語で密命を出すのです。その内容は、「明智光秀に味方するな、羽柴秀吉に味方せよ。」と言うことです。(このキリシタン大名高山右近ジュストの明智光秀に対する裏切りが原因となり、江戸時代に明智光秀の末裔春日局による、百済の血が流れる三代将軍徳川家光をして、キリシタンの秦氏・源氏末裔が賎民・穢多としてイジメられていくわけです。)
1582年織田信長の暗殺後、数日して、明智光秀軍と羽柴秀吉・高山右近ジュスト軍との戦いが山崎にておこなわれるのです。この山崎の弔い合戦は、正親町天皇から「刀」を享け賜っている明智光秀軍の官軍対賊軍羽柴秀吉(織田信長はこの時点で賊軍であった。)であったのが、旗色の悪い明智光秀軍を正親町天皇は見限って、羽柴秀吉に「刀」を授けることにより(官軍に変身)、その立場が逆になってしまったのです。つまり、初戦は官軍明智光秀対賊軍羽柴秀吉であったのが、途中で明智光秀軍は、主君織田信長を暗殺した極悪賊軍に貶められてしまったのです。
1582年山崎合戦の羽柴秀吉の勝利を確認したイエズス会日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、日本国征服完了の報告をローマ教会のグレゴリウス十三世にするために、日本国を旅立つのです。
しかし、インド管区を任されたアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、1581年(天正9年12月)豊後管区支配の大友宗麟(フランシスコ)、下区管区支配の大村純忠(バルトロメオ)に命じて派遣した、十三歳の伊藤マンショ他三名の少年使節団と伴にローマ教会には行けなかったのです。1585年日本国キリシタン使節四名は、アレシャンドロ・ヴァリニャーノをインドに残し、ローマ教会グレゴリウス十三世に謁見するのです。(アレシャンドロ・ヴァリニャーノの、デウスの誕生を祝う東方の三博士にちなむ、演出により東方よりの日本人キリシタン三名が謁見した。)1590年インドで待機していたアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、ローマ少年使節団を伴って再度来朝するのですが、その留守中の八年間で日本国の政治が激変していたのです。それは、1587年九州の拠点イエズス会二管区を支配していた大友宗麟と大村純忠とは共に死去していたからです。
その激変の原因は、1585年羽柴秀吉が、藤原氏の末裔近衛前久の猶子となり、名義上藤原氏となったからです。そして、出自不明の賎民であった日吉(イルギ)丸が、織田信長が熱望しても手に入れることができなかった「関白」になったからです。この羽柴秀吉の大昇進の謎は、天皇家・藤原氏と織田信長暗殺、明智光秀謀殺とが大いに関係があると言われています。
1587年豊臣秀吉は、九州を平定すると、今まで一緒に戦ってきたキリシタン大名を弾圧し、キリスト教宣教師を追放するのです。この豊臣秀吉のキリシタンから大乗仏教組織への乗り換えは、織田信長暗殺直後からおこなわれていたようです。それは、織田信長が、仏教勢力が支配する「座」を解体し、1577年に安土城下を「楽座」としたのに、織田信長暗殺直後には、大山崎の油座を復興させていたからです。
藤原氏に取り込まれた豊臣秀吉は、1590年最後の抵抗勢力小田原の北条氏を成敗し、全国統一を果たすと、同盟者であった徳川家康を関東に移封するのです。それは、徳川家康を軍事的に支持する秦氏末裔の忍者服部氏や源氏武士末裔の勢力を、藤原氏末裔が恐れたからです。潜在的脅威の徳川家康が移封されたそのころの関東は、荒川・利根川の支流が奔放に流れ葦が茂り、ひとも住ぬ大湿地帯であったのです。
豊臣秀吉は、そのようにイエズス会に軍事援助された織田信長軍を構成していた軍団組織を、謀略で次々と壊滅させ、それに反して、旧勢力である仏教組織復活に対しては多大な援助をするのです。大阪の地にあって織田信長に破壊された、藤原氏の流れにある日野家の親鸞が興した浄土真宗の石山本願寺を、1591年京都六条堀河に移建するのです。そして、織田信長により破壊された比叡山延暦寺再興にも手を貸すのです。
その豊臣秀吉の仏教勢力援助の企みは、織田信長の仏教イジメの怨念を利用して、仏教組織による日本イエズス会キリスト者を壊滅するための手段だったのです。つまり、藤原氏得意の戦術、「夷を以って、夷を制す」です。
1588年豊臣秀吉は、大仏建立の名目で武器の拠出令を発するのです。これが刀狩令と言われているものです。(実際は、金銅製ではなく、木造に漆金箔塗装仏像を制作。狩り集めた刀や武器は、明国侵略のために使用するため。)
そして、1591年豊臣秀吉は、701年藤原不比等による氏族の私有地を没収して中央集権を目指す大宝律令を模倣したような、全国戸口調査をおこなうのです。この流れは、中央集権確立を目指す豊臣政権の抵抗勢力壊滅のための戦術です。そして、反体制武力勢力を排除するために、士農工商の身分法を定めるのです。そして、豊臣秀吉による、怨念募る仏教組織を手先にして、織田信長軍残党、そしてキリシタン武士の残党狩りが行われていくのです。
織田信長がヨーロッパの築城思想を真似て造った天主閣のある安土城の築城から始まる城下町の開発が他国にも普及したことにより、従来の武家屋敷も町民家も無秩序に建てられていた街づくりが変化していくわけです。豊臣政権の街づくりにおいて、反体制武闘勢力壊滅のための戦術として、穢多村を発明するわけです。その市街地から隔離された穢多村に、刀狩で武装解除された反体制派勢力を押し込めて、庶民との分離をおこなうことにより、再び武装蜂起を行えないようにするわけです。
何故、村の鍛冶屋は、村外れに在るのでしょうか。それに、何故に「馬」に関する蔑称もしくは「負のことわざ」が多くあるのでしょうか。それは、戦国時代に反王権で活躍した部族が、産鉄民族末裔と騎馬民族末裔であったからです。その戦闘力に脅威を感じた藤原氏傀儡の豊臣秀吉は、その対策として、平安時代と鎌倉時代の騎馬民族抹殺の戦術を再びおこなうのです。
鉄の加工品を作るには二通りの方法があります。ひとつが鋳型で作る鋳造法で、もうひとつが鉄を叩いて加工する鍛造法です。鉄の鍛造法は、紀元前14世紀ヒッタイト(紀元前1900年〜紀元前1190年)→古代エジプト(紀元前2890年〜紀元前525年)→ギリシャ都市国家(紀元前3000年〜紀元前146年)→騎馬民族国スキタイ(紀元前900年?〜紀元前400年?)→チュルク系騎馬民族国匈奴(紀元前300年?〜紀元100年?)→金冠の女帝王国新羅(紀元356年〜紀元528年までギリシャ・ローマ文化保持国〜紀元935年まで仏教国)→四世紀の日本列島に、騎馬・遊牧民族と伴に渡来した技術です。(現在、東アジアで馬冑が出土しているのは新羅と紀伊の古墳だけ。)この鉄工具により、四世紀に出現した古墳の石棺が、エジプトの石棺と同じ寸法単位のキュビトで、造られたわけです。そして、エジプトの石切技術だけではなく、重い石を運ぶための運河掘削技術、重い石を組み上げる技術などが渡来していたのです。チュルク系騎馬民族末裔蘇我氏が支配する飛鳥時代の不思議な石物遺跡は、それらの技術で制作された装飾品と産業物資(鉄・水銀・朱砂・油)を生産するための石製道具です。
これらのハイテク技術を継承して豊臣政権にまつろわない秦氏末裔は、王権にとっては最大の潜在脅威です。現に、戦国時代の徳川家康を擁護する忍者部族服部氏は、秦氏末裔なのですから。
戦国時代の一揆の広がりは、騎馬民族末裔の「座ネットワーク」と「馬」による情報伝達によることが大きかったのです。ですから、豊臣政権にまつろわない騎馬民族末裔は、王権にとって、秦氏末裔と同じに潜在脅威だったのです。そこで、まつろわない秦氏末裔と騎馬民族末裔を、押し込めるために開発されたのが、水堀で囲んだ地の穢多村だったのです。
穢多とは、百済鎌倉時代に比叡山の大乗仏教により、インドの民族差別思想のカースト制度外の不可触賎民セダラを基に発明され、王権にまつろわない騎馬民族を貶めるために布教された言葉です。(賎民の先祖を持つ織田信長が、焼き討ちにより比叡山の全僧を「欺瞞者ども」と言って斬首したのは、延暦寺僧が穢多思想を発明し、法華経により仏罰者・民族差別思想を布教したからかもしれません。)
この戦国時代に発明された穢多村は、平安時代の京都百済王権に逆らう秦氏末裔や天武王朝末裔の捕虜収容所の、別所、湯浅、垣内などと同じに、血の禁忌の穢れ思想を布教する、京都百済王権を守護する大乗仏教により再び民族差別を受けるのです。
仏教者が、騎馬民族の生業の皮革作りを賎業の「皮剥ぎ」と蔑んでいますが、皮革作りは誰でもできるものではなく、大量の塩・油・水を必要とするハイテク技術を必要とするのです。
大量の塩・油を入手するには、塩を生産する海洋民族や油を生産する山岳農耕民族との交渉や交易が必要なのです。それに、古代・中世・近代まで「皮」は、武具や防具を作る材料として重要な軍需物資でもあったのです。鎌倉時代、山崎の油座組織は、灯油用としてだけではなく、武具生産のため製皮用油の大量需要を満たすため、全国から油を集め、そして製皮業者への油供給源としてでもあったのです。
豊臣政権は、穢多村を貶める演出のために、平安時代と同じように、法華経で宣伝する仏罰者ハンセン氏病者を穢多村に押し込めるのです。その一般の者が近づかない仏罰者のいる穢多村に、豊臣政権の過酷な残党狩りから逃れるキリスト者が助けを求めて多く集まるのです。
1587年の豊臣秀吉によるキリスト教宣教師の追放の知らせをインドで聞いた、ローマ少年使節を随行したアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、イエズス会巡察師としては日本国に入国できないので、インド副使の名目で、1590年再度渡来するのです。しかし、アレシャンドロ・ヴァリニャーノが出国した1582年当時の羽柴秀吉は、今では藤原氏に取り込まれ関白豊臣秀吉となって、キリシタンを迫害していたのです。
イエズス会の衰退は、母国ポルトガルとイスパニアが、新興海賊国家イングランド王国に海上制圧権を握られてしまったからです。1588年にはイスパニア無敵艦隊が、イングランド艦隊に負滅されてしまったのです。その原因は、航海術と砲術の差です。
戦国時代の石山合戦の雑賀海賊と毛利海軍連合軍とが、織田信長海軍に大敗をしたのも、1576年織田信長海軍が、ポルトガルから援助された大砲を船に装備したからです。雑賀・毛利の手投げ式火炎弾と艦船大砲とでは、海戦にもなりません。(歴史小説では、織田信長が鉄鋼船を建造したことになっているようですが、その史料がありません。史実は、戦艦砲を装備した軍艦でしょう。)
豊臣秀吉のキリシタン追放に武力で逆らうにも、イエズス会が今までのように軍事援助をできないため、武器弾薬が枯渇したキリシタン大名以下は、改宗するか逃亡するかの二者択一だったのです。
1582年山崎合戦で、羽柴秀吉の賊軍を援助したキリシタン大名高山右近ジュストも、関白豊臣秀吉に、改宗を迫られていたのです。しかし、高山右近ジュストは、大名の地位を捨て、キリスト者として生きていくのです。他のキリスト者が過酷な責めにより命を落としていくのに、高山右近ジュストは、山の民を相手に布教活動を続けるのです。
山の民の多くは、古に異教の王権により都から追放された、太陽・月・星を祀る秦氏や源氏か蘇我・天武王朝の元王族・貴族の末裔なのです。反王権の山の民に護られた高山右近ジュストには、関白豊臣秀吉でも手が出せなかったのです。(比叡山延暦寺を保護する百済系桓武天皇は、星祭を禁止するのです。新羅系天武天皇は北極星(太一)を祀っていた。それは、星を祀るのは、仏教徒ではないからです。現在でも警察隠語で「星」は犯人の意味です。)
豊臣秀吉が、1598年死去し、1600年徳川家康が天下を執っても、高山右近ジュストの山の民への布教活動は続くのです。
しかし、徳川家康が、実権を二代徳川秀忠に譲り、明智光秀配下の娘春日局(百済の血が流れる三代徳川家光の乳母。一説には徳川家光は、二代徳川秀忠の子ではなく、徳川家康が側室に生ませた子と言われている。)が、老齢の徳川家康に近づくと、1614年高山右近ジュストは、マニラに追放されてしまうのです。これは、山崎合戦で、高山右近ジュストがアレシャンドロ・ヴァリニャーノの密命で、明智光秀を裏切って、羽柴秀吉を援助した因果であったようです。
1582年京の都で織田信長による軍事パレードで歓迎されたイエズス会日本巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、デウスの神を敬わない織田信長を暗殺させ、そのイエズス会日本国軍大将に、明智光秀ではなく、羽柴秀吉を抜擢して、日本国征服完了報告をローマ教皇に報告して、イエズス会日本国軍を組織して明国征服を企てていたのが、羽柴秀吉の藤原氏への寝返りのため、失意のどん底状態で1590年にインド副使として再渡来し、関白豊臣秀吉に謁見したのです。
もはや、イングランド海軍に破れたイスパニアに軍事援助されていたイエズス会には、東洋世界支配の計画を遂行する軍事力も経済力もなかったのです。しかし、関白豊臣秀吉は、イエズス会の最終征服国の明国を侵略する東洋世界征服計画を続行するのです。
1589年豊臣秀吉は、明国征服のため、日本軍が朝鮮半島を通過するための布石として、朝鮮国(1392年〜1910年)に朝貢を促すのです。そして、1591年に豊臣秀吉は、フィリッピンに原田孫七郎を派遣して入貢を促すのです。
太閤検地、刀狩、士農工商の身分制度などにより、反体制派武装勢力を壊滅し、1590年最大のライバル徳川家康を関東の僻地へ移封し、中央政権を確立した豊臣秀吉は、1592年(文禄の役〜1596年)朝鮮半島に侵攻するのです。それは、明国征服のためです。
朝鮮国は、日本国と同じに、征服民族と被征服民族との二重国家です。豊臣秀吉軍の進撃を朝鮮被征服民族は、解放軍として向かい入れたため、初戦は破竹の勢いで朝鮮半島奥深くまで攻め込むのです。しかし、朝鮮海軍の奮闘により日本国からの補給路を断たれて、1596年和平を結び、豊臣秀吉軍は朝鮮半島を撤退するのです。この和平は実はウソで、明援軍の将校と豊臣秀吉軍の将校とが、互いに勝利したと国に報告したことにより締結されたのです。
このことは、豊臣秀吉に明国正使が謁見した時に発覚してしまったのです。それは、朝貢に来たのかと思った明国の正使が、実は明国への朝貢を促しに来たからです。このことに激怒した豊臣秀吉は、1597年(慶長の役〜1598年)再び朝鮮半島に侵攻するのです。この侵略戦争は、翌年1598年豊臣秀吉の死去で終わるのです。
豊臣秀吉が死去すると、磐石と思われた豊臣政権も揺らいでくるのです。それは、文禄の役と慶長の役により軍事力と経済力とが削がれてしまったからです。そこで、反体制勢力が再び台頭してくるのです。その頭が、関東の徳川家康です。
徳川家康は、歴史教科書で述べているような人物ではないようです。徳川家康には、戦国武将とは異なる逸話が多くあります。それらは、薬草・薬学・医療に詳しい。(薬草は神濃様の管理下にあるといわれ、その神濃様は反体制の役座の神様です。チュルク系騎馬民族蘇我氏は、六世紀の「ヤマト」で薬草を採取していた。遊牧民は、家畜の出産やケガの治療のため外科手術ができた。ヒンズー教化仏教の血の穢れ思想が支配する中世から近世までは、正当医療は加持祈祷です。外科医の仕事は賎業だった。)弓馬ができる。(農耕民族は、乗馬が苦手。ましてや、弓馬は子供の頃から訓練しないと出来ません。)鉄砲術が優れている。(戦国時代の武士階級は、砲術を軽蔑していた。)賎民と言われる忍者と直接話しをする。一向一揆に参加した武将を何の咎めもなしに再雇用している。戦国武将は、それらのことはしません。何故、徳川家康がそれらの逸話を持っているのかは、それは徳川家康が賎民出身であれば納得できます。
徳川家康が、賎民に対して寛大であるのは、都落ちして関東に入る時、穢多頭の弾佐衛門が鳥越まで出迎えにきていたのです。そして、徳川家康が天下を取ると、源氏発祥の地・大阪の地を追われ、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により穢多村に貶められた渡辺村を、役人村に引き上げているのです。(藤原氏は、古来より武闘派源氏系と謀略派百済系「日本書紀を新羅系を不利に、そして百済系有利に改竄。ヒンズー教化仏教・天台宗で血の禁忌・地獄思想を布教。法華経布教のため、仏教キャラクター聖徳太子を発明。中国土着神山王を日枝・日吉神に変身させる。」を交互に利用して、権力維持をしてきたのです。)
関東の僻地は、秦氏末裔の運河掘削技術、そして土木技術により、利根川・荒川の流れを変えることにより、関東平野は広大な農地として生まれ変わったのです。そして、江戸城は、神田堀の残土により十メートルの人工山の上に建造され、その堀の下には抜け道まで造られていたのです。(東京八重洲口のヤエスの語源の徳川家康の顧問ヤン・ヨーステンは、屋敷から地下道を通って江戸城に登城していたのです。)
そのように、賎民といわれる秦氏末裔や源氏末裔の援助の下に、徳川家康は、豊臣秀吉により関東に移封されてから十年間で軍事力を蓄えていくのです。そして、1600年自称平氏を名乗る豊臣軍団と自称源氏を名乗る徳川家康軍団とが、関が原で合戦を行うのです。

神輿の黙示録(12)(日光東照宮の謎:江戸時代とは第三百済王朝か)


「歴史とは何か?」と、問われれば、それは、「個人の経験の枠を超えた事象を集めて、物語を綴ったもの。」と言うことが出来るかもしれません。つまり、歴史は、誰が実験しても同じ結果が出る「化学・科学」とは異なり、個人の解釈により色々な結果を導く「文学」の範疇にあるのです。
そこで、歴史物語を綴るため、史料集めをおこなうわけです。しかし、そこで問題が起こるのです。それは、大多数の「公の史料」は、敗者側ではなく、勝者側のものであるからです。それは、「歴史は強力な武器」となるからです。政権を転覆させた王権が最初に行うことが、前政権の歴史を消すための「焚書」と「歴史改竄」です。ですから、歴史を敗者側から眺めようとしても、それが思うようにできないのです。
例えば、「ヤクザ」の歴史を調べようとしても、まともな史料が存在しないため、できないのです。それは、「ヤクザ」は、敗者側のひとであるからです。権威ある辞書でも、ヤクザの家業のサイコロ賭博からきたもので、「893」がその語源である、と掲載しているものもあるほどです。
ヤクザの家業の「賭博、高利貸し、売春」は、埋もれた歴史を丹念に調べれば、平安時代の仏教組織が貴族相手に盛んにしていたことであることがわかるのです。平安時代の賭博は、双六賭博、碁・将棋です。高利貸しは、「借上」と言われていました。売春は、比丘尼と言われる剃髪の女性が「聖婚」としておこなわれていました。これらのことは、治外法権の寺内でおこなわれていたのです。ですから、バクチでのチップ(手数料)は、「寺銭・テラセン」と今でも言われているのです。
ヤクザの発生は、源氏三代滅亡後の鎌倉時代に、北条政権により都を追われた賎民が生き残るために、怨霊封じ込め施設である神社内に集まり商売をしたことから始るようです。その同業者組織を、「座」というわけです。賎民商売のため、神社境内でおこなわれるバザール(屋台)で、勝者がイジメ(夷絞め)をするわけです。そこで、座を仕切る(商売を邪魔する者から護る)者が現れるのです。その役の者を、「役座」と言ったわけです。役座は、弱い立場の者を勝者側から護るひとであるわけですから、弱い立場のひとのこころとの距離を縮める役でもあるため、「任侠」とも言われたわけです。
鎌倉時代、王権に迎合する仏教組織は、まつろわぬ秦氏末裔と源氏末裔を賎民に貶め、更に仏教の血の禁忌思想により、インドの不可触賎民セダラを真似して、「穢れ多し」の「穢多」の蔑称を発明するわけです。その賎民穢多の頭が弾佐衛門と呼ばれるわけです。つまり、弾左衛門は、賎民の商売を仕切る「役座」の親分格であるわけです。
1590年藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉が、宿敵徳川家康を、人も住めぬ関東に移封するのです。その関東への移封の時、弾左衛門は、徳川家康を鳥越で出迎えるのです。
この弾左衛門と徳川家康との関係は、どのように説明できるのでしょうか。
賎民頭である弾左衛門支配地は、関八州を中心に西は中部、東は奥羽まであったのです。そして、江戸幕府関東直轄地と弾左衛門支配地とが重なるのはどうしてでしょうか。更に、徳川家康存命中は、弾左衛門は羽織袴帯刀で籠により江戸城に登城していたのです。そして、弾左衛門は、江戸幕府と異なる税徴収、裁判・刑罰、政治機構で関八州の支配地を経営していたのです。これは正に日本国の中に賎民独立国が、関東には存在していたのです。
そこで、徳川家康を調べれば、賎民独立国の成立過程と、そしてその独立国が崩壊し、どのようにして日本版カースト制度が江戸時代に完成したのかを知ることができるかもしれません。
徳川家康の賎民性を示すひとつの事例として、三代徳川家光の乳母春日局の「東照大権現祝詞」によれば、三歳の家光の病を徳川家康自身による薬草の調薬により回復させた、とあることです。薬草や外科手術などによる治療行為は、宗教者による加持祈祷全盛の時代では高貴なひとはおこなわなく、賎民でしか行わないことです。つまり、薬草に詳しいことは、高貴な生まれなどではなく、そのような環境に育ったことの証明となります。
では、徳川家康は、どこで育ったのでしょうか。教科書歴史では、三河と言うことになっているようです。しかし、それには疑問符がつくのです。
一般的には、ひとはあの世に旅立つと、その墓は生地に埋葬されるのが普通です。しかし、1616年徳川家康が、75歳で死去すると、最初の埋葬地が久能山であるのです。三河と久能山が近いからこれは理解できます。しかし、翌年栃木県の日光に改葬されているのです。これは理解できません。三河と日光との関連性がないからです。
このことは、ものの本の説明によれば、江戸の鬼門が日光だから、江戸を護るために、徳川家康の墓は、久能山から日光に改葬された、というのです。しかし、これも納得できません。だったら最初から日光に埋葬しなかったのは何故でしょうか。
この日光改葬には、何かの謎があるようです。
日光の地名は「二荒・にっこう」の音読みと言われています。日光輪王寺の前身は、782年勝道上人が四本竜寺を建立したのが始りのようです。寺の表の機能は、仏像を安置することです。しかし、裏の機能は、山城で砦の機能を持っているのです。修験道者の表の行動は仏教修行の山登りですが、裏の活動は鉱脈の開発です。山岳修験者が携帯する金剛杖は、固い岩を砕き鉱脈を探索する道具なのです。
では、日光の山々には何があったのかと言えば、男体山の山中には、大砂鉄層があったのです。その証拠に、古代から中禅寺湖の中宮祠付近では産鉄が行われていたのです。山岳修験者が、その先住産鉄民族末裔の地を略奪して、砦を建てたのが日光輪王寺の前身四本竜寺だったのです。
その日光近くの世良田部落は、産鉄民族末裔が住んでいたようです。一説には、徳川家康は、その世良田部落から、ひとさらいにより拉致されて、松平氏からの今川氏への人質として三河に銭五貫で売られてきた、と言われています。
日光輪王寺に奉納されている「家光公の御守袋」には、家光直筆の「二せこんけん、二せ将くん・二世権現、二世将軍」があるのです。これはいったい何を意味しているのでしょうか。家光は、二代ではなく、徳川三代将軍なのです。二代将軍は徳川秀忠です。そして、更に納得できないのは、徳川家康の東照宮の横には、二代将軍の秀忠ではなく、三代将軍家光の「大猷院・たいゆういん」があるのです。秀忠の墓は、江戸芝の増上寺(増上寺は浄土宗・日光東照宮は天台宗。徳川家の宗教組織が二派にわかれている。これはどのように説明されるのでしょうか。)に葬られているのです。
徳川三代の宗教の違い(浄土宗と天台宗)も不可思議ですが、この徳川三代の政治も不可思議です。
初代徳川家康は、関が原合戦の二年半後の1603年征夷大将軍に任ぜられたのですが、その二年後1605年二代徳川秀忠に征夷大将軍を譲ってしまうのです。しかし、その後も「大御所」として実権を握り続け、1615年大阪夏の陣と冬の陣で、豊臣家を滅亡させるわけです。
そして、1616年てんぷらの食べ過ぎで、75歳で没するのです。(一説には毒殺。)それに対して、1605年二代将軍の座に着いた徳川秀忠も、1623年には十九才の徳川家光に征夷大将軍を譲ってしまい、徳川家康に倣い「大御所」として駿府城に居を構えるのです。
しかし、二代目の「大御所」は、徳川家康と異なり、独自の政治ができなかったのです。それは、三代将軍徳川家光も、春日局をバックにして、秀忠の大御所政治に介入したからです。つまり、「大御所」(西の丸年寄)対徳川家光(本丸年寄)の確執です。(何故春日局は、「大御所」と対等の権力があったのでしょうか。)
そして、1632年二代将軍徳川秀忠が、五十四歳で死去すると、その秀忠の家臣団は、三代将軍徳川家光により排斥されるのです。つまり、徳川家康の従来からの家臣が、政治的に抹殺されるのです。これは正に、鎌倉源氏三代滅亡後に、百済系平氏末裔・北条氏による源氏軍団抹殺と同じです。
1632年三代将軍徳川家光は、公方として親政を始めるのです。そして、徳川家康から疎まれた外様系大名を招集し、老中・若年寄・奉行・大目付の制度を定め、諸士法度を制定し、1635年には、徳川家康による武家諸法度を改定し、大名に参勤交代を義務付けるのです。そして、1637年島原の乱を経て、1641年鎖国を完成させるのです。
この三代将軍徳川家光には、賎民を保護した徳川家康の血が流れていないようです。それは、徳川家光の三男五代将軍徳川綱吉は、天台宗の血の禁忌思想の流れにある「生類憐みの令」を発令して、騎馬系賎民の生活を破壊したからです。
何故三代将軍徳川家光が、徳川家の浄土宗ではなく、百済系桓武天皇が保護した天台宗であるのかは、家光の妹和子(東福門院)が後水尾天皇の中宮として入内して、皇女興子内親王(後の女帝明正天皇)を生んでいたからです。つまり、三代将軍徳川家光は、百済系女帝明正天皇の伯父であったのです。
初代日本国天皇・新羅系天武天皇は、北極星(太一)を祀る道教信仰であったものが、平安時代の百済系桓武天皇は、星祭を禁止して、最澄をして、中国から天台宗を導入していたのです。つまり、桓武天皇系は、天武天皇系の北極星(太一)ではなく、天台宗の仏を祀っていたのです。だから、三代将軍徳川家光は、百済系後水尾天皇の姻戚でもあるわけですから、騎馬系民族にも布教する浄土宗ではなく、反騎馬系の天台宗の仏を祀っていたのです。
では何故、浄土宗の徳川家康が、天台宗の日光輪王寺に祀られたのでしょうか。これには何かの謎があるようです。
1603年から1623年までの初代徳川家康から二代目徳川秀忠との政治と、1632年以降の三代目徳川家光との政治において、賎民に対する態度が全く異なっているのです。
1615年大阪夏の陣・冬の陣により、徳川家康は、藤原氏傀儡政権の豊臣家を滅ぼすと、武家諸法度と禁中並公家諸法度を制定し、抵抗武装勢力、朝廷と宗教集団を統制し始めるのです。それは、朝廷勢力は、奈良時代より宗教集団(奈良時代の藤原氏の興福寺・春日社。平安時代の百済系延暦寺・日枝・日吉神社)を利用して、仏教武装集団を背景に政治に介入してきたからです。
戦国時代に、織田信長により仏教軍団が壊滅される以前は、仏教組織はその軍事力と経済力と呪術力により、「さいころの目・加茂川の流れ・僧兵」には手が付けられないと言われるごとく、天皇家を上回る権勢を保持していたのです。
その織田信長に壊滅された仏教組織は、関白豊臣秀吉の援助により、再び勢力を増していたのです。特に、百済系天皇家と深い結びつきのある延暦寺復活には、自称源氏の徳川家康は警戒していたのです。そこで徳川家康が、1615年禁中公家諸法度を発令し、みだりに僧侶に対して朝廷が、紫衣と上人号を与えない方策を考え出したのです。
その方策に対して、朝廷と宗教組織が猛反対したのです。何故、その方策に朝廷と宗教組織が猛反対したかは、紫衣(紫衣は、道教思想の北極星・天皇の側近が着たものです。何故仏僧が、道教の衣を着るのでしょうか。儒教では、紫衣は下賎と決め付けている。)の朝廷からの授受は、宗教組織の権威付けを増すからです。その授受の見返りに対して、朝廷は莫大な献金を受けるわけです。つまり、紫衣の朝廷から僧侶への授受により、朝廷と宗教組織との利害関係が強く増していたのです。
紫衣の朝廷からの授受禁止の戦略は、朝廷と宗教組織との関係分断と、朝廷経済の圧迫を狙った、自称源氏棟梁の徳川家康の戦略だったのです。
大御所の徳川家康が存命中は、朝廷勢力は、この「勅許紫衣法度」に素直に従っていたのが、徳川家康が1616年没するとしばらくは情勢を窺がっていたのが、二代目秀忠大御所の時、後水尾天皇は財源確保のため、従来の慣例どおり、幕府に諮らずに十数人の僧侶に、宗派を問わず紫衣着用の勅許を与えてしまったのです。
1627年幕府(幕府内は、大御所・秀忠(西の丸年寄)対徳川三代家光(本丸年寄)と対立していた。)は、朝廷が幕府に事前に相談がなかったことを理由に、勅許紫衣法度違反とみなし、勅許状無効の宣言をするのです。この処置に対して朝廷は、徳川家康の時代とは異なり、強く抗議したのです。これが1629年の紫衣事件と言われるものです。この紫衣事件の決着の過程で、不思議な現象がおこるのです。
それは、後水尾天皇の怒りを静めるために、幕府より無位無官の中年女性「お福」が使わされるのです。お福とは、三代徳川家光の乳母のことです。この当時、無位無官では、どのような者でも天皇に拝謁できないのに、何故お福にはできたのでしょうか。そして、不思議なのは、お福は、後水尾天皇より、「春日局」の名称を受けるのです。この事件の背後には藤原氏が居たことが想像されます。それは、この「春日局」から、藤原氏の氏神を祀る「春日社」が連想されるからです。(山崎合戦で、イエズス会日本巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノの密命で、高山右近ジュストと徳川家康が、官軍明智光秀を裏切って、賊軍羽柴秀吉に加勢したことに対する復讐に燃える明智一族末裔「お福」は、天皇を裏でコントロールする藤原氏末裔近衛家により、徳川家に送り込まれた「駒」であった可能性があります。春日局が、「おんな」を使い将軍をコントロールする戦術は、正に藤原氏の戦術そのものだからです。)
結局、幕府(大御所側の西の丸年寄)は、その朝廷からの紫衣授受を無効として、1629年命令に従わなかった大徳寺の住職沢庵・前住職宗珀、妙心寺の単伝・東原を流罪としたのです。この処置に抗議したのか、後水尾天皇は、突然退位してしまうのです。そして、即位したのが、三代徳川家光の妹和子(東福門院)が生んだ皇女興子内親王が、1629年に第109代女帝明正天皇として即位するのです。
しかし、この事件処置の沢庵の流罪も、1632年二代将軍徳川秀忠の「大御所」が没すると、三代将軍徳川家光により許されるのです。そして、徳川家康の三河譜代から苦労してきた忠臣団(家康家臣団には、浄土宗のみならず、元一向宗・浄土真宗信者が多くいた。)は、三代将軍徳川家光により、遠方移封かお家断絶の憂き目に会ってしまうのです。(江戸時代半ばには、「三河譜代と犬のクソ」と蔑まされたのは何故か。)
そのような反家康(源氏)親百済(平氏)とも疑える三代将軍徳川家光により、日光東照宮が建立されるのです。(1617年二代徳川秀忠により改葬のために、日光輪王寺境内に建立された質素な寺は、後に三代徳川家光により、世良田村に移築されてしまうのです。)そして、江戸城は、1603年徳川家康により人工山に建設されていくわけです。そして、1636年徳川家光の時代に江戸城が完成するのですが、その城下町は、百済系桓武天皇による平安京に倣って、陰陽学の四神相応の原理(東に青龍の利根川、南に朱雀の江戸湾、西に白虎の東海道、北に玄武の日光連山)に基づき、天海の天台密教の加持祈祷による幕府護持の法力により造られたと言われているのです。
徳川家康の家臣団からも分かるように、徳川家康の出自は騎馬系色(源氏)が強く、その浄土信仰からも分かるように、反天台宗(反百済平氏)であるわけです。その徳川家康が、百済系天台宗の日光輪王寺に祀られることが、常識的にあるものなのでしょうか。その謎を解くヒントは、1624年に建立された日光東照宮陽明門にあるようです。それは、陽明門の真上に北極星(太一)があるからです。
北極星は、新羅系天武天皇が祀った神聖な星(天の皇)です。それが何故、反新羅の百済系天台宗の陽明門の真上にあるのでしょうか。
星(自然神)を祀る民族は、反仏教(仏教は人工神)です。ですから、奈良時代、藤原氏は反仏教民族を取り込むために、仏教の興福寺の他に、春日若宮なる神を発明したわけです。では、平安時代の百済系桓武天皇にとっては、反仏教に対抗する民族を取り込むための神は何かと言えば、それは日枝(イルギ→日吉・ヒヨシ)の神であるわけです。その神は、元々は中国山東半島から渡来した中国土着の神・山王(シャンワン)です。
この山王は、比叡山延暦寺により、山王一実神道の神に変身し、天台宗の教理「三諦即一」(空・仮・中の三諦は本来は一つと言う意味。ミトラ教の「三神一体」と同じか。キリスト教は、そのミトラ教の教義を導入し「三位一体」と言った。)を、「山」は縦棒三本横棒一本、「王」は、縦棒一本横棒三本で書かれていることから、「山王」の字で「三諦即一」を表わしたと方便(ウソ)を言うわけです。その山王→日枝→日吉を、比叡山延暦寺では、仏の垂迹神とするわけです。
北極星は、道教の最高神であるわけです。その道教の神を祀った天武系天皇達は、藤原氏と百済亡命貴族により謀殺されていたのです。謀殺された者は、その恨みを怨霊神となり祟ると信じられていたのが、奈良時代からの常識です。
平安時代に、仏教に敗れた道教から、陰陽道が発明されるわけですが、その陰陽師の仕事は、怨霊を鎮めることです。その怨霊の多くは天武天皇系の末裔だったのです。
チュルク系蘇我王朝の流れを引く新羅系天武天皇が、日本国初の天皇であるのを隠蔽するために、藤原不比等は、720年「日本書紀」を著すのです。しかし、平安時代になると、桓武天皇が、敵国新羅を貶め、母国百済を有利にするために、更に「日本書紀」を改竄したのです。
その改竄は、538年仏教が、百済からヤマトに渡来したとするために、生誕時のキリストと少年期のモーセをモデルにしたような「聖徳太子」を発明し、比叡山の僧侶達が、法華経のキャラクターとして「聖徳太子」を宣伝するわけです。そして、架空の人物「聖徳太子」を実在したようにするためのトリックとして、山背国を支配していた「景教徒」の秦河勝に、仏像安置のために広隆寺(実際は、蜂丘寺=景教寺)を建立させた、とする物語を創作するのです。
そのような新羅潰しの桓武天皇の「日本書紀」の改竄に対して、秦氏末裔の多人長が、奥付に712年を記した「古事記」を、812年に著すのです。
多人長は、日本国初の天皇は、神武天皇ではなく、天武天皇であることを後人に知らしめすために、「日本書紀」の神武紀にある神武天皇の橿原宮での即位前年の勅令「六合を兼ねて以って都を開き、八紘をひらいて宇と為す云々」を否定するために、「古事記」の序で太安万侶に、「天武天皇、乾符を握りて六合をすべ、天統を得て八荒を包みたまう」と述べさせているのです。(サイファー式の暗号術で、同じ言葉、同じ文章がある場合、それを否定せよ、と多人長が「古事記」で知らせたわけです。)
「六合」とは、全宇宙を表わす道教で使われる言葉です。「八紘」と「八荒」とは同義で、宇宙或いは世界全体を八角形として把握認識する道教的思想です。「八紘一宇」、「八紘為宇」とは、道教の最高神である天皇が、全世界を神聖な政治理念で治めることを意味しているのです。(八角は道教の聖数。天武天皇の墓は、八角五段で造られていた。)
その道教を抹殺し、歴史的隠蔽をした仏教は、藤原氏の興福寺、桓武天皇の延暦寺の支配下にあり、反仏教者(道教士・景教僧→山に逃れ修験者となる。)を、謀略により抹殺していたのが、奈良時代であり、平安時代であったのです。その抹殺された者達が、怨霊となって平安時代に漂っていたのです。
その怨霊神で有名なのが、903年藤原氏の謀略で抹殺された菅原道真です。その原因のひとつとして、藤原氏による中国大陸との交易のための遣唐使船を、菅原道真が廃止したからだと言われています。
平安時代の藤原氏は、無名の空海を一年で僧籍に入れて、空海を僧侶として遣唐使船に乗船させることができるほどの権勢があったのです。(百済系二代目桓武天皇は、空海が藤原氏により唐に送り込まれた者であることを知っていたので、存命中は空海を平安京に近づけなかったのです。空海が平安京へ登れたのは、百済四代目嵯峨天皇の時代です。)
遣唐使廃止を断行したため、藤原氏により太宰府に左遷され、失意のうちに亡くなった菅原道真は、雷神に化身し、平安京の貴族達に祟ったのです。(カミナリが轟くと、「クワバラ、クワバラ」と呪文を唱えたのは、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。呪文は、神秘的な響きがありますが、その意味は意外と単純です。空海の密教呪文もアラム語でキリスト教関係の言葉が多く使われているようです。)その祟りを鎮めるための施設が天神神社なのです。古の神社は、神を祀る処ではなく、怨霊を封じ込める施設だったのです。
では、徳川家康は、日光輪王寺で、神として祀られているのか、怨霊として封じ込められているのか、どちらなのでしょうか。
徳川家康の墓が日光に改葬されたことの謎は、次のようなことです。二代目秀忠は、徳川家康の霊を祀るために、質素な寺を建立するのです。それに対して、三代目家光は、その秀忠建立の寺を「世良田」(何故世良田か?)に移築し、その跡にピカピカの「宮」を建立したのです。
そのピカピカの「宮」には、不可思議なものが多くあるのです。
そのひとつとして、何故回廊の梁に「眠り猫」の彫刻があるのでしょうか。それも、徳川家康の墓への入り口にあるのです。その家康の墓は、217段もの階段の先にあるのは、お参りするには困難を生じます。
「宮」は神の宿る処で、陰陽道思想により運営されています。祈祷や占いをおこなう陰陽道は、その基本思想は道教ですから、占いに使う干支は、子、丑、寅、卯、辰、巳、馬、未、申、酉、戌、亥の十二の動物です。その中には、「猫」はいません。何故、道教、陰陽道に、「猫」がいないのでしょうか。
猫が歴史上に現れるのは、古代エジプトからです。古代エジプトでは、聖獣ライオンの代わりとして、或いは穀物をネズミから護るために、猫は大切にされていたのです。猫には、他の動物と異なる習性があります。そのひとつに、湿度に敏感であることです。この習性に目を付けた海洋交易民族フェニキアは、猫を乗船させて低気圧の予測のために利用するのです。このフェニキアの国際交易商人船により、猫は世界に運ばれていくわけです。(港町に猫が多くいるのはこのためです。)
紀元一世紀に突然ガンダーラで、多数の仏典を持った宗教が発明されるわけです。その教祖は、キリスト(=ヨシュア・デウス)とソックリな出自と奇跡物語をもったブッダと呼ばれる「仏」です。それが、大乗仏教です。大乗仏教のウリは、多数の仏典です。その商品の仏典を、ネズミから護るために猫が利用されるのです。猫は、大乗仏教と伴に、道教・儒教の中国大陸に渡来してきたのです。つまり、猫は、道教・儒教の敵宗教の大乗仏教側の動物であったのです。ですから、道教・儒教を信じる中国大陸の民は、猫を好ましく思わなかっただけではなく、妖怪猫として認識していくわけです。
その猫は、奈良時代に日本国に、仏典と伴に渡来するわけです。つまり、日本国では、猫は仏典を外敵から護る、道教・陰陽道の敵であり、仏教側の動物だったのです。その猫が、何故道教思想を基に創られた「宮」に彫刻されているのでしょうか。考えられることは二つです。ひとつは、徳川家康の墓をネズミから護るためです。もうひとつは、徳川家康の霊が祟った時、それを猫(仏教思想)で封じ込めるためです。
更に「宮」には不可思議な建物があるのです。それは神厩と呼ばれている「馬小屋」です。何故に「宮」に馬小屋があるのでしょうか。(東照宮以前に建立された神社には、「馬小屋」は存在していません。)そして、不思議なのが、他の建物と異なり、ピカピカではありません。そして、その壁を彩る彫刻の動物が「さる」なのです。多く彫刻された「さる」に、謎掛けするような「三さる」があるのです。そのさる達は、「見るな、聞くな、言うな。」、と表現しているように感じられます。
猿は、古より侵略王権より、山神の使者としてはばかられ、えびす、きむら、やまびと、の「忌み言葉」で呼ばれていたのです。しかし、その猿は、馬を守護する「神」として、騎馬民族末裔には崇められていたのです。
馬は、「魏志倭人伝」に「其の地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し」とあるように、三世紀の日本列島には、馬は生息していなかったのです。それが、四世紀に古墳が全国いっせいに出現し、その出土品には多くの馬具があったのです。これは、馬を伴った民族の渡来を示唆します。五世紀頃の紀州の古墳からは、新羅古墳から出土したような、馬の冑が発掘されています。これはギリシャ・ローマ文化保持国の新羅から、鎧騎馬武者の渡来が示唆されます。その「外来動物の馬」と「在来動物の猿」とが、侵略王権と異なり、何故に共存共栄だったのでしょうか。
猿が馬の守護神であることの歴史上の出現は、鎌倉時代のようです。それは、百済系天皇支配の平安時代を破壊した、騎馬民族末裔・新羅花郎軍団末裔の武家源氏の天下の時代です。(源氏三代が滅亡すると、百済系北条氏により、源氏軍団は壊滅し、まつろわぬ源氏武士は賎民に貶められた。)
古代の出来事が分からないのは、645年に蘇我王朝を滅ぼした藤原氏により、チュルク系騎馬民蘇我王朝の歴史資料が焚書・改竄されてしまったからです。しかし、書籍は焚書・改竄されても、言葉や風習は、焚書も改竄もできません。
猿が馬の守護神であることは、徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、ひとも住めぬ湿地帯の穢れ地(穢土→えど→江戸)に移封(態の良い追放又は左遷)された時、徳川家康の馬が病気となり、その馬を弾左衛門が伴ってきた「猿」で癒したことが、逸話としてあります。
弾左衛門と「猿」との関係は、猿廻し、猿曳き、猿飼、猿遣い、と呼ばれる「猿まわし」は、誰でもおこなうことができるものではなく、弾左衛門の配下の者ではなくてはならない限定職であったのです。弾左衛門の書上によれば、寛政十二年(1800年)でも、猿飼は、新町に十五軒、関八州他十二カ国の支配下では四十六軒あったのです。
徳川家康と猿飼との関係は、天保十四年(1843年)阿部正信の「駿国雑志」に、「天正十一年(1583年)ごろ、家康の召馬三頭が病に罹った。猿飼を呼び寄せ、祈祷をおこなったところ、馬三頭が平癒したので、その猿飼に駿府に土地を与えて住まわせた。」とあるのです。
猿飼は、穢多頭の弾左衛門の支配下の者です。その穢多の猿飼に、「土地を与え住まわせた。」、と言うことは、徳川家康と弾左衛門との関係が、「馬と猿」つまり、「騎馬民族末裔と先住民(秦氏)末裔」の関係を示唆します。つまり、猿は、馬を守護するとは、侵略王権との戦いで、秦氏が騎馬民族を軍事的に援助した、ということです。
弾左衛門とは個人の名前ではなく、族長の世襲名です。その族長の弾左衛門は、「弾左衛門由諸書」によれば、摂津国川辺郡火打村から東国にやってきた、ということです。弾左衛門が、歴史上に現れたのが、源頼朝が石橋山の合戦で敗れたとき、その危機を救ったのが縁で、源頼朝より「長吏」のお墨付きを貰ったことからのようです。
長吏とは、江戸時代末期には、穢多と同義語となってしまいましたが、飛鳥・奈良時代では、下級仕官ではあるが六百石以上の比較的俸禄・官位の高い役人の呼称だったのです。
その弾左衛門が祀る神は、白山神です。この白山信仰は、産鉄刀工集団の精神的支えでもあるのです。刀工の鍛造鉄器製造技術は、秦氏が日本列島に持ち込んだものです。秦氏は、弾左衛門の先祖です。つまり、弾左衛門の配下には、皮で武具を作る穢多と仏教組織に蔑まれた者の他に、産鉄刀工集団もいたのです。
六世紀から七世紀にかけて大乗仏教が、戦国時代のイエズス会のように国際交易商人と伴に中国大陸から日本列島に侵攻して、チュルク系騎馬民族の蘇我王朝を倒し、先住民が信仰していた「道教」や「景教」を歴史的に抹殺して、先住民を奴隷化し「猿」と蔑視してきたのです。
仏教組織は、「さる」の漢字「禺」を使い、偶(ひとかた)、寓(かりずまい)、愚(おろか)などの語により、「禺=猿=先住民」を人間より劣る者とするのです。(馬や猿の負の熟語や諺が多いのは、このためです。)
しかし、先住民に根付いた宗教行事は、新来仏教では短期間には抹殺できません。それは、宗教や信仰は、ひとの感性に直接働きかけるから、方便(ウソ)の仏教説話では簡単に払拭できないからです。そこで、仏教は、先住民の宗教を抹殺するのではなく、長い時間をかけて歴史的に改竄していくわけです。
例えば、お盆です。お盆は、今の日本国では、仏教専属の行事となっているようです。そして、仏教では、お盆のことを盂蘭盆(うらぼん)と正式には言っているようです。しかし、盂蘭盆がお盆だとすると、矛盾が生じてしまいます。それは、お盆が「極楽から先祖の霊を迎える日」であるならば、「盂蘭盆」は「お盆」にはならないからです。それは、盂蘭盆とは、語源がサンスクリットの「ウランバーナ」で、その意味は、「逆さにつるされた激しい苦しみ」だからです。盂蘭盆がお盆の正式な言葉ならば、極楽での苦しみを取り除く儀式が、お盆ということになってしまうのです。つまり、死者が向かう極楽浄土は、死者が逆さに吊るされる場所になってしまうからです。(仏教徒に逆さに吊るされたのは、実際は仏教にまつろわぬ異教の先住民達です。)
お盆のルーツは、日本列島の先住民が祀る「道教の祭事」からきているのです。申(さる)月十五日(7月15日)は、道教の祖霊を祀る日なのです。陰陽五行思想では、水の三合の生(せい・うまれた)、旺(おう・いきた)、墓(ぼ・しんだ)は、申(さる)、子(ね)、辰(たつ)の動物で表わされるのです。申は、陰陽五行思想では「うまれた」ですから、申の月は、道教の祖霊祭の日であったのです。仏教が、「道教の祖霊祭」を「お盆」に摩り替えたことは、正に、キリスト教が、太陽神・ミトラ神再生の誕生日12月25日を、イエス(ヨシュア)の誕生日クリスマスに摩り替えたことと同じことです。
「猿」の漢字が、「先住民」の隠語であるのならば、猿楽とは、先住民の芸能ということが言えます。猿楽は、百済系鎌倉政権を打倒した、源氏系足利氏の室町時代に、秦氏末裔賎民の世阿弥により、「能」として表の世界に現れるわけです。その世阿弥の能の奥義書「風姿花伝」には、能の歴史を次のように語っています。「申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮つて、この遊びのなかだちとせり。その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。」その申楽の効能を、「第四、神儀伝」で語ります。仏教僧が御説教をしているのに、外道は踊り叫びして聞きません。しかし、「外道、笛・鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見てしづまりぬ。」
外道とは何か、と言えば、それは、国家権力により反逆の罪を負わされて、無念の思いで死んでいった者たちの怨霊です。この場合の外道とは、国家権力により抹殺された秦氏と蘇我氏末裔の怨霊です。
その怨霊を鎮めるのが、申楽です。怨霊は、同族の者でなければ鎮められない、と信じられたのが奈良時代からの常識です。世阿弥は、その申楽の祖が、秦河勝というのです。その秦河勝の先祖が、どこの地を略奪され、誰に抹殺されたかを、風姿花伝の序にさりげなくヒントを述べているのです。それは、「かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり」、の文章です。河勝は景教徒です。ですから、景教徒は、敵神の春日・日吉の神職にはなりません。その文章の裏の意味は、「春日」とは、奈良時代に藤原氏により、「日吉」とは、平安時代に百済系亡命貴族末裔により、「秦氏が猿にされた」ことを述べているのです。(敗者の真実の歴史は、勝者の焚書の対象です。ですから、敗者は、勝者に気づかれないようにして、「敗者の真実の歴史を勝者の歴史書の中にさりげなく」残すのです。これは、パモス島のヨハネによる聖書の「ヨハネの黙示録・666」と、秦氏末裔多人長の「古事記の序」で使われたものと同じ手法です。)
「宮」には、更に不可思議なものがあるのです。それは、唐門です。何故、宮に唐門なのでしょうか。この唐門に、徳川家康と弾左衛門との関係の謎を解く、ヒントがあるようです。
唐門の「唐」とは、中国の唐国の意味でしょうか。唐には他の意味があるようです。戦国時代、徳川家康が戦闘時に着用していた鎧は、「唐鎧」と言われていたようです。では、家康の唐鎧は、唐国の中国製かと言うと、そうではなく、イエズス会から贈られたヨーロッパ製の鎧のようです。戦国時代では、唐とは、中国のことではなく、広く「外国」の意味があったようです。
そのように、唐門を外国の門という視点で眺めてみると、不思議なことが気がつきます。それは、唐門の壁を飾る子供達の無数の彫刻像です。
徳川家康の霊が、鬼門において「宮」に安置され、江戸の街を守護するというのならば、何故に、その門の壁を飾る無数の子供達が、日本人の子供ではなく、外国人(中国服を着ているように思える。)の子供達なのでしょうか。
そして、その唐門をくぐり(外国界へワープか。)、本殿のなかを観察すると、そこには夥しい仏像群が安置されているのです。それらの仏像群は、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天」に分けられます。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の仏像は、空海が密教の神として中国から持ち込んだもので、殆んどはバラモン教・ヒンズー教の神々であったのです。それらを、平安時代から、時の権力者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な日本名仏像として開発されてきたわけです。(これらは、インドの遊牧民族トラヴィダを不可触賎民に貶めた神々です。)
平安時代に発明された思想、本地垂迹説により、先住民の宗教である道教・景教の神々は、仏教との熾烈な戦いに敗れ、仏の化身と成り果て、仏寺に祀られてしまうわけですが、更に、空海により日本国に持ち込まれたバラモン教やヒンズー教の神々をブレンドされ、先住民の神々のルーツが完全に隠蔽されてしまうわけです。
更に、藤原不比等が仕掛けた「日本書紀」のトリックにより、日本人の多くは、日本国最初の神が「国常立尊」と刷り込まれてしまうわけです。それに対して秦氏末裔多人長は、「古事記」の創作神話で、日本国最初の神は、「天御中主神」(北極星=天武天皇)であると記述し、「日本書紀」の神話物語を否定するわけです。(神社の本殿に祀られている神々は、日本列島古来の神「カムイ」ではなく、七世紀以降に王権簒奪者により発明されたものです。日本列島本来の神「カムイ」、道教の神、景教の神は、神社の裏のジメジメした所にある朽ち果てた「小さな祠」に封印されているのです。)
この「仏」と「神」を同時に祀る、日光東照宮の謎解きは、一度や二度の考察の旅で解決できるようなものではないようです。その謎解きをしながら、陽明門を出て、振り仰ぐと、陽明門の天頂に「北極星」が輝いているのです。徳川家康の霊は、東照宮に祀られているのか、封じ込められているのか、その謎は未だに解けません。
しかし、徳川家康と世良田には、何かの関係があることだけは、二代目秀忠が日光輪王寺に、久能山から改葬のために建立した質素な寺が、三代目家光により、世良田に移築されたことにより明確です。
徳川家康とは、何者だったのでしようか。そして、徳川家康は、ひとも住めぬ湿地帯の関東を、弾左衛門の多大な援助の下に開拓し、関東でどのような国を作ろうとしていたのでしょうか。
歴史教科書では、戦国武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の活躍を記述しますが、徳川家康については、誤解されるような刷り込みをしているようです。それは、徳川家康が、キリシタンを弾圧し、島原の乱で女子供を虐殺し、そして三百年の鎖国を始めた、と誤解させていることです。しかし、それらのことは、徳川家康ではなく、徳川三代目家光がおこなったことです。
徳川家康は、他の戦国武将達と異なり、外国の学問や情報収集に熱心だったようです。朝鮮国の学者に朱子学を学び、そして、オランダ船リーフデ号で遭難したヤン・ヨーステン(日本名耶揚子・東京駅「八重洲」の語源)を顧問として迎え、江戸城近くに住まわせ、外国の情報を入手していたのです。
しかし、未だにその徳川家康の出自は謎です。林羅山(1583年〜1657年・儒学者)の「駿府政治録」の慶長17年(1612年)の記述に、「御雑談の内、借年御幼少のとき、又右衛門某と云う者あり。銭五貫にて御所を売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至るまで、駿府に御座の由、談られ給う。諸人伺候、衆皆これを聞く」、とあるのです。
この林羅山の、銭五貫で三河に売られてきたと言う、徳川家康の問わず語りについての、記述が正しければ、戦国時代の徳川家康(馬)と賎民達(猿)との関係が解明できるかもしれません。
教科書歴史は、徳川家康の出自から江戸時代初期までの事跡を正しく伝えていないようです。では、時の権力者は、江戸時代の歴史に一体何を隠しているのでしょうか。

神輿の黙示録(13)(江戸文化の謎:江戸時代は平和だったのか)


一般的に、江戸時代のイメージは、三代将軍徳川家光が鎖国(1633年渡航・来航の禁止令。1641年鎖国の完成。)をおこなった為、黒船来航(1853年米使ペリー浦賀来航)までの二百二十年間は、国内は平穏無事であったように思われているようです。しかし、この江戸時代に、騎馬遊牧民族差別の日本版カースト制度の「士農工商・穢多・非人」が完成しているのです。
日本列島は、縄文時代以前より、フォッサマグナの中央活断層により名古屋以北と以南とでは文化が異なっていたようです。樹木も、以北の落葉樹地帯と以南の照葉樹地帯とに分離できます。そのため先住民の生活様式も、東と西とでは異なっていたようです。この東国(あ・づま)と西国(さ・つま)とでは、民族差別の激しさも異なっているようです。
民族差別とは、自然現象ではなく、人工現象です。その人工現象の要因を調べると、不可思議なことが浮かんでくるのです。それは、「民族差別の要因」と「マスコミのタブー」とが一致するからです。
マスコミのタブーとは、天皇・宗教(大乗仏教)・役座の歴史を解明してはいけない、ということです。それは、このマスコミのタブーは、騎馬遊牧民族差別の発生と大いに関係しているからです。
東国では、西国ほど民族差別が激しくない理由は、天皇・宗教・役座の歴史的発生は、西国からのものだからです。つまり、騎馬遊牧民族差別は、西国から発生したのです。その三つの歴史を持たない、沖縄と北海道(北海道には北方民族差別思想は存在する。)には、日本版カースト思想(士農工商・穢多・非人)がないのは、その推測を裏づけます。天皇・宗教・役座との関係は、どのようにして民族差別と関係しているのでしょうか。
騎馬遊牧民族差別は、天皇・宗教・役座の歴史が解明できれば、自ずから解明できます。しかし、この解明は、江戸時代の国学者・本居宣長とその弟子平田篤胤の思想により、更に複雑になってしまったのです。それは、藤原不比等の「日本書紀」のトリックに、その国学者が引っかかってしまったからです。
本居宣長は、多人長の「古事記」の暗号を解くことができなかったため、「古事記」の神話を、日本列島古来の物語と勘違いしてしまい、四十四巻の「古事記伝」(1778年上巻完成・1792中巻完成・1798年古事記伝全巻完成)を著してしまったのです。そして、この「古事記伝」は、日本人への日本神話の「刷り込みの素材」となってしまったのです。
更に、仏教嫌いの平田篤胤は、「日本書紀」のトリックのひとつ、紀元二世紀の中国で発明された「神道」を、日本古来の宗教と間違って認識してしまったのです。このことにより、神社は仏寺より古くから存在していたと、日本人は誤認してしまったのです。(史実は逆で、仏寺の後に神社が発明された。)
日本の歴史上、「神道」が現れたのは、「日本書紀」からです。反藤原・百済の秦氏末裔多人長は、藤原不比等が発明したこの「日本神道=中臣神道」の「日本書紀」の記述を否定するため、「古事記」には「神道」の文字の記述はおこなってはいないのです。(魏志倭人伝によれば、三世紀の倭国では、卑弥呼が、「神道」ではなく「鬼道」で民を統治していたと記述しています。神道が日本古来の宗教であると主張するのならば、神道の元は鬼道になってしまいます。)
中国語の「神道」が、仏教伝来の後に日本神道として日本国に導入された証拠のひとつとして、「日本書紀」の考徳紀に「神ながらとは神道に随うなり」、用明紀に「天皇は仏法を信じ、神道をも尊ぶ」などがあるからです。これらの「神道」の用例では、「仏法」と対置していることからも、仏教伝来以前の、アニミズム・道教・景教などの呪術宗教的信仰、あるいは思想を総称する言葉としているからです。
仏教と神道により抹殺された、先住民の神々の子孫は、百済系三代将軍徳川家光の政治の下で、どのようにして暮らしていたのでしょうか。その解明のヒントは、賎民と言われる芸能民の歴史を調べることです。
名も知らぬ芸人の歌や踊りに、魂を揺さぶられた経験を持っているひとは多くいることでしょう。それは、「芸」の本来の意味は、ひとびとではなく、「神・かみ」を祀る(霊を楽しませる)ための技術だったからです。
七世紀、その神を祀っていたひと達の先祖は、ポルトガル国際交易商人の軍事力をバックに日本国の戦国時代に侵攻して来たイエズス会のように、大乗仏教を尖兵として日本列島に侵攻して来た部族に敗れ、そして、敗れた神と伴に奴隷とされてしまったことにより、神を祀る社からひとも住めぬ河原に追いやられ、そこで生活をしていたのです。ですから、七世紀から現在まで、芸能民は河原者と呼ばれているわけです。
河原者と蔑まされた芸能民は、元々は神を祀る技術者だったのです。侵略王権に、社を追われ、氏神を怨霊として神社に隠蔽されてしまったため、祭祀者として生活ができなくなってしまったのです。そのため、生活の糧を世間に求めたるめに、神の代わりとしてひとびとの魂を祀る(楽しませる)ことになったのです。しかし、芸能民の本来の活動は、お金を貰うために「芸」をするのではなく、その逆で、ひとびとの霊を楽しませる(祀る)返礼として、お金を喜捨されるわけです。
その芸能民の神とは、景教の太陽神(ミトラ・魔多羅)であり、道教の北極星(太一)であるわけです。これらの神々は、侵略宗教の仏教に敗れ、簒奪王朝により、歴史的に隠蔽されてしまったのです。
この前政権の神々の隠蔽をおこなったのが、藤原不比等であり、そのために創作されたのが「日本書紀」であるわけです。では、藤原不比等は、「日本書紀」で何を隠蔽しようとしたのでしょうか。
それは、チュルク系騎馬民族末裔の蘇我王朝とギリシャ・ローマ文化保持国の新羅系天武王朝の存在です。蘇我王朝を支える秦氏は、景教を信仰し、天武王朝は、道教を信仰していたのです。この二つの神を隠蔽するための宗教が、仏教であり、中臣神道であるわけです。
藤原不比等の戦術の巧妙さは、「日本書紀」創作の言いだしっぺを、抹殺対象の天武天皇としたことです。誰でも、主催者の著書に、主催者を否定する文章があるとは思わないからです。それどころか、天武天皇を良く表現した文章を疑う傾向があるからです。つまり、我田引水の逆心理を、藤原不比等は「日本書紀」創作に応用したわけです。
この藤原不比等の根本戦略と平安時代の桓武天皇による新羅抹殺、百済擁護の「日本書紀」改竄に対して、反藤原・百済の秦氏末裔多人長は、812年刊行の「古事記」の712年を奥付に記述した序文で、天武天皇の言葉として、「私が聞くところによると、諸家で承け伝え持っている帝紀(王の歴史)と旧辞(王室に関する物語)は、すでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。だから、これらを正して後世に伝えよう」と述べたと、記述するわけです。
この秦氏末裔多人長の暗号が解けなければ、藤原不比等のトリックを見抜けないだけではなく、国学者本居宣長や平田篤胤のように、藤原不比等の呪縛に陥ってしまうわけです。その結果、江戸時代の仏教嫌いの国学者は、芸能民は異民族だと主張してしまうわけです。(日本民族は、ヤマト単一民族などではなく、多国籍の異民族の集まりです。芸能民は、オリエント系の秦氏、チュルク系の蘇我氏、そして、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅渡来系の末裔ですから、キツネ顔の中国・朝鮮からの眉毛の薄いツングース系の公家と異なり、眉毛が濃く、目・鼻・唇が大きいタヌキ顔です。)
日本列島で、日本人が誕生したのは、四世紀のヤマト朝廷時代(四世紀にヤマト朝廷は歴史的に存在しない。)ではなく、天武王朝の七世紀後半です。それまでは、日本民族はもとよりヤマト民族も存在していません。では、日本国の前に、倭国が存在していたと主張しても、倭国(「わこく」、ではなく「いこく」)の支配領域は、近畿のヤマト地域ではなく、北九州、山陰と朝鮮半島南端であったわけです。(倭族は、海洋交易民族の呉・越の末裔。)
四世紀、仏教を尖兵とした古墳の築造技術を持つ部族は、その朝鮮半島南端と北九州を侵略した後、近畿のヤマトに侵攻して来たのです。(608年隋使裴世清が、北九州の秦王国で見た中国とソックリの生活様式を持った部族とは、それらの末裔でしょう。やがて、秦王国の多くの仏寺は、645年蘇我王朝を簒奪した藤原氏により、「景教の寺」や「道教の観」を破壊した跡の飛鳥ヤマトの地にゴッソリと移築されるわけです。それらが仏教史で云うところの「聖徳太子建立七寺」の実態です。)
ガンダーラの国際交易商人の尖兵として開発された大乗仏教(教祖の奇跡物語が、東に向かったのがブッダ物語となり、西に向かったのがヨシュア物語=キリスト物語です。ですから、ブッダとキリストの奇跡物語は同じなのです。)は、異教国に侵入しやすい「殺生禁止の教義」を持っているため、仏教僧は異教国の情報収集(スパイ)のために利用されるわけです。ですから、「日本書紀」で述べているように、日本列島への仏教伝来は552年(一説538年)などではなく、もっと時代を遡ることになるのです。では、教科書歴史で、何故に仏教伝来538年と教えているのかと言えば、それは、百済系桓武天皇が「日本書紀」改竄で百済聖明王の仏教伝来記事を挿入したことが、後の歴史学者が分からなかったからです。
日本書紀の552年百済聖明王の仏教伝来物語のウソは、日本書紀の聖明王の表文に「金光明最勝王経」の「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず。此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す」の一節があることです。その一節は、「金光明最勝王経」の如来寿量品の一節にソックリなのです。その「金光明最勝王経」は、703年に漢訳されたものです。
つまり、平安時代の誰かが、仏教伝来を552年(一説538年)にするために、意図的に703年以降に創作した物語が、歴史学者の誤認のため、552年百済より日本列島への仏教伝来の史実となってしまっているのです。
教科書歴史は、四世紀の近畿にヤマト朝廷が存在していた証拠として、巨大前方後円墳の存在を指摘します。しかし、見方を換えて考えれば、巨大建造物を造作したその近畿地方は、未開の地であったことが理解できるでしょう。過密都市空間には、巨大建造物を造作するための土地の確保が難しいからです。
何故、渡来人は近畿のヤマトを目指したのかは、その地で「朱砂」の国際交易地ツバキ市が縄文時代から三輪山の麓にあったからです。戦国時代のイエズス会を尖兵としたポルトガル国際交易商人は、毛利氏が支配する石見銀山奪取がその目的のひとつだったように、四世紀のヤマトには、高句麗、百済そして新羅の国際交易商人達が、それぞれのコロニーをヤマトに造り、朱砂の産地宇陀の支配を目指していたのです。
713年の藤原不比等の好字令の発令により、国際的な地域名は、二語の日本語化により、地域の国際的地名を隠蔽してしまいましたが、三輪山を挟んで、新羅のコロニー「磯城」と高句麗・百済のコロニー「葛城」とで対峙していたのが、四世紀のヤマトの現状です。そして、三輪山を支配していたのが、先住民ナガスネヒコやウカシなどの「オオクニヌシ・大国主」だったのです。
「日本書紀」のトリックは、四世紀のこのヤマトの先住民族と渡来部族との「朱砂」の産地宇陀の争奪戦を、神話の世界に置き換え、「出雲神話」として掲載していることです。この歴史改竄のトリック技術の元祖は、「旧約聖書」です。
イスラエル民族とユダヤ民族とは、別々の民族です。それは、祀る神が異なるからです。イスラエル民族は、太陽の化身牡牛偶像崇拝で多神教で太陽神アトンを祀ります。それに対して、ユダヤ民族は、一神教のヤーヴェを祀ります。このことは、聖書の「ヨハネの黙示録」の「666の謎」を解明することにより理解できるでしょう。古代エジプトで太陽神アトン(オリエントから迎えた王妃が太陽神ミトラを古代エジプトにもたらし、その太陽神ミトラが古代エジプトで太陽神アトンに変身した。)を祀る、イスラエル民族の祖ヨセフを、イスラエル王権を簒奪したレビ族(後のユダヤ民族の祖)は、その歴史を乗っ取るために開発したのが、「ヤコブの物語」なのです。そして、ヤコブの息子が、エジプトに売られたヨセフである物語を創作して、「旧約聖書」に挿入するわけです。この歴史改竄の挿入技術が、「日本書紀」にも応用されているのです。
四世紀のヤマトを支配していた「オオクニヌシ」の国譲りの物語を、神話の世界に挿入して、「ヤマトの歴史」を「出雲の歴史」に改竄してしまうのです。このことを、多人長は、「古事記」の神話でさりげなく指摘しているのです。それは出雲のスサノウの物語で、「スサノウは新羅経由で出雲に来た。」と記述していることです。ギリシャ・ローマ文化保持国新羅の建国は、356年なのです。それ以前には、新羅は存在していません。多人長は、新羅の前身「辰韓」と書くべきところ出雲スサノウの物語で「新羅」を登場させることにより、「日本書紀」の国譲り物語を否定し、新羅のコロニー「磯城」が存在したヤマトの歴史を示しているのです。
四世紀のヤマトの勢力圏は、交易の利害関係や中国大陸や朝鮮半島の政治情勢の影響で、西の「葛城」と東の「磯城」との対立に発展し、その流れが、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫→百済(海洋系)の系列となり、それに対抗して、磯城→山城→近江→越・若狭→出雲→新羅(騎馬系)の系列となっていたわけです。
四世紀のヤマトは、渡来異民族の覇権争いの時代だったのです。その敗れた先住民は、渡来民族により、山奥に追われ、或いは、自ら北の地を目指していくわけです。
四世紀までのヤマトは、湖や沼が多く存在する湿地帯だったことにより、渡来民族の侵攻を阻止していたのです。その地に、河の流れを変える掘削技術を持つオリエントからの秦氏が渡来して、湿地帯に運河を造り、その残土でエジプトのピラミッド築造技術を駆使して大きな人工山(前方後円墳)を造ることにより、天然の要塞が破壊され、先住民は、渡来民族にヤマトの地を明渡すわけです。これが、出雲の国譲り物語の実態です。
しかし、先住民の「カムイ→カミ」が宿る三輪山は征服できなかったようです。それは、人工神のための「寺」や「神社」を、三輪山に建立できなかったことで証明できるでしょう。
そして、渡来民族は、三輪山のツバキ市を目指して、交易・軍事道路を造るのです。その交易・軍事道路は、道幅十m超で、小石を敷き詰めていたのです。その道路は二系統で、ひとつは難波の湊から、もうひとつは近江の湊から三輪山の「朱砂」の交易地ツバキ市を目指していたのです。
占領拠点を目指し、石を敷き詰めた大幅な交易・軍事道路を構築する侵略技術は、ローマ帝国軍そのものです。軍神ミトラを崇拝するローマ軍の侵略技術を持った部族のヤマトへの渡来は、新羅の四世紀から六世紀の古墳からの出土品により証明できるでしょう。それらの出土品には、ギリシャ系の金の冠・ブレスレット・指輪、そしてローマン・グラスが多くあるからです。そのローマン・グラスは、天武王朝を継ぐ、藤原氏の支配から寝返った、聖武天皇の遺品として正倉院にも保存されているのです。
この湿地帯に運河を掘り、その残土で巨大人工山を造る技術が、千数百年後の戦国末期に徳川家康と秦氏末裔弾左衛門達により、関東穢地のエドで使われるのです。
エドの湿地帯は、太田道灌が敵軍千葉氏からの侵攻を防ぐ為に、湿地帯に点在する小山に砦を造っていたのです。太田道灌は、言わば室町時代のオオクニヌシであったのです。渡来民族の千葉氏が武蔵の国を侵略できなかったのは、そのエドの湿地帯の砦の存在だったのです。
では、徳川家康と弾左衛門達により、湿地帯に運河を張り巡らし、その残土で海抜十mの人工山を造り、その上に、江戸湾から船で人工運河の神田川により荷を運び入れることができる江戸城を建設し、湿地帯を住宅地に改造した江戸の街は、どのようにして発展していったのでしょうか。
この江戸初期の文化の史料集めは、困難を生じます。それは、江戸初期を記す公の史料はそれほど多くはないからです。三世紀の卑弥呼の史料や歴史本が多くあるのに、たかが三百年前の江戸初期の史料が無い、ということは不思議なことです。
江戸文化、などと言うと、徳川家康が開幕した初期(1603年)から存在していたと思うひとが多くいることでしょう。しかし、江戸の料理屋が登場するのは、なんと明和年間(1764年〜1772年)なのです。江戸庶民の好む蕎麦屋や鰻屋などの登場は、更に遅く文化・文政(1804年〜1830年)の頃なのです。この空白の江戸時代には何があったのでしょうか。
日本の教科書歴史に、四世紀のヤマトの歴史と徳川家康の江戸街造りの歴史とが抜け落ちているのは何故でしょう。
その二つの歴史が、日本史物語から抜け落ちている共通点は、騎馬遊牧民族の文化なのです。
四世紀の湿地帯の飛鳥ヤマトを、運河造りにより土壌改良し平地とし、難波や近江の湊への十m超の幹線道路が、石敷きで覆われているのは、ツバキ市から中国大陸への「朱砂」の重量物である交易品を効率的に運ぶための「馬車・牛車」による物流のためと、軍事異変に対しての軍隊の迅速な移動のためです。
その四世紀からのヤマトの国際交易で、高句麗・百済連合と新羅からの国際交易商人達の経済戦争を平定したのが、六世紀に突然飛鳥ヤマトに出現した騎馬民族チュルク系の蘇我氏であったのです。
その経済戦争が、「日本書紀」での物部氏と蘇我氏との崇仏戦争物語として、記述されている実態です。(何故二度の物部氏と蘇我氏との崇仏戦争物語において、二度とも仏像が難波の堀に投棄されたのかは、それは、難波の湊は、当時高句麗・百済からの国際交易湊だったからです。ちなみに、新羅からの交易湊は出雲・敦賀です。)
軍事部族の物部氏は、713年の好字令により二語の日本語化されてしまいましたが、その実態は、ツングース族と倭族との連合軍事部族です。その連合軍事部族は、四世紀に高句麗・百済からの国際交易商人と伴に飛鳥ヤマトに侵攻してきたのです。
ツングース族(中国東北からシベリア・サハリンまでを居住地とする半農半猟の部族。後に西方からの遊牧民の影響で騎馬の技術を習得。漢語では「東胡」「通古斯」で表記。ロシア語では、「エベンキ」と呼ばれた。ツングース語諸族として、粛慎・ミシハセ、穢、東胡、扶余、沃沮、高句麗、百済、悒婁・ユウロウ、勿吉・モッキツ、靺鞨・マツカツ、女真族など。)を主体とした高句麗の建国は紀元前一世紀と言われています。小国の高句麗は、東アジアの軍事情勢を巧みに利用して領土を中国東沿岸から朝鮮半島に拡大していくわけです。しかし、高句麗は、騎馬民族国スキタイの末裔匈奴が支配していたシルクロード諸国を支配下に置いた、隣国の後漢(25年〜220年)の軍事力の影響を強く受けていたのです。
紀元67年(一説には二世紀)、ガンダーラの国際交易商人と伴にシルクロードにより、後漢に大乗仏教が渡来するのです。後漢のシルクロード交易支配強化のため、ローマ帝国(=大秦)へ、97年甘英を派遣するのです。166年には、ローマ皇帝マルクス=アウレリウスの使者が後漢を訪れるのです。後漢の時代は東西の国際交易は盛んであったのです。しかし、220年後漢は滅び、群雄割拠の戦国時代になると、大乗仏教思想を異教国侵略のための武器として利用する者が現れるのです。三国時代の後、前秦(351年〜384年)は高句麗に仏教導入を強要することにより、372年高句麗は仏教国になるのです。
その高句麗の南下に隣接した、346年に馬韓を乗っ取り建国した扶余族の末裔百済も、東晋(317年〜420年)の強要により、384年仏教国になるのです。しかし、356年辰韓を乗っ取り建国したギリシャ・ローマ文化保持国の新羅は、528年まで仏教崇拝を拒否していたのです。
そのように、仏教国の高句麗・百済からのツングース軍事部族の末裔である物部氏が、「日本書紀」の仏教伝来物語で、何ゆえに「廃仏」で、それに対して、月や星の自然神を祀る騎馬民族チュルク系(漢語の音訳では、丁零、鉄勒、突厥と表記で「トルコ」の意味。)の騎馬民族末裔である蘇我氏が、何ゆえに人工神の「崇仏」なのでしょうか。ここからも「日本書紀」の仏教伝来物語のウソが証明されます。
そのように、日本国正史を伝えていると信じられている教科書歴史では、真実が解明できない歴史が、江戸時代の関東にもあるのです。
それは、弾左衛門が、灯心草の養育を関東一円の農家に、江戸末期まで無償でさせていたことです。何故、仏教徒に穢多と蔑まされていた弾左衛門に、徳川家康は灯心草の無償養育権を与えたのでしょうか。その謎解きのヒントは、運河にあるようです。
弾左衛門は、さいたま県越谷に領地を持っていたのです。そして、水戸では灯心草の無償養育権を徳川家康から受けていたのです。その共通点は、それらの地には、江戸までの運河が造られていたことです。越谷からの農作物や千葉からの味噌・醤油・塩は運河により江戸まで運ばれていたのです。
湿地帯を、運河や堰を造ることにより、農地や住宅地に改良することは、飛鳥時代や江戸時代だけではありません。平安時代の都がある京都の地は、元々は桂川と加茂川に挟まれた、人も住めぬ湿地帯であったのです。その湿地帯を、それらの川に堰を造ることにより川の流れを変えて、農地や住宅地としたのは、秦氏であったのです。その秦氏が祀る景教寺の蜂岡寺を、藤原氏や百済系桓武天皇が破壊して、その跡地から少し離れたところに建立したのが「広隆寺」なのです。
この秦氏支配地の山背国(山城国)の簒奪物語は、「日本書紀」では、聖徳太子と秦河勝の、仏像安置のための広隆寺の創建物語として創作されるわけです。
聖徳太子が、実在の人物ではなく、平安時代に比叡山の渡来僧侶により法華経布教のキャラクターとして創作された合成人物(厩生まれの「ヨシュア=キリスト」+敵将と戦う少年「ダビデ」+多くの他国語を理解し、諸外国との交易を広げる「蘇我馬子」)であることは、教科書歴史の「聖徳太子は推古天皇の摂政である。」、との記述により証明できます。
それは、天皇の業務を代行補佐する「摂政」の官職は、飛鳥時代には無く、平安時代に作られたものであるからです。(歴史上での摂政職は、858年藤原良房が最初。)
593年聖徳太子が推古天皇の摂政になったはずはないことを示すために、多人長が「古事記」の最後を推古天皇の記述で終わらせているのです。更に、「古事記」には聖徳太子関連の記述はないことからでも、聖徳太子は飛鳥時代の実在の人物ではなかったことが理解できるでしょう。
つまり、812年に刊行した「古事記」ですから、序文にある天武天皇の歴史を記述することは可能であるのに、何故下巻を推古天皇で終わったかの理由は、神武天皇から推古天皇までの「日本書紀」の歴史を否定せよ、という暗号だったのです。
では、蘇我王朝の飛鳥時代とは、どのような時代だったのでしょうか。その謎解きのヒントは、戦国時代末期の街道造りにあるようです。
騎馬民族色の強い徳川家康は、1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、ひとも住めぬ関東の湿地帯に左遷されると、配下の土木技術部族に命じて、エドから小田原までの騎馬軍団移動のための幹線道路を造らせるのです。そして、1600年(慶長5年)関が原の戦いで、藤原氏傀儡軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。これは表向きは京への物流のためですが、実際は関東の騎馬軍団が、迅速に京へ移動するための軍事道路です。
一般的には、エドの日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道は、徳川家康の時代に開発されたと思われているようですが、実際は百済系四代将軍徳川家綱の時代に造られたのです。その開発時、日本橋近くにあった吉原は、浅草裏へ移転させられ、それに伴い、弾左衛門の広大な屋敷も、遊郭吉原近くの湿地帯へ移転されられてしまうわけです。
多くの戦国大名と異なり、徳川家康は弓馬が得意だったのです。騎馬軍団が迅速に移動するためには、幅広の石を敷き詰めた軍事道路の敷設は絶対に必要なのです。徳川家康軍団の強さは、この軍事道路建設技術にあったのです。
昭和の高度経済時代に突入すると、政府は物流のための幹線道路として高速道路建設にかかるのです。それらは、在来の江戸時代に開発された五街道を避けて山側に建設されていくわけです。その在来道路から離れた山奥の高速道路建設中に、偶然古代の高速道路を発掘するのです。何故、山肌を直線的に、それも十m超、中には三十m幅もある古道が発掘されたのでしょうか。そして不思議なのは、その幅広の古代直線道路は、現在の高速道路と重なり合うのです。更に、インターチェンジ建設予定地の多くには、古代の駅舎跡が発掘されたのです。正に高速道路建設は、「日本書紀」の黙示録(隠していた覆いを取り除くの意味。)であったのです。
古代の道のイメージとして、けもの道からの派生で、狭く曲がりくねった道を思い浮かべることでしょう。「日本書紀」にも、神武東征軍が河内からヤマトへ侵略する物語として、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくて、人並み行くを得ず。」とあるように、四世紀のヤマトの路は、細く曲がりくねっていたと記述しています。そして、「日本書紀」の613年(推古21年)の記述に、「難波より京(飛鳥ヤマト)に至る大道を置く。」との記述があるのです。「日本書紀」によれば、推古天皇の時代に「大道」が造られたとの記述です。646年孝徳天皇の「改新の詔」には、地方に国司と郡司を置き、「駅路」が整備されたと記述しているのです。そして、畿内を起点として、江戸時代の五街道のように、山陽道、東海道、東山道、山陰道、北陸道、西海道、南海道の「七道駅路」が建設されているのです。「日本書紀」は、それらの「路」の歴史記述で、何を隠そうとしていたのでしょうか。
高速道路建設に伴う古代の道発掘で分かったことは、古代高速道路の建設思想は、起点から目的地までは、障害物は無視して直線であれ、ということです。そのように古代高速道路は、目的地目指して、谷は埋め、峠付近は切り通しにされていたのです。この幅広の石を敷き詰めた幹線道路建設技術は、ローマ帝国のそれと共通のようです。
ローマ帝国軍は、征服地を目指し、直線の幅広の石を敷き詰めた軍事道路を建設し、土地の環境を高度土木技術で改善し、上水道を建設し都市を造り、その都市を拠点として、更に侵略を続けるわけです。
飛鳥ヤマトの地にも、不思議な土管が発掘されるのです。それも相当長く繋がれていたのです。それは後で分かったことですが、古代の上水道だったのです。
古代の高速道路の不思議は、奈良時代、つまり藤原氏の陰謀を避けながら、天武王朝が辛うじて続いていた時代の道路幅は、十m超であったのが、藤原氏の陰謀により、百済系光仁天皇の息子桓武天皇が、都を京に移す平安時代には、道幅は6mに狭められ、交通手段は馬から牛に換えられているのです。そして、貴族は牛車で移動し、馬は下賎な乗り物として貶められていくのです。ここからも、天武天皇系と桓武天皇系の民族性の違いが証明できます。
では、蘇我王朝から天武王朝までの古代高速道路を建設した部族は誰なのでしょうか。ヤマト民族が答えとならないことは、「古事記」の暗号を理解したひとには分かるでしょう。
四世紀から日本列島に、巨大墳墓建造物、運河の開発、山奥の巨石建造物、そして、少し遅れて飛鳥ヤマトの噴水のある庭園、意味不明の石造物、上水道建設などなど、縄文・弥生文化技術では解明できない高度技術を駆使する部族が渡来していたのです。
その高度技術保持部族のひとつとして考えられるのが秦氏です。しかし、814年に百済系貴族達により創作された「新撰姓氏録」により、秦氏のイメージは歪められてしまったのです。
桓武系天皇とその側近の公家達は、朝鮮半島百済からの出自を隠すためと、新羅系天皇末裔とその側近を貶めるために創作したのが、「新撰姓氏録」なのです。「新撰姓氏録」により、日本人を三種に分けるのです。それらは、皇・神・蕃の序列です。
皇族とは、663年唐・新羅軍により滅ぼされた百済からの亡命貴族のことです。
神族とは、ユダヤ色の強い中臣神道を発明した藤原氏一族のことです。
蕃族とは、794年桓武天皇の実弟早良皇子を無実の罪で謀殺したため、その怨霊から逃れるため長岡京から平安京に遷都し、792年藤原氏の影響下にある軍団を解散し、百済系桓武天皇配下の健児兵を組織するために、804年に入唐した最澄の手配により、近江・京に渡来した、百済滅亡時に中国山東半島に亡命していた元百済の民達のことです。
この中国山東半島からの元百済人の武装勢力が、825年桓武平氏となるわけです。桓武平氏と平清盛の平家とは別です。平家とは、朱砂・水銀の国際貿易のために伊勢湾に渡来したアラブ・ペルシャ系武装部族末裔です。ですから、平安末期の源平合戦では、ペルシャ平家に武力で対抗できない、馬に乗れないツングース系部族の末裔である桓武平氏末裔の北条氏は、東国のギリシャ・ローマ文化保持国新羅の花郎軍団の末裔・騎馬民族拓跋部源氏末裔の鎌倉源氏騎馬軍団の武闘力を利用するわけです。実際の源平合戦とは、「ペルシャ平家」対「新羅系騎馬源氏+百済系桓武平氏」の戦いだったのです。
不思議なことに、平安初期の日本人の出自を記録した「新撰姓氏録」には、新羅から渡来した民族についての記述はほとんどないのです。
それによると、秦氏は蕃族で、弓月君を祖とする秦の始皇帝の末裔で、五世紀に加羅から新羅の圧制を逃れて渡来した、とあるのです。そして、機織が得意なので、「ハタ」を姓としたと説明しているのです。秦氏は、機織技術者部族なので「ハタ」氏なのでしょうか。
秦氏一族の不思議は、平安時代に惟宗氏、鎌倉時代に島津氏に変身していることです。その秦氏の氏名を隠す変名行動は、室町時代の能楽者世阿弥の、「猿楽の祖は、秦河勝である。」との「風姿花伝」での記述と関連しているようです。
猿楽は、江戸時代の百済系三代将軍家光により、穢多頭弾左衛門支配から抜け出すまでは、穢多配下の賎民の芸能であったのです。その賎民とは、藤原氏が支配する興福寺の仏教に敗れた、景教や道教を祀る民族の末裔であったわけです。その能楽の祖の秦河勝が、聖徳太子の命により、仏教寺の「広隆寺」など建立するはずはありません。そのような秦氏を、「新撰姓氏録」に掲載する意図は何でしょうか。
それは、秦氏の出自を詳しく調べさせない戦術のようです。平安時代の公式書籍である「新撰姓氏録」に、秦氏の出自を掲載してしまえば、後人は、その情報を刷り込まれることにより、それ以上調べることを止める傾向があるからです。その良い例が、平安時代に発明され、比叡山延暦寺開山の最澄が法華経布教のためのキャラクターとして宣伝した「聖徳太子」です。教科書歴史で、聖徳太子の歴史を刷り込まれてしまったひとは、聖徳太子は実在の人物であると信じ込んでしまい、聖徳太子の実在性を否定する客観的な情報を提示しても、その客観的な情報の方を疑う傾向があるからです。
では、秦氏の実像はどうでしょうか。秦氏の出自は、遺跡として残された高度な土木建築技術から推測できるようです。
四世紀の巨大相似形古墳築造の技術は、エジプトやオリエントを示唆します。全国的に出現した前方後円墳は、その大小の差はありますが、相似形をしています。では、どのようにして相似形の前方後円墳を全国的に築造したのでしょうか。
その方法のひとつとして考えられるのが、古代エジプトのピラミッド築造の設計技術です。古代エジプトのピラミッド群も、日本列島の前方後円墳と同じに、大小の差はありますが相似形です。その設計方法は、等間隔に結び目をつけた大きな円を紐で作り、それを正方形に張り、結び目と結び目とを線でつなげて地面に方眼を描くことから始るのです。そして、結び目の数は同じにして、結び目の間隔を任意にとれば、地面に相似形の方眼を描くことができます。その地面の方眼を基に丸や四角を描けば、相似形の前方後円墳の設計図が地面に描けるわけです。
そして、オリエントの日干し煉瓦の製法を駆使すれば、長期間の風雨に耐える人工山が完成するわけです。横穴式石棺のための巨大石材を九州から近畿まで運ぶ技術は、北アフリカから古代エジプトへの運河建設技術や修羅とコロを利用する巨石運搬技術が応用できます。
飛鳥時代の噴水のある庭園、不思議な石造や直線の幅十m超の道路建設や上水道建設技術は、中東の砂漠国やローマ帝国からの技術者の渡来を示唆します。水の豊かな日本列島に噴水は似合いません。噴水は、水の乏しい砂漠からの賓客をもてなすための装置だったのです。そして、幅十m超の道路は、貴族が牛車で移動するためではなく、騎馬軍団や商業馬車が疾走するためです。「日本書紀」で消し去った飛鳥時代は、エジプト、ローマ、ペルシャ文化が花咲く国際都市国家だったのです。
そのような秦氏の高度な建築・土木技術は、「新撰姓氏録」で述べているような西域諸国からのものではなく、もっと西の古代エジプトやローマ帝国からのものを示唆します。
紀元一世紀、後漢による騎馬民族匈奴からのシルクロード支配により、ローマ帝国と洛陽を行き来する国際交易商人達が、ヨーロッパやオリエントの金製品やローマン・グラスや高度建築土木技術を東洋にもたらしていたのです。
では、秦氏の「秦」の漢字は何を表わしているのでしょう。後漢の時代(25年〜220年)、ローマ帝国は、後漢から「大秦」と呼ばれていました。「大秦」とは、「偉大なるローマ」という意味です。そして、その後漢の都市洛陽には、166年ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者が訪れているのです。
それは、ローマ帝国と後漢とのシルクロード交易通過国のパルチア王国(紀元前250年〜紀元226年)が、162年ローマ帝国に宣戦布告したからです。このローマ帝国とパルチア王国との戦争は、第六パルチア戦争と言われ、ローマ共和国時代の、紀元前三世紀から引き続く、西と東の交易権を賭けた戦争であったのです。
ですから、ローマ皇帝の使者は、交戦隣国パルチア王国を避け、北の草原ロードから武装軍団を率いて後漢を目指したわけです。しかし、北の草原ロードは、騎馬民族匈奴・鮮卑なとが支配しているわけです。その騎馬民族鮮卑は、後漢と対峙しているのです。
国際交易商人が交戦国に入り込む手段のひとつは、世俗の権力争いとは無関係を装う宗教組織を利用することです。ガンダーラの国際交易商人は、反バラモン教である釈尊の偶像崇拝の教えを無視して、仏像を造り、それをもとに聖域を創る手段として、崖には磨崖仏を彫刻し、磨崖仏を彫刻できない環境であるならば、仏像安置のための仏寺を建立して、異民族からの聖域を造り、そこを交易拠点として異教国へ侵攻していくわけです。シルクロードの交易路に磨崖仏が多くあるのは、表向きは仏教の布教ですが、実際は国際交易商人が聖域で異民族相手に商売をするためです。
国際交易商人達により、中国大陸への侵攻手段として利用された神のひとつが、太陽神「ミトラ」です。この太陽神ミトラは、敵の宗教儀式を何でも取り入れる大乗仏教に導入され、弥勒菩薩となるわけです。(ミトラ神の変身は弥勒菩薩の他に、インドのヒンズー教ではマイトレーヤ、日本国では魔多羅神、奈良大仏の遍照鬼=ルシャナブツ、空海が発明した大日如来などなど。)
太陽神ミトラの歴史上の登場は、紀元前十四世紀のオリエントの粘土板の契約書からです。異民族との交易は、大きな危険が伴います。それは、ひとは、自分の立場を相手側より有利にするために、無意識に「ウソ」がつけるからです。と言うより、ひとは、「ウソ」無しには不安で生きられない動物なのです。
ですから、異民族同士の交易は、絶対者である、契約を見守る、そして、契約を破った者には大いなる罰を与える「神」が必要だったのです。そして、その交易場としては、神が見守る「庭」でおこなわれていたのです。
この神が見守る「庭」は、中国皇帝により、太陽が昇る早朝に天からの命令を下す処、つまり、「朝庭→朝廷」となっていくわけです。
紀元前十四世紀のオリエントでは、太陽神ミトラは、契約神でもあったわけです。その太陽神ミトラは、古代エジプトで多神教を崇拝する神官が勝手に神々を作り出し国を乱したため、アメンホテプ4世(=イクナトン。紀元前1377年〜紀元前1358年)の時代の宗教改革時に導入され、一神教の太陽神アトンとなるのです。
この宗教改革の時代、鉄器の製造技術を持つ集団が、ヒッタイトから渡来するのです。それが、ヨセフ族です。ヨセフ族は、その古代エジプトで、石切、巨石運搬、巨石積み、運河築造、下水道建設、都市建設等の高等技術を習得するのです。
しかし、アメンホテプ4世は、多神教を崇拝する神官により暗殺されたため、ヨセフ族の末裔は、紀元前1230年エジプトを去ることになるのです。その出エジプト時には、(「旧約聖書」の「出エジプト記」は、それから約七百年後の紀元前586年バビロン幽囚時代に、レビ族の末裔アロン一派により創作され、子供の意味の一般名詞モーセによる「モーセ物語」が創作されるのです。このことは、「ヨハネの黙示録」の「666の謎」を解いたひとには理解できるでしょう。)ヨセフ族は、エフライム族の時代になっていたのです。エフライム族は、先祖のヨセフ族に引き続き、太陽神アトンを崇拝していたのです。エフライム族が金の牡牛を祀るのは、太陽神アトンの化身が牡牛だからです。
太陽神ミトラの儀式は、その太陽の化身牡牛を屠ることにより、太陽の再生を願うのです。エフライム族は、太陽神アトンの他に金の牡牛を造り、それも崇拝するのです。このことは、一神教のレビ族末裔の祭祀部族アロン一派から、「エフライムの末裔は多神教の偶像崇拝部族だ。」と誹りを受けるのです。そして、両部族の末裔は、エジプト軍が廃墟としたカナンの街に住み着くわけです。
紀元前一世紀、ローマ共和国は国力を増し、東の交易権獲得のため東進するのです。そして、紀元前27年アウグツスは、ローマ帝国の初代皇帝となるのです。そして、シルクロード交易権獲得のため東国に隣接するパルチア王国と対峙するわけです。
パルチア王国は、以前のオリエント支配国は紀元前十世紀前後のアッシリア王国、紀元前六世紀のペルシャ帝国、紀元前四世紀のアレクサンドリア大王国などで、それらの国々に根付いていた古来からの神々や文化を引き継いでいたのです。勿論、太陽神ミトラ崇拝も引き継いでいたのです。
パルチア王国と闘うローマ帝国軍は、パルチア軍が戦場の最前線に降臨し自軍を守護すると信じていた、太陽神ミトラを、自軍の軍神として導入するわけです。それは、ローマ帝国には、短期間の急激な国土膨張のため、強力な宗教が育たなかったからです。ローマ帝国は、それ以前もギリシャやエジプトの神々を導入していたのです。
更に、オリエント発祥の太陽神ミトラは、自然神のため異教の国々の民に受け入れられていくわけです。
さて紀元前十三世紀にエジプトを脱出したエフライム族は、紀元前1020年レビ族の末裔に取り込まれ、イスラエル統一王国ヘブライを興すのです。しかし、一神教ヤーヴェを祀るレビ族の末裔ソロモンの独裁により紀元前932年ヘブライ国は、一神教のレビ族末裔のユダと、多神教のエフライム末裔のイスラエルに分裂するのです。そして、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンによりイスラエル王国は滅ぼされ、エフライム族末裔は、オリエントの砂漠に消えてしまうのです。これが世に言う「失われたイスラエル十部族」です。
紀元二世紀、ローマ帝国とのシルクロード交易国の後漢には、ガンダーラの国際交易商人による大乗仏教の弥勒菩薩、ローマ帝国軍の軍神ミトラ、オリエントの国際商人の契約神ミトラ、そして、オリエントから高度土木建築技術を持った部族連合が崇拝する太陽神アトン(=ミトラ神)とその化身の牡牛等を祀る西国からの異民族がぞくぞく渡来していたのです。
それは、十四世紀の大航海時代幕開けの原因がペストの大流行により、ヨーロッパでその治療薬として胡椒などの香辛料が金の価格より高騰したため、国際交易商人が、香辛料を求めて大型外洋船でインドを目指したのと同じように、165年ローマ帝国では西アジアから持ち込まれたペストが大流行したので、ローマ帝国はその治療薬としての「朱砂」を強く後漢に求めていたからです。中国大陸では、古来から辰砂(=朱砂)は、民間医療で消毒剤として利用されていたのです。(現在でも、水銀は水虫薬として利用されている。)
西国の国際商人は、絹のほかに「朱砂」を求めて後漢の洛陽に渡来したのです。その朱砂は、日本列島では、縄文時代からの中国大陸との国際交易品であったのです。
後漢は、弥生時代の日本列島の情報を持っていたようです。後漢書では、桓帝(146年〜167年)と霊帝(167年〜186年)頃の記述として、「桓・霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主。有一女子、名曰卑弥呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立為王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人、給衣食、伝辞語」とあるからです。
それらの二世紀の日本列島の情報をもっていたと言うことは、日本列島から後漢へ情報を伝えた者が存在していたわけです。そして、239年には、日本列島から、後漢を引き継ぐ魏(220年〜265年)へ遣使が送られているのです。
日本列島は、「日本書紀」が、神功皇后の新羅征伐物語で、それまでは新羅国の存在を知らなかったと記述しているように、閉ざされた孤島などではなく、縄文時代から異国の渡来民族が中国大陸と頻繁に行き来していたのです。
二世紀のローマ帝国と西アジアでのペストの大流行は、治療薬の「朱砂」を求める国際交易商人の後漢への移動だけではなく、民族移動の誘引ともなるわけです。
西アジアの草原に暮す騎馬民族チュルク族の東方への大移動により、ロシア・シベリアに暮す半農半猟民族ツングース族は、北から南へ押し出されるわけです。そのツングース族の南への大移動が朝鮮族を巻き込み、紀元前一世紀に朝鮮半島根元に興った高句麗国を強大にするのです。
四世紀、更に、ツングース族一派の扶余族は中国内陸から南下し、先住の韓族や倭族連合国の馬韓を支配し、346年百済国を興すのです。そして、何処からともなく移動してきた民族・部族連合が朝鮮半島南端に渡来するのです。そして、朝鮮半島南端の韓族や倭族連合支配の辰韓を滅ぼして、356年新羅を建国するのです。
新羅を興した民族・部族の文化は、隣国の高句麗や百済のツングース族文化と異なるだけではなく、言葉・文字も異なっていたようです。高句麗や百済は、前秦(351年〜384年)や東晋(317年〜420年)への朝貢は通訳なしにおこなえたのに、新羅の朝貢使者は百済の通訳を伴っておこなっていたのです。
民族語の特徴は数詞に現れます。日本民族が複合民族であることは、数詞が大きく三系統に分かれることからも証明できます。それらは、「いち、に、さん」、「ひい、ふう、みい」、そして「ひとつ、ふたつ、みっつ」の系統です。これらの数詞系統が分かれているのは、それぞれの渡来民族が日本列島に持ち込んだものだからです。
古代百済と古代新羅との数詞も、全く異なっているのです。百済系数詞は、イル、イ、サム、サ、オ、リュク、チル、パー、クウ、シュップです。新羅系数詞は、ハン、トウ、ソェク、ノェク、タセス、エーセス、ニルグブ、ヨデルブ、アホウ、ヨエルです。百済系数詞は、「イー、アル、サン」の中国語系です。しかし、新羅系数詞は、「ワン、ツウ、ソゥリー」の欧米語系です。
ローマやオリエントから後漢に渡来した民族・部族は、220年後漢が魏により滅ぼされた後、中国大陸を移動し朝鮮半島に渡来したようです。その証明のひとつとして、四世紀から六世紀の新羅古墳からの発掘物があります。それらの遺品は、高句麗や百済のツングース系や中国系の遺品とは異なり、ギリシャ系の金の王冠、ネックレス、指輪、トンボ玉、ローマン・グラス、ローマ帝国軍と酷似の金属脛あて、馬冑、馬鎧、長鉄棒などなどがあるからです。
政治形態も、新羅と高句麗・百済とは異なります。新羅の政治形態は、ギリシャ・ローマの合議制と同じに、各部族の代表による話合いにより政治をおこなっていたのです。
合議制や談合は、騎馬民族の政治基本のようです。この合議制は、日本列島にも持ち込まれているのです。藤原氏の政治は専制君主的ですが、江戸時代の国学者から異民族と言われていた弾左衛門の支配形式の基本は合議制によっているのです。その穢多頭の十三代続く世襲名弾左衛門も、親から子への相続世襲ではなく、各地の部落から推薦された優秀な若者を、それぞれの部落代表の合議により決められていたのです。そして、弾左衛門と親密な関係にある徳川家康も、作戦は合議制により決めていたのです。それらの合議制メンバーは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正です。
祀る神も、新羅は、高句麗・百済と異なっていたのです。372年高句麗は仏教を受け入れ、384年百済も仏教を受け入れたのに、新羅は528年まで仏教を受け入れていなかったのです。でも、新羅では弥勒菩薩を祀っていたではないかと言っても、弥勒菩薩の元は「ミトラ」で、純粋な仏教の仏ではないのです。(ホトケとは朝鮮語です。仏は、中国では「フト」と言われ、そのフトに韓国語の接尾語ケがついて、「フトケ」が日本列島に渡来して「ホトケ」となったのです。)
ローマ帝国軍は、ミトラ神を軍神として祀っていたのです。そして、新羅の軍団は、花郎軍団と言われていたのです。花郎の「花」とは、「ミトラ」の借字で、花郎軍団とは、ミトラ軍団の意味であるわけです。(ものの本のなかには、花郎軍団を、「花」の意味を取り違え、女装した武将が統率した軍隊と説明しているのもあります。)
新羅が、高句麗や百済の文化と異なる国であることは、新羅の古墳から出土した王妃の王冠から説明できます。それは、男王の王冠が銀製なのに、王妃の王冠は金製でより豪華であるように、528年までの新羅は女帝王国だったのです。
日本列島の騎馬民族チュルク系蘇我王朝、新羅系天武王朝では、女帝は珍しくありません。「日本書紀」にも、女帝は、33代推古天皇、35代京極天皇、37代斉明天皇、41代持統天皇、43代元明天皇、44代元正天皇、46代孝謙天皇、そして、天武王朝最後の48代称徳天皇などです。なんと33代推古天皇から16代までの男女天皇の内、女帝在位は七名です。(「古事記」は、サイファー式暗号により、推古天皇の存在を否定しています。実際の天皇号使用は、天武天皇からです。それ以前には、天皇は歴史上存在しません。)
しかし、百済系桓武王朝では、125代今上天皇までには、109代明正天皇、117代後桜町天皇の、たった二人しか在位していないのです。その女帝在位の意味は、天武王朝と桓武王朝との民族性が異なるからです。
自然環境下に暮す騎馬民族は、その基本は「女尊男卑」で、戦闘に女性武将の参加もあります。(女武者では、木曽義仲配下の巴御前が有名。)騎馬民族末裔の武士団では、棟梁が戦死すると、その王妃がその軍団の指揮をとることもあるのです。(鎌倉源氏を支配した北条政子。)騎馬民族末裔の役座も、組頭が戦闘で死亡すると、跡目を「姐さん」が引き継ぐことも珍しくありません。
しかし、自然の法則に逆らう農耕民族は、その基本は「男尊女卑」です。それは、腕力により自然と闘う必要があるからです。ですから、腕力の劣る女性は、男性の隷属者として扱われるのです。つまり、農耕民族では、殆んど女性が男性を支配することはできないのです。
そのように、四世紀の朝鮮半島には、半農半猟民族ツングース末裔の高句麗・百済と、騎馬民族・高度土木建築技術部族の新羅とが存在して、それぞれの国際交易商人達が、日本列島の飛鳥ヤマトの宇陀の朱砂の奪取を目的に、戦国時代のポルトガルの軍事支援を受けたイエズス会の国際商人のように、高句麗・百済軍団と新羅軍団と伴に九州の倭国に渡来するのです。
中国大陸より日本列島への異民族軍団を伴った部族の渡来は、四世紀が始めではなく、紀元前三世紀の徐福一族の渡来があります。徐福は、蓬莱国(日本列島か?)から不老長寿の仙薬を入手するからと、童男女三千名と石弓を持つ軍隊と技術者とを百隻の船で中国山東半島から船出させて、秦(紀元前221年〜紀元前206年)の始皇帝を騙したのです。因みに、徐福の幾つもある姓のひとつは、「秦氏」です。
秦の時代、水銀薬の「丹」は不老長寿の仙薬として珍重されていたのです。その水銀薬の仙薬は、朱砂から創生されていたのです。その頃、日本列島の飛鳥ヤマトのツバキ市での朱砂は、中国大陸との交易品であったのです。更に、魔除けとしての翡翠も、日本列島の糸井川で採掘され、縄文時代より中国大陸へ送られていたのです。
では、四世紀の渡来民族はどのようにして北九州に渡来したのでしょうか。その方法のひとつとして考えられるのが、戦国時代のポルトガル国際交易商人の渡来・征服戦術です。
それは、まず遭難者を装い医療技術のある宣教師を、情報収集のために送り込むのです。そして、医療技術で現地人を治療し、名声を得た後、政権中枢者と接触し、病院・学校の開設を懇願し、医療活動・教育活動を利用してシンパを組織し、教会を建設し、学校・教会を侵略拠点にして、その拠点に交易商人を招きいれ、現地人を雇い入れ、現政権の内紛を助長し、内紛勃発の期に軍隊を侵攻させ、現地人の武装化を援助して現地軍団を組織し、現地人による革命を装い政権を倒し、傀儡政権を樹立し、その政権を裏からコントロールすることでその国を乗っ取る、と言うシナリオです。その戦国時代のイエズス会のシナリオにおいて、織田信長、徳川家康などは、イエズス会の武器弾薬と傭兵軍などの軍事援助がなければ、戦国武将の頂点に立てたかは疑問です。更に、織田信長が、ゼウスの神を崇拝し続けていたら、「本能寺の爆殺」も起こらなかったことでしょう。
さて、五世紀の北九州に、寺が多く建立されたのは、朝鮮半島からの侵略軍の前線基地確保のためだったのです。朝鮮半島の渡来軍事勢力は、四世紀後半に、まず宗教者を九州に送り込むのです。その宗教者とは、道教、景教、仏教が考えられます。現地人にとっては、その教義などには関心が無く、今の問題をすぐに解決してくれる宗教は、どのような民族・部族が崇拝するものでも関係ないからです。そして、宗教者が現地人に受け入れられると、病院や寺が建てられていくわけです。その後、軍隊が侵攻して来るのは言うまでもありません。
侵略は、渡来宗教者による現地人の治療から始るわけです。その場合、仏教・景教よりも、道教は有利です。道教は、後に仏教の儀式を導入するまでは、薬草や鉱物などの薬で民間医療をおこなう実践技術者の導士だったからです。役座が祀る、渡世人スタイルの箕笠姿の、道教の流れにある「神農様」は、薬草学の神様でもあるのです。
景教(=ミトラ教)は、太陽を祀り、祈願成就のために牡牛を屠ります。何故そのような儀式をおこなうかは、牡牛の死を以って、太陽神の再生を願うためです。景教とは、ローマ・オリエントから渡来した時、中国で名づけられたもので、太陽(=日)+都(=京)=景(日+京)の教えの意味です。
太陽は、西の空に沈んでも(死)、再び東の空から昇る(再生)、「死と再生を永遠に繰り返す、不老不死の神」なのです。そして、その太陽神は、東の山の頂から「誕生する」と信じられていたのが、山の岩の祠に替わり、やがて岩から誕生すると信じられていくのです。そして、やがて景教徒は、「石を祀る」ことになっていくわけです。
七世紀、神社が発明されて、景教の寺が破壊され、その跡に神社が建立されるのですが、景教徒が祀る「石」を、祟りを恐れ投棄できずに、放られた「石」を、今日では「力石」などといって門前に置いている神社や寺が多くあるようです。
大乗仏教の教義や儀式等は、異民族の権力者の要求に合わせて変身していくのです。紀元一世紀ガンダーラで発明されたギリシャ系ガリガリ姿の仏像は、後漢に渡来の時、ふくよかな女性肌の東洋系仏像に変身し、不老長寿のキャラクターとなるわけです。そして、文殊の徒による無数の仏典と仏像を安置する仏寺とにより、西方浄土を約束するのです。
釈尊の仏教の基本は、民族差別をするバラモン教が発明した、祭祀者バラモンが常に支配するためのトリック思想の「輪廻転生」を否定するために、そのカルマから逃れるために、前世・現世・来世の流れを否定するために、この世のひとでない「非人」となり、物欲を否定することにより一切の経済活動から離れるために「乞食」をすることにより修行することなのです。
そのバラモン教の輪廻転生思想を否定し、そして仏像崇拝を否定する釈尊の教えは、日本列島に渡来した大乗仏教では、極楽浄土を約束し、多くの仏像を拝み、豪華な法衣を着る僧侶が、賎民救済ではなく、貴族に取り入り、賎民を差別する全く異なった教えとなってしまっていたのです。
そのような思想を持つ、道教(高句麗・百済・新羅)、景教(新羅)、仏教(高句麗・百済)は、北九州に渡来すると、異民族を取り込むための前線基地としての「寺・観」を多数建立して、高句麗軍、百済軍、新羅軍を迎い入れるわけです。
この北九州侵略時代までは、先住民族軍団を壊滅するまで、その三軍は共同歩調をとるわけです。そして、次なる侵攻地の、ナガスネヒコやウカシなどのオオクニヌシが支配する飛鳥ヤマトのツバキ市を目指すわけです。その飛鳥ヤマトのオオクニヌシ軍団壊滅後、高句麗・百済軍と新羅軍とは、ヤマト三輪山を挟んで軍事対立となるのです。
その九州侵攻の時、朝鮮半島の新羅軍団と伴に渡来したのが、ローマ・オリエントから渡来の秦氏の技術部族です。そして、その土木・都市建設技術で建設された都が、北九州の「秦王国」です。それが、後の608年遣隋使小野妹子に随行してきた隋使裴世清が見聞した、中国文化そっくりの「秦王国」であったのです。
その時、隋使裴世清が謁見した飛鳥ヤマトの王は、女帝ではなく、男王だったのです。しかし、「日本書紀」によれば、593年から628年までは、女帝推古天皇が飛鳥ヤマトを統治していたことになっているのです。
五世紀の飛鳥ヤマトの広大な湖・沼そして湿地帯は、エジプト・ローマの土木・建築技術により大運河が造られ、そして人工山の前方後円墳が造られることにより平地となり、渡来軍事部族は、それぞれのコロニーを形成するわけです。それが、葛城の高句麗・百済コロニーで、磯城には新羅のコロニーが形成され、それぞれが三輪山を挟んで対峙するわけです。
日本史の古代と戦国時代・江戸初期の物語が腑に落ちないのは、その物語の視点が、645年に突然日本列島の歴史に登場した藤原氏と亡命百済貴族のものだからです。そして藤原氏は、645年以前の歴史を焚書し、前史の騎馬民族文化を抹殺して、古代オリエント史を模倣した「旧約聖書」を参考に「日本書紀」を創作したのです。
更に、藤原氏は、七世紀、中臣神道と神社を発明することにより、チュルク系騎馬民族文化やギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの神々を隠蔽してしまったのです。ですから、古代の日本列島の歴史を調べるために「神社」を探索しても、江戸時代の国学者本居宣長や平田篤胤のように、藤原不比等のトリック迷路に嵌ってしまうのです。
それは、「神社」の日本列島での出現が、四世紀を遡ることが無いからです。その理由は、「神社」がこんもりと木々が茂る古墳の上やその近くに建立されていることからでも理解できるでしょう。日本列島において、古墳が現れるのは四世紀で、古墳時代が終わるのが七世紀だからです。その七世紀に、藤原氏と伴に「仏寺」、少し遅れて「神社」が近畿ヤマトに出現するのです。
更に、平安時代初期に、百済系桓武天皇によるギリシャ・ローマ文化保持国新羅末裔の文化を抹殺し、「日本書紀」に「百済史」を挿入したことにより、日本史物語から、六世紀の飛鳥ヤマトを統一した騎馬民族文化・蘇我王朝を排除してしまったからです。しかし、歴史書はいくらでも焚書・改竄できても、遺跡は焚書・改竄などできません。
756年新羅系聖武天皇(749年没)の多くの遺品を納める校倉造の「正倉院」が完成するのです。その中に納められていた飛鳥時代から奈良時代までの風俗を示す文章・絵・像物の全ては、百済系桓武天皇により抹殺されてしまったのです。しかし、藤原氏が「道教の観」や「景教寺」の全てを破壊して、その跡に「仏寺」、「神社」を建立して前政権の文化を完全に隠蔽したのに対して、桓武天皇は、騎馬民族色のある遺品は全て抹殺したけれども、校倉造の正倉院の建築物を破壊しなかったことにより、前政権の騎馬民族文化を完全に隠蔽できなかったのです。
校倉造とは、教科書歴史で、遺品を湿気から護る建築様式と教える南方系の建築物などではなく、掘っ立て柱に横組みの木を重ねる建築様式の歴史は、紀元前八世紀カスピ海沿岸を支配した騎馬民族国家スキタイの越冬用移動可能建築様式なのです。この騎馬民族スキタイの建築様式は、朝鮮半島の辰韓から、日本列島に渡来したようです。それは、その横木を重ねる建築様式は、農耕民族の中国大陸では珍しかったので、「魏志東夷伝」の「韓伝」の辰韓の条に、「この国では、家を作る際、横木を重ねていくので、牢獄に似ているようだ。」、との記述があるからです。因みに、辰韓とは、辰=秦で、西国からの流れ民族、と魏略の注釈にあります。
日本民族を農耕民族と決め付ける教科書歴史では、四世紀から出現する、近畿ヤマトの大運河と巨大古墳、巨石建造物、噴水がある庭園、幅十m超の日本列島に伸びる真直ぐな幹線道路、和歌山古墳からの馬冑、多くの古墳から出土する金メッキの馬具類、ローマン・グラスなどなどを説明することはできません。
四世紀後半、中央ユーラシア一帯を支配していた騎馬民族柔然(320年〜552年)は、西方からアルタイ山脈を越えて侵攻して来た突厥(チュルクの漢音語=トルコ)により、東に押し出されるのです。そして、突厥は、アルタイ山脈一帯を支配し、突厥帝国(552年〜630年)を興すのです。
この突厥帝国興亡(552年〜630年)と飛鳥ヤマトの蘇我王朝興亡(536年蘇我稲目の歴史上出現。645年蘇我王朝滅亡)には、何らかの関係があるようです。
六世紀、突厥帝国は、西はエフタルを滅ぼし、東は柔然・高句麗を駆逐し、その支配地をユーラシア東西に広げ、シルクロード交易権を獲得するのです。しかし、シルクロード西端のローマ帝国へ行くには、キリスト教から派生したイスラム教を基盤としたイスラム部族(571年ムハンマド=マホメットがイスラム帝国建国)が立ちはだかるのです。
そこで、568年に突厥の使者は東ローマ帝国都市コンスタンチノープルを訪れ、同じ年、その返礼として東ローマ帝国のゼマルクスが、突厥の「庭」に渡来するのです。ラクダではなく、騎馬によれば、シルクロードの西と東を一年以内に往復できたのです。ローマと中国大陸とは、それほど遠くではないのです。
そして、576年西突厥軍はクリミアのビザンツ諸都市を包囲し、それにより東ローマ帝国軍はカスピ海を制圧し、東西のシルクロード交易は、イスラム帝国領土を通過せずに、カスピ海側に迂回しておこなわれるわけです。カスピ海沿岸は、有数のガラス工芸品の産地でもあったのです。そして、この地域で作られたガラス器は、ローマン・グラスと呼ばれるわけです。(ローマン・グラスは新羅古墳から多く出土する。)
飛鳥ヤマトの蘇我王朝期では、国際交易が盛んであったことは、その突厥帝国がシルクロード交易権を握ったことと関係があるようです。そして、シルクロードの東西交易の西端がローマ帝国で、東端が近畿ヤマトだということは、そのことを裏付けます。そのヤマト三輪山のツバキ市の交易品を、中国洛陽・ローマへ運ぶために造られたのが、近畿ヤマトの幅十m超の幹線道路です。
騎馬民族は、海洋民族と同じに、歴史書を持たない民族です。それは、自然環境下に暮らし、一定地に留まることなく環境に合わせて漂白する民族だから、自らの出自を示すための歴史など必要ないからです。言わば、それらの国は、「風の王国」なのです。それらの民族が去った跡には、何も残らないからです。(農耕民族は先祖の記念碑「墓」を地表に残すようですが、地表に何も残さないのが騎馬民族の生き方なのです。)
歴史書は、主に農耕民族と交易民族が創作するようです。それは、農耕民族は農地、交易商人は交易地(店)が必要で、その生活基盤が土地にあるからです。
この歴史書を持たない騎馬民族は、農耕民族に比べて、不利です。それは、騎馬民族の歴史を後世に伝えることができないだけではなく、農耕民族が創作した歴史書により、マイナスイメージとして記述されてしまうからです。その例のひとつとして、騎馬民族は、野蛮で文化の無い、不潔な略奪民族のイメージ創りがあります。そして、農耕民族が、騎馬民族を貶めるための決め台詞「何処の馬の骨」があります。農耕民族は、たとえ奪った土地でも、歴史を改竄して土地の先祖からの所有権を主張できます。つまり、歴史書により 、藤原氏や亡命百済貴族のように、略奪地を先祖からの土着地と勝手に改竄し、主張できるのです。
騎馬民族の歴史上の出現は、歴史学的に未だ定まっておりません。しかし、ヘロドトスの「ヒストリア」には、紀元前九世紀にカスピ海沿岸一帯には、騎馬民族国家スキタイあったとの記述があります。その「ヒストリア」によれば、スキタイには、騎馬部族に統率された農耕部族、漁労部族、商業部族、技術部族などがあり、スキタイが全て騎馬民族ではないようです。つまり、騎馬民族国家スキタイは、商社のような組織のようです。
それは、騎馬民族は、資本と情報により、それぞれの各種技術を持つ部族を武力で支配して、そこから生産される物産を遠隔の民族との交易により利潤獲得する組織だからです。つまり、騎馬民族は、農耕民族の歴史書に描かれているような略奪だけの民族ではなく、交易民族の一面もあったわけです。この騎馬民族スキタイの、資本・情報・武力により他部族を支配する仕方は、鎌倉時代に現れた穢多頭弾左衛門が、各種芸能民・技術者を支配する仕方と、共通性があります。
騎馬民族スキタイは、紀元前十世紀から植民地を広げるギリシャと、黒海沿岸で遭遇するのです。スキタイとギリシャ都市国家とは、幾度と無く交戦するのですが、やがてお互いに交易する間柄となるのです。スキタイは、毛皮、くすり、穀物などで、ギリシャは金製品を交易品とするのです。そのギリシャの金製品は、ギリシャデザインの三本角を持った金・銀・銅の王冠(新羅古墳から出土と同デザイン)や動物をデザインしたレリーフなどです。その動物のなかでも、「鹿」が多くあるのは、鹿(ヤマト奈良には多くの鹿が生息)がスキタイのトーテムだからです。
スキタイ軍が強いのは、鉄器の武器と騎馬戦車と精力剤のロクジョウがあったからです。スキタイが鹿をトーテムとするのは、小鹿の角袋からロクジョウを精製するからです。 飛鳥ヤマトの蘇我氏も、シルクロードの交易品として、朱砂・薬草・毛皮だけではなく、ロクジョウも扱っていました。ロクジョウは、現代でも高級ドリンクには欠かせない精力物質であるわけです。
そのギリシャ都市国家と交易をする、西ユーラシアから中央ユーラシアを支配していた騎馬民族国家スキタイは、カスピ海沿岸から紀元前三世紀には、歴史から消えるのですが、それに替わって東ユーラシアから中央ユーラシアへ遊牧騎馬民族匈奴が侵攻してくるのです。この匈奴軍は、四世紀の飛鳥ヤマトでツングース族と倭族の軍事部族が合体して「物部氏」となったように、遊牧民族と騎馬民族が合体したもののようです。そして、匈奴軍には、ギリシャ文化を継承した騎馬民族スキタイ末裔が多くいたようです。
スキタイに継承された三本角の金王冠・ブレスレット・ネックレスなどのギリシャ文化は、新羅から日本列島に渡来したようです。藤原氏や亡命百済貴族は、飛鳥ヤマトの前王権者の騎馬民族文化を抹殺するために、「日本書紀」(720年完成。旧約聖書と百済史の物語が挿入されている。)、「風土記」(713年好字令により国際的地名を抹殺するために、二語の日本語地名の由来を創作した物語。)、「万葉集」(759年が最も新しい歌謡。多くの新羅語による古代歌謡を、901年左遷の菅原道真が万葉語で翻訳したとの説あり。)、「新撰姓氏録」(814年亡命百済貴族が、日本国公家となるために皇・神・蕃の序列を創作。)などの公式書籍を創作するわけです。これらの史料では、645年以前の日本列島史は解明できないのです。
民族文化は、その記述書籍を焚書や改竄をすることだけでは抹殺できません。それは、民族文化は、途切れることが無い日常生活の流れそのものだからです。藤原氏と亡命百済貴族により、焚書・改竄で騎馬文化を抹殺したつもりの、飛鳥ヤマトのギリシャ文化は、江戸時代に再び現れるのです。そのひとつが、雛人形です。
雛人形の歴史は、公式には、古代呪術の道具としての「人形・ひとがた」が始まりで、それが、平安時代の子供の遊びとしての「紙人形」となり、室町時代に大人の鑑賞に堪える「人形・にんぎょう」となり、江戸時代三代将軍家光の時、現在の雛人形の祖が作られ、享保年間(1716年〜1736年)に高級化した大型の雛人形が作られ、18世紀後半には、京都でも次郎左衛門雛が作られ、今日に至ったと云うことのようです。
この雛人形の歴史には、多くの謎があります。それは、江戸時代初期に作られた、女雛にある三本角の金王冠です。男雛には黒烏帽子です。金王冠と黒烏帽子では、どちらが挌上なのでしょうか。それは勿論金王冠の方です。
男雛と女雛が並んで飾られます。では、右と左では、どちらが挌上座なのでしょうか。それは左です。騎馬民族の戦闘では、軍隊は3軍に別れ、中央の軍団に司令部があり、左翼軍団は精鋭軍人を集め、右翼は左翼の後塵となるからです。この騎馬軍団が、中国大陸で漢族などの先住民を支配して建てた王朝の、北魏(423年〜534年)→隋(581年〜618年)→唐(618年〜907年)→宗(960年〜1126年。南宋1127年〜1279年)までの政治形態では、左大臣が右大臣より挌上だったのです。
この男女雛の並び方が、エド(第一百済王朝は平安時代。第二百済王朝は鎌倉北条氏時代。第三百済王朝が始る、三代将軍家光前までは、「エド」で表記。第三百済王朝以降からは「江戸」と表記。)と京都では逆なのです。エドでは、男雛は右で、女雛は左です。しかし、京都では、男雛は左で、女雛は右なのです。この文化の違いは何処から来るのでしょうか。それは、民族の違いです。
騎馬民族は、女尊男卑で、農耕民族は、男尊女卑なのです。つまり、女帝が三本角の金王冠(ギリシャ系王冠)を被り、黒烏帽子の男王より挌上の左に鎮座しているエド初期に作られた雛人形には、女尊男卑の騎馬民族文化色が現れていたのです。ちなみに、エド街の武家はエド雛で、公家・商家は京雛を飾ったのです。そして、エド雛は、京都人に夷(エビス)雛と呼ばれる意味は何でしょう。
では、誰がその女帝支配の騎馬文化色の雛人形を作ったのでしょうか。そのヒントは、江戸雛人形発祥の地、さいたま県越谷にあります。そして、その地は、穢多頭弾左衛門の支配地だったのです。
百済系徳川三代将軍家光は、騎馬民族の血が流れる徳川家康の次男秀忠が、1623年没すると、藤原氏(=近衛家)に取り込まれた春日局(明智光秀の家系。本能寺での織田信長爆殺後のイエズス会の指示により、明智光秀を裏切ったキリシタン大名高山右近ジュストと徳川家康に多大の恨みを持つ。徳川家康が権力の座から外れた1614年、高山右近ジュストはマニラに追放される。徳川家康が権力の座にあるまでは、高山右近ジュストは、デウスの教えを山の賎民に布教していた。徳川家康がキリシタンを弾圧したとの歴史はウソ。)の差配により、徳川家康の戦国時代からの忠臣達を、次々とお家断絶や国替えにより、江戸幕府権力中枢から排除するのです。
そして、百済系徳川三代家光は、騎馬民族系徳川家康がエド街興隆のために大阪摂津から移住させた技能・芸能の秦氏末裔を、五街道の基点を江戸橋にするために、その居住地近辺から、遠方の弾左衛門支配地の越谷に追放するのです。そのエド中心地から越谷の地へ移住した、鎧や武具を作る秦氏末裔の職人達が、その技術を利用して、雛人形を作るわけです。(江戸橋の近くに関西系豪商の店が多くあるのは、百済系徳川三代家光の、騎馬民族末裔をエド街中心地から追放する戦略のためです。エド橋近くには、大阪摂津の源氏海洋民族系の松浦一族末裔漁民が仕切る魚市場があったのです。)
エド初期に、徳川家康は、同族の騎馬民族末裔や秦氏末裔を、大阪摂津から呼び寄せ、エドの街造りをおこなっていたのです。これは、平安時代初期に、百済系桓武天皇が、怨霊が漂う京の街をにぎやかにするためと、792年創設の百済系軍団(健児兵・こんでんへい・桓武平氏の祖)を拡充するために、804年最澄を中国山東半島に派遣して、百済亡命民を、秦氏の元支配地の山背国や比叡山の近江に、移民させた戦術と同じです。
この時、秦氏末裔は、山背国や近江から、難波宮の先の湿地帯に追われるわけです。これは、1590年徳川家康が、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、エドの湿地帯に移封されたのと同じ戦術です。
難波津は、古は浪速(ローラン)と呼ばれ、シルクロードの楼蘭(ローラン)から高句麗(楽浪・ローラン)・百済経由の交易品が運ばれる国際港で、百済系桓武天皇に京・近江の地を追われた前支配者の秦氏末裔は、敵国百済支配地の難波津を避け、その対岸に津を築くのです。その地は、古代エジプト語の「波」の意味の「ワタ」は、中国語で「波陀・はだ」となり、新羅語で「パタ」となり、日本列島では波が打ち寄せる津は、「ワタ」と呼ばれ、その津は、712年の好字令の日本語化により渡辺津と呼ばれていたのです。
日本列島史が、分かったようで分からないのは、645年突然日本列島史に出現した藤原氏や亡命百済貴族が、色々な歴史書籍を創作して、渡来異民族(農耕民族・海洋民族・遊牧民族・騎馬民族)の対立軸を隠蔽・偽装しているからです。その歴史隠蔽・偽装の一つが、万世一系の天皇物語を綴る「日本書紀」です。その偽装物語によれば、日本列島には高天原から降臨したヤマト民族の祖先がヤマトを支配し、大陸からの軍事侵略を受けずに、大陸からの帰化人を受け入れていた、と言うことになっているようです。
しかし、四世紀から五世紀の飛鳥ヤマトには、高句麗、百済、新羅からの軍事部族が渡来して、宇陀の朱砂を廻って争っていたわけです。
五世紀から七世紀半ばには、東アジアの突厥帝国と北齊(550年〜573年)・北周(557年〜579年)、更に隋(589年〜618年)との、東ローマ帝国とのシルクロード交易の覇権争いの影響が、飛鳥ヤマトにも現れ、突厥帝国の軍事援護により、538年チュルク族の蘇我稲目が、高句麗・百済のツングース族と倭族の軍事部族(713年の好字令により「物部氏」となる。)を武力で支配し、飛鳥ヤマトを統一し、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝は645年まで続くわけです。
蘇我王朝は、東ローマ帝国と交易をおこなっている突厥帝国の後ろ盾により、古代高速道路網を日本列島に張り巡らせ、薩摩から陸奥まで、交易活動を手広くおこなうわけです。そのためには、シルクロード国際交易商人を飛鳥ヤマトに招き、慰労するために噴水のある庭園を造ったり、石の造形物も造るわけです。そして、飛鳥ヤマトには、隋にガラス器を輸出するために、ガラス製造工場も建設していたのです。
この隋との交易を望んだ書が、平安時代に創作された聖徳太子の隋皇帝への「例の東の天子から西の天子への手紙」と改竄されるわけです。飛鳥ヤマトの男王からの貿易依頼を受けた煬帝(604年〜618年)は、608年裴世清を飛鳥ヤマトに派遣するのです。それは、その頃の東アジアでは、突厥帝国が、北から軍事力で隋を脅かしていたからです。隋としては、東海の島国に突厥帝国支配のチュルク王国(蘇我王朝)が存在していることを確認したかったのでしょう。
608年裴世清は小野妹子を伴い、百済→竹島→済州島→対馬→隠岐→筑紫→秦王国→十余国を経て→倭国・大阪湾→運河により飛鳥ヤマトに至ったと、「隋書」に記述しています。この頃の飛鳥ヤマトは、「日本国」ではなく、「倭国」だったのです。
そのように国際交易を精力的におこなっていた蘇我王朝も、突厥帝国が、630年唐(618年〜907年)の軍事力に敗れると、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の経済・軍事基盤も崩壊するわけです。それは、シルクロードによる飛鳥ヤマトの交易活動は、突厥帝国を仲介としておこなわれていたからです。
唐の軍事援助を受けた藤原氏(=唐軍族)は、経済・軍事基盤を失った蘇我王朝を、645年に倒すのです。そして、唐の傀儡軍は、蘇我王朝が開拓した交易地の東北・陸奥の鉄・琥珀・金・毛皮を求めて進撃していくわけです。
陸奥は、「風の王国」なので、歴史書もなければ、地表の記念碑もありません。それを良いことに、蘇我王朝を倒した藤原氏は、陸奥の先住民を、文化の低い、ヒゲのある夷の意味の「蝦夷・エミシ」と名づけるのです。
陸奥の遺跡を発掘すると、不思議なことが分かるのです。それは、645年を境に、集落遺跡に劇的な変化が認められるのです。以前の遺跡は、交易センターの機能があった集落群が、以後の遺跡では戦闘機能を持った何重もの環濠や掘っ立て柱の防御柵の中にあるからです。そして、その遺跡には、陸奥には珍しい西国や関東の土器などが発掘されるのです。このことから、645年飛鳥ヤマトの地を、唐傀儡軍に奪われた蘇我王朝残党が、陸奥へ逃れて、唐傀儡軍の侵攻を阻止しようとして砦を築いていたのではないか、と推測されます。
630年北の脅威であった突厥帝国を敗走させた唐は、朝鮮半島での高句麗・百済・新羅の争いに軍事介入するのです。その唐の軍事介入の影響が、飛鳥ヤマトにも及ぶのです。突厥帝国の後ろ盾を失った蘇我王朝は、今まで武力で抑えていた飛鳥ヤマトの高句麗・百済・新羅の軍事パワーバランスを保つ力がなくなってしまったのです。唐傀儡軍(藤原氏)の指示のもと高句麗・百済系軍団は、一挙に蘇我王朝を倒すのですが、660年百済本国は、唐・新羅連合軍により攻撃を受け、そして、663年白村江の海戦により、朝鮮半島の百済王国は歴史上壊滅するのです。
ギリシャ・ローマ文化保持国新羅は、仏教国の高句麗・百済より、チュルク族の蘇我王朝と歩調が合ったようです。それは、蘇我王朝の本国突厥帝国は、東ローマ帝国と特使を行き来させるほど友好関係にあったからです。
672年新羅系王子の大海人皇子(後の天武天皇)が、667年に百済亡命王朝が近江に建設した大津京を、伊勢に逃れていた蘇我王朝残党と新羅軍の連合軍により攻めるのです。この戦争は「壬申の乱」と呼ばれていますが、これは「日本書紀」が述べるヤマト王朝での兄弟(天智天皇対天武天皇)による内乱などではなく、百済亡命王国(ツングース族末裔)対蘇我王朝残党(チュルク族末裔)・新羅系軍団(秦氏軍団→花郎軍団→ミトラ軍団→ローマ軍団。新羅→秦羅。528年までの女帝国新羅はオリエント系が先住民族韓族・倭族を支配した王朝。)の民族戦争であるわけです。
672年民族戦争に勝利した大海人皇子は、蘇我王朝があった飛鳥の浄御原宮に遷都するのです。そして、大海人皇子は、日本初の天皇・天武天皇に即位するのです。これが、日本国誕生の時なのです。
その頃、朝鮮半島では、668年唐・新羅軍が高句麗を滅ぼすと、その勢いを買って新羅軍は、朝鮮半島に駐留する唐軍を半島から追い落とし、676年統一新羅が建国されるのです。つまり、日本国誕生と統一新羅建国は、七世紀後半のほぼ同時におこなわれていたのです。
朝鮮半島の基盤を失った唐は、日本国の亡命百済貴族や藤原氏を援助して、日本列島の鉱物資源奪取を画策して、天武王朝を揺さぶるわけです。しかし、天武王朝には、陸奥国の蝦夷の弓馬を得意とする強豪騎馬軍団が控えていることにより、亡命百済貴族や藤原氏の陰謀もことごとく回避されてしまい、770年の女帝称徳天皇まで、かろうじて騎馬文化の天武王朝は続くわけです。
770年藤原百川の陰謀により、百済亡命下級貴族の光仁天皇(桓武天皇の父)を擁立するのです。そして、藤原氏の陰謀により、奈良の都の騎馬系天武天皇一族末裔は、騎馬民族文化と伴に次々と抹殺されていくのです。
藤原氏の狙いは陸奥の金・琥珀などの資源です。しかし、そこには親天武天皇の騎馬民族の蝦夷が「風の王国」を築いていたのです。そのために、藤原氏傀儡のアルコール中毒の高齢の光仁天皇を擁立したまではよかったのですが、その息子の桓武天皇は、藤原氏に劣らず陰謀の名人だったのです。
藤原氏の武器は、女と仏教と神道です。藤原氏が奈良の都で権勢を得ていたのは、仏寺の興福寺と神道(日本神道の祖・中臣神道は藤原氏の日本列島出現と伴に現われた。)の春日社を支配して、その仏・神の影響力で敵を翻弄していたからです。
しかし、桓武天皇は、奈良の都の大仏建立時の水銀・銅精錬により、奈良の都が鉱毒汚染されている事実を踏まえ、その都だけではなく、その奈良の仏教も神道も穢れていると宣伝し、藤原氏の仏と神を奈良の都に封印してしまうのです。この戦術により、藤原氏の武器が二つ失われたわけです。残る武器は、「おんな」だけです。
桓武天皇は、藤原氏の戦略を真似て、平安仏教を興すためと、日本国百済軍団(健児兵)を拡充するために、804年最澄を中国山東半島に派遣するわけです。何故、最澄が、必要とする仏典全てを集めることなく、たったの八ヶ月で帰朝した理由は、藤原氏が放った武器・空海の存在があったからです。
空海は、公の物語で語られているような仏教の修行僧などではなく、鉱山師・錬金術師の技術者であったのです。その空海を、たった一年で仏籍に入れたのと、一介の私僧が莫大な渡唐費用が工面できた謎は、藤原氏の存在があったからです。
古代史を読み解く場合、考えなければならないことのひとつに、国についての概念があります。1776年以前の国には、固定した国境が存在していませんでした。固定した国境が歴史上現れるのは、イギリス王国の所有地を、武器を持った敬虔なピューリタンを中心に武力により略奪した、1776年アメリカ13州独立宣言からです。
それ以前の国は、武力により国境を無限に拡大できたのです。と言うことは、武力が衰え国境を護れない国は、やがて地球上から消滅してしまうわけです。
日本列島もその例外ではなく、武力に勝った民族・部族勢力が時の政府を樹立していたのです。日本列島は四方を海に囲まれているので、大陸から孤立しているのではなく、開放されているわけです。ですから、海軍力や航海術に優れた民族・部族は、日本列島のどこからでも上陸できるわけです。
399年北魏の僧法顕は、シルクロード陸路によりインドに到達し、帰路は大型外洋船で、409年インド・タムラプティ→411年セイロン・アヌラーダプラ→413年中国山東半島・牢山を経て、洛陽に到着していたのです。
九世紀の東アジアでは、北の脅威突厥を敗走させた唐は、西の吐蕃(629年〜900年?)と北のウイグル(744年〜860年?)に囲まれ、陸路による東ローマ帝国とのシルクロード交易が困難になっていたのです。更に、追い討ちをかけるように、絹の素の繭が僧侶により盗まれ、絹織物は唐の専売品ではなくなっていたのです。その唐に、インドからの交易船が、中国山東半島に渡来するわけです。ペルシャ湾や紅海に海路を持つインド国際交易商人は、ヨーロッパで需要が増した「銀」を求めてきたのです。
古代インド・バラモン僧は、水銀薬を朱砂から精製し、精力剤・回春剤として服用していたのです。バラモン僧は錬金術師でもあったのです。そして、朱砂のある所には、水銀・銀脈があることも知っていたのです。
呪術の道具としての朱砂・水銀は、錬金術により銀になることで資産に変身するわけです。利に目ざといインド国際商人は、大挙して唐に船で押し寄せるわけです。
日本列島の藤原氏も、その国際交易の動きを知ると、唐にエージェントを送り込むわけです。しかし、桓武天皇により、難波の交易港は押さえられてしまうのです。そこで、藤原氏は、難波港を避け、吉野→根来→紀→種子島→奄美→中国・蘇州の交易ルートを開拓するわけです。この交易ルートは、後の戦国時代に、銃・火薬の密輸ルートとなるわけです。
794年平安京に遷都した桓武天皇は、藤原氏の勢力を奈良の都に封じ込めると、唐に渡来したインド国際交易商人が求める「銀」奪取のために、東海道を開き陸奥に大軍団を送り込むわけです。しかし、チュルク系蘇我王朝残党や新羅系の弓馬が巧みな騎馬民族末裔相手では、遊牧民族ツングース族や海洋民族倭族末裔の歩兵軍団が数十倍大挙しても敵いません。
そこで、797年大陸渡来軍属末裔の金髪の坂上田村麻呂を鎮守府将軍とするのです。すると、散々桓武天皇軍を戦いで翻弄した蝦夷の敵将アテルイは、坂上田村麻呂の和平の提案に簡単に騙されて、京都へ出向き、そこで斬首されてしまうことにより、801年「風の王国」は、壊滅していくわけです。そのように、アテルイが、坂上田村麻呂と闘わず、和平に応じたのは、先祖がチュルクかローマの騎馬民族の同族だったとの推測が成り立ちます。
陸奥の鉱物資源は、勝者桓武軍により京に運ばれるわけですが、その他にも国際交易品が運ばれてくるのです。それは、捕虜としての奴隷です。
唐の都長安には、国際交易商人ソグドによりオリエントの品々の中には「奴隷」も含まれていたのです。その「技術を持った奴隷」は、高価な国際交易品であったのです。奴隷の交易品としての「奴隷貿易」は、民主主義発祥のアメリカ合衆国では、建国の1776年から1808年まで続いていたのです。
京に連れてこられた陸奥・蝦夷の捕虜は、散所・湯浅・別所・垣内(かいと)などと呼ばれる所に押し込められるのです。陸奥では、蝦夷の集落は、「スク」と呼ばれていたようです。「スク」とは、漢字で「村」で、その統率者の「スグリ」は、漢字で「村主」と表記します。ちなみに、「スクネ」とは、古代ペルシャ語で「勇者」の意味です。
では、関西では、捕虜収容所の散所・湯浅・別所・垣内を何故「部落」と言うのでしょうか。陸奥では、「スク・村」と言っていたものが、関西では「部落」です。この言葉の変化は何を意味しているのでしょうか。
それは、「部落」とは、王権により騎馬民族・部族が賎民として落とされ、そして捕虜として押し込められた、敗残兵の居住地の意味として、騎馬民族末裔を貶めるために王権側が発明した言葉です。この頃までの「部落」には、まだ精神的な貶めはありません。「部落」に穢れのイメージが付け加わるのは、空海の真言仏教思想が普及する嵯峨天皇の頃からです。桓武天皇に嫌われていた藤原氏のエージェント空海は、桓武天皇存命中から平城天皇まで(809年)京に入れなかったのです。
空海は、中国に渡来していたインド・バラモンの錬金術だけではなく、肉食民族(騎馬遊牧民族)を差別するバラモン・カースト思想も、仏教思想として日本列島に持ち込んでしまったのです。
京に連行された蝦夷の捕虜は、賀茂川の東側の清水坂の「部落」に収容されるのです。このことは、百済系桓武天皇が、奈良の藤原氏の捕虜収容所としての奈良坂「部落」に対抗するためです。これ以降、京の清水坂「部落」と奈良の奈良坂「部落」とは因縁の武力闘争を繰り広げていくわけです。その戦いの裏には、京を支配する亡命百済貴族と奈良を支配する藤原氏の思惑があったのです。
飛鳥・奈良時代までの山背国・近江比叡山は、秦氏の支配地だったのです。平安時代初期、桓武天皇により、その地から秦氏末裔は追放され、それに換わって中国山東半島から、亡命百済民が最澄の導きにより大勢渡来してきたのです。平安時代の京・近江は、亡命百済民の支配地となっていたのです。
その京・鳥部野の清水坂に、蝦夷(蘇我王朝末裔・新羅系軍団)と伴に、桓武天皇軍と戦い破れ、捕虜になった秦氏末裔は、今度は支配者ではなく、賎民として「部落」に収容されてしまうわけです。
平安時代には、天武天皇が道教の神・太一(北極星)を祀った「道観」や秦氏や新羅花郎軍団末裔が太陽神ミトラを祀った「景教寺」は、藤原氏と桓武天皇により完全に破壊され、その跡に仏寺や神社を建立されることにより、その存在すらも分からなくなっていたのです。これは、392年キリスト教がローマ帝国の国教となり、ローマ帝国で繁栄していたミトラ神殿を徹底的に破壊し、その跡にキリスト教会を建てた戦術と同じです。今となっては、キリスト教の教義の多くが、ミトラ教の儀式を真似したことを知る人もいないのです。
しかし、目に見えるものは破壊してしまえば、見えなくなりますが、民族として記憶された儀式は、書物を焚書・改竄するようにはできません。
804年桓武天皇は、星祭の禁止と伴に、牛の屠殺を禁止するのです。何故、牛の屠殺をお上が法令で禁止したのでしょうか。それは、ミトラ教の聖なる儀式だったからです。
太陽神ミトラの化身は牡牛です。太陽は冬至に「死に」そして、その後「再生」するのです。太陽神ミトラに祈願するには、人工的な「死と再生」を創造するために、太陽神の化身牡牛を屠ることにより、それが成就できる、とミトラ教信者には信じられていたのです。
秦氏の祀り(祭祀)は、土の家(古墳・墓)=塚の上でおこなわれていたのです。しかし、こんもりした小山の塚の斎場には、簒奪王権により神社が建てられてしまうのです。何のための神社であるのかは、それは前政権の大石や小さな祠に眠る神を「神社」で封印してしまうためです。そして、その地が異教の神が棲む穢れ地の結界であることを示すために、鳥居をその出口に建てるのです。つまり、鳥居とは、神社で封印した前政権の神が、娑婆に出て祟らないようにするための装置なのです。
その秦氏が祀っていた「社」を封印した神社は、塚(ずか)→稲荷(じゅが→いなり。秦神→夷(えびす)神→いじん→夷なり→いなり→稲荷の一説あり。)となり、秦氏トーテムの狼がキツネに変身して祀られているわけです。
今となっては、稲荷神社には、遥か古代にオリエントから古代エジプトの土木・建築技術を伴って渡来したミトラ神を祀った秦氏の隠蔽された歴史があったことなど知るひとも多くはいないのです。
江戸時代、秦氏の神を祀った「社」が、三代将軍徳川家光から始る第三百済王朝により、「三河稲荷と犬のクソ」と貶められた理由は、平安時代の百済系桓武天皇による、母国百済を滅ぼした新羅・秦氏への怨念であったのです。
日本列島史を、「蘇我氏・秦氏・新羅系日本人」対「藤原氏・百済系日本人」の対立軸で眺めてみると、今まで見えなかった歴史が仄かに現れてくるのです。それは、騎馬民族文化を農耕民族文化で隠蔽した「史観の覆い」が取り除かれるからです。そして、そこに現れるのは、「自然に随う文化=自然神・太陽・月・星→景教(ミトラ神・魔多羅神・弥勒・遍照鬼・牛頭天皇)・道教(太一・北極星・北斗七星)」対「自然を克服する文化=人工神→仏教(藤原氏:興福寺・亡命百済貴族:延暦寺)・神道(藤原氏:春日社・亡命百済貴族:山王神社・日枝神社・日吉神社)」との果てしない闘争の歴史だったのです。

神輿の黙示録(14)(武士の謎:何故役座隠語と警察隠語が同じなのか)


刑事物語で、犯人を「ホシ」と呼ぶのは何故でしょう。天に瞬く綺麗な「星・ホシ」が、何故に犯罪者なのでしょう。では、星が、犯罪者(反体制者・アウトロー)の隠語となったのはいつからなのでしようか。
日本列島の歴史上、「星」を祀った天皇は、天武天皇(672年〜686年)が始めのようです。それは、天武天皇が、672年亡命百済王朝である近江王朝を武力で倒し、日本列島史で確認される最初の天皇として即位したからです。そして、天武天皇は、壬申の乱を武力でバックアップしてくれた伊勢の現地神を祀るため、685年伊勢神宮を建立し、道教の儀式で天帝を祀ったのです。
道教では、太一(北極星)が最高神の天帝であったのです。その天上の神(天御中主)を祀ることにより、地上の天皇はその影響力を強く受けることができると信じられていたからです。
藤原不比等による「日本書紀」では、秦河勝と聖徳太子との仏教伝来物語はあるのに、道教伝来関連の記述は掲載されてはいませんが、斉明二年(656年)の条に、「田身の嶺に周れる垣を冠らしめ(田身は山の名なり)また嶺の上の両つの槻の樹の辺に観を起て、号けて両槻宮とす。亦天つ宮と曰う。」とあるのです。
「日本書紀」によれば、この両槻宮は、槻の樹を辺に二本立てた「観」であるとの説明です。では、その「観」とは何かと言えば、仏寺でもなければ神社でもなく、それは道教寺院のことなのです。
この道観を建てた女帝斉明天皇(655年〜661年・実在は疑問。)は、「日本書紀」によれば、奇人扱いです。女帝斉明天皇は、重祚(ちようそ)する前は、女帝皇極天皇(641年〜645年)であったのです。「日本書紀」では、偶然にも蘇我王朝が滅んだ645年に、皇極天皇も退位したことになっているのです。
その女帝皇極天皇が変身した斉明天皇は、「天宮」の両槻宮を造り、更に、「狂心のミゾ」(石上山から香具山までの十二kmの大運河)を造り、その運河により運んだ石で、七万人余を費やして「石の山丘」を造った、との記述が「日本書紀」にあるのです。
更に、女帝斉明天皇は、「斉明三年(657年)トカラ人に饗えたまいき」、「斉明五年(659年)陸奥と越との蝦夷を饗えたまいき」、そして、「斉明六年(660年)ミシハセ四十七人に饗えたまいき」と、都での女帝斉明天皇による異民族接待の記述が三度も「日本書紀」にあるのは何故でしょう。
それらの「日本書紀」の女帝皇極天皇と女帝斉明天皇の物語は、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝時代に、難波・近江の湊から大運河を造り、ガラス工場のある飛鳥ヤマトに、その原料である石英の小石を船で運び込んだ事実と、中国大陸や陸奥からのアラム語やソグド語を話す多数の国際交易人が飛鳥ヤマトに来た事実を、時代を五六十年後にずらして、中国大陸の突厥帝国が支援する飛鳥ヤマトのチュルク系騎馬民族による国際交易の史実を隠蔽するための物語であったのです。
その根拠は、突厥帝国に敵対する隋の煬帝(604年〜618年)は、608年隋使裴世清を倭国に派遣し、その裴世清は小野妹子の案内により、難波の湊から、運河で船に乗り飛鳥ヤマトへ「男王」に謁見のため訪れていたからです。その「隋書」の記述に反して、「日本書紀」によれば、その隋使渡来の時代は、摂政聖徳太子が活躍した「女帝」推古天皇(593年〜628年、実在は疑問。)の統治時代だったのです。
「日本書紀」は、720年に完成・完結したものではないようです。完成後も、時の王権の思惑により改竄され続けられたようです。国書である系図一巻が紛失したことも、改竄に関係があったのでしょう。「日本書紀」の文章を分析すると、三群の作家集団により創作されたようです。第一群は、ヤマト言葉も漢語も堪能な群です。第二群は、ヤマト言葉は堪能でも、漢語が稚拙な群です。第三群は、ヤマト言葉は稚拙だが、漢語に堪能な群です。
そのような作家群により創作された「日本書紀」にある、「皇極」や「斉明」とは、漢風のおくりなです。その名前がいつ付けられたかの定説は未だないようです。(神武天皇の漢風おくりなは、奈良時代に淡海三船により発明された、との一説あり。)その「皇極」とは、中国大陸では太極と同じ意味で、「世界の中心」ということです。そして、「斉明」とは、「神の祭りを熱心にする人」の意味です。これらの言葉の出典は、中国古典の「礼記」や「書経」です。
「日本書紀」で記載されている高貴な意味の名前「皇極・斉明=世界の中心・神を熱心に祀る女帝」と、その行動を「狂心・たわぶれごころ」と、「日本書紀」でこき下ろすその落差の意味は何なのでしょう。
飛鳥・奈良時代までは、天帝である北極星を祀っていたことは確かです。それに、飛鳥時代の最上官位である「真人」とは、天帝である北極星(太一)を世話する北斗七星に居ると信じられている高官のことなのです。
しかし、この飛鳥時代の天武天皇より始る星祀りは、平安時代の桓武天皇により禁止されてしまうのです。そして、道教は「左道」と呼ばれ、邪教扱いに貶められてしまうのです。
騎馬民族文化の飛鳥時代では、「左」は、「右」よりも優位であったのです。その「左」を「邪」とするのは、平安時代より文化基準が、飛鳥・奈良時代と異なってしまったことを意味するのです。(江戸初期、東雛(あづまびな)により「左側」優位が復活。しかし、徳川三代将軍家光が天下人となると、京雛(きょうびな)の「右側」が優位となる。)
騎馬民族が、「左」を「右」より優位にしたのは、北から南の農耕民族と対峙すると、夜明けが「左=東」となり、日没が「右=西」となるからです。ですから、騎馬民族の出陣は、右翼よりも、左翼が先陣を切ったのです。
その飛鳥時代より奈良時代まで続いた騎馬文化を否定する、道教を左道(邪教)と決め付ける平安時代の貴族は、馬で移動するのではなく、牛車で移動していたのです。
では、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔は、どこに消えてしまったのでしょうか。
「士農工商」の身分制度は、江戸時代に確立されたと思っているひとが多くいるようですが、それは違います。「士農工商」の身分法は、関白豊臣秀吉が、小田原征伐後、全国を統一して、宿敵の騎馬民族末裔徳川家康をひとも住めぬ湿地帯の穢れ地(エド→江戸)に移封した翌年、1591年に発令したのです。
藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉は、騎馬民族末裔の武士集団壊滅を意図して、その三年前の1588年には、刀狩令を発して、徳川家康を支援する土着武装勢力と農民・工人・商人との分離を画策していたのです。(関白豊臣秀吉は、宿敵徳川家康を支援する渡辺村を穢多村と貶めたが、1600年徳川家康は、関が原の戦いで、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅すると、渡辺村を役人村に引き上げ、摂津の部落民をエドに移民させるのです。)
日本刀により戦をする武士のイメージは、第三百済王朝の江戸時代の書物や講談により創られたようです。1543年(一説には、1542年豊後に渡来。)鉄砲が伝来するまでの戦では、刀は主力武器ではなかったようです。それは、戦死者の傷の多くは、矢によるものと槍によるものが殆んどであったようです。では、戦での日本刀の用途は何にかと言えば、それは敵の首切り用に使われたようです。日本列島での戦の報奨金は、敵の首と引き換えによりおこなわれていたのです。この報奨金制度は、歴史上では秦の始皇帝軍(紀元前221年〜紀元前201年)が始めのようです。漢民族には首切りの風習はなかったのです。
時代劇でお馴染みの剣術・剣法が盛んになったのは、騎馬民族末裔の武士集団が滅ぼされ、大規模な戦が無くなった第三百済王朝の徳川三代将軍家光からなのです。戦の無くなった第三百済王朝の江戸時代は、サムライ物語が盛んに創作された時代だったのです。そして、 二刀流の剣豪宮本武蔵などは、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」(1637年〜1638年島原の乱に参戦)との合成人物であったのです。
では、日本刀を武器とする武士は、どのようにして日本列島に現れたのでしょうか。
日本刀の特徴を簡単に言えば、反りのある片刃で、両手で握って使うということです。そして、不思議なのは、日本刀の古い名刀ほど、実戦には適していないことです。それは、曲がる、折れる、刃こぼれするからです。この日本刀が、歴史上現れたのは、平安時代のようです。
平安時代は、中国大陸で唐が覇権を制し、北のウイグル、西の吐蕃、東の新羅・渤海に圧力をかけていたのです。その圧力は、当然日本列島にも及んでいたのです。
唐の庇護を受けていた藤原氏を出し抜いて、桓武天皇は日本列島経営に着手するのです。それは、唐が求める陸奥の鉱物資源奪取です。その前触れとして、天武王朝最後の女帝称徳天皇を倒すと、亡命百済貴族末裔の光仁天皇は、780年百姓から武力に秀でた者を選び、戦闘訓練により軍隊を組織するのです。これが、日本列島での初の兵農分離です。そして、792年その息子の桓武天皇は、奈良時代の軍団を廃して、健児兵を組織するのです。
唐の支援により、桓武天皇軍団は、陸奥の「風の王国」を謀略で壊滅すると、「風の王国」の武人・技術者を捕虜として、京の都に連行して、捕虜収容所の「部落」に押し込めるわけです。そして、この時代に、京の都には「鬼」が出没するようになるのです。やがて「鬼」は京の都を荒しにかかるのです。
桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も上皇となり、809年即位した嵯峨天皇は、子作りが盛んで、分かっているだけでも五十人の父親であったのです。この頃、藤原氏のエージェント空海は、回春力抜群の密教秘法(真言立川流)により、子作りが得意な嵯峨天皇に接近して、その寵愛を受けるのです。その裏には、藤原氏の陰謀による、平成上皇と嵯峨天皇との確執による藤原薬子の乱があったのです。
事業は三代続かぬ格言を証明するように、嵯峨天皇の台所は火の車となるのです。そこで、皇子・皇女の手当てが支給できなくなり、814年多くの子供達の皇籍を外す手段として、源氏賜姓をおこなうのです。これが世に言う、嵯峨源氏の始まりです。
その嵯峨天皇に対抗して、淳和天皇は、825年平氏賜姓をおこなうのです。これが世に言う、公家桓武平氏の始まりです。
嵯峨天皇の時代、都の治安が「鬼」の活躍により悪化するのです。そこで、816年京の都のガードマンとして、検非違使を組織するのです。しかし、この平安貴族により組織された検非違使では、「鬼退治」はできないのです。それは、山奥に住む「鬼」とは、武術に秀でた飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔であったからです。
更に、空海と最澄による中国渡来のヒンズー教化仏教(真言宗・天台宗)布教により、「鬼」のイメージが過大に膨らんでしまっていたのです。空海・最澄は、極楽世界よりも、鬼の住む地獄世界をリアルに宣伝したため、その鬼の住む地獄世界がトラウマとなり、ひとびとのこころを蝕んでしまっていたのです。(この閻魔様の地獄のトラウマは現在も続いている。)
平安仏教徒が宣伝する地獄世界が、平安貴族をどれほど脅かしたのかといえば、それは、奈良の都で、聖武天皇が発起人となって鋳造した、奈良の大仏の製作過程(752年開眼供養)での、銅・水銀による鉱毒で、平城京(710年〜784年)の街は地獄絵そのもので、ほんの十年前の出来事であったからです。
当時の医学知識では、鉱毒中毒の認識がなく、目に見える皮膚病が病で、目に見えない神経症の病は、怨霊の祟りと信じられていたのです。そのような地獄世界の平城京から、794年平安京へ逃れてきた亡命百済貴族は、平安仏教徒がインド・バラモン教やヒンズー教の地獄世界を東洋化したビジュアルで宣伝したため、バーチャル地獄世界と奈良の鉱毒汚染世界とがオーバーラップして増幅してしまっていたわけです。
更に、空海が中国から持ち込んだ密教呪法の手印のパフォーマンスは、江戸時代まで影響を及ぼし、奈良の穢れ大仏の手から悪霊が発せられると信じられていたため、奈良の大仏を観光資源にするために寺側は、鑑賞者が手印の呪法に掛からないようにするために、大仏の顔だけ鑑賞できるように、窓を開けた門を造ることになったほどなのです。
そのような地獄世界を平安貴族に布教することにより、空海と最澄は守護神の仲介者として、密教のアラム語呪文やゾロアスター教の儀式を真似た加持祈祷のパフォーマンスにより金儲けができるわけです。
しかし、唐に軍事支援された桓武天皇軍に破れ、山に逃れた前政権貴族・軍人の末裔は、平安仏教が地獄世界を宣伝したため、おどろおどろしい「鬼」として認識されてしまうのです。(仏教徒が始めた節分で、飛鳥ヤマト支配者の末裔の鬼は、豆で「鬼は外」と追い払われる身分に貶められるのですが、しかし、鬼の末裔の騎馬系武士家では、「鬼は内」なのです。)
そこで、平安貴族は、悪霊の妖怪の手下である「鬼」退治のため、「夷を以って、夷を制す」の戦術として、部落に住む「風の王国」の捕虜を検非違使の手下(手下は、中国漢代の官位を真似て「長吏」と呼ばれていた。しかし、平安時代に警察業務をおこなった長吏は、第三百済王朝の江戸時代に、「穢多」と同義語となるのはどうしてでしょうか。)として使うのです。
嵯峨天皇の皇子で臣籍に降った源融の子孫源綱は、清和源氏(新羅花郎軍団=ローマ軍団末裔)の源満仲の婿の養子となり、摂津西成郡渡辺村に移って渡辺姓を称するのです。
その渡辺村とは、古代エジプト語の「ワタ・波」が打ち寄せる辺(ほとり)で、「津」にある村(スク・集落)の意味で、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの交易湊となっていたのです。つまり、渡辺村は四世紀以降から、摂津渡辺津→北九州松浦→朝鮮半島南端珍島(メズラ→マツラ→松浦)の海路によるギリシャ・ローマ文化保持国新羅のコロニーで、百済のコロニー難波と対峙していたのです。
その渡辺綱は、源頼光に仕え、坂田金時、平貞道、卜部季武と共に頼光四天王と称され、「鬼退治」をおこなうわけです。その鬼退治に使われた武器が、後の武士の武具である、日本刀と鎧の原型として伝わるわけです。(この鬼退治の話は史実ではないようです。) しかし、この平安時代の日本刀と鎧は、実戦用ではなかったようです。それは、日本刀は、曲がる、折れる、刃こぼれするからです。更に、その鎧は、実戦不向きの過度の装飾を施した総皮製であったのです。では、それらの武具で武装する平安武士とは、何のための存在なのでしょう。それは、実在の敵と戦うのではなく、平安京を跋扈する目に見えぬ悪霊との戦いをする「武芸者」(芸とは神を祀ること。武芸とは、武の舞により神を祀ること。この武舞芸が源氏騎馬民族支配の室町時代に能楽に発展する。)だったのです。
では、世界でも珍しい実戦用ではない武器の日本刀のルーツは何かと探すと、その行き着く先は、陸奥の「風の王国」戦士の武器である蕨手刀となるのです。この蕨手刀は、唐軍により支援された桓武天皇軍の謀略により壊滅された、陸奥の「風の王国」の捕虜が、京に連行され部落に押し込められ武器製造の奴隷とされた、陸奥蝦夷の武器であったのです。(突厥帝国軍の刀と蕨手刀は酷似している。)
独特な片刃で反りのある日本刀が生まれた背景は、騎馬民族が、馬上から刀を振り下ろす時に生じる激力を分散させるために、刀に反りを付けたことによるのです。騎馬戦で有利な片刃の反り刀も、地上戦では、両刃の直刀の方が、片刃の反り刀より有利なのです。片刃の反り刀は、騎馬民族の智慧から生まれた武器であったのです。
では、チュルク系騎馬民族末裔が蝦夷であった根拠を述べれば、陸奥には、801年坂上田村麻呂が蝦夷を平定する以前、645年唐に支援された藤原氏により、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝が倒された時、その蕨手刀を持った敗残兵は陸奥へ逃れていたからです。
武士のルーツが、俘囚の末裔(蝦夷=チュルク系騎馬民族)といわれた理由が、武士の魂である日本刀の「反り」で証明されるわけです。
更に、武士が仏教を嫌う理由は、武士同士の書き文字が、漢字ではなく、カタカナであることで説明できるでしょう。
時代劇で、漢字ひらがなまじりの書状を読む場面があることにより、武士は漢字で書状を書いていたように思われているようですが、それは代書屋に依頼したものです。
戦国時代までの代書屋の多くは、仏寺であったのです。武将が戦の前に、戦勝祈願のために仏寺に行く本当の理由は、漢字書状の解読、返事の代書と、軍資金の調達のためだったのです。仏教嫌いの織田信長と徳川家康が、イエズス会の軍事力を背景に、仏教勢力を壊滅するまでは、仏寺は軍事部族に対して借上(高利貸し)をおこなっていたのです。
では、何故に武士が漢字を認識できなかったのかと言えば、それは、武士の世界に漢字文化(仏教文化)がなかったからです。日本刀で武装する武士の祖先は、清和源氏の源義光が、別名新羅三郎と言われたように、源氏のルーツは、仏教国高句麗・百済と対峙していた、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅であったからです。ですから、日本武士道とローマ騎士道とには、弱者を助け、君主に忠誠を尽くすことや、戦の方法として、名乗りを上げる一騎討ちやトーナメント形式の戦いなどの共通点が多くあるのはそのためなのです。
では、武士の別称と思われている「サムライ」とは、何なのでしょうか。「サムライ」は、第三百済王朝の江戸時代に、武士と同義語として使われ始めた言葉です。しかし、「サムライ」の語源は、平安時代まで遡るのです。
810年藤原薬子の乱により、身の危険を感じた嵯峨天皇は、蔵人所という令外官を設けるのです。その任務は、天皇の側に侍(はべ)り、警護と秘書の役目を担ったのです。その「侍る」ことを、「サブラヒ」と言ったことから、天皇の武装警護人を「サブラヒ・侍」と呼ばれていくわけです。「サブラヒ・侍」は、天皇の秘書も務まる、漢字文書が理解できる仏教文化に染まった亡命百済貴族子息により組織されていたのです。
平安時代には、令外官として二種類の武装集団がいたのです。それは、漢字の読めない新羅系「武芸者・武士=警察業務」と、漢字が読める百済系「サブラヒ・侍=秘書業務」とです。それらは、同じく武装はしているけれども、出自民族も別なら遂行任務も別であったのです。
空海が、密教儀式で嵯峨天皇に取り入られると、それと同時に藤原氏も、「藤原の女」を天皇の側室として送り続けることにより、文徳天皇(850年〜858年)の時代には、藤原良房が天皇を補佐する摂政の職務をおこなうわけです。そして、清和天皇(858年〜876年)の時代には、藤原良房へ摂政の詔が出るのです。この藤原良房が、摂政として天皇に代わり政治の実権を握ったことにより、第一百済王朝は崩壊して、藤原王朝へと突き進んでいくのです。(聖徳太子の実在性を否定する証拠のひとつとして、「摂政」の職務が、858年以前には存在していなかったことが上げられます。)
やがて、、中国大陸を支配していた唐も、東ローマ帝国とのシルクロード交易も、アラブ(中国ではインド以西はペルシャと呼ばれていた。)→インド→中国への海のシルクロード交易が盛んになると、そのシルクロード国際交易商人からの通行税収入がなくなったため国力が疲弊し、ついに907年唐が滅亡するのです。すると、平安時代の栄華を誇った第一百済王朝も衰退していくのです。それは、第一百済王朝は、唐の軍事的後ろ盾があったからこそ政権の中枢に居られたからです。
陸の交易から海の交易への影響は、朝鮮半島を支配していた統一新羅にも及ぶわけです。935年統一新羅が滅び、翌年高麗が朝鮮半島を統一するのです。この影響は、日本列島にも波及するわけです。それは、多くの統一新羅軍の残党が、日本列島に渡来したからです。それに同調して起こったのが、939年の天慶の乱です。瀬戸内海では藤原純友が、関東では平将門が兵を挙げて、独立国を建て自ら「王」を名乗ったのです。
この天慶の乱を鎮圧したことにより、百済系官僚の下で警察業務をおこなっていた「武士」の武闘力が、公に認められるのです。武士は、元々騎馬民族末裔で弓馬に優れていたため、歩兵軍団の敵ではなかったのです。
中国大陸では、唐の後に、北漢・後周・南唐・楚・後蜀・呉越が興った後、960年宋が起こり、979年宋が中国を統一すると、平安政権を牛耳る藤原氏は、日宋貿易により益々栄華を極めるのです。そして、宋の北には、契丹を継承した遼(916年〜1125年)が対峙するのです。
ここでひとつの疑問が涌くのです。それは、武士が始めて政権を執った鎌倉源氏の先祖がどこから来たかです。それは、鎌倉源氏の先祖は、嵯峨源氏ではなく、清和源氏であるからです。
天慶の乱後、藤原氏の桓武天皇より奈良に封印されたことからの政界返り咲きと同時に、645年突然日本列島に現れた藤原氏と同様に、清和源氏が政界に突然現れるのです。そして、昇殿を許された嵯峨源氏と許されない清和源氏が、天慶の乱後に合体したことになるのです。その説明として、嵯峨源氏末裔の源綱が、源満仲の婿の養子となったことです。更に、元皇籍末裔であった源綱は、渡辺津に移り渡辺綱となり渡辺党を興し、清和源氏の源満仲の配下となったことに歴史上なるのです。つまり、歴史上、清和源氏は、嵯峨源氏賜姓から約150年後に公家源氏を配下とし、源氏棟梁を継承したとの説明です。
ですから、天慶の乱以降、武家源氏の先祖は清和源氏となっているのです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。今に残る武将に関する系図の多くは、戦国時代も終わり、豊臣秀吉が天下を取った安土桃山時代以降からです。戦国時代の武将の系図が信用できないのは、特に、豊臣秀吉は、自らの出自を消すためにイエズス会史料や織田信長関連を焚書していたからです。幼名が日吉丸(ひよし=イルギ=百済系か。豊臣秀吉の出自は、木下とう「唐」きち「来た」ろう「男」か。)と云われ、自称百姓出身と言っても、百姓は王権に管理されていたため母の名が不詳とは、いったい関白豊臣秀吉はどこの生まれであったのでしょうか。しかし、豊臣秀吉だけが例外ではなく、戦国武将の多くは、出自不詳であったのです。戦国時代を代表する明智光秀、徳川家康なども、その出自は不詳であったのです。しかし、織田信長は、三代先までは辿れるのですが、その三代先の墓は、垣内にあったのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇(858年〜876年)→貞純親王→源経基→源満仲(912年?〜997年)→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、969年安和の変(藤原氏の陰謀で、武家源氏・源満仲を取り込んで、密告させることにより公家源氏・左大臣源高明を左遷させた事件。これは、藤原氏末裔近衛家が、イエズス会傭兵日吉丸→羽柴秀吉を取り込んで、関白豊臣秀吉とし、1590年騎馬民族末裔徳川家康を左遷させた戦術と同じです。)で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生?)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、鎌倉源氏の祖清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
では、武士の魂である日本刀で武装する清和源氏は、どこから来たのでしょうか。
教科書歴史を読んでいると、神代に九州に降臨した天孫族が、四世紀飛鳥ヤマトを征服し、その後、海外の軍事力の影響をまったく受けずに、九州に棲む熊襲や隼人を征服し、そして、九世紀陸奥に棲む無文化の蝦夷を征服して、平安時代に日本列島本土を統一した、というストーリ展開を意図的にしているように感じられます。
しかし、東アジア地図を、百八十度回転させて眺めてみると、日本列島は、日本海(東海・とんへ)を内海とする、騎馬遊牧民族が住む北東ユーラシアから、南東中国大陸へ至る「渡り廊下」にみえるでしょう。だから、騎馬遊牧民族が、アムール川を下り、サハリン→北海道→本州へのルートの、北海道は、古来から「渡り島」と呼ばれていたのです。日本列島は、古来から孤立していたのではなく、縄文以前から岩手県久慈には琥珀が産出され、バルト海沿岸まで、国際交易商人による琥珀ロードがあったのです。
日本列島は、北東ユーラシアの騎馬遊牧民族には南東中国本土へ攻め込む前線基地であり、それに対して、南東中国諸国では、南下する騎馬遊牧民族を阻止するために、日本列島を軍事的に押えることは死活問題となるわけです。つまり、日本列島の中心の飛鳥ヤマトは、東ユーラシア大陸の国々に、そのような軍事最前線基地として位置づけられていたのです。この「北=騎馬遊牧民族」対「南=農耕民族」の軍事対決は、「北の短弓」対「南の長弓」で証明できます。
弓からでもその南北の民族性が解明できるのです。弓の弦は、北は騎馬遊牧民族なので動物の小腸を加工したものだから、弦自体に弾力性があるため弓が短くても強力な武器となるのです。しかし、南は農耕民族なので弦は植物繊維のため、弦自体に弾力性がないため、弓を長くしてその弾力により矢を射るわけです。
漢族化した唐の軍事援助により京を支配した第一百済王朝の平安時代、平安貴族が、騎馬民族末裔の弓弦を売るひとを、「つるめそ・犬神人」として貶めた理由が、古代から続く南北対立民族闘争の結果であったわけです。
十世紀の日本列島は、唐の軍事勢力後押しの第一百済王朝の平安王朝が近畿を支配していたけれども、それは平地のみで、近畿の山々や東北の山々に隠れ住む蘇我王朝・天武王朝の騎馬遊牧民族末裔の「風の王国」の軍事勢力は健在だったのです。
やがて、907年唐が滅び、そして926年渤海が滅び、更に935統一新羅が滅ぶと、東アジアは、騒乱の時代に突入するわけです。では、戦いに敗れた東アジアの元支配者階級は、どこへ亡命したのでしょうか。
1776年の国民国家誕生までは、世界には固定した国境など存在していません。ですから、敗れた王族は、より弱い王国を侵略して生き延びるわけです。
唐が陸路のシルクロード交易で栄えていた頃、イスラム帝国がユーラシアの内陸を支配したため、アラブ(ペルシャ)の国際交易商人は、中国への海路を開発するわけです。七世紀後半には、アラブ(ペルシャ)→インド→唐への海路での定期交易路が開発されていたのです。そして、統一新羅も、陸路が使えなくなったため、交易海路を開発していたのです。
奈良・平安時代の遣唐使船は、藤原氏の日唐貿易独占と天武王朝系次世代貴族抹殺の陰謀のため、すこしの嵐でも遭難するように設計されていたため、やっとのおもいで唐に渡った遣唐使(唐留学期間は二十年前後なのに、何故最澄は八ヶ月で、空海は一年数ヶ月で帰朝したのでしょうか。それは、その唐留学の本当の目的が仏教勉学ではなかったからです。)の多くは、日本への帰りは安全な新羅商船を多く使っていたのです。
統一新羅が海上交易に強かったのは、弥生時代の北九州・山陰と朝鮮半島南端は、国際海洋交易民族呉(紀元前473年滅亡)・越(紀元前334年滅亡)末裔の倭族・韓族(倭族と韓族は同族)の支配地であったからです。朝鮮半島南端の珍島(メズラ)と北九州の松浦(マツラ・魏志倭人伝のマツロ国)とは、潮目を読める海洋民族により、古代から交易のため頻繁に行き来していたのです。(後に、松浦の海洋民族は、源氏海軍松浦党となり、朝鮮半島南端の珍島の海洋民族は、五島列島に拠点を移し倭寇となるのです。)
907年唐が滅亡すると、多くの元唐支配階級が平安王朝を頼って亡命してくるわけです。新羅商船が、唐滅亡前後に日本列島に頻回に訪れたのはそのためです。920年には渤海使が入貢し、その6年後、926年渤海は滅亡するのです。929年統一新羅は、朝貢を願い出るのですが、第一百済王朝に退けられるのですが、その6年後、935年統一新羅は滅ぶのです。
そのように、日本列島史では、東アジアの元支配者階級の亡命を拒否したことになっているのですが、平安時代の京の街の治安が大いに乱れたことは、東アジアの亡命者の渡来と関係があったのでしょう。その結果が、939年の天慶の乱(瀬戸内海・藤原純友の乱と関東・平将門の乱)となるわけです。それらは、唯の乱ではない証拠に、それぞれが「王」を名乗っていたからです。つまり、それらの乱の実態は、亡命王国の樹立だったのです。
天慶の乱後、武家源氏の武闘力を見せ付けられた藤原氏は、源満仲を取り込み、公家源氏の左大臣源高明を陰謀により左遷させ、摂関政治を利用して、第一百済王朝を潰しに掛かるのです。政権を倒すには、財布の紐を締めればよいのです。第一百済王朝の経済を支えていたのは、陸奥の鉱物資源の金・琥珀・鉄などです。
そこで、1051年摂政関白藤原頼道は、取り込んだ源頼義を陸奥に送り、陸奥俘囚長安部頼時を滅ぼすのです。これが世に言う、前九年の役(1051年〜1062年)です。その後、源義家(八幡太郎・八幡(やはた)とは、秦氏の神を祀る社です。その秦氏の神は、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来したのです。)の弟源義光(新羅三郎)が俘囚清原家衡を滅ぼすのです。これが後三年の役(1086年〜1088年)です。この源氏兄弟の軍事力を使った二度の陸奥侵略戦争により、奥州藤原氏の基礎が完成するわけです。しかし、藤原氏は、源氏の肥大化する軍事力を恐れるのです。そして、その恐れは現実となるのです。
藤原氏の摂政政治により律令体制が崩れ、私領である荘園経営が発達しため、この頃では、各豪族がそれぞれの荘園領主となって小さな独立国のようになっていたのです。その小さな荘園領主が、源義光(新羅三郎)の後三年の役の軍事的活躍を知り、その保護を求めるために、自らの荘園を源氏棟梁に寄進するわけです。そこで藤原王朝(866年〜1196年)に支配されている朝廷は、1091年源義家(八幡太郎)への荘園寄進の禁止を発令すのです。更に、翌年には源義家(八幡太郎)の荘園設立を禁止するのです。しかし、朝廷は、源義家(八幡太郎)の実力を無視できなくなり、1098年源義家(八幡太郎)は、ついに昇殿を許されるのです。
藤原氏は、第一百済王朝の経済を支えた陸奥の鉱物資源を奪取すると、藤原氏の荘園である南九州坊津から中国寧波へ、陸奥からの簒奪物資を輸出するわけです。その頃の宋には既に、アラブ(ペルシャ)からの国際交易船がインド経由で多く訪れていたのです。アラブ(ペルシャ)商船は、伊勢の水銀を求めて、古くから訪れていたようです。黒潮により南方のヤシの実が訪れる伊勢湾の湊は、古来から南方からの国際交易港だったのです。
昇殿を許され、山の民を味方に付けた源氏は、藤原氏のコントロールが効かないほどの勢力となるのです。そして、源氏勢力は、比叡山を廃墟にした織田信長や徳川家康のように、騎馬民族を賎民に貶めた思想を広めた拠点である平安仏教寺を荒らしまわるのです。そこで、藤原氏は、伊勢を根城とするアラブ(ペルシャ)系武装集団の利用を考えるわけです。ここに平家の登場となるわけです。平家の棟梁平正盛の登場は、1107年出雲目代を殺害した源義親の追討からです。
では、「平家」と「平氏」とは同じ軍事部族なのでしょうか。もし同じ軍事部族だとしたら、源平合戦(1180年〜1185年)とは、実態は「平家対平氏の合戦」となってしまうのです。何故ならば、源頼朝の源氏挙兵(1180年石橋山の戦い)は、桓武平氏末裔北条氏の陰謀だったからです。つまり、源平合戦での実戦部隊は源氏軍事部族であったけれども、その政治中枢は源頼朝を傀儡とする平氏の北条氏であったからです。
平安時代の関東の海岸側に勢力を張る、千葉氏、上総氏、三浦氏、そして北条氏は、平安初期、百済系桓武天皇が、唐の要請により陸奥の鉱物資源を奪取するために組織した、中国山東半島から移住した元百済軍事部族による健児兵の流れを汲む、桓武平氏の末裔だったのです。つまり、桓武平氏の「平氏」とは「官位の姓」であり、ツングース系の半農半猟民族の末裔で「サブラヒ・侍」の末裔だったので、戦闘騎馬技術は苦手だったのです。
それに対して、「平家」とは、「平氏」とは異なり、姓(かばね)ではないのです。では、何ゆえに「平家」なのでしょうか。それは、摂政藤原氏の政治専制に不満を持つ、百済系白河法皇(天皇1072年〜1086年・上皇1086年〜1096年・法皇1096年〜1129年)が、藤原氏の戦略を真似た平正盛の「祇園女御」と金銭の贈呈を受けることにより、平正盛を白河上皇の軍事護衛側近として召抱えた時に与えた「名前」だったのです。つまり、「平家」とは、「平氏」と異なり、官位の姓ではないのです。
桓武平氏には、北条氏とか千葉氏などの氏名(うじめい)があるのに、平家には、氏名がありません。平家は、ただ「平○○」と名乗るだけです。平正盛の系図では、桓武天皇〜貞盛→維衡→正度→正衡→正盛となっているようですが、正盛以前は不詳です。そもそも、氏名がないということは、平家は日本列島に歴史をもっていなかったことを意味しています。それは、主に氏名の元は土地名だったからです。
では、平家が日本列島の生まれでないとしたら、どこから渡来したのでしょうか。考えられるのは、平家が好む、赤色の「べんがら染」です。「べんがら」とは、インド・ベンガル地方で産出される、酸化鉄の染料です。更に、白河法皇に召抱えられ、伊勢から京に拠点を移した所を、「祇園」とするのです。この祇園とは、インドの祇園と大いに関係があるのです。インドでは、牛は聖獣です。そしてこの京都祇園で始る祭りは、「牛祭り」と呼ばれのです。やがて、元山背国支配者のオリエントから渡来の秦氏が祀る、ミトラ神(魔多羅神)の化身である牡牛の屠り儀式と習合して、牛頭天皇の牛祭りとなるのです。この祇園祭は、インドとオリエントの異民族の祭りのため、半農半猟民族ツングースの夫餘族末裔である亡命百済平安貴族から忌み嫌われていたのです。この祭りが始ると、平安貴族は、神輿違えといって、京からその祭りの期間は郊外に避難したほどなのです。平家は、平安貴族より、賎民視されていたのです。
平家が、従来の軍事部族と異なるのは、日本の神も仏も恐れないということです。平家軍団は、怨霊を封じ込めた移動式神社である「神輿」に矢を射ったり、仏像に火を放ったりしたからです。(1180年源頼政が平家打倒で挙兵すると、平重衡は鬼の神・遍照鬼が安置されている東大寺に火を放つのです。)この平家の宗教施設の破壊の背景は、1017年藤原王朝絶頂期の藤原道長が摂政関白の時、神を仏の手下とする本地垂迹説の発明と関係があるようです。その結果、仏寺に神社が習合されてしまい、空海が唐から密教の神々として日本国に持ち込んだ、インドのバラモン教やヒンズー教の神々の像が仏像として安置されていたからです。
インド文化を保持する平家には、平安仏教施設や仏像は、霊験あらたかな「聖」ではなく、インド宗教の紛い物の「邪」に見えたことでしょう。
そのようなインドの神々を仏像として祀る比叡山延暦寺の薙刀で武装する僧兵は、藤原氏が支配する京に、日吉の神を祀る神輿を奉じて乱入するわけです。
京の街は、藤原氏の興福寺・春日社側と亡命百済貴族の延暦寺・日吉社・日枝社側との抗争時代に突入していたのです。その争いに乗じて、それらのヒンズー教化仏教に呪縛されていない平家は、それらの仏教勢力を武力で鎮圧することで、政界中央に登りつめていくわけです。そして、1167年平清盛は、太政大臣となるわけです。
そのように、日本的ではない思想を持つ、インド(アラブ)文化色が強い平家が、源氏に屋島の海戦で破れ、壇ノ浦を目指して逃亡したのは、先祖が来た海路を逆に辿り、インド→アラブ(ペルシャ)を目指したのかもしれません。平家の海洋民族文化色をみれば、その推測も成り立ちます。
アラブ国際商人の傭兵軍末裔を先祖に持つ、祇園女御を利用して安徳天皇の姻戚に登りつめた平清盛は、福原京を造り南宋貿易を独占したため、後白河法皇と藤原氏にとっては滅ぼさなければ成らない存在になっていたのです。
そのように平家が増長してしまったのは、後白河天皇と藤原氏が、1156年保元の乱と1159年平治の乱で、源氏軍団壊滅のため、平家を支援したための結果だったのです。
平家から統治権を取り戻すには、関東に棲息する桓武平氏末裔の海軍力ではかないません。それは、平家には、海外傭兵軍の強力な支援があるからです。
そこで、藤原氏と後白河上皇は、伊豆に幽閉されて、平氏の北条時政に居候をしている源頼朝を担ぎ出し、源頼朝を源氏棟梁とし、同族である陸奥の山奥に勢力を張るチュルク系騎馬民族末裔の軍事力を利用することを計画するわけです。
鎌倉源氏集めの過程で、奈良時代の終わりに、藤原氏と亡命百済貴族との戦いに敗れた、天武王朝末裔の騎馬民族が関東の山奥に逃亡したことを知ることができるようです。
それは、1180年平氏の北条氏軍のみで源頼朝を担いで挙兵した石橋山の戦いで、平家に敗れた源頼朝軍残党は、伊豆から船により房総に逃れると、再起のため騎馬戦を得意とする源氏武将集めに、関東にある廃墟となっている国分寺を廻るのです。その廃墟の国分寺に、関東の山々から多くの騎馬源氏武将が集まるのです。(石橋山の戦いでの敗走の時、源頼朝を助けたのが、弾左衛門と云われています。この時の弾左衛門は、まだ穢多頭ではなかったのです。穢多の蔑称が発明されたのは、1219年源氏三代鎌倉幕府を陰謀で倒した、百済系北条鎌倉幕府の第二百済王朝時代(1219年〜1334年)だったからです。)
国分寺の歴史は、反藤原氏の歴史そのものです。反藤原氏の聖武天皇が奈良の大仏(=遍照鬼・空海が一神教を真似て「大日如来」を発明したため、反藤原氏の遍照鬼が、体制側の奈良の大仏様となってしまった。)を、藤原氏が支配する平城京を見下ろす丘に建立し、奈良の大仏の霊力で藤原氏の平城京を封じ込める装置であったのです。国分寺とは、その大仏の効力を地方にも及ぼすための装置であったのです。ですから、奈良時代での地方の国分寺は、反藤原氏の拠点でもあったのです。しかし、藤原氏を出し抜き百済系桓武天皇が支配者となった平安時代では、奈良の大仏建立時の鉱毒汚染の影響の怨霊封じのためと、百済本国を滅ぼした新羅末裔の源氏壊滅のため、その拠点の国分寺も安置された仏像(遍照鬼)も穢れ仏として、ことごとく破壊してしまっていたのです。
平家との石橋山の戦いで形勢不利の平氏北条氏は、奥州藤原氏の策略で源義経の担ぎ出しが成功すると、鎌倉源氏による平家打倒計画を実行に移すのです。源義経と源頼朝が兄弟であることは疑問ですが、藤原秀衡の後押しで源義経は、小腸の弦を張る短弓で武装した蝦夷末裔の山の民と伴に騎馬で平家追討に赴くのです。(蝦夷とは、農耕民族の文士が発明した言葉で、エビのようなヒゲのある、夷=弓を持った人の意味であるわけです。つまり、蝦夷とは、ヒゲの薄いツングース系民族ではなく、ヒゲの濃いチュルク系民族を意味した言葉です。)
この源平合戦(1180年〜1185年)は、「北」対「南」、「源氏+平氏」対「平家」、「騎馬民族」対「海洋民族」、「短弓」対「長弓」、更にその背景には、東アジアの、北宋を支配した騎馬遊牧民族の金=北朝(1115年〜1234年)と平家と藤原氏の貿易国である農耕民族の南宋=南朝(1127年〜1279年)との代理戦争でもあったのです。(1271年中国大陸の南北朝を統一した騎馬遊牧民族元軍のシンボルは笹リンドウで、源義経のシンボルも笹リンドウであるのです。このことは、同じ騎馬遊牧民族だっただけの、唯の偶然なのでしょうか。この頃日本列島では、まだ戦時に家紋やシンボルが使用されていなかったのです。敵味方の識別は、源氏の白旗と、平家の赤旗であったのです。日本列島にシンボルや家紋付き旗が戦場に現れるのは、戦国時代からなのです。)
鎌倉時代は、平安時代と共に不思議な時代です。
平安時代の不思議は、飛鳥・奈良時代の騎馬文化を継承していないにもかかわらず、百済系桓武天皇家の王権が、騎馬文化の飛鳥時代から継承されていて、更に、道教や景教が盛んであった飛鳥時代に、平安時代に発明された官職「摂政」の肩書きを持つ聖徳太子により、百済仏教が布教されていた、と物語るからです。
桓武天皇は、787年(延暦6年)前政権の新羅系王朝との決別の意味で、唐の王位継承の儀式を真似て、祭天の礼をおこなっていたのです。その祝文は、唐の「大唐開元礼」引き写しであるのです。唐の祭天の礼の儀式では、「昊天上帝」と並べて先祖神を祀ることになるのです。そうであるならば、桓武天皇は、天武天皇が始めて伊勢神宮を建立した時に祀った天照大神か天御中主(又は架空の神武天皇)を祀らなければならなかったのに、桓武天皇の父高紹(たかつぐ・光仁天皇)を祀ったのです。この意味は大きいです。つまり、天武天皇の先祖神を否定して、百済亡命貴族である光仁天皇を神として祀ったからです。787年この祭天の礼により、桓武天皇は、新羅系天武王朝が、百済系桓武王朝に替わったことを内外に宣言したわけです。
それに対して、鎌倉時代も、平安時代に負けず劣らず不思議なのです。そのどこが不思議かと言うと、「平家」と「平氏」が入れ替わり(北条鎌倉幕府の正史吾妻鏡により、源平合戦が平氏と源氏の戦いに改竄。)、そして、「源氏」と「平氏」が入れ替わっている(百済系北条鎌倉幕府の、1221年承久の乱後の六波羅探題設置による源氏狩から逃れるために、源氏落武者が山奥に集結した部落が「平家落武者部落」となり今日に至る。)からです。この北条氏が創作したトリックは、平家はアラブ系(ペルシャ)海洋民族末裔で、源氏は騎馬民族末裔で、平氏が半農半猟民族末裔であることが分かれば、すぐに見破ることができるでしょう。
源平合戦では、平氏が赤旗を掲げたということはないようです。平氏は、源氏と伴に白旗を掲げて、平家と闘ったのです。桓武平氏は元々百済系軍事部族末裔であったわけです。源平合戦に遡ること約五百年前の壬申の乱では、亡命百済王朝の近江へ、新羅系大海人皇子(後の天武天皇)を支援する伊勢の海洋系土着民軍は、「白旗」ではなく、「赤旗」を掲げて進撃していたのです。赤旗は、北条鎌倉幕府以前までは、百済系平氏のシンボル色ではなかったのです。
縄文時代からの国際交易品の朱砂産地である伊勢は、元々アラブ系(ペルシャ/フェニキアの国際海洋商人は赤いマントを着ていた。)で赤色のベンガラ染を好む、海洋民族が支配していた地域なのです。伊勢の賎民出身の織田信長の西洋思考は、そのアラブ(ペルシャ)系の血の流れのためです。織田信長は、平安時代に、東大寺に火を放った平重衡と同じに、反仏教者である証拠に、二条御所の基礎石に石仏を砕いて使い、日本国の仏教の最高拠点の比叡山延暦寺の高僧全員を斬首し、伽藍に火を放ち徹底的に破壊したのです。
更に、源氏鎌倉三代(1192年〜1219年)を陰謀により滅ぼした平氏の北条氏は、源氏三代将軍源実朝存命中は八幡神を祀っていたのに、何故に、源氏鎌倉幕府滅亡後に女棟梁となった北条政子(源頼朝の妻)は、ベンガラ染の平家の厳島神社の神を勧進したのでしょうか。この祀る神の、八幡神社から厳島神社へのすり替えは何を意味しているのでしょうか。それは、「平家」を「平氏」に取り込み、アラブ(ペルシャ・インド)文化色の強い平家歴史の抹殺のためだったのです。
鎌倉文化で最も不思議なのは、1187年源頼朝が、放生会を鶴岡八幡宮で行い、その時流鏑馬(やぶさめ)を見学したとの故事から、現在に伝わる流鏑馬儀式での弓のことです。その弓は、下が短く、上が長い、騎射にはアンバランスな、農耕民族の武器であった長弓なのです。この長弓が、騎馬民族の武器ではないことは、左右にいる敵を瞬時に射ることが難しいところからでも理解できるでしょう。長弓は、小腸の弦ではなく、植物繊維の弦を使う農耕民族が地上から射る武器なのです。つまり、流鏑馬の儀式により、鎌倉北条幕府(1219年〜1333年)は、騎馬民族末裔ではなく、ツングース族末裔の百済系農耕民族末裔の時代だったことが証明できるのです。
戦国時代を調べるのに、「信長公記」を史料とすると史実が見えなくなるのと同じに、鎌倉時代を調べるのに、「吾妻鏡」を史料とすると史実が見えなくなるようです。
それは、「信長公記」は、豊臣秀吉が自らの出自を消すために創作した物語だからです。そこには、豊臣秀吉の出自と豊臣秀吉・織田信長・徳川家康・明智光秀・堺の商人千利休とイエズス会との関係物語はありません。
「吾妻鏡」は、北条鎌倉幕府が絶頂期の、1266年に鎌倉幕府の正史として完成されたものです。しかし、そこには、北条氏と後白河法皇により、源氏の軍事力を利用して平家を倒した後、藤原氏の勢力を京から排除した物語はありません。その陰謀史を隠すために、北条氏に依頼された作家が、源義経・源頼朝兄弟勃興・滅亡物語を創作したのです。
その根拠は何かと言えば、源頼朝は清和源氏(陽成源氏の一説あり)末裔で、源義経も系図では、源義朝の子で、源頼朝の弟となっているようです。しかし、「吾妻鏡」が述べるのとは異なり、実際は義経の母常盤御前の出自が不明なのです。そして、源義経の出生地が奈良の宇陀ということです。朱砂産地の宇陀は、飛鳥時代以前より、ウカシが支配する反王権の牙城だったのです。更に、源義経の賎民出身を暗示する物語が、少年義経が弁慶と対決する所が五条の橋であることです。平安時代の橋、中洲、坂は、鬼(前政権のまつろわぬ部族末裔)の棲む所だったのです。
1184年木曽義仲が粟津で敗死し、京に昇った源義経は、後白河法皇により検非違使に任命され、京の治安警察をおこなうのです。警察業務を行う検非違使は、秘書・警備業務の「サブラヒ・侍」ではなく、武士の仕事です。その武士は、810年藤原薬子の乱の影響を恐れた嵯峨天皇が、嵯峨源氏を治安維持部隊とするために設けた検非違使の手下として発生したものです。その手下の多くは、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅のコロニーであった摂津渡辺村から出ているのです。
警察の歴史は、ローマ帝国時代に遡るようです。ローマ帝国では、対外的紛争は軍隊の仕事で、軍隊は、領内の公安・治安警察業務は行っていなかったのです。では誰が行っていたかといえば、それは街や村の名士がボランティアで武装組織を作り、街や村の平和のために警察業務をおこなっていたのです。
日本国でも、警察業務をボランティアでおこなわせたひとが歴史上存在したのです。そのひとは、徳川家康です。騎馬民族賎民末裔の徳川家康は、1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、ひとも住めぬ関東の湿地帯に左遷されると、ローマ帝国軍のように、配下の土木技術部族に命じて、エドから小田原までの騎馬軍団移動のための幹線道路を造らせるのです。そして、1600年(慶長5年)関が原の戦いで、藤原氏傀儡軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。そして、徳川家康は、二里ごとの宿(しゅく)での伝馬の世話とその地区の警察業務を、その地区の役座の親分に、ボランティアでおこなわせていたのです。そのボランティアの見返りとしては、業務が終わった夜の博打と飯炊き女のサービス業務を認めることだったのです。
平安時代初期に、その検非違使の手下として警察業務を行っていた渡辺氏の先祖は、嵯峨源氏の末裔源綱で、渡辺村に移住したことにより渡辺氏が発生したことに歴史上なっているのです。この渡辺村と源義経には、特別な関係があったようです。
1185年源頼朝軍だけでは、平家を追撃できないと覚った源頼朝(実際は北条時政)は、京の警察業務を行っていた源義経に、再び平家追討の命令を下すのです。そして、その平家が陣取る屋島への出撃地が、摂津渡辺村からだったのです。
では、何故源頼朝軍では、平家を滅ぼすことができなくて、源義経軍にはそれができたのでしょうか。そのひとつが、武士の武器である弓矢です。
源義経軍の構成部隊は、その中心が騎馬民族蝦夷末裔であったのです。蝦夷の正体は、オリエント巨石文化の飛鳥王朝期から奈良時代末期までの軍隊を構成していたチュルク系軍事部族であったのです。 奈良時代末期、唐軍の支援により亡命百済軍と藤原氏連合軍に破れた、新羅系天武王朝の貴族・軍族は、敗残部族となり、畿内の山奥や摂津の海辺、或いは北の陸奥へ逃亡したわけです。
唐軍に支援された桓武天皇は、唐の儀式や都の設計を真似て、唐国の支店を日本国に造るために、秦氏が支配していた山背国や比叡山を占領するわけです。その地を追われた秦氏末裔(新羅=秦羅)は、大阪湾の湿地帯に移動するわけです。
山背国に平安京を造った桓武天皇は、唐の要請で、陸奥の金・鉄・琥珀を簒奪するために、中国山東半島から移住させた元百済亡命軍団末裔により、健児兵を組織して、陸奥の蝦夷(元飛鳥ヤマトのチュルク系軍事部族・ギリシャ・ローマ文化保持国新羅軍団末裔=花郎軍団末裔=ローマ軍団末裔)を攻撃するのですが、何十倍の健児兵軍団でも、軍事力では蝦夷軍を撲滅できなかったのです。その原因のひとつが、弓矢の性能の違いだったのです。
蝦夷の弓矢は、短弓ですが、その射程距離は、健児兵の長弓より長かったのです。それは、健児兵の長弓の弦が植物繊維であったのに対して、蝦夷の弓の弦には動物の小腸を使っていたので、その弦の弾性で、矢を遠くまで飛ばせることができたのです。
1185年渡辺村から出撃した源義経は、屋島の平家砦を奇襲し、その勢いに驚いた平家軍団は、船で沖に逃れると、平家の長弓の射程距離外に出たと安心し、扇を討ってみよ、と源義経軍を挑発するのです。しかし、蝦夷の弓矢は、平家の弓矢より強力であったので、扇を射ることができたということです。(この物語は史実であるかは疑問。但し、源義経軍の弓矢の強さが、平家軍を圧倒したことは確かのようです。)
源義経の出自は、摂津渡辺氏との関係から推測すると嵯峨源氏末裔だったようです。それに対して、源頼朝は清和源氏です。清和源氏の歴史上の出現は、935年統一新羅が滅んだ後に起こった、939年天慶の乱以降なのです。そして、814年嵯峨源氏は昇殿できたのに、清和源氏は1098年源義家の昇殿が始めだったのです。
814年昇殿できた嵯峨源氏の末裔源義経が、1098年まで昇殿できなかった清和源氏末裔源頼朝の実弟であったのでしょうか。(清和源氏の実態は、969年検非違使として突然現れた源満仲が歴史上の「祖」であることから、唐・統一新羅国敗残渡来軍団末裔か?)
1185年平家が、源義経軍に滅ぼされると、源頼朝は、源義経を逆賊として追討し、その結果、1189年藤原泰衡は、源義経を衣川にて殺害するのです。その後、源頼朝は自ら出陣し、奥州藤原氏最後の泰衡一族を滅ぼし、ここに奥州藤原氏は滅亡するのです。
そして、源頼朝は、もう一方の九州南端に勢力を張っていた藤原氏の島津荘を、平安時代惟宗氏と変名していた秦氏末裔に、守護として経営させるのです。これが、明治維新の裏面史で活躍する島津氏の始めとなるのです。江戸末期、島津氏の密使が、穢多頭弾左衛門に、倒幕の参加を依頼した時、「島津とおまはんとは同族ぞ。秦氏ぞ。」と言った意味は、ここにあったのです。
1192年源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開くと、北条氏のロボットであった源頼朝は源氏の棟梁としての自覚が芽生え、平氏の北条氏のコントロールが効かなくなるのです。その結果、1199年源頼朝は不慮の死を迎えるのです。(歴史上では落馬死となっている。)二代目の源頼家は、1203年北条氏により伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されるのです。そして、三代目源実朝は、北条氏の陰謀により、公暁により、1219年暗殺されるのです。ここに源氏三代の鎌倉時代が終わるのです。
源氏部族には、源頼朝が源氏の棟梁として機能していた、1192年〜1199年が天国だったのです。御家人となった源氏の武将達は、源平合戦の働きにより、源頼朝から、平安貴族達の荘園の守護・地頭として任命されたからです。
守護とは諸国の軍事・警察と御家人を統率する任務であり、そして、地頭とは地域の警察業務を行い、所領の管理をおこなっていたのです。それらの守護・地頭の任務は、武力を背景として行っていたのです。しかし、僧兵の武装勢力で軍備を固める寺には、源氏の武力でも軍事介入できないほど、平安時代の仏教組織の軍事力は強力だったのです。それは、寺社は、唐・宗との貿易や寺社領経営、通行税、門前市の場所代、借上げの高利貸し、加持祈祷料、などなどで財を蓄えていたからです。寺社は、織田信長の仏教組織壊滅までは、中国との貿易拠点でもあったのです。
平家、源氏が滅び、更に藤原氏の勢力は京から排除され、その荘園も没収され、共同謀議者の後白河法皇も崩御し、1219年ここに第二百済王朝の北条鎌倉幕府が始るのです。
第一百済王朝の平安時代に、王権にまつろわない騎馬民族末裔は、亡命百済貴族により、「鬼」として貶められたのと同様に、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、王権にまつろわない騎馬民族・源氏末裔は、平氏の北条氏により、「穢多」として貶められていくのです。
平安時代の「鬼」の思想は、唐から空海が持ち込んだ、バラモン・ヒンズー教の地獄世界を素材として創作されたものです。その創作された「鬼」と「地獄」が、バーチャルではなく、実世界として、貴族・庶民に認識されたのは、奈良の都の鉱毒汚染世界があったからです。
では、鎌倉時代に、王権にまつろわない騎馬民族末裔が、「穢多」と蔑まされた仕掛けは、どのようなものだったのでしょうか。その仕掛けのもとは、平安時代に「鬼」を創作した宗教思想だったのです。宗教は、使い方によってはひとを幸福にも、不幸にもするものなのです。
源氏三代が滅んだ頃の東アジアでは、騎馬民族のテムジンが、ナイマン部を滅ぼし、1206年チンギス汗と名乗り、北から南下して、1234年北朝の金を滅ぼすのです。更に、チンギス汗の跡を継いだオゴタイは、南宋を窺がうのです。
南宋は、鎌倉幕府の交易国です。南宋の宗教組織は、騎馬民族の南下に怯えて、国外脱出を計画するのです。その宗教組織とは、禅宗の臨済宗と曹洞宗です。禅宗は、仏教教義を広めるよりも、ヨーガの修行に近いものだったので、騎馬民族を蔑視する平安仏教嫌いの武士(サブラヒ・侍ではない。)に受け入れられていくのです。
1278年南宋は、騎馬遊牧民族元帝国により滅ぼされてしまうのです。その結果、南宋の僧達は、日本国に亡命してくるのです。これにより、鎌倉には禅寺が多く建立されるのです。
この頃、鎌倉では天変地変に加え、承久の乱後の、平氏北条氏による源氏狩りの六波羅探題の警察力から逃れた源氏落武者が、山に逃れ、鎌倉幕府にゲリラ攻撃を仕掛けていたのです。
大地震や暴風雨などの天変地変や暴動などで社会不安が広がると、ひとびとは宗教の虚構世界に逃げ込む傾向があるようです。その需要に答えて、鎌倉時代に、無数の新興宗教が起こるのです。
1230年〜1231年諸国大飢饉
1241年鎌倉大地震
1247年鎌倉浮浪人を追放
1251年鎌倉大火
1256年鎌倉大風洪水 赤班病大流行
1260年鎌倉大火
このような有様の鎌倉に亡命してきた禅宗は、南宋を滅ぼした騎馬民族「元軍」が海を越えて攻めてくると宣伝するわけです。その亡命禅僧の情報を素材に、1260年「南無妙法蓮華経」の呪文を唱えた日蓮が、「立正安国論」を著すのです。
この「立正安国論」と亡命禅僧の宣伝により、元帝国に敗れた南宋や高麗の貴族・軍族が、1274年と1281年の亡命南宋移民大船団と亡命高麗移民大船団として日本国に亡命して来たのが、「元寇の来襲」となってしまうのです。その二度の亡命大船団が暴風雨で一夜にして去った後の難破船を調べると、その船倉から、武器ではなく、農機具や種籾を詰めた壷が沢山見つかったのです。果たして、二度の元寇は史実だったのでしょうか。
1271年蒙古使が、国書を持って来朝しているのですが、蒙古王のフビライ(1260年〜1294年)は、ヨーロッパとの国際海洋交易立国を目指していたのです。この蒙古の申出に対して、朝廷は、勅使を伊勢に派遣して、異国降状を祈ったのです。
禅宗組織は、中国大陸と鎌倉幕府との交易権を、元帝国に奪われることを懸念していたのです。 中国の山水画や骨董品を日本国に持ち込むと、サムライは禅宗が中国から持ち込んだ南宋文化に染まっていたため、北条鎌倉サムライに、高値で売れたのです。北条鎌倉サムライは、禅宗の質素な寺を真似た建物を、武家屋敷として取り入れ、中国の骨董品を居間に飾り、床の間に中国山水画を飾っていたのです。そして、禅宗組織は、日本国から日本刀や鎧などを美術品として中国大陸に輸出していたのです。鎌倉に、刀鍛冶が多く居たのは、由比ガ浜の砂鉄でタタラを行い、日本刀を美術品として南宋に輸出していたからです。
禅宗僧は、北条鎌倉幕府の貿易顧問でもあったのです。その元寇来襲の史料の多くが、禅宗関係者の著書であることは、一体何を意味しているのでしょう。
禅宗の書籍で、元寇の大軍団が日本列島侵略のために二度も侵攻したというのなら、元寇が侵攻した北九州に近い、海を隔てた高麗に元寇の史料がなくてはならないはずです。しかし、高麗の史料に、元寇の記事が見つからないのです。
この南宋から渡来した禅宗組織の鎌倉貿易独占に対して、興福寺と比叡山延暦寺は黙っているわけはありません。
興福寺は、古代から藤原氏の中国大陸との交易拠点のひとつであったのです。飛鳥・奈良時代では、奈良の宇陀から掘り出した朱砂・水銀を、ツバキ市→興福寺→難波湊→博多→隋・唐への貿易ルートで交易していたのです。(教科書歴史では、遣隋・唐使船を仏教文化や唐文化輸入だけに目を向けているようですが、その実態は、唐による日本列島からの鉱物資源簒奪でしょう。894年菅原道真が、新羅商人からの情報で、唐の仏教が堕落しているからと、遣唐使船を廃したことに、藤原氏は密貿易が公費でできなくなったことに腹を立て、901年菅原道真を大宰府に左遷し、その二年後に菅原道真は鬼「カミナリ」となるのです。)
平安時代では、百済系桓武天皇が、藤原氏を奈良に封じ込め、比叡山→難波→博多→唐の交易ルートを独占したため、藤原氏は、錬金術師空海が唐から持ち込んだ探鉱技術で水銀鉱山を開発し、吉野山の水銀を、吉野山→興福寺→根来寺→堺→種子島→坊津→琉球→唐への密貿易ルートを開発していたのです。
戦国時代に、この藤原氏の密貿易ルートの、中国大陸→琉球→種子島→雑賀→根来寺→興福寺→本能寺(元は日蓮宗の寺だった。比叡山との戦いに敗れ、藤原氏の支配下の寺となり、火薬貯蔵庫となる。その後、織田信長に乗っ取られる。1582年織田信長が火薬庫で茶会を開いたのが誤算。織田信長は、イエズス会の密使により爆殺される。)により「鉄砲・弾薬」が、戦国武将へもたらされていたのです。
平安時代の宗教組織は、寺社領や荘園を経営して財政が豊かだったので、修行僧を多く養えたのです。しかし、平家を倒した源氏武士が政治の実権を握ると、源氏武士の守護・地頭により、その権益が奪われてしまったので、平安仏教は、源氏武士に多大の恨みを持っていたようです。(源氏武士は、「ミトラ神を祀る」ローマ軍末裔と「月・星を祀る」騎馬民族チュルク末裔の自然神を祀る民族末裔であったので、人工神の仏を祀る仏教にはなじめなかったのです。王権に擦り寄る仏教組織に消されてしまった騎馬民族のオリエント渡来の太陽化身のミトラ神は、「お天道様」となって今日まで生き残っているのです。)
鎌倉時代初期、財政に窮する平安仏教組織は、荘園を源氏武士に乗っ取られてしまった平安貴族の多大な喜捨も望めなくなったため、修行僧の大量解雇をおこなうのです。この流れで、比叡山延暦寺から追い出された下級僧侶達により、賎民を布教対象とした鎌倉仏教が始るのです。平安仏教は、生活に苦しむ賎民などは布教対象外で、貴族への文化・娯楽施設のような存在であったのです。
1219年源氏鎌倉幕府が滅亡し、落武者源氏の巻き返しであった承久の乱が、北条鎌倉幕府の軍事力で鎮圧され、源氏落武者狩りの六波羅探題を設置されると、源氏落武者は追っ手を逃れて、ひとも住めぬ山奥に集落を造り武士の出番をじっと待つことになるのです。しかし、山に逃れた源氏落武者の「武士」は、この鎌倉仏教の布教により、地獄世界を味わうことになるのです。
教科書歴史によれば、空海と最澄による平安仏教は貴族仏教で、親鸞と日蓮達による鎌倉仏教は庶民仏教と言われています。では、鎌倉仏教は、全ての庶民を生活苦から救ったのでしょうか。
鎌倉仏教の思想背景は、最澄が中国山東半島から持ち込んだ天台宗により、比叡山延暦寺が架空の聖徳太子を仏教のキャラクターとして広めた法華経です。法華経の思想は、一神教のように、他宗教思想に寛容ではありません。特に、法華経を否定する「仏敵」には不寛容です。
日本国での天皇を頂点とする律令制下では、仏教は鎮護国家のための武器でした。その時代の「穢れもの」とは、国家の秩序を乱す者のことでした。しかし、平安末期に仏教が民衆に広がっていくと、その「穢れ」の思想が、「不具者・ライ病者」への差別に変化してしまうわけです。その差別の原因のひとつが、「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

比叡山から排出された鎌倉仏教僧による法華経の布教により、この「法華経」の「業の思想」が一般民衆に浸透すると、平安時代の律令国家では日常生活の規範として「不具者・ライ病者」が「穢れ者」ではなかったものが、時代が代わり、北条鎌倉時代になると、インドと交易をしていた南宋からの、バラモン・ヒンズー教の遊牧民族差別思想に染み付いた多数のインド仏教僧が鎌倉に亡命してくると、チャンダラー(セダラ=不可触賎民=屠者=騎馬遊牧民族)差別思想を南宋から持ち込まれ、「不具者・ライ病者」が「穢れ者」になってしまうわけです。ここにこの国における「穢多」の民族差別思想の芽生えが起こるわけです。
この騎馬民族を差別するバラモン・カースト思想は、騎馬民族末裔源義経に平安秩序を破壊された、百済系天皇家、比叡山延暦寺、興福寺、そして六波羅探題により源氏抹殺を図る北条鎌倉幕府には、魅力的思想であるわけです。
騎馬民族国家の祖・スキタイは、草原の騎馬民族を支配部族として、農耕民族、狩猟民族、海洋民族、商業交易民族、技能民族などの連合体であったのです。騎馬民族国家とは、騎馬民族単体の部族国家などではなく、異民族による部族連合体であったのです。
その後のユーラシアに出現した騎馬民族国家も、あらゆる部族を連合することにより勢力を増していったのです。日本列島での騎馬民族国家もその例外ではありません。飛鳥時代を支配していた、騎馬民族国家・突厥帝国に軍事支援された、チュルク系騎馬民族の蘇我王朝も、技能部族の秦氏と連合していたのです。
ですから、北条鎌倉幕府が、山に籠もり武力抵抗している騎馬民族末裔の源氏落武者の勢力を抹殺するには、異部族連合を阻止すればよいのです。その異部族連合を阻止する手段のひとつが、バラモン・カースト思想を素材としたセダラ・不可触賎民=「穢多」の創作であったのです。
このセダラ・不可触賎民思想を、鎌倉仏教僧により、庶民に広めることにより、騎馬民族と非騎馬民族とが分離でき、異民族の連合を阻止できるわけです。鎌倉時代に創作された仁王様に踏み潰された「天邪鬼」は、騎馬民族末裔を表わし、その手足の指を「四本」にしたのです。つまり、騎馬民族末裔は、四本指の動物と同じであると、その像で暗示しているのです。鎌倉時代の仏像も美術品も、その多くは、騎馬民族末裔を貶める、ビジュアルとして開発されたわけです。
元々騎馬民族は、太陽・月・星の自然神を祀る民族の末裔であるので、人工神の仏教とはなじめないため、「仏敵」の第一候補であるわけです。そこで、王権は、王権にまつろわない騎馬民族末裔の捕虜地とした部落に、ハンセン氏病者の世話をさせるわけです。ハンセン氏病者は、「法華経」により「仏罰者」として刷り込まれていたので、そのハンセン氏病者の世話をさられている騎馬民族末裔は、「穢れて」いる、つまり、「穢多」となるわけです。そして、ハンセン氏病者は、インドのチャンダラー(セダラ)の不可触賎民と同一視されたため、その部落は、穢多部落に貶められてしまうわけです。
では、騎馬民族末裔の武士を、バラモン・カースト思想で貶めた鎌倉仏教僧の主役であった、日蓮と親鸞のバックグランドはどうなのでしょう。
日蓮(1222年〜1282年)は、法華経思想により他宗教を激しく攻撃したため、数々の「法難」を受け、佐渡にまで流された経歴の持ち主です。日蓮が、仏敵の騎馬民族を攻撃するには、その出身地が影響していたようです。
日蓮が生まれ育ったのは、千葉の漁村です。千葉は、古名では常陸(ひたち)です。日本国の地名・人名が漢字二文字となったのは、藤原氏による前政権の騎馬民族の歴史を抹殺する手段であった、713年の好字令からです。それ以前の地名・人名は、中国・漢族系では一文字で、オリエント系では「太良未・ダラミタ」「将徳白昧淳・ショウトクハクマイジュン」「麻奈文奴・マナモンヌ」「「昔麻帝弥・シャクマタイミ」などの多文字でした。その好字令が発令される以前、645年には、藤原氏により前政権の国際交易都市飛鳥ヤマトで使われていたアラム語やソグド語による騎馬民族蘇我氏の歴史書は焚書されていたのです。(神代文字と言われているのは、オリエントから渡来した国際交易商人による、ヤマト言葉の発音文字の可能性があります。)
そして、前政権の地域名を隠蔽するために、713年に風土記撰上の詔を発して、各地の地名の由来を創作させたのです。ですから、古代史を知ろうとして、各地の風土記を調べてみても、古代史の真実を知ることができないのです。
飛鳥時代の蘇我氏も、713年以前は何と呼ばれていたのかは分かりません。しかし、好字令が発せられた時に、二文字は全くの創作ではなく、元が一字の場合は、他の創作一字を加え、或いは多文字の場合は、二文字に縮めたようです。もし、蘇我氏の元字が、「蘇・ソ」だとすれば、その当時の「ソ・斯」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国「新羅」のことであたのです。
では、千葉の古名の「常陸・ひたち」は、713年以前は何かと言えば、それは、「常」であったのです。「常」は、「トコ」と読み、そのトコは、古代中国大陸では、東湖(トコ)で、ツングース族を示す言葉であったのです。つまり、千葉の古代住民は、東湖→とこ→常→713年に「常陸・ひたち」となり、渡来ツングース族の半農半猟民族の支配地であったわけです。
この半農半猟のツングース族は、古代中国大陸で、騎馬民族のチュルク族と死闘を続けていた部族であったのです。そのツングース族の末裔が、日蓮であったのです。
では、「南無阿弥陀仏」の呪文を唱えた親鸞(1173年〜1262年)は、どのようなバックグランドを持っていたのでしょうか。親鸞は、肉食を禁忌する仏教思想に逆らい、妻帯し、比叡山に敵対する破戒僧のイメージがあるようです。しかし、その破戒僧の裏には、藤原氏の陰謀が見え隠れするのです。
親鸞は、日蓮と異なり、高貴な血の流れにあったのです。親鸞は日野氏末裔で、その日野氏の系図は、中臣鎌子〜藤原鎌足→藤原不比等→北家・房前〜日野資業〜親鸞、となり、日本列島の古代から現在までの裏面史を飾る、藤原氏末裔だったのです。
親鸞が、法華経の牙城・比叡山と対峙したのも、戦国時代では親鸞の流れを汲む大阪の石山本願寺に居を構えた顕如が、イエズス会傀儡軍である最新式武器である鉄砲で武装する織田信長と十年戦争を遂行できたのも、藤原氏の指示・支援や、戦国時代の密貿易ルートによる鉄砲・弾薬の供給と根来・雑賀に加え、源氏武士末裔の軍事部隊がいたためです。
石山合戦を、鋤鍬で武装するムシロ旗の農民による一向一揆衆と織田信長との戦と考えると、教科書歴史の思わぬ落とし穴に嵌ってしまいます。その実態は、イエズス会と藤原氏との、日本一の国際交易港・大阪争奪をめぐる国際経済戦争であったのです。
親鸞が、騎馬民族のように肉食し、妻帯し、日本国仏教の最高権威の比叡山に逆らい、破戒僧となったのは、騎馬民族を貶める法華経を広めた比叡山延暦寺を憎む源氏落武者部落の「穢多部落」に潜入し、その軍事力を藤原氏のために利用するためだったのです。
親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。

それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう

この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
源氏武士の強さは、その弓の威力と防御具である鎧の堅牢さです。それらの素材は、動物の小腸と皮により作られていたのです。つまり、鎌倉仏教僧が、穢れ思想を広めることの裏の意義が、武器・武具製造用の原料の小腸・皮を、非騎馬民族から騎馬民族に供給させないことでもあったわけです。
北条鎌倉幕府は、穢れ思想を広めることにより、軍事物資である革の独占を図り、源氏落武者を捕虜として穢多部落に囲い、武器製造を画策していたのです。
歴史家の中には、日本列島に騎馬民族国家があったことを認めないひとも居るようです。つまり、騎馬民族征服説のことです。そのように唱える根拠として、騎馬民族が日本列島を支配したことを示す史料がないからです。しかし、騎馬民族が、海洋民族と同じに、歴史書をもたない民族であることを理解すれば、史料がないことが騎馬民族国家がなかったことの根拠として乏しいことが分かるでしょう。
ですから、日本史は、農耕民族末裔により創作された「日本書紀」の歴史書、寺社の借上の「借用書」、ヒンズー教化仏教思想の閻魔様の最後の審判用の「公家による日記」などの史料により復元されるわけです。そこには、騎馬民族の史料はありません。
しかし、武力に勝る騎馬民族は、文字としての史料は残さないが、騎馬民族が使っていた「言葉」は現在でも使われているのです。そのひとつが、「まる」です。何故、武士社会のシンボルである城の中心を本丸(ほんまる)と言うのでしょうか。
城とは、古代では建物を言うのではなく、古代ユーラシア大陸での草原戦闘で、防御のために土を固めた塀のことなのです。(城=土で成る)この城の防御機構は、渡来民族により、日本列島に持ち込まれるわけです。縄文・弥生時代の日本列島での防御機構では、ユーラシアとは反対に、大きな深い堀を陣地に廻らしていたのです。
この城の防御機構が、ユーラシアからの騎馬民族の南下により朝鮮半島に持ち込まれると、本陣となる山の麓に、石垣を築いて城とするわけです。この防御機構は、地名から朝鮮式山城というわけです。そして、その陣地である山の頂を「まる・聖地」と言ったのです。
四世紀、朝鮮半島の部族が、東アジアの動乱を逃れて、そして、日本列島の朱砂を求めて、日本列島にコロニーを造るわけです。しかし、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅がそれぞれ覇権を唱えていたのです。その影響は、日本列島にも及び、近畿のヤマトでは、山を陣地として百済コロニーの「葛城」と新羅コロニーの「磯城」とが、先住民が支配する三輪山を挟んで対峙していたのです。この頃の城とは、まだ建物のことではありません。城とは石垣のことなのです。この頃の城は、山を石垣で取り囲んだ防御機構だったのです。
やがて、オリエントから景教・仏教が、中国大陸から道教が日本列島に渡来すると、それらの宗教組織は、国際交易商人の出先機関でもあったので、交易品を保管し、賊からの襲撃に備えて、堅牢な建築物を構築していたのです。つまり、「寺院」とは、神・仏を祀る所でもあり、賊からの防御施設の「砦」でもあったのです。
鎌倉時代には、事実、武士との戦いで仏寺は僧兵が防御する「砦」の役割を果たしていたのです。北条鎌倉幕府に追われた、源氏落武者は、四世紀にギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した民族末裔ですから、山の麓に石垣を張り巡らした城を築くのです。そして、要所要所に曲輪(くるわ)の城郭を造り、そこから敵に向かって矢を射るのです。
城と言うと、天守閣がある石垣の上にそびえる「お城」をイメージするひとが多くいるようですが、その「お城」が歴史上に現れるのは、1576年の戦国時代末期なのです。織田信長は、イエズス会宣教師により、ヨーロッパの城の情報を得て、その思想を真似て「お城」造ったのです。しかし、織田信長は、デウスの神を祀らないで、自ら主(神)と唱え臣下に祀らして、自分の住処として「神」の住む「天主閣」を創作したのです。「天主閣」が「天守閣」となったのは、織田信長の死後のことです。
室町時代に、その源氏落武者が篭る、山城の頂を「まる・聖地」と呼んだことにより、山城と仏閣とが合体して、「まる」である中心建物を土塀で囲む砦が、平地に「平城」として建てられるわけです。この平城が、戦国末期に、イエズス会の鉄砲渡来により、石垣の上に仏閣が建てられ、その仏閣に天主閣が、織田信長により増設されることにより、現在に残る「お城」が完成するわけです。つまり、そのお城の中心的建物の本丸の「まる」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの言葉だったのです。
では、北条鎌倉幕府の源氏狩りにより、山奥の山城に篭る源氏落武者達は、どのような運命を辿ったのでしょう。
北条鎌倉時代、比叡山から排出された鎌倉仏教僧達が、農耕民達に「極楽浄土思想」と「穢れ思想」を布教したことにより、山に篭る騎馬民族末裔の「武士」の生活が困窮してくるのです。それは、里の農耕民との交流が「穢れ思想」によりできなくなり、里の農耕民からの食料供給が難くなったからです。
騎馬民族末裔は、基本的に農耕をしません。江戸初期、騎馬民族末裔の徳川家康は、秦氏末裔の弾左衛門に、隅田川沿いに広大な土地を提供したにもかかわらず、そこを畑として開墾せず、野原のままだったのです。その広大な野原は、弾左衛門による処刑場として利用されたに過ぎませんでした。
「穢れ思想」のトリックは、血の禁忌です。「血」は、穢れていると決め付けることにより、肉食、或いは動物を食料とする騎馬民族末裔の生活基盤は、その鎌倉仏教思想により穢れた存在と、農耕民達に認識されていくわけです。農耕民は、比叡山の高僧が「薬食い」と言って食肉していたのに対し、元々高価な「肉」は食べれなかったので、鎌倉仏教僧が宣伝する、「血の禁忌→肉食→穢れ=武士」の連想思想に染まりやすかったのです。
鎌倉仏教僧は、その穢れ思想を破った者は、法華経にあるように「仏罰者」として「ハンセン氏病」になり、守る者は「極楽に行ける」と、鎌倉仏教の本質を知らない農耕民達を脅すわけです。
紀元前六世紀、北インドに、先住牧畜民族トラヴィダを不可触賎民と差別する、バラモン教の教義に疑問をもったひとが現れるのです。そのひとは、バラモン教の聖職者階級が永遠にその最高地位に留まるトリックの「輪廻転生」によるカースト差別思想から解脱する方法を考え出すのです。それは、前世と後世を否定するために、あの世とこの世との中間に暮す、「非人」となり、一切の世俗的欲から開放されるために、「乞食・こつじき」の喜捨により暮すことを考え出し、出家し実行するわけです。その民族差別に疑問を持ったひとの名は、釈尊です。
しかし、紀元一世紀、北インドのガンダーラで、釈尊の名を騙る宗教組織が現れるのです。その宗教組織は、法華経を創め数多くの仏典と仏像(釈尊は、バラモン教の宣伝技術の像制作を禁止していた。ですから釈尊没から大乗仏教が発明される紀元一世紀まで仏像は存在していなかったのです。)をプロパガンダに使うのです。そして、キリスト奇跡物語ソックリのブッダ奇跡物語を、その異教国の布教先に広めるのです。
その宗教組織は、ガンダーラの国際交易商人と伴に、西に向かったのがキリスト教、東に向かったのが大乗仏教と呼ばれるわけです。ふたつの宗教の教えの基本は同じで、「ウソをつくな。」、です。この教えは、ビジネスの基本として今日でも通用します。そして、その教えを守らない、「ウソをつく者は地獄に落ち」、それに対して、「ウソをつかない正直者は天国にいける。」と言う教えです。
ガンダーラの国際交易商人が、それらのふたつの宗教組織を経済的に支援し、異教国に布教させたのは、宗教組織自体の考えは分かりませんが、自らの商売を有利にするための市場開拓のためだったのです。古代の異民族との交易は、ウソが前提のため、取引でウソをつかせないようにするために、聖なる庭(神が降臨する所)でおこなわれていたのです。
そのような大乗仏教が、ガンダーラの国際交易商人と伴に、中国大陸に到達すると、土着宗教の長生術の道教(薬草を使う仙術・神農様を祀る。)に影響され、「西方浄土」「極楽浄土」を唱え始めるのです。そして、インドと海洋交易をおこなっていた南中国に到達すると、インド・バラモン教とヒンズー教に影響されて、向精神作用のある水銀薬を使う「密教」を発明し、その「密教」は平安初期に、錬金術師空海により日本列島に持ち込まれるわけです。
唐留学で仏教の勉強をあまりしていなかった中国天台宗を輸入した最澄は、空海に「密教」の教えを請うのです。つまり、日本国仏教の最高教育機関である比叡山延暦寺は、空海の教えにより、インド・バラモン教とヒンズー教色の強い民族差別思想を持った仏教思想を取り込んでしまっていたのです。(日本列島で多くの水銀鉱山を開発した空海が発明した真言宗の、あるお寺では近年まで、「旃陀羅・屠者のたぐいの穢れたるひとを見たらば、このしんごん(真言)をとなうべし」のお札を販売していたのです。)
そして、北条鎌倉時代になると、南宋の滅亡により、日本語を理解できないため、ただ睨めっこしかできないダルマ(達磨)のようなカースト思想に染まったインド僧が大勢鎌倉におしよせてきたのです。そのインドから南宋を経由して渡来したインド僧達が、「天竺(インド)に旃陀羅(チャンダーラ)というは屠者なり。生き物を殺して売るエタ体の悪人なり」の騎馬民族を貶める思想を民衆に広めるのです。
北条鎌倉幕府での、鎌倉仏教僧達による「血の禁忌」の穢れ者(穢多)思想普及により、武士と農耕民との分離政策が成功すると、山の民と伴に暮す「武士」は、生活苦のため里に下りてくるのです。
この穢多思想が普及するのは、関東ではなく、関西です。関東は、飛鳥・奈良時代までは新羅系天武王朝と友好関係にあった騎馬遊牧民族が暮す「風の王国」であったのが、百済系天皇が支配する平安時代には、俘囚(王権に取り込まれた蝦夷)の棲む地になってしまっていたのです。つまり、平安時代では、関東全体は「部落」であったのです。ですから、北条鎌倉幕府を支配する平氏末裔北条氏も、平安時代に都から左遷された部族であったのです。鎌倉時代以前は、北条氏が支配する「伊豆・いず」とは、えびす(夷・い)が棲む地(夷住→いず→伊豆)、という処だったのです。
それに対して、関西では、古来からツングース族末裔の百済亡命民と騎馬民族末裔の新羅亡命民とが、その支配コロニーの拡張・争奪戦で争っていた地であったのです。
平安時代、唐国の軍事支援で、新羅系天武王朝を、藤原氏との謀略で簒奪した百済亡命貴族末裔の桓武天皇が近畿地方を支配すると、中国山東半島から元百済亡命民を近畿地方に移住させ、先住民のオリエントからの秦氏や新羅亡命民の土地を奪ったため、近畿地方は、百済亡命民と新羅亡命民との民族闘争が行われていた地であったのです。
そのような関西では、鎌倉仏教僧による騎馬民族を貶める「血の禁忌」「血の穢れ」「肉食は悪」などの思想は、百済亡命民末裔による、新羅亡命民末裔攻撃(イジメ=夷を絞める=異民族抹殺)の強力な武器となっていくわけです。
そのような民族紛争の時代背景により、騎馬民族を貶める「穢多」の民族差別思想は、全体が部落である関東では、関西より薄いのです。
騎馬民族国家は、農耕民族文士により、騎馬で戦闘に明け暮れる民族のように描かれているようですが、それは違います。騎馬民族国家は、異民族の連合体なのです。山奥の砦に立て篭もる武士と伴に暮す秦氏末裔は、技能部族であったのです。
北条鎌倉時代に、山から下りた、武士と技能部族末裔により、職能民、座、馬借の発生が起こるわけです。
鎌倉時代の文化を調べようとして、公の史料を調べても、どのような過程で鎌倉時代に職能民、座、馬借が発生したのかを理解できないのです。
職能民のひとつである鍛冶屋が、村中ではなく、どうして村外れにあるのか。どうして先住民の氏神の祟りを恐れて封じ込め施設である、農耕民が近づかない藪の中にある、異界の神社を中心に同業者組合ネットワークの「座」が拓かれてたのか。そして、平安時代に牛車でひとや物を運んでいたのに、何故、北条鎌倉時代に、馬でひと・物を運ぶ運送業が現れたのか。それらの疑問を分かるように説明した歴史書がないのは何故でしょう。
それは、それらの仕事に従事したのは、王権にまつろわぬ民、騎馬民族末裔や賎民だったからです。
では、なぜそれらのものが、北条鎌倉時代に現れたのでしょうか。それは、北条鎌倉幕府の経済を支えていた貿易先の南宋が、1279年に元帝国に滅ぼされてしまったことにより、北条鎌倉幕府の権力が衰えたことと、それに、荘園が武士により乗っ取られたため、平安貴族が没落することにより、平安時代からの賎民統制機構の天皇制が崩壊寸前になっていたからです。
平安時代までの文化・経済を支えていたのは、百済系天皇の庇護を受けていた比叡山延暦寺だったのです。北条鎌倉幕府に、天皇親子が隠岐や佐渡に島流しにされたことにより、その庇護を受けていた比叡山延暦寺のカリスマ性のメッキが剥げてしまったのです。そのことにより、比叡山が経営する難波の湊も衰退し、替わって、新羅亡命民コロニーだった大坂(おさか→おおさか・大阪)に元国の交易船が「硫黄」を求めて訪れるのです。
源氏発祥の地・大坂は、北条鎌倉幕府を倒し、再び源氏武士が支配した室町時代になると、元国に替わって明国との国際交易港に変身していくわけです。戦国時代に、その大坂の繁栄を見た、イエズス会国際交易商人と藤原氏の流れを汲む石山本願寺派が、その地の争奪戦を行ったのが十年戦争の石山合戦だったのです。その決着は、1582年イエズス会と藤原氏の陰謀により、デウスを祀らない織田信長が元藤原氏の寺であった本能寺で爆殺されると、イエズス会から寝返り藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉により、大坂の地は藤原氏の支配地となり、元の支配者の源氏を祖とする渡辺村の住民は、1590年に関東の湿地帯に移封された徳川家康のように、湿地帯に追われ、そこを穢多村とされてしまうのです。その地に豊臣秀吉は、1583年大阪城を修築するのですが、1615年大阪夏の陣により、徳川家康が、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅すると、大阪城と豊臣秀吉の墓を徹底的に破壊するのです。そして、更地にした処に大坂城を再建するのです。
1260年元帝国に即位したフビライは、ヨーロッパと海洋交易を行うため、そして、場合によっては征服するための武器の原料の「硫黄・イオウ」を海外に求めていたのです。元帝国は、爆裂弾という火薬を使う武器を開発していたのです。火薬は、硝石・硫黄・炭粉により作られるわけです。火山国である日本列島には硫黄が無尽蔵にあり、また、緑の島国の日本列島には炭を作るための樹木も無尽蔵にあるわけです。
そのような元帝国の要望のために、1271年元帝国使が、国書をもって北九州に訪れるわけですが、南宋から渡来した禅僧の悪智慧を疑わない北条鎌倉幕府は、元帝国使を追い返してしまうわけです。
歴史教科書によれば、その仕返しとして「元寇」の来襲と言うわけです。しかし、元帝国の貿易船は、その後も続々と日本列島に訪れているのです。1306年には、日本列島から貿易船が元帝国に赴いているのです。では、日本国から何を持ち出していたのかと言えば、そのひとつが「硫黄」だったのです。この硫黄輸出は、室町時代の、1434年硫黄の輸出禁止令が出されるまで続けられていたのです。この硫黄貿易を主に行っていたのは、日本列島から中国本土への密輸ルートを、平安初期から開発していた南九州の藤原氏だったのです。(鎌倉初期に、源頼朝により、藤原氏の荘園は、惟宗氏(島津氏)の荘園となる。その後、島津氏は藤原氏末裔近衛家と姻戚関係を結んで取り込まれる。)島津氏とは、秦氏末裔なのです。
この元帝国との貿易が始る頃に、歴史上馬借が現れるのです。硫黄は、海ではなく、山から産出されるものです。その山は、北条鎌倉幕府のサムライではなく、武士や山の民が支配していたのです。
そして、その硫黄の対価として、当然元帝国貿易商人から物品が得られるのです。すると、その輸入品を捌くためのルートが必要となるわけです。しかし、武士や山の民は、北条鎌倉幕府から目を付けられている存在です。そこで、誰もが立ち寄らない異界の神社が、そのルート基点として発展していくわけです。これが後に「座」となるわけです。
北条鎌倉幕府に追われた源氏武士達は、山奥に城で砦を築き、そして、生活のため里に下り、鎌倉仏教僧が布教する騎馬民族差別思想(血の禁忌、肉食は悪、武士は穢れ者)に耐えながら、村外れの鍛冶屋などの技能民として、或いは馬での輸送業者として、神社の闇のネットワークを使い情報交換をしながら、武士が活躍できる時期をじっと待っていたのです。
北条鎌倉幕府は、その権力の中枢は半農半猟のツングース系桓武平氏末裔であったので、山奥の山城に篭る騎馬系源氏武士団を壊滅できなかったのです。ですから、北条鎌倉幕府の警察業務をおこなう守護・地頭が支配できない山国が、北条鎌倉時代に多くあったのです。
それらの北条鎌倉幕府の支配が及ばない地は、西から備後、備中、伯耆、因幡、丹後、丹波、摂津、河内、能登、越中、飛騨、甲斐です。これらの騎馬民族末裔源氏支配地には、北条鎌倉時代、守護も地頭も存在が確認できなかったのです。(これらの地の支配者末裔は、徳川三代将軍家光からの第三百済王朝において、「穢多」「藤内」「鉢屋」「茶筅」「ささら」などと言われ、再び民族差別されていくわけです。)
北条鎌倉幕府は、南宋の滅亡により交易ができないだけでなく、元帝国と密交易をおこなっている禅僧により、「元寇」などと言うニセ情報操作により元帝国との交易を阻止されたことにより、北条鎌倉幕府経済は壊滅状態になっていたのです。その期を見た後醍醐天皇は、山に立て篭もる源氏落武者末裔を味方に付け、北条鎌倉幕府を攻めるのです。
1333年足利尊氏(源氏)が北条鎌倉幕府の警察機構である六波羅探題を落とし、新田義貞(源氏)が鎌倉を攻め落とすことにより、第二百済王朝の北条鎌倉幕府は、ここに滅亡するのです。
後醍醐天皇による、北条鎌倉幕府倒幕も、その軍事的中心をなした源氏の足利氏との見解の相違により、1336年吉野の後醍醐天皇の朝廷(南朝)と、足利氏の武家政権(北朝)との分裂となるのです。これが南北朝の始まりです。百済王朝再建を目指す後醍醐天皇が、1339年死去し、南朝の楠木氏も北朝に寝返ったため、1392年南北朝の合体となり、1394年三代足利義満が太政大臣となり、源氏足利氏の室町時代が確立されていくわけです。
この源氏室町幕府の時代に、現在に続く日本文化の基礎が花開くのです。その主役は、山から降りた民達です。
室町時代の文化を代表する芸能のひとつとして、「能楽」があります。1402年賎民の世阿弥は、能楽の奥義書の「風姿花伝」を著すのです。その書によれば、能楽の祖は、秦河勝というのです。そして、能楽は、猿楽から派生したというのです。では、その猿楽の「猿」とは何を物語っているのでしょうか。
猿は、古来王権よりの蔑称で、王権に服従する先住民を意味していたようです。812年多人長が著した「古事記」には、(古事記の奥付712年は、唐国の儀式により新羅系天武天皇の神・天御中主(北極星・太一)を祀るのではなく、百済系桓武天皇が父・光仁天皇を神として祀り「日本書紀」の文章を嫌新羅、親百済(552年百済仏教伝来のウソ。蘇我馬子の事跡を聖徳太子の活躍に改竄。チュルク系騎馬民族蘇我王朝を隠蔽するために、聖徳太子を発明。)に改竄したことを、多人長が、後世のひとに気付かせるために付けた年号。古事記が812年に発刊された根拠として、「古事記」は、後に(720年))に発刊された「日本書紀」の、推古天皇までの解説文(一書)全てに対応しているからです。更に、「日本書紀」が万葉語に稚拙なのに、それ以前に発刊された「古事記」の万葉語は完璧なのです。それは、オリエントから渡来の秦氏末裔多人長が、万葉語(万葉とは、世界の言葉の意味。)の学者で、そして、「日本書紀」の解説者でもあったからです。)

わたしは国つ神で、名は猿田彦神と申します。ここにいるのは、天つ神のご子孫が天降りなさると聞きましたので、道案内をいたそうと思って、お迎えに参ったのです。

とあります。猿田彦は、「神様」だったと、秦氏末裔の多人長は、「古事記」でさりげなく述べているのです。その国つ神とは、先住民の神ということなのに、何故王権から、「猿」は蔑視されていたのでしょう。それは、王権がある時点(平安時代)で、「摩り替わって」いたからです。
猿は、猿まわしの大道芸として、今日でも人気のある芸です。その猿は、古来から「馬」の守護神であったのです。何故「猿」が「馬」の守護神なのでしょうか。そこには、簒奪王権により隠された物語があるようです。
猿まわしは、古来より猿廻し、猿曳、猿牽、猿遣い、猿飼いなどと言われていましたが、「狙公・そこう」とも言われていたのです。その「狙公」と「猿まわし」との因果関係がよく分かりませんが、「狙」と「公」とに分解すると、その意味が分かります。
「そ」とは、古代新羅語で、「新羅」と言うことで、「公」とは、尊称でひとのことです。つまり、「狙公」とは、「新羅のひと」ということです。(新羅国の古語に、「けものへん」の「狙」を使うことにより、亡命百済王権よりの、新羅末裔への貶めが窺がえます。それは、教科書歴史で、新羅を、「しんら」ではなく、「しらぎ」と読ませることと同じです。「しらぎ」とは、「新羅の奴(やつ)」という蔑称だからです。)
新羅(しんら)とは、秦羅(しんら=ローマの国。漢語でローマ帝国は「大秦」と表記。)でもあり、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅であり、秦氏は、オリエントからシルクロードにより中国大陸を経て朝鮮半島に渡来し秦王国(新羅)を興し、そして、朝鮮半島の騒乱を逃れ、秦氏一族は北九州に亡命し、秦王国(後の豊国)を興し、そして、紀元四世紀には飛鳥ヤマトに渡来してきた民族なのです。
能楽の祖が、秦河勝で、能楽の祖が猿楽であるならば、猿が先住民の神(国つ神)であったことが理解できます。つまり、「猿楽」とは、「申楽」で、その申(さる)とは、645年蘇我王朝の簒奪者・藤原氏により、「神」の偏を盗られてしまい「申・さる=猿」に貶められてしまった「神楽」(神に捧げる芸)だったのです。
では、何故「猿」が「馬」の守護神なのでしょう。
それは、秦氏が渡来してきた日本列島の歴史を考えれば、そのヒントが得られます。日本列島に「馬」が存在していなかったのが、四世紀の古墳から「馬具」が突然現れるのは、ユーラシアから騎馬民族の渡来が示唆されます。
五世紀から六世紀にかけて、飛鳥ヤマトに渡来した騎馬民族チュルク(蘇我氏)は、そこに王国を建てるのです。その騎馬民族チュルク王国(蘇我王朝=ヤマト王朝)を護ったのが、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した秦氏であったのです。
飛鳥ヤマトを中心に、十二m超幅のローマ軍式「直線道路」が、難波や近江の各湊を目指して造られていたことは、そのローマ式軍事道路建設の技術を持った部族が、飛鳥ヤマトに渡来していたからです。その技術部隊が、秦氏であるわけです。
それに、エジプトの石棺造りの技術、巨石建造物を造る技術、噴水を造る技術などは、全てオリエントからの技術なのです。なのに、教科書歴史では、秦氏とは、「はた織」の技術者だから、「はた」氏なのです、と説明しているのです。
そのヤマトの歴史が後に、猿(秦氏)が馬(騎馬民族)を護るという物語となったわけです。この「猿が馬を護る」物語は、1590年騎馬民族末裔の徳川家康が、宿敵の関白豊臣秀吉により穢れ地のエドの湿地帯に左遷された時、徳川家康の馬が疲弊したのを、鳥越から駆けつけた穢多頭弾左衛門(秦氏末裔)が「猿曳き」を伴いお迎えしたと、千年の時を超えて繋がっていたのです。
鎌倉末期から南北朝にかけて、異装・異相の武装集団が出没するのです。そして、その頃「槍」が戦で出現するのです。槍は、弥生時代から矛が武器として使われていたから、古来からあると思われていますが、そうではないのです。
鎌倉時代の前、平安時代には、槍は戦場で存在していなくて、長物武器は薙刀だったのです。平安時代の藤原氏の興福寺や亡命百済貴族の延暦寺の僧兵軍団は、薙刀(唐軍の武器か?)で武装していたのです。そして、平安時代に出現した武士は、日本刀と弓矢で武装していたのです。
では、その槍はどこからもたらされたのでしょうか。考えられるのは、1274年と1281年との「元寇」と言われる、南宋と高麗からの亡命軍の渡来です。異装・異相の武装集団が、太平洋側よりも、日本海側に多く出現したことにより、南宋や高麗から外洋船で亡命候補の北九州を目指していたのが、沖で暴風雨に遭遇し、亡命軍団船が対馬海流により日本海沿岸に打ち寄せられたことが推測されます。
長槍は、ローマ軍の主力武器だったのです。長槍と盾により集団で防御・攻撃をおこなうのがローマ軍の闘い方です。その長槍を、ロンギヌスの槍ということからもローマ軍の長槍は有名だったのです。そして、ローマ軍は、傭兵軍団により組織されていたのです。
傭兵は、お金のために闘うので、条件がよければ遠方でも、どのような異国にも赴いていたのです。秦の始皇帝の軍隊にも大勢のローマ傭兵軍兵士が加わっていたのです。
鎌倉末期から南北朝にかけて現れた、異装・異相の武装集団は、自ら「あく党」と名乗っていたのです。では、その「あく党」とは、悪い集団の意味の「悪党」なのでしょうか。自ら「悪党」を自認することは稀です。では、「あく」とは何を意味しているのでしょうか。それは、「あく」とは、古代ペルシャ語で、「勇者」を意味していたのです。異装・異相の武装集団が、自ら「あく党」と名乗ったのは、「勇者団」を意味していたのです。
日本の家紋の歴史上の出現は不明です。その武士の家紋が確認されるのは、1467年応仁の乱の流れにおける、下克上の群雄割拠する戦国時代からです。時代劇映画での合戦シーンでの家紋を付けた旗指物が現れるのが、戦国時代なのです。平安時代の源平合戦では、源氏の白旗に対して、平家は赤旗で闘っていたのです。鎌倉時代も、室町時代も、その合戦場で、家紋付き旗など見られません。
では、何故、合戦場で、家紋が戦国時代に突然現れたのでしょうか。考えられるのは、鎌倉末期に現れた異装・異相の武装集団の渡来です。
ローマ軍団は、出自の異なる各傭兵軍団により組織されていたのです。ですから、それぞれの出身の異なる傭兵軍団は、戦場での自部族軍の働きを雇い主に示すために、盾や旗にそれぞれの部族を示すシンボルマークを付けていたのです。そのシンボルマークが家紋というわけです。
日本の家紋の歴史は、不明です。「日本書紀」で、天皇家のルーツが、ひともいない神代から続いていると述べているのに、天皇家の家紋である十六弁菊紋が現れるのが、鎌倉時代というのはどうしてでしょう。
鎌倉時代とは、天皇家の経済基盤である天領と荘園とが、源氏武士により略奪され(この百済系天皇領の略奪は、源氏武士の先祖の新羅系天武天皇の支配地を取り戻した、とも考えられます。)、更に、源氏の支配権を奪った北条鎌倉幕府により、天皇とその子息は島流しにされた時代なのです。そのことから推測すると、家紋という意匠は、元々日本列島に住むひと達とは異なる思想を持ったひと達により、創り出されたもののようです。
現在に至る日本国の家紋は、そのデザインに使われる多くの動植物は、オリエント渡来のものです。鎌倉時代に出現した百済系天皇家の家紋である十六弁の菊も、そのルーツはペルシャ原産なのです。動植物を使わない部族を表わすデザインでも、ユーラシアの騎馬民族が崇拝する、「月・星」を使用しているのです。(現在のユーラシアの国々では、国旗に月・星をデザインに使用している。)
源平合戦で、闘った平家と源氏とは、それぞれのシンボルを星に求めていたのです。オリオン座の赤いα星のベテルギウスを「平家星」と呼び、白いβ星のリゲルを「源氏星」と呼んでいたのです。このことから、平家と源氏とが、農耕民族でないことが証明されます。海洋民族と騎馬遊牧民族は、定住民族の農耕民族と異なり、星の指示により民族移動をしていたからです。
その源氏系の渡辺氏の家紋、三ツ星に一文字とは、オリオン座のミンタカ・アルニラム・アルニタクの三ツ星を表わし、一文字とは槍を表わしていたのです。その槍は、源平時代には戦で使われていなかったのです。槍が戦で使われるのが、鎌倉末期から南北朝であったから、それ以前の源平の時代に、三ツ星と一文字の家紋など存在していなかったから、源氏は白旗だったのです。
日本国の家紋の歴史的出現も不思議ですが、お金(銭)の歴史も不思議なのです。日本国が中国から独立していると歴史書が述べるのなら、何故、飛鳥・奈良時代は富本銭や和同開珎を鋳造していたのに、平安・鎌倉・室町時代に、日本国独自の銭を鋳造しないで、宋銭や明国の永楽銭を輸入して、日本国内で流通していたのでしょうか。そして、現在の「円」も中国の貨幣呼称単位なのです。
何故、708年和同開珎を鋳造したことが、「日本書紀」に誇らしげに書かれているのに、後世に「お金は穢い。」と言われるのでしょうか。それは、平安時代に、中国大陸と密貿易をおこなっていた藤原氏と百済系天皇家が、反体制の民(新羅系天武天皇末裔・富本銭や和同開珎を鋳造していた民族)が勢力を復活させないようにするために、騎馬民族と農耕民族との交易を阻止するための手段のひとつとして、貨幣の流通を禁止するために、発明した「呪文」だったからです。
その銭の穢れ思想は、平安仏教徒が広めた思想であるわけです。その結果、平安時代では、銭の穢れ思想に染まった農耕民族は、銭を嫌っていたのです。そのため、商業を得意とする騎馬民族と農耕民族との交易が途絶えるわけです。それは、王権が望むところです。
しかし、宋国と密貿易をおこなっていたひと達は、宋銭を溜め込んでいたのです。そこで、1192年南宋貿易で銭を溜め込んでいた平家を倒した後、北条氏の傀儡政権の源頼朝は、伊勢の湊で南宋との密貿易で宋銭を溜め込んだ落武者平家末裔を封じ込めるために、銭貨の停止を発していたのです。
政権を維持する者は、その支配権を維持する経済的基盤を磐石にするために、色々なトリックを考え出すようです。そのひとつが、土地本位経済です。土地を支配することにより、臣民を支配できるからです。
その例のひとつが、大宝律令の土地制度のトリックです。そのトリックとは、豪族・氏族が所有する土地を、一旦天皇に献上し、改めて各氏族が、天皇より土地を賜ることにより、天皇の庇護を受けることができる、とするのです。しかし、そこにトリックがあるのです。
例えば、天皇が、ある氏族を潰そうと画策すると、その土地を天皇に返還させさえすれば、その氏族の経済基盤が消滅するため、武力を使うことなく、その氏族も消滅してしまうわけです。このようにして、奈良時代の反藤原氏の貴族・豪族は、抹殺されていったのです。
奈良時代の、藤原氏による天皇の権威付けが、興福寺の奈良仏教であり、春日社の中臣神道であったのです。そして、そのトリックの奥義書が、「日本書紀」というわけです。(平安時代に、桓武天皇により、「日本書紀」に百済史が挿入される。その「日本書紀」の改竄を後世に示すために、812年多人長は、「古事記・712年奥付」を著したのです。)
しかし、銭は、土地と異なり、それを完全に支配することは、天皇でも困難です。そこで、王権は、銭を溜め込み、革命を起こさないようにするために、銭を溜め込まない政策を画策するのです。それが、「銭は穢れている。」と言う思想を、仏教僧により布教することです。
鎌倉時代に発生した同業者組合の流通・交易の場である「座」では、騎馬民族はユーラシア大陸での交易で古来から為替を使っていたように、騎馬民族末裔の民が仕切る神社では、宋銭が交易に使われていたのです。
「座」での商業活動で「宋銭」を溜め込むことにより、源氏末裔の復活を恐れる北条鎌倉幕府は、鎌倉仏教僧達に、平安時代に発明された「銭は穢い思想」を、騎馬民族末裔を世間から疎外するために、その思想背景を知らない農耕民達に布教させるのです。
庶民や賎民に、仏教説話で「銭は穢れている。」と布教し、銭を嫌悪させることにより、仏寺は多大の献金を集めることができたのです。何故、神仏への浄財である賽銭を、賽銭箱に投げ入れる理由が、その銭の穢れ思想にあったのです。それは、穢れた銭と一緒に身の穢れも投げ捨てる、というトリックなのです。では、その穢れ銭は、何に使われるかと言うと、仏寺や神社の借上用に使うのです。神や仏は、銭が必要が無い存在なのです。銭が欲しいのは、僧侶達だったのです。
しかし、騎馬民族は、商業民族の性格を内在していたので、「座」での農耕民との交易をする術を知っていたのです。そのひとつが、バザールの開催です。ユーラシアの遊牧民族は、古来より日にちを決めて定期的にバザールを開催していたのです。そのバザールでは、物品の交易だけではなく、色々な魅力ある興行(猿楽=神楽)もおこなわれていたのです。
しかし、その穢れ地である神社でのバザール開催を快く思っていないひともいるわけです。そこで、バザール荒らしが発生すると、それを阻止するひとが現れるわけです。それが、「座」を仕切る「役」の、「役座」の発生となるわけです。
役座は、賎民の交易の聖地である神社境内(反体制の地)の平和を守るために、警察業務をおこなうわけです。役座は、王権からの威圧破壊行動に対して、弱い者(賎民)の立場を守る者であることから、「任侠」とも言われるわけです。「任侠」とは、弱い立場のひとと、ひととの気持ちを狭めることを表した言葉です。この「強きを挫き、弱きを助ける」任侠道思想は、ローマ騎士道→花郎騎士道→日本武士道の流れにあるわけです。
警察業務は、大きく二つに分けられます。ひとつは、公安警察で、もうひとつが治安警察です。
公安警察業務とは、事件を未然に防ぐためにおこなう警察業務です。その主業務とは、犯罪組織の動向を探る情報収集です。
治安警察業務とは、起きてしまった事件を速やかに解決するために、武力を伴う鎮圧業務です。
平和を守るための警察業務とは、そのノウハウと情報収集をおこなうための全国的組織と武闘力行使のための軍事組織が必要なのです。ですから、賎民の平和を守る「役座」の仕事は、誰にでもできるものではないのです。
ローマ帝国では、街の平和を守るために、裕福な街の名士の財力で、情報収集と武闘のための警察組織を作っていたのです。
では、室町時代、何故「役座」が、神社境内での「座」やバザールでの警察業務ができたのでしょうか。それは、神社成立の謎にあります。
神社は、日本古来から存在する、神様を祀る施設と思っているひとが多くいるようですが、それは違います。神社は、仏教が伝来して、道教・景教を駆逐した後に、道教・景教の神を封じるために発明されたものです。
多くの神社は、こんもり茂った小山の上にあることからも分かるように、土の家=塚=墓(古墳)の上に建てられているのです。日本列島での古墳の発生は、仏教が伝来する前の三世紀後半からです。ですから、三世紀以前には神社など存在していなかったのです。
では、神社は何のために建てられた施設なのでしょうか。それは、前政権の氏族の霊の祟りを封じ込めるために発明されたものですが、どのような神を封じたのでしょうか。
仏教が壊滅した前政権の祭祀者は、こんもり茂る小山で何をしていたのでしょうか。そのことを知るヒントが、「日本書紀」の皇極天皇元年(642年)の条に、

「雨乞いのために村々の祝部(はふりべ)の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社(やしろ)の神を祭(いの)る」

、とあるのです。この記述は、何を意味しているのでしょうか。それは、ミトラ教の儀式を描写しているのです。
古代オリエントで発明されたミトラ教では、輪廻再生する不死身の太陽の化身の牡牛を屠ることにより、死から再生することができる、と信じられていたのです。その牡牛を屠る儀式が、異民族との交易契約を見守る神でもあるミトラ神が、国際交易商人と伴に、各地域に伝播することにより、「牡牛を屠ると太陽神(ミトラ神)により、願い事が叶う。」と拡大解釈されていくわけです。
四世紀に、日本列島に、牛・馬と伴に渡来した民族により、そのミトラ教(景教)の儀式も持ち込まれていたのです。この牡牛を屠る儀式は、百済系桓武天皇が統治した平安時代まで続いていたようで、804年牛の屠殺の禁止令が出ていたほどです。
その儀式は、藤原氏が持ち込んだ大乗仏教の火の儀式に敗れることにより、ミトラ教儀式の祭祀場である、森(「もり」とは、古代新羅語で「神」が宿る聖地の意味。)の小山に、藤原氏の仏教勢力により神社が建てられるわけです。しかし、ミトラ神の祟りを恐れるため、ミトラ神が宿っていると信じられていた祠(ほこら)や石物は、そのまま放置されたわけです。現在に残る神社境内の薄暗い湿気のある処にある祠や石物は、ミトラ教の名残かもしれません。
奈良時代末期から平安初期におこなわれた、藤原氏や百済系貴族が、天武天皇系の前政権の支配者を抹殺したため、奈良の大仏の建造時での銅・水銀鉱毒症が、医学の知識がない時代だったので、前政権者の怨霊の祟りと信じられていくのです。
特に、藤原百川による、天武天皇系最後の血を伝える、後に光仁天皇となった百済亡命下級貴族のお后であった井上皇后と他戸親王(おさべ)母子の謀殺により、天武王朝を乗っ取った光仁・桓武天皇親子は、その怨霊に怯えていたのです。更に、桓武天皇は、ダビデの王権を独占したソロモンと同じに、実弟を無実の罪で謀殺していたのです
怨霊の魂を鎮めるには、同族の祭祀者でなければならないと、当時では信じられていたため、怨霊封じ込め施設の神社の警察・警護は、俘囚があてられたのです。
唐進駐軍の統治下にある桓武天皇軍の陸奥国蝦夷討伐により、前政権の天武王朝軍属は、京に連行され、俘囚と呼ばれるわけです。そして、湿地帯の散所・別所・湯浅・垣内と呼ばれる捕虜収容地に囲われ、武器製造を担わされていたのです。その俘囚と呼ばれる、チュルク系騎馬民族末裔により、蕨手刀を改良して日本刀が創られるわけです。その根拠として、石上神社蔵の刀剣銘には、「陸奥国月山住俘囚臣宇久留」、とあるのです。
その俘囚が創った日本刀と、鎧により武装した、検非違使の手下となった者を、「武芸者」と呼ぶわけです。その武芸者が、後に武士と呼ばれていくわけです。
しかし、その武芸者は、平安時代を統治していた唐進駐軍から敵視されていた新羅軍属末裔もいたわけですから、その携帯する武器も、日本刀は、曲がる、折れる、刃毀れする実践用ではなかったのです。そして、鎧も総皮製の実戦用ではなかったのです。
では、それらの実践用武器・武具ではないもので武装した「武芸者」は、何をしていたのでしょうか。それは、怨霊退治のための公安警察業務(キヨメと呼ばれた。)です。
神社として前政権の神域を封印してしまっても、ひとの記憶を消すことはできません。俘囚とならずに山奥に逃れた「鬼達」は、元の聖域であった神社に自然と集まってくるのです。そして、鬼達は、自分達の土地を簒奪した平安貴族達の館を襲うわけです。
しかし、平安時代では、怨霊の存在を信じていたわけですから、実態のある事件は、治安警察業務をおこなう唐進駐軍や健児兵でおこなっても、実態が見えない事件は、怨霊の仕業と考えていたため、怨霊鎮めのために、鬼の同族である俘囚の武芸者に公安警察業務をおこなわせるのです。それは、武芸者の剣舞による、怨霊鎮めの警察業務です。ですから、武芸者の武器・武具は武舞用で、実践用ではなかったのです。
武芸者の「芸」とは、神を祀る(楽しませる・鎮める)技術であったのです。それらは、歌謡と舞を基本としていたのです。その俘囚の芸(神楽)は、後に簒奪王権により、申楽(猿楽)に貶められてしまうわけです。源氏が支配する室町時代に発明された能楽は、この剣舞の「怨霊鎮め」が素となっているのです。能楽の素は、賎民の彷徨える魂を鎮める「神楽」だったのです。
美術品のような日本刀とチュルク系騎馬民族の鎧兜に華美な装飾を施した武具で、神社境内で、怨霊鎮めのために剣舞をおこなう武芸者は、やがて貴族・民衆に崇められていくのです。やがて、怨霊封じの結界である神社が、武芸者の剣舞を鑑賞するための民衆が集まる場となり、民衆の交易、娯楽の地となっていくのです。すると、武芸者は、神社の平和維持のために、神社境内の警察業務もおこなうようになるわけです。
前政権の氏神を封じ込める神社が、俘囚の武芸者により前政権の氏神が復活することを恐れた仏教勢力は、その神社を取り込むトリック思想を考え出すわけです。それが本地垂迹説です。それは、神は仏の手下という意味です。
そのトリック思想により、神社は仏寺に習合されてしまうのです。元々仏教も神道も、四世紀以降に、藤原氏により中国大陸から日本列島に持ち込まれたものですから、その本地垂迹説により神と仏が同居する神宮寺は、平安貴族達に受け入れられていくわけです。それにより、神社で剣舞をおこない、そして警察業務もおこなっていた武芸者は、神社から排除されていくわけです。
しかし、武芸者は、神宮寺から排除されても、唐進駐軍の後ろ盾の百済系桓武天皇により、奈良の都に封じ込められた、怨霊の祟りを恐れる奈良貴族(藤原氏)により、怨霊鎮めの仕事が与えられるわけです。
武芸者が何故公安警察業務をおこなえたのかと言えば、その要因は二つあります。
ひとつは、武芸者の祖は蝦夷で、その蝦夷の祖は、騎馬民族チュルク族と新羅花郎軍団末裔であったからです。騎馬民族国家は、異民部族の連合体ですので、合議制でものごとを決めていたのです。合議制とは、談合のことです。談合するためには、部族同士の情報交換の技術が必要です。武芸者は、情報収集能力に長けていたのです。
もうひとつは、武芸者には、組織統制の技術が蓄積されていたからです。それは、ローマ騎士道→花郎騎士道→日本武士道の流れにあるからです。その武士道の掟は、組織への忠誠心と弱者へのいたわりです。この思想が無い限り、民衆の共感を得る警察業務はできないのです。民衆の支持が無い警察業務は、長続きはできません。(武士組織と役座組織には共通点が多い。)
彷徨える芸能者の仲間であった武芸者は、939年の天慶の乱により、武士に変身するのです。
907年唐滅ぶ。926年渤海滅ぶ。935年統一新羅滅ぶ。
東アジアの騒乱を逃れてそれらの国の亡命軍属が、日本列島に渡来することにより、各地で紛争が起こったのです。藤原氏は、経営する荘園を防衛するために、公安警察として雇っていた武芸者を、治安警察に使用したのです。この武芸者の活躍により、天慶の乱は速やかに鎮圧されていくわけです。
元々、武芸者とは、飛鳥ヤマトの騎馬民族末裔の武人であったから、武勇に優れ、騎射も得意だったのです。そして、その騎馬民族末裔の武士が、源氏を名乗るわけです。
ここに、闇の世界の公安警察業務をおこなっていた武芸者から、表の世界での治安警察業務をおこなう武士が誕生するわけです。そして、北条鎌倉時代末期に、その闇の世界の武芸者の末裔から、神社で交易・興行をおこなう賎民の平和を守るために役座が現れるわけです。ですから、役座隠語と警察隠語とは同じなのです。
この役座の闇の世界の治安警察業務は、江戸時代まで続くのです。しかし、明治維新により、公安・治安警察業務は、建前として、薩摩藩(秦氏末裔)の下級武士の仕事となったのです。しかし、役座が、任侠思想(武士道の流れにある思想)を理解し、実行している限りは、どのような権力でもその組織撲滅はできないでしょう。何故なら、役座組織は、鎌倉時代から続いているからです。

神輿の黙示録(15)(藤原氏と秦氏の謎:藤原氏はユダで秦氏はエフライムか?)


ひとは、小さなウソには直ぐに気がつくのに、大ウソには全く気付かない傾向があるようです。このひとの心理を悪用して、権力者は、大ウソを堂々とついているようです。
その大ウソの典型が、「聖書」と「日本書紀」の物語です。それらの書物は、時の権力者により、権力者に都合のよい大ウソ物語を挿入し、改竄され続けられていたのです。しかし、その大ウソ物語は、堂々と挿入されていたため、今でも多くのひとには気がつかなかいようです。
後世、その大ウソ物語により苦しむことがないようにと、その大ウソ物語を心あるひとに気付かせるためのひとが現れたのです。それは、「聖書」に対しては、パモス島のヨハネで、「日本書紀」に対しては、秦氏末裔の多人長です。
しかし、このパモス島のヨハネによる「ヨハネの黙示録」も、秦氏末裔多人長による「古事記」の黙示録も、20世紀末まで解かれることはなかったのです。もし、それらの黙示録が世に出た時に、その黙示録を多くのひとが理解したならば、中世のヨーロッパ社会で、民間医療従事者の女が「魔女」として、金儲けのために医療の独占を企むキリスト者により火刑にあわずに済んだことでしょう。そして、日本国でも、仏の興福寺や神の春日社の両方の宗教を同時に支配する藤原氏による、インドカースト思想の穢れ仏教思想により、鎌倉呪文仏教徒などから、オリエント渡来の秦氏末裔が「穢多」などの差別用語でイジメられることもなかったことでしょう。
しかし、それらの大ウソにより創作されたユダヤ・キリスト世界史や藤原日本史は、今でも堂々とひとびとを洗脳し続けているのです。そこで、この章では、その「黙示録=覆い隠されたものを暴く」により、藤原氏と秦氏の謎を解明してみることにしましょう。
大ウソをついていたひとは、その大ウソ物語がバレないように細心の注意を怠りません。そして、その大ウソ物語のトリックを解明することができる民族の抹殺を謀ります。その民族抹殺の手段のひとつが、抹殺対象民族を賎民に落とし、世間との交流を断絶させ孤立させ、自然消滅させることです。つまり、「イジメ」です。
「聖書」のヨハネによる福音書第四章に、

イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

この文章を創作した作家は、大ウソをついているのです。それは、「ヨハネの黙示録」の第十三章の、「思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、六百六十六である。」の謎解きをしたひとには理解できるでしょう。その666の謎解きによれば、ヤコブはヨセフの父ではなかったのです。ヤコブがヨセフの父であるとする「ヤコブ物語」は、紀元前932年ヘブライが、「一神教でヤハウェを祀るユダ」と「多神教で牡牛の偶像を祀るイスラエル」に分裂した時、イスラエルの民がソロモンをヤコブと言ったことを打ち消すための、大ウソ物語であったのです。ヤコブとは、「不正な手段で王権を簒奪した者。」、という意味なのです。
実際のイスラエルの祖であるヨセフは、ヒッタイト帝国(紀元前十九世紀〜紀元前1190年)から、紀元前1377年新都アケトアテンを建設しているアメンホテプ四世(イクナトン)の統治時代に、鉄器・鉄具を使用する土木建設仕事を求めて、古代エジプトに現れた部族であったのです。
そのヨセフ族を祖とするイスラエル民族の歴史を、レビ族末裔(ユダヤ民族)が乗っ取るために創作された物語が、「ヤコブ物語」だったのです。そのヤコブ物語では、ヤコブの末息子ヨセフは、意地悪な兄達により、エジプトの交易商人に売られて、エジプトに行ったことになっているのです。
そのヨハネの福音書(黙示録のヨハネとは別人)には、ユダヤとイスラエルとの関係が述べられています。それは、「ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかった。」と述べているところです。
牡牛の偶像を崇拝するイスラエルは、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより亡ぼされてしまうのです。そして、その地は、サマリヤと呼ばれ、そこに住むイスラエルとアッシリアとの混血人は、サマリヤ人と呼ばれるわけです。そして、そのサマリヤ人は、ユダヤ人により、不可触賎民(オリエント版穢多)に落とされていくわけです。ここのところが理解できないと、サマリヤの女が、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」のニュアンスが分からないでしょう。
ユダヤにより、賎民視されたイスラエルの民は、紀元前八世紀のオリエントの砂漠に消えるのです。これが、失われたイスラエル十部族と言われるわけです。その十部族のリーダ的部族が、エフライム族です。つまり、イスラエルとユダヤは、祀る神が異なる別民族だったのです。
そのことは、「旧約聖書」の士師記第二章に、「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らをらを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起こした。」とあることからも理解できるでしょう。この悪をおこなうイスラエルの行状は、この後も何度もおこなったと士師記に記述してあるのです。
この聖書の「サマリヤの女物語」は、キリスト教のオリジナルではないようです。紀元一世紀キリスト教誕生と時を同じく大乗仏教が、ガンダーラで発明されるのです。その大乗仏教の教典に、「サマリヤの女物語」ソックリがあるのです。
ブッダの愛弟子アーナンダは、不可触賎民チャンダーラ(インド版穢多)に水を所望するのです。チャンダーラは自身の身分の低さゆえ辞退するのです。アーナンダは言うのです。「妹よ、わたしはあなたのカーストや家柄について尋ねているのではありません。あなたがわたしに飲み水をわけてくださるかどうかを尋ねているのです。」
キリスト教物語と大乗仏教物語との共通点は、他にも多くあるのです。キリストとブッダの奇跡物語などはまるで双子のようです。
キリストもブッダもその家系は王族につながります。キリストの母マリアは、夢の中で白い鳩が体内に入り込むのを見て、キリストを懐妊するのです。それに対して、ブッダの母マーヤー妃は、白い象が天から降りてきて腹に入り、ブッダを懐妊するのです。ふたりの母は伴に、処女懐妊だったのです。
その話を聞いたマリアの婚約者ヨセフも、マーヤー妃の夫シュッドーダナ王も、その不思議な出来事を躊躇なく信じるのです。
やがて、マリアとヨセフは税を払うためよその町に旅をしている時、マリアは厩でキリストを生むのです。それに対して、夫シュッドーダナ王が税を払うため旅をしている時、マーヤー妃は羊飼いの家のかいば桶のなかでブッダを生むのです。
その誕生の時、マリアの産所が眩むばかりの光に包まれ、その星を見た東方の博士が祝福におとずれるのです。それに対して、ブッダの誕生の時、大いなる光があまねく世界を照らしたのです。
そして、幼児キリストは、空中浮遊ができたのです。それに対して、ブッダは、生まれてすぐに七歩あるいたのです。そして、宙に浮くこともできたのです。
神殿での話しで、信心深いシメオン老人は、幼児キリストを抱き、救い主に会ったので安らかに死ねると言うのです。それに対して、信心深い老人アタシは幻の中で、須弥山の神々が大喜びしているのを見るのです。何故神々が喜んでいるのかと、アタシが尋ねると、ブッタとなるものがこの世を幸福にするために生まれたからだと言うのです。
十二歳になったキリストは、神殿で迷子になってしまったと思った両親が見た光景は、そこで学者と議論をしていたのです。それに対して、姿が見えないブッダを探していた父親は、木の下に座り宗教的瞑想にふけるブッダを見つけるのです。その木陰は、夕暮れだと言うのに、真昼のように輝いていたのです。
そのようにキリストとブッダは、共通した奇跡の成長過程を経て聖者となるのです。そして、迷える民に教えを説くのです。キリストの教えでは、「殺すな、姦淫するな、誓いを立てるな、復讐するな」です。それに対して、ブッダの教えでは、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄言、不飲酒」です。
そして、人間から神に変身するための奇跡をおこすのです。キリストは、腹を空かせる弟子達に、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、十二籠のパンの屑を余させるのです。それに対して、ブッダは、物乞いの鉢の中のパンをもって、弟子五百人と僧院のすべての者の飢えを満たし、更にパンを余らせたのです。
更に奇跡は続くのです。マルコの福音書によれば、キリストは弟子達を船に乗せ、自分はひとりで祈りに行くのです。そして、強風のため漕ぎ悩んでいる弟子達の前に、キリストは水の上を歩いて現れたのです。それに対して、ブッダは、雨が降りしきる中、逍遥しながら瞑想しているのです。それを心配した弟子達は、豪雨になったので、ブッダが濁流に流されてしまうのではないかと心配し、小船で探していると、ブッダが水の上にまったく濡れずに歩いているのを発見するのです。
そのようなキリスト教にソックリの大乗仏教が、四世紀以降の日本列島に、藤原氏と伴に突然現れるのです。

1776年7月4日、トマス・ジェファーソンの起草文による、アメリカ独立宣言がおこなわれるのです。これが、歴史上最初の国民国家となるのです。そして、この国民国家は、歴史初の奴隷貿易をおこなった国民国家だったのです。その奴隷貿易に異を唱えたひとが現れるのです。それがアブラハム・リンカーンです。リンカーンは、大統領に就任すると、南部の奴隷農業をおこなう豪農の反対を押し切って、奴隷貿易反対を唱えるのです。その結果、南北戦争(1861年〜1865年)に突入するわけです。1863年1月リンカーンは、南北戦争において優勢のなか、ゲッチスバーグで黒人奴隷解放宣言をおこなうわけです。その結果が、リンカーン暗殺となるのです。
その十年前、1853年東インド会社が経営するマカオ貿易港から、外科医シーボルトにより模写された伊能忠敬の日本地図を手にした米使ペリーが、日本国浦賀へ来航するのです。何故ペリー艦隊は、アメリカ合衆国から直接日本国浦賀に来航しないで、一旦東インド会社のあるマカオに行ったのでしょう。そこに、アメリカ合衆国建国の謎があるようです。その謎解きは、米1ドルの裏にある「ANNUIT CCEPTIS」のピラミッドの眼にあるようです。そして、ペリー艦隊は、高圧的に日本国の開国を幕府に要求して去るのです。
開国か鎖国かの議論にゆれる江戸幕府が躊躇している中、1866年薩長連合の盟約が結ばれるのです。その裏事情は、アメリカ南北戦争が終わってしまったため、膨大なゲーベル銃の在庫の捌き先を探っていた東インド会社の売り込みが薩長にあったからです。
その死の商社・東インド会社のエージェントが秘密結社員のグラバーで、その手先が坂本竜馬ということです。坂本竜馬は、江戸幕府の策士勝海舟とも繋がっていたのです。秘密結社員グラバーの秘密を知りすぎた坂本竜馬は、イエズス会組織に背いたために爆殺された織田信長のように、やがて暗殺されるのです
明治維新の中心的役割をした薩摩藩の元は、島津氏(秦氏末裔)の所領で、戦国時代には中国大陸→種子島→雑賀→根来→本能寺ルートで銃・弾薬の密輸をおこなっていたのです。その密輸の裏には、古代から中国大陸との交易をおこなっていた、近衛家の祖藤原氏の存在があったのです。
東インド会社は特殊な会社(インドネシアで、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が覇権を争っていた。)で、その経営母体は国際金融組織ですがその実態は不明です。しかし、イギリス王国の後ろ盾があったのです。東インド会社は、日本国に進出する前に、中国・清帝国とアヘン戦争(1840年〜1842年)で巨額の賠償金を手にしていたのです。
明治維新は、イギリス東インド会社が持ち込んだアメリカ南北戦争で不要になったゲーベル銃により、長州藩の江戸幕府(第三百済王朝)を憎む、自前で銃を調達した穢多部隊と言われる「奇兵隊」により達成されたのです。
時の権力者が武勇に優れた賎民を利用することは、これは正に、平安時代末期の、奥州藤原氏の策謀による陸奥の蝦夷・源義経の源平合戦か、戦国時代の日本征服を目論むイエズス会が供給した火縄銃と火薬により、賎民の先祖を持つ織田信長・徳川家康により、近畿地域を軍事支配する仏教組織壊滅の宗教戦争と同じ戦略のようです。
その明治維新により、藤原氏が再び日本列島の中枢に現れたのです。そして、古代藤原王朝の再興を目指して、藤原日本史を創作するわけです。そのスローガンは、「王政復興」です。
明治新政府は、欧米列強に対抗するために、日本の歴史を創作することになるのです。それは、日本国の歴史は、西ヨーロッパ歴史観である民族の興亡史ではなく、誰が正統かを綴った中国史の模倣の「正統史観」により、日本史が綴られていたからです。
そこで、明治新政府は、1887年ユダヤ系ドイツ人のルードヴィヒ・リースを、帝国大学に招聘し、史学科を開設したのです。そこで、西ヨーロッパ歴史観を基に、藤原不比等が創作した「日本書紀」を基に日本国史を創作することになるのです。

藤原日本史の古代史概略(ユーラシア・東アジア・関連事項)
紀元前660年建国?(日本列島、縄文時代末期。オリエント、紀元前722年イスラエル滅亡。紀元前586年ユダ滅亡。)
紀元一世紀倭国百余国に分立(中国・前漢とローマ共和国との国際交易都市・ガンダーラで大乗仏教が発明される。キリスト教の発明。(聖書はギリシャ語で書かれていた。)キリスト物語ソックリのブッダ物語集「ジャータカ」完成。)
189年卑弥呼、邪馬台国の女王となる(97年後漢、甘英をローマ領に派遣。148年パルチア僧安世高が後漢・洛陽に渡来。166年シルクロード交易によりローマ帝国使者後漢に至る。バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が、ガンダーラ大乗仏教(ギリシャ系仏教)を中国化仏教(西方浄土思想)に改竄。サンスクリット(ギリシャ語かアラム語?)仏典の漢語訳後、原典は焚書される。七世紀にサンスクリット仏典復刻。)
四世紀ヤマトを統一し、大和王朝興る?(346年百済興る。356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。392年キリスト教ローマ帝国の国教となり、キリスト者によりローマ軍神のミトラ教団壊滅される。395年ローマ帝国東西に分裂。ユーラシアで騎馬民族台頭。)
527年筑紫国造磐井の反乱(508年中央ユーラシア支配の騎馬民族国柔然、高車人により滅ぼされる。528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。)
536年蘇我稲目大臣となる(535年北魏東西に分裂。出自不明の蘇我稲目、飛鳥ヤマトに突然の出現。同時に交易の要所に武器庫の「屯倉」が設立される。)
538年百済聖王仏像と経典を献ず?(日本書紀では、552年仏教伝来。)
562年任那日本府、新羅に滅ぼされる?(552年チュルク系突厥帝国興る。568年東ローマ使者突厥庭に入る。)
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす(飛鳥に巨石建造物出現。噴水のある庭園造営。飛鳥を基点として、現在の高速道路下に、道幅十二m超のローマ軍式直線道路が造られる。蘇我氏が崇仏派かは疑問。新羅渡来の弥勒菩薩の「弥勒」とは、「ミトラ」の漢語変換。平安時代、ミトラは「魔多羅」に変換。571年イスラームのサラセン帝国興る。589年隋中国統一。)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺?(☆この頃、天皇は存在しない。)
593年聖徳太子、摂政となる?(☆飛鳥時代に摂政の職務なし。858年藤原良房、摂政の職務を始めておこなう。推古天皇統治(593年〜628年)、しかし、隋書では、ヤマト統治は男王と記述。)
603年蜂丘寺(広隆寺=仏寺)創建(蜂丘寺は、仏寺ではなく、ミトラ教寺院=景教寺。蜂丘寺がある山背国は秦氏の支配地)
607年法隆寺創建?(聖徳太子が創建と言われる?670年炎上、再建法隆寺は、北九州秦王国=豊国から移築。)
607年小野妹子を隋に遣わす(608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。618年隋滅び、唐興る。621年ゾロアスター寺院長安に建立)
622年聖徳太子逝去?(聖徳太子の実在は疑問のため、その偉業の多くは、蘇我馬子のものか?)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる(誰が、713年以降に、蘇我氏末裔に、馬子・蝦夷・入鹿などの「賎名」をつけたのか?630年唐軍により、東突厥散ず。)
643年蘇我入鹿、山背大兄王一族を滅ぼす?(聖徳太子の歴史を消すためのウソ物語か?)
645年蘇我氏滅ぶ。大化の改新が始る?仏教興隆の詔?天皇紀・国紀焼失?(645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。)
660年中大兄皇子漏刻(水時計)を造る(水時計はオリエントで発明。オリエントの技術継承者渡来の示唆。)
663年白村江の戦い、百済滅ぶ
667年近江大津京に遷都(近江は古来から百済のコロニー)
672年壬申の乱、飛鳥浄御原宮に遷都(☆日本初の新羅系天武天皇誕生。)
675年占星台設置(天武天皇は道教儀式で北極星・太一を祀る。北極星→天御中主→天照大神。675年新羅、百済併合。676年統一新羅始る。668年高句麗滅ぶ。)
685年伊勢神宮式年遷宮の初め(天武天皇系の神を祀る。平安時代、百済系桓武天皇により疎まれる。伊勢遷宮前、伊勢の神(海神)は百済支配の近畿を彷徨っていた。682年東突厥復興。)
686年日本初の天武天皇崩御(天武天皇に左遷された藤原不比等、持統天皇朝廷に返り咲く。)
694年藤原京に遷都(藤原不比等策謀。698年渤海建国。)
701年大宝律令発令(藤原不比等策謀。豪族の私領を天皇に献上させ、権力を天皇に集中させる。)
710年平城京に遷都(藤原不比等策謀。)
713年風土記撰上の詔、好字令(藤原不比等策謀。好字令と風土記のセットにより、騎馬民族文化・飛鳥オリエント巨石文化が隠蔽される。)
718年養老律令発令(藤原不比等策謀。天武天皇系豪族滅亡。藤原氏のロボット天皇の権力が増大。)
720年日本書紀完成、藤原不比等死去

藤原日本史によると、紀元前660年ヤマト国は建国されたというのです。しかし、考古学上では、その頃は縄文時代末期であったのです。
藤原古代日本史とオリエント・ユーラシアとの出来事を時系列に比較すると、大陸の出来事に影響されて、日本列島にも異変が起こっていることが理解できるでしょう。その多くは、シルクロードの西の果てのローマ帝国の動向が、東アジアへの影響力を与えているようです。そして、ユーラシアの騎馬民族も、ローマ軍に押されて東征したようです。しかし、自然の下に暮らす騎馬民族は歴史書を編纂しないため、そのローマ帝国の東アジアへの影響力を証明できません。
その西方からの影響力は、軍事力だけではなく、文化の伝播も示唆されます。そのひとつが、紀元一世紀のガンダーラで発明された大乗仏教です。ガンダーラは、シルクロード東西国際交易の拠点のひとつで、そこには、ギリシャ・ローマ・西アジア・イラン・北アジアからの国際交易商人達が集まるため、その結果、ガンダーラは国際的宗教の坩堝だったのです。当時の国際交易は、騙し合いが前提ですので、取引は絶対者である「神」の下でおこなわれていたからです。そのガンダーラで発明された大乗仏教は、ギリシャやイランの国際的宗教の影響を強く受けていたようです。
ガンダーラは、隣国パルチア王国(紀元前250年〜紀元226年)と交易があったため、148年ギリシャの天文学や占星術を知るパルチア僧の安世高が、後漢の洛陽に仏典をもたらし、漢語に訳していたのです。では、その時代の大乗仏教はどのようなものだったのかといえば、バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が漢訳したものとは少し異なっていたようです。405年鳩摩羅什が後秦の国師となり、バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)の漢訳仏典を広めたことにより、大乗仏教経典は、オリエント大乗仏教経典から中国仏教経典に変身したのです。ですから、それらの中国仏教経典の多くは、バラモン僧龍樹により漢訳されたものですから、騎馬遊牧民族差別をするバラモン思想用語(チャンダーラ→施陀羅)に満ち溢れていたのです。
初期のオリエント大乗仏教のキャラクターである仏像は、ギリシャ的風貌であったのです。そして、キリスト像の頭光背と同じものが仏像にも設置されていたのです。そして、キリスト教の天使キューピットと同じに、飛天や音声菩薩などがあるのです。更に、仏教が特徴とする読経・仏教声明・念仏が、グレゴリオ聖歌以前のキリスト教会音楽と非常に類似していたのです。
異国で、仏典の説教をしても人集めはできません。言葉も文字も異なるからです。そこで、大乗仏教組織は、人集めのためにパフォーマンスをしていたようです。大乗仏教のスポンサーである国際交易商人は、商品を販売することが目的ですから、寺院境内で開くバザールで多くのひとを集める必要があったのです。
では異郷で人集めのために、オリエントの西方から中国・北魏に胡僧達と伴に渡来した西域人が寺院境内のバザールで、どのようなことをしていたのかを、「洛陽伽藍記」で述べるには、パルチア王国の王統を引いたと称する幻人が、奇術や魔法を駆使して、寺院の参詣者を驚かせた、とあります。又、宋代の百科事典である「太平御覧」には、パルチアの安都盧(アントロ)は飾り竿に登り剣舞をしたり、山車に雲を吐き出したり、軽業をおこなった、とあります。或いは、走る馬の上や脇腹、馬の頭や尻尾の所で色々な曲芸をみせた、とあります。
この北魏(423年〜534年)や宋での西域人の寺院境内でのパフォーマンスは、昭和初期生まれの人は、幼少の頃、縁日の神社境内で見た大道芸人の演技を思い浮かべれば、想像がつくかもしれません。
しかし、北魏では、土着宗教を大成した道教が盛んであったのです。道教の特徴は、仙術や薬草による長生術です。この頃、大乗仏教には、長生術はなかったのです。
オリエントの国際商人により贅沢品や珍品をもたらしたり、寺院境内でのバザールで胡姫などの舞踏により若者を幻惑する大乗仏教文化は治安を乱すため、敵対宗教の道教組織の密告により、北魏の太武帝から廃仏されるのです。この後も中国大陸で度々廃仏がおこなわれたのは、大乗仏教文化には、退廃をもたらす要素が元々内在していたからです。肛門の疾患である「痔」という病気は、不自然な禁欲を強いる大乗仏教の「寺の病」であるのです。(戦国時代、織田信長が、仏僧を「欺瞞者ども」と罵り、比叡山全僧打首の理由のひとつが、このことだったのです。)
しかし、中国・北魏での道教と仏教との戦いは、やがて互いの儀式や教義を取り入れ、道教の仏教化と仏教の道教化をもたらすのです。そのことにより、民衆は仏教と道教とを見分けることが困難になってしまったのです。極端に言えば、違いは、仏像を祀るか、天帝(北極星)を祀るかです。
シルクロードの国際交易により、ローマから中国へは、物品や宗教だけではなく、各種高度技術者の渡来もあったようです。
この技術者の西アジアから東アジアへの渡来は、結果として、日本列島にも多大に影響したようです。それは、紀元三世紀末に突然現れた、巨大古墳群です。これらの全国一律相似デザインによる古墳は、日本列島在住者の技術ではなく、遠く古代エジプトやオリエントのものであったようです。それらの巨大古墳を築くには、デザイン思想もさることながら、膨大な建設物資を運ぶ巨大運河を掘ったり、幅広の直線道路建設のため硬い岩を砕く鋼鉄製の工具が必要だったのです。
では、古代の土木建設工具は、金属器が発明される前ではどのようなものだったのでしょうか。それは、土を掘る「ツルハシ」は、鹿の角を使い、土を取り出す「スコップ」は、牛の肩甲骨が使われたようです。そのような工具では、日本列島の巨石建設物や巨大古墳は造れません。
金属器の発明の歴史は、青銅器が紀元前三千年のメソポタミアで、鉄器が紀元前二千年のヒッタイトのようです。青銅器と鉄器の発明は、千年の差があったのです。
しかし、日本列島への金属器の渡来は、青銅器と鉄器とがほぼ同時だったのです。このことは、何を示唆しているのでしょうか。
飛鳥の巨石建築物・巨大運河・道幅十二mの古代高速道路などを構築するには、鋼鉄製の工具とそれらを駆使して建設する技術者が必要です。では、それらは誰により建設されたかは、645年の天皇紀・国紀の焚書により隠蔽されてしまったため、解明できません。しかし、その後、745年に起工された東大寺にヒントがあるようです。
東大寺は謎に満ちた建物です。それは、反藤原氏の聖武天皇により、遍照鬼(ルシャナブツ・鬼とは反仏教の神様)が鋳造されていたからです。その東大寺は、反体制の修験道の拠点でもあったのですが、やがて、奈良の大仏様・大日如来となってしまうのです。
その東大寺のお祭りに、「お水取り」の儀式があるのです。この儀式は、良弁の弟子実忠が始めたことになっているようですが、疑問です。
その由来は、二月十二日の夜のこと、旱の年には井が涸れて修二月法を修する閼伽水(アカミズ)が欠乏したので、衆僧が井戸のまわりに集まって遥か若狭の方に向かって水の出るように祈ったら、しばらくして閼伽井の水がみち溢れた、ということです。そこで衆僧は、若狭から閼伽井まで地下水道で通じていたと考えたのです。そして、その閼伽水を病気の者が飲むと多くが治った、ということです。
この描写は、カナートを示唆します。カナートとは、紀元前二千年バビロニアで発明されたとする開削工法による導水用トンネルのことです。この地下水道技術は、土木建設工事が好きなローマ人により、紀元百年には、ローマ帝国内に張り巡らされた水道のうち約57kmが、このカナートであったようです。そして、このカナートは、ローマ帝国軍と伴に、パルチア→西域諸国→東アジア→日本列島へと東進したようです。
しかし、ローマの建築法や思想が、実際に古代日本列島に渡来しているのに、それを証明することはできないのです。それは、それらの建築法や思想を持った部族・民族は、農耕民族ではなく、騎馬遊牧民族と伴に渡来したからです。
世界史も日本史もその基本は、農耕民族により綴られた史料を素に創作された物語です。それは、自然の下、風と伴に流離う騎馬遊牧民族と海洋民族は、歴史書をもたないからです。それに、それらの風と伴に流離う民族の神は、太陽・月・星を祀る自然神であるから、眼で確認できるため、神の来歴などの理屈が必要ないからです。
しかし、キリスト教も仏教も、ひとが創った神仏なので、その来歴を示す必要があるわけです。そして、それらの神仏の来歴が、やがて人間世界の歴史に組み入れられてしまうのです。それが現在のキリスト世界史であり、仏教日本史であるわけです。
それらの歴史書は、農耕民族世界を基盤としているわけですから、農耕民が「善」で、それに敵対する騎馬遊牧民族や海洋民族は「悪」のイメージで綴られているのです。
その例として、農耕民族である漢民族による「史記」で著される、騎馬遊牧民族や海洋民族は、匈奴、山戎、鮮卑、蠕蠕、突厥などと呼称され、まるでバケモノ扱いです。そして、漢民族は、塞外民族を東西南北に分けるのです。東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)です。
東夷の「夷」とは、弓と矢をつがえる人間の形象です。つまり、弓矢の武器を持つ民族のことです。
西戎の「戎」とは、戎=鉞(まさかり)を持つ、森林を伐採するチベット高原から四川省へかけての山岳狩猟民族のことです。
南蛮の「蛮」とは、蛇や竜類のデザインを背中、身体、腕などに文身(ほりもの)・刺青(いれずみ)をした海洋漁労民族のことです。古代の文身・刺青は、神聖なもので、それは、海中の鮫や海蛇の災いから海洋民族を守ってくれるものだったのです。
北狄の「狄」とは、獣の皮を被ったひとが、寒さを避けるために火にあたって暖をとっている北方狩猟民族のことです。
それらの騎馬遊牧民族や海洋民族を蔑視した態度は、中国の歴史書そのものです。そして、それらの遊民族をひとからげにして、「胡」と呼んでいたのです。その中国の歴史書を真似て、日本古代史は綴られていたのです。
日本古代史を調べるには、「日本書紀」に頼ることになります。それは、645年に藤原氏により、それ以前の飛鳥ヤマト騎馬民族王朝を隠蔽するために、天皇紀・国紀?(この頃天皇は存在しない。)が焚書されてしまったからです。そして、その後、日本列島の歴史を綴る「日本書紀」を720年に創作したのも、藤原氏であったのです。では、645年突然日本列島に現れた、その藤原氏とは、何者でしょうか。
その出自先を推測するヒントが、「旧約聖書」にあります。それは、「日本書紀」による歴史改竄手法が、「旧約聖書」の改竄法と酷似しているからです。藤原氏の日本歴史乗っ取り方法は、どうも「旧約聖書」を教科書にしたようです。
その手段のひとつが、「日本書紀」では、「厩戸皇子物語」(平安時代、聖徳太子に変身)の創作です。そして、その教科書と考えられるのが、「旧約聖書」の、「モーセ物語」です。それらの宗教と重大な関連のあるふたりは、後から創作され、それらの物語に挿入された、架空の人物だったのです。
モーセが、架空の人物であることを知るには、「ヨハネの黙示録」の666の謎を解く必要があります。
パモス島のヨハネは、「神と契約したモーセはいなかった。」と言うことを後世のひとに知らせるために、「ヨハネの黙示録」を書いたのです。
ユダヤ民族の祖は、モーセを「旧約聖書」に出現させることで、レビ族のアロン一派の祭祀族が、イスラエルの歴史を乗っ取ることができたのです。モーセが「主」と契約を誓うことにより、王様を創るための「頭に油を注ぐ」儀式を創作し、その儀式を独占することで、アロン一派は永遠に祭祀階級として存続していくわけです。それは、まるで日本列島史で、日本神道を創作し、天皇を裏からコントロールすることにより、古代から現在まで生き残っている、裏で歴史を操作する藤原氏と同じようです。
そのモーセの実在を否定する暗号解読方法とは、ヨハネの黙示録第十三章十八節に、
「ここに、智恵が必要である、思慮あるものは、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。」の謎を解くことです。
この666の謎を研究したひとによれば、エズラ記の第二章十三節に「アドニカムの子孫は六百六十六人」の言葉を見つけ、ギリシャ文字(聖書はギリシャ文字で書かれていた。)による数字の表現方法を「666」に当てはめるのです。その方法によると、A=1 R=100 N=50 O=70 U=400 M=40、そしてE=5とし、「ARNOUME」という単語を探り当てるのです。その単語の合計は「666」です。そして、そのARNOUMEとは、「否定する」という意味です。そこで、その解読単語を先の文章「アドニカムの子孫は六百六十六人」に当てはめると、アドニカムとはヘブライ語で「主はよみがえる」と言う意味からすると、「アドナイ(主)文章を否定せよ。」となるわけです。
モーセの五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には、二つの異なる文章が並存します。それは、エロヒム(神)とヤハウェ(アドナイ・主)とを主語とする、ふたつの文章です。そこで、ヨハネの暗号解読によれば、「神ではなく、主が主語の文章を否定せよ。」ですから、「主」が主語の文章は「ウソ」だ、と言うことになるわけです。そこで、モーセ五書の「出エジプト記」を、「主」文章を無視して読んでみると、「神」文章では、神と契約したモーセは居ないのです。モーセが契約した文章の主語は、全て「主」なのです。つまり、「神と契約したモーセ」は「否定」されるわけです。
では何故、ユダ民族は、モーセ物語を創作したのかと言えば、それは、紀元前538年新バビロニア王国が、ペルシャ帝国により滅ぼされたためです。紀元前586年からユダ王国の王族・祭祀者・知識人がバビロンに幽囚されていたのを、ペルシャ皇帝により解かれ、故郷のカナンへの帰還での原住民とのトラブルがその原因です。
ユダの元住人が、約五十年後のバビロン幽囚から帰還すると、カナンの地には周辺住民により占領されていたのです。その占領地を取り戻す手段として、神の契約によりカナンの地は、ユダ民族のものだと証明するための書物が、神と契約した「旧約聖書」に挿入された「モーセ物語」であるのです。そして、その五十年したら元の持ち主に土地を返還しなくてはならない神との契約が、「ヨムキプル」なのです。
このモーセ物語を挿入した「旧約聖書」により、ペルシャ帝国の対ギリシャ戦略の裏づけを得ていたため、帰還ユダ民族は、高圧的に原住民をカナンから追い出せたのです。
このモーセ物語戦略が、藤原氏による、飛鳥ヤマトの先住民族を追い出す手段の、仏教導入のための「厩戸皇子物語」となるのです。645年藤原氏は、蘇我王朝を壊滅すると、天皇記・国記(?)を焚書して、その年に仏教興隆の詔を発するのです。
しかし、一寸考えると、この仏教興隆の詔は変です。それは、「日本書紀」で、蘇我氏は崇仏派であると述べているからです。何故、645年に仏教興隆の詔が必要なのでしょうか。それは、前政権の蘇我王朝では、実際は仏教が興隆でなかったからです。
では、蘇我王朝では、どのような宗教が興隆だったのでしょうか。飛鳥ヤマトは国際交易都市であったので、ギリシャ・ローマ・オリエント・インド・ユーラシア・東アジアの神々が、それぞれの部族・民族により祀られていたのです。
そこで蘇我王朝を倒した藤原氏は、大乗仏教を利用して日本列島を乗っ取るために、「旧約聖書」の「モーセ物語」戦術を教科書として、「厩戸皇子物語」を創作したわけです。
「日本書紀」での仏教伝来は、552年です。しかし、仏教史では、538年百済の聖王仏像と経典を献ず、とあります。このブレは何故おきたのでしょうか。それは、720年完成の「日本書紀」の552年の「厩戸皇子物語」が、平安時代に、百済系桓武天皇により、538年の「聖徳太子物語」に改竄され、仏教史に挿入されたことによるのです。
仏教伝来史によれば、仏教が伝来するには、二度の神仏戦争があったということです。第一次が、蘇我稲目と物部尾輿、第二次が、蘇我馬子と物部守屋です。サイファー式暗号解読法によれば、同じ言葉・文章は抹殺せよ、ということです。その二度の神仏戦争のストーリは同じなのです。ということは、実際はその戦争は無い、と考えられます。
では、何を目的に、藤原氏は、二度の神仏戦争を創作したのでしょうか。それは、日本神道を登場させるためです。
日本神道は、誰もが信じているようにではなく、日本列島古来からの宗教ではなく、藤原氏の流れにある中臣氏により、日本列島に、四世紀以降に何処からか持ち込まれた宗教思想です。
では、仏教と闘った宗教とは何でしょうか。それは、道教と景教です。お互いの宗教儀式をパクル、仏教と道教との闘争は、中国・北魏の時代からです。では、仏教と景教とはどうなのでしょうか。
景教とは、太陽神を祀る宗教です。その源は、古代オリエントのミトラ神です。このミトラ神が、古代インドへ伝来し、マイトレーヤとなるのです。このマイトレーヤが、大乗仏教に導入され、中国で弥勒菩薩と変身するわけです。
宗教組織は、生き残るため敵対宗教の利点を導入する傾向があるようです。ですから、宗教に関心のない者には、仏教も道教も景教も同じものと考えられていたようです。
では、何故、道教・景教の神を押しのけて、奈良時代に仏教が興隆したのでしょうか。その解明のヒントが、ユダ王国のエルサレムにあるようです。
藤原氏は蘇我王朝を倒すと、都を次々に建設していたのです。では、日本列島の仏の都・日本版エルサレムの仏教寺院で「何が」おこなわれていたのでしょうか。
「旧約聖書」の「エゼキエル書」第二十三章に、
「主の言葉がわたしに臨んだ、人の子よ、ここにふたりの女があった。ひとりの母の娘である。彼らはエジプトで淫行をした。彼らは若い時に淫行をした。すなわちその所で彼らの胸は押され、その処女の乳ぶさはいじられた。彼らの名は姉はアホラ、妹はアホリバである。彼らはわたしのものとなって、むすこ娘たちを産んだ。その本名はアホラはサマリヤ、アホリバはエルサレムである。」
そして、エルサレムである妹のアホリバは、
「その妹のアホリバはこれを見て、姉よりも情欲をほしいままにし、姉の淫行よりも多くの淫行をなし、アッスリヤの人々に恋いこがれた。」、とあるのです。
この「エゼキエル書」では、エジプトから渡来したイスラエルの民を貶めるために、イスラエルの悪行を細々と描写しているのです。イスラエルの祖ヨセフは、メソポタミアの砂漠を彷徨うレビ族の祖と異なり、ヒッタイト帝国からの鉄器を使う技術集団です。そのエジプト滞在中に、太陽神アトン(聖書ではバアル・太陽神アトンは、ミトラ神の導入)を崇拝していたのです。勿論、太陽神アトンの化身牡牛の金像も崇拝する、イスラエル民族は、一神教のユダヤ民族と異なり、多神教だったのです。
そのエジプトの地母神イシスの神殿での神殿淫売を、「エゼキエル書」で「主・ヤハウェ」は、「彼らはエジプトで淫行をした。」と非難しているのです。
古代エジプトの地母神イシスは、豊穣の神であり、神殿は公共的な娼家であったのです。この地母神イシスが、その幼児ホルスを抱く母子像が、やがてキリスト教に導入され、幼児キリストを抱く聖母マリアとなるわけです。古代の神殿は、聖婚の場でもあったのです。ですから、「新約聖書」のマクダラのマリアが娼婦なのも、聖母マリアの流れにあったからです。
太陽神を祀る宗教組織は、「冬至」を聖婚儀式の日としていたのです。それは、太陽神と地母神の聖婚の日であったからです。その聖婚日(冬至)の秘儀により、一旦死を迎えた太陽は、再び再生するのです。この太陽神と地母神との聖婚が、やがて巫女(聖女)と参拝者との聖婚(まぐわい)へとなっていくわけです。
古代メソポタミアでは、その聖婚秘儀をおこなう所を、「女神の密室」と言い、バビロン語で「ハレム」と言うわけです。
大乗仏教は、中国大陸で抹香臭くなってしまいましたが、キリスト物語とブッダ物語が同根物語であるように、ガンダーラで発明された頃は、オリエントの香りがしていたのです。ですから、当然古代オリエントの聖婚秘儀も内在していたのでしょう。その聖婚秘儀は、大乗仏教と伴に、藤原氏と伴に、日本列島に伝来していたのです。そして、奈良時代末期、仏寺の「ハレム」で、天武天皇系最後の女帝称徳天皇は、藤原氏が操る怪僧道鏡により篭絡され、遂には毒を盛られ最後を遂げるわけです。では、仏寺の「ハレム」とはどのようなものなのでしょうか。
「続日本紀」に、僧玄ムの死を告げる記述があるのです。それは、「天平七年大使多冶比真人広成に随って帰還し、経論五千余巻及び諸の仏像を持ち帰った。皇朝でも紫袈裟を施して着用させた。尊んで僧正となし内道場に安置させた。これから以後栄寵日に盛んにして稍沙門(ややぼうさん)の行に違犯したので、時の人はそれを悪んだ。そのため徒所(ながされところ)で死んだ。」、とあるのです。その文章を要約すると、「僧玄ムは、内道場で稍沙門の行に違犯したので、流罪所で死んだ。」ということです。では、その「内道場」とは、何でしょうか。
遣唐使船を廃止したことにより、藤原氏の逆鱗にあい、大宰府に左遷された菅原道真が、新羅商人から唐の仏教堕落について聞き出すのです。それによると、中国唯一の唐の女帝武則天(690年〜705年)の時代、仏寺での「内道場」が盛んであったそうです。その「内道場」とは、表向きは皇后、采女の仏教修行の場であるのですが、その実態は女性だけの「特別」な修行道場で、有髪の俗人女性と僧侶とが「秘密修行」する隔離部屋であったとのことです。
つまり、仏教寺院の内道場とは、その機能から推測すると、バビロン語で「ハレム」です。シュメール語で「パラダイス」、「聖書」ではアダムとイブの「エデンの園」のことであるのです。
この唐での仏教寺院の「内道場」が、「続日本紀」の記述にあるように、日本列島の仏寺に持ち込まれていたのです。
この秘密儀式を行う内道場の存在を裏付ける史料は、仏教正史には見当たりませんが、戦国時代、織田信長と徳川家康により、比叡山延暦寺を襲撃した時、原則的には、比叡山は女人禁制の聖地であるのに、仏堂伽藍から多くの若い女性が現れたということは、、その内道場の存在が推測されます。
大乗仏教組織は、織田信長との宗教戦争に敗れると、寺社領や荘園を没収されたことにより、禅宗の葬送儀式を真似て、葬式仏教となり生き延びていくわけです。そして、大乗仏教は、第三百済王朝の江戸幕府時代、オリエント渡来の秦氏末裔「穢多=日本版サマリヤ人」を支配するための人別帳を管理する組織として機能していくわけです。
キリスト教の「ミサ」も、この仏教の内道場と関係があるようです。「ミサ」とは、一般人の礼拝が終わった、と告げた後に、特殊な信者による秘密儀式のことであるわけです。 その時、信者は赤い葡萄酒を飲むのです。それは、仏教の般若湯を飲むのと同じようです。
バラモン教・マニ教・ゾロアスター教と仏教が融合した密教では、ハオマ酒、ハシッシュ麻酔剤、大麻、水銀薬などの向精神薬物を使用することは公然の秘密です。だから、空海が発明した真言宗の密教から、真言立川流が生まれたのも納得できます。
仏寺の表向きは、高度文化伝道施設であるけれども、裏の機能は「娯楽施設」でもあったわけです。「聖婚」の祭祀者である藤原氏は、この仏寺の娯楽施設により、貴族・豪族を取り込んで朝廷での勢力を増していくわけです。
この仏寺の「ハレム」は後に、「本能寺の変」直後の山崎の戦いで、明智光秀をイエズス会の密令により裏切った徳川家康を憎む、明智末裔「お福・後の春日局」は、藤原氏・近衛家に取り込まれ「春日局」となり、徳川家康の死後、江戸城内に「大奥=ハレム」を開設すのです。
しかし、645年突然日本列島に現れた藤原氏は、権力中枢に登りつめるには、自らの出自の来歴を示す必要があったのです。それには、日本列島古来から、藤原氏は祭祀者であったことを示す物語の創作が必要となるのです。
その藤原神話物語創作の教科書は、「旧約聖書」です。その「旧約聖書」の創世記も、メソポタミアのギルガメッシュ物語(ノアの箱舟物語の元ネタ)やアッカドのサルゴン王(紀元前2350年〜紀元前2294年)物語(モーセ物語の元ネタ)の民間説話をもとに創作されていたのです。その創世記の創作手法を、藤原氏は真似るわけです。
日本の創世記を解明するには、困難が生じます。それは、日本の創世記は、ねじれているのです。何故ねじれてしまったのかと言えば、それは、720年「日本書紀」の創世記を、812年「古事記」の創世記で改竄しているからです。
「日本書紀」は、二重構造になっているのです。それは、「本書部」と「一書部」とにより構成されているのです。これは、「旧約聖書」が、「主文章」と「神文章」とで構成されているのと似ています。
この二重構成は、「日本書紀」巻第一・神代上の本書では

古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、ほのかにして牙を含めり。
それに続いて、
一書に曰く、天地初めて判るるときに、一物虚中に在り。状貌言い難し。
では、「日本書紀」の教科書である、「旧約聖書」の創世記第一章の物語ではどうでしょうか。
「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」とあるのです。

そのように、「日本書紀」には、補足文章として、一書が付随しているのです。そこで不思議なのは、「日本書紀」よりも八年も前に上梓されたと信じられている「古事記」には、後から出来たと信じられている「日本書紀」の「一書」のエピソードがほぼ語られているのです。
そして、「日本書紀」の物語は、陰陽の二元論で語られているのに、「古事記」では、一元論で語られているのです。これでは、時の流れが逆です。このねじれは、「古事記」が、「日本書紀」よりも後に創作された、と考えれば理解できます。事実、「古事記」は、奈良時代ではなく、平安時代に、「古事文・ふることふみ」を素に創作されたものだったのです。
その時代背景は、中国・唐軍の軍事力を背景に、百済系桓武天皇が中国山東半島から移民させた元百済貴族が、先住民のオリエント渡来の秦氏末裔をその支配地の山城国から追い出し、その地に平安京を造ったのです。このことが、京都が、日本列島での百済渡来人対新羅渡来人(秦氏)の民族差別の発祥地の原因のひとつとなるのです。
そして、唐軍の支援の下、百済系桓武天皇により、新羅渡来人(秦氏)民族差別の武器のひとつである比叡山の天台宗が中国から導入され、更に、中国土着の神・山王(シャンワン→さんのう)が、日枝(イルギ→ひえ)と日吉(イルギ→ひよし)の神へと変身させ、藤原氏の春日神に対抗して、日本神道の神となるわけです。そして、オリエント渡来の新羅・秦氏の神・ミトラ神が、穢れ神の魔多羅に貶められていくわけです。
そして、百済系三代嵯峨天皇の時代に、「レビ記」のような「新撰姓氏録」を創作することにより、皇・神・蕃の序列により新羅系貴族を蕃族と貶め、更にその出自を抹殺したことに反発した秦氏末裔多人長が、新羅系天武天皇が、列島倭国を統合し、飛鳥に日本国を建国したことを知らしめすために、そして、百済系桓武天皇による「日本書紀」の改竄を知らせるために、「古事記」を平安時代に創作したのです。
その根拠として、「日本書紀」の最初に登場するのは、「国常立尊」であるのに対して、「古事記」では、「天之御中主神」であるのです。「天之御中主神」とは、北極星・太一のことです。この北極星(太一)を、天武天皇は、道観(後の伊勢神宮)で、道教の儀式で祀っていたのです。そして、紫衣とは、仏教高僧の着用する仏衣などではなく、道教思想での、北極星(天帝)の世話をする真人(まひと・北斗七星)の衣装であったのです。真人が、天武天皇朝での最高官位であったのは、天武王朝は、仏教ではなく、道教思想により政(まつりごと)をおこなっていたからです。
その伊勢の「天之御中主神」が、天武天皇崩御後、藤原氏により「天照大神」に変身してしまうのです。これは、「星神」が、「日神」に摩り替えられたことを意味しています。
藤原氏は、何故「星神」を「日神」に摩り替えたのでしょうか。その謎を解くには、「日本書紀」の神話に、ギリシャやオリエントの神話を素材としていることが、ヒントのようです。
藤原氏の先祖は、系図によれば「天児屋根命」です。この命の神話での出現は、天岩窟物語です。この天岩窟物語で、スサノウの狼藉により天照大神が、天岩窟に隠れてしまったのを、アメノウズメが裸踊りで誘い出す手助けのひとりとして、祝詞を述べる巫女の天児屋根命が出現するわけです。
この天岩窟物語は、ギリシャ神話の地母神デメテルと巫女バウボーとの物語に酷似しているのです。ギリシャ神話では、
「ある事件により塞ぎこんでいる地母神デメデルに、薬草を飲ませようとするが、拒んで飲みません。そこで、巫女バウボーは、裳をまくり女陰を露出すると、下腹部から女陰にかけて描かれた卑猥な顔が、笑いながら現れたのです。その下腹部をよじらせながら巫女バウボーが踊りだすと、地母神デメデルは笑い出し、元気をとりもどし、薬草を飲んで、生成の活力をとりもどした。」、という物語です。
場面がギリシャ神話と異なるのは、天照大神は「洞窟」に篭った、ということです。藤原氏が、天照大神を洞窟から再生させることで、二つのトリックを使うわけです。ひとつは、天武天皇前政権の「星神・北極星」を「日神・太陽」に変換させることです。そして、もうひとつが、地母神(巫女)である「日女・ひめ」の天照大神を、「太陽神・天照大神」に変換させることです。
世界神話では、太陽神は男神なのです。では、天照大神は、男神でしょうか、女神でしょうか。藤原神話では、地母神・日女=天照大神です。ここに藤原氏の、地母神(女神)を天照大神(男神)に変換したトリックが明かされます。それは、地母神(女神)は、太陽神(男神・天照大神)にはなれないからです。何故ならば、女神と男神との聖婚ができないからです。実は、藤原氏は、太陽神再生儀式も藤原神話で抹殺していたのです。
洞窟は、道教の呪術思想では「子宮」と考えられていました。「子宮」の「子」とは、道教方位学では「北」です。北(子・し)と南(牛・ご)とは、天の基準である「子午線・しごせん」を形成します。
道教の宇宙観によれば、森羅万象の根源が「子」であるわけです。ですから、天文訓の「二十四節」によれば、その基点が「子」となるわけです。そして、その「子」は、「冬至」であるのです。つまり、道教の宇宙論では、冬至の太陽が篭る処が「子宮」ということです。
しかし、道教では、死と生を繰り返す太陽ではなく、真北に鎮座する不動の「北極星」が天帝(太一)であったのです。天武天皇は、伊勢の宮(道観)で、藤原氏が発明した天照大神ではなく、北極星(太一)を祀っていたのです。
この思考と類似しているのが、古代オリエントのミトラ神の太陽です。太陽を祀るミトラ教では、太陽は洞窟から再生する、と考えられていたのです。やがて、古代の祭祀者は、洞窟で聖婚秘儀をおこなうようになるのです。冬至の日に、洞窟の穴から差し込む太陽の光を、地母神の女陰にあてることで、太陽の「再生」を願うのです。(この穴倉でのミトラの秘儀が、後に、多くの秘密結社の入団儀式に取り入れられていくのです。)
それが、12月25日(冬至)におこなわれる太陽神と地母神との聖婚です。(このミトラ教の儀式が、キリスト教に導入され、「クリスマスの日」となるわけです。)ミトラ教の神殿が地下にある理由がここにあります。そして、ミトラ教では、冬至(12月25日)まで待てない時、太陽神の化身である牡牛を屠ることにより、太陽の再生(願い事の成就)を祈願するのです。
この太陽と地母神の聖婚は、遥かバビロンのジグラッドの七層の聖塔上の神殿で、或いは、そのジグラッドを真似た、バベルの塔の神殿で、おこなわれていたのです。ジグラッドの東の窓からの「太陽の船」が入ってくるとは、「冬至の日の太陽光」のことです。ですから、ジグラットは、真東を軸に南北約三十度の冬至・夏至の日の出方位を重視して建設されていたのです。このジグラッドの思想が、中国仏教に導入され、五重塔となるわけです。
藤原神話のトリックを解明すると、星神を祀る道教思想を隠蔽した、藤原氏により発明された太陽神・天照大神を祀る神社の歴史は、遠く遡っても七世紀後半であるわけです。藤原古代史では、神代は紀元前のように物語っているようですが、神話の中で馬の皮を剥ぐ物語や新羅国が現れることを考慮すれば、それは四世紀以降の頃と推測されます。その根拠は、馬が日本列島に出現するのが四世紀以降で、新羅の建国が四世紀後半だからです。そして、伊勢神宮が伊勢に遷宮されるのが、七世紀末期であるからです。
藤原古代史物語から、天照大神、神武天皇、推古天皇、聖徳太子、神仏戦争、広隆寺、法隆寺、大化の改新などを取り除いたとしたら、どのような日本古代史物語が現れてくるのでしょうか。

藤原日本史の古代史概略(ユーラシア・東アジア・関連事項)
紀元前660年建国?(日本列島、縄文時代末期。オリエント、紀元前722年イスラエル滅亡。紀元前586年ユダ滅亡。)
紀元一世紀倭国百余国に分立(中国・前漢とローマ共和国との国際交易都市・ガンダーラで大乗仏教が発明される。キリスト教の発明。(聖書はギリシャ語で書かれていた。)キリスト物語ソックリのブッダ物語集「ジャータカ」完成。)
189年卑弥呼、邪馬台国の女王となる(97年後漢、甘英をローマ領に派遣。148年パルチア僧安世高が後漢・洛陽に渡来。166年シルクロード交易によりローマ帝国使者後漢に至る。バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が、ガンダーラ大乗仏教(ギリシャ系仏教)を中国化仏教(西方浄土思想)に改竄。サンスクリット(ギリシャ語かアラム語?)仏典の漢語訳後、原典は焚書される。七世紀にサンスクリット仏典復刻。)
四世紀ヤマトを統一し、大和王朝興る?(346年百済興る。356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。392年キリスト教ローマ帝国の国教となり、キリスト者によりローマ軍神のミトラ教団壊滅される。395年ローマ帝国東西に分裂。ユーラシアで騎馬民族台頭。)
527年筑紫国造磐井の反乱(508年中央ユーラシア支配の騎馬民族国柔然、高車人により滅ぼされる。528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。)
536年蘇我稲目大臣となる(535年北魏東西に分裂。出自不明の蘇我稲目、飛鳥ヤマトに突然の出現。同時に交易の要所に武器庫の「屯倉」が設立される。)
538年百済聖王仏像と経典を献ず?(日本書紀では、552年仏教伝来。)
562年任那日本府、新羅に滅ぼされる?(552年チュルク系突厥帝国興る。568年東ローマ使者突厥庭に入る。)
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす(飛鳥に巨石建造物出現。噴水のある庭園造営。飛鳥を基点として、現在の高速道路下に、道幅十二m超のローマ軍式直線道路が造られる。蘇我氏が崇仏派かは疑問。新羅渡来の弥勒菩薩の「弥勒」とは、「ミトラ」の漢語変換。平安時代、ミトラは「魔多羅」に変換。571年イスラームのサラセン帝国興る。589年隋中国統一。)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺?(☆この頃、天皇は存在しない。)
593年聖徳太子、摂政となる?(☆飛鳥時代に摂政の職務なし。858年藤原良房、摂政の職務を始めておこなう。推古天皇統治(593年〜628年)、しかし、隋書では、ヤマト統治は男王と記述。)
603年蜂丘寺(広隆寺=仏寺)創建(蜂丘寺は、仏寺ではなく、ミトラ教寺院=景教寺。蜂丘寺がある山背国は秦氏の支配地)
607年法隆寺創建?(聖徳太子が創建と言われる?670年炎上、再建法隆寺は、北九州秦王国=豊国から移築。)
607年小野妹子を隋に遣わす(608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。618年隋滅び、唐興る。621年ゾロアスター寺院長安に建立)
622年聖徳太子逝去?(聖徳太子の実在は疑問のため、その偉業の多くは、蘇我馬子のものか?)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる(誰が、713年以降に、蘇我氏末裔に、馬子・蝦夷・入鹿などの「賎名」をつけたのか?630年唐軍により、東突厥散ず。)
643年蘇我入鹿、山背大兄王一族を滅ぼす?(聖徳太子の歴史を消すためのウソ物語か?)
645年蘇我氏滅ぶ。大化の改新が始る?仏教興隆の詔?天皇紀・国紀焼失?(645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。)
660年中大兄皇子漏刻(水時計)を造る(水時計はオリエントで発明。オリエントの技術継承者渡来の示唆。)
663年白村江の戦い、百済滅ぶ
667年近江大津京に遷都(近江は古来から百済のコロニー)
672年壬申の乱、飛鳥浄御原宮に遷都(☆日本初の新羅系天武天皇誕生。)
675年占星台設置(天武天皇は道教儀式で北極星・太一を祀る。北極星→天御中主→天照大神。675年新羅、百済併合。676年統一新羅始る。668年高句麗滅ぶ。)
685年伊勢神宮式年遷宮の初め(天武天皇系の神を祀る。平安時代、百済系桓武天皇により疎まれる。伊勢遷宮前、伊勢の神(海神)は百済支配の近畿を彷徨っていた。682年東突厥復興。)
686年日本初の天武天皇崩御(天武天皇に左遷された藤原不比等、持統天皇朝廷に返り咲く。)
694年藤原京に遷都(藤原不比等策謀。698年渤海建国。)
701年大宝律令発令(藤原不比等策謀。豪族の私領を天皇に献上させ、権力を天皇に集中させる。)
710年平城京に遷都(藤原不比等策謀。)
713年風土記撰上の詔、好字令(藤原不比等策謀。好字令と風土記のセットにより、騎馬民族文化・飛鳥オリエント巨石文化が隠蔽される。)
718年養老律令発令(藤原不比等策謀。天武天皇系豪族滅亡。藤原氏のロボット天皇の権力が増大。)
720年日本書紀完成、藤原不比等死去
藤原古代史のウソを消し去ると、飛鳥ヤマトの歴史に残るのは、蘇我王朝と秦氏です。

この蘇我氏と秦氏(新羅渡来人)末裔が、藤原氏により、古代オリエントでヘブライ王国分裂後にユダヤ民族によりイスラエル民族が不可触賎民サマリヤ人と差別されたように、第一百済亡命王朝の平安時代より賎民として蔑視されていく原因が、飛鳥ヤマトの歴史にあるようです。
蘇我氏が、飛鳥ヤマトに出現する事績を時系列に羅列すると、
536年蘇我稲目が、突然日本列島歴史上に現れる。
552年中国・北魏滅亡後、中央ユーラシアに騎馬民族国家チュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者突厥帝国庭に入る。
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす。
607年蘇我氏が、小野妹子を隋に遣わす。
608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。
618年隋滅び、唐興る。
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大王となる。
630年唐軍により、騎馬民族国家・東突厥帝国散ず。
645年蘇我氏滅ぶ。
645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。
この536年から645年までの飛鳥ヤマトのオリエント巨石文化を、645年の政変によりヤマト政権を蘇我氏から簒奪した藤原氏は、「日本書紀」の物語で隠蔽したわけです。そのトリックの仕掛けのひとつが、蘇我氏対物部氏の神仏戦争と仏教導入の厩戸皇子物語です。そして、オリエント渡来の巨石土木建築技術集団の秦氏を、厩戸皇子の忠臣として、仏教伝来物語で描くわけです。
もしも、日本列島史が、「日本書紀」物語で述べるような世界であったのなら、何ゆえに、飛鳥の巨石物やローマ軍式幅広の石を敷き詰めた直線道路、軍事要塞化した蘇我氏の館、巨大古墳についての記述がないのでしょうか。それは、蘇我王朝は、中国南朝の唐文化と異なる、ギリシャ・ローマ文化やオリエント文化が花咲く国際交易都市であり、又、外敵からの侵攻を阻止する要塞都市でもあったからです。
六世紀の飛鳥ヤマトは、神武天皇末裔の天皇が支配する大和朝廷が存在できるような都ではなかったのです。そして、七世紀前半の中国大陸では、南の唐国と北の騎馬民族の突厥とが覇権を争う時代の真っ只中であったのです。中国大陸への回廊でもある日本列島を軍事的に押えることは、唐国にも突厥帝国にも死活問題だったのです。
その日本列島の飛鳥ヤマトは、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。その国際交易地の飛鳥ヤマトは、四世紀には高句麗(仏教文化国)、百済(仏教文化国)、新羅(ギリシャ・ローマ文化国)が軍隊を派遣して、支配権争奪戦をおこなっていたのです。朝鮮半島での三国の争いが、日本列島の飛鳥ヤマトでもおこなわれていたのが、「日本書紀」で述べる「大和朝廷」の時代であるわけです。
四世紀後半、その日本列島に、古代エジプト巨石建築技術を持つ集団が渡来して、巨大古墳を岩手以南の列島全国に築造するわけです。その巨大古墳築造は、四世紀から七世紀頃まで続くのですが、その築造目的は「日本書紀」には述べられていません。(近畿巨大古墳は、後の御用学者により天皇の墓と決め付けられた。しかし、現在では、天皇墓説は疑問視されている。)巨大古墳は、墓であることは間違いないのですが、何故、近畿地域の古墳には、古代エジプトの計測単位のキュビトで石棺が造られ、その石棺の素材石の多くが九州阿蘇産であるのかは謎です。
そして、六世紀半ば、騎馬民族国家・チュルク系突厥帝国の軍事的支援により、高句麗、百済、新羅がそれぞれ分割支配する飛鳥ヤマトの地に、蘇我稲目が突然出現し、その地を軍事統一をするわけです。この蘇我氏による飛鳥ヤマト支配のことを、「日本書紀」では、大和朝廷と述べているのです。そして、「日本書紀」で推古天皇なる女帝を発明するわけです。
平安時代、その女帝推古天皇の存在を否定するために、そして、百済系桓武天皇により「日本書紀」の仏教伝来の552年を、百済聖王により538年伝来と改竄し、そして、厩戸皇子を「聖徳太子」に変身させたことを黙示するために、秦氏末裔多人長は、「古事記」を推古天皇物語で終わらせているのです。「同じ文章は否定せよ。」のサイファー式暗号解読法により、「日本書紀」の「推古天皇までの物語を否定せよ。」と「古事記の黙示録」で述べているわけです。
その突厥帝国の日本列島サテライトである飛鳥ヤマトの蘇我王朝が、隋の煬帝に宛てた手紙が「東の王が西の王に挨拶する。つつがなきや」であるわけです。その突厥系蘇我王朝による飛鳥ヤマト支配を、交戦国の隋国から確認しに来たのが、608年の隋使裴世清であったわけです。
六世紀から七世紀にかけての飛鳥ヤマトが、騎馬民族によるオリエント巨石文化都市であり、金メッキ工場、ガラス工場、貨幣鋳造工場があり、そして、景教寺(後の法隆寺)が国際ホテルのように、エジプト、ローマ、ペルシャからの国際交易商人で溢れていた、などと想像することは困難でしょう。それは、645年に突然日本史に現れた藤原氏の隠蔽トリックが、完璧だったからです。
藤原氏が創作した「日本書紀」で、552年に仏教が中国大陸より飛鳥ヤマトに伝来し、厩戸皇子により飛鳥ヤマトは仏教文化都市として繁栄していたとして、騎馬民族文化・オリエント文化が隠蔽されてしまったからです。その飛鳥ヤマト仏教文化の証拠として、騎馬民族文化・オリエント文化などの遺跡物を徹底的に破壊してしまい、「飛鳥には法興寺、法隆寺などの仏寺が多く存在していたのです。」、と「日本書紀」で物語るわけです。
この藤原氏による前政権文化を抹殺する戦術は、四世紀のローマ帝国でおこなわれていた戦術そのものです。それは、キリスト教による、ミトラ教文化の歴史的抹殺です。
紀元一世紀、ローマ帝国が支配するオリエントで、「ブッダ誕生物語」ソックリの物語をもつ新興宗教が興るのです。その宗教のウリは、ゾロアスター教の、「善と悪との戦いで世界が消滅する前に救世主が現れて、最後の審判が行われる。」、という物語を真似たものです。その「救世主」を、ヘブライ語で「マーシーアハ」と言います。そして、その「マーシーアハ」とは、「油を注がれた者」の意味です。その「マーシーアハ」は、日本語で「メシア」と言うわけです。
この「メシア=油を注がれた者」が、ギリシャ語で、「クリストス」となり、それは日本語で、「キリスト」となるわけです。つまり、紀元一世紀に発明された新興宗教とは、ユダヤ教のイエス派が、「キリスト教」と名乗ったものです。
この反ローマ帝国のキリスト教が、どういう訳か392年に、ローマ帝国の国教になってしまうのです。そして、三年後の395年ローマ帝国は、東西に分裂してしまうのです。
分裂以前のローマ帝国では、色々な宗教組織が存在していたのです。中でも、ローマ帝国軍では、ミトラ神を軍神として祀っていたのです。そのミトラ教は、地下聖堂で秘密儀式を行うため秘密結社的存在となり、その組織は時にはローマ帝国王権に反することもあったようです。
そこで、ローマ帝国の国教となったキリスト教徒は、地下聖堂のミトラ神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教会を建設して、ミトラ教文化を地上から抹殺してしまったのです。更に、ミトラ教の儀式やミトラ神の聖婚日を「クリスマスの日」として導入することにより、そのミトラ文化も抹殺してしまったのです。ですから、よほど宗教に興味があるひと以外は、キリスト教はローマ帝国のオリジナル宗教と信じているひとも多くいるわけです。
ローマ帝国軍は、傭兵軍の集まりですから、当然反ローマ帝国を掲げていたユダヤ教の一派である「キリスト教」を、快く受け入れられないミトラ神を祀る傭兵軍もいたことでしょう。しかし、東西ローマ帝国では、国教のキリスト教の神を祀っていたのです。では、ユダヤ・キリスト教に改宗できない、ミトラ神を祀っていたローマ傭兵軍は何処へ消えてしまったのでしょうか。
356年建国の新羅(秦羅)の奈勿王(対外には「楼寒」と名乗った。新羅語で、「王」は「麻立干・まりつかん」。)の出自は不明です。そして、隣国の高句麗と百済とは通訳なしには話しが出来なかったのです。それは、新羅(秦羅)には、漢字がなかったからです。と言うことは、仏典はサンスクリット(?)語から漢語に変換されたものですから、新羅(秦羅)に漢字がないということは、新羅(秦羅)には仏教も伝来していなかったことになります。
では、新羅(秦羅)では、どのような神が祀られていたのでしょうか。そのヒントのひとつとして、新羅(秦羅)の軍団は、花郎軍団と呼ばれていたのです。その花郎の、「花」とは「ミトラ」の借字で、「郎」とは「男」の意味です。つまり、花郎軍団とは、ミトラ神を祀る軍団という意味となるのです。太陽神ミトラを祀る軍団は、ローマ軍団が考えられます。東西分裂前のローマ軍団は、ミトラ神を軍神として祀っていたからです。
356年建国の新羅(秦羅)の花郎軍団が、ローマ軍団末裔である証拠のひとつは、新羅(秦羅)の慶州古墳から出土する遺品です。そこには、仏教国の高句麗や百済の古墳から出土しない、ギリシャ・ローマ文化を示す、金製の三本樹の王冠、ブレスレット、ネックレス、指輪、そして、ローマン・グラス、トンボ玉、そして、ローマ軍が戦闘で着用する金銅製の脛甲、鉄棒、鉄斧、馬鎧、馬冑、多くの金メッキ馬具などがあったからです。
ローマと中国大陸との交流は、歴史上確認できるものは、以下のようです。
97年後漢、甘英をローマ領に派遣。
166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者、後漢に至る。
356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。
395年ローマ帝国が東西に分裂。
528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。
535年東ローマ帝国と密接であった北魏が東西に分裂。
552年ユーラシアにチュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者、突厥帝国庭に入る。
571年イスラームのサラセン帝国興る。
以上のような、ローマと中国との交流があったわけですが、では、どのようなルートにより、ギリシャ・ローマ文化が新羅(秦羅)に伝播してきたのでしょうか。そのルートが、砂漠のシルクロード経由であるとすれば、新羅(秦羅)へのシルクロード中継国である高句麗、百済にもギリシャ・ローマ文化の遺品が古墳から現れるはずです。しかし、出土しません。それは、ギリシャ・ローマ文化は、シルクロードからではなく、バルト海から太平洋を結ぶユーラシア大陸を貫く草原ロードから、新羅(秦羅)に伝播したからです。(バルト海沿岸から岩手県久慈まで、縄文時代に琥珀ロードが存在していた。)
その草原ロードとは、ローマ帝国領クリミア半島→マサラ→エカテリンブルク→イルクーツク→ウラジオストク→新羅・慶州ルートです。その草原ルートは、鹿をトーテムとする騎馬民族国家スキタイの流れを汲む騎馬民族の匈奴(紀元前209年〜紀元48年)、鮮卑(93年〜319年?)、柔然(319年?〜552年)、突厥(552年〜630年。682年復活〜744年)の支配地を通るわけですから、568年に東ローマ使者が、突厥帝国の朝廷を訪れた意図が理解できます。
392年キリスト教が、ローマ帝国の国教となり、それが原因となり、395年ローマ帝国は東西に分裂するわけです。ローマ・キリスト教軍団に弾き飛ばされた、ミトラ軍神を祀る旧ローマ傭兵軍は、戦争という仕事を探すために、ローマ帝国の極東サテライトであった新羅(秦羅の秦とは「ローマ」、羅は「国」の意味。漢語では、ローマ帝国は「大秦」と表示。)を目指すわけです。
朝鮮半島三国での弱小国の新羅(秦羅)が、五世紀前半に突然軍事力を増した理由は、日本の戦国時代の尾張の弱小武将の織田信長がイエズス会から傭兵軍と火縄銃を支給されたため突然軍事力を増したのと同じように、ミトラ神を祀る旧ローマ傭兵軍の新羅(秦羅)への渡来によるものだったのです。
そして、飛鳥ヤマトで高句麗、百済の軍事力により防戦一方の新羅(秦羅)の導きにより、536年チュルク系突厥軍団の武将蘇我稲目が、突然飛鳥ヤマトに現れたわけです。
五世紀に、ローマ軍団末裔の新羅花郎軍団が、日本列島に渡来していた証拠のひとつは、紀ノ川下流の五世紀頃の古墳から、馬冑が出土しているからです。その馬冑は、新羅(秦羅)慶州古墳と日本の紀州古墳からしか、現在まで出土していないのです。
朝鮮半島から日本列島への軍事部族の渡来としては、527年〜528年北九州「磐井の反乱」が考えられます。この反乱の背景には、新羅(秦羅)がギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身したことと関係があるようです。
高句麗が、372年仏教国になったのは、隣国の前秦(351年〜384年)の軍事的圧力があったからです。そして、百済が、384年仏教国になったのは、北朝の前秦と対峙する南朝の東晉(317年〜420年)の軍事的圧力があったからです。
そこで、新羅(秦羅)が、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身したのは、隣国の仏教国の高句麗の軍事的圧力が考えられます。その圧力により、キリスト教を国教としたローマ帝国から追われたミトラ軍神を祀る旧ローマ傭兵軍のように、その仏教受容を拒否することにより朝鮮半島を追われた新羅花郎軍団は、北九州に上陸し(これが磐井の反乱の実態。)、そして、新羅(秦羅)の飛鳥ヤマトのコロニーである磯城を目指すわけです。
536年騎馬民族の突厥帝国軍と新羅花郎軍団の支援により、チュルク系蘇我稲目(「蘇我」は、713年以降の命名。本名は不明。蘇我の蘇(そ)とは、「新羅国」と「牛」の意味がある。)が、飛鳥ヤマトを軍事支配していてたツングース系高句麗・百済の軍事部族(後に物部氏と命名)を倒すと、飛鳥川が流れる丘陵地の丘に要塞都市を築くのです。その軍事都市は、飛鳥川が流れる幅700m×長さ3.000mの狭い土地にあるわけです。何故そのような狭い、小山に挟まれた処に都市を築いたのかといえば、それは、中国大陸の隋・唐軍の飛鳥ヤマトへの侵攻を予測していたからです。
六世紀の中国大陸において、突厥帝国は、北魏の後を継ぐ北齊(550年〜574年)、隋(589年〜618年)、唐(618年〜907年)の軍団と戦闘を繰り返していたからです。そして、その戦争では、日本列島を軍事的に制圧・占領することは、両国にとっては死活問題であるわけです。それは、日本列島は、中国大陸の北と南を繋ぐ回廊であるからです。
蘇我稲目は、飛鳥ヤマトを軍事制圧すると、戦国時代末期関白豊臣秀吉によりエドに移封された徳川家康が、エドから小田原まで騎馬軍団が迅速に移動できるように直線の軍事道路を建設したように、ヤマトを中心に幅12mの石を敷き詰めたローマ軍式軍事道路を日本列島に張り巡らすのです。そして、交通の要所に「ミヤケ」の軍事施設を設けるのです。
ローマ帝国の軍団は、戦闘が無い時は、道路建設や都市建設にその労力を費やしていたのです。ローマ軍の軍事道路建設思想は、谷は埋め、山は切り通し、基点から目的地まで「直線」であれ、ということです。そのローマ式軍事道路思想は現在も生きていて、現在の高速道路は、飛鳥時代に建設した軍事道路上にあるのです。
騎馬民族は、物流を担う商業民族でもあるわけですから、当然飛鳥ヤマトには、商品製造のための工場も建設するわけです。それらは、金属加工工場、金メッキ工場、ローマン・グラス製造工場、そして経済の流通を促進する貨幣製造工場などです。
日本海沿岸や富山に暮す蘇我氏末裔が薬業商を営むのは、騎馬民族スキタイの影響があるようです。スキタイのトーテムは鹿です。それは、鹿の角が強壮剤(ロクジョウ)となることを知っていたからです。奈良の都に、今も鹿が多くいるのは、飛鳥ヤマトでの蘇我氏による薬業と関係があったのです。
そして、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の食卓には、バターやチーズがあったのです。それらの乳製品は、「蘇・ソ」と言われ、その蘇の最高品を「醍醐」というわけです。今日でも使う言葉で、最高の味を「醍醐味」というのは、ここからきていたのです。
645年の政変で勝利した藤原氏により、五世紀のローマ帝国のミトラ教文化をキリスト者が徹底的に破壊したように、徹底的に破壊された騎馬民族文化とオリエント文化の飛鳥ヤマトには、九州から多くの古寺が移築され、飛鳥ヤマトの「道教の観」や「景教寺」が立ち並ぶオリエント都市は、仏教文化都市に改竄されてしまうわけです。
では、そのような大規模仏寺資材の九州から近畿までの海上輸送は、藤原氏には可能だったのでしょうか。
紀元前十四世紀アルファベットを発明したフェニキア(紀元前1500年?〜紀元前612年)が、オリエントの地中海に面した地に興るのです。フェニキアは、隣国ミタンニ王国(紀元前1700年〜紀元前1270年)の侵入により、その交易を陸上から海上に移すのです。フェニキアは、レバノン杉により大型構造船を造る技術を獲得すると、ギリシャ、ローマ、エジプトとの地中海交易に乗り出すのです。
その頃フェニキアの隣国ヘブライ(紀元前1230年?〜紀元前932年)では、ダビデの王権を不正な手段(ヤコブ)で簒奪したソロモンの時代となっていたのです。ソロモンは国際交易技術に長けていて、フェニキアの交易船を利用して、紅海のエイトラ→イエメンのアデン→インドのマラバル海岸への海路を利用して、インドの香木、猿、孔雀などを輸入して、それらを地中海都市へ輸出して、莫大なソロモンの財産を築いたのです。そのように紀元前では、エジプトの紅海からインド洋まで、ベンガラ染めのマントを羽織ったフェニキア人により大型外洋船が行き来していたのです。
紀元前932年ヘブライはソロモンの死去により、一神教のユダ国と多神教のイスラエル国に分裂するのです。ユダ国は、ソロモンの流れを汲む、バビロニアの砂漠を流離っていたレビ族末裔ですから、フェニキアによるアラブとインドとの国際交易を引き継ぐわけです。
しかし、ヒッタイト王国からエジプトに渡来したヨセフ族の流れを汲むイスラエル国は、インドとの交易を引き継ぐことができないため、国力が衰え、紀元前722年隣国のアッシリア帝国のサルゴンにより、滅ぼされてしまうのです。そのことにより、「古代エジプトの巨石建造物建設技術」と「鍛冶技術」を持つヨセフ末裔のエフラエム族を頭とする、太陽神アトン(ミトラ神がエジプトで変身)と牡牛を祀るイスラエル十部族は、オリエントの砂漠に消えてしまうのです。
一方、ユダ国は、紀元前586年バビロニア王国の侵攻による滅亡まで、アラブとインドとの海洋貿易を続けるわけです。ですから、紀元前六世紀のインド西岸のマラバル海岸には、ユダヤ人の国際交易商人が多く居留していたのです。
その約千年後の399年北魏(386年〜534年)の僧法顕は仏典を求めるため、洛陽からインドへ旅立ったのです。その行程は、洛陽からインドまでは陸路で行き、411年インドから洛陽への帰路は外洋船で、インド東南端の港ニンジェヴェラム→マラッカ海峡→中国・南海→中国・山東半島牢山→412年北魏・洛陽へ辿り、帰国後「佛國記」を著すわけです。
そのように、五世紀には、インドと中国・山東半島には国際交易海洋路が確立されていたのです。ですから、中国・山東半島には、アラブ→インド→中国への海路により、アラブ、オリエント、インドの国際交易商人や宗教関係者が多く居留していたのです。中国・山東半島が、秦の始皇帝(紀元前221年〜紀元前210年)も神仙の薬草を求めて訪れたように宗教の坩堝であったのは、そのように古代からアラブ→インドの国際港であったからです。
アラブ→インド→マラッカ海峡を抜けて黒潮に乗り、台湾沖を東に航路をとれば、西への中国・山東半島ではなく、アラブの外洋船は、日本列島の南九州の坊津へ接岸できるわけです。
古来から、南九州の坊津やその東にある種子島が、南蛮船が漂着する理由が、黒潮ベルトコンベアの影響であったのです。そのマラッカ海峡を北上すれば黒潮により外洋船が流れ着く坊津と種子島は、古来より藤原氏が、中国大陸との密貿易を行っていた国際交易港だったのです。
その坊津は、奈良時代は遣唐使船が渡来する湊であり、そして、種子島は平安時代末期に活躍した、インド・ベンガラ塗りの厳島神社で「海神」を祀るペルシャ平家の日本列島拠点のひとつであったのです。
更に、戦国時代の種子島は、南蛮船の密貿易港であり、ここから火縄銃や火薬が、藤原氏(近衛家)により紀州雑賀→根来寺→本能寺へと密輸されていたのです。多くの謎を秘めた出自不明の藤原氏による海上交易は、古代から明治維新を経て、日本国海軍まで続いていたのです。ですから、飛鳥時代に北九州で解体した多くの寺の建築資材を、瀬戸内海ルートを使い、飛鳥ヤマトまで海上輸送することなどは、エジプト・紅海からインド・マラバル海岸への海上交易に比べれば、簡単なことであったのです。
何故古代飛鳥ヤマトが仏教文化都市ではなかったとの論拠は、飛鳥ヤマトで発掘される寺跡にあります。大乗仏教は、一世紀の国際都市ガンダーラで発明された宗教です。その宗教の特徴は、多くのキリスト教の物語ソックリの仏典と仏像です。その仏像を安置する場所が仏寺というわけです。その仏像は、大乗仏教のキャラクターのブッダ(紀元前五世紀に没した釈尊とは別人。ブッダは覚醒した人の意味。)を表したものであるわけです。仏像は、紀元一世紀に発明されたものですから、紀元前五世紀に没した釈尊とは、全く関係がないものなのです。(釈尊は、民族差別をするバラモン教を否定するため、偶像崇拝を否定していた。)
飛鳥ヤマトにおけるその仏像を安置したとされる仏寺の遺跡が、発掘調査によれば、ある方向を基準に建てられていたのです。その方向は二つです。ひとつは、子午線を基準としたものです。そして、もうひとつは、東西線から約三十度ずれた線を基準に建てられていたのです。
もし、飛鳥ヤマトが、仏教文化一色であったとしたら、その地から発掘される仏寺跡の二つの異なる建築方位は、どのように説明するのでしょうか。
その二つの異なる建築基準を推測すれば、それは、真北の北極星を祀る民族と冬至・夏至の太陽を祀る民族とが、それぞれの宗教思想基準により、飛鳥ヤマトに「寺」を建設していたのではないかということです。
北極星を祀る民族と考えられるのは、ユーラシアの騎馬民族です。星・月は、遊牧の旅での方位を示してくれる騎馬民族の神であるからです。ですから、騎馬民族末裔の国旗のシンボルの多くは、星と月であるのです。飛鳥時代末期、その騎馬民族末裔の新羅(秦羅)系天武天皇は、道教の観で北極星(太一)を祀っていたのです。
冬至・夏至の太陽を祀る民族と考えられるのは、エジプトの太陽神・アトンを祀るヨセフ末裔のエフライム族、そしてミトラ神を祀るローマ軍末裔(新羅花郎軍団)です。太陽を祀る宗教は、中国大陸では「景教」と呼ばれていたのです。
太陽を祀る景教は、太陽神の再生日(聖婚日)である冬至を重要視します。そのため景教の寺は、冬至の太陽が昇る真東から約二十五度±五度北寄りの方位を神聖視するわけです。そこで、不思議なことが分かるのです。それは、実在性の乏しい聖徳太子と関係の深い法隆寺の遺構のことです。
法隆寺は、「日本書紀」によれば、607年厩戸皇子により創建されたとの記述はなく、606年斑鳩寺建立の記述があるのみです。後世のひとが、斑鳩寺を法隆寺であると言っているだけです。つまり、法隆寺建立時の史料はないため、法隆寺は謎の寺であるのです。しかし、「日本書紀」では、670年法隆寺は、炎上したことになっているのです。そして、708年頃に金堂やその他が再建されたというのです。
多くの宗教建築物は、その宗教思想により建立されるわけです。ですから、寺を再建する場合、前建築物の基本設計を変更することなくおこなうのが普通です。しかし、現法隆寺と、元法隆寺と言われる若草伽藍推定範囲内にある金堂と塔遺構の方位が異なっているのです。
現法隆寺が、真北から西に四度傾いて建てられているのに対して、若草伽藍の金堂と塔の遺構は、真東より北に約二十度軸方向が傾いて建てられていたのいたのです。このことは、北極星を祀る民族が現法隆寺を建立し、そして、太陽神を祀る民族が若草伽藍の金堂と塔を建立したと推測できます。
この謎の多い法隆寺が建立され、炎上し、そして再建された時期(606年〜708年)を解明することにより、「日本書紀」で物語るものではない、飛鳥ヤマトの歴史が再現される可能性があるようです。
日本国の誕生は、神話時代などではなく、謎の寺である法隆寺が建立され、炎上し、そして再建された時代であったのです。
日本人が、日本国が神代の時代に存在していたと信じているのは、日本国の誕生と騎馬文化・ペルシャ文化の飛鳥ヤマトの歴史を、藤原氏が645年の謀反により王権を簒奪し、そして国書を焚書して、大陸から渡来した仏教文化で前政権文化を隠蔽して、その後、720年「日本書紀」を編纂したためです。
藤原氏による前政権文化の隠蔽のための蘇我王朝の焚書やエジプト・ペルシャ遺跡破壊が完璧だったため、その飛鳥時代の日本列島は、中国大陸王国の「梁書」や「唐書」の史料でしか知ることはできないようです。
その「梁書」(梁・502年〜557年)によれば、日本列島には、北海道・渡島の扶桑国、大坂難波の大漢国、出雲熊野の文身国、そして、九州阿蘇の倭国があったということです。そして、「唐書」(唐・618年〜907年)によれば、672年誕生の日本国は、倭国(いこく)を取り込んだ国と記述しているのです。
日本列島の出来事は、中国大陸の出来事と連動していたようです。それは、日本列島は海に囲まれているため、外洋船によるアラブ→インド→中国への航路が開発されていた五世紀後半では、世界に開かれた処であったからです。
では、日本国が誕生する時代の、日本列島と大陸での出来事を調べてみることにしましょう。

528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。(新羅花郎軍団、日本列島に渡来。)
535年東ローマ帝国と密接であった北魏が東西に分裂。
536年チュルク系蘇我稲目、突然飛鳥ヤマトに現れ、軍事制圧する。(中央ユーラシアで騎馬民族隆盛。チュルク系騎馬民族・突厥軍東進する。)
552年中央ユーラシアにチュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者、突厥帝国庭に入る。
571年イスラームのサラセン帝国興る。(イスラーム台頭のため、東ローマと突厥との交易困難。)
589年隋興る。(突厥帝国との戦闘激化。)
600年飛鳥ヤマト王権、遣隋使の派遣。(飛鳥ヤマトの支配者は誰か。日本国の誕生は672年。天皇は、この頃存在していない。日本国天皇は、672年天武天皇が初め。)
603年蜂丘寺建立。弥勒菩薩像安置。(弥勒とはミトラで、太陽神信仰民族の神。ローマ軍末裔、新羅(秦羅)花郎軍団、山背国支配。族長は、秦河勝か?)
607年小野妹子隋に派遣。国際交易ホテルの斑鳩寺(法隆寺?)創建。(太陽神信仰民族、飛鳥ヤマト支配。)
607年蘇我氏、国ごとに軍事施設の屯倉を設置。(屯倉は、騎馬民族突厥軍団による、対唐日本列島侵攻軍への軍事防御拠点。)
608年隋使裴世清、飛鳥ヤマトで男王に謁見。(「唐書」により、女帝推古天皇と聖徳太子の実在性否定。)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる。(「月・星信仰」のチュルク系騎馬民族、飛鳥ヤマト支配。「太陽信仰」の秦氏軍団と共存。)
630年突厥帝国、唐軍により散ず。(飛鳥ヤマトの母国・突厥帝国の滅亡。)
642年蘇我入鹿、執政。(唐軍、藤原氏の外洋交易船にて難波に渡来。)
645年蘇我氏滅亡。(唐軍支援の下、藤原氏の台頭。藤原氏、天皇紀(?)・国記を焚書。藤原氏による、仏教興隆の詔。藤原氏、飛鳥ヤマトの道教観、景教寺、エジプト・ローマ・ペルシャ遺跡を徹底的に破壊し、後に、仏寺の興福寺、神社の春日社建立。)
663年白村江の戦い。百済滅ぶ。(百済貴族、中国・山東半島、日本列島・近江に亡命。)
668年高句麗滅ぶ。(高句麗貴族、日本列島に亡命。武蔵国・高麗に移住。)
670年法隆寺全焼。(藤原氏による、国際交易ホテルの斑鳩寺の破壊。)
672年壬申の乱。(近江・百済亡命王朝へのチュルク系突厥・蘇我氏軍の反乱。新羅系天武天皇誕生。日本国誕生。飛鳥浄御原宮に遷都。)
674年唐軍、新羅を討つ。(唐・新羅連合軍の離反。)
676年統一新羅建国。
682年突厥帝国の復興。
686年天武天皇死去。(藤原不比等の復活。百済系女帝持統天皇により藤原京に遷都。)
708年法隆寺再建。(北九州・豊国より移築。)
713年風土記撰上の詔。(好字令の漢字二語の「日本語化」により、エジプト・オリエント文字を隠蔽。)
720年「日本書紀」完成。藤原不比等死去。

以上のような歴史の流れから分かるように、645年以降の藤原氏により、オリエント巨石文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝の歴史が抹殺され、そして、日本列島古代史が、藤原不比等により、ギリシャ似神話やオリエント史や百済史を素材として「日本書紀」を創作し、中国歴史物語を真似た万世一系天皇物語により、神武天皇から女帝推古天皇までを、藤原日本古代史に改竄されてしまったのです。
ですから、「日本書紀」を史料として、古代飛鳥ヤマトの歴史を解明しようと努力しても、藤原不比等のトリックに引っかかり、四世紀に天皇が支配する大和朝廷が存在し、六世紀に百済から仏教が伝来し、飛鳥ヤマトは「仏教文化都市」であった、と信じてしまうわけです。
しかし、「日本書紀」を斜めから読んでみると、思わぬ発見をすることもあるのです。それは、588年着工されたと言われる法興寺(飛鳥寺)の「日本書紀」の記述です。
「日本書紀」は、平安初期に百済系桓武天皇により改竄されてしまっているので、百済関係の記述は信用できませんが、法興寺が建造される時、百済の王から、経論と伴に、律師、寺大工、瓦職人、仏師などの建築士が飛鳥ヤマトに送られてきた、との記述があるのです。 その法興寺を建立した建築士の名前(?)を「日本書紀」に記述しているのです。
それらは、寺工太良未、文賈古子、将徳白昧淳、麻奈文奴、陽貴文、昔麻帝弥、白加などです。これらの名前と思われるものは、実はペルシャ人の名前ではなかったのです。それらは、中世ペルシャ語で解読すると、太良未は寺工、文賈古子はテント型御堂、将徳白昧淳は露盤受け、麻奈文奴は屋根葺、陽貴文は丸瓦、昔麻帝弥は鬼瓦、白加は彫刻などの職業名の発音を、中世ペルシャ語から「漢語化」したものであったのです。つまり、これらのペルシャ建築士達により、588年に法興寺が建立された、と「日本書紀」は述べているのです。
古代では、ペルシャとは、インド以西の国のことです。それらの国々は、木々が生い茂る湿潤な地域などではなく、木々の育成が困難な乾燥地帯で、建物は石材や日干しレンガで建設されていたのです。そのような環境に育ったペルシャ建築士が日本列島に渡来して、飛鳥ヤマトで木造の法興寺(飛鳥寺)を建設できるものなのでしょうか。
この「日本書紀」の記述により、何故607年に建立されたと伝わる「法隆寺」(斑鳩寺は606年創建)の創建記録を、「日本書紀」で記述しないのかを推測できます。それは、元法隆寺は、ペルシャ建築士により、「石材やレンガ」を多用して建てられたものと推測されるからです。
ですから、元法隆寺の遺構が、太陽信仰民族・ペルシャ建築士(秦氏・エフライム族)により建立されたため、冬至の神聖ラインの建築基準に合うわけです。つまり、645年を境にして、飛鳥ヤマトの文化は、前のオリエント巨石文化と後の仏教文化とで異なっていたのです。
前政権のオリエント巨石文化を、そのように完全に抹殺できるものかと疑問を持っているひとは、四世紀のローマ帝国でのミトラ教文化をキリスト教が歴史上抹殺した事実を知れば、納得できるでしょう。
645年突然飛鳥ヤマトに現れた藤原氏が、エジプト〜中国への南海交易ルートの西端である紅海のエイトラからの、ソロモンの海洋貿易民族末裔であるのなら、四世紀のローマ帝国でのミトラ教文化抹殺手段を知っていた可能性があります。
古代飛鳥ヤマトには、「日本書紀」に記述されているように、ペルシャ(ギリシャ・ローマ・エジプトも含む)の建築関係技術者が多く渡来していたのです。その根拠として、飛鳥ヤマトの遺跡物の多くは、その計測はエジプトの計測単位のキュビト(約42cm)で割り切れるからです。
四世紀のローマ帝国のミトラ教の地下神殿は、キリスト教徒により徹底的に破壊され、その跡にキリスト教会を建設したため、物理的にミトラ教神殿は跡形も無く抹殺されてしまったのです。キリスト教関連の映画で、教会の床の石を何らかの方法でずらすと、地下神殿への階段が現れた、というシーンを見たことがあると思います。その地下神殿とは、ミトラ教の神殿なのです。
では、飛鳥ヤマトでのミトラ教神殿(道教の観・景教寺)を隠蔽したのは、どのような仏寺なのでしょうか。考えられるのは、聖徳太子建立七寺と言われる、法隆寺、四天王寺、中宮時、橘寺、広隆寺、池後寺、葛木寺(葛城尼寺)です。これらは、飛鳥ヤマトの神殿を隠蔽した、飛鳥ヤマトでのキリスト教会と考えられます。これらの寺の地下、或いは近隣の地下に、元法隆寺の冬至神聖ラインに基づく遺構のように、前政権の「道教の観・景教寺・オリエント寺」の遺構の存在が推測されます。
では、古代飛鳥ヤマトの巨石建築物を破壊して、木造巨大建造物を建設した建築士は、何処から渡来してきたのでしょうか。
古代飛鳥ヤマトへの異国からの渡来ルートは、三つあります。
ひとつは、ギリシャ・ローマ文化をもたらした騎馬民族渡来のユーラシア草原ロードです。
二つめは、ペルシャ文化をもたらしたアラム語を話すソグド人が渡来した、中央アジアの砂漠地帯を貫くシルクロードです。
そして、三つめは、アラブ・インド文化をアラブ→インド→中国の海路でもたらしたフェニキアの海洋交易商人の南海ロードです。
この南海ロードの中継国のインド南端は、気候が湿潤なため木造建築が盛んであったのです。そして、そのインドの輸出品のひとつである香木は、仏教儀式の必需品でもあったのです。
大乗仏教は、紀元一世紀北インドの国際交易都市ガンダーラで発明されたものですが、そのキャラクターであるブッダは、インド南方への布教過程でヒンズー教の太陽神ビシュヌ神として取り込まれていたのです。そして、インドで発明された「観音思想」は、国際海洋商人と伴に、東洋に渡来し、大乗仏教に取り込まれ「観音様」となるわけです。シルクロードから渡来した大乗仏教と、南海ルートから渡来した大乗仏教との「仏様」は、異なっていたのです。
ですから、シルクロードから前秦に渡来し、372年高句麗に伝播した大乗仏教と、南海ルートから東晉に渡来し、384年百済に伝播した大乗仏教とは、「仏様」が異なっていたのです。弥勒菩薩は、太陽神ミトラが大乗仏教に取り込まれた「仏」です。その弥勒菩薩は、シルクロードから高句麗に伝播したものです。その弥勒菩薩が、何故、飛鳥時代に、百済からもたらされ、聖徳太子が、弥勒菩薩を安置するために、秦河勝に広隆寺を創建させた、と仏教史は言うのでしょうか。飛鳥ヤマトの仏教伝来物語には、「ウソ」が多すぎます。
古代飛鳥ヤマトが、オリエント巨石文化に支配された後、インド文化が渡来したことを示唆する動物がいます。それは、牛です。
古代飛鳥ヤマトでは、牛は神への犠牲とされていたのです。太陽神ミトラを祀る民族は、その宗教儀式で牡牛を屠っていたのです。牡牛は太陽神の化身のため、牡牛を屠ることにより、願をかけるのです。旱魃での雨乞いの儀式では、太陽神に牡牛を捧げていたのです。そして飛鳥ヤマトでは、牛肉は食用となり、乳はバター・チーズ(醍醐)として加工されていたのです。これらの宗教儀式の文化をもたらしたのは、ユーラシアの草原ロードからの騎馬遊牧民族とオリエントの民です。
しかし、686年騎馬民族系天武天皇が崩御し、藤原氏の政治力が増した、741年牛馬屠殺の禁止令が出たのです。これは、牛に対する思想の変化を示唆します。
それは、インドの思想では、牛は、家畜として飼うことも、屠殺して肉食することもできない聖獣であるのです。藤原氏が、飛鳥ヤマトでの牛の扱いを、百八十度変えたということは、藤原氏が騎馬遊牧民族と異なる思想を持っていたことを示唆します。では、藤原氏は、どのような思想をもっていたのでしょうか。
藤原氏の思想を推測するヒントのひとつは、日本神道です。神道は、二世紀の中国で、道教思想から派生したものであるようです。
日本神道は、日本列島の古来の宗教思想と思われているようですが、それは違います。日本列島は、古来からアニミズムの精霊が宿る処であったのです。善も悪もなく、浄も不浄もなく、貴も賎もなく、全てのものに精霊が宿っていたのが、日本列島であったのです。
しかし、巨大古墳が築造されなくなる時代に、二元論を持つ思想が渡来するわけです。その思想では、善と悪、浄と不浄、貴と賎とを分けるのです。そして、悪、不浄、賎を祓うことにより、気が満ちるとするのです。つまり、古墳時代後半=飛鳥ヤマト時代後半に、「穢れ払いの儀式」が日本列島で始るのです。そして、神が宿る建物を建設するのです。その建築物は、古墳の上やその近隣に建立されるのです。それが、神社の始まりのようです。ですから、神社の始まりは、古墳築造後の、四世紀を遡ることはないでしょう。
神社とは、いつ、どこで、だれが発明したものかを示す史料は未だお目にかかったことがありません。何故、神社の歴史が伝わらないのかは、それは、神社の歴史解明が、藤原氏の渡来歴史の謎を解明してしまうからかもしれません。その根拠は、日本神道の始めは、藤原氏の祖である中臣氏に繋がるからです。中臣氏は、日本列島で、始めて中臣神道を発明した氏族であるからです。
飛鳥ヤマト時代は、古墳時代とオーバーラップします。その飛鳥ヤマト時代の中ほどの、645年に藤原氏は、日本列島に突然出現するわけです。そして、藤原不比等は、686年新羅系天武天皇が崩御し、百済系女帝持統天皇が政権を握ると、文武天皇、元明天皇、元正天皇を傀儡として朝廷を支配するのです。
そして、710年山階寺を奈良に移し、その寺を「興福寺」とするのです。そして、天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、怪僧道鏡に毒を盛られて崩御する二年前の768年に、神を祀る「春日神社」を建立するのです。つまり、道教を祀る天武天皇系勢力が健全の時代には、さすがの藤原氏でも、仏寺も神社も建立できなかったのです。
では、その藤原氏の祖の中臣氏が発明した中臣神道の「穢れ祓い」では、どのような罪を祓っていたのでしょうか。
祝詞は十世紀初めに編纂されて今日に伝えられているようですが、その初めは、藤原不比等嫌いの新羅系天武天皇の崩御直後であったようです。それは、天武天皇は、道教の神・北極星(太一)を祀っていたからです。飛鳥ヤマトは、蘇我王朝、天武王朝の時代は、オリエントの景教や中国の道教文化が盛んで、仏教文化は隆盛ではなかったのです。
天武天皇崩御後、隆盛になった仏教と伴に、中臣神道が発明されるわけです。その中臣神道の穢れ祓いの趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。
その祓うべき罪は、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられるのです。天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
藤原氏の祖は、その「天つ罪」と「国つ罪」との二元論的穢れ祓いから推測すると、日本列島古来の全ての「モノ」に「カムイ」が宿るという精霊思想とは、異なる思想を持った民族であったようです。そのような二元論に基づく思想の宗教として考えられるのは、「光と闇」が闘うゾロアスター教と、「天使と悪魔」が闘うキリスト教が考えられます。
キリスト教は、ユダヤ教ヨシュア(イエス)派の別名です。キリスト教もユダヤ教も、唯一神「ヤハウェ」を祀ります。そのユダヤの神ヤハウェを祀るキリスト教は、インドのマラバル海岸では、二世紀には、国際交易商人に経済的支援をされた宣教師による布教がおこなわれていたのです。
そして、五世紀のそのマラバル海岸は、アラブと中国との国際海洋交易の中継点であったのです。この国際交易船と伴に、インドのヒンズー教の神々が七福神となって、日本列島に渡来するわけです。ヒンズー教の水神クビーラなどは、四国に渡来して「金毘羅様」に変身するわけです。つまり、インドと日本列島は、国際海洋交易により、古来より交通があったのです。
そのような国際海洋交易の環境において、藤原氏の先祖を、インドのマラバル海岸からのユダヤ・キリスト教徒末裔と仮定して眺めてみると、藤原氏による飛鳥ヤマト仏教伝来物語のトリックの仕掛けが見えてくるのです。
そのひとつが、厩戸皇子の創作です。しかし、この厩戸皇子は、平安時代に百済系桓武天皇が、「日本書紀」での仏教伝来物語を、552年から538年に改竄する時に「厩戸皇子」を、「聖徳太子」に変身させてしまい、更に「上宮聖徳法王帝説」や「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」などの聖徳太子存在偽装作品を創作したため、後世のひとたちは、聖徳太子は実在していた、と信じてしまうわけです。
そして、「旧約聖書」で、紀元前586年のバビロン幽因後、カナンの地を占拠した異民族を追い出すために創作したモーセ物語(唯一神ヤハウェの神によりカナンはイスラエル・ユダヤ民に与えられたという物語。)のように、平安時代に唐軍の軍事支援により平安京を占拠した亡命百済貴族は、「日本書紀」に、「538年に百済聖王が、仏教を日本国に伝来させた。」、という物語を挿入してしまうわけです。
ですから、古代飛鳥ヤマトの物語から、聖徳太子の事跡を消すことにより、その史実が現れてくるわけです。では、聖徳太子建立七寺の地下に眠る遺構から、どのような歴史が飛び出してくるのでしょうか。
日本列島に仏教を隆盛させたと伝わる聖徳太子のキリスト教色は、古くから指摘されています。しかし、その聖徳太子の伝記には、馬屋で誕生したキリスト教色のみではなく、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデ(廃仏派物部氏対崇仏派蘇我氏との戦いで活躍する少年聖徳太子)、そして、十戒の立法を創作したモーセ(十七条の憲法と官位十二階を制定した聖徳太子)のようにユダヤ教色も強くあるのです。そのユダヤ・キリスト教色の強い聖徳太子が、飛鳥ヤマトの歴史で関わった人物には、蘇我馬子と秦河勝とがいます。
聖徳太子と蘇我馬子との関係は、神仏戦争と宣伝される物部守屋との戦争で、少年聖徳太子は蘇我軍を支援するわけです。そして、推古天皇の摂政となった聖徳太子は、蘇我馬子と天皇記と国紀を編纂するのです。しかし、この天皇紀と国紀とは、日本国史では、645年に蘇我蝦夷により消失したことになっているのです。
そして、聖徳太子と秦河勝との関係は、物部氏との神仏戦争で勝利したことにより、仏教が飛鳥ヤマトに導入され、その仏像を安置するための仏寺の広隆寺を、秦河勝が建立するわけです。しかし、秦河勝が支配する山背国(後の京都)にあったと伝わる広隆寺の元は、蜂丘寺と言われ、その寺は現広隆寺の近隣に建てられていたペルシャ寺(景教寺)であったのです。
秦河勝が仏教徒ではないことは、1402年に刊行された世阿弥の「風姿花伝」により証明されます。河原者である世阿弥は、「風姿花伝」で、能楽の祖は秦河勝と述べているからです。その世阿弥は、第二百済王朝の鎌倉時代から、大乗仏教徒に「穢多=日本版サマリヤ人」とイジメられた秦氏の末裔であったのです。
怨霊を歌謡と舞とで鎮魂する能楽の源は、申楽(シン楽→秦楽)です。(簒奪平安王権により猿楽と貶められた。)その能楽の元の申楽は、飛鳥時代では、景教の祭祀でのミトラ神を祀るための歌舞であったのです。つまり、能楽の祖・秦河勝は、景教の祭祀者であったのです。そのミトラ神祭祀者の秦河勝が、敵宗教の仏寺など建立するはずはないのです。
ここで、藤原氏による飛鳥ヤマト物語での厩戸皇子(後の聖徳太子)の役割が分かるのです。それは、チュルク系蘇我氏の星・月を祀る宗教と太陽を祀る秦氏の宗教を、抹香臭い仏教色に換えることです。
では、仏教文化都市飛鳥ヤマトの歴史は、実際はどのように「想像」されるのでしょうか。
日本列島は、島国のため、外国の影響力が少ないと信じているひとが多くいるようですが、それは違います。日本列島は、四面を海流に洗われているのです。ですから、海流の知識と貿易風の知識があれば、帆船であれば遠くアラブからでも渡来は可能なのです。
六世紀の東アジアの世界情勢は、東ローマ帝国と中国・北魏とのシルクロード交易の権益を廻って、その中継国での紛争が絶えなかったのです。
五世紀後半に、中央ユーラシアに興ったチュルク系騎馬民族突厥は、ユーラシア草原ロードを支配して、東進するのです。その東進により、東ユーラシアを支配するツングース系遊牧民族国の柔然が、南下を開始するのです。やがて、南下する柔然は、突厥と北魏に破れ、552年消滅するのです。
その柔然の消滅の過程で、北魏も西魏と東魏に分裂し、更に、西魏は北周に、東魏は北齋になり、やがて、589年隋が、それらの国と南朝の宋を支配し、中国を統一するのです。
その動乱の時代の、552年突厥は、中央・東ユーラシアを支配し、突厥帝国を興すのです。そして、チュルク系突厥帝国は、シルクロードを支配するツングース系騎馬遊牧民族国家・隋と、東ローマとの交易を廻って抗争を起こすのです。
この突厥帝国と隋との国際交易戦争時代が、日本列島の飛鳥ヤマト時代なのです。飛鳥ヤマトは、「日本書紀」で物語るような女帝推古天皇と摂政聖徳太子とが統治する地ではなかったのです。
六世紀から七世紀の日本列島は、チュルク系騎馬民族突厥とツングース系遊牧民族隋との代理戦争の地であったのです。日本列島の飛鳥ヤマト時代とは、騎馬民族と遊牧民族との異民族闘争の時代だったのです。
中央ユーラシアを席巻した突厥は、534年宿敵北魏が滅亡すると、敦賀・能登・佐渡の渡海ルートを使い、日本列島の飛鳥ヤマトに騎馬軍団を派遣するわけです。それが、536年蘇我稲目が、突然飛鳥ヤマトに現れた背景です。(飛鳥時代に、ローマ軍式幅広直線道路が飛鳥から新潟まで敷設されていたのは、朝鮮半島はツングース系民族に支配されていたからです。)
飛鳥ヤマトは、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。しかし、飛鳥ヤマトは、日本列島の中心に位置しているため、この地を支配することにより、日本列島全土を支配下に置くことが出来るのです。
蘇我稲目が出現する前の飛鳥ヤマトは、北方仏教国・高句麗、南方仏教国・百済、ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅が、飛鳥の三輪山麓のツバキ市の交易権をめぐって三つ巴の戦いをしていたのです。その三国は、朝鮮半島でも、三つ巴の戦いをしていたのです。
その三輪山麓の紛争地に進駐してきた蘇我軍は、新羅派遣軍(花郎軍団・ミトラ神軍団)と共闘し、高句麗・百済派遣軍を制圧し、飛鳥ヤマトを軍事支配をするのです。チュルク系蘇我軍と花郎軍団(ローマ軍団末裔)との共闘は、568年東ローマ帝国(四世紀末までのローマ帝国軍の軍神はミトラ神だった。)の返使ゼマルクスが、突厥帝国に訪れたように、突厥帝国と東ローマ帝国とは、交流があったからです。つまり、新羅(秦羅)は、慶州の石積木郭墳の埋蔵品がギリシャ・ローマ文化を示すように、馬冑・馬鎧で武装した勇者は金のネックレス・ブレスレット・指輪で飾る、高句麗や百済と異なる、ミトラ神を祀る騎馬民族国家であったのです。
そして、飛鳥ヤマトを軍事支配した蘇我稲目は、交通の要所に防衛基地を構築するのです。それが、「日本書紀」で言う処の天皇領の「屯倉」です。蘇我稲目は、九州から侵攻する北魏残党軍を阻止するために、主に瀬戸内海沿岸から難波にかけてミヤケを構築したわけです。
これらのオリエントから渡来の民族が、飛鳥ヤマトを支配したことにより、岩手県以南全国に、海岸地帯から内陸部に向かって類似形巨大古墳が出現したことを説明できるのです。それは、それらの類似系巨大古墳を全国一律に設造するには、古代エジプトの土木建築技術と古代オリエントの日干しレンガ製造技術なくしてはできないからです。
更に、飛鳥ヤマトを基点として、幅十二mの谷は埋め峠は切り通す直線道路を敷設するには、ローマ軍の土木建築技術が必要であったのです。そして、飛鳥ヤマトの巨石建築物、アナートの地下水道、噴水のある池公園、大運河などは、古代エジプトとオリエントとの土木建築技術の融合なくしてはできないものです。
そして、チュルク民族の石人は、騎馬民族支配の関東以北の野原や街道に設置されるのです。しかし、そのチュルク石人は、第二百済王朝の鎌倉時代には道祖神となり、細工をされたものは地蔵として変身してしまうのです。
これらのオリエント渡来の遺跡が、飛鳥ヤマトから、現在も発掘されているのです。しかし、「日本書紀」では、オリエント巨石文化の遺跡を無視して、飛鳥ヤマトは仏教文化都市であるのです。誰が、「ウソ」をついているのでしょうか。
藤原氏の騎馬民族文化抹殺意図は、720年完成の「日本書紀」の遣唐使と唐皇帝との会話記述に現れています。遣唐使に同伴した蝦夷に皇帝は尋ねます。
皇帝「蝦夷の国はどこか。」
蝦夷「東北です。」
皇帝「民族は何種か。」
蝦夷「三種です。遠くが都加留(つがる)、次が荒蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)です。熟蝦夷は年ごとに朝貢しています。」
皇帝「その国には五穀はあるのか。」
蝦夷「ありません。動物の肉を喰います。」
皇帝「国に家はあるのか。」
蝦夷「ありません。深山の樹の下に住みます。」
「日本書紀」に、このような会話を記述して、ダメ押しに「皇帝は蝦夷の顔かたちが異様なのに驚いている。」として、蝦夷を野蛮人扱いしているのです。
しかし、中国の「新唐書」では、「日本の使者が蝦夷人とともに入朝した。蝦夷も日本人と同じく海の彼方の島に住んでいる。蝦夷の使者の鬚の長さは四尺ほどもあった。箭を首にはさむ。人の頭の上に瓢を載せ、数十歩離れて立たせて瓢を射ったが当たらないことはなかった。」、と「遣唐使と蝦夷を同格」に扱い、更に、皇帝は蝦夷の射術に感心を示しているのです。
この蝦夷に対する、「日本書紀」と「新唐書」との記述の落差は何を意味しているのでしょうか。この「日本書紀」の蝦夷世界の記述により、後世のひとは、陸奥の蝦夷の国は、無文化の肉食の野蛮国と信じてしまうのです。
藤原不比等が、686年新羅系天武天皇崩御後、百済系女帝持統天皇朝に返り咲いた時代は、進駐唐軍により飛鳥ヤマトは支配され、飛鳥ヤマトのオリエント巨石文化は徹底的に破壊され、地中に埋められ跡形も無くなってしまったのです。
そして、694年飛鳥京から藤原京に遷都された後に、その更地の飛鳥ヤマトに北九州から多くの仏寺が移築されてくるわけです。後から移築された仏寺は、オリエントの太陽信仰民族の建設基準を知らないため、現法隆寺の地下に眠る若草伽藍の金堂と塔のように東西線二十五度±五度の冬至夏至の神聖ラインではなく、唐国建築物基準の南北線を基に建立されているのです。ここからも、オリエント文化の遺跡の上に、中国製仏教寺院が移築されたことが証明できます。そして、670年法隆寺は全焼したことに、「日本書紀」ではなっているのです。
つまり、オリエント文化の蘇我氏ゆかりの地には、聖徳太子建立七寺が鎮座することにより、地上のオリエント蘇我王朝の遺跡は、歴史上抹殺されてしまったのです。しかし、現在も飛鳥ヤマトの地からオリエント巨石文化遺跡が発掘され続けているのです。
唐進駐軍と藤原氏に敗れた、飛鳥ヤマトを支配していたチュルク系蘇我氏やオリエント渡来の秦氏末裔は、陸奥を目指し落ち延びていくわけです。近畿に留まる者は、深山に隠れ住み、進駐唐軍の動向を探り、反撃の時を待つのです。やがて彼らは、仏教の敵、「鬼」、「天狗」、「河童」として貶められていくのです。
では、百年も続いたオリエント文化の蘇我王朝は、何故に、唐・藤原氏に敗れてしまったのでしょうか。それは、東アジアの情勢の影響が、日本列島にあったからです。
六世紀半ば、中央・東ユーラシアを支配したチュルク系突厥帝国は、630年唐軍により、その地を追われ突厥帝国は瓦解してしまったのです。その15年後、突厥帝国の日本支社の蘇我王朝も、645年唐・藤原氏により滅んでしまうのです。
しかし、672年百済亡命政権の近江王朝を、騎馬民族系新羅の皇子(後の天武天皇)を頭に、蘇我氏残党軍とアラブの商人軍団(後のペルシャ平家・織田信長の祖)が共闘し倒し、チュルク系騎馬民族軍に支援された天武王朝が誕生するわけです。
そして、騎馬民族の王の尊称「テングリ・天子」から、「天皇」が発明され、672年天武は、日本国初の天皇となるのです。(平安王朝を支配した百済系桓武天皇家が、京都の泉湧寺の天皇位牌から、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の位牌すべてを排除していることは、天皇家が、新羅系と百済系とに分かれているからです。)
そのチュルク系蘇我氏軍団支援により、672年天武王朝が、元蘇我王朝の飛鳥ヤマトの地に誕生すると、682年東ユーラシアに東突厥帝国が復活するのです。ここから再び、南の唐と北の突厥との闘争が始るのです。
唐軍は、国際海洋貿易商人の藤原氏と組むことにより、戦国時代に大坂の地を侵略するイエズス会のように、飛鳥ヤマトの国際交易地の略奪戦略を練るわけです。
藤原氏の祖は、中臣です。中臣とは、「中」の僕(しもべ)、或いは家来という意味です。では、「中」とは何でしょうか。それは、インドでは、サンスクリット語でナーガは「ヘビ」のことです。
日本列島で、始めて日本神道を発明したのは、中臣氏です。その神を祀る神社では、「ヘビ」は神の使いとして崇拝されていたのです。(ユダヤ・キリスト教のモーセ物語では、モーセの杖はヘビに変身するのです。)
神社は、神を祀る処と信じられていますが、飛鳥・奈良時代では、神社は先住民の氏神を封じ込めるための建物だったのです。ですから、鳥居をその参道の入り口に建て、神社境内を結界と示したのです。そして、その鳥居に、しめ縄(ヘビ)を蒔きつけることにより、先住の氏神を封じ込めたのです。つまり、藤原氏(鳥居のヘビ)により、先住の氏神が、娑婆に出られないようにした装置が神社の始まりだったのです。
ヘビは、一般人には嫌われていますが、キリスト教のグノーシス主義者は、誕生と死を繰り返すウロボロス(尾をくわえるヘビ)にキリスト復活を見出し、ヘビをイエス・キリストの象徴として崇拝していたのです。
インドでの、数字のゼロが発明されたのは、この自分自身を食べて無(ゼロ・0)になるウロボロスからと言われています。そのインドのマラバル海岸のユダヤ・キリスト教のコロニーから、ヘビを崇拝する「中臣氏」は、外洋船により、南九州坊津に渡来してきたのです。
では、秦氏はどこから渡来したのでしょうか。814年完成の「新撰姓氏録」によれば、弓月国であるとしています。しかし、秦氏の持つ技術を考慮すると、もっと西にその起源があるようです。
秦氏の渡来は、何度かに分かれていたようです。歴史上では、紀元前三世紀の秦氏末裔徐福の渡来です。徐福は、秦の始皇帝を騙して、軍団、技術者、そして童男女三千名の群団で、中国山東半島から東に船出したのです。その後は、「新撰姓氏録」まで歴史上の記述はないのです。
そこで、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門の、江戸幕府に提出した趣意書をヒントに、秦氏の出自を推測してみることにしましょう。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

この趣意書によれば、弾左衛門の配下に、石切、鋳物師がいます。現在と異なり、古来の技術情報は、門外不出であり、その技術の奥義はごく限られた身内・縁者のみに伝承されたものです。ですから、石切や鋳物の技術伝承は、鎌倉時代以前のものと考えられます。狩猟採取の日本列島にその石切技術が渡来するのは、巨大古墳築造時代の四世紀からと推測されます。
石切を可能にするための鋼鉄工具製作技術の発祥の歴史は、紀元前十五世紀のヒッタイト帝国からです。鋼鉄工具がなければ、石切はできないのです。ですから、石切の技術と鋼鉄鋳物技術とは、共存するのです。
では、その石切の技術が発揮された時代を歴史に求めると、紀元前1377〜紀元前1358年までのエジプトを支配したアメンホテプ四世が考えられます。それは、アメンホテプ四世は、神々を勝手に発明する多神教のエジプト神官の支配を抹殺するため、唯一神の太陽神アトン(オリエンとから導入したミトラ神を変身させた神。)を祀る新都アケトアテンの造営のため、海外から優秀な都市建設技術者を求めていたからです。エジプトでの建設素材は、木造素材ではないので、外国人の建設技術者でも、石切の技術があれば優遇されたわけです。
そこに現れたのが、ヒッタイト帝国からの鋼鉄工具を持つヨセフ族です。
ヨセフ族は、「旧約聖書」によれば、ヤコブの息子で、邪悪な兄達により交易商人に売られ、エジプトに来たことになっているようです。しかし、「モーセ五書」にある、このヤコブ物語は、紀元前932年ヘブライのソロモン王が没して、ユダ国とイスラエル国に分裂した時、イスラエルの民が、ソロモン王を、不正な手段で王権を奪った者(ヤコブ)と言ったことを隠蔽するために創作された物語であったのです。(ヤコブをヨセフの父とする物語を創作することで、本来の意味を摩り替えて、不正な簒奪者=ヤコブの言葉を封印したのです。)
しかし、実際のヨセフ族は、独裁者アメンホテプ四世の寵愛を受け、エジプトの建設指導者となっていたのです。しかし、「旧約聖書」によれば、ヨセフ族は奴隷となり、日干し煉瓦を作り、そして、鞭打たれ巨石運搬の重労働に従事したことになっているのです。しかし、実際は、遺跡に残るヒエログリフの文章によれば、新都アケトアテンの建設従事者には給料と食料とが与えられていたのです。そして、その頃のエジプトでは、建築資材は、日干し煉瓦ではなく、石材を使用していたのです。日干し煉瓦は、バビロニアでの建築材だったのです。この記述からも、「モーセ五書」が、紀元前586年バビロン幽囚時代以降の創作だったことが推測されます。
「旧約聖書」の「出エジプト記」によれば、ヨセフ族の末裔エフライム族は、エジプトでの奴隷労働に疲れていたのを、紀元前1230年モーセにより、エジプトを脱出したことになっているのです。その出エジプト後に、あの有名な十戒を、唯一神ヤハウェにより授かったことになっているのです。しかし、「出エジプト記」を含む、「モーセ五書」の創作時期は、その約七百年後の紀元前586年バビロン幽囚時代以降であるのです。
ですから、紀元前722年アッシリアのサルゴン王に滅ぼされた、イスラエル民族十部族は、「ヤコブ物語」も「出エジプト記」も知らなかったのです。
では、今日読まれている「旧約聖書」はいつできたのでしょうか。
紀元一世紀、シリアが支配していたパレスチナは、ローマ帝国軍に支配されていたのです。その地に、ユダヤ教ヨシュア派(キリスト教)が勢力を伸ばし、ローマ帝国軍に挑むわけです。しかし、紀元70年エルサレムがローマ帝国軍に落ちると、革命の希望を失ったキリスト教徒が、希望を失ったユダヤ民に対して、ユダヤ経典から好き勝手に言葉をひきだして、キリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)だけに都合のよい説明をおこなったのです。そして、42冊の合本を創るのです。これが、後にカトリックの「旧約聖書」となるのです。それまでのユダヤ教では、それぞれが独立した数多くの経典であったのです。そこで、ユダヤ教祭祀者は、勝手な説教をするキリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)の「旧約聖書」に対抗するため、正典(カノン)を創る必要がおこったのです。つまり、紀元98年までは、ユダヤ教経典には、外典や偽書なとの差別は存在していなかったのです。
そのように、キリスト教「旧約聖書」は42冊で、ユダヤ教「旧約聖書」は24冊に収まったのですが、元は、それぞれの部派の経典からの合本(ビブリア)だったのです。このビブリア(合本)が、いつしかバイブル(聖書)と呼ばれて今日に至るわけです。
が、しかし、発生時は、反ローマ帝国のユダヤ教ヨシュア派(キリスト教)は、どういうわけか、392年ローマ帝国の国教となるのです。そして、ローマ・キリスト教は、国際交易商人と伴に、全世界に布教という侵略をおこなっていくのです。
そのような不思議な履歴を持つ「旧約聖書」に、イスラエル民族の記述はあっても、エジプトの巨大石造物建設技術、堀掘削技術、鋼鉄工具製作技術を持ち、「太陽神」と「牡牛」を祀るイスラエル民族十部族は、「旧約聖書」が完成するずっと以前、紀元前722年には、オリエントの砂漠に消えてしまっていたのです。
「ウソ」には、「良いウソ」と「悪いウソ」とがあります。「良いウソ」とは、ウソをつくひとも、つかれるひとも、ともに「良い思い」をします。しかし、「悪いウソ」は、ウソをつくひとだけが利益を得、つかれるひとは「悪い思い」をします。
「聖書」と「日本書紀」には、ウソが満ち溢れています。そのウソも、「良いウソ」よりも、「悪いウソ」のほうが多いのです。その「悪いウソ」で被害にあっているのは、「聖書」では、イスラエル民族です。そして、「日本書紀」では、新羅(秦羅)人です。
では、ウソツキは誰かと言うと、「聖書」では、レビ族のアロンの末裔です。「日本書紀」では、藤原氏です。そして、アロン末裔により、イスラエル民族は不可触民・サマリヤ人と蔑まれ、そして、藤原氏により、新羅(秦羅)人は、不可触民・穢多と蔑まれていくのです。

神輿の黙示録(16)(天皇と役座の謎:何故役座は神輿に乗るのか)



この世は、表世界と裏世界とにより構成されているようです。そこで、表世界を支配する天皇と、裏世界を支配する役座の歴史を調べてみることにしましょう。そこに、天皇と役座との意外な関係を知ることになるでしょう。
役座は、いつの頃からか「暴力団」と呼ばれるようになってしまったようです。しかし、江戸時代初期、騎馬民族末裔の徳川家康が健在だった頃、役座の家業である、賭博、売春、高利貸しは、反社会的ビジネスではなかったのです。
そもそも、その「賭博、売春、高利貸し」は、役座が、日本列島で始めたものではなく、奈良時代の大乗仏教の寺院内でおこなわれていたものなのです。ですから、賭博でのチップのことを「寺銭・てらせん」と言うし、仏教寺院での回春のための内道場は、時代と伴に寺院の外に移動するわけです。ですから、現在、寺院の近郊に由緒ある遊郭が多く存在するのは、内道場が外に移動したためなのです。仏教組織の高利貸しは、「借上」と言われ、現在でも健在です。それらの三大仏教ビジネスは、役座が発生する、騎馬民族末裔源氏将軍三代までの鎌倉時代初期までは、仏教の独占事業だったのです。
では、裏世界を支配する役座は、どのような時代背景により発生したのでしょうか。
役座の歴史を知るヒントのひとつは、役座が祀る神様にあるようです。役座映画などでは、役座は神道の神を祀っているように描写しているようですが、正統役座が祀る神様は、「神農様」です。神農様は、薬草の神様でもあるのです。その神農様は、神道の元祖である、道教の流れにある神様なのです。つまり、役座は、中国で発生した道教の神様・神農様を祀っているのです。
では、何故に、役座が、中国の神様を祀っているのかを、時代を遡って調べることにしましょう。
ハイキングなどで山里の小道を散策していると、ポッンとある老木の下に地蔵を見ることがあります。礼拝をするために一寸立ち止まって地蔵のお顔を見ると、鼻が欠けていることに気づきます。中には、セメントで修復している地蔵も多く見受けられます。誰が、このような悪戯をしたのでしょうか。地蔵は仏の化身であるわけですから、悪戯者には仏罰が当たります。
この仏罰に当たることを逆手に取る者がいたのです。それは、役座の配下の博徒です。博徒は、博打でのツキを得るために地蔵の鼻を削り取り、博打のお守りとしていたのです。
教科書歴史によりますと、日本国は仏教国となっているようです。しかし、仏の化身の地蔵を傷つける者は、アウトローの博徒だけではないのです。戦国時代、織田信長は、イエズス会の軍事力を背景に、京に登るにあたって二条御所の修復時に、近在の多くの地蔵・石仏を集めさせ、それらをわざわざ砕いて、その基礎材として使用していたのです。
役座も、ペルシャ平家末裔の織田信長と同じに、本質的には仏敵であったのです。しかし、役座の配下として、縁日で行商する者を香具師(こうぐし→やし)というのです。
香具師(こうぐし・やし)は、その字のとおり、香木と仏具を商う者であるのです。反仏教の役座の配下は、何故、仏教関連商品を商う肩書きである「香具師」と言われるのでしょうか。その謎解きのヒントは、香木にあるようです。
日本列島の歴史上、香木の伝来は、595年推古天皇の時代、淡路島に香木が漂着し、それを朝廷に献上して、重宝されたという伝説が「日本書紀」にあります。しかし、「日本書紀」は、藤原氏により、オリエント文化の飛鳥王朝の歴史を隠蔽するために創作された物語であるのです。その香木漂着物語は、何かを隠すための記述のようです。(香木には、二種類あり、自然に芳香を放つものと、加熱して芳香を放つものです。加熱して芳香を放つものは、沈水香木(沈香)と言われ、樹脂の塊のため、水より比重が重いので浮きません。漂着できるのは、白檀系の香木です。それらの原産地は、南インドです。しかし、インド洋海流と東アジアを北上する黒潮海流とは、マラッカ海峡で分断されているため、南インドの白檀系香木は、自然の力だけでは、日本列島の淡路島には、漂着できないのです。)
前政権の騎馬民族文化を隠蔽するためのトリックのひとつが、七世紀末の騎馬民族系天武天皇から始る「テングリ・天子→天皇」が、農耕時代の神代からあるように、日本列島の歴史物語を創作したことです。ですから、史実として天武天皇の前には、日本列島には天皇など存在しないわけです。ですから、勿論、香木を献上された女帝推古天皇などは、実在していないのです。
では、この香木漂着物語の記述は、実際は何を物語っていたのでしょうか。
紀元一世紀頃の朝鮮半島の物語として、「駕洛国記」に、駕洛の王のところに、インドのアヨーダ国の王女が船に乗って到来した、とあるのです。そのインドとは、紀元前十世紀ヘブライのソロモン王は、海洋交易民族フェニキア人が駆るタルシシ船により、インドの香木、孔雀、猿などを輸入して、そして、それらをギリシャ都市国家に輸出して大儲けをしていたのです。
そして、紀元一世紀には、ユダヤ民族の住むカナンの地はローマ帝国に支配されてしまったため、インドのマラバル海岸には、ユダヤ・キリスト教のコロニーが存在していたのです。
紀元一世紀の朝鮮半島南端に、インドからの船が漂着したのなら、台湾沖を東の黒潮海流に乗れば、南九州の坊津には漂着できるでしょう。そこから、島伝いに北上すれば、瀬戸内海に入り、更に東進すれば、「日本書紀」にある推古天皇の時代に「香木」は、淡路島に漂着できるわけです。つまり、六世紀に、南インドから日本列島に、香木をもたらしたのは、自然の力による漂着ではなく、藤原氏の先祖中臣氏であったのです。
役座の発生は、鎌倉時代です。飛鳥ヤマト時代を支配していたチュルク系騎馬民族末裔は、平安時代に百済系王朝により、仏敵の「鬼」と呼ばれ、山奥に隠れ住んでいたのです。しかし、新羅(秦羅)系花郎軍団末裔の源頼朝が、百済系末裔の桓武平氏の北条氏の陰謀により担ぎ出され、平安末期の朝廷を支配していたペルシャ平家を打倒し、1192年鎌倉幕府として天下を執ると、唐進駐軍に追われていた騎馬民族末裔は各国の山奥から続々と降りてきて、先祖を祀る「塚=土+家=墓」(藤原氏の神社により、新羅末裔(秦羅)の氏神が隠蔽されている墓。)に集まり、情報交換の地とするのです。
やがて、この騎馬民族・新羅(秦羅)系末裔の武士集団末裔により、各国の神社境内の地を中心に同業者組合の座が開かれるのです。やがて、その同業者組合の座を仕切る顔役が起こり、賭博・売春・借上の三大ビジネスを独占していた仏教組織の僧兵からの「座ビジネス」の妨害を、武力で防ぐわけです。それが神社境内から発展した同業者組合の「座」の顔役(指導者)である「役座」となるわけです。
役座は、社会的に弱い立場にある賎民達のこころをまとめる立場の意味から、「任侠」とも呼ばれていくわけです。つまり、鎌倉時代の役座は、仏教組織の弾圧下にある賎民のヒーローであったのです。
役座が仕切る、その古墳の上に築かれた神社境内で、後に、物品販売や興行がおこなわれるバザールが定期的に開催され、その縁日のバサールが「高市・たかまち」と言われるわけです。
ですから神社とは、日本列島の神代からの建物ではないのです。東北アジアを支配していた突厥帝国を散逸させた唐軍進駐軍と国際海洋交易商人の藤原氏により、645年チュルク系蘇我王朝が倒されると、中臣氏が藤原氏に変身し、仏教隆盛の詔を発し、新羅(秦羅)系の氏神を祀っていた古墳の上や近隣に、神社が続々と建立されるわけです。八幡神社や稲荷神社が、こんもりとした小山の上にあるのは、このためです。オリエント渡来の秦氏の氏神の八幡(やはた)神や稲荷(じゅが→づか→塚→墓)神は、その藤原氏の神社により封印されたのです。
その古墳上に神社建立の意味は、前政権の氏神の祟りを神社により封印することです。そして、古墳の存在を抹殺することにより、前政権の宗教儀式や文化を抹殺することです。更に、前政権の氏子が、神社に近づかないようにする装置が、結界を示すヘビの象徴の「しめ縄」を張った鳥居であるのです。
645年以降、中臣氏末裔藤原氏は、進駐唐軍の軍事力を背景に、仏教興隆の詔を発して、そして、中臣神道を発明することにより、前政権の突厥帝国日本支社の蘇我王朝時代に隆盛した景教寺(ペルシャ寺)や道教の観などの宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、仏寺や神社を建立するのです。(突厥とは、チュルク・トルコの漢語)
飛鳥ヤマト時代の寺や観は、宗教施設というよりも、国際交易のための国際ホテルや交易施設であったのです。異民族との交易は、ウソが前提のため、ウソをつけないように神の下にある「庭」や宗教施設内で契約を交わしたわけです。仏寺もその例外ではありません。飛鳥ヤマトのそれらの宗教施設には、エジプト、アラブ、オリエント、インドなどの国際交易商人達であふれていたのです。
では、中臣氏はどのような思想により、神社を建立したのでしょうか。その中臣神社建立思想と類似の宗教があるのです。それは、ユダヤ教です。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。これらの中臣神道とユダヤ教との宗教思想の共通点は、単なる偶然の一致なのでしょうか。
奈良時代の藤原氏は、神を祀る「春日社」だけではなく、仏を祀る「興福寺」も経営していたのです。藤原氏の謎は、この相反すると思われる「神と仏」を同時に経営していることです。しかし、この謎は、キリスト誕生物語とブッダ誕生物語が、同根であることが分かれば、藤原氏の宗教の謎は解かれるのです。
シルクロードの国際交易都市ガンダーラで、紀元一世紀に発明された救世主物語が、国際交易商人と伴に、西に向かったのがキリスト物語となり、東に向かったのがブッダ物語となったのです。それらの救世主物語は、国際的旅の途中で、各国の土着の宗教物語を導入してしまいましたが、その基本物語は共通であるのです。救世主(神・仏)を信じる者は、天国(極楽)に行き、信じない者は地獄に落ちる、と言う因果応報の物語です。この救世主物語を、国際交易商人は、国際交易で、異民族がウソをつかないように教育するために、「ウソをつく者は地獄に落ち、正直者は天国に行ける。」、という物語として異民族交易ビジネスで利用していたのです。
その奈良仏教の宗教儀式での必需品の香木は、南インドからの交易品で、藤原氏の独占商品であったのです。それらの仏教グッズである香木や仏具を商いする者を、香具師(こうぐし)というのです。では、何故、反仏教の役座の支配下が香具師となり、「香具師・やし」と呼ばれていくのでしょうか。
日本列島初の「天武天皇」が、686年崩御すると、藤原不比等は、百済系持統天皇を傀儡として奈良朝廷を支配するために、ギリシャ神話、オリエント史、聖書、百済史を参考に「日本書紀」を創作するわけです。そして、仏教と中臣神道とにより、前政権の景教徒や道教士を歴史上抹殺し、そのペルシャ系秦氏やチュルク系騎馬民族末裔を「鬼」とするわけです。
「日本書紀」物語で、景教や道教を日本列島史から抹殺できても、鬼達は、近畿ヤマトの山奥に隠れ住むわけですが、しかし、唐進駐軍に敗れた天武天皇系軍事勢力は、北に逃れて、陸奥国に健在であったのです。
奈良時代とは、この唐進駐軍を背景とした国際海洋交易商人の藤原氏と、陸奥の天武天皇系残存軍事勢力とが拮抗していた時代です。しかし、この軍事的均衡が崩れるのです。それは、唐軍が、藤原氏に代わり、母国百済を滅ぼした新羅を憎む亡命百済貴族に肩入れしたからです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、怪僧道鏡により毒を盛られ崩御すると、百済系亡命下級貴族の老齢者を光仁天皇とするのです。そして、781年その息子を桓武天皇とするのです。
百済系桓武天皇は、唐の儀式に則り、藤原氏の発明した天照大神ではなく、父光仁天皇を祖神として、794年平安京に遷都するのです。ここに、新羅(秦羅)系天武天皇と異なる天皇家が誕生するわけです。(平安王朝を支配した百済系桓武天皇家が、京都の泉湧寺の天皇位牌から、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の位牌すべてを排除していることは、天皇家が、新羅系と百済系とに分かれているからです。)
藤原氏は、唐進駐軍と桓武天皇により、奈良の都に封印されてしまったのです。それは、藤原氏が、奈良の都で三大仏教ビジネスに熱心だった報いです。
百済系桓武天皇は、唐国の支援の下、藤原氏に対抗するために、中国山東半島に亡命していた元百済貴族・軍人を、京都・近江に移住させるのです。更に、藤原氏が支配する奈良仏教に対抗して、804年最澄を唐に留学させ、中国天台宗を輸入するのです。そして、奈良時代の軍制を廃止して、亡命百済系軍隊を組織するのです。それが後の健児兵となるのです。そして、この健児兵と唐進駐軍とにより、新羅花郎軍団末裔とチュルク騎馬民族が支配する陸奥国への侵略をおこなうのです。
奈良の都に封印された藤原氏は、黙っていたわけではありません。桓武天皇が、最澄を唐に留学させるのに合わせて、錬金術師空海を一年で仏籍に入れて、唐に留学させるのです。そして、水銀の霊薬技術を習得させると、子作り好きの百済系三代の嵯峨天皇に接近させるのです。この頃、嵯峨天皇は、政権奪還を画策する藤原氏の政治的動向に敏感になっていくのです。
藤原氏は、嵯峨天皇による政治の乱れを利用して、挙兵するのです。それが、810年の藤原薬子の乱です。しかし、藤原氏の軍団は、嵯峨天皇の軍団により壊滅されてしまうのです。この藤原氏からの危機を逃れるために、816年嵯峨天皇は、令外官として検非違使庁を置くのです。そして、この時期に、武士(武芸者)が発生するのです。
嵯峨天皇には、子供の数が分からないほどいたのです。ですから、それらの皇子・皇女を公費で養育できないため、皇籍を外し、814年源氏賜姓を発明するわけです。これが嵯峨源氏となるわけです。
しかし、平安時代初期の社会不安は、藤原氏の動向だけではなかったのです。それらは、前飛鳥ヤマト政権の新羅(秦羅)末裔の残存軍団と嵯峨天皇の父桓武天皇が、弟早良親王を無実の罪で抹殺したための怨霊とです。
奈良・平安時代では、怨霊は実在すると信じられていたのです。その恐怖を増したのが、つい数十年前の奈良の都での、藤原氏の子息の相次ぐ死です。藤原氏は、奈良の都で、天武天皇系貴族を謀略により次々と抹殺していたのです。ですから、その天武天皇の怨霊により、藤原氏の子息が次々と死んだ、と信じられていたのです。
しかし、その実態は、反藤原氏の聖武天皇による、藤原氏支配の興福寺を封じるための施設、東大寺の遍照鬼(後の大日如来)の鋳造時での、銅と水銀の鉱毒であったのです。奈良の都の飲料用の川は、遍照鬼が鎮座する高台から流れ出る銅・水銀の鉱毒により、汚染されてしまったのです。しかし、当時、鉱毒の知識がなかったため、それらは天武天皇の怨霊と信じられていたのです。
怨霊を鎮めるには、同族の祭祀者が必要です。そこで、嵯峨天皇は、陸奥国侵略戦争で捕虜にした新羅花郎軍団末裔やチュルク系騎馬民族末裔の武人を、検非違使の配下として利用するのです。
唐進駐軍に支援された桓武天皇軍は、母国突厥帝国が西から侵攻するイスラーム軍に苦慮して陸奥国を軍事的に支援できないことを見越して、大軍を陸奥国に派遣するのです。しかし、軍事力では蝦夷(エビのようなヒゲがある夷=チュルク系騎馬民族)軍団に勝利できない桓武天皇軍は、801年金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、敵将アテルイを京で惨殺することにより、蝦夷の抵抗を滅したのです。
捕虜となった新羅花郎軍団末裔やチュルクの戦士は、近畿地方に移送され、散所、別所、垣内、湯浅などの捕虜収容所に隔離されるのです。そこで、武器製造や各種の労働に使役されるのです。更に、奈良の興福寺支配の奈良坂の部落に収容され、香木や仏具販売の香具師の手先として使役されるのです。そして、延暦寺配下の清水坂の部落に収容された捕虜は、寺奴として使役されるのです。
この陸奥国の捕虜を、嵯峨天皇は、嵯峨源氏の配下として利用するのです。しかし、いつ反撃をするか分からない者に、実戦用武器を携帯させることはなかったのです。
では、陸奥国の捕虜は、検非違使の配下でどのような仕事をしていたのでしょうか。検非違使とは、現在の警察です。警察の仕事は、二つあります。ひとつは、現在起こってしまった事件を鎮圧するための、治安警察です。もうひとつは、これからおこりそうな事件を未然に防ぐための、公安警察です。
陸奥国の捕虜は、怨霊を鎮魂するための、公安警察業務を担ったのです。それらは、捕虜とはいえ、天皇直属として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会・祭礼の守護、行幸路地の巡検・普請・掃清・橋河の公界と結界との管理などです。それらの諸行事や場所での、怨霊が出て、祟らないように、陸奥国の捕虜は、怨霊の鎮魂をおこなったのです。
その鎮魂儀式での用具は、総革製の鎧・冑と実戦的に不向きな、曲がる、折れる、刃毀れする片刃の刀です。この刀は、陸奥国の蝦夷の蕨手刀を改良したものです。これが後の、世界に誇る美術品としての日本刀の祖となるのです。
陸奥国の捕虜は、それらの実践的ではない武具で武装して、武芸(剣舞と歌謡)により、桓武天皇の実弟早良親王の怨霊を鎮魂していたのです。この怨霊を鎮める武芸の祖は、怨霊を歌謡と舞により鎮魂する「能楽」の祖が秦河勝であることがわかれば、オリエント渡来の秦氏の古来からの芸能のひとつであることがわかるでしょう。しかし、平安時代に、オリエントの神(太陽神ミトラ)を祀る秦楽が、百済系平安王権により、秦楽→シン楽→申楽→シン=さる→猿楽と貶められていくのです。
これらの天皇直属としての鎮魂儀式は、清目と呼ばれていたのですが、桓武平氏末裔北条氏が支配する第二百済王朝の鎌倉時代には、源氏武芸者による清目はキヨメとなり、非人の仕事の路外での汚物清掃業務となってしまうわけです。
この鎮魂儀式をおこなっていた武芸者は、939年〜941年の天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)での反乱軍鎮圧での活躍により、武芸者から武人として公に認められるのです。そして、武芸者は、実戦での武人として「武士」となるわけです。
江戸時代末期、武士とサムライとの意味が曖昧になってしまいましたが、武士とサムライの発生は異なるのです。
武士は、別名「もののふ」と言われていたように、「もの」つまり「精霊」の魂を鎮める者として、「もののふ」と言われていたのです。平安初期の「ものの怪・け」は、早良親王の怨霊です。武士(もののふ)は、その「ものの怪・怨霊」から天皇や貴族を守り、その「ものの怪」からの護衛や「ものの怪」の処刑を司っていたのです。
もう一方の「サムライ」は、「王」の近くに侍(さぶらい)て、王の身辺警護と秘書の役目を執り行っていたのです。
この武士とサムライとの違いは、その出自の違いを表しているのです。武士は、反体制の俘囚末裔です。サムライは、体制側で百済亡命貴族末裔です。
更に、日本武士のルーツを辿ると、武家源氏←蝦夷←新羅花郎軍団←ローマ帝国傭兵軍団と、武家源氏←蝦夷←チュルク系騎馬軍団←スキタイ騎馬軍団の二系統です。一方、サムライのルーツは、桓武平氏←健児兵←百済軍兵士←ツングース系物部氏です。つまり、武士とサムライとは、別種の武人であったのです。
ですから、日本武士道と花郎騎士道とローマ騎士道には、戦い前の名乗り、一騎打ち、恥の美学、太陽崇拝(ミトラ神崇拝)、忠誠心、弱者救済など多くの共通点があるのです。
この武士が、源頼朝政権下では羽振りがよかったのが、北条氏の陰謀により源氏三代で滅亡し、桓武平氏末裔北条氏が支配する第二百済王朝の鎌倉時代には、北条氏の陰謀により都から追われ、源氏狩りにあい、山奥に隠れ住むわけです。つまり、武士が、野武士となり、その野武士は、百済系桓武平氏末裔北条政権により「武」を外され「野士・やし」に貶められるのです。
この「野士・やし」は、古墳上の飛鳥ヤマト時代の氏神を封印している神社境内を聖域(高市・たかまち)として、定期的にバザールを開催することにより、武士の先祖が活躍した飛鳥ヤマト時代の再来を夢見て生き延びていくわけです。
しかし、藤原氏は、源頼朝により宋国との密貿易地・南九州島津荘(島津氏の発生順序は、飛鳥時代・秦氏→平安時代・惟宗氏→鎌倉時代・島津氏)を取上げられた恨みで、源氏末裔を新興仏教思想で痛めつけるのです。その新興仏教思想の基本は、ユダヤ・キリスト教と同じで、過酷な宗教修行をすることもなく、「神を信ずる者は天国に行ける。」を、「簡単な呪文を唱えるだけで極悪人でも極楽へ行ける。」、とするのです。
更に、騎馬民族末裔源氏武士に不幸なことには、その新興仏教思想には、インドで遊牧民族トラヴィダを、肉食することで不可触賎民とした、バラモン教が発明したカースト思想を含んでいたのです。それは、それらの新興仏教の祖は、新羅を憎む百済亡命貴族が支配する比叡山延暦寺で、仏法を学んでいたからです。その延暦寺の開祖最澄は、バラモン教・ヒンズー教・ゾロアスター教思想を取り入れて、日本密教を発明した空海に、その密教を学んでいたのです。
平安時代までは、ユダヤ教思想に類似した中臣神道による「屍穢れ不接触思想」だけであったのが、鎌倉時代には、血の禁忌の仏教思想が貴族だけではなく、新興仏教僧の布教により賎民まで浸透していくわけです。貴族仏教の比叡山延暦寺に反発する、賎民を救済すると主張する新興仏教思想でも、「菜食が善で、肉食は悪」、と言うことなのです。
そして、藤原氏の流れにある親鸞が、自ら肉食・妻帯し、騎馬民族末裔賎民の部落に乗り込み、それらの菜食主義のインド・カースト思想の騎馬民族差別を含んだ「穢れ仏教思想」を賎民に布教するのです。その結果として騎馬民族の生活基盤が崩れ、農耕民族賎民が騎馬民族賎民を差別することになるのです。
しかし、飛鳥ヤマト時代では、騎馬民族が王権を支配し、アジア・ユーラシアの国際交易商人が暮し、バター・チーズ(醍醐)を食べていたのです。勿論、飛鳥ヤマト時代は、動物の砕かれた骨の遺跡物からも分かるように、肉食もしていたのです。
この新興仏教と比叡山延暦寺とが、日本列島で末法思想を広める鎌倉時代に、仏教穢れ思想にイジメられていた騎馬民族末裔の賎民の味方として、「役座」が登場するわけです。
そして、役座は、仏教組織からの圧力を、賎民を守るために「武力で阻止」していたのです。朝廷をも凌ぐ仏教組織の軍事力が歴史上壊滅するのは、ペルシャ平家末裔、反仏教の織田信長の登場まで待たなければならなかったのです。
末法思想を振りまく仏教僧が跋扈する時代に、武士から没落した「野士・やし」が、神社境内のバザールで扱う商品に仏教グッズの香木や仏具もあるため、世間から、香具師(こうぐし)ではなく、「やし・香具師」と貶められた蔑称で呼ばれていくわけです。
では、役座の配下が、「テキヤ・的屋」と呼ばれるのはどうしてでしょうか。
江戸徳川時代は、騎馬民族末裔の徳川家康がエド(穢れた土地→穢土→えど→江戸)に、1603年幕府を開いた後も、平和な時代が続いていたと思っているひとが多くいるようです。しかし、江戸時代は、家康・秀忠親子の時代以降、三代将軍徳川家光より、騎馬民族末裔には暮し難い時代になっていったのです。
1600年(慶長5年)徳川家康は、関が原の戦いで、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。これは表向きは京への物流のためですが、実際は関東の騎馬軍団が、迅速に京へ移動するための軍事道路だったのです。
そして、徳川家康は、この二里ごとの馬宿を、役座に無償で経営させるのです。その見返りが、日没後の宿場での賭博、売春、高利貸しです。これらの宿場を仕切る役座が、街道筋の親分として羽振りを利かせていくのです。ですから、遊女の名を「源氏名」というのは、徳川家康より、宿場での夜の営業者は、源氏末裔に限られていたからです。
しかし、騎馬民族末裔の徳川家康と秦氏末裔の穢多頭弾左衛門とが、ひとも住めぬ湿地帯のエド地を、神田堀の残土で、海抜十mの人工山を造り、江戸城を建設し、住宅地を整地し、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉にイジメられていた大坂の部落から、多くの源氏末裔賎民を呼び寄せて、エドの町を発展させていたのが、二代目秀忠が、1623年秀忠の次男と言われる家光に将軍職を譲り、1632年死去すると、三代将軍家光は、徳川家康の戦国時代から関が原の戦までの忠臣達に難癖を付けて、左遷或いはお家断絶で抹殺するのです。
三代将軍家光に没落させられた徳川家康の主な忠臣達とは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正の末裔達です。
実は、徳川家光は、秀忠の実子ではなかったのです。その乳母は、戦国末期の山崎の合戦で、明智光秀をイエズス会の密命で裏切った徳川家康を憎む、お福(春日局)であったのです。そのお福を、天皇にめあわせ、お福を春日局に変身させたのは、藤原氏末裔であったのです。そして、お福は、明智光秀の家系の者であったのです。
三代将軍徳川家光から四代将軍徳川家綱に代わると、騎馬民族末裔への弾圧が激しくなっていくのです。それは、騎馬民族末裔の徳川家康の忠臣達が、春日局の陰謀により、権力中枢から追放され野に下っていたからです。1651年には由比正雪の乱が起こったように、三代将軍家光の政治に反発する源氏末裔の元武士達が多くいたのです。
そこで、四代将軍徳川家綱は、戦国時代に織田信長により仏教軍団を壊滅させられ、更に市・座の利権を楽市楽座により簒奪され、寺所有の関所での通行税が廃止され、比叡山が女人の巣窟であったことが暴かれ、そのため貴族並の生活基盤を失って、葬式仏教に成り下がった仏教組織を利用して、騎馬民族賎民達を弾圧・抹殺することを企てるのです。
それは、没落武士である浪人だけではなく、商人・賎民・流浪芸能民も全て含めて人別帳を作り、仏寺や賎民専用の穢多寺に管理させることです。その当時、武士には名前が名乗れたのですが、商人や元武士の役座には名前を名乗れる権利がなかったのです。そこで、商人や役座に屋号や商号をつけさせて人別帳に登録させたわけです。
バサールで商いをする香具師は、元々は武士であったのですが、その当時では名乗れません、そこで香具師は、先祖が武士の武器である槍・刀・弓矢・鎧・冑などの武器製造をしていたため、町人相手に商売としての矢場を経営していたので、その的屋を屋号として届けたわけです。それがお上から、香具師の商売名を「的屋・まとや」ではなく、「的屋→敵奴→てきや」と蔑称にしてしまうわけです。
騎馬民族末裔、元武士であった役座は、徳川五代将軍綱吉の、1687年騎馬民族末裔の生活基盤を破壊するための殺生禁止の「生類憐みの令」が発せられる頃には、表の世界から闇の世界に暮すことになるのです。
関八州の役座を仕切る弾左衛門(弾左衛門は世襲名。明治初期の十三代目で終わる。)は、徳川家康威光が存続していたまでは、大名と同様に、羽織袴、二本差しで、籠によりで江戸城に登城していたのが、四代将軍徳川家綱の頃には、徳川家康の威光が消えると、五街道の基点である日本橋を整備するという名目で立ち退きを命ぜられ、浅草寺裏の仏寺に囲まれた、堀を廻らされた新町に暮すわけです。しかし、弾左衛門が支配する役座の闇の警察力を必要とした江戸幕府は、大名にしか許されていない冠木門の設置を、弾左衛門の屋敷に許すのです。
徳川家康と秀忠親子が、百済の血が流れていると言われる三代将軍家光にどのように扱われたかは、日光東照宮に行けば分かるでしょう。
徳川家康の死後一年して、遺言どおり、家康の出生地の世良田部落近くの日光に、質素な堂が、騎馬民族末裔の賎民が暮すエドの町を守護するように建立されるわけです。しかし、二代将軍秀忠が死去し、三代将軍家光が支配者となると、日光にあるその質素な堂を移動させ、百済系神道の山王神の思想に則り、豪華絢爛な東照宮を建立するわけです。
しかし、不思議なことに、日光東照宮には、家光の父であるといわれる秀忠を祀る社がないのです。そして、東照宮境内の粗末な建物に猿の彫り物を廻らした、「厩」があるのです。不思議なことに、宗教施設内に厩があるのは、日光東照宮だけです。何か意味があるのでしょうか。
猿と馬は何を意味しているのかと言えば、猿→申→しん→秦で、猿は秦氏末裔弾左衛門を表わし、馬は騎馬民族末裔徳川家康を表わしているのです。猿達(秦氏末裔)に、賎民が開発したエド初期の歴史を「見るな、聞くな、言うな」と、徳川家康の騎馬民族の霊を封印している施設が、日光東照宮であるのです。
そして、北極星を頂く陽明門は、騎馬民族の神・北極星(太一)のエドの町への威光を遮る施設であるのです。そして、騎馬民族末裔徳川家康を祀る日光東照宮が、騎馬民族と新羅(秦羅)国を憎む百済系比叡山延暦寺の流れにある神道の山王(シャンワン)神により祀られている意味は何でしょうか。
そのような視点から、神を祀っていると言われる神社を調べると、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔の怨霊が現れてくるのが分かるでしょう。古来、神社は、祟り封じの施設であったのです。その神社が、何ゆえに死霊を祭る施設になったのでしょうか。そして、神社での「祭り」が「祀り」と言われた時代では、何を祀っていたのでしょうか。
「祭り」を盛り上げるもののひとつに、神輿があります。現在では、神輿は、神の乗り物として認識されています。しかし、何ゆえに、その神の乗り物である神輿の運営に、平安初期に怨霊退治をしていた俘囚末裔の元武士(もののふ)末裔である役座が絡むのでしょうか。役座と神輿には、どのような関係があったのでしょうか。
「祭り」が、「祀り」から何時代から変性したかの歴史は定かではありません。しかし、「祭り」の軽さから比べると、「祀り」には、「生と死」の世界が存在します。そして、その祀りの中心には、怨霊の存在があるのです。では、その怨霊とは何だったのでしょうか。
ひとは、意識を獲得した時点から、「ウソ」が無ければ生きられない存在となってしまったようです。それは、過去と未来を思考して、現在の自分を認識できるからです。しかし、ひとには、未だ、未来を見通す能力が備わってはいないのです。ですから、全てのひとには、未来についての「不安」が常に存在するわけです。
未来を予知できない多くのひとは、これから起こるであろう過酷な自然現象を回避するために、自然現象をひとの行為として解釈することにより、自然神を敬い貢物をして祀っていたわけです。そこに現れたのが、天変地変の自然現象をコントロールできるとする、「人工神」を発明した祭祀者です。
祭祀者は、神ではなく、人間です。が、人工神を発明した祭祀者が、やがて神の代理人として、迷える子ひつじ達を人工神に従わせることにより君臨していくわけです。それが、宗教の始まりです。祭祀者は、神ではなく人間ですから、祭祀者を神の代理人にする奇跡物語を発明するわけです。その教祖の奇跡物語が不安を抱える子ひつじ達に刷り込まれ、やがてその教義も刷り込まれて信者となり、その信者の想像力をその教義で固定し、その結果が思考停止の状態となるわけです。
ひとが生きることにおいては、無限に思考する意識をコントロールできないため、生老病死の不安から逃れることは出来ません。しかし、ひとが思考停止状態である時は、その生老病死の不安から一時的に逃れることが可能なのです。
つまり、「信じる」とは、思考回路を停止して「疑うことを放棄した」状態です。ここに、「宗教は麻薬だ。」と言われているように、想像力を無限にし、思考力の停止を強力に促す宗教の魔力があるのです。
宗教教義を発明した祭祀者は、自らの生活の糧を得るために、迷える子ひつじからの多くの貢物を得るために、「旧約聖書」のレビ記のように、複雑な儀式や神に祈る時の貢物の細則を創るのです。
より多くの貢物を得るために祭祀者は、豊穣と災害をもたらす自然神を真似て、守護と罰の思想を発明し、「信ずる者は天国へ、そうでない者は地獄へ行く。」と脅すわけです。この地獄思想から、恨みを抱いて死去した者の「怨霊」が発明されるわけです。
日本史での怨霊は、桓武天皇を祟る早良親王と藤原氏を祟る菅原道真が有名です。ともに無実の罪をきせられて怨みを抱きながら死去したのです。その怨霊の魂を鎮め、又は封印するために、祟られる者が、役座の先祖である俘囚末裔の武芸者に警護をさせ、或いは、魂鎮めの儀式を神社でおこなわせていたのです。
そこで、祭りの神輿を観察してみると、その造りが神社のミニチュアであることが分かるでしょう。しかし、不思議なことに、神輿にある窓が封印されているか、羽目戸となって、神輿の中の者が外を見えない、或いは出れないようにしていることです。神を乗せるものが神輿であるのならば、神が神輿から下界を観察できるように窓は開けられるべきです。
では、その羽目戸の本当の意味は何かと言えば、それは、祭りでの神輿とは、前政権の氏神を封印したままの移動用施設であったからです。では、祭りでの神を封印する神輿は、いつ発明されたのでしょうか。
神輿を神、或いは神物を棒により担ぐものであるとすれば、歴史上では、ユダヤ教のアークを担ぐ神輿があります。中臣神道にも、ユダヤ教と同じに、神物を棒で担ぐ風習があります。しかし、祭りでの神輿は、神聖な神を乗せて移動したとは、とても思えません。
祭りで、神輿の進行前に塩や水を撒くのは何故でしょう。塩や水を撒くことは、ユダヤ教と中臣神道では、穢れ祓いの清めの意味があるのです。そして、神輿を激しく揺らすのはなぜでしょう。今でも疑問に思うのは、学生時代に比叡山の坂本の祭りで見たものは、大きな神輿どうしがぶつかり合い、更に担ぎ手は、神輿を放り投げていたのです。これらのことを考えると、祭りでの神輿が、神の神聖な乗り物とは思えません。
平安時代初期、唐進駐軍の後ろ盾を得た亡命百済王朝は、奈良時代を支配していた藤原氏を奈良に封印し、京に唐文化の華を咲かせていたのが、907年唐が滅びることにより、桓武天皇系王家の朝廷での勢力が衰えていくわけです。そこに、奈良に封じ込められていた藤原氏の反撃が始るのです。その手先が、奈良の興福寺の僧兵です。
藤原氏が支配する興福寺の僧兵は、神輿を担ぎ、亡命百済貴族(814年完成の「新撰姓氏録」の皇・神・蕃の差別序列により、亡命百済貴族が日本皇族の始めとなる。)が暮す京の都に、強訴するわけです。
それに対して、亡命百済貴族が支配する延暦寺の僧兵も、神輿を担ぎ、藤原氏が支配する奈良に強訴をかけるのです。何故、二方の僧兵は、強訴のために、神輿を担いだのでしょうか。その背景には、京を軍事支配していた唐進駐軍の母国が壊滅したため、京の治安が乱れたことによる間隙をぬっての、仏教ビジネスの市場争奪戦であったのです。
この奈良の興福寺と京の延暦寺との戦いは、長く続き、戦国時代に織田信長に、それらの仏教軍事組織が壊滅されるまで、高利貸し(借上)は、比叡山延暦寺が最大組織を誇っていたのです。
延暦寺の法薬禅師などは、宋商人から大宰府役人への賄賂の融資をうけて、九州の多くの仏寺を借上の活動拠点にすることを画策していたのです。その結果、延暦寺は、宋商人と借上ビジネスで結託することにより、中世における最大の国際的借上集団となっていくわけです。
では、その神輿に何が乗っていたのでしょうか。それは、興福寺の神輿には、桓武天皇を祟る早良親王の怨霊が乗り、それに対して、延暦寺の神輿には、藤原氏を祟る菅原道真の怨霊が乗っていたのです。平安時代の神輿は、そこに封印されている怨霊を放すぞ、と脅すための強訴の道具のひとつだったのです。
役座の祖である神社境内で怨霊退治をしていた武芸者(もののふ)は、907年チベット系の吐蕃の侵攻により唐国が滅びたため、都の治安が乱れ、それに伴い、939年関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友の反乱である天慶の乱での、反乱軍を武力鎮圧したことにより、武人として公に認められ「武士」となるわけです。
唐進駐軍が壊滅したため都の治安が乱れたため、源氏武士の武闘力を利用する者があらわれるわけです。それは、朝廷の支配を企む藤原氏です。
唐進駐軍を頼りにできない平安朝廷は、近衛と検非違使とで構成する都市警察を直轄し、清涼殿には滝口の武士により王族の近辺警護にあたらせていたのです。
陸奥国における、1051年前九年の役と1083年後三年の役で、源氏武士の武闘力を知ると、第72代白河天皇は、院御所に北面の武士をおいて院の身辺警護にあたらせたのです。しかし、チュルク系騎馬民族末裔で、弓馬を得意とする蝦夷末裔の源氏武士と異なり、亡命百済貴族末裔の桓武平氏のサムライ上がりの「武士」は、王族の秘書の仕事が主な仕事であったので、実戦における武闘力では、藤原氏に雇われた源氏武士にはかなわないのです。
そこで、藤原氏の圧力に対抗するために院政をひいた白河上皇は、藤原氏の傭兵である源氏武士に対抗する軍事組織として、平正盛を、出雲目代を殺害した源義親を追討するために雇うわけです。ここに、白河上皇の私兵として、「平家」が興るのです。
平氏と平家との違いは、「桓武平氏」は、825年淳和天皇からの賜姓に対して、「平家」は官位などではなく、白河上皇による呼称にすぎないわけです。
その平正盛の本名は分かりません。しかし、十一世紀の正盛の出身地である伊勢は、アラブ(インド以西はペルシャと言われていた。)からの国際交易商人が多く暮す地であったのです。このことにより、平家がペルシャ平家と言われる由縁です。
平家の系図で、平清盛←忠盛←正盛までは遡れるのですが、戦国時代の尾張の織田信長の三代先が不明なのと同じに、正盛の先が不明です。そして、この伊勢湾は、古来から海洋民族の渡来地だったのです。
八世紀の東ローマ帝国と唐国との国際交易は、イスラーム帝国と吐蕃による陸路のシルクロードが支配されてしまったため、海路の南海ロードに移っていたのです。海には国境を引けないため、国際海洋交易商人は、帆船を駆使して、南の果てから北の果てまでを交易地としていたのです。そのなかでも、フェニキアの血を引くアラブの国際海洋交易商人は、東アジアの果てまで交易のために訪れていたのです。そのアラブ海洋商人による、東アジアでの海洋交易や海賊交易を基にして、シンドバットの冒険物語が創作されたのです。
平安時代、赤い衣を着た国際海洋交易商人フェニキアの末裔は、戦国時代に水銀・銀を求めて伊勢壬生に渡来したイエズス会のように、伊勢の朱砂・水銀を求めて、伊勢に渡来していたのです。
伊勢は、奈良の宇陀と伴に、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。それは、伊勢→吉野→四国へと、中央構造線が貫かれていたからです。その中央構造線には、地下の鉱脈が地表に現われていたので、鉱脈を掘る技術がなかった縄文人には、鉱物を採取するには都合がよかったのです。
アラブの国際海洋商人は、東アジアとの中継点として、インドにも基地があったのです。ですから、平正盛は、伊勢から京に進出した地を、インドの祇園精舎を真似て「ギオン」(祇園)とするのです。その京のギオンの地は、賀茂川の東の湿地帯で、上流から死体が流れ着く処で、別名骸骨原と言われていたようです。このギオンには、白拍子といわれるオリエント系遊女が住む所でもあったのです。
平正盛を側近とした白河法皇は、有名な寵姫の祇園女御の夫を陥れて流罪にしたうえで、その祇園女御を中心にハーレムを作るのです。そして、白河法皇とそのハーレムの女御(後に平忠盛の后となる。)から生まれたのが、平清盛であったのです。
白河法皇の威光をバックにする平家は、1156年保元の乱、1159年平治の乱により、源氏一族を駆逐し、1167年平清盛は太政大臣となり、天下人として権勢を誇るのです。その平家は、アラブ系であったので、神道と仏教が発明した怨霊思想を持っていなかったようで、祟り神を封じ込んでいると言われる神輿に矢を射掛けたり、1180年には平重衡などは、遍照鬼(大日如来)を祀る東大寺に火をつけて全焼させているのです。これらの平家の狼藉により、僧兵の強訴の道具である怨霊を封じた神輿の威力が消失していくわけです。
武力で源氏軍団を壊滅させた平家の清盛は、宋国との貿易を計るのです。しかし、それは、藤原氏と百済亡命貴族が支配する延暦寺を刺激するわけです。
平清盛は、1152年ベンガラ(インドのベンガル地方産出の酸化鉄の染料)塗りの厳島神社を修復し、1170年には第77代後白河天皇にたいして、福原の宋国交易用別荘で宋国の商人を引見させるのです。この出来事は、中国・朝鮮を蔑視する百済亡命貴族の朝廷には許しがたい行為だったのです。
そのような、平清盛による、宋国との国際交易により、宋銭が多量に日本列島に持ち込まれるわけです。この宋銭の持込は、藤原氏と平安百済王朝にとっては、大打撃であったのです。それは、平安王朝が、奈良時代まで続いていた銭の流通を廃止して、土地を支配することで貴族や庶民を支配していた体制が崩れるからです。(飛鳥ヤマトでは、和同開珎より前に、富本銭を鋳造していた。)
この宋銭の流通は、藤原氏と平安百済王朝によりイジメられていた騎馬民族末裔には有利に働いたのです。それは、土地がなくても、宋銭を溜め込むことにより、資財を蓄積できるからです。土地を所有しない、漂泊する騎馬民族は、商業取引に長けていて、古代ユーラシアでは為替制度も発明していたのです。それに資本を集積する株仲間も、騎馬民族が発明していたのです。
宋国との交易の独占を図る平清盛に対して、藤原氏と平安王朝とが、1177年平家打倒で密議をおこなうのですが、その企ては平清盛に発覚され、その首謀者は島流しにされるのです。
そこで、祟り封じの神輿を利用して強訴する僧兵を蹴散らす平家軍団により、都を追われて関東にくすぶるサムライの桓武平氏末裔の北条氏が、武家源氏末裔の源頼朝を担ぎ出し、奥州を支配する、元飛鳥ヤマトを支配していたチュルク系騎馬民族末裔の軍事力を引き出すのです。そして、1185年壇ノ浦の戦いで、赤旗のペルシャ平家は白旗の源氏軍団に敗れるわけです。
南宋貿易を独占していたペルシャ平家が滅ぶと、源頼朝軍を支援していた百済系平氏末裔の北条氏は、藤原氏と源氏武士軍団を壊滅するための謀を着々と進めるのです。
1189年藤原泰衡が、チュルク系騎馬軍団棟梁の源義経を衣川にて殺害すると、北条氏のロボットである源頼朝は自ら奥州に出陣し、藤原泰衡一族を滅ぼすのです。ここに奥州藤原三代王朝が滅ぶのです。
そして、南九州の島津荘を経営する藤原氏本流(近衛家)を壊滅するために、オリエント渡来の秦氏末裔の惟宗氏に、その荘園を支配させるのです。ここに、明治維新で活躍する、「島津氏」が始るのです。
島津氏が、秦氏末裔であることは、秦氏末裔・穢多頭弾左衛門の家紋・丸に十の字があることで証明できます。その家紋の意味は、景教徒(=ミトラ教)の太陽のシンボル・マルタクロス(ミトラ教の儀式を導入したキリスト教は、このマルタクロスも十字架として導入したのです。)であるわけです。
北条氏は、百済亡命貴族末裔であるわけですから、百済平安王朝と同じ方法で、臣民・庶民を支配することを計画するのです。それが、1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、銭貨の使用停止を命ずるのです。そして、次の年1193年には宋銭の通用を停止し、米を以って推挙の利を弁償させるのです。
この宋銭の通用停止は、土地を所有しない騎馬民族末裔・源氏武士の抹殺手段であるわけです。
平清盛の南宋交易により、膨大な宋銭の輸入により、土地を持たない商業取引に才能がある騎馬民族末裔は、日本の神仏を敬わない平家による神社・仏閣の破壊により、僧兵の管理が薄くなった神社境内を商業取引所として、同業者組合の「座」を構成するに至るわけです。そして、その地で、騎馬民族がユーラシア大陸でおこなっていたバザールを、定期的に開催するのです。これが後に、縁日となっていくわけです。
平家が滅び、騎馬民族末裔の蝦夷末裔の源氏武士が勢力を増すと、百済亡命平安王朝により、山奥に追いやられたチュルク系騎馬民族末裔・元飛鳥ヤマト支配者の末裔は、里に降りてきて、氏神を神社により封印された地(塚)に集まり、宋銭を通貨として全国的に商取引を始めるわけです。騎馬民族末裔による馬の機動力(馬借の発生。馬借は、戦国時代、百姓一揆の武装中心勢力となる。)により、「座」のビジネスは全国的になっていくのです。この神社境内での「座」による商業は、仏教組織には脅威であったのです。
戦国時代のイエズス会に支援された織田信長に、仏教軍団が壊滅されるまでは、仏教組織は、仏を祀るよりも仏教ビジネス(賭博・売春・高利貸し)に勤しんでいたのです。そのなかでも、借上と言われる「高利貸し」を、商業取引に長ける騎馬民族末裔により席巻されることは、中世の日本列島最大の借上集団を支配する比叡山延暦寺には耐えられなかったのです。
仏教が、権力から離れ葬式仏教(大乗仏教には、元々庶民を対象の葬儀のノウハウがなかったので、中国から渡来の禅宗の簡略な葬儀と、キリスト教のホーリーネームを戒名として導入して、今日の仏式葬儀に至る。)となるのは、江戸時代の三代徳川家光の第三百済王朝からです。本国百済を滅ぼした新羅を憎む百済亡命貴族末裔は、騎馬民族系新羅末裔の源氏武士末裔を徹底的に差別するために、織田信長軍団により落ちぶれた仏教組織は、第三百済王朝の手先とされ、戦国大名の夫役台帳を基にして、仏教徒と非仏教徒に分類した「宗門人別帳」の管理者となり、騎馬民族末裔の賎民を徹底的にイジメるわけです。騎馬民族は、人工神の仏教徒ではなく、自然神の太陽・月・星を祀っていたのです。
ちなみに、役座は、薬草の神・神農様(神農様には、二本の角があるといわれています。このことは、神農様は、牛頭天皇で、太陽の化身牡牛を屠るミトラ神でもあるわけです。このことからも、役座←武家源氏←新羅花郎軍団←ローマ帝国傭兵軍団の流れが見えます。それらの軍団は、伴に太陽神ミトラを軍神として祀っていたからです。太陽神ミトラは、中国で「弥勒」となり、日本列島では「魔多羅」と変身するわけです。)を祀っていたのです。出自を隠す鎌倉時代の源氏武士は、新羅の神・八幡様(「はちまん」、ではなく「やはた」)を祀っていたのです。
平安時代、比叡山延暦寺の僧侶により、庶民による銭の通貨を阻止するために「銭は穢れている。」とする宣伝力よりも、平家による宋銭の流通により、米による取引の煩雑さよりも、宋銭が流通することの簡便さが、庶民に受けたのです。その結果、平安末期には、宋銭は、瞬く間に日本列島を駆け巡ったのです。その宋銭は、「座」を支配する、元飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔に集まっていくわけです。そのことにより、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔の勢力が復活していくことは、645年にチュルク系蘇我王朝の飛鳥ヤマトを乗っ取った藤原氏と、794年に百済系桓武天皇により、新羅系天武王朝を乗っ取った百済亡命貴族末裔には許せないわけです。
そこで発令されたのが、1193年の宋銭通用停止令であるわけです。そして、藤原氏と百済亡命貴族末裔は、騎馬民族末裔と庶民とを分離する謀を練るのです。それが、貴族ではなく、賎民に布教する鎌倉仏教民族差別思想であるわけです。
その民族差別思想とは、つまり、古代エジプトの唯一神である太陽神アトン(ミトラ神を導入して発明した神)を基にして創作した「ヤハヴェ」を祀る一神教のユダヤ民族(藤原氏)が、太陽神アトン(旧約聖書ではバアル)と牡牛を祀る多神教のイスラエル民族(秦氏)を貶めるために、不可触賎民サマリア人(穢多)を創作したように、勢力を再び復活させていく騎馬民族末裔を、インドの遊牧民族トラヴィダを貶めるための、バラモン僧が発明したカースト制度の不可触賎民セダラを真似て、「穢多」と民族差別するわけです。
1199年北条氏による源頼朝暗殺後(日本史では落馬死とする。)、1204年源頼家の暗殺、1219年源実朝の度重なる暗殺により鎌倉源氏三代滅亡後に、不可触賎民「穢多」が発明された裏には、仏教ビジネスに対抗する、源氏武士が支援する騎馬民族末裔による「座」の存在があったのです。
そして、源頼朝の威光を継いだ、百済末裔の尼将軍北条政子の北条鎌倉幕府(第二百済王朝)により、新羅末裔の源氏狩りの謀略で、梶原氏、比企氏、畠山氏と次々と源氏寄りの武将が抹殺され、その結果、源氏武士の後ろ盾を失った騎馬民族末裔の同業者組合の「座」を、敵対仏教軍団から守る「役座」が現れるわけです。(「役座」が、「シロウトさん」に手を出さないとは、「シロウト」とは、「白徒」で、それは白旗をシンボルとする源氏末裔の同族であるからです。)
鎌倉源氏三代の時代(1192年〜1219年)、北条氏のロボットにすぎなかった源頼朝は、1192年征夷大将軍に着任すると、源氏棟梁の立場で政をおこなうようになったのです。そのひとつが、秦氏末裔の、関東役座の元締め浅草弾左衛門の先祖の長吏に、御朱印状を与えていたのです。これは、母国百済を滅ぼした新羅を憎む百済末裔には許しがたい行状であったのです。このことが、源頼朝が、北条氏に暗殺される原因のひとつとなったのです。
江戸時代、弾左衛門が幕府に提出した御朱印状とは、

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

北条鎌倉幕府の陰謀に敗れた源氏武将は、再び山奥に逃避するわけです。しかし、同族の「座」ビジネスを守るために里に留まり、反体制の「役座」として生きる者も多くいたのです。そして、源頼朝による神社でのビジネスの既得権を得た騎馬民族末裔は、仏教ビジネスを真似て、賭博、売春、高利貸しをおこなうわけです。
1221年尼将軍北条政子は、源氏の残党を結集した京の朝廷軍を破ると(承久の乱)、六波羅探題を設置し、源氏残党狩りを行い、1235年僧徒の武装化を禁じ、仏教組織の財源を枯渇させるため、1238年仏寺での双六賭博を禁止するのです。そして、騎馬民族末裔の財源を枯渇させるため、1244年神社での賭博の禁止令を発令するのです。
双六賭博は、平安時代までは貴族の娯楽で、禁制ではなかったのです。軍事力を持った治外法権の仏寺では、賭博は、戦国時代の織田信長による仏教軍団壊滅と比叡山延暦寺の壊滅まで続いていたのです。
鎌倉時代に流行った仏寺での賭博は、中国南宋の禅僧がもたらした茶を利用して、産地当てを競う闘茶です。その鎌倉時代の博打である闘茶から、戦国時代に、キリシタンの賎民・千(賎)利休が、「わびさびの茶道」を発明するわけです。
北条鎌倉幕府に破れた源氏武将の後ろ盾を失った騎馬民族末裔は、役座の保護により神社境内でビジネスをおこなうわけですが、北条鎌倉幕府の騎馬民族差別政策により、定住の地を追われ、頼朝公の御朱印状にあるように、漂泊の芸能民として生き延びていくわけです。
鎌倉時代、秦氏末裔の芸能民の職種に、舞舞、猿楽、陰陽師、鉢たたき、方下、鐘打、獅子舞など、神社での祭りを彩るものが多くあるのは、平安時代、前政権(蘇我王朝と天武王朝)の氏神の祟りを封じるためと、早良親王の怨霊を鎮めるために、それらの怨霊に怯える桓武天皇が、前政権の武人の陸奥国の蝦夷の捕虜を、武芸者として神社境内で怨霊の魂鎮めの儀式をおこなわせた流れに、鎌倉時代の芸能の祖があるからです。
漂泊芸能民による猿楽とは、簒奪王権により貶められた蔑称で、その祖は、景教の祭祀者の秦河勝で、猿楽←さる楽←申・シン楽←秦楽であったのです。オリエント渡来の秦氏の祭祀舞踏が、猿楽の本来の姿であるわけです。その猿楽の流れから、源氏支配の室町時代に、秦氏末裔の賎民の世阿弥により「能楽」に発展するわけです。
秦河勝は、教科書歴史によれば、聖徳太子の命で仏像安置のために、広隆寺を創建したそうです。仏教伝来物語では、その聖徳太子から与えられた仏像の名は、弥勒菩薩です。しかし、その弥勒菩薩とは、実際は、ミトラ神(ミトラ神は、仏教に取り入れられ弥勒菩薩と変身した。)のことなのです。
そこで、平安時代に創作された、聖徳太子主演による百済仏教伝来物語のトリックが明かされるのです。それは、広隆寺の元は、蜂丘寺と言い、それは太陽神ミトラを祀る景教寺(ペルシャ寺)であったのです。百済平安王朝は、ペルシャ寺の景教寺を仏教寺の広隆寺と変身させ、ミトラ神を魔多羅神と変身させ、前政権のオリエント渡来の秦氏の宗教を、日本列島史から抹殺するわけです。
奈良時代末期、東アジアの宿敵騎馬民族国家・突厥帝国(飛鳥ヤマト蘇我王朝の母国)を離散させた中国・唐軍の支援により、秦氏の支配地山背国を乗っ取った百済亡命貴族は、その地の簒奪を隠すためと、平安時代初期、百済系桓武天皇が、藤原氏の奈良仏教に対抗するため、中国山東半島から導入した天台宗が、飛鳥ヤマト時代から存在していたと偽造史を創作するため、自然神を祀る騎馬民族を蔑視する法華経のキャラクター、モーセ(十戒を授けられたモーセのように、憲法十七条を制定した聖徳太子)・ダビデ(敵将を倒す少年ダビデのような、物部軍の敵将を倒すため呪いで支援する少年聖徳太子)・キリスト(厩で生まれたキリストのような、聖徳太子)の合成人物である「聖徳太子」を発明して、「日本書紀」の仏教伝来物語の552年よりも前の、538年百済の聖明王による仏教伝来物語を創作し、その百済仏教伝来物語のトリックとして、太陽神ミトラを祀る秦氏支配の山背国の祭祀者である秦河勝を、聖徳太子の臣下としたわけです。
オリエント文化の蘇我王朝を倒して、645年以降に発明された神社は、死者を祀る施設ではなかったのです。それは、古墳に眠る前政権の氏神の祟りを封印するための施設であったのです。ですから、歴史のある神社は、こんもりとした小山(古墳・塚)の上に設置されているのです。その施設境内が、ペルシャ平家により神社・仏閣を破壊する平安末期、騎馬民族末裔のビジネスの地となるわけです。その理由は、その結界地には、祟りを恐れた王権は近づかなかったからです。その神社の祭りで、芸能民を仕切る「役座」は、当然芸能興行にも携わるわけです。ですから、現在の歴史のある正統役座と芸能民との繋がりの歴史は、鎌倉時代からのものなのです。
北条鎌倉時代に、現れた武装集団がいます。それらの武装集団は、自ら「悪党・アク党」と名乗っていたのです。では、その「悪党」とは何を意味していたのでしょうか。
645年前政権のオリエント文化の蘇我王朝を倒した後、藤原氏により仏教隆盛の詔が発せられ、奈良・平安時代に、王権にまつろわぬ者は、仏教思想により、仏敵の「鬼」と貶められてしまったのです。その深山に隠れ住む「鬼」とは、前政権の王族・軍属末裔であったのです。
では、北条鎌倉時代、深山を根城とする武装集団の「悪党」とは、何でしょうか。武装集団は、自ら「悪党」と名乗ったからには、「悪党」とは「悪い意味」ではないのです。その意味は、「アク」とは、古代オリエント語で、「勇者」の意味であったのです。ですから、「アク党」とは、勇者の集団の意味だったのです。それを北条鎌倉幕府は、「勇者・アク」に仏教用語の「悪」を当てはめて、オリエント渡来の騎馬民族の存在を抹殺していたのです。このことは飛鳥ヤマトでの「スクネ」も、古代オリエント語で「勇者」の意味であったのを、オリエント文化の抹殺を図る、飛鳥ヤマトの簒奪王権は、「勇者・スクネ」を「宿禰」との官位としてごまかしていたのです。
北条鎌倉幕府は、武士の源氏と異なり、文官であるサムライ上がりの武家であったので、源氏のように武力で統治するよりも、法律で臣民を統治することになるわけです。それが、1232年51ヶ条による御成敗式目となるわけです。
武力統制できない北条鎌倉幕府の弱体を見抜いた仏教勢力は、再び軍事力を増していくのです。その中心が、奈良の興福寺と京の延暦寺です。そして、「座」ビジネスで銭を溜め込んだ、深山に住む源氏の騎馬民族末裔は、再軍備をして源氏の世の再来を目指していたのです。
この源氏「悪党」の変革は、室町初期に著された「峯相記」に、

正安・乾元(1299年〜1303年)の悪党は、柿帷に六方笠を着て、柄や鞘のはげた太刀を佩き、竹長柄・サイ棒をした、「異類異形ナルアリサマ、人倫に異ナリ」とあるのが、正中・嘉歴(1324年〜1329年)には、悪党は、良い馬に乗って、五十騎百騎と打ち続き、引き馬、唐櫃・弓箭などの兵具に金銀をちりばめ、鎧・腹巻は照り輝くばかりであった、とあるのです。

源氏武士末裔が、「異類・異形」であるのは、ツングース系・南方系農耕民族と異なるからです。源氏武士の先祖には、ギリシャ・ローマ・スキタイ・チュルクなど西欧・オリエントの血が流れていたからです。それらのオリエントから渡来の民族は、日本列島への渡来時に、「秦氏」と名乗っていたのです。ですから、芸能民の祖は、秦氏ですから、江戸時代の芸能民も、目の細いのっぺりした顔のツングース系農耕民族達に、役者顔と言われる目が大きく鼻が高いため、異類・異形の異民族と言われていたのです。
北条鎌倉幕府に追われて、山奥に隠れ住んでいた源氏末裔が、「峯相記」にあるように短期間に再軍備を可能にしたのは、源氏武士は騎馬民族のため農耕を全くしないため、その財源元が「座」ビジネスによるものが多かったからです。
仏教勢力の妨害から役座の保護の下、神社境内でのバザール(高町)での商売を盛んにしたのは、1206年北東アジアを席巻した騎馬民族のテムジンが南下して、金帝国(1115年〜1234年)を滅ぼし、南宋(1127年〜1279年)を圧迫したからです。その結果、南宋の禅宗組織が、日本列島の北条鎌倉幕府に亡命して来たからです。
南宋の禅僧は、茶だけではなく、中国の書画骨董を多量に日本列島に持ち込んできたのです。そして、国際交易商人の顔を持つ禅僧は、日本から日本刀を美術品として持ち出して、中国で捌いていたのです。そのチュルク系騎馬民族の武器である蕨手刀からの改良の日本刀を製造する刀鍛冶師は、源氏武士と同根の秦氏末裔であったのです。オリエント渡来の秦氏の遠い先祖には、鍛造鉄器製造法を発明したヒッタイト人の血が流れていたのです。
そして、大乗仏教を嫌う武士は、中国渡来の禅文化に染まるのです。それは、法華経などの肉食民族を差別する思想を布教しない、と言うよりも、禅宗は、ヨーガと類似する、只座し瞑想により解脱を試みる宗教組織なので、瞬く間に禅文化は、反仏教のため漢字の苦手な武士社会に入り込むのです。その禅寺が、後に改良され武家屋敷となり、床の間には、中国の水墨画が掛けられていくのです。そのため、禅宗組織が中国から持ち込む書画骨董品は、役座が仕切る神社境内の「座」ビジネスを盛んにしたのです。
更に、役座は、仏教ビジネスの賭博・売春・高利貸しを、庶民に対しておこなうことにより、その結果として、役座と繋がる山奥の源氏武士末裔の暮らし向きは、照り輝くばかりであったのです。
ここで疑問を持つひとが現れるのです。その疑問とは、何故、仏教組織が、高利貸しは理解できても、「賭博・売春」をおこなっていたのか、と言うことです。
賭博・売春は、現在の法律では「悪」のビジネスと決め付けられていますが、古代では、賭博・売春は、宗教施設内でおこなう「神事」だったのです。
その賭博とは、宗教儀式の「占い」から派生したものなのです。将来を見極めることができないのが人間です。そこで、将来を占うことを専門としたひとが現れるのです。宗教施設内でその占い師は、ひとびとの将来だけではなく、国の将来までも占っていたのです。
しかし、未来を見通す能力がないことがバレた占い師は、「占い」から未来の出来事を当てる、「賭博・ゲーム」を考え出すのです。つまり、「宗教占い」から派生した賭博は、未来を予測する知的ゲームとなったのです。ですから、徳川家康の時代までは、未来の出来事を予知できる有能な賭博師は、ひとびとから畏怖されていたのです。(現在でも、株式バクチの名人は、株価の預言者となり、ビジネス誌で金儲けの神様扱いです。)
戦国末期から江戸初期、エドから京までの軍事道路の運営管理費を、徳川家康が一文も払わなかったのは、役座が仕切る賭博・売春・高利貸しでまかなっていたからです。(東京都の財政に苦しむ都知事が、お台場ギャンブル化構想を計画しているのは、徳川家康の財政手法そのままのようです。)
では、売春はどうでしょう。売春は、江戸時代の遊び人が、遊郭に行くことを、「宮参り」「観音様を拝みに行く」「お篭りする」と言っていたように、古代の売春は宗教施設内でおこなわれていたのです。それは、「聖婚」と言われていたのです。そして、相手をする聖婚者は、地母神、聖母マリア(古代エジプトの地母神イシスが、キリスト教に導入されて聖母マリアと変身した。キリスト聖書物語では、キリストの母。)、比丘尼、巫女などと呼ばれていたのです。
因みに、日本国で、売春が法律で禁止となったのは、1945年太平洋戦争敗戦後、1946年GHQの指導による売春禁止法からです。
古代オリエントでは、ジクラッドの聖殿、バベル塔の聖殿で、「聖婚」はおこなわれていたのです。聖殿とは、外界から隔離された所で、それは「エデンの園」であり、古代バビロニア語では、「ハレム」といわれていたのです。大乗仏教も、キリスト教と同根ですから、「エデンの園」はあったのです。その名は、「内道場」です。それらの聖殿で、生殖とは関係なく、不特定多数のひと達が、神と交わるために「聖婚」をおこなっていたのです。その聖婚の管理者とは、宗教者であることは言うまでもありません。
645年突然日本列島史に現れた藤原氏が、天皇の取り巻きとなって、現在に至っているのは、その「聖婚」儀式を管理していたからです。
672年唐軍に支援された近江・百済亡命政権を倒した新羅系大海人皇子は、日本列島初の天武天皇となり、その王権の正当性を示すため、大嘗祭をとりおこなうのです。大嘗祭とは、天皇が行う秋の収穫祭などではなく、太陽が再生する日である冬至(ミトラ神復活の日)におこなう、前政権の王権を、天神を媒介として、地神(天皇)に引き継ぐ道教の流れを汲む儀式で、その儀式は一世一代であったのです。
しかし、686年天武天皇が崩御すると、そのお后を持統天皇として、藤原不比等は、大嘗祭を変革してしまうのです。その変革とは、天皇が行う宮廷の儀式を、一代一度の大嘗祭と毎年おこなう新嘗祭に分けたことです。
そして、奈良末期になると、やがて、大嘗祭は、唐風・陰陽道(道教が変身したもの)などの儀式を取り入れて、道教色がなくなってしまうのです。更に、亡命百済政権の平安時代半ばには、その大嘗祭はおこなわれなくなり、大嘗祭が復活するのは、1868年明治天皇からなのです。
では、その大嘗祭の儀式がおこなわれなかった期間は、どのような儀式をしていたのでしょうか。それは、錬金術師空海が発明した秘印をむすび、ダキニ天(インド・ヒンズー教の鬼女が変身した神)の真言(アラム語の呪文)を唱えていたのです。
つまり、七世紀末、天武天皇が始めた宮廷儀式は「道教風」であったのが、平安時代から江戸末期まで、百済系天皇家は「神仏混交儀式」で、宮廷儀式をおこなってきたのです。ですから、百済系天皇家の菩提寺である泉涌寺では、道教儀式を貴んだ天武天皇家の位牌を全て排除しているわけです。それは、道教と仏教とは、中国大陸で死闘を演じた仲であったからです。(446年中国・北魏の太武帝による仏教弾圧は、仏教が「内道場」などにより風紀を乱した、との道教の密告が原因と言われる。この北魏の仏教弾圧により、200万人とも言われる仏教僧が北魏を追われ、その一部が、朝鮮半島を経由して、六世紀に日本列島に渡来した。)
では、毎年宮廷でおこなわれる新嘗祭では、何がおこなわれていたのでしょうか。それは、新嘗祭の儀式後、天女に似せた衣装を着た若い「藤原の女」が、天皇・貴族の前で、五節舞の踊りをおこなっていたのです。
この藤原氏による五節舞の儀式は、インドのバラモン教の儀式と似ていたのです。そのバラモン教の儀式とは、王族達の前で、裸同然の若い女達が舞いをおこなっていたのです。「踊り」とは、男捕り(おどり)と言われているように、男の情念を刺激します。その儀式が終わると、気に入った舞姫を、王族はお持ち帰るのです。その舞姫の儀式を管理することにより、バラモン僧は、インドの王族を支配していたのです。
ここで疑問が起こるのです。それは、道教の流れを汲む神農様を祀る反仏教の役座が、道教を貴ぶ天武天皇と血の繋がりのない、仏教儀式の祭祀者である百済系天皇を、何故崇拝し擁護するのか、ということです。
その謎は、1868年の「明治維新」といわれる、イギリス秘密結社が支援する革命にあったのです。イギリス秘密結社のメンバーと言われる武器貿易商人グラバーは、イギリス秘密結社と薩摩・長州との仲介者となり、幕府政策不満下級武士や賎民をあつめ、明治革命の手先とするのです。その中心国の薩摩・長州は、戦国時代、イエズス会との繋がりがあったのです。そして、薩摩と長州に武器弾薬を売り込むグラバーの手先が坂本竜馬で、後に、イギリス秘密結社による日本列島侵略の秘密を知りすぎ、幕府公安警察をつかさどる賎民出身の勝海舟の手先でもあったため、坂本竜馬は、結社員により暗殺されるのです。
因みに、明治維新という革命では、第三百済王朝の江戸幕府には、フランス秘密結社が軍事援助をしたのです。つまり、明治維新とは、見方を変えれば、戦国時代のイエズス会の日本列島侵略政策の続きで、イギリス秘密結社とフランス秘密結社との日本列島争奪戦争でもあったのです。
慶応三年(1867年)12月9日、王政復古の大号令が発せられたのです。イギリス秘密結社が提供する最新式銃や機関銃により、戊辰戦争に勝った薩摩・長州を中心にする勢力は、その革命の正当性を示すために、七世紀に藤原氏が、685年天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、その後、発明した天照大神と、血統において繋がるとされる天皇の宗教的権威にもとめたのです。
その前例として、672年近江・亡命百済王朝を倒した新羅系天武天皇は、伊勢神宮を創建し、その革命の正当性を示すために、北極星(太一)を祀る道教儀式により、大嘗祭を発明して、前王権から王権を受け継いだとされる例が、日本列島史にあったからです。
そこで、明治新政権は、それまでの百済系天皇家の錬金術師空海が発明した仏教式・唐制風儀式を廃止することになるのです。その結果、明治新天皇がおこなう儀式は、十三となるのですが、元禄元年(1688年)に復興されて以来続けられてきた藤原氏が仕切る五節舞をおこなう新嘗祭と、藤原氏が仕切る伊勢神宮の祭祀をとりいれた神嘗祭を除いた、十一の祭祀は、古代飛鳥ヤマト時代から続くものではなく、すべて明治維新の後に、新発明された儀式であるのです。
明治維新とは、天皇だけではなく、藤原氏の政治復活でもあるわけです。ここに645年に日本列島に突然現れた藤原氏の歴史が、明治維新により復活するのです。
645年オリエント文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝を倒してから明治維新までの藤原氏は、794年唐進駐軍に支援された百済系桓武天皇により奈良の都に封印されて以来、平安時代の907年桓武天皇家を支援した唐滅亡後の藤原氏による摂関政治時代、戦国武将の豊臣秀吉をイエズス会から寝返らせて傀儡関白とした時代を除くと、政権の中枢から外れ、南九州島津荘で中国大陸と密貿易をしながらくすぶっていたのです。
明治維新で復活した藤原氏は、古代飛鳥ヤマト政権を乗っ取った手法を、再びおこなうのです。宿敵天武天皇が崩御した後、701年藤原不比等は、大宝律令を発して、豪族の所有地を天皇に拠出させ、そして、その土地を再び天皇から豪族に与える、というトリックを考え出すのです。これにより、全国(近畿一帯)の土地を支配する天皇を、藤原氏が「藤原の女」を使ってコントロールすることにより、各国の豪族を支配できることになるのです。
藤原氏(近衛家)が支配する薩摩・島津家が暗躍する明治新政府は、明治二年(1869年)に、各地に教論書を頒布するのです。その内容は、「天皇が天照大神の子孫である。土地と人民はみな天皇の所有となる。天皇は日本国の父母であり、人民はその赤子である。」、とあるのです。
このような、藤原氏だけに都合の良い「詔」に対しては、明治革命により突然現れた明治天皇など知らない多くの人民は黙っていたわけはありません。そこで、その詔に反発する人民を黙らすため、明治新政府は、ペルシャ平家の反逆者を黙らす手法を使うのです。その手法の手先として、役座組織が利用されたのです。
平家が、平清盛より三代先の正盛以前の出自が不詳により、そして、「牛祀り・祇園会」などのアラブ・インド色の強い文化を持っているため、百済亡命平安貴族より賎民視されていたのが、三代目平清盛が、1167年太政大臣となり、権勢をほしいままにできたのは、白河上皇のご落胤の威光だけではなかったようです。
それは、赤い直垂を着る「六波羅殿の禿・かぶら」と言われる、平清盛に忠誠を誓う童形の秘密結社メンバーの働きによるところが大きかったからです。古来、赤い衣を着るのは、フェニキアの国際海洋民族の風習であるのです。平家の出身地の伊勢には、古くからアラブから国際海洋貿易商人が渡来していたのです。672年の壬申の乱でも、新羅系大海人皇子を支援する、伊勢の軍勢は、赤旗を掲げて、百済亡命近江王朝に攻撃を仕掛けていたのです。
その「六波羅殿の禿」は、都の隅々まで探索し、平家の悪口を言っている者がいると、その者の家に集団で押し入り、家屋を破壊して、口封じをしていたのです。
では、その「六波羅殿の禿」の「六波羅」とは何を意味していたのでしょうか。六波羅の地は、賀茂川の東に位置し、そこには上流から死体が流れ着くところで、「髑髏ヶ原」と呼ばれた葬送の地であったのです。その「髑髏ヶ原」が、「どくろが原」→「ろく原」→「六波羅」と変化していくわけです。その平家の都・六波羅は、源平合戦で勝利した源氏武将を謀略で抹殺した桓武平氏・北条鎌倉幕府の、反体制の源氏残党狩りのための施設である「六波羅探題」となるわけです。そして、源頼朝を暗殺して政権を乗っ取った北条政子は、源氏の神を祀る八幡神社から、平家の神を祀る厳島神社に祀り処を代えることにより、平家の歴史も乗っ取るのです。これらのことにより、後の人は、平家を「伊勢平氏」などの「姓」を創作して、平家も平氏も同族だとしてしまうわけです。
では、平家と言わず、その後、平家を倒し隆盛した源氏も、地獄谷と言われた鎌倉盆地の葬送地を根城としたのは何故でしょうか。それは、平家も源氏も、百済系平安王朝から敵視されていたからです。
794年唐進駐軍に支援された百済亡命貴族出身の桓武天皇は、奈良王朝の儀式とは異なり、唐の儀式により天皇の詔を発したように、百済の敵国であった新羅の末裔である源氏は、中央政権から追放され、農地以外の辺境の地へ追いやられていたのです。
平安王朝を支援する唐進駐軍は、北東アジアを支配していた、そして、飛鳥ヤマト蘇我王朝を支援していた突厥帝国を、630年に散逸させると、日本列島の陸奥に残存する突厥帝国軍残党狩りをおこなうわけです。その陸奥国侵略の過程で、京から関東平野までが、平安王朝の支配下となり、それらの農耕地に適した肥沃な地には、百済系の農耕民が移住させられ、その管理に百済系桓武平氏があたっていたのです。
それらの桓武平氏末裔には、秩父氏、千葉氏、上総氏、三浦氏、そして、北条氏がいたのです。その桓武平氏の北条氏が、源平合戦で源氏の源頼朝を担ぎ、蝦夷軍の棟梁である源義経の活躍で勝利するわけです。つまり、源平合戦とは、赤旗の「平家」対白旗の「源氏+平氏」であったのです。
ですから、百済系平安王朝から敵視されていた平家も源氏も、葬送地以外の肥沃な平地には住めなかったのです。そのような穢地から成り上がった者には、上流階級から悪口を言われるのは昔も、今も同じです。そこで、前政権に反感を持つ賎民を使って、成り上がり者に対して悪口を言う者に、組織的暴力で口封じをおこなうのです。
1868年明治革命での主役である薩摩・長州藩は、譜代大名ではなく、外様大名が統治していた藩であったのです。外様大名の藩には、いつ寝返るかも知れないため、その動向を探る施設のひとつとして仏寺を多く設置していたのです。
薩摩藩の前身は、鎌倉初期に源頼朝より秦氏末裔惟宗氏が、藤原氏の島津荘を乗っ取った地であったのです。ですから、薩摩藩には、平安時代に仏教組織にイジメられていた秦氏の末裔が多く暮していたのです。
長州藩の前身は、戦国大名毛利氏の支配地です。毛利水軍は、戦国時代末期東洋一と言われる国際都市大坂を守る秦氏末裔の賎民軍団に対して、大坂の地の支配を目論むイエズス会が軍事的支援をし、最新装備をした織田信長軍団との十年にも渡る一向宗との宗教戦争では、武器弾薬・食料を供給していたのです。この大坂十年戦争は、織田信長軍が、賎民軍団との休戦条約を破ることにより勝利するわけです。「織田信長の本能寺の爆殺」後に天下を執った関白豊臣秀吉が総監修した「信長公記」では、織田信長軍の攻撃を十年も持ち堪えた秦氏末裔軍団の砦を「えったヶ城」として蔑んでいたのです。
そのように薩摩・長州藩は、百済亡命王権より賎民として落とされた秦氏末裔と深い関係のある藩であったのです。1864年蛤御門の変の後、第一次長州征討に破れた長州藩では、高杉晋作が率いる奇兵隊が、正規軍に代わり主導権を得て、鳥羽・伏見、そして、戊辰戦争で活躍するわけです。
では、長州藩の正規軍ではない、その奇兵隊とは何でしょうか。それは、幕府の政策に不満を持つ下級士族と穢多と言われる賎民との混成部隊であったのです。
穢多は、北条鎌倉時代より王権・庶民から賎民視されていましたが、江戸浅草の穢多頭弾左衛門が、穢多身分ながら大大名並の生活をしていたように、表向き土地を所有できないため、商業・技能職・芸能職で暮しを立てていたため、「銭」の蓄財知識があったのです。長州藩の賎民達も、自ら蓄財した銭で、武器商人グラバーが捌く最新式銃弾薬を買い求め、騎馬民族差別思想を粉砕するための倒幕を目的に、奇兵隊に参加していたのです。
そのような賎民軍隊に敗れた幕府の庇護の下にあった仏教組織は、危機感を募るのです。その予感は、1868年太政官布告神仏分離令により、現実のものとなるのです。
騎馬民族末裔、賎民部落出の徳川家康の威光が消え、百済の血が流れていると言われる三代将軍徳川家光より始る、騎馬民族末裔抹殺のための檀家制度・寺請制度をもとに、幕藩権力の一翼を担っていた仏教寺院は、平安時代より仏教思想により長い間苦しめられていた騎馬民族末裔の反感を、一気に受けるのです。
その賎民のエネルギーを、明治新政府は、王政復興の虚構物語キャンペーン支援に利用するのです。その王政復興のトリックとは、日本神道は仏教伝来の後に日本列島に現れたのに、そして、神社は仏寺の後に日本列島に創建されたのに、「日本列島古来の宗教は神道である。外来の仏教は破棄せよ。」、とするのです。実際は、仏教伝来の前には、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、道教と景教とが存在していたのです。
明治維新以前の神道は、平安時代に発明された「本地垂迹説」により、神は仏の配下とされ、仏教組織に呑み込まれていたのです。その思想により、平安時代に神社は仏寺に習合されて、神宮寺となっていたのです。そして、錬金術師空海の発明した日本密教により、インド・バラモン教・ヒンズー教の神々が、○○天や○○明王などの仏像となり、仏寺に仏の化身として安置されるわけです。そしてそれらの外来の仏は、仏教組織にイジメられていた役座に牽きいれられた、そして、明治革命により開放されたと信じた賎民達により、破壊されていくわけです。
1868年の神仏分離令に合わせるかのように、比叡山延暦寺が支配する日吉山王権現社が、役座に牽きいれられた新平民達により徹底的に破壊されるのです。これは正に、1571年戦国時代の織田信長による比叡山延暦寺焼討ちの再来です。そして、その廃仏毀釈運動に刺激された、江戸時代に幕府の手下である仏教組織にイジメられていた薩摩の人民は、藩内の仏寺を破壊尽くすのです。いかに、薩摩藩の秦氏末裔が、江戸時代に仏教組織にイジメられていたかの証明のように、その破壊された数は1616寺であったのです。
何故、比叡山延暦寺は、海洋民族賎民を先祖に持つ織田信長や穢多と呼ばれる賎民達により、眼の敵にされたのでしょうか。それは、飛鳥ヤマト時代には秦氏の支配地であった比叡山を、唐進駐軍に支援され百済亡命貴族達が乗っ取り、そして、秦氏の神ミトラを魔多羅と貶め、そして前支配者も、中国大陸から導入した仏教差別思想により、賎民として貶めイジメていたからです。そのイジメ思想の発信地が比叡山延暦寺であったのです。穢多の差別語が発明された鎌倉時代の仏教僧の多くは、その比叡山延暦寺で、肉食する騎馬民族を差別する仏法を学んでいたのです。
平安初期、百済亡命貴族が、中国山東半島から土着の神「シャンワン・山王」を日本列島に持ち込み、藤原氏の春日社に対抗して発明されたのが、「イルギ社」→「日枝社・イルギ社」→「日吉社・イルギ社」であるわけです。神仏分離令により、その日吉山王権現社が、役座の組織的暴力により、日吉神社となったのに対して、藤原氏が支配していた南都七寺のひとつである興福寺は、僧侶自ら金目の物は処分して、伽藍に火を放ち、僧侶全員が春日社の神主として変身してしまうわけです。ここに明治維新と藤原氏との謎が発覚するのです。
明治新政府樹立を企む国際組織は、用意周到に計画を進めたようです。それは、1866年薩長連合の盟約が成立すると、それに合わせるかのように江戸・大坂で打壊し騒動が同時に起こり、その翌年1867年名古屋から「ええじゃないか運動」が起こり、その群集は、平安時代より百済系桓武天皇から見向きもされなかった、そして、江戸時代の参勤交代ではその地を迂回していた、平安貴族より穢れ地とされた伊勢の神宮を目指して無銭の旅を始めたのです。
そして、神武天皇稜が人工山を改装して創作されるのと時を同じくして、江戸末期まで荒れ果てていた伊勢神宮が、明治新政府により改装され、それまであった仏教色のある建物・像は徹底的に破壊・処分されて、参道にはダビデの星が刻まれた灯篭が整然と設置されたのです。そして、新羅系天武天皇が、太一(北極星)を祀るため「伊勢の宮」を685年に創建し、初めて参拝してから千数百年後に、正式に明治天皇が、天照大神を祀るため「伊勢神宮」に参拝することになるのです。
「明治天皇の禿」の仏教組織に対する暴力の嵐は、三年後の1871年ごろには収まったのですが、明治天皇も見たこともない民間人への急速な「神道の祀り」を実施したために、神道の儀式など知らない民間人に大混乱を起こしてしまったのです。そこで、明治新政府は、天皇の民間人への「神道」のプロパガンダとして、「祭り」を始めるわけです。
明治四年(1871年)明治新政府は、廃藩置県の発令に合わせるように、大嘗会告論により、村々の人民に大嘗祭にあわせて、村々の産土神を参拝するように強く命じたのです。ここから、日本全国の村の「鎮守の祭り」が始るわけです。
その大嘗会告論のトリックは、天武天皇が発明した一世一代の政権交代の儀式であった大嘗祭を、天皇による秋の収穫祭として改竄し、日本列島全人民の産土神への秋祭りとし、その祭りの主催者として天皇を位置づけるわけです。つまり、天皇が主催する秋の産土神の祭りを、日本国全人民が祝う、という図式です。
そこで登場するのが、祭りを煽る神輿です。しかし、平安時代より神輿は、前政権の怨霊を移動させるための施設であったわけです。そして、それは、僧兵の強訴の手段のひとつでもあったわけです。移動用神社である神輿は、前政権の氏神を封じ込める施設であったのです。その神輿に乗る氏神の魂を鎮めるには、氏子が必要となるのです。
役座は、元は前政権の武人であったわけですから、役座が神輿を担ぐことは、氏神の魂を鎮めることになるわけです。そこで、祭りで役座が神輿を担ぐことになるのですが、神輿に乗る氏神は、現政権には怨霊神でもあるわけです。そこで、神社から神輿が通るところへ、神主が穢れ祓いの「塩」、キヨメの「水」を撒くことになるわけです。このことが、神輿に塩や水を撒く歴史的ルーツであるわけです。
明治初期、「明治天皇の禿」である役座の活躍により、新興神道に敵対する仏教組織は壊滅し、「天皇は天照大神の子孫」「天皇家は万世一系」「日本列島古来の神社」などの明治新政府が発明したスローガンに疑問を持つ者の口封じをしたことにより、やがて明治天皇は、現人神となっていくわけです。
明治天皇が、新人芸能人の売り込みのためにキヤラバン隊を組んで派手な宣伝カーで全国行脚するように、白馬にまたがり全国行脚のパフォーマンスにより全人民に認知され、そして、神社での神事が「祀り」から「祭り」に替わった頃、「明治天皇の禿」であった役座は、明治政府王権にとっては邪魔者となっていくわけです。そして、怨霊を封じ込めていた神社が、明治新政府の御用学者のプロパガンダにより、死者を祀る施設として人民の意識変換に成功すると、今まで神社での神事を仕切ってきた役座は、明治政府王権にとって邪魔者となっていくわけです。そして、邪魔者は、やがて王権により社会的に抹殺される運命にあるわけです。そして、村の鎮守の祭りで神輿を担いでいだ役座も、やがて、王権により神輿担ぎから排除されてしまうのです。
役座が「明治天皇の禿」でなかったならば、明治天皇は現人神になれなかったかもしれません。それは、突然明治革命で現れた天皇の存在は、民衆にとって遥か遠いものであったからです。それを証明するかのように、天皇という名称も、大日本帝国憲法が発令された明治二十二年(1889年)前には、主上、天子、天子様、帝、天皇陛下、陛下、聖上、ミカドなどと呼ばれて、統一してはいなかったのです。
役座が闇の世界から天皇の登場を支援していたとすれば、御用学者は「藤原氏の日本史」を創作することにより、真昼の世界で天皇のイメージ作りに励んでいたのです。
1886年(明治19年)東京に創設された帝国大学に、その翌年ユダヤ系ドイツ人の歴史学者ルードヴッヒ・リースが招聘されたのです。これにより日本列島初の史学科が開設されたのです。
リースが教えた歴史は、ヘロドトスの流れを汲む地中海・西ヨーロッパ的歴史観であったわけです。それは、今ある大国も昔は弱小国であった、そして、昔大国であったものが、やがて小国となったと言うことを物語るのが、その歴史観です。しかし、帝国大学の史学科では、リースの教えに反して、今までどおりの司馬遷が創った中国型の「正統史観」を主幹として、地中海・西ヨーロッパ的歴史観を枝葉としてしまったのです。
正統史観とは、誰が正統に王権を継承したかを物語る歴史観です。これにより、日本列島史は大混乱をおこすのです。それは、藤原不比等が720年「日本書紀」で創作した神代の神話が、そして、その「日本書紀」の物語を否定するために秦氏末裔多人長が、812年に創作した「古事記」(712年完成はウソ。その根拠は、多人長が、「古事記」が「日本書紀」より前に著作されたものとするために、奥付に和銅五年(712年)と記載したため。)の神話が、歴史の顔を持ってしまったからです。
それにより、日本列島の神代から天皇家が継承され続けてきた、と多くのひとが信じてしまうのです。しかし、天皇の名称が日本列島史に現れたのは、672年新羅系天武天皇が初めであるのです。
この帝国大学史学科の正統史観が、日本列島史を物語るなかで、藤原氏が創作した「日本書紀」が語る歴史を金科玉条とし、日本列島には古来から神道が存在していたとし、仏教組織が抹殺した北極星を祀る道教・太陽を祀る景教など日本列島に存在していなかったとし、役座の先祖であるオリエント渡来の秦氏末裔を賎民とし、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族・チュルク系蘇我氏を、飛鳥ヤマト時代に天皇など未だ存在していないのに、天皇殺しの大悪人としてしまったのです。
そして、役座の威圧を恐れた学者やマスコミは、明治初期から現在まで、天皇の歴史を解明することをタブーとしてきたのです。しかし、天皇の謎など何もないのです。天皇が祀る宗教を調べれば、天皇家が、天照大神の子孫でもなければ、万世一系でもないことなどは明らかとなるのです。
天皇に謎があるとすれば、それは藤原氏の謎です。つまり、天皇のタブーとは、645年日本列島に突然現れた藤原氏のタブーなのです。藤原氏の祖である中臣氏は、なか→ナーガ→古代インド語でヘビの意味で、藤原氏はヘビを祀る氏族だったのです。ですから、七世紀に藤原氏が、仏寺に対抗して開発した神社では、ヘビは守護神であるわけです。

神輿の黙示録(17)(日本列島史の謎:日本史とは藤原史のことか)



「藤」は、春の四月から五月にかけて、花を房状に垂れ下げて咲かせる、マメ科の蔓性の落葉木本です。そして、その性質は、「藤原氏」の「生き方」と酷似しているようです。
「藤」は、蔓性のため、自身では子孫を繁栄させることが出来ないのです。大木に、その蔓を樹幹に巻きつけ、天を目指し、その枝葉を広げ、美しい花を咲かせるのです。しかし、藤蔓に巻きつかれた大木は、藤蔓の枝葉に太陽光を奪われ、やがて死滅していくわけです。そして、「藤」は、その大木が死滅し、倒壊する前に、新たな大木を目指して、蔓を伸ばしていくわけです。

日本史において、藤原氏の事跡を除いたら、その物語が綴れないほど、重要な氏族であるのです。しかし、その重要性に反比例するように、藤原氏の出自が不明なのです。
ある歴史書によれば、藤原氏は常陸の鹿島出であるとしているも、その根拠が藤原氏が支配する春日社で、「鹿」が聖獣として扱われているからとしいてるため、その信憑性が疑われます。鹿をトーテムとするのは、ユーラシア大陸の騎馬民族国家スキタイです。そのスキタイの流れを汲む突厥帝国に支援されたチュルク系蘇我氏は、645年(教科書歴史では「大化の改新」と教える。)突厥帝国壊滅を目指す唐進駐軍に支援された藤原氏により滅ぼされてしまったのですが、飛鳥ヤマトで、子鹿の角から、強壮剤のロクジョを生産していたのです。そして、蘇我氏は、飛鳥ヤマトで薬草採取もしていたのです。
薬物創製業は、騎馬民族と関連があるようです。源氏武士末裔の役座が祀る「神農様」も、中国大陸では薬草学の神様なのです。因みに、騎馬民族末裔の徳川家康も、薬草学に詳しく、自らのための薬草調合だけではなく、部下の病にも、薬草を煎じていたのです。
薬草学は、加持祈祷の仏教文化隆盛の平安王朝から江戸時代まで、賎民職業の範疇であったのです。賎民しとて平安王朝以来蔑まれていた秦氏末裔の傭兵軍団である忍者も、薬草学に優れていたのは、その祖が「神農様」系の流れにあったからです。
教科書歴史によれば、藤原氏の先は祭祀氏族の中臣で、645年大化の改新で活躍した中臣鎌足が、天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族であるというのです。
しかし、その中大兄皇子から天智天皇への即位には、疑問符が付いているのです。日本初の天武天皇よりも、四歳年下の「兄・天智天皇」など存在するのでしょうか。そして、異母兄弟と言われる天智天皇(百済系)と天武天皇(新羅系)は、互いの実娘をそれぞれの側室として差し出しているのです。これは一体どういうことなのでしょうか。そして、天智天皇から中臣鎌足に「藤原姓」が下賜されたとされる「きっかけ」となった、645年の「大化の改新」の史実が、志のある学者から疑われているのです。
この天智天皇から藤原姓を賜った物語は、ヤコブが神(エロヒム)からイスラエルの名前を賜った物語と似ています。
その物語では、「旧約聖書」の創世記第三十二章の、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです。」、とあるのです。そして、不思議なことに、このヤコブがイスラエルに変名する物語が、その三章後の第三十五章に再び記述されているのです。「さてヤコブがパンダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現れて彼を祝福された。神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名付けられた。」、とあるのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。それは、サイファー式暗号解読法によれば、同じ文字・文章があるものは、「否定せよ。」、です。つまり、神から、ヤコブがイスラエルの名前を賜ったことは、「ウソ」ということです。その証拠に、その後に続く「ヤコブ物語」は、主人公はイスラエルとなっていなくて、ヤコブのままなのです。
では、藤原氏が、「日本書紀」で記述されているように、天智天皇から賜ったという物語が「ウソ」だとしたら、藤原氏は、何と名乗っていたのでしょうか。
そもそも、645年に「藤原」の姓があったのかは断定できません。それは、藤原不比等が権勢を得た後、713年日本列島各国の歴史を改竄・隠蔽する目的で、風土記撰上の詔を発したと同時に、それまでの中国式一文字の姓名表示を、日本語化する目的の好字令により、二文字に改めたからです。
713年以前では、二文字よりも、中国式一文字表記のほうが、カッコ良かったのです。ですから、奈良時代となっても唐進駐軍が勢力を保っていたため、藤原氏は、公式には「籐氏」と名乗り、権威付けの書籍に「籐氏家伝」としたわけです。
では、645年の飛鳥ヤマト政権の蘇我王朝を革命で倒した「藤原氏」は、誰により、どのような姓を賜ったのでしょうか。推測できるのは、唐進駐軍より、唐→トウ→籐の姓を賜ったのかもしれません。
唐進駐軍は、630年北東アジアの宿敵、飛鳥ヤマトの支援国、突厥帝国を散逸させ、その残存勢力を滅するために、645年飛鳥ヤマトに進駐してきたのです。藤原氏の祖は、南海の海洋交易商人であるわけですから、中国唐軍を、藤原氏の外洋船で渡海させた功績により、「籐姓」を賜ったのかもしれません。
その史実を確認できないのは、645年の革命で、藤原氏により、前政権の書籍が焚書されてしまったからです。そのことを隠蔽するために、「日本書紀」で、「天皇記・国記は、蘇我氏により焼失」、とするのです。
謎の多い藤原氏ですが、現在の「藤原さん」とは、ほとんど関係はありません。藤原は「姓」であり、藤原氏が権勢を誇っていた平安時代は、本姓の藤原氏を公で名乗っていたのが、百済系桓武平氏末裔の北条鎌倉幕府になると、藤原氏の荘園で、アラブ・インド・中国大陸との国際交易地である南九州の島津荘が秦氏末裔惟宗氏に乗っ取られ没落したため、その末裔は、近衛、一条、二条、九条、冷泉、鷹司などの家名を名字としていたのです。では、現在の「藤原さん」の名字はどうかと言うと、それは、1870年(明治3年)平民の苗字使用の発令により命名した「苗字」であるわけです。ですから、貴族の家系において「藤原さん」は、存在しないのです。
では、藤原氏は、何ゆえに「中臣」から「藤原」に変名したのでしょうか。藤原氏が、祭祀氏族の中臣氏を快く思っていないことは、中臣鎌足の子とする藤原不比等が、新羅系天武天皇崩御後に権力を握ると、藤原氏を太政大臣とし、中臣氏を神祇官とし、その神祇官の中臣氏に藤原姓を名乗らせなかったからです。
奈良時代では、神祇儀式といっても、明治時代に発明された日本神道祭祀儀式などではなく、中臣のナーガから推測すれば、インド風祭祀儀式をおこなっていたのでしょう。
六世紀に、南インドのユダヤ・キリスト教のコロニーがあるマラバル沿岸から、ヘビをトーテムとする祭祀氏族と伴に、大型外洋船により南九州坊津に渡来した部族は、日本列島での、朱砂・医薬物の国際交易地の飛鳥ヤマトの三輪山麓のツバキ市の支配を目指して東進するわけです。
藤原日本史では、そのツバキ市がある四世紀のヤマトには、大和王朝が存在していたと言うのです。その根拠のひとつとして、近畿ヤマトには、巨大古墳が存在していたから、と言うのです。そして、その巨大古墳が、日本国歴代の天皇の墓であると言うのです。
しかし、四世紀以降、岩手県以南の日本列島には、巨大古墳は多く存在していたのです。岩手の古の陸奥国が、百済亡命王朝末裔に完全に征服されたのは、「鎌倉時代」であるのです。四世紀の陸奥国は、飛鳥ヤマトとは異なる騎馬遊牧民族による、独立国であったのです。つまり、四世紀から日本列島全国いっせいに築造された、前方後円墳の相似形古墳は、大和王朝の天皇の墓などではないのです。その根拠として、日本国を建国したと言われる、紀元前660年に即位したと伝わる神武天皇の墓である古墳は、江戸時代末期から明治初期にかけて創建されたものであるからです。
と言うことは、四世紀に大和王朝が存在していたと言うのは、藤原氏が創作した「日本書紀の世界」だけの出来事であったようです。
四世紀のヤマトは、三輪山を拠点とする先住民と、国際交易地のツバキ市の支配を目論む渡来の高句麗・百済・新羅進駐軍との戦いの時代であったのです。その地を支配したのは、六世紀、北東アジアを支配した、東アジアを支配する唐軍壊滅を目指す突厥帝国から派遣された騎馬民族「蘇我軍」であったのです。蘇我軍は、大陸より持ち込んだ騎馬軍団の軍事力により、高句麗・百済・新羅の進駐軍を支配下に置いたのです。
「日本書紀」では、この渡来蘇我騎馬軍団によるヤマト侵攻、そして支配を隠蔽・改竄する目的で、536年(宣化天皇元年)の条で、「又蘇我稲目宿爾を以って大臣とす」、と記述しているのです。実際の蘇我稲目は、大臣どころか、飛鳥ヤマトの征服大王であったのです。
藤原日本史で理解できないことのひとつに、何ゆえに、突厥帝国が支援する騎馬民族により構成された、そして軍事要塞化都市飛鳥ヤマトにより守られていた蘇我王朝が、645年に簡単に滅びたのか、と言うことです。飛鳥ヤマトには、幅十二mの軍事道路が張り巡らされて、その軍事道路の要所要所には、蘇我稲目が設けた「ミヤケ」の軍事施設があったのです。その防衛施設は、唐軍の侵攻を想定して、瀬戸内海の要所には、「ミヤケ」を多く設置していたのです。
馬は、今でこそ、乗馬や競馬などの娯楽で利用されるだけのようですが、古代の馬は、軍事で言えば、ジエット機や戦車に匹敵する「最強軍備品」であったのです。平安時代、唐進駐軍に支援された百済系桓武天皇軍の数万から数十万の陸奥国侵略軍は、騎馬民族末裔の蝦夷軍団の数百を壊滅できなかったのです。
古代では、軍馬一騎は、歩兵数百に匹敵するほどの「ハイテク武器」であったのです。結局、陸奥国の蝦夷軍に軍事力では勝利できなかった平安王朝は、801年金髪の坂上田村麻呂による蝦夷軍棟梁のアテルイを騙し、京で惨殺すことにより、頑強に抵抗する蝦夷軍を滅したのです。
そのような騎馬軍団の最強軍事装備で固めた蘇我王朝が、唐進駐軍と藤原氏により簡単に崩壊したには、何かの仕掛けがあったのでしょう。その仕掛けとして考えられるのが、遣隋使船と遣唐使船です。
教科書歴史では、それらの遣隋・唐使船の目的は、海外情勢や中国隋・唐の先進技術や仏教経典等の収集とされているのです。しかし、この使節団を送り迎えする船の構造に疑問があるのです。
先進国から文化・先進技術・製品等の収集が目的ならば、その航海の安全性が重要視されるのが常識です。しかし、その船は、小さな嵐でも転覆するような、外洋船には竜骨を用いた構造であるのに、それを無視した、内陸の河川を航行するために建造された平底の箱型船であったのです。更に、不思議なのは、外洋船は釘を使い、浸水防止のためにタールを塗るのが常識なのに、その船には殆んど釘が使われていなくて、木組みの構造であったのです。これでは、小嵐でも転覆してしまいます。
更に不思議なことに、この遣隋・唐使船の運行方法です。その運行方法は、予め転覆を予測しているかのように、二隻ないしは四隻編成であったのです。
船の構造と運航方法から推測すると、その遣隋・唐使船は、先進国から文化・先進技術・製品等を収集するためではなく、ある目的のために運行していたように感じられます。そのある目的とは、敵対勢力の合法的な暗殺です。
この推測が可能なのは、894年藤原王朝により、菅原道真が遣唐使に任ぜられたのが、その反対に、宇多天皇に寵愛された菅原道真により、遣唐使の事業が廃されてしまった事件があったからです。その背景は、887年始めて関白となった藤原基経の政策に反対する、菅原道真を疎ましく思った藤原氏は、菅原道真を合法的に暗殺する計画を意図したのです。それが、菅原道真への遣唐使の任であるわけです。しかし、菅原道真は、新羅商人より情報を得ていたのです。それは、菅原道真が乗る遣唐使船は転覆する構造であると言うことです。遣唐使船により無事に唐にたどり着いた者は、帰りは新羅商船で帰朝していたのです。
日本列島から中国大陸への渡海が困難であると言うのは、「ウソ」です。それは、藤原氏が関わる渡海のみ当てはまることです。
607年飛鳥ヤマトの蘇我王朝は、隋に小野妹子を遣わすのです。その翌年小野妹子は、隋使裴世清と伴に帰国し、飛鳥ヤマトの都に、難波から河川を利用して底平の河船により、来朝し、そして、隋使裴世清はそこで男王(蘇我馬子)に謁見するのです。そして、その年に再び小野妹子は、隋使裴世清を隋に送り届け、609年帰朝するのです。このことからも、日本列島から中国大陸への渡海が、死を賭すほどのことではないことが理解できるでしょう。
外洋航海の技術は、地中海・インド洋西域では紀元前1500年には海洋民族フェニキアにより開発されていたのです。東アジアでも、紀元前三世紀、秦の始皇帝を騙した徐福は、童男女2000名と軍団・技術者を百隻の大型外洋船に搭乗させ、東の蓬莱国(日本列島と言われる。)に向けて、中国山東半島から船出していたのです。更に、五世紀の北魏の時代、僧法顕は、洛陽から陸路でインドへ旅し、411年南インドから海路で中国山東半島まで二年足らずで帰朝しているのです。
第十八次の遣唐使船で、唐に渡った最澄は、八ヶ月足らずで帰朝しているほどです。それから推測するには、遣隋・唐使船には、意図して転覆する船と転覆しない船とがあったように推測されます。
第一次遣唐使船は、645年蘇我王朝壊滅の15年前、630年の犬上御田鍬の派遣により始ったのです。この年は、東アジアでは、唐により、飛鳥ヤマト蘇我王朝の支援国、宿敵東突厥帝国が散逸されていたのです。唐は藤原氏と企んで、蘇我王朝壊滅の「仕掛け」を練ったのです。それが、平安時代の藤原氏の宿敵菅原道真の遣唐使としての暗殺計画と同じに、630年の第一次遣唐使による、蘇我王朝の次世代を合法的に抹殺するための陰謀です。この第一次遣唐使船には、飛鳥ヤマト蘇我王朝の明日を担う、多くの優秀な若者達が乗船していたことでしょう。
この陰謀渦巻く遣唐使船と藤原氏との関係は、天武天皇崩御後、藤原不比等が女帝持統天皇、そして文武天皇を傀儡として権勢を誇ると、702年第八次遣唐使船は、それまでの北九州からではなく、南九州の坊津から船出しているのです。その坊津とは、藤原氏が南インドから、日本列島初の渡来地であったのです。
この南九州坊津(津とは大船が接岸できる港のこと。)は、平安時代には、藤原氏の荘園である島津荘の港として栄えたのが、秦氏末裔源氏の源頼朝の鎌倉幕府により、島津荘が秦氏末裔惟宗氏に乗っ取られると、そのアラブ・インド・中国大陸との海洋国際交易の港は、坊津から種子島に移されるのです。
その種子島は、インド洋からマラッカ海峡を抜けて、黒潮に乗ると、海流コンベアーにより自然とたどり着けるため、平安末期に政権を軍事武力で奪取したペルシャ平家である平清盛により、南海交易の中継拠点として占領されてしまうのです。
そして、戦国時代では、この種子島は、藤原氏の密貿易地として、イエズス会に同伴したポルトガルの武器商人から入手した銃弾薬の中継地となるのです。その銃弾薬は、種子島→雑賀→根来寺→本能寺へと運ばれ、戦国大名達に売りさばかれていくのです。その銃弾薬の京での貯蔵所である、約200m先にあるイエズス会の南蛮寺と地下道で繋がれた本能寺で、織田信長は、イエズス会の使者により「爆殺」されるのです。
その織田信長爆殺には、爆殺前夜に茶会を本能寺で開催した、キリシタンの千利休が関わっていたようです。そして、織田信長が爆殺された直後にたどり着いた明智光秀軍団は、織田信長暗殺の主犯として、イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉の総監修による「信長公記」に、「敵は本能寺!」の名セリフを記述されてしまうのです。何故、明智光秀軍団が、夜陰にまぎれて本能寺を目指したのかと言うと、前日に織田信長から、朝廷を脅す「馬揃え・軍事パレード」をおこなうための書状を受けていたからです。
更に、藤原氏による種子島密貿易は、鎖国時代の江戸時代末期まで続き、その密貿易船には島津氏(=藤原氏)の船であることを示すために、後の日本国の国旗となる「日の丸」がはためいていたのです。そして、関八州の役座・アウトローを支配する穢多頭弾左衛門と同じマルタ・クロスを家紋とする秦氏末裔島津氏の薩摩藩を中心として、イギリス秘密結社のバックアップにより、明治革命に至るのです。
その秦氏末裔島津氏の薩摩藩は、奈良時代から江戸時代末期まで、実質は、藤原氏の支配地であったのです。明治革命に成功した藤原氏末裔は、1886年(明治19年)東京に創設された帝国大学に、その翌年ユダヤ系ドイツ人の歴史学者ルードヴッヒ・リースを招聘し、日本列島初の史学科を開設し、日本史編纂をおこなうのです。
その「藤原日本史」のハイライトは、中臣(藤原氏の祖)が、オリエント文化の蘇我王朝を乗っ取った、645年の「大化の改新」です。
しかし、「大化の改新」は史実ではなく、新羅国の政変革命(比曇の乱)を借用して創作された物語であるのです。この「大化の改新」を史実とするために、藤原氏編纂による「日本書紀」が活躍するのです。
645年の革命で、蘇我王朝を倒した中臣は、四世紀ローマ帝国でおこなわれた事を、飛鳥ヤマトで実行するのです。
392年ローマ帝国の国教となった、ユダヤ教の一派であるキリスト教(「ヨシュアはメシア」をギリシャ語にすると、「イエス・キリスト」)は、ローマ帝国で広く信仰されていた、太陽神ミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡にキリスト教教会を建設し、ミトラ教関係の書籍を焚書し、ミトラ神再生日である冬至の「12月25日」を、キリスト誕生の「クリスマスの日」とし、ミトラ神のシンボルであるマルタ・クロス(日輪)をキリスト磔の十字架とし、それらをキリスト教に取り入れ、ローマ帝国でのミトラ教の歴史的存在を抹殺してしまうのです。そのキリスト者の、完璧なミトラ教隠ぺい工作により、後のひと達は、キリスト教以前に、ミトラ教がローマ帝国に存在していた史実を知ることができないのです。このローマ帝国での隠ぺい工作と同じことが、日本列島のオリエント文化の飛鳥ヤマトで、中臣(藤原氏)によりおこなわれたのです。
645年蘇我王朝を革命で倒した、唐進駐軍に支援された、南インドマラバル沿岸から渡来した中臣軍(藤原氏の祖)は、1868年(明治元年)太政官布告神仏分離令により、明治新政府に指示された役座を中心とする新平民達により日本列島全島の仏教施設が徹底的に破壊されたように、七世紀のオリエント文化を誇る飛鳥ヤマトの寺を破壊尽くすのです。そして、その破壊されたオリエント色の強い寺跡に、446年北魏の道教に敗れ、仏教弾圧で朝鮮半島経由で、北九州秦王国(後の豊国)に渡来した大乗仏教系寺を、移築するのです。
「寺」とは、一般的に「大乗仏教系仏像」を安置するための施設と考えられているようです。しかし、古代中国大陸での「寺」は、仏像とは関係のない建物であったのです。
「寺」は、音読みで「ジ」、訓読みで「テラ」です。その古代中国での「寺・ジ」とは、雑務をこなす役所のことで、後に、外国からの渡来者を取り調べる施設となり、紀元前一世紀ローマ帝国が強大になると、前漢(紀元前202年〜紀元8年)で生産される絹織物の需要がローマ帝国で急速に起こり、金と絹の重さが同じ価値となったため、ローマ帝国やその隣国のパルチア王国の国際交易商人達が、絹を求めて東進し、やがて前漢の「寺・ジ」は、国際商人達の居留施設のようになっていくわけです。
そして、後漢(25年〜220年)の頃になると、国際交易都市ガンダーラに突然現れた新興宗教の大乗仏教徒が、無数の経典と仏像を伴って、後漢の都・洛陽に渡来するのです。そして、その「寺」に大乗仏教僧が経典・仏像を伴って居留することにより、仏像の置き場所が、「寺」となっていくわけです。
しかし、「寺」の本来の意味とは、大乗仏教の仏像を安置する施設ではなく、そこは雑事をおこなう役所であり、交易商人を取り調べる関税所でもあり、国際交易の施設でもあったわけです。そして、やがて、その「寺」に付随して宿泊施設の「院」が建設されるのです。つまり、寺院とは、仏像が安置される「寺」と、ひとが宿泊する施設の「院」が合体した施設であるのです。
では、訓読みの「テラ」とは何かと言えば、それは「死者」が安置される「処」であるのです。つまり、日本列島に存在していなかった漢字と一緒に大乗仏教が渡来する以前の日本列島では、「テラ」は、「寺・ジ」ではなかったのです。
では、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、どのような「寺・ジ」があったのでしょうか。
720年に完成した「日本書紀」によれば、552年に仏教伝来としているのです。そして、百済系桓武王朝の平安時代に改竄された仏教伝来物語では、538年百済の聖王が仏像と経典を大和朝廷に献じた、とあるのです。そして、仏教伝来物語で不思議なのは、大和王朝の大臣である蘇我稲目が、仏教信仰に賛成したことにより、日本列島に仏教が普及するようになった、と説明しているのです。
しかし、その説明には納得がいかないのです。それは、蘇我稲目は、538年少し前に日本列島史に突然現れた渡来人物であるからです。更に納得がいかないのは、645年蘇我王朝を倒した年に、仏教興隆の詔を発しているのは何故なのでしょうか。「仏教推進者の蘇我王朝を倒した後の、仏教興隆の詔」、藤原氏の仏教伝来物語には深い謎(ウソ)が隠れているようです。
古代史の書籍を読む時に気をつけなければならないことのひとつは、国の概念です。1776年のアメリカ合衆国の建国までは、世界史には、「国民国家」など存在していなかったのです。その国民国家とは、国民が主体で運営する国家で、国民軍により国境を守り、国民国家としての固定した国境が存在するのです。
しかし、それ以前の国家とは、軍事力に優れた部族が、他の部族の支配地を武力で奪い、その被征服民を奴隷として使役していたのです。ですから、固定した国境などないため、古代国家を運営する王族は、軍事力を増すために、軍事力にすぐれた外国の異民族の傭兵軍団を組織し、経済を盛んにするために国際交易商人の活動を保護し、そして、奴隷としての被征服民が反乱を起こさないよう、従わすために、宗教力を利用したのです。
その古代国家の代表例が秦国(紀元前221年〜紀元前206年)です。秦の始皇帝による軍隊は、エジプト系、騎馬戦車のスキタイ系、長槍歩兵のローマ軍系、弓馬のチュルク系、腰弓のツングース系などの各国の傭兵軍団の寄せ集めです。そして、国際交易を盛んにするために度量衡制、貨幣制を定めた結果、秦国の経済は隆盛し、ローマ共和国、マケドニア王国、エジプト王国、パルチア王国などの国際交易商人が、秦国に交易に訪れていたのです。そして、秦の始皇帝の不老不死の神仙思想崇拝が昂じた結果、道士の徐福に騙されて、莫大な財産を宗教儀式に散財したために、優秀な部下に疎まれることにより、紀元前206年三世皇帝子嬰の時には、秦国は滅んでしまうのです。中国を始めて統一した秦国は、15年で歴史から消えてしまうのです。
古代国家をうまく運営するには、傭兵軍の調達、国際交易商人との良好な交易、そして、異民族・被征服民を屈服させる宗教力が必須なのです。
藤原日本史によれば、四世紀の飛鳥ヤマトには、強大な大和王朝が存在していたようです。そして、その大和王朝の二十九代欽明天皇の時代に、552年仏教が伝来したことになっているようです。そして、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との親子二度にわたる神仏戦争により、崇仏派が勝利し、日本列島の飛鳥ヤマトに仏教が導入された、ということです。
では、552年以降の神仏戦争で、「仏教」に敗れた「神」とは何なのでしょうか。一般的概念では、その「神」とは、神道の「神」と思われているようです。しかし、日本神道の渡来は、645年唐進駐軍と中臣軍とによる蘇我王朝壊滅後であるのです。その日本神道の始めは、中臣氏による、ユダヤ教儀式と多くの共通点がある中臣神道なのです。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。
そうなると、仏教渡来以前には中臣神道など存在していなかったわけですから、552年以降二度にわたる蘇我氏と物部氏との神仏戦争とは、何を物語っていたのでしょうか。
キリスト者に抹殺されたミトラ教の存在を知らしめたのは、キリスト者が徹底的に破壊したと思われた、破壊されたミトラ教の地下神殿の存在でした。歴史書には全く記述されていないミトラ教は、ローマ帝国内のキリスト教の教会の地下神殿に眠るミトラ教の痕跡を発掘されたことにより、ローマ帝国内でのミトラ教の存在が証明されたのです。
では、飛鳥ヤマトではどうでしょう。飛鳥ヤマトを中心に発掘された遺跡の数々は、中臣神道では説明できないものばかりなのです。何に使用されたか分からない巨大石物群、石を敷き詰めた噴水のある庭園、石を敷き詰めた幅十二mの直線道路、石を敷き詰めた堰、ガラス工場跡、富本銭製造工場跡、大運河跡、石造りの宗教祭祀場跡などなどです。これらの「石の文化遺跡」を飛鳥ヤマトに残した民族は、何処から渡来して、何処に消えてしまったのでしょうか。
藤原日本史では、それらの遺跡の謎を解明できないでしょう。と言うのは、「日本書紀」には、その遺跡群が造築される前の三世紀後半から、日本列島に登場した古墳群、更に四世紀の古墳から馬具が発掘されたことを知るための記述が、全くないからです。
更に、歴代の天皇の墓であると主張する畿内にある巨大古墳の築造記述も、「日本書紀」には全くないのです。ですから、藤原日本史で言うところの、日本国初の神武天皇稜などは、「日本書紀」にその記述がないため、その場所を特定することが出来ないため、自然丘を人工山で覆い、江戸時代末期から明治時代初期にかけて創造されたのです。
飛鳥ヤマトの遺跡と、藤原氏の仏教伝来物語の神仏戦争の記述を基に、その飛鳥ヤマトの「神」を特定するとすれば、巨大運河、幅広の直線道路、巨大石造物、巨大古墳を造る技術を持った民族の「神」と推測されます。そして、その民族は、鉄器を発明したヒッタイト帝国末裔が考えられます。それは、それらの造築物を造るには、鋼鉄工具を制作する技術が必要であるからです。
では、飛鳥ヤマトの「神」を祀る支配民族は、天皇家なのでしょうか。神仏戦争物語によれば、大和朝廷の大臣の崇仏派の蘇我氏が飛鳥ヤマト在住とすれば、敵対する廃仏派の物部氏の軍団は何処を拠点としていたのでしょうか。
藤原氏の仏教伝来物語では、神仏戦争で勝利した蘇我氏が「仏像」を祀ったところ、疫病が流行り、それに乗じて反撃した物部氏と中臣氏は天皇に直訴して、その仏像を「難波の堀」に捨てたと、蘇我稲目の第一次神仏戦争と蘇我馬子の第二次神仏戦争で、二度も記述しているのです。何故、疫病神の仏像投棄が二度とも「難波の堀」なのでしょうか。そもそも「難波」とは、いかなる歴史を持った処なのでしょうか。
難波は、712年の日本語化革命以前(713年藤原氏による、二文字の漢字の地名・人名表記の「好字令」と、地域の古代歴史を改竄するための物語である「風土記撰上の詔」により、アラム語、パフラヴィ語、ゾグド語などの国際交易商人言語が盛んに使われていたオリエント文化の飛鳥ヤマトや、ユーラシアのチュルク・ツングース族文化が渡来した日本列島各地の歴史を抹殺したのです。ですから、日本古代史は、713年以降に発明された二文字漢字表記の地名・人名では、解明できないのです。)は、「浪速」と言われていたのです。713年以前の浪速とは、「なにわ」ではなく、「ローラン」と読みます。その浪速(ローラン)は、朝鮮半島の高句麗の楽浪(ローラン)からの渡来港で、その高句麗は、シルクロード交易都市の楼蘭(ローラン)から、西域の国際交易商人が、絹を求めて訪れていたのです。
つまり、難波とは、中国大陸シルクロードから、日本列島への渡来港であったのです。その国際港の「難波の堀」に、二度も疫病神である仏像を投棄したとは、一体何を物語っているのでしょうか。
結論から言ってしまえば、藤原氏による仏教伝来物語は、「ウソ」なのです。そのウソは、その仏教伝来物語の主人公である「聖徳太子=厩戸皇子」が証明します。
平安時代、「聖徳太子」は、百済系桓武天皇王朝により、藤原氏の奈良仏教に対抗して、最澄により中国天台宗を比叡山に導入した時、中国天台宗の教義である「法華経」を、比叡山延暦寺の「教え」として日本列島に宣伝するために創作されたキャラクターだったのです。その性格や事跡は、何故かモーセ、ダビデ、ヨシュア(イエス)に類似しているのです。
藤原日本史では、厩戸皇子は、593年女帝推古天皇の摂政となり、603年官位十二階を制定し、604年憲法十七条を制定し、607年隋に小野妹子を遣隋使として遣わした、となっているようです。そして、それらの厩戸皇子の事跡をみれば、日本国の基盤を創ったのが、正に女帝推古天皇の時代であるようです。しかし、この藤原日本史は、「ウソ」なのです。それは、二つのことで証明できます。
ひとつは、608年飛鳥ヤマトを訪れた隋使裴世清の証言が、「隋書」に、「倭国の都で「男王」に謁見した。」、とあるからです。つまり、藤原日本史の女帝推古天皇(593年〜628年)の存在は、隋使裴世清の「隋書」での証言で否定されるのです。
ふたつめは、「古事記」が証明します。「古事記」は、一般的に、712年完成と思われているようですが、それは違います。「古事記」は、平安時代の812年秦氏末裔言語学者の多人長による、唐進駐軍の支援の下、日本列島を乗っ取った百済亡命王朝の桓武天皇系が814年「新撰姓氏録」を創作し、新羅系日本人の偉大な事跡抹殺に対しての、反撃の書であるのです。
つまり、百済亡命王朝である平安王朝は、藤原氏による「日本書紀」の仏教伝来物語の「厩戸皇子」を「聖徳太子」に摩り替え、552年を538年百済から仏教が伝来した、と改竄したのです。更に、オリエント渡来の蘇我氏の祖を百済としたり、ギリシャ・ローマ文化の新羅渡来文化を抹殺したのです。百済系桓武天皇が、藤原氏に反旗を翻した聖武天皇の遺品を納めた正倉院の数々の遺品・書物を破壊・焚書したのは、オリエント飛鳥文化、新羅文化の隠蔽・抹殺であったのです。
平安時代、秦氏末裔多人長は、その桓武王朝の「百済日本史」で、オリエント文化の飛鳥ヤマトを、仏教文化都市として偽る「百済仏教伝来ウソ物語」を、後世のひと達に知らせるために、サイファー式暗号により、「古事記」の物語を「女帝推古天皇」で終わらせているのです。つまり、「日本書紀」物語の、女帝推古天皇までの物語を、「否定せよ」、ということです。そのことにより、日本列島に仏教を広めたと信じられている「聖徳太子」は否定されるからです。
体制側書籍を管理する藤原氏と百済系桓武王朝を騙すための、多人長のトリックとして、「古事記」の序に、天武天皇を登場させ、その序で、暗に「日本書紀」(藤原日本史・百済日本史)には「ウソ」が多いから気を付けよ、と述べさせているのです。そして、「古事記」が、「日本書紀」を意識して創作した、と言う根拠のひとつとして、それぞれの書籍に現れる「尊・神」の表現があります。
「日本書紀」では、最初に現れるのは、「国常立尊」です。「国常立尊」とは、常→トコ→東胡=ツングース族が建てた国の王、と言う意味です。
それに対して、「古事記」では、天之御中主神です。「天之御中主神」とは、天の真ん中に住む王の意味で、それは北極星(太一)を示し、その太一(北極星)を、日本列島で最初に祀った王は、新羅系天武天皇であるわけです。つまり、多人長は、日本国を建国したのは、新羅系天武天皇である、とコード式暗号で述べているわけです。
そして、「日本書紀」には、「高天原」がないのに対して、「古事記」では、「高天原」に最初の神々が現れてくるのです。「古事記」は、正に「日本書記」を否定するために創作された書物です。それは、多人長が、親新羅の立場で物語っているわけは、平安時代に百済亡命貴族に虐げられた新羅(秦羅=秦氏)系末裔であるからです。
「古事記」が、「日本書紀」よりも「新しい」ことは、神話の物語でも、「日本書紀」が、古い思想である「陰陽二元論」で語っているのに対して、「古事記」では、新しい思想である「ムスヒ」の「一元論」で物語っていることにより明らかです。更に、「古事記」には、713年以降に創作された「各国の風土記物語」の引用例が多くあることだけでも、「古事記」の完成は、712年以前ではありえないことを証明します。
そして、「古事記」が、奈良時代ではなく、平安時代に創作された最強の証拠として、万葉仮名の「用字」にあります。「用字」とは、アラム語をペルシャ発音で読むと言うパフラヴィ語のように、漢字をヤマト言葉で読むための方法です。その万葉仮名の用字は、奈良時代の720年の「日本書紀」では不整序であったものが、平安時代に安定した用字法となったのです。その万葉仮名の用字法が完璧に現れているのが、「古事記」であるのです。その訳は、多人長が、万葉語の言語学者であったからです。以上の証拠により、「古事記」は、712年の作品ではありえないのです。
では、藤原日本史の仏教伝来物語で、疫病神の仏像が、「難波の堀」に二度も投棄された物語とは、どのような背景があるのかと言えば、それは、中臣と伴に渡来した、仏教の渡来地を誤魔化すためのトリックだったのです。では、日本列島初の仏教伝来の渡来地を推定するとすれば、それは、「難波」ではなく、南九州坊津が考えられます。
仏教が「日本書紀」で述べるように、552年飛鳥ヤマトに伝来したとすれば、その流れは、694年藤原京、710年平城京へと仏教が広がるわけです。しかし、その奈良時代の寺(ジ)では、経典講義の他に、奈良貴族相手に、仏教とは全く関係のない賭博、売春、借上がおこなわれていたのです。
何故、仏教寺での、賭博、売春、借上なのでしょうか。それは、仏教を武器として、異国の市場開拓を目論む、国際交易商人の存在があったからです。つまり、僧形の国際交易商人が、奈良の都に渡来していたのです。僧形の国際交易商人は、奈良の貴族を商売に取り込むために、特殊な接待を文化・娯楽施設でもある「寺」でおこなっていたのです。
その賭博の双六・碁・将棋の原型は、インドを発祥地とするのです。誰が、インド発祥の賭博を、奈良の寺(ジ)にもたらしたのでしょうか。(「日本書記」によれば、日本初の双六賭博を「寺」でおこなったのは、天武天皇です。)
飛鳥時代、インドからの渡来民族と言えば、中臣が考えられます。南インド・マラバル沿岸から、宗教儀式グッズの白檀や沈香を売り込みに渡来した中臣は、多くのインド僧を伴っていたことでしょう。
それらの交易品を商いすることにより日本列島に勢力を伸ばした中臣が、645年に、唐進駐軍の協力のもとに、飛鳥ヤマトの蘇我王朝を倒し藤原氏となり、672年壬申の乱で政権を獲得した日本初の新羅系天武天皇が、686年崩御したことにより、女帝持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇を傀儡として藤原氏が権勢を誇った奈良の都には、多くのインド僧(インド僧とは、仏教僧とは限りません。その実態は、バラモン・ヒンズー教僧、そして、ユダヤ・キリスト教宣教師であったかもしれません。)が居たのは、そのためでしょう。
紀元一世紀の南インドのマラバル沿岸には、バラモン教を取り込んだヒンズー教はもとより、国際交易商人と結託した新興宗教の大乗仏教、更に、ユダヤ・キリスト教のコロニーも存在していたのです。
では、645年以前の飛鳥ヤマトには、南インドのマラバル沿岸から渡来のインド僧により、仏教が隆盛していたのでしょうか。その飛鳥ヤマトが、インド仏教文化でなかったことは、法隆寺が証明します。
「日本書紀」によれば、607年聖徳太子が建立したと言われる「法隆寺」は、670年跡形もなく炎上したことになっているのです。ですから、現在の法隆寺は、その後再建されたものです。
その現法隆寺の境内に隣接する地下から、元法隆寺の一部が発掘されたのです。その発掘された夢殿の遺跡(一般的に「若草伽藍跡」と言われている。)と思われる建築基準が、現法隆寺と異なるのです。現法隆寺が、南北線を基準に建立されているのに対して、遺跡は南北線よりも西に約二十度傾いているのです。この建築基準の違いは何を意味するのでしょうか。それは、645年以前と以後とでは、祀る神が異なると言うことです。
では、仏教伝来前の飛鳥ヤマトには、どのような「神」が祀られていたのでしょうか。神道の「神」ではないことは、確かです。それは、神道は、仏教渡来後、日本列島に現れた「神」であるからです。
仏教以外ではライバルの道教が考えられますが、道教では、太一(北極星)を祀るため、その建築物は、真北を基準に建立されます。では、南北線から西に約二十度傾けて建立する宗教は、何が考えられるのでしょうか。それは、冬至の太陽を祀る宗教です。冬至の太陽を祀る、と言えば、ミトラ教が考えられます。
ミトラ教は、死と再生を繰り返す「太陽」を神として祀るのです。ミトラ教では、「太陽が死ぬ冬至の光を浴びることにより、死んだ太陽が再生する。」、と信じていたのです。ですから、冬至の太陽が神殿に差し込むためには、その寺(ジ)は、南北線に対して西に約二十度傾けて建立されなければならなかったのです。西に二十度の建築基準は、飛鳥ヤマトの道幅十二mの直線道路(平安時代に太子道と改名された。)にも応用されていたことは、飛鳥ヤマトの支配者は、太陽信仰民族と深い関係にあったことが示唆されます。
飛鳥ヤマトの多くの仏寺を疑問の目で眺めると、更に不可思議なことに気づくのです。それは、聖徳太子建立七寺といわれる存在です。それらの寺とは、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺です。
特に不可思議なのは、「日本書紀」によれば、厩戸皇子(聖徳太子)が秦河勝に仏像安置のために建立させた「広隆寺」です。現広隆寺は、以前蜂岡寺と言われていましたが、その蜂岡寺は、現広隆寺とは連続性はないのです。蜂岡寺跡は、現広隆寺より離れた地域で発掘されているのです。そして、その蜂岡寺遺跡は、仏教寺なのではなく、太陽を祀る景教寺を示していたのです。
「日本書紀」は、厩戸皇子(聖徳太子)主演の「仏教伝来物語」により、飛鳥時代の「何」を隠蔽したかったのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトへの「仏教伝来の時期・552年」の歴史です。
五世紀の古代ローマ帝国で太陽神のミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡にキリスト教教会を建てたように、七世紀の飛鳥ヤマトで太陽崇拝施設を徹底的に破壊して、その跡に仏教施設(聖徳太子建立七寺等)を北九州秦王国(豊国の祖)から移築した大乗仏教とは、どのような国際組織により運営されていたのでしょうか。
大乗仏教の経典に対して、日本列島で最初に疑問を持って、その持論を堂々と出版したのは、血と肉食の禁忌を広める仏教思想が民族差別の道具とされた江戸時代の富永仲基です。大阪の商家生まれで町儒者の富永仲基は、1745年「出定後語」で「大乗仏教関係の経典は、すべて後世のひとの創作であり、釈迦の説法を書きとめたものではない。」、と述べていたのです。
その八年後、1753年のヨーロッパでも、町医者のジャン・アストリックが聖書への疑問の書を出版したことにより、二十世紀には、大乗仏教とキリスト教との「経典」が研究されることにより、そのふたつの宗教の「経典」だけではなく、「キリスト」と「ブッダ」との生誕・奇跡物語の多くの共通性が指摘されるようになってきたのです。何故、大乗仏教とキリスト教とには多くの共通点があるのでしょうか。
藤原日本史と百済日本史とには、「日本書紀」により、仏教伝来の史実を隠蔽する理由があったようです。それは、「大乗仏教」は、藤原氏にとっても、百済亡命貴族にとっても、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた、肉食する騎馬民族を、賎民として貶め支配するための「強力な武器」であったからです。
奈良時代の藤原氏が支配する奈良仏教と、平安時代に百済系桓武天皇により、中国山東半島から導入された天台宗の平安仏教とには、なんらの歴史的関係もないようです。
一般的に、宗教組織は、その組織拡大のため、支社又は末社を布教先に設置します。ところが、奈良仏教の末社が、平安京にはひとつもないのです。ないどころか、藤原氏支配の奈良仏教のリーダ興福寺と、百済亡命貴族支配の平安仏教の主・比叡山延暦寺とでは、貧民に対して「仏の慈悲の心」や「極楽往生思想」を布教するのではなく、薙刀で武装した僧兵により戦闘を繰り返していたのです。
そして、比叡山延暦寺では、極楽思想よりも、「借りた物(金)を返さない者は地獄に落ちる。」、と言う内容の「日本霊異記」などを制作し、源信が著した「往生要集」で地獄思想を布教していたのです。それは、比叡山延暦寺は、京における借上(高利貸し)の営業権を、奈良の興福寺と争っていたからです。
しかし、百済日本史によれば、538年百済から聖王により仏教が伝来し、その仏教を聖徳太子が、秦河勝に命じて仏像安置の広隆寺を建てさせたことにより、仏教が飛鳥ヤマトに広まった、と言うことです。では、何故に、飛鳥仏教を引き継いだ奈良仏教の末社が、平安京にひとつもないのでしょうか。それは、聖徳太子(厩戸皇子)が、飛鳥仏教など広めていなかったからです。
大乗仏教に対する疑問を羅列すると、大乗仏教には深い謎があるようです。その謎を解明すれば、大乗仏教を道具として藤原日本史に隠蔽された、古代日本列島史が出現するかもしれません。
奈良仏教と平安仏教とに断絶され、戦闘を繰り返す大乗仏教。キリスト教経典と類似した大乗仏教経典。「旧約聖書」創世記の出だしソックリな「日本書紀」の創世記物語。モーセ、ダビデ、ヨシュア(イエス)の事跡を持つ聖徳太子。ユダヤ儀式と多くの共通点のある中臣神道。藤原氏が支配する仏寺の興福寺と神道の春日社。謎の多い藤原日本史を解明するには、渡来歴史が不可解な大乗仏教を解明する必要があるようです。
紀元一世紀、ローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西ローマ帝国に分裂)と後漢(紀元25年〜紀元220年)との絹貿易のためのシルクロードが通過するパルチア王国と匈奴・後漢に挟まれた小国・大月氏国の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の特徴を述べれば、仏像、無数の経典、立派な伽藍、立派な法衣、極楽往生思想、護摩による加持祈祷、護符、先祖崇拝のお盆の儀式、血・肉食の禁忌、葬儀等が思い浮かびます。
しかし、釈尊(紀元前566年〜紀元前486年。一説では紀元前463年〜紀元前383年)の教えを伝えていると自負する大乗仏教を特徴づけるそれらの物・思想・儀式は、釈尊の仏教とは関係ないだけではなく、全く正反対の思想であるのです。
紀元前二千年カスピ海沿岸からアーリア人が南下し、紀元前800年頃インドの先住民・遊牧民族トラヴィダを支配するために、侵略者のアーリア人は、バラモン教を発明するのです。
そのバラモン教義によれば、バラモン僧が最高の地位で、臣民を差別的四姓に分けるのです。しかし、先住遊牧民のトラヴィダ族は、その四姓のアウトカーストの不可触賎民セダラとされてしまうのです。
そして、バラモン僧は、その四姓の差別的カースト制を永遠に維持するために、輪廻転生の思想を発明するのです。つまり、一度バラモン姓となった者は、永遠にバラモン姓であり、そして、アウトカーストの不可触賎民セダラは、永遠にセダラとして輪廻転生する、ということです。
それらのバラモン教の差別的思想に疑問に思った釈尊は、そのバラモン教の永遠のカルマを断ち切る方法を考え出したのです。それが、出家して「非人」となり、「乞食」により生きることです。釈尊は瞑想することにより、「非人と乞食とにより、バラモン教思想のカルマを断ち切ることができる。」、と考えたのです。
バラモン教の思想によれば、一度そのカーストとなった者は、来世もそのカーストのままです。では、人間でもなく、死人でもない「非人」であれば、死んでも来世がないわけですから、来世でカースト姓に属さないわけです。更に、カースト制により職業の差別があるのなら、出家して、現世での一切の生産活動にたずさわらずにいれば、カースト制下で暮すこともないわけです。つまり、出家して、ひとの施しだけにより、現世の一切のしがらみから解かれて暮すことが、釈尊の教えの基本であったのです。
しかし、その釈尊の教えと全く正反対の大乗仏教は、釈尊崩御の五百年後の紀元一世紀、何を目的に、誰により発明されたのでしょうか。その解明のヒントは、キリスト教にあるようです。
大乗仏教の数々の経典は、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラに突然現れたのです。それと同時に、キリスト教の経典(福音書)もオリエントに現れたのです。そして、それらの二つの宗教の開祖ブッダ(紀元前五世紀の釈尊ではない。ブツダとは覚醒した者の意味。)とイエスとは、その生誕・奇跡物語に共通事項が多くあるのです。何故でしょうか。
大乗仏教は、一般的にサンスクリット語で書かれたものが、東進し、中国で漢語に訳され、日本列島に伝来した、と思われているようです。しかし、サンスクリット語の原典は、中国で漢訳されると全て焚書されているのです。仏の教えを伝えるサンスクリット経典の原典が全て焚書されている事実には、何かの謎があるようです。
その謎は、サンスクリット経典には、知られたくないことがあったからです。伝聞によると、そのサンスクリット経典は、サンスクリット語に堪能なひとにより書かれたものではなかったようです。サンスクリット言語圏で生活していなかった誰かが、「原典」をサンスクリット語に変換したのが、サンスクリット経典であったようです。
サンスクリット語と古代ペルシャ語とは、文法も発音も殆んど同じです。異なるのは、使用する文字だけです。ササン朝ペルシャ(226年〜642年)では、アラム語から派生したパフラヴィ語が使用されていたのです。そして、古代オリエントでは、国際交易商人達は、国際商人語であるアラム語で交易をおこなっていたのです。
そのアラム語は、紀元前一千年頃、アラビア半島から出現したアラム民族の言葉です。そして、アラム語を話す民族は、メソポタミア、シリア全域に浸透し、紀元前722年イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)では、アラム人はその活動範囲を一挙に拡大し、それに伴いアラム語もオリエントで国際共通語となっていくわけです。そして、アラム語は、系統的にはフェニキア語やヘブライ語などと同じ、北西セム語に属すのです。そのアラム語で、シリアのキリスト教宣教師は、聖書の物語を布教していたのです。
ここで、疑問が浮かぶのです。806年唐より帰朝した空海は、真言密教を発明するわけです。しかし、その真言密教の呪文は、仏教の原語であると思われるサンスクリット語ではなく、アラム語なのです。そして、その呪文の文句には「イエスのアラム語言葉」が多くあるのです。唐で仏教を学んだ空海が、何故に「アラム語」の呪文を唱えたのでしょうか。「アラム語」と言えば、キリスト教の経典(福音書)も、アラム語(=東方シリア語)からギリシャ語訳で出版されていたのです。
そこで、ひとつの仮説が現れたのです。それは、大乗仏教とキリスト教との経典は、元々はひとつで「アラム語」で著述され、それぞれの布教先で、それぞれの言葉で翻訳された、と言うことです。
つまり、アラム語原典→古代ペルシャ語経典→サンスクリット語経典→漢語経典の流れが大乗仏教です。そして、アラム語原典→ギリシャ語福音書→ヘブライ語福音書の流れがキリスト教です。この仮説により、大乗仏教の代表作品である「法華経」物語と、キリスト教の「ヨハネ福音書」物語の基本思想が全く同じことを、証明することができるのです。 ひとつの例として、

「法華経」では、「四十年ほどしかたっていないお釈迦様が、こんな菩薩をお弟子だといわれるのは、まるで二十五歳の青年が、百歳の老人をわが子だというようなものではありませんか。そこで釈迦は、私は四十年前に悟りを開いて仏陀になったのではない。じつは、かぞえきれない年月の以前から、仏陀なのだ。」と言う思想表現は、「ヨハネ福音書」では、「しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。そこでユダヤ人たちはイエスに言った、あなたは五十にもならないのに、アブラハムを見たのか。イエスは彼らに言われた。よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである。」

では、「法華経」と「ヨハネ福音書」とのアラム語による共通原典は、いつ誰により著されたのでしょうか。
ここにひとつのヒントがあるのです。それは、前漢(紀元前202年〜紀元8年)に、大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)の使者イソン(漢語で伊存)が「浮屠教・フト教」という経典を伝えた、とあるのです。つまり、サンスクリット語の大乗仏教経典が出現していなかった紀元前二世紀に、「浮屠教」は、前漢に渡来していたのです。
「浮屠」とは、ブッダの漢訳で、その「浮屠」が、四世紀後半に朝鮮半島に渡来すると、その「浮屠」に尊敬語の「ケ」が付けられ、「フトケ」となり、その「フトケ」が、六世紀(?)の日本列島に渡来すると「ホトケ」となり、今日に至るわけです。
仏教史によれば、大乗仏教の興りは、大月氏国をトカラ人が征服したクシャナ朝で、紀元一世紀と言われているのです。大乗仏教が発明される二三百年前に、大月氏国から前漢に渡来した「浮屠教」とは、「何教」だったのでしょうか。
そもそも、大乗仏教が発明された地の「大月氏国」とは、何なのでしょうか。
大月氏国は騎馬民族国で、元は「月氏」と言われていて、紀元前250年中央アジアに現れたギリシャ系王国バクトリアを、紀元前140年に倒し大月氏国となったのです。しかし、その民族の渡来元が不明なのです。民族として推測されるのは、チュルク、イラン、モンゴルなどですが、中央アジアで異質なギリシャ文化を保持していたのです。その大月氏国の後裔国の弓月国は、日本列島に渡来した秦氏の渡来元であるのです。
秦氏が祀るのは、太陽神で、それは中国大陸では「景教」と言われていたのです。「浮屠教」と「景教」とには、何かの共通点があるのでしょうか。
一般的に「景教」は、431年エフェソスの公会議で異端として追放されたネストリウス派のキリスト教であると言われていますが、それは違います。キリスト教は、景教(ミトラ教)の思想・儀式を模倣した宗教であることが分かれば、説明の必要もないでしょう。
このアジアで異質ギリシャ文化の保持国は、東アジアにもあったのです。それが、356年朝鮮半島で奈勿王により建国された騎馬民族国新羅(秦羅=シン国=ローマ国)なのです。新羅文化は、漢語を知らないギリシャ・ローマ文化であったのです。(前秦や東晉に朝貢する時、高句麗や百済と異なり、新羅は漢語の通訳を必要としていたのです。)そして、東アジアでは異質な、ローマン・グラスで飲み物を、冑や鎧で武装した馬に乗る武将は金のネックレス・ブレスレット・指輪を着け、そして、ギリシャ系三本樹の金冠を被る女王国でもあったのです。しかし、528年新羅は、ギリシャ・ローマ文化から仏教文化へと大変換しているのです。その528年日本列島の北九州では、筑紫国造盤井の反乱がおこっているのです。その数年後、飛鳥ヤマトにチュルク系騎馬民族の蘇我稲目が突然現れるのです。そして、飛鳥ヤマトにはガラス器製造工場があったのです。
そのような、中央アジアで異質なギリシャ・ローマ文化を保持していた大月氏国を支配していた民族は、どのような民族であったのでしょうか。その民族を知ることで、その民族が伝えた宗教を知ることで、大乗仏教とキリスト教との経典の原著を知ることができるかもしれません。
大乗仏教とキリスト教の経典が同じであるのならば、その儀式やシンボルの共通点を辿れば、そのふたつの宗教の源泉にたどり着くことが出来るかもしれません。そこで、それらを羅列すれば、大乗仏教では、「法華経」の出だしで、釈迦の眉間から光が発せられたり、そして、弥勒菩薩が存在することにより、「太陽」と関係があると推測されます。
キリスト教では、十字架はマルタ・クロスで、太陽の光を表わしているし、キリストの誕生日と言われている「クリスマスの日」は、太陽の死である「冬至」におこなわれていた、太陽神を祀るミトラ教の儀式を導入したものです。と言うことは、ふたつの宗教に共通することは、「太陽とミトラ神」であるわけです。
大乗仏教とキリスト教の共通点が、「太陽とミトラ教」であることは、その原著が国際交易都市ガンダーラで創作されたことと関係があるのです。その国際交易都市ガンダーラの歴史を辿れば、クシャナ朝(45年〜五世紀中頃)←大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)←バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)となるわけです。そのバクトリアとはギリシャ系文化国で、その構成部族には、ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427年〜紀元前347年)の一族がいたのです。そして、そのバクトリアの国教は太陽神のミトラ教だったのです。ですから、国際都市ガンダーラには、ギリシャ文化が流れていたので、初期の大乗仏教の仏像はギリシャ型であったのです。そして、大乗仏教に弥勒菩薩がいるのは、弥勒(ミロク)とはミトラ神が変身したものであるからです。
中央アジアのギリシャ文化国のバクトリアは、ギリシャのアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、東進し、アケメネス朝ペルシャ帝国を呑み込んで、アレクサンドル大王領としたのが、紀元前323年アレクサンドル大王の病死後も、中央アジアに留まったギリシャ傭兵軍により建国された国なのです。
紀元一世紀に突然現れた、ミトラ神やアラム語原典を基に発明された大乗仏教の地・クシャナ朝の国際交易都市ガンダーラを、西アジアから中央アジアまでを歴史的に辿れば、クシャナ朝(紀元45年〜5世紀中頃)←大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)←バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)←アレクサンドル大王領(紀元前336年〜紀元前301年)←ペルシャ帝国(紀元前525年〜紀元前330年)←メディア王国(紀元前625年〜紀元前550年)←アッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前782年)となるのです。
騎馬民族の大月氏国は、製鉄部族も有していたのです。そして、その前身のバクトリアは、後に興るローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西に分裂)と同じに、中国大陸では大秦国と言われていたのです。そのバクトリアからのギリシャ・ローマ・スキタイなどの西方異民族の傭兵軍団を纏めて、中国大陸を始めて統一したのが、秦の始皇帝(紀元前221年〜紀元前210年)であるわけです。
日本列島で、釈尊の教えと全く正反対の思想である、血・肉食の禁忌の大乗仏教思想布教により、インド・バラモン教が発明したチャンダラー(セダラ)を鎌倉時代に改名した、不可触賎民「穢多」の蔑称でイジメられた、製鉄・石切・運河削堀の高度技術を持つ秦氏は、自身では秦の始皇帝の末裔と言っているわけですが、その秦氏の歴史は更に西のバクトリアからオリエントへ辿ることになるのです。
紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンは、イスラエル王国を滅ぼすのです。しかし、ユダ王国は紀元前586年バビロニア王国により滅亡されるまで存続していたのです。そして、イスラエル民族は、やがてアッシリア帝国の砂漠に消えてしまうのです。
一般的常識では、ユダヤ民族とイスラエル民族とが同じ民族と考えているようですが、それは違います。祀る神が異なるからです。(現在のイスラエル国は、イスラエル民族ではなく、ユダヤ民族の国。イスラエル民族は、紀元前八世紀に歴史上消えてしまった。)
ユダヤ民族は、一神教のヤハヴェ神を祀るのです。しかし、それに対してイスラエル民族は、太陽神バアルと金の牡牛です。祀る神が異なると言うことは、同じ民族ではないということです。
そして、歴史上で異民族が異民族を侮り、勝者が敗者に蔑称を付けるることはよくあることです。日本列島でも、645年突然飛鳥ヤマトに現れた中臣(藤原氏の祖)が、オリエント文化の蘇我政権を乗っ取ると、蘇我氏(チュルク民族名は抹殺。)一族の名前を「日本書紀」で、「稲目、馬子、蝦夷、入鹿」などの蔑称(敗者名は動物・醜い昆虫名)を付けたように、ユダ王国とイスラエル王国が分裂する前のヘブライ(紀元前1230年〜紀元前932年)では、不正な手段でヘブライの王権を乗っ取ったレビ族末裔ソロモン王は、一神教のヤハヴェ神ではなく、太陽神バアルを祀るヨセフ族末裔のサウル王の子エシバアル(太陽神バアルの子の意味)をイシボセテ(恥の子)と書き換えているのです。
そして、その後、アッシリア帝国に滅ぼされたイスラエル民族には、アッシリア人と混血するひとも現れるわけです。その混血児を、ユダヤ人は、サマリヤ人として蔑視するだけではなく、鎌倉時代に藤原氏末裔が秦氏末裔を不可触賎民「穢多」と蔑称したように、不可触賎民としていたのです。(「聖書のサマリアの女」参照)
そして、このサマリア人の居住していた地域では、アラム語を使用していたのです。太陽神バアルを祀り、そして、アラム語を話すイスラエル民族は、アッシリア帝国の砂漠に消えてしまったのですが、その足跡を辿れば、その行き先を探し出すことが出来るかもしれません。
四世紀のローマ帝国で、ミトラ地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に教会を建てたキリスト教、そして、七世紀の飛鳥ヤマトでオリエント文化の寺(ジ=雑務をおこなう建物→外国人用ホテル)を徹底的に破壊してその跡に仏寺(テラ=死者を安置する処)を建立した大乗仏教、このキリスト教と大乗仏教がおこなった、前宗教施設の徹底的破壊と隠蔽とにより前文化を歴史上抹殺した行為には、アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族と関係があったのでしょうか。
イスラエル民族が祀る、太陽神バアルと金の牡牛とは、何なのでしょうか。太陽神と牡牛と言えば、飛鳥時代の秦氏も、太陽神(平安時代、百済亡命王権により、太陽神ミトラは「魔多羅」に変名された。)と牡牛(平安時代、百済亡命王権により、インドの鬼神と合体され「牛頭天皇」と変身してしまった。)を屠って(祀る)いたのです。
太古の太陽神ミトラは、元々は三神であったのです。その三神とは、日の出の太陽、天中の太陽、日没の太陽、です。このミトラ教の三神思想は、キリスト教では父と子と精霊となり、大乗仏教では仏像配置の三神像となるわけです。では、イスラエル民族が祀る太陽神バアルと金の牡牛の源は、何処から来たのでしょうか。
宗教と言うと、何か神秘的な響きがあり、俗人には解明できない領域のように思えます。更に、「聖書」とか「経典」などと言えば、俗人が疑問を持つことが出来ない雰囲気があります。そのような宗教を物語った宗教史などは、全く疑う余地がないほど「神聖」な物語であるように思えます。
しかし、神はひとが、日常生活で困難な場面を乗り越えるために発明した「もの・概念」であると認識すると、それらの宗教物語の舞台裏を少し覗けるようです。
宗教には、神がいます。その神には二系統があります。自然神と人工神です。太陽や星、月を神とする民族は、ひとが創造した人工神を祀ることが出来ません。そこで、人工神を祀る司祭者は、色々な物語を創作するわけです。その人工神の物語を創作する時、古の人工神物語を真似て創作する傾向があるようです。
例えば、平安初期、藤原氏の奈良仏教から離別するために、百済系桓武天皇が唐に最澄を留学させ、「ヨハネ福音書」とソックリの「法華経」を信奉する中国天台宗を導入して、比叡山延暦寺に日本天台宗を開設したわけです。
それに対抗して、藤原氏は、藤原氏の資金で錬金術師空海を一年で僧籍に入れて、804年最澄と伴に唐に留学させるのです。そして、空海は、806年帰国後に、真言密教を発明するわけです。
しかし、空海の発明した真言密教の呪文は、仏語であると思われているサンスクリット語ではなく、アラム語であったのです。そして、空海は、インド・バラモン教やヒンズー教の神々を「仏」とし、その頂点の「仏」として「大日如来」を発明するわけです。
一般的常識では、密教とは、表の教えである「顕教」に対して、裏の「秘密の教え」であると思っているようですが、それは違います。
密教の「密」とは、アラム語がササン朝ペルシャ帝国時代に変化した、中国諸国とペルシャとの国際交易で使われたソグド語の、太陽を表わす「ミル」を漢音訳したものであるのです。つまり、「密」とは、「ミル」で、「太陽」の意味なのです。と言うことは、密教とは、「太陽の教え」と言う意味なのです。ですから、「大日如来=太陽神」を発明した空海の密教呪文には、太陽神ミトラから派生したキリスト教のアラム語呪文が多くあったのです。
イスラエル民族の祖は、ヨセフ族です。そのヨセフ族は、紀元前十四世紀、鉄器を発明したヒッタイト王国(紀元前1900年〜紀元前1190年)から、エジプトのアメンホテプ四世(紀元前1377年〜紀元前1358年)の統治時代に現れたのです。そのヒッタイト王国での国際取引には、ミトラ神が契約の神として存在していたのです。
アメンホテプ四世は、エジプトの神官が勝手に神々を創作して政治の実権を掌握していることを快く思わなかったので、奈良末期に藤原氏が支配する奈良仏教の呪縛から解放されるため、百済亡命貴族の桓武天皇が、794年平安京に遷都したように、宗教改革を目的に新都アケトアテンの造営にとりかかったのです。
エジプトの建設資材は、「旧約聖書」で述べている「日干レンガ」などではなく、石材です。石材を切り出すには、鋼鉄工具が必要です。そして、巨石を遠方から運ぶには、運河を造るための削掘技術が必要です。そこで、鉄器を発明したヒッタイト王国から、鋼鉄工具を持つヨセフ族がエジプトの新都建設のために現れたわけです。
アメンホテプ四世は、エジプトの神官が勝手に創作した神々を否定するために、新しい神を創作するのです。それが、唯一神の太陽神アトン(アテン)です。この太陽神アトンも、オリジナル神ではなく、前神がいたのです。それは、太陽神ミトラです。
太陽神ミトラは、ヒッタイト王国からメソポタミアまで広く、交易を見守る神として信仰されていたのです。その太陽神ミトラは、オリエントから迎い入れられたアメンホテプ四世のお妃と伴にエジプトに渡来したのです。
エジプトの多神教の神官を排除した新都では、唯一神の太陽神アトンが祀られるわけですが、その宗教改革があまりにも急激だったので、エジプト神官だけではなく、民衆にも不満が蓄積していたのです。そのような折、紀元前1358年アメンホテプ四世が崩御し、政権を取り戻した多神教の神官に、その息子もアメン神の息子の意味のツタンカーメンと変名させられたように、アメンホテプ四世の宗教改革は短命に終わったのです。
イスラエル民族の祖であるヨセフ族は、アメンホテプ四世から、新都市の建設技術者として絶大な信頼を得て、高官の地位に就いていたので、アメンホテプ四世が崩御すると、多神教のエジプト神官から追撃されるのです。そこで、ヨセフ族はエジプトを脱出するわけです。
エジプトを脱出してアラビア半島に逃れた頃には、ヨセフ一族は大部族となっていて、エフライム族が指導権を握っていたのです。そのアラビア半島を彷徨っていたエフライム一族に、メソポタミアを流離っていた部族、レビ族が加わるわけです。そして、その連合部族は、やがてイスラエル民族を形成していくわけです。そして、エジプト軍が徹底的に破壊した、廃墟のカナンの地に、それぞれの部族が国を造るのです。それが、十二部族連合国のヘブライ国(紀元前1230年〜紀元前932年)です。
ヘブライ国でもヨセフ族の直系エフライム族は、アメンホテプ四世が発明した唯一神の太陽神アトンを信仰し、太陽の化身牡牛を金で造り、太陽神と金の牡牛を祀っていたのです。しかし、そのカナンの地は、太陽神バアルを祀るフェニキアの地でもあったのです。やがて、唯一神の太陽神アトンは、多神教の太陽神バアルと変身していくわけです。
これらのエジプト脱出物語は、「旧約聖書」の「出エジプト記」にあるのですが、その「出エジプト記」は、紀元前586年レビ族の末裔のユダ王国が、バビロニアに滅ぼされ、バビロンに幽囚された時、レビ族末裔の祭祀氏族のザドク一派が、ユダヤ民族を永遠に支配するために創作した物語であるのです。ですから、イスラエル民族がアッシリア帝国に滅ぼされた後に、レビ族末裔のザドク一派に創作されたモーセ五書と言われる書物は、イスラエル民族のものではなかったのです。その書物では、イスラエル民族が滅んだのは、異教の多神を祀ったからだ、と何度も記述されているのです。
ですから、ヨセフ族がエジプトから脱出した時には、モーセなどいなかったのです。唯一神ヤハヴェから十戒を授けられたと言われるモーセは、平安時代の百済亡命貴族が「法華経」を広めるために発明した、十七条の憲法を発明した「聖徳太子」と同じに、架空の人物であったのです。そして、モーセとは、○○の子と言う意味の一般名詞であったのです。
では、「旧約聖書」で言うところのモーセによる唯一神ヤハヴェは、何を基に発明されたのでしょうか。
ヘブライ時代は、ヨセフ族の直系エフライム族が主導権を握っていたわけですから、エルサレムの神殿では、太陽神アトン(バアル)と金の牡牛が祀られていたのです。しかし、レビ族の末裔ダビデ(紀元前1004年〜紀元前965年)が王権を、エフライム族から搾取すると、太陽神アトン(バアル)を排除しにかかるわけです。
そして、ダビデ王が崩御すると、多くの息子の一人ソロモン(紀元前965年〜紀元前932年)が不正な手段で、ダビデの王権を奪取するのです。この行為に怒ったエフライム族を中心に十部族が、「ソロモン王はヤコブ(不正な手段で王権を搾取した者の意味)だ!」と非難して、紀元前932ソロモン王が崩御すると、ヘブライ国から分離してイスラエル王国を興すのです。
ここに、ヒッタイト王国出自のヨセフ族を祖とするイスラエル民族と、メソポタミアを放浪していたレビ族を祖とするユダヤ民族とが分離するわけです。そして、ユダ王国は、太陽神バアルに代えて、唯一神を発明するわけです。しかし、その神の名は、一部の神官でしか呼べないのです。その訳は、唯一神とは、エジプトのイクナトン(アメンホテプ四世)が発明した唯一神「アトン」であったからです。
イスラエル民族の祖ヨセフ族は、鉄器を発明したヒッタイト王国出自で、古代エジプトで石切、運河削掘、都市建設の高度技術を習得していたので、それらの技術はイスラエル民族に伝承されていたのです。イスラエル民族は、ヒッタイト王国の製鉄技術、そして古代エジプトの石切・運河削掘・都市建設の高度技術者集団だったのです。
それに対して、ユダヤ民族の祖は、メソポタミアを放浪していた商業民族であったので、ソロモン王時代に、国際海洋商人のフェニキアと連合して、南インドのマラバル沿岸国から香木、孔雀の羽、猿、香辛料などを輸入して、ギリシャの都市国家に輸出して大儲けをしていたのです。
紀元前722年イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、その後、北方から押し押せる騎馬民族スキタイに攻撃されるのです。
騎馬民族スキタイは、黒海、カスピ海沿岸に、紀元前八〜七世紀に現れた民族です。鹿をトーテムとする異部族連合国のスキタイは、獣の毛皮を商う民族でもあったのです。常に移動するスキタイは、動産としての金製品に異常な興味があり、そのことにより、金製品を製造するギリシャ植民都市と交易を始めるわけです。スキタイの王は、手柄を立てた武臣に褒賞として金のネックレス・ブレスレット・指輪を与えていたのです。ですから、ギリシャ植民都市と交易をするスキタイには、ギリシャ文化が流れていたのです。
スキタイは、ギリシャから金製品を得るために、毛皮だけではなく、原料の金を求めて南下、東進するわけです。しかし、金を採掘するには、鋼鉄工具が必要です。そこで、アッシリア帝国を攻撃し、その臣民で、製鉄技術のある者を奪取していくわけです。
金は貴金属で、大量に採掘することは困難な金属です。そこでスキタイは、青銅表面に金をメッキする技術を、開発したのです。それが、水銀アマルガム法です。
因みに、メッキは日本語です。水銀に金を溶かすと金色が消えるから滅金(メッキン)で、銅にその溶液を塗り熱で水銀を蒸発させると金が銅に渡るから鍍金です。この鍍金をメッキと読ませたのです。
金は、アラム語から派生したモンゴル語で、アルタンと言います。スキタイは、そのアルタンの産出するアルタイ山脈を占領し、そこから産出する金を、ギリシャ植民都市国家の生産する金銀製品との交易に使うのです。しかし、金の産出は多くはないのです。そこで水銀アマルガム法により、金製品の代用品の金銅製品を作るために、水銀を求めて更に東進するわけです。
当時、水銀の素材としての朱砂の産出処は、国際交易商人には、中国中部と極東の島、日本列島の奈良宇陀が知られていたのです。
日本列島の縄文時代では、朱砂は化膿傷を治す、「霊力あるモノ=カムイ」であったのです。その当時は、水銀の殺菌力が知られていなかったので、霊力が朱砂にあると思われていたのです。ですから、死者の体や木棺などに、悪魔よけとして、朱砂が塗られていたのです。その朱砂の一大生産地の奈良宇陀から産出される朱砂を求めて、広く海外から朱砂の市が立つ三輪山に、紀元前から国際交易商人が渡来していたのです。
時代が飛んで、紀元前二世紀の中央アジアのギリシャ文化国の騎馬民族を主体とする大月氏国に製鉄部族がいたことは、大月氏国には、騎馬民族スキタイがいたことで説明がつくようです。それは、アッシリア帝国で奪取された、アラム語を話すイスラエル民族末裔が、騎馬民族スキタイと伴に東進して、大月氏国にたどり着いたからです。
水銀を求めたのは、騎馬民族スキタイだけではありません。インドをまがまがしい宗教儀式で支配していたバラモン僧も、水銀を求めていたのです。水銀には、殺菌の効力の他に、神経を麻痺させる作用もあるからです。その水銀の神経麻痺作用を、バラモン僧はバラモン教の霊力として使用するために、水銀を求めていたのです。この宗教儀式に水銀が使われていたことは、インドのバラモン教やヒンズー教の神々を日本列島に持ち込み「仏」とした錬金術師空海が、山岳修行と称して、多くの弟子達に金剛杖を持たせ水銀鉱脈を日本列島で探索させていたことでも、理解できるでしょう。
大月氏国に居留していた秦氏の祖は、太陽神を祀る民族であったので、目的もなく東進したわけではないようです。太陽神ミトラは、冬至に再生する(誕生)と信じられていたので、太陽神を祀る民族は、オリエントから冬至の方位を目指して東進したのです。
大乗仏教とキリスト教の原典を求めた旅は、大月氏国で終わるのです。大月氏国で、太陽神バアルと牡牛を祀るヨセフ末裔で、アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族のエフライム族(=秦氏)の足跡を見つけたからです。
紀元前二世紀に、大月氏国から前秦に伝播されたという「浮屠教」とは、アメンホテプ四世時代のエシプトで発明された「太陽神アトンの教え」であったようです。そして、その教えは、後に、アッシリアの砂漠に消えたイスラエル民族によりアラム語で書かれていたようです。
大乗仏教が宣伝する「阿弥陀様の教え」では、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

一般的常識では、西方浄土とは、インドに浄土(極楽処)があるように思われていますが、それは違います。それは、西方浄土思想は、北インドのガンダーラで発明されていたからです。ですから、ガンダーラから西とは、インドなどではなく、エジプトであるわけです。
この大乗仏教オリジナルの教えと信じられている文章から、次のことが推測できます。それは、エジプトのアミ様とは、エジプトの太陽神アトンである、と言うことです。
ユダヤ人は、消えたイスラエル十部族を今でも探している、と言われています。何を目的に探しているのでしょうか。昔の同朋と再会をして、又、古のヘブライ国でも建設して、仲良く暮すことを目指しているのでしょうか。
しかし、それは別の目的があるようです。それは、「聖滅」です。「聖滅」とは、神の命令により異教民を、ユダヤ民族がイスラエル民族を不可触賎民「サマリア人」としたように、藤原氏末裔が秦氏末裔を不可触賎民「穢多」としたように、物理的に、それが出来ない時は、社会的に不可触賎民として抹殺することです。
何故、四世紀のローマ帝国で、ミトラ教地下神殿が徹底的に破壊され、その跡にキリスト教教会が建てられたのでしょうか。何故、七世紀の飛鳥ヤマトで景教(ミトラ教)の寺(ジ)が破壊され、その跡に北九州の秦王国から移築された仏寺が建てられたのでしょうか。それらの行為は、「聖滅」であったからです。
それらの「聖滅」は、ユダヤ教もキリスト教も大乗仏教も、その源の神が、太陽神ミトラであったからです。ですから、それらの宗教組織は、ミトラ教の存在を許せなかったのです。つまり、ミトラ教の「平等に分け隔てない教え」が広く布教されたら、国際交易商人と結託したそれらの宗教の基盤が崩壊するからです。
ミトラ教の流れを辿れば、太陽←三神の太陽神ミトラ←唯一神の太陽神アトン←多神の太陽神バアル←二神のゾロアスター神←唯一神ヤハヴェ←キリスト・ブッダ(釈尊ではない)、となるわけです。

藤原日本史の目的のひとつは、日本列島における秦氏の歴史を抹殺することだったのです。

神輿の黙示録(18)(消された日本列島史:何故、藤原氏は騎馬民族史を抹殺・隠蔽したのか)



日本列島史を調べようと、仏教渡来よりも古いと信じられている神社の歴史を調べても、日本列島の黎明期を知ることができないでしょう。そして、神代の昔の文字と信じられている神代文字を調べてみても、知ることはできないでしょう。
それは、神社が、古墳の上か、その近辺に建てられているからです。古墳は、日本全国で紀元三世紀から七世紀まで築造されていたのです。その古墳の上に神社を建てるには、古くても三世紀、新しくても、七世紀以降でなくては建てられないのです。
日本列島の岩手県以南の全国に古墳を築造した民族は、六世紀北九州に渡来、そして七世紀に飛鳥ヤマトに渡来した仏教国際組織に壊滅され、その居住跡に仏寺、その後に、古墳上に神社が建てられていたからです。ですから、それらの神社から発見された神代文字なども、そう古くはないのです。
それらの神代文字と云われているものは、漢語を使う民族に駆逐された、エジプト・オリエントから渡来したアラム語の設計図を使い、古墳を築造した民族の文字であったのです。
エジプトのクフ王のピラミッドよりも大きい前方後円墳は、ヒッタイトの製鉄技術、古代エジプトの石切技術、運河削掘技術、数千の建設作業員を管理する技術と、オリエントの日干レンガ製造技術がなければ、ただ土を盛っただけでは、築造できないのです。そして、古墳に埋葬する石棺は、太陽神アトンが冬至の日を浴びることにより再生する、と言う古代エジプトの再生思想からのものなのです。インドのバラモン教では、死者は穢れているので、火で浄化のための火葬です。大乗仏教でも、その基本葬儀思想はバラモン教からのものなので、火葬です。騎馬民族は、鳥葬か風葬なのです。
因みに、歴史上確認されている天皇の火葬は、藤原不比等の傀儡である百済系女帝持統天皇からです。しかし、女帝持統天皇と同葬されていた、藤原不比等を左遷していた新羅系天武天皇は火葬されていなかったようです。このことからも、仏教伝来物語の百済から538年(「日本書紀」では552年)の飛鳥ヤマト朝廷への仏教伝来時期と、飛鳥ヤマトで仏寺を七つも建立し仏教布教に貢献したと伝わる聖徳太子の実在性が疑われるのです。大乗仏教の飛鳥ヤマトへの渡来は、645年藤原氏の飛鳥ヤマト出現とおおいに関係がありそうです。それは、飛鳥時代に続く奈良時代の仏教には、平安時代の「唐色」とは異なり、「インド色」が強く出ているからです。
古代エジプトで開発された石棺は、再生のための子宮だったのです。その石棺の内側の寸法は、古代エジプトの測量単位のキュビットで割り切れるようです。
アラム語はアルファベットを発明したフェニキア語から派生した表音文字なので各国の現地語発音を記号文字として表わすことが出来るので、アラム語→ヘブライ語→ペルシャ語→パフラヴィ語→ソグド語→モンゴル語→突厥語(チュルク語)など、時代と伴に、国際交易商人により各国の言葉に変換していったのです。
日本語のルーツが、21世紀の今でも確定していないのは、日本語を構成する原語が、世界各地から渡来していたので、複数あるからです。日本語の基幹語として北方のウラル・アルタイ語が考えられていますが、南インドのタミル語もあるのはなぜでしょう。
古代タミル語は、遊牧民族トラヴィダの言語です。紀元前八世紀トラヴィダ族は、バラモン教により、不可触賎民に落とされていたのです。古代の賎民は、王権により、奴隷となるか、下級軍人(人盾)となるか、その国から逃亡するより生きる術は無かったのです。
日本語にタミル語もあるということは、古代にトラヴィダ族が、中臣族(ナーガ=ヘビをトーテムとする祭祀氏族で藤原氏の祖)の人盾(奴隷軍人→薩摩ハヤト族の祖)として、南九州坊津に渡来していたからです。
バラモン教の圧制に苦しんだトラヴィダ族は、中国に逃れると、漢字で苗(ミャオ→ビョウ)族と呼ばれるわけです。その苗(ビョウ)が、日本列島では「ボウ」となり、中臣族が管理する奴隷「ボウ」による、南インドのマラバル沿岸から、香木など積んだ貿易船が着く処(津)が、やがて南九州の「坊津」と呼ばれるようになるわけです。
では、各国の歴史を綴った「風土記」はどうでしょう。それも、古代を知る史料とはなりません。風土記は、藤原不比等が、686年新羅系天武天皇の王権を簒奪した後に、蘇我王朝、天武王朝の歴史を隠蔽・改竄するために、二字の漢字で地名・人名を表わすように定めた、713年好字令により、創作されたものだからです。
蘇我王朝は、ブッダ・キリスト誕生・奇跡物語の基を創作した国際交易都市ガンダーラがあるクシャナ朝を倒した騎馬民族エフタルの後継国である突厥帝国の日本列島飛鳥支国であったので、チュルク語を使い、そして、天武王朝は、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅を祖とするので、飛鳥ヤマト言葉の基である古代新羅語にはオリエントの香りがしていたのです。
飛鳥ヤマト言葉は、平安時代に百済系天皇が、菅原道真に指示をだして、古代新羅語から「万葉語」へと変換したのです。つまり、「万葉集」の多くの歌は、オリエントの香りがする古代新羅語で著されていたのです。後に、菅原道真が、藤原氏の陰謀で消された理由は、遣唐使の廃止と、「万葉集の改竄」でもあったのです。
朝鮮半島での隣同士の古代百済と古代新羅との数詞は、民族が異なっているために、全く違っていたのです。仏教文化を受け入れた百済の数詞は、イル、イ、サム、サ、オ、リュク、チル、パー、クウ、シュップです。それに対して、ギリシャ・ローマ文化国の新羅の数詞は、ハン、トウ、ソェク、ノェク、タセス、エーセス、ニルグブ、ヨデルブ、アホウ、ヨエルなのです。古代百済数詞は、「イー、アル、サン」の中国語系です。しかし、古代新羅数詞は、「ワン、ツウ、ソゥリー」の欧米語系なのです。
それでは、日本古来の神話が語られていると信じられている「古事記」の神話から、日本列島の黎明期を知ろうとしても、その目的は叶わないでしょう。それは、「古事記」は、平安初期812年秦氏末裔多人長が、720年藤原氏が創作した「日本書紀」の神話に対抗して、先祖からの伝聞を基に創作した物語であるからです。
その日本古来の神話と信じられている物語には、ギリシャ神話とソックリなところが多くあるのです。それは、多人長の祖秦氏とは、ギリシャ文化国バクトリア→騎馬民族国大月氏(亡命百済王朝の第三代嵯峨天皇が、814年創作した「新撰姓氏録」では「弓月国」と表示。)→ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)から渡来した民族であったからです。
「古事記」神話のクライマックスである、天皇家の祖神と信じられている天照大神の天岩窟物語が、ギリシャ神話ソックリなのは、秦氏祖の渡来元が、ギリシャ文化国バクトリアであったからです。
何故、バクトリアが大秦国と呼ばれたのかは、紀元前221年バクトリアが中国大陸で興した国が、「秦国」であるからです。ですから、その秦国の母国のバクトリアが、大秦国と呼ばれたわけです。
そして、紀元前146年ローマ共和国が、ギリシャのカルタゴを滅ぼし、ギリシャ植民都市国家を呑み込むと、中国の前秦は、絹貿易の相手国である紀元前27年建国のローマ帝国も「大秦国」と呼んだのです。オリエントから渡来の秦氏とは、そのようなギリシャ・ローマの歴史を持った民族なのです。
この天岩窟物語とは、スサノウの狼藉により天照大神が、天岩窟に隠れてしまったのを、アメノウズメが裸踊りで誘い出す物語です。しかし、この日本神話の天岩窟物語はオリジナルではなく、ギリシャ神話の地母神デメテルと巫女バウボーとの物語を基に創作されていたのです。ギリシャ神話では、

ある事件により塞ぎこんでいる地母神デメデルに、薬草を飲ませようとするが、拒んで飲みません。そこで、巫女バウボーは、裳をまくり女陰を露出すると、下腹部から女陰にかけて描かれた卑猥な顔が、笑いながら現れたのです。その下腹部をよじらせながら巫女バウボーが踊りだすと、地母神デメデルは笑い出し、元気をとりもどし、薬草を飲んで、生成の活力をとりもどした、という物語です。

学校で教える日本列島史は、藤原氏が創作した「日本書紀」を基に創作されているのです。そこで、この章で「日本書紀」により消されてしまった日本列島史を復元してみることにしましょう。
1549年南九州鹿児島に、イエズス会のザビエルが現れるのです。イエズス会の外洋船は、マカオ港から渡来したのです。そして、1853年浦賀にアメリカ艦隊を率いて、ペリーが渡来するのです。1828年秘密結社員のシーボルトが模写した伊能忠敬の日本列島地図を持ったペリー艦隊は、アメリカ合衆国から直接浦賀に渡来したのではなく、一旦マカオ港に立ち寄ってから、浦賀に渡来していたのです。何故、三百年の時が離れた二つの外国船が、マカオ港からの渡来なのでしょうか。
鹿児島に渡来したザビエルは、古の秦王国(後の豊国)である豊後を支配していた、藤原氏末裔大友宗麟をキリシタン大名とし、日本列島をイエズス会の支配下に置こうと戦略を練るのです。そして、イエズス会は、不思議な行動をとるのです。それは、イエズス会の日本列島渡来が、ローマ法王の教えを広めることが第一の目的なら、何故に、過疎地の山奥の、島根県の石見や、奈良県の宇陀に教会を建設したのでしょうか。その理由は、その二つの地域は、縄文の昔から、朱砂、水銀を採掘するオリエント渡来の民族の支配地であったからです。
南九州は、中臣族(藤原氏の祖)が、五世紀頃、ユダヤ・キリスト教のコロニーがある南インドのマラバル沿岸から、外洋船で日本列島に最初に渡来した地であるのです。では、藤原氏は、イエズス会と結託して、何をしょうとしていたのでしょうか。
因みに、イエズス会の「イエズス」とは、ヘブライ語でイエホシューアのことで、ヨシュアのことです。「ヨシュアはメシア」と唱える、ギリシャ語でイエス・クリストス教(日本語でイエス・キリスト教=ユダヤ教一派)は、日本列島の歴史上で何をしたのでしょうか。
「青森県三戸郡新郷村大字戸来」と言えば、古代史マニアには、キリストの墓が思い浮かぶでしょう。戸来は、ヘライ→ヘブライで、そこには古代にキリストが渡来して、その地で亡くなり、そこに墓を建てたという、伝説があるのです。
陸奥国の山中に、何故、キリストの墓があるのでしょうか。この伝説は、「日本書紀」を史実と信じる良識のある文化人には、「トンデモ話」と受け止められているようですが、その戸来村には、無視できない伝承があるのです。それは、赤ん坊の額に、「十字」を書くことです。
十字は、キリスト教オリジナルのシンボルであると信じられているようですが、それは違います。その基は、「太陽の光」であるマルタ・クロスをシンボルとした、「太陽の教え」である、キリスト教の発明時期よりも遥か昔に発明された、ミトラ教(景教)のシンボルであったのです。
キリスト教の十字架は、紀元一世紀にユダヤ・キリスト教が発明された後、ミトラ教(景教)のシンボルを模倣したものだったのです。
秦氏の宗教である、「太陽の教え」の景教は、645年蘇我王朝が、唐進駐軍と藤原氏により乗っ取られると、オリエント文化の飛鳥ヤマトの都から追放され、近畿地方の山奥や陸奥国に逃避していたのです。この頃、仏教徒により、「鬼」が発明されるわけです。その鬼とは、前政権の祭祀一族のことであったのです。
そして、唐進駐軍に敗れた秦氏の武闘部族末裔は、後に、服部氏となり、山奥に砦を築き傭兵軍団の忍者となるのです。その忍者は、秦氏末裔の景教徒だったので、忍術をおこなう前に、十字を切るのはそのためです。
更に、ミトラ教(景教)の「太陽の教え」を、「密教」(太陽→ミトラ→ミル→密)などと神秘的なネーミングに変えた空海も、アラム語の呪文を唱え、印を切るときは、十字であったのです。
更に、平安時代に秦氏から惟宗氏に氏名を変え、そして、秦氏末裔源氏の源頼朝が、1192年天下を執ると、惟宗氏から氏名を島津氏変えた、古代から藤原氏がインドとの南海交易の拠点として支配していた南九州薩摩の島津荘を乗っ取った、島津氏の家紋も十字だったのです。
そして、騎馬民族末裔の徳川家康と伴に、京都王権から関東の穢れ地と言われた「穢土→エド→江戸」のひとも住めぬ湿地帯を開拓した、飛鳥ヤマト時代から高度土木建築技術を伝承している秦氏末裔穢多頭の弾左衛門家の家紋も十字だったのです。江戸時代末期、藤原氏末裔近衛家にコントロールされた、倒幕を画策する島津氏の密使が、関八州の役座を束ねる弾左衛門家を訪れ、「十字家紋の島津家と弾家とは、秦氏の同族ぞ。」と囁くわけです。
つまり、十字イコールキリスト教ではないのです。そのように、古代エジプトから伝わる「太陽の教え」を時間をかけて、ローマ帝国でミトラ教を歴史上抹殺(聖滅)したキリスト教徒のように、日本列島の山奥に生息する「太陽の教え」を信じる民族の文化を、キリスト教の布教という名目で抹殺・隠蔽していたのが、イエズス会の山奥での活動のひとつでもあったのです。
紀元前722年アッシリア帝国の砂漠へ逃れたイスラエル十部族は、消えたのではなく、古代エジプトの多神教から一神教への宗教改革をおこなったアメンホテプ四世(イクナトン)が発明した「太陽神アトンの掟」を、「モーセ十戒」としたユダヤ教の神ヤハヴェが、ヘブライ国王ソロモンと同じに「ヤコブ」であることを知っていたため、ユダヤ・キリスト教徒により、消され(聖滅され)ていたのです。
その「消されたイスラエル十部族」の、製鉄・石切・運河削掘・石材による都市建設の技術を持ち、太陽神と牡牛を祀るエフライム一族末裔は、ギリシャ文化を持ち、製鉄・金メッキの技術を持つ騎馬民族スキタイ末裔と伴にユーラシア大陸を東進し、朝鮮半島を経由して、三世紀に日本列島に渡来していたのです。
その時期から、日本列島全土に、エジプト・オリエントの高度建設技術を駆使して築造された、古代エジプトのクフ王のピラミッドを上回る規模の前方後方墳が現れるわけです。このことにより、四世紀以降の古墳から、金メッキの馬具が出土しているこからも、騎馬民族スキタイ末裔と製鉄民族ヨセフの末裔エフライム(後の秦氏)の渡来が示唆されるのです。
古代の戸来村に、キリストが渡来していたことを、100%否定できないのです。それは、「キリスト」とは、ギリシャ語で、そして、その意味は、「救い主」(ヘブライ語でメシア)であるからです。つまり、「聖書物語」の中で頭に油を注がれた「キリスト」だけが、「キリスト」ではないのです。「救い主」は、全てギリシャ語では「キリスト」なのです。
古代陸奥国の戸来村を訪れた、高度知識を携えた「救い主」とは、誰だったのでしょうか。そして、戸来村がある古の陸奥国全土が、藤原氏と百済亡命貴族末裔に平定されたのは、鎌倉時代初期であったのです。そして、その時期に、鎌倉仏教が発明され、そして、不可触賎民「穢多」がインド思想を基に発明されていたのです。では、この鎌倉仏教と民族差別の穢多思想発明は、藤原氏と関係があったのでしょうか。
イエズス会の外洋船とペリー艦隊とが、三百年の時を隔てて、伴にマカオ港から日本列島に渡来していたことの理由は、マカオ港(南海→廣州→マカオ・香港)は古代からオリエント(アラブ)から中国大陸への国際交易中継港であり、国際交易商人のコロニーがあったからです。
歴史上では、北魏(386年〜534年)の僧法顕は、399年陸路で洛陽からインドを目指し、帰路は国際交易外洋船により、南インドから南海(後の香港・マカオ)を経て、中国山東半島の牢山から上陸して、414年洛陽に帰朝していたのです。
と言うことは、南インドのマラバル沿岸には、紀元前十世紀ヘブライ国のソロモン王の依頼により、インドの香木・孔雀・猿・香料交易のため、海流と貿易風を利用して航行する帆船を開発した国際海洋民族のフェニキア商人が渡来していたわけですから、五世紀には、オリエント(アラブ・ペルシャ)→インド→中国(漂流して南九州坊津)への国際交易海路があったことが推測されるわけです。
鎌倉幕府が成立する前後のユーラシア大陸の各民族国の動きを見ると、907年唐が滅び、五代十国の分裂時代を経て、960年宋国が中国大陸を統一するのですが、北方の騎馬・遊牧民族の契丹(遼)が金を飲み込み、宋国の北方領土を奪い、1115年金王国(北朝)とするのです。ここに、農耕系南朝の南宋(1127年〜1279年)と騎馬系北朝の金(1115年〜1234年)とが、東アジアの中国大陸を支配するのです。この南北朝の文化の違いを、「南船北馬」と言うわけです。
この十二世紀前後の、中国大陸での南北の戦いは、唐との戦闘に破れ、戦いを忘れていた中央ユーラシアの騎馬・遊牧民族を刺激するのです。
七世紀後半、唐に散逸された騎馬民族国の突厥帝国(飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の母国)の末裔が、ユーラシア大陸でちりじりになって暮す騎馬小部族を集結していくのです。その流れの中で、1206年、騎馬民族末裔源義経の部族シンボルと同じ笹リンドウ紋を掲げるテムチンが、中央アジアを支配していたナイマン部を滅ぼし、チンギス汗と称するわけです。これが、後の元(蒙古帝国1271年〜1368年)となるわけです。
そのように、十世紀から十二世紀前後にかけて、中央ユーラシアは激動の時代であったので、ヨーロッパと中国との国際交易は、陸路のシルクロードから、海路の南海ロードへと移り行くわけです。そのオリエント→インド→中国への交易海路の中継地としての南海の港は、国際港の廣州(後のマカオ・香港)へと発展していくわけです。
その結果、ペルシャ・インド文化が国際海洋商人により、南海ロードから、陸路のシルクロード支配を北朝の金に奪われた、南朝の南宋にもたらされるのです。
そして、カースト制度の民族差別思想を持ったインドからのヨーガが、南宋で仏教思想と融合して、禅宗として興るのです。その禅宗が、インドのカースト制度の民族差別思想と伴に、鎌倉初期に、南宋から日本列島に渡来するわけです。
日本列島は、古代から江戸時代までは、日本海側が、太平洋側より、文化が進んでいたのです。それは、ユーラシア大陸のシルクロード、草原ロードから、オリエント文化と伴に渡来した民族が、内海である日本海を船舶により横断して、日本海沿岸に渡来していたからです。特に、朝鮮半島から北九州へは、駱駝商隊によるシルクロードからの渡来民族です。そして、サハリンから北海道へは、騎馬商隊による草原ロードからの渡来民族のルートとなっていたのです。
その十世紀ユーラシア大陸での、騎馬民族対農耕民族との抗争は、南海ロード交易を更に発達させたのです。しかし、その南海ロードを使って、アラブの国際海洋商人が外洋船で日本列島に渡来できても、日本海側の港はすでに、シルクロード・草原ロードからの先住民族に支配されていたので、上陸できるのは、太平洋側であったのです。
五世紀以降、南九州坊津は、中臣族(後の藤原氏)に支配されていたので、更に、黒潮に乗って北上すると、そこは、紀伊半島、更に、伊勢湾へ渡来できるのです。そこで、南インドのマラバル沿岸から渡来した民族より遅れた、アラブ(ペルシャ)から渡来した、赤い衣を着た国際海洋商人は、伊勢湾を渡来港とするのです。
672年新羅系大海人皇子が、百済亡命王朝の近江を攻めた時、大海人皇子軍を、インドのベンガラ染めの赤旗をなびかせて支援した伊勢の軍隊は、アラブ(ペルシャ)から渡来していたのです。何故、伊勢がアラブ商人により支配されたのかは、伊勢地域には朱砂の産地があったからです。伊勢→吉野→四国の宗教施設ルートは、中央構造線上にあり、そこでは、縄文時代から朱砂が産出されていたのです。
そのアラブ(ペルシャ)から伊勢に渡来した民族末裔が、平安末期王権を奪うのです。それが、「平氏」ではなく、ペルシャから渡来の「平家」なのです。
「平氏」と「平家」は、同じではないのです。「平氏」は、825年淳和天皇より賜姓された「官名・公家桓武平氏」であるのに対して、「平家」は、1108年藤原氏のガードマン源義親を追討した、アラブ(ペルシャ)商人護衛軍団末裔を、藤原氏に対抗する白河上皇が、ガードマンとして雇った私兵を、「平家」の正盛と名付けた「私名」であったのです。
学校歴史教育では、日本には資源が無く、あるのは労働力のみだと教えているのは、何故でしょう。
日本列島には、縄文の昔から、イエズス会まで、日本列島各地から産出する、金、銀、銅を求めて、異国の民族が渡来していたのです。島根県の石見などは、十六世紀にメキシコで銀鉱脈が発見されなければ、世界一の銀産出地であったのです。その日本列島での組織的鉱脈開発は、錬金術師空海から始るのです。
平安初期、最澄と空海が、唐に留学の目的は、表向きには仏教経典を持ち帰ることですが、その裏には、鉱脈開発のノウハウと探索工具の購入だったのです。最澄が、留学費は唐国負担なのに、砂金を多く持参したのは何故でしょう。それは、仏典ではなく、採掘工具を購入するためだったのです。何故、仏典ではなく採掘工具を購入したと言えるのかは、それは、最澄は、その一年数ヵ月後に帰朝した、年下の空海に頭を下げて、多くの仏典を借りているからです。
それを裏付けるように、最澄が八ヶ月で唐から帰朝すると、桓武天皇は、鉱物資源が眠る陸奥国への侵略を陸路から開始するのです。それに対して、空海のスポンサーである藤原氏は、海路から陸奥国へ侵入し、陸奥国に奥州藤原氏を興し、陸奥国の金鉱脈を独り占めするわけです。その陸奥の金は、青森県の十三湊から北朝の金へ向けて輸出されるわけです。
平安時代後期、アラブからの歌姫を、京の賀茂川東岸の葬送地である「ギオン」に集め、おんなと莫大な献金とにより、1086年院政をひいた白河上皇に接近した、伊勢湾沿岸を支配するアラブの商人は、やがて、白河上皇の私兵の平正盛となり、「平家」の祖となるわけです。その息子平忠盛は、1132年内昇殿を許されるのです。そして、平忠盛の息子(白河法皇の落胤)平清盛は、1167年太政大臣となるのです。
この平清盛が平安政権を握ると、藤原氏、百済亡命貴族末裔と比叡山延暦寺の既得権を奪い取る行動に出るのです。天下人となった平清盛は、日本列島から産出する金・銀・銅を、アラブや南宋へ売り捌き、その見返りとして南宋の宋銭を多量に日本列島に持ち込んだのです。
何故、宋銭が、藤原氏、百済亡命貴族末裔、そして比叡山延暦寺の既得権を奪い取るのかと言えば、奈良時代まで続いた貨幣経済は、誰でも蓄財することができるため、王権を脅かす勢力を育成する可能性があったからです。
貨幣経済や為替経済は、遠隔交易を騎馬により可能とした騎馬民族が発明したものなのです。奈良時代に騎馬民族末裔の天武王朝を抹殺した藤原氏は、奈良末期、騎馬民族の経済行動を封印するために、貨幣経済から、物々交換経済に移行していたのです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇を道鏡の陰謀で倒した藤原氏の王権を、唐進駐軍の支援により奪い取った、百済系桓武天皇も、794年平安京に遷都すると、貨幣経済を否定していたのです。
平安時代、西国では、「米」を、そして、東国では「絹」を貨幣の代わりに使っていたのです。仏寺では、紙に文字を書いた「幣」を物との交換に使っていたのです。
何故、東国の対価物が、「米」ではなく、「絹」であったのかは、それは、唐進駐軍が、中国・雲南の繭(ポンピックス・モリ)を日本列島に持ち込み、東国の農奴に蚕を飼育させ、絹糸を生産させていたからです。蚕の餌である桑畑の北上は、正に、唐進駐軍・桓武天皇軍の支配地北上と重なるのです。
これらの「米・絹・幣」の価値を、時の情勢を見ながら、王権や仏教組織が勝手に決めることにより、庶民から莫大な利益を享受していたのです。
平清盛は、アラブの軍事勢力を背景としているため、平安王朝の誰も手出しができなかったのです。それを良いことに、1180年平重衡は、東大寺に火を放ち全焼させているのです。平家は、アラブ思想を持っていたので、そして、インド文化も知っていたので、大乗仏教の多くの仏像がインドの鬼神であると知っていたので、怨霊を封じ込めていると信じられていた、僧兵の強訴の武器であった「神輿」に矢を射掛けたり、破壊したりしていたのです。
平安後期には、907年百済王朝を支えていた唐進駐軍の母国が滅亡していたために、平家の軍事勢力に対抗できる、平安王朝側の軍事勢力はいなかったのです。桓武平氏は、「武士」ではなく「サムライ」であったので、秘書業務はできても、戦闘の実践向きではなかったので、軍事力に勝る平家により、下界と言われた関東僻地へ追いやられていたのです。そこで、藤原氏と百済亡命貴族末裔に目を付けられたのが、陸奥に棲息する蝦夷末裔であったのです。
蝦夷とは、王権が付けた蔑称で、ヒゲのある夷の意味です。古代飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝は、突厥(チュルクを漢字化)と同族のトルコ系の騎馬民族であったのです。今でも、トルコ系民族はヒゲをたくわえているように、古のチュルク系騎馬民族も、ヒゲをたくわえていたのです。
645年唐進駐軍に支援された中臣軍(藤原氏の祖)により、蘇我王朝が倒されると、蘇我軍残党は、近畿の山奥や陸奥国に逃避していたのです。平安時代初期、その陸奥国へ、金・銀・銅の鉱物資源簒奪のために、唐進駐軍に支援された桓武天皇軍は、侵略を始めるわけです。
そして、801年金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、陸奥国の酋長アテルイは京で斬首され、陸奥国は平定されるのです。その時に、捕虜となった蝦夷の武人が、桓武天皇により謀殺された早良親王の怨霊を鎮めるために、公家源氏支配下の「もののふ」となり、そして、その武芸により魂鎮めをおこなう「もののふ」が、天慶の乱の平定で平安王朝から戦闘武力が認められて、武家源氏の武士となるわけです。ですから、武士は、俘囚末裔と言われるのは、そのためです。しかし、武家源氏の祖は、俘囚の陸奥蝦夷などではなく、その祖は古代飛鳥ヤマトを支配していた王族の騎馬軍団末裔であったのです。
何故、古代飛鳥ヤマトを支配した蘇我王族を守った騎馬軍団末裔が俘囚なのでしょう。そして、蘇我王族の軍事都市ヤマトを、石材で建設し、奈良盆地の湿地帯を巨大古墳を築造することで耕地に変えた、高度土木・建築技術で支援した、秦氏末裔が穢多なのでしょう。
古代飛鳥ヤマトの王族末裔が、賎民に貶められたのは、藤原氏により、「日本古来から存在した神道を渡来仏教に代え、六世紀の飛鳥ヤマトは仏教文化で繁栄していた。」、という「情報操作」を「日本書紀」に綴った結果だったのです。
実際の六世紀古代飛鳥ヤマトには、仏寺などひとつもなく、608年隋使が浪速から船で飛鳥の都まで行けるほどの幅広の運河があり、道幅十二mの直線道路が造られ、都の石葺きの公園池には噴水があり、巨石モニュメントや工業用石築造物があり、そして、ガラス器製造工場や富本銭製造工場もあった、オリエント色の強い文化都市であったのです。では、そのオリエント文化を抹殺し、仏教文化で隠蔽した藤原氏の「日本書紀」による情報戦略は、どこからもたらされたのでしようか。
権力とは何でしょう。それは、情報です。その情報を管理し、操作できる地位にいる者が、権力者となれるわけです。ですから、権力者は、常に情報に敏感であるのです。そして、権力者に少しでも不利な情報は、抹殺或いは隠蔽をおこなうのです。そして、権力者は、権力者に有利な情報を、反権力者による破壊から守るために、文字により固定化する必要があったのです。それが、「歴史書」であり、「経典」となるわけです。
紀元一世紀、ローマ帝国軍に占領されたカナンの地に、ローマ帝国軍に反旗を翻す「ヨシュアはメシア」と唱えるユダヤ教の一団が出現するのです。そして、その集団は、ギリシャ語で書かれた多数の教本から、その集団に都合の良い46冊の教本で合本を作り、その合本(ビブリア→バイブル→聖書)の情報を根拠として、ヨシュアがモーセ末裔であると主張するのです。
そのヨシュア派に対して、本家のユダヤ教祭祀はヤムニア会議により、多数のヘブル語教本から、正典と外典とに分け、24書の合本で「旧約聖書」を作るのです。その時期は、およそ紀元98年頃です。つまり、今ある合本としてのユダヤ教の「旧約聖書」は、ヨシュア派による情報操作を否定するために作られたものなのです。
更に、1517年マルチン・ルターによるカトリック教会批判の95ヶ条の宣誓により始る宗教改革の結果、カトリックから分離独立したプロテスタントの「旧約聖書」は、39書を合本したものであったのです。それぞれの宗教組織は、それぞれの権力を維持するために、それぞれに都合の良い「情報操作」をして「旧約聖書」を創っていたのです。
そして、その免罪符を販売するカトリック教会の欺瞞(情報操作)を民衆に宣伝するプロテスタント(うそっぱちの宣伝をプロパガンダというのは、「プロテスタントの布教」が原語です。)を聖滅するために、1534年イエズス会が、パリで創設されたのです。
つまり、合本であるユダヤ教のヘブライ語「旧約聖書」は、ヨシュア派のギリシャ語「旧約聖書」より新しかったのです。
ヘブライ語は、そうとう古い言語と思われているようですが、ヘブライ語は西セム族の言葉で、アラム語から派生した言語です。そのヘブライ語の意味は、「ヘブルびとの言葉」ということで、そのヘブルとは、国境周辺の者とか、国境を越えて侵入してくる者、あるいは動き回る者(放浪者)であるのです。
そのヨシュア派のギリシャ語経典は、紀元前三世紀エジプトのアレクサンドリアに72人の聖書学者を集めて72日間で(アラム語?・ヘブライ語?から)翻訳させた、と言われています。しかし、それは伝説で、情報操作であるのです。
古代ギリシャのアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、ペルシャ帝国を倒すことにより、西洋文化と東洋文化とが融合してヘレニズム文化となるわけですが、紀元前323年アレクサンドル大王がバビロンで病死すると、ギリシャから北インドまであったアレクサンドル大王領は、それぞれの民族により分国にされ、その地からギリシャ文化は消えてしまうのです。
西洋の歴史学者は、そのギリシャ文化は、エジプト王国(紀元前305年〜紀元前30年)のアレクサンドリアに継承され、それが後に、ヨーロッパに引き継がれていったと主張しているのです。しかし、それは情報操作です。
実際は、アレクサンドル大王領のギリシャ文化は、中央アジアのバクトリア国(後の国際交易都市ガンダーラの地。キリスト・ブッダ誕生・奇跡物語発祥の地。)に引き継がれていたのです。そのバクトリアのギリシャ文化が、紀元571年イスラームのサラセン帝国に取り入れられ、そのイスラーム国のギリシャ文化が、1096年第一回十字軍のヨーロッパからの遠征で、キリスト教徒騎士団と遭遇するわけです。
しかし、装備があまりにもみすぼらしい十字軍騎士団は、ローマ教皇が指令した異教徒の聖滅により、十字軍の旗の下に、「旧約聖書」にあるように、イスラームの村々の男は虐殺し、婦女は陵辱され、破壊の限りを尽くすのです。それに対して、豪華絢爛装備のイスラーム戦士は、騎士道精神により、戦いに敗れた十字軍戦士を故国に送り返していたのです。そのような文化の違いを目の当たりにした第一回十字軍騎士団は、そのギリシャ文化を取り入れたイスラーム世界に埋没してしまうのです。つまり、弱者を守るヨーロッパの騎士道精神は、日本武士道が新羅(秦羅)花郎騎士道から学んだように、イスラームからのものなのです。
そして、その度重なる十字軍騎士のヨーロッパからの遠征により、イスラーム化したギリシャ文化が、帰国した十字軍騎士団によりヨーロッパに伝わるわけです。ですから、今ある、ヨーロッパ王族の戴冠儀式で使う王冠やマントは、イスラーム化したギリシャ文化からの租借なのです。
イスラーム化したギリシャ文化のヨーロッパへの影響は、弱者を守る騎士道精神だけではありません。そのイスラームのギリシャ文化は、国際交易商人によりイタリアに持ち込まれ、14世紀に始るルネッサンスの起爆剤となるのです。そして、イスラームの築城技術が、ヨーロッパに持ち込まれ、今に見る美しい城となるわけです。このヨーロッパ城の築城思想を、イエズス会の宣教師から学び、その思想を真似て、織田信長は、1576年石垣の上に天主閣のある城を、日本で始めて建設したのです。
では、何故、ユダヤ教ヨシュア派は、ギリシャ語「旧約聖書」を創ったのでしょうか。それは、ユダヤ教本には、異民族の国や文化を乗っ取る方法が記されていたからです。
カナンの地は、「旧約聖書」の教本によれば、唯一神ヤハヴェから、イスラエル民族に与えられた地だったのです。そこで、カナンの地をローマ帝国から取り戻そうとしたヨシュア派は、ユダヤ教の「旧約聖書」で、ヤハヴェからカナンの地を与えられたとする物語を利用することを考え出したのです。それには、「旧約聖書」を「新約聖書」に繋げて、ヨシュアをモーセの子孫とすれば、良いわけです。
しかし、この試みは失敗し、逆に、ユダヤ教ヨシュア派は、ローマ帝国軍に浸透していた、太陽神の下での平等を説くローマ軍の軍神ミトラ(ラテン語でミトラス神)を疎ましく思う、ローマ帝国王権に取り入れられて、392年ユダヤ教ヨシュア派は、キリスト教となり、ローマ帝国の国教となってしまうのです。
ユダヤ教ヨシュア派がローマ帝国軍との闘争を開始した紀元一世紀のシルクロード西方では、ローマ帝国とパルチア王国が領土争いをしているように、東方では、後漢と匈奴とが領土争いをしていたのです。
紀元一世紀、絹は、ローマ帝国内で、金と同等の重さで取引がおこなわれたように、利益の出る国際交易商品となっていたのです。そこで、中国大陸でのみ産出される絹製品は、国際交易商人に最も需要のある交易品となっていたのです。そこで、シルクロード国際交易商人も、当然その西方と東方との争いに巻き込まれるわけです。
その紀元一世紀に、西方と東方とのシルクロード国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ系仏像と無数の経典とにより、大乗仏教が発明されるわけです。
そして、大乗仏教の教祖ブッダ(紀元前五世紀の釈尊とは別。ブッダ=覚醒した者)の誕生・奇跡物語ソックリの、そして、法華経物語ソックリのヨハネ福音書に語られる、ヨシュアも、紀元一世紀のローマ帝国シリア領で誕生するのです。
その国際交易都市ガンダーラの祖は、ギリシャ文化を継承したバクトリア国で、そのギリシャ文化には、哲学者ターレス・ソクラテス・プラトン・アリストテレス、数学・建築学者ピタゴラス、歴史学者ヘロドトス、彫刻家スコーパス、自然科学者デモクリトスなどの思想が継承されていたのです。ですから、中国・インド文化の抹香くさい大乗仏教経典と思われているものが、以外にも科学的なのは、多くの経典類が文殊徒に創作されたガンダーラの地が、科学・自然科学思想を継承したギリシャ文化国だったからです。
その絹交易の中継交易地ガンダーラで発明された聖物語が、国際交易商人と伴に、西に向いユダヤ教に寄生したのがユダヤ・キリスト教となり、東に向かい釈尊の教えに寄生したのが大乗仏教となるわけです。
しかし、紛争が激しい陸路のシルクロードを避けて、ガンダーラから南下する国際交易商人もいたのです。その目的地は、ヘブライ国ソロモン時代に海洋交易があった、南インドのマラバル沿岸です。
その結果、紀元二世紀には、南インドのマラバル沿岸のムジリスでは、ローマ帝国領アレクサンドリアとの国際交易で、インドから象牙、真珠、香料、宝石、木綿を輸出し、アレクサンドリアから金属、ガラス器、ぶどう酒、金貨を輸入していたのです。当然、そこには、ユダヤ・キリスト教教会が建設されていたのです。古来から仏寺とか教会の建物は、強固に建築されているのは、表向きは布教のための施設ですが、裏面では、交易のための倉庫、異教徒との戦闘時には砦として使われていたからです。
四世紀の南インドのマラバル沿岸による国際海洋交易が隆盛となるのに反して、内陸のシルクロード周辺国は、中央ユーラシアから南下する騎馬民族に脅かされていたのです。
四世紀、ジューゼン(柔然・蠕蠕・茹茹)が、匈奴が去った後の蒙古高原を支配して柔然となるのです。そして、552年騎馬民族の突厥(チュルクを漢語化)のトメン(中国語で土門)が、この柔然を破り、突厥帝国を興し、南接する北魏の継承国北周・北齊、その後の隋・唐と死闘を繰り返すのです。この騎馬民族の突厥帝国と農耕民族の中国王朝北周・北齊・隋・唐との死闘時代が、日本列島での、飛鳥・奈良時代であるのです。
ですから、日本列島の飛鳥・奈良時代も、平穏で優雅な時代などではなく、東アジアの権力闘争の影響を強く受けた、騎馬民族対農耕民族との闘争の時代だったのです。
この突厥帝国は、530年飛鳥ヤマトに突然現れた蘇我稲目(チュルク本名不詳)を支援し、その支援により蘇我稲目は、朱砂の国際交易地の三輪山の支配を廻り、高句麗・百済・新羅進駐軍が三つ巴の戦いを行っていた飛鳥ヤマトを、騎馬の軍事力により統一したのです。
そして、六世紀に、その飛鳥ヤマトを統一した騎馬民族の蘇我王朝が、720年藤原不比等が創作した「日本書紀」で記述するところの「大和朝廷」の実態であるのです。
突厥帝国は、絹製品の国際交易に熱心で、東ローマ帝国(395年東西に分裂)とは、内陸砂漠のシルクロードではなく、ユーラシアを貫く草原ロードを使用して、交易をおこなっていたのです。ですから、東ローマ帝国領のローマン・グラスは、黒海沿岸で製造され、騎馬商隊により、草原ロードから突厥帝国まで運ばれていたのです。
このローマン・グラスが、高句麗や百済の古墳から出土しないで、百済の隣国新羅の古墳から出土するのは、ギリシャ・ローマ文化国新羅が、草原ロードの騎馬民族系だからです。
そして、そのローマン・グラスは、聖武天皇の遺品を納める正倉院にあるのは、聖武天皇が、騎馬民族系、新羅系天武天皇の流れにあったからです。因みに、正倉院の校倉造りとは、南方系建築様式などではなく、騎馬民族スキタイの越冬用建築様式であったのです。
568年東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが、突厥帝国の庭(天子が降りる処。)に入るのです。その東ローマ帝国遠征軍の中には、キリスト教を国教としたテオドシウス1世になじまない、古来からミトラ神を崇拝する傭兵軍団も存在していたのです。
六世紀の東ローマ帝国と突厥帝国とは、ローマン・グラスと絹製品の国際交易により、西と東で結ばれていたのです。そして、交易品と伴に東ローマ帝国の文化は、朝鮮半島の新羅を経て、奈良の飛鳥ヤマトとも繋がっていたのです。飛鳥ヤマトを基点として、幅十二mのローマ軍式直線の軍事道路の遺構が発掘される理由が、その流れから納得できます。
六世紀の日本列島飛鳥ヤマトに渡来した、これらのギリシャ・ローマ文化と突厥(チュルク)文化は、当然、飛鳥ヤマト文化の礎となっていたのです。
しかし、中国大陸で突厥帝国と死闘を繰り広げていた唐軍の支援により、645年飛鳥ヤマトの蘇我王朝が、南インドから渡来していた中臣軍に破れ、その後、蘇我王朝の継承者である、日本列島初の天武天皇が686年崩御すると、藤原不比等の「旧約聖書」の物語を真似た謀略により、それらの飛鳥ヤマトのオリエント文化は、720年「日本書紀」の情報操作により、仏教文化を手段として、隠蔽されてしまったのです。
その「日本書紀」による情報操作のヒントは、「旧約聖書」の創作過程にあったのです。その先代史を消すための情報操作の基本は、前政権の文化遺産を徹底的に破壊し、その跡に文化施設を新たに建設(移築)することと、文化を綴る書籍の焚書と隠蔽と改竄です。隠蔽・改竄の手段としては、他国の物語を改竄して、元の物語に挿入することです。そして、乗っ取る民族の祖の前に、架空の人物物語を挿入することです。
例えば、「旧約聖書」の情報操作では、鉄器を発明したヒッタイト帝国から出自した鍛冶技術を持つヨセフ族が、古代エジプトで、その鉄工具を使う建設技術により建設監督にまで登りつめたのが、あまりにも性急な一神教太陽神アトンの宗教改革に反発した多神教の祭祀者に、生命を狙われ、エジプトから脱出した歴史を、それから約八百年後のバビロン幽囚時に、レビ族末裔アロン一派が、メソポタミアのアッカド王サルゴン(紀元前2350年〜紀元前2294年)の物語を租借して、「神の使いモーセ」なる人物を創作し、モーセ五書の「出エジプト記」を創作して、ヨセフ族直属であるエフライム族の太陽と牡牛を祀る祭祀権を、メソポタミアからのヘブルであるレビ族のアロン一派が簒奪してしまうのです。つまり、ヒッタイト帝国からのヨセフ族(イスラエル)の歴史が、メソポタミアからのレビ族(ユダヤ)に乗っ取られてしまったのです。そして、レビ族末裔により創作されたモーセ五書により、太陽と牡牛を祀るイスラエル民族の祭祀権は、(架空の)モーセの子孫としてのレビ族アロンの世襲となり、今日に至るわけです。
この「旧約聖書」による祭祀権簒奪の情報操作方法は、「日本書記」では、685年以降藤原氏が天照大神という神様を創作し、天照大神がスサノウの狼藉(そのひとつに、馬の皮を剥いで、機織女官に投げつけた、という場面があります。馬が、日本列島に現れるのは、およそ四世紀と言われています。この物語は、何世紀の日本列島を描写しているのでしょうか。)で洞窟に隠れてしまう天磐戸物語で、祭祀者の天児屋根命を登場させ、日本列島初の祭祀者天児屋根命を、藤原氏の祖としているのです。つまり、後から飛鳥ヤマトに来た藤原氏が、「日本書紀」でギリシャ神話似の物語を創作することにより、先に飛鳥ヤマトに来ていた秦氏、蘇我氏の歴史を乗っ取ってしまったのです。
何故、天照大神が、685年以降に創作されたのかというと、その宮である伊勢神宮が、壬申の乱後、天武天皇により建立されたのが、685年だからです。その伊勢神宮も建立時は、騎馬民族の神である太一(北極星)を祀る宮であったのです。それが後に、天照大神を祀る宮となったのは、藤原氏の情報操作によるものだったのです。
藤原氏が発明したユダヤ教に酷似した中臣神道の神を祀る春日社の創建も、古くはなく、天武天皇系武力勢力が劣えた頃の、768年であったのです。神社が、日本古来から神を祀っていたと多くのひとが信じているのは、藤原氏の情報操作の結果なのです。
更に、「旧約聖書」の情報操作では、モーセが、唯一神ヤハヴェ(古代エジプトの太陽神アトンが変身した神)から与えられた十戒は、世襲祭祀者レビ族アロンの下で、太陽と牡牛を祀るイスラエル民族が絶対守らなければならないとするのです。それに対して、祭祀者天児屋根命を祖とする藤原氏は、720年「日本書紀」で、聖人厩戸皇子を「日本書紀」で発明して、十七条の憲法を創らせ、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。」と述べさせているのです。
厩戸皇子(平安時代に聖徳太子に変身)が、生存したと云われている、574年から622年の飛鳥ヤマトには、仏寺もなければ、仏僧もいなかったのです。その根拠として、藤原氏の興福寺は、710年山背国にあった秦氏の寺(ジ・山階寺=景教寺)を、仏寺に改竄して奈良に移築したものなのです。
仏教伝来552年(百済系では538年)と「日本書記」で記述するのは、その時代以降の飛鳥ヤマトには、秦氏のミトラ寺(景教寺)と蘇我氏の騎馬民族の居住建物である八角堂のパオ(法隆寺の夢堂の祖)が存在していたからです。それらのオリエント・ユーラシアの施設を歴史的に抹殺するには、仏教伝来が、蘇我稲目の飛鳥ヤマト統一直後の、552年(538年)でならなければならなかったのです。
そして、藤原氏が政権を握ると、645年以前にあった飛鳥ヤマトのオリエント色の強い宗教施設や寺(ジ=雑務事務所)は、藤原氏により徹底的に破壊され、その跡に、北九州秦王国にあった仏寺を移築していたのです。その代表例が、厩戸皇子が建立したと云われる法隆寺です。現法隆寺敷地に隣接する地下から、仏教思想とは異なる、太陽神を祀る建築基準の建物跡が発掘されているのは何故でしょう。それは、飛鳥ヤマトには、仏教思想とは異なる、「北極星」と「太陽」を祀る騎馬民族とエフライム族(秦氏)の文化があったからです。
その証拠に、645年突厥帝国に支援された蘇我王朝を倒した、突厥帝国と敵対する唐進駐軍と中臣軍は、その年に仏教興隆の詔を発していたからです。そして、飛鳥ヤマトが、仏教文化ではなかったことを隠蔽するために、飛鳥ヤマトでオリエント渡来の国際交易商人が使っていたアラム語、ソグド語、パフラビィ語、突厥語で記述された書類を焚書・隠滅するために、「蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焚書した。」、と「日本書紀」に記述して情報操作をしていたのです。
それらの藤原氏により抹殺・隠滅された、オリエント国際交易商人が使用した言語は、表音文字であったので、やがて、日本語音を表記する「カタカナ文字」に変身していくわけです。俘囚の末裔と云われる「武士」が、「カタカナ文字」を使用していたのは、「武士」の祖は、新羅花郎軍団で、その祖は、オリエントの表音文字を使用していたローマ帝国傭兵軍だったからです。それらの「武人」に共通するところは、ミトラ神である「太陽」を祀っていたことです。
花郎軍団の「花」とは、化粧した女装のことではなく、「ミトラ」の漢音訳借字であるのです。ですから、花郎軍団とは、太陽神を祀るミトラ軍団ということなのです。392年キリスト教が、ローマ帝国の国教となる前までは、太陽神ミトラが、ローマ帝国軍の軍神であったのです。そして、弱者を守る思想を持つ日本武士道の祖は、←新羅花郎騎士道←ローマ軍騎士道の流れにあったのです。因みに、弱者を守る「任侠道」の役座とは、鎌倉時代に「武士」から枝分かれしたものであったのです。
藤原不比等は、騎馬民族が基本的に歴史書を編纂しない民族であったことをよいことに、六世紀の飛鳥ヤマトの歴史を、ユダヤ教のモーセをモデルとしたような厩戸皇子を登場させ、六世紀の飛鳥ヤマトの実態を改竄・隠蔽していたのです。
藤原不比等が創作した厩戸皇子(後の聖徳太子)の履歴と実績とは、用明天皇の皇子で、おばが推古天皇なのです。そして、厩戸皇子は、推古天皇の皇太子にして摂政なのです。実績としては、冠位十二階・憲法十七条を制定したのです。そして、遣隋使を派遣して大陸の文化を導入したのです。その大陸文化の仏教に帰依し、居住した斑鳩宮に隣接して法隆寺、そして難波に四天王寺、更に飛鳥ヤマトを中心に計七寺を建立して、仏教布教に努めたのです。著作物としては、法華・維摩・勝鬘経の注釈書である「三経義疏」を著していたと云うのです。
しかし、それらの厩戸皇子の履歴と実績は、ユダヤ教のモーセと同じで、飛鳥時代から百年後の奈良時代に、藤原氏一派により創作されたものなのです。
では、六世紀の実際の飛鳥ヤマトは、どのような世界であったのでしょうか。日本列島における六世紀から以前の史料は、藤原氏の焚書により、今現在皆無です。でも、飛鳥ヤマトには、オリエント渡来の遺跡物が多く発掘されていますが、遺跡は歴史を語れません。
そこで、目を中国大陸に転じると、騎馬民族の突厥帝国との戦闘国である隋の「随書」に、600年飛鳥ヤマトから派遣された遣隋使の記述が存在していたのです。さすがの藤原氏も、中国大陸の「随書」には、焚書も改竄もできなかったのです。遣隋使が述べたことを「隋書」で記述するには、

使者言はく、「倭王は天を以て兄と為し、日を以って弟と為す。天、未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停めて云く、我が弟に委ねん」と。高祖曰く、「此れ太だ義理無し」と。

中国の歴史書の真実性は疑われていますが、この記述から想像されるのは、600年の飛鳥ヤマトでの政(まつりごと)は、騎馬民族のものであるようです。騎馬民族は、天子(テングリ=北極星)を敬い、その天命により政を決めていたからです。
その騎馬民族のテングリ(天子)思想が、日本列島に渡来し、テングリから天皇となったのが、672年の太一(北極星)を祀る天武天皇からであったのです。
ですから、天武天皇(672年〜686年)以前には、日本列島には天皇など存在していなかったのです。その証拠に、600年の遣隋使も、隋の文帝に、飛鳥ヤマトは、女帝天皇ではなく、「王(オオキミ)が治めている。」、と述べたわけです。その八年後の608年隋使裴世清の隋帝への報告では、都で倭国の「男王」に謁見した、と報告していたのです。しかし、藤原氏の「日本書紀」によると、600年の飛鳥ヤマトでは、女帝推古天皇の時代(593年〜628年)となっているのです。では、「隋書」と「日本書紀」とのどちらが、情報操作をしていたのでしょうか。
いづれにしても、「日本書紀」、「風土記」、「懐風藻」、「万葉集」などの書籍や古文書で、日本列島史を調べても、それらの史料は、藤原氏、そして、亡命百済貴族により史実を改竄・隠蔽されて記述されたものですから、六世紀の飛鳥ヤマトを支配していた秦氏及び蘇我氏が活躍した日本列島の史実を知ることは困難でしょう。
消された日本列島史を復元するために残された手掛かりとしては、遺跡、伝聞、継承された特殊技術などだけです。しかし、それらは、古代史を語ることはできないのです。そこで、石切の特殊技術の歴史から、日本列島の古代史を推測してみることにしましょう。
1576年戦国時代末期、織田信長は、イエズス会の宣教師より、ヨーロッパ城の築城思想を学ぶと、その思想を基に、石垣の上に仏閣を乗せ、天子が降臨する天主閣を頂く、今までの日本列島にはなかった城を完成させるのです。
その築城技術は、短期間のうちに日本列島全土に普及し、天主閣(後に天守閣となる。)を持つ城が、石垣の上に築城されたのです。この織田信長の城建設技術の短期間に日本列島全土に広がる現象は、古代において、相似形の前方後円墳の全国普及と共通しているようです。
日本城の歴史は、戦国末期の石垣上に天主閣のある安土城←室町時代の平城←鎌倉時代の山城←平安・奈良時代の仏閣←飛鳥時代の朝鮮式山城、となるわけです。古来の「城」とは、土を固めて高い壁を造り、その土壁で囲んだ処を意味していたのです。その土がやがて、石に代わっていったのです。
飛鳥時代に渡来した朝鮮式山城とは、山の中腹を石壁で囲んだ防御施設であったのです。そのような築城の歴史的流れのなかで、巨石を用いて石垣を造る技術は、どのような民族により伝承されていたのでしょうか。
石垣を築造するには、石を切り出すための鋼鉄製工具が必要です。それに、巨石を運搬し、それを組み上げる技術が必要なのです。石垣を築造するには、それぞれの技術を持った部族を管理する技術も必要なのです。では、これらの技術は、どのような民族により、古代の日本列島にもたらされたのでしょうか。
石を切るには、鋼鉄工具が必要です。その鋼鉄工具を造るには、鋼鉄を作る必要があります。その鋼鉄を作るには、鉄鉱石を採掘し、精錬する技術が必要です。その鉄鉱石を精錬するには、その技術と強い炎を作るための炭が必要です。その炭を作るには、炭焼きのための炉と木と、その技術が必要なのです。
巨石を切るためには、それらの技術を持った大部族の連携が必要なのです。このような各種技術を持った部族は、いつ、どのようにして日本列島に渡来したのでしょうか。
日本列島では、鉄を精錬することを、「たたら」と言っていました。では、「たたら」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、突厥語で「ととら→たたら」とは、「強い炎」を意味していたのです。
五世紀の中央ユーラシアに興り、六〜七世紀の東から西のユーラシア全土を支配した突厥帝国は、騎馬民族国であるにもかかわらず、製鉄の技術をもっていたのです。騎馬民族は、スキタイの時代から、製鉄技術を持っていたのは、その部族には鉄器を発明したヒッタイト帝国出自のヨセフ末裔がいたからです。
日本列島に製鉄技術の「たたら」を伝承した突厥文化の遺跡を調べると、そこには石人が現れるのです。飛鳥ヤマトと北九州に多く出土するその石人とは、突厥帝国の祭祀用モニュメントのようです。その石人は、騎馬民族国スキタイの昔から、騎馬民族の子孫を見守るように野原にポッンと設像されていたのです。
短期間に移動を繰り返し定住しない、歴史を綴らない騎馬民族の「風の王国文化」は、その民族が抹殺されてしまえば、農耕民族が土地の所有権を主張するために先祖の伝承を文字で残すのとは異なり、その騎馬民族の文化伝承も途絶えてしまうのです。
飛鳥ヤマトと北九州に石人が多く出土することは、そこに騎馬民族突厥が存在したことを示唆します。その石人が、地中深く埋没していた理由としては、北九州では、527年から528年の磐井の反乱と「日本書紀」に伝わる、朝鮮半島南部と北九州との戦争に関係があるようです。
その時期の東アジアでは、北の騎馬民族突厥帝国と南の北魏(423年〜534年)とが、シルクロードの支配権を廻り戦闘を繰り返していた時代であったのです。北魏は、仏教と対立する「道教」を取り入れ、446年から452年まで仏教弾圧をおこなった太武帝(拓跋系王)が死去すると、452年文成帝より仏教国と変身していたのです。
この戦争直後の528年に、朝鮮半島の新羅国は、騎馬民族のギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身しているのです。そして、530年飛鳥ヤマトに突厥(チュルク)系蘇我稲目が出現していることは、「磐井の反乱」とは、朝鮮半島新羅からの騎馬民族突厥帝国軍による、北九州への侵略戦争であった可能性を示唆します。
その根拠として、六世紀半ば、蘇我稲目は、飛鳥ヤマトを軍事支配すると、飛鳥川が流れる丘陵に挟まれた狭い地域に巨石を多用した軍事都市を建設し、そして、朝鮮半島・大陸からの侵攻を阻止するための軍事施設の「ミヤケ」を、瀬戸内海を臨む沿岸に、そして、畿内各地に設置していたからです。そして、北九州から始る、巨石壁に囲まれた防衛施設としての朝鮮式山城が出現するのは、その蘇我稲目からの飛鳥時代なのです。
藤原氏により隠滅された飛鳥ヤマトの騎馬民族のオリエント文化は、突厥帝国軍と伴に渡来した技術部族連合の秦氏が持ち込んだものだったのです。
そして、飛鳥ヤマトで石人の多くが地中深くから発掘されるのは、645年突厥帝国が支援する蘇我王朝の壊滅と関係があったようです。そして、この石人は、朝鮮半島からも出土していたのです。
その石人出土の流れから推測されるのは、歴史書を持たない騎馬民族は、カスピ海沿岸から興った騎馬民族スキタイ→ユーラシア大陸を支配した騎馬民族突厥→ギリシャ・ローマ文化の新羅→北九州→飛鳥ヤマトへの騎馬民族文化の移動の流れです。石人文化の移動は、当然その文化を持った騎馬民族の移動を伴うわけです。
この騎馬民族の飛鳥ヤマトへの石人文化を、藤原氏は、突厥石人→道祖神→仏教地蔵と改竄・隠蔽していたのです。そして、今も歴史書では、突厥石人を、飛鳥ヤマトの謎の石物としているのです。
更に、騎馬民族突厥の、飛鳥ヤマトに残る文化・伝承を調べると、そこに、「トソ・屠蘇」と「ダイゴ・醍醐」の「言葉」に出会うのです。飛鳥文化から始る、屠蘇と醍醐とは、何のことなのでしょうか。それは、「ソ・蘇」とは、米から造る酒ではなく、馬乳酒のことで、そして、醍醐とは、チーズのことなのです。もし、飛鳥ヤマトの文化が、農耕文化を基盤とした仏教文化だったとしたら、騎馬民族の嗜好品である「トソ・ダイゴ」を、どのように説明するのでしょうか。
六世紀の飛鳥ヤマトには、騎馬民族突厥(チュルク=トルコ)文化が存在していたのです。藤原氏は、720年「日本書紀」の創作で、騎馬民族文化を消し去ったつもりでいても、「日本書紀」の中で、蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘を、「刀自古郎女」と記述しているのです。「刀自古」とは、「トルコ」のことで、それは、「突厥」のことなのです。つまり、飛鳥ヤマトでは、蘇我馬子の娘は、「突厥の娘」と言われていたのです。因みに、架空の人物厩戸皇子(後に聖徳太子に変身)の母は、孔部間人王と云うことですが、間人(はしひと)とは、飛鳥ヤマト時代では、ペルシャ人のことだったのです。
では、藤原氏は、何を目的に、飛鳥ヤマトのオリエント渡来の騎馬民族文化を、仏教文化で、抹殺・隠蔽したのでしょうか。それは、騎馬民族スキタイ末裔突厥と伴に渡来した、高度各種技術を保持する部族連合の秦氏が存在したからです。秦氏は、遥か古のヒッタイト帝国出自のヨセフ族末裔(イスラエルの祖)で、レビ族(ユダヤの祖)出自と唯一神ヤハヴェの秘密を知っていたからです。
ですから、レビ族末裔、南インドから渡来した祭祀氏族である中臣族から変身した藤原氏には、その「消されたイスラエル十部族」の最後に残る秦氏一族は、聖滅しなければならない部族だったからです。藤原氏が、レビ族アロン一派により改竄された「旧約聖書」、百済史を基に創作した日本列島史とは、秦氏の歴史的「聖滅」が、大きな目的のひとつだったのです。
秦氏の歴史的聖滅を願う藤原氏に、危惧したことが起こるのです。それは、反ユダヤ・キリスト教のパモス島のヨハネが創作した「ヨハネの黙示録」のような、反藤原氏・反亡命百済貴族の秦氏末裔多人長が創作した「古事記」が、平安時代に現れたからです。

神輿の黙示録(19)(消された蘇我王朝末裔:何故、猿が馬を守るのか)



日本国の正史と信じられている「日本書紀」によれば、「日本は神国」であると云っているわけです。が、しかし、蘇我王朝末裔から言わせて貰えば、「日本は秦国」であったのです。
しかし、「秦氏の国」が、645年唐進駐軍と中臣軍により壊滅すると、南インドから渡来の中臣族が藤原氏に変身し、そして、その藤原氏の政権を乗っ取った亡命百済貴族は、秦氏支配地跡に平安京として遷都し、そして、「日本書紀」、「万葉集」、「懐風藻」、「新撰姓氏録」で歴史を改竄することにより、日本列島の飛鳥ヤマトに蘇我王朝を興したオリエント渡来の騎馬民族文化を、日本列島史から抹殺してしまったのです。
そして、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族は、藤原氏の奈良仏教勢力と亡命百済貴族の平安仏教勢力とにより、賎民に落とされてしまったのです。その貶めの手段としての格言に、「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」などがあり、そして、騎馬民族末裔を罵倒するセリフに、「どこの馬の骨か分からない奴。」、があります。もっと端的には、「馬鹿」、「アホウ」があります。
「馬鹿」の意味は、馬も鹿も分からない「能力の劣る者」、或いは、「馬」を「鹿」と言わせる命令に逆らうことのできない「奴隷状態の者」のことであるわけです。因みに、「鹿」は、騎馬民族スキタイのシンボルであり、飛鳥ヤマトでは、蘇我王朝は、小鹿の角から、現在も高級精力ドリンクに添加されている、ロクジョウを精製していたのです。
その蘇我王朝の二代目オオキミは、「馬子」で、その孫が「入鹿」なのです。「日本書紀」を創作した藤原氏は、六世紀に天皇など存在していないのに、蘇我氏を天皇殺しの大悪人とし、その祖父と孫の名前で、「馬鹿」として貶めていたのです。因みに、入鹿の父は、「蝦夷」で、その意味は、ヒゲのある夷(えびす)のことです。
では、「アホウ」とは何でしょう。それは、古代ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅数詞で「九」の意味です。その「アホウ・九」が、簒奪王権により新羅系日本人にたいしての侮蔑語となり、「ヨエル・十」に対して、ひとつ「足りない者」の意味となってしまったのです。
「アホウ」は、近畿地方の先住民である新羅(秦羅)末裔秦氏の土地を、794年に亡命百済貴族が乗っ取り「平安京」とし、そして、秦氏の神である太陽神ミトラ(簒奪王権により魔多羅となる。)を祀る比叡山に、亡命百済貴族末裔桓武天皇が中国から導入した天台宗の仏寺延暦寺を建立し、先住民の秦氏(新羅系日本人)を侮蔑するために発明されたものであったのです。
唐進駐軍の支援の下、山背国を乗っ取った亡命百済貴族は、何故、秦氏を憎むのかは、それは、663年亡命百済貴族の母国が、唐・新羅連合軍により、滅ぼされてしまったからです。
その母国を滅ぼされ、難民として暮した中国山東半島から平安京へ移民して来た亡命百済貴族にとっては、新羅末裔秦氏は、藤原氏(ユダヤ)が民族・宗教の秘密を知る秦氏(イスラエル)を聖滅したいように、抹殺すべき民族であったのです。その亡命百済貴族が支配する平安京で暮す秦氏は、そのことにより氏名を、秦氏から惟宗氏に代えていたのです。
この亡命百済貴族が支配する比叡山延暦寺は、仏を祀る只の仏寺などではなく、中国系薙刀で武装する僧兵が警備する亡命百済貴族の山城の砦でもあったのです。この比叡山は、1571年イエズス会から仏教聖滅の命を受けた織田信長軍による焼討ち時には、戦国時代最大の難攻不落の軍事要塞だったのです。
つまり、平安時代より日本列島では、簒奪王権により、前支配者であった騎馬民族を貶める「言葉」が、「馬鹿」と「アホウ」の侮蔑語だったのです。
この秦氏末裔を侮蔑する「言葉」が、現在でも、多くのひとにより意味も知らずに使われているのです。それは、藤原氏と亡命百済貴族による「日本書紀」を基盤とした歴史教育の情報操作が、完璧だったからです。
しかし、20世紀「ヨハネの黙示録」の暗号解読により、「旧約聖書」の秘密が明かされ、ユダヤ教の神が解明されたように、「古事記」の暗号解読により、「日本書紀」の謎が解読された結果、騎馬民族を貶めた、藤原氏の武器であった大乗仏教と中臣神道の秘密が解明されたのです。
それは、ユダヤ教、それに類似する中臣神道、そして大乗仏教は共に、太陽神アトン(古代エジプトでミトラ神が変身した神)を祀っていた民族から太陽神を簒奪して、創作された宗教だったのです。
ユダヤ教の唯一神ヤハヴェ←唯一神太陽神アトン←太陽神ミトラ、中臣神道の天照大神←太陽神ミトラ、大乗仏教の大日如来←遍照鬼←太陽神ミトラ、であったのです。因みに、鎌倉時代に流行した阿弥陀様は←エジプトのアミ様←太陽神アトン←太陽神ミトラ、であったのです。
「古事記」の完成は、教科書歴史に記述されているように、712年ではないのです。実際は、百年後の平安初期812年完成だったのです。その「古事記」の奥付に、秦氏末裔多人長が、712年を記載した意味は、藤原氏が前政権のオリエント渡来の騎馬民族文化を消すために、713年に人名・地名を、オリエント色から日本色に変えるために、漢字二字で表記する命令である「好字令」を発していたからです。つまり、奥付に712年「古事記」完成とすることで、「「日本書紀」に記述された漢字二字語で表記した人名・地名は疑え。」、との暗号を発するためだったのです。
そして、「古事記」の序に天武天皇の言葉を記載しているのに、女帝推古天皇の記事で終わらせた暗号は、サイファー式暗号解読法として、文章中にある同じ文字・文章は「抹殺せよ」であることから、「日本書紀」と「古事記」とにある同じ文字・文章を抹殺することにより、女帝推古天皇の存在を「否定」するためだったのです。
そもそも、騎馬民族の天子(テングリ)思想から派生した天皇の始まりは、672年騎馬民族新羅系天武天皇であるわけですから、奈良時代に怪僧淡海三船が架空天皇名を創作した弘文天皇より以前には、日本列島史には、誰ひとり天皇など存在していなかったのです。存在したのは、各国から渡来した民族長である「オオキミ」であったのです。
そして、「古事記」の暗号により、女帝推古天皇の存在が否定されれば、飛鳥ヤマトで仏教布教に貢献した「厩戸皇子」の存在も否定されるわけです。
つまり、平安時代に秦氏末裔多人長は、仏教伝来の謎解きのヒントを、パモス島のヨハネによる「ヨハネの黙示録」の「666の謎」のように、「古事記」で暗号を発していたのです。
平安時代から「馬」は、簒奪王権により侮蔑の対象となってしまいましたが、「牛」はどうでしょう。「牛」と言えば、広隆寺の牛祭りが思い浮かぶひともいるでしょう。その牛祭りの「牛」は、「牛頭天皇」と言われていたのです。後に「天皇」が「天王」に代えられてしまいましたが、何故、牛が天皇なのでしょうか。
牛に関する記述を調べると、奈良時代の741年牛馬を殺すを禁ず、とあるのです。そして、平安時代の804年牛の屠殺を禁ず、とあるのです。何故、王権は、牛の屠殺禁止の詔を発してまでして、牛の屠殺を禁止させたのでしょうか。それは、牛の屠殺は、前政権の秦氏の祭祀に関係があったからです。秦氏は、イスラエル民族と同じに、太陽と牡牛を祀る民族であったのです。
太陽と牡牛を祀る歴史を辿れば、紀元前十四世紀のヒッタイト帝国に行き着きます。ヒッタイト帝国での契約神ミトラは、やがて、古代エジプトで唯一神の太陽神アトンに変身し、そこで、太陽神の化身として牡牛が選ばれたのです。その太陽神と牡牛を祀る民族は、やがて、廃墟のカナンの地に定着すると、その土着神ミトラと融合して太陽神バアルとなるのです。
太陽は、西の空に沈むと、やがて東の空から出現することで、死と生を繰り返す不死身の神ミトラとして祀られるのです。その自然現象からやがて宗教儀式が発明されるのです。それが、太陽光線が一年中で最も弱くなる日の冬至での、復活祭です。このミトラ神の復活の日、12月25日が、やがて新興宗教キリスト教に導入され、キリストの誕生日「クリスマスの日」となり今日に至るわけです。
太陽を祀る民族には、この冬至の太陽光を浴びると、死から再生できると信じられていたのです。そして、その冬至の太陽光の下で、太陽神の化身牡牛を屠り、その牡牛の生血と肉を食べることにより太陽神と一体になり、太陽神再生の儀式が完成するのです。
この、ミトラ教の再生儀式の生血と食肉とが、新興宗教のキリスト教に導入され、赤ぶどう酒と種なしパンの儀式に変身して今日に至るわけです。
1549年イエズス会のザビエルが鹿児島に渡来し、その後、ゼウス(イエス)の教えを説くわけですが、その教えは、平地の民よりも、後にキリシタン大名となった高山右近などの山地それも山奥の民のほうが、ゼウスの教えや儀式を素早く理解できたのは、ゼウスの教えや儀式の多くの基は、元々飛鳥時代には渡来していたミトラ教(景教)のものだったからです。ネストリウス派キリスト教が中国唐で、景教となった、というのは、飛鳥時代にミトラ教が日本列島渡来していたことを隠蔽する、藤原氏による情報操作だったのです。
日本列島に渡来した、太陽と牡牛を祀る秦氏も、飛鳥・奈良時代そして、平安初期804年まで、秦氏の軍事勢力が健全な時には、牡牛を屠る儀式をおこなっていたのです。
そのミトラ教の復活祭の儀式場は、南北軸から約二十度西に傾けて建てられていたのです。そのひとつが、現法隆寺の境内に隣接する地下から発掘された「若草伽藍跡」と云われている建物跡です。そして、牛祭りがおこなわれている広隆寺は、元は秦氏の景教寺で蜂丘寺といわれていたのです。しかし、現広隆寺は、蜂丘寺ではないのです。蜂丘寺は、現広隆寺から少し離れた所の地下に眠っているのです。その蜂丘寺も、建築軸が南北軸に対して西に約二十度傾いていることでしょう。
奈良時代の741年に牛屠殺禁止令が発せられたのは、騎馬民族系天武天皇の孫長屋王が、藤原氏の陰謀により、729年謀殺されてしまったからです。長屋王は、祖父天武天皇と同じに、仏ではなく、道教の観で北極星(太一)を祀っていたからです。
その星からの啓示を受ける占星術を、仏を祀る藤原氏から「左道」と決め付けられた長屋王は、729年窮地に立たされ自害されられたのです。その後、長屋王の後ろ盾を失った秦氏は、741年の牛屠殺禁止令に従わざろうえなかったのです。そして、やがて、奈良の都から、秦氏による牡牛を屠るミトラ教の儀式が消えてしまうのです。
平安京が遷都される前の山背国は、秦河勝末裔が支配する地であたのです。太陽神ミトラは、山の頂から再生すると信じられていたため、山背国の北東に聳える比叡山には、その儀式場があったのです。
しかし、東アジアでの突厥帝国を散逸させた唐軍が、陸奥国の突厥帝国軍残留部隊(日本武士の祖)を殲滅する目的で日本列島に進駐して、亡命百済貴族末裔の桓武天皇を支援することにより、794年秦氏の支配地に、平安京が遷都され、秦氏一族は、その地を追われるわけです。
そして、比叡山も亡命百済貴族末裔に乗っ取られ、その地に祀られていたミトラ神も、魔多羅神に変身されてしまったのです。そして、804年牛屠殺禁止令が発せられ、秦氏による牡牛を屠るミトラ教(景教)の儀式も、平安の都から消えてしまうのです。
しかし、お上の命令だけで、古くからおこなわれていた儀式がすぐに消えるわけではありません。そこで、王権は、前政権の牡牛を屠るミトラ教(景教)の儀式を抹殺する手段として、広隆寺の「牛祭り」を発明するわけです。そして、その牛祭りの神として魔多羅神が登場するわけです。
そのようにして、前政権の宗教儀式を改竄して、その文化を歴史上抹殺するわけです。ですから、広隆寺の「牛祭り」は、王権の情報操作が成功し、ミトラ教の太陽神復活祭での牡牛を屠る儀式を歴史上抹殺できたため、現在では本来の祀りの意味が解らないため奇祭といわれているのです。
牡牛を屠るミトラ教儀式をおこなっていた秦氏の斎場を、仏教勢力により簒奪され、徹底的に破壊され、そして、その秦氏の宗教施設跡に、奈良の都では、710年仏教の興福寺が建てられ、768年神道の春日社が建てられたのです。そして、京の都では、821年延暦寺が建立されたのです。では、秦氏の支配地でミトラ神の太陽を祀っていた祭祀一族は、牡牛を屠る斎場を追われ、何処へ去ったのでしょうか。
日本古代史が解りづらいのは、簒奪王権により前政権の書籍が焚書・改竄され、そして、文化施設は徹底的に破壊され、その跡に新たな施設が建てられたからです。
飛鳥時代の歴史が解らないのは、奈良時代に藤原氏により、騎馬民族突厥帝国によるオリエント文化が仏教文化に改竄・隠蔽されてしまったからです。
そして、奈良時代が解らないのは、平安時代に亡命百済貴族により、天武天皇系聖武天皇の多くの遺品を保管した、正倉院のオリエント文化色のある書物・絵画・彫刻等が破壊され、亡命百済民族の貧しい暮らし振りや、天武王朝系騎馬文化と藤原氏のインド系文化が改竄・隠蔽されてしまったからです。正倉院に残された多くの書物は、前時代を描いた物は皆無だったのです。そして、正倉院とは一棟だけではなかったのです。
奈良時代と平安時代とでは、その支配民族が全く異なっていたのです。奈良時代は、騎馬民族末裔天武王朝系豪族と南インド渡来の藤原氏との闘争の時代であったのです。そして、それぞれの宗教も異なっていたのです。
天武王朝系では、道教・景教です。それに対して、藤原氏では、インド渡来の仏教とユダヤ教に類似した中臣神道です。
では、平安時代はどうでしょう。桓武天皇は、百済系で、その宗教も中国から導入した天台宗で、藤原氏の中臣神道に対抗して、中国山東半島の土着神の山王(シャンワン)神です。それが、比叡山で、山王(シャンワン→さんのう)→日枝(イルギ→ひえ)→日吉(イルギ→ひよし)の神と変身するわけです。
奈良のインド系に対して、京都では唐系なのです。このふたつの異なる宗教が闘争していたのが、平安時代なのです。では、藤原氏と亡命百済貴族に敗れた、天武天皇系宗教である、道教と景教はどうなってしまったのでしょう。それは、道教は陰陽道に変身し、景教は山の宗教である修験道へ変身し生き延びるわけです。
景教の神である牡牛を屠るミトラ神は、血の禁忌の仏教勢力に敗れると、古墳上の祀り処から、山の洞窟へと代わっていったのです。元々、突厥が日本列島にもたらした製鉄技術のタタラは、山の民の炭と浜辺の民の砂鉄とが融合した技術であったわけですから、藤原氏や亡命百済貴族に敗れ、平地を追われても、その生活圏として、山辺や海辺で暮す技術があったのです。
簒奪王権は、敵対する前政権の王族一族を抹殺するか、賎民として貶めることが、歴史の語るところです。平安時代も、その例外ではありません。
1585年イエズス会の傭兵軍武将から、藤原氏に乗り換えた羽柴秀吉は、関白となり、翌1586年太政大臣となり、豊臣の姓を賜るのです。何故、羽柴から豊臣へ姓を代えたかと言うと、それは、羽柴秀吉の傀儡主の藤原氏への対抗意識からです。生誕から青年時代の履歴が全く不明な羽柴秀吉は、藤原氏が、秦王国(飛鳥ヤマトの祖)を乗っ取った史実を知っていたのでしょう。
秦王国は、六世紀にギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)から北九州に渡来したオリエント色の強い国であったのです。しかし、その秦王国の歴史は、藤原氏が創作した「日本書紀」により抹殺・隠蔽されてしまっていたのです。微かに残る北九州秦王国の史実は、608年隋使裴世清が、隋から小野妹子に伴われて倭国ヤマトへの途中、秦王国を通過した時の記述が、「随書」に残っているだけです。その記述によれば、「男が居ない、そして中国(華)と同じ文化国である。」、と云うことです。
このオリエント色が強い北九州秦王国が、中国大陸からの侵攻軍や南九州坊津からの中臣軍に滅ぼされ、後に仏教国の豊国となるわけです。そして、645年以降、オリエント色の強い飛鳥ヤマトを乗っ取った藤原氏により、豊国にあった平瓦の仏寺の多くが移築されるわけです。その移築仏寺の代表例が、厩戸皇子が建立したと伝わる法隆寺で、670年落雷により全焼し、708年北九州豊国から移築された平瓦の現法隆寺であったのです。
645年以前の、飛鳥ヤマト移築仏寺の前の建物の多くは、丸瓦が使用されていたのです。その丸瓦とは、ユーラシア大陸での突厥(チュルク)様式建物に使われた瓦だったのです。
その秦王国を乗っ取った豊国の歴史を引き継ぐ豊臣秀吉が、1590年徳川家康を、関東の穢れ地(後の江戸)の湿地帯に移封するのです。その意味は、大坂の石山本願寺を支援していた源氏末裔武士団との関係を断絶することと、徳川家康の軍事力の抹殺です。
関東平野の地は、利根川と荒川の定期的な氾濫により、農業に適さない、葦が茂り湿地帯化していたのです。この地に徳川家康を移封してしまえば、農業がおこなえないため、徳川家康の軍事力が衰える、と豊臣秀吉は考えたわけです。しかし、豊臣秀吉は、徳川家康の出自を知らなかったため、後で手ひどいしっぺがえしを受けることになるのです。それは、徳川家康は、日光の山奥の世良田部落出身だったからです。徳川家康には、山の民の血が流れていたのです。
戦国時代のイエズス会も藤原氏も、明国との国際交易の地である、日本一の商業都市大坂を支配することを渇望していたのです。しかし、その地は、古は秦氏の地で、戦国末期には秦氏末裔源氏武士が守る石山本願寺の支配地であったのです。そこで、大坂の地を廻り、織田信長・徳川家康のイエズス会軍団対藤原氏・亡命百済貴族の仏教軍団との宗教戦争になったわけですが、羽柴秀吉による、イエズス会と藤原氏との両天秤戦略が功を奏し、1582年本能寺での織田信長の爆殺により、イエズス会から寝返った羽柴秀吉が1583年石山本願寺支配地に大坂城を建てると、大坂の地の完全支配を目指し、1588年刀狩を、そして、1591年武士と農民とを分けるための「士農工商の身分法」を発して、秦氏末裔の源氏武士残党の抹殺をおこなうわけです。そして、藤原氏傀儡の豊臣秀吉は、一向一揆(実際は宗教戦争)に敗れた秦氏末裔を穢多村に押し込めるわけです。
穢多とは、1569年織田信長に京で謁見したイエズス会宣教師ルイス・フロイスが「日本史」で述べているように、イエズス会の拠点である南インドのマラバル沿岸のボアレ(タミル語で不可触賎民の意味)と同じで、動物の皮を剥ぎ、その皮を売る賎民のことなのです。
この騎馬民族差別思想は、ユダヤ・キリスト教のコロニーがあった南インドのマラバル沿岸から、五世紀の南九州坊津に渡来した中臣族が、日本列島に持ち込んでいた民族差別思想と同じであったのです。書籍に残る騎馬民族差別思想は、藤原氏の陰の力で一年の修行で仏籍に入り、806年唐から帰朝した錬金術師空海の「我および仏弟子にあらずば、いわゆる栴陀羅悪人なり」、があります。空海は、唐からインドの民族差別のカースト思想を、日本に持ち込んできたのです。そして、空海の発明した真言宗のお札には、「栴多羅・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」、とあったのです。騎馬民族差別思想は、平安仏教から始っていたのです。
そこで藤原氏の野望に邪魔になるのが、秦氏末裔源氏武士や忍者との関係が深い騎馬民族末裔徳川家康であったのです。徳川家康の武将の多くには、比叡山延暦寺軍と闘う一向一揆に味方したものが多く居たのは、騎馬民族は、反平安仏教徒であったからです。
それらの反仏教の徳川家康軍団の四天王とは、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政であり、そして、四天王四名を加えた十六神将とは、松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正です。
しかし、これらの徳川家康古参武将の末裔は、1623年葬式仏教組織を支配下に置いた、百済の血が流れていると伝わる三代目将軍徳川家光の時代から、賎民・穢多として中央政権から追われ、歴史上抹殺されていくわけです。
家康時代とは、二代目将軍徳川秀忠までで、三代目将軍徳川家光からは、第三百済王朝となるのです。キリシタン大名の高山右近も、徳川家康が政権を握っていた間は、山奥で賎民にデウスの教えを説いていたのです。高山右近が、国外追放されたのは、1614年であったのです。そして、イエズス会残党による島原の乱は、徳川家康の死後、1637年であったのです。徳川家康が、イエズス会信者を弾圧したと言うのは、三代将軍側勢力による情報操作であったのです。
戦国時代、騎馬民族末裔は、反藤原氏、反仏教であったのに、何故、一向一揆に加担してしまったのかは、それは、藤原氏末裔親鸞の騎馬民族取り込みの謀略が巧みだったからです。それは、親鸞の発明した浄土真宗の阿弥陀様とは、その祖は秦氏が祀っていた太陽神ミトラであったのです。
紀元一世紀、中央アジアのバクトリア国のギリシャ文化を引き継いだ国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の阿弥陀様とは、エジプトのアミ様のことで、それは、太陽神アトンのことだったのです。太陽神アトンの祖は、秦氏(ヨセフ族→イスラエル民族)の母国ヒッタイト帝国の契約神ミトラであったのです。
その鎌倉時代に親鸞が宣伝する「阿弥陀様の教え」とは、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

親鸞が発明した呪文「ナム・アミ・ダ・ブツ」とは、「私は太陽神アトンに帰依します。」、という意味であったのです。その親鸞は、1262年「歎異抄」で「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べ、比叡山の大乗仏教思想により賎民・穢多に落とされた、平安時代から不可解な民族差別に苦しんでいた秦氏末裔に対して、秦氏末裔武士団の軍事力や商業活動で金銭的に余裕のある賎民・穢多を浄土真宗組織に取り込むため、民族平等思想の「アミ様(太陽神アトン=太陽神ミトラ)の教え」を利用していたのです。
ですから、六世紀に日本列島渡来後も、太陽神ミトラを祀っていたヒッタイト帝国末裔である秦氏末裔は、親鸞の説く阿弥陀様の民族平等思想を全て理解し、共鳴したわけです。しかし、親鸞のバックには藤原氏がいたのです。
その藤原氏の他民族に対する基本的思想は、親鸞を得度した慈円の「愚管抄」によく表れています。慈円の思想を簡略に述べれば、

日本国においては、皇室以外から国王を絶対に立てることはない。そして、天皇家は万世一系、永遠不滅の原則がある。それは、皇室の祖である天照大神が、その孫のニニギを地上に送るときに定めたもので、藤原氏の祖神である天児屋根命ととり交わした約束によるものである。しかし、万世一系でとりおこなわれてきた歴史のなかで、不都合が生じ、天皇の政治が衰えた時代もあった。そういう時には、化現した人物が現れて天皇の政治を助けた。その重要化現は、四人いた。ひとりは聖徳太子。仏法を積極的に取り入れ、王法と融和して国を支える道を示した。ふたりめは、藤原鎌足。皇統が常に日本の中心であるための補佐として力を尽くした。そして、さんにんめは、菅原道真。日本国は小国だから、補佐する臣は藤原氏ひとりでよいと、自ら身をひいた。最後に、慈恵大師良源。良源は、藤原氏の数々の系統の中で、九条右大臣師輔流のみを補佐の臣とした。

藤原氏がユダヤ的だと云われている理由のひとつは、「日本書紀」物語で、神から藤原氏 に祭祀権が与えられた、と主張する思想形態のユダヤ教「旧約聖書」との類似性にあるようです。その類似性とは、唯一神ヤハヴェ(天照大神)→モーセ(天児屋根命)→祭祀者レビ族アロン(祭祀者中臣族藤原氏)の神の啓示の流れがあるからです。そして、五世紀には、藤原氏の祖中臣族は、南インドのユダヤ・キリスト教のコロニーがあったマラバル沿岸から、南九州坊津へ渡来していたからです。そして、八世紀の飛鳥ヤマトに現れた春日社でおこなわれた、中臣氏の神道儀式の多くは、ユダヤ教儀式と酷似していたからです。
このような、「旧約聖書」を創作したユダヤ民族の祭祀者・レビ族アロン一派の思想に類似した、藤原氏独善思想を持った慈円を師とした親鸞が、騎馬民族・秦氏末裔の穢多に対して、真の民族平等思想を持っていたのかは疑問符の付くところです。
かくして、百済系比叡山延暦寺に対抗する、藤原氏系親鸞を祖とする石山本願寺は、秦氏末裔武士の軍事力を利用して、「イエズス会軍団」対「亡命百済貴族の比叡山延暦寺軍団」対「藤原氏石山本願寺軍団」との三つ巴の宗教戦争に突入していくわけです。
しかし、イエズス会から供給された鉄砲・大砲・火薬などの圧倒的な武器と、日吉丸がいた外国傭兵軍に支援された織田信長軍団は、反仏教の騎馬民族末裔徳川家康軍団と供に、1571年比叡山延暦寺を陥落させ、1573年には伊勢長島の一向一揆を壊滅するわけです。
この後の十年戦争であった、1580年石山合戦終結により、平安時代に台頭した、藤原氏と亡命百済貴族による武装仏教軍団が歴史上壊滅するわけです。その宗教戦争に敗れたことにより、織田信長に、寺社領や市・座・関所での各種権益を奪われた仏教組織は、それまでは朝廷権力と覇権を争っていたものが、やがて、生き残るために葬式仏教となり、百済系三代目将軍徳川家光により、反権力勢力である秦氏末裔・穢多を取り締まるための、権力の手先機関となっていくわけです。
794年秦氏の支配地に、唐進駐軍の軍事支援の下、平安京に遷都した百済系桓武天皇は、戦国末期の豊臣秀吉が徳川家康を荒川河口の湿地帯に移封したのと同じ事をおこなったのです。
663年母国百済を滅ぼした新羅末裔秦氏を憎む桓武天皇は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝を高度技術で支援していた秦氏一族を、平安京から追い払い、淀川河口の湿地帯に移封したのです。
戦国末期から江戸時代初期、関白豊臣秀吉により荒川河口の湿地帯に移封された徳川家康は、秦氏末裔穢多頭弾左衛門配下の高度土木技術を利用して、人口運河の神田堀を造り、その残土で、河口を埋めて、十mの人工山を造り、その上にエド城を造るわけです。そのエド城は、埋め立ての人工山に造られた城ですから、その堀の地下には、緊急時の脱出用トンネルも造ったほどの高度技術を駆使していたのです。
更に、秦氏末裔はその高度土木技術力により、荒川上流の流れを、利根川に流れるように変え、葦の茂る湿地帯の関東平野を農耕地に変えていたのです。
1600年オランダから渡来した、東京・八重洲の語源である、徳川家康の外交顧問、ヤン・ヨーステンは、自宅から地上を通らず、地下道から江戸城に登城していたほど、秦氏末裔のエド城築造技術は軍事的に優れていたのです。そして、エド城地下に張り巡らされていた地下道の一部は、現在では市谷の地下鉄操車場となっているようです。
秦氏は、その祖は鉄器を発明したヒッタイト帝国末裔で、古代エジプトでは、石切、石材建設、運河削掘などの高度土木・建設技術を習得していたので、湿地帯を農地や居住地に換えることはそれほど難しいことではなかったのです。
秦氏の土木・建設技術は、七世紀まで古代エジプト・メソポタミアの建設技術を用いて近畿地方に巨大古墳を築造していたほどですから、淀川の川口の湿地帯を居住地にすることは、それほど困難な工事ではなかったのです。
そして、その淀川河口に面した埋め立て地は、古代エジプト語の「わた」、つまり、「波」がおしよせる「辺り」で、統一新羅国商船が接岸できる湊でもあったので、「ワタナベ津」と呼ばれるようになっていくわけです。意外なようですが、古代エジプト語は、ヤマト言葉に多く溶け込んでいるのです。例えば、「マナ娘」の意味は、何でしょう。「マナ」とは、古代エジプト語で、「愛・愛しい」の意味なのです。ですから、「マナ娘」とは古代エジプト語とヤマト言葉の合成で、「愛しい娘」となるわけです。
そして、反新羅(秦羅)の平安王権により、京の都から追放された秦氏末裔が住む「ワタナベ津」の地から、百済亡命王朝三代目で、子供の数が多くてその皇子・皇女の実数が分からない、嵯峨天皇に嫁いだ娘の子が、814年嵯峨天皇から、源氏賜姓を受け「源綱」と名乗り、そして、源綱が、京の都から「ワタナベ津」に移住することにより、源綱が「渡辺綱」となるわけです。
平安末期、その秦氏末裔が住む渡辺津は、源平合戦での、短弓で騎射に優れた蝦夷軍を率いる、ユーラシア大陸騎馬民族のシンボルである笹リンドウ紋を旗印にした源義経が、1185年屋島の戦いに出陣した処であったのです。
しかし、戦国末期、織田信長爆殺後、イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉により、その秦氏末裔源氏の支配地に大坂城築造のため、渡辺村が、再び湿地帯に移転させられ、穢多村に落とされてしまうのです。
何故、豊臣秀吉は、渡辺村を穢多村に落としたのかの理由のひとつは、その石山合戦の十年戦争に耐えた戦闘力の他に、渡辺村の住人である秦氏末裔が保持する、巨石を組上げ石垣を造り、そして、深い堀を掘削する高度土木・建設技術であったのです。
何故、イエズス会が供給する最新式武器と外国傭兵軍を投入しても、織田信長軍団が、石山本願寺を陥落できなかった理由のひとつは、阿弥陀仏を信じる賎民側武士団の信仰によるのです。
阿弥陀仏は、秦氏末裔の武士にとっては、軍神だったのです。その意味は、阿弥陀←アミ様←太陽神アトン←太陽神・軍神ミトラの流れにより説明できます。ミトラ神は、ローマ帝国軍の軍神で、敵軍と味方軍との戦闘の境に降臨し、ミトラ神を信じる軍人の死を再生することができる、と信じられていたからです。ですから、阿弥陀(ミトラ神)を信じる、秦氏末裔武士は、敵の最新式武器を恐れず、死を恐れず、十年間も闘い続けられたのです。
イエズス会傀儡の織田信長軍が、正規の鉄砲隊数千が十年もかかっても、摂津の上町台地にある石山本願寺を壊滅できなかったもうひとつの理由は、秦氏末裔の巨石を使った築城技術であったのです。
1570年織田信長が、石山本願寺が支配する国際交易都市の大坂を奪うことを目的に、矢銭の要求と立退きを石山本願寺に要求すると、それを拒否し、親鸞の説くアミ様の「民族平等」の教えを信じた秦氏末裔武士(豊臣秀吉総監修「信長公記」では、秦氏末裔武士の巨石砦を「えったが城」と蔑視しているのです。)を中心とした石山本願寺軍は、織田信長軍に対して攻撃をしかけるのです。それに対して、鉄砲の最新武器で武装した織田信長軍の度重なる攻撃を、十年間も防いだのは、石山本願寺を廻る、周囲四キロの深堀と巨石の石垣だったのです。
攻めあぐねた織田信長は、石山本願寺と太いパイプを持つ藤原氏末裔近衛前久に願って、朝廷による石山本願寺との和睦を打診するのです。この交渉中に、防御体制を解いた石山本願寺軍に対して、織田信長軍は総攻撃をかけることにより、初戦から十年後1580年石山本願寺軍は壊滅するのです。織田信長が、だまし討ちをしなければ、石山合戦はとうぶん続いたかもしれません。
その石山合戦に、羽柴秀吉として参戦していた豊臣秀吉は、その秦氏末裔が持つ、戦闘力の他に、高度土木・建設技術を恐れたのです。
1615年、宿敵藤原氏傀儡の豊臣軍団を滅ぼした、騎馬民族末裔徳川家康は、神と祀る豊臣秀吉の墓を徹底的に破壊すると、秦氏末裔穢多頭の弾左衛門配下が開発した関東のエドに、大坂の渡辺村の住人を呼び寄せたのです。しかし、1623年百済系三代目将軍徳川家光による、洛中の浪人追放令を口実に、弾左衛門の屋敷は、江戸街中央から、浅草寺裏の湿地帯に移封されてしまうのです。そして、その弾左衛門屋敷がある新町(シン町→秦町)は、多くの仏寺が囲んでいたのです。
平安初期、801年坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイを騙し、それにより蝦夷を軍事的に平定した桓武天皇は、秦氏末裔に更なるイジメをおこなうのです。それが、804年の牛の屠殺禁止令です。それにより、太陽神ミトラを祀る秦氏の祭祀儀式は歴史上抹殺されたのです。
そして、京に連行された陸奥国の蝦夷軍の捕虜は、散所、湯浅、垣内、別所などと云われる部落に押し込められるのです。そして、部落に収容できない者達は、河の中州や農耕に適さない坂地に、奴隷として追いやるのです。これが、夙(宿)の始まりです。
唐進駐軍と桓武天皇軍と闘った、陸奥国の蝦夷軍とは、アイヌ民族ではないのです。アイヌ民族には、弓馬の戦闘技術はなかったし、蝦夷軍の刀は、騎馬民族特有の反りのある蕨手刀(日本刀の祖)で、それは、騎馬民族突厥軍の刀と類似していたのです。
蝦夷軍の実態は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝軍残党で、それらは、新羅花郎軍団と突厥帝国軍団末裔であったのです。その後、京に捕虜として連行された蝦夷軍末裔が、939年天慶の乱を武力平定したことにより、朝廷からその武闘力を認められて、検非違使配下の怨霊封込めの武芸をおこなう「もののふ」から「武士」となるわけです。
平安初期、桓武天皇は、秦氏末裔を中州や坂の部落に封じ込め、農業生産をおこなわせないように仕向けたのです。そして、開拓農地を奪われ、農業生産をおこなうことが出来なくなった秦氏末裔は、生き延びるために次の収入手段を考えるわけです。それが、河原での芸能の始まりとなるのです。
1402年秦氏末裔の世阿弥の花伝書「風姿花伝」によれば、能の祖は猿楽で、その猿楽の祖は秦河勝と述べているのです。平安時代に発生した河原での芸能のひとつ、猿楽とは、秦氏一族の祭祀芸を、平安王朝が貶めるための蔑称です。猿楽←申楽←しん楽←秦楽の流れを辿れば、猿楽の原型が解明されるわけです。
芸能の「芸」とは、神を喜ばせるための歌と踊りのことです。元々、秦氏一族には、太陽神ミトラを祀るための祭祀一族もいたわけです。太陽神ミトラを祀るための、牡牛を屠る儀式は、血の禁忌の仏教思想により、抹殺・封印されましたが、歌や踊りは仏教思想には抵触しないため、平安王権も禁止することができなかったのです。
更に、現金収入手段として、平安京を支配していた亡命百済貴族相手の、宗教儀式としての、売春と博奕があったのです。しかし、これらの現金ビジネスは、後に、平安王朝からの銭通貨の禁止令により、困難を極めていくのです。平安時代、京では「米」、東(あずま)では「絹」が、貨幣の代わりとして使われていたのです。銭通貨禁止令も、為替を発明し貨幣経済に優れる、騎馬民族秦氏末裔を貶める手段だったのです。
古代、売春と博奕は、世界的には「神事」であったのです。宗教施設内でおこなわれる売春は、古代では「聖婚」と言われ、それは外界と隔離された宗教施設の神殿、エデンの園、仏教施設では内道場でおこなわれていた「神事」だったのです。その神の代理としての聖婚者は、地母神、聖母、比丘尼、巫女と呼ばれていたのです。
江戸時代、遊郭に遊びに行く(宮篭り・観音参りする)主人を「本社」、付き人を「末社」と言ったのは、売春を神事にかけた、江戸人の洒落だったのです。
博奕は、未来を占う神事が、ゲーム化したものであるのです。ですから、優秀な博奕打ちは、ひとびとから尊敬されていたのです。博奕打ちが、尊敬されなくなるのは、江戸時代の三代目将軍徳川家光からです。
徳川家康は、騎馬軍団が短期間に移動できるために、小田原から京までの軍事道路にもうけた駅舎を、その地を仕切る役座に無償で管理させる見返りとして、役座に日没後の博奕と売春を許していたのです。江戸時代、売春ビジネスは、誰でもおこなうことができなかったのです。それは、源氏末裔だけに許されていたのです。ですから、遊女名を「源氏名」と言うのはそのためです。
平安時代、その売春と博奕とが宗教施設内でおこなわれていたことを裏付ける史料として、真言宗の別格本山、高雄山神護寺の再興のための起請文に、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

そのようなビジネスを河原でおこなっていた秦氏末裔に対して、平安王朝は、貶めの手段として、比叡山延暦寺天台宗の経典「法華経」(法華経に、「聖書」ヨハネの福音書とソックリの物語が多くあるのは何故でしょうか。)の思想を使うわけです。その思想とは、「法華経に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になる。」、というのです。「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

そして、河原や坂にある秦氏の部落に、そのハンセン氏病患者の世話をさせるのです。
ハンセン氏病は、現在では感染症のひとつで、薬剤で治療できる病と知られているのですが、平安時代ではその知識が無かったため、太陽神ミトラ教(景教)の牡牛を屠る儀式をおこなっていた秦氏の部落は仏罰者の部落と、平安王朝は情報操作したわけです。
そして、平安仏教の血の禁忌思想にからめて、牡牛を屠り、その生血や生肉を食べ、その牛の皮を剥ぎ、なめし皮を作る、太陽神ミトラを祀る秦氏の部落を、「穢れ」とするのです。
本来の釈尊の教えには、「血の禁忌」思想などはなかったのです。釈尊は、乞食修行での与えられた食べ物は、肉と野菜を選り分けずに、全て食べていたのです。その平安時代に発明された「血・肉食の禁忌思想」の元は、中国大陸では肉食するため肉食禁忌の思想はなかったので、騎馬民族を差別するインドのバラモン教思想からのものと示唆されます。
「血の穢れ思想」が日本史上記述されたのは、亡命百済貴族支配の平安時代、908年の「延喜式」施行からです。血・肉食の穢れ思想は、日本列島古来の思想ではないのです。陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍が健在であった、奈良時代以前には、「血・肉食の禁忌」、「血の穢れ」思想などはなかったのです。その根拠のひとつとして、奈良時代の食物のごみ遺跡から砕かれた獣骨片が多く出ているからです。
奈良時代、768年藤原氏が、日本列島初の神社である春日社を建て、そこでおこなっていた穢れ祓いも、その趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。そして、その祓うべき罪とは、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられたのです。
天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。
国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
奈良時代の中臣神道が発明した穢れ祓いには、「血・肉食の穢れ」など、どこにもなかったのです。
平安時代、比叡山延暦寺が「法華経」を利用して発明した「血・肉食の穢れ」とは、騎馬民族秦氏末裔を差別し、貶めるための思想であったのです。
しかし、その「穢れ思想」の大宣伝も、難民として暮していた中国山東半島から、京に移民してきたばかりの、そして、ミトラ神を祀っていた秦氏の支配地跡に、仏寺として延暦寺を建て、中国の神・仏を祀っている宗教思想では、古く飛鳥ヤマト時代から宗教活動をしていた秦氏末裔には、その宗教的効力はなかったのです。
そこで、平安王朝は、「比叡山の法華経を祀る天台宗の百済仏は、538年に飛鳥ヤマトに渡来していた。そして、その百済仏は、騎馬民族の蘇我稲目が導入したものだ。」、との情報操作を考えるわけです。そして、その538年百済仏教伝来物語の情報操作の主人公として、厩戸皇子を「聖徳太子」に変身させるわけです。そして、その「百済仏教伝来物語」の宣伝隊長が、聖徳太子の玄孫と宣伝する、年下の空海に、密教の教えを請いた最澄であったのです。
この、後から創られた物語を先住民族の物語の前に挿入する、「百済仏教伝来物語」戦略は、「旧約聖書」にみられるのです。
ヘブライ王国のソロモンが死去し、ユダ国とイスラエル国に分裂後、レビ族末裔に虐げられていたイスラエル民族は、ソロモンを「簒奪者」と唱え始めるのです。それは、ダビデの祭祀権を、ソロモンが不正な手段で奪ったからです。
そして、ソロモンを「ヤコブ」(不正な手段の簒奪者)と、イスラエル民族が唱えると、それに対して、レビ族末裔は、イスラエル民族の祖ヨセフを、なんと、ヤコブの息子とする物語を創作して、ヨセフ族物語の前に挿入していたのです。それにより、イスラエル民族は、「ソロモンをヤコブ」と二度と言えなくなってしまったのです。
歴史は、百年経てば、「古代史」も同然です。実際に検証できないからです。ですから、百年前を知るには、書物の記述を基に推測するしか方法がないわけです。そこで、簒奪王権は、書物の改竄をおこなうわけです。
平安王朝は、藤原不比等が創作した「日本書紀」の552年仏教伝来を、538年に改竄して、百済仏教伝来物語を、蘇我王朝の時代に挿入するわけです。では、何故、比叡山延暦寺は、「仏教伝来538年」とし、厩戸皇子を「聖徳太子」に換えたのでしょうか。それには、何かの戦略(意味)があったのでしょうか。
538年百済国では何があったのでしょうか。その年は、扶余に遷都の年であったのです。 その頃の朝鮮半島は、東アジアでの騎馬民族(北)対農耕民族(南)との激闘時代の只中であったのです。百済も、その東アジアの動乱の影響を強く受けていたのです。
527年「日本書紀」で述べるところの北九州筑紫国磐井の反乱とは、朝鮮半島から北九州への侵攻であったようです。その頃の朝鮮半島は、北から押し寄せる騎馬軍団により侵略され、そのため、朝鮮半島の先住民は渡海して、北九州へ逃れてきたのです。
古来より、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏を形成していたのです。それは、韓族と倭族とは、元は同じ呉・越(紀元前473年呉滅亡。紀元前334年越滅亡。)の南方系海洋民族であったからです。ですから、玄界灘は、潮目を読める両民族にとっては内海であったのです。
そして、528年仏教を始めて導入した、百済の隣国新羅は、ユーラシアからの騎馬民族渡来により軍事力を増し、532年には朝鮮半島南端の伽耶の金官国を乗っ取るのです。その伽耶の先は、海を隔てた対馬列島で、その先は、隠岐、そして、北九州であるのです。
356年漢語を知らない奈勿王により始る新羅は、高句麗・百済と異なり、騎馬民族国であったのです。西域から渡来した新羅軍の主力部隊は、騎馬軍団で、その軍備はローマ軍と似通っていたのです。それを裏付けるものとして、新羅・慶州の古墳から、オリエントでローマ軍が使用していたのと同等の脛当ての防具・馬冑・馬鎧が出土しているのです。
そして、その古墳とは、騎馬民族スキタイの流れを汲む、大きな穴を掘り、小石を敷き詰め、木製の柩を納め、土を饅頭状に盛り小山を作る、石積木柩墳であるのです。そして、その古墳からは、多くの金メッキを施した馬具や、ギリシャ系金製の装飾品や三本樹の王冠やローマン・グラスが多く出土しているのです。その馬具に施した金メッキのアマルガム法は、騎馬民族スキタイが開発していたのです。
百済の「538年の遷都」は、新羅侵攻からの防衛のためのものだったのです。そして、538年百済から飛鳥ヤマトに仏典を送ったと云われる聖王(523年〜554年)は、554年新羅に敗れ絶命していたのです。
六世紀の東アジアでは、北から侵攻する騎馬民族柔然と闘っていた北魏は、534年滅び、東西に分裂していたのです。その西魏と東魏もやがて滅び、550年東魏を北齊が引き継ぎ、557年西魏を北周が引き継いでいたのです。そして、その北周と北齊を、581年統一したのが隋というわけです。
騎馬民族側にも政権交代が起こっていたのです。それは、552年西域から侵攻してきた突厥が、柔然を倒し、突厥帝国を興したのです。
突厥とは、チュルクを漢語化したもので、トルコ系民族のことです。そして、ユーラシアの東から西までを支配した、この突厥帝国は、その後、中国南方の北周・北齊、そして、隋・唐と軍事対決することになるのです。
ユーラシア大陸を支配した突厥は、当然、極東の日本列島にも侵攻していたのです。その根拠のひとつは、日本列島で三世紀後半から始る古墳が、五世紀から六世紀にかけての古墳と異なるからです。そのひとつが、五世紀以降からの古墳からは、今まで無かった実用的馬具が多く出土し、六世紀以降では、装飾を施した金メッキの非実用的馬具が多く出土するからです。これは、騎馬民族王族の渡来を示唆しています。そして、その墓は、騎馬民族特有の石積木柩墳であるのです。
歴史で記述された初の渡来突厥と考えられるのが、530年飛鳥ヤマトに突然現れた、蘇我稲目(蘇我稲目は、713年以降に簒奪王権により付けられた名で、チュルク本名不詳。)であるのです。そして、飛鳥時代は、その蘇我稲目の出現から始るのです。
東アジアで、突厥帝国と戦闘を繰り返していた隋の煬帝が、608年偵察使として裴世清を、飛鳥ヤマトに送り込んできたのです。六世紀から七世紀の日本列島の飛鳥ヤマトも、朝鮮半島と同じに、東アジアでの、北の騎馬民族突厥と南の農耕民族・隋・唐との死闘に巻き込まれていたのです。
六世紀から七世紀にかけての東アジアの民族動乱は、朝鮮半島に影響を及ぼし、その朝鮮半島の動乱は、日本列島にも強い影響を及ぼしていたのです。
騎馬・遊牧民族と農耕民族との戦いは、歴史的必然であったのです。それは、古代には、国境などなかったからです。ですから、農耕民族は、村や耕作地を異民族の侵入から守るために柵を設けるわけです。その柵は、農耕民族の人口増大に比例して、農地開拓という自然破壊をおこないながら、南から、騎馬・遊牧民族の支配地の北方草原へと侵攻していくわけです。
それに対して、騎馬・遊牧民族の民族移動は、季節により決まっていたのです。それは、暑い夏には、涼しい北方草原に移動し、寒い冬には、南方草原に移動していたのです。騎馬・遊牧民族の越冬用の掘っ立て柱の支倉造り(奈良正倉院の祖)は、移動する騎馬・遊牧民族に適した建築様式であったのです。飛鳥ヤマトの建築遺跡が、敷石形式ではなく、掘っ立て柱形式の建築物が多いのは、騎馬民族の居住を示唆します。
大草原では、移動のための目印がないため、騎馬民族は、北極星を目印に季節ごとに民族移動をしていたのです。ですから、騎馬民族にとって、北極星は、民族を導く「神=天子・テングリ」であったのです。
騎馬民族の基本的移動は、南北であったのです。しかし、南方から北方へ、ジワジワと野山の自然を破壊しながら侵攻する農耕民族の柵は、やがて、自然と暮す騎馬・遊牧民族の冬の移動地と重なるのです。そこに、野山の自然を破壊する農耕民族と墓を地下式として地表の自然を守ろうとする騎馬・遊牧民族との民族戦争が勃発するわけです。そして、南方農耕民族による長城が築かれるようになると、騎馬民族の民族移動が、南北から、東西になるわけです。その結果、中央アジアで暮していた騎馬民族は、ユーラシアの東西へ拡散していくわけです。
そのような、東アジアの動乱の中、飛鳥ヤマトでは、「538年百済聖王から仏像と経論を、欽明天皇に献じられた。」、と比叡山側は、百済仏教伝来物語で述べるのです。
何故、538年に、まだ天皇など存在していないのに(672年天武天皇以前の天皇名は、奈良時代に淡海三船が創作した。)、天皇に仏像と経論を献じられるのでしょうか。
百済末裔にとっては、538年は、忘れられない年だったのです。それは、ユーラシアからの騎馬民族軍団南下の影響で、朝鮮半島の北から南下する高句麗軍を避けるため、百済の首都を沿岸の熊津から、内陸の扶餘へ移した年であったのです。
しかし、仏教伝来物語は、ふたつあるのです。ひとつめは、奈良時代、藤原氏による「日本書紀」での「552年仏教伝来物語」です。そして、もうひとつは、平安時代、亡命百済貴族による「538年百済仏教伝来物語」です。このふたつの物語は、歴史改竄の法則にあてはまるのです。それは、古い物語は、新しく創られる、と言うことです。
奈良時代の藤原氏による仏教伝来物語のトリックは、藤原氏の祖、中臣族を祭祀氏族として登場させることです。そこで創作された物語に、まだ日本神道など存在していなかったのに、物部守屋の忠臣として、神道の祭祀者として中臣鎌子を登場させるわけです。
平安時代の亡命百済貴族による百済仏教伝来物語のトリックは、秦氏の支配地の山背国と比叡山を乗っ取り、秦氏の神・ミトラ神を抹殺・隠蔽するために、「聖徳太子」を登場させたことです。それにより、秦河勝は、「聖徳太子」の忠臣となり、仏像安置のために広隆寺を創建したことになってしまうのです。
このふたつの仏教伝来物語の最大のトリックは、物部氏対蘇我氏との二度の神仏戦争です。この神仏戦争により、仏教以前に、日本神道が古来から存在していたと、信じられてしまうのです。
実際は、飛鳥ヤマトには、645年唐進駐軍と中臣族とにより仏教勢力が侵攻して来るまでは、北極星(太一)を祀る「道教」と、太陽の化身牡牛を屠る「景教」とが存在していたのです。そして、その「道教」は、道観(後の伊勢神宮)で北極星(太一)を祀っていた天武天皇の孫長屋王による太一(北極星)の祀りを、藤原氏により「左道」として抹殺されるまで、そして、「景教」は、太陽の化身牡牛の屠り儀式を百済系桓武天皇により、804年に抹殺されるまでは、歴史上存在していたのです。
実際の日本神道は、仏教よりも後に、中臣神道として日本列島に現れたのです。その根拠としては、奈良の都では、藤原氏により、710年仏教の興福寺が建てられ、768年神道の春日社が建てられたからです。
何故、それまで、仏寺や神社が建立されなかった理由としては、それは、古墳を築造していた民族の勢力が存在していたからです。古墳は、七世紀まで築造されていたのです。その古墳での埋葬思想では、死者を不浄として火葬する仏教・神道思想とは異なり、死者は穢れなどではなく、古代エジプトの単位キュビトで設計された石棺に安置され、冬至の太陽光を浴びることにより再生する、と信じられていたのです。
このような死者再生思想を持った民族支配地に、死者を火葬し、穢れとする仏寺や神社を建立することなどできるはずはありません。埋葬儀式の変化は、その地の支配者が替わったことを意味するのです。それは、オリエント文化の飛鳥ヤマトを継承した、騎馬民族系天武天皇崩御後に、藤原不比等により、宗教改革がおこなわれた結果、仏寺の後に、前政権の神を、怨霊として封じ込めるために神社が現れたのです。
そのような視点で、仏教伝来物語を眺めてみると、今までと異なる日本列島史が現れてくることでしょう。
もし、538年百済から飛鳥ヤマトへ、使者を送り込んだことが史実だとすれば、それは、仏像や経論などではなく、飛鳥ヤマトの百済コロニー(後の葛城。新羅コロニーは磯城となる。)に、「聖王の亡命依頼の書状」であったのかもしれません。
その根拠は、百済仏教伝来物語の、蘇我稲目と物部尾興との崇仏戦争が、その後に起こったとされる、蘇我馬子と物部守屋との崇仏戦争と、経緯が全く同じであるからです。
歴史改竄において、同じ物語があるときは、「旧約聖書」で最も古い創世記物語から出エジプト記を語る「モーセ五書」が一番新しく創作されたように、古い物語のほうが、新しい物語より、新しく創作される傾向があるからです。
その二度の崇仏戦争は、蘇我氏が物部氏を敗退させ、仏像を祀ることになるのですが、疫病が流行り、その仏像が「難波の堀」に投棄されてしまうのです。
難波とは、奈良時代に改名されたもので、その前は、浪速(ローラン←楽浪・ローラン←楼蘭)と呼ばれた西域・高句麗・百済からのシルクロード交易の貿易港であったのです。その百済からの交易湊の難波に、二度とも仏像が投棄されたことの意味は、飛鳥ヤマト政権に、仏教(百済聖王の依頼)の上陸を拒否されたことを示唆しているようです。
その後、百済仏教伝来物語では、蘇我馬子と物部守屋との第二次崇仏戦争時に、十四歳の「聖徳太子」が登場し、やがて、女帝推古天皇の摂政になると、蘇我馬子と共に仏教を擁護し、その「聖徳太子」から賜った仏像の安置のための施設として、秦河勝が、支配地の山背国(後の山城国)に広隆寺を建立したことになるわけです。そして、その仏像が、弥勒菩薩というのです。
しかし、この百済仏教伝来物語には、不思議なことが沢山含まれているのです。そのひとつは、百済仏教伝来としているのに、何故、弥勒菩薩が登場するのでしょうか。
弥勒とは、その元はインドのヒンズー教のマイトレーヤのことで、その元はオリエントのミトラ神のことなのです。弥勒菩薩とは、弥勒(中国・日本)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(オリエント)、の流れにあるのです。
六世紀の朝鮮半島で、百済と対峙していた、隣国新羅の軍団は、花郎軍団(花=ミトラ)と言われ、その花郎軍団とは、軍神ミトラを祀るローマ帝国軍の流れにあったのです。その弥勒(ミトラ神)菩薩像が、何故、百済の仏像なのでしょうか。
そして、飛鳥時代まで山背国を支配していた、能楽の祖秦河勝が、「聖徳太子」の命を受け、広隆寺を仏像安置のために建立したというのですが、その百済渡来の仏像安置の寺を建立した秦河勝の墓が、何故、平安初期には、その地から赤穂に追放されているのでしょうか。
更に、秦河勝が建立したと云われる広隆寺は、数々の仏寺名に変更されているのですが、その元は、蜂丘(岡)寺で、蜂丘寺は、その地にはなく、少し離れた地下に遺跡として眠っているのです。そして、蜂丘寺は、弥勒(ミトラ神)を祀る景教寺で、仏寺ではなかったのです。
奈良時代まで、蜂丘寺(景教寺)でおこなわれていた、太陽神ミトラを祀るための、秦楽(→申楽→猿楽)を舞う秦氏祭祀者による牡牛の屠り儀式は、平安時代になると、「血の禁忌」の仏教思想により、広隆寺の牛祭り、と改竄され、ミトラ神は、魔多羅神に変えられてしまうのです。
平安時代初期、恐らく、このような百済仏教伝来物語に、イスラエル民族が「ソロモンはヤコブ」だと言ったように、部落賎民に落とされた秦氏末裔も、「飛鳥時代に、百済仏教を広めたと言う聖徳太子などはいない。」との反論を強く唱えたことでしょう。しかし、「日本書紀」の解説を平安貴族に講義し生計の糧とする、万葉語学者の秦氏末裔多人長が、812年「古事記」の暗号で、平安王朝による歴史改竄の解明を示しても、やがて、その声は消えてしまうのです。それは何故でしょうか。
それは、814年「新撰姓氏録」により、日本人を「皇・神・蕃」と差別し、亡命百済貴族末裔を日本列島古来からの皇族と偽装し、そして、古代新羅語で読まれた「万葉集」を菅原道真が古代万葉語に改竄して、オリエント文化の蘇我王朝の存在を、架空の歴代天皇の歌で隠蔽したこともあるのですが、最大の功績は、「聖徳太子」のネーミングなのです。
「聖徳太子」このネーミングの呪縛は、平安時代だけではなく、平成時代の現在までも続いているのです。「聖徳太子」の実在性は、大山誠一氏の著書「聖徳太子と日本人」等で否定されているにもかかわらず、今尚、その太子虚構は健在なのです。
「聖徳太子」の虚構物語構築は、ユダヤ・キリスト教「聖書」の登場人物、十戒を授けるモーセ、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデ、馬小屋で誕生したキリストを素材としているようで、日本列島の思想からはみ出ているようです。
そして、その「聖徳太子」物語を一度疑うと、色々な疑問点が浮かぶのです。そのひとつは、飛鳥ヤマトに都があるのに、何故に、女帝推古天皇摂政の「聖徳太子」が、約二十km先の斑鳩の寺に住んでいるのか、と言うことです。
「隋書」によれば、飛鳥ヤマトのオオキミは、夜に政(まつりごと)を行ない、日の出には仕事を終える、と記述されているのです。政治を終えた摂政「聖徳太子」は、その後、二十km先の斑鳩まで、どのようにして帰ったのでしょう。その答えとして、天馬の黒駒が、直線道路の太子道を疾走した、と言うのです。
斑鳩は、飛鳥ヤマトと難波の湊との中間点で、恐らく、幅十二mのローマ軍式軍事道路は、飛鳥ヤマトを基点に、斑鳩を中継点として、難波の湊まで続いていたのでしょう。
そのように疑えば、「聖徳太子」建立七寺は、仏寺などではなく、608年隋の偵察使の報告に基づいて計画された、東アジアで突厥帝国と闘っている、隋国の飛鳥ヤマト進駐軍に備えた、蘇我王朝側の防衛軍事施設であった可能性も疑えません。
蘇我稲目の登場と同時に、北九州から飛鳥ヤマトにかけて現れた軍事施設「ミヤケ」が、その「聖徳太子」建立七寺と云われる建物の実態でしょう。つまり、645年以降、藤原氏により、ヤマトの「ミヤケ」が徹底的に破壊され、その七つの施設跡に、北九州秦王国(後の豊国)の仏寺を移築したのが、後に「聖徳太子」建立七寺となるのです。
そして、「聖徳太子」の謎として、女帝推古天皇の摂政として成人している大人が、何故、子供を表わす「太子」なのでしょう。「日本書紀」での「厩戸王」を「聖徳太子」と、子供扱いにした本当の意味は、何なのでしょうか。
平安王朝により部落民に落とされた秦氏末裔には、桓武天皇による正倉院遺物の破壊や焚書により、騎馬民族が支配していた蘇我・天武王朝の歴史を証明する書物がないため、百年も経てば、オリエントの飛鳥ヤマト文化の記憶も薄れていくわけです。後に残るのは、伝承のみです。
五世紀新羅から渡来した秦氏には、「太子」信仰文化があったのです。その新羅文化とは、それは、土着の海洋民族末裔韓族を武力制圧した、ユーラシア・オリエントから騎馬民族が持ち込んだ文化であったのです。
文化は常に、勝利者の文化に、敗者の文化が呑み込まれていくのです。その逆はありえないのです。
その朝鮮半島の新羅文化とは、ギリシャ・ローマ文化だったのです。その新羅文化を構成する宗教思想に、ローマ帝国で流行っていた、古代エジプトの子神ホルスを抱く地母神イシスの「母子信仰」があったのです。この子ホルスを抱く母イシスの母子神は、やがて、キリスト教に導入され、子イエスを抱く聖母マリア像となるわけですが、新羅では、やがて、時と共に、「子神」信仰が「母神」信仰を呑み込み、その結果、「太子」信仰となっていたのです。
このギリシャ・ローマ文化国新羅での「太子」信仰は、秦氏の渡来と共に日本列島に持ち込まれ、その秦氏末裔の薩摩藩では、その「太子」信仰が、「稚児様」信仰に変身するわけです。日本列島に渡来した秦氏末裔には、「太子」とは、誰も疑うことが許されない、神聖な「子供神」であったのです。その思想により、「聖徳太子」の虚構を疑うことは、現在でも、できないのです。劃して、比叡山延暦寺の「聖徳太子」主演の百済仏教伝来物語は、現在も、健在であるわけです。
こころあるひとが、「聖徳太子」の歴史を消し去ることが出来れば、そこには、猿(秦河勝)が馬(蘇我馬子)を守る、オリエント文化の飛鳥ヤマト騎馬民族の史実が現れることでしょう。
戦国時代末期にも、同じことが起こるのです。それは、秦氏末裔穢多頭弾左衛門(猿←申←秦)が、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、1590年関東の穢れ地に移封された騎馬民族末裔徳川家康(馬)を鳥越で待ち受けて、荒川河口のひとも住めぬ湿地帯を開拓していくのです。正に、歴史は繰り返すのです。
エド(穢れ地)は、秦氏末裔と徳川家康により開発されたのです。そして、秦氏末裔の土木・建設技術で築かれた「秦王国」のエドの歴史が、三代将軍徳川家光の支配時代から、改竄・抹殺され、そして、徳川家康が朝鮮国の朱子学者から学んだ朱子学が否定され、亡命百済貴族末裔により仏教文化が復活して、やがて「江戸文化」と言われていくわけです。

神輿の黙示録(20)(武士とサムライの戦い:何故、武士のヒゲは濃いのか)



昭和生まれのひとには理解できるかもしれませんが、棒切れを刀に見立てて、チャンバラゴッコは少年の遊びとしては、ポピュラーなものでした。そして、東映のチャンバラ映画観賞は、数少ない娯楽のひとつでした。
そのチャンバラ映画に登場する、刀を携帯する武人には、二種類いたように思えました。刀を同じく腰に差しているのに、ひとりは華奢で剃髪し羽織袴に裃のひと、もうひとりは髪を束ね体格ががっしりとした粗野な服装のひとです。その顔付も異なっているのです。ひとりはヒゲが薄く、目もほそくノッペリ顔です。そして、もうひとりはヒゲが濃く、目が大きく鼻も高いのです。俳優の故三船敏郎は、後者の武人を演じさせると、天下一品でした。
東映のチャンバラ映画のストーリは勧善懲悪で、諸国を流離う粗野な服装の武人が、お城のお家騒動に巻き込まれ、羽織袴の悪人武人に利用されるのですが、最後には、流離いの武人が黒幕の悪人家老を切り、それにより、悪人家老にイジメられていた善人が返り咲き、メデタシメデタシで終わるのです。
しかし、気になるセリフがあったのです。それらは、「おサムライ様」があるのに、「お武士様」はありません。その代わりに、「野サムライ」はないのに、「野武士」があるのです。そして、幕府の役人に追われる野武士が、町方の役人により捕らわれると、「不浄の縄に捕らわれた。」と悔しがるのです。何故、役人の縄が不浄なのでしょうか。
後で分かったことですが、その前者が「サムライ」で、後者が「武士」の特徴だったのです。このサムライと武士の二種類の武人は、日本列島史上どのようにして現れたのでしょうか。そして、何故、町役人の縄が不浄なのでしょうか。
そのサムライと武士の歴史を調べると、その不浄思想と武士の発生とは、大いに関係があったのです。
元々、日本列島には、異民族不浄思想などはなかったのです。そして、その異民族不浄思想は、平安時代に、遊牧民族を蔑視するインドのヒンズー教の影響を強く受けた、空海が発明した真言宗と、そして、最澄が中国から導入した、騎馬民族を蔑視する法華経を経典とする中国天台宗の平安仏教の渡来により、日本列島に広まっていったのです。
では、何故、平安時代に、異民族不浄思想が広まっていったのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配した前政権のユーラシアから渡来の騎馬民族と異なる民族が、平安時代に出現したからです。その民族とは、東アジアで騎馬民族の突厥帝国と戦っていた唐(618年〜907年)の軍事的支援により、663年母国が滅亡して渡来した百済系末裔桓武天皇(781年〜806年)の指示により、中国山東半島から京の都に移民してきた、ツングース系亡命百済貴族一族だったのです。
唐は、新羅に恨みを持つ亡命百済民を利用して、陸奥国に居住する突厥帝国と新羅花郎軍団残党の抹殺を計画していたのです。そのための手段が、百済系桓武王朝成立の背景であったのです。その証拠として、789年桓武軍は、唐進駐軍と共に、陸奥国の蝦夷討伐をおこなっているのです。そして、蝦夷平定は、その後801年金髪の坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイを騙して、京で惨殺するまで続いていたのです。しかし、その後も、蝦夷の反乱は続き、鎌倉初期に、同族の源頼朝により、平定されるのです。その後、異民族蔑視思想が、鎌倉時代に、日蓮や親鸞など、比叡山で騎馬民族差別思想を含む「法華経」を勉強した僧達により、庶民にまで広がっていくわけです。
平安時代の907年唐滅亡までは、平安京は唐の支配下にあったのです。ですから、平安京は、インド色の強い奈良の藤原京・平城京とは異なり、唐文化に溢れていたのです。しかし、907年唐が滅ぶと、興福寺・春日社により奈良を支配していた、南インドから渡来した中臣族が変身した藤原氏が、平安京を、1167年アラブ(ベルシャ)から渡来の海洋民族末裔平家・平清盛(平氏ではない。)が台頭するまで、支配するわけです。
では、我々日本人は、いつ頃から「日本人」と言われてきたのでしょうか。それは、672年日本国初の天皇、新羅系天武天皇(672年〜686年)からです。その時、倭国は日本国に変身したのです。しかし、その日本人の実効支配地は、近畿一帯にすぎなかったのです。そして、蝦夷が支配する陸奥国が実効支配されるのは、約六百年後の鎌倉時代なのです。
672年以前の日本列島には、「日本国」がないわけですから、当然「日本人」が存在していなかったのです。それまでは、対外的には、日本列島には、倭国、扶桑国、大漢国、文身国、女真国、大食国、秦王国(608年隋使裴世清が見聞)などが存在していたことが、中国の歴史書に記述されているのです。
日本国が歴史上現れたのは、朝鮮半島の統一新羅国とほぼ同じ七世紀後半であったのです。ですから、672年以前の飛鳥ヤマトには、「天皇」もいないし、「日本人」も存在していなかったのです。
つまり、「日本書紀」で述べるように、四世紀から出現する歴代の天皇が支配する「大和朝廷」など、歴史上存在していなかったのです。実際の六〜七世紀の飛鳥ヤマトには、先住民の他に、オリエントから渡来の国際交易商人、突厥帝国軍人、高句麗人、百済人、新羅人、隋・唐人、それに南方からの渡来人(藤原氏の祖)が暮していたのです。
しかし、藤原氏末裔近衛家が支配する秦氏末裔薩摩藩の指導の下、1868年イギリス東インド会社の陰謀による明治革命で、政権中枢に返り咲いた藤原氏末裔は、錬金術師空海が、834年仁明天皇(833年〜850年)の御衣に、ダキニの呪法で加持祈祷(御修法)をおこなったのを始まりとして、孝明天皇(1846年〜1867年)まで続いていた、天皇の即位式を「仏教の真言密教」によりおこなっていたのを、1867年明治天皇から、「神道儀式」に代えてしまうのです。
1868年の明治革命は、645年中臣族による、所謂「大化の改新」が唐進駐軍の軍事支援がなければ成功しなかったように、イギリス東インド会社の資本・軍事的支援が無ければ成功しなかったのです。
しかし、イギリス外務次官ハモンドの訓令で、「日本の体制変化には、日本人だけから発生したような外観を呈しなければならず、どこまでも、日本的性格によるものだという印象を与えるようなものでなければならない。」、とイギリス公使パークスに述べているのです。かくして、イングランド銀行の支援により、1882年日本銀行が設立され、日本国は、金融をとおしてイギリスの支配下に位置し、現在に至るのです。
日本国の貨幣を造る銀行が、国立ではなく、私立の株式会社であるのは、アメリカ合衆国と同じです。これには、明治革命と何か関係があったのでしょうか。明治革命の謎は深まるばかりです。
さて、明治革命で、天皇の即位式を祀る神が異なったということは、その天皇の民族性が替わったということです。
日本初の天皇、新羅系天武天皇は、672年北極星(太一)を大嘗祭の儀式で祀っていたのです。それが、藤原氏が、729年太一を祀る天武天皇の孫長屋王を陰謀により抹殺し、大嘗祭を新嘗祭とに分離し、天武天皇が祀っていた太一(北極星)を、農耕神の天照大神に摩り替えてしまうのです。そして、祭祀権を握った藤原氏は、770年亡命百済下級貴族を光仁天皇とするのです。
当然、祭祀権を天武天皇系王族から簒奪した藤原氏は、672年壬申の乱で天武天皇軍に対して赤旗をたなびかせて軍事支援をした、伊勢湾一帯を支配するアラブ海洋民族末裔(後の平家)に対して、百済亡命近江王朝を壊滅した記念として、伊勢に道観を建立し、北極星(太一)を祀っていたのを、その道観を徹底的に破壊して、その跡に天照大神を祀る伊勢神宮を建立するわけです。しかし、伊勢の建物を「道観」から「神宮」に改竄できても、庶民の思想までは改竄できないのです。その証拠として、今も「太一」の文字が伊勢の祭りで使われているからです。
奈良末期、藤原氏の支配下から抜け出すために、光仁天皇の息子山部親王は、唐の軍事支援の下、781年桓武天皇として即位するのです。その時の即位式は、藤原氏が「日本書紀」で述べるように皇室の神が天照大神であるのなら、桓武天皇の即位式では、当然として天照大神の下でおこなうべきところを、なんと、父親の百済系光仁天皇を祖神として、唐式の儀式により即位式がおこなわれたのです。
そのように、天皇体制は、672年天武天皇から江戸末期まで続いているわけですが、その中身である王族の民族性が、騎馬民族系の新羅系天皇から、770年以降からはツングース系の百済系天皇へと、異なっていたのです。そこで、藤原氏末裔に支配された明治新政府は、その騎馬民族王朝が存在していた史実を隠すため、645年「乙巳の変」の革命を「大化の改新」と改竄して、明治革命を王政復興と位置づけ、その古におこなわれた王政改革の習いとのキャンペーンを、学校での歴史教育でおこなうわけです。その「明治の改新」のスローガンとは、「祖神天照大神」、「万世一系の天皇家」、「大和単一民族」です。
その「明治版大化の改新」を進めるために、明治新政府は、それまでの桓武天皇から続く百済系天皇家の、錬金術師空海が発明した、仏教式・唐制風儀式を廃止することにし、新たな神道儀式を発明するわけです。
明治新天皇がおこなう儀式は、十三となるのですが、元禄元年(1688年)に復興されて以来続けられてきた、藤原氏が仕切る五節舞をおこなう新嘗祭と、そして、藤原氏が仕切る伊勢神宮の祭祀をとりいれた神嘗祭を除いた、十一の祭祀は、古代飛鳥ヤマト時代から続くものではなく、すべて明治革命の後に、新発明された儀式であるのです。
そして、明治天皇は、百済系桓武天皇(平安時代)から孝明天皇(江戸時代)まで、途絶えていた伊勢神宮参拝をおこなうのです。何故、桓武天皇から伊勢神宮参拝が途絶えていたかの理由としては、685年建立の伊勢神宮の元は、百済の宿敵である新羅系天武天皇が、騎馬民族の神・北極星(太一)を祀っていた道観であることが解れば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
江戸時代、騎馬民族末裔の徳川政権を、1582年山崎合戦で明智光秀軍を裏切った騎馬民族末裔の徳川家康を憎む、明智家のお福である春日局の陰謀で、乗っ取った第三代徳川家光から始る第三百済王朝は、1635年から始る参勤交代では、西国からの歴代の大名の多くは、その伊勢と徳川家康が支配した三河を「穢れ地」として避け、江戸へ向かっていたのです。皇室の祖神を祀っていると云われる伊勢の地には、そのような歴史もあったのです。
この虚構の「万世一系天皇物語」の藤原日本史の創作は、幕末から始められていたようです。その根拠は、藤原不比等が創作した「日本書紀」物語での、日本初の架空天皇・神武天皇の墓を、幕末から造り始めていたからです。
そして、1868年の明治革命を意図してか、1866年江戸と大坂で打壊しが突然同時に起こり、翌年1867年伊勢神宮のお札が空から舞い降り、庶民・農民を問わず無銭で伊勢へお参りする「ええじゃないか運動」がおこるのです。それにより、庶民には、伊勢の地は、「穢れ地」から、天皇の祖神が祀られる地に、明治革命前の幕末に変身していたのです。そして、明治革命と同時に、1868年神仏分離令が発令され、百済王朝幕府の手先として騎馬民族末裔を穢多の差別語でイジメていた仏寺は、賎民により徹底的に破壊されてしまうのです。特に、秦氏末裔が多く住む、薩摩では、禅寺を除き、殆んどの仏寺が破壊されたのです。
明治革命軍は、反仏教の賎民の力を利用して、戦国時代の浄土真宗が、イエズス会の織田信長軍と闘うために、太陽神アトン(古代エジプトでミトラ神が変身した神)を阿弥陀(アミ様)として祀り、ミトラ神を信じる秦氏末裔の穢多の軍事力と金力とを利用したように、第三百済王朝の江戸幕府にイジメられていた薩摩藩と長州藩の秦氏末裔の賎民を、革命戦士として利用していたのです。では、体制側正規軍を相手に、互角に戦える戦術と戦闘技術を持つ賎民軍団の正体とは何なんでしょうか。教科書歴史では、その賎民軍団の正体を記述していないようです。
そのように、日本列島には日常生活を異にする、騎馬民族・農耕民族・海洋民族とが存在していたのです。その生活信条が異なる民族が暮す日本列島史の史実を隠蔽する目的で、歴史教育を「日本史」と「世界史」に分けるのです。明治新政府のこの分離歴史教育により、子供達は「農耕民族日本人」純粋培養思想が刷り込まれてしまうのです。そして、明治新政府は、農耕民族を「オオミタカラ」として、それ以外の異民族を蔑視していくわけです。
その結果、多民族が暮す朝鮮半島には同族もいたのに、明治新政府により、天皇の赤子・日本人とは別種と教育されたひとのなかには、同族である朝鮮半島人を蔑視するひとも現れてしまうわけです。
東アジア地図を南北逆さに眺めれば、日本海は、内海となり、日本列島は、極東での北アジアと南アジアとをつなぐ、回廊であることが理解できるでしょう。そのような日本列島が歴史上孤立していたはずはないのです。
日本列島の回廊は、時の軍事力により、南から北に、あるいは、北から南に、紀元前から異民族が渡来していたのです。ですから、日本列島史を調べるには、隣国朝鮮半島史だけではなく、ヨーロッパ史、オリエント史、あるいはユーラシア騎馬民族史をも視野に入れる必要があるのです。
そして、日本人が、「神国ニッポン」の選民思想により、異民族をイジメる思想の発生を調べるには、エジプト・オリエントの宗教、そして、バラモン・ヒンズー教、特に、太陽神ミトラを調べる必要があるのです。そして、騎馬民族末裔をイジメた日本仏教思想を知るには、ユダヤ・キリスト教の歴史を調べる必要があるのです。それは、日本の仏教思想の元は、それらの宗教の寄せ集めであるからです。
日本人の人種的視野を狭めてしまった原因としては、「聖書」と「日本書紀」が考えられます。これらの二書は、日本列島史を創作した藤原氏と大いに関係があるからです。
歴史的に、藤原氏が、日本国と日本人のイメージを創作したと言っても過言ではないでしょう。それは、「日本書紀」の創世記物語のなかで日本神話を創作し、その神話の中で天照大神を発明して、その天照大神を日本人の父・天皇家の祖神としたからです。そして、神武天皇という人物を、神代の国から地上に降臨させ、歴代の天皇が飛鳥ヤマトを支配し、その後、日本列島を支配してきた、と錯覚させ、勝者の史料を疑うことを知らない、多くの歴史学者のメシの種を創出したからです。では、その日本人の歴史的視野を狭めた魔術書である「日本書紀」を創作した藤原氏とは、何処から降臨したのでしょうか。
日本人が国際人であることは、その言語の基が国際的であることからでも証明できるでしょう。
日本語の文法構造が、ツングース語、モンゴル語、トルコ(チュルク)語と極めて類似しているから、日本語は、その三つの言語を一括する、アルタイ語であると言われてきました。しかし、多くの研究の結果、それらのアルタイ語の単語と対応するものが、日本語に乏しいので、日本語の基は、アルタイ語だとは断定できないのです。
言語は、経済活動に優れた民族の言語が、経済が劣る国に広がる傾向があるのです。ですから、現在の日本経済が弱い証明として、国際金融資本を支配する欧米語の語学学校が流行るのと同じに、古代日本列島に波状的に渡来した、経済的優位の民族が持ち込んだ言語が、古代の日本列島に広がって、そして、定着していったのです。
その傾向から、日本語の単語に、アルタイ語の単語が少ないということは、遊牧・騎馬民族であるツングース民族、モンゴル民族、トルコ(チュルク)民族が渡来する以前に、他の民族が渡来していたことが示唆されるのです。
因みに、モンゴル文字とチュルク文字は、表音文字で、その祖語は、古代海洋民族のフェニキアが発明したアルファベットで、そして、そのフェニキア文字は、古代ペルシャでの国際交易商人が交易で使ったアラム語へ派生していくわけです。そして、時代と供に、これらの表音文字は、国際交易商人・騎馬民族と供に、西アジアから東アジアへと伝播していったのです。それらの国際交易語としての遊牧・騎馬民族のアルタイ語は、シルクロートの東の終着点飛鳥ヤマトに渡来し、そして、定着したわけです。
日本語の言語は、子音で終わるよりも、「あ・い・う・え・お」の母音で終わることが多いのです。この母音で終わる言語を使う民族は、南方のポリネシア民族が考えられます。その狩猟・採取民族であるポリネシア民族末裔は、環太平洋の島々に分布しています。
日本列島の経済歴史は、狩猟・採取から、畑の農耕へ移り、そして、紀元前四世紀からの弥生時代に、鉄器使用の水田稲作が始ったようです。しかし、そのポリネシア語には、水田稲作に関する日本語の単語が見つからないのです。
水田稲作は、教科書歴史によれば、中国南部から朝鮮半島を経由して渡来した、と述べているようですが、その水田稲作に関する日本語に対応する単語が、中国語・朝鮮語には乏しいのです。
稲には、三種類あります。それらは、インディカ、ジャポニカ、そして、ジャワニカです。それらは、環境により変化したようです。古代の日本列島では、ジャワニカが栽培されていたようです。では、そのジャワニカ種を栽培する、日本語の単語と対応する、水田稲作関連単語は、何処から渡来したのでしょうか。それは、南インドからジャワを経由して、南海ロードにより渡来したのです。
古代インドは、農耕・遊牧民族トラヴィダが支配していたのですが、紀元前二千年アーリア人の侵略により、トラヴィダ民族は、被征服民となり、そして、紀元前八世紀、アーリア人の発明した、輪廻転生のバラモン教のカースト制度で、トラヴィダ民族は、アウトカーストの不可触賎民に落とされてしまうのです。
そのアーリア人によるバラモン教の圧制を逃れて、東の中国へ、そして、南インドへ逃れたトラヴィタ民族末裔がいたのです。その南インドへ逃れた民族は、タミル語を使っていたのです。
この南インドのタミル語が、日本語の水田稲作の単語と多く対応するのです。アゼ・アデ・クロ(畔)、ウネ(畝)、タンボ(田)、シロ(泥)、ハタ・ハタケ(畑)、コバ(焼畑)、ニ(稲)、アハ(粟)、コメ(米)、クマ(神米)、ヌカ(糠)、アレ(餅粉)、カユ(粥)、モチヒ(餅)、カス(粕)などなどです。
では、何故に、紀元前四世紀の弥生時代に、南インドから、遥々極東の列島に、タミル語を話すトラヴィダ民族末裔が渡来したのでしょうか。それは、国際交易品を求めて、弥生時代に日本列島に渡来していたのです。
日本列島は、火山国で、亜熱帯の気候であったので、鉱物(金・銀・銅・鉄・水銀・朱砂・琥珀)・動植物(熊・鹿・猿・大麻・漆)・海洋物(真珠・珊瑚)の資源宝庫であったのです。ですから、琥珀が産出する岩手県久慈には、ユーラシア大陸の西の果てのバルト海沿岸とにより、紀元前から琥珀ロードが存在していたのです。
紀元前十世紀ヘブライ国の王ソロモンは、隣国フェニキアの海洋国際交易商人と結託して、貿易風と海流を利用した外洋船のタルシシ船で、南インドから、孔雀、猿、香辛料、そして、極東の列島で採取した真珠・珊瑚等を輸入して、それをギリシャ都市国家に売りさばいて、大儲けをしていたのです。つまり、南インドでは、紀元前から西洋と東洋とを結ぶ国際交易港を築いていたのです。
紀元一世紀、西のローマ帝国と、東の後漢との間で、絹貿易が盛んになると、そのシルクロード交易の中継地、ギリシャ文化のバクトリアを継承したクシャナ朝の国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ語とサンスクリット語による物語が沢山創作されるのです。恐らく、それらの物語の基はひとつであったようです。それは、元々、ギリシャ語とサンスクリット語とは、印欧祖語を原語とする言語であったからです。
そして、それらの物語は、国際交易商人の商隊と供に行動する僧侶により、各国に広められていくのです。そして、西に向かった物語は、やがて「新約聖書」物語となり、東に向かった物語は、大乗仏教の「法華経」などの経典物語となるのです。ですから、「ヨハネの福音書」物語と、「法華経」物語には、同じテーマの物語が多くあるのは、そのためなのです。
その国際交易都市ガンダーラから、そのギリシャ語とサンスクリット語の物語を持った民族が、南下して、南インドのマラバル沿岸にたどり着くのです。その地を目指したのは、紀元前十世紀から、南インドのマラバル沿岸は、西洋と東洋との国際交易湊であったからです。
四世紀、この南インドのマラバル沿岸の東西を結ぶ国際交易港も、中央ユーラシアを支配した騎馬民族鮮卑の影響を受けるのです。
鮮卑の支配地拡大に伴い、周辺民族の大移動により、東西シルクロードの通過国パルチア王国が293年滅び、そのあとにササン朝ペルシャが興るのです。そのオリエントでの騒乱の影響で、隣国のクシャナ朝が衰退すると、ガンジス川河口の小国グプタ朝がインド中央部に侵攻してくるのです。そのグプタ朝軍団のインド大陸での膨張で、南インドの民族は、アラビア海やインド洋の海上へ押し出されてしまうのです。このなかに、ギリシャ語とサンスクリット語の物語を持った民族もいたのです。
五世紀、南インドから、南インド特産の香木を持った民族が、国際交易品の真珠・珊瑚を求めて、極東の列島の南九州坊津に現れるのです。やがて、その南インドから渡来した国際交易商人達は、先住民の軍事部族の「ハヤト」を従え、南九州を支配するのです。
そのハヤトが使う言葉は、飛鳥ヤマトのアルタイ語と異なり、タミル語と類似していたのです。この軍事部族ハヤトは、平安時代半ば、藤原氏が、朝廷の支配権を亡命百済貴族から簒奪すると、都の警備に駆りだされるのです。
六世紀の飛鳥ヤマトは、東アジアの覇権を競う、騎馬民族突厥帝国と農耕民族の北周・北齊との闘争の影響を受け、騒乱状態であったのです。飛鳥ヤマトは、奈良の宇陀から産出される朱砂の国際交易地として、縄文時代から渡来人が訪れていたのです。その飛鳥ヤマトを支配することは、国際交易商人にとっては願うことだったのです。
しかし、突厥帝国と北周・北齊とにとっては、飛鳥ヤマトを支配することは、国家存亡の問題であったのです。それは、日本列島の中心である飛鳥ヤマトを、突厥帝国が支配できれば、南北に続く列島を利用して、中国大陸中部を海上から攻撃できるし、その反対に、北周・北齊が支配できれば、北海道からカラフトに侵攻し、突厥帝国の背後を攻撃できるからです。
東アジアでの、突厥帝国と北周・北齊との攻防は、589年北周・北齊を滅ぼし、隋が建国することより、事態がかわるのです。
530年突厥は、朝鮮半島で高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争っているのと同じように、日本列島で高句麗・百済・新羅の進駐軍が三つ巴の紛争をしている、近畿の飛鳥ヤマトに、騎馬軍団を送り込み、そこを軍事支配するのです。そして、小高い岡に挟まれた飛鳥ヤマトの地に、チュルク軍の王(「日本書紀」によりチュルク名は蘇我氏に改竄される。)によりチュルク軍の砦が建てられるのです。そして、中国大陸からの侵攻に備えて、北九州から瀬戸内海へかけて、47もの防衛軍事施設の「ミヤケ」を設けるのです。
突厥進駐軍の二代目の時代になると、近畿に進駐していた朝鮮半島の勢力を取り込み、飛鳥ヤマトを騎馬の軍事力で完全に支配したチュルク王タリシヒコ(日本名:蘇我馬子)は、607年隋の煬帝に使者を遣わし、「東の天子が、西の天子に告ぐ。お元気ですか?」、と突厥帝国が飛鳥ヤマトを完全支配したことを告げるのです。
隋の煬帝は、漢族ではなく、騎馬民族の胡族(チュルク・トルコ)出身であったので、同族のタリシヒコは、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや」、と気軽に上表文を書いたのでしょう。
天子(テングリ)とは、騎馬民族の言葉で、北極星(騎馬民族の神)の命を受けた王の意味です。もし、煬帝が、騎馬民族の胡族ではなく、漢民族であったとしたら、遣唐使は斬首されていたことでしょう。それは、漢族では、中華思想により、全ての外国人は、獣と同じ蛮族と考えていたからです。蛮族が、中国の王と同列であることは、ゆるされることではないからです。
隋の煬帝と、飛鳥ヤマトのタリシヒコとは、言葉が通じていたようです。その根拠は、遣隋使には、通訳が伴っていなかったようです。中国の史書では、公式の外国への使節に関する記事では、「訳を付す」とか「重訳を付す」と断り書きをするのが慣わしですが、「隋書」の倭国の記事にはそのような但し書きが一切ないからです。
「日本書紀」では、隋の煬帝への書簡を書いたのは「聖徳太子」としているのです。そして、この607年の遣唐使を、「日本書紀」では、「小野妹子」としているのですが、「隋書」では、「ソ・インコウ」(蘇因高)としているのです。では、どちらの記述が正しいのでしょうか。それは、「隋書」のソ・インコウが正しいのです。
その根拠は、漢字二文字表記名の出現は、藤原不比等が天武王朝から権力簒奪した、713年の「好字令」以降だからです。つまり、「古代歴史資料」での漢字二文字で表記の人名・地名は、なんらかの意味で、藤原氏の作為があるからです。
その遣唐使ソ・インコウの書簡に対して、隋の煬帝は、608年隋使裴世清を、飛鳥ヤマトに送り込み、偵察させるのです。そして、裴世清は、都で「男王・アマタリシヒコ」に謁見したことを、煬帝に報告した記述が、「隋書」にあるわけです。
藤原氏が創作した「日本書紀」によれば、その飛鳥ヤマト時代では、女帝推古天皇の摂政厩戸皇子(後に聖徳太子に変身)が仏教布教のため、607年法隆寺を建立し、そして、多くの豪族達が寺を建立したため、飛鳥ヤマトは仏教文化に溢れ、その仏教の都で聖徳太子は大臣蘇我馬子と供に天皇紀・国紀を編纂していた、と言うのです。
しかし、飛鳥ヤマトの遺跡群は、「日本書紀」が描く仏教世界と異なる、オリエント世界を示すのです。それは、607年建立とする仏寺法隆寺(670年焼失)の遺跡は、仏教思想の南北軸ではなく、太陽神ミトラを祀る民族思想と同じに、南北軸から西に約二十度傾いているのです。そして、最古の寺と言われる飛鳥寺の瓦は、チュルク瓦(突厥瓦)と同じ、中国建築物の平瓦ではなく、丸瓦なのです。
更に、仏教建築文化には、石敷きの池に噴水を造る技術などありません。その噴水公園施設は、水が貴重物である砂漠地帯の文化であるのです。その噴水の技術は、山から水を引く、地下水道のカナートの技術なくしてはできないのです。カナートは、水の乏しいオリエントでは日常の水道施設であるのです。しかし、日本列島は、いたるところに滝が見られる、水の宝庫国なのです。噴水もカナートも、オリエントの文化技術で、日本列島古来の文化技術ではないのです。
そして、645年に壊滅した蘇我蝦夷・入鹿の館の遺跡は、飛鳥時代が平和な時代ではなく、戦闘状態であったことを示しているようです。その館は、石垣で防御を施してあったのです。
何故、南北約800m、東西約二kmの、それも都の真ん中に飛鳥川が流れる、長く幅が狭い飛鳥の土地に、国際都市が築かれたのでしょうか。そして、何故、蘇我氏親子の館は、岡の上に建てられていたのでしょうか。
蘇我氏が、「島の大臣」と云われていた理由は、その飛鳥川の下流にある仕掛けが原因のようです。その仕掛けとは、設置された大石を川床へ移動すると、飛鳥川が溢れ、飛鳥の都が水没し、飛鳥一帯は湖となるからです。しかし、蘇我氏の館は岡の上にあるため、水没から免れ、その岡が島となるのです。この装置は、正に、水城(みずき)です。
では、蘇我氏の館より下に建設されていると思われる、飛鳥ヤマトの天皇が住む館は、飛鳥川の氾濫で、どのようになるのでしょうか。この推測からも、「日本書紀」で述べる、飛鳥時代の宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古天皇の存在が疑われるのです。
飛鳥時代の蘇我王朝以前に、統一政権である「大和朝廷」が存在していなかった根拠として、国家を維持するための税制がなかったことがあげられます。国が臣民から税を徴収するには、戸籍がなくてはなりません。その戸籍が歴史上に現れたのは、689年「庚午年籍」からです。ですから、国庫収入がない「大和朝廷」は、存在できないのです。
それに、飛鳥時代以前の近畿地方は、山々から流れる川の氾濫により、農耕に適さない湿地帯であったのです。そのような地域では農業がおこなえないため、強力な国家財政など維持できないのです。
教科書歴史では、巨大古墳を築造するだけの財力があったから、四世紀に「大和朝廷」が存在していた、と述べるのですが、その巨大古墳を近畿に築造した理由のひとつは、戦国末期関東の荒川河口の湿地帯を神田掘の運河を削掘し、その残土で海抜十mの人工山を築き、穢れ地を宅地に変えたように、農耕に適さない湿地帯を、巨大運河を削掘し、その残土で土地を改良するためだったのです。
更に、飛鳥ヤマトの遺跡が、仏教文化と異なるところは、七世紀まで古墳が築造されていたことです。古墳の埋葬者は、死者を不浄物として火葬(ヒンズー教から導入)し、浄物(成仏)とする仏教思想とは異なり、再生を願うため土葬なのです。
そのような再生を願う土葬思想の民族が、ヒンズー教のように死者を不浄とし燃やしてしまう仏教思想を受け入れるわけがありません。天皇家でも、686年新羅系天武天皇は土葬で埋葬されたのです。しかし、藤原不比等の傀儡天皇である、百済系女帝持統天皇は、697年に火葬で埋葬されたのです。この女帝持統天皇が、歴史上初の火葬で埋葬された天皇であるのです。
そして、日本列島に張り巡らされていたと思われる飛鳥を基点とした幅十二mの直線道路、難波から飛鳥の都まで外国の賓客が乗る船が運航できる運河、ガラス器製造工場、金メッキ工場、富本銭製造工場、そして突厥石人などの巨石建造物などなど、それらは、仏教文化などではなく、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、オリエント、ユーラシア騎馬民族等の文化であるのです。
藤原氏は、「日本書紀」で、後世のひとたちに、どのようなメッセージ(ウソ物語)を伝えようとしたのでしょうか。
1868年明治革命が、日本史が示すように、薩摩・長州藩を主体とした日本人革命軍だけで成功したわけではないように、645年の乙巳革命も、インドから渡来の中臣族軍だけではなかったのです。そのふたつの革命の背後には軍事・経済支援をした黒幕の存在があったのです。それらは、明治革命では、イギリス東インド会社をダミーとする、イギリス・ロンドンの国際金融組織であったのです。そして、乙巳革命では、突厥帝国の壊滅を目指す唐国の存在があったのです。
唐は、東アジアの突厥帝国を、630年に散逸させると、その余勢を駆って、日本列島の飛鳥ヤマトを支配している、突厥帝国支配下の蘇我王朝の壊滅を目指すのです。そして、唐進駐軍は、中臣族を軍事・経済的に支援して、645年飛鳥ヤマトの蘇我王朝の壊滅に成功するのですが、騎馬民族は、戦況が不利だと判断すると、玉砕してまで戦うのではなく、戦場から逃避するため、飛鳥ヤマトの蘇我王朝軍を全滅させることができなかったのです。
このことは、東アジアでの突厥帝国との戦いでも同じでした。630年唐軍の全軍進撃を、自軍に不利と見た突厥帝国軍は、中央ユーラシアへと散逸するのですが、中央ユーラシアで体勢を立て直した突厥帝国軍残党は、682年唐の国力が衰退するのを見て、東突厥帝国を再興していたのです。
645年唐進駐軍と中臣族軍に敗れた蘇我王朝軍残党は、飛鳥ヤマトから伊勢へ逃れ、陸奥国で体勢を立て直すと、663年百済が滅びた結果、母国を追われた百済貴族は日本列島に亡命し、その百済亡命政権である近江朝を、百済の敵国新羅の皇子を押し立てて攻撃するわけです。それが歴史に言う、672年壬申の乱です。壬申の乱は、歴史教科書で述べるような、天智と天武兄弟(ふたりは遊牧民族ツングース系とスキタイの流れを汲む騎馬民族系の異民族で、兄弟ではない。)の内乱などではなく、唐と突厥帝国との国際紛争の一部であったのです。
その壬申の乱で勝利した新羅皇子が、672年日本列島初の天武天皇となり、第二蘇我王朝を飛鳥ヤマトの浄御原宮に興すわけです。ですから、第二蘇我王朝の天武系王朝の奈良時代までは、陸奥国の蝦夷とは仲良く暮せたのです。それは、陸奥国の蝦夷軍とは、チュルク系の第一蘇我王朝軍の残党であったからです。つまり、天武系も蘇我系も、同じユーラシア渡来の騎馬民族末裔だったのです。
しかし、686年陸奥国の蝦夷に支援された天武天皇が崩御すると、唐軍は、再び飛鳥ヤマトの天武王朝残党の壊滅を目指すのです。その唐の手先となるのが、天武朝で従五位下の籐史人(後の藤原不比等)です。
唐の密命を受けた籐史人は、686年百済系の讃良姫、天武天皇の后を、女帝持統天皇として即位させ、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトから、694年藤原へ遷都させるのです。「籐原」とは、「トウゲン」で、唐の支配地という意味なのです。
この藤原京と言われる都の遷都は何を意味しているのでしょうか。それは、日本国が、明治革命の後、イングランド銀行の意向により日本銀行を設立して、経済的支配下となったのと同じように、唐の支配下になったことを意味しているのです。
唐は、690年女帝則天武后が実権を握ると、国号を周とするのです。そして、暦法を儀鳳歴に替えるのです。それは、天から命を受けた、新しい天子(テングリ)が、新しい歴の下で政治をすることを意味するのです。
この周(唐)の女帝則天武后の暦法の儀鳳歴が、唐進駐軍の手先の籐史人の暗躍により、天武天皇の后が女帝持統天皇として即位すると、その持統天皇の政治に採用されたのです。
つまり、中国大陸の周(唐)と、日本列島の藤原京では、「年、月、日」が同じとなり、そして、その周(唐)の年月日で、藤原京の政治が執り行こなわれるようになってしまったのです。このことからも、藤原京が、周(唐)の支配下になってしまったことを示唆します。
歴史教科書では、藤原京は、唐の都を真似して造られた、と述べているのですが、それは違います。中国・周のコロニーが、「トウゲン京」の実態だったのです。
694年都を飛鳥京から藤原京へ遷都した理由は、飛鳥ヤマトを中心とした近畿の支配者が、騎馬民族王朝から唐進駐軍傀儡王朝に替わったことを意味しているのです。それは、政治の仕組みが替わったことで証明できます。その根拠は、都を飛鳥から藤原京に遷都すると、その七年後の701年大宝律令が、日本列島で始めて発令されたからです。
律令の「律」とは刑罰法のことです。そして、「令」とは国家の統制組織や官人の服務規程、人民の租税、労役などの行政に関する法のことです。
この大宝律令は、周(唐)の政治の基準、永徽律令(えいきりつれい)を手本として作成されたものです。それ以前には、律令による政治は、日本列島ではおこなわれていなかったのです。その根拠として、607年遣隋使ソ・インコウは、隋の煬帝に、倭王は夜に政をし、夜明けと供に政を終える、と述べているのです。
歴史教科書では、日本初の律令は、645年所謂「大化の改新」後の、668年(天智7年)藤原鎌足らによって編纂された、「近江令」と述べるのですが、その根拠となる資料は、「弘仁格式」・「籐氏家伝」などの、「藤原氏による藤原氏のための史料」であるため、その信憑性が疑われるのです。更に、現在では、その「近江令」を編纂したと云われる藤原鎌足の実在性も疑われているのです。
では、何故に、唐進駐軍により、大宝律令が作られたのでしょうか。その理由はふたつあります。ひとつは、全ての豪族の土地を百済系女帝持統天皇の孫文武天皇に献上することにより、豪族達を経済的に自立できないようにして、唐進駐軍傀儡天皇の支配下にすることです。そして、もうひとつは、臣民の奴隷化です。
その大宝律令の「令」には、更に「格式」というものがつくられたのです。この「格式」が、臣民を奴隷化するためのトリックなのです。
「格式」の「挌」とは令の追加規則のことです。そして、「式」とは施行細則のことです。そのような、こまごまとした罰則のある規則により、臣民から租税と労役を、唐進駐軍傀儡王朝が吸い上げるのです。その基本が、祖庸調です。
唐での祖庸調は、祖は丁男(成年男子。16〜60歳)あたり栗(穀物)二石、庸は年間二十日の労役、そして、調は綾・絹二丈と錦三両、または布二丈五尺と麻三斤であったのです。藤原京でも、似たような租税と労役を臣民に課したのです。
更に、藤原京遷都から、唐の制度にはない、高利貸しのようなことをおこなっていたのです。それが、官稲出拳(かんとうすいこ)です。それは、高利貸しのシステムと同じで、貧民達に、春に稲(潁稲・えいとう)を貸し出し、秋には所定の利子を上乗せして返済させていたのです。これは、正に、奈良時代版のベニスの商人です。
では、何故に、唐進駐軍は奈良盆地の外れに、藤原京を遷都したのでしょうか。そのひとつは、奈良の宇陀で産出される朱砂の確保と、前政権の天武王朝を軍事的支援をしていた近畿の山々に潜伏している突厥帝国残党の殲滅のためです。騎馬民族の闘い方は、形勢が不利と判断された場合は、玉砕戦法ではなく、その戦場から一時逃避する傾向があるからです。
何故、縄文時代から三輪山の麓の海石榴(つばき)が国際交易地となったかの理由のひとつは、この三輪山の麓からは、南海アラブ(ペルシャ)からの海洋民族渡来地の伊勢に抜ける道があったからです。このことは、三輪山の麓の纏向遺跡から出土した土器の約半数が、東海と関東のものであったことで証明できるでしょう。奈良盆地は、東側を笠置山地により囲まれているのです。しかし、三輪山の麓には、伊勢に向かう道が、中央構造線に沿ってあるのです。この道は、朱砂ロードとも云われる、縄文時代からの古道であるのです。
ですから、唐進駐軍は、伊勢に残存する蘇我王朝残党軍のヤマトへの進撃に備えて、奈良盆地の外れ、三輪山近くに藤原京の防衛都市を築いたのです。それ故、藤原京は、戦闘体勢下の都として、その藤原京の中心に、蘇我王朝軍残党の襲撃からの防御のため高さ5mの土壁を1km四方に廻らせた藤原宮を造っていたのです。この高い塀を廻らした中に、都を築く思想は、正に、中国の農業民族が、騎馬民族からの襲撃を防ぐのと同じです。
そして、藤原(とうげん)が前線基地として選ばれたのは、その藤原が三山に囲まれていたからです。その三山とは、北の新羅コロニー(後の磯城)に対峙する海抜136mの耳成山、紀ノ川からの侵攻を防ぐ海抜199mの畝傍山、そして、東の伊勢からの侵攻を防ぐ海抜148mの天香具山です。
以前の藤原京遺跡の説明では、三山に囲まれた地に、藤原京が遷都されたと云われていたのですが、最近の調査後では、その規模が、三山を含む広大な都で、平安京を凌ぐ規模であることがわかったようです。
その蘇我王朝残党軍からの防衛基地の「藤原京」の記述は、「日本書紀」にはないのです。その代わり、持統天皇が「藤原宮」に移った、と記述しているだけです。そのように、飛鳥・奈良の古代遺跡が、「日本書紀」の記述と異なること示すのは、何故でしょうか。
日本列島の白鳳時代末期、東アジアでは、周(唐)の女帝則天武后(690年〜705年)と、682年に復興した東突厥帝国との戦闘が再び始った時代であったのです。そして、その東アジアでの、唐と東突厥帝国との戦闘は、744年東突厥帝国が滅びるまで続いていたのです。この唐と東突厥帝国との戦いの影響は、日本列島の政治にも強く現れていたのです。
この唐による、北東アジアの支配を目指した突厥帝国・騎馬民族殲滅作戦の流れは、日本列島の近畿地方の唐のコロニーである、694年藤原京、710年平城京、794年平安京への遷都の流れと合致するようです。
この奈良の南から京都の北への遷都は、794年秦氏の支配地である山背国(後の山城国)の侵略で終わり、その後の遷都は、約千百年後の1868年江戸城明け渡しまでなかったのです。
この藤原京から平安京までの百年間に、度重なる遷都がおこなわれたのですが、歴史教科書では、何を目的に遷都がおこなわれたのかを知ることができません。不可思議なのは、一年で遷都した都もあるのです。ある歴史書では、怨霊を恐れて遷都したと述べているようですが、遷都には、莫大な費用と労働日数が掛かることから、その説では説得力に乏しいようです。
その度重なる遷都は、都とは文化を誇る処ではなく、敵からの防衛施設の砦であると考えると、その度重なる遷都の意味が理解できるようです。では、唐のコロニー防衛都市を何度も放棄させた敵対軍事勢力とは、何でしょうか。それは、794年平安京から千百年も遷都しなかったことと関係があるようです。その謎を解くヒントは、蝦夷(エミシ:ヒゲのある夷)の存在です。
794年平安時代から、道幅が、以前の十二mから六mに狭められるのです。それは何故でしょう。その意味は、794年平安時代から軍団の装備・組織が替わったことを示唆します。
飛鳥ヤマト時代の、道幅十二mの直線道路が、日本列島の現在の高速道路と同じ位置に築かれていた意味はなんでしょうか。それも現在の高速道路のSA(サービスエリア)と同じ位置に駅舎の遺跡が多く発掘されているのです。そして、その道幅十二m直線道路には、側溝があり、水はけの技術もあったのです。このような高度道路建設思想をもった軍団は、歴史上ではローマ帝国軍以外には存在しません。
ローマ帝国軍は、谷は埋め、峠は切り開き、幅広の直線軍事道路を侵略した支配地に建設し、戦闘時は騎馬軍団が迅速に移動できるように、そして、平和時では、支配国からの貢物をローマへ馬車で輸送していたのです。その日本列島に張り巡らされた幅広の直線道路から轍(わだち)の跡が確認されていたことは、飛鳥ヤマト時代に、ローマ帝国軍と同じに、輸送手段として馬車の使用が示唆されます。
このローマ帝国と突厥帝国とには、絹とローマン・グラスとの貿易により使者の往来があったのです。それは、東西の絹貿易の通過国に、国際交易都市ガンダーラのあるクシャナ朝が、五世紀半ばに崩壊すると、謎が多いエフタルが興るのです。この東ローマ帝国と突厥帝国との絹貿易を妨害するエフタルを、ローマ帝国軍と協力して突厥帝国は、567年滅ぼすのです。その返礼に、568年東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが突厥庭に入るのです。
庭とは、神が降臨する処で、王(天子)が政(まつりごと)を行う場所です。「朝廷」とは、元は「朝庭」で、朝、神が降臨する処で、テングリ(天子)が政を行ったことが、原語なのです。その突厥庭に、東ローマ帝国の使者が入れたということは、それほど東ローマ帝国と突厥帝国とは、絹とローマン・グラス貿易で親密であった証拠になります。
では、飛鳥ヤマト時代に、そのような道路建設技術は、何処の誰により日本列島にもたらされたのでしようか。それは、新羅の軍団からです。356年ナムル(奈勿)王から始る新羅(=秦羅は、アレクサンドル大王国のギリシャ文化継承国バクトリアの末裔。紀元前221年始皇帝の秦とは、バクトリア国の中国でのコロニーであったのです。)は、ギリシャ・ローマ文化国であったのです。その根拠は、新羅慶州の天馬古墳が証明します。
「日本書紀」で述べる、527年筑紫国造磐井の反乱とは、その新羅のギリシャ・ローマ文化を保持する軍団一族が、新羅から北九州に侵攻した史実を、隠蔽するための物語なのです。
何故、ギリシャ・ローマ文化を保持した軍団一族が、新羅から北九州に渡来したのかは、翌年528年から、新羅は、ローマ帝国軍の軍神ミトラ信仰から仏教信仰へと変身したことで説明できるのです。それは、中国南朝の仏教を国教とする「梁」の軍事支援を得た仏教国の百済軍の、新羅への侵略を意味しているのです。527年仏教信仰の百済軍に敗れた、ミトラ信仰の新羅軍の一部が、日本列島に避難してきたのです。
新羅は秦羅で、新羅から渡来の秦氏とは、ヒッタイト帝国、古代エジプト、オリエント、ギリシャ、ローマ、バクトリアを流離った製鉄・石切・削堀・土木建設技術等を持った民族の集まりですから、530年突然、飛鳥ヤマトに出現した、東ローマ帝国と親密な関係があった突厥帝国軍とは、ミトラ信仰(中国語では、景教)により意気投合できるわけです。
この新羅から渡来の「ミトラ神」を、「日本書紀」の仏教伝来物語では、「弥勒菩薩」に改竄しているわけです。ミトラ(ペルシャ)→マイトレーヤ(インド)→弥勒(中国)の流れが、北周りの大乗仏教の仏の本体なのです。
飛鳥ヤマト時代、そのように、東ローマ帝国と突厥帝国との絹とローマン・グラスとの交易のため、ローマ帝国軍末裔の技術者が、飛鳥ヤマトから日本列島本土に、絹などの交易品を馬車で運ぶために築いた、幅十二mの高速道路は、「日本書記」の仏教文化のうそ物語で埋められてしまったのです。
しかし、昭和時代の高速道路建設で、飛鳥ヤマトのローマ帝国軍末裔が建設した古代高速道路跡が発掘され、「日本書紀」の闇に葬られていた、オリエント文化の飛鳥ヤマトが蘇ったのです。でも、「日本書紀」の呪縛から解けないひとの多くは、いまだに、「ぶっきょうでんらいごみやさん」の呪文を唱えているのです。
奈良時代、唐進駐軍の砦である都を、奈良の南から京都の北に移動しながらの、この唐進駐軍対蘇我王朝残党軍との戦闘は、六国史では知ることができないでしょう。それは、その奈良時代の唐進駐軍と騎馬民族軍団との戦闘の実態が知れると、突厥帝国のコロニーであった蘇我王朝が、飛鳥ヤマトに存在したことが証明されるため、その結果、「日本書紀」のウソがバレ、藤原氏の出自が南インドからの渡来祭祀民族であることと、桓武天皇家が、飛鳥ヤマト政権の正統な継承者ではなく、民族が異なる簒奪者であったことを、暴いてしまうからです。
794年唐進駐軍は、秦氏が支配していた近畿の地から、蘇我王朝軍残党を東国へ駆逐し、平安京の軍事都市を築いたのです。そして、唐進駐軍は、母国を滅ぼした新羅を憎む亡命百済民を中国山東半島から平安京に移民させ、健児兵を組織して、陸奥国を支配している新羅花郎軍団や突厥軍残党の殲滅のため、唐の儀式で即位した百済系桓武天皇軍を軍事支援するのです。
何故、唐進駐軍は、中臣族から変身した藤原氏ではなく、亡命百済貴族出の桓武天皇に鞍替えしたのでしょうか。それは、710年奈良の平城京遷都から、唐進駐軍を差し置いての、藤原氏の横暴が目立ってきたからです。
奈良の都とは、韓国語でナラは、都という意味がありますが、ヤマト語にもナラの言葉があるのです。その意味は、「土地をナラす」とは、「土地を平らにする」と言う意味もあるのです。では、ナラで、何を平らにしたのでしょうか。それは、奈良盆地にあった巨大古墳です。奈良の平城京の大極殿は、巨大古墳をナラした跡に建てられたのです。
このことは何を意味しているのでしょうか。それは、古墳文化を築いた民族の敗北です。
藤原京から進撃した唐進駐軍と藤原軍は、奈良盆地を支配していた民族を駆逐し、その宗教的シンボルの前方後円墳を破壊し、ナラし(平らにし)、その跡に、唐進駐軍の大極殿を建立することで、勝利宣言をしたわけです。そのことにより、奈良盆地を放棄した民族は、北方のミトラ神を祀る秦氏の支配地である山背国を目指して逃避するのです。その残党軍を追撃するように、都が南から北に移動していくのです。
神社が、日本列島古来の建物ではない根拠は、そこにあるのです。神社の多くは、古墳の上や、その近くにあるのは、前政権の古墳築造民族の支配地が、侵略軍の武力により制圧された後に、建てられた建築物だからです。しかし、「日本書紀」の神代物語と、蘇我氏と物部氏との神仏戦争物語の呪縛により、多くのひとは、いまだに、神社は仏寺よりも古い建物である、と信じて疑わないのです。
しかし、死者を穢れとする神道思想は、死者を石棺に納め永遠に保存する思想により築造する古墳思想とは、その思想体系が全く異なることからも、神社が古墳と同居できるわけがないのです。ですから、古墳時代には、「死」に対する穢れ祓いの儀式などなかったのです。つまり、史実は逆で、侵略軍の砦である仏寺の後に、前政権の死者が眠る古墳の上に、神社が、抹殺された前政権者の怨霊封じのために現れたのです。その「日本古来の神社」のトリックを考えたのは、祭祀氏族末裔の藤原氏であるのです。
その仏寺よりも古いと言われる神社の創建の歴史は、藤原氏以外の氏族による史料には記述はないのです。
藤原京の砦から侵攻し、710年前政権の古墳跡に造られた平城京は、不思議な地形をしているのです。それは、唐の都の築造思想では、南北軸に対して正方形とされるのに、平城京には、東側にも街の一角が造られているのです。そして、その出っ張りの地に、藤原氏の氏寺の興福寺があるのです。そして、興福寺から東の御蓋山の麓に、藤原氏の氏神を祀る春日社があるのです。
仏と神を同時に祀る藤原氏とは、一体、何者なのでしょうか。藤原氏には多くの謎があるように、その興福寺と春日社の建立にも謎があるようです。
興福寺の建立は、710年とされているのです。しかし、その興福寺とは、改名で、元の寺名は、京都山科の山科寺で、その後、その山科寺が飛鳥に移築され厩坂寺となり、その厩坂寺が、平城京に移築され、興福寺となった、と説明するのです。
この寺名の数回の変名は、山背国の支配者秦河勝が建立した、ミトラ教(=景教)の蜂丘(岡)寺を、数回の変名の後、仏寺広隆寺に変えたトリックそっくりです。
そのような目で、春日社を調べると、768年造営の春日社も、その前身は鹿島の神社で祀っていた武甕槌命を御蓋山に遷して祀り、その武甕槌命を春日神と称して祀ったのに始まる、とするのです。しかし、最近の発掘調査では、その768年に創建されたと言う春日社より以前に、御蓋山の麓には、祭祀がおこなわれた可能性が示唆されているのです。と、言うことは、飛鳥ヤマトのオリエント文化の建造物を徹底的に破壊した跡に、北九州から仏寺を移築したように、御蓋山の前政権の祭祀場を徹底的に破壊した跡に、春日社が建てられた、とも推測できるわけです。その推測の根拠のひとつとして、藤原氏の仏寺である興福寺が新設した、中臣神道の春日若宮があります。
「若宮」とは、従来の先住民が祭祀したの祭神の勢いを弱めるための宗教施設のことです。そして、その目的は、先住民の祭祀儀式を折り曲げ、隠蔽し、そして、新しく創作された神を、官幣氏族神への信仰に振り替えさせるための装置施設であるのです。その若宮のおん祭りとは、その前政権の宗教思想の隠蔽が成功したことを祝う儀式のことなのです。つまり、全国で行う若宮おん祭りには、前政権の祀りの儀式が隠蔽・改竄されているのです。
では、若宮に、隠蔽・改竄された神様は、何だったのでしょうか。それは、奈良の「さんちゅう」で祀られていた、「牛頭天皇さん」です。牛は、奈良(「たいら」にされた)先住民から祀られる神様の化身であるのに、何故か、旱魃での雨乞いの儀式で屠殺されてしまうのです。その屠殺儀式の意味が、今日分からないのは、藤原氏が建立した春日若宮により、その儀式が「血の穢れ儀式」として、仏教・神道思想により隠蔽されてしまったからです。
飛鳥ヤマト時代から、その牡牛を屠る儀式とは、オリエント渡来の秦氏の神・太陽神ミトラに願いを叶えてもらうためのものであったのです。
紀元前十四世紀、牡牛は、古代エジプトで、三神の太陽神ミトラが、アメンホテプ四世の独善的宗教改革で、唯一神の太陽神アトンに変身した時、その太陽神アトンの化身となったのです。太陽は、冬至の日、死から再生すると信じた古代エジプトの一部の部族では、人工的に神を再生(願い事をする)する儀式として、牡牛を屠っていたのです。この宗教儀式が、秦氏により、日本列島にもちこまれ、それが奈良の盆地での巨大古墳築造のための儀式としておこなわれていたのです。
奈良の都平城京とは、先住民の宗教シンボルの巨大古墳をナラした跡に造られたのです。そして、先住民のそのオリエント渡来の宗教儀式は、藤原氏の仏教と中臣神道とにより、奈良盆地にある宗教施設や祭祀場を、徹底的に破壊し、その跡に、仏寺と神社が建てられていくのです。このことにより、藤原氏が、後に、前政権の神の祟りを受けることになるのです。
このような、歴史的トリックをおこなった事例は、ローマ帝国で、392年キリスト教がローマ帝国の国教となり、それ以前に繁栄していたミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教の教会を建てて、前政権の宗教を歴史的に抹殺したことと同じであるようです。何故、歴史は繰り返されるのでしょうか。
奈良盆地を支配していた軍事部族を失った、土葬で葬られた騎馬民族末裔天武天皇の孫である長屋王は、729年藤原氏の陰謀により抹殺されるのです。その結果、奈良朝廷内には藤原氏の当面の敵がいなくなるのです。
しかし、蘇我王朝軍残党が殲滅されたわけではありません。近畿の山々に逃れた騎馬民族は、玉砕戦法ではなく、ヒッテンドラン戦法のゲリラ戦を得意とするのです。
平城京を支配した唐進駐軍は、更に北に進軍し、741年山背国の南端に恭仁京に遷都するのですが、蘇我王朝軍残党のゲリラ戦により、その三年後744年難波京に遷都するのです。しかし、思うように進撃できない唐進駐軍は、翌年745年再び平城京に遷都するのです。
決定的な軍事力が乏しい蘇我王朝残党軍の攻撃を見て、謀略で淳仁天皇の姻戚となった恵美押勝(藤原仲麻呂)は、763年、平城京の本国唐の政治の年月日と同調していた儀鳳歴を廃して大衍歴に替えてしまうのです。これは、唐進駐軍の支配下からの脱却を意味していたのです。
そのように藤原仲麻呂が行動をおこした背景には、755年から始まる中国唐の政権を揺るがした安録山の乱があったからです。755年から763年まで続いたその乱により、唐進駐軍の、奈良の都での軍事支配体勢が一時緩んでいたのです。
この機会を捉えて、藤原仲麻呂は恵美押勝となり、天皇をロボットとして、平城京を支配するために、国の印を私邸に置き、銭の鋳造権を得て、恵美押勝の新銭を旧銭の十倍の価値として流通させようとしていたのです。
奈良時代、唐進駐軍の指導の下、中臣族から変身した籐氏(後の藤原氏)が唐の税制を基本として創った、大宝律令や養老律令により、山の民を除く近畿周辺国臣民から搾取した産物を、唐国に運んでいたのが、所謂、遣唐使船の実態です。
761年、奈良の平城京を支配している唐進駐軍の母国が、吐蕃の侵攻や傭兵軍の内乱を鎮圧するために、兵器の素材の牛の角7800本の貢納を命じてきたのに対しての、唐国への貢物運搬船である遣唐使船の船出を、恵美押勝(藤原仲麻呂)は、新造船を難波の江口で難破させる謀略により中止させていたのです。
母国唐での乱が平定されると、このことに激怒した唐進駐軍は、天武天皇系最後の女帝天皇であった考謙上皇を再び即位させるのです。それが、女帝称徳天皇です。称徳天皇は、蘇我王朝残党軍に、太政大臣となり傍若無人の恵美押勝を、764年謀反者として葬るのです。
何故、従五位下の籐史人(後の藤原不比等)の孫藤原仲麻呂が、短期間に政権の中枢に登りつめることができたかの理由のひとつは、藤原氏が祭祀者一族であったからです。藤原氏は、仏教と中臣神道を支配する一族であったのです。それは、藤原氏の出自が、南インドのマラバル沿岸から渡来した、ヘビをトーテムとする中臣族であったからです。
勝利者としての侵略軍側の祭祀者は、前政権の神(祟り神・怨霊)を封印するためと称して、色々な儀式をおこなうことが、侵略王権により許されるのです。ですから、祭祀者は、自族に都合の良い儀式を、色々と創作することができるのです。そのひとつが、「権力者に、自族の女を捧げる儀式」の「五節会の舞」です。
藤原氏は、藤原の娘を天皇に捧げることにより、その孫を支配することで、天皇家の姻戚となり、その孫を天皇としてロボット化することで、中央政権に躍り出ることが出来たのです。その藤原氏のロボット天皇第一号が、淳仁天皇だったのです。
唐進駐軍の支援の下、この奈良の平城京の砦を構築し、前政権の蘇我王朝軍残党を奈良の地から駆逐し、そのオリエント文化施設を徹底的に破壊し、オリエント交易の関連文書を焚書したことで、祭祀者藤原氏により720年「日本書紀」が創作され、日本国のイメージの基が創られたのです。
しかし、794年唐進駐軍の支援により即位した百済系桓武天皇は、その藤原氏が創作した「日本書紀」から、母国百済を滅ぼした新羅関係史を改悪又は抹殺し、そして、百済史を挿入することにより、「日本書紀」の日本列島史を改竄するわけです。そして、反藤原氏の聖武天皇の遺品を集めた正倉院の中から、百済亡命貴族に不都合な史料を焚書するのです。ですから、今日、飛鳥・奈良時代の史実を知ることができないのです。
その結果、仏教伝来が、「日本書紀」の552年と、桓武天皇家史料の538年のふたつの物語ができてしまったのです。その矛盾は、二度ある物部氏と蘇我氏との神仏戦争に、中臣鎌子(後の藤原鎌足)が二度出演してしまうわけです。更に、藤原氏が、ガンダーラで創作されたヨシュア教の「聖書物語」を参考にして創作した人物「厩戸皇子」を、ギリシャ・ローマ文化の新羅で信仰されていた、地母神イシスの子神ホルスである子供神が変身して、「太子信仰」となったのを基に、「聖徳太子」なるネーミングとし、そして、794年亡命百済貴族が乗っ取った山背国の支配者であった、太陽神ミトラ教祭祀者の秦河勝を、その「聖徳太子」の忠臣とし、太秦に仏像安置のために、仏寺の広隆寺を建立させた、とするのです。そして、オリエント文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝の存在を抹殺するために、そのオオキミ蘇我馬子(アマタリシヒコ)を、女帝推古天皇の大臣とし、「聖徳太子」と天皇紀と国記を編纂した、とするのです。しかし、その天皇記と国記は、645年蘇我馬子の息子蘇我蝦夷の館で燃えてしまった、とするのです。何故、大臣の私邸に、大事な国書があったのでしょうか。
以上の「日本書紀」物語の大筋をとらえただけでも、その物語を素直に信じることができないのは、著者だけなのでしょうか。
1776年7月4日アメリカ十三州のイギリス王国からの独立宣言がされ、国民国家が歴史上始めて誕生し、そして、国民皆兵により国民軍が創設され、固定した国境が出現するまでは、国力とは、軍事力のことだったのです。ですから、それ以前の世界では、国力のある国は、国力のない国を侵略し、その土地を支配することは日常的な出来事であったのです。
では、国力の基の軍事力は何により創設されたのでしょうか。それは、経済力です。経済力のある国は、強い軍隊を創設するために、外国から軍事的に優れた雇い兵を集めることができるのです。ですから、古代国家は生き延びるために、軍事力の基である経済力を増すために、国を挙げて交易、または略奪をおこなうわけです。
資源のある国は、国力のある国に、常に狙われるのは、今日も古代もかわりありません。中東が、紛争の火種となったのは、地下資源の石油が開発されてからです。20世紀末に、アメリカ合衆国は、世界の平和を守るために大量破壊兵器を破壊する、との理由で、イラクを侵略したのですが(実際は大量破壊兵器はなかった。)、しかし、核を保持していると独裁者が公言する東アジアの小国には、軍隊を侵攻させません。それは、その小国には、石油の埋蔵が確認されていないからです。そのように、資源国は、今日も古代も外国の勢力に狙われるのです。
日本列島は、亜熱帯の火山国であるので、真珠・珊瑚の海洋資源、そして、金・銀・水銀・朱砂・琥珀・黒曜石・翡翠などの鉱物資源、更に、絹・大麻・鹿・熊などの動植物資源の大国であったのです。このような宝の日本列島は、四海が海流に洗われるため、諸外国勢力には、どこからでも上陸できる宝島であったのです。
ですから、縄文時代以前、ユーラシア大陸の西の果てのバルト海沿岸と岩手県久慈には、国際交易商人が行き来する琥珀ロードがあり、そして、古代中国の皇帝に献上された翡翠は、糸魚川から産出されたものが多かったのです。
弥生時代には、タミル語を話す南インドのトラヴィダ族(薩摩ハヤトの祖)は、真珠を求めて九州を訪れていたのです。その結果、日本列島に水田稲作が普及したのです。
紀元一世紀には、東ローマ帝国と後漢との絹貿易が盛んになると、温暖な日本列島に、繭の生産拠点が作られ、在来種よりも大きい、南中国種の蚕・ポンピックスモリが養殖されるのです。
紀元三世紀末から、埋葬思想が異なる民族が、日本列島に渡来して、古墳が築かれていくのです。その古墳がある三輪山麓の纏向遺跡に、関東・東海・出雲・吉備製の土器が埋葬されていたのは、その三輪山麓に、海外から渡来の国際交易商人が、諸外国の装飾品や薬などをもたらし、宇陀から産出された朱砂や伊勢で獲られた真珠などと交換していた、国際交易市場のツバキがあったからです。
そして、四世紀には、ユーラシアからの騎馬民族が渡来していたのです。その証拠は、四世紀からの石積木郭墳に、馬具の埋葬品が現れるからです。更に、古墳は巨大化し、古代エジプトの埋葬思想と同じ、石棺が古墳内に設置されるのです。その石棺の内寸は、古代エジプトの単位・キュビットで割り切れるのです。
そして、六世紀の飛鳥時代に、ローマ帝国軍道路と酷似した、幅十二mの直線道路が日本列島本土に張り巡らされ、そして、国際湊・難波から三輪山麓のイワレまで、船が航行できる運河が造られるのです。このことは、日本列島での交易・略奪が大規模に行われていたことを示唆します。そして、飛鳥ヤマトには、賓客を歓待するための噴水のある池が造られ、外国に輸出するためのガラス器工場、そして交易のための富本銭鋳造工場が造られるのです。
そして、そのオリエント文化の突厥帝国のコロニーである飛鳥ヤマトは、645年仏教が栄えた唐の進駐軍に壊滅されるのです。そして、砦である仏寺が、前政権の宗教施設跡に築かれていくのです。それが、奈良時代です。何故、武士が「もののふ」と云われたのかは、その奈良時代の出来事が原因のようです。しかし、教科書歴史では、奈良時代の史実が分からないのです。
飛鳥時代の史実が分からないのは、奈良時代に、藤原不比等が「日本書紀」物語で、オリエント文化飛鳥の歴史を改竄・隠蔽したからです。そして、奈良時代の史実が分からないのは、平安時代に、百済系桓武天皇家により、唐のコロニーが支配する奈良時代の出来事を、改竄・隠蔽したからです。
では、奈良時代とはどのような時代であったのでしょうか。その奈良時代を代表する都に平城京があります。その都は、710年奈良盆地南の藤原京から遷都されたのですが、その遷都と同時に、藤原氏の興福寺が飛鳥の地から移築されていたのです。
では、その平城京の住人の半分以上が官僚であったのは、何故でしょうか。それは、701年大宝律令と718年養老律令で発令された租税改革と関係があったのです。律令とは、罰則と義務とにより、支配下の臣民から税と労働を搾取する技術であるのです。
飛鳥時代は、騎馬民族が支配していたので、恐らく、その租税制度は、騎馬民族は土地に定着する民族ではなく、遠方の異民族に売るための商品と供に移動する民族であるため、交易通行税と人頭税であった可能性があります。
湿地帯から耕作地として土地改良された奈良の盆地を支配した、藤原氏を傀儡とする唐進駐軍は、列島の各国から奈良の都に集積する税である物品や労働サービスの管理運営をするために、平城京に漢語に熟達した官僚を住まわせたのです。このことは、現在の国際的企業の日本支社に勤務するサラリーマンが欧米語に堪能なのと同じです。では、その平城京に集積された租税の富は、何処へ行ったのでしょうか。それは、中国・唐への可能性があります。
630年から始まる遣唐使は、教科書歴史では、唐の高度文化を輸入するため、と説明しています。しかし、三十年前の600年からの遣隋使では、ソ・インコウ(日本名:小野妹子)が一年で往復していたように、安全に航行していた遣隋使船が、奈良時代になると、その遣唐使船の半分は転覆し、更に不思議なのは、その遣唐使の帰還の多くは、統一新羅国の商船によるのです。この謎を解くヒントは、安全性に不安のある遣唐使船の運営には、国際海洋商人の顔を持つ藤原氏が絡んでいたことです。
遣唐使船の渡航ルートは、難波津→北九州博多津→中国・蘇州が正式なのに、南九州坊津→種子島(タネ島)→奄美→中国・杭州の別ルートを採る事もあったのです。この別ルートを逆に、中国・杭州から更に南下して辿れば、南インドのマラバル沿岸へのアラブ中継ルートと繋がるのです。
戦国時代、この南インドのマラバル海岸→中国・マカオ→南九州坊津→種子島→紀伊半島→雑賀→根来寺→本能寺のルートは、イエズス会がもたらした鉄砲・弾薬の密輸ルートであったのです。更に、1853年米使ペリーの艦隊は、アメリカ合衆国から直接ではなく、わざわざ遠回りして、中国・マカオを中継して、浦賀に渡来していたのです。やはり、藤原氏の出自の謎を解くヒントは、南インドのマラバル沿岸にあるようです。
平城京の進駐軍施設に集積された日本列島の物産が、唐に略奪されているのを、国際海洋商人の顔を持つ藤原氏が黙って見ているはずはありません。計画的に、貢物を満載した船が沈没してしまえば、その唐国への貢物を合法的に掠め取ることができるわけです。
藤原氏は、文武・女帝元明・女帝元正天皇を傀儡として、唐進駐軍の日本からの略奪政策に、遣唐使船の計画的転覆で、対抗するのです。その藤原氏の陰謀は成功するかに見えたのですが、729年騎馬民族末裔天武天皇の孫長屋王を抹殺した頃から狂い始めるのです。それは、藤原氏四兄弟とその側近の相次ぐ不自然な死と、そして、藤原氏のロボット天皇と思われた聖武天皇が、反藤原氏となり、奈良盆地から殲滅され、山背国の山奥に隠棲する蘇我王朝軍残党とコンタクトを取り始めたからです。そして、その不自然な藤原氏子息の相次ぐ死は、藤原氏により謀殺された長屋王の祟りと、噂されていたのです。
聖武天皇のお妃は、藤原不比等の娘光明子であったので、藤原氏も安心していたのですが、聖武天皇が知識寺で、山の民と知り合うと同時に、反藤原氏となったのです。そして、聖武天皇は、大仏鋳造の詔を発するのです。この大仏鋳造に対しては、藤原氏は何度も妨害するのです。どうも、聖武天皇は、山の民と接触することにより、藤原氏のロボット文武天皇の実子ではなかったことに気づいたようです。
何故、聖武天皇は、奈良に大仏の鋳造を思い立ったのでしょうか。この奈良の大仏は、教科書歴史の記述と奈良の住民との認識とが、多く掛け離れているのです。その大仏鋳造の意味が分からなくなったのは、平安時代に、藤原氏と関係が深い錬金術師空海により、その奈良の大仏が、藤原氏の興福寺を、丘の上から見下し威圧する「遍照鬼」から、平城京を守護していたと云われる「大日如来」に変名されてしまったからです。
江戸時代では、奈良の大仏に対しての庶民の認識が、恐ろしい仏像で、大仏の手から災いがもたらされる、と信じられていたのです。この手印の恐怖は、平安時代に空海が発明した密教呪術の影響によるのです。刷り込まれた恐怖心は、先祖から受け継がれていくのです。ですから、寺側は、大仏を観光資源化とするために、大仏の顔だけが覗ける門を設置したのです。その方策により、江戸時代の庶民は、恐る恐る大仏の顔だけを門の窓から見ていたのです。
この江戸時代の庶民の奈良の大仏にたいしての恐怖の認識は、それ以前の時代でも同じであったようです。不思議なことに、仏教文化が花咲く平安時代末期には、聖武天皇の命令で造られた国分寺に安置されていたと思われる仏像が、ひとつも存在していなかったのです。やはり、奈良の大仏鋳造には、教科書歴史に隠された謎があるようです。
平安末期、1180年石橋山で平家側に敗れた源頼朝は、伊豆から千葉へ逃れると、関東の各地にある廃寺となっていた国分寺に行き、そこを拠点として、ペルシャ平家の平清盛との戦いに敗れ、賎民として関東の山奥に棲息する源氏武士を集めていたのです。奈良の大仏と、「もののふ」と言われた源氏武士とは、どのような関係があったのでしょうか。
では、奈良の大仏の開眼供養がおこなわれた、752年前後の唐国を廻る国際事情はどのようになっていたのでしょうか。
西アジアでは、571年ムハンマドが興したイスラム教によるサラセン帝国は、瞬く間に、帝国領土を広げ、642年には、ササン朝ペルシャはサラセン帝国に飲み込まれてしまうのです。そのサラセン帝国の中央アジア制圧により、東ローマ帝国と突厥帝国、そして、唐国との絹貿易に支障がきたすのです。
その結果、中央アジアで草原ロードを交易路としていた、突厥帝国の交易が困難になっていくわけです。経済が衰退することは、軍事力が衰退することになるわけです。その結果、国力も衰退するわけです。
サラセン帝国の領土が、東西に広がることと同調するように、突厥帝国は衰退し、西突厥帝国は739年、そして、東突厥帝国は744年に滅びてしまうのです。この東西の突厥帝国の滅亡は、日本列島で、唐進駐軍と戦闘をしている蘇我王朝軍残党に強い影響をあたえるわけです。軍人・武器・食料の大陸からの補給がなければ、敵の唐軍団と戦うことができないからです。
そのサラセン帝国の拡大は、シルクロード交易にも支障をきたすのは当然です。更に、サラセン帝国の東進は、吐蕃を圧迫し、その結果、吐蕃の住民が唐国境を乗り越えて東進することにより、唐国の治安が不安定となっていくわけです。その結果、755年から763年安録山・史思明の乱が起こり、そして、763年には吐蕃の軍隊が、唐の都である長安に陥るのです。唐の国内も、奈良の平城京と同じに、平安ではなかったのです。それは、唐の軍団は、722年から傭兵制となり、民族が異なる諸外国の傭兵軍が存在していたからです。
そのサラセン帝国に、北の草原ロード、中央のシルクロードが支配されると、国際交易商人は、南海ロードを交易路とするのです。このことにより、南インドのマラバル沿岸は、東ローマ帝国と唐国を結ぶ交易海路の中継基地として栄えていくわけです。その南海交易により、アラブの国際海洋商人(平家の祖)だけではなく、インドの文化・宗教、そして、バラモン僧も多く中国・唐に渡来するわけです。
そのようなアジアの動乱期に、奈良の仏像が鋳造されるわけです。では、その大仏は、誰により、何を目的に鋳造されたのでしょうか。
歴史教科書では、聖武天皇の発願で鋳造されたというのですが、聖武天皇は、藤原氏によりコントロールされていたのです。その藤原氏の興福寺を見下ろす丘の上に大仏を設置する、それも、遍照鬼といわれる、仏の敵神を設置することは、反藤原氏の聖武天皇ひとりの力ではできないでしよう。
聖武天皇が発願したとしても、その莫大な鋳造資金は、何処からもたらされたのでしようか。そして、最も不可思議なのは、752年の開眼供養では、大仏の鍍金は完成していなかったのです。何故、鍍金が未完成なのに、インド高僧による開眼供養なのでしょうか。
それは、反藤原氏の聖武天皇の死期が近づいていたことがひとつの原因です。怪僧行基に先導された山の民は、突貫工事で像を完成させたのですが、鍍金の完了までには、聖武天皇の命がもたないことが分かっていたので、急遽752年の開眼供養となったのです。
そして、その式典には、九州宇佐八幡の山の民が祝賀に訪れ、「神輿」を担いだのが、日本列島での歴史上初であったのです。日本列島では、「神輿」は、山ノ神(反体制の神)を祀る「社」であったのです。そして、その九州宇佐とは、古の「秦王国」の地であったのです。
宇佐八幡は、元は新羅(秦羅)の神を祀る社の「や・はた」でしたが、新羅系天武天皇が、近江の百済亡命王朝を倒した「壬申の乱」の戦勝祝いに建立した道教思想による「観」であった「伊勢の社」が、藤原氏の創作した中臣神道の神・天照大神を祀る「伊勢神宮」に改竄されたように、藤原氏に乗っ取られ「はちまん」となってしまっていたのです。
ですから、反藤原氏の聖武天皇の大仏建立の意図を、平城京を支配している仏教組織を騙す策略により、その大仏が、姿は仏像であるが、その実態が遍照鬼(ひとびとを分け隔てなく平等に照らす、仏教の敵神・太陽神ミトラ)であることを、山の民はよく知っていたのです。つまり、奈良の大仏は、言わば、隠れキリシタン像であったのです。
奈良の大仏の周辺を調べると、不思議なことが次々と現れるのです。それらは、大仏を管理する東大寺は、丘の下にある興福寺と、互いの僧兵により度々紛争を起こしているのです。その訳は、その東大寺の前身は、どうも、反体勢の山岳修験者の寺であったからのようです。そして、大仏鋳造に尽力した行基とは、歴史教科書では仏僧ということになっているようですが、山の民との交流が知られているのです。
大仏鋳造に関しても、その鋳造、鍍金は、騎馬民族末裔の技術であるのです。銅を融解させる1200度の炎をつくるには、自然下での炭の燃焼では800度なので、多量の酸素を供給するフイゴの大規模設備が必要なのです。そのフイゴは鹿革製で、タタラ製鉄の必需品なのです。その「タタラ」とは、騎馬民族である突厥語の「トトラ」(強い炎の意味)から変化した製鉄民の言語であるわけです。そして、鍍金のアマルガム法は、騎馬民族スキタイが開発した技術なのです。
そして、最も不思議なのは、752年開眼供養をした大仏の首が、855年地震で落ちてしまった、と云うのです。更に、1180年には、ペルシャ平家の平重衡により、東大寺と供に大仏が焼失してしまったのです。そして、1185年ペルシャ平家を滅ぼした、騎馬民族末裔の源頼朝により、大仏は再興されたのですが、室町時代、1567年松永久秀の永禄の変の兵火により、再び、大仏は焼失してしまったのです。そして、現在に見る奈良の大仏は、江戸元禄時代、1692年開眼供養され、現在に至るわけです。
この度重なる大仏の焼失と再興は、藤原氏が得意の、異教の寺を仏寺に替えるトリックのようにも思えます。現在見ている大仏の顔は、鋳造時の顔であるのかは、855年大仏の首が地震で落ちてしまったため、確かめることができないのです。
しかし、第三百済王朝となっていた、百済仏教文化が花咲く江戸元禄時代の庶民が、奈良の大仏を恐れていた不可思議は、奈良の大仏が仏の化身である仏像とするならば、どのように説明できるのでしょうか。その説明のひとつの推測として、鋳造当時の奈良の大仏は、仏像などではなく、異教の神であった、ということです。
そのような観点から、奈良の大仏のネーミングを調べると、やはり、不可思議なことがあるのです。それは、平安初期、錬金術師空海が、大仏に「大日如来」とネーミングしたものは、その前では、「盧遮那仏」なのですが、そのネーミングにはウソがあるのです。それは、盧遮那仏とは、故意にネーミングしたもので、正しくは、「毘盧遮那仏」です。では、何故、「昆・ビ」の文字を故意に省いたのでしょうか。それは、「昆」の意味にあったのです。
奈良の大仏は、山の民には「遍照鬼」と言われていたのですが、そのネーミング前は、サンスクリット語で、「ビローチャナ」です。ビローとは、「光」のことです。このビローが、漢語化されると、「昆・ビ」となるわけです。
何故に、仏教勢力は、「ビローチャナ」の漢語化の「毘盧遮那仏・ビルシャナブツ」から、「昆=光」の文字を外したのかは、その「昆」の文字から、「異教の神」が、推測されてしまうと恐れたからです。
ビローチャナ(光・照らす)とは、紀元前十世紀インドでリグ=ヴェーダが成立した頃、太陽神ミトラが変身した、西アジアから渡来した異教の神であったからです。インドの神々は、古代エジプトの神々と同じで、異民族の神でも、庶民に人気があると、取り入れてしまう傾向が強かったのです。
つまり、奈良の大仏とは、太陽神ミトラ←ビローチャナ←遍照鬼←毘盧遮那仏←盧遮那仏←大日如来、で、その実体は秦氏が祀る太陽神ミトラであったことが推測されるわけです。
そのように、聖武天皇が発願した像とは、仏像ではなく、実体が秦氏の神・太陽神ミトラであったから、奈良時代、全国に七十もの国分寺にあったご本尊が、仏像でないことが分かっていたので、秦氏・蘇我王朝軍残党が抹殺され、亡命百済貴族により日本列島が支配されると、その国分寺に安置されていた太陽神ミトラ像が破壊・抹殺されたわけです。
そして、平安末期、その廃寺に、山奥に隠れ住んでいた新羅花郎軍団・突厥帝国軍団末裔の源氏武士が、騎馬民族末裔の源頼朝により、ペルシャ平家殲滅のために集められた、ということです。
ですから、奈良の大仏は、仏教徒勢力が体制を支配している時は、穢れ神として恐れられたため、首を落されるか燃やされて破壊されていたのです。しかし、山の民となった秦氏系、騎馬民族系の支配体制下では、奈良の大仏は再興され、崇拝されていたのです。
では、反藤原氏の聖武天皇側の勢力は、何故に、藤原氏の興福寺を見下ろす丘の上に、異教の神を鋳造したかの意図は、表向きには、藤原氏による先住民・前政権王族末裔に対する暴虐に対しての意志表示であったのです。しかし、その裏には、謀略があったのです。それは、藤原氏が牛耳る平城京の壊滅であり、抹殺です。
平安時代、985年ひとの死に対処するためのガイドブックである、「往生要集」が源信により著されたのです。その内容は、現世の地獄世界から、彼の世の西方浄土の世界へ至るための心得を述べたものです。源信は、そのために、地獄・極楽に関する古文書を集めて、それを基に、往生のためのガイドブックを編集したのです。
その書籍内容の地獄に関する描写は、あまりにもリアルであるので、その「往生要集」は中国・宋にも輸出されたほどです。今日の地獄世界のイメージは、平安時代の「往生要集」によるのです。
バラ色の極楽浄土を述べて、貴族から少しでも多くの布施をもらうことが、平安時代の仏教であったのに、その極楽浄土世界の描写にはリアルさがないのに、何故、地獄世界の描写にはリアルさがあったのでしょうか。
それは、奈良時代の平城京の有様を記述した文書の種本があったからです。百数十年前の平城京の惨状をそのまま記述すれば、その記述は地獄世界となるのです。では、何故、青によしの奈良の平城京が、地獄世界となってしまったのでしょうか。
平城京は、前政権の宗教的シンボルの巨大古墳を破壊して、ナラした跡に造られたため、そして、前政権の祭祀場を破壊して春日社を造営したために、その前政権の神の祟りであった、というのは平安時代の解釈です。実は、大仏鋳造と平城京の地獄世界化とは、大いに関係があったのです。
その原因は、怨霊などではなく、大仏鋳造時での、銅の精錬とアマルガム法の鍍金での水銀とによる鉱毒中毒であったのです。平城京の水源のひとつは、その大仏が鎮座する若草山からのものです。その鉱毒をタップリ含んだ川水を飲料とすることで、鉱毒中毒を起こし、ひとの中枢神経を侵すことにより、筋肉が麻痺し変形してしまうわけです。
近代医学が発達するまでは、病気とは、目に見える症状のケガ・皮膚病等のことであったのです。ですから、身体表面に異常が無く、身体を侵す症状は、怨霊が原因であるとひとびとは信じていたのです。
この鉱毒の被害が、平城京から長岡京へ遷都された原因のひとつであったのです。つまり、当時の解釈では、平城京は、前政権の怨霊(もののけ)に呪われた都であったのです。
この怨霊による遷都は、藤原氏に虐げられ、下級貴族として隷属させられていた亡命百済貴族達に幸運をもたらすことになるのです。
1945年8月26日、日本国が連合軍に無条件降伏すると、連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立つのです。そして、天皇が住む皇居前の富国生命ビルに、日本占領総司令部を置き、日本統治を始めるわけです。
そのために、前歴を問わず英語に堪能な者を集め、アメリカ文化の翻訳係りとするわけです。そして、キリスト教会を各地に建て、そこをラジオ発信基地として、天皇に人間宣言をさせ神国ニッポンのイメージ破壊を目的に娯楽番組を発信するわけです。それまでは、明治革命組織のプロパガンダにより、天皇は現人神であったのです。その結果、神国ニッポンの幻想が消え、街の看板には、やまと言葉が消え、英語の文字が氾濫するわけです。戦勝国の言語は、今も昔も、敗戦国の言語を駆逐してしまうのです。
さて、奈良時代、日本国が独立国だと言うのならば、何故、「日本書紀」は、唐国の漢語で記述されているのでしょうか。それは、その「日本書紀」が創作された奈良時代は、唐国に、近畿地方の平野の一部が占領されていたからです。
「日本書紀」巻二十七で、671年12月、「唐国の使人カクムソウが、総勢二千名を引き連れて、九州筑紫に着いた。672年1月10日に天智天皇が崩御したので、それを口実にお引取りを願い出た。しかし、カクムソウ一行二千名は、そこに駐留した。」、と述べるのです。そして、半年後、672年5月12日、「天武天皇が、カクムソウに、甲冑、弓矢、アシキ゛ヌ1673匹、布2852端、綿666斤を与えて、帰国させた。」、と記述しているのです。
この「日本書紀」の記述には、ウソがあるようです。それは、天武天皇の前には、天皇は存在していないからです。近江朝の天智天皇は、奈良時代に、唐国渡来僧淡海三船により発明された天皇名であるのです。
亡命百済近江王朝を滅ぼし、日本初の天武天皇が即位した、672年とは、663年唐・新羅連合軍により百済を滅ぼした後、そして、唐が、668年高句麗を滅ぼした後、新羅は唐に反旗を翻し、朝鮮半島から唐軍を追い払ってしまったのです。
その結果、唐と新羅は戦闘状態に突入寸前であったのです。そのような時に、新羅系天武天皇が、敵の唐軍側のカクムソウ将軍に、多数の武器を与えて、お引取り願うことなど、できるはずがないのです。
そのような時期の唐国使人のカクムソウが、九州の筑紫に二千名の軍団を侵攻させたのは、厚木基地に降立ったマッカーサーと同じに、朝鮮半島を支配した後に、日本列島を統治するためでしよう。その推測を裏づけるように、その二年後、674年唐軍は、新羅に攻撃をしかけているのです。
しかし、唐と敵対する、北東アジアを支配する東突厥帝国が健在なため、新羅と第二飛鳥王朝の天武天皇を、唐軍は壊滅できないでいたのです。しかし、686年天武天皇が崩御すると、飛鳥ヤマトの情勢が変化するのです。それは、南インドから渡来した中臣族から変身した藤原氏の台頭です。
その藤原氏の、漢語の「日本書紀」により、天武天皇の前に、天智天皇を創作して、その天武天皇と天智天皇を兄弟としてしまうのです。しかし、そのトリックは、「日本書記」を精査した研究者により、弟の天武天皇が、兄の天智天皇より四歳も年上であることが発表されたことにより、バレてしまうのです。
そのことにより、「日本書紀」で述べる、女帝推古天皇と厩戸皇子が活躍する飛鳥時代の歴史が疑われ、突厥民族のアマタリシヒコ(蘇我馬子)が支配した、第一蘇我王朝のオリエント文化の飛鳥の存在が確認されるわけです。
藤原氏は、「日本書紀」で、突厥帝国の日本支社の蘇我王朝を、奈良時代に渡来した仏教文化で隠蔽・抹殺していたのです。その手段のひとつが、表意文字の漢語による、表音文字のオリエント渡来の言語(アラム語・ゾグド語・突厥語)の抹殺です。
では、奈良以前の文字は、何語であったのでしょうか。それは、645年唐進駐軍と中臣族により、前政権の文書を綴った書籍は、焚書されてしまったため、推測する以外に方法はないのです。神代文字の存在もあるのですが、天照大神など、686年以降に藤原氏により創作された神様を記述しているので、その信用性が疑われます。
日本語の原語が、アルタイ語と文法が酷似しているため、紀元四世紀から、ユーラシアの騎馬・遊牧民族が、飛鳥ヤマトを支配していた可能性は疑えません。そして、時代を更に遡り、紀元前四世紀から始まる水田稲作作業周辺の原語が、タミル語が多くあることは、南インドからのトラヴィダ族の存在を疑えません。
いずれにしても、飛鳥ヤマト時代には、漢語が主言語ではなかったことは確かです。あらゆる国の言葉が話されたのが、国際交易都市飛鳥ヤマトであったのです。つまり、万葉語とは、万国の言葉の意味だったのです。
そこに、唐進駐軍が、飛鳥ヤマトを支配する突厥帝国進駐軍殲滅のため、日本列島に侵攻して、645年突厥帝国日本支社である飛鳥ヤマト政権を壊滅するわけです。しかし、672年伊勢で勢力を回復した突厥帝国残党軍は新羅軍と共闘し、百済と敵対していた新羅の皇子を立てて、百済亡命近江朝を壊滅するわけです。そして、新羅の皇子は、日本初の天武天皇となり、飛鳥ヤマトに再び騎馬民族王朝を開くわけです。
その第二飛鳥ヤマト王朝の天武天皇の祖国は、356年ユーラシアから渡来の騎馬民族のナムル王が支配したギリシャ・ローマ文化国であったので、漢語を知らないため、東晉(312年〜420年)や前秦(351年〜384年)との交渉には、高句麗や百済は通訳無しで交渉できたのに、通訳が必要だったのです。それは、372年高句麗は、前秦により仏教を導入させられ、そして、384年百済は、東晉より仏教を導入していたからです。
何故、大国は、被支配国に仏教を強制したかの意味は、それは、仏教は、被支配国を統治するための武器でもあったからです。仏教教義のひとつ、殺生禁止とは、武器の使用禁止を意味していたのです。このことにより、被支配国の軍団の勢力を削ぐことができるのです。
大乗仏教の経典は、ギリシャ文化を継承したガンダーラで創作された後、サンスクリット語に翻訳され、中国に伝来した時には、漢語に翻訳されていたのです。ですから、仏教文化を導入した国は、漢語が理解できたのです。しかし、ギリシャ・ローマ文化国の新羅が、仏教を導入したのは、528年であったのです。ですから、百済民に比べて、新羅民は、漢語に強くなかったのです。
701年藤原京の砦を築いた唐進駐軍は、籐氏(後の藤原氏)に、奈良を統治するために、唐の租税制度を基に大宝律令を創らせるわけです。その前政権の敗戦民を奴隷として支配するには、戦勝国の思想・法律を刷り込む必要があったのです。そのために、前歴を問わず漢語に堪能な者が集められたのです。
そして、太平洋戦争後にキリスト教の教会が各地に建てられたように、戦勝国の情報発信基地として仏寺が、飛鳥・奈良の占領各地に建立されていくわけです。そのため、飛鳥ヤマトにあった景教寺や道教の観が破壊され、その跡に、仏寺が建てられたため、現在では、飛鳥ヤマトは仏教文化に溢れていた、と錯覚してしまうのです。しかし、飛鳥ヤマトの遺跡は、オリエント文化を示しているのです。
そのような唐占領軍の漢語の世界で、亡命百済民は、祖国が仏教国であったため、漢語が理解できたため、租税徴収の下級役人として働くことができたのです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、道鏡に一服盛られたため崩御すると、百済亡命下級貴族老齢の白壁王が、光仁天皇として即位するのです。
何故、亡命百済貴族、それも下級貴族の白壁王が光仁天皇として即位できたのでしょうか。それは、恵美押勝(藤原仲麻呂)の暴虐非道の行いにより、唐進駐軍により、藤原氏の行動が制限されていたからです。この時期に、亡命百済貴族達が巻き返しに奔走したのです。
その結果、天武天皇の血を引く娘をお妃にもつ白壁王に白羽の矢が立ったのです。その結果、その天武天皇の血を引く娘は、井上皇后となり、その息子は他戸皇太子となったのです。しかし、白壁王には、百済系の下級官僚の娘が側室しとていたのです。その息子が山部皇子であったのです。この百済の血を引く山部皇子は、「旧約聖書」物語のソロモンとソックリの行動を起こすのです。
紀元前十四世紀、ヒッタイト帝国から、宗教改革をおこなった古代エジプトに、新都建設のための技術集団として渡来したヨセフ族は、その急激なアメンホテプ四世の宗教改革に反対するエジプトの神官達の迫害を逃れて、エジプトを脱出するのです。
そのエジプトを脱出する頃には、ヨセフ族の子孫が増え、エフライム族が支配する集団となっていたのです。そして、その集団は、エジプトの宗教改革で発明された、唯一神・太陽神アトン(太陽神ミトラが変身した神)とその化身の牡牛(紀元前2907年〜紀元前747年は牡牛座の時代であった。)を祀っていたのです。
シナイ半島を彷徨う出エジプトの集団に、メソポタミアから流離いの旅を続ける集団と遭遇するのです。その集団は、ヘブルびと、と呼ばれていたのです。ヘブルとは、国境を越えて進入する者、とか、当て所も無く流離う者、とかの意味です。
そのエジプトからの集団とメソポタミアからの集団は、エジプト軍が破壊して、廃墟となっていた地にたどり着くと、そこに、それぞれの部族ごとに国をつくるのです。そして、その十二部族の連合国はヘブライ(紀元前1020年〜紀元前932年)となのるのです。その主権を握ったのが、メソポタミアからの部族、レビ族末裔だったのです。やがて、そのレビ族末裔から王が立てられるのです。その王がダビデ(紀元前1004年〜紀元前965年)です。ダビデには、多くの子供がいたのです。やがて、ダビデ王の死期が近づくと、ヘブライ王権の簒奪闘争が、多くの息子達の間で起こるのです。
その中に、ソロモン(紀元前965年〜紀元前932年)がいたのです。ソロモンは、正統な後継者ではないのに、祭祀氏族アロンと結託して、頭に油を注いでしまうのです。そのことにより、ソロモンは、ダビデ王の王権を引き継ぐのです。その王権簒奪の裏には、凄惨な親族殺しがあったのです。ソロモンは、異母兄弟の全てを抹殺してしまったのです。
このことを知った、ヒッタイト帝国からのヨセフ族正統末裔のエフライム族を中心に十部族が、ソロモン王が死去すると、ヘブライから独立して、紀元前932年、太陽神バアル(太陽神ミトラの変名)と牡牛を祀るイスラエル王国(紀元前932年〜紀元前722年)を建てるのです。
それに対して、ソロモン王の末裔は、レビ族を中心に、唯一神ヤハヴェ(エジプトの太陽神アトンが変身した神)を祀るユダ王国(紀元前932年〜紀元前586年)を建てるのです。
ソロモン王のヘブライでは、正統ヨセフ族(イスラエル民族)の王権が、後に加わった異民族のレビ族(ユダヤ民族)の不正な手段により、簒奪されてしまったのです。
奈良時代末期、光仁天皇の息子山部皇子は、新羅系天武天皇の血を引く次期天皇候補の井上皇后の息子他戸皇太子が存在すると、次期天皇になれないと、ソロモンと同じことをするのです。それは、山部皇子が、井上皇后と他戸皇太子の謀略による抹殺と、更に、実弟早良親王も謀略により、抹殺してしまうのです。
奈良時代末期、新羅系天武王朝の血を引く井上皇后と他戸皇太子の母子が、百済系民族の山部皇子により、抹殺されることにより、日本列島の天武天皇系民族は、ユダヤ民族によりイスラエル民族が不可触賎民サマリア人とされたように、賎民として民族差別されていくのです。日本列島での民族差別の発生は、平安時代の京から始まるのです。
そして、山部皇子は、781年桓武天皇として即位するわけです。
ソロモンがダビデの王権を簒奪できたのは、祭祀氏族アロンの手助けがあったからです。では、亡命百済民族の山部皇子は、誰の協力により、天武系王権を簒奪できたのでしょうか。
778年唐使孫興進が、筑紫に渡来するのです。そして、779年唐使一行は、行列の左右に唐の旗を立て、杖(武器)を帯びて行進し、門外に騎兵二百騎と蝦夷二十人が出迎える平城京に入り、光仁天皇に謁見するのです。これは、唐進駐軍の軍隊が、戦国時代の織田信長が天皇家を威圧するための馬揃と同じで、天武王朝の血筋を抹殺した、亡命百済下級貴族出自の光仁天皇に逆らう、山の民を威圧するための行動です。
更に、唐使高鶴林一行が、779年入京しているのです。しかし、唐使高鶴林一行が帰国したことを歴史書では、確認できないのです。軍団を伴った、唐からの相次ぐ唐使の渡来は何を意味しているのでしょうか。その唐使が渡来した二年後、781年桓武天皇は、唐の儀式により即位したのです。
この唐からの軍団の平城京への渡来は、東アジアの軍事情勢を調べると理解できます。それは、飛鳥王朝を軍事支援していた、そして、北東アジアを支配していた東突厥帝国が、唐軍により744年に滅んだことと、そして、東進するイスラーム軍団に押されて、唐の西隣国吐蕃軍の東進も原因のひとつです。
そして、唐の経済を支えていた東ローマ帝国とのシルクロード交易が、イスラム帝国により奪われ、更に、絹製品の原料である繭が、僧により唐から持ち出されてしまっていたのです。それにより、絹製品は唐の独占交易品ではなくなってしまったのです。これらのことにより、唐の経済が急速に疲弊していくわけです。その疲弊していく唐の経済建て直しの手段のひとつが、日本列島の海洋・鉱物・動植物資源の簒奪です。そのためには、山背国以北を支配している飛鳥王朝残党軍を殲滅しなければならないわけです。
飛鳥王朝残党軍とは、ギリシャ・ローマ文化国の新羅からの花郎軍団(ローマ傭兵軍末裔)と突厥帝国軍団とであるわけです。それらの軍団は、飛鳥ヤマトを中心に張り巡らしたローマ軍式幅広の直線道路を利用して騎馬戦を得意とするわけです。
645年飛鳥王朝を唐進駐軍と供に倒した中臣軍は、後に、藤原氏の私兵軍となって奈良の都で活躍していたものが、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で、新羅系女帝称徳天皇を支える山の民軍(飛鳥王朝残党軍)より、近江で壊滅されてしまったため、奈良の都には、農民により組織された軍団しか存在していなかったのです。
そこで、770年亡命百済下級貴族の光仁天皇を即位させた唐勢力は、780年藤原氏の私兵軍団を解散させて、新たに、農民より武闘力に優れた者を徴兵し、唐軍武将から、騎馬民族の蝦夷(飛鳥王朝残党軍)に対抗するために、弓馬による戦闘技術を習得させるのです。
そして、792年桓武天皇は、今までの軍団を廃止して、農民からではなく、中国山東半島から移民させた亡命百済民から兵を募り、健児とし、新たな支配地に配置するのです。これらの桓武天皇軍団には、唐軍将校が指揮官となっているのは言うまでもありません。奈良時代の兵が、藤原氏のための兵とすれば、平安時代の兵は、亡命百済貴族のための兵であったのです。
母国百済を滅ぼした新羅を憎む桓武天皇軍を利用して、唐進駐軍は、久慈の琥珀、平泉の金・砂金、釜石の鉄等の資源が豊富に眠る陸奥国を支配している蝦夷(飛鳥王朝残党軍)の壊滅を謀るのです。
唐軍の組織は、722年より外国からの傭兵軍で組織されていたため、あらゆる人種・民族が存在していたのです。801年蝦夷の棟梁アテルイを騙した坂上田村麻呂が金髪であったのは、大陸から渡来した田村麻呂の先祖に白人種の血が流れていたからでしょう。因みに、蝦夷の棟梁アテルイは、赤毛であったようです。短弓・蕨手刀を武器にした騎馬による戦闘形式だけではなく、髪の毛の色からも、蝦夷は、真っ黒毛のアイヌ民族とは、異なる民族であったことが分かるのです。
アテルイが、坂上田村麻呂に簡単に騙された理由のひとつは、坂上田村麻呂が、ツングース系の薄毛ではなく、金髪であったため、白系チュルク騎馬民族の同族と、アテルイが認識したのかもしれません。
チュルク(漢語では「突厥」)民族とは、紀元前五世紀頃に中央アジアに興ったトルコ民族の祖のことで、遊牧・騎馬民族を主とする多人種民族で構成されていたのです。
八世紀、カスピ海沿岸を支配した、国際交易国のハザール王国は、キリスト教とイスラム教との戦闘を避けるため、弱小宗教組織のユダヤ教に改宗して生き延びるわけですが、その第十三部族のハザール(カザール)人とは、白系チュルク民族であったのです。
国際交易民族の白系チュルクのハザール民族が、ユダヤ教徒となったために、イスラム教と共生していた弱小宗教のユダヤ教徒は、やがて、白系チュルク民族末裔のロス・チャイルド家の勃興により、世界の金融を支配していくわけです。
唐進駐軍に軍事支援された桓武王朝は、父光仁天皇が組織した軍団の軍事力を背景に、亡命百済王朝を平安京に開くのです。その手始めとして、桓武天皇は、唐の儀式により即位するわけですが、その儀式により、前政権の儀式を全て否定するのです。
1868年明治革命でのスローガン、「万世一系の天皇家」、「天皇家の祖神・天照大神」、「天皇家の社・伊勢神宮」などは、藤原氏が創作したものです。それらの藤原氏の創作思想や建物を、百済系桓武天皇は、その唐の儀式により全て否定するのです。
唐の即位の儀式では、祖神である天神から命を受けるのが常識です。もし、天皇家の祖神が天照大神であるのなら、桓武天皇も、祖神を天照大神にしなくてはなりません。しかし、桓武天皇は、祖神を父光仁天皇としたのです。そして、即位式を伊勢神宮でおこなわなかっただけではなく、貴族による伊勢神宮の祭祀を禁止し、更に、奈良時代におこなわれていた庶民による星祭も禁止してしまうのです。それは、藤原氏が改竄した伊勢神宮の前身が、685年に敵国新羅系天武天皇が建立した、北極星(太一)を祀る「道教の観」であったことを、桓武天皇は知っていたからです。
そして、万世一系の桓武天皇家では、なんと約千年後の孝明天皇まで、正式に伊勢神宮には参拝していなかったのです。百済系桓武天皇家では、明治天皇が始めて正式に伊勢神宮に参拝したのです。
祀る祖神が異なると言うことは、前天武天皇家とは別の王朝が、平安時代に興ったことを意味しているのです。万世一系の天皇家とは、770年から始まる亡命百済王朝のことだったのです。このことを証明するように、百済系の桓武天皇家を祀る寺では、新羅系の天武天皇から女帝称徳天皇までの位牌は存在していないのです。
秦氏の支配地の山背国を武力により乗っ取った桓武天皇は、781年長岡京に遷都するのです。
更に、その長岡京の砦より出撃する、唐進駐軍の指揮の下、桓武天皇軍は、比叡山を死守する飛鳥王朝残党軍を壊滅すると、794年平安京に遷都するのです。その後、母国東突厥帝国が滅んだため、軍事支援が受けられない飛鳥王朝残党軍は、802年胆沢城を築きそこを拠点に北上する唐進駐軍と桓武天皇軍により、出羽・陸奥の北限まで追い詰められていくのです。その陸奥国の北限には資源の埋蔵が確認されていないため、唐進駐軍は更なる進撃はおこなわれなかったのです。そして、陸奥国全土が侵略されるのは、四百年後の平安末期なのです。
桓武天皇は、古代エジプトの神官が勝手に神様を創作し、王の権限を制約する神官を抹殺する宗教改革をおこなったアメンホテプ四世と同じに、奈良の都で我が物顔の仏教組織を壊滅させるため、僧侶を奈良の都に封じ込めるわけです。
奈良の仏教組織は、藤原氏の支配下で、貴族相手に、賭博・聖婚(売春)・高利貸しをおこなっていたのです。それらの悪行が、実際は鉱毒中毒であったのに、奈良の地獄を招いた原因と考えた、桓武天皇は、奈良仏教の平安京への布教と末寺の建設を厳しく禁止したのです。
紀元一世紀に国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教は、異国に布教をすることを名目に、侵略のための武器として、国際交易商人に利用されていくわけです。渡来人を調べる「寺・ジ」が、やがて、仏像を祀る建物となると、そこは、治外法権の建物に変身してしまうわけです。その治外法権の建物「寺・ジ」では、僧形の国際交易商人が、現地の豪族を、賭博・聖婚で接待する場となるわけです。
ですから、大乗仏教が栄えると、僧として相応しくない者が金の力で得度を受け、僧侶となり、治外法権の「寺・ジ」で、風紀を乱す行為をおこなうのです。北魏での仏教弾圧(446年〜452年)、北周での仏教弾圧(574年)、唐での仏教弾圧(845年)などは、「寺・ジ」での風紀を乱す行為を禁止するためにおこなわれていたのです。
日本国の平安時代に、その売春と博奕とが宗教施設内でおこなわれていたことを裏付ける史料として、真言宗の別格本山、高雄山神護寺の再興のための起請文に、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

桓武天皇は、皇后・母・側近の死と度重なる地震・落雷・不審火などの災難が、桓武天皇が謀殺した井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊によるものと考え、平安京の支配国の唐から、それらの怨霊を鎮めるためと、そして、藤原氏が支配する奈良仏教壊滅のために、新しい宗教を導入することを考えるわけです。それが、801年遣唐使の任命となるわけです。しかし、この第十四回遣唐使(14回は暫定的回数。現在も遣唐使船の回数は確定していません。それほど遣唐使船には謎が多いのです。)には、藤原氏の陰謀が隠されていたのです。
801年第十四回遣唐使に任命された者は、遣唐大使従四位下藤原朝臣葛野麻呂、副使従五位下石川朝臣道益などであったのですが、その後遣唐大使から何の音沙汰も無く、その人事発表二年後の803年から唐への出発準備にとりかかるのです。
そして、803年4月16日遣唐使船団一行は、難波津を出航するのです。しかし、大使には御被三領、御衣一襲、金二百両、そして、副使には御衣一襲、金百五十両が、桓武天皇より下賜されたものが、その難波津出航後五日で、瀬戸内海で難破し、そして、唐への献上品と多くの留学生の人材が船と供に、海の底に消えてしまうのです。そして、奇跡的(?)に生き残った藤原朝臣葛野麻呂と石川朝臣道益は、803年5月22日、平安京に帰還して、節刀を奉還しているのです。
そして、翌年804年5月12日、再び難波津から、遣唐使船が出航しているのです。その船団は四隻で、第一船は遣唐大使藤原朝臣葛野麻呂で、留学僧空海が、そして、第二船は副使石川朝臣道益で、請益僧最澄が乗船していたのです。
そこで疑問が起こるのです。それは、第十四回遣唐使船の瀬戸内海での難破と、空海の仏籍との関係です。空海は、803年の遣唐使船出航時では、仏籍には入ってはいなかったのです。そして、大学を中退した後の七年間の経歴は不明なのです。その空海が、藤原氏の支援により、一年の修行により仏籍に入れたのです。そして、804年藤原朝臣葛野麻呂が指揮する第一船に、私僧の留学生として、乗り込むのです。この空海と藤原氏との謎の関係は、後ほど明らかにされるのです。
この留学僧空海と最澄にも、疑問符が付くのです。それは、留学僧の修学年は二十年と決まっているのに、空海は二十ヶ月、そして、最澄は、何と八ヶ月で帰還しているのです。そして、唐への往路については、その経過が分かるのに、その帰路については、客観的な史料が無いのです。
そして、更に不思議なのは、「新唐書」には、「貞元年間の末年(804年)に桓武という王が使者を遣わして朝貢してきた。学生橘逸勢、僧空海は、滞在して学業を修めることを願い、二十余年の歳月がたった。」と記しているのです。何故、唐政府に、二十ヶ月を二十年と偽ってまでして、僧空海は、日本国へ帰還しなくてはならなかったのでしょうか。 それは、最澄が、八ヶ月の唐の滞在で、日本国へ帰還していたのを、藤原氏が知ったからです。
では、八ヶ月で帰朝した最澄は、何を目的に留学僧として入唐したのでしょうか。表向きには、奈良仏教に対抗するために、中国で智(チギ・538年〜597年)が「法華経」に基づいた瞑想法を実修する「天台宗」として開発した教えを、日本国に導入するため、と云われています。しかし、805年最澄が、桓武天皇の命により、天台宗を創めるも、806年帰朝の七歳年下の空海に、頭を下げて、その弟子となり、仏典の多くを借り受けているのです。
その最澄の入唐の謎を解くヒントは、最澄の親は近江出身者であったことです。近江の古は、百済国のコロニーがあった所です。
そこで、最澄が乗船した第二船が、中国の何処へ漂着したかを調べれば、そこは、揚子江より南よりの明州だったのです。この一行は、9月1日長安に向かい、11月15日には長安に着いていたのです。しかし、最澄は、9月12日明州刺史孫階より、その南にある台州行きの通行証を発行してもらい、明州から直接、台州の国清寺に向かっていたのです。そして、帰朝したのが、翌年の805年1月であるのです。帰路の船旅を入れて、入唐の9月より実働四ヶ月で、天台宗の奥義が究められるものなのでしょうか。
では、最澄への、桓武天皇からのミッションは何んだったのでしょうか。それは、北からのウイグル、そして、西からの吐蕃の侵略による政情不安の唐からの、亡命百済民の、平安京への移民手続きであったのです。
そのことを証明するように、最澄の帰朝後、桓武天皇が謀殺した井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊に祟られて人気(ひとけ)のない平安京には、亡命百済民の移民で溢れるわけです。そして、桓武天皇は、その中国からの移民の多くを貴族として採りたてるのです。
では、藤原氏により支援された空海の、真の入唐の目的は何だったのでしようか。
空海の「御遺告」によれば、蘇州から七百キロ南の衡州に漂着したと述べているのです。しかし、空海の第一船の責任者藤原葛野麻呂の上奏では、「8月10日福州長渓県赤岸已南の海口に到れり」、と述べているのです。いずれにしても、唐の都長安への近道は、揚子江口の蘇州へ上陸するのが一番なのに、数百キロも南に漂着した意味がわかりません。
しかし、五島列島田之浦から九州を南下して坊津→奄美→瑠求(台湾)→福州とするならば、第一船の福州への唐渡ルートは、理解できます。そこは、藤原氏による密貿易の南インドのマラバルへの中継ルートだからです。
福州に上陸してからも、不思議なことがおこるのです。空海側の史料では、遣唐使船である第一船が、福州の役人により不審船の漂着として認識された、と述べているのです。
唐と日本国との正式な遣唐使船であるのならば、たとえ見知らぬ土地に漂着しても、そこが唐の支配地であるのならば、不審船扱いは、空海側の創作であるのかもしれません。それを証明するように、藤原葛野麻呂の上奏では、「9月1日明州より京に入り、11月15日長安城に到る」、と記述しているのに、福州漂着後のトラブルや空海の中国語の筆談による活躍については全く述べてはいないのです。
更に不思議なのは、空海側が、二十ヶ月の滞在を二十年として帰国した理由を述べた「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」によると、「寝食を忘れて勉強した結果、十年かかる学業を一年で成し遂げて、密教の真髄に到達することが出来ました。この上は一刻も早くこの教えを持って帰り、天皇の命令にお答え申し上げたい。」と、桓武天皇の命で渡唐したように述べていることです。
しかし、空海は、806年帰朝後、806年桓武天皇が崩御し、809年平城天皇が嵯峨天皇へ譲位するまでは、九州の大宰府に留まり、平安京へは登れなかったのです。それは、公費留学の最澄とは異なり、私僧の空海は、奈良仏教を支配している藤原氏がスポンサーであることを、反藤原氏の桓武天皇側は知っていたからです。実際には、空海は、桓武天皇に嫌われていたのです。それは、空海の出自が、佐伯部であったからです。
佐伯部とは、713年の好字令により発明された、漢語二文字で表された部族名です。それ以前の佐伯部は、蝦夷と呼ばれていたのです。蝦夷とは、唐進駐軍側が付けた蔑称で、「エビのようなヒゲのあるエビス」、と言う意味です。つまり、蝦夷とは、反唐軍側の蘇我王朝軍(天武朝は、第二蘇我王朝)のことだったのです。
唐進駐軍に敗れた蝦夷(蘇我王朝軍)は、飛鳥ヤマトから駆逐され、吉野の山奥や四国、あるいは山背国の山奥へ落ち延びたわけです。その四国へ落ち延びた蝦夷が、713年の好字令により、佐伯部と呼ばれるようになるわけです。漢字二文字の地名・人名の多くは、713年以降の表記であるのです。
何故、空海が述べる遣唐使物語と藤原氏が述べる遣唐使物語とが一致しないのでしょうか。それは、空海と藤原氏との渡唐の意図が異なっていたからです。
では、空海は、唐から何をもたらしたのでしょうか。空海側の史料では、都で一生懸命に勉学に励んだ結果、十年かかる学業を一年で成し遂げた、と述べるわけです。しかし、藤原葛野麻呂の上奏では、「内は節度を疑い、外は吐蕃を嫌う。京師の騒動暫くも休息すること無し。」、と述べているように、唐の都長安では、年賀の儀式後には、天子徳宗の崩御と、その後の継嗣争い、そして、西隣の吐番軍の侵攻などにより、騒乱時様態で、空海が落ち着いて勉学できるような状況ではなかったのです。
そこで、空海側による、「長安において、中天竺国の般若三蔵及び恵果大阿闍梨(アーチャリー・先生)に逢うことができ、その直後の教えを受けて寝食を忘れて勉強した結果、十年かかる学業を一年で成し遂げて、密教の神髄に到達することができました。」、と述べていることが疑われるわけです。
では、空海に密教を授けたと言われる恵果先生とは、何者であったのでしょうか。
八世紀末から九世紀にかけての中央アジアと東アジアは、イスラム帝国軍の急速な膨張により、周辺国は混乱状態となっていたのです。唐の都長安を一時占領した吐蕃軍も、西から侵攻するイスラム帝国軍の影響によるのです。このイスラム帝国軍の膨張は、南のインド大陸にも多大の影響を与えたのです。
インド大陸を南下するイスラム帝国軍により、インド大陸でも民族移動が起こるわけです。そこで、最初に逃亡するのは、王族・宗教者・豪族などの金持達です。八世紀末には、南インドと唐とは、定期的な国際交易船により、繋がっていたのです。そこで、唐の都長安には、インドの王族・宗教者・豪族が亡命していたのです。その宗教者の多くは、バラモン教を取り入れたヒンズー教者であったのです。しかし、唐は則天武后(690年〜705年)の趣味で、仏教が盛んであったため、ヒンズー教僧は、仏教僧へ変身してしまうわけです。
その変身仏教僧により、空海は、密教を教授されるわけです。では、密教(タントラ)とは何なのでしょうか。歴史教科書の説明では、仏教での表の教えが顕教で、裏の秘密の教えが密教である、とするのです。
しかし、密教の密は、秘密の密ではなく、「ミル」、つまり、光(ミトラ)の漢訳語が「密」となるわけです。つまり、密教とは、本来の意味は、「ひかりの教え」→「太陽の教え」であったのです。この密教の本来の意味を知っていた空海は、仏の中心に「大日如来」を置いているのです。「大日如来」の流れは、大日如来→遍照鬼→ビローチャナ→ミトラ神→太陽神、であるのです。
この空海が、バラモン教を取り込んだヒンズー教僧から学んだ「密教」が、日本国にもちこまれると、バラモン教やヒンズー教の神々と共に、奈良仏教とは異なる儀式や仏教グッズが開発されるのです。それらは、力のある言葉(マントラ=真言・ダーラニー)、護符(ヤントラ)、お守り(カヴァチャ)、手印(ムドラー)、護摩(拝火のゾロアスター教から導入)等です。これらの仏教儀式や仏教グッズは、今では寺や神社ではあたりまえのものとなっているのですが、それらはヒンズー教思想の影響を強く受けたものであるのです。
更に、奈良仏教の仏像のビ・ルシャナブツ(奈良の大仏)のバラモン教外道の鬼に対抗して、空海側は、バラモン教とヒンズー教の神々を、日本列島に持ち込むのです。その平安仏教に導入されたバラモン教とヒンズー教の変身仏像群は、基本的には四つの群に分けられるようです。それらは、「如来群」、「菩薩群」、「明王群」、「天群」です。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の平安仏教に導入された仏像は、時の支配者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な仏像として開発されて、今日の仏寺に安置されているわけです。
更に、バラモン教から変身した仏教僧の密教には、「化学の教え」も隠されていたのです。
紀元前八世紀にインドで発明されたバラモン教が、先住遊牧民族トラヴィダを屈服させたのは、輪廻転生などの教えだけではなかったのです。そのひとつに、薬物による意識改革があったのです。その薬物とは、水銀です。
水銀は、用い方により、消毒・解毒・意識の覚醒等の作用が期待できるのです。水銀には、知覚神経と自律神経を麻痺させる作用があるのです。そこで、バラモン教では、宗教体験を高めるために水銀の研究が盛んであったのです。
しかし、やがて、その副作用としての水銀中毒により、神経が麻痺することも知られてくるのです。その効果と副作用との葛藤は、やがて、水銀薬研究が秘密の技術となっていくわけです。
水銀は、自然状態で採取することは困難です。そこで、朱砂から水銀を採取する技術が確立されていくわけです。それが、やがて錬金術となるわけです。つまり、卑金属から貴金属への変身です。この技術は、騎馬民族スキタイにより、水銀アマルガム法の金メッキの技術として発展していくわけです。
バラモン僧は、朱砂から水銀を採る蒸留法の技術を開発していたのです。その朱砂は、日本列島の中央構造線で縄文時代から採取されていたのです。空海が誕生した四国讃岐は、伊勢→宇陀→吉野(海を越えて)→四国讃岐へと、中央構造線は続いていたのです。
水銀薬を開発していたのは、インドのバラモン教だけではありません。中国の土着宗教から発展した道教も、水銀薬を開発していたのです。
紀元前三世紀、秦の始皇帝は、長生術を信じたため、道士徐福に神仙薬(水銀薬)を求めさせるために蓬莱国(日本列島?)に、百隻の船に軍団、技術者、童男女二千人を同乗させ、派遣していたのです。それほど、水銀薬は、古代から、権力者や金持ちには魅力あるものであったのです。
空海の、真の渡唐の目的は、藤原氏が遣唐使船を計画的に沈没させて唐への朝貢品を掠め取るのとは異なり、長安に亡命していたバラモン僧から、錬金術の極意書を買い求めるためであったのです。それを裏付けるように、空海は、勉学に必要以上の大量の砂金を唐に持ち込んでいたのです。
そのように、錬金術師空海を眺めると、そこには仏教者よりも、鉱山師の姿が現れてくるのです。空海が、大学を中退した原因のひとつに、山岳修行者から、記憶術としての虚空蔵求聞持法を授かったことがあげられます。
その虚空蔵とは、明星→金星→虚空蔵→金属の流れにあるのです。そして、虚空蔵は、サンスクリット語で、アーカーシャ・ガルバと言い、アーカーシャとは、空・虚空で、ガルバとは、胎・蔵の意味です。
貴金属の多くは、隕石が落下したところで採取されるのです。そして、虚空蔵尊とは、隕石のことで、それは岩裂神、根裂神とも呼ばれ、鉱山神となるのです。つまり、虚空蔵(隕石)を祀る処には、鉱脈が存在するために、鉱山が多くあるのです。空海が、四国に多くの寺を建立しているのですが、その近くには、銅山・銀山が多くあるのは、そのことを示しているのです。
この空海側の水銀鉱脈探索は、やがて、従来の産鉄族タタラ(突厥帝国残党民)、そして、山の民(蘇我王朝残党民)との権利争いとして発展していくわけです。その鉱脈探索の山の民は、空海側の仏教勢力に敗れ、山伏修験者として変身していくわけですが、山中で冶金のための火を治す「火治・ひじり」が、やがて、空海の創建した高野山の寺の奴隷となり、「高野聖・ひじり」となるわけです。ですから、「山伏修験の行くところに金属資源がある。」との言い伝えがあるのはそのためです。
この高野聖の奴隷身分を拒否した産鉄族タタラや山の民は、山奥に逃れ、反仏教組織として戦うわけです。その山の武装民は、やがて、仏教組織に恐れられることにより、「てんく゜・天狗」と蔑称されていくわけです。このことは、反仏教の河の民が、「カッパ・河童」と蔑称されていくのと同じです。
さて、この章の表題の武士とサムライは、どのようにして発生したのかを、これから述べることにしましょう。これまでの記述は、そのためのウォーミングアップであったのです。
平安時代に出現した武士の発生を理解するには、飛鳥ヤマトの真の支配者の実態と、藤原氏の実態、、平安王朝を創生した亡命百済王朝の実態、そして、奈良仏教と平安仏教の実態を知らなければならないのです。それらの予備知識を知ることで、武士の発生が理解できるのです。
第二蘇我王朝の天武天皇系最後の井上皇后・他戸皇太子を謀殺して、その王権を簒奪した百済系桓武天皇は、秦氏(=ギリシャ・ローマ文化新羅国渡来民)が支配していた山背国を、唐進駐軍と桓武天皇軍とにより、乗っ取ると、その前支配者の秦氏一族を、藤原氏傀儡の豊臣秀吉が騎馬民族末裔の徳川家康を、1590年関東の荒川河口の湿地帯(後の江戸)に移封したように、淀川河口の湿地帯に追いやるのです。
そして、奈良の都を、ヨシュア教(後のキリスト教)に酷似した大乗仏教思想とユダヤ教に酷似した中臣神道(中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。)との祭祀者として、実効支配していた藤原氏を、その配下の仏教組織(南都仏教)もろとも、奈良の都に封じ込めてしまうわけです。その表向きの理由は、奈良仏教は、貴族相手に賭博・売春(聖婚)・高利貸し(借上)をおこなって、堕落してしまったというのです。
そこで、桓武天皇は、奈良仏教思想を抹殺するために、百済系の最澄を唐に派遣して、「聖書」の「ヨハネの福音書」ソックリの「法華経」を信奉する中国天台宗を導入して、ローマ・カトリックがミトラ教地下神殿を破壊して、その跡に、バチカン聖堂を建てたように、秦氏の祭祀場があった比叡山の景教寺を破壊して、その跡に、821年延暦寺東塔を建立するのです。そして、秦河勝の建立した、景教寺の蜂丘(岡)寺を破壊して、その跡に、仏寺の広隆寺を建立するわけです。
そして、秦氏が祀る太陽神ミトラを魔多羅と変名し、804年ミトラ教儀式の牡牛を屠ることを政令で禁止するのです。その平安王朝のミトラ教(景教)抹殺手段に対抗するために、秦氏末裔は、太陽神の化身の牡牛を、「牛頭天皇」と呼称するのです。
飛鳥時代より、山背国の比叡山で、秦氏が祀る太陽神ミトラの化身の牡牛を屠る儀式をおこなっていたものが、794年百済系桓武天皇にその支配地・比叡山を乗っ取られると、桓武王朝は比叡山に、中国天台宗を導入して、秦氏の祭祀場跡に、仏寺の延暦寺を建立するわけです。
そして、比叡山に祀られていたミトラ神を歴史上抹殺するために、魔多羅神登場の物語を創作するわけです。その物語とは、848年唐より帰朝した慈覚大師円仁より、叡山常行堂が創建され、その堂で念仏三昧をしていた折、魔多羅神が示顕したとするのです。しかし、魔多羅神が現れたのは、それが最初ではなく、慈覚大師円仁が、唐からの帰朝途中で、「私を崇敬しなければ浄土往生はかなわない。」との魔多羅神のお告げを聞いていた、と言うのです。そこで、比叡山の常行堂に魔多羅神を勧請したというのです。
そのような魔多羅神勧請物語を創作することにより、先住民の秦氏の神・ミトラ神の歴史を隠蔽したのです。
その奈良仏教抹殺の処置に対抗するために、遣唐使船の運営をおこなっていた藤原氏は、804年錬金術師空海を仏教僧に変身させて渡唐させ、最澄の動向を探るためと、そして、桓武天皇の奈良仏教抹殺の宗教政策に対抗するために、空海を南都仏教の手先として利用することを考えるわけです。このことは、つまり、蝦夷末裔の空海を使って、亡命百済王朝を制する、「夷を以って夷を制す。」藤原氏得意の戦術であるのです。
平安初期は、宗教改革の時代であったのです。その背景には、奈良仏教壊滅だけではなく、平安京に災害をもたらしている怨霊を鎮めるのが目的のひとつでもあったのです。
唐進駐軍と桓武天皇軍は、資源の眠る陸奥国の支配を目的に、蝦夷討伐に大軍団を派遣するのですが、騎馬戦術に長けている蝦夷軍に対して、全戦全敗であったのです。
しかし、蝦夷軍を軍事支援をしていた東突厥帝国が744年に滅亡してしまった結果、蝦夷軍にも厭世気分がおこって来るわけです。そこを見透かして、白系チュルクの坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁のアテルイを騙して、京に連れて来て、そこでアテルイを斬首してしまうのです。このことにより、蝦夷軍の勢いが削がれていくのです。
蝦夷軍が、関東から北方へ追いやられるのは、平安朝の巧みな戦略もあったからです。騎馬民族は、その戦いで馬が疾走できる平原が無ければ、その潜在闘争力が発揮できません。そして、騎馬民族は、農耕をしないため、必要な食料は農耕民との交易によって調達していたのです。その農耕民との交易のために、騎馬民族は、貨幣や為替の商取引を開発していたのです。
この騎馬民族の平安王朝との戦闘を維持するための条件を、平安王朝は条例で破壊したのです。それらは、貨幣の流通の禁止です。そして、貨幣の代わりに、関西では「米」を、関東では「絹」をつかったのです。そのため、蝦夷が実効支配していた関東の農耕民は、山の麓や川沿いなどの空き地に、桑の木を植えていくわけです。
この桑畑の北上と、蝦夷軍の北への撤退に関連性が確認されるのです。つまり、関東平野から北に広がる桑畑は、騎馬民族の軍事活動に対しての、自然のバリケードの役割を果たしていたのです。そして、山里の農耕民から食料を調達したくても、貨幣が使えないため、食料調達のために、新天地を北方に求めなくてはならないわけです。
そのような戦略により蝦夷軍団は、平安王朝に敗れていくわけです。奈良時代までは、敗れた武人は、殺されるか、奴隷になるか、そして逃亡するかの方法しか存在していなかったのです。
しかし、平安時代になると、敗残兵の処刑は禁止されるのです。それは、血の禁忌思想の平安仏教の平和主義のためではなく、平安王朝を軍事的に支えている唐の軍事事情によったのです。
唐は、西隣の吐蕃軍の度重なる侵攻と、北方の騎馬民族ウイグルの南下により、国境を守るための軍事力の増強が必須だったのです。唐の軍団は、722から傭兵制度となっていたため、農民の子弟を子供の頃から軍事訓練をさせていなかったため、自民族の軍団を編成することができなくなっていたのです。そこで、日本国の陸奥国の弓馬の巧みな蝦夷軍敗残兵の需要がおこるわけです。
陸奥国で破れた蝦夷の武人は、関西に連行され、盆地の捕虜収容所に、唐へ送り込むための軍事再教育のために押し込められるわけです。それらの捕虜収容所は、別所、湯浅、散所、垣内などと呼ばれていくのです。これが「部落」の始まりです。
この捕虜収容所の蝦夷武人に、怨霊渦巻く平安京で、新たな仕事が起こるのです。それは、戦闘ではなく、「武芸」です。
桓武天皇は、唐進駐軍の軍事支援の下、794年秦氏の支配地であった山背国の平安京に遷都するわけですが、その地を追われた蘇我王朝残党兵や秦氏が、近隣の山奥からゲリラ戦を仕掛けていたのです。平安京は、そのゲリラ戦の不審火だけではなく、落雷・地震が頻発に起こっていたのです。
科学の知識が乏しいのと、奈良時代の平城京の鉱毒中毒による地獄世界を実際に経験していたことがトラウマとなっている平安京の住民に、唐からもたらされたバラモン教やヒンズー教のおどろおどろしい閻魔様のいる地獄世界を、平安仏教信者獲得のために、平安仏教徒が絵解きで宣伝したために、それらの不審火・落雷・地震は、井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊によるものと信じられていたのです。
そこで、怨霊の祟りに苦しむ桓武天皇は、最澄に天台宗を創めさせるのですが、何せ八ヶ月の唐留学では、怨霊鎮静の儀式をおこなうことができなかったのです。その弱みに付け込んで、奈良仏教に敗れた道教や景教の師は、陰陽師に変身して、怨霊退治に活躍するわけです。しかし、平安京を呪う怨霊の正体は、反亡命百済王朝の蘇我王朝残党兵や落雷・地震であるので、それらの陰陽師の祈祷では退散させることができなかったのです。
更に、奈良の都に封じ込められた藤原氏も、桓武王朝の転覆を図るために、色々な策謀を図っていたのです。
そのひとつが、桓武天皇の子息安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)兄弟の確執を煽ることです。長岡京で暗殺された藤原種継の子供の藤原仲成・薬子兄妹は、病弱な平城に、親ほどの薬子が「女の武器」で接近するのです。その陰謀を知った桓武天皇は、藤原薬子を平安京から追放するのです。しかし、桓武天皇が806年崩御し、平城天皇が即位すると、薬子兄妹は、平城天皇に急接近するのです。
病弱な平城天皇は、809年退位し、嵯峨天皇が即位するのですが、薬子兄妹は、平城上皇をそそのかして、810年嵯峨天皇を抹殺するために兵を挙げるのです。これが藤原薬子の乱です。
藤原薬子の軍団は、嵯峨天皇軍団にすぐさま壊滅されるのですが、嵯峨天皇は、今後の藤原氏の不穏な動きを探るためと、それを阻止するために、令外官として検非違使を置くのです。検非違使の役割は、嵯峨天皇を藤原氏の陰謀から守るため、都での治安警察業務であったのです。ですから、その人材は、亡命百済貴族の子弟であったのです。
そして、嵯峨天皇の近くに侍(はべる・さぶらう)る武装者は、やがて、侍(さぶらう)→サムライと呼ばれていくわけです。サムライの業務は、敵との戦いではなく、天皇の秘書役の武人であったのです。その資格は、亡命百済貴族の子弟で、漢字が読め・書ける秘書業務ができる者であったのです。
嵯峨天皇は、病弱な平城天皇と異なり、子作りが盛んで、その皇子皇女の数が分からないほどいたのです。平安王朝の財政は、陸奥国の侵略戦争などに使われ、傾きかけていたのです。そこで、嵯峨天皇は、数多くの皇子皇女を公費で養育できなくなったため、臣籍降下のために、814年源氏賜姓をはじめるわけです。これが世に言う「嵯峨源氏」の始まりです。因みに、「公家桓武平氏」の賜姓は、825年であるのです。
そして、亡命百済王朝が、日本国の祖であるとの書、「新撰姓氏録」を、814年に編纂するのです。この「新撰姓氏録」の皇・神・蕃の民族差別により、亡命百済貴族は、日本国の皇族の祖となるわけです。因みに、奈良時代を支配していた藤原氏は、祭祀氏族の神籍で、そして、平安京のある山城国の地を飛鳥時代から支配していた秦氏は、蕃籍の渡来人とされてしまうのです。
嵯峨天皇は、藤原氏の軍団を壊滅させても、不審火・落雷・地震が収まらないため、その対策として、怨霊が前政権の王者の無念によるものだから、その前政権の臣下の子孫に、怨霊鎮めをさせるのです。その怨霊鎮めの儀式が、「武芸」であるわけです。
「芸」とは、神を、歌謡・舞で楽しませるための神事であったのです。平安京以前には、山背国を支配していた秦氏は、太陽神を祀るため、太陽の化身の牡牛を屠る儀式をおこなっていたのです。当然、そこには、歌謡と舞があったのです。その秦氏の芸は、亡命百済王朝の陰謀により、秦楽→申楽→猿楽と貶められてしまうのですが、平安初期には、未だその秦楽の霊力は健在だったのです。
そこで、蝦夷の前身とは、飛鳥時代の蘇我王朝の武人であったわけですから、井上皇后・他戸皇太子は第二蘇我王朝末裔であるわけですから、その蘇我王朝の怨霊は、蝦夷の「芸」により鎮められるわけです。
しかし、実際に、蝦夷の「武芸」で怨霊が鎮められたのは、怨霊の不審火の元は反亡命百済王朝の蘇我王朝残党兵によるわけですから、その蘇我王朝残党兵は騎馬民族末裔であるため、騎馬民族の掟「同族は闘わず。」を守ったにすぎません。蝦夷の「武芸」に対して、「騎馬民族の掟のため」、山の民は攻撃を仕掛けられなかったのです。
何事の儀式でも、そのパフォーマンスにより、その影響力が発揮するのは、古代も現代もかわりありません。ですから、ひとびとのこころを揺さぶるには、その儀式の仕掛けが派手で、今までに見たことも無いほどのものであることが必要であるわけです。
そこで、怨霊鎮めを命ぜられた蝦夷は、「武芸」の儀式をおこなうための小道具を開発するわけです。それが、派手な鎧と、角のある冑、そして、妖艶な光を放つ片刃の刀(日本刀の祖)です。
しかし、蝦夷は、平安王朝の捕虜の立場であるので、それらの「武芸」の儀式武具は、鎧は総革製で、刀の刃は実戦に使えないように薄かったのです。
日本武士の冑には、何故に二本角があるのでしょうか。一般的説明では、昆虫のカブトを真似て、冑に角を付けた、としているのです。昆虫のカブトの角を真似たのであれば、その角の並びは、横ではなく、縦でしょう。それでも昆虫の角であると説明するのならば、カブトではなく、クワガタでしょう。クワガタであるのならば、その角は横にあるからです。
では、冑の角が、昆虫を模したのでなければ、それは何を模したのでしょうか。それは、鹿と牛の角です。鹿は、騎馬民族スキタイのトーテムです。牡牛は太陽神の化身、ミトラ教を信じるローマ帝国軍のシンボルです。それらのオリエント・ユーラシア渡来の軍人の末裔である蝦夷には、鹿角や牡牛の角がある冑を被る武人は、神と一体となって闘うことにより、不死身であると信じられていたのです。
その角のある冑と派手な鎧と、妖艶な刀で「武芸」をおこなう蝦夷は、検非違使の配下として、前政権の神を封じ込めた神社で、歌謡と舞により、怨霊鎮めをおこなうわけです。この怨霊鎮めの武人は、やがて、民衆の畏敬を受けるようになると、蘇我王朝残党の蝦夷による亡命百済王権転覆の不安を抱く平安王朝は、民衆との隔離のため、「武芸者」の貶めに掛かるのです。
日本列島には、景教(ミトラ教)の太陽神、道教の北極星(太一)、大乗仏教の仏、そして、藤原氏が創作した天照大神が渡来する前には、カムイ・モノという精霊が存在していたのです。それらの精霊は、日本列島のあらゆる処に存在していたのです。
それらの精霊は、太陽や北極星などの自然神を祀る宗教とでは共生できたのですが、ブッダ(覚醒した者)などの釈尊のキャラクタを真似た人工神を祭る宗教とは、共生ではなく、対立したのです。
やがて、人工神のブッダの宗教(釈尊の思想とは正反対の思想)が、武力により、他の自然神宗教を壊滅させると、日本列島古来のモノは、仏敵の化け物として、モノノケ(モノの怪)として貶められてしまうのです。
前政権の支配者が眠る古墳近辺で、前政権の神(カムイ・モノ)が封じ込められている神社で、「武芸」により、前政権の怨霊(カムイ・モノ)を鎮めるために、歌謡と剣舞の儀式をおこなう蝦夷は、やがて、先住民から「もののふ・モノの夫」と呼ばれていくわけです。
先住民から、神の僕「もののふ」と呼ばれていく蝦夷は、やがて、平安王朝にも平安仏教組織にも、抹殺すべき存在となっていくのです。それは、騎馬民族には、草・動物による薬物創生の技術があったからです。
飛鳥時代の蘇我王朝では、草・動物による創薬業も盛んにおこなわれていたのです。鎌倉時代に発生する、騎馬民族末裔の武士の流れにある役座が祀る神様は、薬草学の神様・神農様であることでも、騎馬民族が創薬業に長けていたのが理解できます。古代から現在まで、大坂や富山に、薬商が盛んであるのは、そこは、大陸から渡来した騎馬民族末裔が多く暮していたからなのです。
中世ヨーロッパで、キリスト教により、魔女狩りがおこなわれていたのは、経済的理由も原因のひとつであったのです。
キリスト教の収入源である、庶民からのお布施が、民間の医療行為に支払われることにより、激減してしまうのです。それは、キリスト教教会に布施するよりも少ない金額で、動植物の薬により、民間治療者は病気を治してくれるからです。
庶民が、神様にすがるのは、経済的理由と病気・怪我の治癒のためによるのです。中世ヨーロッパのキリストの神様は、貧乏人に、お金をめぐむのではなく、お布施としてむしりとる存在だったのです。ですから、庶民が神様に求めることは、商売繁盛の「願い」だけと病気の治癒「願い」なのです。その庶民に対しての医療行為では、キリストの神様への祈りよりも、民間治療者(多くは女性)の技術の方が優れていたのです。
それは、古代の医療とは、もともとは薬草や魔術と関係があったからです。そのことを証明するように、「医学」を意味するギリシャ語(pharmakeia)には、「薬」「魔術」の意味もあるのです。
キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、神に祈るだけでは治療ができないことを悟ると、教会公認の「男性」の医師に、下剤、瀉血、燻蒸消毒、ヒル吸血、水銀薬、そして、ランセットによる英雄医学を認めるのです。その英雄医学の名残が、床屋さんの赤(動脈)と青(静脈)のサインであるわけです。中世ヨーロッパの床屋さんでは、髪を調整するだけではなく、瀉血もおこなっていたのです。
しかし、自然と暮らし、病に患った動物の治癒過程の生態を観察し、個々の薬草の薬理作用を理解し、そして、臨床としての治療経験が豊富な賢女の治療技術は、キリスト教公認の英雄医学の医師の敵ではなかったのです。治療に失敗したキリスト教公認の医師は、その失敗を悪魔の仕業に転化するのが日常だったのです。
その医療行為に長けた賢女の存在が、キリスト教をして、魔女を発生させるのです。キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、寄付を募るために教会に庶民を集めるための目的に、医療を独占するために、薬学に詳しい賢女の治療者を、魔女として、聖なる炎で浄化してしまうのです。そのために、キリスト教の牧師は、カトリックもプロテスタントも、悪魔の手下の魔女物語を創作して、教会で病に苦しむ庶民を洗脳するわけです。
前政権の支配者が封じ込められている神社で、「もののふ」として、庶民から畏怖される武芸者に対して、平安王朝は、中世ヨーロッパの魔女狩りのごとく、武芸者の貶めにかかるのです。その先鋒者が、空海なのです。
空海は、唐より帰朝しても、桓武天皇、そして平城天皇から疎まれていたのですが、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位すると、弟子の最澄をとおして、嵯峨天皇に接近するのです。その接近の小道具のひとつが、水銀薬です。
水銀薬は、知覚神経・中枢神経を刺激する作用があるため、子作りが好きな嵯峨天皇は、空海に興味を示すわけです。
南都仏教の手先として、藤原氏により送り込まれた空海は、やがて、嵯峨天皇に気に入られていくのです。そして、平安王朝の儀式に取り入れられていく、空海の、バラモン教とヒンズー教思想を基にした「密教儀式」が、「もののふ」の蝦夷を、不可触賎民として貶めていくのです。
その根拠として、藤原氏傀儡の空海は、812年「性霊集」で、蝦夷を「非人のともがら」、と述べているのです。更に、「我および仏弟子にあらずば、いわゆる施陀羅悪人なり。」と、非仏教者(蝦夷)を施陀羅とも述べているのです。
施陀羅とは、インドのバラモン教が発明した、カースト制度に属さない、不可触賎民のチャンダラーを漢音化した言葉です。ユダヤ思想では、イスラエル民族を貶めるための、不可触賎民サマリア人のことです。
平安仏教は、その根底は、民族差別を助長する、インドのバラモン教思想・ヒンズー教思想です。それらの思想には、遊牧・騎馬民族を差別する思想が多く含まれていたのです。もともとバラモン教は、インドの先住民族の遊牧民トラヴィダを支配するために発明された宗教であったわけです。
空海が、騎馬民族を貶める行動にでたのは、キリスト教が有能な民間治療者を魔女として抹殺したように、経済的な理由もあったのです。
平安仏教は、奈良仏教が律令制度による税で賄われたのとは異なり、自費で組織を維持しなければならなかったのです。そこで、空海は、金集めのために、水銀薬・祈祷・護符・護摩などによる治療をビジネスとして考えていたのです。
仏教の経典には、「除一切疾病陀羅尼経」「能除一切眼疾病陀羅尼経」「仏説療痔病経」「仏説呪歯経」などがあるように、疾病の治療指導書が多くあるのです。それは、お布施を集めるための信者獲得の近道は、キリスト教も仏教も、まずは治療行為から始まるからです。
その治療のために、古代から鉱物・動物・植物から薬物を創製していたのです。そのため、鉱山師、遊牧民族、草原の民達は、日常生活において創薬の技術を獲得していたのです。中世ヨーロッパで医療行為が上手な医師パラケルススは、元は鉱山師(錬金術師)であったのです。
錬金術師空海は、唐から持ち込んだ創薬技術の、水銀と塩を混ぜて焼くことにより創薬した白粉を、平安貴族に売り捌くのです。その効能は、蝦夷による動植物からの創薬よりも、ある疾患に優れていたのです。それらは、堕胎と毛じらみの治療です。
古代の宗教ビジネスの聖婚では、神の代理の地母神・聖母・巫女・比丘尼は、清潔でなければならなかったのです。しかし、衛生状態がよくなかった古代では、毛じらみは多くの神の代理を悩ませていたのです。そこで、空海の創薬した白粉(後の京白粉)を髪にかけると、毛じらみがいなくなったのです。それは、水銀による滅菌・消毒作用のためです。
神の代理の地母神・聖母・巫女・比丘尼の末裔の遊女が、髪に櫛を挿す習慣は、毛じらみの駆除済みをアピールするためだったのです。つまり、櫛を髪に挿す遊女は消毒積みとのサインということです。
紀元前932年ヘブライのソロモン王が死去すると、今まで虐げられていたヨセフ族直系の部族は、「ソロモンはヤコブだ。」、と罵るのです。ヤコブとは、不正な手段で王権を簒奪した者の意味です。
そこで、レビ族末裔は、その罵りを抹殺するために、ヤコブがヨセフの父であるという物語を創作して、ヨセフ物語の前に挿入してしまうのです。その隠蔽技術により、ヨセフ族末裔のイスラエル民族は、ソロモンをヤコブと、罵ることが出来なくなってしまったのです。その反対に、レビ族末裔のユダヤ民族により、アッシリア帝国に滅ぼされて、アッシリアに同化したイスラエル部族は、不可触賎民サマリア人とされてしまうのです。
平安時代の神社で、怨霊鎮めの儀式をおこなうことにより、奈良時代の修験者出自の行基が遍照鬼(後の奈良の大仏・大日如来)の像を建立するために各地の山々を廻るうちに、何千何万の山の民が行基の下に集まったように、「もののふ」の武芸者の下に山の民が集まってきたのです。
そこで、唐進駐軍と桓武天皇軍に敗れた蝦夷の武芸者は、自らの出自を、民衆に語るわけです。それは、今は捕虜の武芸者であるけれども、二百年ほど前では、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の武人であった、ということです。そして、平安王朝の皇族は、百済の亡命民である、と言うのです。
それに対して平安王朝は、奈良時代の亡命百済民の食うや食わずの惨状を記述した書籍・絵画を粉砕し、レビ族がヤコブ物語を創作してヨセフ族の歴史を乗っ取ったように、「538年飛鳥ヤマトに仏教を伝来させたのは、百済聖王だ。」と言う物語を創作し、「日本書紀」に挿入するのです。そして、その百済仏教は、聖徳太子という立派な聖人が、飛鳥ヤマトに七寺を建立して、布教に努めた、との物語を創作するのです。そして、その創作物語で、秦氏の祖秦河勝は、聖徳太子の忠臣であって、仏寺の広隆寺を山城国に建立した、と述べるのです。
平安時代、騎馬民族差別の種を蒔いたのが錬金術師空海だとすれば、その種を発芽させたのは最澄です。最澄が唐から持ち込んだ「法華経」には、仏罰の思想があり、その仏罰が具体的に述べられているのです。
「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節には、「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べているのです。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

つまり、比叡山の天台宗は、「法華経に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になる。」、と言うのです。
平安王朝は、「もののふ」の武芸者に集まる山の民や民衆を、その武芸者から隔離するために、その仏罰思想を利用するのです。
捕虜収容所にいた蝦夷や平安王朝に従わない秦氏一族は、山の民や民衆から隔離するために、中洲に集められるわけです。つまり、これが河原者の発生です。少しでも従う者は、坂地の部落に集められるのです。これが、夙(宿)の始まりです。その夙に集められた者は、寺や神社の奴隷として働かされるわけです。
その夙は、百済系の清水坂部落と、藤原氏系の奈良坂部落が中心です。そして、その清水坂と奈良坂の部落民は、平安王朝(京都)と藤原氏(奈良)との戦いに僧兵として利用されていくわけです。
そして、平安王朝は、中世のキリスト教が医療技術を持った賢女を魔女として社会的に抹殺したように、河原(中州)や坂にある蝦夷・秦氏の部落に、そのハンセン氏病患者の世話をさせて、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝末裔を、不可触賎民として貶めていくのです。
平安時代では、仏教は、庶民を色々な苦難から救うためのものではなく、貴族社会に取り入ってお布施を集めるために、色々な儀式をおこなっていたのです。ですから、平安仏教の、不可触賎民として武芸者を貶めるバラモン思想の宣伝は、未だ庶民には届かなかったのです。その騎馬民族差別思想が庶民に広がるのは、第二百済王朝(桓武平氏末裔北条政権1203年〜1333年)での、民族差別の法華経思想に染まった鎌倉仏教の発生と同時なのです。
平安京の街の仏寺や神社で、怨霊鎮めをおこなっていた鹿・牡牛角を付けた冑・派手な鎧・妖艶な刀で武装した武芸者は、その祖は、オリエント渡来の太陽神ミトラを祀る祭祀者の流れにあるわけですから、その儀式には、太陽の化身牡牛を屠ることがあるわけです。804年に牡牛の屠殺儀式の禁止令が出されるほど、平安初期には、その本来の意味が理解されていないけれども、牡牛の屠り儀式は、頻繁におこなわれていたのです。しかし、この武芸者による牡牛を屠る儀式の霊力は、平安仏教の儀式である加持祈祷の霊力により、否定されてしまうのです。
願い事を叶えるために、太陽神に牡牛を犠牲としても、自然は自然の法則により流れているわけですから、ひとの力では、その流れをコントロールすることはできません。派手に武具で着飾った武芸者による、「武芸」による怨霊鎮めにも、ひとの力の限界があったのです。
しかし、平安仏教の加持祈祷の儀式には、その霊力らしき体感が認められるのです。薄暗い密閉された部屋で、憤怒の形相をしたインド神が変身した仏像を配し、護摩壇を設けて火を焚き、その炎の中に乾燥大麻を投入すれば、その部屋に居る貴族達の意識が変性するのは当然です。
そこで、僧侶が印を結んで、アラム語の訳の分からない呪文(主にヨシュアが唱えた、「神よ何故わたしを見捨てるのですか。」などの言葉)を低音で唱え続けると、やがて、意識が朦朧とするのは、密教の霊力ではありませんが、その大麻煙の薬理作用を知らない貴族は、幻覚により仏の霊力に恐れをなすわけです。
そのような儀式にゴマ(護摩)化された平安貴族は、平安仏教僧に加持祈祷を依頼しても、武芸者に怨霊の警護を依頼しなくなるわけです。そこで、武芸者は、河原(中洲)や神社(結界された地域で、怨霊封じの施設のため仏教信者は近づかない。)で、武芸(室町時代に始まる能の祖)を始め、そこに集まる山の民や庶民と交易(バザール・祭りの「島」の祖)をおこなうわけです。元来、ユーラシアを生活圏としていた騎馬民族は、交易民族でもあったのです。
その中州に追いやられた民の多くは、古代エジプトの高度土木建設技術により、古代エジプトの死者を葬る風習と同じに石室に石棺を収めた巨大古墳・外来船が運航できる大運河・馬車が疾走できる幅十二mの直線道路を築造していた秦氏末裔ですから、淀川河口の湿地帯でも、戦国末期関東の荒川河口に移封された騎馬民族末裔徳川家康が、秦氏末裔弾左衛門配下の土木技術者と共に、ひとも住めぬ湿地帯を居住地に変えた様に、エジプト・オリエント渡来の高度土木技術で、居住地に変えてしまったのです。その淀川河口は、やがて、平安王朝に追われた秦氏(新羅系日本人)の拠点となり、後に、武家源氏発祥の地となるわけです。
そのように、逞しく生き抜く秦氏末裔に対して、平安王朝は、その営業活動拠点の神社を管理する方法を考え出すのです。それが、本地垂迹説です。つまり、神は仏の化身である、と言うのです。その思想により、武芸者が活躍していた神社は、仏寺に併合されてしまうのです。この本地垂迹思想により、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の怨霊を封じ込めていた神社が、「仏の化身の神」を祭る処へと変身するわけです。つまり、太陽神や北極星に対して犠牲(牡牛の屠り等)をおこなう祀りである「血の儀式」ではなく、穢れ祓いを行い、舞踊により人工神(ジン)を、神楽等で祭る神社は、日本列島古来の建物ではないのです。
平安王朝を支援する平安仏教(真言宗・天台宗)により、営業活動拠点の神社を追われた武芸者の一団は、街道での営業活動を始めるわけです。これが、遊芸集団の始まりとなるのです。
亡命百済王朝に虐げられていた武芸者一団に、チャンスが訪れるのです。それは、907年唐が滅びたからです。
平安王朝は、亡命百済貴族の桓武天皇が、781年「唐の儀式」により即位したことでも分かるように、唐が、律令制度の下で、裏からコントロールしていたのです。ですから、平安初期の文化は、唐文化一色だったのです。
その中国大陸での政変を知った、奈良に封じ込められていた藤原氏が、動くわけです。唐の軍事支援を求められなくなった平安王朝に、939年反旗を翻す者が、西国と東国に現れたのです。それが、西国の藤原純友で、東国が平将門です。
平安王朝は、それらの反乱に対して、もはや唐進駐軍の支援を仰ぐことが出来なかったのです。では、平安王朝には、公家桓武平氏(平氏と平家は別種。「平氏」は姓で、「平家」は姓ではない。)という武人が居たではないか、と言っても、その公家桓武平氏は、戦闘集団として訓練されていない、天皇の側に武装して侍り、武官としての秘書業務をおこなう「サムライ」だったのです。
そこで現れたのが、元蝦夷残党兵の武芸者の一団です。山奥から馳せ参じた武芸者は、実戦に長けた指導者の下で、弓馬戦術による組織的な活躍により、平安王朝打倒で決起した、西国の藤原純友と、東国の平将門の反乱軍を、941年に壊滅するのです。
このことにより、平安王朝は、武芸者を「武士」と認めるわけです。つまり、「武士」とは、この「天慶の乱」(939年〜941年)で活躍した武芸者の子孫だけが名乗れる名称なのです。この時、大活躍した武芸者は、淀川河口に住む秦氏末裔だったのです。
何故、武芸者の一団が、反乱軍を短期間に壊滅できたのでしょうか。それは、武芸者のルーツを辿れば、簡単に説明できます。
武芸者が、「天慶の乱」の功労で「武士」となった背景は、武士←武芸者(もののふ)←陸奥国蝦夷武人捕虜←第二蘇我王朝武人(新羅系天武王朝)←蘇我王朝の突厥帝国進駐軍・新羅花郎軍団、の流れにあるからです。
その突厥帝国の武人は、突厥(ローマ帝国と交易を行う)←柔然←匈奴←スキタイの騎馬民族の流れにあり、そして、新羅花郎軍団は、新羅(ギリシャ・ローマ文化国)←辰韓←大月氏←秦←バクトリア(ギリシャ文化継承国)←アレクサンドル大王領(ギリシャ文化国)、の流れにあったのです。
この軍団の流れが、356年ナムル王により、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)を興すのですが、528年中国南朝の宋に支援された仏教国百済により、ローマ軍の軍神ミトラを祀る新羅花郎軍団は、朝鮮半島から排除されたのです。
その新羅花郎軍団は、527年には北九州に侵攻し、その後、北九州に秦王国を興すのです。そして、軍備を整えた北九州の秦王国は、吉備→飛鳥ヤマトを目指すのです。その中国大陸の高度文化と同じ文化を保持する、日本列島に存在した秦王国は、608年渡来の隋使裴世清(随書では裴世)により、隋の煬帝に報告されているのです。
そして、530年突然、飛鳥ヤマトに突厥帝国の騎馬軍団が現れるのです。しかし、その騎馬民族の軍団長は、720年奈良の都で藤原氏により編纂された「日本書紀」では、蘇我稲目とされ、大和朝廷の大臣とされてしまうのです。突厥帝国軍人である蘇我氏の本名は、未だ不明なのです。つまり、漢字二文字の人名・地名は、713年以降の表記だからです。
しかし、609年隋使裴世清の煬帝へは、「都で男王アマタリシヒコに謁見した。」、と報告しているのです。しかし、その頃の飛鳥ヤマトは、「日本書紀」によれば、女帝推古天皇の統治下で、厩戸皇子(後の聖徳太子)と共に、蘇我稲目の息子・蘇我馬子が活躍していた仏教の黎明期の時代なのです。これはどちらかが、ウソをついているわけです。
武士が、941年以降の名称であることは理解できたとしても、その戦い方など実態は不明のままです。
時代劇で、武士の戦闘シーンが描写されますが、その史料の元は、第三百済王朝(1623年〜1867年・第三代将軍徳川家光から第十五代将軍徳川慶喜)で創作された武闘演劇であるのです。
江戸時代の演劇小屋の舞台は狭いため、武士の戦闘シーンは、本来の武士の武器は弓矢であったのが、武士の魂である日本刀を使った演出が、後のひとに、武士は刀を武器に、敵に立ち向かった、と誤解されていくわけです。
戦国時代、イエズス会が、日本列島を支配するために、伊勢に勢力を張っていたアラブ商人護衛軍団を祖とする平家末裔の織田信長に鉄砲を提供するまでは、戦いでの死傷者の傷の多くは、矢傷であったのです。その次が、槍傷です。刀傷での死傷者はごく少なかったのです。それは、日本刀は、折れる、曲がる、刃毀れするから、死を賭した戦いでは使用される確率が少なかったのです。
では、武士の魂の日本刀は、何のために使用したのかと言うと、それは、「武芸」において怨霊との戦いでの武器であったのです。つまり、日本刀の発生は、実戦用ではなく、武芸者(祭祀者=もののふ)の祭祀武具であったのです。
鉄器の製作には、鋳型に流す鋳造法と、鎚で叩く鍛造法とがあります。日本刀の祖は、陸奥国の蝦夷の武器である蕨手刀です。この蕨手刀を、ヒッタイトで発明された鉄器製造法の鍛造法により、刃を長くしたのが、日本刀の祖であるわけです。そして、この蕨手刀は、突厥帝国軍の武人の武器でもあったのです。それは当然です。蝦夷の出自は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝で、その祖は、突厥帝国であったからです。
この日本刀の祖である蕨手刀は、ユーラシアの騎馬民族では、身を守るためと、敵将の首を落すために使用されたのです。
騎馬民族は、輪廻転生ではなく、戦闘で死んだ勇者は死後再生される、と信じられていたのです。ですから、死者は、土穴の中に、木棺に収められ、石で覆われ、その上に土を盛り、再生するまで石積木郭墳で眠り続けるわけです。
この死者に対しての騎馬民族と大乗仏教の思想は、全く別であることからも、「日本書紀」による仏教伝来物語の虚構性が証明されるわけです。それは、死者を不浄物として燃やしてしまう大乗仏教思想を、騎馬民族の蘇我稲目も蘇我馬子も、受け入れる崇仏派であるわけは無いのです。しかし、その仏教伝来物語の二度にわたる神仏戦争では、物部氏が廃仏派で、蘇我氏は崇仏派である、と云うのです。騎馬民族の葬儀は、死者を燃やすのではなく、そのまま葬る土葬が基本であるのです。
そこで、勝者は、敵将を再生させないために、首を落すわけです。そして、その敵将の首を、棟梁に差し出すことにより、褒賞を受け取ることが出来たのです。武士の妻が、落首に死化粧をするのは、立派な敵将を演出して、褒賞を多く貰うためであったのです。
中国大陸では、この騎馬民族の戦い後の落首の儀式は、農耕民族である漢族に恐れられたために、「道」の字が作られたのです。「道」とは、騎馬民族が、敵将の首を手に掲げて、敵陣に向かうことにより、敵軍団が恐れおののき後ずさりすることにより、間隙ができた処を一歩一歩前に進むことを意味しているのです。
この「道」の本来の意味が分かれば、剣道とか茶道・華道など、○○道と付くものが、「芸事」といわれることが理解できるでしょう。その「道」の付く芸事とは、人工神を祭る仏教徒ではなく、自然神を祀る騎馬民族末裔のみが携われるものなのです。芸事は、他人と勝ち負けを競うのではなく、「いかにすれば、自然と一体となり自然神の領域に至ることができるのか」、を究める神事の流れにあるのです。
では、長らく平安王朝に、蝦夷俘囚の武芸者(もののふ)として貶められていた武士が、天慶の乱で、何故、棟梁の指揮で、統率の取れた合戦ができたのでしょうか。それは、蝦夷には「掟」があったからです。その掟は、現在では、正統役座の「任侠道」にみることができます。任侠道の軸は、「忠誠」と「弱者擁護」です。この任侠道の祖は、武士道なのです。
武士道は、明治維新後に再発見されたものですが、その思想は以下のようです。

仁、上の立場であっても、おごらず下に居て慈愛にて善事をおこなう。
義、善悪の分別判断をし、善に従い悪を避ける。
礼、尊と卑を分別し謙虚に上を敬い、下を侮らない。
智、よくものごとを観察し、善悪を見抜き、策略を練ること。
信、ひとを欺かず、誠実で温厚篤実であること。

武士の祖の武芸者が、平安王朝により、賎民に落され、中洲の部落に封じ込められても、その心情が賎にならなかったのは、その「掟」があったからです。では、その「掟」はどこから伝来したのでしょうか。それは、新羅花郎軍団の「騎士道」からです。
騎士道と言うと、一般的な解釈では、1096年神聖ローマ帝国での、第一回十字軍を思い起こすひとが多くいることでしょう。しかし、それは違います。それは、キリスト教側のプロパガンダにより、騎士道の発生が、十字軍の騎士から始まった、と刷り込まれてしまった結果です。
中世ヨーロッパを支配したキリスト教は、その内部矛盾により腐敗していたのです。そのため、キリスト教は、存続の危機に面していたのです。そこで、キリスト教側は、1095年クレルモンの公会議で、内部矛盾から民衆の目を逸らすため、イスラム教徒が支配するエルサレム奪回を決議するのです。
キリスト教の神の加護を受けた十字軍は、エルサレムに至るイスラム教徒の村々を、聖書にあるように、女子供も虐殺していくのです。そのような蛮行をおこなう十字軍に対して、イスラム教徒軍は、巧みな騎馬戦術で打ち負かしてしまうのです。そして、イスラム教徒軍は、負傷した十字軍戦士の傷を手当てし、祖国に送り返していたのです。このイスラム教徒軍の騎士の行為が、騎士道であるのです。
では、イスラム教徒軍の騎士道は、何処からもたらされたのでしょうか。それは、ギリシャ文化を継承したバクトリアの後継国吐火羅からです。吐火羅とは、大乗仏教が発明された国際交易都市ガンダーラがあった処です。そこには、ギリシャ文化が継承されていたのです。
紀元前四世紀、ギリシャのマケドニアから興った、アレクサンドル大王領は、その版図が、東はインド、西はエジプトまで広がっていたのです。そのような大帝国を築けたのは、アレクサンドル大王の思想によるのです。それは、被征服国の文化・宗教を保護し、敗戦者に寛大に対処することにより、自軍の兵士として再雇用したからです。
古代の戦闘では、「旧約聖書」にあるように、女性は陵辱され、老人子供は虐殺され、捕虜の兵士は惨めな処刑を受けていたのです。
しかし、アレクサンドル大王は、それまでの戦争処理とは全く別の方法を考え、それを「掟」としたのです。その思想の基である、「忠誠」「弱者擁護」を核として、やがて、その騎士道精神が、各民族の軍団に受け継がれ、日本列島に伝来されていくわけです。
この騎士道精神が、十一世紀のイスラム騎士により、十字軍騎士をして、ヨーロッパにもたらされていたのです。ですから、ヨーロッパの騎士道は、イスラム騎士道より、歴史的に新しいのです。
しかし、イスラム騎士道よりも以前に、東には騎士道精神が伝播していたのです。その騎士道思想は、ギリシャ文化に憧れていたローマ帝国軍のミトラ神を祀る傭兵軍により、ギリシャ・ローマ文化国新羅に継承されていたのです。それが、花郎騎士道です。
新羅花郎軍団とは、「花」の意味が分かれば、その祖がローマ帝国軍末裔であることが分かります。その「花」とは、「ミトラ」の漢訳借字であるからです。つまり、花郎軍団とは、392年キリスト教がローマ帝国の国教となる以前の、軍神ミトラを祀るローマ帝国傭兵軍の末裔であったのです。
この新羅(秦羅)から渡来した「軍神ミトラ」は、「日本書紀」の仏教伝来物語では、厩戸皇子(聖徳太子)が、忠臣秦河勝に与えた「弥勒菩薩」と改竄されてしまうのです。そして、その仏教伝来物語では、その弥勒菩薩を安置するために、603年広隆寺の前身蜂丘(岡)寺を、秦河勝が建立したことになっているのです。景教(ミトラ教)の祭祀者である秦河勝が、果たして、仏像安置のために、仏寺など建立するものなのでしょうか。
では、国宝第一号の弥勒菩薩とは、実態はどのような像であったのでしょうか。現在に残る弥勒菩薩像は、明治維新での廃仏毀釈によりボロボロになっていたものを、後に修復したもので、新羅からもたらされた当時の像のままではないのです。ですから、その像を手掛かりとして、その由来を解明することは困難です。
しかし、その仏像名から、その元の名を知ることは、それほど困難ではありません。それは、弥勒(中国)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(オリエント)の流れがあるからです。弥勒とは、ミトラの変名だったのです。そして、弥勒菩薩を安置するための蜂丘寺の建立地は、秦氏の支配地の山背国で、それは秦王国であったのです。
つまり、秦氏の秦王国の渡来ルートは、山背国(〜紀元794年)←吉備←北九州(紀元527年〜)←ギリシャ・ローマ文化国新羅(紀元356年〜紀元528年)←秦(紀元前221年〜紀元前206年)←バクトリア(大月氏・紀元前250年〜紀元45年)←アレクサンドル大王領(紀元前336年〜紀元前323年)←アッシリア帝国(紀元前722年〜紀元前612年)←イスラエル王国(紀元前932年〜紀元前722年)←ヘブライ(紀元前1230〜紀元前932年)←エジプト(紀元前十四世紀)←ヒッタイト帝国(紀元前十四世紀)、となるわけです。ヒッタイト帝国では、ミトラ神は、太陽神でもあり、そして、異民族との交易を見守る契約神でもあったのです。
その山背国の秦王国は、794年唐進駐軍と桓武天皇軍とにより乗っ取られると、淀川河口へ追いやられてしまうのです。そして、その淀川河口の地を開拓した秦氏は、そこに秦氏の部落国家(実際の国家ではなく、平安王朝とは異なる、ギリシャ都市国家と同じ、合議制による統治組織のこと。)を造るのです。その合議制による組織運営が、全国に広がる武家源氏の統治の基となるのです。
この秦氏の秦王国(合議制による都市国家)の流れは、明治維新での関東で、第十三代弾左衛門(弾左衛門は世襲名。全国の組織長による合議により選出される。)が、弾直樹と改名することにより、消滅するのです。
それまでは、江戸幕府とは異なる税制・司法により、関東の秦氏末裔の都市国家は運営されていたのです。それは、戦国末期から江戸初期にかけて、世良田部落出自の騎馬民族末裔の徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、「かわた・穢多」と賎民に貶められてイジメられていた、大阪にある秦氏末裔の部落から、その住民を、秦氏末裔の弾左衛門支配下の土木技術で開発した、エド(穢れ地→穢土→江戸)の地(秦王国最後の地)に移住させていたからです。しかし、その大坂(秦王国)から移住した秦氏末裔は、1623年百済の血が流れる第三代将軍徳川家光(第二代将軍徳川秀忠の実子ではない。明智光秀末裔お福(春日局)の子説がある。)により、江戸の地から北関東へ移住させられてしまったのです。しかし、秦氏末裔を支配する弾左衛門の役所は、浅草寺裏の新町(秦町)に留められたのです。でも、その屋敷は、堀を廻らされ、更に、仏寺に囲まれていたのです。
そのギリシャ・ローマ文化の秦王国の名残が、北関東で制作される人形に託されているのです。その人形とは、雛人形です。
騎馬民族末裔徳川家康は、関白豊臣秀吉に、1590年関東の荒川河口のひとも住めぬ湿地帯に移封されると、そこを秦氏末裔の高度土木技術で、宅地に変えてしまうのです。そして、そこに、大坂に住む秦氏末裔を移住させたのは、秦氏末裔には武具製作技術者が多く居たからです。
それは、秦氏末裔は、騎馬民族末裔であるから、牛馬の飼育は得意だったからです。その牛馬は、乗り物だけではなく、その皮や角は、武具や武器の原材料となったのです。ですから、唐が支配していた平安時代、唐は平安王朝に、牛の角を拠出するように命じていたほどです。その沢山の牛角は、遣唐使船で唐に運ばれていたのです。
その武器製造者として、関東のエドに移住させられた秦氏末裔は、三代将軍徳川家光により、エドから北関東に移封されてしまうのです。そして、その秦氏末裔が、移封された後に、今までと異なる雛人形が現れるのです。その雛人形には、武器を携えた武人が登場するのです。そして、内裏雛の「おひなさま」は、向かって右に鎮座し、その頭には、三本角の王冠があるのです。
京雛の内裏雛は、向かって右が内裏さまです。そして、おひなさまには、三本角の王冠はないのです。エドの雛人形と京の雛人形との差異は、一体何を意味しているのでしょう。
まず、座席の違いは何でしょう。唐に支配されていた平安王朝では、向かって右が高貴者が座すところです。何故、向かって右が上座かというと、騎馬民族は、出陣の時、左翼が先陣を切ったからです。
騎馬民族は、南の農耕民族と対峙すると、中央を司令部として、左翼と右翼に布陣するわけです。そのように、南面すると、日の出は、左側となります。ですから、出陣は左翼軍からなのです。そこから、左は、右よりも格上となったのです。
では、何故、エド雛は、向かって右の高座におひなさまが鎮座するのでしようか。それは、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)は、唐、高句麗、百済と異なり、女王国であったからです。
では、その女王の頭を飾る三本角の王冠は、何を意味しているのでしょうか。それは、ギリシャの王冠である、三本樹をデフォルメしたものであるのです。
第三百済王朝から、北関東に移封された武具製作者は、もはや武具を製作できなくなってしまったので、その武具製作技術を生かして、エド雛人形を製作していたのです。そして、そのエド雛人形に、騎馬民族秦王国のメッセージを込めたのです。
さて、唐が、907年に滅びることにより、平安王朝はどうなったのでしょうか。それは、武芸者から変身した武士の登場の他に、文化も変化したのです。それまでの平安文化とは、唐文化だったのです。それは当然で、平安王朝の実態は、唐のコロニーであったからです。
その変化のひとつは、新しい文字とそれによる物語の登場です。このことを、教科書歴史では、国風文化と表現しています。その新しい文字とは、かな文字のことです。
しかし、教科書歴史では、そのかな文字登場の由来を明確には述べてはいません。何故でしょう。それは、そのかな文字の由来を述べることにより、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトを知られてしまうからです。
良心的な歴史書では、かな文字は、空海により開発された、と述べているのです。しかし、それ以上のことは述べません。何故でしょう。それは、空海の出自は、佐伯部だからです。その佐伯部とは、その部名以前(713年漢字二文字表記の好字令以前)は、蝦夷と言われていたのです。つまり、空海の先祖は、蝦夷だったのです。
蝦夷とは、唐進駐軍が律令制度で支配した奈良・平安王朝による、前政権の蘇我氏末裔への蔑称です。その蝦夷とは、中国大陸で唐と死闘を巡らせた突厥帝国から渡来した民族であったのです。それが、飛鳥ヤマトを支配した蘇我王朝です。
しかし、645年唐進駐軍と中臣軍(後の藤原氏)により、蘇我王朝は壊滅し、そのオリエント渡来の飛鳥文化施設とともに、その書籍も焚書されてしまったのです。ですから、飛鳥ヤマト時代に使われていた文字を知ることはできないのです。
しかし、十九世紀末になって、モンゴル平原でオルホン碑文が発見され、それに書かれていた文字が、突厥帝国で使われていた文字であることが分かったのです。その突厥文字は、表音文字であったのです。
平安中期に登場したかな文字は、漢字の表意文字と異なり、表音文字です。突厥帝国から渡来した民族は、奈良・平安王朝により、蝦夷と言われていたのです。その蝦夷は、当然、表意文字ではなく、表音文字を使っていたはずです。そこで、その突厥帝国渡来の蝦夷が、漢字から表音文字を開発したことは、ありえることです。その根拠として、突厥文字の開発の流れは、突厥文字←ソグド文字←アラム文字(シリア文字)←フェニキア文字(アルファベット)の流れにあるからです。
907年唐が滅びたことにより、東アジアが動乱へ突入するのです。唐滅亡により、北東アジアでは、遼が周辺遊牧民族を結集させ、907年契丹を興すのです。その契丹が南下することにより、唐が支配した地は、分裂時代を迎えるのです。その唐滅亡の影響は、国際海洋交易を通じて、日本列島にも強く現れるのです。
唐が滅びた原因は多くありますが、そのひとつにイスラム帝国の興隆が考えられます。唐の経済を支えたシルクロード交易は、そのイスラム商人が支配することになってしまったのです。
それに対して、西欧の国際交易商人は、陸路ではなく、海路での交易を開発していくわけです。この海洋交易は、陸路交易と異なり、交易税を徴収するのに困難です。それは、陸路であれば交易路に関所を設ければすみますが、外来船の渡来を補足することが困難だからです。
交通税を徴収されにくい海洋交易は、アラブ(インド以西はペルシャと云われた。)から、インドを中継港として、中国大陸と頻繁におこなわれていくわけです。このことは、日本列島でも、例外ではありません。それまでは、南インドとの南海交易は、南九州の坊津を支配する藤原氏の独断状態だったのです。しかし、やがて、水銀や銀が産出する地域に隣接する伊勢湾へは、武装した護衛軍団に守られたアラブ(ペルシャ)の国際海洋交易商人が頻繁に訪れてくるわけです。
藤原氏は、唐進駐軍の勢力が衰えると、その祭祀儀式を利用した政治力(藤原の女)により、平安王朝へ食い込んでいくのです。そして、唐進駐軍が、日本列島を支配するためのシステム、701年大宝律令から始まる、律令制度を破壊していくのです。律令制度とは、簡単に述べれば、私有地をなくし、国有地にして、農奴に貸し与えて働かせて、各種の税により、合法的に「富」をむしりとるシステムのことです。そのためのトリックが、奈良時代の文武天皇(697年〜707年)から始まる、藤原氏が裏から支配する天皇制度です。
律令制度では、土地は全て天皇に属していたのです。ですから、天皇をコントロールしてしまえば、日本列島を支配したことになるのです。
藤原氏は、藤原氏を奈良に封印した桓武天皇による、その唐進駐軍が支配する、平安王朝を経済的に支える律令制度を破壊するために、荒地を開発した処を私有地として、唐進駐軍の後ろ盾が衰弱したため、軍事的に弱体化した平安王朝に認めさせるのです。その私有地が、荘園ということです。
その結果、奴隷を多く持つ藤原氏や寺社が、その奴隷を使って、荒地を開拓して荘園とするのです。しかし、当時、荒地は誰の所有物でもないため、混乱が起こるわけです。そこで、その解決に武力が使われていくのです。そこで、武士団の登場となるのです。
この荘園が発達していく日本列島の勢力図は、唐進駐軍が平安王朝を支配していた頃は、京都一極でしたが、武士団が登場した頃になると、大きく分けると三極化してくるのです。
それは、百済系日本人が支配する京都、藤原氏系日本人が支配する奈良、そして、新羅系日本人が支配する大坂です。それらは、それぞれ軍事組織の後ろ盾を持っていたのです。京都は公家桓武平氏、奈良は僧兵、そして、大坂は武家源氏の軍事集団です。
亡命百済王朝の京都を守るのは、亡命百済のツングース民族末裔です。ツングース民族の特徴は、ノッペリした顔で、髪の毛・ヒゲが薄いことです。公家桓武平氏は、武芸者末裔の武士ではなく、王族の側に武装して侍る「サムライ」です。漢語を読み書きできたため、治安業務の武闘ではなく、秘書業務が主な仕事であったのです。
藤原氏の奈良を守るのは、僧兵です。僧兵は、興福寺に集められた夙者から武力に優れた者に、中国的武器の薙刀で武装させていたのです。藤原氏(中臣族)には、南インドから渡来の軍団(後の薩摩ハヤト族)が存在していたのですが、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、810年藤原薬子の乱、そして、蝦夷末裔の武芸者(もののふ)が武士として王権から認められた、939年藤原純友の乱などで、その藤原氏の主要軍事部族は壊滅していたのです。
秦氏末裔の大坂を守るのは、武家源氏の武士集団です。何故、大坂が武家源氏発祥のひとつであるのかは、それは、嵯峨天皇の皇子が、源氏の賜姓を、814年に受け、その末裔源綱が、母方の淀川河口の秦氏の地に移り住んだことにより、その秦氏の地が源氏武士団発祥の地となったのです。
その河口に面した地は、エジプト・オリエント渡来の秦氏の地であるため、古代エジプト語の「ワタ・波の意味」から、「波の打ち寄せる地」の意味である「わたなべ・渡辺」と言われていくわけです。この源氏渡辺党は、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)からの渡来民族であったので、その大坂に至る前の地、古には「秦王国」があった北九州には、同族の源氏松浦党が興るのです。この松浦党は、水軍ですが、その祖は騎馬民族であったので、その組織運営は、ギリシャ都市国家の運営法と同じ、合議制であったのです。
この大坂の地は、後の源平合戦での、1185年屋島の合戦で、唐進駐軍に支援された平安王朝軍団の侵攻を最後まで阻止していた、蝦夷軍団棟梁源義経が、渡辺津から屋島へ向けて出陣した理由は、大坂渡辺津の武家源氏と陸奥国蝦夷とは、元は飛鳥ヤマトの蘇我王朝末裔であったからです。
ですから、武士は、俘囚の末裔(蝦夷)と言われているのです。つまり、武士のヒゲが濃い理由は、ツングース族末裔の「サムライ」とは異なり、武士(もののふ)の祖は、騎馬民族突厥帝国のチュルク族末裔とギリシャ・ローマ文化国の新羅(秦羅)末裔の、毛の薄いツングース族ではなく、多毛の蝦夷(=エビのようなヒゲのある夷)であったからです。

神輿の黙示録(21)(武士とサムライの戦い「2」:何故、役人の縄は不浄なのか)



日本人であるから、義務教育で日本史を学習していたから、日本の歴史を理解し、日本の歴史の流れのことはおおよそ知っている、と信じているひとが多く居るようです。
しかし、学校では、「サムライ」と「武士」の発生の違いを教えてはくれません。そして、オリエント文化の飛鳥ヤマトの史実も教えてはくれません。その代わり、歴史的にその実在性を証明できない、「聖徳太子」のことは、詳しく教えてくれるのです。それに伴い、「ぶつきょうでんらいごみや(538)さん」の呪文と同時に、飛鳥ヤマトは百済仏教文化発祥の地と、虚構の歴史を教えてくれるのです。
更に、1180年源頼朝の挙兵に始まる、源平合戦を、「源氏」対「平氏」の戦い、と教えているのです。史実は、源氏武士団を統率する源頼朝を傀儡とした桓武平氏末裔の北条氏と平家武士団との戦争が、源平合戦であったのです。つまり、源平合戦とは、「平氏+源氏」対「平家」であったのです。
その戦いで、源氏は白旗で、平家は赤旗を印としたのです。当然、平氏は白旗を印として闘っていたのです。ある歴史書では、平氏は赤旗を印として闘った、とあるほど、源平合戦の歴史は、作為的に歴史書で語られているのです。それは何故でしょう。
源氏の白旗は、源氏の祖は、突厥帝国軍とギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)の花郎軍団で、花郎軍団の軍神は、太陽神ミトラであったので、太陽のシンボルである「白」が、源氏武士団の印となったのです。
平家の赤旗は、古代海洋民族フェニキアの流れを汲む民族であったので、古代フェニキア商人はインドのベンガル地方と国際交易をしていたため、そのベンガラ染め(酸化鉄の染料)の赤衣を着用していたことから、平家は「赤」を平家武士団の印としていたのです。
では、平氏は、何色を印としていたのかは、不明です。平氏は、1185年源氏武士団に壊滅された平家の神を祀る厳島神社を、源頼朝の妻北条政子(尼将軍)が乗っ取ると、平家の歴史を簒奪して、それ以降、平氏は、赤旗を印とするのです。
平安時代の日本列島に、古代フェニキア商人の末裔やインド商人が渡来していたことを信じられないひとも多く居ることでしょう。それは、明治新政府による日本史教育の成果です。明治新政府は、古代エジプトやオリエントから渡来した民族による、国際的な日本史の実態を隠蔽するために、歴史を世界史と日本史とに分化させ、児童に「コップの中の日本史」を刷り込んだのです。
国際的技術の例のひとつとして、四世紀から出現する巨大古墳があります。その古墳には、古代エジプトの埋葬思想と同じに、石室と石棺があるのです。そして、その石棺の内寸は、古代エジプトの計測単位のキュビットで割り切れるのです。そして、相似形の古墳を岩手県以南に多く築造するには、紀元前300年エジプト王国で活躍した数学者ユークリッドの幾何学を知らなくてはできないのです。
インドから、飛鳥時代に藤原氏の祖中臣族が渡来したように、平安時代にも多くの民族が渡来していたのです。その根拠のひとつとして、四国の金毘羅様があります。この金毘羅様の祖は、インドのガンジス河の神・クビーラで、ワニのことなのです。このクビーラのワニ神は、海洋民族の神で、インドから海洋民族と供に四国に渡来していたのです。
海洋民族の残像は、祭りの山車に現れます。山車の祖は、船です。海洋民族は、祭りで船を引き回していたのです。それが、やがて車の上に屋台を乗せる「山車」となったのです。祭りで、山車が出る地域には、海洋民族末裔が多く住んでいたのです。その祭りでは、「赤色」が多く使われるのは、古代フェニキアのDNAが引き継がれているからです。
このインドから渡来の民族と供に渡来した思想により、江戸時代の第三百済王朝で、「役人の縄が不浄」となってしまうのです。その物語をこれから述べることにしましょう。
教科書歴史は実によく出来ていて、素直に呼んでいくと、日本列島史は、神代の国から九州に降臨した子孫が、四世紀の飛鳥ヤマトに大和朝廷を拓いて、そこを統治した天皇家が、万世一系で、単一民族の大和民族である農耕民族を統治して、今日まで続いている、と解釈できるのです。
そして、日本古来の神道が、538年伝来の仏教に、一時支配された後、再び、奈良時代に春日社を創建し復興したが、平安時代、再び、仏教側の本地垂迹説で仏教に取り込まれるが、二十年ごとに改築してきた天皇家を祀る伊勢神宮の神が、明治維新で復活して、今日に至る、と述べているのです。
しかし、その教科書歴史物語では、ユーラシアから渡来の騎馬民族の歴史がスッポリと抜けているのです。何故、騎馬民族の歴史が抜けているのかの理由のひとつには、自然の下に暮す騎馬民族には、遊牧生活のため土地に縛られることが無いために、先住民の土地を簒奪するために先住民の歴史を改竄し、そして、その歴史を簒奪する思想がないからです。しかし、理由はそれだけではありません。史実は、飛鳥ヤマトを統一し、「倭」から「日本」に改名したのは、チュルク(突厥)の騎馬民族に支えられた新羅系天武天皇であったからです。そして、日本初の天皇は、神武天皇ではなく、その天武天皇であったからです。つまり、騎馬民族の王国が、飛鳥ヤマトであったのです。この史実を抹殺するために、藤原氏や桓武天皇家により、色々な書物が創作されていたのです。
騎馬民族が基本的には歴史書をもたないことを良いことに、奈良時代に、南インドから渡来した中臣族末裔の藤原氏は、「日本書紀」「風土記」を編纂して、飛鳥時代の先住民の歴史を抹殺、または、改竄してしまうのです。
そして、平安時代、亡命百済貴族末裔の桓武天皇家は、藤原氏の「日本書紀」を改竄し、「続日本紀」「新撰姓氏録」を創作し、亡命百済貴族を日本国の皇室の祖とし、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝と同盟関係にあった、ギリシャ・ローマ文化国新羅の古代新羅語(漢字を使った表音文字)で読まれた「万葉歌」を、菅原道真にニッポン万葉語に改竄させて「万葉集」としていたのです。
つまり、ニッポン万葉語は、飛鳥・奈良時代ではなく、平安時代に完成したのです。このことにより、「古事記」は、712年完成ではなく、平安時代の812年であることが分かるのです。それは、「古事記」は、完璧なニッポン万葉語で記述されているからです。そして、その「古事記」を著したのは、「日本書紀」の講義を生業としていた、秦氏末裔多人長は、平安時代の万葉語学者であったのです。
そのような、藤原氏や桓武天皇家により、創作・改竄された、「日本書紀」「風土記」「続日本紀」「新撰姓氏録」「万葉集」を史料として、真の古代日本史を解明しようとしても、それは困難なことでしょう。それらの史料書籍には、先住民の騎馬民族の歴史が抹殺されているか、改竄されているからです。
日本列島史が、万世一系ではないことは、その朝廷の儀式の劇的変化により証明できます。それは、奈良時代までは、朝廷の儀式では、神は犠牲により祀られていたのです。犠牲とは、牛の屠殺です。つまり、奈良時代までは、「血の祭祀」により、神は祀られていたのです。
しかし、平安時代になると、804年牛の屠殺禁止を発令し、朝廷の儀式は、歌謡と舞により、神は祭られていくのです。そして、「血の祭祀」に代わり、空海が発明した真言密教のダキニの呪文と「火の祭祀・護摩」とにより桓武天皇家の神は、江戸末期まで祭られていくのです。
そして、奈良時代まで「血の祭祀」により、天武天皇家により祀られていた「伊勢の社」(後に藤原氏により伊勢神宮とされた。元は道教の観)は、平安時代になると、伊勢神宮の本地は、昆盧遮那仏となってしまうのです。
つまり、平安時代から江戸末期まで、伊勢神宮では、神道の神などではなく、仏教の仏を祭っていたのです。そのことにより、何故、伊勢神宮には、内宮と外宮が存在し、その仲がよくない理由が分かります。
では、奈良時代まで続いていた「血の祭祀」儀式は、平安時代には消滅してしまったのでしょうか。そうではありません。その儀式は、今日まで細々と続いているのです。それは、獅子舞です。
獅子舞には、中国の獅子舞と日本の獅子舞があります。しかし、その獅子の顔が明らかに異なるのです。中国の獅子舞の獅子の顔は、竜です。しかし、日本の獅子舞の獅子の顔は、竜ではありません。
では、日本の獅子舞の獅子の顔は、何を象徴しているのでしょうか。「獅子」とは、イノシシのシシで、「シシ」とは、野獣の総称です。平安時代に突然現れた獅子舞とは、平安王朝より貶められ、野獣踊り(シシ踊り)、と言われていたのです。そして、その獅子頭とは、ミトラ教での太陽の化身、牡牛の「牛頭天皇」を隠蔽しているのです。ですから、その獅子の顔は、竜ではなく、牛に似ているわけです。では、正統獅子舞での、胴体となる布の模様が忍冬唐草であるのは、何故でしょう。この獅子舞の歴史を辿ると、王権に隠された、騎馬民族の歴史が現れてくるのです。
獅子舞に使われる胴体となる布の模様の忍冬唐草模様とは、その発祥はどこなのでしょうか。その起源は、古代エジプトと言われています。
その唐草模様とは、蔦が四方に伸びるウコギ科キヅタの植物を図案化したものです。その古代エジプトで図案化された唐草模様は、紀元前五世紀の古代ギリシャのパルテノン神殿の、エンタシスと言われるアカイヤ式円柱の遺跡に認められます。この中央が少し膨らんだ柱、エンタシス柱は、日本の法隆寺の柱にも認められます。奈良の法隆寺が、ギリシャ文化渡来の北九州筑紫(秦王国)から移築された根拠のひとつが、そこにあります。
そのギリシャでの唐草模様は、アレクサンダー大王により、東方へもたらされ、ギリシャ文化を継承したバクトリアに至るのです。そのバクトリアでの唐草模様は、秦国を経て中国の呉国から朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅を経由して、九州筑紫に上陸するわけです。このことを裏付けるように、七世紀前期と思われる、宇佐八幡境内から発掘された軒平瓦には、唐草模様が描かれていたのです。その宇佐とは、古に秦王国があった地域だったのです。
唐草模様の渡来ルートは、七世紀前期九州筑紫←ギリシャ・ローマ文化国新羅←中国呉国←秦国←バクトリア←古代ギリシャ←古代エジプト、となるわけです。
では、その唐草模様のある獅子舞は、どのようなルートで渡来したのでしょうか。
平安時代に突然現れた獅子舞(平安王朝から野獣踊りと言われた。)は、河原者によりおこなわれていたのです。その河原者の祖は、奈良時代の祭祀者です。平安王朝に、秦氏の支配地の比叡山や、山背国(秦王国)の太秦の蜂丘(岡)寺などの「血の儀式」をおこなう祭祀場から、中洲の河原に追われた者が、河原者と言われたわけです。
その獅子舞の祖とは、神を祀る神楽であったのです。奈良時代では、神への芸は、伎楽と言われていたのです。伎楽とは、野外で仮面をつけて、歌謡や音楽に合わせて舞う芸であったのです。
この伎楽は、平安時代になると、俗楽と言われ、平安王朝は南方から渡来した舞を、平安朝廷の儀式で舞ったのです。その舞を、北方から渡来の俗楽である伎楽に対して、上品な音楽と言う意味で、雅楽と言ったのです。このふたつの舞の異なる背景により、「血の儀式」の奈良王朝と、「火の儀式」の平安王朝との民族の違いが理解できます。
では、奈良時代までおこなわれていた、仮面を付けて舞う、伎楽はどこから渡来したのでしょうか。それは、古代ギリシャからです。
752年天武王朝系聖武天皇が、奈良の都の支配を企む藤原氏と戦うための戦略として建立した、東大寺大仏開眼供養では、ギリシャ面・ペルシャ面を付け、雅楽ではなく、伎楽をおこなっていたのです。そして、そこに、宇佐八幡から来た信徒が神輿を担いだことは、 奈良の都は、未だ、藤原氏が支配する奈良の仏教組織が独占支配してはいなかった証拠です。
何故ならば、平安時代になると、奈良時代まで祭祀場で伎楽をおこなっていた祭祀者末裔は、平安王朝から、「七道の者」と差別されていくのです。
「七道」とは、仏教用語から派生した差別言葉です。仏教用語には、他民族や他宗教に対しての差別用語が沢山あるのです。大乗仏教が、他宗教に寛容になるのは、戦国時代に、仏教僧を欺瞞者と決め付ける織田信長により、仏教軍団が壊滅された後からです。
大乗仏教では、世界を六種類に分けているのです。輪廻転生のカルマで、庶民を脅すために、死後、生前の行いにより、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、そして、天道のいずれかに転生し、それを繰り返す、と説くのです。その六道輪廻から外れた者を、「七道の者」と差別するのです。この思想の元は、インドのバラモン僧が発明した四姓のカースト制度で、「七道の者」とは、アウトカーストの不可触賎民チャンダラー(施陀羅)のことなのです。
ですから、「七道の者」と仏教徒から差別された「伎楽」が、仏教と供に、シルクロードにより渡来した、と説明する教科書歴史には、疑問符がつくのです。
では、獅子舞の祖である伎楽は、どのようなルートで渡来したのでしょうか。そのヒントは、獅子頭が牛頭であることです。太陽神を祀るために牛を屠る、聖牛神儀式の流れは、ミトラ神信仰(古代オリエントの聖牛神儀式)→バール神信仰(古代イスラエルの聖牛神儀式)→蘇民信仰(ギリシャ・ローマ文化国新羅・秦羅)→牛頭信仰(飛鳥ヤマト)→伎楽(奈良時代)→野獣踊り・牛頭天皇(平安時代)→獅子舞(平安時代)、となるわけです。
その獅子舞には、映画の「鞍馬天狗」に登場する角兵衛獅子での舞子が鼓(つづみ)を腹に付けているように、獅子舞は鼓のリズムに合わせて舞うのです。その鼓の渡来ルートも、唐草模様・伎楽と同じルートで、日本列島に渡来しているのです。奈良の正倉院には、反藤原氏の聖武天皇の遺品が保存されています。そのひとつに、くれの鼓があります。その鼓は、角兵衛獅子での鼓と酷似しています。そのくれの鼓は、パミール高原のカフィール・カラーシュ族が使用していた物です。そのカフィール・カラーシュ族とは、アレクサンダー大王が東征の際での、ギリシャ屯田兵の末裔であったのです。そして、そのパミール高原は、ギリシャ文化継承国バクトリアの支配下にあった地域であったのです。
では、平安王朝は、何故、奈良時代の「血の儀式」から「火の儀式」に朝廷儀式を替えたのでしょうか。それは、平安王朝を実効支配する唐の意向があったからです。
唐は、北東アジアを支配していた、騎馬民族国東突厥帝国を、744年壊滅させると、日本列島に残存する、突厥帝国が支援した蘇我王朝残存軍の壊滅を目指したのです。そのために、蘇我王朝残存軍の食料と武器原料の枯渇を画策したのです。
食料の供給停止は、銭の流通廃止により、成功するのです。それは、騎馬民族は、自ら農耕せず、農耕民との銭による交易により、調達していたからです。
では、武器原料の供給停止は、どのような策をおこなったのでしょうか。
実は、牛馬は、それ自体が強力な武器であったのと、死しても、それは、武器の材料となったのです。動物の皮は、そのままにしておけば、その皮は、腐敗分解して土に戻ります。しかし、アンモニアと塩と大量の水により晒すと、その皮は、硬く板状になり、腐敗はしないのです。そのように鞣された「かわ」は、動物の「かわ」から「あらたまる」物に変化したため、革命の「革」の字で表わされたのです。因みに、毛の付いている「かわ」は、「皮」の字で表わされたのです。
それほど鞣された「かわ」は、古代では貴重品でもあり、武器の材料としてはハイテクであったのです。その革の生産手段のハイテク技術を持つ騎馬民族は、唐進駐軍にとっては軍事的脅威であり、壊滅すべき敵であったのです。そこで利用されるのが、「殺生禁止」の大乗仏教思想であるのです。
唐に軍事的支援された平安王朝は、藤原氏が支配する南都仏教を封じるため、インド渡来の大乗仏教で法華経を奉ずる天台宗を、秦氏が支配していた比叡山に持ち込むのです。そして、805年八ヶ月の唐留学僧最澄により、日本天台宗を創めるのです。そして、藤原氏により唐に送り込まれた錬金術師空海は、806年真言宗を創めるのです。
この日本天台宗と真言宗とにより、唐から持ち込まれた平安仏教思想が、後に、騎馬民族末裔を賎民として貶めていくのです。
この平安仏教は、江戸末期の大坂の商人富永仲基が述べていたように、紀元前566年(一説では紀元前463年)に北インドに生まれ、仏の道を説いた釈尊の教えとは、百八十度も異なる思想であるのです。
釈尊とは、釈迦牟尼世尊の略で、釈迦とは部族名で、牟尼とはサンスクリット語のムニの音写で「聖者」の意味で、世尊とは「釈迦の尊称」です。つまり、釈迦牟尼世尊とは、「シャカ族の聖者様」ということです。その釈尊の本名は、ゴータマ・シッダールタです。では、ブッダとは何かと言えば、それは「覚醒した者」と言う意味です。
紀元一世紀、ギリシャ文化を継承したバクトリアの後継地、国際都市ガンダーラで、ギリシャ風巻き毛のガリガリに痩せた仏像のブッダとは、釈迦牟尼世尊ではないのです。それは、釈迦牟尼世尊は、瞑想により悟りを得て、ブッダ(覚醒した者)になりましたが、ブッダ=釈迦牟尼世尊ではないからです。この世に、ブッダ(覚醒した者)は、七人存在した、といわれているのです。ブッダ=釈迦牟尼世尊とするならば、この世に七人も釈迦牟尼世尊が存在したことになってしまいます。
その釈尊は、バラモン教が発明した四姓のカースト制度思想のカルマから逃れるために、出家して非人となり、一切の経済活動から離れ、乞食し、非人として生を全うすることにより、そのバラモン教のカルマから逃れられる、と説いたのです。その教えには、殺生禁止、肉食禁止、血の禁忌などはなかったのです。それは当たり前です。非人とは、人間ではないからです。この世とあの世との間に暮すひとが、非人であるからです。
しかし、錬金術師空海が発明した日本密教は、その思想の基は、あの釈尊が否定した、バラモン教・ヒンズー教思想であったのです。その結果として、日本列島で始めて、「施陀羅」の差別語が登場するのです。施陀羅とは、バラモン教のカースト制度に属さない、アウトカーストの不可触賎民チャンダラーの漢語化です。
その空海は、藤原氏の「藤原の女」を使う謀略により、嵯峨天皇に接近し、そして、834年仁明天皇の御衣に加持祈祷したことにより、空海が発明した密教儀式が、桓武天皇家の儀式となり、江戸末期の孝明天皇まで続いていたのです。つまり、平安時代から江戸末期まで、桓武天皇家では、藤原氏の発明した中臣神道ではなく、バラモン思想を基に発明されたダキニ(インドの鬼女神)の呪文と、ゾロアスター教から租借した、拝火の護摩儀式により、祀られていたのです。
平安時代に、この空海が蒔いた騎馬民族差別思想の「施陀羅」の種が、第一百済王朝(平安時代794年〜1185年)で育てられ、第二百済王朝(鎌倉時代・北条政権1203年〜1333年)では、「施陀羅」から「穢多」に民族差別がバージョンアップされ、そして、第三百済王朝(江戸時代三代将軍徳川家光政権1623年〜十五代徳川慶喜1867年)で、第三百済王朝の手先となって生き延びる葬式仏教思想により、穢多身分はアウトカーストの賎民となってしまったのです。つまり、インドのバラモン教が、遊牧民族トラヴィダを賎民として差別するために発明したカースト制度そのままに、「士農工商、穢多非人」の制度となっていくわけです。
では、第一百済王朝で、空海が唐から日本列島に持ち込んだ、インドの遊牧民族を差別する施陀羅思想は、どのようにして育てられていったのでしょうか。
唐進駐軍と中臣軍とにより、645年飛鳥ヤマトの騎馬民族国の蘇我王朝が壊滅されると、唐進駐軍は、中臣族を籐氏(後に藤原氏となる。)とした傀儡政権を樹立して、694年藤原京遷都、710年平城京遷都、そして、藤原氏に替えて、亡命百済貴族末裔(桓武天皇)を傀儡として、794年平安京遷都とし、飛鳥ヤマトから近畿地域全域を制圧していくのです。
蘇我王朝は、騎馬民族国家であったので、当然仏教思想は受け入れられません。その受け入れられない理由のひとつに、死者の埋葬があります。騎馬民族では、勇敢に戦った死者は、再生すると信じられていたからです。ですから、死者は、木棺に収められ、「土葬」され、再生するまで永い眠りにつくのです。
しかし、大乗仏教思想では、死者は穢れで、死者は火により浄物(成仏)となるのです。ですから、大乗仏教思想が広まった平安時代では、死期寸前のひとは、息があるうちに家から外に放り出されてしまうのです。それは、死者となったら、それは「穢れ物」であり、その屋敷が穢れてしまう、と信じられていたからです。大乗仏教思想が、騎馬民族が動物の皮を剥ぐことを悪と言うのならば、息のある末期のひとを家屋から外に放り出してしまうことはどのように理解したらよいのでしょうか。
そのようなことからも、飛鳥ヤマトでは、仏教が盛んであったはずはないのです。では、どのような宗教が信じられていたのでしょうか。それは、北極星(太一)を祀る道教と、太陽を祀る景教です。つまり、飛鳥ヤマトでは、加持祈祷ではなく、犠牲(牡牛の屠り)により神を祀っていたのです。
神を祀るには、その民族が最も大切にしているモノが、犠牲となるのです。騎馬民族にとって、それらは牛馬であったのです。そして、それらの儀式で屠られた犠牲は、肉は食料となり、皮は鞣されて「革」となり、武器の素材となったわけです。平安仏教思想が広まるまでは、ミトラ教(景教)の牡牛の屠り儀式の意味が理解できなくなっても、旱魃で雨を降らせるために、牛の屠り儀式は、多くおこなわれていたのです。ですから、平安王朝は、何度も発令して、牛の屠殺を禁じていたのです。
その牡牛を犠牲にする儀式には、当然祭祀者がいるわけです。その祭祀者は、神を祀るために色々な芸を、祭祀場でおこなっていたのです。しかし、それらの犠牲儀式の芸をおこなう祭祀者は、唐進駐軍により、祭祀場から追放されてしまうのです。そして、その祭祀場は、徹底的に破壊され、その跡に、仏寺や神社を建立して、前政権の宗教施設を抹殺していくわけです。そのひとつの例が、秦氏が支配していた山背国(秦王国)の蜂丘(岡)寺が、平安時代に、仏寺広隆寺と変身して、そして、景教の祭祀者の秦河勝が、仏教布教を目指す「聖徳太子」の忠臣として描かれてしまうのです。そのことにより、後の多くのひとは、平安京には、飛鳥時代から、仏寺の広隆寺があった、と錯覚してしまうのです。
794年唐進駐軍により、近畿全域が制圧されたため、前支配者の蘇我王朝残党軍は、北の陸奥国を目指して落ち延びていくわけです。しかし、蘇我王朝での祭祀氏族達は、北に逃亡する術をもっていなかったのです。そこで、祭祀氏族は、王権により我等が神を封印されている神社に集まり、そこで、犠牲の儀式を平安王朝に封じられたため、舞踏と歌謡による「芸」をおこなうわけです。
その神社とは、負け組みの蘇我王朝側祭祀者には、聖域でも、勝ち組の平安王朝にとっては、怨霊が彷徨う、穢れ地であったのです。ですから、その穢れ地を囲うため、結界の印として、鳥居をたてるわけです。その鳥居以内は、穢れ地の異界というわけです。
この平安王朝に禁じられた牡牛を屠る儀式は、日本列島古来のものではないことは、「魏志倭人伝」によれば、倭国には、牛馬がいないと述べていることからでも理解できます。と言うことは、牛馬が日本列島に現れるのは、三世紀以降で、それは、古墳時代前期と考えられます。
日本列島(岩手県以南)全土に、三世紀後半から突然出現し、四世紀から五世紀にかけて巨大化する古墳については、「日本書紀」をはじめ、他の史料にも、その古墳の歴史の記述が乏しいのは何故でしょうか。それは、古代の歴史書を綴った民族と異なる埋葬思想を持った民族により、それらの古墳が築造されたからです。
そこで、簒奪王権は、その古代エジプト埋葬思想を持つ民族の渡来を隠蔽するために、巨大古墳は、天皇の墓であるとのトリックを考えだすわけです。しかし、少し考えてみれば、そのトリックの舞台裏はすぐ暴かれてしまうのです。それは、平安時代から江戸時代まで続く桓武天皇家では、死者は、真言密教で祀られていたからです。
奈良盆地にあった巨大古墳を破壊して築造された平城京で、藤原氏により発明された中臣神道、平安時代の錬金術師空海が発明した真言密教では、死者は穢れ物なのです。穢れ物(死者)は、火により燃やされて、穢れ祓いをされてしまうのです。それでは、古墳の石棺の存在意味が説明できません。古墳は、「死者は蘇る」、と信ずる民族の宗教施設であるわけですから。
石室・石棺を持つ古墳築造の埋葬思想の源は、古代エジプトです。その古代エジプトでは、短期間ではありますが、急激な宗教改革があったのです。その紀元前十四世紀、古代エジプトの宗教改革とは、アメンホテプ四世(=イクナトン・紀元前1377年〜紀元前1358年)により、多神教から一神教に、神が変身してしまったのです。
その神は、ヒッタイト帝国では、契約の神・太陽神ミトラと言われていたのです。しかし、ミトラ教の神は、三神で、日の出の太陽、天中の太陽、そして、日没の太陽であったのです。その三神のミトラ教から、唯一神・太陽神アトン(アテン)が、アメンホテプ四世により発明されるわけです。その頃のエジプトでは、占星術では牡牛座の時代だったので、太陽神アトンの化身は、牡牛となったのです。
この唯一神アトンは、ヒッタイト帝国出自のヨセフ族末裔により、カナンの地で、太陽神バールと変身してしまうのです。この太陽神バールを信じる十部族の民族は、アッシリア帝国に滅ぼされ、その太陽神バールは、元のオリエントのミトラ神にもどってしまうのです。
その太陽神ミトラは、12月25日の冬至に死を迎え、そして、その日に復活するのです。太陽神ミトラは、死と再生を永遠に繰り替えすことにより、死と隣り合わせの武人の神として、軍神ミトラとして変身していくわけです。このことにより、軍神ミトラは、各民族・部族により構成された傭兵軍団と供に、世界に布教されていくわけです。そして、ギリシャ・ローマ文化国新羅の花郎軍団により、日本列島に渡来するわけです。
やがて、ミトラ教の祭祀者は、冬至を待たずに、太陽神ミトラに願う儀式を発明するわけです。それが、人工的に再生日を創る、太陽の化身牡牛の屠り儀式です。その儀式では、牡牛は屠りの儀式で死を迎えることにより、太陽神ミトラは再生し、願いを叶えてくれるわけです。そして、その生血と生肉を食べることで、太陽神を体内に取り入れることにより、その儀式参加者は太陽神と一体になれるわけです。
紀元一世紀以降には、このミトラ教の儀式思想は、ユダヤ・キリスト教儀式に取り入れられ、12月25日がクリスマスとなり、生血と生肉が、赤ブドウ酒とタネナシバンとなるわけです。このことを、「新約聖書」では、最後の晩餐でキリストの言葉として、「これは私の血であり肉である。」と弟子に述べ、そして、キリストは、「私の血を飲み肉をたべなさい。」、と言ったと述べているのです。この最後の晩餐でのキリストの言葉を、「私」を「牡牛」に替えれば、それは、ミトラ教の屠りの儀式となるわけです。そして、三神のミトラ教思想は、ユダヤ・キリスト教では父と子と精霊の三位一体思想に変身してしまうわけです。
太陽神のミトラ教思想は、ユダヤ・キリスト教だけが取り入れただけではありません。その宗教組織の成立・教祖誕生奇跡物語・福音書物語と仏教経典が、ユダヤ・キリスト教ソックリの大乗仏教にも、ミトラ教の思想が取り入れられているのです。
ミトラ神が変身した菩薩が、大乗仏教にもいるのです。それらは、弥勒菩薩・大日如来・阿弥陀様です。弥勒菩薩は、弥勒菩薩←マイトレーヤ←ミトラ神の流れです。大日如来は、大日如来←ビ・ルシャナ仏←遍照鬼←ビロー・チャナ←ミトラ神の流れです。そして、阿弥陀様は、阿弥陀様←エジプトのアミ様←唯一神・太陽神アトン←ミトラ神の流れです。
阿弥陀様は、鎌倉仏教僧が、反平安仏教の騎馬民族末裔を入信させるために持ち出し、そして、広めた仏様(?)です。その阿弥陀思想が、仏教オリジナル思想として捻じ曲げられて布教されたため、平安仏教思想により不可触賎民(施陀羅→穢多)として貶められた騎馬民族末裔は、仏教軍団に取り込まれる結果となってしまうのです。
その阿弥陀様を祭る宗教組織では、「南無阿弥陀仏」と呪文を唱えるのです。仏教であるならば、当然「仏様」を祭らなければならないのに、何故、「南無阿弥陀仏」なのでしょうか。
「南無阿弥陀仏」とは、その原語は、「ナーモ・アーミ・ダーボー」で、その意味は、「阿弥陀様に帰依します。」です。では、その阿弥陀様とは、仏様なのでしょうか。それは、違います。阿弥陀様とは、古代エジプトのアミ様(太陽神アトン)であったのです。と言うことは、古代エジプトのアミ様を祭る宗教は、仏教ではない、と言うことです。ですから、反平安仏教の騎馬民族末裔は、その古代エジプトの神様であった阿弥陀様を祭る宗教組織に入信してしまったわけです。
ここに、藤原氏による、破戒僧親鸞をしての、武術に長ける騎馬民族末裔を、藤原氏が支配する浄土教軍団に取り込むトリックが明かされるのです。そして、戦国時代末期には、この浄土教軍団は、秦氏の支配地であった大坂(古の秦王国)の経済的支配を望むイエズス会傀儡軍団の織田信長と、十年に渡り対戦することになるのです。
皮肉なことに、この阿弥陀様を祭る宗教組織で語られる「太陽の教え」により、平安仏教組織に抹殺されてしまったミトラ教(景教)の、「民族平等思想」が明かされるのです。その太陽を祀るミトラ教の平等思想とは、

太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は誰にでも平等に分け隔てなく頂くことができます。その熱と光は無償で頂くことができるのです。太陽はご自分の身を持って私達人間に対し慈悲と愛を教えてくださいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践をおこなわなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことができるのです。

飛鳥時代から始まる、騎馬民族国家・飛鳥ヤマトでは、「太陽の教え」の平等思想により、多くの渡来異民族が、ミトラ教の祭祀者と供に暮していたのです。ですから、飛鳥ヤマトは、オリエント文化に溢れていたのです。その地の祭祀者は、困りごとが起きると、古代エジプトから伝承された儀式で牡牛を屠り、太陽神ミトラに願っていたのです。その宗教施設のひとつが、巨大古墳であったのです。
645年以降、仏教思想を掲げる唐進駐軍は、その宗教施設と供に、そのミトラ教思想を抹殺、そして、隠蔽するために、色々な工作をおこなっていくのです。そのひとつが、平安仏教です。そして、飛鳥ヤマトでのミトラ教(景教)や道教を歴史的に隠蔽するために、「聖徳太子」なる人物を発明するわけです。
その「聖徳太子」の活躍により、蘇我氏が補助して百済仏教を飛鳥ヤマトで広めたとする物語を創作するわけです。そして、実際は突厥帝国軍の軍人であるのを、百済出自の蘇我氏とし、その名前に、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蔑称を付けて、史実としては日本列島に天皇が現れたのが672年天武天皇からであるのに、蘇我馬子を架空の崇峻天皇暗殺者の大悪人に仕立て上げるのです。
その飛鳥時代でおこなわれた「聖徳太子」の事跡を、「蘇我馬子」に替えてみると、史実に近い飛鳥ヤマトの歴史が現れてくることでしょう。その根拠は、「蘇我氏」が支配する飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽するために、ヨセフ族直系のイスラエル民族の歴史を乗っ取るために、ヤコブ物語を創作して、そのヨセフ物語の前にそのヤコブ物語を挿入した、レビ族末裔のユダヤ民族による歴史改竄手法を真似て、百済仏教伝来物語を飛鳥ヤマト時代に挿入するために、「聖徳太子」は平安時代に発明された人物であるからです。
平安仏教の、騎馬民族の宗教を破壊するための武器は、空海が唐から持ち込んだ、施陀羅の差別思想と、そして、最澄が布教する「法華経」による、仏敵に対する仏罰である、仏罰者=ハンセン氏病者のキャンペーンです。
この平安仏教の攻撃により、祭祀場を、穢れ地の神社境内→中州の河原→路上へと追われた蘇我王朝での祭祀者は、「七道の者」として貶められ、そして、そのひとも住めぬ居住地を部落として、ハンセン氏病者の世話をさせられてしまうのです。その平安仏教の戦略は、騎馬民族末裔=ハンセン氏病者=仏罰者=穢れびと、として、騎馬民族末裔を不可触賎民施陀羅としてしまうのです。
そのような唐進駐軍を後ろ盾にした平安王朝は、前政権の祭祀氏族を賎民に落とし込めていくわけですが、そこに、奈良に封じ込められていた藤原氏が、本国唐の隣国吐蕃軍の侵攻や、北方のウイグル軍団の南下により、唐国内の治安が乱れたことにより、日本国経営が手薄になっていたのに乗じて、天皇の地位から外れた百済王朝二代目の平城上皇を藤原薬子がコントロールすることにより、百済王朝三代目嵯峨天皇の政治が乱れてしまうわけです。
810年の藤原薬子の乱により、801年坂上田村麻呂が蝦夷棟梁アテルイを騙して惨殺したことにより、陸奥国蝦夷を胆沢城以北に追いやって一息ついていた嵯峨天皇は、二つの敵と戦う破目になってしまうのです。
そのひとつは、九州坊津でアラブ・インドとの南海密貿易で富を蓄え、奈良の南都仏教を支配している藤原氏です。そして、もうひとつは、ダビデの王権を、正統な後継者ではないソロモンが不正な手段で奪い、そして、義兄弟や姻戚を謀殺したと同じように、百済王朝初代の桓武天皇(桓武天皇の父光仁天皇は、藤原氏の傀儡天皇)が謀殺した、新羅系天武天皇の最後の血を引く井上皇后・他部皇子母子と、桓武天皇の実弟早良親王の怨霊です。
平安王朝は、その出だしから地震・雷、そして、不審火により平安京は祟られていたのです。それは、桓武天皇に対する祟りであると、信じられていたのです。その祟りが恐れられていたのは、約50年前の奈良の都での祟りが、未だ鮮明にひとびとの記憶に残っていたからです。
752年に東大寺大仏供養がおこなわれた後、奈良の平城京では、奇妙な病が多発したのです。それは、実際は、大仏鋳造時での、銅の精錬による銅毒と、水銀アマルガム法の金メッキでの水銀毒とによる鉱毒中毒による、中枢神経麻痺であったのですが、当時では医学知識が乏しかったため、それらの鉱毒中毒は、平城京を建設するために、前政権の宗教施設であった巨大古墳を破壊したことによる祟りと、信じられていたのです。
そこで、嵯峨天皇は、前政権末裔による、御霊鎮めを、陸奥国から連行してきた蝦夷武人におこなわせるわけです。怨霊は、その臣下の者だけが鎮めることができる、と信じられていたからです。そして、その陸奥国の蝦夷武人とは、その元は、前政権の蘇我王朝を支えた、新羅花郎軍団と突厥帝国軍団であったからです。そして、ここに、王権により神社から追われた祭祀氏族と蘇我王朝軍団末裔とが再会するのです。
嵯峨天皇は、藤原氏の謀略の対策として、810年皇族を守るために蔵人所を設置するのです。そして、都の治安維持のために、816年検非違使を組織するのです。この検非違使は、云わば、治安警察組織です。そして、その検非違使の配下として、陸奥国から捕虜として連行してきた蝦夷武人を、公安警察としての怨霊鎮めの業務者として使うのです。
怨霊は、眼には見えないけれども、色々な現象を引き起こす、と信じられていたため、その公安警察業務は、天皇直轄の組織となっていたのです。ですから、天皇が行幸する時には、怨霊からの攻撃をかわし、そして、防ぐために、「キヨメ」として怨霊対戦用武具を開発するわけです。それが、鹿角を付けた冑、総革製の鎧、そして、突厥帝国軍の軍刀・蕨手刀の刃を引き伸ばした、片刃の反りのある「日本刀」であるわけです。
「キヨメ」とは、儀式用武具で武装した武芸者による、怨霊からの祟りを鎮めるための儀式であったのです。しかし、平安時代では、天皇を怨霊の祟りから護るための「キヨメ」が、鎌倉時代の第二百済王朝の北条政権下では、汚いものを清掃する業務とされ、「キヨメ」は賎民による汚物処理業務とされてしまうのです。
この怨霊鎮めのための、実戦には適さない、総革製の武具と、折れる、曲がる、刃毀れする刀で武装する武人が、後に、武芸者が、平安王朝の転覆を狙う平将門や藤原純友などの反乱軍を壊滅したため、王権より「実戦の武人」として認められることにより、「武士」となり、その怨霊鎮めの儀式のための衣装が後に、日本武士の正装となっていくわけです。
つまり、世界的に武具は実用品であるのと異なり、美術品のように美しい、きらびやかな鎧・角のある兜・反りのある片刃の日本刀で武装する、神を祀る武芸者から変身した日本武士の祖は、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配したギリシャ・ローマ文化国新羅の花郎軍団と突厥帝国の武人であったのです。
ですから、日本武士道と、ローマ騎士道とには、「忠誠心」「弱者擁護」の他に、その戦い方の儀式、名乗りを上げての一騎打ち等、が同じであるのです。この日本武士道の精神は、現在では、正統役座の任侠道に流れているようです。
「日本刀」が日本武士の魂である、と言うことは、日本刀は、実戦用ではなく、武芸としての怨霊鎮めの儀式用に開発されたものであるからです。では、日本武士の実戦武器はなにかというと、騎馬民族突厥帝国軍式の「弓馬」であり、ローマ帝国傭兵軍の武器であるロンギヌスの「槍」であるわけです。
平安時代中期に、蝦夷末裔の神を祀る武芸者から、実戦隊の武士に変身できた背景には、907年の唐滅亡が大いに関係していたのです。日本列島は、701年の大宝律令から平安中期まで、律令制度により、中国大陸を支配していた唐の影響下にあったのです。
その根拠として、飛鳥ヤマトの新羅系天武天皇は、道教思想により太一(北極星)を祀り政をおこなっていたのですが、686年天武天皇が崩御し、そして、694年百済系持統天皇が藤原京へ遷都してからは、仏教文化の唐と同じ儀鳳暦(唐では麟徳暦。唐の儀鳳年間に渡来したことで儀鳳暦と言われた。)により政(まつりごと)をおこなっていたのです。
中国大陸の王権は、天の命を受けて政をすることになっていたので、王権が交代すると暦法も替えることになっていたのです。日本列島に暦法が現れるのが、645年唐進駐軍と中臣軍とにより飛鳥王朝が壊滅され、そして、オリエント文化の飛鳥時代の歴史が百済仏教文化に改竄されてしまったため、692年の元喜暦からと云われています。
その元喜暦は、南朝宋で開発されたものですが、その後の、697年儀鳳暦、764年大衍暦、858年五紀暦、862年宣明暦までは、全て唐国が開発した暦法です。これらの唐の暦法により、奈良・平安時代から江戸初期まで、朝廷での政がおこなわれていたのです。そして、日本国初の暦法は、京都の第一百済王朝の政から独立した、江戸初期の第三百済王朝での、1685年幕府の属僚渋川春海が作成したものであったのです。
そして、奈良盆地は唐の漢字文化に支配されることにより、「日本書紀」は漢文で記述されていくのです。その表意文字の漢字文化にかわり、オリエントで発明された表音文字の「かな」の公への出現を許すのは、唐が滅亡して中国・唐文化の影響下から外れた平安中期であったのです。
唐の後ろ盾を失った平安王朝と平安仏教は、騎馬民族末裔の武士の出現により、その経済的基盤を脅かされていくのです。それは、奈良仏教が、庶民を護るためではなく、律令制度維持のための機関であったので、奈良仏教は官営により運営されていたのですが、平安仏教は「官営」ではなく、自らが営業により経費を稼がなければならなかったのです。その平安仏教の営業のひとつが、加持祈祷です。
平安仏教は、寺内に祭壇を設け、大麻を燃やして呪文を唱え、煙に巻くことで銭集めをしていたのです。しかし、神社境内で「芸」をおこなっていた、前政権の祭祀一族を、武力で路上に追い出したのが、平安京を祟る怨霊鎮めのために、陸奥国の蝦夷捕虜が、神社境内で武芸を行い、その武芸者が、反乱軍を鎮圧したため、武士として王権から認めてもらえたことにより、その同族である遊芸の者達が、再び神社境内に集まってくるのです。
このことは、平安仏教には脅威です。それは、その遊芸者とは、飛鳥ヤマトでの祭祀一族であったからです。そして、その祭祀一族の祖は、ギリシャ文化継承国バクトリア→秦帝国→ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)からの渡来者であったので、その芸には、ひとびとを魅了する演出力が継承されていたのです。
ギリシャ文化のバクトリアでは、言葉の通じない異民族の人民を楽しませるために、無言の仮面劇が発展していたのです。つまり、パントマイムの仮面劇ということです。その仮面劇の主なテーマは、神々の物語です。このギリシャ仮面劇は、やがて、その民族の東への移動と供に、中国へ渡来するのです。
中国は、道教思想が生まれたように、神仙世界に憧れる傾向が強い国です。ですから、そのギリシャ仮面劇は、中国で、儺面劇(ヌオミエン・げき)となり、ギリシャ神話のストーリーが、悪魔や疫病を祓うものに変化してしまうのです。そして、その面を付けると、人間界と霊界と神界とに繋がることができると、信じられていくのです。
それらのギリシャ仮面劇や神仙思想の儺面劇の演出技術が、日本列島にもたらされるのです。その仮面劇は、騎馬民族末裔源氏武士が支配した室町時代に、オリエント渡来の秦氏末裔の世阿弥により、幽玄世界を演出する、能面(のうめん)を付けた舞による能楽となるのです。その能楽の祖が、飛鳥時代に山背国(秦王国)を支配した秦河勝であったのです。
秦河勝は、「日本書紀」の仏教伝来物語では、百済仏教布教に貢献したとされる「聖徳太子」の忠臣で、弥勒菩薩を安置するために広隆寺を建立したことになっているのです。その秦河勝によるオリエント渡来の神を祀る芸である秦楽(バクトリアから渡来したギリシャ仮面劇が祖→伎楽)が、平安時代には、王権により、賎民による「猿楽」と貶められていくのはなぜでしょう。そして、京都太秦には、その秦河勝の墓はなく、河内国讃良郡太秦(寝屋川市)にあるのはなぜでしょう。
この河内国讃良郡太秦には、弥生中期の高地性集落遺跡(太秦遺跡)が発掘されているのです。そして、偶然発掘された古墳群は、5〜6世紀頃のものと推測されるのです。
その5世紀以前の河内地域は、陸地ではなく、淀川と大和川が流れ込む湾に隣接した湿地帯であったのです。その河口が陸地になるのは、淀川治水工事で茨田堤を構築することによるのです。そして、その淀川上流の京都の山背国が湿地帯から陸地になるのは、桂川の灌漑工事と葛野大堰の築造によるのです。
これらの、秦氏に縁のある淀川河口湿地帯と山背国の湿地帯を、居住地に変える大規模土木工事には、高度土木技術と鋼鉄工具を必要とするのです。では、これらの高度土木技術はどこからもたらされたのでしょうか。
それらの大規模治水工事がおこなわれた、5〜6世紀に、3世紀後半から日本列島に出現した古墳は、巨大化しているのです。そして、その巨大化した古墳では、鉄器製鉄技術を持つ騎馬民族スキタイの墓墳形式である小山墳の石積木郭墳ではなく、巨大石材建築技術と大運河削掘技術を持つ古代エジプトの埋葬形式である石室に石棺が納められていくのです。そして、その石棺の石材は、九州阿蘇産が多く使われていくのです。このことから、秦氏は、九州から河内に渡来した民族であると示唆されます。そして、その九州には、中国大陸と同じ高度文化を持った秦王国があったのです。
これらのことから推測されるのは、秦氏の出自は、平安時代に第一百済王朝が亡命百済貴族を日本国の皇族とするために創作した「新撰姓氏録」によれば、五世紀に弓月国から渡来し、機織の技術集団となっていますが、実際は、ギリシャ文化の芸能技術だけではなく、古代エジプトの高度土木技術とヒッタイト帝国の製鉄技術(突厥語トトラ→タタラ製鉄)を持った技術集団ではなかったか、と言うことです。
その国際性を示すように、秦河勝の墓がある大坂は、河内湾に突き出た上町台地に発展するわけですが、その上町台地は、古代では河内湾の岬であったのです。その河内湾には、奈良盆地の三輪山の麓のツバキ市での朱砂交易のために、大陸との国際海洋交易のための湊が建設されていて、その湊は浪速(ローラン・後の難波)←朝鮮半島・楽浪(ローラン)←シルクロード国際都市・楼蘭(ローラン)、と呼ばれていたのです。
6世紀の難波(浪速・ローラン)については、「日本書紀」の仏教伝来物語では、疫病神の仏像が、物部氏により、「難波の堀に捨てられた。」と記述されている処です。「日本書紀」の記述が正しいとすれば、6世紀の難波は、大陸から渡来の仏教文化の強い処であったようです。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、その仏教色の強い難波津(浪速津)に対抗して、その対岸の岬(後の上町台地)に造られた津は、「ワタナベ津」と呼ばれていくのです。その「ワタナベ」とは、古代エジプト語で、「ワタ」は波で、「ナベー・ナベ」は、小高い丘で、その意味は、波が打ち寄せる小高い丘で、「岬」ということです。ですから、渡辺津とは、「津」とは船が接岸できる湊ということですから、「岬の湊」の意味となるわけです。
794年、唐進駐軍に支援された亡命百済王朝により、景教(ミトラ教)の牡牛を屠る儀式をおこなって、山背国(秦王国)・比叡山を支配していた秦氏一族は、戦国末期藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、関東の荒川・利根川河口の湿地帯に追われた徳川家康一族のように、以前の居住地であった淀川河口の渡辺に追放されるのです。
この山背国から追われた秦氏が、景教徒(ミトラ教徒)である証明は、その秦氏の渡来元のギリシャ文化国バクトリアの国教は、ミトラ教であったからです。ユーラシア大陸における、そのミトラ教の布教経路にある祭祀場遺跡では、多くの牛骨が出土することが報告されています。それは、ミトラ教の儀式では、太陽の化身の牡牛は、太陽神を祀るために屠られる、犠牲の聖牛であったからです。
大坂・河内でも、奈良時代の遺跡といわれる長原遺跡から牛骨が出土しています。しかし、室町時代以降は、牛骨の出土は見られなくなるのです。それは、古代から革が貴重な武器素材であるように、プラスチックのない室町時代の中世でも牛骨は貴重な武器素材であり、また、農耕のためにその骨粉は貴重な肥料となるからです。
仏教を祭る平安王朝により、淀川の湿地帯に追われた秦氏一族は、同族の武士の出現により、再び神社境内で、生活の糧を得るために民衆に芸を披露することができるわけです。今度は、平安王朝も平安仏教も手足を出せない状況にあるからです。それは、唐が滅んだことにより唐進駐軍が壊滅したことと、同族である武士の武力支援があるからです。
武芸者や遊芸者は、前政権の神を封じ込めるために建立された神社境内で、怨霊は闇に現れると信じられたため、かがり火を焚いて、角のある冑・きらびやかな総革製の鎧・美術品のような日本刀による怨霊鎮めをおこない、それらが、近隣のひとびとを集めるパフォーマンスとなるわけです。それに続いて、遊芸者の、伎楽による仮面劇があり、牡牛をデフォルメした獅子頭とエジプト渡来の唐草模様の布で覆った獅子舞の演出は、現在の祭りに通じます。
ひとびとが集まれば、そこには当然、経済活動が生まれます。遊芸者は、元は祭祀者であったわけですから、ひとびとの悩みの種を解消する対象となります。これは、平安仏教の加持祈祷の営業を妨害します。更に、その神社境内が、バザール化して物流が盛んになると、寺門前での商売に影響を与えます。
この神社境内での、秦氏のビジネスを阻止するための手段のひとつに、平安末期の1017年頃、本地垂迹説が発明され、穢れ地の神社境内は、平安仏教の支配地となってしまうのです。ここに、前政権の神を封じ込めていた神社が、仏を祭る神社に変身してしまうわけです。この本地垂迹説のトリックの呪縛から解放されるのは、明治時代まで待たなくてはならないのです。つまり、教科書歴史で、神社は日本古来の神々を祀っていた処と教えていますが、実際は、神社境内が穢れ地の異界から、神聖地域となるのは、平安末期からなのです。
唐の滅亡と供に、日本列島を支配していた唐進駐軍が壊滅した理由は、唐の軍団は、722年より傭兵制で組織されていたからです。ですから、軍人は、傭兵軍長には忠誠を示すけれども、唐国には、忠誠心を示さないからです。賃金が支払えない唐などには、傭兵軍は忠誠など示すはずはないのです。そのような兆候は、唐の国力が衰えてきた九世紀半ばの、律令制による班田制の崩壊と、荘園の発達に現れていたのです。
日本列島での律令制は、701年大宝律令が始めですが、それは、人民を土地に縛り付けて、税を収奪するためのシステムであるわけです。その収奪のトリックとして、天皇制があるわけです。天皇家の土地で、働くことができることにより、人民は生活できる、とされるわけです。
そこで、農耕をしない騎馬民族は、唐のコロニーである奈良王朝では、「穢れ者」であったのです。奈良時代の穢れとは、平安時代の騎馬民族を穢れとしたのとは異なり、奈良王権に従わない者を示していたのです。それは、官営の奈良仏教は、地獄世界と穢れ思想を平安貴族社会に布教し、そして加持祈祷のマッチポンプ営業で私服を肥やす平安仏教と異なり、王権を護るための組織であったからです。平安仏教には、祭祀氏族、そして物流を得意とする商業民族でもある騎馬民族末裔の秦氏一族は、商売敵でもあったのです。
907年唐が滅びたことにより、平安王朝により、奈良に封印されていた藤原氏は、摂関政治を利用して、平安王朝を牛耳り、私有地である荘園を拡大していくわけです。そのひとつに、南九州坊津がある島津荘があります。藤原氏は、その島津荘でのアラブ・インドとの南海密貿易により、財を成し、平安王朝の京都を護る桓武平氏の「サムライ」達を、源氏「武士」を雇い入れて、北関東へ追いやるのです。
平安王朝を摂関政治で牛耳る藤原氏により、その北関東に追いやられた桓武平氏末裔が、千葉氏、上総氏、三浦氏、秩父氏、大掾氏、そして、後に、平安王朝を支配していた藤原氏から支配権を武力で乗っ取った、ペルシャ(アラブ)系軍団末裔である「平家」を滅亡させるために、弓馬に優れた源氏軍団の棟梁として源頼朝を担ぎ出した、北条氏の「サムライ」達であったのです。
唐の滅亡により、平安王朝を支えていた軍事力が衰えていくと、奈良に封じ込められていた藤原氏は、摂関政治を利用し、そして、武家源氏の武力を利用して、敵対氏族を滅ぼしていくのです。
藤原氏により、901年には菅原道真、そして、969年には安和の変で、源満仲の密告により公家源氏源高明を謀略で滅ぼすことにより、朝廷での敵対氏族は全て抹殺されてしまうのです。それにより、藤原道長一門の栄華の時代を迎えるのです。
藤原氏は、摂関政治で朝廷を、そして、地方の荘園豪族を支配するため、宗教組織を系列化する目的で、967年延喜式を施行するのです。そのひとつが、宗教組織の序列化です。宗教組織をピラミッド化することにより、中央が末端を支配する構造です。
自然神を祀る宗教であれば、宗教組織の系列化は難しいのですが、仏教や神道は、ひとが言葉により創り出した人工神を祭る宗教ですので、人間社会と同じに序列化にすることが可能なわけです。ここに、仏教と神道の宗教組織が系列化し、人間社会と同じに、頂点に立つ宗教組織の命令により、神仏が地方に転勤することが可能となるわけです。
しかし、自然神を祀る宗教は、そのシステムを受け入れることができません。そこで、王権は、その自然神を祀る宗教組織の抹殺を図るわけです。
前政権の宗教を抹殺する基本的手段は、前宗教施設の破壊です。しかし、施設を破壊しても、その思想を破壊することが出来ません。そこで、前政権の宗教思想を抹殺するために、新しく宗教物語を創作して、その前政権の宗教思想を取り込んでしまうのです。
例えば、538年百済仏教伝来物語がそうです。その物語では、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏を登場させるわけです。そして、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたことにより、百済仏教は、飛鳥ヤマトで布教された、とするわけです。しかし、その蘇我氏・物部氏は、その頃には存在しない氏族であったのです。その訳は、二文字漢字での、人名・地名表記は、713年好字令によるからです。ですから、仏教伝来物語の登場人物は、史実の人物や氏族ではないのです。
仏教伝来物語に信憑性がないのは、飛鳥ヤマトでの伝来仏教布教に深く関わった厩戸皇子(後の聖徳太子)と女帝推古天皇が活躍していたとされる時代に渡来した、608年隋使の報告書には、難波津から大運河により船で都まで行き、「都で男王に謁見した。」、とあるからです。つまり、飛鳥ヤマトに女帝推古天皇が存在しなければ、その摂政の厩戸皇子(聖徳太子)も存在しないことになるのです。そして、その仏教伝来物語から、厩戸皇子(聖徳太子)を消去してしまうと、その仏教伝来物語のストーリが成立しなくなるのです。
では、蘇我氏・物部氏とは、誰なのでしょうか。それは、蘇我氏とは、北東アジアを支配していた突厥帝国の軍事氏族であり、物部氏は、河内地方を支配していた、オリエントから渡来していた秦氏一族であったのです。飛鳥ヤマトを支配していた、突厥帝国軍事部族と、それを、船が航行できる大運河や馬車が疾走できる幅十二mの直線道路を建設して、技術支援をしていた秦氏一族の史実を抹殺した物語が、仏教伝来物語であったわけです。
京都を支配する藤原氏も、飛鳥ヤマトの景教・道教を抹殺したように、ギオンの神を抹殺するのです。それが、祇園祭りです。
平安仏教思想が、貴族社会から庶民に浸透すると、庶民は死者は穢れている、と信じ込んでしまい、死者を粗末に扱うわけです。その頃の仏教には、庶民の死者を葬る思想もなれけば、庶民の死者を弔うこともなかったのです。ですから、死者は、ケガレ物として投棄されたのです。その投棄場は、川と谷です。地獄谷の名称がある処は、死者の投棄場であることが多いのです。
京都地域では、川へ死者を投棄したのです。そのひとつに、賀茂川があります。賀茂川に死者が投棄され、そして、死体が集まる河原が、やがて、髑髏ヶ原とよばれていくわけです。そこは、京の賀茂川東岸で、その髑髏ヶ原は、やがて、髑髏原(ドクロハラ)→六波羅(ロクハラ)と名称がかえられていくのです。それは、その葬送地に、伊勢からの集団が住み着いたからです。その集団は、国際海洋商業民族であったのです。やがて、その集団は、祀りを始めるわけです。その祀りの神は、インドのヒンズー教の神、牡牛を聖獣として祀るわけです。このインド渡来の祀りに、比叡山に祭祀場を設けていた前政権の祀りが加わるのです。そして、その祀りの神は、牛頭天皇と呼ばれていくわけです。そして、その牛頭天皇の祀りには、魔多羅神が登場するのです。その七月に行われる牛頭天皇の祀りは、京の貴族には、疫病神であったので、ケガレから逃れるために、その祀りの期間は、貴族達は神輿違えと言って、京の街から避難していたのです。
では、この祇園祀りは、誰によりおこなわれていたのでしょうか。それは、アラブ・インドから伊勢に渡来した国際海洋民族と秦氏末裔であったのです。インドの聖牛祀りに、秦氏のミトラ神が習合したものが、祇園祀りの原型だったのです。
しかし、その祀りも、平安王朝により、抹殺され変形させられてしまうのです。牛頭天皇は、牛頭天王に、そして、その神を祀る処は、祇園社(ヒンズー教寺院)←祇園感神院(仏寺)←八坂神社、となってしまうのです。そして、ヒンズー教的な祇園祀りの疫病神的性格は、牛頭天皇(魔多羅神→ミトラ神)が祇園天神となり防疫的利益の祭り、と摩り替わるわけです。
そして、王権は、その賎民の祀り思想を抹殺・隠蔽するために、ユダヤ教の、表の門に羊の血を塗る「過ぎ越しの祭」ソックリの、腰に茅(血)の輪(門)を付ける、「蘇民将来物語」が創られるのです。(唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族と、太陽神「バール→ミトラ」と牡牛「牛頭」を祀るイスラエル民族とは、異民族。)そして、八坂の祭りは、粽(ちまき)を食べる祭りとして、今日に至るわけです。
平安王朝は、そのようにして、アラブ・インドの祀り、そして秦氏のミトラ教の祀りを、抹殺・隠蔽できたと思っていても、それから四百年後の戦国末期、疫病神の牛頭天皇を氏神とする、そして、先祖の墓が垣内にある織田信長には、その仏教組織が髑髏が原(六波羅)で住民を賎民のケガレ者としてイジメていた記憶を引き継いでいたのです。
つまり、高僧を焼き殺し、そして、比叡山の僧侶全員を斬首した織田信長の先祖は、髑髏ヶ原(六波羅)に勢力を張った、アラブ・インド渡来の「平家」末裔であったからです。戦国末期、織田信長の仏教僧にたいする残虐行為の原因は、平安時代にあったのです。
907年唐進駐軍が壊滅したため、平安王朝を支配下にした藤原氏は、再び、奈良仏教の京への進出を企てるのです。しかし、そこには、今までになかった新興の宗教組織があったのです。それが、アラブ・インド渡来のギオンの神を祀る、国際海洋交易民族の興隆となるわけです。
唐進駐軍の後ろ盾を失い、桓武平氏の「サムライ」を京から追い出された百済王朝は、藤原氏の暴虐を黙ってみていたわけではありません。1086年白河上皇は、藤原氏の摂関政治に対抗して、院政を始めるわけです。
摂関政治とは、百済天皇家に、新嘗祭の後におこなわれる五節の舞により、藤原の女を娶らさせ、その藤原氏の血が流れる子供を天皇にして、その藤原氏の孫天皇をコントロールする政治システムです。
その藤原氏の摂関政治に対抗する、院政とは、百済天皇家の実子に天皇の位を譲り、天皇が上皇となり、その実子天皇を、上皇がコントロールする政治システムです。このことにより、藤原氏の摂政の横槍を排除できるわけです。
この院政システムは、藤原氏に大打撃を与えることになるのです。それは、白河上皇は、天皇領の回復のために、荘園禁止令を発令したからです。そのことにより、藤原氏が、勝手に荒地を開墾することができなくなり、私領の荘園を拡大する戦略が頓挫してしまうのです。
そのような摂関政治と源氏武士団により、朝廷を牛耳っていた藤原氏を差し置いて、強行政治を行えたのは、白河上皇には、新興の武士団がいたからです。その武士団が、ギオンに勢力を張る、平正盛から始まる「平家」です。後に、伊勢からギオンに勢力を張る「平家」の興隆は、907年唐の滅亡によるのです。
唐が滅亡すると、中国大陸は、分裂時代を迎えるのです。その唐の滅亡の原因のひとつが、シルクロード交易を、武力で支配したサラセン帝国の興隆です。そのことにより、唐は陸路による国際交易の利益が得られなくなり、経済が疲弊したため傭兵軍の士気が落ちることにより、周辺の部族が大挙して唐国を襲ったのです。つまり、唐はシルクロードの交易権をサラセン帝国に奪われてしまったため、滅びたのです。
そこで、唐とヨーロッパとの交易をおこなっていた国際交易商人は、陸路から海路へと交易方法を替えるのです。
960年中国大陸の分裂時代を終わらせたのが、宋です。宋が中国大陸を軍事支配し、そして、経済が安定化すると、そこには、アラブ・インドの海洋国際交易商人が大勢押し寄せてきたのです。それは、宋(960年〜1126年)は、北面する騎馬民族・遼(916年〜1125年)に対抗するために、国力を強くするために、宋銭を多量に発行して、アラブ・インドとの国際交易を盛んにしたからです。
そのアラブ・インドの国際交易商人は、宋に交易基地を創設すると、唐が平安中期まで経営していた日本列島に、交易先を広げていくわけです。それは、日本列島には、金・銀・銅・水銀・朱砂・真珠・医薬品の原料の宝庫だったからです。
しかし、南インド・マラバル沿岸から渡来していた藤原氏の先祖は、南インドと中国大陸との交易のために、北九州坊津→種子島→雑賀→根来→奈良の都へのルートを、古くから開発していたのです。
そこで、南九州に上陸できないアラブ・インドから渡来の国際交易商人は、九州南端から黒潮に乗り、更に北上して、伊勢湾にたどり着くわけです。その伊勢湾は、南方の椰子の実が漂着するように、古代から南方民族の渡来地であったのです。その伊勢湾の沿岸地帯は、古代から国際交易地でもあったのです。それは、そこでは、国際交易品である朱砂、真珠が採れたからです。
伊勢地域は、水銀鉱脈がある中央構造線上に位置していたため、奈良の宇陀、三輪山麓のツバキ市との交易地でもあったのです。その証拠に、奈良の箸墓古墳からは、東海製の土器などの埋蔵物が多く出土しているのは、伊勢の先住民は、伊勢から中央構造線の窪地を通り、奈良盆地まで交易に出かけていたからです。
アラブ・インドから渡来し、そして、伊勢に住み着いた国際交易商人は、瞬く間に、平安京の葬送地の髑髏ヶ原を占領するのです。それを可能にしたのは、宋から持ち込んだ多量の宋銭です。
794年騎馬民族系天武天皇家を壊滅し、秦氏の支配地の山背国(秦王国)を乗っ取った、唐に支配された百済系平安王朝は、騎馬民族末裔を支援する秦氏の再興を阻止するために、神社境内のバザールでの交易を阻止するために、銭の使用を禁止するのです。
そのために、平安王朝は、西国では「米」を、東国では「絹」を貨幣代わりに使わせたのです。このことにより、通貨経済に長けた騎馬民族・農耕地を持てない秦氏末裔は、自然と暮す思想を持っているため、自然の摂理に逆らう農耕をしないため、食料品が銭と交換できないため、生活が疲弊してしまっていたのです。
しかし、907年、平安王朝を支配していた唐が滅びることにより、土地本位経済を支えていた律令制度が、藤原氏の陰謀により破壊され、私領の荘園が発展していくわけです。その荘園は、やがて、藤原氏が雇った源氏武士の武力により、王権からの不入地となっていくわけです。そのように、藤原氏による摂関政治により、平安王朝の百済天皇家の全国の土地は、徐々に、藤原氏に横取りされてしまうわけです。そこで、百済系白河上皇は、藤原氏が雇う武家源氏に対抗するために、伊勢の国際交易商人と同行して渡来した、葬送地の髑髏が原を拠点とする、アラブ・インドの武装軍団を私兵とするわけです。その白河上皇の私兵の棟梁が、平正盛となるのです。
この頃の日本列島の各部族の勢力地を眺めると、関東を拠点とする桓武平氏を擁する百済系の京都、南九州島津荘の南海密貿易で財力を蓄える藤原氏の奈良、河内の湊と北九州松浦を結び朝鮮半島・中国大陸との海洋交易で栄える新羅系源氏武士の河内、蘇我王朝軍団残党が支配する陸奥国、そして、アラブ・インド南海交易で栄える伊勢に勢力を張る「平家」の六波羅、となるわけです。
教科書歴史では、「平家」を「伊勢平氏」とし、平氏一族のように記述していますが、伊勢に勢力を張る「平家」と、関東に勢力を張る「平氏」とは、異なる民族により構成された武力集団だったのです。
「平家」は、鼻が大きく、ヒゲが濃く、眼が大きく、肌色が浅黒い、アラブ系の特徴をもっています。それに対して、「平氏」は、鼻が低く、ヒゲが薄く、眼が細く、肌が黄色の、ツングース系の特徴をもっています。
思想的にも、「平家」と「平氏」とは異なります。鎌倉時代初期に、「平氏」の女棟梁北条政子の謀略により、源氏頼朝三代一族抹殺後に、源氏の八幡信仰(新羅・秦羅の神様=太陽神)から、「平家」の厳島神社信仰に乗り換え、「平家」の宗教思想を、「平氏」に取り込んだため、「平家」は仏教系と思われていますが、それは、違います。
平安初期、京都・平安王朝の軍事組織のひとつとして、「桓武平氏」が登場したのです。そのため、平安王朝を支える宗教組織の比叡山延暦寺は、「平氏」とは友好関係にあったのです。つまり、「平氏」は、反仏教ではないのです。
しかし、「平家」は、反仏教なのです。そのひとつの例として、1167年、平清盛は太政大臣となり、平安王朝を乗っ取ると、今までは伊勢に接岸させていた宋の貿易船が、福原の湊に接岸できるように、大和田の湊を築造する時に、従来でしたら人柱を埋めたのに対して、何と、人柱の代わりに、仏教徒の精神的支えである「仏典」を埋めてしまったのです。つまり、国ッ神に対して工事の無事を願うための人柱となるのは奴隷ですから、平清盛は、「仏典」を奴隷と同じと考えていたようです。
1170年、その平家による、宋との貿易都市の福原で、平清盛は、宋の貿易商人を後白河法皇に引見させていたのです。この一般人が法皇と引見したことは、日本史上、前代未聞の珍事であったのです。それほど、平清盛は、平安王朝を私物化していたのです。
更に、平清盛の子重盛は、源氏武士でも畏怖する「神輿」に矢を射掛けたり、奈良の興福寺、東大寺に火をつけ、1180年、全焼させていたのです。
そのように、「平家」が、仏教思想に、敬意も畏怖も抱かないのは、仏教を信仰する「平氏」とは異なり、反仏教であったからです。それは、「平家」は、日本の平安仏教思想の本質と、そのトリックを見抜いていたからです。
「平家」の先祖は、アラブ・インドから渡来していたので、インドの宗教思想に熟知していたのです。ですから、平安王朝の百済系桓武天皇家を祀る儀式は、錬金術師空海が発明した真言密教によりおこなわれていたのですが、その空海が発明した、ダキニ呪文の密教儀式は、インドのバラモン教・ヒンズー教の教義・儀式を真似たものだったからです。
更に、空海が発明した曼陀羅に登場する大日如来(ビロー・チャナ)を筆頭とする無数の神仏群は、殆んどが、バラモン教やヒンズー教の神や鬼神であったからです。そして、ブッダの言葉を記述したと云われる無数の「釈尊の思想と百八十度異なる仏典」も、紀元前五世紀の釈尊の言葉などではなく、ギリシャ文化継承国バクトリア文化を引き継いだ、国際交易都市ガンダーラで、紀元一世紀前後に、文殊の徒が創作した作文であることを知っていたからです。
平安時代、そのようなインドのバラモン教やヒンズー教の神や鬼神を、仏寺に仏像として祀る日本仏教には、アラブ(ペルシャ)系「平家」は、敬意も畏怖も抱くことは無かったのです。ですから、仏典を奴隷代わりに人柱として埋めたり、神輿に矢を射掛けたり、そして、仏像と供に仏寺に火をつけて、全焼させていたのです。
そして、「平家」が、「平氏」と異なり、遅れてきた渡来民族であることは、「平家」には、「平氏」と異なり、苗字がないからです。苗字とは、例えば、「足利左馬頭源朝臣尊氏」とすれば、足利が苗字です。そして、左馬頭が職名、源が氏名、朝臣が姓、そして、尊氏が諱(いみな)の実名ということです。しかし、「平家」の武人には、「平氏」にはある、その土地名から派生した苗字がないのです。
苗字とは、名字で、その名字とは、荘園名のことです。私有地の荘園は、国衙領の天皇家の支配地と異なり、武力でその支配地を管理しなければならなかったのです。ですから、その私有地である荘園に名前(名田)を付けて、所有権を主張していたのです。やがて、その私有地の荘園名が名字となり、その名字は、「足利氏」のように、その支配者の名前の苗字となっていくわけです。
平安時代中期、唐進駐軍の後ろ盾がなくなり、律令制度を支えていた公地公民の、全ての土地と人民は天皇家のものである、との中華思想は、摂関政治の藤原氏により、破壊され、私有地の荘園制が確立されると、その後に、氏名の他に、苗字が現れてきたのです。その苗字を、「平家」がもっていないことは、「平氏」には北条氏、三浦氏などの名字(苗字)があるのとは異なり、「平家」の日本列島への渡来が、私有地制度確立後にあったからです。
荘園の土地の所有を表明するために、土地の名前を一族の名前とした名字(苗字)は、遅くとも、奈良時代の743年よりの私有地制度(墾田永世私財法)の芽生えによるのです。つまり、このことから、743年以降に「平家」の先祖が、アラブ・インドから日本列島の伊勢に渡来したことが示唆されるのです。
アラブから伊勢に渡来した、「ペルシャ平家」が、正盛、忠盛、清盛の三代で、平安王朝を乗っ取れたのは、河内源氏の興隆を快く思わなかった藤原氏により、河内源氏抹殺の陰謀があったからです。
939年〜941年、平将門と藤原純友の反乱軍を武力で鎮めた、陸奥国蝦夷の武芸者は、平安王朝より、「武士」と認められたことにより、検非違使の公安警察の賎民としての配下から、「武士」として朝廷警護の職を得るのです。
その武士の戦闘能力を利用したのが、私領を増やすために、平安王朝の乗っ取りを企む、奈良の都を支配する藤原氏であったのです。その武士集団は、同族の秦氏末裔が暮す河内に集結すると、源氏武士団として勢力を増していくわけです。
その武士の先祖は、陸奥国の蝦夷で、その蝦夷の先祖は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の、騎馬民族の突厥帝国軍事部族であったのです。そして、その蘇我王朝を支えたのが、オリエントから渡来の、技術部族連合の秦氏一族(河内の秦氏は、後に、「日本書紀」により「物部氏」として改竄される。)であったのです。
907年唐が滅びると、河内の湿地帯は、秦氏による古代エジプトの土木建設技術により、瞬く間に、中国大陸、朝鮮半島との、国際交易湊・渡辺津として発展していくわけです。そして、中国大陸からの交易品は、神社ネットワークの物流センターにより、全国各地の八幡(やはた)・稲荷(じゅが←つか)神社境内のバザールで売り捌かれていくのです。
しかし、奈良時代までは、飛鳥ヤマトの奈良盆地を中心に幅十二mの直線幹線道路網が、飛鳥ヤマトのガラス器工場や鉄器工場からの製品を中国大陸に輸出するために、日本列島に張り巡らされていたものが、百済系桓武天皇の平安王朝になると、唐進駐軍に支援された桓武天皇家により、道幅が十二mから六mに狭められたのは、平安王朝に敵対する騎馬軍団の活動を阻止するためと、騎馬民族の馬車による物流システムの破壊が、主な目的のようです。飛鳥時代に馬車が使用されていたと推測されるのは、古代高速道路に轍(わだち)の跡が確認されているからです。
奈良時代までに、全国に張り巡らされていた馬車による古代高速道路の物流ルートは、平安王朝により破壊されてしまいましたが、「武士」が登場する平安時代中期以降、各地の八幡・稲荷神社を拠点として、物流ルートが復活するわけです。
八幡・稲荷神社とは、現在では、「はちまん神社」、「いなり神社」と言われていますが、実際は、オリエントから渡来の秦氏の神(ミトラ神=太陽神)が、祠に祀られている古墳・塚(土の家=墓・つか→じゅが→稲荷)を隠蔽・抹殺するために、簒奪王権により建てられたものであったのです。
平安時代中期、その秦氏の物流センターである神社境内は、仏教組織が神社を支配するためのトリック思想の本地垂迹説により、仏寺の配下となっていましたが、秦氏の同族の「武士」の出現により、仏教勢力は手出しが出来なくなってしまったのです。それは、秦氏による、神社境内でのバザールは、「武士」の武力で護られていたからです。
しかし、神社境内のバザールが、仏教勢力による営業妨害から、「武士」により護られていたものが、源氏頼朝三代が抹殺された鎌倉時代になると、「武士」から、「役座」に代わってしまうのは、桓武平氏の北条氏の陰謀により、「武士・源氏」が「サムライ・平氏」に敗れたからです。
教科書歴史では、鎌倉時代は、源氏武士の時代と教えているようですが、それは違います。鎌倉時代は、平氏の時代なのです。この亡命百済移民末裔の平氏が支配する鎌倉時代に、江戸時代での、「役人の縄が不浄である。」との思想が形成されていくのです。
何故、鎌倉時代に、「武士」が、「サムライ」に敗れたかの遠縁として、平安末期の藤原氏による、河内源氏武士団壊滅の陰謀が考えられるのです。
平安中期、陸奥国から京への蝦夷捕虜が、桓武天皇を呪う怨霊鎮めのために、角のある冑、派手な総革製の鎧、美術品のように美しい怪しい光を放つ片刃の刀の非実戦的武器で武装し、仏教思想では穢れ地の神社境内で、剣舞の武芸者として振舞っていたものが、唐進駐軍が消滅したのを見透かして起こした天慶の乱の朝廷反乱軍を武力で鎮圧したため、「武士」として朝廷から認めてもらったことにより、蝦夷の同族が住む河内は、中国・朝鮮半島との国際交易により、繁栄していくわけです。それに乗じて、藤原氏の私兵として雇われていた河内源氏武士集団の勢いも全国的に増していくわけです。
藤原氏は、摂関政治と河内源氏の武力により、百済天皇家の領地を、荘園経営の名目で簒奪していくわけです。その百済天皇家の経済を支えるものに、陸奥国の金山があるのです。
平安初期、唐進駐軍と桓武天皇軍が陸奥国の蝦夷討伐に懸命だったのは、ひとつには、桓武天皇の母国百済を滅ぼした、新羅(秦羅)から渡来の蘇我王朝軍を構成していた新羅花郎軍団末裔と、東アジアを支配していた突厥帝国軍末裔の壊滅があったのです。そして、もうひとつの目的は、陸奥国に眠る金の簒奪であったのです。陸奥国は、古来から、鉄、琥珀の他に、砂金の大産出国でもあったのです。
そこで、摂関政治で平安王朝を乗っ取った藤原氏は、河内源氏の武闘力を利用して、陸奥国を支配している蝦夷末裔の阿部氏、清原氏の壊滅を目指すのです。
その金が産出する陸奥国支配のための侵略戦争が、1051年の前九年の役、1083年の後三年の役であるわけです。前九年の役では、阿部氏が滅び、そして、後三年の役では、清原氏が滅び、陸奥国は、藤原氏の支配地となってしまうのです。ここに、源平合戦で、「平家」壊滅のために、蝦夷末裔の源義経を使い捨てにした奥州藤原氏が興るわけです。
この出羽・陸奥国侵略戦争で活躍した河内源氏には、陸奥国だけではなく、関東の豪族からも荘園を寄進され、その結果、西国を勢力圏としていた源氏の支配地は、千葉氏や北条氏の平氏支配地の東国へと広がり、その西国発祥の河内源氏の勢力が、日本列島全土に広げられようとしていたのです。
それらの関東地方豪族の目的は、荘園を源氏棟梁に寄進することにより、河内源氏の支配下の「源氏武士」となることです。この西国を支配する源氏の東国進出に対しても、平安王朝、藤原氏と同様に、関東平氏も脅威を感じていたのです。
この河内源氏の興隆に脅威を感じたのは、平安王朝だけではなく、河内源氏の雇い主の藤原氏も、同感だったのです。それは、645年以前は、近畿一帯を中心に全国に広がる古代高速道路網の遺跡が示すように、飛鳥ヤマト時代は、騎馬民族が支配者であったからです。
そして、摂関政治の藤原氏が支配する平安王朝には、中国・朝鮮半島との国際交易により経済発展し、そして、武器の素材となる牛馬を飼育する河内の源氏武士の興隆は、飛鳥ヤマト時代の騎馬民族支配国・秦王国の再興に思えたからです。
そこで、藤原氏が支配する平安王朝は、1091年源氏棟梁源義家への荘園寄進を禁ずるのです。そして、翌年、1092年には源義家が荘園を設立することも禁じるのです。しかし、平安王朝の度重なる荘園設立禁止令を発しても、河内源氏勢力の勢いは止まらなかったのです。そして、ついに、1098年陸奥国蝦夷末裔の俘囚と言われた「武士」の源義家は、朝廷より昇殿を許されるのです。
そこで、摂関政治で平安王朝を支配する藤原氏は、全国制覇するほどの勢いのある河内源氏を壊滅するための戦略を練るのです。それが、1156年の保元の乱と、1159年の平治の乱だったのです。
その藤原氏の戦略は、結果的には、反藤原氏の白河上皇の私兵の「平家」を増長させてしまうのです。
保元の乱・平治の乱が画策される五十年前、1108年白河上皇は、藤原氏の私兵の河内源氏を牽制するために、謀反の罪をきせた源義親を、白河上皇私兵の平正盛に討たせていたのです。そして、源義親の首を掲げて京の都に凱旋する平正盛を白河上皇が出迎える、という演出をして、葬送地であるギオンを根城とするアラブから渡来の賎民末裔私兵である「平家」の格上げをおこなっていたのです。
そして、1129年白河法皇が崩御し、その子鳥羽上皇の、1132年には平正盛の子平忠盛は内昇殿を許される身分に格上げされているのです。そのように、反藤原氏の百済天皇家の私兵「平家」は、宋銭と「ギオン女御=あそびめ」により着実に、武力と共に政治力も増していたのです。 しかし、藤原氏は、「平家」の実力を、関東を支配する天皇臣籍降下賜姓の「平氏」と異なり、賎民私兵軍団と見くびっていたのです。
その藤原氏による、全国制覇の勢いのある河内源氏抹殺の戦略は、源氏軍団を二分して、弱い方に味方して、最初に「強い源氏一族」を抹殺し、後に、味方した「弱い源氏一族」を殲滅する、と言うことです。この「夷を以って、夷を制す」の藤原氏得意の戦術は、日本史のあちこちで確認できます。
保元の乱の戦いでは、天皇側(後白河天皇)には平清盛、源義朝、そして、院側(崇徳上皇)には源為義、源為朝で合戦がおこなわれ、私兵軍団の平清盛軍団が、河内源氏主力軍団を壊滅するわけです。
何故、武闘力が優れた河内源氏主力部隊が、新興私兵軍団に敗れてしまったのでしょうか。それは、源氏の闘い方の思想によるのです。
源氏軍団の先祖は、新羅花郎軍団(「花」とは、「ミトラ」の借字)と突厥帝国軍団です。その新羅花郎軍団は、太陽神ミトラを軍神としているのです。その新羅花郎軍団の先祖は、ロンギヌスの槍を武器とするローマ帝国傭兵軍であるのです。
ローマ帝国傭兵軍の軍神は、太陽神ミトラです。その軍神ミトラは、敵軍と自軍の境に降臨し、自軍に力を授けてくれるのです。しかし、万が一敗れた場合、正義のもとに勇敢に戦った戦士には、軍神ミトラは再生を約束してくれるのです。
ですから、死者を不浄のケガレ物として燃やしてしまう仏教思想は、勇敢な死者は再生すると信じる武士には、受け入れられないものだったのです。このことからも、騎馬民族支配の飛鳥ヤマトで、仏教が盛んであったとする「日本書紀」の記述の信憑性が疑われるのです。
飛鳥ヤマトに仏教が興隆するのは、645年騎馬民族の軍神・太陽神ミトラ(景教)を信仰する蘇我王朝が、630年北東アジアを支配していた東突厥帝国を逸散させた唐帝国軍の勢いを借りて、唐進駐軍と中臣族軍により壊滅された後であるのです。その飛鳥ヤマトのオリエント渡来の信仰世界を隠蔽するために、山背国蜂丘寺の景教寺や飛鳥ヤマトの道教の観を徹底的に破壊してその跡に、日本最古の木造建築と云われる法隆寺をはじめ、北九州の秦王国にあった多くの仏寺が、唐進駐軍と中臣族(後の藤原氏)により、飛鳥ヤマトを中心として近畿一帯に移築されたのです。
その前政権の宗教施設・思想隠蔽手段のひとつとして、720年「日本書紀」での、物部氏(廃仏派はウソ、実際は太陽神を祀る景教信仰の河内を支配した秦氏)と蘇我氏(崇仏派はウソ、実際は北極星信仰の突厥帝国軍部族)とによる、厩戸皇子(後の聖徳太子)が活躍する仏教伝来物語が著されたのです。
「日本書紀」の神話により孤島日本列島のイメージを刷り込まれてしまったひとには、ローマ帝国傭兵軍末裔が日本列島に渡来していたことを信じられないことでしょう。しかし、西の果てのローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西に分裂)と、東の果ての後漢(紀元25年〜紀元220年)とは、シルクロード交易により繋がっていたのです。97年には、後漢は、甘英をローマ領に派遣していたのです。その後、166年には、ローマ帝国の使者が、後漢を訪れていたのです。
その後の、東西交流は歴史上消えてしまいますが、356年朝鮮半島で、ナムル王により建国された新羅(秦羅)は、ギリシャ・ローマ文化国家であったことは、慶州の石積木郭古墳の埋葬品の数々で証明されています。そして、朝鮮半島南端では、ローマ帝国傭兵軍騎士の馬を武装するための馬冑が発掘されているのです。その古墳埋葬物から推測されるのは、五世紀末から六世紀初期の埋葬品である、と言うことです。
そして、そのローマ帝国傭兵軍騎士の馬を武装する馬冑が、日本列島の和歌山県の紀ノ川河口の大谷古墳からも発掘されているのです。大谷古墳からの馬冑は、六世紀初期と推測されているのです。「日本書紀」によれば、飛鳥ヤマトに蘇我稲目が、突然大和朝廷の大臣として歴史上に現れたのが、530年となっているようです。
これらの事から角冑・派手な鎧・片刃の刀で武装する日本武士のルーツとしては、紀元一世紀・ローマ帝国→紀元二世紀・中国・後漢→紀元四世紀・朝鮮半島・新羅(秦羅)→527年北九州筑紫への侵攻(「日本書紀」では、磐井の反乱と記述)→紀元六世紀・日本列島・紀伊半島紀ノ川口上陸→530年・飛鳥ヤマト・騎馬民族の出現→645年騎馬民族国の蘇我王朝壊滅→飛鳥ヤマトから新羅花郎軍団・突厥帝国軍団が撤退→陸奥国・蝦夷の出現→九世紀・蝦夷捕虜が京で怨霊鎮めの武芸者となる→941年天慶の乱後・武芸者から武士→武家源氏の誕生、への流れです。
そのようなローマ帝国軍の騎士道精神を、新羅花郎騎士道より引き継いだ源氏武士は、太陽神を祀る武芸者であることを自覚しているため、戦場で、太陽神・軍神ミトラに聞こえるように大声で名乗りを上げ、正々堂々と闘うのです。
そして、その戦闘時期は、太陽神である軍神ミトラが守護できる、昼間でしかおこなわなかったのです。それは、軍神ミトラが、勇者の戦いを見守れるのが「昼間」であるからです。しかし、アラブ渡来軍団の末裔である武力集団としての「平家」には、祭祀者の武芸者を先祖に持つ源氏武士団のような武闘信仰はありません。
「平家」末裔の織田信長の得意の戦術、「夜襲」「奇襲」「集団戦術」は、源氏武士団の闘い方のルールに反するものだったのです。そのような、「平家」の夜襲・奇襲・集団戦術により、保元の乱で、神社での武舞による怨霊鎮めをおこなう祭祀者である武芸者の流れを継ぐ、河内源氏の主力部隊は壊滅してしまうのです。そして、保元の乱で、平清盛と天皇側に付いて生き残った源氏源義朝には、もはや戦闘主力部隊はいないのです。
かくして、平治の乱では、保元の乱で同盟者であった平清盛により、源氏棟梁源義朝は敗れ、その子源頼朝は、「平氏」の支配地である関東の伊豆へ配流となるわけです。そして、後に、源頼朝は、「平氏」の北条氏により源氏棟梁として担がれ、京の平安王朝を乗っ取った「平家」殲滅のために利用されてしまうのです。
平家清盛軍団を軍事援助し、河内源氏を二段階で滅ぼした、保元の乱、平治の乱の陰謀により、西国河内を中心に勢力を張っていた源氏一族・郎党抹殺に成功した藤原氏は、平家の平清盛の実力を知ったときには、既に、日本列島の湊は、南九州坊津を除いて、アラブ・インド国際海洋民族末裔である「平家」一族の支配下にあったのです。
平家の平清盛は、後白河天皇を傀儡として、平安王朝を乗っ取ると、宋国の商人と貿易を盛んにするわけです。そのために、福原の大和田の湊を整備し、そこを平家の物流センターとして、宋から輸入した奢侈品を、宋銭(宋銭はアラブでも流通する国際通貨)を媒介にして地方の荘園豪族に売り捌くことにより、出羽・陸奥国を除く日本列島を席巻していくわけです。
この平家の宋国との独占交易に脅威を感じたのは、古来から南インドと密貿易をおこなっていた南九州坊津を支配している藤原氏だけではありません。そのひとつに、比叡山延暦寺があったのです。延暦寺は天台宗の寺で、その天台宗は中国山東半島に本社があったのです。その本社である中国天台宗寺と支社である比叡山延暦寺とは、平安初期から交易をおこなっていたのです。
一般的常識では、大乗仏教の僧は、苦しむ庶民を救済するために、広く世界を股にかけて布教の旅をしていた、と信じているひとが多くいるようですが、それは、大乗仏教布教の一面を見ているに過ぎません。史実は、大乗仏教布教の路は、庶民とは無縁な奢侈品の交易路でもあったからです。
紀元一世紀、ギリシャ文化継承国バクトリア文化を引き継いだ、国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の仏典布教の真の目的は、苦難にある梵語も漢語も理解できない異国の難民の救済であったのでしょうか。
仏教関係者が記述した書物では、異国での大乗仏教布教の真の目的を知ることができません。しかし、田村圓澄氏著書「古代朝鮮仏教と日本仏教」に、その異国での大乗仏教布教の裏面を記述してある一文があるのです。

朝鮮半島および日本の場合と共通していることが二つある。第一に仏教は王都を目指してきたことであり、第二に既存の道によって伝来したことである。仏教は出世間の教えであった。釈迦の生涯が示すように「出家」とは世俗を捨てることである。したがって出世間の教えである仏教は、人跡まれな深山幽谷や、あるいは絶海の孤島に向かって進んできたように思われるが、しかし、中国の場合も仏教は王都を志向している。そして王権と接触し、貴族層の支持をえて伽藍は造営された。出世間の仏教が、王権にたいする接近について積極的であったのは仏教の内部矛盾の観がある。しかしこの事実を除外視しては、漢訳仏教圏の仏教を語ることはできない。

異国異民族との国際交易の歴史は、紀元前三千年のエジプトとシュメールにみられます。古代エジプトでは、神殿を管理する神官が交易船を所有していたようです。そして、古代シュメールでは、神官が交易品を管理する神殿経済がおこなわれていたようです。
古代では、宗教施設で交易をおこなっていたようで、異国異民族との交易をおこなう商人の発生の流れを逆に辿ると、商人←委託販売人←御用商人←宮廷の交易代理人←官人←神殿管理者の神官、となるようです。では何故、神殿が異民族との交易に関わったのでしょうか。
言葉も通じない異文化に暮す民族との物と物との交換は、危険が予測されます。それは、他民族の生産品を得るには、武力が伴う略奪により調達していた時代があったからです。そこで、知恵者が考えた異民族との取引が、沈黙交易です。
沈黙交易とは、言葉を使用せずに、身の安全と相手の動向を良く観察できるように、取引所は見渡しの良い平原あるいは平地で、交換する物品を所定のところに置き、異民族が互いに納得できる交換量を出し合うことにより物々交換おこなう交易のことです。この交易方法は、騎馬民族が、各地から交易品を持ち寄り、平原でおこなうバザールとして受け継がれています。
弥生・古墳時代、日本列島奈良盆地の、国際交易品の朱砂の交易地の三輪山麓のツバキ市に、建築建物の遺跡が確認できないのは、正に、そのツバキ市が、異民族による沈黙交易場の「平地」であったからなのです。
しかし、ひとには無限の欲があるため、その沈黙交易も時にはトラブルも発生するわけです。そこで、知恵者が考えたことは、絶対権力者である「交易の神」の発明です。そして、その交易の神の下でおこなわれ、一度決定した交易は、後には覆すことができないルールを考え出したのです。
この交易の神の記録的始めは、紀元前十四世紀のヒッタイト帝国でのミトラ神のようです。その根拠は、異民族との交易の記述を示した粘土板にミトラの名が刻まれていたからです。
交易の神が見守る、その交易をおこなう広場のある建物は、ギリシャ、エジプト、オリエントでは、やがて、神殿と呼ばれ、その神殿交易を管理する者が神官と呼ばれていくわけです。
紀元一世紀、その交易方法がシルクロードにより東方へもたらされるわけです。中国では、その交易の神が見守る平原の所定の処を、「廷・テイ」といったのです。その廷は、やがて、支配地内の広場となり、その「廷」が「庭・テイ」となるわけです。
中国では、律令時代になると、その神が見守る「廷」で、王が朝礼をおこなう機関が、「朝廷」と呼ばれていくわけです。
オリエントでの交易所の神殿は、中国では「寺・ジ」といわれるのです。ヤマト言葉では、「寺」は、「てら」と読まれますが、「ジ」と「てら」とは意味が異なります。
ヤマト言葉の「てら」とは、死者が眠る処です。しかし、中国での「寺・ジ」は、「てら」ではなかったのです。では、中国の「寺」では何がおこなわれていたのでしょうか。
中国での寺の発生は、西域から渡来の僧侶と旅人がもたらす物品の検査をする、関税所のような雑務所であったのが始めです。その寺で、西域からの多くの僧や商人が渡来するため、「寺」で関税の事務処理を日夜おこなうために、宿泊施設が寺に築造されるのです。その宿泊施設を持つ寺に、多くの僧侶が仏典や仏像を持ち込むことにより、やがて、寺は渡来商品仏具の貯蔵所となっていくわけです。ですから、中国の寺(ジ)は、「てら」ではないため、死者が眠る墓地はないのです。
その中国の「寺・ジ」が、仏像・仏典と共に日本列島に持ち込まれたのですが、「寺」が「てら」になるのは、鎌倉時代の中国から、ヨーガと仏教が習合した禅宗の葬儀儀式の渡来以後であったのです。
厳しい修行で命を落した禅宗僧を弔うために、禅宗では敷地内に墓を設けていたのです。江戸時代に、大乗仏教も、この禅宗の葬儀形式を導入し、イエズス会信者のホーリーネームを真似して、戒名を販売する、葬式仏教として今日に至っているのです。
飛鳥時代末期、日本列島に渡来した仏教の寺は、死者を弔う施設ではなく、交易品を貯蔵する砦であったのです。ですから、寺は、盗賊の略奪から交易品を護るため、川堀を廻らし、更に、土壁の塀を廻らし、耐火のため瓦葺であるのです。
例えば、仏教僧を欺瞞者と決めつけ、比叡山の僧侶全員を斬首した、反仏教者の織田信長が、1582年爆殺された本能寺などは、仏を祀る寺などではなく、正に、輸入品販売のための倉庫であったのです。
もし、本能寺が、仏を祀る仏寺であったのであれば、反仏教の織田信長は、本能寺を京の出城として使ってはいないはずです。それは、織田信長の先祖の海洋民族の平家末裔が、鎌倉時代、仏教僧により、騎馬民族の源氏末裔と共に、仏教の敵の賎民穢多としてイジメられていたからです。
戦国時代末期、織田信長の比叡山延暦寺壊滅の目的は、先祖平家の怨を晴らすためだけではなかったのです。それは、平安仏教組織により、平家末裔が賎民に落され、更に、寺の門前や神社境内でおこなう商売を、支配されていたからです。更に、仏教組織は、寺社領を通過するには、賎民商人からも通行税を徴収していたのです。
その近畿一帯の賎民商人を支配していた頂点に、比叡山延暦寺が君臨していたのです。その比叡山延暦寺を、1571年織田信長軍が焼討ちにより壊滅したことにより、比叡山延暦寺僧兵軍団も壊滅するわけです。その結果、寺門前や神社境内で商売する賎民商人達を武力で支配できなくなり、それらの平安仏教組織が支配していた、寺門前の市や神社の座が、自由商売の地である、「楽市楽座」となるわけです。つまり、極悪非道と仏教組織から言われる織田信長は、比叡山延暦寺焼討ちにより、仏教組織支配経済から、賎民商人を解放したのです。
では、戦国末期の本能寺の実態は何だったのでしようか。実際に、本能寺は、法華教軍団が比叡山延暦寺の軍団と闘うための砦であったのですが、延暦寺軍団に敗れ、本能寺が廃墟となったところを、藤原氏が交易品貯蔵所として改装した寺であったのです。そして、その本能寺は、藤原氏が支配する南九州坊津→種子島→雑賀→根来→本能寺ルートにより、南海から密輸入した鉄砲・火薬を所蔵する施設となっていたのです。
平安時代末期、比叡山延暦寺と奈良の興福寺とは、平家清盛の宋交易独占の他に、更なる平家のビジネスに対して、脅威を感じていたのです。それは、京の都と比叡山との間のギオンの遊郭と、伊勢の内宮と外宮との間の古市の遊郭の存在です。
何故、平家の遊郭ビジネスが仏教組織に脅威を与えたのかは、それは、寺・神社内で、遊郭と同じビジネスを、宗教者は貴族相手に、古来からおこなっていたからです。
異民族との取引所としての神殿は、やがて、広域交易民族でもある騎馬民族の興隆により、貨幣取引や為替取引が発明され、そして、秤(はかり)により物品の重さで取引をすることにより、異民族との不正取引を見守る神の必要性が薄らいでしまうことにより、神殿の神官が生活の糧を得るために、神官は新たなビジネスを考え出さなければならなくなったのです。それが、賽銭を得るための、神殿での聖婚です。
神殿で神官が、聖婚は、神に貢物をし、神殿で神の代理と交わることにより、豊穣が約束され、そして、神の至福も味わうことができる、と宣伝するのです。その神の代理は、オリエントでは地母神、聖母と呼ばれていたのです。日本列島では、聖所は内道場、神の代理は、比丘尼、巫女と呼ばれていたのです。
聖所で聖婚(金銭目当ての売春とは異なる。)をおこなっていたことを示す文書が、「旧約聖書」のエゼキエル書(イスラエル民族を誹謗中傷する文書が多くある。)、第十六章十五節にあります。

ところが、あなたは自分の美しさをたのみ、自分の名声によって姦淫を行い、すべてかたわらを通る者と、ほしいままに姦淫を行った。あなたは自分の衣をとって、自分のために、はなやかに色どった聖所を造り、その上で姦淫を行っている。

この聖所で行う姦淫が売春ではないことは、同章三十一節で説明しています。

あなたは、ちまた、ちまたのつじに高楼を建て、広場、広場に台を設けたが、価をもらうことをあざけったので、遊女のようではなかった。

エゼキエル書では、紀元前722年にイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたことを記述しているので、その文章の内容は、紀元前八世紀以降のことでしょう。そのころには、エゼキエル書が改竄されたものでなければ、売春と聖婚の二種類の性サービス行為が行われていたようです。
飛鳥時代、この聖婚は、日本列島では、日本初の天皇である、チュルク系騎馬民族・蘇我王朝を引き継いだ新羅系天武天皇が、大嘗祭でおこなわれたのが始めのようです。その大嘗祭は、太陽神ミトラの誕生日である冬至の日、前任者から王権を引き継ぐ儀式で、天帝(北極星=太一)の下で、天神と地母神とが契ることにより行われる、一生一代のものであるのです。
その王権引継ぎの大嘗祭の儀式では、王権を引き継ぐ新天皇が、地母神の代理である斎王と「まぐわう=聖婚」ことにより、王権引継ぎ儀式が完了するのです。
奈良時代初期、この天皇一生一代の大嘗祭を、686年天武天皇が崩御し、百済系女帝持統天皇が即位すると、天武天皇に左遷させられていた中臣族の籐氏(後の藤原不比等)は、大嘗祭から、穀物の収穫祭としての新嘗祭を発明するのです。
そして、その新嘗祭を、太陽神バール(=ミトラ神)と牡牛を祀るイスラエル民族の歴史を乗っ取って、エジプトの唯一神太陽神アトンから租借した、唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ教の儀式の全てを仕切るレビ族のザドク一派のように、先祖が南インド・マラバル沿岸から渡来した藤原氏が、大乗仏教儀式とユダヤ教に酷似した中臣神道とで王権の儀式を仕切るために、奈良時代、710年興福寺と768年春日社を建立し、それらの施設内でそれらの儀式を行うことになるのです。それらの藤原氏の二つの宗教施設は、先住民の宗教施設を徹底的に破壊した跡や祭祀場跡に、秦氏の支配地から移築されたものであるのです。つまり、神社は、日本列島古来の建物ではなく、仏寺が建てられた後に、建てられた建築物であったのです。
そして、一生に一度ではなく毎年、藤原氏の宗教施設内で、秋の収穫の時期をかなり過ぎた日に行われる新嘗祭で、インドのサリーのような透けて見える衣装を藤原の娘に着せて、五節舞を、天皇・貴族の前で舞わせるのです。そして、その後、その舞姫は、天皇のお妃になるか、側室として天皇に侍ることになるのです。つまり、宗教施設内で行われる、藤原氏の発明した新嘗祭での五節舞は、聖婚の儀式の一部であったのです。
江戸時代に、第三百済王朝の手先となり墓守として生き延びる葬式仏教組織と、戦国末期、織田信長により僧兵軍団が壊滅される以前の、軍団を保持し、賭博、聖婚(売春)、借上(高利貸し)、そして、中国と交易を行っていた大乗仏教組織とは、似て非なるものであったのです。
中国大陸でも事情は同じで、僧は税が免除され、宗教施設は治外法権であったので、金で僧籍を買い入れ、宗教者の特権を利用して、寺内で色々な商売に励む良からぬひとも多くいたのです。ですから、中国では、仏教が盛んになると風紀が乱れることにより、王権により大規模な廃仏(北魏446年〜452年、北周574年、唐845年)が何度もおこなわれたことは、歴史が示すところです。
平安末期、更に、平家の支配地では、奈良時代から治外法権の宗教施設内でのみ行われていた賭博も、巷の悪所で広く庶民にも行われていくのです。これらの仏教独占ビジネスの賭博、聖婚(売春)が、平家の支配地の京都のギオンや伊勢の古市で行われていたのです。
それらのことにより、仏教組織は、平清盛の平家一族により、中国との交易、売春、賭博ビジネスが奪われてしまったことにより、平安王朝、藤原氏、関東平氏一族(亡命百済移民末裔・百済系平安貴族を警護した皇籍降下の「サムライ」)と同じに、平家一族(アラブ・インドから渡来の国際海洋民族末裔・白河法皇の「私兵」)抹殺に傾いていくわけです。
「平家にあらずんば、ひとにあらず。」、と宋独占貿易により宋銭を多量に日本列島に持ち込み、日本経済を完全に支配した平家を滅ぼす武装集団は、今や近畿地方にはいなかったのです。それは、保元の乱、平治の乱により、河内を支配していた源氏渡辺党(ワタナベとは、古代エジプト語で、意味は、ワタ(なみ)・ナーベ(小高い丘)=岬→上町台地)も、摂津の多田源氏(タダ=タタール→騎馬民族)も、藤原氏の陰謀により、平家軍団の平清盛により滅ぼされてしまっていたからです。
平家に滅ぼされてしまった源氏残党は、平家はアラブ・インドとの南海海洋交易を行っていたため、西国地域は平家一族の支配地であったので、木曽の山奥や関東の山間部、或いは、蝦夷支配地としてわずかに残る出羽・陸奥の山奥目指して逃避をしていたのです。
関東を支配していた平氏の北条氏は、平家の知行地拡大により、その地位を奪われていたのです。そこで、源頼朝が、北条氏の支配地の伊豆(イズ・夷住→異界の地)に配流されたことを捉え、北条時政の娘北条政子の婿として取り込むのです。
1180年北条氏は、源頼朝を源氏棟梁として担ぎ出し、平家の館を襲撃するわけです。この石橋山の戦いでは、源頼朝は参戦せず、平氏一族の北条氏を中心に挙兵したのです。しかし、武装はしていても、平氏は、貴人を警護する「サムライ」で、敵を殲滅する技術を持つ武闘派の「武士」ではなかったので、平家軍団に一蹴されてしまったのです。
その北条氏の挙兵に同調して、1180年木曽を支配していた源氏残党木曽義仲も挙兵するわけです。そして、藤原氏が支配する興福寺の僧兵も挙兵するのですが、平重衡により、興福寺と東大寺は火をつけられ消失してしまうのです。
これらの平氏・源氏・仏教組織の挙兵に対して、平家は、京の都から福原に遷都して、防衛体制を牽くわけです。しかし、1181年平家の棟梁平清盛が死去すると、平家軍団は、京を守りきれず、1183年源氏の木曽義仲が入京するわけです。
この事態は、平安王朝、藤原氏、平氏、そして、仏教組織には、由々しきものであったのです。それは、源氏が京を軍事支配することは、源氏とはその先祖が新羅花郎軍団と突厥帝国軍団の末裔であるわけですから、チュルク騎馬民族国・蘇我王朝の飛鳥ヤマト時代の再来となるからです。
飛鳥時代では、平安京のある山城国や比叡山は、古代エジプトの高度土木技術により、オリエントからギリシャ文化のバクトリア(太秦)、そのバクトリアのコロニーとしての秦帝国、そして、朝鮮半島の新羅(秦羅)を経由して渡来した秦氏が、淀川河口を干拓した後、遡上して湿地帯を開拓した支配地であったのです。その秦氏の支配地が、奈良時代末期に、744年飛鳥・蘇我王朝の後継王権・新羅系天武王朝を軍事支援していたチュルク系騎馬民族の東突厥帝国が唐軍により滅ぼされたことにより、日本列島に侵攻してきた唐進駐軍と亡命百済移民に乗っ取られたわけです。
そこで、平清盛の傀儡として支配されていた後白河法皇は、安徳天皇を擁立して平安王朝を完全支配した平家一族と、京を武力制圧した源氏木曽義仲の抹殺の謀議を、藤原氏と平氏の北条時政に提案するのです。それは、「夷を以って、夷を制す」の藤原氏得意の、敵を抹殺する戦略だったのです。その戦略の使者が、古墳時代に秦王国(ギリシャと同じ都市国家)のあった河内を軍事支配していた元源氏渡辺党の武人、今は真言宗僧侶文覚だったのです。
真言密教は、藤原氏の援助で、錬金術師空海を一年の修行で僧籍に入れ、そして、藤原氏が運営する遣唐使船により、804年唐に送り込み、その唐でバラモン教とヒンズー教の儀式・思想を学び、806年帰朝してから、バラモン教・ヒンズー教の教義・神・鬼神を仏教化した宗教だったのです。ですから、空海の発明した真言宗は、当然藤原氏と繋がりがあったのです。その藤原氏と繋がりのある真言宗僧侶の文覚が、藤原氏の陰謀により平家に敗れ関東の山々に棲息する源氏軍団再興に動き出したのです。
文覚には、後白河法皇による高尾山神護寺再興の許しを得るための行動が、またもや、藤原氏の陰謀に加担してしまう結果になってしまうのです。源氏渡辺党武人から僧侶になった文覚は、純粋に、寺を、賭博や売春を行う文化娯楽施設ではなく、仏を祀る処にしたかったようです。それを示す、源平合戦後、文覚上人となった後に書かれた、空海が得度を受けた由緒ある高尾山神護寺再興の起請文には、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師をいれたりしてはならない。

文覚は、関東の山々に棲息する源氏残党に、日本列島の多くの豪族が源氏武士棟梁に荘園を寄進して「源氏武士」となった源義家時代の源氏栄光を再び得るために、源氏再興のため、鎌倉で挙兵した源頼朝のもとへ集結することを、各国にある廃墟となっていた国分寺跡で説いて回ったのです。何故、国分寺跡が源氏武士への説得場となったのかは、その国分寺は、反藤原氏の聖武天皇により、奈良の大仏の分身の像を安置するために建立されたものだからです。
不思議なことに、亡命百済移民支配の平安時代になると、その国分寺に安置されていた仏像の行方が知れないのです。仏寺では、インドの鬼神でも、1600年豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の船首の女神像でもカテキ様として、仏像として安置しているのに、何故、聖武天皇の命により、全国の国分寺に安置されていた仏像が行方不明なのでしょうか。
それは、国分寺の仏像とは、実際は、仏像などではなく、仏教の敵「遍照鬼」で、源氏の先祖の秦氏の神、太陽神ミトラであったからです。その新羅(秦羅)の神ミトラは、飛鳥時代に、秦氏により日本列島に持ち込まれ、秦氏の支配地山背国で蜂丘寺(景教寺)に安置されるのですが、奈良時代、藤原氏による「日本書紀」の仏教伝来物語により、広隆寺(仏教寺)の弥勒菩薩として改竄されてしまうのです。
そして、亡命百済移民が京を支配した平安時代になると、天台宗を中国から持ち込んだ最澄は、騎馬民族を差別する思想を多く含んだ「法華経」を布教する目的で、「日本書紀」に厩戸皇子と記述してある架空の人物を「聖徳太子」として、山背国(後の山城国)の祭祀者秦河勝を登場させ、聖徳太子が秦河勝に弥勒菩薩を安置する広隆寺を建立させる、百済仏教伝来物語を宣伝したことにより、今日の日本史では、仏教伝来が、「日本書紀」の552年と記述しているところを、538年になってしまったのです。
源平合戦にも、歴史的に不明な点が多くあるのは、それは、勝ち組である平氏北条政権下で創作された、1220年愚管抄、1243年平家物語、1254年源平盛衰記、1266年吾妻鏡などを参考資料としているからです。
それらの勝ち組の史料となる物語は、亡命百済移民の北条氏政権下で著作されたものであるので、負け組みである百済を滅ぼした新羅(秦羅)末裔の秦氏・源氏の実態を歪曲して記述するか、隠蔽しているのです。
文覚は、知らなかったのです。文覚が担ぎ出した源氏棟梁の源頼朝は、平安王朝・藤原氏・北条氏・仏教組織の使い捨ての駒であることを。その文覚も、使い捨ての駒で、源平合戦勝利後、源頼朝より高僧の上人となるも、1199年源頼朝が北条氏に暗殺された後に、左遷され、その地で亡くなってしまうのです。
何故、源氏棟梁の源頼朝が陣を構えたところが鎌倉なのでしょうか。現在では、鎌倉は高級住宅地となっているようですが、その地を掘ると人骨が多く出土するのは何故でしょう。
平安時代、鎌倉に地獄谷があるように、その地は葬送地であったのです。死者を投げ込む谷が、鎌倉の地であったのです。伊豆から千葉にかけての沿岸地域は、京の都を、藤原氏に追われた平氏一族の支配地であったのです。その地で、鎌倉だけは、平氏ではない、御霊社(怨念を残し亡くなった魂を祀る社)を祀る鎌倉党の支配地であったのです。
この葬送地を支配地とする鎌倉党は、京の賀茂川の葬送地髑髏ヶ原(後の六波羅)を支配地としたアラブ・インドから渡来した平家と同じに、平氏の後から西国より関東に渡来した部族であったのです。それは、葬送地の鎌倉にある由比ガ浜は、浜砂鉄の宝庫だったからです。鎌倉党は、ヒッタイト帝国の鉄器鍛造法による、鹿皮のフイゴを使用するタタラ製鉄の技術を持つ部族であったのです。この鎌倉党から、後に穢多頭となる、秦氏末裔弾左衛門が現れるのです。
その鎌倉は、北条政権下で創作された物語に記述されたような立派な地ではなく、戦国末期藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、宿敵徳川家康を関東のひとも住めぬ湿地帯に追いやったように、人も住めぬ湿地帯であったのです。勿論、鶴岡八幡宮などはなく、小さな稲荷(秦氏の墓→塚→つか→じゅが→稲荷→イナリで、権力により秦氏の神を封印した社)の祠がある、平地が少ないひなびた半農半漁の寒村地であったのです。
1180年〜1185年の長い戦いであった源平合戦の歴史は、北条政権下の鎌倉時代に創作された書物を基に語られているので、実際の史実を知ることはできないようです。そのひとつに、源頼朝と源義経が兄弟ではない、ということです。
源義経が子供の頃、京に居たことも疑問ですが、その源義経の生い立ちには謎が満ちているのです。そのひとつに、源義経の忠臣として語られる弁慶の存在があります。その二人が京の五条の橋で出会う物語は、史実ではないのです。それは、弁慶とは、それらの物語の創作上の人物であるからです。源義経が幼少の頃、京で架空の弁慶と出会う源義経の経歴の信憑性は薄く、そのことから源義経が、京で生まれ、源氏残党が住む鞍馬山で育ったかの履歴は疑問です。
では、源義経とは、どのような生い立ちの人物であったのでしょうか。源義経が出陣した地は、奥州藤原氏が支配する出羽・陸奥国からです。そこは、元は蝦夷の支配地であったのです。蝦夷とは、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の軍団を構成していた新羅花郎軍団と突厥帝国軍末裔で、ユーラシア大陸と繋がりのあった部族であったのです。そして、源義経軍団は、傭兵軍の活躍する中国大陸では部族軍団の独自の印を付けた旗は古来から使われていたが、日本列島では、当時では珍しい笹竜胆の文を部族軍団の旗の印としていたのです。その笹竜胆の文は、モンゴルのチンギス汗の軍団の印でもあったのです。このことから、源義経チンギス汗説が語られる根拠のひとつとなっているのです。
源義経軍の武器は、モンゴル軍と同じに、馬と弓です。その弓の弦は、動物の小腸から作られたものです。ですから、平家の弓が弦ではなく弓自体のしなりで矢を射るのと違い、源義経軍の弓は、弾力性のある小腸の弦であることから、その矢の飛距離は、平家と比べものにならなかったのです。それは、屋島の合戦で、平家軍団は船で海上に逃れ、矢の飛距離圏外に逃れたと信じて、船を持たない源義経軍団を、挑発したのが、源義経軍団の矢に攻撃され、漕ぎ手が射抜かれてしまったことから理解できます。
この源平合戦は、保元の乱、平治の乱を彷彿させます。それは、源氏(夷)による源氏(夷)の抹殺です。
1183年入京した源氏木曽義仲は、翌年、源氏源頼朝軍により粟津で敗死するのです。そして、1185年壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、1189年源頼朝の恫喝により、藤原泰衡が源義経を衣川で殺しているのです。そして、その奥州藤原氏一族は、源頼朝軍により滅ぼされているのです。更に、1192年鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、1199年北条氏により暗殺されているのです。そして、源頼朝の実子二人は、1203年源頼家は伊豆修善寺で北条氏に殺され、そして、1219年源実朝は、北条氏にそそのかされた公暁により殺されてしまうのです。ここに、源氏棟梁一族が抹殺され、亡命百済移民末裔、平氏の北条氏が天下をとるわけです。
北条氏は「サムライ」の末裔であるから、武闘力はないけれども、知略はあったのです。それは、源頼朝を暗殺する前に、源頼朝から、藤原氏の拠点、南九州島津荘を、平安時代に秦氏から惟宗氏に変名した者に、その島津荘を与えていたからです。ここに、藤原氏の南海密貿易基地のある島津荘が、秦氏の支配地となり、その秦氏は、島津氏と名乗るわけです。
平家により、藤原氏が支配した奈良の興福寺が壊滅され、そして、源頼朝により、南九州の島津荘が藤原氏の支配地ではなくなってしまったため、藤原の女と財力で平安王朝を支配していた藤原氏による中央における支配力が衰えたのと同時に、京を支配していた亡命百済貴族の勢いも衰えていくのです。
源氏棟梁一族を抹殺し、当面の敵藤原氏の財力基盤を破壊した北条氏は、残存源氏武士の壊滅に動き出すのです。それが、「サムライ」と「武士」との戦いとなるわけです。
源氏棟梁一族と、それを支えた関東の源氏主力部族の梶原景時、三浦義澄、比企能員、畠山重忠、和田義盛を、ことごとく謀略で抹殺した北条時政・政子の父子は、関西に残存する源氏武士の抹殺を計画するのです。それが、1221年の承久の乱です。
教科書歴史では、承久の乱は、平安王朝の貴族の公家軍対関東北条氏の武家軍との戦いのように記述していますが、それは歴史の歪曲です。実際は、「武士」対「サムライ」の戦いで、圧倒的な武力で勝利した関東「サムライ」北条軍は、敗戦側の平安王朝末裔と、乱後、協調しているのです。それは、西国は公家の平安王朝末裔が、そして、東国を武家の北条氏が経営しているからです。この戦いで殲滅されたのは、平安王朝貴族ではなく、源氏「武士」であったのです。
それは、北条氏の先祖は、亡命百済移民の桓武天皇の流れにあった、亡命百済貴族に侍り警護する「サムライ」であったからです。このことは、1335年北条氏政権を滅ぼした、源氏足利尊氏が、1336年室町幕府を開き、百済系桓武天皇家の後醍醐天皇を吉野に追放し、京の朝廷を乗っ取ろうとした行動と照らし合わせると、「サムライ」の北条氏による承久の乱が、日本列島を平氏の支配下に置くことが最大の目的でなかったことが理解できます。それは、西国の河内源氏の渡辺党と摂津の多田源氏の「武士」抹殺が主な目的であったのです。
その根拠として、承久の乱に勝利した北条氏は、アラブ・インドから渡来の平家の拠点であった六波羅に、六波羅探題を設け、全国で源氏「武士」残党狩りを行っていたからです。このことにより、本国百済を滅ぼした新羅末裔源氏「武士団」が、関東でも、関西でも抹殺されてしまったのです。
そして、「サムライ」の女棟梁北条政子は、赤旗をシンボルとする、アラブ・インドから渡来の平家の歴史を乗っ取るために、源氏「武士」が崇拝していた、オリエント渡来の新羅(秦羅)の八幡(や秦→秦氏が繁栄する意味)の神を棄て、そして、海洋民族平家の神を祀る厳島神社を、半農半猟のツングース民族末裔の平氏の神として取り込んでしまうのです。この民族神のすり替えにより、後のひと達に、平氏のシンボルは赤旗で、そして、平家とは、伊勢平氏末裔である、と誤解されてしまうのです。
そのように源氏棟梁一族を抹殺した北条氏は、六波羅探題の捜査網を駆使して、北条氏に反目する各国に棲息する主な源氏武士を「源氏狩り」で壊滅すると、西国の経営には、北条氏と同民族である平安王朝末裔に任せて、東国の経営に着手するのです。
鎌倉時代初期の騎馬民族である源氏の経営方法の基本は、ギリシャ都市国家運営方法と同じで、部族の代表者による合議制であったのす。それでも結論が出ない場合は、武力で持って解決を諮る傾向があったのです。
しかし、平安中期まで唐の支配下にあった、平安貴族の秘書を兼ねて警護を司っていた「サムライ」末裔の北条氏は、源氏一族を謀略で滅ぼすと、奈良時代初期に唐進駐軍が近畿地域を統治するために持ち込んだ律令制度(律は刑罰、令は行政)を真似て、1232年35ヶ条の御成敗式目を制定し(後に51ヶ条となる。)、唐から持ち込んだ律令は漢語で記述してあるが公家の多くは中国からの亡命百済移民末裔のため漢字が読めたが、オリエント渡来民族末裔の漢字が読めない武家のために、簡単な箇条書きの法律により、関東の武家達を統制するわけです。
この「サムライ」の法律により統治された鎌倉時代に、平安時代に錬金術師空海が、唐から持ち込んだ、騎馬民族を差別する思想、「施陀羅悪人なり」のインドのバラモン思想と、そして、騎馬民族を差別する言葉が多くある、仏罰者はハンセン氏病になると説く「法華経」思想が、比叡山で「仏教」を学んだ鎌倉仏教僧達により、広く民衆に布教されてしまうのです。
その思想の布教には、勿論、騎馬民族末裔の「武士」残党を壊滅するために、「サムライ」の北条氏の陰謀もあったのです。
江戸時代、第三百済王朝では、騎馬民族末裔を貶める差別語「穢多」は、「長吏」と同義語となってしまっていたのです。では、その長吏とは何かと言えば、それは、中国・隋では、六百石以上の比較的俸禄の高い官位の役人であったのです。その長吏の文字が書物に現れるのは、飛鳥ヤマトで「男王」に謁見したと述べる、遣隋使裴世清の倭国偵察報告書の「隋書」にあるのです。
この隋使の記述は、、「日本書紀」では、女帝推古天皇の摂政厩戸皇子が活躍する時代で、608年小野妹子に伴い、遣隋使裴世清が来朝した、とあるのですが、その小野妹子は、「隋書」では、蘇因高(ソインコウ)とあり、その肩書きが、使人長吏大礼(つかいちょうりだいらい)とあるのです。その「使人長吏大礼」の意味とは、「遣隋使節団の正使」です。つまり、飛鳥時代の長吏とは、隋国では、正使の役人であり、決して、賎民を指す言葉ではなかったのです。
二文字漢字の人名・地名表記は、713年好字令より以降であるので、「日本書紀」での608年記述の「小野妹子」の日本名は疑問です。その当時、小野妹子は、「隋書」に記述されていた「ソ・インコウ」、と呼ばれていたことが示唆されます。
この長吏が、第三百済王朝の江戸時代に、大坂では奉行所の与力や同心に属して、市中を巡回した「不浄の縄」を持つ手先の頭として、長吏と呼ばれてしまうのです。
オリエント文化の騎馬民族国・蘇我王朝の飛鳥時代、位の高い官人としての長吏が、何故、第三百済王朝の江戸時代に、賎民穢多の役人頭としての長吏となってしまったのでしょうか。飛鳥時代、この位の高い役人の呼称である長吏が、江戸時代、賎民の束ねとしての長吏に貶められたカラクリが、「武士」が「サムライ」に殲滅された鎌倉時代に創られたのです。では、殲滅された「武士」は何処へ消えてしまったのでしょうか。
鎌倉時代、武士が、日本列島から全く居なくなってしまったのではない証拠に、百三十年後に、源氏武士足利尊氏は、1335年「サムライ」の北条政権打倒に立ち上がっていたからです。では、殲滅された「武士」は、どのようにして、「サムライ」支配の鎌倉時代を凌いでいたのでしょうか。
それは、「武士」が、北条政権の陰謀により世間的に抹殺されても、「武士」でいられたのは、それは、武士には、「武士のたましい」があったからです。
「たましい」とは、鬼が云う「魂」と漢字で書かれるように、鬼、つまり、仏敵が云う「モノ」であるのです。古来から、日本列島では、八世紀に藤原氏により発明された「天照大神」などの人工神ではなく、精霊は、「カムイ」「モノ」と云われていたのです。その聖なる「モノ」を、仏敵の鬼である武士は、「たましい・魂」と云っていたのです。
では、具体的に、「武士の魂」とは、何でしょうか。それを表現するひとつとして、片刃の反りのある「日本刀」があります。その日本刀は、実戦の武器ではなく、蝦夷であるチュルク系騎馬民族の武器の蕨手刀を改良した、武芸者である「もののふ」が、南インドから渡来した中臣族(藤原氏の祖)により発明された中臣神道により、前政権の神が封じ込められた神社境内で、前政権の神である怨霊を鎮めるための、祭祀具であったのです。
その祭祀具である日本刀を武器として、平安時代末期に平家・源氏により治外法権の寺内でおこなう仏教ビジネスは壊滅されましたが、鎌倉時代の北条政権下に復活した仏教組織が再び市・座を支配したため、賎民同業組合である「座」のバザールを武力で仏教勢力から護る者が現れるのです。それが、座を仕切る顔役の、「役座」であるのです。その役座が、仏教の仏でもなく、中臣神道の天照大神でもない、中国大陸の道教の薬草の神様である「神農様」を、何故、祀るのでしょうか。そして、その神農様は、「牛頭」と伝わるのです。
役座の「強気を挫き、弱気を助く」任侠道思想の多くが、「弱者擁護」の日本武士道と似通っているのは、それは、役座が武士の流れから派生したからです。
鎌倉時代、平氏北条政権に追い詰められた源氏残党は、それぞれの先祖の特性を生かして、武士から変身し、「サムライ」支配を打倒する時期まで、生き延びていくわけです。では、源氏武士残党は、どのような職業者に変身したのでしょうか。
源氏武士の前身は、「もののふ」である武芸者です。その武芸者の前身は、陸奥国の蝦夷で、太陽神ミトラの軍神を祀る新羅花郎軍団末裔と、北極星を祀る騎馬民族の突厥帝国軍末裔です。
新羅花郎軍団は、幅広の直線道路を各国の支配地に建設してきたローマ帝国傭兵軍末裔であるので、石切・土木建設技術を引き継いでいたのです。
騎馬民族国の突厥帝国では、タタラ製鉄技術を保持していたのです。それは、騎馬民族の歴史的始まりは、ヒッタイト帝国の鍛造鉄器製造技術により、馬を制御する轡(くつわ)を開発したことからと云われています。つまり、紀元前七世紀、騎馬民族スキタイは、家畜の馬を、騎馬することができる「軍馬」とするために、鍛造鉄器製造技術を、ヒッタイト帝国から習得したことにより、地上最強のスキタイ騎馬軍団として興隆できたのです。
サムライ平氏に追われる源氏武士残党は、それらの先祖から引き継いだ技術を生かして、神を祀る遊芸能民、鉄器製造技術の鍛冶屋、石切・土木建設者、そして、馬を使い物流関連の馬借民として変身するわけです。北条鎌倉時代、それらの源氏武士残党から変身した各種職能民は、王権に追われ定住できないため、闇の反体制の非常民として生き延びるわけです。
その反体制である非常民は、ことごとく北条鎌倉政権を脅かすのです。そのひとつが、幕府の地鎌倉での、相次ぐ不審火です。記録に残されているだけでも、1251年、1254年、1260年、1280年、1302年、1310年と続くのです。そして、1280年には、鎌倉の大火で、鶴岡八幡宮が炎上しているのです。更に、その度重なる不審火の大火の他に、大地震が頻繁に鎌倉を襲っていたのです。
そのような社会情勢が不安定な時代に、王権に追われた非常民の職能民は、それぞれの技術を、鎌倉幕府に搾取されている農耕民である常民に売ることで、暮らしを立てていたのです。
しかし、北条政権は、それらの闇の職能民が作る鉄製の農機具や、農作物の物流をつかさどる馬借人の働きなどが、常民である農民の生活基盤を支え、その結果、非常民と常民とが結託して、搾取者である平氏武家を優遇する北条鎌倉政権に反旗を翻さないように、非常民と常民とを分離するための謀略を考えるわけです。
そのひとつが、平安時代、錬金術師空海が唱えた「施陀羅悪人なり」をバージョンアップした、「騎馬民族はケガレている。」とする差別語「穢多」を否定するのではなく、鎌倉仏教僧の一部の者は、施陀羅の息子だと自ら名乗り、その「ケガレ」差別思想を、漢訳仏教思想などの知識が全くない庶民・農民に布教するのです。
北条鎌倉時代、この鎌倉仏教僧達が、施陀羅思想を、更に、強力に穢多思想として育ててしまったために、第三百済王朝の江戸時代に、士農工商・穢多非人の日本版カースト制度が完成してしまうのです。
騎馬民族を貶める最強武器である漢訳仏教の渡来は、日本列島の騎馬民族と農耕民族との権力闘争に、大いに影響を与えていたのですが、その渡来時期には謎が多いのです。
藤原氏が、「日本書紀」で主張するのは、552年(欽明天皇13年)です。しかし、百済系桓武天皇家が、「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」で主張するのは、538年(欽明天皇7年)です。これは、どういうことでしょう。仏教伝来時期が二つあることは、それは、その二つの仏教伝来物語が、ウソを付いているからです。
その根拠として、「日本書紀」にある、仏教伝来の記述がある文章、「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず。」は、「最勝王経」如来寿量品の「是の金光明最勝王経は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。声聞・縁覚も、尚し知りたまふこと能はず。」を盗用したと考えられるからです。そして、その「最勝王経」は、552年ではなく、703年に漢訳されたものであったのです。
そして、538年百済仏教伝来を物語る、聖徳太子(厩戸皇子)の実在性を証明するための資料の「天寿国繍帳」にある干支は、百済系女帝持統天皇四年(690年)に採用された、新羅系天武天皇が崩御したため、唐国が日本列島の近畿地域を、持統天皇を傀儡として支配するために持ち込んだ、儀鳳暦によっているのです。
そのように、正史と言われる史料に仏教伝来の記述があるにもかかわらず、仏教伝来時期が不明なのは、南インド渡来の藤原氏にとっても、亡命百済貴族にとっても、その552年、或いは、538年に、どうしても、隠蔽しなくてはならない歴史があったからです。
それは、六世紀の河内湾に突き出た岬(後の上町台地)を基点として、古代エジプトの高度土木建築技術で干拓し、そこに建てた都市国家・秦王国の存在です。秦王国は、紀元前三世紀の中央アジアのギリシャ文化のバクトリア→始皇帝の秦国、そして、六世紀の朝鮮半島・秦羅(新羅)から北九州秦王国を経由して、奈良の宇陀の朱砂交易のために、近畿に進出してきたのです。
そして、その530年前後に、騎馬民族・突厥帝国の進駐軍団が、北東アジアから日本海を渡り、敦賀に渡来し、三輪山の麓に現れたのです。そして、突厥帝国軍は、防衛に適した、丘に挟まれた、川の流れる細長い土地に、軍事都市を築くのです。それが、飛鳥ヤマトです。
渡来した突厥部族(突厥とはチュルクの漢音語)は、その軍事都市飛鳥ヤマトに、祭祀場と共に、噴水のある石敷きの庭園、ガラス器工場、創薬工場、富本銭鋳造工場などを建設し、それらの製品を中国大陸に輸出することを考え、600年貿易使者としてソインコウを隋に派遣するわけです。
秦王国は、進駐突厥軍団の飛鳥ヤマトと同盟を結び、秦王国のある河内から大運河と幅十二mの直線道路を、飛鳥ヤマトに向けて建設するわけです。それは、三輪山麓のツバキ市の国際交易場への物流を増やすためです。そのツバキ市では、縄文時代から、宇陀で産出される朱砂の沈黙交易が行われていたのです。
その大運河と幅広の直線道路を建設するための前提として、河内から奈良盆地にかけて、巨大古墳を建設したのです。巨大古墳築造は、埋葬装置建設としてだけではなく、先住民に土木工事の仕事を与える公共事業の仕掛けでもあったのです。
608年この河内から、オリエントから渡来の秦氏の築いた大運河を利用して、ソインコウに伴われて、川船で都へ行った遣隋使裴世清は、そこで、「男王・アマタリヒコ」に謁見していたのです。その飛鳥ヤマトには、「日本書紀物語」で活躍する、女帝推古天皇も摂政厩戸皇子(後の聖徳太子)も物部氏も蘇我氏も存在してはいなかったのです。
戦国時代末期、豊臣秀吉により、関東の湿地帯に追いやられた、騎馬民族末裔徳川家康は、その地を居住地にするために、秦氏末裔弾左衛門に命じて、神田山を切り崩し、そこに運河を掘らせ、その残土で、利根川の流れを変えた後、荒川が流れ込む河口の湿地帯を埋め、そこに海抜十mの人工山(近世の巨大古墳?)を築くのです。そして、徳川家康は、その人工山にエド(穢れ地→穢土→えど→江戸)城を築くのです。湿地帯を居住地に変えるため、大運河を掘り、その残土で湿地帯に人工山を築くアイデアは、六世紀の河内・奈良で、巨大古墳を築造したことにより生まれていたのです。
このオリエント渡来の秦氏と北東アジアから渡来の突厥帝国軍が、六世紀の奈良盆地を支配していた史実を隠蔽するために創作された「日本書紀」の物語が、物部氏の廃仏派と蘇我氏の崇仏派の宗教戦争物語なのです。その物語に出てくる難波の堀とは、オリエントからの国際交易港ローラン(後の浪速)の湊だったのです。
オリエント文化の飛鳥ヤマト時代を隠蔽するための、「日本書紀」による、その廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との宗教戦争物語は、「高僧伝」巻九の仏図澄伝からの租借です。
その物語では、後趙王の石虎が、王度が仏は「外国之神」であるから祀るべきではないと言ったのに、自分は辺境の出身者であるから戎神である仏を祀る、と述べているのです。
では、その宗教戦争物語の出演者の二氏の実態は誰かと言えば、それは、藤原氏が歴史上抹殺を希望する、物部氏は秦氏で、蘇我氏が突厥帝国部族であるわけです。しかし、実際は、秦氏と突厥帝国とは同盟関係にあったため、神仏戦争などするはずはなかったのです。何故かと言えば、仏の敵である「中臣神道の神」が発明されたのは、八世紀であるからです。そして、秦氏の神は、太陽神ミトラで、突厥帝国の神は、天神の北極星であるからです。
では、「日本書紀」の神仏戦争は何を物語っているのかと言えば、それは、645年飛鳥ヤマト王国の、唐進駐軍による壊滅です。
七世紀の東アジアでは、北の突厥帝国と南の唐国が、シルクロード交易の覇権をめぐり闘っていたのです。しかし、630年唐国は、北東アジアを支配していた突厥帝国を散逸させた勢いで、645年日本列島の飛鳥ヤマトを支配する突厥帝国のコロニーを、奈良盆地のツバキ市で朱砂交易をおこなっていた、南インドから渡来した国際交易商人でもある中臣族の先導により、壊滅するわけです。
その頃の唐国には、シルクロードの商人達により、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教、そして、漢訳仏教等が布教されていたのです。
勝利後、唐進駐軍は、飛鳥ヤマト政権を歴史上抹殺するために、前政権の宗教である、秦氏のミトラ教(景教=太陽の教え。キリスト教の祖)、そして、突厥帝国部族のソ氏(後の蘇我氏・蘇我氏一族は「日本書紀」物語により、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蔑称を付けられた。)の神・天神(北極星・太一)を祀る道教を、漢訳仏教で隠蔽するわけです。
何故、前政権の宗教を隠蔽するために、漢訳仏教が選ばれたかの理由は、それは、漢訳仏教は、ゾロアスター教、景教(太陽神のミトラ教)、そして、中国土着の道教の教義・儀式の多くを取り込んでいて、前政権の宗教と非常に似ていたからです。
漢訳仏教は、三世紀頃ナーガルジュナ(龍樹、180年〜240年)が、サンスクリット語仏典を漢訳したもの、と云われています。しかし、その漢訳仏典には、騎馬民族への差別語が多くあったのです。
釈尊は、バラモン教のカルマを否定するため四姓平等を説いたのに、何故、漢訳仏典に騎馬民族差別語が多くあるのかは、それは、仏典訳者の龍樹が、インドを支配していた遊牧民族トラヴィダを貶めるために、アウトカーストの不可触賎民チャンダラー(施陀羅)を発明したバラモン教の僧侶であったからです。
では、一世紀に、ギリシャ文化国バクトリアの後継地・国際交易都市ガンダーラで発明された仏典は、何語で書かれ、どのような内容であったのでしょうか。そのヒントは、「法華経」と「聖書」の「マタイの福音書」とには、共通の物語が多く見られると言うことです。そして、その「新約聖書」は、ヘブライ語ではなく、ギリシャ語で記述されていたのです。
漢訳された後、サンスクリット語仏典が全て焚書された理由のひとつは、そのサンスクリット語仏典と言われたものが、実は、ギリシャ文化国バクトリアを継承した、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ語で著された仏典(聖書)であったことを示唆します。
唐進駐軍と中臣族は、392年ローマ帝国でミトラ教を乗っ取ったキリスト教徒がおこなったように、七世紀の飛鳥ヤマト、そして、近畿一帯で、同じことをおこなうのです。
それは、前政権の景教寺や道教の観の宗教施設を徹底的に破壊して、北九州から持ち込んだ仏寺を、その前政権の宗教施設跡に移築するわけです。ですから、現存する世界最古の木造建築と云われる法隆寺に隣接する境内から発掘された建築物遺跡は、南北軸の仏教建築思想とは異なり、南北軸から西に約二十度傾いていたのです。その訳は、太陽神を祀るには、冬至の太陽光が射す位置が重要だからです。その冬至とは、太陽が再生する誕生日であったからです。
北条政権の鎌倉時代、比叡山から排出された仏教僧は、常民達に仏の教えを説くのです。そのひとつに、阿弥陀様の教えがあったのです。この阿弥陀様は、瞬く間に常民だけではなく、「源氏武士残党」が、平氏の源氏残党狩りから生き延びるため紛れ込んだ、非常民の遊芸能民、鍛冶屋、石切、土木技術者、そして、馬借にも広がっていくのです。しかし、江戸時代、秦氏末裔島津氏が支配する南九州の島津藩では、その阿弥陀様の教えを禁止していたのです。
では、鎌倉仏教僧が宣伝する「阿弥陀様の教え」とはどのような教えかと言えば、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

一般的常識では、西方浄土とは、インドに浄土(極楽処)があるように思われていますが、それは違います。それは、西方浄土思想は、北インドの国際交易都市ガンダーラで発明されていたからです。ですから、ガンダーラから西とは、インドなどではなく、エジプトであるわけです。
何故、島津藩では、阿弥陀様の教えを禁止していたのでしょうか。それは、島津藩は、表面上は秦氏末裔が支配していたのですが、実際は、藤原氏の主流近衛家が支配していたのです。つまり、島津藩は、イスラエル民族を祭祀士族のユダヤ民族のダビデやソロモンが支配したヘブライ国と同じに、実質祭祀者藤原氏が支配していたのです。
では、何故、島津藩は、阿弥陀様の教えを禁止したのでしょうか。それは、その阿弥陀様の教えは、「全てのひとは太陽の下で平等である。」、としていたからです。その平等思想は、権力者が武力で庶民を支配する封建制度では、革命の起爆剤となる可能性があるからです。
では、阿弥陀様とは、仏様であったのでしょうか。それは、違います。阿弥陀様はアミ様で、古代エジプトの唯一神・太陽神アトン(ヒッタイト帝国のミトラ神がエジプトで変身した神。紀元前十三世紀、この古代エジプトの唯一神・太陽神アトンから、ユダヤ民族の神・唯一神ヤハヴェが発明されたのです。)であったのです。
北条鎌倉時代、この阿弥陀様の教えが、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞により、常民に広がると、その全てのひとは太陽の下で平等である、との平等思想に同調した非常民(騎馬民族末裔の源氏武士残党)も、その親鸞の下に集まってくるわけです。
鎌倉仏教僧は、左手で「血・肉食の禁忌」思想により、それら禁忌事項と関係が深い「騎馬民族は穢れている。」と宣伝し、そして、右手で「悪人(施陀羅悪人ナリ=騎馬民族)でも成仏できる。」との平等思想を宣伝するわけです。
645年唐進駐軍と中臣族とにより、飛鳥ヤマト王国と共に壊滅された、河内の秦王国の秦氏は、淀川上流の桂川と賀茂川に挟まれた湿地帯に逃避するわけです。秦氏は、その湿地帯も、古代エジプトの土木建築技術により堤を築くことにより、居住地に変えてしまうのです。そして、その地が、景教寺(ミトラ寺院=蜂丘寺、後に広隆寺に改竄される。)のある山背国(秦王国)であるわけです。
奈良時代、琵琶湖よりの比叡山に、ローマ帝国傭兵軍がミトラを軍神としたように、太陽神ミトラの祭祀場(後に魔多羅神に改竄される。)を設け、馬冑・鎧馬に騎乗し、ロンギヌスの槍で武装した新羅花郎軍団と、短弓・蕨手刀で武装した突厥帝国騎馬軍団は、飛鳥・奈良を平城京の砦都市により支配する、柳葉刀や腰弓で武装する唐進駐軍・藤原氏軍(中臣族より変身)に対峙するわけです。
奈良時代末期、794年山背国は、唐進駐軍に支援された、663年唐・新羅により母国百済が滅ぼされてしまったため、日本列島に移民して来た亡命百済軍団により、壊滅され、そして、山背国(秦王国)と比叡山を支配していた秦氏一族は、再び、淀川河口の湿地帯に追いやられてしまうわけです。そして、その陸奥国に逃れた、新羅花郎軍団と突厥帝国軍末裔の敗残兵は、その後、蝦夷(ヒゲのある夷の意味)と呼ばれるわけです。
では、奈良時代に、唐進駐軍の下で権勢を誇っていた藤原氏はどのようになったかと言えば、平安京に遷都した亡命百済貴族の桓武天皇により、奈良貴族の文化娯楽施設の興福寺・春日社と共に、銅・水銀鉱毒にケガレた奈良の都に封じ込められてしまったのです。
794年秦氏の支配地山背国(秦王国)を乗っ取った、唐進駐軍に支援された亡命百済移民達は、797年「続日本記」を、奈良時代に藤原氏が、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺するために創作した「日本書紀」を真似て、創作するわけです。
そして、亡命百済貴族が、日本皇室の祖であるとする、「皇・神・蕃」で民族差別する「新撰姓氏録」の完成2年前、812年秦氏末裔、「日本書紀」講義講師で万葉語学者・多人長は、同族である、それらの渡来騎馬民族によるオリエント文化の飛鳥ヤマト史を改竄した、藤原氏創作の「日本書紀」を否定するために、完璧な万葉語で「古事記」を著すのです。
因みに、「新撰姓氏録」では、藤原氏・亡命百済移民よりも古くから渡来して、淀川河口を干拓し秦王国を築き、そして、河内・奈良盆地に巨大古墳を築造し、大運河を削掘し、幅十二mの直線道路を飛鳥ヤマトまで敷設していた秦氏は、何故か「蕃族」の渡来人となっているのです。
「古事記」が、712年ではなく、812年刊行である理由のひとつは、平安時代に完成した完璧な万葉語で、「古事記」が記述されているからです。奈良時代の万葉語は、表音として漢字を利用し、各国の言葉を表現していたため、例えば新羅語の表音漢字などもあったため、表音漢字が特定できていなかったのです。
その「古事記」が、「日本書紀」が飛鳥ヤマトの歴史を抹殺・改竄した、と述べている根拠のひとつとして、天武天皇が「古事記」序文に登場するのに、その「古事記」の記述が、飛鳥時代に活躍したと伝わる女帝推古天皇で突然終わっているからです。因みに、「古事記」には「摂政聖徳太子・厩戸皇子」の記述はありません。
このことは、多人長が、サイファー式暗号解読法の、同じ文章は否定せよで、「飛鳥時代の女帝推古天皇までの「日本書紀」の記述を否定せよ。」、を実践したからです。
その飛鳥ヤマト時代は、女帝推古天皇や摂政聖徳太子(厩戸皇子)が活躍した仏教文化の時代ではなく、突厥帝国進駐軍とギリシャ・ローマ文化国新羅から渡来した秦氏が活躍していたオリエント文化の時代だったのです。
江戸時代、その暗号解読法を知らない、中国・漢文嫌いの国学者本居宣長が、「古事記」奥付の712年を信じ、720年の漢文で記述された「日本書紀」よりも古い書物と信じてしまったのです。そして、「古事記」には真の日本国の原風景が記述されていると信じた結果、「日本書紀」の神話が、「古事記」の一元論記述よりも古い記述形式の二元論で表されているにもかかわらず、ギリシャ神話から租借した物語(国産み物語・天岩戸物語等)を、平安時代に完成した「ヤマト言葉」を飛鳥古代語と信じて、「古事記」神話物語を再構築して、1778年「古事記伝」上巻、1792年「古事記伝」中巻、そして、1798年「古事記伝」下巻に著してしまった結果、「古事記」により「日本書紀物語の飛鳥時代以前の歴史」を否定するための秦氏末裔多人長が意図したことと異なり、今日では、中国向けの「日本書紀」、国内向けの「古事記」との歴史的評価となってしまったのです。
そのことから、奈良時代の759年完成とする「万葉集」が疑われているのです。その奈良時代完成と云われる「万葉集」は、原著は表音漢字の古代新羅語(=郷札・ヒャンチル。ギリシャ・ローマ文化の新羅は、漢字を知らないために、訓読化した漢字で表記した言葉。日本語の訓も、古代新羅語の影響を強く受けた。飛鳥ヤマト時代、突厥軍との同盟国)であったものが、901年藤原氏の陰謀により大宰府に左遷された菅原道真により、完璧な万葉語による「改竄作品」との説があるのは、そのためです。
そのように、古代史は、勝組の「日本書紀」「続日本紀」「新撰姓氏録」「万葉集」などの史料を離れて観ると、教科書歴史と異なる日本原風景が覗かれるのです。このことは、鎌倉仏教にも言えるのです。
教科書歴史では、鎌倉時代、鎌倉仏教により、平安時代の貴族相手の文化娯楽の仏教から、庶民相手の生活苦から開放する宗教が生まれ、そして、武士の圧政、地震雷の転変地変、そして、不審火による大火により苦しんでいた庶民は、その民衆相手の鎌倉仏教により救われた、との記述をしているのです。
しかし、その認識は、藤原氏が、薩摩藩と長州藩の源氏武士末裔の賎民軍団を利用して、「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸幕府を倒した、明治革命で復活した明治時代にされたもので、その認識には、庶民とは常民の農耕民族のことで、非常民である徳川家康の先祖である騎馬民族や、織田信長の先祖である海洋民族末裔は含められてはいなかったのです。
江戸時代、明治維新後に創られた全ての庶民の味方であるとする、鎌倉仏教僧の代表である親鸞の思想実態を、与力の坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べているのです。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

そのように、江戸時代に悪評されていた親鸞像が、どうして、明治時代に全ての民衆を救う善僧に変えられてしまったのでしょうか。それは、北条鎌倉時代とは、第二百済王朝で、藤原氏により一年で僧籍に入れられ、遣唐使と共に唐に渡った錬金術師空海が唱えた「施陀羅悪人ナリ」を実践した、騎馬民族・海洋民族末裔の抹殺時代であったからです。
では、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、何故・どのようにして、平安時代に空海の発明した「施陀羅悪人ナリ」を、賎民穢多として創り出していったのでしょうか。
民族差別語の穢多の発生は、「サムライ」が支配した東国と、奈良仏教と平安仏教が支配した西国とでは、異なります。何故でしょうか。それは、騎馬民族や海洋民族が多く暮す東国では、騎馬民族や海洋民族を差別する漢訳仏教が盛んではなかったからです。
元々漢訳仏教は、国際交易商人と共に日本列島各国に伝播したもので、過疎地ではなく、王都を目指していたのです。鎌倉時代、東国はイズ(夷住→伊豆)と云われるように、王都ではなく、僻地であったのです。
北条鎌倉時代、西国の奈良の朱砂産出地の宇陀の崖に、仏像が現れるのです。その崖に描かれた仏像は、磨崖仏と云われるのです。何故、山奥の宇陀の崖に磨崖仏が現れたのでしょうか。
1274年北九州筑前に、突然大船団が現れるのです。しかし、夜半の大風(11月4日頃なので台風など起こらなかったとの説あり。)により、一部の船が座礁しただけで、残りの船団は何処ともなく消えていたのです。その事件を、教科書歴史では、「文永の役」と云い、元帝国軍の日本列島侵略海軍であるとするのです。しかし、座礁した船体からは、武器類ではなく、種籾の入った壷や農機具が沢山見出されたのです。
それから七年後の1281年にも大船団が再び北九州筑前と長門に渡来したが、一夜にして、大船団は何処ともなく消えてしまったのです。この事件を、教科書歴史では、「弘安の役」と云っているのです。
百済系嵯峨天皇(809年〜823年)から孝明天皇(1846年〜1867年)まで、錬金術師空海の発明した密教のダキニの呪文で、仏教思想で祀られていたものを、1868年明治革命後、亡命百済移民が支配した平安時代から、初めて明治天皇が正式参詣した伊勢神宮を、天照大神の皇神を祀る処とし、そして、国家神道を発明した明治新政府は、その二度の元帝国からの亡命船事件を、「神風」が吹く「神国ニッポン」と宣伝に使ったのです。
その伊勢神宮の地は、第三百済王朝の江戸時代(三代将軍家光〜十五代慶喜)に発明した、1635年からの参勤交代の行列は、穢れ地として、迂回していたのです。それは、伊勢神宮の前身は、663年母国百済を滅ぼし、更に、672年百済亡命近江王朝を壬申の乱で滅ぼした、685年新羅系の天武天皇が建立した道教の観で、その地は、飛鳥時代には、織田信長の先祖平家の祖が渡来した、赤旗をなびかせるアラブ・インドからの国際交易民族の支配地であったからです。
この明治革命で復活した藤原氏(近衛家)による、仏教から神道へのすり替えトリックに騙された道教の神・神農様を祀る役座は、神国ニッポンを信じて、鎌倉時代、新羅系源氏武士から役座に落とし込んだ張本人の百済系天皇家を、命を賭して護ってしまうわけです。
明治新政府から「神風」により撃沈と宣伝された、それらの座礁船からの遺留品から推測すると、それらの大船団は、日本列島の軍事侵略を主目的としたのではなく、一回目は、元帝国に完全支配された朝鮮半島高麗からの、少数の軍属と多数の貴族達が乗った移民船団、或いは、亡命船団で、二回目は、元帝国に滅ぼされた南宋国の亡命船団であった可能性を示唆します。
武器類ではなく、種籾や農機具を積んだそれらの大船団を、元帝国海軍船団だと主張したのが、何故、鎌倉禅宗組織だけであったのでしょうか。その謎解きのヒントは、鎌倉禅宗は、鎌倉幕府と南宋との日宋貿易に深く関わっていたのです。そして、その南宋は、その第二回亡命船団事件2年前の、1279年騎馬民族国家の元帝国により滅ぼされていたのです。
その第一回目の大亡命船団が、日本列島を訪れた一年後、1275年マルコポーロは、元帝国の世祖に会見しているのです。そして、1292年元帝国を去り、1299年神聖ローマ帝国で「東方見聞録」を著し、黄金の国ジパングを宣伝するのです。
鎌倉時代の日本列島は、マルコポーロが述べたように、黄金の国であったのです。それは、戦国時代の石見(島根県)の銀山から産出される銀が、十六世紀に南米銀が産出されるまでは、世界の銀の需要を満たしていたのが分かれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
その日本列島の銀山を開発したひとりが、平安時代の錬金術師空海です。全国各地の深山に空海の足跡が多く見られるのは、そのためです。空海が唐からもたらした密教法具と言われる独鈷杵・金剛杵は、実際は、鉱脈探索用工具であり、鉱脈堀の作業での「どっこいしょ・こらしょ」の掛け声から、登山での掛け声と変わってしまいましたが、本来の意味は鉱脈探索工具の独鈷杵・金剛杵の呼び名から出ているのです。
中世ヨーロッパでは、需要は絹製品から金・銀製品に変わっていたのです。それらの金・銀はヨーロッパで産出されないため、マルコポーロなど多くが宗教組織や国際交易民に混じって、金・銀の海外情報探索の目的で、僧形の情報収集者(スパイ)として、元帝国を訪れていたのです。
中世ヨーロッパでの金・銀の需要を満たすために、国際交易商人達は、鎌倉時代の日本列島を訪れていたのです。その中に、第一回亡命船事件の翌年、1275年元帝国の国使が、日本との交易を求めて国書を携えて訪れたのを、北条鎌倉幕府の軍事・外交顧問である鎌倉禅僧のアドバイスにより、北条鎌倉政権は、その国使を滝口にて切り殺していたのです。
それは、鎌倉禅宗組織が、中国大陸との交易を独占するため、元帝国と北条鎌倉幕府との国際交易を阻止するためだったのです。そのための布石として、鎌倉禅宗は、騎馬民族蔑視思想を多く含む「法華経」を布教する日蓮に、1260年「立正安国論」を書かせ、元帝国が攻めてくると宣伝させ、そして、1274年と1281年に渡来した大亡命船団を、「元寇」と偽り、虚偽の書物を著していたのです。
金や銀は、山から産出されます。その鉱脈が眠る近畿地域の山々には、北条鎌倉政権の六波羅探題の捜査網で、「サムライ」の平氏武家による源氏残党狩りにより、多くの源氏武士残党が隠れ住んでいたのです。歴史教科書では、その深山の部落を、平家落人部落としていますが、平家はアラブ・インドからの海洋民族であるので、深山で暮す技術はなかったのです。
その実態は、源氏残党狩りから逃れるために、源氏武士残党が、「平家落人」とした智慧であったのです。その証拠に、北条鎌倉末期、その「平家落人部落」から、多くの源氏武士一族が、騎馬により関東の源氏足利氏に集結し、北条鎌倉幕府を倒していたのです。
深山での鉱石採掘は、平安時代の錬金術師空海により、表向き山岳修行として、大規模に行われていたのです。山岳修行者が、「どっこいしょ。こらしょ。」の掛け声で登山し、鋼鉄製の重い独鈷杵・金剛杵を携えていたのは、仏教修行のためだけではなかったのです。
その深山での鉱脈探索作業では、当然、先住の山の民との争いが起こるわけです。そのために、その鉱脈が眠っている地域から、先住の山の民を追い出すために、外来者の入場を拒否する聖域をつくりだすために、山寺を建立するわけです。その山寺を砦として、表向きは山岳修行とし、裏では鉱脈探索、そして、鉱石の採掘をし、それらを山岳修行僧達が麓の寺に運ぶわけです。そして、山寺を建立できない深山の鉱脈地域から、先住民を追い出すための聖域を創り出す手段が、磨崖仏であったのです。
金山から採鉱された鉱石は、灰吹き法という技術で、金を精錬したのですが、その技術を日本列島に伝えたのは、禅宗僧であったのです。何故、禅宗僧が、錬金術に長けていたかと言えば、それは、禅宗とは、インドのヨーガと仏教思想が習合したものだからです。そのヨーガ行者の多くは、インドのバラモン僧であったのです。そのバラモン教では、宗教体験を高めるために、中枢神経を麻痺させる水銀薬を創薬するために、古くから錬金術を開発していたのです。
平安時代、そのバラモン教の水銀薬創薬の技術を唐で学んだ空海は、四国で銀山を開発し、それらの鉱石から水銀薬を創薬し、「京白粉」として、平安貴族に売り捌いていたのです。
北条鎌倉時代、山の民には、源氏武士残党だけが居たわけではありません。そこには、奈良時代より、唐進駐軍と藤原氏に追われた、ヒッタイト帝国の鍛造技術を持つ、タタラ製鉄をおこなっていた秦氏末裔と突厥帝国末裔の産鉄民族もいたのです。
タタラ製鉄を行うには、鉱石、或いは砂鉄、そして、多量の炭が必要なわけです。砂鉄は、川砂鉄と浜砂鉄があります。産鉄民族が、王権に庇護される時は、タタラ製鉄は、浜辺でおこなわれていたようです。浜辺に松林が多くあるのは、タタラ製鉄を行うためです。松は、高山性樹木です。その松が浜辺にあるのは、松から油分が多く含まれる炭が作れるため、産鉄民族が植林したからです。
しかし、王権が替わり、産鉄民族を敵視した場合、身を護るため、産鉄民族はタタラ製鉄を山奥でおこなっていたのです。この山奥に住む産鉄民族が、仏教組織により、山に隠れ住む「隠住→おに→鬼」とされてしまうのです。この採鉱のための穴掘り技術を持つ産鉄民族が、歴史上現れるのが、戦国時代の騎馬軍団の武田軍を支えた、金山衆です。
金山衆は、穴掘り技術だけではなく、タタラ製鉄、石切、石組、堀削などの高度土木技術を持ち、更に、騎馬により遠隔地と物流をおこなうネットワークをもっていたのです。この秦氏末裔の金山衆は、騎馬民族末裔の、景教のシンボル・マルタクロスを割菱にデザイン変えした家紋を持つ武田軍団が、1575年三河長篠の戦で、海洋民族末裔の織田信長により壊滅され、そして、1582年武田勝頼が自殺すると、騎馬民族末裔である徳川家康の配下となっているのです。
北条鎌倉時代、山の採掘権を仏教組織との争いで奪われれ、そして、仏教組織との戦いに敗れた産鉄民族は、タタラ製鉄技術の、火を治める技術者から、火治(ひじり)と言われ、その火治の民が、仏教組織の奴隷として、有髪の半僧半俗の「聖・ひじり」とされてしまうわけです。この聖には、薬草の知識があり、民衆の治療者として活躍していたのです。
仏教組織により、近畿地域の山々から追われた山の民は、東国を目指し、或いは、先祖の渡来地であった河内を目指すのです。その河内は、飛鳥時代には「秦王国」があり、平安時代中期には、河内源氏武士発祥の地であり、平安時代末期には、平家の陣地四国の屋島を急撃するために源義経が出陣した渡辺津が在った処です。
この北条鎌倉時代の近畿地域の勢力図は、京地域を亡命百済移民が支配する比叡山延暦寺、奈良地域を藤原氏が支配する興福寺、そして、多田源氏、渡辺党の武闘主力軍団を承久の乱で失った秦氏の河内地域があったのです。
この近畿地域の三勢力圏の渡来民族の順序としては、弥生時代渡来の秦氏の河内、飛鳥時代渡来の藤原氏(中臣族)の奈良、そして、平安時代に中国・唐から移民してきた亡命百済民の京であるわけです。しかし、最後に渡来した亡命百済民が、814年創作した「新撰姓氏録」では、百済移民は「皇族」で、藤原氏は「神族」で、そして、弥生・古墳時代、河内湾を干拓し、巨大古墳、大運河、幅十二mの古代高速道路を湿地帯の奈良盆地に建設していた秦氏は「蕃族」とされてしまったのです。
北条鎌倉政権と同調する、京の朝廷は、その河内に住む「蕃族」である秦氏末裔、そして、飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国末裔を賎民として貶める行動に出るのです。その手段として、「ケガレ」思想の、仏教組織による布教です。そのための手先として、鎌倉仏教僧が利用されるわけです。
「ケガレ」思想は、奈良・平安時代中期までと、平安末期から北条鎌倉時代とは、異なる解釈がされていたのです。
明治革命後、明治新政府は、王政復興を宣伝するために、645年唐進駐軍と中臣族とによる、突厥帝国コロニーである飛鳥ヤマト政権を壊滅したことを、「大化の改新」と改竄することをを発明し、その虚構を繕うために、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族の歴史を抹殺・隠蔽する手段を考え出すのです。
それは、平安時代、「オオミタカラ」である農耕民族文化思想で、オリエント渡来の秦氏の景教儀式である、太陽の化身である牡牛を屠る祭祀場を隠蔽するためのに、「塚→つか→じゅが→稲荷→いなり」の粗末な神社を建てて、牡牛を屠る祭祀場を稲の神様を祭る処と摩り替えたように、明治新政府は、奈良・平安初期での国家反逆行為の「ケガレ」、そして、平安末期から北条鎌倉時代の血・肉食の禁忌を守らぬ者を「ケガレ」としたものを、「木が枯れる→木枯→ケガレ」とし、農作物が枯れるの意味として解釈させようとしたのです。
奈良・平安時代中期までの「ケガレ」とは、国家に反逆する者が、「ケガレ」であったのです。しかし、平安末期から北条鎌倉時代にかけて、「ケガレ」の意味が変わるのです。では、どのようにして「ケガレ」の解釈が変わってしまったのでしょうか。
平安初期に錬金術師空海が、唐より持ち込んだ、民族差別のカースト制度を発明したバラモン・ヒンズー教思想を基に発明した真言宗が、「施陀羅悪人なり」と唱える騎馬民族差別思想が、平安末期、京の賀茂川の葬送地ギオンを支配した、アラブ・インド渡来の平家が隆盛となり、船を山車にしてギオン祭りを行う頃、「ケガレ」思想は、国家反逆者から、「法華経」により仏罰者と宣伝されたハンセン氏病者や不具者そして、肉食・魚食する者達を「ケガレ」としていくわけです。
当然、平安末期の京では、ギオン祭りは葬送地の髑髏が原(後の六波羅)で行われ、魚食する海洋民族で、伊勢から進出してきたアラブ・インドから渡来した民族である平家一族がおこなうわけですから、「ケガレ」ているので、京の平安貴族達は、ギオン祭りを避けるために、その祭りの期間中、神輿違えとして、京から避難していたのです。
何故、平安末期から北条鎌倉時代に、「ケガレ者」が、国家反逆者から、ハンセン氏病者・不具者・肉食者・魚食者に変えられてしまったのでしょうか。
816年嵯峨天皇は、桓武天皇により奈良の都に封印された、藤原氏の流れにある藤原薬子が、嵯峨天皇政権の転覆を目論んだ810年の反逆行為に対して、今後の藤原氏の国家反逆の陰謀を封じるために、令外官として検非違使を設置するのです。
検非違使とは、国家反逆者の「ケガレ」者である藤原氏を監視、そして、反逆行為を阻止するため、平安京で公安・治安警察業務をおこなう、嵯峨天皇の私設警察であったのです。
嵯峨天皇は、亡命百済移民末裔であったので、その検非違使も亡命百済移民末裔から選抜させていたのです。この官僚を兼ねた検非違使が、天皇や平安貴族に侍り、秘書謙警護をしたことにより、「侍り→侍→サムライ」と云われていくわけです。ですから、「サムライ」は武装はしていても、武官よりも、文官に近い存在であったのです。しかし、武装する「サムライ」は、武人であっても、「武士」ではないのです。武芸者である「もののふ」から「武士」が発生するのは、939〜941年に起こった天慶の乱後であったのです。
検非違使は、令外官と言えども、嵯峨天皇直属であったので、その権力は強かったのです。その検非違使が、飛鳥時代、遣隋使のソインコウ(日本名小野妹子)の肩書きが長吏であったのに、その高級役人としての長吏の肩書きが、北条鎌倉時代には「賎民頭」としての蔑称とされたように、鎌倉時代、室町時代と時代が経ることにより、その地位が下がり、江戸時代には、賎民並みに扱われてしまうのです。
平安時代初期、その検非違使は、公安警察業務の実行者として、散所、別所、湯浅、垣内などの捕虜収容所に居た陸奥国の蝦夷捕虜を使うわけです。何故、蝦夷の捕虜を公安警察業務の実行者として、検非違使が使ったかと言うと、それは、平安京を祟る怨霊鎮めのためだったのです。平安初期では、怨霊は、同族の者でなければ、鎮めることが出来ないと、信じられていたからです。このことから、蝦夷とは、飛鳥ヤマトを支配していた民族と同族であったことが分かるのです。
百済系桓武天皇が、唐進駐軍の支援の下、794年秦氏が支配していた山背国(秦王国)を乗っ取る前に、桓武天皇は、新羅系天武天皇の最期の血を引き継ぐ井上皇后母子を謀殺し、更に、実弟早良皇子も謀殺していたのです。
平安時代末期、平家が政権を支配するまでは、日本列島には、怨霊が跋扈していたのです。しかし、平清盛が政権を握ると、地獄世界を吹聴する平安仏教思想の源であるバラモン教やヒンズー教思想を知っている、アラブ・インドから渡来の平家が、平安仏教が宣伝する仏罰や祟りなど信じていないため、南都仏教の拠点である興福寺・東大寺を全焼させ、そして、僧兵が担ぐ神輿に矢を射掛ける前までは、神仏の霊や、前王権の怨霊による祟りは、広く貴族だけではなく、庶民にも信じられていたのです。それは、巨大古墳を壊した跡に、平城京を遷都したことにより、数十年前の平城京が怨霊に祟られた事実(実際は銅・水銀鉱毒症)を記憶として留めていたからです。
宗教者は、眼に見えない自然現象や理論的に説明できない出来事を、自己に都合よく解釈して、良いことは神の御技として、悪いことは怨霊・悪魔の業と吹聴する歴史的傾向が、ヨーロッパにも、日本列島にもあったようです。
暗黒時代の中世ヨーロッパでは、十二世紀から始まった、ヨーロッパ諸国をキリスト教思想で支配したキリスト教会により、敵対する者に対する異端諮問が、十五世紀から十八世紀にかけては、魔女裁判となっていったのです。その結果、キリスト教徒による魔女裁判により、特殊な技能を持ったひとが魔女として認定され、魔女達は火で燃やされてしまっていたのです。その魔女狩りによる犠牲者の総数は、四万人とも云われているのです。
この中世ヨーロッパでの魔女狩りの発生は、日本列島の穢多狩りと同じ発生経過を辿ったようです。始めは、キリスト教が弾圧・抹殺した対象者がキリスト教国への反逆者であったものが、後には、魔女(魔男も存在した。)に替わっていったように、日本列島の漢訳仏教の弾圧対象でも、奈良時代の国家反逆者から、鎌倉時代の穢多(施陀羅)へと替わって行ったのです。では、中世ヨーロッパで、何故、魔女狩りが発生したのでしょうか。
宗教と言うと、俗界の世界と異なり、経済活動から分離され、純粋思想だけの世界である、と信じているひとも多くいるようですが、その見方は偏っています。
キリスト教も漢訳仏教も、その宗教組織は基本的に自ら生産活動はしないため、他者からの金銭的支援がなければ、存在できなかったのです。つまり、商人組織やお金持ちの王や貴族の金銭的支援がなかったら、今日のキリスト教も漢訳仏教も存在していなかったのです。
古代国家は、人民を奴隷として搾取するための組織構造として、支配者階級の貴族層を形成するのです。国王は、貴族をして、人民を統治したのです。異民族や人民を支配するために、その国王の権威付けとして、神の存在が必要とされるため、宗教儀式を行う祭祀者が、王権により利用されるのです。
その王国との交易を望む国際交易商人は、手先として文化娯楽或いは病気の治療者として宗教者を、目指す王国に送り込むわけです。そして、その宗教者は、それらの文化娯楽開催の見返りや各種の宗教儀式開催のお礼として、王や貴族より多大な寄付を受けるのです。
国家が貴族により運営されていた時期は、宗教組織は、その寄生する国家維持のために、国家に反逆する者を処罰する機構となるわけです。古代キリスト教国では、キリスト思想に反する者を裁くために異端諮問をおこなっていたのです。日本列島では、唐進駐軍により律令国家体制を維持できていた奈良・平安中期までは、漢訳仏教は、国家反逆者を「ケガレ」者として、国家鎮護のために働いていたのです。
392年ローマ民衆の支持を失ったエウゲニウスは、国内の混乱を鎮めるために、新興宗教組織のユダヤ教ヨシュア派を、キリスト教としてローマ帝国の国教に昇格させ、エウゲニウスの政治に批判的であった軍人を抹殺するために、ローマ帝国の軍神だったミトラ神を歴史上壊滅し、そして、更に、国王の権威を高めるために人間キリストを神に変身させようとするローマ帝国の国教となったローマ・キリスト派の企みとして、431年東ローマ帝国のエフェソスの公会議で、キリストの神性を認めないネストリウスは、異端とされるのです。そして、キリストの神性を認めないネストリウス派は、435年東ローマ帝国から追放されるのです。
歴史教科書では、この東ローマ帝国から追放された、キリストの神性を認めないネストリウス派キリスト教徒のペルシャ人オロボン(阿羅本)が、635年唐に伝えた宗教が、「景教」となった、と云っているのです。しかし、小高い山頂で太陽神の化身牡牛を屠る景教は、「太陽の教え」を布教する宗教組織なのです。その「太陽の教え→ミトラ神→マイトレーヤ→弥勒菩薩、太陽の教え→ミトラ神→アトン神→アミ様→阿弥陀仏」は、その七世紀のオロボンの唐への渡来以前の六世紀には、中国大陸から日本列島の北九州→河内→飛鳥ヤマトへの渡来ルートで伝わっていたのです。
つまり、キリスト教の教義・儀式の多くは、太陽神のミトラ教(景教)の教義・儀式を取り入れたもので、中国大陸で、ネストリウス派キリスト教が「景教」と呼ばれたのではなく、歴史的にはその逆で、ネストリウス派キリスト教が、先に中国大陸に渡来していた「景教」に取り込まれていたのです。
中世ヨーロッパでは、その国家を支えた貴族層が、革命により壊滅し、国王の支配する土地が各地の豪族の私有地となり、宗教組織が、裕福だった貴族層の献金援助が期待できなくなった時、自らお金を稼ぐ方法を考えなければならなかったのです。そのひとつが、各地の豪族の私有地て働く人民や奴隷による、賽銭箱にお金を投げ入れる献金という行為です。では、ひとびとは、何故、見ず知らずの神様に献金をするのでしょうか。それは、病気の平癒や悩み事の解消のためです。つまり、宗教組織にとって、病気は商売の種だったのです。
このことが理解できれば、中世ヨーロッパで、何故、魔女狩りがおこなわれたかの原因が分かります。それは、魔女として認定されたひとの多くは、小動物の内臓や薬草から「くすり」を創薬する技術を持った民間治療者だったのです。キリスト教会は、民間治療者である魔女を火炙りにする理由として、「治療に薬草を使う者は、ひそかにであれ公然とであれ、悪魔との契約によってそれを行っているから。」、としているのです。しかし、魔女と契約するその悪魔とは、キリスト教が発明したものだったのです。実際に、悪魔とは、反キリスト者達の神様であったのです。
中世ヨーロッパでのキリスト教は、「治療というのは、まじないや占いによってなされるものではなく、カトリックの司祭が明言し実践しているように、断食と祈りを通して主(しゅ・キリスト)にひたすら懇願することによりなされるのです。」と、病気をキリスト教の神への「祈り」で平癒できると主張し、商売敵の民間治療者から治療権を奪うため、悪魔の手下である魔女を発明したわけです。
穢多の差別語が発明された北条鎌倉時代の日本列島でも、病気の平癒は、中臣神道では、ユダヤ教儀式と酷似した、塩と水による御祓い儀式で、そして、漢訳仏教では、拝火のゾロアスター教から導入した護摩による加持祈祷だったのです。
何故、大坂の道修町と富山県では、薬商者が多いのでしょうか。それは、古来その地には、騎馬民族末裔が多く住んでいたからです。そして、騎馬民族末裔徳川家康が湿地帯を居住地としたエドでは、日本橋・人形町界隈は、騎馬民族の血が流れる徳川将軍二代目秀忠までは、騎馬民族末裔、穢多頭の弾左衛門の支配地であったのです。しかし、百済の血が流れる三代目将軍徳川家光(第三百済王朝)により、弾左衛門の支配地は、浅草寺裏の湿地帯に移されてしまったのですが、その日本橋界隈にも薬商が多かったのです。
役座が、何故、薬草の神様である神農様を祀るのかは、それは、役座の先祖が武士で、武士の先祖が蝦夷で、蝦夷の先祖が飛鳥蘇我王朝の武人であったからです。その蘇我王朝の軍団を組織していたのが、六世紀、日本海から敦賀に渡来した、北極星を祀る突厥帝国軍と、瀬戸内海を経由して河内に上陸した、ローマ帝国軍神ミトラを祀る新羅花郎騎士団だったからです。
騎馬民族が、何故創薬技術を持っているかと言えば、馬、牛、羊と共に連続する移動で、それらの病んだ動物の草による自然治癒を日夜観察していたからです。箕の傘とカッパの渡世人のスタイルで各地を放浪する薬草の神である神農様は、行く先々の草を口に食み、自ら治験を繰り返していた、との伝説があるほどです。更に、動物の解体が日常である騎馬民族は、人体の仕組みも理解していたからです。
1774年前野良沢と杉田玄白による、オランダ語訳「ターヘル・アナトミア」を日本語版にした「解体新書」は、穢多頭弾左衛門の支配地小塚原で、騎馬民族末裔の穢多と言われる解剖者が行う解体作業を、それら両名は自ら執刀せず、側で見て原著を確認していた日本語による記録書であったのです。因みに、現代では尊敬されている医者、創薬業者は、平安時代(第一百済王朝)から江戸時代末期(第三百済王朝)まで、世間から賎民視扱いされていたのです。
第二百済王朝の北条鎌倉時代に、「源氏武士」が歴史上から消え、代わりに、穢多が発生するのです。しかし、日本列島において、その穢多の発生地域が限られていたのです。それは、北の北海道と南の沖縄には、民族差別の穢多の存在が認められないのです。何故そうなのかと推測すると、それらの地は王都ではなく、過疎地であるため、国際交易商人と共に行動する漢訳仏教が布教されていなかったのです。穢多の発生と、漢訳仏教とには大いに関係があったのです。
では、騎馬民族差別思想の弱い、「サムライ」が支配する東国と、騎馬民族差別思想の強い、漢訳仏教組織が支配する西国との、穢多の発生の違いは、どのように説明できるのでしょうか。
穢多の差別思想が、西国に比べ、東国の都である鎌倉で広まらなかったのは、それは、鎌倉は、漢訳仏教組織ではなく、禅宗に支配されていたからです。禅宗僧が、北条鎌倉政権の軍事・外交顧問を務めていることからも分かるように、鎌倉の地は、禅宗の支配地であったのです。ですから、聖徳太子を発明して「法華経」を宣伝する比叡山から放出された日蓮も親鸞も、鎌倉の地での布教は成功しなかったため、民族差別の激しい京都で布教活動をおこなっていたのです。
何故、禅宗が、騎馬民族差別に熱心ではなかったのかと言えば、それは、鎌倉の「武家」は、禅宗が中国大陸から輸入する書画骨董の主な販売先であったからです。そして、「漢訳仏典には空論が書かれていて、仏の道を説いてはいなかった。無駄な時間を費やしてしまった。」と、江戸時代の白隠禅師が述べていたように、禅宗では、騎馬民族の差別語の施陀羅が頻発する漢訳仏典の布教には、熱心ではなかったからです。
1206年即位した元帝国のチンギス汗が、東アジアの北方から南下するのを察知していた中国禅宗は、亡命先を源氏武士が支配していた鎌倉に求めたのです。それは、1216年鎌倉源氏武士三代目の実朝が、平氏の北条氏の陰謀を察知して、南宋の陳和卿を引見し、南宋亡命のために大船を造らせたことからも分かるように、源氏鎌倉幕府と南宋とには国際交易ルートを確立していたからです。
その実朝の鎌倉幕府を牛耳る北条氏からの脱出計画は、北条氏に露見してしまい、その三年後、1219年実朝は、「サムライ」の北条氏にそそのかされた公暁により暗殺されてしまったことにより、1192年から始まった源氏武士三代の短い源氏鎌倉政権が、ここに滅亡するわけです。
1279年南宋は元帝国に滅ぼされ、その結果、1221年承久の乱で、河内源氏武士団を壊滅させた北条氏が支配する鎌倉に、南宋から亡命してきた南宋僧の祖元は、鎌倉の地で禅宗を「武家」に広めるのです。武家も、騎馬民族差別思想を多く含む「法華経」などの仏典を布教しない禅宗の文化を取り入れ、禅宗寺を改良して、床の間と室内便所(雪隠禅師が持ち込んだため、屋内便所を「雪隠」と言った。)が設置された「武家屋敷」を建て、禅宗が中国から輸入した、山水画や壷などの書画骨董を、床の間に飾る文化が、関東の武家に広まるのです。
その東国に比べて、西国の漢訳仏教組織は、河内源氏の騎馬民族末裔を徹底的にイジメ抜くのです。
藤原氏の支配する奈良の興福寺では、源氏鎌倉時代、源氏棟梁源頼朝により、藤原氏の経済的拠点である南九州島津荘が取上げられてしまったことに対する報復です。
亡命百済貴族が支配する比叡山延暦寺では、663年新羅系の河内源氏武士の先祖が、母国百済を滅ぼしていた報復です。
源頼朝が源氏棟梁として統治した鎌倉時代初期に、西国の興福寺や延暦寺などの寺社領の荘園は、当然のように源氏武士により管理されていたのです。それは、飛鳥時代では、それらの近畿地域は、騎馬民族の支配地であったからです。
しかし、北条鎌倉時代、「サムライ」平氏北条氏と朝廷との陰謀の数々により、河内源氏の「武士」軍団が壊滅されてしまったため、源氏末裔は、賎民として貶められていくのです。
そのひとつの仕掛けが、飛鳥ヤマト時代の遣隋使ソインコウの官職であった長吏の貶めです。漢訳仏教組織は、「法華経」で仏罰者はハンセン氏病になると宣伝し、そのハンセン氏病者の世話を、秦氏末裔の賎民部落に押し付けるのです。これは、感染魔術となって、ハンセン氏病が、秦氏の長である長吏に感染し、その長吏も仏罰者のケガレ者となってしまったのです。
そして、漢訳仏教組織は、平安時代では天皇直属の検非違使の配下として、公安警察業務である怨霊鎮めの「もののふ」としての武芸者の「キヨメ」を、北条鎌倉時代には汚物処理の清掃業務の「キヨメ」とすり替えてしまうのです。
この平安時代の「キヨメ」業務を河内源氏がおこなったことにより、「もののふ」の武芸者が、939年平将門と藤原純友による平安政権転覆騒動を、武力で鎮圧したため、平安王朝から、「武士」として認めてもらえたのです。つまり、源氏武士は、河内から発生していたのです。
そして、清掃業務を行う「キヨメ」者を更に貶めるために、騎馬民族の肉食者を、錬金術師空海が宣伝した「施陀羅悪人ナリ。」から、施陀羅を屠者とし、戦闘で敵を殺す「武士」を屠者として、そして、「武士」の先祖が蝦夷であることを理由として、「武士」を俘囚末裔と宣伝し、漢訳仏教思想により、騎馬民族は穢れていると宣伝するのです。
漢訳仏教組織は、民族差別も商売に利用していたようで、昭和時代まで、高野山の真言宗のある寺では、「施陀羅・屠者のたぐいの穢れたる人を見たならば、このしんごんをとなうべし」と書かれたものを、「お守り札」として販売していたようです。
ケガレ(穢れ)の「穢」とは、祭儀のことです。しかし、その祭儀は、歌や踊りでの「祭り」ではなく、犠牲を捧げて行う祭儀のことです。
飛鳥時代、源氏の先祖の秦氏が、飛鳥ヤマトや近畿地域を支配していた時期、秦氏の祭祀者は、犠牲の牡牛を屠り、秦氏の神ミトラ(太陽神)に捧げていたのです。このことを、「日本書紀」では、皇極元年七月二十五日条に、「雨乞いのために、村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社の神を祭(いの)る」、とあることからも分かるように、飛鳥時代では、犠牲により神を祀っていたのです。その犠牲による祀りは、百済系桓武天皇の命令により、延暦十年(791年)と延暦二十年(801年)に牡牛の屠殺を禁止していたのです。古代での犠牲は、鳥やイノシシではなく、「牡牛」でなければならなかったのです。何故でしょうか。
古代日本列島で、何故、秦氏の祭祀者が、牡牛を屠っていたかと言えば、古代エジプトからの祭祀儀式が、飛鳥ヤマトにも伝来していたからです。
紀元前十四世紀、古代エジプトで、アメンホテプ四世は、多神教の祭祀者の横暴を抹殺するために、宗教改革として、ヒッタイト帝国で祀られていた三神セットの太陽神ミトラを素材として、唯一神、太陽神アトンを発明するわけです。そのころの黄道は、牡牛座の時代だったので、太陽神の化身が牡牛となっていたのです。
その古代エジプトの宗教思想が、ヒッタイト帝国から出稼ぎに来たヨセフ族末裔のエフライム族により、カナンの地にもたらされ、エフライム族は、太陽神バアル(太陽神アトンが変身)と牡牛を祀ることになるわけです。
そのエフライム族を中心に十部族(イスラエル民族)が、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより滅ぼされると、それらの十部族は、太陽神を祀るために牡牛を屠る祭祀儀式と共に歴史上から消えてしまうのです。
紀元前一世紀、太陽の化身牡牛を屠る儀式は、太陽神ミトラを軍神とするローマ帝国軍に引き継がれ、地下の聖堂で、12月25日の太陽神の復活日に、牡牛は祭祀者により屠られ、犠牲として、太陽神ミトラに捧げられていたのです。
これらの古代エジプトからの牡牛を屠る祭祀儀式の渡来を証明する史料は、645年唐進駐軍と中臣軍により、飛鳥ヤマトの王国を壊滅した時に(明治新政府は、645年にオリエント文化から、唐の仏教文化に替わったことを「大化の改新」と改竄したのです。)、古代エジプトの書籍やオリエントの書籍が全て焚書されてしまったため、史料として証明はできません。
しかし、四世紀以降に、河内平野に突然現れた巨大古墳には、漢訳仏教思想では肉体は唯の魂の乗り物にすぎないとし死者は燃やしてしまい、中臣神道思想では死者は穢れているとし死直前の者は家屋から運び出され河や谷に投棄するのとは異なり、古代エジプトの埋葬思想と同じに、死者は蘇ると信じて、石室に石棺が納められていたのです。
そして、その石棺は、九州阿蘇山からもたらされた石材が多く使われて、その石棺の内寸は、古代エジプトの測量単位、肘から中指の先までの長さとするキュビット(約524ミリ)で割り切れるのです。
これらの古代エジプトの埋葬思想を基に築造された巨大古墳を、藤原氏やその末裔が支配する明治新政府は、歴代の天皇稜と宣伝し、藤原氏が創作した「日本書紀」で日本初の天皇とする神武天皇の天皇陵を、明治革命前後に築造していたのです。
ですから、巨大古墳の学術的調査は今日でもタブーなのは、朝鮮半島慶州の天馬塚古墳からギリシャ・ローマ文化色の強い数々の騎馬民族の遺品が出土したように、それら河内・奈良の巨大古墳を調査すれば、古代エジプトやオリエントから渡来の遺品や騎馬民族の遺品が出土する可能性があるからです。
更に、河内平野が干拓される前の、河内湾に突き出た岬(後の上町台地)は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小高い山)と云われていたのです。因みに、秦氏の渡来元の朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅では、ワタはパタとなり「海」で、ナベは鍋底状の「丸い山」を意味していたのです。
そのように「日本書紀」などの正史では見えないものも、視点を少しずらすことにより、その正史が隠蔽した史実が見えるようになるのです。そのひとつに、氏族名があります。「日本書紀」で女帝推古天皇の大臣とした蘇我氏とは何者であったのでしょうか。その蘇我氏の二代目蘇我馬子は、「日本書紀」では、592年その当時天皇はまだ存在していないのに、崇峻天皇を謀殺したことになっているのです。日本国初代天皇は、672年即位の天武天皇からです。因みに、天皇(テンノウ)とは、騎馬民族の神である天神(テングリ)から発明されたものです。
簒奪王権は、前政権の歴史を抹殺・隠蔽することができなかった場合、歴史の改竄をおこなう傾向があるのです。その改竄の手段のひとつとして、神話の創作があります。「風土記」の創作は、前政権の歴史改竄の手段であったのです。
漢字二文字の人名・地名表記は、713年好字令以降であったのです。各地の「風土記」は、前政権の歴史を改竄するために、この漢字二文字表記で記述していくわけです。
では、当時の蘇我氏は、何と呼ばれていたのでしょうか。そのヒントは、607年遣隋使に任命された、日本名小野妹子です。「随書」では、その遣隋使はソインコウと記述されていたのです。では、ソとは何を意味しているのでしょうか。「ソ」とは、古代新羅語では、「牛」のことです。
その「ソ」が牛を意味しているのなら、蘇民将来の「蘇民」とは、ソ民で、「牛族」と言うことです。そして、屠蘇とは、「牛乳」のことです。そう云えば、醍醐とは「チーズ」の意味であったのです。
そのように古代新羅語でヤマト言葉を解読していくと、「牛頭」とは、古代新羅語の発音では「ウドゥ」で、日本式発音では「ゴズ」です。しかし、「頭」には古代新羅語の発音では「モリ」とも言うのです。つまり、牛頭は、古代新羅語の発音では、「ソッモリ」と言えるのです。では、この「ソッモリ」を、日本神話で調べると、スサノウ神話では、高天原から最初に降臨した処が「曽尸茂梨・ソシモリ」だったのです。では、その地は、日本列島であったのでしょうか。
古代新羅の国号は、斯(サ)です。「斯」の日本語発音は「ソ」です。つまり、「ソシモリ」の「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅国のことであったのです。この「ソ」が、「斯」で古代新羅のことで、そして、その「ソ」が、「牛」の意味もあることから、チンギス汗と同じ家紋の笹竜胆を部族の印とした、出自不明の源義経の幼名を「牛若丸」、と創作した意味が分かるのです。
それは、その「牛若丸」の「牛・ソ」とは、古代新羅の「斯」の意味でもあり、源義経を鎌倉源氏棟梁源頼朝の異母兄弟と作為するために、源義経の幼名を「牛若丸」と創作した作者は、河内源氏武士は、古代新羅から渡来した新羅花郎騎士の流れであることを知っていたからです。
その古代新羅から渡来した民族が、秦氏です。この秦氏末裔が、北条鎌倉時代に、賎民として、穢多としてイジメられていくのです。では、どのようにして、秦氏が賎民に貶められていったのでしょうか。
1333年山奥の「平家落人部落」から出陣した源氏武士は、源氏棟梁の足利尊氏の下に馳せ参じ、北条鎌倉幕府を武力で倒し、ここに第二百済王朝が壊滅するのです。そのことにより、平氏の北条政権にイジメられていた、秦氏末裔の遊芸者として渡世していた観阿弥・世阿弥親子は、源氏武将の足利義時に認められ、能楽を完成させ、1402年世阿弥は、「風姿花伝」を著し、能楽について語るのです。その「風姿花伝」で、能楽の祖は、秦河勝と述べているのです。
秦河勝とは、百済仏教伝来物語では、架空の聖徳太子の忠臣として描かれていて、聖徳太子から請けた、弥勒菩薩を安置するために、山城国に広隆寺を建てたことになっていたのです。そして、能楽の祖秦河勝は、世阿弥が「風姿花伝」で述べているように、能楽は猿楽から生まれたもので、猿楽者でもあったのです。
では、その猿楽とは何んなのでしょうか。猿楽の「猿」は、蔑称です。歴史上にその「猿」が現れるのは、秦氏末裔の万葉語学者の多人長が、812年に著した「古事記」の「天孫降臨」の条です。そこには、「私は国っ神で、名は猿田彦神と申します。ここにいるのは、天っ神のご子孫が天降りなさると聞きましたので、道案内をいたそうと思って、お迎えに参ったのです。」、とあるのです。では、この国っ神と天っ神の正体は何でしょうか。
「日本書紀」の仏教伝来物語では、新来の蕃神の仏を祀ると、国っ神が怒るから、仏を祀ることは出来ないとする廃仏派物部氏が、蕃神の仏を祀ることにした崇仏派蘇我氏に敗れたことにより、仏教が日本国に伝来した、としているのです。では、その「日本書紀」での国っ神とは、「古事記」で述べていた猿田彦神のことなのでしょうか。
教科書歴史では、神社は日本古来からの神を祀る処と教えているようですが、「日本書紀」で述べている蕃神の仏が渡来する552年以前に、その神社に祀られていた神が、国っ神だったのでしょうか。それは、違います。何故ならば、神社は、仏寺の後に建てられたものであるからです。歴史的に証明できる神社(宮)は、奈良の御蓋山麓の前政権の祭祀場跡に、神護景雲二年(768年)に築造された春日社が始めなのです。
では、「日本書紀」にある、皇極元年(641年)七月二十五日条に、「雨乞いのために、村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社の神を祭(いの)る」、とある牛馬を屠る宗教儀式は、神道儀式であったのでしょうか。それは、違います。中臣神道では、死穢は禁忌で、塩と水の御祓いにより、悪霊を除去し、神を祀っていたのです。では、その牛馬を殺して神を祭(いの)った宗教とは何なのでしょうか。
そこで、秦氏末裔の多人長による「古事記」の「私は国っ神で、名は猿田彦神と申します。」の暗号文が解けるのです。それは、蕃神の仏の渡来を阻止したのは、物部氏ではなく、国っ神である猿田彦神であったのです。その猿田彦神は、社で牡牛を屠り、猿田彦神の国っ神を「穢」の犠牲により祀っていたのです。
その根拠は、物部氏の氏名が発明されたのは、「日本書紀」での587年の物部守屋と蘇我馬子との宗教戦争から126年後の、713年以降であったからです。では、神仏戦争物語で、河内国を本拠地とする廃仏派の物部氏とは、誰のことだったのでしようか。それは、河内に「秦王国」を構えた秦氏のことです。秦氏を、秦→しん→申→さる→猿、とすると、猿田彦とは、秦氏のことであったわけです。そして、猿田彦の「彦」とは、「ヒコ」→日子で、太陽の子孫の意味です。ですから、「猿田彦」とは、「太陽神の子孫の秦氏」、と言う意味になるのです。
では、物部氏の「物」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「物」は「モノ」で、それは古代日本列島では、霊、魂、精霊を意味していたのです。つまり、物部氏とは、それらの精霊を司る「呪術性を持った部族」のことで、秦氏の祭祀氏族であったのです。
では、その仏教伝来物語の物部氏と蘇我氏との神仏戦争は、何を語っていたのでしょうか。それは、645年の蘇我王朝(穢の祭儀)と唐進駐軍・中臣軍(仏の祭儀)との、牡牛の屠り儀式と念仏の儀式との宗教戦争だったのです。
その宗教戦争に勝った唐進駐軍と中臣軍は、645年勝利宣言として、仏教興隆の詔を発していたのです。そして、勝者の唐進駐軍と中臣軍は、秦氏の支配地であった河内の秦王国の国際交易港の難波(なんば←なにわ←浪速←ローラン)に、占領軍の砦として、仏寺の四天王寺を建立するわけです。
「古事記」の文章を斜め読みすることにより、「日本書紀」の記述が暴かれるのは、それは、秦氏末裔多人長が、「日本書紀」の講義講師であったので、日本列島の乗っ取りを企む藤原氏による、「日本書紀」の偽書性を見抜いていたからです。更に、平安初期、山背国(秦王国)を乗っ取った百済系桓武天皇は、その「日本書紀」の新羅事跡を改竄し、そして、百済史を挿入する改竄を行っていたのです。
多人長が「古事記」を著した理由は、その「日本書紀」による飛鳥ヤマトの偽歴史を暴くためだったのです。つまり、「古事記」は、「聖書」の偽書性を暴いた「ヨハネの黙示録」と同じに、「日本書紀」の偽書性を暴くための「黙示録」だったのです。そのために、「古事記」の記述文章は、「日本書紀」の飛鳥時代の女帝推古天皇までの注釈文章の全てに対応して書かれているのです。
このことからも、「古事記」が、720年「日本書紀」よりも前の、712年に完成していない根拠のひとつになっているのです。日本列島の乗っ取りを企む藤原氏が、先住者の秦氏の歴史を抹殺するための偽書が「日本書紀」だったのです。
奈良時代、唐進駐軍の軍事支援の下、奈良盆地を支配していた藤原氏は、その独善性により、唐進駐軍から排除され、その代理とした亡命百済移民を支援して平安王朝を築くわけです。しかし、907年母国唐が滅亡したため唐進駐軍の軍事力が衰えたため、奈良の都に封印されていた藤原氏が、再び暗躍するわけです。
そして、復活した藤原氏は、亡命百済貴族を天皇とした平安王朝を、藤原氏の手先の錬金術師空海が発明した真言密教儀式で牛耳るわけです。その平安王朝を支配するには、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏が邪魔となるわけです。
そして、飛鳥ヤマトで「穢の祭儀」を行っていた祭祀者達を、貶めるために河原に追いやるわけです。しかし、秦氏の祭祀者は、その河原で祭祀儀式を行うのです。この河原での祭祀儀式から芸能が発生するわけです。その河原での芸能は、「穢」の流れにあるため、呪術性が強く残っていたのです。
その秦氏末裔の芸能民の呪術性を抹殺する手段として、インドのバラモン教から肉食民族を貶めるためのケガレ思想を導入して、国家反逆としての「ケガレ」を、汚わいの意味の「穢れ」と摩り替えていくのです。そして、屠者の意味である施陀羅を、「穢れが多い」の意味で、「穢多」とするのです。つまり、ミトラ教の太陽神の化身牡牛を屠る秦氏の祭儀を、「穢れ」とし、その犠牲を行う民族である秦氏末裔を、「穢れ者」とするわけです。
このケガレ思想をバックアップしたのが、血と肉食の禁忌思想であるのです。そのために利用されたのが、漢訳仏教です。その漢訳仏教の無数にある仏典には、騎馬民族を貶める差別語が沢山あったからです。
北条鎌倉時代、その騎馬民族差別語が多くある仏典を、比叡山延暦寺で学んだ鎌倉仏教僧は、禅宗が支配する東国ではなく、漢訳仏教の支配地の西国で、その騎馬民族差別思想を庶民に布教したため、西国での民族差別が、東国よりも強くなっていたのです。
しかし、源氏の復活により、北条鎌倉幕府が倒れると、賎民と言われた芸能民達は、その室町時代の源氏政権下で、古来の技術を開花させていくのです。それらが、能楽、造園、茶道、華道などの伝統日本文化と言われるものです。
しかし、戦国時代末期、イエズス会から寝返った、藤原氏の傀儡となった関白豊臣秀吉は、秦氏末裔を再び賎民として貶めていくのです。その差別が最も強かったのが大坂です。大坂は、古来「秦王国」の地であったからです。そして、河内源氏発祥の地、ワタナベ(岬の意味)を穢多村とし、淀川河口の湿地帯に追いやるのです。それと同時に、豊臣秀吉の宿敵・騎馬民族末裔徳川家康も、三河から関東の荒川河口の湿地帯に追いやるのです。
しかし、古代、飛鳥ヤマトと河内平野を支配していた秦氏は技術集団部族連合であったので、古代エジプトの高度土木技術、ヒッタイト帝国の鍛造タタラ製鉄技術、ギリシャ文化継承の祭祀儀式と芸能、そして、突厥民族(チュルク)の馬での物流による商業技術を保持していたため、簒奪王権の武器である漢訳仏教思想による、施陀羅や穢多などの差別思想に挫けることなく、徳川三代目将軍家光から始まる、逆境の第三百済王朝の江戸時代を生き抜くのです。
608年遣隋使裴世清が見た「秦王国」の都市国家が、日本列島の歴史から消えたのは、騎馬民族末裔徳川家康により大坂穢多村(秦王国)から呼び寄せられた秦氏末裔と共に、湿地帯のエドを開拓し、そして、徳川家康の私設公安・治安警察(江戸時代版の検非違使→役座)として働いた先祖から第十三代目の穢多頭弾左衛門が、浅草寺裏の新町(=秦町・江戸幕府からの治外法権の自治町。穢多身分のための役所を構えていた。税制も幕府と異なり、独自に人頭税を徴収していた。)で幕末を迎え、そして、「弾直樹」と改名した、1868年明治維新であったのです。
そのような裏面史が理解できれば、江戸時代の役人の縄が不浄と云われた歴史が理解できるのです。
1600年関が原の戦いで、騎馬民族末裔徳川家康が勝利すると、徳川家康は、関白豊臣秀吉により穢多と貶められた、大坂の穢多村の住民を役人として引き立てるのです。これは、織田信長が、1568年足利義昭を奉じて入京した時、賎民余部を配下として取り立てたことに通じます。それは、騎馬民族末裔の徳川家康も海洋民族末裔の織田信長も、仏敵の鬼の末裔であったからです。
北条鎌倉時代、1221年承久の乱の陰謀により、河内源氏武士の支配から解放された漢訳仏教組織は、西国の寺社領を拡大するために、北条氏と朝廷の陰謀により壊滅された源氏武士団末裔を部落に押し込め、寺社の奴隷である犬神人としていたのです。
その西国での賎民部落の中心として、平安仏教の比叡山延暦寺が支配した清水坂部落と、奈良仏教の興福寺が支配した奈良坂部落があったのです。この二つの部落は、京における仏教ビジネスの利権を廻り、度々戦争を繰り返していたのです。その寺同士による戦争の主役は賎民で、賎民の犬神人と言えども、以前は源氏武士末裔であったので、その戦闘力は、農耕民を凌いでいたのです。
豊臣秀吉が、古代の「秦王国」末裔、上町台地の大坂の住民を、不可触賎民の穢多に貶めた理由は二つあります。
そのひとつは、その大坂の住民の戦闘力だったのです。それは、イエズス会が企む東洋一の国際商業都市大坂の支配権争奪のための石山合戦での、一向宗(浄土真宗)と、イエズス会傀儡軍の織田信長軍団との十年戦争を、羽柴秀吉(豊臣秀吉の前名)が体験していたからです。
その一向宗の戦闘部隊には、源氏武士の流れを引き継いだ穢多軍団がいたことにより、イエズス会から提供された最新式銃で武装した織田信長軍団の攻撃をかわせたのです。それは、穢多とは秦氏の末裔であったので、巨大古墳築造の飛鳥時代から伝承されていた古代エジプトの石切・土木建築技術による深堀と、石材の防御壁により、織田信長軍団による最新銃の攻撃を十年間も防ぐことができたのです。この秦氏末裔の穢多の組織的戦闘技術を、豊臣秀吉は恐れたのです。
そして、もうひとつの理由は、羽柴秀吉から改姓した、「豊臣」にあったのです。
イエズス会の傭兵として出世した羽柴秀吉は、本能寺での織田信長の爆殺後、イエズス会の衰えを確認すると、南九州から京への火薬の密貿易で勢力を盛り返した藤原氏(近衛家)の養子となり、一時藤原姓を名乗ったのです。しかし、何故か、豊臣姓に替えていたのです。それは、何故でしょうか。
羽柴秀吉が、イエズス会の影響下にあった、1583年大坂城を修築し、大坂に城下町を建設する時、その一等地にイエズス会の教会建設の許可を与えていたのです。このことに対して、イエズス会のスパイであるフロイスは、「かって大坂の街が、日本中で極悪の宗派のひとつであ一向宗の本山であったように、今や主なるデウスはこの街をキリストの福音の伝播のために、それにまったくふさわしい中心地として改造することを嘉し給うたかのようである」と、「フロイス日本史」に記していたのです。しかし、権力志向の羽柴秀吉は、イエズス会から藤原氏に寝返るのです。
出自不詳の羽柴秀吉は、権力欲が人一倍強かったようで、日本列島の歴史を「日本書紀」で改竄して君臨していた藤原氏の姓に飽き足らなかったのです。そこで、藤原氏の上をいく姓を見つけたのです。それが、「豊臣」姓です。「豊臣」とは、「豊国」の臣(配下)と言う意味です。では、北九州にあった「豊国」とは、歴史上どのような国であったのでしょうか。
「豊国」は、630年唐帝国が、北東アジアを支配していた騎馬民族の東突厥帝国を滅ぼした後、645年東突厥帝国のコロニーである飛鳥ヤマトの王国を滅ぼした唐軍により、日本列島を支配するためのテクノロジーである律令制度が施行される以前の、北九州の宇佐八幡のあった処の国のことです。
その唐進駐軍が渡来する前、つまり、「日本書紀」を創作した藤原氏が、藤原氏でなかった時代の「豊国」の臣下であれば、歴史的にも、階級的にも藤原氏より上位である理屈です。そこで、羽柴秀吉は、豊臣姓を発明し、豊臣秀吉と名乗ったわけです。
では、その宇佐八幡のある「豊国」とは、史実としては、どのような国だったのでしょうか。その謎を解くヒントは、宇佐八幡の「宇佐」(ウサ)にあるのです。その「宇佐」とは、漢字二文字は、オリエント文化の飛鳥時代を隠蔽するために、713年以降に発明された表記であるので、宇佐の二文字地名は、713年以降に発明されたものであることが分かるのです。では、「宇佐」の以前は、何と呼ばれていたのでしょうか。
713年以降、唐進駐軍にコントロールされた奈良朝廷により、各国の豪族に、「風土記」の編纂を命じ、その地の歴史を漢字二文字の人名・地名で表記させたのは、それ以前の人名・地名を抹殺、或いは、隠蔽するためだったのです。ですから、713年以前の歴史を知るには、二文字の人名・地名を否定する必要があるのです。では、どのようにして古代史を復元するかといえば、そのひとつの方法は、二文字漢字をカタカナに表記しなおし、そのカタカナの人名・地名を分解し、整理することです。
その「宇佐」を分解すると、「ウ」と「サ」です。その「サ」に対応するのは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅です。
古代新羅の国号は、斯(サ)と言われていたのです。そして、「斯」の日本語発音は「ソ」です。「ソ」「サ」の付く二文字漢字の地名を九州で調べると、「宇佐」の他に「阿蘇」が見つかります。その阿蘇山から産出された石材は、四世紀から出現した、河内平野の巨大古墳の石棺に使われていたのです。
では、八世紀以前の北九州を描写した史料はないかと調べると、「随書」に行き着くのです。「随書」には、大業四年(608年)の記事として、

文林郎裴清(日本史料では裴世清)を倭国に遣わすに、百済を渡り、行きて竹島に至る。一支国に至る。また、竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏と同じ。以て夷州となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より東みな倭に付庸す。

この「隋書」の文章からも分かるように、「日本書紀」には四世紀から万世一系の天皇家が統治する「大和朝廷」が存在していたと記述していますが、七世紀の日本列島には、「倭国」はあっても、「大和朝廷」などなかったのです。ましてや、「日本国」もなかったのです。そして、七世紀の飛鳥ヤマトには、「日本書紀」が述べているように女帝推古天皇も聖徳太子(厩戸皇子)もいなかったのです。
七世紀の飛鳥ヤマトに居たのは、遣隋使ソインコウ(ソ→斯→古代新羅。ギリシャ・ローマ文化の「新羅のインコウ」)と倭国男王アマタリヒコ(アマ→天→天子・テングリ→「騎馬民族の王タリヒコ」)であったのです。
では、その七世紀の日本列島の九州にあった「豊国」と云われる国は、一支国とは壱岐島のことで、その次の竹斯国は筑紫国であるので、その東が「隋書」で述べられている「秦王国」であるならば、日本史で言うところの「豊国」と「秦王国」とは地理的に一致するわけです。つまり、「豊国」とは、奈良王朝により、ギリシャ・ローマ文化の「秦王国」を抹殺・隠蔽するために発明された国名であったのです。
秦王国(豊国)が、蘇我王国(大和朝廷)よりも歴史的に古いことは、神護景雲3年(769年)の「道鏡事件」で、和気清麻呂が、藤原氏の歴史では皇室の祖神を祀っていたと云われる「伊勢神宮」ではなく、北九州の秦王国にあった「宇佐八幡」へ、神託を受けに行ったことでも証明できます。
もしも、伊勢神宮が、日本古来の皇室の祖神を祀っていたのならば、何故、朝廷の命により、伊勢神宮よりも遥かに遠い、北九州の宇佐八幡まで神託を受けに行ったのでしょうか。それは、769年時点では、685年に新羅系天武天皇が、道教思想により建立した「観」を、藤原氏が徹底的に破壊し、その跡に伊勢神宮を新設したにもかかわらず、天武天皇の、牡牛を屠る犠牲により祭祀をおこなう道教の観の影響が、未だ消えていなかったからです。
そして、北九州の筑紫国には部族名の物部(物部とは、秦氏を抹殺・隠蔽するために、713年以降に発明された部族名。)が多く住み、そして、巨大古墳が築造される時期に、河内を中心に近畿ヤマトにも物部(秦氏)が多く住んでいたことは、「秦王国」の、北九州から近畿ヤマトへの移動が示唆されるのです。
その根拠として、その北九州の「豊国」、つまり「秦王国」であった処の戸籍を記した、大宝二年(702年)に編纂された正倉院文書の「豊前国戸籍」には、仲津郡(現在の行橋市付近)の丁里(村名)の人口404人のうち、秦部姓と勝(スグリ・古代新羅での村長)姓が、377人と記述されていたのです。
つまり、羽柴秀吉は、唐進駐軍に軍事支援された中臣軍(後の藤原氏)が、近畿地域を支配する以前の近畿地域は、「秦王国」(日本史では「豊国」)が支配していたことを、何らかの方法で知っていたのでしょう。
藤原氏の上を行く豊臣秀吉が、豊臣秀吉でいられるには、古代エジプトの唯一神・太陽神アトンを唯一神ヤハヴェと改竄し、導入したユダヤ教成立の秘密を知っているイスラエル民族を、ユダヤ民族が不可触賎民サマリア人としたように、「豊国」の秘密を知っている「秦王国」末裔を、藤原氏と豊臣秀吉は、歴史上抹殺しなければならなかったのです。そのために、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉によるその手段が、河内を含む大坂を支配していた「秦王国」末裔を、人間交わりが出来ない異民族賎民のアウトカーストの「穢多」にしたわけです。
1591年関白豊臣秀吉は、その「秦王国」末裔である河内源氏武士の流れにある河内平野に暮していた、鎌倉時代に親鸞が宣伝した阿弥陀様(古代エジプトの太陽神アトン→アミ様)を信じた住民を、農耕民と分離するために、全国の戸口調査をおこない、「士農工商」の身分法を定めたのです。この豊臣秀吉による、日本刀(騎馬民族・突厥帝国軍の蕨手刀から改良した刀)と槍(ロンギヌスの槍)で武装した野武士と農耕民とを分離する身分法が、第三百済王朝の江戸時代に発明された、日本版カースト制度の「士農工商・穢多非人」の基礎となるわけです。
1614年大坂冬の陣、そして、翌年1615年大坂夏の陣で、秦氏末裔の高度土木技術を持った元武田騎馬軍団臣下の金山衆や河内源氏武士の流れにある一向宗敗残兵に支援された徳川家康は、宿敵豊臣家を滅亡させるのです。
その後、徳川家康は、豊臣秀吉により徳川家康を三河から穢れ地のエドへ移封したこと、騎馬民族の同族を穢多身分へ貶めたこと、そして、先祖秦氏の渡来元の朝鮮半島での蛮行の数々等に対して、豊臣秀吉を神として祀る墓を暴き、そして、その豊臣秀吉の遺骨を何処へと散逸させるのです。
しかし、第三百済王朝の江戸時代中期以降では、出自不明の豊臣秀吉の出自を創作した物語で、その幼名が日吉丸(ひよし→イルギ。百済系か?)と云われていたことからも分かるように、豊臣秀吉は第三百済王朝の江戸時代中期には庶民に人気があったのですが、朝鮮半島の韓民族から極悪人と評価されていた豊臣秀吉が、藤原氏が復活した明治維新により、中臣神道と共に復活し、豊臣秀吉は神となり、豊国神社に祀られているのです。
1616年源氏棟梁の徳川家康は、戦国末期に公家(北条鎌倉時代の「武士」を取り込んだ「サムライ」社会が「武家」と称したことに対して、京の亡命百済貴族を皇族としていたものが、藤原氏が皇族に取り込まれると、「公家」と称した。)と結託したイエズス会組織により爆殺された織田信長のように、歴史教科書ではテンプラの食べ過ぎとなっているようですが、毒殺されるのです。その暗殺グループの一員として考えられるのが、藤原氏の傀儡の、明智光秀の流れを継ぐ、お福(後の春日局)です。
1582年織田信長が、本能寺で爆殺された理由のひとつは、イエズス会の日本国渡来の第一の目的であった、日本国を支配するために、京を支配していた比叡山延暦寺と大坂を支配していた石山本願寺との、日本列島の商業経済を牛耳っていた漢訳仏教組織の壊滅で、イエズス会の目的が完遂していたからです。イエズス会の命令に従わない、我がままになった織田信長は、もはや用済みだったのです。
しかし、その仏教組織壊滅が完了し、商業権を仏教組織が握っていた市・座を開放し「楽市楽座」とした後、織田信長は、今まで軍事援助をしていたイエズス会の神を崇拝するどころか、安土城に「天主閣」を設け、織田信長自ら神となり、織田信長を崇拝・祀るように臣下に強いていたのです。
更に、織田信長は、イエズス会の日本国支配の目的を無視して、日本国王となるためとして、本能寺の変が起こった日には、京の正親町天皇を脅すために、明智光秀に命じて馬揃え(軍事パレード)を計画していたのです。
織田信長は、その軍事パレードの前祝いとして、鎌倉禅僧が中国からもたらした茶での博打・闘茶から、わびさびの茶道を発明したキリシタンの千利休(賎の利休→賎民の利休)に、本能寺での茶会運営を仕切らせていたのです。しかし、その茶会翌日の未明、明智光秀の軍事パレード隊が到着する寸前に、本能寺は爆発炎上していたのです。
元々、本能寺は、仏を祀る仏寺などではなく、日蓮が発明した法華宗の軍団が構築した、比叡山延暦寺軍団に対しての砦であったのです。しかし、比叡山延暦寺との戦いでの法華宗軍団の敗北後、藤原氏が改造した、藤原氏の南海交易ルートである、イエズス会の基地がある南インド→南九州坊津→種子島→雑賀→根来寺→本能寺で、ヨーロッパから銃・弾薬を密輸入し、それらを戦国大名達に売り捌くための、京のイエズス会の南蛮寺と地下で通じていた、武器・弾薬倉庫であったのです。
では、1616年徳川家康は、何故、毒殺されたのでしょうか。
徳川家康も、織田信長が正親町天皇を脅したのと同じように、亡命百済貴族の後水尾天皇に退位するように脅していたのです。それは、織田信長も徳川家康も、平安時代の簒奪王朝である百済系天皇家により、海洋民族と騎馬民族の先祖が、賎民として貶められていたからです。
もし、天皇家が万世一系であるならば、天皇とは、騎馬民族の天子(テングリ)から発明されたものであるわけですから、騎馬民族末裔を、屠者の意味の施陀羅から、穢れ多いの意味の「穢多」などの蔑称で、天皇家が中心となってイジメるはずはないのです。
しかし、実際に、百済系天皇家は、「施陀羅悪人なり」と唱える錬金術師空海が発明した密教でのインドのダキニ(鬼女)の呪文の仏教思想により、天皇家の祀りごとを第三百済王朝末期(江戸時代末期)までおこなっていたのです。
そして、江戸時代中期から、百済系の比叡山延暦寺が布教する「法華経」思想で、魚食・肉食する仏罰者として、騎馬民族・海洋民族末裔を「穢多」としてイジメていたのです。
天皇家が万世一系であるならば、何故、百済系桓武天皇から考明天皇まで、伊勢神宮に正式参拝をしていなかったのでしょう。それは、伊勢神宮の前身である「道教の観」(観→テラ→事務所謙祭祀場)は、母国百済を滅ぼした、騎馬民族の新羅系天武天皇が、685年に建立していたからです。(伊勢神宮は、八世紀の奈良時代に建立。)
奈良時代に、藤原氏が、「秦王国」の秦氏の神・太陽神ミトラを隠蔽するために、天照大神を発明して、その「道教の観」を徹底的に破壊した跡に、伊勢神宮(外宮)を建立したのです。では、その観で祀られていた秦氏の神は、何処へ行ってしまったのでしょう。それは、伊勢神宮の外宮近くで、「猿田彦の神」として祀られていたのです。
「猿田彦」とは、「日本書記」で前政権の氏族「太陽神の子孫秦氏」を、藤原氏が隠蔽し、そして、貶しめるためのトリック人物であったのです。「猿」と呼ばれるものを、「秦」に置き換えてみると、例えば「猿楽」→「秦楽」のように、河原者と云われた遊芸能民と言われたひと達が、藤原氏の奈良王朝に敗れた前政権の祭祀氏族末裔であったことが理解できるでしょう。
そのように、海洋民族・騎馬民族末裔を、漢訳仏教思想でイジメていた、百済系天皇家も、奈良・平安時代中期まで、唐進駐軍がもたらした人民を搾取するシステムである律令制度を利用して庶民を農奴として搾取していたものが、鎌倉・室町時代の武家時代を経ると完全に消滅してしまい、天皇家の家計を支える経済的基盤は少なくなっていたのです。
そこで、戦国時代の百済系天皇家は、天皇のお墨付きを、お金に替えていたのです。そのひとつが、漢訳仏教高僧が着る紫衣の認可権です。徳川家康の死後、1629年には、紫衣事件が起こるのですが、その天皇家を巻き込んだ騒動のキッカケを創ったのが、徳川家康であったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康にとって、天皇が許可を与え、その紫衣を漢訳仏教の高僧が権威付けのために着衣することは、我慢ならなかったのです。それは、紫衣とは、元は、645年唐進駐軍と中臣軍に飛鳥王朝が敗れ、そして、唐から持ち込んだ漢訳仏教と道教・景教との宗教戦争に敗れた(この「漢訳仏教」と「道教・景教」との宗教戦争を、「日本書紀」では時代を前にずらし、「廃仏派の物部氏」と「崇仏派の蘇我氏」との「神仏戦争」として改竄した。)、「道教」の真人(最高級の道士)の着衣であったからです。
道教思想では、世界を統率する太一(北極星)を、その「北極星」を廻り侍る「北斗七星」である真人が世話をするわけです。その太一を世話する真人の着衣の紫衣を、「道教」を抹殺した漢訳仏教の高僧が権威付けのために、百済系天皇家に大金を払い許可を得て着衣することは、朝鮮学者から朱子学を学んでいた、騎馬民族末裔の徳川家康には、我慢がならなかったのです。
この天皇家とのイザコザの使者として、徳川家康は「お福」(後の春日局)を指名していたのです。何故、皇族への使者が、「お福」であったのかは、「お福」は、徳川家康が1582年の山崎の戦いで、イエズス会からの密命により明智一族を見殺しにした負い目があり、そして、織田信長の下手人にされた明智光秀の重臣の娘で、長く公家に養われていたので高い教養があったからです。
お福は、徳川将軍二代目秀忠の次男竹千代の乳母として、徳川家康に雇われたと云われていますが、そのお福の徳川家康に対する態度から推察すると、お福愛妾説の説得性があるのです。
そのお福の徳川家康に対する態度とは、孫の乳母に過ぎないお福が、将軍世継ぎ問題で、直接徳川家康を駿府まで訪ね、直訴しているのです。その結果、竹千代は、徳川将軍三代目家光となるわけです。
何故、お福がそのように徳川家康に接近できたかの背景には、比叡山の怪僧、天海の存在が示唆されるのです。その天海の影響のひとつとして、徳川三代将軍家光が、疱瘡に罹った時、春日局となっていたお福は、山王社と東照宮に詣でていたのです。その山王社と東照宮とは、天海と大いに関係があったのです。
山王社の神とは、百済系桓武天皇が支配した平安時代に、奈良を支配していた藤原氏の春日社に対抗するためと、そして、山背国(秦王国)の秦氏一族が比叡山で、牡牛を屠り祀っていた太陽神ミトラを、「魔多羅神」として隠蔽抹殺するために、中国山東半島の土着の神・シャンワンを、比叡山に導入した神なのです。
このシャンワン神は、山王(シャンワン→さんのう)→日枝(イルギ→ひえ)→日吉(イルギ→ひよし)へと変身して、その出自を抹殺・隠蔽するのですが、その源は、亡命百済移民の中国での神であったのです。
そして、日光東照宮は、1616年徳川家康が毒殺されると、翌年1617年徳川家康と秦氏末裔弾左衛門とが、湿地帯を開拓して開発したエドを怨霊から護るために、建立したのです。しかし、1624年比叡山の怪僧天海の指図で、その騎馬民族の徳川家と秦氏末裔の穢多頭弾左衛門のエドを護っていた質素な東照宮が、世良田部落へ移築され、そして、新たに金ぴかの日光東照宮陽明門が建立されるのです。その門は、騎馬民族の神である北極星を遮るように、真北に建てられていたのです。
このお福であった春日局の行動は、河内源氏武士の鎌倉幕府を乗っ取った、「サムライ」北条氏の尼将軍とダブルのです。
源氏棟梁三代を暗殺した百済系北条氏の「サムライ」が、源氏武士団を謀略により次々と謀殺したように、徳川二代目将軍秀忠が、1623年秀忠の次男と云われる家光に、徳川家康の遺言により、三代目将軍職を譲り、そして、1632年死去すると、三代目将軍家光は、徳川家康の戦国時代から関が原の戦までの忠臣の「武士」達に難癖を付けて、左遷或いはお家断絶で抹殺するのです。
徳川三代目将軍家光に没落させられた徳川家康の主な忠臣達とは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正らの末裔達です。
これらの「武士」の中には、石山合戦での敗残兵が多くいたのです。しかし、徳川家康は、その石山合戦の主役である浄土真宗が、藤原氏と深い関係にあったことを知っていたので、その浄土真宗の石山本願寺に散々利用された敗残兵達を配下として迎えたのです。
石山本願寺が、穢多として民族差別をされた秦氏末裔の軍事力と軍資金を、浄土真宗の組織固めのために利用したことは、1585年羽柴秀吉(後に豊臣秀吉と改名)が、石山本願寺軍団の紀伊の根来衆と雑賀衆を、キリシタン大名の高山右近と共に滅ぼし、更に、南九州の秦氏末裔島津氏をイエズス会九州地区の大友氏や有馬氏などのキリシタン大名の軍事力を借りて倒すと、全国を統一したイエズス会から藤原氏に寝返った羽柴秀吉の顔色を伺い、そのイエズス会軍団に最後まで抵抗していた石山本願寺の末社を、石山本願寺自らが「穢多寺」として貶めていたからです。戦国末期に、穢多寺は、奈良・平安仏教からだけではなく、浄土真宗からも生まれていたのです。
そもそも、石山本願寺が、穢多と貶めた騎馬民族末裔の秦氏を含めて生活に苦しむ者達と共に、太陽神の下に平等世界を築こうとの目的を持っていたならば、1580年藤原氏が仲介した正親町天皇による、イエズス会傀儡軍団の織田信長との和睦交渉を、石山本願寺は撥ね付けていたでしょう。
しかし、石山本願寺は、その和睦を拒否しなかったことにより、秦氏末裔と同族が多く暮す毛利軍団からの軍事物資が途絶えたことにより、石山本願寺軍団には厭世気分が蔓延したところを、織田信長軍の総攻撃を受けて壊滅するわけです。この石山本願寺壊滅の史実を隠蔽するために、九鬼海賊軍団の鉄鋼船の物語が創作されるわけです。科学的に考えても、木造船に鉄板を貼り付ければ、総重量が増え、船自体の運行を妨げるばかりか、バランスもとれないことは明白です。では、その九鬼海軍はどのような武器で、雑賀海軍や毛利海軍を壊滅したのでしょうか。それは、1576年イエズス会が大砲を持ち込んだからです。雑賀海軍と毛利海軍の多くの船は、その大砲により沈没していたのです。そして、その大砲の威力は、敵軍団の士気を大いに挫いたのです。
その大砲と共に傭兵軍団も渡来していたのです。その中に、十字軍のマルタ騎士団のロルテス(日本名山科勝成)がいたのです。ロルテスは、大砲の名手で、九州の多くの城は、彼が指揮する大砲隊により壊滅するわけです。
この権力に擦り寄る浄土真宗が、秦氏末裔達を民族平等思想でむかい入れていなかったことは、北条鎌倉時代の親鸞の布教で分かるのです。それは、たとえ話として、「親殺しはいけない。」と言うことを、「親殺しは、施陀羅と同じだ。」と述べていたのです。当時、施陀羅とは、穢多と同じ、肉食の騎馬民族を貶めるために創られた差別語であったのです。徳川家康は、朱子学を朝鮮学者から学んでいたため、それらの石山本願寺思想の本質、穢多の資金力と軍事力を利用した、をよく理解していたのです。
太陽神ミトラ教の「太陽の下では、どのような民族でも皆平等である。」の教えを、「阿弥陀様の教え」として改竄して、「南無阿弥陀仏・ナモーアミダボーの漢音語」(アミ様を信じます。)の呪文を唱える浄土真宗を発明した、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞は、百済系比叡山延暦寺と対峙していた藤原氏の指図により、高度土木技術・戦闘技術を持つ穢多の豊富な資金と優れた武闘力を利用するために、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の「源氏武士」末裔が多く住む、穢多部落を布教して歩いていたのです。
反騎馬民族で百済の血が流れる徳川三代目将軍家光は、お福の明智一族を「サムライ」とし、北条鎌倉時代に北条一族が鎌倉幕府の要職を占めたように、江戸幕府の要職に就け、「武士」の流れにある徳川家康の忠臣大名を遠い僻地に左遷し、そして、1635年参勤交代の制度を確立して、遠方の「武士」大名をイジメ抜くのです。
この徳川三代目将軍家光から、第三百済王朝が始まるのです。このことにより、徳川家康との繋がりが強かった穢多頭弾左衛門は、羽織袴の二本差しで、駕籠に乗り江戸城に登城していたのが、叶わなくなっていくのです。
1623年徳川三代目将軍となった家光は、洛中の浪人をエドから追放する一方、秦氏末裔の弾左衛門一族も、エド町中心地の日本橋や人形町の支配地から、多くの者は北関東へ、そして、弾左衛門の役人一族は、浅草寺裏の湿地帯の新町(シンチョウ→秦町。都市国家「秦王国」)に移封するのです。そして、その新町には堀を廻らされ、更に、無数の仏寺で囲まれてしまうのです。
そして、穢多頭弾左衛門配下のエドでの私設公安・治安警察組織(役座組織)を弱めるために、町人相互が監視する五人組制度を施行し、エドでの秦氏末裔の穢多勢力を排除していくわけです。そして、「源氏武士」末裔が参勤交代の制度でイジメられたように、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏末裔も、江戸幕府の手先となった葬式仏教思想によりイジメられていくわけです。
このような源氏末裔や秦氏末裔の騎馬民族末裔がイジメられていくのは、三代目将軍家光の乳母の、山崎の合戦で明智光秀を見殺しにした騎馬民族末裔の徳川家康に怨みを持つ、春日局の意図があったことは言うまでもありません。
更に、春日局は、南九州の島津藩で棲息する藤原氏(近衛家)が仕切る儀式の影響力が、江戸幕府に介入できないようにするために、1618年大奥法度を定めて、「藤原の女」が奥(正妻・側室・その他の女が暮す処)へ入り込まないように整備し統括したのです。
その「藤原の女」を権力者に送り込む儀式とは、672年新羅系天武天皇が始めた一世一代の天皇交代の儀式である「大嘗祭」を、奈良時代の藤原氏が、大嘗祭儀式から、収穫祭としての新嘗祭を発明し、毎年行う収穫祭とし、その祝いの儀式として、若い娘が透けて見える天女の姿で舞うことです。
その新嘗祭でおこなう五節舞の儀式により、天皇や貴族の前でおこなうことにより、権力者へ「藤原の女」を提供するのです。そのことは、室町幕府を支配した源氏武士足利氏が、藤原氏の流れにある「日野の女」を代々の足利将軍の正妻・側室としたことが、藤原氏の陰謀(夷を以って、夷を制す。)を招き、その足利政権の崩壊を早めたことを、天海も春日局も知っていたのです。
1687年徳川五代目将軍綱吉の時代、秦氏末裔の穢多として貶められた者達を、更に民族差別を厳しくするために、1635年寺社奉行設置による行政の締め付けを下に、「生類憐れみの令」が数限りなく発令されたのです。
その背景は、五代目将軍綱吉の子息が夭折したのは、前世の悪業によるとの漢訳仏教思想を、五代目将軍綱吉が信じたために、殺生禁止を名目にこの「生類憐みの令」の法令を発したわけです。
この法令は、常識外で、犬を粗末にしただけで牢獄へ、或いは、死罪となったのです。この法令による被害者は、1709年綱吉が死去とともに即座に廃止され、牢獄から開放された者が、3800人とも云われています。
その被害を最も被ったのは、騎馬民族末裔です。それは、農耕民族と異なり、肉食し、更に、その死動物の後利用として、毛皮をなめし革として販売していたからです。この度重なり発令された「生類憐みの令」は、その裏には、第三百済王朝による、騎馬民族の生活権剥奪の意図もあったのです。
更に、武闘により敵を殺傷する秦氏末裔の「武士」も、その思想の被害にあうわけです。
「第二百済王朝」の北条鎌倉時代に、武闘禁止のために、纏められた武家諸法度の制度の下、1641年鎖国を完成させたことにより国内での戦がなくなってしまった「第三百済王朝」の時代になると、戦場で殺生を生業とする「武士」は、秘書謙護衛の「サムライ」により、俘囚の輩と蔑まされていくわけです。
秦氏末裔は、第一百済王朝の平安時代、第二百済王朝の鎌倉時代、そして、第三百済王朝の江戸時代に、賎民として貶められていたのです。それは、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏への、亡命百済移民達の「怨」が原因のようです。
その殺生禁止の思想により、江戸幕府の「サムライ」組織からはじき出された「武士」が、野に追放され、「野ザムライ」ではなく、「野武士」となるわけです。この「野武士」が生き残るために、北条鎌倉時代に、秦氏の神を封印した神社での、秦氏が組織する同業者組合の「座」の権利を漢訳仏教組織から武力で護った「役座」と同じに、反体制派の「役座」としての用心棒となっていくわけです。
北条鎌倉時代に、河内源氏を先祖にもつ源氏棟梁源頼朝により庇護を受けていた、源頼朝と同族の秦氏末裔の技術集団は、北条氏により源氏棟梁三代が暗殺された後、六波羅探題を設置して北条政権により平地から追われ、流離いの漂泊民となっていくわけですが、元々ユーラシア大陸を遊牧していた民族末裔ですので、優秀なリーダの下で暮していく技術は持っていたのです。漂泊する騎馬民族の智慧で、各部族は優れたリーダを代議員の談合により選び出し、そのリーダの支配の下、各地を集団移動していたのです。
この代議員による談合により、リーダを選ぶ方法は、秦氏末裔の弾左衛門一族も同じです。弾左衛門とは、世襲名で、各地の優秀な若者が推挙され、談合により、穢多のリーダである弾左衛門が選ばれていたのです。
弾左衛門は、自らは「長吏頭」と名乗っていたのです。しかし、北条鎌倉時代より、騎馬民族を貶めるために「施陀羅」(不可触賎民チャンダラーの漢音語)から、穢れ多いの意味の「穢多」の差別語を発明しただけではなく、飛鳥時代に遣隋使のソインコウ(日本名小野妹子)が、隋帝国から「長吏」のソ(斯・古代新羅)のインコウと呼ばれていたほど、飛鳥時代では、「長吏」は、遣隋使を指名されるほどの位の高い役人の役職名であったものが、北条鎌倉時代には「長吏」は「穢多」と同意の差別語と改竄されていたのです。
このことは、平安時代では「キヨメ」とは怨霊から天皇を護るために、陸奥国蝦夷捕虜の「もののふ」が、武芸により魂鎮めをおこなう儀式であったものが、北条鎌倉時代には汚わいの清掃業務の「キヨメ」の差別語とされたことと同じです。
明治維新で終わる十三代弾左衛門は、初代集房、二代目集開、三代目集道、四代目集連、五代目集誓、六代目集村、七代目集因、八代目集益、九代目集林、十代目集和、十一代目集民、十二代目集司、そして、十三代目集保、となっていたのです。
北条鎌倉時代から、その各種技術部族集団としてまとまって行動していたものが、徳川三代目将軍家光からの第三百済王朝より、鎌倉時代より二十八番の職種として統率されていたものが、一銭職(髪結床)、石切(石工)、紺屋職の三職になってしまっていたのです。
そのような流れにあった秦氏末裔に、動物虐待(殺生禁止)の条例が発令され騎馬民族の勢力が弱まるのを車善七が確かめると、藤原氏や亡命百済貴族が漢訳仏教思想から発明した、異民族としての「穢多」と異なり、罪を犯した者がなる非人の頭である車善七が、穢多頭弾左衛門の支配下から逃れるために、江戸幕府に訴えるわけです。
そこで、六代目弾左衛門の集村(ためむら・1698年〜1758年)は、弾左衛門一族が、鎌倉時代から由緒のある部族であることを証明するために、幕府奉行に由緒書を提出するわけです。その由緒書とは、

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏
弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

それらの職種には、鎌倉時代のものではないものもあるわけですが、それらの特殊技術は、土地に縛られて生きる農耕民が習得したものではないことは明白です。
そのひとつに、石切があります。硬い石を切るには、鋼鉄工具がなければできることではないのです。その鋼鉄工具を造るには、製鉄技術がなければできません。製鉄をおこなうには、多量の砂鉄と炭、そして、タタラ製鉄技術者と、三日三晩フイゴを替わり番子する労働力がなければできません。
そのような高度技術と組織的労働力を必要とする石切が、生来からの漂泊民にできるはずはないのです。更に、古来から、あらゆる技術は限られた者だけに伝承された秘伝で、その技術は連綿と一族に引き継がれるため過去を遡れるのです。
石切の歴史は、紀元前二千五百年のピラミッドを建設した古代エジプトです。そして、タタラ鍛造製鉄の歴史は、紀元前十九世紀の古代ヒッタイト帝国です。そのヒッタイト帝国の製鉄技術は、紀元前九世紀の遊牧民族スキタイに伝承され、鉄製の轡が開発されたことにより、騎馬が可能になり、これにより騎馬民族スキタイが興るわけです。紀元前四世紀に、その騎馬民族スキタイがカスピ海沿岸から東進し、中央アジアのタタールに移住したことにより、その製鉄技術はタタラ製鉄と云われるわけです。(突厥語で、強い炎の意味「トトラ」から「タタラ」となったとの説がある。)
石切の技術は、騎馬民族と共に移動する製鉄民族との融合がなくしては出来ない技術であったのです。江戸時代、この石切の技術を、秦氏末裔の弾左衛門一族が保持していたことは、弾左衛門の先祖であるオリエントから渡来した秦氏は、漢訳仏教組織が発明した漂泊する非常民の賎民の物乞いする哀れな穢多などではなく、その古代エジプトやヒッタイト帝国からの国際的技術者が確認されるのです。
このオリエントから渡来の秦氏の国際的歴史を抹殺したいのは、672年に日本初の天皇となった新羅系天武天皇の王位を簒奪した、663年百済滅亡後、日本列島に亡命移民した桓武天皇家だけではなく、六世紀以降に、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来した、ユダヤ教に類似した中臣神道を発明した、中臣族から変身した藤原氏も同感であったのです。
それは、四世紀の日本列島の河内を中心に近畿地域を統率したのは、「日本書紀」の神話物語で述べている高天原から降臨した天孫族の「大和朝廷」などではなく、ヒッタイト帝国の鉄鍛造技術で作った鋼鉄工具を使って、古代エジプトの高度土木技術により、巨大運河を造り、河内湾を干拓して、そこに古代エジプトの埋葬思想を取り込んだ石室・石棺を納める巨大古墳を築いた、秦氏の「秦王国」であったからです。
この古墳時代の河内の歴史を知られると、藤原氏も桓武天皇家もその出自がバレてしまい、六世紀から645年まで存在していた、幅十二mの直線道路を張り巡らして騎馬を疾走させていた、騎馬民族・突厥帝国のコロニーであった飛鳥ヤマト王国の、簒奪者一族であったことが分かってしまうからです。
そのためには、桓武天皇家も藤原氏も、オリエントから新羅(秦羅)を経由して渡来した秦氏の歴史を、抹殺しなければならなかったのです。
その手段が、第一百済王朝の平安時代で、秦氏末裔を、貴賎の差別思想で、「秦」を「猿」に改竄して、非常民の漂泊民族の河原者としたのです。しかし、その目的がかなわず、更に、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、錬金術師空海の「施陀羅悪人ナリ」の呪文を基に、民族差別をするヒンズー教化した漢訳仏教思想の浄穢思想により、秦氏末裔を「施陀羅」、更に、穢れが多いの意味の「穢多」として、歴史上抹殺をしていたのです。
しかし、秦氏末裔の源氏武士の足利氏が、第二百済王朝の北条鎌倉幕府を武力で倒し、秦氏末裔の源氏武士足利氏が支配した室町時代となったため、秦氏末裔は、その潜在していた国際的技術を開花させ、能楽、造園や、華道、茶道などの「道」が付く伝統日本文化の祖となるわけです。
現在、伝統日本文化と云われるものの多くは、室町時代の秦氏末裔が、オリエントから引き継いだ技術により開発されたものであるのです。例えば、平安王朝の簒奪王権が「猿楽」と貶めた、「秦楽」から発展した「能楽」は、古代ギリシャの「仮面劇」の流れにあったのです。
秦氏のオリエント渡来ルートには、ギリシャ文化継承国のバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)があったのです。秦氏の渡来元のひとつと云われる、始皇帝の「秦」(紀元前221年〜紀元前206年)とは、バクトリアのコロニーだったのです。そのバクトリアの都市が、後に、紀元一世紀に大乗仏教が発明された、国際交易都市のガンダーラとなるわけです。
オリエントから渡来の秦氏末裔の文化花咲く室町時代も、藤原氏の流れにある「日野の女」が暗躍し、東軍の細川勝元と西軍の山名持豊との初戦をキッカケに、足利氏一族を巻き込んで、応仁の乱が、1467年に勃発するのです。この応仁の乱が、1477年に収束する時には、足利氏の勢力も弱まり、ここに下克上の群雄割拠の時代に突入するわけです。
この下克上のドサクサに紛れて、各地の土着豪族が武力により戦国大名にのし上がって行くわけです。その群雄割拠の下克上時代のひとりに、1491年伊豆を占拠した伊勢長氏は、北条早雲と名乗り、平家末裔とするのです。しかし、その出自は不明なのです。
この北条早雲もさることながら、戦国武将の多くも、その出自が不明なのです。戦国武将の代表とされる、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康もその例外ではありません。
織田信長の、信長←信秀←信定の三代先は不明です。そして、祖父の信定の墓は、垣外(カイト・古の捕虜収容所)にあったのです。豊臣秀吉にいたっては、その出生も生い立ちも全く不明なのです。そして、徳川家康は、栃木県日光ではなく、群馬県新田郡の世良田部落出身者と云われているのです。
徳川家康のウワサの根拠として、1617年徳川家康の遺骨は、久能山から日光に改葬され、質素な東照宮を建立するのですが、徳川三代目将軍家光の時代になると、その質素な東照宮は世良田に移築され、その跡に、金ピカの東照宮が新築されていたのです。
更に、生前の徳川家康は、弓馬の名人で、薬草に詳しく自ら薬草の調製も行っていたのです。更に、配下とした元武田軍団の金山衆(秦氏末裔の産鉄部族。忍者部族とも云われる。)と直接会話もしていたのです。
これらの徳川家康にまつわる事柄は、亡命百済移民の由緒ある「サムライ」の武家がおこなうことではなく、弓馬は幼少の頃からの訓練を必要とし、薬草学の神農様は反体制の役座が祀る神様であるように、薬草調剤は騎馬民族の得意とすることで、そして、産鉄民族は騎馬民族末裔の賎民と云われていたことから、徳川家康が幼少の頃、群馬県新田郡世良多部落で騎馬民族の生活を経験していたことを示唆します。
この戦国時代の歴史に不明な点が多くあるのは、天下を盗った豊臣秀吉が、自らの出自を隠蔽・脚色するために「信長公記」を総監修して創作していたからです。そして、戦国時代が終わり「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸時代に、系図屋が戦国大名の出自を隠蔽・脚色するために戦国大名や武将の系図を捏造していたからです。因みに、系図屋(ケイズヤ)とは、警察隠語で、「イカサマ師」のことです。
それらの「信長公記」や戦国武将達の系図を史料として、戦国時代の歴史が復元されたことにより、戦国時代の史実が隠蔽されてしまったのです。そのひとつに、日本列島の支配を企んだイエズス会の歴史があります。そして、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、そのイエズス会の影響下にあったのです。
この戦国時代のイエズス会の暗躍は、それらの戦国武将には知られたくないのと、イエズス会自体も隠蔽したい歴史であったのです。
イエズス会の日本列島における布教を、単なるローマ・キリスト教の布教であったとすると、戦国時代の歴史を見誤ることになるかもしれません。それは、イエズス会の後ろ盾であるポルトガル王室は、1494年イスパニア王国とトルデシリャス条約を結び、中近東から東南アジア、そして、日本列島までの、ポルトガル領の東インド全域において、排他的な航海領域を設定し、それらの領土全てに対する「征服、航海、貿易、布教」を独占的におこなう権利を、手中にしていたのです。この当時、全世界は、ポルトガルとイスパニア王国の支配予定地であったのです。ポルトガルやイスパニア王国に、そのお墨付きを与えていたのが、民間治療者を魔女として焼き殺していた、自ら神となっていたローマ・キリスト教の法皇であったのです。
このような国際情勢において、ポルトガル王室をバックにする1534年創立のイエズス会は、1540年にローマ教皇の公認を得ていたのです。そのイエズス会が、南インドのマラバル沿岸を異教国征服のための拠点として、1543年種子島に、鉄砲と弾薬を携えて渡来するわけです。
イエズス会とは、無防備な僧侶だけの集団ではなく、国際交易商人もいれば傭兵もいる軍団組織で、聖書だけではなく、武器・弾薬も使って異教国を征服する宗教軍団だったのです。つまり、そのイエズス会とは、「イエスの軍団」、或いは、「イエスの戦闘部隊」という意味も内包していたのです。
イエズス会の異教国への侵略方法は、スポンサーに国際交易商人がいた大乗仏教と同じで、まず異教国の賎民の病気を癒し信頼を得て後、学校を設立し、寺を建て、シンパを募り、そのシンパをリーダとして布教地域を広げ、その後、国際交易商人がその学校や寺に寄宿して、現地人を雇い商売を始め、その雇い人をシンパとし、その後、軍事指導者が渡来することにより現地人軍団を組織し、その軍団により王権を武力で倒すことにより、その異教国はイエズス会に征服されてしまうのです。
しかし、イエズス会の誤算は、東洋一の国際交易都市大坂を実効支配していた秦氏末裔の一向宗軍団が存在していたことです。そのために、日本列島の侵略が十年も遅れてしまっていたのです。
そのイエズス会の侵略傭兵軍団の指導者として、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康がいたのです。しかし、それらの武将には信仰心がなかったため、高山右近のように、キリシタン大名とはならなかっただけです。
イエズス会の渡来が、1497年蓮如が、秦氏末裔が支配していた大坂に石山本願寺を築く前であったならば、日本史は今とは異なっていたことでしょう。それは、このイエズス会軍と浄土真宗石山本願寺軍との十年戦争は、穢多と蔑まされた秦氏末裔の同族の争いでもあったのです。
1467年応仁の乱が起こると、それに乗じて、1472年京では盗賊達が蜂起し、近江坂本では馬借一揆が起こるのです。その盗賊や馬借のなかには、北条鎌倉時代に六波羅探題の「サムライ」による源氏残党狩りから逃れるために、「源氏武士」身分を隠すために、そして、生活の糧を得るために、源氏武士から身を転じた者も多くいたのです。
「サムライ」の北条鎌倉政権より、武士身分から賎民へと貶められた馬借の組織的戦闘能力と豊富な財力に目を付けたのが、藤原氏の流れにある親鸞末裔の蓮如だったのです。その弱小浄土真宗一派の蓮如は、北条鎌倉時代に親鸞が唱えた阿弥陀様の教え(古代エジプトの太陽神アトンの教え)を馬借達に広めることに成功すると、秦氏の同業者組合の「座」の商業ネットワークで蓄財した、その秦氏末裔の豊富な財力により、1479年山科本願寺を創立するのです。
馬借一族を浄土真宗蓮如一派に取り込むことにより、穢多と蔑まされた秦氏末裔の、騎馬による組織的軍事力と資金力を蓮如子息の宗主顕如は手中にすることができたのです。そして、秦氏末裔は、民族平等の世界を築くために、賎民を苦しめる王権に反抗せよと檄文を飛ばしていたものが、正親町天皇のひとことで石山合戦の和睦を織田信長として、権力に擦り寄る、顕如に騙されたことに気づくことなく、石山合戦敗戦まで、戦闘的軍事力と豊富な資金力を注ぐわけです。その敗戦後、豊臣秀吉の時代になると、浄土真宗石山本願寺は、最後までイエズス会の羽柴秀吉軍団に反抗していた浄土真宗末寺を、系列から外し穢多寺として貶めていくわけです。
馬借は、秦氏末裔の騎馬民族であったので、奈良・平安仏教の血・肉食禁忌思想により、肉食する穢れ者の穢多として民族差別を受けていたのです。その奈良・平安仏教に敵対する浄土真宗は、秦氏末裔の馬借一族にとっては、敵ではなく、味方に映ったわけです。
更に、妻帯・肉食する破戒僧親鸞の説く、「悪人でも浄土へ行ける」等の甘言や、「阿弥陀様の教え」は、秦氏が祀るオリエントからの太陽神ミトラ思想の「太陽の下ではどのような民族でも平等。」と同じ思想であるので、親鸞末裔の蓮如の布教に同調してしまったわけです。
劃して、秦氏末裔の古墳時代からの支配地の大坂(秦王国)に、1497年蓮如は、石山本願寺を築くことができるわけです。この石山本願寺は、古代エジプト語でワタ・ナーベ(波が打ち寄せる・小山=岬)と言われた上町台地に位置したため、更に、深い堀と石垣により護られていたために、日本一の難攻不落の城塞となっていたのです。
1571年織田信長の攻撃により数日で陥落した比叡山延暦寺の要塞と異なり、イエズス会より提供された、最新式銃で装備された織田信長軍団の、1570年から1580年の十年間に渡る攻撃に耐えた石山本願寺の要塞化を可能にしたのは、秦氏末裔には、古代エジプトの高度土木技術と石切技術があったからです。
その要塞化した石山本願寺に対峙して、比叡山延暦寺は比叡山一帯を要塞化して、京の支配を強固にしていたのです。そのように、東洋一の国際商業都市大坂を支配する石山本願寺軍団と、日本の権力の中枢である京を支配する延暦寺軍団とにより、領土拡大を目指していた戦国大名も、イエズス会が銃と大砲を日本列島に持ち込むまでは、この二大宗教組織が支配した近畿地域を侵略することができなかったのです。
京の商人を信者に取り込んだ、現世利益の法華経軍団も、京の軍事拠点とした本能寺を築いたのですが、比叡山延暦寺軍団の総攻撃により、法華経の軍事基地であった本能寺は陥落していたのです。
その日本列島では戦国時代に突入していた頃、1299年元帝国から神聖ローマ帝国に帰還して著したマルコポーロによる「東方見聞録」の情報は、世界をイスパニア王国と二分して支配することを目論むポルトガル王室を刺激して、黄金の国ジパングの侵略を目論んでいたのです。そのポルトガル王室の日本国侵略の手先となったのが、イスパニア王国の托鉢修道会と対峙していた、イエズス会なのです。
1549年ザビエルの日本国開教以降、1570年までに約三万人が改宗していたのです。それに伴い、九州から畿内までの各地に40ほどの教会を設立していたのです。そして、1579年には10万人のキリスト信者が誕生していたのです。そして、在日イエズス会員も55人を数えていたのです。
そして、1582年イエズス会と藤原氏の陰謀とによる本能寺での織田信長爆殺後、下手人にされた明智光秀軍団を山崎の戦いで壊滅して、イエズス会傀儡軍団の支配者を命ぜられた羽柴秀吉が、イエズス会のキリシタン大名の高山右近軍団と九州イエズス会軍団を利用して、1587年藤原氏が生息する南九州を支配していた秦氏末裔の島津氏を倒すと、1589年に宣教師追放令を発布した時には、在日イエズス会員は111人となっていたのです。
そして、1584年織田信長後の支配権を廻り、小牧・長久手の戦いで徳川家康軍団に破れた羽柴秀吉が、1585年関白太政大臣となり天下を盗り、イエズス会から藤原氏に寝返ると、1590年宿敵である騎馬民族末裔の徳川家康を関東の湿地帯の穢れ地に移封し、更に、石山合戦で最後まで抵抗していた大坂の秦氏末裔を湿地帯に追いやり、1591年「士農工商」の身分法を定め、その秦氏末裔の村を穢多村として民族差別をするわけです。
何故、そのようなヨーロッパの遠方よりの異教キリスト教が短期間に、奈良時代より漢訳仏教組織が思想支配していた日本国で広まったのでしょうか。その謎解きのヒントが、大曲藤内の「大曲記」にあります。
その書には、「南蛮よりきりしたん宗とてめつらしき仏法僧わたりけり、かの宗ていに成るほとの者には過分の珎物をとらする間しさいもしらん物ハ皆よくにちうして成物等おおし。」、とあるのです。
そのポルトガルの国際貿易船のナウ船がもたらす南蛮の珎物とは、絹織物、陶器、砂糖、麝香、白檀などの贅沢品や、鉛、硝石、銃などの軍需品であったのです。それらの品々は、キリスト教に入信した者達に分け与えられていたのです。そして、それらのイエズス会からの贈り物は、国内では高く売れたのです。つまり、大曲藤内は、キリスト教への入信は、信心よりも物心であった、と述べていたのです。
その根拠として、イエズス会は、日本列島侵略のために三地区に拠点を設けるわけです。 それらは、肥前の下地区、豊後の豊後地区、そして、近畿の都地区です。
その都地区を除いた二地区は、経済的にも軍事的にも隣国大名に圧迫を受けていたのです。
下地区の支配者大村純忠の軍事的庇護を求めたイエズス会は、肥前・肥後を支配していた龍造寺隆信の軍事力に、太刀打ちできない大村純忠を見たイエズス会は、銃・弾薬を供給することで、かろうじて龍造寺隆信軍団を凌いでいたのです。
この大村純忠が支配する長崎を、ナウ船の交易港とするために、そして、龍造寺隆信軍団からの攻撃を防ぐために、軍事要塞化することになるのです。そして、長崎住民に火縄銃を与え、訓練し、長崎住民の兵士化をおこなうのです。更に、長崎の港を護るために、町を要塞化するだけではなく、塹壕を堀り、街を一重、二重の柵を設け、山の砦には数門の大砲を設置していたのです。そして、港の防御のため、大砲、弾薬、三百名の守備隊が乗船するフスタ船を、長崎の港に浮かべていたのです。
そして、天皇が在住する都地区を支配するために、その中継基地として、大友義鎮が支配する豊後に拠点を設けるわけです。この豊後と豊前とを合わせると、古墳時代に「秦王国」があった処であるのです。この豊後地区は、最もキリスト教思想を理解できた地区で、イエズス会は、この臼杵に修練院と、高等教育機関のコレジオを開設していたのです。
何故、豊後地区がキリスト教思想を理解できたかは、それは、12月25日のクリスマス(冬至のミトラ神再生日)、赤葡萄酒とタネナシパンの儀式(屠られた牡牛の血と生肉の儀式)、十字架(太陽神の光のシンボル・マルタクロス)、父と子と精霊の三位一体(太陽神ミトラの日の出・天中・日没)などのキリスト教の教義・儀式の多くは、ユダヤ教ヨシュア派からローマ・キリスト教に変身した時、ローマ帝国軍の軍神として祀られていたミトラ神の教義・儀式を導入していたからです。つまり、ローマ・キリスト教の母は、太陽神のミトラ教であったのです。
そして、そのローマ帝国のミトラ教は、392年ローマ帝国の国教となったキリスト教に抹殺されるのを避けるために、ミトラ教を信じるローマ帝国傭兵軍と共に東に逃れ、遥か、朝鮮半島を経由して、六世紀の日本列島に、新羅花郎騎士(「花」とは「ミトラ」の借字)として渡来するわけです。
そのローマ騎士道を引き継いだ新羅花郎騎士道が、九州秦王国で土着し、飛鳥ヤマトの軍族となるのですが、645年唐進駐軍と中臣族に敗れ、陸奥国に逃避するが、801年追撃する唐進駐軍と坂上田村麻呂の騙しに敗れ、蝦夷捕虜として「もののふ」の武芸者となり魂鎮めの儀式をおこなっていたのが、939年の天慶の乱の反乱軍を武力で鎮圧したことにより、王権より「武士」と認められ、日本武士道として変身するわけです。
ミトラ教の各国への流れは、紀元前14世紀のヒッタイト帝国→紀元前14世紀古代エジプトのイクナトン(アメンホテプ4世)の宗教改革で唯一神・太陽神アトンに変身(紀元一世紀のガンダーラで、太陽神アトンは阿弥陀に変身)→紀元前932年イスラエル王国で太陽神バアルに変身→紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる→イスラエル十部族がアッシリア帝国に消える→紀元前六世紀ペルシャ帝国でミトラ神現れる→紀元前250年ギリシャ文化国バクトリア興る→紀元前221年バクトリアのコロニー「秦」興る→紀元前140年バクトリアを滅ぼし、ミトラ神を国教とする大月氏国興る→紀元一世紀大月氏国敗れクシャナ朝興る。この国際交易都市ガンダーラで、マタイ福音書と法華経に共通する「たとえ話の原著」であるギリシャ語の宗教物語が著される→紀元356年ナムル王により、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)興る→紀元608年隋使が北九州で「秦王国」の存在を隋帝に報告、となるわけです。
しかし、720年藤原氏が創作した「日本書紀」では、飛鳥ヤマトのオリエント文化を、仏教文化として改竄するために、552年に弥勒菩薩(ミトラ神)が、飛鳥大和に伝来し、厩戸皇子(後に聖徳太子に改竄)が秦河勝に命じて、仏像安置のために広隆寺を建立した、とのウソ物語を記述しているのです。史実は、秦氏が、比叡山で祀っていたのは、仏様ではなく、太陽神のミトラ神(平安王朝はミトラ神を魔多羅に改竄)であったのです。
そのように、太陽神のミトラ神は、紀元前から世界各国を廻り、各地の土着宗教に多大な影響を与えていたのです。
そして、キリスト教が理解された豊後とは、古墳時代に、太陽の化身牡牛を屠り、太陽神ミトラを祀る秦氏の「秦王国」があった処だったのです。
イエズス会は、戦国時代の日本列島の歴史をよく調べていたようです。それは、ヴァリニャーノの「東インド巡察記」には、

その島の中央には日本全土で最も重要な都市があり、日本全体の支配者であった国王が居を定めている。この都市はミヤコと呼ばれている。この国王は、かつて、日本全土の唯一にして真の王であり、上述の諸国に自分の総督たちを置いていた。ところが今や、国王は日本全土に一つとして自らの領国を持ってはいない。その理由は、国王の総督たちが謀叛を起こし、その誰もが自分のために手に入れられるものは悉く手に入れてしまったからである。国王には、一切のものの上に立つ威厳と優越性、それも現実的なものというよりはむしろ形だけのものしか残らなかった。

と、平安時代に唐進駐軍の軍事援助を受けて、律令制度により日本国に君臨していた百済系桓武天皇家が、応仁の乱以降には没落していたことを、正確に記述していたからです。
戦国時代の日本国の実情を把握していたイエズス会は、キリスト教布教の保護を受けるために、実質的に日本列島を支配できる王を調べ上げるわけです。それが、長崎の大村純忠であり、豊後の大友義鎮であったのです。しかし、それらの両大名は、天下を盗るような人物ではなかったのです。そこで、イエズス会は、日本を支配できる人物を新たに探すわけです。
ここでひとつの疑問が起こるのです。それは、何故、イエズス会のザビエルを乗せたポルトガルの貿易船のナウ船が、1549年鹿児島に渡来し、キリスト教を伝道していたのか、と言うことです。そして、その鹿児島が、何故、長崎が軍事要塞化されたように、イエズス会の日本国侵略の基地とはならなかったのか、と言うことです。
南九州は、南方から渡来するには、南海から北上する黒潮が通過する地域なので、ナウ船が交易をおこなうには、絶好の地であるのです。それは、古墳時代に、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来していた中臣族(藤原氏の祖)が証明しています。
藤原氏は、河内源氏武士の源頼朝の鎌倉統治時代に、南九州の藤原氏の私有地である島津荘を取り上げられ、秦氏末裔惟宗氏が島津氏と変身し支配していたのですが、実質は藤原氏が奈良時代から江戸時代末期まで、その黒潮のベルトコンベアを利用して、南インドを経由したアラブの製品や香木・香辛料を輸入し、そして、日本列島から金・銀・水銀・銅・真珠などを輸出して、密貿易を続けていたのです。
イエズス会と藤原氏との関係は、謎に満ちているのですが、それを解明する史料が皆無なのです。その史料が皆無なのは、ザビエルの書簡から窺がえます。その書簡には、

「そちらにいるすべての神父が挙げている成果を数えあげて、詳しく書いた手紙を送ること。その手紙には、善い模範になるような内容だけを書いて、善い模範にならないようなことは書かないように注意すること。イグナチオ神父とシモン・ロドリゲス神父に書く手紙は、たくさんの人たちが読むことを考慮に入れて、善い模範にならないことは決して書かないように。」

、とあるからです。ザビエルは、不都合な事は、手紙に残してはいなかったのです。
そこで、藤原氏とイエズス会との接点になる事跡を調べると、イエズス会は、何故、山奥の奈良の宇陀と、島根の石見に教会を建設していたのか、ということです。その二地区の共通点は、銀山があることです。
水銀・銀山の開発は、平安初期に藤原氏の援助で遣唐使船で唐に渡った、錬金術師空海が浮かびます。空海は、表の顔は真言密教の僧侶ですが、裏の顔は日本全国の深山に足跡を残しているように鉱脈探索をおこない、水銀薬を創薬する錬金術師であったのです。イエズス会も藤原氏も、銀山で繋がるのです。
そして、不思議なのは、織田信長が都を支配すると、1569年イエズス会の布教を許すと同時に、布教基地としての南蛮寺の都での建設を許可するのです。更に不思議なのは、その南蛮寺から約二百m先の、藤原氏が改築した本能寺とは、地下道で繋がっていたのです。
そして、天下人の織田信長が、1571年比叡山延暦寺軍を壊滅し、更に、1580年には石山本願寺軍を壊滅させ、日本列島には仏教軍団が存在しなくなると、その二年後の1582年織田信長は、本能寺で爆殺されているのです。
これらの状況証拠を基に戦国時代を推測すると、織田信長と徳川家康とは、藤原氏とイエズス会の捨て駒だったのではないか、と思えるのです。
増長した織田信長と異なり、藤原氏の実態をよく知っていた徳川家康には金山衆などの忍者部隊が側近として活躍していたため、イエズス会と藤原氏による陰謀から逃れられたのは、騎馬民族末裔の徳川家康の情報ネットワークを甘く見ていたからです。
徳川家康は、織田信長が本能寺で爆殺された日に、キリシタンが多く住む堺で遊興を演じていたのです。徳川家康は、忍者の急報により織田信長の爆殺を知ると直ぐに堺を脱出し、数人の手勢で昼夜伊賀越えをすることで、三河に逃げ延びていたのです。
後日、1590年関白豊臣秀吉が、徳川家康を関東の湿地帯に移封した翌年、1591年関白豊臣秀吉より、千利休が切腹を命ぜられたのは、本能寺での茶会後の織田信長爆殺の陰謀に加担していたこと、そして、徳川家康を堺で暗殺できなかったことが原因と伝わるのは、堺がイエズス会の支配下にあり、千利休がキリシタンであったからです。つまり、千利休は、藤原氏とイエズス会による日本征服陰謀の口封じに切腹を命じられていたのです。
織田信長と徳川家康の人物背景を知る手掛かりとなるのは、天下人となった時の、賎民に対する態度です。
アラブ渡来の海洋民族・平家末裔の織田信長は、1568年足利義昭を奉じて上洛すると、王権により汚物清掃業務などの「キヨメ」を押し付けられていた余部(海部・海洋民族末裔)を、「余部をイジメる者は織田信長に対する謀叛とする。」と宣言し、配下に召抱えるのです。織田信長の祖父の墓は、賎民部落と云われた垣外(カイト)にあったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大坂夏の陣で豊臣軍団を壊滅すると、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉の賎民政策により、穢多村に貶められた渡辺村を役人村に引き上げ、大坂の警察業務に就けるのです。徳川家康の出生地は、賎民部落と云われる世良田であったのです。
戦国時代の中心武将の織田信長や徳川家康の背景を知ると、藤原氏(島津氏を支配する近衛家)とイエズス会による陰謀が見えてくるのです。それは、藤原氏得意の戦術、「夷を以って、夷を制す。」です。
この場合の、「攻撃する夷」とは、賎民頭の織田信長と徳川家康で、「抹殺される夷」とは、百済系桓武天皇家を仏教思想で支援し、京の経済を支配している比叡山延暦寺軍団と、石山本願寺がある大坂を、実効支配している穢多として貶めた秦氏末裔の野武士軍団です。
その藤原氏が抹殺対象とする「夷」を壊滅するための計画を、ポルトガル商人とイエズス会がおこなっていたのです。黄金国ジパング(実際に、戦国時代の石見銀山は世界需要の三分の一を産出していた。)征服を企てるボルトガル王室が軍事援助するイエズス会が、キリストの教えだけを布教する唯の組織ではないことは、次の史料から窺がえます。その史料とは、

1585年の本国ポルトガル(1580年ポルトガル王国は、イスパニア王国と同君連合をしていた。)に宛てた書簡で、「兵士、弾薬、大砲、兵士のために必要な食糧、および一二年分の食糧購入用の金銭がじゅうぶんに備わったフラガータ船三四艘、当地日本に派遣してもらいたい。」、更に、1587年豊臣秀吉の宣教師追放に対しての第二回日本イエズス会全体協議会で、「要塞建築を引き受けたり、イエズス会が使うためであれ、それを用いて戦時にキリスト教徒の領土を救済するためであれ、大砲、弾薬、銃、諸他の武器、戦争資材を有したり、キリスト教徒の領主のためにそれらを調達することを禁じる。」、とイエズス会による軍事活動支援を禁じていたのです。

1546年渡来のザビエルは、書簡に不都合なことは記述していなかったので、伝道地でのザビエルの軍事行動を裏付ける史料は皆無ですが、イエズス会による軍事行動・軍事援助の禁止文書があることは、1587年までは、それらの軍事行動がおこなわれたことを示唆します。
何故、戦国時代を統一した武将が、尾張・三河から排出されたのかは、そのイエズス会の書簡から説明できます。それは、尾張・三河には、伊勢湾・三河湾があるからです。戦争に勝利するには、優れた戦略を持つ武将の他に、多数の兵士、無数の弾薬、多量の食糧の確保が絶対必要条件であるのです。それらを定期的に供給するには、船の輸送は最適だったのです。
1575年三河長篠の戦で、織田信長軍は、日本で始めての鉄砲隊により、武田勝頼軍団を敗退させるのです。この長篠の戦は、日本列島の戦争史を百八十度変えてしまったほど画期的な戦いであったのです。
長篠の戦以前では、「戦」は秋から春までの期間に多くおこなわれていたのです。それは、戦の主な原因は領土の境界争いだったのです。しかし、この当時、戦い専門の武人は、多くはいなかったのです。それは、律令制度や荘園制度による生産専門の農奴の使役による税制度が崩壊し、領主自ら使用人を雇い農業経営をしなければならなかったので、人手の足りない国では、武家の領主と言えども農業をおこなわなければならない立場にいたからです。ですから、兵隊を招集できないため、春から秋にかけての農繁期には、戦ができなかったのです。
しかし、織田信長は、一年中戦をおこなっていたのです。何故、農地も少なく、それに伴い、農奴としての兵隊の数も少ないのに、織田信長はどのようにして、軍団を組織していたのでしょうか。その農地が少ないため農奴も少ない織田信長の軍団組織の難問を解決したのが、傭兵軍です。織田信長の軍団は、所領の農奴を兵隊としたのではなく、他国の武人を傭兵とし、組織構成されていたのです。
尾張の弱小武将の織田信長は、アイデアマンのようで、傭兵を集める宣伝手段として、旗印に「永楽通寶」を書き込んでいたのです。つまり、織田信長は、金を持っているとのアピールです。
家紋や旗印は、日本古来のものではなく、鎌倉時代以降に発明されたものです。それは、戦場でのリクルートと働きを誇示するために、各氏族がそれぞれのデザインを考えて、武具や旗に印として書き込んでいたのです。その武人の家紋のデザインの素が、オリエントの動・植・昆虫、或いは、星であるのは、武人の先祖がオリエント渡来の民族であったからです。鎌倉時代から使い始められた百済系天皇家の十六弁菊紋に使われた菊も、その祖はオリエントであるのです。
1560年弱小武将の織田信長は、武士ではないので、名乗りを上げて堂々と戦うという武士の武闘作法を無視して、今川義元の大軍団の寝込みを襲い、ゲリラ戦術で敗退させるのです。これが世に言う、桶狭間の戦いです。
この駿河と三河の一部を支配していた今川義元が、織田信長に敗れたことにより、今川義元の配下であった徳川家康が、三河を占領して独立するわけです。
武士は、源氏の祖、「もののふ」の武芸者(芸とは神をたのしませる技)を先祖としていたので、太陽の下で、正々堂々と戦えば、戦死しても再生できる、と信じていたのです。それは、源氏武士の先祖は、再生を約束する太陽神ミトラを祀る民族であったからです。
死と再生を繰り返す太陽神ミトラは、ローマ帝国傭兵軍の軍神で、敵と味方の稜線に降臨し、戦士を見守っていて、もし、戦死しても正々堂々と戦った勇者であれば、再生を約束していたのです。ですから、輪廻転生思想により魂を尊び、死者を「ケガレ物」として燃やしてしまう(浄物→成仏)仏教思想は、武士にとっては許されない思想であったのです。
再生を願う武士は、太陽の下で戦うことを正義としていたのです。そのため、敵将が再生できないように、武士は敵将の首を落として、再生を阻止するのです。そして、その敵将の首を、自軍の大将に持参することにより、褒賞を受け取ることが出来たのです。
その敵将の首を落すための道具が、「日本刀」であったのです。日本刀が「武士の魂」と言われるのは、正々堂々と闘った敵将の首を落すための、実戦用の武器ではなく、「祭祀道具」であったからです。
その根拠として、鉄砲が伝来する以前の、武人の死傷者の傷の多くは、矢傷で、次が、槍傷で、刀傷は殆んど確認できなかったからです。日本刀が戦場の主武器と誤解されたのは、実戦が殆んどなくなった江戸時代での演劇の舞台演出の影響だったのです。
しかし、アラブから渡来の伊勢に勢力を張っていた平家末裔の織田信長は、源氏武士の末裔ではないので、奇襲攻撃のゲリラ戦を得意としていたのです。
イエズス会は、ザビエルが山口で入信させた琵琶法師ロレンソ了斎をスパイとして、大坂と京の仏教軍団を壊滅できる武将を物色させていたのです。この尾張の織田信長と、三河の徳川家康に目を付けたイエズス会は、琵琶法師ロレンソ了斎を介して接近するわけです。
そして、1562年織田信長と徳川家康とが、清洲同盟を結び、1567年美濃の齋藤氏を倒し、ここに尾張と美濃両国を織田信長が支配するのです。このことにより、イエズス会のナウ船は、待望の伊勢湾と三河湾に自由に来航できることになったのです。
伊勢は、奈良の宇陀、島根の石見と同じに、ポルトガル商人が支配下におきたい地域だったのです。それは、伊勢は、縄文時代より朱砂を産出するところで、朱砂が産出する地域には、水銀・銀が埋蔵されていると知っていたからです。その証拠に、京では、「京白粉」と言われた水銀薬は、江戸時代の伊勢では、「伊勢丹」として、ポルトガルの船員が持ち込んだ梅毒の治療薬として売られていたのです。
そして、伊勢は、平安時代にアラブから渡来の海洋民族が、京の賀茂川に隣接する葬送地ギオンを武力で支配し、藤原氏が支配する奈良興福寺の神輿を担いで強訴する僧兵軍団を蹴散らしたため、その武力を白河法皇に認められ、藤原氏の傭兵としての「源氏武士」に対抗して、白河法皇の私兵の「平家」(平正盛が平家の祖。「平氏」は賜姓で、「平家」とは別)となったように、近畿地域へ攻め上るには都合のよい土地でもあったのです。
イエズス会は、反仏教の織田信長をイエズス会軍団に取り込むために、使者団を遣わすのです。その中のひとりに、明智光秀がいたのです。明智光秀は、藤原氏が支配する興福寺で次期将軍として養育した、足利義昭将軍の京への護衛を願い出たのです。
それに前後して、イエズス会は、都地区では、琵琶法師ロレンソ了斎の働きによりキリシタン大名を多く輩出していたのです。そのひとりに、ポルトガル商人が目指す銀山がある大和国宇陀郡の沢城主の高山友照(自称飛騨守)がいたのです。その息子が高山彦五郎です。高山彦五郎は、父の影響を受けて、イエズス会に入会し、ホーリーネームをジュスト(正義の人)とし、キリスト教教会を建設して、高山右近を名乗ったのです。その高山右近の主が、明智光秀であり、更に、茶道の師匠が、千利休であったのです。
明智光秀も千利休も、イエズス会と藤原氏による、本能寺での織田信長爆殺ネットワークに繋がっていたのです。
山口でキリスト教に入信し、イエズス会員となった琵琶法師ロレンソ了斎は、イエズス会軍団を組織するために、近畿一帯の山奥を分け入っていたのです。しかし、そこで疑問が涌くのです。それは、何故、盲目の琵琶法師ロレンソ了斎が、広域の山奥深く分け入れたのでしょうか。
それは、琵琶法師などの遊芸者は、秦氏末裔が仕切る同業者組合の「座」に属していたからです。座は、全国の神社をネットワーク拠点として、情報を共有していたのです。
遊芸者の歴史は、645年唐進駐軍と中臣族に壊滅された、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の祭祀一族であったのです。その祭祀一族の、ミトラ教の牡牛を屠る血の犠牲による祭祀権を、ゾロアスター教から導入した火の祭祀をおこなう仏教組織に奪われ、そして、漢訳仏教を手先とする簒奪王権により、犠牲をおこなった祭祀場から河原、或いは、路外へ追放された祭祀一族末裔であったのです。
そして、簒奪王権は、その秦氏の神に捧げる儀式の「秦楽」を、秦→しん→申→さる→「猿楽」と貶め、更に、その部落に、漢訳仏教の「法華経」思想により、仏罰者をハンセン氏病者と決め付け、その者の世話を、秦氏祭祀者部落に押し付けることにより、秦氏末裔をケガレ者と貶めていたのです。
ハンセン氏病者や不具者は、仏教思想によれば、前世での悪行(肉食)をおこなった者と解釈されていたため、盲目の琵琶法師ロレンソ了斎も、穢多部落のネットワークに属していたのです。
何故、琵琶法師ロレンソ了斎が、都市部ではなく、山奥深くの山の民に布教をおこなっていたかといえば、それは、都市部の賎民達は、藤原氏の流れを汲む破戒僧親鸞が発明した浄土真宗の阿弥陀様(古代エジプトの太陽神アトンが変身)の教えに、帰依していたからです。
寄生することによりしか生き残る術を知らない漢訳仏教組織は、権力に擦り寄る術に長け、そして、金の匂いに敏感であったのです。山奥の、権力者もいない、そして、金の匂いも少ない処では、妻帯し肉食する浄土真宗の僧侶でも、阿弥陀様の布教には熱心ではなかったのです。
劃して、イエズス会のキリシタン大名の出身の多くは、寂びれた山奥であったのです。そして、高山友照も明智光秀も、その出自が不明であったのです。それは、山奥に暮す武人は、「サムライ」が支配した北条鎌倉時代に、六波羅探題の源氏残党狩りから逃れた、自ら「平家落ち武者」と出自を消した源氏武士末裔であったからです。
そのような、血・肉食禁忌の仏教思想により穢れ者としてイジメられた、海洋民族末裔の織田信長と、騎馬民族末裔の徳川家康に、ポルトガル商人とイエズス会が、伊勢湾や三河湾から、銃撃の訓練を受けた傭兵と武器と食糧を供給することにより、仏教組織壊滅作戦が始まるわけです。しかし、その裏には、日本列島の支配を古代から企む藤原氏と新規渡来のイエズス会が隠れていたのです。
1568年織田信長は、明智光秀の要請を受け入れて、足利義昭を奉じて上洛(入京)するのです。その翌年、1569年織田信長は、関所の撤廃を命ずるのです。
歴史史料には、この織田信長の京の都への進出を、「上洛」と「入京」とで記述されているようです。それは、何故でしょうか。入京とは、その文字ズバリで、京の都に入ることです。では、上洛とは、どのような意味と背景があるのでしようか。
上洛とは、桓武天皇家の簒奪王権にとっては使いたくない言葉なのです。それは、794年平安京が造られた歴史背景を語ってしまうからです。その上洛の「洛」とは、唐の都の「洛陽」の洛であるのです。
618年建国の唐は、京兆府(長安)の東に、河南府(洛陽)を設置していたのです。唐では、首都長安の東の都を、洛陽と言っていたのです。その唐からの進駐軍の軍事支援により造られた、中国唐の東の、日本列島の都平安京は、唐進駐軍にとっては「洛陽」であったのです。唐進駐軍が、中国から東の平安京へ行くことを、上洛と言ったわけです。しかし、907年本国唐が滅んだことにより、中国文化色が濃かった平安文化も、やがて国風化に伴い、「上洛」の言葉も、中国から日本列島ではなく、日本列島各地から京への「入京」に替ってしまい、漢語に巧みな教養文化人の筆の中だけの言葉となっていったわけです。
この頃の織田信長に、下天の意識は少なかったようです。織田信長が、入京時に、仏教組織にイジメられていた賎民の余部(海部)を配下にしたように、織田信長には、賎民を仏教思想によりイジメる仏教組織壊滅が最大の目的であったようです。
その関所とは、王権による治安のために設置されたものではなく、寺社領を通過する者から金を仏教組織が徴収するために設けられていたのです。その関所は、海洋民族や騎馬民族を圧迫していたのです。それは、農業を行わない、海洋民族や騎馬民族は、生産物の商品を他国に売り歩くことにより生計を立てていたからです。更に、仏教組織は、門前や神社境内でおこなう商い人からも銭を徴収していたのです。
この仏教組織に歴史的圧迫を受けていた海洋民族と騎馬民族の負のエネルギーを、比叡山延暦寺軍と石山本願寺の野武士軍団壊滅のために、イエズス会と藤原氏は利用することを考えていたのです。その二大仏教軍団を壊滅することで、イエズス会は都地区を完全支配できると考えたのです。しかし、イエズス会は、藤原氏の陰謀力を知らなかったため、後に、手酷いしっぺ返しを受けることになるのです。
織田信長が入京した翌年、1569年織田信長は、ロレンソ了斎の紹介で、宣教師ルイス・フロイス(滞在1563年〜1597年)に謁見するのです。このフロイスは、後に、「フロイス日本史」を著すのですが、イエズス会内部では、あまり評判のよくない人物であったようです。この宣教師フロイスに謁見した後の織田信長の態度は、急変していったようです。
1570年近江姉川の戦いで、浅井長政を破ると、その翌年1571年比叡山延暦寺を焼討ちして、その僧侶全員と房にいた多数の若い女と稚児すべてを斬首していたのです。この焼討ちには、明智光秀も高山右近も参戦していたのです。この焼討ちで京の経済を支配していた比叡山延暦寺軍団が全滅したことにより、その後、京では、「楽市楽座」となるわけです。
そして、1573年織田信長が、足利義昭を京から追放することにより、ここに室町幕府が完全に滅ぶわけです。
「日本書紀」を読みすぎると、古代日本の実態が理解できなくなるのと同じに、「信長公記」を読みすぎると、織田信長の実態が理解できなくなります。更に、「フロイス日本史」を読みすぎると、その理解度が低下するようです。それは、「信長公記」にも「フロイス日本史」にも、織田信長に軍事援助をしたイエズス会と、戦いで織田信長が負け戦をしている時に、藤原氏(近衛家)の計らいで正親町天皇のタイミングの良い仲裁のことが記述されていないか、歪曲されて記述されているからです。
そもそも、天文三年(1534年)から物語が始まる「信長公記」は、織田信長の家臣太田牛一が著述したことになっているようですが、実際は、関白豊臣秀吉の命で、更に、総監修の下で、出自不明の豊臣秀吉の、藤原氏とイエズス会との深い関係の実態を隠蔽・改竄するために創作された物語であったのです。
「日本書紀」を読みすぎると、古代日本史の実態が分からなくなるのは、六世紀に河内を支配していた、秦氏の「秦王国」の存在と、南北約八百m×東西約二kmの丘に挟まれた、飛鳥川が流れる細長い土地に、騎馬民族の突厥帝国進駐軍が軍事都市を築いていた史実を、「日本書紀」が改竄・隠蔽していたからです。
藤原氏が720年に創作した「日本書紀」の飛鳥大和物語では、その飛鳥ヤマトには、日本初の天皇は672年天武天皇が初なのに、第33代女帝推古天皇が存在していて、その摂政として厩戸皇子(聖徳太子)が活躍し、河内支配者の「物部氏」と飛鳥支配者の「蘇我氏」が、仏教導入に関して対立していた、とするのです。
そして、その「日本書紀」の仏教伝来物語では、何と、太陽神の化身牡牛を屠る祭祀者の秦河勝は、仏教普及に尽力する聖徳太子の忠臣となって、仏像を安置するために仏寺の広隆寺を建立したことになっているのです。
この仏教伝来物語が可笑しいことは、もし、「日本書紀」の仏教伝来物語で、秦河勝が、仏教に帰依していたのならば、何故、室町時代に秦氏末裔の賎民として貶められていた世阿弥が、「風姿花伝」で、「能楽の祖は秦河勝」と述べていたのでしょうか。
能楽は、仏教組織が血・肉食の禁忌でイジメていた、賎民の芸である「猿楽」が祖ではなかったのでしょうか。史実では、山背国(秦王国)で、秦河勝は、仏寺の広隆寺ではなく、太陽神の化身牡牛を屠る景教寺の蜂丘寺を建立していたのです。
では、戦国時代の一級史料とされる、「信長公記」、そして、それをベースに、江戸時代の第三百済王朝の寛永三年(1626年)小瀬甫庵の著書「信長記」の内容は、史実を伝えていたのでしょうか。
それらの一級史料とされる物語では、織田信長は、明智光秀の謀叛に遭い、本能寺で自害したとされているのですが、当日明智光秀軍の一員として本能寺に赴いた本城惣右衛門の手記によれば、明智光秀軍一団が、未明に本能寺へ到着した時点には、すでに本能寺は焼け落ちていた、とするのです。
しかし、それらの一級史料や「フロイス日本史」では、明智光秀軍団に攻められて矢傷を負って窮地にたった織田信長は、自害した、とするのです。自害とすると、何故、遺体が見つからなかったかの説明がつきません。しかし、爆殺であったならば、その説明は納得できるのです。本能寺が、藤原氏の密貿易による火薬貯蔵所であったことから、織田信長爆殺説は、かなり納得できるのです。
江戸初期、徳川家康が、穢多頭弾左衛門と共に、荒川や利根川支流が流れ込む、穢れ地であったエド(穢れ地→穢地→エド→江戸)を、オリエントから渡来の秦氏末裔の高度土木技術により、湿地帯を改良して宅地とし、大坂の渡辺村(秦王国)から移住させた者達により城下町として整い始めた頃、1623年徳川三代目将軍となった百済の血が流れる家光は、明智光秀一族が滅んだ「山崎の戦い」での徳川家康と騎馬民族末裔に恨みを持つ春日局の入れ智慧により、騎馬民族末裔の徳川家康の忠臣達と、徳川家康と懇意にしていた秦氏末裔の弾左衛門一族のエドからの追放を企てていたのです。
その忠臣のひとりである、三代目将軍家光に疎まれていた旗本の大久保彦佐衛門忠教が「三河物語」を著し、その文中で、「「信長公記」を見るとうそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。三分の一は全く無かったことだ。(略)それで(「信長公記」をベースに著述された)「信長記」にはうそが多いと評判に成った。」、と記述しているのです。その大久保彦佐衛門忠教は、生前の織田信長と軍事行動を共にしたことのある、清洲同盟徳川家康の家臣であったのです。
では、戦国時代を描いた「天正記」と総称される、「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などの八編の史料としての信憑性はどのように評価できるのでしょうか。これらの物語は、関白豊臣秀吉が、大村由己に、豊臣秀吉の軍歴と業績を誇示するために書かせたものであるのです。その内容には疑問符がつくのですが、その物語の始まりが、天正二年(1574年)秀吉が長浜城主になった後の、天正八年(1580年)頃から始まるのです。その天正二年の翌年、1575年織田信長は、日本で始めて、鉄砲隊により、武田勝頼の騎馬軍団を敗退させていたのです。
織田信長の軍団では、鉄砲隊は初期から組織されていたように思えますが、鉄砲隊での本格的戦闘は、1560年今川義元軍を尾張の桶狭間でのゲリラ戦で破ってから十五年後の、1575年三河長篠の戦であったのです。その十五年の間に、織田信長は、イエズス会により鉄砲と軍事訓練された傭兵軍の供給を受けたのです。
1549年イエズス会のザビエルは、南インドのマラバル沿岸の布教(侵略)基地から、日本列島の南九州の鹿児島に渡来するわけです。何故、南九州鹿児島が、日本列島初渡来の地であったのかは、その南九州を実効支配していた藤原氏(近衛家)は、その渡来元が南インドのマラバル沿岸で、古来から藤原氏は南インドとの南海密貿易をおこなっていたからです。戦国時代のイエズス会と藤原氏(近衛家)とは、南インドのマラバル沿岸で繋がっていたのです。
紀元一世紀、そのマラバル沿岸には、ユダヤ教ヨシュア派(この新興宗教が、392年ローマ・キリスト教となるのです。)の伝道師トマスが、「法華経」にあるソックリ物語を多く綴っている「マタイの福音書」を携えて、その新興宗教の布教地(侵略地)を訪れて、教会(砦)を築いていたのです。
渡来したザビエル(滞在1549年〜1551年)は、琵琶法師ロレンソ了斎より、反仏教軍団を組織するための情報として、山の民の武人の性格を聞き出していたのです。そして、実際に山の民の武人に接触した感想を、「私はこれほどまでに武器(日本刀)を大切にする人たちをいまだかって見たことがない。」とし、更に、「よい武器(日本刀)をもっていることが何よりも自慢であった。」、と書き残しているのです。
何故、山の民の武人が、武器を大切にし、自慢するのか、ザビエルは理解できなかったようですが、その武人が、北条鎌倉時代に「サムライ」組織により、山に追われた源氏落武者末裔であることを知っていたら、武人のその武器に対する態度が理解できたことでしょう。
その山の民の武人が、大切にし、そして、自慢する日本刀とは、唯の実戦用武器などではなく、先祖の魂を鎮めるための「もののふ」である武芸者の祭祀道具であったのです。
それでは、その山の民の武人は、奈良時代では「鬼」「土蜘蛛」、平安時代では「蝦夷」「俘囚」、そして、北条鎌倉時代以降では「天狗」「山賊」「馬借」、として無教養で粗野で凶暴と勝ち組史料では記述されているのですが、イエズス会にはどのように認識されたのでしょうか。
巡察使ヴァリニャーノ(滞在1579年〜1603年)は、イエズス会員から、「日本人が高貴で非常に優れた素質と才能の持ち主であることは否定できない。それゆえ日本人は多くの事柄において我々ヨーロッパ人を凌駕している。」と知らされ、そして、「イエズス会員が、日本人から、知識も礼儀も持ち合わせていないと思われないように。」、との注意も受けていたのです。そして、「日本人は外面的な事柄や礼拝の儀式、立派に整えられた儀式に非常に心を揺り動かされる。」とのアドバイスも受けていたのです。
山の民の武人が礼儀正しいのは、日本武士道は、ローマ帝国軍騎士道→新羅花郎騎士道の流れにあり、忠誠心、弱者擁護、名乗りあい太陽の下で正々堂々と戦う、等の一族の掟があったからです。この日本武士道の流れは、後に、「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸時代に、アウトローの役座の掟、「強気を挫き、弱き助く。」の「任侠道」として生き延びていくわけです。
そのように先輩のイエズス会員より、山の民の武人の情報を得ていたので、イエズス会の宣教師が、自称飛騨守とした高山友照に対して武士として礼儀を尽くしたことと、琵琶法師ロレンソ了斎によるキリスト教の平等思想とその実践の説明、例えば、都地区での仏教組織が仏罰者の穢れ者として差別していたハンセン氏病者に対する治療と保護、に感銘した高山友照は、イエズス会に入会したわけです。この日本武士道の代表のような高山友照と彦五郎(後の右近)親子が、キリシタンとなったことにより、多くの山の民の武人が、キリシタンとなっていくわけです。その中に、蒲生氏郷がいたのです。
キリシタン大名の蒲生氏郷は、伊勢湾一帯を支配する豪族ですが、その臣下に山科勝成がいたのです。この山科勝成は、大砲の名手であったのです。しかし、その大砲の渡来は、1543年種子島に鉄砲が伝来してから33年後の、1576年であるのです。
鉄砲のコピーは、製鉄技術があればできます。しかし、鉄砲を使いこなすには、火薬の主原料の硝石が必要なのと、火薬の取り扱いを知らないとできません。ましてや、鉄砲軍団を組織的に動かすには、長い歳月をかけた経験がなければできないことです。
火薬は、硝石、硫黄、炭粉より作られるのですが、その硝石は、日本列島では殆んど採取できないのです。そのことに目を付けたイエズス会は、イエズス会に入会の条件として、硝石と鉛の提供をおこなうことにより、信心深くない大名も、イエズス会に取り込んでいくわけです。
この硝石の需要を察知した藤原氏は、インド硝石を、坊津→種子島→雑賀→根来寺→本能寺の密輸ルートを使い、戦国大名達に売り捌いていたのです。その本能寺で、やがて、十年戦争の石山合戦で仏教軍団が日本列島に存在しなくなったため、不必要となった織田信長は、1582年爆殺されてしまうのです。
更に、鉄砲の後に渡来した、鉄砲の数百倍の威力のある大砲の取り扱いは、日本武人のシロウトではできない高等技術であったのです。実は、その山科勝成とは実名ではありません。経歴と実名は、1570年宣教師オルガンチノと共に渡来した、十字軍マルタ騎士団のジョバンニ・ロルテスだったのです。ロルテスは、大砲の操作技術者として、イエズス会の傭兵として渡来していたのです。更に、ロルテスには、簿記技術と石組技術をもっていたことから、石工組合員(フリーメイソン)であると疑われています。
現在各地に復元されて聳え立つ石垣上に城郭を設置した城は、そのロルテスよりヨーロッパ築城思想を学んだ織田信長が、キリストの神の代わりに、織田信長自ら神として住む「天主閣」を設けて築城したのです。日本列島において、天主閣のある城は、1576年完成の安土城が始めであるのです。しかし、後に、その「天主閣」は、「天守閣」となって現在に至るわけです。無神論者の織田信長が、キリストの神を敬わず、自ら神となることを欲したことも、イエズス会組織に爆殺された要因のひとつでもあるようです。
そして、キリシタン大名の蒲生氏郷の部下となったロルテス(山科勝成)は、1575年三河の長篠の戦で勝利した、織田信長に謁見していたのです。それは、その当時には、イエズス会が軍事支援する織田信長支配下の軍団には、多くのキリシタン大名軍団と射撃に慣れたイエズス会傭兵が存在していたからです。
この長篠の戦で勝利した織田信長軍は、1571年の焼討ちで比叡山延暦寺軍を簡単に壊滅できたのですが、1570年から始まった石山合戦では、五年もの苦戦をしても壊滅できないでいたのです。それは、石見の銀山採掘権をポルトガル商人とイエズス会に狙われている、中国地方を支配する毛利輝元が、秦氏末裔の野武士軍団が護る大坂石山本願寺の砦に、毛利海軍の船により、武器・弾薬・食糧を供給していたからです。
織田信長は、その毛利海軍を壊滅する戦術を、イエズス会に求めていたのです。その戦術の新兵器が、1576年ポルトガルから伝来の戦艦の大砲であったのです。この戦艦の大砲の砲撃により、無敵の毛利海軍も壊滅してしまうわけです。この海戦での敗戦により、毛利軍本隊の戦力が衰えていくわけです。
簒奪王権は、このイエズス会戦艦による、石山合戦での毛利海軍との海戦の史実を知られたくないために、物理学的に証明できない九鬼海軍の新兵器の鉄鋼板船による海戦物語を、江戸時代に創作するわけです。しかし、常識的に考えても、和船に鉄鋼板を全面に貼り付けた戦艦が、正常に航行できるはずはないのです。しかし、この九鬼海軍の鉄鋼板船の存在は、現在でも、史実と信じられているのです。
戦国時代末期の戦いとは、ポルトガル王国がイエズス会のキリシタン軍団を手先として、日本列島の中枢を占領するために、都地区を支配していた比叡山延暦寺軍団と石山本願寺軍団を壊滅するための、「キリシタン軍団」と「仏教軍団」との戦いであったのです。
その「キリシタン軍団」と「石山本願寺軍団」の尖兵として働いたのは、秦氏末裔の源氏武士末裔であったのです。キリシタン軍団として参戦した秦氏末裔は、ハンセン氏病者を仏罰者としてイジメる仏教組織壊滅に立ち上がったのです。それに対して、石山本願寺軍に参戦した秦氏末裔は、日本列島を異教の神を掲げて支配を目論むイエズス会傀儡の織田信長軍団壊滅に立ち上がったのです。
その秦氏末裔の悲劇は、そのイエズス会が布教するキリスト教も、親鸞が布教した阿弥陀様の教えも、その源は、秦氏が祀る太陽神ミトラであったのです。キリスト教も浄土真宗も、自分の組織を広げるために、太陽の下、全ての民族は平等である、とするミトラ神を、自らの組織拡大のために改竄していたことを、その両軍で奮闘する秦氏末裔は、知る術は無かったのです。
この秦氏末裔の同氏討ちを距離を置いて眺めていたのは、ミトラ神のシンボル十字(マルタ・クロス)を割り菱の家紋とした、1582年に滅んだ騎馬民族末裔武田氏の忍者部族金山衆を取り込んだ、騎馬民族末裔の徳川家康であったのです。
ポルトガル王国の日本支配のシナリオは、平安時代より、神道ではなく、仏教の密教儀式で祀られていた百済系天皇家は、藤原氏の祭祀儀式による唯の日本国の飾りにすぎないことをイエズス会が調査していたため、武力で日本を統一させた天下人を日本列島の実質の王として、キリスト教に帰依させることにより、ポルトガル王国の日本支配が完成する、と言うわけです。
そのシナリオ戦略の捨て駒が、平家末裔の反仏教の織田信長と源氏末裔の反仏教の徳川家康であったのです。
都地区を支配していた比叡山延暦寺軍団と石山本願寺軍団を壊滅して目的を達したことにより、用済みの捨て駒の織田信長を抹殺するための、1582年本能寺の変があった未明に、織田信長から堺に招待されていた徳川家康が遊行していたのは、イエズス会と藤原氏による、織田信長と徳川家康との同時暗殺が目的であったのです。
しかし、遊芸者とのネットワークを持つ金山衆などの忍者部隊を側近として侍らせる徳川家康は、そのイエズス会と藤原氏の陰謀を察知すると、素早く、堺から逃避することにより、生き延びていくわけです。では、イエズス会の目的を達成するために、武力による天下統一に熱心ではなかった織田信長と徳川家康の捨て駒を抹殺した跡目を、ポルトガル王国とイエズス会は、誰に託そうとしていたのでしょうか。
日本史には謎が多い人物が多数登場しますが、その中でも謎が多い人物のひとりが、関白豊臣秀吉です。
豊臣秀吉の経歴を語っている「天正記」と総称される、「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などの八編の史料と、「信長公記」、そしてそれを参考に著された「信長記」を除くと、尾張国愛知郡中村の百姓木下弥右衛門の子とされる、豊臣秀吉の出自を示す他の史料は皆無なのです。豊臣秀吉は、何処で生まれたかの客観的史料がないのですが、突然、三河長篠の戦の前年に、歴史上現れるのです。
それは、正に、北条鎌倉時代の元寇に関する史料が、禅宗関連史料以外には、皆無であるのと同じに、関白豊臣秀吉には、何か後世のひとに知られたくない史実があったようです。
1584年小牧・長久手の戦いで、壊滅することが出来なかった宿敵徳川家康を、1590年に、関東の穢れ地に移封を命じた関白豊臣秀吉は、その翌年、1591年千利休に切腹を命じるのです。何故、千利休は、その豊臣秀吉の命に素直に従って自害したのでしょうか。それは、千利休には、イエズス会との深い繋がりがあったからです。
千利休とは、藤原氏と非常に親しい正親町天皇から与えられた居士号で、幼名を与四郎と呼ばれ、堺の倉庫業で屋号魚屋(ととや)の生まれと云われています。しかし、一時、秦氏末裔賎民の呼称「阿弥」と号したように、その周辺には、秦氏末裔の遊芸者の影が付きまとっていたのです。
与四郎は、室町時代に盛んであった博打の闘茶から、わび茶を開発した武野紹鴎の弟子であり、そのわび茶を草庵での高価な茶器での茶会として完成させていたのです。この千利休の師匠の武野紹鴎にも、秦氏末裔の影が付いているのです。
茶人武野紹鴎は、改姓後の名で、武野の前姓は、武田新四郎と言い、騎馬民族末裔の武田氏の武士であったのです。その武田が、武野となって、自治都市堺で皮屋の屋号で、武具の甲冑などの武器革製品を商う商人となっていたのです。
「サムライ」が支配した北条鎌倉時代以降、製革製品を商う商人は、仏教思想の血・肉食禁忌思想により穢多と呼ばれ、賎民視されていたのです。更に、武野紹鴎は、賎民ささら一族の専売品の竹細工を行い、竹で茶杓を自ら作り、わび茶で使用していたのです。
自治都市堺は、北方の難波にかけて、六世紀まで「秦王国」の地であったのです。その地に、時空を越えて秦氏末裔が集結したのです。そして、戦国時代末期に、イエズス会のエージェントが、都地区侵略の前線基地確保のため、自治都市堺に潜入してくるのです。
千利休は、草庵での茶会を完成させると、利休七哲といわれる武人達も結集していたのです。それらの七名の武人とは、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山堅物、そして、蒲生氏郷と高山右近です。その蒲生氏郷の家臣が、大砲の名人十字軍マルタ騎士団の山科勝成(ロルテス)で、高山右近の主が、織田信長暗殺の下手人とされてしまった明智光秀であったのです。その蒲生氏郷と高山右近は、後に、共にキリシタン大名となるのです。
その草庵での茶会は、「あること」をおこなうには、都合の良い空間であったのです。その「あること」とは、暗殺です。その草庵の入り口は、非常に狭くて、武士の魂である日本刀を携帯しては入れなかったのです。更に、抹茶は苦いため、トリカブトなどの毒薬を混ぜて飲ませるには適した飲み物であったのです。
千利休は、1591年2月28日、京都聚楽屋敷で自刃し、その首は一条戻り橋に晒されたのです。何故、千利休は、豊臣秀吉により、切腹を命じられたのかは、1590年7月21日長崎に帰着した、天正少年使節団を引率した巡察師バリニャーノが、日本の王に謁見を求めていたからです。
そして、その願いが叶えられたのは、八ヵ月後の1591年3月京の聚楽第において、日本の王を前にして、少年視察団がヨーロッパで学んだ西洋音楽を演奏したのです。
そこで、巡察師バリニャーノは、日本の王が、織田信長から豊臣秀吉に代わっていることに驚愕するのです。巡察師バリニャーノが日本の王からの返事を待っていた、その八ヶ月の間に、千利休は、豊臣秀吉により、切腹を命ぜられ、自刃し、その首が晒されたのです。千利休の首を晒した目的は、ある者達に対する警告を含んでいたのです。
1576年に完成した安土城とその城下町を、1579年渡来した巡察師バリニャーノは、視察し、そして、日本武士の正装である鎧甲冑ではなく、ヨーロッパ服で身を包む織田信長に謁見して、「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一隅の機会である。」、と書簡で述べているのです。
そして、1580年にポルトガルとイスパニアは同君連合となり、イスパニアのフェリペ2世がポルトガル王位を兼任したため、イエズス会会員にイスパニア人が多数入会することに脅威を感じていた巡察師バリニャーノは、ポルトガルのイエズス会の日本での布教実績をローマ教皇にアピールするために、1582年2月15日天正少年使節を連れて長崎からヨーロッパに向けて旅立ったのです。
その目的はふたつ。ひとつは、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に、日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。そして、もうひとつは、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後そのキリスト教世界の栄光と偉大さを、その少年達自らに語らせることにより日本での更なる布教に役立てる、ことであったのです。
天正少年使節のヨーロッパでの成功を手にした巡察師バリニャーノ一行(バリニャーノ自身は、ヨーロッパに行かず、インドに留まっていた。)は、1586年リスボンを出発し、インドで巡察師バリニャーノと合流し、中継地のマカオに到着すると、1587年豊臣秀吉により伴天連追放令が発せられていることを知るのです。今や、イエズス会の宣教師は、日本国へ入国できないのです。そこで、巡察師バリニャーノ一行は、インド副王の使節として、日本国入国を許可されたのです。そして、やっとのことで、1590年7月21日長崎に帰着するのです。そして、日本の王に、イエズス会によるヨーロッパ視察の報告としてではなく、インド副王の親書を届ける名目で、巡察師バリニャーノは謁見を願い出たのです。
メキシコ銀山を開発し、そして、チリ硝石を積んだイスパニア商船が、銀山のある石見沿岸に多数渡来していることに脅威を感じ、日本の王・織田信長に謁見し、日本国でキリスト教布教が、ポルトガル人によるイエズス会の努力で成功したことを直ぐにでもローマ教皇に報告するべく、1582年2月15日に長崎を発った巡察師バリニャーノは、その四ヵ月後の、1582年6月21日未明に起こった「事件」を知る術を持っていなかったのです。
それは、1582年今やイエズス会は、ポルトガル人だけの組織員ではなく、33人中、ポルトガル人17名、イスパニア人10人、イタリア人6名であったのです。そのイスパニア人のイエズス会会員は、当然、ポルトガル商人よりも、イスパニア商人を優遇するわけです。そのために、日本列島支配のシナリオ戦略も、当然、変更されていたのです。
巡察師バリニャーノ一行がヨーロッパに向けて旅立った後のイエズス会の内部は、一枚岩ではなかったのです。そして、イエズス会には不幸にも、1588年イングランド王国の海軍は、世界征服を狙うイスパニアの無敵艦隊を撃破したのです。
このことにより、ローマ教皇の許しを得て、東アジアを支配国としていたポルトガル・イスパニア王国の征服予定地には、ローマ教皇の宗教的支配が及ばないイングランド王国の海軍が侵攻していくのです。1600年には、アヘン貿易をおこなう、イングランド東インド会社が設立されるわけです。
そして、その268年後、1868年その東インド会社の社員グラバーが、藤原氏(近衛家)が支配する薩摩藩と長州藩の、「サムライ」ではなく、「下級武士」に「サムライ」が支配する第三百済王朝の江戸幕府の転覆を焚き付けたことにより、平安時代から始まった錬金術師空海が発明した密教儀式で祀っていた天皇家から、藤原氏(近衛家)により新たに発明された「古代?」儀式の数々により、国家神道で祀る天皇家へと代わり、ここに「神国ニッポン」が誕生するのです。
1591年3月の聚楽第での演奏会で、日本の王が、織田信長から豊臣秀吉に代わっていたことを始めて知った巡察師バリニャーノは、その後十年間の日本滞在中の調査で、同盟者と思っていた「藤原氏の陰謀」を知るのです。そして、1600年関が原の戦いで、藤原氏が支援する西軍・豊臣軍が、騎馬民族末裔の東軍・徳川家康軍に敗退したのを確認すると、1603年日本を後にするのです。
では、イエズス会の、織田信長と徳川家康による日本征服のシナリオ戦略は、石見銀山を狙うイスパニア商人達が支援するイエズス会と「藤原氏」により、どのように替えられていたのでしょうか。
1581年織田信長は、巡察師バリニャーノが京へ視察に来たのを歓迎して、馬揃え(騎馬による軍事パレード)を、御所の前に正親町天皇を引き出させて、大々的におこなったのです。この大行事を仕切ったのは、明智光秀であったのです。
その翌年、つまり、1582年「本能寺の変」があった年、再び、織田信長は、明智光秀に、退位しない正親町天皇を脅すために、馬揃えをおこなうことを告げていたのです。京での馬揃えのために、焼け落ちた本能寺に未明に到着した明智光秀軍は、そこで初めて、陰謀に巻き込まれたことを知るのです。
何故、織田信長が、そのような馬揃えを、巡察師バリニャーノのためにおこなったのかは、巡察師の職務を、よく理解していたからです。
イエズス会巡察師とは、世界各地のイエズス会布教地(侵略地)に派遣され、そのイエズス会の任務を点検する、特別司祭のことです。その巡察師は、ローマ教皇より、その地でのイエズス会の活動の変更や中止の権限を与えられていたのです。
織田信長は、イエズス会の初期目的であった、都地区で悪魔の教えを広める館壊滅を、1571年比叡山延暦寺を焼討ち壊滅し、1580年石山本願寺を壊滅・占領したことを、その馬揃え後に、巡察師バリニャーノに報告したのです。
その報告を受け、安土城が聳える城下町の教会や、学校から聞こえるオルガンの響きを見聞きした巡察師バリニャーノは、「信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一隅の機会である。」と考え、ローマ教皇への報告に赴くわけです。
しかし、ポルトガル商人やイスパニア商人は、京都の仏教軍団を壊滅したことに満足している織田信長には、大いに不満であったのです。更に、デウスの神を崇めず、織田信長自ら神となり、その化身の唯の大石を拝めと要求する織田信長の存在は、最早許せなかったのです。それは、ポルトガル商人とイスパニア商人が支援するイエズス会が、織田信長を軍事援助した真の目的は、石見の銀山の支配権を、毛利輝元より奪うことが、第一の目的であったからです。
劃して、石見銀山を奪取するための適任者が選ばれるのです。それが、出自不明の羽柴秀吉です。抹殺する相手は、織田信長、徳川家康、そして、明智光秀です。
明智光秀の出自は、戦国大名・武将の例に倣って、不明です。その出自の手掛かりはないのですが、射撃の名手であることは、イエズス会の傭兵であったことが疑えます。当時、硝石は貴重品であったので、ふんだんに射撃練習ができるのは、藤原氏の硝石密輸ルートにある雑賀衆か、イエズス会傭兵だけです。
明智光秀が、歴史上登場するのは、足利義昭の京への護衛を、ゲリラ戦を得意とする尾張の弱小武将の織田信長に依頼の時です。1568年織田信長が、足利義昭を奉じて上洛すると、その翌年、1569年織田信長は、遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎の紹介で、宣教師ルイス・フロイスに謁見するのです。そして、1570年近江姉川の戦いに参戦した明智光秀は、その翌年には、羽柴秀吉を差し置いて、坂本城の城主となっているのです。羽柴秀吉が、長浜城主となったのは、その四年後の、1574年だったのです。
更に、明智光秀は、その出自が不明なのにもかかわらず、織田信長に会った二年後には、京都奉行の政務に付いていたのです。
それには、明智光秀の謎があったからです。それらの謎のひとつは、堺の商人であった千利休の弟子の高山右近が、明智光秀の配下であったことです。更に、出自不明の明智光秀は、公家が好む連歌の名人で、頻回に連歌会を開催したり、京の連歌会に出席していたのです。そして、明智光秀は、織田信長の家臣でもあり、足利義昭の家臣でもあったのです。その足利義昭は、幼少を藤原氏が支配する興福寺で過していたのです。
千利休は、その名を正親町天皇より賜ったのですが、その意味は、「賎・せん」の利休であったのです。つまり、賎民の利休が、何故、正親町天皇と繋がりがあったのでしょうか。それは、天皇家の周りで暗躍する、藤原氏の流れにある近衛前久です。近衛前久は、娘前子を入内させることにより、正親町天皇と義理の兄弟となっていたのです。その近衛前久が、千利休を織田信長に、茶の師として紹介していたのです。そのことにより、織田信長は、茶器に異常な興味をもつことになったのです。
この近衛前久と正親町天皇とのコンビは、イエズス会傀儡軍の織田信長の苦戦では色々と活躍し、浅井長政との形勢が不利な戦いでは、和睦の調停役となったり、そして、石山合戦では、十年もの戦闘でも織田信長軍が勝利できないのを、石山本願寺の顕如との和睦の調停役となり、その調停中に防御を解いた一向宗軍団の隙を突き、全滅させていたのです。その近衛前久も、天下を盗った織田信長の存在を許せないひとりであったのです。
藤原氏が、イエズス会と共に、織田信長を支援したのは、藤原氏が支配する興福寺の宿敵比叡山延暦寺軍の壊滅であったのです。しかし、藤原氏の流れにある親鸞が発明した浄土真宗の石山本願寺を壊滅するに及んでは、最早、支援するどころか、抹殺したい存在であったのです。正親町天皇の和睦で、顕如一族の存在は確保できたのですが、この後、どのようなことを要求されるか想像も出来ない織田信長は、抹殺するより他はない、と考えたようです。
そこで、イエズス会と藤原氏(近衛家)の意見が一致するわけです。そのシナリオは、明智光秀を下手人として、織田信長と徳川家康を同時に暗殺することです。そして、謀反人明智光秀を羽柴秀吉に討たせることにより、織田信長の王統を羽柴秀吉に引き継ぐ、ということです。その織田信長と徳川家康同時暗殺の実行者は、千利休とするのです。
千利休の人物背景を知るには、生まれ育った自治都市堺の歴史を知る必要があります。
境「さかい→堺」の地名ができる奈良・平安時代以前は、その一帯は、オリエントから渡来の秦氏が支配した「秦王国」であったのです。その史実を隠蔽するために、645年飛鳥ヤマトの王国を簒奪した、唐進駐軍傀儡の中臣族が、奈良時代に、「籐氏」から「藤原氏」に変身して、自らの出自を隠蔽・改竄するために、720年「日本書紀」を創作し、四世紀の大和朝廷など架空王朝と、それを支配した天皇家(天皇の登場は、672年以降)を登場させ、南インドのマラバル沿岸で入手した「聖書物語」を真似て、天地創造物語で神代の世界から降臨したとする神武東征物語より、四世紀から河内平野に巨大古墳群を築造して、河内平野を支配していた「秦氏」を、廃仏派の「物部氏」と改竄していたのです。
645年、その秦氏が河内平野を支配し、国際交易をおこなっていた、国際湊ローラン(浪速→難波)の交易都市は、唐進駐軍と中臣族により、徹底的に破壊され、騎馬民族の移動可能な建築様式である掘立柱に瓦葺ではない建物が、基壇上に礎石を据えてその上に柱を立てて、平瓦を葺いた唐建築様式の建物に代わってしまうのです。その唐進駐軍の砦都市が、「日本書紀」では、難波長柄豊碕宮遷都、と記述されているのが、それです。
平安時代に、古代エジプトの埋葬思想による石室や石棺のある巨大古墳や百舌鳥古墳群が存在した広大な河内平野が、摂津、河内、和泉に分割され、その三国の「境」に位置する地域を「さかい」と呼んだのです。つまり、堺は、古代「秦王国」の地であったのです。
「サムライ」が支配した北条鎌倉幕府を倒した、源氏末裔の「武士」である足利氏が支配した室町時代には、摂津、河内、和泉には、穢多としてイジメられていた、遊芸者達が集まる地となっていたのです。そして、戦国時代には、堀をめぐらせ武装組織に護られた堺は、王権の及ばない自治都市となっていたのです。その自治都市堺に、千利休の茶道の師匠、皮屋の武野紹鴎が堺の有力者で居られたのは、堺が、秦氏が支配する「秦王国」であったからです。
秦氏末裔が、北条鎌倉時代から、血・肉食禁忌思想を武器とする仏教組織により、穢多として民族差別をされたように、秦氏は、高度技術を持つ多部族連合であったので、その部族中には騎馬民族も多くいたのです。騎馬民族は、その生活上、肉食し、その毛皮をなめし、革製品を作ることに優れた技術をもっていたのです。
騎馬民族が、戦闘に強かったのは、騎馬民族スキタイから伝承された、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術と製革技術をもっていたからです。それは、それらの二つの技術を融合することにより、優れた武器を生産できたからです。皮屋の武野紹鴎も、自治都市堺(秦王国)で、武具や甲冑を生産していたのです。その皮屋の武野紹鴎が、千利休に茶道を教えていたのです。その武野紹鴎が騎馬民族末裔であることは、前姓が武田であったことで証明できるのです。
武田氏が騎馬民族末裔であることは、その戦闘で騎馬を使うことと、遠隔地にいる同族との交信に狼煙(のろし)を使っていたからです。狼煙は、その文字からも分かるように、狼の糞を燃やすことによる煙を使い、遠方と交信していたのです。その狼煙を通信手段とした歴史は、騎馬民族スキタイが始めであったのです。
そして、農耕民族が嫌う狼は、騎馬遊牧民族にとっては神聖なトーテムでもあったのです。そして、武田氏が、騎馬遊牧民族末裔であることを証明するように、固定した城を築くことはなかったのです。そして、その武田氏の歴史を示す家紋は、秦氏が祀る太陽神のシンボルである、マルタ・クロスの十字をデザインした、割り菱であったのです。
茶道の背景を見ると、そこには七道の者達が現れてくるのです。七道とは、仏教思想の六道、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天界道の六道界を外れた者のことです。つまり、七道の者とは、仏教思想で、死後、前世の罪により、転生するとされる六種の世界にも住めない、人間ではなく、獣である、と仏教組織は言うのです。
勿論、この思想は、釈尊の教えなどではなく、遊牧民族トラヴィダを不可触賎民チャンダラーとして貶めるために発明した輪廻転生のバラモン教の教えを、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族の秦氏を貶めるために、漢訳仏教組織が真似たものであったのです。
そして、北条鎌倉時代、飛鳥ヤマト時代の秦氏の祭祀一族末裔の遊芸者は、漢訳仏教思想を武器とする王権により、七道の者と蔑まされていたのです。
茶は、鎌倉時代、元帝国に滅ぼされた南宋から移民してきた禅僧により、「くすり」として持ち込まれてきたのです。それが、室町時代には、「くすり」飲みから、産地当ての博打の闘茶となっていたのです。戦国時代、その博打の闘茶を、高級な茶器で飲む芸術に仕立てたのが皮屋の武野紹鴎で、その茶を飲む空間を創ったのが千利休であったのです。その「わび」のある庭園に、質素で小さな茶室を設け、瀬戸物の茶器で、竹細工の茶杓で抹茶をいれて、鉄瓶で沸かした湯でお茶を立てるわけです。それら茶道を構成する、庭園、茶室、茶器、茶杓、鉄瓶などをつくるのは、賎民と言われた秦氏末裔の仕事であったのです。
茶道が、戦国時代に武家世界に流行ったのは、風流を楽しむためだけではなかったのです。それは、戦国時代の武家経済構造を反映していたのです。武家は、ご恩と奉公で、死を賭して敵を倒すために働くわけです。つまり、褒賞目当てに戦場に向かうのです。それに対して王権は、手柄を立てた武者に、負将の支配地を分け与えていたのです。しかし、戦国時代末期には、各地の戦場と、それに参加した武将との比率が、手柄を立てた武将の方が多かったため、恩賞として分け与える土地がなかったのです。
そこで、智慧者が、土地に替えて、茶器を褒賞として与えることを考えたのです。そのためには、土地よりも高価であるとする、「茶器の伝説」を創る必要があったのです。その伝説を創るのに、藤原氏と懇意のある天皇が登場するわけです。戦国末期の天皇家の経済は、かなり疲弊していたからです。
その褒賞としての茶器を鑑定するひとりとして、千利休がいたのです。正親町天皇より名を受けた、茶道の大家となっていた千利休の「一言」で、駄器が、一国よりも高価な名器に変わってしまうのです。そのように伝説創作により、当時の茶道界での三大名器とされたのは、「初花」「新田」「楢柴」であったのです。
そのような歴史的背景のある自治都市堺に、イエズス会のエージェントの遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎が現れるわけです。日本列島の支配を目論むイエズス会は、奈良時代より仏教組織にイジメられてきた、自治都市堺に暮す秦氏末裔のエネルギーを、京都を支配している比叡山延暦寺軍団と、大坂を支配している石山本願寺軍団壊滅のために利用しようと考えていたのです。
この堺の秦氏末裔の賎民達をイエズス会に取り込むことが出来たことにより、尾張の織田信長と、三河の徳川家康を、イエズス会に取り込むことが出来たのです。それは、織田信長も徳川家康もその祖が賎民として、仏教組織にイジメられていたからです。
自治都市堺に住む皮屋の武野紹鴎は、このイエズス会の申し出を受け入れるのです。そして、その連絡係として、藤原氏の流れを汲む近衛前久と義兄弟の正親町天皇より名を受けた、弟子の千利休を指名するのです。
そして、千利休は、近衛前久の紹介により、イエズス会傀儡の織田信長の茶の師となるのです。そのことにより、織田信長は、千利休が鑑定した名器を、手柄を立てた武将に、褒賞としての土地の代わりに、無限に与えることが可能となっていたのです。その一方、織田信長は、伝説により創られた三大名器とされる「初花」「新田」を、高価な代償を払い手に入れたのです。残る名器は、「楢柴」だけです。
イエズス会の大躍進は、遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎なしには語れないでしょう。それは、全国を漂泊する遊芸者は、全国の情報を知るための、神社で「役座」が仕切る同業者組合の「座」を基点とするネットワークを持っていたからです。そして、遊芸者が集まる自治都市堺にも、当然、全国の情報が集まるわけです。その情報を「任意のひと達」に伝える手段として、千利休は茶会を開催していたのです。
このことは、1600年関が原の戦いで勝利した東軍の将徳川家康が、千利休の弟子であったキリシタンの古田織部を、徳川二代目将軍秀忠の茶の湯の指南として召抱えたのは、大坂豊臣方の情報を得るためだったのです。しかし、1615年大坂夏の陣後、その古田織部が、豊臣方に通じていたことが発覚したことにより、徳川家康により、古田織部は、師匠の千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられたのと同じに、切腹を命じられていたのです。
藤原氏とイエズス会、そして、暗殺実行者の千利休達の考えたシナリオは、次のようです。それは、明智光秀軍団が、正親町天皇を退位させるための脅しとしての馬揃えで、本能寺に集結したところを、本能寺に居る織田信長と徳川家康もろとも、爆殺する、と言うことです。
織田信長を安土城からおびき出す仕掛けは、織田信長が喉から手が出るほど欲しがっていた、「楢柴」を持っている博多の商人鳥井宗室を招き、暗殺日前夜に「茶会」を開催する、と言うことです。そして、その茶会には、織田信長から徳川家康を招待するのです。
連歌好きの明智光秀を謀叛者に仕立てる仕掛けは、公家達に、前夜連歌会を開催させ、謀叛をほのめかす歌を明智光秀に創らせる、と言うことです。シナリオは完成し、後は、実行あるのみです。

しかし、そのシナリオは、半分しか成功しなかったのです。それは、徳川家康が、織田信長の本能寺での「大茶会」を急遽キャンセルして、堺遊行に行ってしまったことと、明智光秀軍団の到着が、本能寺爆発後であったことです。しかし、織田信長の暗殺は成功し、謀叛者としての明智光秀は、シナリオ通り、隣国で待機していた羽柴秀吉軍団により、織田信長爆殺後数日で、山崎合戦で討たれるわけです。
主殺しの謀叛者とされてしまった明智光秀は、藤原氏とイエズス会の陰謀を、配下と信じていたキリシタン大名の高山右近と蒲生氏郷が、主の明智光秀軍側ではなく、敵の羽柴秀吉軍側として参戦したことで知るのです。
更に、同盟者として信頼していた徳川家康も、明智光秀軍に援軍として参戦しなかったのです。ここに、藤原氏とイエズス会による日本支配の陰謀を知る織田信長は本能寺の爆殺で、そして、織田信長の参謀であった明智光秀が、藤原氏とイエズス会による新日本王候補となった羽柴秀吉により、抹殺されたのです。そして、ポルトガル王国に替わって、イスパニア王国の日本侵略の陰謀を知る、残る抹殺者は、徳川家康だけとなったのです。
それでは、何故、徳川家康は、その陰謀から逃れられたのでしょうか。それには、元武田軍団の忍者部隊の金山衆の存在が考えられます。長篠の戦で武田軍団が壊滅すると、その武田軍団を財政的・戦略的に支えていた金山衆は、徳川家康の配下となっていたのです。金山衆は、渡来系の産鉄民族末裔であったので、騎馬民族の徳川家康と同族であったのです。その金山衆も秦氏末裔であったので、秦氏末裔の遊芸者との全国ネットワークを持っていたのです。
千利休の生家は、屋号「ととや」の倉庫業で、その仕事の流れには、物流を担う馬借との繋がりがあったのです。その馬借とは、北条鎌倉幕府の六波羅探題により、源氏狩りから逃れるために、山奥に逃れて「平家落武者」と偽り生き延びた者ではなく、街での賎民に紛れて馬借となり生き延びた「源氏武士」であったのです。
土一揆で、守護大名や幕府軍と互角に戦い、或いは、勝利できたのは、一揆軍を先導した馬借の前身が、源氏武士であったからです。その馬借は、各国にある神社の「座」を、騎馬で、各地のネットワークを繋ぐ重要な媒体者でもあったのです。
千利休は、キリシタンでしたが、それよりも秦氏末裔を意識していたのです。堺での徳川家康を茶会で毒殺することは、それほど難しいことではないのです。それができなかったことは、徳川家康が、薬草に詳しかっただけではないでしょう。
未明の本能寺での出来事は、堺に居た徳川家康に瞬時に届いていたのです。その堺からの脱出ルートが伊賀越えであったことは、徳川家康にとっては幸いであったのです。それもこれも、遊芸者とのネットワークを持つ金山衆抜きにはできなかったことです。
徳川家康が、イエズス会の陰謀から逃れられたのは、賎民達の支持があったからです。それは、1563年三河一向一揆での、徳川家康の戦い後の処理に表れています。苦戦の末、一向一揆軍を敗退した徳川家康は、一向一揆側で闘った敗残兵の武人を、配下にしていたのです。
この戦後処理は、織田信長が、1580年加賀の一向一揆軍を壊滅すると、一揆軍兵だけではなく、加賀の村々の老人幼児まで、全ての者を斬首していたのです。そして、石山合戦でも、白旗を掲げて降参した兵だけではなく、石山本願寺の砦に居た老人幼児全てを、ローマ・キリスト教が魔女を焼き殺していたのをイエズス会宣教師から聞き、そして、真似て、焼き殺していたのです。
この徳川家康と織田信長の敗残兵の処置の違いは、何なのでしょうか。それは、徳川家康と織田信長との民族の違いからきたのです。
一向衆軍の兵の多くは、織田信長と同族の海洋民族末裔ではなく、徳川家康と同族の騎馬民族末裔であったからです。阿弥陀様の民族平等思想を信じた、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の源氏武士末裔が穢多として、奈良・平安仏教にイジメられていたため、その多くが民族平等を説く一向衆となっていたのです。
しかし、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞の世襲一族は、穢多を救うためではなく、穢多の軍事力と財力を取り込むために、穢多村を布教していたのです。それは、石山合戦で、藤原氏の流れにある近衛前久の入れ智慧で、正親町天皇の仲介により、織田信長と和睦した顕如の行動で証明できるのです。民族平等のために闘ってきた穢多と蔑まされた秦氏末裔は、石山本願寺の捨て駒だったのです。
織田信長は、一向一揆軍兵士には残虐でも、奈良・平安仏教組織により汚物処理の「キヨメ」としてイジメられていた海洋民族の同族の余部(海部)を保護し、配下として召抱えていたのです。
では、織田信長も徳川家康も、どのようにして同族を識別していたのでしょうか。それは北条鎌倉時代中期から現れた、武家の歴史を示してデザインした「家紋」で、識別していたのです。
北条鎌倉時代中期以降、北条氏の支配力の衰えが見えてきた頃、山奥で「平家落武者」と偽り棲息していた源氏武士末裔が、北条鎌倉幕府打倒のために、部族の歴史を示す「家紋」を旗印として集まってきたのです。その家紋を識別して、同族が結集して軍団となっていったのです。それらの山の民を集めた軍団の長が、楠木正成であり足利尊氏であったのです。
その山から下りてきた武装集団は、自ら「アク党」と言っていたのです。その武装集団の「アク党」を、王権側が、仏教思想により「悪党」として貶めてしまうのです。この思想戦略により、その武装集団は、悪人の集まる暴力団のイメージとして現在まで伝わっているのです。
しかし、その「アク党」の「アク」が、「悪」ではなく、古代ペルシャ語での「勇者」であるとすれば、その武装集団が、自ら誇らしげに、「我らアク党」と述べていた意味が分かるというものです。その「アク党」は、自らの出自を示した歴史をマークとした「家紋」を旗印として、同族の旗の下に集結していたのです。、
十年戦争の石山合戦では、何故、日本本土西端の毛利輝元が、石山本願寺に、武器・弾薬・食糧を毛利海軍により長期に渡り供給していたのでしょうか。ひとつには、石見銀山の奪取を狙うポルトガル商人に支援されたイエズス会が、石山本願寺を支配するために、イエズス会傀儡の織田信長軍団に攻められていたからと考えられます。敵の敵は、味方であるわけです。
では、何故、毛利輝元は、1571年イエズス会傀儡の織田信長軍団に攻められていた比叡山延暦寺軍には、武器・弾薬・食糧を援助しなかったのでしょうか。それは、石山本願寺軍には毛利氏と同族が居たのですが、平安時代より亡命百済移民末裔が支配する比叡山延暦寺軍には、毛利氏の同族が居なかったからです。
それが分かるのは、石山本願寺軍の砦にたなびいていた旗印に「三ツ星に一文字」があったからです。毛利軍の家紋は、その「三ツ星に一文字」と類似した、「一文字に三ツ星」であったのです。では、その「家紋」には、どのような民族の歴史が隠されていたのでしょうか。
海洋民族や騎馬民族は、広域の遠隔地を行き来するために、旅の指針として、星を目印としていたのです。やがて、その星は、その民族のシンボルとなっていくのです。
平安時代末期、海洋民族の平家(平氏ではない。)と、騎馬民族の源氏が対立していた頃、オリオン座の、赤い星のアルファア星のベルギウスを平家星、そして、白い星のベータ星のリゲルを源氏星、と言っていたのです。
何故、オリオン座が、平家も源氏にも意識されたのかは、古代エジプトでは、オリオン座は、狩の名人とされていたからです。狩の名人のオリオン座を部族のシンボルとしたのは、平家も源氏もその祖は、農耕民族ではなく、狩猟民族であったからです。
そのオリオン座の三ツ星、ミンタカ、アルニウム、アルニタクは、横一列に並んでいたので、遠隔地を旅する民族には、旅の印とされていたのです。
平家の祖は、アラブから渡来の海洋交易民族で、朱砂が産出される伊勢に渡来していたのです。
それに対して、河内源氏の祖は、秦氏で、その秦氏の祖は、ヒッタイト帝国から、古代エジプトに技術者として出稼ぎにきていた部族であったのです。その部族末裔が、ユーラシアの各部族と連合して、東端の日本列島の古墳時代に、渡来していたのです。
古代エジプトでは、狩の名人のオリオン座は、光の神オシリスの印と考えられていたのです。そして、オリオン座を構成する三ツ星は、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドとして表現されていくのです。
その古代エジプトのオリオン座の28宿は、古代エジプトから古代中国大陸に渡来した民族により、その28宿の内の一群が、Shen(参・セェン→サン・3)と言われ、日本列島に渡来した民族により、その星群の「Shen」が、「三ツ星」と言われることになるのです。
古墳時代に、河内湾に突き出た岬に上陸した民族は、その地を、古代エジプト語の岬を意味する、ワタ(波)ナーベ(小山)と名付けるのです。その地を支配した民族末裔は、地名から名字としてワタナベと呼ばれていくのです。
そのワタナベは、平安時代、814年嵯峨天皇より源氏賜姓を受けた源融の五代目源綱が、ワタナベに移り住んだことにより、渡辺綱となり、渡辺党を興すのです。そして、ワタナベの祖である秦氏が、朝鮮半島から北九州に渡来した地には、渡辺党と同族の松浦党の祖が興るのです。
戦国末期、大坂の石山本願寺砦と、毛利海軍の旗印に、「三ツ星と一文字」、「一文字と三ツ星」があるのは、毛利海軍には、平安時代に、アラブから渡来の海洋民族末裔の平家に滅ぼされた、渡辺党の支流である海洋軍団の松浦党末裔がいたからです。
では、三ツ星の歴史は分かったのですが、一文字とは、何のシンボルであるのでしょうか。
源氏の祖は秦氏です。その秦氏の祖は、日本列島に渡来する前は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)に居住していたのです。その新羅の軍団・花郎騎士団は、元は、ローマ帝国傭兵軍であったのです。ローマ帝国傭兵軍の主武器は、長い槍で、それは、ローマ人が使う長槍を意味する、ロンギヌスの槍と云われていたのです。そのロンギヌスの槍を表わしたのが、一文字であるわけです。
「三ツ星と一文字」を旗印とする渡辺党が、ロンギヌスの槍を主武器としていたことは、三河一向一揆敗残兵で、後に、徳川家康の家臣となった渡辺半蔵守綱は、別名「槍の半蔵」と云われた長槍使いの名人であったことで、説明できるのです。
その「三ツ星と一文字」と「一文字と三ツ星」を旗印とする部族は、その部族の歴史を知ることにより、戦いで、同士討ちを避け、助け合うわけです。石山合戦が、イエズス会の最新式武器の銃と、多くの傭兵軍が供給されたにもかかわらず、十年も持ちこたえたのは、秦氏末裔の古代エジプトの高度土木技術による深堀と石組壁だけではなく、同族の毛利軍の軍事的援助があったからです。
その十年戦争の石山合戦で敗れた兵士も、徳川家康は、家臣として召抱えていたのです。徳川家康は、何を目的に、一向一揆敗残兵や石山合戦敗残兵を、家臣として召抱えていたのでしょうか。
その徳川家康が目指していた事を知るには、イエズス会傭兵から関白豊臣秀吉への出世の秘密を調べると、あぶり出し絵のように浮かんでくるようです。それは、豊臣秀吉を裏で駆っていたのが、イエズス会ではなく、藤原氏であったからです。
豊臣秀吉は、テレビ時代劇ドラマなどでは、誰にでも親切で、明るい性格のように描写しているようです。しかし、その性格を描写するための素材史料は、豊臣秀吉が総監修した「信長公記」、或いは、「天正記」と言われる「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などであるのです。
しかし、その一級史料と言われる「信長公記」でも、大久保彦佐衛門が「三河物語」で述べたように、信憑性は三分の一程なのです。そして、「フロイス日本史」では、教科書歴史とは異なる、陰湿で残酷で淫乱な豊臣秀吉が描かれているのです。
江戸時代、江戸ではあまり評判のよくなかった豊臣秀吉も、大坂では人気があったのは、大坂の住民の、新羅系日本人(秦氏・源氏)よりも、百済系日本人(平氏)が多く住む、民族構成によるようです。
そして、騎馬民族末裔の徳川家康が、秦氏末裔の穢多頭弾左衛門一族と共に湿地帯を開拓して宅地としたエドに、大坂で民族差別されていた秦氏末裔が多く住む渡辺村からエドに移民させ、共に築いたエドの都が、1623年第三百済王朝の江戸時代に替わった、百済の血が流れる家光が三代目将軍となった三年後、ウソの多い「信長公記」をベースに「信長記」を著していた、小瀬甫庵が1626年著した「太閤記」では、豊臣秀吉の架空の少年時代の名が、日吉丸であったのは、大坂の百済系日本人を意識していたからでしょう。
それは、出自不明の豊臣秀吉の歴史を創作した「太閤記」で、豊臣秀吉の少年時代の名前日吉丸の日吉とは、朝鮮半島読みでは、イルギで、それは、亡命百済移民が祀る比叡山延暦寺の神、シャンワン(山王)から派生したイルギ(日枝)→イルギ(日吉)に繋がるからです。
因みに、戦国時代の日本国の民族構成は、新羅系日本人(秦氏・河内源氏武士・徳川家康)、百済系日本人(桓武天皇家、京の皇族・平氏サムライ・比叡山僧侶)、アラブ系日本人(伊勢住民・平家・織田信長)、ユダヤ系日本人(奈良の公家・南九州藤原氏・京の近衛前久)、その他先住民となるのです。
現在の豊臣秀吉の明るく爽やかな性格が確定したのは、藤原氏が復活した明治革命以降であったのです。
大坂夏の陣後に、徳川家康が、自身の関東の穢れ地への移封と、同族の秦氏に対しての狼藉の数々に対して、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉々にして散撒していたのです。しかし、明治革命で、藤原氏の復活と共に豊臣秀吉は、再び、豊国神社に祀られる神として復活したのです。では、戦国末期、藤原氏は、豊臣秀吉を傀儡として、秦氏末裔をどのようにしたかったのでしょうか。
1582年2月15日巡察師バリニャーノは、天正少年使節を連れて長崎からヨーロッパに向けて旅立ったのです。その四ヵ月後、織田信長は、本能寺で爆殺され、その下手人とされた明智光秀は、あっさりと羽柴秀吉に滅ぼされてしまったのです。
その織田信長爆殺の流れで不思議なのは、利休七哲といわれる堺に集まるキリシタンの武人達、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山堅物、蒲生氏郷、高山右近らは、本来ならば、織田信長のナンバー2の明智光秀軍に参加するのが流れなのですが、全て、羽柴秀吉軍に参加しているのです。
そして、不思議なのは、キリシタン大名の高山右近は、明智光秀の配下であったのにもかかわらず、羽柴秀吉軍に加わっていたのです。そして、高山右近はイエズス会の十字軍旗と共に、1585年豊臣秀吉に改名した後も引き続き、1587年十字軍旗をたなびかせたイエズス会軍団が九州平定まで、豊臣秀吉軍と共に行動していたのです。
このイエズス会に最も忠実であるキリシタン大名の高山右近の行動から、織田信長爆殺から九州平定までは、イエズス会のシナリオ通りに、羽柴秀吉は動いていたようです。しかし、1587年キリシタン軍団の主力である大村純忠が死去すると、1585年豊臣姓に変身していた秀吉は、その本性を現すのです。それが、キリスト教宣教師の追放令です。
そして、九州平定最後まで共に闘った高山右近に、キリスト教の棄教を迫るのです。しかし、キリスト教を強く信じる高山右近は、大名の地位をあっさり捨てて、布教のために山奥に篭ってしまったのです。そして、高山右近は、1614年国外追放まで、山奥で布教を続けていたのです。
では、羽柴秀吉から豊臣秀吉の改名には、どのような仕掛けがあったのでしょうか。
1584年宿敵の徳川家康を、小牧・長久手の戦いで壊滅できなかった羽柴秀吉は、翌年1585年藤原氏の流れにある近衛前久の猶子(ゆうし・契約関係の親子)となり、藤原一門として、豊臣姓を賜うのです。
その豊臣の「豊」とは、藤原氏が藤原氏でなかった古墳時代の、北九州に608年にはあった秦王国の改竄国名です。その豊国の家臣である「豊臣」姓は、歴史的には、藤原氏よりも上位にあるとするのです。
羽柴秀吉を藤原一族に引き込んだ近衛前久は、藤原氏の古来からの悲願である日本支配まで、イエズス会軍団の力を利用することを考えていたのです。そして、1587年南九州の島津義久を平定すると、イエズス会の主力軍団長の大村純忠が死去すると、最早イエズス会には用はないと、近衛前久(藤原氏)は豊臣秀吉より、宣教師追放令を発せさせるわけです。
そのように強気に出られたのは、イエズス会を軍事的・経済的に支えていたイスパニアの海軍は、イングランド海軍の攻撃により、敗退を重ね、その後、1588年にはイスパニア無敵艦隊は、イングランド海軍により壊滅されてしまっていたからです。軍事的・経済的援助がないイエズス会は、907年母国唐が滅んだため平安中期に唐進駐軍が壊滅したために、その援護を受けていた百済系天皇家の力が衰えたように、最早、豊臣秀吉に命令する立場になかったのです。それに、巡察師バリニャーノが不在のため、豊臣秀吉のイエズス会に対する不正行動を、ローマ教皇へ報告する者もいなかったのです。
では、豊臣秀吉を取り込んだ藤原氏は、戦国時代の日本国で、何を企てていたのでしょうか。
白鳳時代初期、藤原京の砦を侵略基地とする唐進駐軍をバックにした籐氏(藤原氏)が、文武天皇を傀儡として、701年大宝律令により、騎馬民族の天子(テングリ・王)から発明した天皇制の垂直支配構造のメカニズムを利用して、各地の豪族の私有地を合法的に奪ったように、戦国時代、荘園制の崩壊により土地の耕作と税制の秩序が乱れたのを統一するために、中間搾取ではなく、王権(藤原氏)が直接搾取できるように、耕作者を検地帳に登録して土地に縛り付けるために、1582年織田信長が爆殺されるとすぐに、藤原氏は、イエズス会傀儡の羽柴秀吉(この頃の羽柴秀吉は、イエズス会と藤原氏を両天秤に掛けていた。)の力を利用して、太閤検地(太閤とは、前関白の意味。)をおこなっていたのです。
この太閤検地(1582年〜1598年)により、土地制度が全国統一され、物差しや枡(京枡)の全国統一により、度量衡が統一されたため、年貢の徴収も統一されたため、羽柴秀吉の収入は莫大なものになっていくのです。イエズス会にとっては、土地・税制改革を断行して全国統一を目指す羽柴秀吉は、織田信長が仏教軍団を壊滅して、同族の海洋民族を仏教支配下から開放したことに満足していたのとは異なり、日本の王として相応しく思われたのです。
大宝律令では、土地に縛られない騎馬民族や海洋民族は、その土地本位の税制から逃れてしまったのです。このことは、戦国末期の税制にも言えたのです。漂泊する騎馬民族では、人頭税となっているのを、土地本位の税制を適用するには無理が生じます。王権にとっては、騎馬民族や海洋民族は、税を搾取する対象の良民ではないため、全国を支配するためには抹殺の対象であったのです。
この太閤検地の改革は、奈良時代に全ての土地を天皇家のものとした大宝律令と同じで、全ての土地の国有化を目指していたのです。勿論、その国有化を管理するのは、関白豊臣秀吉を傀儡とする藤原氏であるのです。
その目的を達するには、織田信長は、豊臣秀吉の総監修の「信長公記」で述べているような、「天下布武」をスローガンに、「日本統一」などは全く考えていなかったため、藤原氏(傀儡関白豊臣秀吉)が日本統一するまでは、イスパニア商人とポルトガル商人が軍事支援するイエズス会からの、武器・弾薬と、十字軍マルタ騎士団のロルテスのようなイエズス会傭兵が必要であったのです。
イエズス会が、仏教組織に対抗する大名に軍事支援していたことは、1587年豊臣秀吉の宣教師追放に対しての第二回日本イエズス会全体協議会での史料で分かるのです。それには、「要塞建築を引き受けたり、イエズス会が使うためであれ、それを用いて戦時にキリスト教徒の領土を救済するためであれ、大砲、弾薬、銃、諸他の武器、戦争資材を有したり、キリスト教徒の領主のためにそれらを調達することを禁じる。」、と記述されていたのです。その史料によると、1587年までは、イエズス会は、仏教組織に対抗する大名に軍事支援していたのです。
それは、戦国時代の日本列島には、武闘を専門にする武人が少なかったからです。イエズス会が渡来するまでは、日本列島での戦闘は、農閑期の秋から春までにおこなわれていたのは、武人の多くは、農耕もおこなっていたからです。そのような日本列島の戦闘構造では、戦国大名は、自国の境界線を護るのが精一杯で、日本統一などの発想は、織田信長を含めて皆無であったのです。
傭兵制度を日本列島に持ち込んだのは、イエズス会であったのです。その先駆者が、尾張の弱小武将の織田信長であったのです。
1583年イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、石山本願寺の砦を徹底的に破壊した跡地に、大坂城を築くのです。そして、羽柴秀吉は、大坂城を中心に、城下町を築くのですが、その一等地にキリシタンの教会建設を許すのです。この時期の様子を、「フロイス日本史」では、「かつて大坂の街が、日本中で極悪の衆派の一つである一向宗の本山であったように、今や主なるデウスはこの街をキリストの福音の伝播のため、それにまったくふさわしい中心地として改造することを嘉し給うたかのようである。」、と述べているのです。ここまでは、羽柴秀吉は、イエズス会のシナリオ通りに行動を、表面上、おこなっていたのです。
1221年承久の乱で、藤原氏の陰謀により、源氏残党として京に生き残っていた河内源氏が全て抹殺されたように、1585年豊臣秀吉は、キリシタン大名高山右近と共に、最後まで残っている源氏武士末裔と雑賀衆と根来衆壊滅のために動くわけです。この戦闘により、近畿地域の一向宗軍団が消滅するわけです。しかし、三河の徳川家康の軍団には、一向宗残党兵が温存されていたのです。
この近畿の一向衆軍団の最後の戦いである、真言宗一派の根来衆が立て篭もる太田城の水攻めを、豊臣秀吉は、大坂の教会からセスペデス神父を招き見学させているのです。
1587年イエズス会軍団により、九州を平定した豊臣秀吉は、「日本は神国」と宣言し、伴天連追放令を発して、そして、京に聚楽第を建設し、その聚楽第内に、千利休の屋敷を構えさせ、北野大茶会を開催させていたのです。この「日本は神国」発言は、285年後の、1868年藤原氏が復活した明治革命で、もう一度聞くことになるのです。
しかし、その「日本は神国」の発言に反して、その伴天連追放令にもかかわらず、相変わらずイエズス会は、京で布教活動をおこなっていたのです。豊臣秀吉が、本格的に伴天連追放をおこなったのは、1596年土佐の浦戸にイスパニア船サン・フェリーペ号が入港し、その宣教師が、「イスパニアは、領土拡張の手段として先ず、フランシスコ会士を送って布教させ、その後、軍を派してその地を征服するという方式をとっている。」と、拷問に耐えかねて、白状したことを知ってからのことです。その後、フランシスコ会宣教師9人、日本人信徒17人が捕らえられ、処刑されたのです。
1590年小田原北条氏政を滅ぼした豊臣秀吉は、その年に、宿敵徳川家康を、三河から、関東の穢れ地へ移封するのです。この処置は、西国への徳川家康の軍事介入を阻止するためと、関東の湿地帯に追いやることで、徳川家康軍の軍事力を削減させるのが目的であったのです。
豊臣秀吉を描いた小説やテレビドラマで、大坂城の天守閣の場面で、天下を盗ったところで終わるのは、その後の豊臣秀吉の言動が、英雄には相応しくなかったからです。
1583年石山本願寺を徹底的に破壊すると、その跡地に、大坂城を築造するために、石山本願寺軍のために武具や甲冑を製造していた渡辺村(秦王国)を、大阪市中央区九太郎町に移封するのです。その地は、「九太郎」が、「百済・くだら」を隠蔽するために付けられた町名でも分かるように、亡命百済移民が多く暮す町であったのです。このことにより、秦氏末裔は、亡命百済移民末裔による、血・肉食禁忌の民族差別思想でイジメられていくのです。
亡命百済移民は、新羅から渡来した秦氏には、民族的恨みを持っていたのです。それは、663年母国百済を、新羅・唐連合が滅ぼしていたからです。
794年唐進駐軍の軍事支援により、百済系桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国(秦王国)を乗っ取り、その地に「平安京」を遷都するのです。その「平安京」は、唐進駐軍により、「洛陽」と呼ばれていくのです。それは、唐本国の都・京兆府(長安)の東の都が河南府(洛陽)と呼ばれたのに習い、唐から海を隔てた東の都を「洛陽」と呼んでいたからです。唐進駐軍が隊列を整え「平安京」(洛陽)に上っていたことが、後に、本来の語源の意味が分からなくなってしまい、軍団が隊列を整え京に上ることを、「上京」ではなく、「上洛」と言われていくのです。
平安時代、その「平安京」(洛陽)で、唐進駐軍により軍事支援された桓武天皇とその貴族は、母国百済を滅ぼした新羅から渡来していた秦氏一族を、秦氏支配地や祭祀場から河原に追放することにより、「河原者」の賎民として貶めていくのです。
この歴史が、この戦国時代の大坂で再現されていくのです。それは、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、秦氏末裔が多く住む渡辺村(秦王国)は、騎馬民族末裔の徳川家康のように湿地帯に移封され、穢多村として貶められていくのです。
この藤原氏の指示による豊臣秀吉の民族差別政策は、平安初期、藤原氏の援助により唐に渡り、インドのバラモン教の民族差別思想を、前支配者の騎馬民族文化を抹殺するために、日本列島に持ち込んだ錬金術師空海が蒔いた「施陀羅悪人なり」の種が、北条鎌倉時代では、「塵袋」で、「天竺に施陀羅というは屠者なり、生き物を殺して売るエタ体の悪人なり」となり、そして、戦国末期には、宗教関係者ではない豊臣秀吉が、「日本は神国」と唱えて発した「伴天連追放令」では、「牛馬を売り買い、ころして食う事、これまた曲事たるべき事」、となって庶民による民族差別として発芽していくのです。
騎馬民族であるので、当然肉食する秦氏末裔にとっては、この「屠殺=悪」の思想は、騎馬民族である秦氏の歴史の全否定に繋がってしまうのです。
それは、645年殺生禁止思想の漢訳仏教が日本列島に侵略してくる前までは、河内平野や飛鳥ヤマトを、北東アジアを支配していた騎馬民族の突厥帝国進駐軍と共に支配地としていた秦氏の祭祀者は、古墳(死者の土の家→塚)上の祭祀場で犠牲として牡牛を屠り、神に捧げていたからです。
この景教(ミトラ教)の古墳上の祭祀場を、歴史上抹殺するために発明されたのが、「神社」であるのです。つまり、神社は、日本古来の宗教施設などではなく、漢訳仏教を手先とする勢力が、前政権の神を封じ込めるための建物であったのです。この神社が、日本列島に出現したのは、645年漢訳仏教勢力による「薄葬令」で、古墳での埋葬禁止令が発令された以降であったのです。ですから、歴史的に古い神社が、こんもりした森が茂る小山(塚→古墳)の上に多くあるのは、そのためだったのです。
この「薄葬令」が、645年に発令される以前は、日本列島の各地で、巨大前方後円墳は造り続けられていたのです。このことから、飛鳥ヤマト時代が、オリエントから渡来の秦氏により古代エジプトの高度土木建築技術で、河内平野から飛鳥ヤマト地域にかけて、巨大古墳、大運河、幅十二mの直線古代高速道路を建設していた、古墳時代と重なっていたことが分かるのです。
その時代が、藤原氏による「日本書紀」で述べる「552年仏教伝来」、又は、亡命百済王朝による「538年百済仏教伝来」の、血・肉食禁忌の仏教文化の飛鳥大和時代などではないことは、河内平野や飛鳥ヤマトの遺跡の数々が証明するのです。
紀元前十四世紀、古代エジプトの宗教改革で牡牛が太陽神の化身となり、その思想が東進し、古墳時代の日本列島に、太陽を祀る景教(=太陽の都への教え・ミトラ→弥勒)として伝来するのです。その生と死を永遠に繰り返す太陽神の化身の牡牛が、太陽光が最も弱くなる冬至(12月25日)に、その太陽神の化身として屠ることにより、太陽の再生を祝うのです。
河内平野や飛鳥ヤマトにあった、そのミトラ教(景教)の祭祀場は、戦国時代中期にイエズス会が武装したポルトガル商人と共に渡来し、布教完了地の仏教施設を徹底的に破壊した跡にキリスト教教会を建てたように、645年唐進駐軍と共に、進駐してきた仏教組織により徹底的に破壊されて、その跡に、仏寺を建立(北九州より移築)して、ミトラ教の歴史的抹殺を謀るのですが、後の世に、その隠ぺい工作がバレてしまうのです。それは、仏寺境内から発掘された建物跡が、仏教建設思想の南北軸から、西に約二十度傾いているのは、冬至に太陽神を祀っていた祭祀場跡を示していたからです。
そして、秦氏一族は、その儀式で屠った牡牛の血を飲み、生肉を食べることにより、太陽神と一体になれる、と信じていたのです。このミトラ教の儀式が、ローマ・キリスト教に導入され、血が赤葡萄酒に、そして、生肉がタネナシパンと改竄されたのです。
キリスト教物語の最後の晩餐で、キリストが、弟子達に、赤葡萄酒とタネナシパンを与えて、「これは私の血であり肉である。」、と述べさせたことは、キリスト教物語を創作した作家は、ミトラ教の儀式を知っていたからです。
ですから、戦国時代のイエズス会のキリスト教宣教師も、京の教会で、牛の肉を大いに食べていたのです。勿論、秦氏末裔の山の民の、秦氏末裔の源氏武士であった、キリシタン大名の高山右近も肉食をしていたのです。その高山右近軍団が強かったのは、イエズス会からの鉄砲や弾薬を供給されてはいましたが、高山右近の部下である山の民は、秦氏末裔なので、皮をなめし革製品を作り、皮を煮詰めて接着剤として膠(にかわ)を作り、そして、ヒッタイト帝国から引き継いでいたタタラ製鉄技術により、武具や武器を自家生産できたからです。
そして、屠った牡牛の皮を剥ぎ、なめして革に加工することは、農耕民族が脱穀した後の藁を草履やムシロに加工することと同じで、騎馬民族にとっては日常的な出来事であるのです。それを、簒奪王権は、血・肉食禁忌の漢訳仏教思想を武器として、秦氏末裔を貶めるために、権力の手先の仏教僧が「ケガレ」として宣伝して歩いていたのです。
実は、その血・肉食禁忌思想は、仏の道(非人として乞食し生きること。)を説いた釈尊の教えなどではなく、インドのバラモン僧が、先住民の遊牧民族トラヴィダを、不可触賎民として貶めるために発明した思想であるのです。
そのバラモン教の血・肉食禁忌思想を、一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の経典に、騎馬民族の侵入に悩む中国大陸を支配する農耕民族王侯に取り入るために、挿入したのが、バラモン僧のナーガルジュナ(180年〜240年)であり、鳩摩羅什(405年)であるわけです。ですから、文殊の徒により無数に創作された漢訳仏典には、騎馬民族への差別語が沢山あるのは、そのためなのです。
では、仏教が伝来していた中国大陸では、「肉食は悪」などのバカゲタ思想が定着しなかったのに、何故、日本列島では定着してしまったのでしょうか。
それは、藤原氏が、バラモン教の遊牧民族差別思想を日本列島に持ち込んで、前世で悪業(肉食など)をおこなった者や、仏教に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になると「法華経」などの仏典で宣伝し、その仏罰者のハンセン氏病者の世話を秦氏末裔の部落にさせる等の、陰湿な手段を用いて、騎馬民族であるので、当然肉食する秦氏を、賎民として、奈良時代から貶め続けていたからです。
但し、奈良時代までの「ケガレ」とは、反王権のアウトローに対してでしたが、亡命百済民が、中国山東半島から日本列島に多く移民してきた平安時代になると、反逆者としての「ケガレ」が、汚わいの意味の「ケガレ」に摩り替わっていくのです。それは、平安時代初期に、錬金術師空海が、唐より持ち込んだ、インドのバラモン教の民族差別思想が原因であったのです。
では、何故、藤原氏は、古来から秦氏を社会的に抹殺しようとしていたのでしょうか。それは、日本史の謎は、天皇にあるのではなく、藤原氏にあるからです。そして、その藤原氏の謎は、秦氏の歴史が暴いてしまうからです。秦氏の歴史は、藤原氏の「黙示録」であるのです。
1585年羽柴秀吉が、藤原氏の猶子となり関白豊臣秀吉になると、突然、朝鮮半島から中国・東南アジア・インドまでの征服計画を練るのです。その豊臣秀吉の謎の行動は、豊臣秀吉自身にあったのではなく、どうも、藤原氏側にあったようです。それは、最終征服地がインドであったからです。そのインドには、藤原氏が日本列島に渡来した以前の居住地、マラバル沿岸があるからです。そして、そのマラバル沿岸には、イエズス会の侵略基地があるのです。
その天児屋根命を祖とする藤原氏の謎は、秦氏の歴史が公にされると、解明されてしまうのです。それは、天児屋根命が出現する天岩戸物語は、ギリシャ神話を模倣したものであるからです。ですから、藤原氏は、オリエント渡来の秦氏の歴史の抹殺をおこなっていたのです。
このことは、イスラエル民族と同じです。イスラエル民族とユダヤ民族は、祀る神が異なる異民族であるのです。その太陽神と牡牛を祀るイスラエル民族の歴史が公にされると、唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族の歴史の謎が解けてしまうのです。
そのために、ユダヤ民族は、紀元前722年アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族末裔を全世界で探索し、歴史的抹殺をおこなっていたのです。つまり、巷で言う「失われたイスラエル十部族」などではなく、実際は「抹殺されたイスラエル十部族」であるのです。
日本国の天皇のルーツは、645年唐進駐軍と中臣族(藤原氏の祖)軍に敗れた、突厥帝国残党兵と新羅系秦氏軍とによる、663年本国百済壊滅のため亡命してきた、百済亡命近江王朝を壊滅して、672年新羅系皇子が、天武天皇として即位したことが始まりであったのです。それ以前には、歴史上、天皇は存在していなかったのです。
その新羅系天武王朝を、770年藤原氏の陰謀により、亡命百済下級貴族を光任天皇として簒奪し、その百済系王朝が現在に至っているわけです。(幕末、天皇摩り替え説あり)
この、新羅系と百済系との二系統ある天皇家の周りで暗躍していたのが、藤原氏であるのです。ここが、「天皇家の謎は、藤原氏である。」、と言われる所以であるのです。その天皇家をコントロールする藤原氏の謎を解くヒントが、ニッポンの聖書である「日本書紀」にあるのです。
日本国の建国歴史を調べるための基本史料としては、国史としての六国史が挙げられます。それらは、720年「日本書紀」藤原不比等など、794年「続日本記」藤原継縄など、840年「日本後紀」藤原冬嗣など、869年「続日本後紀」藤原良房など、879年「日本文徳天皇実録」藤原基経など、そして、901年「日本三代実録」藤原時平、菅原道真など、により編纂された書籍です。
これらの国史と言われているもの全てに、藤原氏一族が編纂に関わっているのは何故でしょうか。そして、六国史最後の「日本三代実録」の編纂に関わった、藤原時平は、菅原道真を、その完成年に、北九州大宰府に左遷し、そこで謀殺しているのです。その後、恨みを秘めたまま謀殺された菅原道真は、雷神となり、藤原一族を祟る訳です。その菅原道真の祟りを鎮めるために、藤原氏が、大宰府天満宮を建立するのです。
では、この六国史は、誰のために、そして、何を目的に綴られていたのでしょうか。その謎の解明のヒントが、「日本三代実録」の最後の記述が、889年でおわっていることです。そして、不思議なのは、それ以降、勅撰の史書の編纂はおこなわれていないのです。
では、889年前後の日本と東アジアの歴史は、どのようになっていたのでしょうか。その時代前後の東アジアを調べると、中国唐での「黄巣の乱」が見つかります。塩の密売人の黄巣に先導された大農民反乱軍は、紀綱の乱れに乗じて、875年から884年にかけて、唐全土で暴れまわり、880年には黄巣は長安を支配し、帝を称し、国名を齋としていたのです。
その「黄巣の乱」が原因となり、その結果、907年唐は滅亡するわけです。そして、その唐滅亡十三年前、894年平安朝廷は、菅原道真を遣唐使に任命したのですが、菅原道真の宇多天皇への進言により、遣唐使が廃止となっていたのです。
何故、菅原道真は、遣唐使船の廃止を宇多天皇に願い出たのかの原因のひとつは、唐が滅亡寸前で、治安が乱れ、治外法権の仏寺を持つ仏教も腐敗して学ぶべきものが無いのと、そして、藤原氏が運営管理している遣唐使船は、新羅商船が事故無く唐へ渡れるのに、四隻中二隻は沈没するからです。
その竜骨のない、外洋船に不向きな遣唐使船で、藤原氏は、敵者を沈没という合法的な抹殺をおこなっていたのです。藤原氏からの身の危険を感じていた菅原道真が、遣唐使を辞退したのは、その遣唐使船転覆の背景があったからです。
では、唐の衰退と、六国史編纂の終わりは、何を意味していたのでしょうか。それは、唐から海を隔てた東の都「平安京」(洛陽)への隷属関係が切れたことを意味していたのです。日本国の奈良時代から平安時代中期までは、唐の支配下にあった証明が、漢語で記述された六国史であったのです。つまり、日本国歴史を綴った六国史とは、唐に提出するための書籍であったので、唐が滅亡してしまったことにより、永遠に、それ以降の編纂はおこなわれなかったのです。
では、奈良時代、唐隷属初期に現れた「日本書紀」とは、何を目的に創作されたのでしょうか。歴史教科書的には、百済系女帝持統天皇の正当性を述べるため、としているようですが、それは違います。ユダヤ教ヨシュア派の教会(砦)があった、南インドのマラバル沿岸から渡来した、藤原氏の先祖の歴史を隠蔽・改竄するためのトリックが、「日本書紀」を藤原氏が創作した、第一の目的であるのです。それは、架空の藤原氏の祖・中臣鎌足(後の藤原鎌足)を日本の古代史に登場させるためだったのです。
その中臣鎌足が「日本書紀」の物語で登場する場面は、645年「大化の改新」にからんだ事件です。しかし、その中臣鎌足と中大兄皇子とのクーデター物語にいたる場面とソックリの物語が、647年新羅での「眦曇の乱」(ひどんのらん)にあるのです。
その新羅の革命物語では、「金庚信が王孫の金春秋と接近するために、金庚信の家の前で、蹴鞠の戯をして、わざと金春秋の裳すそを踏んで、襟ひもを裂き、自分の家に招きいれて、妹にそれを縫わせるのです。それが縁で、金庚信の妹と金春秋が結婚し、そして、その金庚信と金春秋の二人が力をあわせて革命を起こした。」、と述べているのです。
「日本書紀」は、ニッポンの聖書であると信じられているため、その中で述べられている物語や記述は、真実が語られていると、信じられているようです。しかし、「眦曇の乱」と「大化の改新」の革命物語がソックリなことからも分かるように、「日本書紀」は、「聖書」の創作過程とソックリなことが分かるのです。それは、他民族の物語を都合よく利用して、自民族に都合の良い物語に改竄する、と言うことです。
「聖書」が、現在手にできる「旧約聖書」と「新約聖書」の合本書籍のようになったのは、1517年マルチン・ルターの95ヶ条による宗教改革により、ローマ・キリスト教から分離して、プロテスタント組織ができてからです。
紀元一世紀、国際交易都市ガンダーラで大乗仏教が発明された頃、ユダヤ王国は、ローマ帝国の攻撃を受け、その支配下となるのです。そのローマ帝国支配への対抗勢力を結集するために、ユダヤ教の一派である、「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、イエス・キリスト)と叫ぶヨシュア派が、今まで分冊となっていたユダヤ経典を、ヨシュアの権威付けのために、ヨシュアがダビデ・ソロモンの直系であるとする物語を、ユダヤ経典を集めて勝手に合本とするのです。そして、ユダヤ経典合本を「旧約聖書」とし、新たにヨシュア関連の合本を「新約聖書」としたのです。
そして、その後、そのビブリア(合本)は、バイブル(聖書)と呼ばれていくわけですが、不思議なのは、ヨシュア派の合本(ビブリア→バイブル)は、ユダヤ王国で使われていたアラム語やヘブライ語ではなく、何故か「ギリシャ語」で書かれていたのです。
その合本の「旧約聖書」は、その後、各宗教組織により異なり、97年以前に決められたヨシュア派の「旧約聖書」は46分冊、1517年以降に決められたプロテスタントの「旧約聖書」は39分冊、そして、97年ヤムニア会議で決められたユダヤ教の「旧約聖書」は、24分冊で構成されていたのです。しかし、その「旧約聖書」が合本される前の元分冊原稿は、紀元前四世紀には固定されていたようです。
「日本書紀」と「旧約聖書」の構成が似ていることは、以前から指摘されていることです。それは、最初に天地創造物語から始まり、神話世界となり、そして、歴史世界へと展開されていくからです。そして、ユダヤ民族の祖アブラハムの家系図と、藤原氏の祖による中臣神道のスサノオの家系図が酷似していると云われているのです。そのひとつが、両家系図で「ヤコブ」と「ニニギ」とが、重なるからです。
そして、両書とも、祭祀氏族の歴史が神話世界でさりげなく記述されているのです。「日本書紀」では、藤原氏の祖天児屋根命は、天岩戸物語で祭祀者として登場し、そして、「旧約聖書」では、モーセ物語で、レビ族アロン一派が祭祀独占の世襲化を約束されているのです。
そして、「旧約聖書」の「民数記」では、敵国進入準備のため、人口調査を行い、そして、侵攻後、民族浄化のために聖絶の方法を記述しているのです。この「旧約聖書」は、良いお話だけではなく、他民族の歴史を乗っ取る方法も提示しているのです。それは、他民族の歴史の流れに、自民族の歴史を挿入することです。
イスラエル民族は、「旧約聖書」の存在を知らないのです。それは、「旧約聖書」のモーセ五書と言われる、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は、紀元前722年イスラエル王国が滅んでから、136年後以降に創作されていたからです。それらの物語は、紀元前586年から紀元前538年までのバビロン幽囚前後に創作されたのです。ですから、イスラエル民族は、「旧約聖書」を知らないのです。
そのモーセ五書と言われる物語は、古代バビロニアのアッカド王サルゴン(モーセの誕生物語)やギルガメッシュ叙事詩(ノアの箱舟物語)などから題材を租借し、創作されていたのです。ですから、モーセは、聖徳太子と同じに、創作上の人物であるのです。
イスラエル民族の祖は、ヒッタイト帝国→古代エジプト→シナイ半島の流れにあるのに、ヘブル(垣根を乗り越える進入者の意味)といわれた流離いの民族が、バビロニアのウル→シナイ半島→古代エジプトの流れに改竄し、「出エジプト記」物語でモーセからの神の啓示「十戒」を創作し、イスラエル民族の掟(実は、ユダヤ民族レビ族アロン一派に都合が良い掟)とし、そのイスラエル民族の歴史を乗っ取るのです。その方法は、イスラエル民族の祖ヨセフ族の父ヤコブを発明して、そのヤコブ物語を、ヨセフ物語の前に挿入してしまうのです。
この他民族の歴史を乗っ取る方法が、「日本書紀」に応用されているのです。それが、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との、二度にわたる神仏戦争物語です。その物語では、河内平野を支配の秦氏を「物部氏」に、飛鳥ヤマト支配の突厥帝国進駐軍を「蘇我氏」とし、587年の神仏戦争物語で、蘇我氏により物部氏(=秦氏)を歴史的に抹殺し、645年「大化の改新」で、中大兄皇子と中臣鎌足により蘇我氏(=突厥帝国進駐軍)を歴史的に抹殺してしまうのです。このことにより、河内平野も飛鳥ヤマトも、オリエント文化色から仏教色に隠蔽されてしまうのです。
この神仏戦争物語は、更に、藤原氏の中臣神道の神が、仏より以前に日本列島に存在していたとの錯覚を与えてしまうのです。それは、渡来の蕃神の仏を阻止するのが、在来の神であるとするからです。その物語により、河内平野や飛鳥ヤマトで、牡牛を屠り祀られていた太陽神の景教(ミトラ教)や、北極星(太一)を祀る道教を歴史的に抹殺できたのです。ですから、後のひとは、中臣神道が、日本最古の宗教組織であると錯覚してしまうのです。しかし、史実は、仏教伝来の後に、中臣神道が渡来したのです。
では、「日本書紀」に突然現れた中臣氏とは、何者なのでしょうか。それは、「旧約聖書」に突然現れたヤコブと同じです。そのヤコブとは、「不正な手段で王権を簒奪した者」という意味です。
「旧約聖書」の欺瞞性が解明されたのは、皮肉にも、「聖書」を信仰のよりどころとしたプロテスタント活動が興ったからです。それまでのローマ・キリスト教の信徒は、「聖書」を読んではいなかったのです。そのプロテスタント信者の中から、どうも「聖書」の記述はおかしいと気づき始めたのが18世紀末で、何でも疑うことが許された啓蒙主義時代になると、「聖書」の不思議を研究する者が現れ、「ヨハネの黙示録」の「666の謎」が解明されると、「旧約聖書」に、主と神の二つの異なる文章があることが確認されるのです。その「主」文章は後に挿入されたもので、「神」文章が元であることが分かるのです。
この改竄書「聖書」を暴くヒントを述べた「ヨハネの黙示録」と同じものが、「古事記」であるのです。「古事記」は、巷で言う、外国向け歴史書の「日本書紀」に対する、国内向け歴史書などではないのです。1778年から1798年にかけて、本居宣長により「古事記伝・上巻中巻下巻」が著されてしまったため、「古事記」が、やまとの原日本風景を述べている、と勘違いされてしまっていますが、「古事記」は、「日本書紀」の欺瞞性を暴くための「黙示録」であったのです。
本居宣長により、ギリシャ神話から租借した「古事記」の神話物語を、やまと言葉に翻訳したものが、日本神話となってしまったのです。しかし、実際の飛鳥ヤマトは、日本の原風景などではなく、噴水のある石造りの庭園があるオリエント文化であったのです。
「日本書紀」が、697年百済系女帝持統天皇で終わっているのに対して、「古事記」が、628年女帝推古天皇で終わっている意味は、途中で記述を止めたわけではないことは、「古事記」の序に、天武天皇のお言葉があることからも理解できるでしょう。それは、「ヨハネの黙示録」が、敵対勢力により改竄されないように細心の注意による暗号で記されているのと同じに、「古事記」が推古天皇の条で終わっていることが「暗号」なのです。その意味は、サイファー式暗号解読法の「同じ文章があるときは、その文章を否定せよ。」、ということです。つまり、「日本書紀」の推古天皇までの記述は、全て否定せよ、と言うことです。
推古天皇の時代、593年から628までに起こった出来事を列記すると、
593年聖徳太子が推古天皇の摂政となる
594年仏教興隆の詔
603年聖徳太子が官位十二階を制定
604年聖徳太子が憲法十七条を制定
607年国ごとに屯倉を置く
622年聖徳太子逝去
626年蘇我馬子死去、蘇我蝦夷が大臣となる
、となるのです。因みに、聖徳太子は、「日本書紀」では厩戸皇子・その他の名前で記述していますが、その事跡は、モーセ、ダビデ、キリストの事跡の合成を思わせます。平安時代、比叡山延暦寺が、「法華経」を宣伝するために、最澄が、聖徳太子を百済仏教の宣伝キャラクターとして広めたため、現在でも、架空の聖徳太子が、実在の人物と信じ込まれているのです。
「日本書紀」の記述では、日本国の基礎が、推古天皇の時代に確立された、としているのです。しかし、それらの出来事の全ては、史実ではないようです。そのひとつとして、摂政の官位は、平安時代、869年「続日本後紀」の編纂者藤原良房が、858年に清和天皇の摂政となったのが歴史上始めであるからです。更に、608年渡来の隋使は、都で、「女帝推古天皇」ではなく、「男王アマタリヒコ」に謁見した、と隋帝に報告しているからです。
では、藤原氏が創作した「日本書紀」により捏造された、その女帝推古天皇の時代は、実際は、どのような時代であったのかと言えば、それは、突厥帝国進駐軍と秦氏が、河内平野と飛鳥ヤマトの支配者であったのです。
歴史物語の改竄技術により、藤原氏に都合よく歴史物語は改竄・隠蔽できても、その民族の宗教心や、民族のDNAまでは、改竄・隠蔽できないのです。それに対して、簒奪王権は、ユダヤ民族が、牡牛を屠り太陽神バアルを祀るイスラエル民族を貶めるために、イスラエル民族を不可触賎民サマリア人としたように、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏末裔を不可触賎民穢多として貶めていくわけです。
1587年豊臣秀吉は、イエズス会の軍事援助と高山右近などのキリシタン大名軍団の働きにより、九州を平定すると、すぐさま、朝鮮へ入貢を要求するのです。そして、1591年スペイン領ルソン島にも使節を送り、入貢を強く要求していたのです。それは、藤原氏のインド征服の布石のためであったのです。
九州を平定した豊臣秀吉は、高山右近にキリスト教を棄教するように迫るのですが、高山右近が断ると、士分と家禄を剥奪するのです。元々高山右近は、織田信長の軍事行動と同じで全日本統一など意識にも無く、平安時代より秦氏末裔をイジメ抜いていた比叡山延暦寺やそこから派生した仏教軍団壊滅が主目的であったので、日本列島には最早仏教軍団が存在しない現在、武士として豊臣秀吉に従い軍事行動することは、意味がなかったからです。そして、高山右近は、武士としてではなく、一キリシタンとして、山の民の処へ帰り、そこで、1614年まで布教活動を続けるのです。
この1591年前後は謎の多い時期で、ヨーロッパ少年使節団を伴い長崎に帰還したイエズス会の巡察師バリニャーノが、日本王(1582年バリニァーノが日本出国時では、日本王は織田信長だった。)に謁見を求めて数ヶ月も待たされた後、イエズス会巡察師としてではなく、インド副王の使節として、元イエズス会傭兵羽柴秀吉だった、関白豊臣秀吉に、京の聚楽第で謁見した年であるのです。
巡察師バリニァーノは、日本国での更なるキリスト教の布教を目指して、聖書を多量に印刷するために、グーテンベルグ印刷機と印刷工を伴って来日していたのです。しかし、日本国は、イエズス会の支配から、羽柴秀吉を豊臣秀吉として取り込んだ、藤原氏の支配時代に変わってしまっていたのです。
そして、その数ヶ月前には千利休は、聚楽第内の屋敷で、豊臣秀吉により切腹を命ぜられていただけではなく、その千利休の妻も、石田三成の拷問により死していたのです。その二人の死の謎は、イエズス会巡察師バリニャーノへの、千利休からの織田信長爆殺の真相進言を、豊臣秀吉が恐れたからです。
そして、聚楽第での謁見で、豊臣秀吉に軽くあしらわれた巡察師バリニャーノは、その後、藤原氏傀儡の豊臣軍団が、騎馬民族末裔の徳川家康軍団に敗れた、1600年関が原の戦より三年後、1603年日本から去るのです。
1591年豊臣秀吉は、朝鮮半島への入貢要求は、中国明への侵略経路の確保のための行動であったのですが、何故、遠く離れたルソン島へも入貢要求をしたのでしょうか。それは、イスパニア領フィリッピンのルソン島とは、自治都市堺が海洋交易をおこなっていたからです。
そのルソン島と自治都市堺との海洋交易は、藤原氏により古来からおこなわれていた、南九州坊津と南インドとの海洋交易には邪魔であったからです。そして、そのルソン島では、戦国大名が欲しがる瀬戸物が、安く手に入る地であったからです。
戦国時代の日本列島は、豊臣秀吉による朝鮮侵略で、朝鮮の名陶工が日本に拉致されてくる前までは、土地の価値に匹敵するような、美術品として相応しい茶器の生産ができなかったのです。
堺の商人は、ルソン島から輸入した安い茶器を、戦国大名に高く売りつけていたのです。そして、戦国大名は、そのルソン島からの茶器を、高価な褒賞品として、土地の代わりに、戦場での功労者に賜っていたのです。
その茶器の鑑定人のひとりが、藤原氏の流れにある近衛前久と義兄弟である正親町天皇から名を賜った千利休(賎の利休)であったのです。その千利休の家業が、屋号が魚屋(ととや)と呼ばれた倉庫業であったのです。その倉庫業者達は、納屋衆と呼ばれる組合を作り、騎馬民族末裔の馬借や海洋民族の海運業者と連携し、遠く海外からも物産を輸入して、役座が仕切る各国の神社境内で捌いていたのです。そして、自治都市堺(秦王国)は、騎馬民族末裔の秦氏末裔が多く暮していたので、革製品や鉄製品を創る工場があったので、美しい武具や日本刀を美術品として海外に輸出していたのです。
その自治都市堺の納屋衆から、イエズス会の教会があるフィリッピンとの渡航貿易で、名を馳せた者がいたのです。その名をフィリッピンのルソン島から、ルソン助座衛門と名乗っていたのです。そのルソン助座衛門は、フィリッピンの瀬戸物を、ルソン壷として輸入して、戦国大名から褒賞品として功労者へ賜う茶器として、売り込んでいたのです。
そのルソン壷を鑑定していたひとりに、納屋衆であり、キリシタンでもある千利休がいたわけです。千利休が、織田信長、そして、豊臣秀吉の茶の師となっていたのは、巷の情報提供者(間者)としてのほかに、茶器の鑑定士としての働きがあったからです。その正親町天皇から名を賜った千利休の一言で、駄器が、土地と同じほどの高価な名器に変身させることができたからです。
しかし、ルソン助座衛門は、食えない男で、フィリッピンで、タン壷や糞壷として使われていた壷も、ルソン壷として国内で高価で売り捌いていたのです。このことが、後に、豊臣秀吉の知るところなり、国外追放となっていたのです。
豊臣秀吉は、朝鮮やルソン島からの入貢を求める前に、既に、朝鮮侵略の準備のための行動をおこしていたのです。その行動とは、「旧約聖書」の「民数記」に記述してあるとおりなのです。
まず、侵略準備のため、武器の調達と兵隊を集めるために人口調査をおこなったのです。1588年豊臣秀吉は、大仏を造るという名目で、刀狩令を全国に発するのです。その刀狩が、戦をなくし、平和のために大仏を造るためではなかったことは、その完成した大仏は、金属製ではなく、「木製」であったからです。侵略準備のための武器調達が、刀狩の実態であったのです。
そして、1591年豊臣秀吉は、全国の戸口調査をおこない、士農工商の身分法を定め、66カ国で、その枠にあてはまらない者を、奈良・平安時代の王権さながらに、山や河原へ追放するのです。この王権の武力による人民統制は、まつろわぬ者を山奥に追放し「鬼・土蜘蛛」とした、701年大宝律令の再来です。
その戸口調査により、全ての人民の属性を調べ上げ、朝鮮侵略のために兵隊を集めたのです。それと同時に、王権に従わず敵対する者(ケガレ者)を、社会から排除していたのです。その排除の対象者として、騎馬民族末裔の秦氏末裔がいたのです。
それらの豊臣政権から排除された者は、関東の湿地帯を大開拓していた、騎馬民族末裔の徳川家康を頼って関東へ行くわけです。1590年に豊臣秀吉により関東に移封されていた徳川家康は、1591年の豊臣秀吉による士農工商の身分法により近畿地域から追放された者達を、積極的に、エドの地に招いていたのです。
そして、豊臣秀吉により、1583年大坂城建設のために、大坂の中心地から亡命百済移民末裔が多く暮す「九太郎・くだら」の地に移封されていた、そして、そこで民族差別でイジメられていた秦氏末裔が多く住む渡辺村(秦王国)の多くも、秦王国(ギリシャ式都市国家)再建のために未開拓地のエドに移り住んでいくのです。
奈良時代初期、唐進駐軍により、河内平野と飛鳥ヤマトの勢力を一掃した後、唐進駐軍の傀儡籐氏(藤原氏の祖)は、敵対する地方豪族の土地を取上げて、天皇の土地とし、そして、その土地を地方豪族へ再び貸し出すのです。そして、その制度に従わない地方豪族は、唐進駐軍の武力により抹殺していたのです。このことにより、奈良時代の近畿地域の豪族の私有地がなくなり、近畿地域の全ての土地が天皇家のものとなっていくわけです。しかし、実際は、唐が日本を遠隔統治するために、土地の管理者として、垂直支配の天皇システムを利用したにすぎないのです。
戦国末期、藤原氏は、傀儡関白豊臣秀吉を利用して、日本国を支配、更に、朝鮮、中国、インド支配を目指して、1592年朝鮮半島への侵略を開始するのです。その朝鮮半島での戦術は、「旧約聖書」の「民数記」にあるように、占領地での民族浄化のための聖絶であったのです。
豊臣軍は、1592年朝鮮に侵攻するのです。豊臣軍団には、元キリシタン大名が多くいたため、イエズス会譲りの鉄砲隊を組織していたのに対して、朝鮮軍には鉄砲隊がいないため、明国に援軍を求めるほど、軍備差が歴然であったのです。更に、初戦の豊臣軍は、民族が複雑に入り組んでいる朝鮮半島の賎民部族が、侵略軍である豊臣軍を解放軍と勘違いして、豊臣軍への加勢もあって、全戦全勝だったのです。
1592年文禄の役では、秦氏末裔の日本武士の祖は新羅花郎騎士で、朝鮮軍には同族が居ることを知った秦氏末裔の兵が、豊臣軍から寝返り、朝鮮軍に参加したりしたため、長期戦を望まなかった豊臣秀吉は、元キリシタン大名の小西行長と明国将校との謀議によるニセ講和に騙されて、軍を引き上げるのです。
しかし、渡来した明国使節の文章には、豊臣秀吉からの朝貢交易願いへの返事であった為、初めて騙されたことに気づいた豊臣秀吉は、再び、1597年朝鮮侵略にでるのです。これが、慶長の役といわれた戦いです。
前回の明国軍の騙しに怒り心頭の豊臣秀吉は、朝鮮半島での豊臣軍の戦闘の証として、朝鮮軍と明国軍の足軽などの身分の低い者でも、殺害した証として、鼻を塩漬けで日本に送るように命じたのです。
その戦いでは、豊臣軍団は、「旧約聖書」の「民数記」第三十一章の記述にある、残虐行為以上のことをおこなっていたのです。
「民数記」にある戦後処理として、「彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと闘って、その男子をみな殺した。」「またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、家財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた。」「それで今、この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。」、と主がモーセに言われたのです。
そして、豊臣軍は、「民数記」の戦後処理と異なり、朝鮮半島から陶工や捕虜を日本に連れて来て、その捕虜はポルトガルやイスパニアの商人に奴隷として売り捌いていたのです。しかし、陶工には、監視の下で陶磁器制作の仕事を続けさすのです。この朝鮮より拉致された陶工により、日本の陶芸は、一段と技術的・芸術的に向上したのです。
古来から、日本武士の戦いの作法としては、正々堂々と戦い、勝った武士は、敗れた武士の首を落し、その首を戦功の証として主将に持参することにより、その見返りとして褒賞を受け取ることが出来たのです。しかし、足軽などの身分の低い者は、首を落さず、鼻や耳を切り落とすことで、戦功の証としていたのです。
朝鮮・明国軍に苦戦を強いられている豊臣軍は、豊臣秀吉の逆鱗に触れないように、戦闘が有利に進められているように偽るために、死した武将や足軽の鼻だけではなく、生きている女子供から切り落とした鼻までも、塩漬けにして送りつけていたのです。その数、12万6千余とも云われているのです。
その送られてきた無数の塩漬けの鼻を、豊臣秀吉は、桶に入れて、新羅に怨念を持つ亡命百済移民末裔が多く暮している、民族差別の激しい京や大坂の街角を練り歩かせて、戦闘が順調に推移していることを宣伝していたのです。
豊臣秀吉は、その出自が不明なように、武士ではないため、武士の戦いの作法を無視して生き延びてきたのです。武士として弓馬の訓練を受けていない豊臣秀吉は、イエズス会傭兵時代では、徳川家康が弓馬が得意なため白兵戦をおこなえたのと異なり、敵軍とは白兵戦をおこなえず、敵城を大軍団で取り囲み、兵糧攻めや水攻めで、城を攻略し、降伏したその城主一族、女子供も、見せしめのために串刺しにしていた経歴の持ち主であったのです。
その多量の塩漬けの鼻は、1597年「鼻塚」として葬られるのですが、いつしか忘れ去られ、1615年大坂夏の陣後、徳川家康が、豊臣秀吉の墓を暴き遺骨を散撒させていたのを、1868年明治維新で復活した藤原氏が、京都市東山区に、豊臣秀吉を神として祀るために豊国神社を建立した近くに、歌舞伎役者や役座が、「耳塚」(豊臣秀吉の残虐性を薄めるために、「鼻」を「耳」へと摩り替えた。)として供養塔を築造していたのです。
何故、歌舞伎役者や役座が、朝鮮民族のために供養塔を築造したかと言えば、それは、江戸末期まで、王権により賎民として貶められていた歌舞伎役者や役座の祖は、秦氏で、秦氏の祖は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅からの渡来者であったからです。
1598年藤原氏の、明国・インド征服の野望が崩れるのです。それは、慶長の役の翌年、豊臣秀吉は崩御してしまったからです。そして、侵略軍増強のために、天皇姻戚の藤原一族の豊臣秀吉の威光で進められていた太閤検地も、豊臣秀吉の死と共に終わるのです。
この藤原氏による、豊臣秀吉を傀儡とした、明国・インドの征服計画も、その史実を隠蔽するために、藤原氏の情報操作により、豊臣秀吉の脳梅毒の虚妄の結果として、歴史から葬り去られているのです。日本の裏面史に必ず登場する藤原氏とは、一体、何者なのでしょうか。
戦国武将の代表者は三名、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康と云われています。しかし、それらの武将は、独特のキャラクターの持ち主ですが、そのキャラクターイメージは、明治革命で復活した藤原氏の計画により、学校での歴史教育で創られたものです。
明治新政府は、ヨーロッパ諸国と付き合ううちに、自国の歴史書が無いのに気づき、ユダヤ系ドイツ人の歴史学者リースを招いて「日本国史」を創作させるのです。
その日本国の建国時代は、藤原不比等が創作した「日本書紀」を金科玉条とし、「聖書」のごとき扱いにより、日本古代史を復元するのです。そして、唐国への提出用の日本六国史と、そして、亡命百済貴族が日本皇族と変身するための814年創作の「新撰姓氏録」を根拠に、古墳時代以前に渡来して、河内湖を干拓して、巨大古墳、大運河、幅十二mの直線古代高速道路等を建設していた、古代エジプトの高度土木建設技術、古代ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術などを保持しいてる、オリエント渡来の秦氏一族を、五世紀に新羅からの、機織職民の渡来人としてしまうのです。
そして、唐進駐軍の後ろ盾により平安京を支配した亡命百済貴族が、中国山東半島からの亡命百済移民から登用した武人を「サムライ」として、亡命百済貴族の秘書兼警護人となった「平氏」と、秦氏・突厥帝国武人末裔の「もののふ」としての武芸者から「武士」となった、「源氏」とが争う中、アラブ渡来の海洋交易民族末裔の「平家」が、平安末期に朝廷を乗っ取ったのを、「源氏」と「平氏」により、「平家」を滅亡させたのです。そして、「源氏」の鎌倉政権を乗っ取った「平氏」が、「源氏狩り」により、源氏を山奥へ駆逐したのを、再び、源氏武士が政権奪還したのが、室町幕府というわけです。その後、応仁の乱の後、「平氏・サムライ」と「源氏・武士」との攻防を繰り返し、戦国時代に突入していくのです。
戦国時代の武将の事跡・実像を知るには、出自不明の豊臣秀吉総監修の「信長公記」が一級史料となっているため、その史料では事跡・実像に迫るのには程遠いのですが、イエズス会の史料と照らし合わせると、それらの戦国武将の事跡・実像に迫れるようです。
1582年織田信長が本能寺で、イエズス会と藤原氏の陰謀により爆殺され、1584年羽柴秀吉が、宿敵徳川家康を葬ろうとした小牧・長久手の戦いで、徳川家康軍に敗れた後、1585年イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、藤原氏の猶子となり、関白豊臣秀吉となると、1586年豊臣秀吉は、大坂城で、イエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリエに謁見するのです。
その謁見の場で、日本布教長ガブラルの後任ガスパル・コエリエは、織田信長が近畿統一で満足して九州武力統一に不熱心だったので、石見の銀山奪回を目論む九州残党兵を殲滅するために、豊臣秀吉に九州遠征を要請するのです。
その九州遠征の要請時に、豊臣秀吉は、藤原氏が計画していた中国侵攻を、ガスパル・コエリエに暗示していたので、ガスパル・コエリエは、豊臣秀吉に、ポルトガル商人から2艘の大船を世話することを約束するのです。
その翌年、1587年豊臣秀吉は、高山右近や山科勝成(ロルテス)などのキリシタン軍団の奮闘により、十字の旗の下、九州を平定したのです。その九州平定後、ガスパル・コエリエは、大砲を装備したフスタ船に乗って、博多に居留する豊臣秀吉を尋ねているのです。そして、ガスパル・コエリエ自ら、豊臣秀吉に、その大砲を装備した大船(軍艦)内を隈なく案内したのです。
この時、豊臣秀吉の側近高山右近と小西行長は、ガスパル・コエリエに、その大砲を装備したフスタ船を豊臣秀吉に献上することを提案したのですが、ガスパル・コエリエは、その提案を断っているのです。それは、イエズス会自身による、明国征服計画があったからです。そのガスパル・コエリエの態度により、豊臣秀吉は、自分が、織田信長と同じに、イエズス会の、日本統一のための捨て駒であることを確認したのです。
それは、ガスパル・コエリエの前任カブラルがスペイン国王に宛てた書簡で、「多くても一万の軍勢と、適当な規模の戦艦で中国を征服できる。」、と断じて、「日本に駐在しているパーデレたちが、二三千人の日本人キリスト教徒を(中国侵略軍として)送ることができるであろう。」、と述べていたからです。
イエズス会傀儡軍による日本統一後の明国征服の陰謀を知った、藤原氏一族となっている豊臣秀吉は、イエズス会が中国を征服する前に、中国征服を成し遂げなくてはならないと思い、イエズス会宣教師の追放を、1587年に発したのです。
その時、豊臣秀吉は、豊臣秀吉の側近であるイエズス会傀儡軍筆頭の高山右近に、キリスト教の棄教を迫ったのです。しかし、高山右近は、棄教の代わりに、武士としての地位を投げ捨てて、一介のキリシタンとして下野してしまうのです。
そのバテレン追放には、イエズス会宣教師追放だけではなく、藤原氏によるもうひとつの陰謀目的があったのです。それは、そのバテレン追放令の第十一条に、「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない。」、とあることです。これは、794年牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏支配地の山背国・比叡山(秦王国)を乗っ取った、唐進駐軍に軍事支援された亡命百済貴族末裔の桓武天皇による、804年牛屠殺禁止の発令と同じ目的があったのです。
この戦国末期での、藤原氏による、騎馬民族末裔、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の抹殺計画の流れは、徳川家康の歴史を知ることで、解明できるのです。それは、少年使節団の欧州視察から戻ったイエズス会巡察師バリニャーノから日本王に謁見を求められていた1590年、織田信長が爆殺された二年後の1585年羽柴秀吉から変身した関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追いやられた徳川家康は、秦氏末裔長吏の弾左衛門一族と、エド(穢れ地→穢土→江戸)で秦王国(合議制による、ギリシャ式都市国家)の再建を目指していたからです。
1616年徳川家康は、テンプラによる食中毒で崩御するのです。歴史教科書では、源氏棟梁の源頼朝と同じに、狩りでの落馬により死んだ、としているのでが、その徳川家康の死は、毒殺を暗示するのです。
それは、1582年織田信長が正親町天皇の退位を迫るために、馬揃え(軍事パレード)をおこなう当日未明に爆殺されたように、徳川家康は、1611年親豊臣的であった後陽成天皇を退位させ、皇位を政仁親王に譲らせ、徳川家康の三男第二代目将軍徳川秀忠の五女和子の入内を迫っていたからです。
この和子の入内が成功すれば、徳川家康は、後水尾天皇(政仁親王)の外祖父となる可能性があるからです。この戦略は、藤原氏の得意とすることで、新嘗祭での五節舞を発明した藤原氏は、奈良時代から、藤原の女を利用して、天皇家に影響力を与えていたのです。
更に、徳川家康は、百済系天皇家の財政を圧迫するために、天皇家の主な収入源の、紫衣着用許可権の剥奪を迫っていたのです。それは、高僧が、高額な寄付を天皇家におこなうことにより、紫衣の着用許可を、天皇家が与える、というシステムのことです。この紫衣の高僧の着用に対して、徳川家康は、チャチを入れていたのです。徳川家康の言い分では、紫衣は、古来より仏教の僧衣などではなく、北極星を祀る天皇を世話する、道教の真人(北斗七星)が着用する衣である、とするからです。
では、何故、織田信長も徳川家康も、天皇家をイジメるのでしょうか。それは、天皇家を軸として、その天皇家に寄生する漢訳仏教を、織田信長も徳川家康も壊滅するのが目的だったからです。古来より、その漢訳仏教僧が、王権の手先となって、まつろわぬ騎馬民族や海洋民族を、釈尊の仏教思想などではなく、騎馬遊牧民族を差別するバラモン教の思想である血・肉食禁忌で、賎民と貶めてイジメていたからです。
平安初期、藤原氏の援助で唐に渡った錬金術師空海は、民族差別が激しいバラモン教とヒンズー教の教義を漢訳仏教に織り交ぜ、密教を発明するのです。そして、百済系三代目嵯峨天皇に接近すると、その密教儀式により百済系天皇家が祀られていくのです。この百済系天皇家の祀りごとは、密教儀式により、江戸幕府壊滅まで続くのです。
しかし、1868年明治革命が成功すると、明治新政府は、国家神道を発明して、天皇家が伊勢神宮で、神道儀式により祀られ続けている、と学校教育の場で宣伝をおこなったことにより、天皇家は、新羅系と百済系の二系統であり、新羅系の飛鳥時代以降は道教儀式であったのが、百済系の平安時代になると仏教の密教儀式で江戸末期まで祀られていたのに、明治新政府は、その史実を無視して、天皇家は万世一系で、伊勢神宮で、神道儀式で古来より祀られてきた、と国家を挙げて宣伝していたのです。
しかし、伊勢神宮は、685年日本国初の新羅系天武天皇により、北極星(太一)を祀る道教の観として創建されたものであり、その北極星を祀る天武天皇が686年崩御した後に、孫の長屋王を「左道=星占い」をおこなったと謀殺した藤原氏により、「観」から「宮」に改竄された建物であるのです。その時、道教の太一(北極星)に代わり、ギリシャ神話を基に、太陽神のアマテラス大神が発明されたのです。そして、その物語が、720年藤原不比等により創作された「日本書記」の神話として述べられるわけです。
戦国時代の織田信長と徳川家康の戦いは、同族の賎民として貶められた者達の救済が主な目的であることは、確かです。それは、織田信長が、1568年上洛すると、漢訳仏教組織に「キヨメ」の賎民としてイジメられていた余部(海部)を、配下とし、余部をイジメる者は、織田信長に対する反逆である、との御触れを出しているからです。それに対して、1603年徳川家康が天下を盗ると、豊臣秀吉により「キヨメ」の穢多村とされた渡辺村の住民を、村役人として引き上げていたからです。
「キヨメ」とは、平安時代では、桓武天皇により謀殺されたひとびとの怨霊を鎮めるために、秦氏・突厥帝国武人末裔の陸奥国の蝦夷捕虜が、前政権者の怨霊を鎮めるために、「もののふ」の武芸者となり、怨霊封じ込めの施設である神社境内で、総革製の鎧兜と、蝦夷の蕨手刀から改良した片刃の「日本刀」により祭祀者として武装して、剣舞による武芸(芸とは神を楽しませること。)することを「キヨメ」、と言っていたのです。
しかし、源氏武士棟梁の源頼朝が1192年に拓いた、「武士政権」の鎌倉幕府を乗っ取った、「サムライ政権」の北条鎌倉時代になると、六波羅探題の捜査組織により、源氏武士抹殺のために「源氏狩り」を行い、更に、「武士」を社会的に抹殺するために、魂鎮めの武芸である「キヨメ」を、賎民がおこなう汚物清掃の「キヨメ」としてすり替え、源氏武士である、「もののふ」の祭祀者としてのプライドを貶めていたのです。
更に、北条鎌倉政権下で、その騎馬民族であるため、肉食する「武士」の末裔を、平安時代の錬金術師空海が発明した密教思想の真言宗の「施陀羅悪人なり」の呪文をバージョンアップして、施陀羅から、穢れが多いの意味で、「穢多」の民族差別語を発明するわけです。
その「穢」の本来の意味は、犠牲(屠り)により神を祀ることです。因みに、歌謡と舞により神をまつることは「祭」です。源氏武士の祖は、秦氏と突厥帝国武人です。その秦氏とは、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る民族であったので、そのため、「穢」により神を祀っていたのです。その秦氏末裔を貶める言葉が、犠牲により神を祀る意味の「穢」を、汚物(血・肉食)のケガレとし、そのケガレが多い意味として、「穢多」とするのです。
1587年関白豊臣秀吉は、イエズス会傀儡軍団の奮闘により、九州を平定すると、バテレン追放令を発令し、第十一条で、「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない。」、としたのです。それは、一向宗軍団を壊滅したことにより、その主部隊であった秦氏末裔の源氏武士末裔を壊滅した後処理として、その次の敵、イエズス会傀儡軍の秦氏末裔の源氏武士末裔を壊滅することが、その主目的であったのです。
そのシンボル的人物が、キリシタン大名であった高山右近です。高山右近は、秦氏末裔の源氏武士末裔であったので、キリシタン宣教師と共に、肉食を大いにしていたのです。そして、645年以降に、漢訳仏教を手先とした唐進駐軍と中臣族軍により、河内平野と飛鳥ヤマトでの景教や道教の宗教施設が徹底的に破壊され、その跡に、北九州から移築された仏寺が建てられていったように、戦国時代のキリシタン大名の高山右近は、高槻や明石のキリスト教布教地では、仏教施設を徹底的に破壊し、その跡に、キリスト教の教会を建設していたのです。
藤原氏は、豊臣秀吉を傀儡として、イエズス会傀儡軍の織田信長による漢訳仏教軍団への、僧兵はもとより、高僧も信者も全て斬首、もしくは、焼き殺しの、聖絶作戦に、深い恨みを持っている漢訳仏教組織に、再び援助して、イエズス会残党軍を社会的に壊滅していくのです。そのための呪文が、「穢多悪人なり」です。
その一方、鎌倉時代、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞が、漢訳仏教組織に穢多とイジメられていたひとびとに、「さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。」と唱え、穢多村で、妻帯し・肉食するするのを見て、浄土真宗が穢多村を救ってくれると信じた弱小勢力が、やがて、戦国時代になると、戦国大名を超える仏教一向宗軍団として成長した石山本願寺派は、比叡山延暦寺軍団やイエズス会傀儡軍の織田信長と戦っていたいたのが、1580年顕如の織田信長との突然の和睦で、穢多村のひと達が、浄土真宗に利用されていた、と悟ると、そのことを笑い話として後世に伝えていくのです。その笑い話とは、

戦国時代、大軍団の敵軍に囲まれた穢多村の砦で、一向宗の僧侶が説教をするのです。その説教で、「敵に向って戦い敗れて死んだとしても、浄土真宗の信徒であれば浄土世界で生れかわれる。しかし、敵前逃亡者は、無間地獄に落ちる。だから、皆の者は、心を一つにして敵に立ち向かえ。」、と檄を飛ばしたのです。その僧侶の説教を信じて、穢多村の男全ては勇気を出して、貧弱な武器で敵陣に突撃して、全滅してしまうのです。
死体となって穢多村の砦に戻ってきた勇敢なひと達を前にして、後家となった若い女が号泣していたのです。そこに、その説教をした後、どこかに隠れていたその僧侶が現れて、「泣くことはない、勇敢に戦って死んだ者達は、浄土世界で生まれ変わるであろう。」、と言って女を慰めるのです。しかし、それでも、女は泣き続けるのです。不審に思った僧侶は、泣いている女に、「泣くのを止めなさい。」、と言うと、女は、振り向きざまに言うのです。「私が泣いているのは、夫の死ではありません。何故なら、夫は浄土世界で生まれ変われるからです。私が泣いているのは、お坊様が無間地獄に落ちてしまうからです。」

藤原氏傀儡の豊臣秀吉が、九州を平定し、バテレンを追放すると、残る敵は、伊豆の北条氏であるのです。
豊臣秀吉の棄教を拒否した高山右近は、豊臣秀吉の追及を逃れるため、棄教した小西行長の援助の下、九州各地を転移し、その後、北陸の前田利家の客臣となり、前田利家の軍師として、北条氏攻めに参加するのです。
何故、秦氏末裔の高山右近が、豊臣秀吉の追及を逃れて、山道を利用して、各地に移動できたのかと言えば、奈良時代の王権により山に追われた秦氏末裔の民は、日本列島を山岳の道により、古来から日本列島を移動していたからです。そして、秦氏とは、古代エジプトの土木建築技術、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術などの高度技術者の集団であるので、城築造や城破壊の名人であったのです。
高山右近が、豊臣秀吉の配下として城攻めをおこなっていた時、何度豊臣軍団が攻めても、城を陥落できないのを見た、高山右近軍団は、城を護る櫓の下に穴を掘り、そこに爆薬を詰め、火を点火して、櫓を破壊したことにより、敵城を陥落させていたのです。高山右近の配下には、そのようなハイテク技術を持つ集団がいたのです。
それに対して、一向宗軍団にも、古代エジプトの土木建築技術、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術を持つ技術集団がいたのです。その技術集団がいたからこそ、最新式銃と傭兵軍による織田信長軍団を、石山本願寺が十年間も守り抜くことができたのは、石山本願寺の砦内では、それらの高度技術を使って銃などの武器製造、及び、補修をすることができたからです。
戦国時代の秦氏末裔は、イエズス会と一向宗との軍団に組み込まれて、同族争いをしていたのです。しかし、豊臣秀吉が、1590年北条氏を倒し、日本統一をおこなうと、宿敵徳川家康を、三河から関東の湿地帯に移封するのです。それは、徳川家康の軍団には、秦氏末裔の、元武田軍団の産鉄部族の金山衆や、一向宗残党の源氏武士末裔が多くいたからです。
戦国末期から江戸時代初期への歴史が、歴史教科書を調べてもよく分からないのは、徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸幕府を開くため、「将軍になるには清和源氏」の系統でなければ、征夷大将軍になれないという伝統があるため、神龍院梵舜に命じて、「徳川氏の系図」を創作させていたからです。それまでの徳川家康は、藤原氏、加茂氏、在原氏、源氏などの氏名を時と場合により、使い分けていたのです。
歴史教科書での徳川家康の経歴は、三河の岡崎生まれで、その家系は、三河土豪松平氏を名乗り、松平元康が、1563年松平元康から松平家康と改名した、とするのです。そして、今川氏が、織田信長のゲリラ戦で敗れると、その今川氏の配下から独立し、1566年三河国を統一し、藤原氏と親しい正親町天皇の朝廷から、従五位下、三河守の叙任を受け、松平氏から徳川氏に改姓した、とするのです。そして、新田氏系統の源氏を公認させた、としているのです。
しかし、この経歴が不思議なのは、徳川家康が、1616年毒殺されると、その墓所が、歴史教科書で述べる生誕地の岡崎ではなく、全く関連のない駿府であったのです。駿府は、1607年徳川家康が、将軍職を三男秀忠に譲ると、大御所となり実権を握り続けた、江戸幕府の「実質的政権」があった処です。何故、駿府がそれほど、徳川家康には重要な処であったのでしょうか。
更に、不思議なのは、1590年関白豊臣秀吉により、徳川家康が関東の湿地帯に移封されると、徳川家康が生まれ育ったと云われる三河の土着土豪の多くは、徳川家康と供に、関東の湿地帯へ移動してはいなかったのです。徳川家康に従ったのは、元武田騎馬軍団の産鉄部族の金山衆や、そして、一向宗軍団残党の源氏末裔であったのです。それらの者達は、秦氏の流れにあるのです。そして、関東の府中で、徳川家康一行を出迎えたのは、長吏の弾左衛門一族であたったのです。弾左衛門一族も、秦氏の流れにあったのです。
その徳川家康と親しい弾左衛門は、自らを「長吏」と言っていたのですが、歴史教科書では、「穢多頭」としているのです。更に、「長吏=穢多頭」としているのです。
飛鳥時代、長吏とは「上級官僚」のことで、607年男王アマタリヒコ(「日本書紀」では女帝推古天皇)により隋に遣わされた、「隋書」に記載されている、遣隋使ソインコウ(「日本書紀」では小野妹子)の肩書きが、「長吏」であったのです。
しかし、北条鎌倉時代になると、その「長吏」が、どう云う訳か、「穢多頭」と同義語となってしまうのです。それは、百済系の北条氏が、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏末裔を憎んでいたことにより、秦氏末裔を不可触賎民「穢多」として貶めるための「仕掛け」(長吏=穢多頭)であったわけです。
1590年徳川家康により関東に引き連れられて来た、金山衆、一向宗軍団残党の源氏武士末裔、そして、弾左衛門一族は力を合わせて、古墳時代初期に、淀川と大和川が流れ込む河内湾の岬に渡来した、先祖の秦氏と同じように、関東の荒川支流と利根川支流が流れ込む湿地帯を、開拓していくのです。
秦氏の先祖が、河内湾に突き出た岬(古代エジプト語で、ワタ・ナーベ/波の打ち寄せる小山・後の上町台地)を中心に開拓したように、徳川家康に指導された秦氏末裔は、エド湾に浮かぶ海抜2.5mの小山(古代エジプト語でワタ・ナーベ)を中心に、駿河台地に大運河(神田堀)を造るために削掘した残土により、海抜十mの人工山(関東の上町台地)を築くのです。その人工山の上に、大坂城の数倍の規模を誇る、江戸城の建設に取り掛かるのです。
この人工山に築城された江戸城には、地下道が張り巡らされていて、1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その後、その乗組員のひとりの、徳川家康の顧問となったヤン・ヨーステン(耶揚子・東京「八重洲」の語源)は、地下道により江戸城に登城していたようです。
何故、堀の下に地下道を築くことができたのかは、徳川家康の配下には、産鉄民族の金山衆がいたからです。この産鉄民族は、鉱石を地下深くから掘り出すための技術として、水漏れを防ぐ技術を持っていたからです。
1576年京都に南蛮寺を建立したのは、元十字軍マルタ騎士団のロルテスと同時に渡来した、京都地区修院長宣教師オルガンチーノ(滞在期日1570年〜1589年)の指導の下、産鉄民族を配下に持つキリシタン大名高山右近であったのです。その南蛮寺と本能寺とは、地下道で通じていたのです。
その本能寺は、唯の仏像を安置するための寺などではなく、始めは日蓮宗軍団の砦として建立され、その後、比叡山延暦寺軍団の攻撃を受け、廃墟となっていたものを藤原氏が、イエズス会の侵略基地があるインド→中国→南九州坊津→種子島→雑賀→根来→京への銃・火薬などの密貿易品の貯蔵所としていた建物であったのです。その密貿易貯蔵所の本能寺を、近畿を平定した織田信長は、京の出城とするために、深い堀と高い土塀を廻らして要塞化を図った建物であったのです。ですから、京へ上る織田信長の手勢が少なかったのは、いざという時、本能寺に張り巡らされた地下道により、約二百m先の南蛮寺に逃げ込むことが可能であったからです。
古墳時代、河内湾を干拓し、シルクロードとの交易をおこなうために、河口に湊(ローラン・浪速→難波)を拓き、三輪山の麓で沈黙貿易により、呪術品(古代の赤チン・消毒薬)としての朱砂を手に入れるため、オリエントから渡来の秦氏は、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を、河内のローラン(浪速)から、三輪山麓に向けて建設したのです。
1590年徳川家康は、関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追放されると、その湿地帯を干拓して、エドから小田原に向けて、騎馬が疾走可能な直線道路を築くのです。それは、物流が表向きですが、実際は、徳川騎馬軍団を迅速に京に向けることが、主目的であったのです。
そのように、徳川家康の行動が、古墳時代の秦氏と類似しているのは、時空を超えて、秦氏末裔がエドに集結していたからです。
その徳川家康の、戦国末期の軍事行動の動機を知るには、1617年徳川家康の廟建築として、質素な日光東照宮が建立されたのが、1624年百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光が、金ピカの東照宮を建立すると、その質素な東照宮は、何故か、日光から世良田部落に移築されてしまったのです。
一般的に、ひとが亡くなると、その墓は、生誕地に葬られる傾向があるのです。では、何故、徳川家康の廟が、三代目将軍家光により、日光から世良田部落に移築されたのかは、それは、徳川家康の生まれが、三河の岡崎ではなく世良田部落であったからです。
その騎馬民族末裔が多く暮す世良田部落で、徳川家康が、幼少期を過したからこそ、織田信長や豊臣秀吉が、弓馬が得意ではなかったのに、徳川家康は、弓馬に優れていて、騎馬民族特有の合議により戦略を練り、白兵戦をおこなえたのです。更に、徳川家康が、薬草学に詳しく、自ら薬草を煎じ、調合できたのは、正に、遊牧する騎馬民族特有の技術を保持していたからです。
徳川家康の戦いの歴史を見ても、織田信長や豊臣秀吉の独断専行ではなく、部下の合議に参加して、その意見のまとめ役に徹していたのは、騎馬民族の血が徳川家康に流れていたからです。
徳川家康は、秦氏末裔の高山右近と同様に、馬鹿正直なほど律義者として、戦国時代を生き抜いていたのです。その一例として、織田信長に忠誠を示すため、謀叛の嫌疑を抱かれた徳川家康は、その織田信長の命で、正室と嫡男を殺害してしまうのです。それだからこそ、織田信長や豊臣秀吉と異なり、忠義を尽くす部下に、徳川家康も高山右近も、恵まれていたようです。
徳川家康が、生き方が下手なのは、頼ってきた者を信用し、疑うことなく、その者を援助してしまう傾向があったからです。
1582年織田信長が、藤原氏とイエズス会の陰謀により、本能寺で爆殺されると、その跡目争いが勃発するのです。それが、1583年賤ヶ岳の戦いです。イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、織田信長の次男信雄の後見人として、織田信長の三男信孝の後見人・柴田勝家と戦い敗ると、織田信雄を支配下に置こうと策謀するのです。その羽柴秀吉の策謀から逃れるため、織田信雄は、徳川家康に救いを求めるのです。その結果、1584年から半年間にかけての戦いが始まるのです。それが、小牧・長久手の戦いです。
この小牧・長久手の戦いでは、徳川家康には、織田信長との戦いで敗れた、石山本願寺残党軍の雑賀衆と根来衆の鉄砲隊が参加していたのです。更に、イエズス会が最新式銃と傭兵軍で援助した織田信長軍団と十年間も戦い続けた、石山本願寺軍団残党の源氏武士末裔もいたので、十万の羽柴秀吉軍団も、五万の徳川家康軍団を壊滅できなかったのです。
そこで、羽柴秀吉は、伊勢に陣を張る織田信雄軍を山側と海側から攻撃したことにより、織田信雄軍は総崩れし、総大将の織田信雄は、同盟者の徳川家康に相談することも無く、単独で羽柴秀吉と講和をしてしまうのです。そこで、戦闘的に優位にある徳川家康は、羽柴秀吉と戦う大義名分を失い、小牧・長久手の陣を引いたのです。
羽柴秀吉にとって、この小牧・長久手の戦いには、深い意味があったのです。それは、騎馬民族末裔である徳川家康を、東国の蝦夷棟梁と看做して、西国の羽柴秀吉が軍事的に滅ぼすことにより、征夷大将軍となれるからです。その征夷大将軍になれれば、羽柴秀吉には、幕府開設の道が拓けるわけです。
征夷大将軍とは、平安時代、唐進駐軍が支配した平安京で、百済系桓武天皇を傀儡として、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏末裔と突厥帝国軍末裔が、唐進駐軍に敗れ、東北の陸奥国に逃亡し、軍事的支配をしていた陸奥国の地下資源を簒奪するために、唐進駐軍により組織された東国侵略軍の軍事指揮官のことなのです。つまり、平安時代、征夷大将軍の名称の始まりは、蝦夷棟梁アテルイが支配した東国への侵略軍団の指揮官のことなのです。
征夷大将軍になり損ねた羽柴秀吉は、1585年イエズス会傭兵軍指揮官から、藤原氏の猶子となり、関白豊臣秀吉に変身するわけです。豊臣秀吉は、日本国を支配するため天皇家を壊滅する陰謀を持っていたイエズス会側から、天皇家と姻戚関係にある藤原氏一族になってしまったのです。
その翌年、1586年関白豊臣秀吉は、軍事的に壊滅できない東国の蝦夷棟梁としての徳川家康を懐柔するために、朝日姫と大政所を人質として、徳川家康の居城の岡崎に送るのです。それに対して、徳川家康は、豊臣秀吉の陰謀を疑うことなく、臣従することになるのです。更に、徳川家康は、豊臣秀吉への忠誠の証に、次男於義丸を豊臣秀吉の養子とするのです。
1590年豊臣秀吉が、小田原城に立てこもる最後の抵抗者北条氏政軍を壊滅することにより、ここに日本統一となるのです。
この日本統一の年に、イエズス会の日本王である織田信長により安土城での盛大なる歓迎を受け、織田信長による日本統一の報告をするためにローマへ旅立った、イエズス会巡察師バリニャーノが、少年使節団と供に長崎に帰国していたのです。そして、そのバリニァーノは、日本王に謁見を要求していたのです。
イエズス会の傭兵から、藤原氏一族に寝返った豊臣秀吉には、巡察師バリニャーノは会いたくない存在であったのです。それは、イエズス会が認める日本王織田信長に歓迎された巡察師バリニァーノがヨーロッパに旅立った後、京都地区修院長オルガンチーノと藤原氏の陰謀により、織田信長が爆殺されていたからです。
その織田信長爆殺の主因として、キリシタンの侵略基地がある自治都市堺(秦王国)を支配下に置いて、近畿一帯を支配した織田信長は、自らを「神」と唱え、織田信長の誕生日を「聖日」とし、ただの「大石」を神の化身として拝むように臣家だけではなく、民衆にも強要したため、「ゼウスの神」だけを信仰するキリシタンの高山右近や蒲生氏郷などの千利休一派により、織田信長は京の本能寺で爆殺されてしまうのです。
イエズス会から藤原氏一族に寝返った豊臣秀吉は、その王権の簒奪事実を、イエズス会巡察師バリニャーノから、ローマ教皇に報告されたくなかったのです。そこで、豊臣秀吉は、織田信長爆殺の陰謀を知る者の抹殺を謀るのです。その対象者は二人です。
ひとりは、徳川家康です。1582年5月徳川家康は、駿河拝領のお礼のため、織田信長の居城の安土城を訪れていたのです。そして、安土城から堺に行き、6月2日未明堺で遊覧中に、本能寺で織田信長が爆殺されてしまうのです。
徳川家康は、堺でその訃報を忍者よりすぐさま聞くと、織田信長の後を追おうと切腹を図るのですが、忍者服部半蔵の進言により止まり、伊勢越えをして、伊勢の港から海路三河へと帰還するのです。
その織田信長の爆殺前の事情を知っていた徳川家康は、1590年関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追放されてしまうのです。徳川家康は、織田信長の配下であった時、巡察師バリニャーノと面識を持っていたからです。
巡察師バリニャーノと親しかった織田信長の秘書的存在の明智光秀も、イエズス会からのポルトガル語の密命を受けたキリシタン大名の高山右近は、明智光秀の配下であったにもかかわらず、イエズス会より日本王候補とされた羽柴秀吉軍に加勢して、1582年山崎の戦で、織田信長の暗殺者の汚名を着せられて抹殺されていたのです。
そして、織田信長爆殺の真実を知るもうひとりは、実行者としての、キリシタンの千利休です。本能寺の近くに南蛮寺を設計・建設した高山右近の茶の師匠である千利休は、1582年6月1日の織田信長爆殺前夜、公家や「楢柴」を持っている博多の商人鳥井宗室を招き、「大茶会」を本能寺で開催していたのです。その千利休は、バリニャーノが長崎に帰還すると同時に堺に幽閉され、1591年関白豊臣秀吉が、聚楽第でバリニァーノと謁見する数ヶ月前に、聚楽第境内の千利休の屋敷で、豊臣秀吉の命で切腹し、その妻は、石田三成の拷問により謀殺されていたのです。
これらの一連の処置により、イエズス会と藤原氏による織田信長の爆殺は、明智光秀の単独による謀叛として認識されてしまうのです。しかし、この山崎の合戦での、同盟者であった徳川家康の、明智光秀への裏切り行為が原因となり、後に、江戸時代となり徳川家康の崩御後、明智光秀一族の流れにあるお福(後の春日局)の陰謀により、徳川家康と同族の秦氏末裔が、再び、賎民として貶められる結果となっていくのです。
1598年豊臣秀吉が倒れると、明国征服の計画が中止されることにより、朝鮮半島侵略の慶長の役が、太閤検地と供に、突然終わるのです。そして、豊臣秀頼を後継者として、五大老、五奉行制度の集団指導体制を定めるのです。その病床で豊臣秀吉は、五大老のひとりとして徳川家康を命じ、豊臣秀頼の後見人のひとりとするのです。
8月豊臣秀吉が死去すると、高山右近を客臣とする大老の前田利家と五奉行の石田三成が対立するのです。石田三成が、大老に向って強く出られるのは、千利休の妻を拷問し、謀殺したことからでも分かるように、豊臣秀吉の密命を受けるほど、石田三成は豊臣家の忠臣として、藤原氏と豊臣秀吉との秘密をよく知っていたからです。
前田利家が病死すると、文治派の「サムライ」石田三成の横暴に対して、武断派の「武士」福島正則や加藤清正が激怒して襲撃したのです。この襲撃に対して、石田三成は、一時命を狙ったことのある徳川家康に救いを求めたのです。懇願に対して断ることが出来ない性格の徳川家康は、信用できない石田三成を、福島正則からの襲撃から護る条件として、奉行職の解任と、佐和山城での蟄居を命じたのです。
1600年朝廷・豊臣氏から、徳川家康に、不穏な動きをしている上杉景勝を征伐せよ、との命が下されるのです。それは、「豊臣氏の忠臣である徳川家康が謀反人の上杉氏を討つ義戦」であったのです。しかし、この義戦には、石田三成による陰謀が潜んでいたのです。
6月16日徳川家康軍は、上方から出陣するのですが、その進軍は遅々として進まないのです。それは、徳川家康側の忍者からの情報で、石田三成が挙兵する動きが、徳川家康に届いていたからです。
7月石田三成は、徳川家康が確信していたように、毛利輝元を総大将として、大坂城で豊臣秀頼を事実上擁立して、挙兵したのです。この石田三成の挙兵に、徳川家康が対峙するとすれば、徳川家康は、その場で謀叛者となってしまうのです。
徳川家康は、征伐軍団を組織する時に、石田三成派の「サムライ」は排除して、福島正則などの武断派の「武士」グループだけで構成していたのです。それは、「武士」は、生き方上手の「サムライ」と比べて、正義を貫く無骨者が多く、約束を護るため、信頼することができる傾向があるからです。それは、「武士」である無骨者の徳川家康が、キリシタン大名であった高山右近が前田利家の客臣となり、前田利家の死後も、前田家に忠誠を尽くした生き様を、体験を通してよく知っていたからです。
その徳川家康の読みが当たり、福島正則などの「武士」は、徳川家康に従うことを約束し、ここに豊臣氏の西軍に対する、賊軍としての総勢10万の東軍が生まれたのです。
9月1日徳川家康は、江戸城から出陣したのです。徳川家康軍は、エドを基点としたローマ帝国軍式直線道路により、素早く進軍して、京に上るための要所である関が原に布陣するのです。しかし、豊臣秀頼を擁立した西軍は、兵力で、謀叛の東軍より圧倒的優位であったのです。
しかし、徳川家康には、策があったのです。その布石として、7月石田三成が挙兵すると、8月23日徳川家康軍団が、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした時、豊臣秀吉軍であったならば、落城後、敵将の一族郎党を、見せしめのために串刺しにしてしまうところを、徳川家康は、敵将の織田秀信の命を助けていたのです。これは、生き方の上手な「サムライ」に対して、「徳川軍に寝返ったならば、命は助ける。」とのサインであったのです。
9月15日午前8時美濃の関が原で、東軍と西軍が激突するのです。兵力で圧倒的不利な東軍は、初戦で西軍に押されていたのが、小早川秀秋の東軍への寝返りで、西軍が総崩れとなり、形勢は一挙に逆転してしまったのです。更に、西軍の島津軍は、東軍本陣の中央突破により戦線から離脱したことにより、西軍の敗北が決定したのです。
この関が原の戦いは、9月14日には、東軍勝利の予測が立っていたのです。それは、徳川家康は、忍者を使い、160通もの書状を西軍の諸大名に回送していたからです。それに、島津軍が、西軍から寝返るのは、徳川家康には分かっていたのです。それは、島津氏の前氏は「惟宗氏」で、その惟宗氏の前氏は「秦氏」であったため、徳川家康と同族であったからです。そして、秦氏の同族は、基本的には、争わないとの掟が古来からあったからです。
10月1日徳川家康は、西軍が不利と知ると戦場から逃亡していた石田三成を、六条河原で処刑するのです。しかし、豊臣秀頼と淀殿は、「女・子供は戦に関係なし。」との、徳川家康のお達しで、御咎めなし、としたのです。但し、豊臣氏は、その所領を摂津・河内・和泉(古の秦王国の支配地)とし、65万石の一大名の身分に落とすのです。
1601年徳川家康は、大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡し、伏見城で政務を執るのです。そして、征夷大将軍となるための布石として、出自不明の徳川家康の家系図を、源氏棟梁の源義家に通じるように、神龍院梵舜に命じて、改竄させるのです。天下を執った徳川家康も、その出自が不明なように、戦国時代の武将の多くの三代先は不明であったのです。
1603年徳川家康は、後陽成天皇より、征夷大将軍、淳和奨学西院別当、右大臣に任命され、ここに、江戸幕府が開かれるのです。しかし、徳川家康は、1605年将軍職を三男秀忠に譲位し、1607年駿府に移って、大御所として実権を掌握し続けるのです。
では、織田信長も、豊臣秀吉も、その征夷大将軍の地位を強く望んでいたのに、徳川家康は、アッサリと将軍職を息子に譲った理由は、何だったのでしょうか。更に、徳川家康にとって、「関が原の戦い」とは、どのような意味があったのでしょうか。
教科書歴史によれば、江戸時代のエドは、武家支配により政治がおこなわれていた、と述べていますが、それは、三代目将軍徳川家光以降のことです。では、それ以前の徳川家康と秀忠の時代では、どのような政治がおこなわれていたのでしょうか。
江戸時代の政治の特徴である、参勤交代、ポルトガル人来航禁止による鎖国、キリシタン弾圧の島原の乱などは、初代将軍徳川家康ではなく、三代目将軍徳川家光がおこなったことなのです。
1614年大御所徳川家康により、高山右近と内藤如安などのキリシタンがマニラに国外追放されていますが、それでもキリシタンの多くは、三代目将軍徳川家光が政治を執る以前までは、国内に多く存在し、布教活動をしていたのです。
このことは、鎌倉時代と言っても、1192年源氏棟梁の源頼朝が幕府を拓き、その源氏一族の源実朝が、北条氏の陰謀により、1219年暗殺されるまでと、それ以降の、北条氏が支配した鎌倉時代の政治が異なるように、徳川家康・秀忠時代と、家光時代以降の江戸時代の政治は異なっていたのです。
漢訳仏教嫌いの徳川家康は、基本的には、キリシタン布教を黙認していたのです。しかし、徳川家康が、高山右近を国外追放した原因のひとつは、1609年長崎でのマードレ・デ・デウス号事件があったからです。
その事件とは、1608年キリシタン大名の有馬晴信の持ち船の乗員50名が、マニラで、貿易上のトラブルで、アンドレ・ヘッソアに殺害されていたのです。そのアンドレ・ヘッソアが同乗する船マードレ・デ・デウス号が長崎に来航すると、有馬晴信は、敵討ちのために、その船を沈没させてしまうのです。
この事件のもみ消しと旧領の復帰を画策した有馬晴信は、徳川家康の側近本多正純の家臣であるキリシタンの岡本大八に、金品を渡して周旋を頼むのです。しかし、岡本大八は、そのワイロ金を着服してしまうのです。しかし、そのことを徳川家康の知ることになると、岡本大八は、有馬晴信による長崎奉行暗殺計画を暴露してしまうのです。このキリシタンによる陰謀を警戒していた徳川家康は、有馬晴信と岡本大八を処刑するのです。
このことは、一時キリシタンに命を狙われていた徳川家康には、キリシタンの千利休一派による織田信長爆殺を思い出させ、日本キリシタンの代表者である高山右近の国外追放の流れとなっていったのです。
では、徳川家康は、将軍職を投げ打ってまでして、何をおこなおうとしていたのでしょうか。
1611年大御所徳川家康は、藤原氏の傀儡の豊臣氏に好意的であった後陽成天皇を退位させていたのです。更に、天皇家に秀忠の五女和子の入内を画策し、更に、天皇家の財政を逼迫させる目的で、仏教僧への紫衣の着衣禁止を強要していたのです。
その徳川家康の、天皇家に対する好意的ではない行動の動機を探るヒントは、徳川氏の家紋である「葵」にあるようです。その葵の家紋は、松平氏の家紋以前は、賀茂氏の紋であったのです。では、その賀茂氏とは、何かと言えば、それは、陰陽家の出自であったのです。
陰陽師の祖は、飛鳥ヤマト時代に隆盛していた道教であったのです。「穢」の犠牲により祀りをおこなっていた道教士は、奈良時代から平安時代にかけて、中国大陸から侵攻して来た唐進駐軍と供に渡来した漢訳仏教組織により、その犠牲による祀りを禁止させられることにより、亡命百済貴族が支配した平安時代に、犠牲をおこなう道教士から、呪術師としての陰陽師に変身して生き延びていたのです。
亡命百済貴族が支配した平安時代に、飛鳥ヤマト時代に、道教と共に、山背国と比叡山で牡牛を屠る犠牲により祀りをおこなっていた秦氏の祭祀一族も、秦氏から惟宗氏に変身して生き延びていたのです。この惟宗氏が、鎌倉時代初期に、源頼朝により、藤原氏の支配荘園である島津荘を拝領したことにより、島津氏を名乗ったのです。
その陰陽師と因縁のある賀茂氏の「葵」を家紋とする徳川家康は、1590年藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、関東の湿地帯に追放されるのです。その時、武州府中で、徳川家康一行を迎えたのが、秦氏末裔の集房(ためふさ)、初代弾左衛門、と云われているのです。しかし、徳川家康一行は、府中を通ってはいないのです。
この事跡は、弾左衛門一族が、1590年以前に、府中を支配していた、と改竄する物語であったようで、その頃には、甲州武田信玄より御証文を受けた者が支配していたようです。その根拠のひとつとして、1692年(元禄5年)上州仁田村の長吏馬左衛門が、武田信玄の御証文を根拠として、弾左衛門の被支配者ではないことを、評定所に訴え出ていたのです。その論点は、穢多身分は、長吏身分よりも新しいので、長吏の馬左衛門は、穢多頭の弾左衛門の支配下の者ではない、と言うことです。しかし、弾左衛門は、鎌倉頼朝公の御朱印により、弾左衛門が、正統な長吏であると訴えたため、幕府は、武田信玄の御証文よりも、源頼朝の御朱印の方が歴史的に古いため、弾左衛門を正統な長吏職と認めていたのです。
では、徳川家康と集房(初代弾左衛門)との関係は、どのようなものであったのでしょうか。戦国末期から江戸初期の史料は、乏しいので、その関係を説明できる史料はないのですが、伝聞では、集房の木印は、1600年濃州青野ヶ原(岐阜県関が原)の合戦で、討ち取った敵将の首級(しるし)を、帳面に記入して、集房に監守させた時、その首帳に押捺したものだ、と云われているのです。
討ち取った敵将の首級は、武将にとっては大切なもので、その首級は、立派な大将に見せかけるために武士の妻が、死に化粧をして、大将に提出し、その首級を実検して(首実検)、褒賞としてのご恩の額を決定したものであったのです。集房の木印は、徳川家康との深い関係を示しているようです。
秦氏末裔の弾左衛門一族は、徳川家康を敬愛していたようで、十三代弾左衛門が、明治革命により、弾直樹として平民になるまで、4月17日には、権現様(徳川家康)の御祭礼として、赤飯を惣穢多に振舞っていたのです。
徳川家康が駿府で大御所として政治を執っていた江戸初期では、弾左衛門は、例年正月3日より8日まで、熨斗目麻上下(のしめあさかみしも)にて、御老中若年寄三奉行の役宅に年始に廻礼していたのです。その弾左衛門の年始の行列は、長棒駕籠、鎗、挟箱、合羽駕籠で、先供徒士(かち)は羽織袴、両刀で、駕籠脇近習は麻上下両刀を帯し、小者は真鍮金物付木刀一本を挟んでいたのです。但し、鎗は、実際の大名行列のように竪立せず、担ぐしきたりであったのです。
では、江戸初期の弾左衛門の政治世界はどのようになっていたのでしょうか。
徳川家康の配下として、荒川と利根川支流が流れ込む湿地帯を、古代エジプトの高度土木技術により、堀を造り、干拓して、エドの街を造った秦氏末裔の弾左衛門一族は、関東一円を支配していたのです。
第三代目将軍徳川家光により、弾左衛門が鎌倉時代より支配していた28番職種の多くは、弾衛門支配から離れ、一銭職(髪結床)、石切、そして、紺屋職の三業のみとなってしまったのです。更に、1781年以降、その三業も支配下から離れて、弾左衛門の支配下は、穢多と非人のみとなってしまったのです。
それでも、弾左衛門の営業は、革の製造と燈芯の製造と、裏金融であったのです。その営業は無税であったのです。その代わり、弾左衛門は、革御用として、陣太鼓、御太鼓、絆綱、そして、燈芯御用として、一年に五百貫目の定額を上納して、千代田城の夜を燭台の灯りとして照らしていたのです。
では、その弾左衛門の財政を調べると、文化文政(1803年〜1827年)の頃でも、百七十万両が金庫にあり、田地は葛西金町、越谷、上州太田に三千石を所有し、一万五千俵の米穀を倉庫に保管していたのです。更に、燈芯草の耕作を命じる権利を、茨城県新治郡、筑波郡、北相馬郡の十五カ村に持っていたのです。
では、弾左衛門の居宅はどのようであったのでしょうか。三代目将軍徳川家光により、江戸町中央から、浅草寺裏の湿地帯に移封されてしまったので、江戸時代初期の弾左衛門の居宅を知ることはできませんが、その浅草新町(シンチョウ・秦町)は、一万四千四十二坪あり、弾左衛門の居宅は二千六百坪あり、上級武士の屋敷でしか許されない長屋門があり、更に、中爵門も設けていたのです。
その広大な邸宅で職務を執る弾左衛門は、1800年(寛政12年)での調査では、関東長吏身分の者は、5554戸(一説では9805戸)であり、その関東に暮す多くの者達を支配するために、江戸幕府と異なる行政をおこなっていたのです。
教科書歴史では、弾左衛門政府が、江戸幕府と異なる行政により、支配下のひと達をコントロールしていた史実を隠しているのですが、その実態は、正に、古代ギリシャ都市国家とも言うべきものであったのです。
紀元前20世紀バルカン半島南端に、アカイア人、イオニア人、ドーリア人が侵攻し、それらの人達は、まとめてギリシャ人と言われていくのです。そのバルカンの地は、平野が少なく、農耕に適していないことにより、各部落が、それぞれ奴隷を使い果樹栽培で生計を立てていたのです。その各部落により、エジプトの穀物と果実を交換するために、遠く旅する海上交易をおこなう必要があるため、海賊や山賊と戦うために軍団を、各部落ごとに組織していたのです。
このギリシャでは、平坦地が少ないため、神殿を中心に都市国家を形成していたのです。その都市国家を外敵から護るために、馬を維持できる者が騎兵となり、その戦いでの働きにより貴族となっていくのです。しかし、エジプトなどと海上貿易により富をたくわえた平民も、青銅の兜、丸い盾、足の脛当て、革製の鎧、そして、二m以上もの穂先のある長槍で武装した平民も、名誉を得るために、貴族と一緒に戦いに参加したのです。
そのギリシャ式戦いは、長槍と盾で武装した重装歩兵が密集隊を構成し、敵陣に突撃を繰り返すのです。白兵戦は、ランチェスターの法則どうりに、その軍人の数が多いほど優位であるわけですから、ギリシャの平民は、武装して戦に参加することにより、その平民兵士が、貴族兵士よりも圧倒的に多くなっていくのです。 そこで、平民兵士より、「戦で、貴族と同じ働きをした平民兵士にも、貴族と同様に市民にも参政権を与えよ」、と要求したことにより、ギリシャ都市国家で、民主政治の第一歩が始まるのです。
この民主政治のデモクラシーとは、ギリシャ語のデモクラティアに由来し、民衆(デーモス)の支配(クラティア)を意味しているのです。
紀元前594年ソロンは、民衆に市民権を与えるのです。そして、紀元前509年クレイステネスは、部族制度を従来の四部族から十部族とし、その下部組織として、デーモス(区)を設けたのです。その十部族から、各50人の代表により、500人評議会を設置するのです。
そして、紀元前462年エフィアルテスにより、一年ごとの交代で、挙手により選出された将軍や祭祀による、民主政が完成するのです。これにより、貴族最後の牙城のアレオバゴス会議の特権を奪い、それらの特権が500人評議会や民会裁判所に移管したのです。そして、紀元前322年マケドニアにより、民主政が廃止されるまで、アテネの民主政は存続したのです。この古代ギリシャの、選挙による民主政が、古来から日本列島に伝播していたのです。
オリエントから渡来の秦氏末裔である、関八州を支配していた弾左衛門の政府は、基本的には、五年目ごとに、総選挙をおこない、弾左衛門政府の家従(役人)を投票選挙により選出していたのです。しかし、丸山三右衛門と石原孫一の両家は世襲としていたのです。
その選挙では、関八州に暮す九千有余の惣穢多による直接選挙ではなく、古代ギリシャの民主政と同じに、代議員500人の触頭(穢多村の村長)の封書での投票でおこなわれていたのです。
その関東八州に散在する幾百の部落の穢多は、キリシタンの「賎の利休」と云われた茶人千利休が暮した自治都市堺と同じに、王権が及ばない自治制をなし、平生は直接弾左衛門の支配を受けるのではなく、各部落(ポリス・都市国家)の触頭の指示で公共の事を所弁していたのです。
関八州の500人の触頭により投票選挙で選ばれた、弾左衛門政府の人事構成はどのようになっていたのでしょうか。役人の上役として15人の内、御家老は3人、御用人は3人、裁判関係の公事方奉行は3人、会計係りとしての御勘定奉行は2人、監視役としての大目付は2人、地方事務の処理役の御郡代は2人の人事構成となっていたのです。
下役65人は、側で世話をする者である御近習役、お目付、書記の御祐筆、御用部屋、公事方、御勘定方、御郡代手附の類で人事構成していたのです。
小者70人は、同心足軽で、他に、非職として革の製造に従事する者75人の総計220人で、弾左衛門政府を構成していたのです。この人事布陣は、正に、ミニ弾左衛門幕府の様相を示しています。
更に、弾左衛門政府では、徴税権と司法権も、江戸幕府から独立していたのです。司法権は、穢多と非人に限り、追放以上の刑は、一々町奉行に伺い、指令を受けていましたが、それ以外は、弾左衛門政府は、自ら裁判をし、自ら刑罰を科していたのです。そのために、弾左衛門の邸宅用部屋の脇には、伝馬町の牢屋敷に似た三棟の牢獄があり、その一棟は、町奉行所より預かりの平民罪囚のための牢獄で、弾左衛門政府が法廷としての白州が設けていたのです。
そして、新町(秦町)には、ギリシャ都市国家の中心となる神殿があったように、鎮守神を祀る祠があり、その神を「インジンサマ」と崇称し、祭礼をおこなっていたのです。
藤原日本史では、穢多は経済的・精神的に惨めな賎民のように記述していますが、藤原氏が720年に創作した「日本書紀」などの勝者側の立場で述べられた正史ではなく、秦氏末裔の万葉語学者で「日本書紀」の講義師である多人長が812年に創作した「古事記」などの、敗者側の立場で述べられた野史(簒奪王権により焚書されないように、比喩や暗号文で記述されているものが多い。)を、少し調べれば、このように古代ギリシャ都市国家に類似した秦氏末裔が管理・運営していた部落(ポリス・自治村)が、古代から江戸時代末期まで実在していたことが分かるのです。
何故、敗者側から見た歴史が表の世界に現れずに、抹殺、或いは、改竄されるのかと言えば、それは、勝者である簒奪王権の正統性を示す主たる目的は、敗者である前政権の歴史を抹殺、或いは、改竄することにより、敗者側だった人民はもとより、敗残兵をも簒奪王権の下に統制することができるからです。
日本列島史での前政権の歴史の抹殺、或いは、改竄の始めは、645年の「大化の改新」からです。そして、前政権の歴史の抹殺、或いは、改竄は、古代だけではなく、近世の江戸初期の歴史でもおこなわれていたのです。
「大化の改新」は、明治維新後に発明されたものです。しかし、藤原日本史では、その「大化の改新」の基本とは、公地公民、班田収授法、国郡制度、そして、祖・庸・調の税制の確立のこと、であると言うのです。しかし、それらの事項は全て、645年以降に発明されたものであったのです。
国郡制度の確立は、645年ではなく、701年大宝律令以降に確立されたもので、それ以前では、国の支配区は、評(こおり)と云われていたのです。そして、戸籍・計帳を必要とする班田収授は大宝律令からで、全国的(近畿一帯)戸籍作成の始めは、670年庚午年籍からなのです。そして、藤原氏が「日本書紀」で述べているように、日本国の元号は、645年ではなくて、701年大宝元年からなのです。
何故、簒奪王権は、645年を国政の始まりと改竄したのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配していた東突厥帝国進駐軍が、壊滅した年であったからです。そして、騎馬民族の前政権の文化を抹殺、隠蔽するために、蘇我蝦夷が天皇記と国記を焼失させたので、飛鳥ヤマトの歴史は分かりません、とするのです。
では、それ以前の日本列島の歴史はどのようになっていたのでしょうか。その日本国の元号が発明された以前の都は、飛鳥ヤマトにあったのです。その飛鳥ヤマトの前政権の歴史を、抹殺、或いは、隠蔽するための「装置」が、「大化の改新」物語であったのです。その「大化の改新」物語を創作するための素材が、647年韓国新羅史の「眦曇の乱」(ヒドン)であったのです。
そのように、勝者である簒奪王権は、歴史物語を操作することにより、如何様にも、敗者の歴史を抹殺、或いは、改竄できるのです。
1600年関が原の戦いで、東軍の徳川家康は勝利し、エド城の普請を急ぐのですが、エド城の完成は、1636年三代目将軍徳川家光の時代であったのです。その前年、1635年徳川家光は、諸大名の財政を窮乏させる目的で、参勤交代制を確立していたのです。
しかし、そのエド城は、完成後3年の1639年本丸大奥からの失火により、天守閣と僅かな櫓を残して焼失してしまうのです。このエド城は、その後、二十数回も火災にあっているのです。不思議なのは、1657年(明暦3年)「振袖火事」により、天守閣も炎上していたのです。更に不思議なのは、第十五代目将軍徳川慶喜は、一度もエド城には居住していなかったのです。
何故、エド城は、そのように数多い大火にあったり、そして、将軍が居住していなかったのでしょうか。それは、エド城の別称、「千代田城」に、謎解明のためのヒントがあるようです。
エド城が、何故、千代田城と云われるのかの教科書歴史の説明では、室町時代にエド城を創建した太田道灌の幼名が、鶴千代と云われていたから、とか、エド城の周りが肥沃な田地(千代田)であったため、と云われているのです。
そして、太田道灌の幼名鶴千代の根拠は、江戸時代に書かれた「太田家記」にあるとするのです。そして、太田道灌のエド城の史料は、江戸時代に書かれた「寛政重修諸家請」にあるとするのです。
しかし、それらの説明に反して、太田道灌の正式な幼名は、持資であるのです。そして、1446年15歳の元服で資長となっているのです。更に、徳川家康が築城したエド城は、室町時代に太田道灌が築城した跡に建増した城などではなく、その太田道灌が築城したエド城(実際は砦)の上に、8.5mの盛り土をして、海抜十mの人工山の上に築城された城であったのです。
室町時代、摂津源氏末裔の太田道灌が、エドに築城した砦は、下総を支配している、桓武平氏末裔の千葉氏の侵攻を阻止するために、荒川・利根川の支流が流れ込む、河口の湿地帯にある、海抜2.5mの岬(古代エジプト語で、ワタ・ナーベ)の上であったのです。
ですから、その太田道灌の砦の周りは、河口の葦の茂る湿地帯であるわけですから、教科書歴史が述べるように肥沃な田地(千代田)であるはずはないのです。では、エド城の雅名である千代田城は、何を隠蔽するための城名なのでしょうか。
勝者の簒奪王権は、敗者側の武人を貶める目的で、鬼、土蜘蛛、俘囚、蝦夷などの、蔑称を付ける歴史的傾向があるのです。更に、敗者側の騎馬民族末裔の民族も、穢多(エタ)や川田・皮多(カワタ)などの蔑称を付けられていたのです。そして、イエズス会に軍事支援された織田信長により敗れた、大坂の石山本願寺派の秦氏の源氏末裔の砦も、エタ城との蔑称を付けられていたのです。
1600年東西に分かれて戦った、関が原の戦いは、教科書歴史では、豊臣秀吉の遺臣軍団対王権を簒奪する逆賊の徳川軍団の図式で説明しているようですが、その実態は、古来からの、藤原氏対秦氏の戦いの続きであるわけです。
それは、豊臣秀吉は、イエズス会傭兵から寝返った、藤原氏の猶子であったからです。それに対して、徳川家康は騎馬民族末裔であり、「葵の紋」を旗印とすることは、藤原氏の仏教派に敵対していた、陰陽道の祖、道教の末裔を示していたからです。その「葵の紋」の旗の下、徳川家康軍団の多くは、秦氏末裔の武田騎馬軍団残党の金山衆や、石山本願寺派軍団残党の秦氏末裔の源氏武士末裔であったのです。
そのような、騎馬軍団末裔の武士により勝利した徳川家康軍団は、敗れた藤原氏軍団には憎憎しい存在であったのです。その勝者である徳川家康は、敗れた武将達にエド城普請を命令したのです。そして、1636年三代目将軍徳川家光の時代に、エド城は完成するのですが、その三年後、鎖国を断行した1639年にエド城の多くの建物は、本丸の大奥からの失火により焼失してしまったのです。
では、何故、エド城が千代田城と呼ばれていたのでしょうか。それは、徳川家康の出自に関係があるのです。
北条鎌倉時代、藤原氏と、百済系桓武平氏末裔の北条氏とにより、秦氏末裔の源氏武士を社会的に抹殺するための手段として、平安時代に錬金術師空海が、唐から持ち込んだ騎馬民族差別思想の「施陀羅悪人ナリ」をバージョンアップして、遊牧民族であるから、当然肉食する者を「施陀羅」から、ケガレが多いとの意味である「穢多」を発明したのです。しかし、その騎馬民族差別語の「穢多」は、ユダヤ系日本人(藤原氏)が多く住む奈良や、百済系日本人(桓武平氏)が多く住む京都・大坂では浸透したのですが、それ以外の地域では、その「穢多」の騎馬民族差別語が流行らなかったのです。
徳川家康が支配していた三河地域周辺では、「穢多」の差別語ではなく、川田・皮多(かわた)と云われていくのです。そのカワタには、ケガレの意味が、穢多よりも薄れていたのは、それらの地域には、騎馬民族や海洋民族が多く暮していたからです。織田信長の出身地の尾張や伊勢は、魚食するアラブ系日本人(平家)が多く住み、そして、徳川家康が支配した三河には、肉食する秦氏末裔の新羅系日本人(秦氏)が多く住んでいたからです。
その三河を支配していた徳川家康が築城したエド城は、戦国末期の石山合戦の戦いで、イエズス会に軍事的支援された織田信長軍団の攻撃を十年間も防いだ、秦氏末裔の源氏武士末裔の砦を、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉が「エタ城」と蔑称したように、徳川家康とその息子の秀忠が死去し、百済の血が流れている三代目将軍徳川家光の時代になると、藤原氏側のひと達は陰で、「カワタ城」と蔑称していたのです。それは、徳川家康が、世良田部落の出身で、アラブ系の平家末裔の織田信長が、海洋民族末裔の賎民である余部(海部)を庇護したように、三河の騎馬民族末裔のカワタを庇護していたからです。
そこで、新羅(秦羅)を憎む百済側の智慧者が、そのエド城の蔑称のカワタ城を、雅名の千代田城に改竄したのです。カワタ(川田・皮多)を、皮(カワ)→川(カワ→セン)→千に替え、千田(ちよた)→千代田と改竄したのです。そして、その改竄物語の裏付けのために、室町時代の太田道灌を持ち出して、太田道灌の幼名を鶴千代とし、更に、エド城の周囲は美田(千代田)が多くあったとの伝承を創作したわけです。
百済の血が流れる徳川家光には、秦氏末裔は憎むべき相手であったのです。それは、663年母国百済を滅ぼしたのが秦氏の渡来元の、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)であったからです。そして、エド城にハーレムである大奥を発明した春日局も、騎馬民族末裔の徳川家康が築城したエド城の存在を許せないひとりであったのです。
それは、戦国末期、織田信長が、イエズス会と藤原氏とによる陰謀で、本能寺で爆殺された後、主殺しの謀叛者とされた明智光秀からの救援を、徳川家康が断っていたからです。山崎の合戦で、イエズス会の命令に逆らい徳川家康が、明智光秀軍に加わっていたとしたら、日本史も今とは異なっていたことでしょう。
その明智光秀一族末裔のお福が、後に、三代目将軍となる徳川家光の乳母となり、そして、藤原氏と仲が良い後陽成天皇を退位させた徳川家康を、どうしても抹殺したい藤原氏の計らいにより、春日局に変身していたのです。その春日局が、エド城でのハーレムである大奥を発明し、管理していたのです。1639年千代田城の大火の火元が、春日局が管理運営していた、本丸の大奥からの失火であったのは、何を意味していたのでしようか。
カワタ城が聳えるエドの町は、人工町で、更に、京の百済系日本人と奈良のユダヤ系日本人達には、その人工町のエドはケガレ地であったのです。それは、騎馬系民族出自の徳川家康と、その配下の、北条鎌倉政権下で漢訳仏教組織が発明した「穢多」と蔑称された秦氏末裔が開拓した町が、エドであったからです。
ケガレ地を避けることは、第三百済王朝となった、1635年第三代目将軍徳川家光が、外様大名(騎馬・海洋民族末裔武士)を経済的に疲弊させるためと、閑散としたエドの町の人口増加を意図して、参勤交代の制度を確立すると、その西方の遠隔地からエドへの参勤交代の大行列は、伊勢・尾張と三河を避けていたのです。
それは、伊勢・尾張は、魚食するアラブ系日本人(平家)が多く住み、その地を支配していたのが、百済系の比叡山延暦寺の全僧侶を斬首した、仏敵の織田信長であったからです。
そして、三河は、肉食する新羅系日本人の秦氏末裔が多く住み、その地を支配していたのが、イエズス会軍団の一員として、藤原氏系の一向宗軍団を壊滅した徳川家康であったからです。
天下を盗った織田信長は、漢訳仏教組織により、賎民の「キヨメ」に落とされた余部(海部)を庇護し、そして、天下を盗った徳川家康も、一向宗軍団残党の秦氏末裔の源氏武士や、革製造技術者の「カワタ」を庇護していたのです。その徳川家康は、民族差別語の「カワタ」の言葉を公式には一切述べていなかったのです。
しかし、1616年徳川家康が死去し、その息子秀忠が、1623年家光に将軍職を譲ると、エドの町を開拓した秦氏末裔は、イジメられていくのです。それは、織田信長に軍事的壊滅された比叡山延暦寺の天台宗が、江戸初期に復活していたからです。戦国末期、イエズス会の勢力を日本列島から排除する目的で、藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉が、壊滅していた漢訳仏教組織復活を目論んで、布教の援助をしていたからです。その結果、騎馬民族差別思想を内在している「法華経」を説く天台宗の僧侶が、エドの町で布教を始めていたのです。
しかし、漢訳仏教嫌いの徳川家康が帰依していたのは、親鸞が発明した浄土真宗ではなく、法然が発明した浄土宗であったのです。法然の思想を表わした、「ナムアミダブツ」とは、「アミ様に帰依します。」という意味で、そのアミ様とは、民族平等を唱えた、古代エジプトの太陽神アトンのことであったのです。
騎馬民族の秦氏が祀っていたのが、太陽神ミトラで、その太陽神ミトラが、古代エジプトで変身した神が、太陽神アトンであったのです。その太陽神アトンが、国際交易都市ガンダーラで、アミ様に変身し、そのアミ様が中国大陸で、更に、阿弥陀様に変身していたのです。その、徳川家康が帰依していた浄土宗の仏とは、秦氏が祀っていた、太陽神であったのです。
では、戦国時代最後まで戦った、北条鎌倉時代に親鸞が発明した浄土真宗の本願寺派は、エド時代に、どうなっていたのでしょうか。
戦国時代、秦氏末裔の源氏武士末裔を取り込んだ一向宗軍団を組織して、北陸一帯を一向宗王国として支配していた、藤原氏系の本願寺派の多くは、イエズス会に軍事的支援を受けた織田信長・豊臣秀吉・高山右近軍団により壊滅されるのですが、顕如派は生き残っていたのです。
織田信長と十年間も戦った大坂の石山本願寺派は、正親町天皇の斡旋で、顕如は織田信長と和解してしまったのですが、教如が新しく門主となると、織田信長との徹底的抗戦を唱えると、摂津・河内・和泉の穢多村が参戦したのです。が、しかし、織田信長が本能寺で爆殺されると、イエズス会から次期日本王と指名された豊臣秀吉とキリシタン大名の高山右近軍団により、壊滅させられてしまったのです。そのキリシタン傀儡軍と徹底抗戦した摂津・河内・和泉とは、古墳時代に秦氏が支配していた、古の河内王国(秦王国)であったのです。
その生き残った顕如の本願寺派を、漢訳仏教嫌いの徳川家康は、勢力を衰えさせるために、内部分裂を画策した結果、光寿の大谷派と、光昭の本願寺派に分裂し、今日に至るわけです。
賎民の王国である、徳川家康支配のエドの町(秦王国)に、関東の山伏と天台宗の僧侶とが、「穢多」がおこなう死者の埋葬儀式をめぐって対立し、裁判となったのです。
山伏とは、飛鳥ヤマト時代の祭祀者末裔で、645年飛鳥王朝(教科書歴史では、蘇我蝦夷・入鹿親子)が、唐進駐軍と中臣軍とに敗れると、唐進駐軍と供に渡来した仏教に祭祀権を乗っ取られたため、山奥に逃れ、変身して生き延びた末裔であったのです。
飛鳥ヤマト時代、犠牲により祀られていた太陽神思想での死者は、死と再生を繰り返す太陽と同じに、再生を願うため「土葬」されていたのです。しかし、中国大陸から渡来した漢訳仏教思想での死者は、汚物のケガレ物でしかなく、ケガレを清めるために、火で燃やしてしまうのです。(仏教伝来が、538年(「日本書紀」では552年)ではないことは、日本国初の火葬された天皇が、697年百済系女帝持統天皇であることから証明できます。その持統天皇の前、686年死去の新羅系天武天皇は、土葬なのです。)
死者の埋葬を廻って、山伏と天台宗の僧侶との裁判での論争は、永遠に続くことになるのですが、そこに、僧正の看海(かんかい)が現れるのです。その看海は、山伏による部落での葬儀、皮を煮詰めての膠(にかわ)作り、革製武具生産、掃除など、部落でのしきたりなどは、仏教文化と異なる、異民族起源であると説明したのです。この僧正看海の説明により、埋葬に関して、山伏は、天台宗僧侶に敗れるわけです。
この天台宗の僧侶が現れた時代から、エドの町で、弾左衛門が徳川幕府から優遇されていたのが、賎民扱いを受ける始まりとなるのです。
徳川家康が、穢多を優遇していた根拠のひとつの例として、1614年大坂冬の陣、そして、翌年の1615年大坂夏の陣で、徳川軍は、渡辺村の出城(エタ城と蔑称されていた。)に立て篭もる豊臣勢軍団を攻め落とすと、翌年、豊臣秀頼を倒し、その八歳の息子国松を、京都の六条河原で、穢多に討たせていたのです。それは、豊臣秀吉が、戦国末期に、穢多(秦氏末裔)の大坂の支配地(秦王国)を簒奪し、亡命百済移民末裔が多く住む九太郎村に移封し、イジメ抜いていたことを、徳川家康が知っていたからです。そして、徳川家康は、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、穢多村と落とされた摂津渡辺村に「断罪御用」を命じて、役人村に引き上げたのです。
家光の乳母の春日局を手先として送り込んだ藤原氏は、騎馬民族が支配する江戸幕府体制から、騎馬民族末裔の「武士」を排除して、桓武平氏末裔の「サムライ」を取り入れるため、「武士」系大名取り潰しにかかるのです。三代目将軍徳川家光は、「武士」系の親藩・譜代20家と外様29家を取り潰し、その代わり、「サムライ」系の40家を新しく親藩・譜代としたのです。
この百済の血が流れる三代目将軍徳川家光による人事異動は、794年唐進駐軍の支援の下、秦氏が支配していた山背国と比叡山を乗っ取った、亡命百済貴族末裔の桓武天皇が、中国の山東半島から亡命百済民を京に移民させ、その亡命百済移民を貴族として優遇したことと、同じです。劃して、徳川家光が第三代目将軍となった、1623年より、「武士」ではなく、「サムライ」支配の、第三百済王朝が始まるのです。
徳川家康時代、長吏弾左衛門(教科書歴史では、穢多頭弾左衛門)は、駕籠に載り、二本差しの羽織袴で登城していたのは、弾左衛門の権勢が盛んであったからです。それは、高度技術を持った芸人(芸とは技術の意味もある)を支配していたからです。
それら弾左衛門の配下とは、長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋などです。しかし、それらの多くの配下は、弾左衛門の権勢を削ぐ目的で、石切、髪結、青屋を残し、弾左衛門配下から、三代目将軍徳川家光により、離脱させられてしまったのです。
そのように、三代目将軍徳川家光は、徳川家康の配下であった長吏頭弾左衛門の権勢を削ぐ一方、更に、民心から隔離する手段として、キリシタン弾圧のための刑罰執行人の役割を強要するのです。それが、大きな竹篭に、キリシタンの老人、女子供も入れて、風雨にさらす、「干し殺し」です。その残酷な刑罰を、三代目将軍徳川家光が、弾左衛門に課したために、エドの民衆のこころは弾左衛門から離れていき、遂には、三代目将軍徳川家光の意図したように、エドの支配者側から、賎民「穢多」として、貶められていくのです。
賎民達が築いたエドの町(秦王国)で、多くの職人を支配していた、徳川家康の忠臣長吏頭弾左衛門が、賎民に貶められた仕掛けを創ったのは、三代目将軍徳川家光を裏で操る、天台宗の天海であったのです。
出自不明の怪僧天海は、一説では、明智光秀であると云われていますが、徳川家康が存命の時は、忠臣として振舞っていたのが、徳川家康が1616年死去すると、豹変し、弾左衛門も含めて、徳川家康の忠実な「武士」の家臣達の抹殺にかかるのです。
天海の意図は、徳川家康の葬儀を見れば明らかです。それは、徳川家康の霊を、徳川家康が憎む百済系の宗教思想で、事実上封殺していたからです。天海は、本多正純が唱える吉田神道思想の神号「明神」で徳川家康の霊を祀る提案を拒否して、山王一実神道思想の「東照大権現」で徳川家康の霊を祀って(実際は封印)しまうのです。
それは、その山王一実神道の祖は、平安時代、中国の山東半島から亡命百済民が、秦氏の支配していた山背国や比叡山に移民してきた時、亡命百済移民が日本に持ち込んだ、中国の土着の神シャンワンであったのです。そのシャンワンの神を、山王神と変身させ、秦氏が比叡山で祀っていた太陽神ミトラを封印したのです。そして、亡命百済移民の祭祀者は、その秦氏の太陽神ミトラを、魔多羅と蔑称し、歴史上抹殺してしまったのです。
そのような百済系宗教である山王一実神道を信仰する天海は、エドを中心に関東一円を、百済系宗教である天台宗思想で支配するために、百済系の寺を建立するのです。それらは、東叡山寛永寺、日光山輪王寺、定額山善光寺です。
東叡山寛永寺(東京都台東区)は、三代目将軍徳川家光が、百済系日本人が多く住む京を護る比叡山延暦寺を真似て、1625年に創立し、その初代住職は天海です。そして、不忍池は、東の琵琶湖と云われていたのです。しかし、その東叡山寛永寺は、秦氏末裔の薩摩の「武士」により、1868年上野戦争で焼失してしまうのです。
日光山輪王寺(栃木県日光市)は、創建は奈良時代ですが、天海の指示で、徳川家康の霊を久能山から日光山に改葬し、「東照大権現」を祀る(封印する)ため、1617年東照宮が設けられ、戦国時代に荒れ果てた寺が復興し、今日に至るのです。その貫主(住職)は、天海であったのです。しかし、東叡山寛永寺焼失の翌年、1869年輪王寺宮本坊は焼失してしまうのです。
定額山善光寺(長野県長野市)は、天台宗と浄土宗の別格本山で、その創建は不明ですが、藤原氏が創作した、「日本書紀」の仏教伝来物語(552年)で、廃仏派の物部氏により難波の堀に捨てられた仏像を祀っているとすることから、定額山善光寺創建の歴史は疑問符が付くのですが、この長野の地には、五世紀から百済や高句麗の移民が多く住んでいたのです。その定額山善光寺の「善光」とは、百済最後の王の息子百済王氏の始祖「善光」から名付けられた伝承があることから、百済系の宗教施設であることが示唆されます。
そのような歴史を持つ百済系の寺寺に護られた関東一円は、徳川家康からエドでの菩提寺は、芝の「浄土宗の増上寺」であったものが、三代目将軍徳川家光から「天台宗の東叡山寛永寺」になってしまったのは、王権が代わったことを意味しているのです。つまり、騎馬民族王国(秦王国)から、第三百済王朝への変換です。
因みに、東叡山寛永寺の「東叡山」とは、794年亡命百済貴族の桓武天皇が、秦氏の支配地を乗っ取った京の街(平安京=洛陽)を守護するために建立された延暦寺の比叡山に習い、百済末裔の三代目将軍徳川家光が、秦氏末裔の徳川家康・弾左衛門支配地を乗っ取り、東のエドを守護するための山号としたのです。
この百済系宗教の天台宗は、騎馬民族にとっては脅威であったのです。それは、天台宗の根本思想を語る「法華経」には、騎馬民族差別の思想が溢れていたからです。
天台宗は、日本オリジナルの宗教ではなく、805年に、桓武天皇の命により、最澄が唐の天台山に登り、その経典を持ち帰ったことにより拓かれた、と伝承されています。しかし、中国天台宗の経典の多くは、754年律宗と中国天台宗兼学の唐僧の鑑真により、日本に伝えられていたのです。
八ヶ月の短期留学の最澄は、天台宗の仏典入手が主目的ではなく、山東半島に暮す亡命百済民を、前支配者の秦氏を京から排斥する目的で、日本国に移民させるために、遣唐使留学僧として唐に渡ったのです。最澄が、仏典だけを求めることを目的に唐へ渡ったのではないことは、帰朝後に、年上の最澄が、年下の空海に、頭を下げてまでして、中国仏典の多くを借り受けていることから分かるのです。
では、その中国天台宗は、どのようにして発明された宗教であったのでしょうか。
隋の時代(589年〜618年)、智(チギ)が、宗教の坩堝である天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し、天台宗を発明し、その開祖となったのです。天台宗は、大乗仏教一派であったので、当然、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩魔羅什が、サンスクリット語から漢訳した経典を基に創られていたのです。
中国天台宗は、その無数にある漢訳経典の中から「法華経」を最高の経典とするのです。しかし、バラモン僧の鳩魔羅什が漢訳した「法華経」と、オリジナルのサンスクリット語「法華経」とは、かなりの相違があったのです。それは、騎馬民族の侵攻に悩む、農耕民族である中国の王権に擦り寄るために、遊牧民族トラヴィダ族の地を簒奪したバラモン僧がトラヴィダ族を不可触賎民チャンダラーとしたように、バラモン僧の鳩魔羅什は、騎馬民族への蔑称「施陀羅」や騎馬民族差別思想を漢訳仏典に挿入していたからです。
そのような騎馬民族差別思想を内在した中国天台宗を、平安時代、唐進駐軍に軍事支援された平安京の百済王朝は、騎馬民族末裔である、前支配者の秦氏を貶めるために、比叡山延暦寺に導入していたのです。
そして、秦氏が支配していた山背国や比叡山を乗っ取った亡命百済貴族末裔の百済王朝は、騎馬民族の東突厥帝国進駐軍と、河内を支配していたオリエントから渡来した秦氏とによる、噴水のある石組みの庭園や、河内から飛鳥ヤマトまで敷設されたローマ帝国軍式幅広の直線道路などがあったオリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺するために、百済仏教伝来物語を創作したのです。
そして、藤原氏が支配する興福寺などの奈良仏教組織を奈良の都に封印した平安百済王朝が、藤原氏により創作された「日本書紀」の仏教伝来物語の552年伝来を抹殺するために、百済聖王による仏教伝来を538年としたのは、平安百済王朝が比叡山延暦寺に導入した、中国天台宗の開祖智の誕生年が、538年であったからなのです。しかし、538年にも、552年にも、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、漢訳仏教など伝来していなかったのです。
百済系天台宗の怪僧天海が築いた第三百済王朝の江戸幕府政治により、「武士」が、「サムライ」により支配されたように、百済幕府の手先となった日本列島伝来年不明の漢訳仏教思想により、秦氏末裔は賎民「穢多」として支配されていくのです。
弾左衛門は、徳川家康直系の家臣の「武士」の影響力が残っていたまでは、江戸町奉行クラスの挌を持っていたものが、1623年徳川家光が三代目将軍となり、エドの町が騎馬民族文化から仏教文化に時代が変わると、1635年には、江戸町奉行機構に組み込まれ、仕置き全般を命じられていたのです。
そして、1776年には、弾左衛門は、今までは草履取りを町奉行所内に連れて入っていたものが、町奉行所は突然、このことを禁止させるだけではなく、「御用あい済まし候わば、穢多の身分のゆえ慎み、御門内を急ぎ去り候儀にこれあるべし」と、弾左衛門に命じていたのです。そのように、徳川家康時代では体制側であったものが、徳川家光の第三百済王朝時代になると、長吏頭弾左衛門は、穢多頭弾左衛門として扱われていくのです。
1637年島原の乱を制圧した徳川家光は、キリシタンの老若男女約三万人を「干し殺し」で聖滅していたのです。そして、1639年キリシタンを摘発するために、宗門人別帳による身分登録制度を始め、幕府支配地の日本全土の住民は、どこかの仏寺に所属させ、個人の宗旨を確認するために人別帳を毎年作成させたのです。この宗門人別帳が、1671年宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)となり、全国の秦氏末裔を歴史上抹殺するために、民主都市国家の穢多村を対象にして作られて行くのです。
この宗門人別帳の原型は、戦国時代、戦国大名が百姓村から兵士を募るための夫役台帳であったのです。それが、キリシタンの宗教弾圧を経ることで、1639年にはすべての個人を家族単位で登録し、その結果、徳川三代目家光の時代になると、血縁的な把握までおこなうようになっていったのです。
秦氏末裔も「武士」も、その祖がオリエント系かスキタイの騎馬民族系なので、ヒゲが薄くノッペリした顔を特徴とする「サムライ」のツングース系と異なり、ヒゲが濃く目鼻立ちがハッキリしているため、エドの町を乗っ取ったツングース系の百済末裔と異なる民族であることが外見だけでもわかるのです。その秦氏末裔の民族の血の流れが、徳川家光幕府時代になると、秦氏末裔の穢多を歴史上抹殺するために、宗門台帳に記入されていくわけです。
この秦氏末裔を異民族「穢多」として仏教思想でイジメる宗門改帳は、キリシタン追放の手段の流れから発生したのですが、徳川家康が、1614年キリシタンの高山右近をマニラに国外追放したのは、非人の信者が多いキリシタンをイジメるためではなく、訳があったのです。
1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その乗組員のウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは、エドに至り、徳川家康に謁見するのです。オランダは、ローマ・キリスト教を信仰するポルトガル・イスパニアと異なり、プロテスタントを信仰する国であったのです。そのプロテスタントとローマ・キリスト教とは宗教戦争をおこなった歴史があるのです。そのプロテスタントのオランダから渡来したヤン・ヨーステンを外交顧問として召抱え、ポルトガル軍団に支援されたイエズス会のインド・東南アジアでの武力による布教実態を知った徳川家康は、イエズス会に育てられた織田信長の家臣であったため、イエズス会に近い立場でいたものが、イエズス会会員の国外追放に傾いていくわけです。
戦国時代、インドと東アジアを統括するイエズス会の巡察師バリニャーノの日本列島侵略の戦術は、強い国王の下での布教を目指していたのです。そのために、イエズス会は、日本列島での布教始めは武器・傭兵軍の調達者であったのです。しかし、あまりにも九州のキリシタン大名が戦闘に弱いので、北九州一円を支配する竜造寺隆信を倒すために、直接イエズス会が武力介入することになっていくのです。そして、そのイエズス会の軍事力を増すために、ポルトガルと軍事的連携を強めていったのです。
その軍事力を背景として、イエズス会が、九州を平定すると、都地区を支配するために、尾張の弱小武将の織田信長に接近し、そして、武器と傭兵軍を提供することにより、織田信長は、ゲリラ隊長から天下人に変身できたわけです。
しかし、イエズス会と軍事関係が強かったポルトガル国王エンリケが、1580年死去すると、敵対していたイスパニアのフェリッペ二世がポルトガル王を兼位し、ここに、イスパニア・ポルトガル同君連合(1580年〜1640年)が始まるのです。
このことは、イエズス会にとって不利であったのです。それは、イスパニアには、異民族への布教の名目で侵略する托鉢修道会がいたからです。イスパニア王フェリッペ二世が、ポルトガル王を兼任すると、東アジアで勢力を張っていたイエズス会は、西回りで東アジアに渡来した托鉢修道会と衝突していくのです。そして、中国・日本列島への侵略拠点のマニラには、ポルトガル軍に加えてイスパニア軍が侵攻したため、そのマニラを中心とする諸島は、イスパニア国王のフェリッペ二世に因んで、フィリッピンと言われていくのです。
1587年、織田信長が本能寺で爆殺されて、その権力を引き継いだ豊臣秀吉は、キリシタン宣教師追放を発令すのです。それに対して、日本イエズス会は、準管区長のガスパル・コエリョ等が、九州の有馬で協議会をおこない、フィリッピンのマニラ在住のイスパニア関係者に日本国へのイスパニア兵派遣を要請することが決議されたのです。
しかし、イスパニアの経済を支えていた、海賊交易をしていたイスパニアの無敵艦隊は、プロテスタントのイングランド海賊交易を支えるイングランド海軍と各地で戦闘を繰り返して、1588年イングランド海軍は、イスパニア無敵艦隊を破り、ここに海上権がイングランドに移行していくのです。
そのように、海上権をイングランドに奪われたイスパニアは、もはや、諸外国での海賊交易をおこなえない状態になっていたのです。
そのように、ポルトガル・イスパニアの国力が衰えていくことにより、1590年少年使節団を伴って再度来朝した巡察師バリニャーノは、イエズス会から藤原氏に乗り換えて変身していた関白豊臣秀吉に、イエズス会巡察師としてではなく、インド副王の使節として謁見を許されていたのです。それほど、ポルトガル・イスパニアの国力は衰えていたのです。
そこで、1590年加津佐で、第二回日本イエズス会全体会議で、金銭や食糧をのぞき、軍需物資の調達や供与など、宣教師が日本国内での戦争問題に介入することは一切禁止されたのです。
聚楽第での屈辱的な豊臣秀吉の謁見態度に憤まんやるかたない、イエズス会により軍事援助をして、弱小尾張のゲリラ隊長の織田信長を日本王とした巡察師バリニャーノは、イエズス会裏切り者の豊臣秀吉を倒すために、マニラ在住のイスパニア兵の日本国要請を考えるのですが、1597年イエズス会ローマ本部は、在日イエズス会宣教師による、日本国の政治・軍事介入をすることを一切禁止命令を、巡察師バリニャーノ宛てに公布していたのです。
結果的に、ポルトガル・イスパニア国の海上権が、新興国イングランドに奪われたことにより、マニラ在住のイスバニア兵が日本国への侵攻は実際にはなかったのですが、その日本イエズス会が、マニラのイスパニア兵を要請していたことが、イエズス会日本人信者の知ることとなり、イエズス会の不信な行動に疑問を抱いたファビアン不干斎やトマス荒木などのキリシタンは、徳川家康へ、その日本イエズス会によるマニラ在中のイスパニア兵要請を報告することになるのです。更に、徳川家康の家臣岡本大八と九州の有馬晴信との増収賄事件の当事者が、共にキリシタンであったことが、1614年の高山右近たちの、マニラへのキリシタン国外追放となっていったのです。
このような社会情勢下で、イスパニア兵の日本国侵攻を阻止するために、マニラのイスパニア軍に内通するキリシタン摘発のために宗門人別帳が作られていくのです。その宗門人別帳が、第三百済王朝なにると、秦氏末裔を穢多として、社会的に貶めていく仕掛けとして、利用されていくのです。
第三百済王朝の江戸幕府に都合がよかったのは、日本列島をイエズス会による支配途中であったものが、ポルトガル・イスパニアの国力が、イングランドにより海上権が奪われたことにより、海外侵略をこれ以上おこなえない国力となり、更に、イスパニアの海外侵略基地が、イングランドやオランダに奪われていたからです。最早、日本列島を侵略する程の国力は、イスパニア・ポルトガルには、もう既になくなっていたのです。
歴史教科書では、1639年幕府が鎖国をおこなったため、1853年米使ペリーがマカオから浦賀に来航するまでは、江戸時代は外国の干渉を受けることが無かった、と述べています。しかし、それは幕府による鎖国だけが原因ではなく、日本列島の侵略価値が、イスパニアがメキシコで銀山を開発したことにより、落ちたためです。
十九世紀に再び諸外国が日本列島に押し寄せてくる原因は、紀元一世紀ローマ帝国で絹製品の爆発的重要があったため、オリエントから国際交易商人が中国へ押し寄せたように、江戸末期に、世界的に絹製品の需要が起こったからです。日本列島の絹製品が、諸外国の感心を集めたことが、日本列島の鎖国を解く原因だったのです。
日本列島の絹生産の歴史は、ローマ帝国と中国との絹交易が盛んになった時代に、中国の絹の国際交易商人により、中国南方種である蚕(ポンピックスモリ)を持ち込んだことにより始まったのです。それと供に、日本列島には、朱砂を求める民族の他に、絹生産地としての植民地とするために、オリエントなどの諸外国から異民族が多く渡来してきていたのです。
ポルトガルが、日本列島への布教を目論むイエズス会を軍事援助した目的のひとつは、日本列島の石見銀山、宇陀銀山、伊勢銀山の簒奪であったのです。しかし、ポルトガル国王が死去し、イスパニア王が、ポルトガル王を兼任したため、ポルトガルの軍事力を当てにしていたイエズス会の日本列島での影響力は、次第に衰えていくだけではなく、イスパニアの托鉢修道会との、日本列島内での抗争は、日本イエズス会から日本信者を離脱させる原因となっていくのです。
更に、イスパニアとポルトガルの経済を支えていた植民地が、イングランドとオランダにより奪われていくのです。イングランドは、イスパニアから海上権を奪うと、東アジアを支配するために、1600年東インド会社を設立するのです。そして、オランダも、1602年東インド会社を設立するのです。これらのイングランドやオランダの東アジアへの軍事侵略により、インドのゴア、中国のマカオ、そして、フリッピンのマニラからイスパニアやポルトガルの軍事力が奪われていくのです。
そして、その東アジアを制圧したイングランド東インド会社が中心となり、藤原氏(近衛家)が棲息する薩摩藩と長州藩の不満分子の「武士」や騎馬民族末裔の「穢多」を手先として、「サムライ」支配の第三百済王朝の江戸幕府倒幕と、仏教国から神国への思想のすり替えとしての、明治維新が企画されていくわけです。
第三百済王朝は、イングランド・オランダ侵略軍団を迎え撃つイスパニア・ポルトガル軍団との、インドや東南アジアでの覇権争いが決着するまで、徳川家康時代では長吏頭としてエドの治安警察業務をおこなっていた弾左衛門を、徳川家康の古くからの忠臣の「武士」をエド払いすると、穢多頭として不浄の縄を使う「岡引」の手下として使役し、約三百年の天下泰平のエド時代を享受するのです。


神輿の黙示録(22)(明治維新が大化の改新だ:復活した藤原氏と騎馬民族末裔の反乱)



歴史教科書でよく理解できないのは、江戸時代までは仏教文化であったのに、1868年明治維新となると、突然、国家神道文化に激変していることです。そして、その年に神仏分離が発令され、それにより廃仏毀釈運動が起こり、全国の仏寺は、秦氏末裔や役座達に徹底的に破壊され、その跡に神社が建立されていくのです。これは、正に、645年の「大化の改新」の逆バージョンです。
その仏寺の破壊運動が特に激しかったのは、鹿児島、広島、岡山です。それらの地域は、古来から秦氏末裔が多く暮らしていたからです。太陽神ミトラ(弾左衛門の時代では「インジンサマ」)を祀る秦氏末裔は、江戸時代に仏教思想に最もイジメられていた民族であったからです。
1868年神仏分離令が、明治新政府により発令されたことは、それまでは、平安時代中期に、本地垂迹説(仏が本尊で、神は仏の仮の姿という思想)が発明されたことにより、神社は仏寺に習合され、そのため、神社は仏教組織の下部組織とされていたのです。当然、日本全国には、仏寺から独立した神社などなかったのです。
しかし、明治時代になると、伊勢神宮は昔から神道の儀式で祀られていた、との「神話」が発明されていくのです。史実としては、広大な伊勢神宮の聖域には、江戸末期まで、本地垂迹説思想により、無数の仏寺が存在していたのです。そして、その伊勢神宮には、794年百済系桓武天皇が、秦氏の支配地である山背国(後の山城国)と、秦氏の犠牲をおこなう祭祀場のあった比叡山を乗っ取り、その比叡山に、中国から天台宗を導入し、821年延暦寺東塔を建立してから、121代孝明天皇(1846年〜1867年)までの約千年間、正式に参拝してはいなかったのです。
しかし、1867年明治天皇が即位すると、伊勢神宮に、平安時代からの空白時間から突然、正式参拝がおこなわれていくだけではなく、その伊勢神宮は、仏寺が跡形も無く整理され、皇室の神を祀る聖域となってしまうのです。明治維新での、これらの仏教から神道への宗教思想のすり替えの謎を解くには、日本史を創作した藤原氏の歴史を知る必要があるようです。
1616年徳川家康が死去(暗殺説あり)すると、藤原氏は本多正純を手先として、吉田神道思想で、徳川家康の霊を「明神」の神号で祀ることを提案するのですが、天台宗の怪僧天海により、百済系神道の山王一実神道思想の「東照大権現」で祀られてしまうのです。
その吉田神道とは、室町時代に、京都吉田神社の神官吉田兼倶により、密教、道教、陰陽道などの教理や儀式を取り入れられて発明された、と云われています。しかし、その吉田神道の祖神が、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と云われているのです。この命は、藤原氏の祖神と同じです。と言うことは、吉田兼倶は、藤原氏の流れにあるのです。それは、吉田兼倶は、藤原北家勧修寺流の公家で、その流れは卜部氏(うらべうじ)を遡るからです。
天台宗の天海に宗教闘争で敗れた藤原氏は、第三百済王朝の江戸幕府では、奈良と鹿児島で隠棲していたのです。それは、平安時代に、百済系桓武天皇により、藤原氏の宗教施設である仏寺の興福寺と、中臣神道の春日社が、奈良の都に封印されたことの再現です。
1868年第三百済王朝の江戸幕府が倒れ、戦国末期にイエズス会の軍事援助により近畿一帯の天下を治めた織田信長のように、イングランド東インド会社の結社会員の軍事援助により成功した明治維新で復活した藤原氏は、徳川家康の威光が消えた後の江戸時代を支配した百済系日本人から再び支配権を奪うために、日本最古の祭祀者一族であったとする、オリエント文化の飛鳥時代を仏教文化とした、奈良時代に成功した文化摩り替えのトリックを再び使うのです。それが、王政復興をスローガンとする「大化の改新」のトリックです。つまり、明治維新を、「大化の改新」の再来とするのです。
その手段のひとつとして、645年近畿地域から陸奥国へ東突厥帝国進駐軍を駆逐した唐国進駐軍へ、720年藤原不比等が創作した漢語による報告書、「日本国の最古の氏族が藤原氏である。」とするためのトリック書、「日本書紀」を中心に新日本史を創作するのです。
その「日本書紀」において、藤原氏の祖神である祭祀者天児屋根命を、秦氏が祀る太陽神ミトラを改竄して発明した天照大神の天岩戸物語で、登場させるのです。このことにより、この天児屋根命は、中臣神道や吉田神道の祖神であるばかりではなく、日本国古来からの神となってしまうのです。
しかし、その先住民族の神思想を乗っ取ったトリックの多くは、藤原氏独自が開発したものではないのです。先住民族の歴史を乗っ取るために、神話物語から歴史物語に続け、その中に自民族の歴史を挿入して、先住民族の歴史を乗っ取る手法は、ヨセフ物語の前にヤコプ物語を挿入した、ユダヤ教の「旧約聖書」のテクニックを真似たものなのです。
ここで注意しなくてはならないのは、ユダヤ民族とイスラエル民族は、同族なのではなく、異なる神を祀る、出自が異なる異民族であるということです。ユダヤ民族の祖は、メソポタミアからで、イスラエル民族の祖は、ヒッタイト帝国からエジプトに渡来した民族であったのです。
そして、ユダヤ民族は、唯一神ヤハヴェ(古代エジプトの太陽神アトンを改竄した神)を祀り、それに対して、イスラエル民族は、一神教ではなく多神教で、太陽神バアル(太陽神ミトラが変身した神)と牡牛を屠り祀る民族であったからです。それに、イスラエル民族は、紀元一世紀に24冊を合本した「旧約聖書」の存在を知らないのです。その合本の原著の多く(モーセ五書)が創作された時代、紀元前六世紀には、イスラエル十部族は歴史上から消えていたからです。
藤原氏の渡来歴史を調べると、その事跡がユダヤ教の事跡と酷似しているのは、藤原氏の祖である南インドから渡来した中臣族が、ユダヤ教徒の流れにあったからです。その根拠として、中臣神道の「塩と水によるケガレ祓い思想」、そして、その祭祀衣装や儀式の多くは、ユダヤ教に酷似しているのです。そして、藤原氏が創作した「日本書紀」の天地創造から始まる記述構成は、「旧約聖書」に酷似しているのです。更に、その「日本書紀」で藤原氏が創作した仏教伝来物語の主人公の「聖徳太子」(厩戸皇子)は、「聖書」のモーセ・ダビデ・キリストの事跡による合成人物であるからです。
ユダヤ文化色が濃い藤原氏が、日本列島古来からの民族ではないことは、三世紀末から七世紀まで続いていた、古墳での埋葬思想をみれば分かるのです。中臣神道では、死者はケガレ物であり、御祓いによりケガレ祓いする汚物的存在なのです。ですから、死者は、汚物のケガレ物として扱われるのです。
しかし、古代エジプトの埋葬思想と同じの、石室で石棺のある古墳での埋葬者は、生前の栄華をあの世でも再生させるため、豪華な装飾品や武具などで飾られて埋葬されていたのです。このことからでも、近畿地域の巨大古墳が、歴代天皇の稜ではないことが分かるのです。何故ならば、藤原氏の歴史では、天皇は「ケガレ祓い」の中臣神道思想で埋葬されていた、とするからです。
藤原氏が、「日本書紀」で創作した初代天皇は、神武天皇です。しかし、その神武天皇の稜は、江戸末期まで確定していなかったのです。
藤原氏の「日本書紀」によれば、神武天皇稜は、「畝傍山の東北の稜」とされているのです。しかし、藤原氏により、720年完成の「日本書紀」の記述の欺瞞性を指摘するために創作された、反藤原氏の秦氏末裔で万葉語学者の多人長により820年完成の「古事記」では、「畝傍山の北」とされているのです。そのように日本の歴史を綴っているとされる「日本書紀」と「古事記」での、神武天皇稜が一致しないため、江戸末期には、神武天皇稜の候補地は六つもあったのです。
しかし、幕末の生麦事件の翌年、攘夷論が最高潮の1863年公武合体を模索する宇都宮藩が中心となり、神武天皇稜の所在地を、橿原市大久保町字ミサンザイに決定するのです。そして、明治初年、1868年神武天皇稜がこの地として認定されたのです。しかし、この地は、百二十戸もある賎民部落があった処で、藤原氏一派により、明治維新にあわせて、幕末に突貫工事をして、神武天皇稜が創作されていたのです。賎民部落の地に、日本国初の神武天皇の稜が認定された意味は、何なのでしょうか。
明治新政府は、江戸時代の歴史文化を多くは引き継いではいないようですが、警察業務でのケイサツ隠語と役座隠語に共通点が多くあるのは何故でしょうか。その理由は、明治新政府は、警察官の多くを薩摩藩から採用していたからです。つまり、役座も薩摩藩士も、その祖は秦氏であったからです。
薩摩の地は、鎌倉時代以前は、藤原氏の荘園である島津荘があった処です。鎌倉時代に、騎馬民族末裔の源氏棟梁となった源頼朝が、平安時代から惟宗氏に変身していた秦氏末裔に、藤原氏の荘園である島津荘を与えたことにより、騎馬民族末裔の惟宗氏が、島津氏に変身して、その地を統治していたのです。そして、明治維新で復活した藤原氏により、島津氏が統治していた薩摩藩士の多くが、明治維新で警察業務についていたのです。
江戸時代の警察機構は、若年寄→与力→同心→岡引・目明、の系列であったのです。しかし、同心までは、江戸幕府の配下であったのですが、岡引・目明は、無給の非公認のケイサツ協力者にすぎなかったのです。
与力とは、「サムライ」が支配していた北条鎌倉時代では、「寄騎・よりき」と言われ、戦闘で騎馬武士(源氏末裔)として加勢するひとのことで、下級武士のことであったのです。その寄騎が、下克上の戦国時代になると、北陸の前田利家のように、寄騎から、在地の領主として出世するのです。ですから、戦国時代の寄騎は、在地の領主の意味であったのです。しかし、1603年騎馬民族末裔の徳川家康が、幕府を開いた時、直参の足軽の全てを、同心と呼んだのです。同心とは、同じ民族ということです。そして、下級武士も同心と呼んだのです。しかし、戦国時代に在地領主となった寄騎は、その同心と呼ばれることを快く思わなかったので、同心より格上の寄騎から与力と呼ばれるわけです。
第三百済王朝の江戸幕府は、町奉行配下の与力と同心に警察業務を任せるために、八丁堀に屋敷を与えていたのです。しかし、エドの町は、徳川家康の指示により、秦氏末裔の弾左衛門一派が開拓した地であったので、エドの町を実効支配した第三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝は、エドの支配権を奪われ、エド払いさせられた秦氏末裔から、攻撃を受けるのです。喧嘩と火事は江戸の華と言われ、火付け強盗が頻繁に起こるほど、第三百済王朝の江戸の町の治安は悪かったのです。
そこで、同心は、私的手先として、無給で岡引や目明(関西では口問い)を使うのです。その岡引や目明は、秦氏末裔の博徒や役座であったのです。何故、博徒や役座が、無給で警察業務に就いたのかといえば、博徒や役座の生業である、博打や芝居興行での町奉行の目こぼしがあったからです。
この岡引や目明の業務をおこなうことを、博徒や役座は、「二足のわらじを履く。」、と言っていたのです。何故、博徒や役座が、警察業務に長けていたかと言えば、博徒や役座の祖は、「サムライ」支配の、第二百済王朝の北条鎌倉時代以前は、秦氏末裔の武士であったからです。その武士の祖は、第一百済王朝の平安時代、怨霊鎮めの「もののふ」で、武芸により、検非違使配下で公安警察業務をおこなっていたのです。
鎌倉源氏棟梁三代を陰謀で抹殺した、第二百済王朝の北条鎌倉政権は、六波羅探題により、源氏狩りをおこない、秦氏末裔の源氏武士を抹殺していたのです。その落武者となった源氏武士は、一部は戦において騎馬武士として、傭兵の「寄騎・よりき」となり、そしてまた、その一部は北条鎌倉政権に逆らうアウトローとなり、北条鎌倉時代を、博徒や役座となり生き延びていたのです。
因みに、役座とは、現代では「暴力団」の代名詞となってしまいましたが、北条鎌倉時代では、神社ネットワークにより同業者組合を組織した「座」を仕切る、闇の世界で警察業務をおこなう「役」のことであったのです。
では、江戸町奉行の同心の私的配下となり、警察業務に携わった博徒や役座を、岡引や目明と言ったのは何故でしょうか。
1590年徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により三河からエドに追放されると、徳川家康は、北条鎌倉時代から関東に棲息していた秦氏末裔の古代エジプト伝承の土木技術を持つ者を集め、エドから小田原まで、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を敷設するのです。そして、その直線道路の保安と治安維持のため、駅舎を造り、宿場町を各拠点に設置するのです。そして、徳川家康は、その宿場町を、役座に無償で管理させるのです。そのかわり、日没後の宿場での売春・賭博営業の目こぼしをおこなったのです。
そして、エドの治安警察は、関東の秦氏末裔を支配していた弾左衛門に委託するのです。しかし、徳川家康の威光が消え、第三代将軍徳川家光が、怪僧天海の指示により、上野の山に天台宗の寛永寺を建立すると、エド町の公安・治安警察を司っていた弾左衛門一派は、徳川家康が三河から関東の湿地帯に追放されたように、エド町の中心地から、浅草寺裏の湿地帯に追放されてしまうのです。
そして、徳川家康の威光が存続していた頃までは、江戸町奉行所に、草履取りを伴って参上していた弾左衛門は、第三百済王朝になると、エド治安警察組織から排除されてしまうのです。そして、弾左衛門は、関八州の「穢多」と呼ばれた秦氏末裔だけに、その警察権と裁判権を与えられたのです。
しかし、第三百済王朝の江戸町奉行所の与力や同心は、江戸町の裏社会の公安・治安警察に未熟なため、前政権の秦氏末裔の者達である博徒や役座を手下として、無給で雇い入れたのです。その見返りが、博打と芝居興行での、江戸町奉行所の目こぼしだったのです。
しかし、その同心配下の目明は、秦氏末裔の自民族を白徒(シロウト)と呼び、そして、第三百済王朝側の者を、黒徒(クロウト)と呼び、日常の警察業務で逆差別していくわけです。
何故、目明と同族が白徒というのかと言えば、秦氏は太陽神ミトラを祀る民族で、そのシンボルカラーが「白色」だったからです。では、黒徒とは何かと言えば、それは、徳川家康の菩提寺の浄土宗の影響力をエドから排除した天台宗の僧侶は、黒衣の一団だったからです。つまり、太陽信仰民族が「白徒」で、仏教信仰民族が「黒徒」だったのです。
現在では、「シロウト」と「クロウト」との意味が変わってしまっていますが、江戸時代では、権力者は、そのように宗教思想を利用して異民族を弾圧していたのです。
目明は、日常での白徒と黒徒との諍いでは、当然、同族の白徒を優遇していたのです。そこで、第五代将軍徳川綱吉は、秦氏末裔の勢力を削ぐ目的として、1687年生類憐みの令を発布するのです。この生類憐みの令は、徳川綱吉が1709年死去するまで、何回も発令されていたのです。
この発令により、秦氏末裔の生業は疲弊してしまうのです。それは、秦氏末裔の祖は、騎馬民族であるから、当然、農耕民族が稲を刈った後に、藁で草鞋を作るように、死弊牛馬の毛皮を剥いで、なめして皮から革を作っていたのが、この生類憐みの令により、公にはできなくなってしまったからです。
更に、その生類憐みの令の内容がエスカレートして、犬を虐待したと言って死罪となった者が多くいたのです。そして、その令に違反したとして、八千人とも三千人とも云われるひと達が囚人となっていたのです。
この生類憐みの令は、五代将軍徳川綱吉が死去すると、すぐに廃止されたのですが、秦氏末裔には、思想的に大打撃だったのです。それは、動物の皮を剥ぐことは、公に「悪」となってしまったからです。騎馬民族末裔の秦氏末裔が、動物の皮を剥ぎなめし革を作っていたことで、ケガレ者の意味の穢多と呼ばれ、賎民とされたように、秦氏末裔の武人を祖とする「もののふ」である「武士」も、「サムライ」が支配する第三百済王朝の江戸幕府時代になると、「俘囚の末裔」と蔑まされてしまうのです。
そのように、天台宗の怪僧天海が画策した第三百済王朝の勢いが増すと、騎馬民族末裔の徳川家康の威光により勢力をエドの町で張っていた、秦氏末裔の社会的存在が低下していくわけです。関八州の秦氏末裔の棟梁である弾左衛門が、江戸時代初期に、二本差しの羽織袴で籠に乗りエド城に登城していた時代が「ウソ」のように、第三百済王朝の江戸時代では、秦氏末裔は賎民「穢多」として位置づけられていたのです。
そのことは、第八代将軍徳川吉宗が、同心の私的配下の目明を、岡引と呼んだことで分かるのです。目明とは、その文字の意味から、日常の出来事を見聞きして明らかにする公安・治安警察業務内容であることが分かるのです。しかし、目明を、岡引とした意味は何だったのでしょうか。勿論、岡引は、尊称ではなく、蔑称です。
岡引の、岡の意味を探れば、お祭りで「馬鹿」にされる存在の「ひょっとこ」と「おかめ」のペアが居ます。「ひょっとこ」とは、「火男」のことで、産鉄民族末裔の蔑称です。そして、「おかめ」とは、「岡女」で、岡に住む「女」の蔑称です。そして、第八代将軍徳川吉宗は、秦氏末裔の勢力を削ぐ目的で、岡引の生業のひとつである、お祭り時の神社境内での屋台の出展を禁止してしまうのです。その神社でのバザール(屋台)ビジネスは、オリエントから渡来の秦氏の祖が、ユーラシアで活躍していた頃、騎馬民族の商業手段(バザール)として、野外のテントでの商業活動が源であったのです。
では、その「岡」とは、何を意味しているのでしょうか。「岡」の対称語は、「陸」です。その「陸」は、「ろく」とも云われ、「ろくでなし」の「ろく・陸」でもあるのです。「陸」は、「ゆがみなく正しい。」の意味があります。ですから、「陸でなし」の「岡」は、「ゆがみがあり正しくない。」の意味となります。つまり、「陸」でない「岡」は、「闇の世界」の隠語となるわけです。
では、「岡」とは、何処にあるのでしょうか。「岡」は、土地の小高い所であり、小山の意味です。小山は、古代エジプト語で、「ナーベ」です。
古い神社の多くは、こんもり茂った木々のある小山の上に建立されています。何故、そのように神社が、小山の上に建立されていたのかは、それは、その小山とは、塚であったからです。塚とは、土の家で、古代の墓であったのです。つまり、神社のある小山は、古墳であったのです。
古代の神社は、神を祀る施設ではなく、死後再生すると信じる民族により葬られた、古墳に眠る前政権者の霊を封印する施設であったのです。神社の日本列島での出現が、日本列島古来からではないことは、三世紀末から七世紀まで続いた古墳時代以降であるからです。神社が日本国古来の宗教施設ではないことは、古墳の上に建立されていることで理解できます。
神社が、霊を封印する施設から、神として祀る施設となったのは、菅原道真が、901年藤原氏の陰謀により大宰府に左遷させられ、903年大宰府で死去し、菅原道真の怨霊が雷神となって、百済系醍醐天皇が統治する平安京を、落雷で襲ったことにより、923年菅原道真を本官に服し、947年祠を北野に建立して「神」として祀った頃以降からなのです。
神社に封印された小山に住む民族は、奈良時代には唐進駐軍傀儡の藤原氏に、そして、平安時代には、独断専行の藤原氏を見限った唐進駐軍傀儡の百済系王権に追われた民族で、それらは農耕民族ではなく、騎馬民族や産鉄民族であったのです。それらの民族の末裔が住む小山は「岡」とよばれ、「ろくでなし」が住む処となっていたのです。つまり、岡引とは、「闇の世界の者」、との蔑称であったのです。そして、岡場所とは、幕府公認の遊郭ではなく、非公認の私設遊郭のことであったのです。
歴史教科書で、日本列島史を勉強しても、真の日本列島史を知ることはできないでしょう。それは、日本の古代史を探るために、「古神社」にある古文書を調べることと同じです。それは、神社は、日本列島古来からの宗教施設ではなく、七世紀以降の出現であるからです。
645年以降に日本列島の歴史を乗っ取った藤原氏と、794年以降に日本列島史を乗っ取った亡命百済貴族末裔により、四世紀頃に南インドから南九州坊津に渡来した中臣族を祖とする藤原氏と、663年母国を新羅・唐連合軍により滅亡させられた百済系日本人には不都合な歴史は隠蔽、或いは、改竄しているからです。それに対して、オリエント文化・巨石文化の飛鳥時代に近畿一帯を支配していた騎馬民族の歴史は抹殺するか、或いは、紀元前六世紀の釈尊の仏教思想とは百八十度異なる、紀元一世紀に国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教思想を改竄した漢訳仏教思想の血・肉食の禁忌により、不可触賎民史として描いているからです。
藤原日本史が、真実(表歴史も裏歴史も同等に述べるの意味)の日本列島史を述べていないことは、先程の「岡」について納得できる説明が、歴史教科書にはないことで理解できるでしょう。そして、岡場所の遊女の名が、何故、「源氏名」と言うのかの説明も、歴史教科書にはないでしょう。
藤原日本史が真の源氏の歴史を述べないのは、源氏の歴史を述べると、平安時代の陸奥国を支配していた蝦夷の実態を知られてしまうからです。蝦夷とは、縄文時代以前から日本列島に居住していたアイヌ民族を祖とする民族ではなく、オリエント文化の飛鳥ヤマトでの軍事部族末裔であったのです。
その蝦夷の祖は、552年中央ユーラシアに騎馬民族国の突厥帝国を建国した、チュルク族トメン(土門)であったのです。その突厥帝国軍団が、六世紀中頃、日本列島の近畿に渡来して、高句麗・百済・新羅の進駐軍が三つ巴の戦いをしていた飛鳥ヤマトを、騎馬軍団により軍事支配したのです。その頃の歴史を、藤原日本史では、架空の天皇である欽明天皇が統治する大和朝廷とし、渡来したその突厥帝国軍団の長を、大臣の「蘇我稲目」とするわけです。しかし、その頃には天皇は存在していなかったのです。つまり、日本列島での初の天皇は、672年即位の新羅系天武天皇からであったのです。
そして、藤原日本史は、オリエントから渡来した牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏の存在を抹殺するために、三世紀末に河内湾の岬(ワタ・ナーベ)に渡来し、河内一帯に石室と石棺による古代エジプトの埋葬思想で古墳を築いていた、オリエント渡来の技術集団の「秦氏」を「物部氏」とし、隠蔽するのです。その突厥帝国軍と秦氏の軍事部族が、645年唐進駐軍と中臣軍(藤原氏の祖)に破れ、鈴鹿の関を越えて、東北に逃げ延びた者が、唐進駐軍により、蝦夷(ヒゲのあるエビス)と蔑称されたわけです。
江戸時代、その蝦夷末裔がおこなう売春事業で、何故、遊女名を「源氏名」と云うのかと言えば、それは、騎馬民族末裔である源氏末裔の徳川家康が天下を執った後、売春事業を源氏末裔に限ったからです。
売春は、戦国末期、イエズス会傀儡の織田信長と、騎馬民族末裔の徳川家康とが軍事協力し、近畿一帯の経済・文化を実効支配していた、比叡山延暦寺を焼討ちし、僧兵軍団を壊滅するまでは、治外法権の仏寺内でおこなわれていた事業だったのです。その漢訳仏教の三大裏事業であった売春・賭博・借上(高利貸し)は、アウトローの役座が発明したものではなく、漢訳仏教が隆盛していた奈良時代まで遡れるほど、由緒正しい(?)事業であったのです。
藤原日本史では、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトの史実を知られたくないため、「騎馬民族は日本列島に渡来していない。」、とするようですが、古墳から多く出土する馬埴輪や馬具をどのように説明するのでしょうか。
騎馬民族の日本列島への渡来否定者の根拠として、「肉食民族である騎馬民族が渡来していたならば、何故、食糧とした獣の骨が生活圏内から出土しないのか?」、があります。その答えとして、騎馬民族は、食糧とした獣の骨も大切に消費するために、「骨粉」として利用していたからです。江戸時代、骨粉を農業の肥料として生産していたのは、明治維新後に廃仏毀釈で仏寺を徹底的に破壊していた、大坂と鹿児島で、それらは、秦氏末裔が多く暮していた地域だったのです。
そして、平安貴族を太刀(反りのない刀)で武装しガードする、百済系武人の「サムライ」が騎馬に優れていなくて、それに対して、平安中期(天慶の乱)に出現した源氏武士が騎馬による集団戦闘に優れていたことを、どのように説明するのでしょうか。更に、、実戦的でない、大きな角のある冑と豪華絢爛な鎧で、曲がる折れる刃毀れする片刃の反りのある「日本刀」を、「もののふ」と云われた源氏武士が携帯していたのは、何故でしょうか。それらのことについての納得できる説明は、何故か、藤原日本史にはないのです。藤原日本史に隠蔽・改竄された騎馬民族の日本列島史は、どのような歴史であったのでしょうか。その騎馬民族や秦氏の歴史を知るヒントは、エド文化にあるようです。
「エド文化」と「江戸文化」との明らかな違いは、その葬儀にあります。葬儀は、その民族文化の中枢だからです。
エド文化とは、徳川家康が、関東の湿地帯(穢れ地→穢土→エド)を干拓して拓いた地に起こった文化です。それらは、徳川家康の移転元の「三河文化」を引き継いでいたのです。 三河には、革製造技術者の「カワタ」が多く暮していたように、騎馬民族末裔の文化を引き継いでいたのです。騎馬民族には、「勇者は再生する。」、と信じられていたので、死者は火葬ではなく、土葬だったのです。
しかし、徳川家康の威光が消滅し、百済系天台宗の怪僧天海が、その本性を現した、1623年第三代目将軍徳川家光を傀儡とした、第三百済王朝になると、1637年島原の乱により、キリシタンの弾圧に掛かるのです。それは、キリシタンは、戦国末期の1573年イエズス会傀儡の織田信長により、天台宗の総本山である比叡山延暦寺を焼討ちし、その僧侶と寺内にいた娘(女色用)や茶坊主(男色用)全てを惨殺していたからです。更に、織田信長は、仏教組織の経済基盤を破壊するために、延暦寺の利権であった、市と座を開放し(楽市楽座)、寺関所を撤廃していたのです。そのように、天台宗にとって、キリシタンは仇敵だったのです。この織田信長の処置により、貴族並みの生活を保障されていた天台宗組織は、他の事業を生活の糧としなければならなくなったのです。そのひとつが、江戸時代に始まる葬儀事業です。
今日では、仏教が、葬儀をおこなうことは、当たり前と思われています。しかし、仏教と葬儀は、江戸時代前までは、貴族にも、一般庶民にも関係が薄かったのです。奈良時代、藤原氏の仏寺興福寺でも、葬儀などおこなっていなかったのです。その頃の仏寺は、文化・娯楽センターのような施設であったからです。
寺の歴史は、死者とは関係がなかったのです。紀元一世紀の中国大陸で、仏教が伝来した頃の寺(じ)とは、外国人のための関税施設であったのです。その寺に、宗教関係者を装った国際交易商人が寝泊まりし、その商売品の仏典や仏像を保管していたのです。やがて、その寺(じ)施設が、中国大陸から日本列島に渡来して、「テラ」となるのは、寺(じ)が、死者が眠る処となってからです。それは、「テラ」の意味が、死者の眠り処で、あるからです。
そもそも、紀元前五世紀に仏教を発明した釈尊の思想には、葬式などなかったのです。それは、「ひとは身分により輪廻転生する。バラモンはバラモンとして、不可触賎民は不可触賎民として転生する。」、とするバラモン教のバラモン僧に都合の良い思想に対抗した釈尊は、二度と輪廻転生しない方法を発明したのです。
それが、この世とあの世との中間で暮らす、「非人」の発明です。「非人」は、生きていても、ひとではありませんから、死んでも輪廻転生などしません。そして、一切の生産手段に携わらないことで、バラモン僧が支配する人間社会のシガラミから解放される、「乞食」の生き方を発明したのです。
釈尊の生き方の思想は、簡単だったのです。それは、「非人」となり、「乞食」するだけでよいからです。しかし、釈尊の死後五百年して、知恵者が現れて、この世には「欲、色、無色」の三界があり、あの世には「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六道があるとし、ひとは生前の行いにより、死後、それぞれの行き先が決定される、との思想を創作するのです。
そのように釈尊の仏教思想には、葬儀などなかったのです。しかし、バラモン教思想を否定するための釈尊の仏教思想が、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教に乗っ取られると、バラモン教の霊肉分離思想による、霊が遊離した死者は、ただの物質にすぎないため、死者を燃やして川に捨てるインドの葬儀風習が、大乗仏教に導入されていくのです。
第三百済王朝の江戸時代、天台宗の仇敵のキリシタン弾圧のための「宗門改帳」が、1635年寺社奉行の設置と供に、寺請制度として、全庶民はどこかの寺に強制的に所属しなければならなくなっていったのです。寺請とは、寺に登録したことにより、寺がキリシタンではないことを証明することを請け負う、ということです。更に、「宗門人別帳」により、戸主と家族の生まれから死亡までを書き込み、庶民を宗教的に支配したのです。そして、寺の私文書「過去帳」には、戒名まで書き込んでいたのです。
そのように、死者を土葬とするエド文化に対して、仏教思想により火葬する江戸文化に激変した裏には、1651年由比正雪の乱があったからです。この慶安事件は、鎌倉源氏を抹殺した、1221年承久の乱と同じストーリーです。
そのストーリーとは、源氏棟梁三代を陰謀により抹殺した、百済系北条氏は、河内に残存する武家源氏壊滅のため、源氏に反乱を起こさせ(承久の乱)、その残存源氏一族を抹殺していたのです。そして、源氏一族を抹殺した北条政権は、1232年御成敗式目を制定し、源氏武士の武断統治政策から、百済系「サムライ」の文治政治に変換していくわけです。
徳川家康による源氏武士による統治制度を壊滅するため、百済系第三代目徳川家光は、大名の改易政策、お家断絶、領地没収などで、徳川家康の忠臣であった源氏武士末裔を狙い撃ち、抹殺に取り掛かるのです。そして、壊滅できない源氏武士末裔は、江戸から遠方に改易し、1635年参勤交代制を確立し、江戸に人質を捕り、源氏武士末裔の大名の台所を枯渇させていくわけです。
その江戸に人質を捕るために、各大名に江戸に領地を分け与えたのです。そのため、従来から暮していた秦氏末裔やお家断絶させられた武士は、江戸の中心地から追放されるのです。これらの第三百済王朝に不満を持つ浪人武士が、由比正雪の下に集結していくのです。このことに脅威を感じた江戸幕府は、その源氏末裔の浪人集団抹殺の陰謀をおこなうのです。これが、慶安事件です。
慶安事件とは、1651年由比正雪が中心となって、江戸幕府を転覆し、天下を盗る事件として喧伝されています。しかし、江戸幕府を倒し、大坂城を乗っ取ると云われた大ストーリーとしては、実際の捕り物では、駿府の旅籠梅屋で切腹して果てたのは、由比正雪の他十名程であったのです。その事件後、由比正雪の家族、一族郎党はもとより、全国の源氏武士末裔は、理由も無く捉えられ、佐渡金山の穴掘り人夫として送り込まれていったのです。これは正に、百済系北条鎌倉幕府の、六波羅探題による、源氏狩りの再演です。
由比正雪の出自は不明ですが、その父岡村弥右衛門の職業が、紺屋であることから、秦氏末裔の弾左衛門配下であったことが示唆されます。それは、紺屋は、賎民と云われた秦氏末裔弾左衛門一派の限定職であったからです。更に、由比正雪の道場では、槍術を伝授していたことは、ロンギヌスの槍術を伝承する、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)花郎騎士団を祖とする、源氏武士末裔を示唆します。佐渡の槍術は、その由比正雪の弟子が、佐渡に流され、そこで槍術の道場を開いたからだと云われています。
この慶安事件後から、「武士」による武断統治政策から、「サムライ」による文治政治となっていったことは、正に、北条鎌倉幕府と同じです。
百済系「サムライ」に江戸を支配され、その結果江戸から排斥された新羅系「武士」は、浪人身分となり、百済系の徳川家光が第三代目将軍となった、1623年に洛中から追放されていくわけです。そして、1635年参勤交代制を確立した江戸幕府は、百済系将軍の徳川家光に忠誠を尽くす、各国の譜代大名の人質を堀内に住まわせ、江戸城(藤原氏傀儡の豊臣家が徳川家康を侮蔑し命名した蔑称カワタ城→革タ→川タ→センタ→千田→チヨ田→第三百済王朝では尊称千代田城・江戸城に変身)の防備を固めるわけです。その結果、三河文化のエド時代(1590年〜1623年)では寒村であった処が、百済系日本人が支配した江戸時代(第三百済王朝)になると、参勤交代のために各国から「サムライ」が江戸に移住して来たために、人口が急激に膨張し、庶民が暮らす土地が少なくなっていくわけです。その異文化を持った日本各地から移住してきた新住民が暮らす、江戸の治安機構はどのようになっていたのでしょうか。
歴史教科書での説明では、江戸のピーク人口が百万であったと述べています。そして、江戸時代の約三百年間は治安が安定していたと述べています。しかし、治安の最高責任者である町奉行は、南北奉行がひと月交代の月番制で、町奉行の下に25人の与力(鎌倉時代では寄騎と云われ、騎馬による傭兵。与力は、治安警察業務で騎馬を許されていた。200石程の御家人。)と、その下に200人程の同心(30俵5人扶持で、治安警察業務で騎馬を許されていない。)と、同心の私的配下の目明(岡引)で、百万都市の江戸の治安を護っていたのです。
何故、火事と喧嘩は江戸の華と言われた治安状態が悪い江戸の町を、幕府の月番町奉行警察組織人員が300人程(南北奉行要人合わせると600人程)で江戸の治安を護ることができたのかの納得できる説明は、歴史教科書にはありません。
江戸の町の治安が約三百年も維持されていたのは、同心の私的配下の目明(=岡引・実態は博徒と役座)の活躍と、町人の住む居住地に木戸を設け、門限を付けていたからです。三代目将軍徳川家光の時代では、治安維持のため、その門限は、暁九つ(午前零時)から明六つ(午前六時)であったものが、治安の悪化と供に、夜四つ(午後十時)から明六つとなり、更に、夜五つ(午後八時)が門限となっていたのです。
その江戸町の庶民が住む長屋を、板塀で囲い、木戸を設け、その門限を限り、夜の外出禁止をしていたことは、江戸町の住民は、東洋の「ゲットー」(被差別民族の居住地)に暮していたわけです。そして、その長屋での一世帯の居住面積は、間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)であったのです。
その木戸で門限を取り締まる木戸番は、江戸幕府の町奉行の要人ではなく、「番太」(「○太」の「太・タ」とは、蔑称のための接尾語)と云われる、江戸幕府から賎民秦氏末裔であると云われた弾左衛門の配下であったのです。実際の江戸町の公安・治安警察業務の末端は、第八代目将軍徳川吉宗の時代、1718年南町奉行の大岡忠相(越前守)がとび職人を組織して町火消しの制度を定め、1720年江戸町火消しいろは組の創設までは、秦氏末裔の博徒や役座などのアウトローが取り仕切っていたのです。
長吏頭弾左衛門(王権は穢多頭とする。)を頂点としてエド町を支配していた騎馬民族である秦氏末裔を、江戸町警察業務からの排除を画策する八代目将軍徳川吉宗は、無給の私的警察官である目明制度を廃止するだけではなく、江戸町末端の公安・治安警察業務からも、秦氏末裔を排除してくのです。これ以降、江戸町での警察業務に携わっていた目明は、岡引と蔑称されていくわけです。
子供の遊戯のカルタにある、「犬も歩けば棒に当たる。」という一文があります。この一文の表(おもて)の解釈では、「物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。」と云われています。しかし、藤原日本史ではなく、野史による解釈では、「たとえ番太と同族の、秦氏末裔(騎馬民族であるため、王権より「犬」と蔑称されていた。)であっても、門限を破る者は、目こぼしをされずに番太の棒で殴られるお仕置きにあう。」、との秦氏末裔への戒め文となるのです。
では、エドの三河文化は、江戸文化により乗っ取られてしまうのですが、その江戸文化のルーツは何でしょうか。各民族の文化の中心は、葬儀にありますが、日常の生活様式にも文化があります。
江戸時代も中期となり、エド町を拓くために多大な援助をしていた秦氏末裔の弾左衛門の威光も、騎馬民族末裔の徳川家康が百済系天台宗の施設である日光に祀られたことにより、騎馬民族文化や三河文化であったエド時代の歴史が抹殺されてしまったことにより賎民に落とされた、六代目弾左衛門(弾家は、世襲名で、明治維新と供に第十三代で消滅した。)は、幕府に書状を提出し、鎌倉幕府を開いた源氏棟梁であった源頼朝よりのお墨付きにより、秦氏末裔の長吏頭弾左衛門の由緒の正しさを述べるのです。
源頼朝の鎌倉時代からの弾左衛門の配下であったのは、長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋などです。
しかし、それらの多くの配下は、弾左衛門の権勢を削ぐ目的で、石切、髪結、青屋を残し、弾左衛門配下から、三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝になると、順次、全ての技術者が離脱させられてしまったのです。最後に残ったものは、製革業と燈芯草栽培の独占による蝋燭製造業となってしまうわけです。そして、それらの弾左衛門配下から離脱させられた技術者達は、江戸町のゲットーに隔離させられ、江戸時代を生き延びていくわけです。
では、江戸時代の文化の源は、それらの秦氏末裔の文化であったのかと言えば、そうとも言えないようです。それは、江戸物品文化の一役を担う商売人の経営者の多くは、京都本店からであったからです。
徳川家康の忠臣であった「武士」が、1623年エド町から浪人身分で追放され、弾左衛門一派も人形町などのエド町の中心地から、浅草寺裏の湿地帯に追放された後、日本橋界隈には、京都を本店とする越後屋や伊勢屋などが出店してくるのです。そして、それらの京都からの商人は、エド時代の商品や技術を、「くだらぬもの。」、と蔑視していくのです。
「くだらぬもの。」とは、江戸町からの上方、つまり、京都から下ってきた商品や技術ではない、との意味です。この「くだらぬもの。」の言葉の本来の意味は、第一百済王朝である平安時代、「百済ではない者」、つまり、「皇族ではない、下賎な者」の意味であったのです。
794年唐進駐軍の軍事的支援により、秦氏の支配地である山背国と比叡山を乗っ取った、亡命百済貴族末裔は、814年「新撰姓氏録」を創作し、亡命百済貴族を「皇族」とし、南インドから渡来した祭祀氏族中臣族を祖とする藤原氏を「神族」とし、そして、オリエントから渡来し、河内一帯に古代エジプトの埋葬思想により巨大古墳を築いていた秦氏を「蕃族」として、民族差別をしていたのです。
江戸町の商業を支配していたのは、その京都を本店とする日本橋の商人であったのです。江戸文化の象徴と云われる歌舞伎も、その発生は京都であったのです。江戸時代初期、1603年(慶長8年)京都の五条河原や北野神社境内で、出雲大社の巫女と称する阿国という女性が、男装して舞ったものが、阿国歌舞伎(ややこ踊り)の発生といわれています。
江戸時代初期では、歌舞伎の「かぶく」とは、社会の常識からはずれた言動をすること、と言う意味であったのです。「おんな」が、「おとこ」のいでたちで舞う姿は、正に「かぶく」ことであったのです。
この「かぶき」の舞が、京の街で評判と成ると、遊女たちにより、四条河原でおこなわれていくのです。そして、この遊女歌舞伎には、三味線が演奏に加わっていくのです。この遊女歌舞伎が、江戸町に下って、江戸町でも遊女歌舞伎が盛んになると、風紀が乱れたことにより、江戸幕府より、遊女歌舞伎の禁止となるのです。その裏には、若い男歌舞伎役者と大奥の女との「不適切な交際」が幕府の知るところとなり、それが、1714年の絵島事件と云われるものです。それは、歌舞伎興行では、表では、「歌舞伎芸」を売っていたのですが、裏では、若い女役者や男役者は「からだ」も売っていたからです。
遊女歌舞伎が、江戸幕府より禁止されると、次には、若衆歌舞伎がおこなわれていくのです。これは、若い男による舞だけではなく、軽業も加わるのです。しかし、裏では、「男色」をおこなっていたのです。この裏芸が江戸幕府に知られると、1652年若衆歌舞伎も禁止されるのです。
そこで現れたのが、中年男による野郎歌舞伎で、女形が生まれるわけです。舞を踊るのが中年男なので、裏芸で「女色・男色」を売れなくなったので、芸に工夫を凝らし、中国京劇の派手な厚化粧技術を真似、そして、寸劇から劇的世界を表現するために、衣装や大道具に工夫を凝らし、時空の移動を表現するために引き幕が用いられ、元禄15年(1702年)歌舞伎の基礎が完成し、今日の歌舞伎に至るわけです。
しかし、京都で発生した歌舞伎は、京都では廃れ、そして、大坂では人形浄瑠璃の隆盛により衰退し、今日、江戸歌舞伎だけが生き残っていくわけです。
江戸歌舞伎が生き残ったのは、初期の歌舞伎舞台は、能と同じ舞台を用い、楽器は小鼓、大鼓、太鼓だけであったのが、倹約を奨励する享保の改革において、謡いを加え、歌舞伎舞台には、セリ上げや廻り舞台の工夫もしていたからです。
江戸文化の華といわれた歌舞伎のルーツも、京都にあったのです。では、江戸っ子文化のルーツは何であったのでしょうか。
江戸っ子と言えば、粋な啖呵を切り、竹を割ったような性格で、勧善懲悪思想で、人情に厚く、涙もろい、とのイメージがあります。そのような性格イメージを持つ江戸っ子文化のルーツは何処にあるのでしょうか。
江戸は、徳川家康が1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により三河から関東に追放され、その湿地帯を干拓、そして、開拓する以前は、荒川や利根川などの支流が流れ込む河口の湿地帯であったのです。その湿地帯を、古代エジプト伝承の高度土木技術により、駿河台の小山を切り崩し、堀を造るために削掘した残土で、湿地帯を埋め、住宅地としてきたのです。
ですから、江戸城は、海抜十mの人工山の上に築かれていたのです。室町時代末期に、太田道灌が築いたエドの砦は、広大な湿地帯の海抜2.5メートルほどの小山にあったのです。つまり、江戸の町は、十七世紀に突然現れた、人工の町であったのです。
その湿地帯を干拓してエド町を造り、そこに、最初に移住してきたのは、三河の徳川家康の家人や配下と、そして、土木事業をおこなった、秦氏末裔の弾左衛門配下の者達であったのです。
では、その者達が、江戸っ子のルーツかと言えば、そうではないのです。誰が決めたのかは不明ですが、「三代続いて初めて江戸っ子」の掟があるからです。江戸っ子の定義としては、河口付近の開拓地、日本橋、浅草、神田などの居住地に、三代続いて暮していた者が、純粋な江戸っ子である、とするのです。しかし、江戸っ子が住む江戸町の境界線は曖昧であったので、川柳では、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠われていたのです。
三代先の先祖が、その江戸町に暮していない場合は、その子孫は江戸っ子ではないのです。その江戸っ子の定義によれば、三河から移住していた者達と、エド町を造った秦氏末裔の弾左衛門一族は、江戸っ子ではないのです。それは、1623年に江戸幕府三代目将軍に就任した徳川家光により、それらの者達は、エド町の中心である日本橋、神田界隈から追放されていたからです。
そして、新たにそのエド町の中心地に移住してきた者達を初代として三代目以降が、江戸っ子と言うわけです。では、その江戸っ子のルーツは、何処であったのでしょうか。そのヒントは、江戸っ子文化の中枢である「粋・いき」思想にあるようです。その「粋」思想は、京都文化の中枢である「粋・すい」思想からの借り物なのですから、江戸町文化には、京都文化の影響が認められます。
三河文化・秦氏末裔のオリエント・騎馬民族文化であったエド町ではなく、江戸町文化のルーツは、京都だったのです。それは、1625年東の比叡山である上野の山に、東叡山寛永寺が、建立されていたことからでも分かります。そして、百済系天台宗の怪僧天海が設計した江戸町が京都のコピーであることは、江戸町の宗教拠点である上野の寛永時が、比叡山延暦寺のコピーであるからです。それに、上野の不忍池とは、琵琶湖のコピーであるからです。
788年亡命百済貴族の命により最澄が、比叡山に延暦寺を創建したのは、そこが、京都を護る鬼門であったからです。794年からの京都と同じように、1623年より、百済系の第三代目将軍徳川家光により、江戸町は、百済系日本人により支配されてしまったのです。
その江戸町を漢訳仏教思想で支配していた中心的存在の寛永寺は、1571年イエズス会傀儡の、アラブ系海洋民族末裔を祖とする「平家」末裔(「平氏」はツングース系亡命百済末裔武人)の、漢訳仏教組織に賎民「余部・あまべ=海部」とイジメられていた民族末裔の織田信長と、騎馬民族末裔であるため漢訳仏教組織により「穢多」とイジメられていた民族末裔の徳川家康との連合軍により、徹底的に破壊されたように、江戸時代末期、藤原氏傀儡の薩摩藩を中心とした官軍の指揮官、漢訳仏教組織に「穢多」と歴史的にイジメられていた秦氏末裔の西郷隆盛により、上野の山の寛永寺は、徹底的に破壊されたのです。
その寛永寺とは、ひとつの寺院を言うのではなく、上野の山に無数に存在した寺院群の総称であったのです。その上野の山の寛永寺は、第三百済王朝の宗教を支える拠点であったので、その第三百済王朝を支える宗教施設が壊滅したことにより、1867年明治維新により、奈良時代、そして、平安時代の一時期を支配していた、ユダヤ教に酷似した儀式、祭祀衣装の中臣神道を祀る、ユダヤ系藤原王朝が復活するわけです。
その復活藤原氏が、百済系天台宗の漢訳仏教儀式に替え、国家神道儀式を発明するわけです。その国家神道を支えるために明治天皇が行った十三の儀式の多くは、日本列島古来からの儀式ではなく、明治初期に発明された儀式であったのです。そもそも、日本神道は、漢訳仏教渡来後の七世紀以降に、藤原氏の祖である、南インドのマラバル沿岸より南九州坊津に渡来した中臣族により発明されたものだったのです。
では、江戸時代の文化が、全て京都文化のコピーであったのかと言えば、そうではないのです。江戸文化の中核には、エド文化が生きつづけていたのです。そのエド文化のルーツは、日本列島史のルーツでもあるのです。
日本国の伝統文化と言えば、それらは、「能楽」の他に、「茶道、華道」などの「道」がつく文化があります。何故、日本伝統文化と云われるものの多くは、「○道」と言うのでしょうか。
日本伝統文化といわれているものの多くは、第二百済王朝の北条鎌倉時代に漢訳仏教組織により、騎馬民族を蔑視するために、インドの賎民思想である遊牧民族トラヴィダを賎民に落とすために発明された「不可触賎民チャンダラー」(施陀羅)から、穢れが多い意味の「穢多」を発明されイジメられた秦氏末裔により、1333年秦氏末裔の源氏足利尊氏が百済系「平氏」の北条鎌倉幕府を倒し、「源氏」が支配した室町時代に開発されたものであったのです。
それらの日本伝統文化を開発した者の多くが、「阿弥」を名前に付けるのは何故でしょう。いったい、その「阿弥」とは、何を意味しているのでしょうか。
「阿弥」と言えば、「阿弥陀様」を思い浮かべるでしょう。その阿弥陀様とは、一般的常識では、仏教の仏様のひとりであると信じられています。しかし、その阿弥陀様は、漢訳仏教組織に導入される前は、古代エジプトの「太陽神アトン」であったのです。それは、アトン(古代エジプト)→アミ(バクトリア)→阿弥陀(中国)と変化していったのです。
紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラは、紀元前三世紀のギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年。秦(紀元前221年〜紀元前206年)の始皇帝の母国)の地にあったのです。そのバクトリアには、ギリシャの哲学者プラトン一族のように、王権により迫害された学者や宗教関係者が、古代エジプトのアレキサンドリアからの亡命民として多く暮していたのです。ですから、紀元一世紀その地で発明された大乗仏教には、古代エジプトやギリシャの宗教思想が色濃く写し摂られていたのです。
釈尊は、輪廻転生思想でチャンダラー(施陀羅)をイジメるバラモン教思想を否定するため、バラモン教の宣伝道具である偶像の崇拝を否定するために、仏像の制作を一切禁止していたのです。
しかし、釈尊が没した五百年後に発明された大乗仏教では、釈尊の言葉を綴ったとされる仏教経典をギリシャ語(紀元一世紀に合本された「聖書」は、ヘブライ語やアラム語ではなく、ギリシャ語で創作されていた。「法華経」と「マタイの福音書」が瓜二つなのは、その原著がガンダーラでギリシャ語で著述されていたからです。)で創作し、そして、大乗仏教の宣伝キャラクターとして、ギリシャ彫刻技術を駆使して写実的なギリシャ系仏像を創作するのです。
その台座にある蓮華台とは、古代エジプトの太陽神アトンの化身のひとつである「蓮」からの導入であるのです。朝日が昇ると同時に開花する「蓮・ロータリー」は、古代エジプトでは太陽神の化身であったのです。
そのような観点から大乗仏教を眺めてみると、江戸時代、第八代目将軍徳川吉宗の時代に同心の私的警察官である「目明」を、「岡引」と蔑称し、その岡引である博徒や役座の秦氏末裔を、自警団組織である江戸町火消いろは組を創設して江戸町警察組織中枢から排除し、騎馬民族の秦氏末裔の弾左衛門一族も、漢訳仏教思想の血・肉食の禁忌により「穢多」としてイジメていた時代に、秦氏末裔が多く住む大阪の醤油屋の富永仲基は、「出定後語」で、お経の文言を研究しているうちに、その矛盾に気づき、後人が先人の説に自説を加えてお経を創作したとの「加上説」を唱えたのです。そして、結論として、大乗仏教の経典の全てには、「釈尊のお言葉はない。」、と唱えたのです。
そもそも、経典の原著がサンスクリットで書かれるはずはなかったのです。サンスクリットは、バラモン僧が使う言語であったので、そのバラモン教思想を否定する釈尊は、小乗仏教組織が伝承している、パリー語を使って説法を解いていたからです。では、大乗仏教はどのようにして、漢訳仏教に変身したのでしょうか。
釈尊の仏教思想の原点は、バラモン教思想の否定です。バラモン教の教えでは、ひとのこころの奥底には「アートマン」という生死を越えて変わらない非物質があり、生き死にも、生まれ変わりも、そのアートマンによる、と言うのです。その輪廻転生するアートマンの存在を、釈尊は「非人」思想で否定したのです。
紀元一世紀、そのバラモン教のアートマン思想が、中国に渡来すると、そのアートマンを「我」と訳すのです。ですから、釈尊の「非人」思想は中国では、「無我」思想となるわけです。
釈尊の輪廻転生を否定する「無我・非人」思想は、三世紀になるとバラモン僧ナーガルジュナ(龍樹)により、釈尊の「無我」思想を「この世のすべては、互いに関連し合って成り立ち、ひとつとして永遠不変なものは存在しない。それが私の法(ダルマ)の基本である。」と拡大解釈され、そこからインド数学思想の「0・ゼロ」から、「無我」から「空」思想を発明するわけです。
そのナーガルジュナの「空」仏教思想が、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩摩羅什が、北方の騎馬民族に苦しめられていた農耕民族の王に迎合して、騎馬民族への蔑視語のバラモン教の肉食民族蔑視思想の不可触選民の「チャンダラー」を、「施陀羅」と漢訳し、無数に創作されていた仏典にちりばめてしまうのです。ですから、鳩摩羅什により漢訳された漢訳仏教経典には、肉食する騎馬民族を蔑視する「施陀羅」などの民族差別語が盛り沢山あるわけです。
その騎馬民族差別語が沢山ある漢訳仏教が、中国大陸北方を支配する騎馬民族国家の突厥帝国(552年〜630年)を粉砕した唐進駐軍により、645年飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国進駐軍が壊滅させられることにより、日本列島に伝来するわけです。
騎馬民族国家の突厥帝国のコロニーであった飛鳥ヤマト政権が壊滅した645年以降、その唐よりもたらされた騎馬民族差別語がちりばめられた漢訳仏教が日本列島にもたらされると、中臣族から変身した藤原氏、そして、亡命百済貴族は、古代オリエントから渡来し、古代エジプトの埋葬思想を用いた石室・石棺を内蔵した巨大古墳を築造していた、ギリシャ文化継承国バクトリアを祖国とする秦氏をイジメる道具として利用していくわけです。
仏教伝来は、藤原不比等が創作した720年完成の「日本書紀」では、552年伝来(亡命百済貴族は538年を主張。)とするのですが、それは「ウソ」であることは、その仏教布教のキーマンである「厩戸皇子」(亡命百済貴族により「聖徳太子」となる。)の存在が疑わしいからです。
それに、538年から552年の飛鳥ヤマトは、突厥帝国進駐軍の支配時代であったのです。その根拠として、飛鳥ヤマトの男王の「アマタリヒコ」が、遣隋使「ソインコウ」(「日本書紀」では小野妹子。ソ「蘇」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国「新羅・秦羅」の古語。ソインコウとは、「秦羅のインコウ」の意味。)を隋に派遣し、その返礼に、608年隋使裴清(「日本書紀」では裴世清)が、飛鳥ヤマトに渡来し、男王「アマタリヒコ」に謁見したと、隋の煬帝に報告していたのです。
812年秦氏末裔の万葉語学者の多人長が「古事記の暗号」で推古天皇以前の日本列島史を否定していたように、「日本書紀」で述べている、608年の飛鳥ヤマトには、女帝推古天皇など存在していなかったのです。
日本国の伝統文化を調べると、飛鳥時代の元風景が思い浮かぶのです。その伝統文化とは、「能楽」です。
第二百済王朝の北条鎌倉幕府を、1333年に倒した、秦氏末裔の源氏足利尊氏は、百済系天皇の後醍醐天皇を吉野に追放すると、ここに王権が、後醍醐天皇の吉野朝廷と、足利尊氏が征夷大将軍となり傀儡天皇を支配する京の朝廷(後の室町幕府)とが並存するのです。この南北朝は、1392年南北合体し、室町政権が確立するわけです。
北条鎌倉時代、騎馬民族蔑視思想を内在している「法華経」思想を布教する比叡山延暦寺で学んだ学僧により発明された、鎌倉仏教組織の浄土真宗や日蓮宗などの新興仏教思想により、平安初期に錬金術師空海により仏教国唐よりもたらされたインドのバラモン教思想の「施陀羅悪人ナリ」の真言から、騎馬民族末裔は肉食することから、ケガレが多いの意味で「穢多」の騎馬民族差別語が発明されるわけです。
北条鎌倉時代にその民族差別語によりイジメられ、山奥に隠棲していた秦氏末裔が、秦氏末裔の源氏足利氏が天下を盗り室町幕府を開くと、山から里に下りて来るのです。そのことにより、漢訳仏教文化と異なる文化の華が咲くわけです。
1402年秦氏末裔の世阿弥は、能楽書の「風姿花伝」を著し、その中で、能楽の祖は秦河勝であると述べるのです。世阿弥の「阿弥」とは、太陽神アトンのことです。芸能者の多くが「阿弥」を名前に付けるのは、太陽神信仰民族であることを主張していたのです。
その能楽の祖秦河勝は、「日本書紀」の仏教伝来物語に登場するのです。その秦河勝は、聖徳太子の忠臣で、弥勒菩薩を安置する寺である広隆寺を建立したことになっているのです。
しかし、広隆寺は、後の世に再建された寺で、秦河勝が建立した寺は蜂岡寺であったのです。では、その「広隆寺」に安置された弥勒菩薩とは何でしょうか。一般的常識では、弥勒菩薩とは、仏教の仏様と信じられているようです。しかし、弥勒菩薩の遍歴は、太陽神ミトラ(古代ヒッタイト帝国)→太陽神アトン(古代エジプト)→マイトレーヤ(古代インド)→弥勒(中国)→弥勒菩薩(日本)となるのです。
京の広隆寺の弥勒菩薩とは、京の元支配者である秦河勝が、蜂岡寺で祀っていたのは、仏像などではなく、太陽神ミトラ(後に王権により「魔多羅」に変名された。)であったのです。その根拠として、蜂岡寺の遺跡が示すには、仏教建築思想の南北軸に対して、南北軸より西側に約20度傾いていたからです。法隆寺境内から発掘された建物跡も、南北軸から西側に約20度傾いていたのです。飛鳥ヤマト時代に、そのように仏教建築思想と異なる建築基準で建設されていた建物があるのは、太陽信仰民族が、飛鳥ヤマトを支配していた証拠のひとつとなります。
太陽信仰民族は、太陽の再生日である冬至を聖なる日として祀る傾向があったのです。ローマ・キリスト教のクリスマスの日が、太陽神を祀るミトラ教の神の生誕日である「12月25日」であるのは、ローマ・キリスト教がミトラ教の太陽神を祀る儀式を導入していたからです。
では、能楽の祖である秦河勝は、飛鳥ヤマト時代にどのような芸能をおこなっていたのでしょうか。歴史教科書では、秦河勝の芸能を「猿楽」と述べていますが、それは違います。猿楽は、秦氏の芸能を蔑視するために、亡命百済貴族が支配した平安王朝から付けられ「蔑称」です。そして、猿楽とは、秦氏の祭祀の「秦楽」を隠蔽するために発明されたのです。それは、秦楽→しん楽→申楽→さる楽→猿楽となるのです。
では、その秦楽とは何かと言えば、それは、ギリシャ仮面劇を祖とする聖劇であったのです。能楽が能面を付けて霊界物語を語るのは、その祖が、ギリシャ文化継承国バクトリアから渡来したギリシャ仮面劇の聖劇であったからです。
そのバクトリアから渡来した秦氏の芸能民一族は、太陽神を信仰する民族であったので、その末裔は名前に「阿弥」を付けていたのです。その「阿弥」を名前に付ける秦氏末裔は、源氏が支配した室町時代に、能楽の他に、華道、茶道の原型(茶道の完成は戦国時代)、庭園などの文化を開発していたのです。では、日本伝統文化の多くには、「道」が付くのは何かと言えば、それは、仏教組織がそれらの日本伝統文化を蔑視していたからです。
それらの芸能者(「芸」とは、「カミ」を楽しませる技術のこと。)は、仏教組織が蔑視して、「七道の者」と言われていたのです。「七道」とは、漢訳仏教が発明した、死んだら転生すると言う「あの世」、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上(後に極楽)」の「六道」の外の意味であるのです。つまり、「七道」とは、「外道」の意味であるのです。その外道である、非仏教徒の太陽信仰民族による芸能が、仏教徒から「○道」と言われていくわけです。
古代から伝承されている文化や芸能には、藤原日本史を基盤として創作された歴史教科書が隠蔽している多くの史実が隠されているのです。では、エド時代から江戸時代の変換期の文化・芸能には、どのような史実が隠されているのでしょうか。
エド時代から江戸時代に変換された、1623年百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光が、天下を盗ると、暫くして、江戸町の民間に「あそび」が流行るのです。それが、「ひな遊び」といわれる人形遊びです。それは、後に「ひな祭り」となっていくのです。
第三代目将軍徳川家光が、徳川家康の騎馬民族の血筋でないのは、実父といわれる第二代目将軍徳川秀忠が、日光に祀られていないからです。もし、徳川三代、徳川家康、秀忠、家光が同族であるのならば、日光には秀忠を祀る建物があるはずです。しかし、家康の東照宮、そして、孫といわれる家光を祀る大猷院はあるのですが、秀忠を祀る建物は何ひとつ日光には無いのです。第二代目将軍は、浄土宗の芝の増上寺に今も眠っているのです。
もし、第三代目将軍徳川家光が、徳川家康の血筋であるのならば、天台宗系の日光などに自分を祀ることは拒否するはずです。それは、騎馬民族を血・肉食禁忌思想でイジメる「法華経」を布教する天台宗は、騎馬民族の敵宗教だからです。
第三代目将軍徳川家光の出自は不明なのです。(家光は、徳川家康と春日局の子との一説あり。)それは、第二代目将軍徳川秀忠の妻は、戦国時代末期に天台宗の総本山の比叡山延暦寺を焼討ちし、その僧侶全員を打首にしていた、イエズス会傀儡の織田信長の妹の三女お江与であったのです。織田信長の祖は、アラブ系渡来民族末裔の「平家」で、仏教組織から、賎民余部(アマベ・海部)としてイジメられ、三代先信定の墓は、賎民部落の垣外(かいと)にあったのです。
その第二代目将軍徳川秀忠の実子が、第三代目将軍徳川家光であったならば、徳川家康の遺言で建立された質素な日光の「東照宮」を世良田部落に移築し、その跡に、騎馬民族を蔑視する天台宗系怪僧天海の設計による金ピカの日光東照宮など建立するはずはないのです。そして、実父と言われる第二代目将軍徳川秀忠を祀らず、第三代目将軍であるのに、自らを「第二代目将軍徳川家光」として日光に祀るはずはないのです。
その第三代目将軍徳川家光の時代に、突然、「ひな人形」が江戸の町に現れたのです。この謎は、何を物語っていたのでしょうか。
一般的常識の雛人形の歴史は、形代(古代)→天児(あまがつ・男子)・這子(ほうこ・女子)(平安時代)→立雛(鎌倉時代か?)→室町雛(室町時代)→寛永雛(江戸時代)→享保雛(江戸時代)→次郎左衛門雛(江戸時代・京都)→古今雛(江戸末期)→現代雛の流れと説明しています。そして、人形(ひとかた)が、中世の頃、人形(にんぎょう)となり、子供の遊びとなった、と説明しているのです。
しかし、その説明では腑に落ちないのです。それは、形代や人形は、子供の「あそび道具」なのではなく、漢訳仏教を祀る亡命百済貴族が嫌う呪術道具で、病気や災厄をはらい無事を祈る、仏教の敵、道教から発明された陰陽道の宗教儀式道具であったのです。宗教儀式道具を「あそび」に使うと罰が当たるのは、昔も今も同じです。
更に疑問なのは、古代と近代を繋ぐ「室町雛」の存在です。室町雛は、江戸時代の次郎左衛門雛風に頭の髪が毛仕上げになっているのです。この室町雛が、室町時代のものではなく、江戸時代のものであったのならば、歴史教科書で述べている雛人形の歴史は「うそ」と言うことになります。では、雛人形のルーツは何かと言えば、考えられるのは、平安時代から現れた、流浪の賎民と云われた人形使いの傀儡子の存在です。
では、エド時代から江戸時代に変換した寛永時代(1623年〜1643年)に突然現れた、髪の毛のない、冠と一緒に黒塗り仕上げの、女には唐衣も裳もない、天冠も載せていない雛が登場した歴史的背景は、どのようだったのでしょうか。
その雛人形登場の謎を解くヒントは、お内裏様とお雛様を飾る時の配置にあります。江戸では、お雛様は左側(向って右側)で、お内裏様は右側(向って左側)なのですが、京都では、その逆です。それは何故でしょうか。
そのお内裏様とお雛様の配置の違いが、民族の違いを表していたのです。騎馬民族では、左側が、右側よりも優位であったのです。それは、草原地帯の北半球を支配する騎馬民族は、緑茂る南半球を支配する農耕民族国を攻撃する時、中央に指令官を置き、太陽が最初に昇る東側、つまり、南面して左翼軍団が先陣を切ったからです。その左翼軍団に続いて、右翼軍団が攻撃に出陣したのです。ですから、騎馬民族国家では、右翼軍団より、左翼軍団の方が挌上であったのです。しかし、北面する農耕民族軍団では、右翼軍団が、左翼軍団よりも挌上であったのです。
騎馬民族と農耕民族とでは、左右の優位が逆であったのです。しかし、漢民族化した騎馬民族国の唐が、中国大陸だけではなく、日本列島の近畿一帯を支配した平安時代になると、右思想が、左思想より優位となってしまうのです。唐進駐軍の軍事支配の下で平安時代が、騎馬民族国ではなく、農耕民族国となった根拠のひとつとして、「右」の言葉が、「左」の言葉より優位になるだけではなく、「左」には蔑称の意味がこめられてしまうのです。
左遷(僻地にとばされること)、左官(天子を見捨てて他の諸侯に仕えること)、僻左(卑しいこと)、左前(物事が順調にいかないこと)、など「左」には劣ることの意味づけをしているのです。それに対して、右姓(尊い家柄)、右職(地位の高い官職)、右腕(もっとも信頼している部下)、など「右」には優位であることの意味づけをしているのです。
では、何故、江戸時代の寛永年間に突然現れた雛人形の配置が「左と右」とで、江戸と京都では異なっていたのでしょうか。
雛人形のルーツは、古代の形代とは何ら歴史的関係はなかったのです。それは、徳川家康の孫、第二代目将軍徳川秀忠の娘和子(まさこ)が、1616年徳川家康の死後三年して、後水尾天皇の中宮として入内し、皇子興子(おきこ)が生まれたのです。この皇子興子が、1629年に第109代女帝明正天皇となるのです。ここに、騎馬民族の徳川家康の血が流れる女帝が誕生したのです。しかし、この後水尾天皇から女帝明正天皇への譲位には、紫衣事件と春日局事件が背景にあったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大阪夏の陣で、藤原氏傀儡の豊臣家を倒すと、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を徹底的に粉砕していたのです。それは、血と肉食禁忌の漢訳仏教思想を利用して、秦氏末裔の同族を「穢多」「革多」としてイジメていたのが、百済系天皇家を裏で駆る藤原氏と亡命百済貴族末裔であったからです。
そして、徳川家康は、1611年には後陽成天皇を退位させてもいたのです。そして、天皇家の経済を支えていた、仏教僧への紫衣の着衣認定料を停止するために、「禁中並公事諸法度」により、仏教僧への紫衣着衣禁止を唱えたのです。それに対して、天皇家も仏教組織も頑強に抵抗していたのです。
その決着が付いたのが、1629年で、織田信長殺しの下手人とされてしまった明智光秀の重臣斉藤利三の娘、お福が藤原氏の流れにある三条西家の仮の一員として、宮中に参内を強行し、後水尾天皇に意見を述べ、このことにより、後水尾天皇は厭世気分となり、六歳の興子内親王に王権を譲位してしまったのです。この功績により、興子内親王の母親中宮和子より、お福は「春日局」の局号を授かるわけです。
漢訳仏教嫌いの徳川家康が仏教僧の紫衣着衣に我慢できなかったのは、紫衣とは、道教思想で、天子(てんぐり・北極星、後に「天皇」の表号となる。)の世話をする真人(まひと・北斗七星)だけが着衣できる高貴な衣であったからです。それが、道教の敵宗教である漢訳仏教僧が権威付けのために、天皇家へ多大の寄付金上納の見返りに、天皇から着衣を許されることに我慢できなかったのです。
幼くして京都で女帝となった明正天皇を気遣う母親の中宮和子(東福門院)は、娘に挿し物の掛け軸を贈ったのです。その掛け軸には、美男美女が描かれていて、左側に美女が描かれていたのです。
この天皇交代の寛永年間に、左側に女帝であるお雛様と右側にお内裏様が配置された雛人形が、北関東で作られ、江戸町で売り捌かれていくのです。これが寛永雛といわれるものです。
その寛永雛を生産する北関東とは、秦氏末裔が支配していたエド時代(1590年〜1623年)に、エド町の中心である日本橋、神田、人形町に暮していた秦氏末裔が、1635年から始まる参勤交代制のために、各国の人質を江戸に住まわすために、秦氏末裔の支配地を取上げるため、第三代目将軍徳川家光により追放された地であったのです。
その寛永雛は、享保年間になると変化を見せるのです。享保年間(1716年〜1735)年とは、第八代目将軍徳川吉宗の時代で、長吏頭弾左衛門配下の博徒や役座が副業として、同心の私的警察官の目明として江戸町の治安警察業務をしていたものを、大岡忠相(越前守)により、長吏頭弾左衛門配下から抜けた鳶職人による自警団組織の江戸町火消し「いろは組」を組織して、その「目明」を「岡引」と蔑称し、江戸町警察業務から排除した時代であったのです。
その享保年間に制作された雛人形の特徴は、男雛は太刀を差し、笏を手に持ち、そして、女雛は五衣(いつきぬ)、唐衣、そして、袴には綿を入れて膨らませていたのです。これが享保雛といわれるものです。
十八世紀後半に、その騎馬民族末裔の秦氏末裔の武器製造者が作る江戸雛人形に対抗して、亡命百済貴族末裔が暮す京都では、左側にお内裏様右側にお雛様が座る次郎左衛門雛が作られ、庶民の雛人形であったものが、公家や上級武家にも重んじられていくのです。
更に、1830年代に、その左側にお内裏様が鎮座する京雛飾りに対抗して、江戸では、七段飾りが作られるのです。その七段飾りの随身である左大臣と右大臣は、左側を上座として老武者を置き、右側を下座として若武者を置いていたのです。そして、お雛様には、ギリシャ式王冠である三樹冠を被らせたのです。
騎馬民族国では、女帝の存在は当たり前だったのです。騎馬民族色が濃かった新羅(秦羅)系天武王朝(672年〜770年)では、第41代女帝持統天皇、第43代女帝元明天皇、第44代女帝元正天皇、第46代女帝孝謙天皇・第48代女帝称徳天皇が在位していたのです。そして、天武天皇の母国であるギリシャ・ローマ文化継承国の新羅(秦羅)が女帝国であったのは、中国の歴史書にも記述されているのです。
第三代目将軍徳川家光により、北関東に追放された秦氏末裔の武具製作技術者は、漢訳仏教文化に染まった江戸町で、雛人形を作ることにより、女帝国で、左側優位思想の騎馬民族文化を伝えていたのです。
この享保雛には、騎馬民族文化の暗示を示すものがあったのです。享保年間になると、秦氏末裔の博徒や役座が江戸町警察機構から排除されたように、秦氏の騎馬民族文化が、天台宗を頂点とした漢訳仏教文化により隠蔽されてしまっていたのです。そこで、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により「穢多」としてイジメられていた秦氏末裔の武具製作技術者は、享保雛にメッセージを託したのです。それが雛人形のお内裏様用に太刀を出現させたのです。
日本の武人の武器のひとつとして、「かたな」があります。その「かたな」の意味は、「片刃・かたは」であったのです。その「かたな」は、奈良時代と平安時代とでは、異なっていたのです。奈良時代の「かたな」は、直刀であったのです。しかし、平安時代になると、その直刀が、反りのある「かたな」となるのです。何故、直刀が反り刀に変化したのでしょうか。
奈良時代は、唐進駐軍が、仏寺の興福寺と中臣神道の春日社を支配する祭祀氏族の藤原氏を傀儡として、近畿一帯を支配していた時代であったのです。ですから、武人が携帯する武器は、唐軍仕様であったのです。
しかし、天武天皇が始めた一世一代の、道教思想に基づいた大嘗祭から、秋の収穫祭として毎年おこなう新嘗祭を発明し、その祭りで五節舞により「藤原の女」を天皇家に提供し、天皇家を支配下に置いて増長した藤原氏は、764年恵美押勝の反乱でも分かるように、唐進駐軍を排除して、藤原氏独裁を画策していたのです。
その藤原氏が得意とする、敵を密告と暗殺とにより葬る暴虐無人の行動に見切りをつけた唐進駐軍は、下級官僚としてうらぶれていた亡命百済貴族を、藤原氏の替わりに使うのです。それが、794年平安京遷都をした、百済系桓武天皇であったのです。唐進駐軍の傀儡となった桓武天皇は、藤原日本史によれば天照大神を祖神とするところを、実父の光仁天皇を祖神として祀り、唐式の儀式により即位していたのです。
桓武天皇は、藤原氏色の強い軍団を解散して、792年健児兵制度を確立して、飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国軍団残党が支配する陸奥国侵略を企てるのです。それは、桓武天皇の母国百済を、663年に滅ぼした新羅(秦羅)軍団末裔も、突厥帝国軍団残党と共闘していたからです。
この後、秦氏が支配していた山背国(後の京都)を乗っ取った亡命百済貴族末裔は、新羅(秦羅)末裔の社会的抹殺を謀るため、新羅末裔の秦氏を賎民に貶め、イジメ続けていくのです。日本列島において、民族差別が京都で発生した理由のひとつが、その百済対新羅の戦いの後遺症だったのです。
陸奥国の豊富な資源を狙う唐進駐軍は、桓武天皇軍団を傀儡軍として、陸奥国侵略戦争を開始するのです。しかし、陸奥国を支配する軍団は、その祖は、ユーラシア大陸を騎馬戦で支配していた騎馬軍団末裔であったので、歩兵中心の桓武天皇の大軍団は、弓馬に優れていた少数の陸奥国軍団に翻弄され、全戦全敗であったのです。
そこで、陰謀を得意とする桓武天皇軍は、801年金髪の坂上田村麻呂を指揮官として、陸奥国軍棟梁の赤毛のアテルイを騙して、京に連れてくると、即刻そのアテルイの首を刎ねて、その首を京で晒してしまうのです。その棟梁アテルイを失った陸奥国軍団は、厭世気分となり、胆沢城以北を残し陸奥国は平定されてしまうのです。
そして、敗残兵の陸奥国兵士の多くは、人種的にチュルク系であったのでヒゲが濃いため、毛が薄いツングース系の桓武天皇軍から、「ヒゲのあるエビス」の意味の「蝦夷」と蔑称されてしまうのです。
その捕虜の蝦夷は、傭兵とされるのです。それは、唐進駐軍の母国唐は、隣国ウイグルや吐番からの侵略を受けていたからです。そこで、蝦夷をその侵略軍を阻止する傭兵軍として唐に送り込むために、近畿一帯の捕虜収容所に連行するわけです。その捕虜収容所は後に、別所、散所、湯浅、垣外などと呼ばれていくのです。
桓武天皇軍団により、陸奥国が平定されて束の間、百済系三代目嵯峨天皇になると、810年百済系二代目の平城天皇から寵愛を受けていた藤原薬子が、奈良時代の栄光を取り戻すために反乱(薬子の乱)を起こすのです。
平安初期の京は、藤原氏軍団残党だけではなく、陸奥国から連行した蝦夷が捕虜収容所から脱走したりして、治安が乱れていくのです。それに対して、嵯峨天皇は、京を護る治安警察のために、816年検非違使を置くのです。
しかし、京の都は盗賊の狼藉だけではなく、地震や雷の転変地変が頻繁に起こっていくのです。これは、桓武天皇が、実弟の早良親王を謀殺した祟りと、陸奥国の蝦夷を騙して惨殺した祟りだと言い出す者がいたのです。そこで、平安王朝は、その祟りを鎮めるために、検非違使の配下として、怨霊を鎮める「もののふ」を組織するのです。
「もののふ」の「もの」とは、仏教思想や中臣神道が渡来する前、日本列島の「精霊」であったのです。神仏の思想が渡来する前は、日本列島には精霊である「もの」が精神的に支配していたのです。その「もの」の僕(しもべ)が「もの・のふ」と呼ばれていたのです。
しかし、645年唐進駐軍と中臣族軍とにより、突厥帝国進駐軍と秦氏により支配されていた、オリエント文化の飛鳥ヤマトが壊滅すると、唐で流行っていた、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教思想が、「もの」思想を排除し、その結果、仏教の敵神である「鬼」の仲間として、「ものの怪・け」とされて山奥に追放されてしまうのです。
その漢訳仏教思想渡来の後に、中臣族により発明されたものが、ユダヤ教儀式と酷似した中臣神道で、山奥の「ものの怪」の土の家である「塚」の上に、神社を建立して、「ものの怪」を封印してしまうのです。
平安初期に、その「ものの怪」が、祟り神として、地震や落雷となって京の都を襲ってきたと、天皇家は解釈したのです。そのように平安京で怨霊思想を煽ったのが、漢訳仏教に敗れた道教から派生した陰陽師です。そこで、「ものの怪」の霊を鎮めるために、前政権の子孫により「もののふ」を組織したのです。その「もののふ」となった者が、散所や別所に収容されていた蝦夷であったのです。それは、陸奥国の蝦夷の祖は、飛鳥ヤマトの武人であったからです。
「もののふ」は、前政権の「もの」を封印している神社で、芸により怨霊を鎮めるために、兜に牛の角をモチーフとした飾りを創作し、そして、鎧を煌びやかに飾ったのです。しかし、「もののふ」は、蝦夷捕虜であったので、王権は蝦夷捕虜の反乱を恐れて、それらの兜、鎧を総革製としたのです。そして、怨霊の魂を鎮めるために、芸をおこなうためのパフォーマンス用に、チュルク系騎馬軍団の武器である反りのある短刀である蕨手刀の刃先を伸ばして、片刃のそりのある「かたな」を創作するのです。この「かたな」が、後に「日本刀」の祖と呼ばれていくのです。
それらの武具で武装する「もののふ」は、怨霊封じ込め施設である神社境内で、怨霊の御魂鎮めのための芸が「武芸」と呼ばれていくのです。その「もののふ」が、939年から941年にかけて起こった平将門と藤原純友の反乱を騎馬による武力で鎮圧したため、平安王権より、武芸者である「もののふ」が、「武士」と呼ばれていくのです。
その「武士」は、実戦向きではない、祭祀儀式のための派手な兜と鎧、そして、片刃の「かたな」で武装はしていたのですが、その「武士」の実践用武器は、弓矢と槍であったのです。「かたな」は、実践用ではなかったのです。
江戸時代、京都で発生した「かぶきもの」による「ややこ踊り」は、ポルトカル人が北アメリカから持ち込んだ風土病の梅毒と供に、江戸町で流行すると、秦氏末裔の能舞台を乗っ取り、そこで、女歌舞伎を興行し、梅毒を流行させるのです。
それに対して、江戸幕府は、女歌舞伎を禁止すると、次に、若衆歌舞伎となるのですが、梅毒の流行は止められなかったのです。そこで、幕府は、中年男性による野郎歌舞伎だけを許可するのです。「春」を売れない野郎歌舞伎は、生き残るために、中国の京劇を真似た隈取による化粧や、寸劇からストーリー性のある演劇を開発していくのです。
公家が多く暮らす京都と異なり、江戸は参勤交代のための各国の人質がいるため、それらを警護する、壮年の武人で溢れていたのです。その武人相手の演劇のテーマは、武闘物が好まれたのです。
演劇は、実際の生活のストーリをデフォルメして表現するわけです。しかし、1543年鉄砲伝来以前の戦闘では、弓矢と槍が主な武器で、儀式用「かたな」は、実戦では使われていなかったのです。しかし、狭い演劇小屋の舞台での戦闘場面では、弓矢と槍を用いての戦闘の再現はできません。そこで、演出家が、「かたな」による戦闘場面を取り入れたところ、評判がよかったのです。そこで、演劇で、「かたな」による戦闘場面が定着すると、戦国時代以前を知らない民衆は、「武士」は、実戦では弓矢と槍が主武器であったものが、「かたな」を主武器として戦闘していたと勘違いしていくわけです。
そして、第三百済時代の江戸町は、武断統治政策から文治政治となって久しいので、1651年由比正雪の乱の由比正雪の開いた道場では、実践用の槍術であったのに、「武士」が排斥された江戸町の道場では、「剣術」となってしまったのです。このような「演劇」と「剣術道場」により、「武士」は「かたな」で戦闘をしていたと誤解されて現在に至るのです。
「日本刀・かたな」を製造するための鉄器製造技術は、紀元前14世紀のヒッタイト帝国で発明された鍛造法の鉄器製造法が、騎馬民族スキタイに伝承し、その鍛造鉄器製造法が東進し、中央ユーラシアのタタールを経由して、朝鮮半島に伝播し、そこから技術集団秦氏と供に日本列島に伝来し、「タタラ製鉄」技術として定着したのです。
オリエントから渡来した秦氏末裔である蝦夷の武器は、蕨手刀から改良された儀式用武器の「日本刀」となり、武芸者である「もののふ」の「魂」となったのです。そして、その後、その武士の「かたな」は、戦闘で倒した敵将の首を落とすための、神聖な「武器」となったのです。
江戸時代、享保年間に出現した雛人形に、その「日本刀」を、お内裏様に携帯させた意味は、それは、北関東に暮す雛人形職人である秦氏末裔が、キリシャ式三樹冠を被せた女王をお雛様とし、そのチュルク系騎馬民族の武器である蕨手刀から改良した「日本刀」でお内裏様を「武士」として表現していたのです。
この秦氏の騎馬民族・オリエント文化を表現した享保雛の出現は、平安時代の810年に「古事記」が出現したことと同じです。それは、秦氏末裔の多人長が著述した「古事記」は、645年オリエント文化の飛鳥ヤマトを乗っ取り、そして、北九州から移築した仏寺により、その地を仏教伽藍で埋め尽くし、720年藤原不比等が創作した「日本書紀」により、仏教伝来552年と飛鳥ヤマトの歴史を改竄し、その「ウソ」をつく為に創作された女帝推古天皇(593年〜628年)以前の歴史を否定するためのもだったのです。
では、ギリシャ式女王冠とチュルク系騎馬民族の武器から改良された「日本刀」を出現させた享保雛は、どのような歴史を否定するために創作されたのでしょうか。
この享保雛が出現した享保年間とは、第八代目将軍徳川吉宗が、未だ健在の騎馬民族末裔の徳川家康の血統である「御三家」の根絶やしを開始した時代だったのです。
1603年天下を盗った徳川家康は、戦国末期に豊臣家を傀儡とした藤原氏や、亡命百済貴族末裔の百済平氏からの反撃を防ぐために、1607年徳川家康の九男徳川義直を尾張家、十男徳川頼宣を紀州家、そして、1609年十一男徳川頼房を水戸家として、その「御三家」を、徳川家康幕府の中枢としていたのです。その「御三家」の使命は、秦氏末裔の「武士」の幕閣とは別の立場から将軍を補佐し、宗家に嗣子のないときはこれを継承することだったのです。
しかし、1623年百済の血が流れる徳川家光が第三代目将軍になると、天台宗系怪僧天海、そして、明智光秀一派末裔の春日局との陰謀により、秦氏末裔の源氏武士と騎馬民族末裔の徳川家康の血統の抹殺を図られるのです。
その手段が、1635年参勤交代制や、「末期養子の禁」で、徳川家康の忠臣である源氏武士末裔の大名家の断絶、そして、秦氏末裔の源氏武士狩りである、1651年の「由比正雪の乱」の演出だったのです。
しかし、徳川家康直系の「御三家」の血統抹殺計画の実行は、第八代目将軍徳川吉宗の時代(享保年間/1716年〜1735年)まで待たなければならなかったのです。
第八代目将軍徳川吉宗は、その手始として、1717年大岡越前守を江戸町奉行に登用し、1720年長吏頭弾左衛門配下から離脱した「鳶職人」による自警団組織の火消し組織の「いろは組」を創設し、秦氏末裔の長吏頭弾左衛門配下の博徒や役座による「目明」である同心の私設警察官の、江戸町警察機構からの排除をおこなったのです。これにより、エド時代から徳川家康体制を裏社会から支えていた、役座による江戸町警察組織が壊滅するわけです。
その第八代目将軍徳川吉宗が開始した、徳川家康が創設した「御三家」の壊滅計画は、第十一代目将軍徳川家斉により完成するのです。それが、「御三家」に替わる、「御三卿」です。
「御三卿」とは、徳川家康の支族で、田安家、一橋家、そして、清水家のことです。この「御三家」と「御三卿」とは、徳川家康の威光が消え、そして、その徳川家康の威光を裏社会から支えていた長吏頭弾左衛門の権勢が削がれ、「長吏頭」を「穢多頭」と蔑称された江戸中期になると、対立関係となっていたのです。
勿論、第三百済王朝の江戸中期では、百済系「御三卿」の権勢が、騎馬民族系「御三家」を圧倒していたのです。
その「御三卿」の創設は、第八代目将軍徳川吉宗が、次男宗武に田安家を、そして、四男宗尹に一橋家を創設させたのです。そして、第九代目将軍徳川家重が、次男重好を初代とし清水家を創設させることにより、ここに、騎馬民族末裔の徳川家康の「御三家」に対抗する、百済系の「御三卿」が歴史上登場するわけです。
そして、第十一代目将軍徳川家斉の時代(1786年〜1837年)には、徳川家康の血統を最後まで護っていた「御三家」の尾張家の血統が根絶やしにされていたのです。
藤原日本史のトリックは、鎌倉時代を源氏支配と錯覚させたのと同様に、江戸時代に「御三家」が江戸末期まで存続していたと錯覚させたことです。
鎌倉時代は、秦氏末裔の源氏武士が支配したのは、源氏棟梁の源頼朝、源頼家、そして、源実朝の三代(1192年〜1219年)までで、その後は、百済系平氏末裔の北条氏が、騎馬民族蔑視思想を内在する「法華経」を布教する、百済系天台宗の漢訳仏教思想を利用して、秦氏末裔を不可触選民「穢多」として貶めて、1333年まで支配していたのです。
江戸時代は、秦氏末裔の源氏徳川氏が支配したのは、徳川家康、そして、徳川秀忠の二代(1603年〜1623年)までで、その後は、百済系徳川家光の血統が、百済系天台宗の怪僧天海が創設した第三百済王朝となり、漢訳仏教思想の「法華経」などにより、肉食する騎馬民族末裔である秦氏末裔を不可触選民「穢多」として貶めて、1867年まで支配していたのです。
第三百済王朝の江戸時代では、「おサムライ様」はあっても、「お武士様」はないのです。それは、「サムライ」の祖は、平安時代初期に中国山東半島からの亡命百済移民の子弟が、第一百済王朝である平安京で、亡命百済貴族を、側で「侍い・さぶらい」する秘書兼警護使であったからです。
それに対して、「武士」の祖は、オリエント文化の飛鳥ヤマトの武人を祖とする陸奥国蝦夷で、「もののふ」の武芸者であったからです。その「武士」の歴史により、第三百済王朝では、「武士」は、「俘囚の末裔」と蔑まされていくのです。そして、「サムライ」により江戸幕府機構から排斥された「武士」は、「野武士」や用心棒となり、明治革命まで生き延びていくのです。
その明治革命に至る歴史において、藤原日本史では、その明治革命の陰の主役であるイギリス東インド会社の存在を無視して、薩摩藩と長州藩を中枢とした官軍(?)により江戸幕府が倒れたと記述しているのです。
その薩摩藩の南九州は、鎌倉初期に源頼朝により、藤原氏の荘園であった島津荘を賜った秦氏末裔が多く暮らす地であり、そして、飛鳥ヤマト時代以前では、藤原氏の祖である中臣族が、南インドのマラバル沿岸から渡来した坊津があるのです。そして、長州藩には、秦氏末裔の海洋民族の源氏武士である松浦族末裔が多く暮らす地でもあったのです。
その薩摩藩と長州藩には、江戸中期以降、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により不可触選民「穢多」としてイジメられていた、秦氏末裔が多く暮していたのです。
その長州藩の地に、1776年イギリス王国から独立したアメリカ合衆国で不要になった最新式銃を満載した船で、1863年イギリス東インド会社のエージェントが渡来したのです。そして、同年7月そのイギリス軍艦は、薩摩を砲撃し、薩英戦争が勃発したのです。イギリス海軍に砲撃された長州藩と薩摩藩がともに、倒幕の中枢軍となったのは、何を意味しているのでしょうか。
八世紀、カスピ海沿岸を支配していた国際交易国ハザールは、西の東ローマ帝国と東のイスラム帝国との戦闘に巻き込まれることを避けるために、弱小宗教組織のユダヤ教に改宗して、ハザール人はユダヤ教徒に変身するのです。
紀元前932年唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族は、太陽神バアルと太陽神化身の牡牛を屠るイスラエル民族と袂を分けると、ユダ王国を興したのですが、隣国の侵略を度々受けても、かろうじてユダヤ民族は、その血統を保っていたのです。しかし、イスラエル民族は、紀元前722年アッシリア帝国に破れると、それ以降、その十部族で構成するイスラエル民族は歴史上消えて現在に至るのです。
そのユダヤ民族は、人種的にセム族系の有色民族であったのです。しかし、八世紀にユダヤ人となったハザール人は、人種的には白系チュルクであったのです。その白系チュルクのユダヤ人は、本来の有色ユダヤ人から、白いユダヤ人と呼ばれていくのです。
その白いユダヤ人は、国際交易商人であったので、古来から全世界にそのネットワークを持っていたのです。ここに、国際的な金融組織を持つユダヤ人が出現するのです。
このことにより、八世紀以前、イスラム民族と細々と共存していた有色ユダヤ民族は、白いユダヤ人が加わることにより、国際的ユダヤ民族となり、世界の歴史に影響を与えていくのです。
1600年、海賊貿易で隆盛するプロテスタントのイングランド王国は、ローマ・キリスト教のイスパニア王国の東アジア支配国を奪取するために、イギリス東インド会社を設立し、東インド経営に乗り出すのです。
未知の国を軍事支配するには、その国の情報が必要です。それには、現地の支配層を取り込めれば、その現地支配層から貴重な情報を取れるだけではなく、その支配層を傀儡として情報発信もできるわけです。そこで、その仕掛けとして、イギリス王国を裏から支配する国際金融組織は、その異国での情報収集の手先組織として、1716年国際秘密結社フリーメーソンを設立するのです。
戦国末期、織田信長を軍事的支援をしてきたイエズス会が、その援助と統制が乱れた原因は、イエズス会を軍事・資金的に援助していたイスパニア王国の無敵艦隊が、海賊交易立国のイングランド王国の海軍に、1588年壊滅されていたからです。このイスパニア王国の無敵艦隊が、イングランド海軍に敗れたことにより、世界の海上権がイングランド王国に移っていくのです。
イングランド王国は、イスパニア王国の支配地であったインドを、1757年ブラッシーの戦いにより支配下に置くのです。更に、イエズス会の中国・日本列島布教(侵略?)基地であったマカオに進出すると、インドで仕入れたアヘンを清帝国に売りつけることにより、1840年アヘン戦争を起こすのです。
そのように、遠い異国で戦争がおこなえたのは、1694年国際金融組織の援助でイングランド銀行を設立して、広く諸外国から金集めができたからです。戦争は、膨大な資金がなければできない「事業・ビジネス」であるからです。
イギリス船が、日本に渡来したのは、1613年長崎で、徳川家康が通商許可を与えたため、平戸貿易が始まったのです。しかし、徳川家康の顧問であるオランダ人ヤン・ヨーステン(日本名は耶揚子。東京の「八重洲」の語源)の忠告で、イギリスによる東インドでの海賊交易の実態を知ることにより、イギリスなどの西欧船の来航は、平戸と長崎に制限したのです。
この徳川家康の貿易制限の処置がなかったならば、日本列島は、イギリス交易船により、清帝国のように、アヘンを日本列島に持ち込まれ、アヘン列島になっていたかもしれないのです。しかし、イギリス平戸商館が閉鎖されたのは、徳川家光が第三代目将軍となった1623年であったのです。
イギリスの東アジアでの国際交易の基本は、イギリスから羊毛・木綿製品をインドに持ち込み、その商品をアヘンと交換し、そのアヘンを中国で売り捌き、金・銀を手に入れて、それをイングランド銀行に貯金するわけです。その国際交易の中枢が、イギリス東インド会社であったのです。その会社員の中には、フリーメーソン結社員がいたことは勿論です。
オランダ人を顧問とした徳川家康により、日本との交易を制限されたイギリス交易商人は、鎖国体制の江戸幕府が揺らぐのを、イエズス会から引き継いだ極東侵略基地のマカオでじっと待っていたのです。
1776年7月4日フリーメーソン結社員を中枢とした、イギリス王国への反乱軍は、アメリカ植民地独立戦争に勝利すると、トマス・ジェファーソンが起草者となり、アメリカ十三州の独立宣言をおこなうのです。そして、同年、紙幣委員会が設立され、アメリカ合衆国の通貨である一ドル札のデザインが、フリーメーソン結社員であるベンジャミン・フランクリン等によって決定されるのです。
今、米一ドル紙幣を持っているひとは、その裏側をながめてください。その左側には、ピラミッドがあります。そして、そのピラミッド上方には、目が描かれているのがわかります。この目のあるピラミッドが、フリーメーソンのシンボルマークなのです。
更に、そのピラミッドの上と下に文字が、書かれているのがわかります。しかし、その文字は、英語ではなく、ラテン語です。何故、アメリカ合衆国の基本通貨である一ドル札に、目のあるエジプトのピラミッドとラテン文字があるのでしょうか。
実は、この一ドル紙幣のピラミッドマークと文字には、フリーメーソンのメッセージが隠されているのです。
上の文字は、「ANNUIT COEPTIS」、とあり、下の文字は、「NOVUS ORDO SECLORUM」、とあります。そして、ピラミッドの階段は、十三段です。これらのメッゼージは、一体何を表しているのでしょうか。
ピラミッドの十三階段は、アメリカ合衆国の十三州だと解釈するには、単純すぎます。それは、その後、アメリカ合衆国十三州は、イスパニア、フランス、そして、メキシコの領土を奪い取って、合衆国数は増えていったからです。だったらフリーメーソンの階級かと言えば、最高階級は33階位であるので、それも違います。
実は、それらのピラミッド十三階段と、ふたつの文字を繋ぎ合わせると、ひとつのメッセージとなるのです。
そのメッセージとは、十三階段は、紀元前十三世紀のユダヤ二部族とイスラエル十部族の十二部族に、紀元八世紀に新しくユダヤ教に加わった国際交易国家のハザール人を第十三部族とし、ハザール人のユダヤ第十三部族が、NOVUS ORDO SECLORUM「新しい世紀の秩序」を創る、ANNUIT COEPTIS「我々の計画に同意せよ」、となるのです。つまり、「白いユダヤ人が、新しい秩序を創る。我々の計画に同意せよ。」、となるのです。
因みに、何故、エジプトのピラミッドが、フリーメーソンのシンボルマークかと言えば、ユダヤ教の神、唯一神ヤハヴェは、紀元前十四世紀の古代エジプトで、アメンホテプ四世がおこなった、性急な宗教改革で、ヒッタイト帝国から持ち込んだ太陽神ミトラから改竄した、唯一神である太陽神アトンから変身した神であったからです。
このフリーメーソンのメッセージが書かれた一ドル紙幣が、この後、国際金融組織に支援されたエージェントにより世界にばら撒かれ、世界の歴史に影響力を与えていくのです。
勿論、日本列島も、その例外ではなかったのです。フリーメーソン結社本部があるイギリスの金融を支配するイングランド銀行の支援で、1882年「株式会社日本銀行」が設立されたのです。そのことにより、日本国は、隣国と国際戦争ビジネスができるようになり、1894年日清戦争、そして、1904年日露戦争ができたのも、イングランド銀行の金融支援があったからです。そして、日本国政治の中枢建物、国会議事堂の屋根を「ピラミッド」としたのです。
その不可解な近代日本国の歴史の流れの源流が、江戸時代にあったのです。
その頃の日本列島では、江戸時代中期の頃で、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により、庶民を統括していたことに疑問を持つ者が現れてくるのです。
江戸時代の第三百済王朝の手先となり、庶民を農耕民族の良民と騎馬民族の賎民に民族差別して、「穢多寺」など発明して、寺請制度で縛りつけていた百済系天台宗思想に疑問を持った者のひとりが、禅宗の白隠禅師です。
白隠禅師は、騎馬民族を差別する無数にある仏典には「悟りを得るためのものは何もない。」、と宣言するのです。それ以前にも、大阪の醤油屋の富永仲基は、「出定後語」で、お経の文言を研究しているうちに、その矛盾に気づき、後人が先人の説に自説を加えてお経を創作したとの「加上説」を唱えていたのです。
そのように、第三百済王朝を支える漢訳仏教思想に疑問を持った本居宣長は、平安時代の810年から埋もれていた埃まみれの「古事記」を引っ張り出して、その「古事記」には、渡来宗教である漢訳仏教世界などとは異なる「誠の日本原風景が描かれている。」と誤認してしまい、「まほろばの世界」を、描くことを思いつくのです。
それが、1778年「古事記伝上巻」となるのです。「古事記伝」上巻、中巻、下巻は、二十年の歳月をかけて、1798年に完成するのですが、その原著者である、秦氏末裔の多人長の意図とは別物となっていたのです。
多人長は、藤原氏が創作した「日本書紀」での仏教文化が発祥したと言う飛鳥ヤマト時代の歴史物語を否定するために、日本列島の最初の天皇が、騎馬民族系で、新羅系の天武天皇であることを示すために、812年「古事記」三巻を「サイファー式暗号」で著したのです。
しかし、その多人長の意図に気づかなかった本居宣長は、「藤原氏のトリック」に引っかかり「古事記伝」を著してしまったのです。この本居宣長が創作した「古事記伝」44巻により、日本列島の歴史が、藤原日本史として再度認識され、現在に至るのです。
特に、庶民に強い影響力を発揮した、日本神話は、奈良時代ではなく、江戸時代の本居宣長により創作された、と言っても過言ではないのです。
多人長は、藤原氏が創作した日本列島の誕生を説明する神話物語を否定するために、「日本書紀」の始めに出演する神の国立常命を、「古事記」では、始めの出演神を天御中主命としたのです。何故、国立常命ではなく、天御中主命かといえば、その神は、天の真ん中にいる神だからです。
その「古事記」に最初に出演した神の天御中主命とは、「北極星」のことであり、天武天皇が、672年壬申の乱により、663年母国百済を唐・新羅軍に滅ぼされた、亡命百済王朝である近江朝を武力で倒し、その戦いで赤旗をたなびかせて大いに貢献した、アラブから渡来の海洋民族の支配地である伊勢に、685年祠(道観)を建てたのです。そして、その伊勢の祠で、天神を祀る道教思想から発明した一世一代の大嘗祭により、北極星から天命を受けて、騎馬民族の神「天子」(テングリ)から、日本列島初の「天皇」として即位していたのです。
唐進駐軍が支配した奈良時代、藤原氏は、その伊勢に建つ道教式の祠(道観)を徹底的に破壊して、その跡に、藤原氏の中臣神道思想で伊勢神宮を建立し、「太一」である北極星を、太陽神天照大神に摩り替えていたのです。その摩り替えを隠蔽するための物語を、「日本書紀」に挿入したのが、多人長が「古事記」で否定した「天照大神の神話物語」であったのです。そして、藤原氏は、その天照大神の天岩戸物語で、こっそりと藤原氏の祖とする天児屋根命を出演させるのです。
そのようにオリエント文化であった飛鳥ヤマトを、藤原氏が創作した天照大神の世界があったと誤認してしまった本居宣長により創作された「古事記伝」での「大和神話物語」により、まほろばの飛鳥ヤマトは、伊勢神宮の天照大神が守護する都となってしまって、現在に至るのです。
この本居宣長が著した「日本神話」が流布した頃の日本列島では、伊豆大島の噴火、九州大隈桜島の噴火、関東大洪水、浅間山の噴火など、天変地変がおこっていたのです。このような自然現象をとらえ、天台宗を中心に騎馬民族を賎民として差別していた漢訳仏教に抵抗する勢力が現れたのです。
それが、1787年米価高騰を原因とする天明の打ちこわしです。不思議なのは、大阪と江戸とが連動するように暴動がおこっていたのです。この後、何度も暴動が起こるのですが、それらも大阪と江戸とが同調していたのです。何故でしょうか。
その天明の打ちこわしの暴動が起こる十数年前、長崎の出島に渡来していたオランダ人により、蘭学が盛んとなり、日本各地に蘭学校が設立されていたのです。そのオランダの蘭学者の多くは医者であったのです。
漢訳仏教伝来時でも、仏教僧は「医術師」として、日本列島に渡来していたのです。そして、寺子屋で勉学をおこなっていたことは、オランダ人の蘭学者と同じです。異教国に潜入する手段は、古代も近代も同じだったのです。
そのオランダ人の医者には、医学の普及とは別のミッションが、ある組織から与えられていたようです。1774年前野良沢と杉田玄白は、オランダ人の医師から入手した人体解剖図を教科書として、長吏頭弾左衛門の処刑場である小塚原で、弾左衛門配下の「穢多の老人」が解剖した人体内臓をスケッチし、「解体新書」を著していたのです。
その翌年、ツンベルグがオランダ館の医師として渡来したのです。そのツンベルグの生徒である長久保赤水は、1779年日本與地路全図を作成したのです。そして、そのツンベルグは、医療活動の傍ら、日本列島の植物を観察し、それを記録していたのです。オランダ人医師は、鎖国の日本列島で、「何を」目的に渡来していたのでしょうか。
1828年オランダ人医師シーボルトは、江戸幕府からスパイ容疑を受け、翌年日本国から追放されたのです。その容疑は、伊能忠敬が作成した日本国全図を模写し、オランダへ持ち出そうとした、ということです。
しかし、伊能忠敬が作成した日本国全図の模写図は、日本から持ち出されていたのです。そのシーボルトにより持ち出され日本地図を、1853年浦賀に渡来した米使ペリーが持っていたのです。不思議なのは、そのペリーの艦隊は、アメリカから直接日本の浦賀に渡来したのではなく、わざわざマカオを経由して渡来したのは、何かの意味があったのでしょうか。それは、オランダ人とアメリカ人、遠い異国を結ぶものが、秘密結社の存在だったのです。
1865年摂津と隠岐に打ちこわしの暴動がおきると、その翌年江戸と大阪に同時に打ちこわしの暴動が起きるのです。その江戸と大阪に暴動が起きた頃、薩摩藩と長州藩との連合が成立したのです。
その薩長連合成立以前、1854年日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約と、諸外国と立て続けに侮辱外交によりおこなわれた条約に対して、屈辱を感じた下級武士は、攘夷を唱え始めていたのです。その先鋒のひとつが、秦氏末裔が多く住む長州藩であったのです。
1862年生麦事件でのイギリスに対しての江戸幕府の屈辱的外交に対して、攘夷論が最高潮に盛り上がっていくのです。その延長線上に、1864年の長州征伐があるのです。この事件は、長州藩の謝罪で終わるのですが、長州藩の下級武士の攘夷の勢いは止まらなかったので、翌年、第二次長州征伐がおこるのですが、第十四代目将軍徳川家茂(いえもち)の死去により再征伐が中止になっていたのです。
その薩長連合成立の翌年、ええじゃないか運動が、名古屋に起こり、全国各地に広がっていくのです。そのええじゃないか運動の中心が、平安時代から神仏習合で仏寺が多くあった、そして、平安時代から約千年間も百済系天皇家が正式参拝していなかった、「穢れ地」にある伊勢神宮(無数にある建物の総称。)だったのです。そのええじゃないか運動が起こる前、伊勢にあった無数の神仏習合の仏寺が綺麗に整理されていたのです。
何故、伊勢のお札が最初に降ったのが、名古屋だったのでしょうか。名古屋とは、徳川家康の血統を継ぐ、徳川御三家の尾張家の支配地であったのではないでしょうか。その尾張家の地から、民衆を巻き込む倒幕運動が開始された原因は、第七代目将軍徳川家継まで遡るのです。
騎馬民族末裔の徳川家康の血統は、第二代目将軍徳川秀忠までで、第三代目将軍徳川家光は、百済系であったのです。その徳川家康が、騎馬民族の血統を絶やさないように、九男義直を尾張家、十男頼宣を紀伊家、そして、十一男頼房を水戸家の御三家で保とうとしていたのです。
しかし、天台宗系天海と春日局に担がれた第三代目将軍徳川家光は、騎馬民族の血統を抹殺するべく、徳川家康の忠臣であった騎馬民族末裔の源氏武士を江戸幕府機構から排除すると、その家光の意思を後継者に伝えていたのです。
徳川家光が、咳気の大病を患ったことを知った徳川家康の九男の尾張家初代の徳川義直が、幕府の許可を得ずして、江戸に家光を見舞いに行くことを、途中の関所で咎められ、江戸に見舞いにもいけずに名古屋にもどったのです。その尾張家初代の徳川義直の行動に、徳川家光は、「尾張家は隙あらば将軍職を狙う。」と吹聴して、以後、尾張家から将軍を招くことを忌避することに決定していたのです。
そのように百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光により、騎馬民族の血を止められた二代目尾張家の徳川宗春は、第三百済王朝の基盤を確立した第八代目将軍徳川吉宗の倹約令に逆らっていたのです。その結果、尾張家の当主徳川宗春は、蟄居謹慎を受け、二十五年も幽閉生活の後、この世を去ったのです。そして、その徳川宗春の墓石には、ええじゃないか運動が起こる幕末まで、金網が被せられていたのです。
そして、第十三代目将軍徳川家斉の時代、騎馬民族の血が流れる尾張徳川家の血統が抹殺されていたのです。その騎馬民族の血が流れる「御三家」に替わり、百済の血が流れる田安家、一橋家、そして、清水家の「御三卿」が、第三百済王朝を幕末まで支えていくのです。
その名古屋は、第三代目将軍徳川家光が、源氏武士の大名家の経済を疲弊するために考え出した、参勤交代の上洛行程で、避けて通った「穢れ地」でもあったのです。
「穢れ地」に立つ伊勢神宮、「穢れ地」名古屋でのええじゃないか運動、この仕掛けは、誰が考え出したのでしょうか。そして、そのええじゃないか運動の延長線に、1867年明治革命が勃発するのです。
この江戸末期から明治革命にかけての歴史が、明治維新で復活した藤原氏(近衛家)を中心として改竄されたのは、645年オリエント文化の軍事都市飛鳥ヤマトで、唐進駐軍と中臣族軍(藤原氏の祖)により突厥帝国進駐軍王朝を壊滅した後、720年の奈良時代に藤原不比等が「日本書紀」を創作して、建築基準軸が南北軸より西に約二十度傾いていた、太陽神ミトラ信仰民族の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、北九州から移築した南北軸の「法隆寺」などで、仏教文化発祥の地と改竄したことと同じです。
歴史教科書で、幕末から明治維新への流れが歴史改竄物語で述べられている根拠として、二つの言葉があります。それは、「神社」と「志士」です。
「神社」は、「ジンジャ」で、「志士」は、「シシ」と読むのですが、その二つの言葉は、明治革命後に「発明」されたものなのです。
それは違う、「神社」、の言葉は、古文書にあるではないか、と言っても、その古文書での明治革命以前の発音では、「ジンジャ」ではなく、「モリ」、とか「ヤシロ」「ホコラ」と発音していたのです。
そもそも、1017年の平安時代に本地垂迹説が発明されて以降から明治革命以前まで、神社(モリ・ヤシロ)は、仏寺に習合され「神宮寺」として存続していたのです。903年藤原氏より謀殺された菅原道真を祀る社(ヤシロ)は、天満神社(ジンジャ)ではなく、天満宮(グウ)であったのです。つまり、神社(ジンジャ)とは、明治革命後に発明されたものなのです。1869年明治革命での死者を祀るために、九段に建立されたのは「招魂社」で、「ジンジャ」と呼ばれていくのは、明治維新から少し経った後であたのです。それが、靖国神社(ジンジャ)です。
では、「志士」はどうか、「勤皇の志士」などの言葉が、歴史教科書にあるではないか、と言っても、その「志士」を説明する、角川書店の「日本史辞典」一版、二版での「坂本竜馬は幕末の志士」が、平成8年発刊の第三版では、「幕末の倒幕運動指導者」とあるのです。何故、「志士」が、「指導者」となってしまったのでしょうか。
その謎解きは、その「志士」なる言葉は、明治革命以降に、明治革命の歴史を創作した人達により改竄されたものが、平成時代になり、その「志士・シシ」の本来の意味が分かったからでしょう。
その「志士」といわれるひと達は、薩摩藩や長州藩の官軍側の武人で、敵側の百済系徳川家の忠臣会津藩士から、有志と自称する「浮浪の徒」、と蔑視されていたのです。このことは、江戸時代の第三百済王朝で、江戸幕府を支配した百済系「サムライ」により、江戸幕府機構から追放された秦氏末裔の「源氏武士」が、「俘囚の末裔」と蔑視されたことと同じです。
では、会津藩士が、長州や薩摩の武人を蔑称した「志士・シシ」とは、何を意味していたのでしょうか。その「シシ」の語源は、唐進駐軍の後ろ盾により、亡命百済貴族が、陸奥国を支配していた騎馬民族を平定した、平安時代まで遡るのです。
弥生時代、古代オリエントから日本列島に渡来していた、太陽神ミトラを祀るため太陽神化身の牡牛を屠る秦氏により、奈良時代まで続いていた「血の祭祀」儀式は、平安時代にはゾロアスター教の儀式を導入した漢訳仏教の「火の祭祀」儀式により抹殺されたのですが、その秦氏の「血の祭祀」儀式の一部は、芸能として、今日まで細々と続いているのです。それが、獅子舞です。
獅子舞には、中国の獅子舞と日本の獅子舞があります。しかし、その獅子の顔が明らかに異なるのです。中国の獅子舞の獅子の顔は、竜です。しかし、日本の獅子舞の獅子の顔は、竜ではありません。
では、日本の獅子舞の獅子の顔は、何を象徴しているのでしょうか。「獅子」とは、イノシシのシシで、「シシ」とは、「野獣の総称」です。
平安時代に突然現れた獅子舞とは、平安王朝より貶められ、「秦楽」が「猿楽」と言われたように、野獣踊り(シシ踊り)、と言われていたのです。そして、その獅子頭とは、ミトラ教での太陽の化身、牡牛の「牛頭天皇」を隠蔽していたのです。ですから、その獅子の顔は、竜ではなく、牛に似ているわけです。
では、正統獅子舞での、胴体となる布の模様が忍冬唐草であるのは、何故でしょう。この獅子舞の歴史を辿ると、王権に隠された、騎馬民族の歴史が現れてくるのです。
獅子舞に使われる胴体となる布の模様の忍冬唐草模様とは、その発祥はどこなのでしょうか。その起源は、古代エジプトと言われています。
その唐草模様とは、蔦が四方に伸びるウコギ科キヅタの植物を図案化したものです。その古代エジプトで図案化された唐草模様は、紀元前五世紀の古代ギリシャのパルテノン神殿の、エンタシスと言われるアカイヤ式円柱の遺跡に認められます。この中央が少し膨らんだ柱、エンタシス柱は、日本の法隆寺の柱にも認められます。
奈良の法隆寺が、ギリシャ文化渡来の北九州筑紫(秦王国)から移築された根拠のひとつが、そこにあります。
そのギリシャでの唐草模様は、アレクサンダー大王(紀元前336年〜紀元前323年)により、東方へもたらされ、ギリシャ文化を継承したバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)に至るのです。
そのバクトリアでの唐草模様は、バクトリアの衛星国である秦国(紀元前221年〜紀元前206年)を経て中国の呉国(222年〜280年)から朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅(356年〜528年)を経由して、九州筑紫(527年〜528年、藤原日本史では、「筑紫国造磐井の反乱」とする。しかし、国造制度は、六世紀後半に現れ、この頃にはなかった制度。)に上陸するわけです。
このことを裏付けるように、七世紀前期と思われる、宇佐八幡境内から発掘された軒平瓦には、唐草模様が描かれていたのです。その宇佐とは、「秦王国」(後に簒奪王権により「豊国」と改竄される。)があった地域だったのです。その九州の秦王国を、608年渡来した隋使は、「その地は華夏(中国)と同じ文化である。」、と隋帝に報告したことが「隋書」で述べられているのです。
唐草模様の渡来ルートは、七世紀前期九州筑紫←ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)←中国呉国←秦国←バクトリア←古代ギリシャ←古代エジプト、となるわけです。
その古代オリエントから渡来した唐草模様のある獅子舞は、平安時代に突然現れ、野獣踊りと言われ、百済系王権により秦氏の祭祀場から追放された、河原者によりおこなわれていたのです。つまり、河原者とは、会津藩士が言うように、「浮浪の徒」であるのです。
その河原者の祖は、奈良時代の秦氏末裔の祭祀者だったのです。唐から漢訳仏教を持ち込んだ百済系平安王朝により、秦氏の太陽神ミトラを祀る祭祀場の比叡山や、山背国(秦王国)の太秦の蜂丘(岡)寺などの「血の儀式」をおこなう祭祀場から、中洲の河原に追われた者が、河原者と言われたわけです。
その秦氏の「血の儀式」をおこなう祭祀場である「蜂岡寺」が、藤原氏や亡命百済貴族により改竄され、「日本書紀」の仏教伝来物語により、秦河勝が、聖徳太子の命により、弥勒菩薩を安置するために「広隆寺」を建立した、と改竄されていたのです。
因みに、国宝第一号と云われる、歴史教科書に写真が掲載されているアルカイックスマイルと云われる「弥勒菩薩像」は、「聖徳太子」の古来から保存されていたものではなく、明治革命後に、何処かで発掘された原型を留めていないボロボロの像を、明治の仏像職人の感性により「復元」されたものであったのです。
明治革命で活躍した「シシ」とは、藤原日本史が述べるように「志士」などではなく、秦氏末裔の「河原者」のことであったのです。
ですから、騎馬民族末裔の血が流れる初代将軍徳川家康の系統を断った、百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光の異母弟と云われる保科正之を始まりとした、百済系王朝の天皇家を京都で守護する百済系の「サムライ」である会津藩士は、その平安時代から河原者の賎民として貶められていた秦氏の歴史を知っていたからこそ、明治革命で活躍した薩摩や長州の秦氏末裔の「源氏武士」末裔の武人を、「有志と自称する浮浪の徒」と蔑視していたのです。
坂本竜馬は「幕末の指導者」なのではなく、「幕末のシシ=河原者」であったのです。そのような、「志士」ではなく、「シシ・河原者」の眼から、もう一度、幕末から明治革命までの流れを眺めて見ましょう。そこには、藤原日本史が爽やかな物語で綴った明治維新の裏に、どのような歴史があったのでしょうか。

神輿の黙示録(23)(明治政府はイギリス東インド会社の傀儡政府だ:夷を以って夷を制す)



歴史は、後のひと達により、ある目的を持って語られる昔物語です。ですから、目的が異なるひと達により語られる歴史物語は、百人いれば百の歴史物語が生まれるのです。
その歴史物語を後世のひと達に語り継ぐ目的により、いろいろな歴史グッズが創作されます。そのひとつに、銅像があります。後世のひとに、歴史物語をリアルに訴える目的で創られる銅像は、歴史上重要人物であるのです。
1603年江戸を開府した秦氏(秦羅・新羅)末裔の徳川家康は、百済系天台宗の日光東照宮に祀られて(?)いるほど、歴史上重要人物です。しかし、その銅像が作られたのは、1993年(平成5年)であるのです。不思議なのは、1854年江戸幕府を脅して日米和親条約で開国させた、わざわざマカオ経由で、シーボルトが持ち出した伊能忠敬の模写日本全図を持参して渡来したマーシュ・C・ペリー提督の銅像は、1954年(昭和29年)であるのです。
日本歴史上の重要人物であるニッポン人の徳川家康よりも、39年早くアメリカ人のペリーの銅像がお目見えしたのは、何か意味があったのでしょうか。
一般的な徳川家康のイメージは、戦国三武将(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の中でも、あまり良いものではなく、「タヌキ爺」です。そのイメージの理由として、徳川家康が、島原の乱でキリシタン弾圧、外様大名をイジメるための参勤交代制、穢多といわれる賎民を漢訳仏教思想により寺請制と「士農工商・穢多非人」の身分差別でイジメた、そして、鎖国を断行した、と思われています。
しかし、それらの事跡は徳川家康がおこなってはいないのです。士農工商の身分制は、1591年藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉が発明したものです。1637年〜1638年のキリシタン弾圧の島原の乱は、第三代目将軍徳川家光がおこなったものです。そして、1635年からの参勤交代制は、第三代目将軍徳川家光がおこない、そして、鎖国は、1639年第三代目将軍徳川家光がおこなったことなのです。
何故、徳川家康は、そのように負のイメージを負わされたのでしょうか。それは、明治新政府(藤原氏・近衛家)にとって、徳川家康が、タヌキ爺だったからです。
徳川家康は、天下を盗ると、1611年藤原氏の傀儡天皇である後陽成天皇を退位させたり、漢訳仏教組織から多額の金を巻き上げていた紫衣の着衣許可を禁止し藤原氏の斡旋料の収入源を止めたり、そして、第二代目将軍徳川秀忠の娘を後水尾天皇に入内させ、後に、騎馬民族の血が流れる女帝明正天皇としたりと、藤原氏や百済系天皇家をイジメていたのです。その結果、1616年75歳の徳川家康は、毒殺(藤原日本史ではテンプラ中毒とされる。一説では胃がん。)されてしまうのです。
そして、何よりも徳川家康は、藤原氏と亡命百済貴族の仇敵である、母国百済を滅ぼした秦氏末裔の騎馬民族、源氏武士の棟梁(長者)であったからです。ですから、徳川家康を讃えることは、イギリス東インド会社が軍事・資金支援する藤原氏が支配する明治新政府にはできなかったのです。
イギリス東インド会社の軍事・資金支援により薩摩藩を支配していた藤原氏(近衛家)により計画・実行された明治革命とは、645年唐進駐軍に支援された中臣族(藤原氏の祖)が、秦氏と突厥帝国進駐軍により支配されていた、軍事都市飛鳥ヤマトを倒したことと同じ物語であったのです。つまり、「歴史は繰り返される。」ようです。
極東の日本列島は、藤原日本史が述べるように孤島などではなく、古来から遠方の異民族が渡来する地であったのです。それは、地下資源と植物を育成するには好条件の気候があったからです。
紀元前の縄文時代には、岩手県久慈とバルト海沿岸とは琥珀ロードで結ばれていたし、古代中国王族を飾った翡翠は、糸魚川産であったのです。更に、縄文時代から弥生、そして古墳時代にかけての奈良宇陀では、朱砂が産出され、三輪山の麓では渡来異民族とにより沈黙交易が盛んにおこなわれていたのです。
紀元一世紀になると、ローマ帝国と後漢との絹交易が盛んとなり、中国の絹商人は繭の増産のため、温暖な日本列島に華南種の蚕ポンピックスモリを持ち込み、荒地を開墾し桑畑の耕作地とし、日本列島は絹の生産地とされていったのです。この異民族渡来と、三世紀から始まる巨大古墳の築造とが時代的に重なるのです。この頃を、藤原日本史では、弥生時代といっているのです。巨大古墳築造の北限が、岩手県以南であることは、蚕の飼育と関係があったからです。
そのように、日本列島は、古来から絹製品の産地であったのです。戦国時代のイエズス会の渡来は、ポルトガルとイスパニアが日本列島の石見銀山の銀簒奪が目的であったのですが、江戸時代中期から、鎖国の日本国へ通商を求めた諸外国の目的のひとつが、絹製品であったのです。1600年設立のイギリス東インド会社も、その交易品のひとつが絹製品であったのです。
1600年インドのムガール帝国(1858年イギリス領となる。)に設立されたイギリス東インド会社は、インドで仕入れたアヘンを、明帝国に持ち込み、絹製品を手に入れていたのです。
そのインドから清帝国への交易拠点は、イエズス会が極東侵略の拠点としていた、マカオです。1808年イギリス軍艦は、マカオを攻撃して、そこを占拠したのです。このマカオから、1853年フリーメーソン会員がデザインした1ドル紙幣と「自由・平等・博愛」のスローガンと供に、アメリカ使節のペリー艦隊が浦賀に渡来するのです。
細々とおこなわれていたこの明帝国(1368年〜1662年)とのアヘン・絹交易は、1840年イギリス王国と清帝国(1616年〜1912年)との戦争につながっていくのです。これがアヘン戦争(1840年〜1842年)です。このアヘン戦争により、清帝国での絹製品生産がガタ減りとなってしまったのです。
そこで、イギリス東インド会社が目に付けたのが、古来から中国の下請けで絹製品を生産していた、鎖国の日本国であったのです。1849年イギリス船は、交易を求めて長崎に渡来するのです。この頃、フランスもロシアも、通商を求めて日本列島に来航するのです。しかし、幕府はこれを拒否するのです。
そこで、1853年、イギリス東インド会社の極東侵略基地であるマカオから、米使ペリーが四隻(二隻は帆船)の軍艦により軍事武力の威圧を示して、浦賀に来航し、通商を幕府に求めたのです。それに対して、幕府は開国の可否を諸侯有司に問うのです。そこで、幕府内では攘夷論派と開港論派との激論が戦わされていくのです。
それを仕切るのが、ペリーの来航のストレスで亡くなった徳川家慶の跡を継いだ、第十三代目将軍徳川家定です。徳川家定は、アテトーゼ・タイプの脳性麻痺の兆候があり、「なにごとにつけても理解が足りず、こと異国船のことなど一切おわかり」でなかったのです。
1856年(安政3年)開港論派の外様大名の薩摩藩主島津斉彬は、正室をなくした徳川家定に、養女敬子(すみこ、後の篤姫)を御台所として送り込むのです。しかし、徳川家定は、重い脚気を患い結婚生活をいとなむドコロではなかったのです。そして、1858年(安政5年)、急性心筋障害で35歳の徳川家定は亡くなるのです。
このことは、藤原氏により乳母として徳川家に送り込まれた春日局(お福)による、徳川家康毒殺と共通点があるようです。それは、島津斉彬は、鎌倉時代から藤原氏と姻戚であったからです。
この島津家の養女を近衛家(藤原氏本流)の養女とし、江戸幕府将軍に嫁がす戦略は、第十一代目将軍徳川家斉の時でもおこなわれていたのです。その戦術は、島津家の於篤(おあつ、後の茂姫)を近衛家の養女寔子(ただこ、後の茂姫)とし、第十一代目将軍徳川家斉に入内させていたのです。この徳川家斉の時代に、初代徳川家康の、騎馬民族の血が流れる紀伊・尾張・水戸の御三家が、百済の血が流れる田安・一橋・清水の御三卿に代わってしまったのです。
そして、幕府の倒壊は、その御三家の支配地であった水戸の浪士による井伊直弼の桜田門の変(1860年)と尾張のええじゃないか運動(1867年)とから始まるのです。
時代の変革時に必ず現れるのが藤原氏です。江戸時代末期、南九州薩摩藩に隠棲する藤原氏(近衛家)は、琉球王国を支配地としていたのです。そこで、南海交易の密貿易をおこなっていたのです。藤原氏は、日本産の絹を輸出するために、幕府の鎖国擁護派を解体したかったのです。
藤原氏の祖である中臣族(中→ナカ→ナーガ→ヘビ)は、四世紀頃、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来した民族で、奈良時代にユダヤ教儀式に酷似した中臣神道を発明した部族であったのです。その南海交易ルートにより、古来から南インド産出の沈香や香木を日本列島に持ち込んでいたのです。戦国時代では、火薬の原料の硝石や鉄砲を、その南海ルートから琉球→坊津→種子島→紀伊半島→雑賀→根来寺→本能寺へ密輸していたのです。
その藤原氏の南海ルートのひとつである琉球に、1844年リヨンの絹生産工場が求める繭を入手する目的でフランス船が来航し、そのことにより、薩摩藩はフランスと交易を始めたのです。
イギリス船やフランス船の来航は、1784年オランダ人医師ツンベルクが「日本植物志」を著し、日本列島の植物分布を調べていたことが遠縁となっていたのです。それは、江戸時代中期の日本列島に、シルクロードがあったからです。その日本版シルクロードとは、桐生→八王子→横浜であったのです。
1853年米使ペリーが、イギリスの極東侵略基地マカオから浦賀に来航したのは偶然ではなく、伊能忠敬の日本全図により、桐生・八王子で産出される絹製品を、江戸幕府に悟られずにイギリスに運び出すには、最適な港であると知ったからです。
1856年米総領事ハリスが下田に在住すると、まもなくして横浜の港町に赤レンガの倉庫群が建設されていくのです。それは、桐生・八王子から産出される絹製品を、秘密裏に海外に持ち出すためだったのです。
1775年イギリス王国とのアメリカ合衆国独立戦争の勃発により、1776年独立軍は アメリカ十三州の独立宣言をおこない、1777年サラトガの戦いと続いていくのですが、そのイギリス王国との戦闘に終止符を打ったのは、1778年アメリカ・フランス同盟条約が締結されてからです。このことは、江戸末期の明治革命での、1866年密貿易で犬猿の仲の薩摩藩と長州藩との同盟を連想させます。
その影には、アメリカのフリーメーソン・ロッジとフランスの「九詩神のロッジ」の存在があったのです。その仲を取り持ったのが、アメリカフリーメーソンのベンジャミン・フランクリンであったのです。では、日本国の明治革命では、薩摩藩と長州藩との軍事同盟の仲介したのは誰だったのでしょうか。坂本竜馬と答えると、それは藤原日本史の罠にかかったことになります。
1864年蕃書調所(後に東京大学となる。)の幕府役人西周(にしあまね)は、オランダの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ」で、「徒弟」「職人」として承認されたのです。その一ヵ月後、津田真道もフリーメーソンとして記録されたのです。
1862年江戸幕府は、蕃所調所の西周と津田真道を、西洋の政治・法律・経済を研究するためにオランダに留学させたのです。その指導にあたったのがライデン大学のフィセリング教授で、勿論フリーメーソンの会員だったのです。
1716年イギリス王国で成立したフリーメーソン組織により、十九世紀の世界では、「自由・平等・博愛」のスローガンの下で、「十三部族による新しい秩序に同意せよ。」とのミッションにより、放蕩貴族、国際金融家、医師、弁護士、教授、富豪商人などの上層階級フリーメーソン会員で繋がっていたのです。その最終目的は、「ワン・ワールド」です。
幕末の長崎出島に多く渡来したのがオランダの医師(ツンベルグ・シーボルト等)であったのは、蘭学塾で「ワン・ワールド」のために働く「兵隊」を養成するためだったのです。
その西周が、オランダでフリーメーソンの儀式で入会をおこなっていた頃、1864年イギリス陸軍第二十連隊の分遺隊が、横浜に駐屯し、アイルランド系の「軍事ロッジ」である「スフィンクス・ロッジ」が開設されるのです。その翌年1865年イギリスのグランド・ロッジの傘下として、「ヨコハマ・ロッジ・N0.1092」が開設されるのです。しかし、それらの各横浜ロッジでは、日本人の加入は許されなかったのです。
幕府側のオランダフリーメーソンと、その幕府を倒すために進駐した「軍事ロッジ」のイギリスフリーメーソンとが情報を秘密裏に交換することにより、明治革命が進行するのです。
明治革命が薩長土肥の「シシ・河原者」(「志士」は藤原日本史が発明)だけでおこなわれたのではないのは、西郷隆盛が江戸総攻撃をおこなう前、東海道先鋒総督参謀の長州藩士木梨清一郎と大村藩士渡邊昇は、フリーメーソンのロッジがある横浜のイギリス公使パークス(1856年アロー号事件により清帝国を戦争に導いた人物)を、江戸総攻撃の許しを得るために訪れていたのです。
しかし、幕府側の勝海舟が、もし、江戸を攻撃したら江戸も横浜も火の海にするという脅しをかけていたので、横浜で絹製品を保管している赤レンガ倉庫群を焼かれては困るイギリス東インド会社は、パークスに江戸総攻撃を中止させたのです。つまり、西郷隆盛と勝海舟との「江戸無血開城」の裏には、横浜のイギリス商人の思惑があったのです。
藤原日本史の特徴は、渡来民族や外国軍団の渡来を一切語らないことです。そして、日本列島の歴史の流れを、日本人のみで語っていることです。更に、渡来人も日本人として改竄して語っていることです。
例えば、飛鳥ヤマト時代の607年遣隋使ソ・インコウ(「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅(秦羅)のこと。)を「小野妹子」としたり、戦国時代にイエズス会宣教師と供に渡来した、砲撃の名手でイタリア人の十字軍マルタ騎士団のロルテスを「山科勝成」として語っていることです。
幕末の外国軍団の渡来は、イギリス軍だけではなかったのです。イギリス王国の海賊交易に対抗してフランス帝国も軍団を送り込んでいたのです。1867年シャノアーヌ以下19名の軍事顧問団が、横浜でフランス式陸軍の三兵伝習を始めたのです。勿論、革命軍側のイギリス軍事顧問団に対抗して、フランス軍事顧問団を招いたのは江戸幕府です。
明治革命とは、イギリス軍顧問とフランス軍顧問との戦いでもあったのです。1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗れた幕府軍の榎本武揚は、フランス軍事顧問のブリュネ、カズヌーブと、兵士のマルラン、フォルタン、ビーフィ、ニコル、コラシュ、クラトー、ブジェ、トリブ等と供に、函館に五稜郭を建設して、明治新政府からの独立を宣言したのです。しかし、1869年5月18日五稜郭は、イギリス軍事顧問率いる、薩長土肥による明治革命軍の総攻撃により陥落したのです。
では、この明治革命とは、一体、誰により、何を目的に、どのようにしておこなわれたのでしょうか。
歴史物語は、目的を持って昔物語を語るひとにより、異なります。ですから、百人いれば、百の歴史物語が生まれるのです。しかし、権力を握ったひとは、その権力者に都合の悪い歴史は、抹殺、或いは改竄するのが常です。
例えば、徳川家康が、弾左衛門一族の土木技術により、関東の湿地帯を開拓してエド町を造り、そのため、弾左衛門の居住地は、エド城の近く(現在の三越デパートのある日本橋室町近辺)にあったものが、第三代目将軍徳川家光の時代になると、その弾左衛門の居住地が、浅草寺裏の湿地帯に移封され、堀を廻らされ、更に仏寺で囲まれたのです。そして、その弾左衛門の居住地跡に、京都に本店のある越後屋が呉服店をだすのです。
第三代目将軍徳川家光の時代から、弾左衛門屋敷跡の日本橋界隈が、京都・大阪などの関西人の商売人が多く住んだのはなぜでしょう。そして、弾左衛門支配地であった人形町界隈に、京都で発明された歌舞伎の演劇小屋が建てられたのはなぜでしょう。何故、風俗芸である女歌舞伎が、霊を鎮める能芸の神聖な能舞台でおこなわれたのでしょうか。
江戸時代の歴史・風俗がよく分からないのは、明治新政府が、明治の支配者に不都合な江戸時代の歴史を抹殺、或いは改竄していたからです。
歴史の謎は、権力者により抹殺された歴史物語に、その解明のヒントが隠れているようです。江戸末期から明治維新にかけての謎も、その例に漏れません。
明治維新物語の謎を解く鍵のひとつとして考えられるのが、株式会社日本銀行(以降「日銀」)です。日銀は、1882年(明治15年)設立されたのです。その目的は、イギリス王国のイングランド銀行が、フランスとイスパニアと戦うための戦費を集めるために1694年設立されたように、日銀が設立されると、1894年日清戦争、そして、1904年日露戦争が勃発するのです。
そこで、日銀による日清・日露戦争の歴史を調べようとしても、1997年6月11日改正日本銀行法が参議院本会議で成立し、1998年施行され、日銀は国会の議員により日銀の行動不明な歴史を追求できないパンドラの箱に収まってしまったのです。
平成18年、日銀総裁(前歴は国際金融組織である米投資会社ゴールドマン・サックス顧問)が、脱税の天国であるケイマン島に本社を持つファンドに投資していたのが発覚したのです。しかし、マスコミは騒がず、野党も政府も追及できず、ノラリクラリ弁明する総裁は任期イッパイ、ゼロ金利を維持するお仕事に励んでいたのです。その結果が、平成19年アメリカ合衆国のサブプライムローンの破綻に繋がったのです。
それは、国際金融組織が、ただ同然の金利で借りた日本国のお金で、諸外国の金融商品を買い漁り、不当に金融商品を吊り上げた結果であったのです。では、日銀は、日本人のためではなく、誰のための金融組織なのでしょうか。この平成20年の全世界を巻き込んだ国際金融の混乱は、ある組織により計画された「事件」で、それは、「ワン・ワールド」への道程のひとつなのです。
しかし、不可思議な行動をする日銀の謎解明の手掛かりはあるのです。それは、初代日銀総裁の吉原重俊の出身が鹿児島県(江戸時代の薩摩藩)であることと、2005年の日銀の資本金一億円の内、政府が55%、残り45%が政府以外の株主であることです。その政府以外の株主構成は、個人39.2%、金融機関2.7%、公共団体等0.3%、証券会社0.1%、そして、その他の法人2.7%であることです。
犬猿の仲である薩摩藩と長州藩が、倒幕で軍事同盟を結んだのも謎ですが、明治革命後の、明治革命成功の功労者であった官軍指揮官の西郷隆盛と、イギリス王国より買い入れた最新式銃で武装した、切り込み部隊としての長州藩の奇兵隊とが、明治新政府から手酷い仕打ちを受けたのも謎です。つまり、明治革命の勝者である「西郷隆盛」と「奇兵隊」は、歴史上敗者であったのです。
日銀の39.2%を握る「個人株主」とは、一体誰なのでしょうか。勿論、株主名簿に記載されている複数人は、外国人の代理人であることは、大いに疑えます。それは、明治維新には、イギリス東インド会社の思惑があったからです。そこで、そのような視点で、幕末から明治維新を、もう一度ながめることにしましょう。
1641年第三代目将軍徳川家光により、鎖国が完成すると、日本列島はひと時の平安を貪るのです。1768年内宮と外宮の間にある古市の遊郭巡りを兼ねて、神仏習合の伊勢のお蔭詣りが流行するほど、天下泰平であったのです。しかし、1771年不凍港を求めるロシア帝国の船が阿波に漂着すると、江戸幕府は平安な夢心地から覚醒させられるのです。
そして、1783年浅間山の噴火により、農作物の被害が広がり、天明の大飢饉が、1788年まで続くのです。その結果、米価が高騰し、江戸・大阪で、天明の打ちこわしが起こるのです。混乱の時代は、新しい思想の登場求めます。それが、漢訳仏教思想に替わる、蘭学と国学です。
漢訳仏教思想は、民間の富永仲基や禅宗の白隠禅師からも、その思想の空虚さを指摘されるほど、江戸中期では衰退していたのです。それに対して、蘭学は、ツンベルグなどの蘭学医師などが、西洋の合理的・科学的思想を庶民の子弟に教授したため、外国文明に憧憬を持つ若者のこころを惹きつけたのです。その結果、1785年には日蘭辞典が発刊されていたのです。
それに対して、漢訳仏教の基である中華思想と、日本文化を破壊すると信じた蘭学に不快感を示すひと達が現れたのです。1763年万葉考を研究する賀茂真淵を本居宣長が訪れ、日本古来の思想を求める国学の興隆が芽生えていくのです。その国学者達は、漢語と異なり、飛鳥ヤマトで語られた万葉語は、日本古来の「まほろばの言葉」であると信じていくのです。
しかし、平安中期に完成した、その飛鳥ヤマトの「万葉語」とは、漢字を使った「表音文字」で、その祖は、アルファベット文字の流れにあったギリシャ・ローマ文化国の「古代新羅語」であったのです。
漢語を知らない古代新羅では、「表音文字」の道具として「漢字」を使っていたのです。それは、古代新羅は、ギリシャ文化継承国バクトリアから歴史の流れに沿っての渡来軍事部族により支配されていたからです。ですから、四世紀から漢訳仏教文化国の高句麗や百済が漢語を巧みに使い、中国大陸諸国と通商をおこなっていたのに対し、528年まで仏教文化国ではないため漢語を知らない古代新羅は、百済の通訳使を雇い、中国大陸諸国と通商をおこなっていたのです。
漢語で記述された「日本書紀」を嫌う本居宣長は、万葉語で記述された「古事記」の世界を「日本の原風景」として信じてしまったのです。しかし、「古事記」は、「日本書紀」の後に記述されていたのです。「古事記」は、完全な日本版万葉語で著述されていることから、奈良時代の712年完成ではないのです。それは、日本版万葉語が完成したのは、平安時代初期であったからです。
神仏習合の江戸時代で、この「古事記伝」を語る国学者により、日本古来のカミ(神)は、中国から渡来した仏などではなく、天照大神であると信じられていくのです。その国学思想は、南九州に隠棲する藤原氏には都合の良い思想であったのです。
それは、天照大神とは、日本国初の天皇である天武天皇(藤原氏は、「日本書紀」により、日本初の天皇を「神武天皇」とした。そのウソを隠すために、藤原氏は、江戸時代末期から明治革命にかけて神武天皇稜を創作していたのです。)により祀られた伊勢の道観に鎮座する神である北極星(太一)を、唐進駐軍の後ろ盾を得た藤原氏全盛の奈良時代に、秦氏の神である太陽神ミトラを変身させた、藤原氏が発明した「人工神」であったからです。
そのような国学思想が語られる時代に、ロシア船だけではなく、西洋諸国が開国を求めて来航するのです。この諸外国の軍艦による威圧外交を不快に思う若者が、国学思想に傾倒していくのです。そこで、国防となるのですが、第三代目将軍徳川家光時代から、「武士」ではなく、「サムライ」が支配する時代となり、更に、京都から江戸に来た歌舞伎演劇などの芝居で演じられた「武士」の日本刀による立ち回りにより、幕末には、「武士」の戦いは、「日本刀」でおこなっていたと信じられたため、国防に燃える若者により、道場での「剣道」が流行るのです。
江戸時代初期の「武士」の時代の道場で教えていたのは、剣道ではなく、槍術であったのです。1543年銃が渡来する前の「武士」の実戦的武器は、「日本刀」なのではなく、弓馬、そして、槍であったのです。
1651年紺屋の倅である由比正雪が乱を起こし、「武士」が「サムライ」により抹殺されたのですが、その「武士」である由比正雪が経営していた道場では、「剣術」ではなく、「槍術」を伝授していたのです。
「武士」の魂である「日本刀」は、実践的武器などではなく、神聖な武器で、敵将の首を落とすためのものであったのです。その「武士」が、「日本刀」での戦闘訓練などすることはありえなかったのです。
例えば、地上戦で、「直刀」の武人と、「反りのある日本刀」の武人とが対峙し、同時に刀を振り下ろした時、どちらの武人の刀が先に切れるかを想像すれば、日本刀が地上戦での実用的武器ではないことが理解できるでしょう。鎌倉時代に渡来した禅宗組織は、鎌倉の砂鉄で鍛造された日本刀を「美術品」として南宋に輸出していたのです。
日本刀は、騎馬民族の武器である、反りのある蕨手刀を改良して、平安中期に創作された、怨霊を鎮めるための祭祀用の武器であったのです。ですから、その日本刀は、政権の秩序を乱す国賊の断罪のための斬首の儀式に用いられていたのです。公開処刑は、現政権の威光を示すパフォーマンスであるから、庶民の集まる広場で、古来からおこなわれていたのです。その処刑での斬首をおこなう者は、誰でもよいわけではなく、代々の処刑祭祀氏族でなければならなかったのです。
江戸時代以前に、徳川家康が、大阪の役人村から、エドに移住させた一団には、処刑祭祀氏族がいたのです。その処刑での斬首のパフォーマンスは、1880年(明治13年)に制定された刑法により「斬」から「絞首刑」に替えられてしまったのです。その祭祀用である日本刀での斬首をおこなっていたのが、首切り浅右衛門一族であったのです。
幕末の「国賊」吉田松陰の首を、長吏頭弾左衛門の支配地の処刑場の小塚原で日本刀で切ったのも、浅右衛門であったのです。 この「国賊」の吉田松陰は、1859年穢多の支配地で斬首され、穢れ地に犯罪者と供に埋葬されたのですが、それから9年後の、1868年の明治革命での先駆者として「英雄」として尊敬されていくのです。何故、この9年の間に、「国賊」から「英雄」に変身していたのでしょうか。では、吉田松陰が斬首された後の9年間に何があったのかを考えてみましょう。

1858年(安政5年)■インドのムガール帝国セポイの反乱により「イギリス東インド会社(イギリス王国承認の私的合資組合)廃止」→商社として生き残る、英のインド直轄統治が始まりムガール帝国滅ぶ→英極東への本格的海賊交易始まる。
1859年(安政6年)越前藩・薩摩藩・土佐藩・宇和島藩・水戸藩の改革派である一橋派に対して井伊直弼による「安政の大獄」で大虐殺、吉田松陰斬首、プロテスタントの伝来、横浜にイギリス東インド会社の流れを組むジャーディン・マセソン商会設立、グラバー来日。
1860年(万延1年)桜田門の変で井伊直弼客死、老中安藤信正等が公武合体を策す、米語通訳オランダ人ヒュースケン暗殺、オランダ製咸臨丸浦賀からサンフランシスコに向い米大統領ジェームス・ブキャナンに謁見後9月品川沖に到着、艦長は軍艦操練所教授方頭取勝麟太郎、幕府「五品江戸廻令」で輸出品の統制をおこなう→上州・武州「絹裏街道」の発達(■英仏通商条約、英仏連合軍が清帝国の北京占領、英仏・ロシアと清帝国が南京条約を結ぶ、その後、清帝国内で1850年に始まった太平天国の乱が1864年まで続き国内荒廃する→★絹生産大激減)
1861年(文久1年)長州藩士長井雅楽が公武合体の議を建白(何故か後に藩論が一変する)、英公使館(東禅寺)襲撃、ロシア船が対馬侵寇、孝明天皇が幕府による攘夷実行誓約を条件に第十四代目将軍徳川家茂夫人として妹和宮降嫁。(■露農奴解放宣言、米南北戦争始まる)
1862年(文久2年)坂下門外の変で老中安藤信正襲われる→攘夷運動突入、島津久光が公武調停を企図、寺田屋騒動、生麦事件、京都守護職を置く、孝明天皇の朝議が攘夷に決する、薩摩藩の暗躍により朝廷の後ろ盾を得て安政の大獄で失脚した一橋慶喜(後の第十五代目将軍徳川慶喜)が将軍後見職として復帰、幕府貿易船千歳丸上海訪問、千歳丸乗員者は高杉晋作(長州藩)五代友厚(薩摩藩)中牟田倉之助(佐賀藩)峰源蔵(大村藩)、英公使館(御殿山)焼討ち、長州藩吉田松陰の遺骸を千住小塚原から荏原郡若林村に改葬→罪人から尊皇攘夷の精神的シンボルへ変身。(■仏サイゴン条約でコーチシナ占有、ロンドン万国博覧会)
1863年(文久3年)徳川家茂上洛、攘夷論最高潮、5月長州藩が外国船砲撃(★瀬戸内海が封鎖され横浜からの絹製品輸出困難)、7月薩摩英国戦争、8月18日の政変で攘夷論者失脚し七卿は都落ちし長州藩に滞在、長州藩公武合体論から尊皇攘夷論に転換、天誅組の変。(■仏カンボジアを保護国とする)
1864年(元治1年)池田屋騒動、藤田小四郎等が挙兵、7月蛤御門の変→長州藩朝敵、8月瀬戸内海封鎖を解くため清帝国で太平天国の乱に勝利した英仏米+露の四国艦隊が下関砲撃、第一回長州征討、イギリス陸軍第二十連隊の分遣隊横浜に駐屯、軍事フリーメーソン「スフィンクス・ロッジ」開設、11月長州藩謝罪、仏公使レオン・ロッシュ着任。
1865年(慶応1年)4月長州再征を令す、イギリス商社により綿製品の輸入激増、そのため物価が高騰し摂津や隠岐で打壊しが起こる、イギリスフリーメーソンのグランドロッジ傘下の「ヨコハマ・ロッジNo.1092」開設。(■米南北戦争終わる→英武器輸出激減→英ジャーディン・マセソン商会の傘下であるグラバー商会が薩摩・長州に武器セールス)
1866年(慶応2年)1月薩長連合の盟約成る、6月長州再征、7月徳川家茂21歳大阪城で心筋梗塞で死去(暗殺説あり)、徳川慶喜が第十五代目最後の江戸幕府将軍となる、長州再征軍を解く、江戸と大阪で同時に打壊し運動起こる。(■大西洋横断海底電線敷設、朝鮮でキリスト教大弾圧、仏艦隊が朝鮮江華島攻撃)
1867年(慶応3年)攘夷論者の孝明天皇死去(暗殺説あり)し明治天皇(天皇すり替え説あり)即位、名古屋でええじゃないか運動が起こり全国に波及、10月14日倒幕の密勅が薩摩藩に下る、徳川慶喜が大政奉還を乞うことにより江戸幕府滅ぶ、12月9日王政復古の大号令。(■マライ海峡植民地が英直轄地となる、パリ万国博覧会)
1868(明治1年)明治維新、鳥羽伏見の戦い、江戸城明け渡し、神祇官の設置、神仏分離令、廃仏毀釈運動起こる、五箇条のご誓文、一世一元の制、江戸を東京と改称。
1869年(明治2年)版籍奉還、東京横浜間電信開通、戊辰戦争終わる。

江戸末期から明治革命にかけての日本の歴史には、イギリスなどの外国勢力が大いに影響を与えていたのです。その中でも、イギリスの商社の影響力は大です。そのイギリス商社からの武器・弾薬供給の働きがなければ、圧倒的に兵隊数が幕府軍より少ない薩摩・長州連合軍は、明治革命に勝利できなかったでしょう。
江戸末期の道場で、「もののふ」である「武士」の歴史的意味を知らない「サムライ」の子孫達による「剣術」で武闘訓練していた幕府軍団と、清帝国内で太平天国の戦乱(1850年〜1864年、1864年下関を砲撃したのは太平天国軍団を壊滅した英仏米+露海軍)を勝利していたイギリス軍事顧問により軍事訓練され、アメリカ南北戦争で使用されていた銃と射程距離3千mのキャノン砲を装備した薩摩・長州軍とでは「戦」にもならなかったのです。
それらの最新式武器を薩摩・長州連合軍に供給していたのが、ジャーディン・マセソン商会の傘下の長崎「グラバー商会」であったのです。1859年来日した20歳台のグラバー商会の支配人トーマス・ブレーク・グラバーは、明治革命で活躍した、五代友厚(薩摩藩)、伊藤博文(長州藩)、坂本竜馬(土佐藩・グラバーのダミー会社の海援隊支配人)、岩崎弥太郎(後の三菱財団長)などを裏で支援、育成していたのです。
明治革命を裏で駆っていたジャーディン・マセソン商会は、1832年イギリス東インド会社(イギリス王国認定の私的合資組合)の元船医師ウイリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンとにより、中国広州に設立されたのです。
1842年アヘン戦争に勝利したイギリス帝国は、香港を植民地にすると、ジャーディン・マセソン商会も、本社を広州から香港に移すのです。その主な業務は、茶とアヘンの密輸です。そして、その事業で得た金をイギリス本国へ送金するために香港上海銀行を設立するのです。
アヘン戦争後荒廃した清帝国では、茶の生産も、ヨーロッパで需要がある絹製品の生産も激減してしまうのです。そこでイギリス帝国が目に付けたのが、極東の小島列島の日本であったのです。
このころの日本列島は、イエズス会か渡来した戦国時代に似て、騎馬民族の初代将軍徳川家康忠臣の流れを汲む井伊直弼が、第三百済王朝を支える藤原氏(薩摩藩の近衛家)と亡命百済貴族末裔の徳川御三卿の一橋家の流れにある氏族をイジメていた「安政大獄の時代」(騎馬民族末裔の開明派と漢訳仏教勢力の攘夷派対立時代)であったのです。その安政の大獄の、1859年イギリス東インド会社の流れを組むジャーディン・マセソン商会は、横浜に設立されたのです。
藤原日本史では、明治革命を日本人による日本人のための革命であると宣伝し、坂本竜馬なる人物を明治維新の英雄として描いているのですが、そのように、江戸末期にはイギリス東インド会社の流れを汲む死の商人達が渡来していたのです。
そして、藤原日本史では、吉田松陰を斬首した安政の大獄を、江戸幕府内での、ただの井伊直弼の政策反対者の弾圧劇として描いているようですが、その実態は、騎馬民族の流れを汲む徳川家康の「御三家」と、亡命百済貴族末裔である徳川家光の「御三卿」との覇権争いであったのです。
江戸時代も末期にもなると、庶民は徳川家康の騎馬民族系と徳川家光の亡命百済貴族系の二つの流れがあることを、「武士」と「サムライ」との違いが分からないように、理解できなくなっていたのです。
第三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝で、騎馬民族末裔の秦氏や武士は、その第三百済王朝の手先となった漢訳仏教思想により、賎民「穢多」、「俘囚の末裔」として貶められ、そして、その第三百済王朝の「サムライ」支配の江戸幕府組織から追放された「武士」は野に下り、「武士は食わねど高楊枝」などと、武士道の自尊心を失わずに野武士として渡世していたのです。
その第三百済王朝の江戸幕府が、1853年ペリー艦隊の来航により、揺れ動いたのです。その時期を逃さず徳川家康忠臣の流れを汲む御三家側の井伊直弼は、亡命百済末裔の御三卿派抹殺を企てたのです。それを、藤原日本史では、開国に反対した攘夷論派の水戸浪士による井伊直弼暗殺で「安政の大獄物語」を完結させてしまったのです。
そもそも尊皇攘夷のスローガンは、1866年薩長同盟以前では、流行っていなかったのです。その尊皇攘夷とは、元来別物で、尊皇とは天皇を敬い護ることです。攘夷とは外国人を打ち払うことです。
明治革命の尖兵となった薩摩藩と長州藩の「下級武士=シシ=賎民」(「志士」は藤原日本史の造語)と云われる者達の多くは、「サムライ」の末裔ではなく、「武士」の末裔だったのです。その武士とは秦氏を祖としているので、百済系孝明天皇などは護る対象ではなかったのです。
1877年西南の役で抹殺された西郷隆盛なども、孝明天皇を「ぎょく・玉」と蔑んで呼んでいたのです。何故、秦氏末裔は百済系天皇家を蔑むかといえば、それは、平安時代から江戸末期まで続く百済系天皇家では、錬金術師空海が、インドの騎馬民族差別のバラモン教思想を基に発明した真言密教のダキニ呪法により儀式をおこなっていたからです。
北条鎌倉時代の第二百済王朝で、騎馬民族系の秦氏末裔が賎民「穢多」と蔑まされた原因の基は、その錬金術師空海が、唐国から持ち込んだ思想の、「施陀羅悪人ナリ」(肉食する騎馬民族は悪人だ。)であったからです。
そのような騎馬民族を差別する空海が発明した真言密教で祀られた百済系天皇は、幕末の秦氏末裔にとって尊皇の対象ではなかったのです。平安時代から江戸末期まで、百済系天皇家では、藤原氏が奈良時代に発明したユダヤ教儀式に酷似した神道儀式ではなく、秦氏末裔を「穢多」の賎民としてイジメていた仏教儀式で政(まつりごと)をおこなっていたのです。
では、現在の天皇家では、神道(7世紀に藤原氏の祖中臣族が発明)で儀式がおこなわれているではないか、と言っても、それは、明治天皇がおこなった十三の神道による朝廷儀式の十二の古代風儀式は、飛鳥ヤマト時代からのものではなく、1868年明治革命で復活した藤原氏(薩摩藩の近衛家)により、江戸時代中期から明治革命直前にかけて発明された「古代風」儀式であったのです。
何故、江戸末期の秦氏末裔は、孝明天皇を敬っていないのかと言えば、それは、百済亡命貴族が、新羅系の日本初の天皇であった「天武天皇」家を、唐進駐軍の後ろ盾を得た、平安遷都をした百済系桓武天皇が乗っ取ったことを、秦氏末裔が伝承していたからです。
ですから、平安時代から幕末まで続く百済系天皇家では、天武天皇が道教思想で北極星(太一)を祀っていた伊勢の祠跡に、藤原氏により創作された天照大神を祀る伊勢神宮には、孝明天皇まで正式参拝していなかったのです。百済系天皇で正式参拝したのは、明治天皇からなのです。
では何故、薩長同盟を契機として尊皇攘夷思想が、薩摩藩・長州藩のシシ達に受け入れられたのでしょうか。その影響力を発したひとりが、長州藩の高杉晋作です。
高杉晋作は、吉田松陰の弟子で、師吉田松陰が唱えた、幕府の開国政策を非難し、朝廷の権威の確立と攘夷断行を唱え英公使館(御殿山)を焼討ちしたテロリストであったのが、1862年(文久2年)一橋慶喜が幕府高官として返り咲いた後、幕府貿易船千歳丸で上海(ジャーディン・マセソンやサッスーンの商館がある英仏の租界地)を訪問した後、師吉田松陰の遺骸を千住小塚原から荏原郡若林村に改葬し、罪人吉田松陰から「尊皇攘夷の精神的シンボル」へと変身させていたのです。
そして、1863年長州藩が、異国人嫌いの孝明天皇が唱える攘夷熱に浮されて、横浜港から絹製品を満載した英仏の貿易船に砲撃をした結果、翌年1864年清帝国の太平天国の乱を武力で鎮めた英仏米と露戦艦の下関砲撃により、長州藩を支配していた「サムライ」達が一掃されると、高杉晋作は、「サムライ」を主体とした長州藩正規軍ではなく、最新式武器で武装した賎民軍団を組織するのです。それが「奇兵隊」です。勿論、高杉晋作には、上海に貿易拠点を持つ死の商人ジャーディン・マセソン商会傘下のグラバー商会の影があったのです。
藤原日本史による明治革命物語がよく理解できないのは、何故、幕府の開国政策を非難していた攘夷論者の吉田松陰が、明治革命のシンボルになったのかということです。そして、敵側の江戸幕府将軍であった第十五代目将軍徳川慶喜と江戸幕府海軍指揮官の勝海舟とその部下の榎本武揚が、明治革命軍に敗れた後、断罪もなく生き延びただけではなく、勝海舟や榎本武揚などは、敵側である明治新政府の高官として働いていることです。これには、福沢諭吉も疑義を唱えていたほどです。
その、明治革命の謎は、吉田松陰が斬首されてから「9年間」にあるのです。その「9年間」の謎を解く鍵は、英公使パークスの行動にあったのです。イギリス王国(東インド会社)は何を目的に、1856年から1860年まで続いた、清帝国との、アロー号戦争を画策したパークスを、日本国への英公使として送り込んできたのでしょうか。
イギリス王国と言うよりも、イギリスを金融で支配する国際金融組織(第十三部族)は、極東の小島列島の日本国を支配下に置くことの目的のひとつが、ロシア帝国の壊滅だったのです。
1547年イヴァン4世は、全ロシアのツアールと宣言することで、ロシア帝国が誕生したのです。しかし、イヴァン4世は、カスピ海沿岸に暮らす、8世紀にユダヤ教に改宗したカザール国の住民であった、第十三部族の白系ユダヤ人を虐げていたのです。
ロシア人の祖は、ローマ帝国からスラヴ人と呼ばれていたのです。スラヴとは、奴隷の意味です。ですから、スラヴであるロシア人は、ローマ帝国には、好意的ではなかったのです。
862年にルーリックのノヴゴロド王国から興ったと伝承されるロシアは、395年東西ローマ帝国に分裂した、東ローマ帝国文化を継承し、更に、十世紀頃には、ロシア人の多くはギリシャ正教に帰依していたのです。そして、1589年には、ギリシャ正教から民族色の強いロシア正教が独立して、ロシア総主教座が創設されたのです。
392年「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、イエス・キリスト)と唱えるユダヤ教ヨシュア派がローマ帝国の国教ローマ・キリスト教となったのですが、そのローマ・キリスト教の祖とは、ユダヤ教ヨシュア派とミトラ教との教義を改竄したものであったのです。
ですから、その東ローマ帝国のキリスト教文化と袂を分かったロシア正教は、カスピ海沿岸に暮す、8世紀にユダヤ教に改宗していた第十三部族の白系ユダヤ人を迫害していたのです。そして、そのロシア正教を国教とするロシア帝国内では、東ローマ帝国で国際金融業者として活躍していた第十三部族の国際交易商人が排除されていたのです。
第十三部族の祖は、紀元一世紀から中国とローマとの絹交易中継をおこなっていた、国際交易商人国カザールであったので、十九世紀には、各国の金融を支配していたのです。その例外が、スラヴ人のロシア帝国であったのです。
イギリス王国の金融を支配していた第十三部族の目的のひとつは、同族民をイジメるロシア帝国の壊滅であったのです。そのために、イギリス軍が手先となって使われていたのです。
明治革命が、イギリス東インド会社の思惑で実行された根拠のひとつとして、1904年の日露戦争があります。この戦争は、1902年日英同盟が成立すると、イギリスは、軍事費の工面から、軍艦の工面だけではなく、日露戦争の勝敗を決めた日本海海戦(対馬沖海戦)での戦闘の指揮までおこなっていたのです。その日本海海戦で、日本軍艦船で指揮をとっていたのが、イギリス武官である、アーネスト・トロウブリッジ、ウィリアム・パッケンハイム、ジャクソン、ハッチン等であったのです。
その日露戦争の戦費を工面したのが、イギリス東インド会社の流れを汲む第十三部族の商社であったのです。その商社により、1882年株式会社日本銀行が創設されていたのです。そして、その株式会社日本銀行創設には、明治革命の「9年間の謎」が繋がるのです。
1863年長州藩は、異国人嫌いの孝明天皇の攘夷熱に浮かされて、横浜から絹製品を満載した英仏の交易船を下関から砲撃するのです。その頃、横浜からイギリスに向け船出をした者がいたのです。それらは、長州藩の開国派の、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹輔、山尾庸三であったのです。
この英仏船を攻撃する攘夷行動とイギリス留学との矛盾する長州藩の行動は、何を意味するのでしょうか。この「長州ファイブ」(五人組)の謎の行動は、1862年(文久2年)高杉晋作が、幕府貿易船千歳丸で上海(ジャーディン・マセソンやサッスーンの商館がある英仏の租界地)を訪問したことで解明できるのです。
日本の歴史を支配する藤原氏の得意な戦術は、「夷を以って、夷を制す」です。これと同じことを、イギリス東インド会社のメンバー達が、明治革命でおこなったのです。
それは、「夷」である長州藩を潰すのに、長州藩内の「夷」を使うのです。その長州藩内の夷とは、賎民「穢多」と、その同族である武士末裔である「卒族」である「足軽」です。長州ファイブのひとり、伊藤博文は、その足軽が出自であったのです。
第三百済王朝の江戸時代、漢訳仏教思想でイジメられていた長州藩の賎民「穢多」や「足軽」達は、「シシ」となり、百済系「サムライ」が支配する江戸幕府の打倒を目指していたのです。三十数年前の天保の大飢饉でも、長州藩の賎民を中心とする一揆活動は、他国よりも激しいものだったのです。
その長州藩の賎民「夷」を束ねたのが、上海帰りの高杉晋作であったのです。1863年1月、高杉晋作は、伊藤博文等と共に、長吏頭弾左衛門支配地の小塚原から吉田松陰の遺骸を掘り出して、荏原郡若林(東京都世田谷区)に改葬するのです。その時に、高杉晋作は、吉田松陰の改葬に関して、久坂玄瑞から手紙を受けるのです。その手紙には、次のような一文があったのです。

「浮屠(仏教僧侶の蔑称)に託し候ては相叶わず候。神葬之式は何卒俊輔・真五郎などへ御命じ、和学者に御尋ねを下さるべく候」

久坂玄瑞は、「シシ」達の尊皇攘夷のシンボルとする吉田松陰の改葬の儀式は、賎民「穢多」・「足軽」の敵である外来宗教の漢訳仏教儀式でおこなうことを禁止させていたのです。そして、吉田松陰の改葬は、日本古来の宗教と勘違いされた「神道」の儀式でおこなわれてしまうのです。
「神道」は、藤原氏が、漢訳仏教渡来後の七世紀に発明した宗教であったのです。しかし、江戸時代の庶民は、1778年(安永7年)から1798年(寛政10年)にかけて創作された、漢訳仏教嫌いの本居宣長の「古事記伝」により、日本古来の宗教は、藤原氏が発明した、天照大神を祀る「神道」であると刷り込まれてしまっていたのです。
元々日本古来の宗教には、「ケガレ」思想などなかったのです。ですから、穢れ祓いの儀式をおこなう、中臣神道は、日本古来ではなく、漢訳仏教と同じに、外来宗教であったのです。
日本列島古来の精霊である「モノ」は、「貴」も「賎」も区別なく、日本列島のすべての物に宿っていたのです。この「精霊はすべての物に宿る。」、という思想は、太陽神を祀る宗教思想の、「すべての物を照らし護る。」、という思想と同じことから、やがて、オリエント渡来の秦氏の太陽神を祀るミトラ教(平安時代の権力者により「魔多羅」と改竄された。)と習合していくわけです。
そのすべての物に宿る精霊の「モノ」思想は、秦氏末裔である武芸者の「武士」が、「もののふ」(モノ=精霊の僕)と云われる由縁となっていたのです。
「武士」と「サムライ」との違いのひとつは、この武芸者である「もののふ」であったかどうか、ということです。平安時代に発生した「サムライ」とは、秘書兼ガードマンとして、亡命百済貴人の側に侍う(さぶらう)剣(諸刃の直刀)で武装したひとが祖であったのです。因みに、「武士」は、反りのある刀(片ほうしか刃がない、「カタハ」が語源)であったのです。
幕末に流行った、道場での武闘訓練が、日本刀の歴史を知っていれば「刀道」と言うところを、「剣道」と言われたのは、江戸時代が、百済系の「剣」で武装していた「サムライ」の末裔が支配していたからです。
その七世紀半ばまで河内・飛鳥ヤマトを支配していた秦氏の太陽信仰のミトラ教を抹殺、改竄するために、藤原氏により発明されたのが、ミトラ教の太陽神の化身である牡牛を屠る祭祀場を破壊した跡に建設された、春日社の若宮で「ケガレ祓い」をする中臣神道であったのです。
中臣神道が発明された奈良時代では、神道の神を祀る所は、「宮」と言われ、神社(ジンジヤ)とは言われてはいなかったのです。「ジンジャ」とは、明治革命後に発明され言葉だったのです。それ以前は、「神社」は、「モリ」、「ホコラ」、「ヤシロ」と言われていたのです。
この吉田松陰の遺骸が、百済系天皇家や第三百済王朝の江戸幕府を祀る「仏式」ではなく、薩摩藩に棲息する藤原氏の祖が発明した「神式」で祀られたため、イギリス東インド会社に支援された薩摩藩に棲息する藤原氏(近衛家)の傀儡島津氏が発明した「尊皇攘夷」のシンボルとなり、その結果、反仏教の賎民「穢多」と「足軽」は、その仏教派の江戸幕府打倒の尖兵である、イギリス式軍団である「奇兵隊」として、イギリス東インド会社に利用されていくのです。
その反仏教の賎民軍団の「奇兵隊」を組織したのが、武器密輸入のグラバー商会の親会社ジャーディン・マセソン商会の商館がある上海から帰国した高杉晋作であったのです。
では、長州藩の密偵として活躍していた足軽の伊藤博文が、イギリス東インド会社(ジャーディン・マセソン商会)の意向によりイギリスに留学させられたのは、何が目的だったのでしょうか。
1870年、伊藤博文等長州ファイブがイギリス留学から帰国すると、大阪の造幣局が、イギリスの植民地香港から輸入したイギリス製の造幣印刷機で紙幣を刷り始めるのです。その大阪造幣局の初代局長は、長州ファイブの井上馨で、その後、井上勝、伊藤博文、遠藤謹輔と順繰りに局長として就任していたのです。
そのイギリス製の造幣印刷機を香港から輸入したのが、1865年アメリカ南北戦争が終結したため不要になった銃を高杉晋作の「奇兵隊」に売りつけていた、ジャーディン・マセソン商会の傘下にあるグラバー商会であったのです。
その翌年、1866年密貿易のライバルであった薩摩藩と長州藩とが、グラバーのダミー会社である亀山社中の坂本竜馬の斡旋により、武器の共同購入のために薩長同盟が締結されたわけです。
イギリス東インド会社は、明治革命中の軍事支配の画策だけではなく、明治革命後の経済支配にも画策していたのです。
1871年造幣局局長となった伊藤博文は、日本国の基本通貨として、米1ドル金貨(1500mg)と等しい、1円金貨を建言するのです。では、江戸時代での基本通貨の呼称である両、銭から、何故、「円」の呼称が現れたのでしょうか。
その明治時代に、日本国基本通貨呼称となった「円」とは、イギリスの植民地である香港で使われていた「香港壱圓」の「圓」を借用したものであったのです。この香港通貨の「圓」は、日本国では「円」となったのですが、中国では、「圓」と同音字の「元」となり、そして、韓国では、「圓」の朝鮮語読みである「ウォン」となるのです。
異国を支配する方法は二つ、ひとつはストロングパワーである「軍事」で、もうひとつはソフトパワーである「経済」です。その経済は、通貨を支配することでコントロールすることが可能なのです。
1894年英仏露の不平等条約で疲弊していた清帝国に、明治政府は宣戦布告し、イギリスの軍事・軍費支援で勝利すると、1895年下関条約を調印し、遼東半島、台湾割譲、賠償金2億両を得るのです。その清帝国からの賠償金により、1897年貨幣法が制定され、紙幣の金兌換が成立したのですが、1円の金平価は、当初の1500mgから半分の750mgに半減させられ、しかも、その賠償金による金兌換準備充当正貨は、なんと、イギリスに持ち出されていたのです。
日本国の経済の「血」である「お金」の価値を保障する金兌換準備充当正貨が、日本国にはなく、イギリスにあった、ということは、明治時代の日本国は、イギリスの経済的支配下にあったということです。この本位金貨が流通停止となったのは、1987年(昭和62年)6月1日であったのです。
明治革命がイギリス東インド会社のシナリオで行われたと言う根拠のひとつとして、明治革命後の日本国を経済支配するために、大阪造幣局の創設のシナリオが、明治革命と同時に計画されていたことです。
イギリス東インド会社は、革命成功後、大きく分けて仏教信仰(亡命百済民末裔)、神道信仰(藤原氏末裔)、太陽神信仰(秦氏末裔)の三つの異民族で構成されている日本国を統治する方策も考えていたようです。
その方策とは、平安時代から江戸末期まで百済系天皇家を祀っていた空海が発明した真言密教のダキニ呪法に替えて、薩摩藩に棲息する藤原氏の祖が奈良時代に発明した中臣神道を改良して、新日本国の中心思想として取り込むことです。これが、明治維新で発明された「国家神道」です。
その新天皇を祀る「国家神道」を創作するためには、仏教寺に習合されていた全国の神宮寺や祠を、仏教寺から分離する必要に迫られるわけです。更に、藤原氏が「日本書紀」で発明した日本初の天皇であるとする神武天皇の稜(墓)を急いで創作するする必要もあったのです。そして、天皇家が「神道」儀式で古来から祀られていたとする「神宮」も創作しなくてはならなかったのです。これらのことは、明治革命と同時に遂行されていたのです。
仏教儀式で祀られていた天皇家を、古来から神道儀式で祀られていたと、摩り替えるトリックが「伊勢参り」の「ええじゃないか運動」です。江戸末期の「ええじゃないか運動」のドサクサに紛れて、日本初の天武天皇が道教思想で北極星(太一)を祀った伊勢の「道観」が、奈良時代には藤原氏により発明された天照大神を祀る「伊勢神宮」となり、平安時代には神仏習合の「神宮寺」が立ち並ぶ伊勢は、江戸時代末期には日本古来(?)から神道儀式により天皇家の「神・天照大神」を祀っていたとする伊勢神宮の聖域となってしまい、今日に至るわけです。
これらの神道世界の基礎を作ったのが、仏教嫌いの本居宣長であったのです。本居宣長は、「古事記伝」で日本神話を創作しただけではなく、近畿にある巨大古墳群を、藤原氏が「日本書紀」で創作した歴代天皇稜と結びつけ、命名していたのです。それらの本居宣長が命名した、例えば、仁徳天皇稜などは、現代ではこころある考古学者は、近畿の巨大古墳の天皇陵を否定しています。
その江戸時代末期の庶民の意識を仏教世界から神道世界へ摩り替えるためのトリックである「ええじゃないか運動」が始まる前年、1867年徳川御三卿の第十五代目将軍徳川慶喜が、横浜に駐留するフランス進駐軍の援軍を断り、鳥羽伏見の戦いから脱走し、大阪の天保山沖に停泊していたオランダ製開陽丸に乗船し、江戸に帰り着き、大政奉還を願い出、王政復古の大号令が出される前に、坂本竜馬、高杉晋作、中岡慎太郎、そして、孝明天皇が死去していたのです。
それらのひと達は、坂本竜馬は暗殺でしたが、病死とされていたのです。しかし、明治革命の中心人物の死は、謎に包まれているのです。
明治革命の発端である攘夷を唱えた異国人嫌いの孝明天皇は、攘夷を唱えたけれども、薩摩藩や長州藩のシシ達が唱える倒幕には反対していたのです。何故ならば、京を支配する朝廷と、江戸を支配する御三卿とは、平安時代に唐から輸入された天台宗仏教を祀る亡命百済の血が流れる同族であったからです。
攘夷派の孝明天皇は、1866年12月25日に崩御になったのですが、その十日前までは元気でいたのです。この孝明天皇が急に崩御すると、水戸藩9代藩主徳川斉昭が最初に唱えた「尊皇攘夷」のスローガンが、「尊皇開国」となってしまったのです。
この孝明天皇の謎の急死は、1865年第二次長州藩征伐に上京していた第十四代目将軍徳川家茂が、1866年4月まで大阪城内で乗馬や鉄砲の訓練をしていたのに、第二次長州征伐中の7月に21歳で急死しているのです。7月に倒れた徳川家茂の治療に携わったのが、「漢方医」ではなく、何故か「蘭方医」であったのです。そして、長州征伐は、徳川家茂の死により中止となっていたのです。
藤原日本史の明治革命物語がよく理解できないのは、攘夷論者の孝明天皇の熱に浮されたことにより、1863年長州藩が下関を通行する外国船に砲撃したのに、長州藩は江戸幕府の中心勢力から外され、朝敵となってしまうのです。そのきっかけとなった1863年7月蛤御門の変では、長州藩を撃退したのは、会津藩と薩摩藩でその指揮を執ったのが、それから三年後に起こった鳥羽伏見の戦いの途中で脱走した、第十五代将軍となる前の、藤原氏(島津氏はエージェント)傀儡の一橋慶喜であったのです。
その攘夷派の中枢勢力である長州藩は、第十四代目将軍徳川家茂が21歳で急死すると、一橋慶喜が第十五代将軍となり、第二次長州征伐が中止となり、救われるのです。その第二次長州征伐中止の6ヶ月前に、蛤御門の変で敵味方として戦った薩摩藩と長州藩とが、武器商人グラバーの斡旋により軍事連盟を締結していたのです。
これらの明治革命に至る一連の謎は、薩摩藩を支配する藤原氏(近衛家)とイギリス東インド会社(グラバー商会の親会社ジャーディン・マセソン商会)とによる明治革命のシナリオの流れにあったのです。
では、孝明天皇(1846年〜1866年)は、誰により幕末の政治舞台に現れ、攘夷を唱えたのでしょうか。
騎馬民族末裔である初代将軍徳川家康は、同族の秦氏末裔を賎民として、平安時代からイジメぬいていた亡命百済貴族の基である百済系天皇家を、紫衣着衣の禁止などでイジメるのです。そして、後水尾天皇(1611年〜1629年)を退位させ、徳川家康の息子第二代目将軍徳川秀忠は、娘を女帝明正天皇(1629年〜1643年)とすると、宮廷に鍵をかけて天皇の外出を禁じていたのです。幕末、その徳川家康の指示による二百数十年の禁を破ったのが、「賀茂行幸」の名目で禁門から外出した孝明天皇であったのです。
その攘夷を唱える孝明天皇が崩御すると、明治天皇が即位し「尊皇開国」となった謎、そして、仏教文化から神道文化に激変した謎は、どのように説明できるのでしょうか。
孝明天皇の葬儀は、「明治天皇紀」によれば、読経や焼香が炊かれる仏式でおこなわれ、ひどく簡略であったようです。

朝廷、山陵奉行、大和守戸田忠至に命じて其の制を調査せしむる所あり。忠至、答申書を上り奏して曰く、中古以来、荼毘の風習久しきを成し、万乗の玉体を灰燼に委してたてまつり、陵所には僅かに石塔を樹て之れを標するに過ぎざるが如き其の薄葬実に恐懼に堪へざるものあり。

その孝明天皇が1846年即位すると、奈良時代の藤原氏が、日本初の天武天皇が発明した、冬至の日におこなう一世一代の天帝(北極星・太一)から帝位を授けられるとする「大嘗祭」の儀式を改竄して、毎年秋の収穫祭としての「新嘗祭」を発明し、その新嘗祭の儀式のなかで、藤原氏の娘達が貴人の前でおこなう五節舞が、復活するのです。
このインドのサリー風の薄絹を纏って若い娘が舞う、天女羽衣の衣装による「五節舞」とは、インドのバラモン教の儀式で裸同然の娘達が貴人の前で踊る儀式と同じで、天皇やその貴人達に、「藤原の娘」を嫁がすシステムでもあったのです。
江戸末期、第十三代目将軍徳川家定に、近衛家(藤原氏の主流)の養女敬子(すみこ)を嫁がせ、篤姫としたのは、正に、藤原氏の政治戦略の伝統的システムであったのです。その篤姫の活躍で、攘夷派の第十四代目将軍徳川家茂は、21歳で急死し、藤原氏(近衛家)が推薦した、御三卿の一橋慶喜が、第十五代目将軍徳川慶喜となり、薩摩・長州軍との戦闘最中に脱走し、江戸幕府は倒れるのです。
藤原氏が、日本列島史で暗躍できたのは、南インドのマラバル沿岸から渡来した、藤原氏の祖である中臣族(ナカ→ナーガ→蛇・信仰族)が、祭祀氏族であったからです。その藤原氏は、イギリス東インド会社の後ろ盾で明治革命が成功すると、亡命百済貴族末裔が支配していた第三百済王朝の江戸仏教国家を、藤原氏の神道国家に変身させるのです。
その仏教国から神道国への変身の仕掛け造りは、1613年イギリス東インド会社の平戸交易と供に始まっていたのです。
仏教国から神道国への流れは、1768年伊勢お陰詣り流行(神道思想の宣伝)→1778年本居宣長による「古事記伝」上巻刊行(日本国神話による、外来宗教として仏教思想の否定)→1833年京都エライコッチャ踊り流行(寺請制度による仏教統制からの庶民開放)→1867年名古屋ええじゃないか運動(神仏習合から「神」を分離する伊勢信仰の発揚)→1868年神仏分離令・廃仏毀釈運動(神仏習合の「神宮寺」から仏教施設を破壊して「神宮」の分離)→秦氏の祖を祀る「塚=土の家=墓」を封印していた「ホコラ・ヤシロ・モリ」を「神社・ジンジャ」と呼称(古代からジンジャで「神」が祀られたとのトリック)→江戸時代の秦氏末裔を賎民としてイジメていた寺請制度を真似て、全国民を「ジンジャの氏子」とする(賎民である騎馬民族末裔・秦氏末裔を「新平民」としての取り込み)→「ジンジャ」で「お神輿」を担ぐお祭りイベントの発明(明治天皇を「神の使い・天子」(テングリ)とするイベント)→1890年刑事訴訟法(不敬罪の成立→明治天皇の謎と皇族出自の欺瞞性の隠蔽)・教育勅語下賜(学童に神国ニッポンの刷り込み)→「神国ニッポン」の完成、となるのです。
そして、何故か、この明治革命で誕生した「神国ニッポン」の支配組織の頂点にある天皇家と皇室の組織・服装が、イギリス王室のコピーであったのです。
そして、不思議なのは、1867年12月9日に、「天皇制」が発令されたと藤原日本史は述べるのですが、それは、「天皇制復興」ではなく、「王政復興」なのです。その藤原日本史にある「王政復興」の「王政」とは、もしかして、「イギリス王政」のことなのでしようか。
明治革命で、グラバー商会から買い込んだ最新式武器で活躍した薩摩藩・長州藩のシシ達の、打倒対象は、第三百済王朝の江戸幕府と、騎馬民族系の天武王朝を乗っ取った、平安時代からの百済系天皇家であったのです。ですから、イギリスのソフト支配下にある明治新政府は、それらの「シシ達」をなだめるためのトリックをおこなっていたのです。
それが、北朝の光厳天皇系と、南朝の後醍醐天皇系の摩り替えです。つまり、孝明天皇は北朝の光厳天皇系ですから、その敵対している南朝の後醍醐天皇系の末裔を天皇として摩り替えることで、長州・薩摩のシシ達を宥めるというトリックです。
孝明天皇は北朝系ですから、その息子も北朝系であるはずです。しかし、明治天皇は、北朝系の血筋ではなく、長州藩に棲息していた南朝系の血筋の大室寅之祐に摩り替わっていたのです。
その天皇すり替え説の根拠は、1868年神仏分離令が発令されると、廃仏毀釈運動が全国で起こり、神仏習合の神宮寺は、徹底的に破壊され、その跡に「ジンジャ」が創設されるのです。その創設「ジンシャ」は、もし、明治天皇が孝明天皇の実子であれば、父孝明天皇は北朝系ですから、当然、実子である明治天皇も、北朝系の天皇を「ジンジャ」を創建して祀るはずです。
しかし、明治天皇と明治新政府は、南朝の後醍醐天皇を祀る吉野神宮をはじめ、その実子の護良親王、尊良親王、桓良親王、宗良親王、懐良親王など、北朝系ではなく、南朝系の天皇家を祀る「ジンジヤ」や「神宮」を創建したのです。
更に、明治新政府は、1868年(明治元年)宮中で真言密教の仏式で祀っていた天皇家の先祖の位牌を、真言宗泉涌寺に移すのです。しかし、歴代と言っても、その孝明天皇の宮中にあった歴代天皇の位牌には、天武天皇から女帝称徳天皇までの位牌はなかったのです。それは、騎馬民族末裔で新羅系の天武天皇と百済系の桓武天皇とは、宗教が異なる異民族であったからです。つまり、天皇家は、藤原日本史が述べているのとは異なり、万世一系ではなかったのです。
攘夷派で、反倒幕派の孝明天皇は、藤原氏の開国派にとっては、倒幕の密勅を発するには、相応しくない人物であったのです。そこで、孝明天皇は、密勅を発する前年、急死し、その16歳の息子陸仁皇子が、急遽帝位を引き継ぐのですが、可笑しなことに、天皇即位儀式では、十六弁の菊紋ではなく、徳川氏の紋所の葵が使われ、更に、新調ではなく、古物の張袴と横目扇などを使っておこなわれていたのです。
陸仁皇子についての不思議は、更にあるのです。それは、何故か、「明治天皇紀」には、明治天皇が大人の仲間入りをするための「元服の儀式」についての記述が、欠如しているのです。
そして、不思議なことに、16歳まで女官にかしずかれて育てられたために中性的な陸仁皇子は、13歳の時の蛤御門の変で長州軍の流れ弾が御殿に着弾した時、長らく失神していた程繊細だったのに、16歳で帝位を継ぎ明治天皇に変身すると、女性的な公家風から、乗馬と相撲が得意な長州風(武家風)に変身していたのです。そして、その側近も、女官から、長州と薩摩の藩士に代わり、その藩士を監視をしていたのが、卒族と言われた足軽上がりの、1885年日本初の内閣総理大臣となり、1909年ハルピンで暗殺された、明治革命のドサクサにイギリス留学をしていた伊藤博文であったのです。
そして、即位した明治天皇は、1867年10月14日、藤原氏が支配している薩摩藩に対して、倒幕の密勅を発するのです。
藤原日本史によれば、「天皇」は瑞穂の国では最高位で、「おおきみ」(王)とは、その臣下の豪族の長であったはずです。飛鳥時代(古墳時代)、天皇家を支配した大臣(おおおみ)である蘇我氏一族を、645年に滅ぼしたのが、「大化の改新」と云われる革命であったはずです。
この朝鮮半島での革命にソックリな「大化の改新」の革命劇で、藤原氏の祖中臣族が突然政権に現れたのです。そして、蘇我一族を滅ぼした、中大兄皇子と中臣鎌子(後に藤原鎌足となる)が王権を握ると、仏教興隆の詔を発し、飛鳥ヤマトを、再び、天皇家により支配しました、と言うのが、藤原日本史が語るところなのです。
この藤原日本史が述べる「大化の改新」と、「王政復興」とには、共通点が多くあるようです。そのひとつに、天皇の藤原氏によるロボット化です。そして、「大化の改新」では、飛鳥ヤマトでの景教(ミトラ教)と道教とが、仏教に盗り替わったのが、「王政復興」では、仏教から神道に盗り変わったことです。それらの宗教の取替えは、共に、祭祀氏族末裔の藤原氏がおこなっていたのです。
中臣族(後の藤原氏)は、「大化の改新?」の革命後に、景教や道教の宗教施設を完全に破壊した跡に、北九州から多くの仏寺を移築し「飛鳥寺」「法隆寺」などと命名し、オリエント文化の飛鳥ヤマトを、仏教文化都市に摩り替えていたのです。それに対して、明治革命に成功した近衛家(藤原氏の主流)は、江戸時代の日本列島を漢訳仏教思想で支配した拠点の神仏習合の新宮寺を、明治革命後に徹底的に破壊して、その跡に、「神宮」「ジンジャ」を創建して、神国ニッポンを演出していたのです。
そして、「大化の改新?」の後、飛鳥ヤマトは、朝廷が「唐風」に激変していたのです。それに対して、「王政復興」の後には、明治政府は「イギリス風」に激変していたのです。それは、その二つの革命は、「大化の改新?」は唐進駐軍の後ろ盾で、そして、「王政復興」はイギリス東インド会社の後ろ盾を利用して、藤原氏(中臣族)が外国勢力の傀儡権力者となって、日本列島を支配したからです。
では、明治革命後に、神仏習合の神宮寺を破壊した後に発明された、神道を象徴する「ジンジャ」とは、一体、何なのでしょうか。そして、その明治革命後に発明された「ジンジャ」と、奈良時代に発明された「神宮」との違いは何なのでしょうか。その「ジンジャ」の謎を解くことで、藤原氏と亡命百済貴族が、平安時代から賎民としてイジメ抜いていた秦氏の謎が、解明できるようです。
藤原日本史が、曖昧にしている事象はいろいろありますが、その内でも、「武士」と「サムライ」の異なる歴史的背景の説明と、「平家」と「平氏」との異なる歴史的背景の説明は、曖昧です。ですから、歴史に興味がないひとは、それらの事柄は、単なる呼称の違いに過ぎないと、軽く考えているようです。
しかし、「武士」と「サムライ」の出自は異なるし、民族も異なるのです。そして、「平家」と「平氏」も同じに、民族が異なるのです。
「平家」とは、戦国時代、イエズス会の傀儡となり近畿一帯を軍事支配した、尾張の武将織田信長の祖で、その祖は、平安時代に、伊勢湾一帯を支配していた、アラブ・インドから渡来の海洋商業民族であったのです。
「平氏」とは、ツングース系の亡命百済民末裔の百済系桓武天皇の武将で、825年淳和天皇(823年〜833年)より賜姓された、「公家桓武平氏」の官位であったのです。
それに対して、「平家」とは、平安時代末期、「五節の舞」のシステムで百済系天皇家をロボット化している藤原氏の私兵「武家源氏」に対抗するために組織された、白河上皇の「私兵」であったのです。つまり、「平氏」は官位で、「平家」はただの呼称であったのです。
その「平家」の祖、平正盛は、伊勢から京に進出するのですが、その拠点が、賀茂川の東岸の死者が流れ着くために、髑髏ヶ原(「ドクロガハラ」が、後に「六波羅」と改称)と呼ばれた湿地帯であったのです。その地は、「平家」の祖の渡来元のインドのギオンに習って、祇園と呼ばれていくのです。
ですから、「平家」は、平安王朝を支配していた百済系貴族より、河原者の賎民と呼ばれていたのです。その「平家」の祖が、髑髏ヶ原で行う、ペルシャ絨毯で飾る山車(山車の祖は「船」・平家は海洋民族末裔)を曳きまわす「ギオン祭り」が行われる頃、京の都の貴族達は、「ケガレ」が付かないように、その「ギオン祭り」が開催される間、神輿違えと言って、京都の町から避難していたのです。
では、その賎民の「平家」が、後白河上皇の私兵となり、貴族の仲間入りが出来たのは、何故でしょうか。それは、「平家」三代目の平清盛による、人民統制の手法によるのです。それが、「清盛のかぶら」組織です。
この「清盛のかぶら」の手法を使い、明治革命で復活した藤原氏(近衛家)は、大室寅之祐である明治天皇を、「現人神」に変身させたのです。
「清盛のかぶら」とは、平清盛の「闇の親衛隊」のことです。その「かぶら」は、童形びと(子供のいでたちの大人=賎民)で構成され、アラブ海洋商業民族(フェニキア人)のシンボルの「赤の衣装」を目立つように身につけていたのです。その「かぶら」は、京の街に出て、平家に対しての良い評判を庶民に吹聴していたのです。それに対して、平家や清盛の悪口を言う者があれば、その者の家に押しかけ、家を破壊するなどの暴力で威圧していたのです。その結果、平家の悪口を言う者が、京の街にはいなくなってしまったのです。
そして、平清盛を白河上皇の御落胤との「ウワサ」が、広く京の街に浸透すると、瀬戸内海の海賊を討伐した、平清盛の父平忠盛は、1132年鳥羽上皇により内昇殿を許され、賎民「平家」は平安貴族の仲間入りが出来たのです。
その後、南宋との南海密貿易で宋銭を伊勢に多量に持ち込んだ賎民「平家」の棟梁平清盛は、闇の集団である「かぶら」の活動結果により、1167年太政大臣となり、第二藤原王朝(第一藤原王朝は奈良時代)を乗っ取ったのです。この京を金力と武力で支配する「平家王朝」打倒が、藤原氏の陰謀による「武家源氏」と「公家桓武平氏」合同軍による、源平(「源氏+平氏」対「平家」)合戦となっていくわけです。
では、明治維新後、南朝の大室寅之祐である明治天皇を「現人神」とした、闇の組織の「かぶら」とは、誰なのでしょうか。それは、「役座」です。
「役座」は、今日では、太平洋戦争敗戦後の1946年昭和天皇が、天皇制神話は「架空ナル観念」と詔書を出し「現人神」から「人間宣言」をしてしまったので、天皇家を支える闇の組織は不要となったため、国家権力により「暴力団」として社会から排除の対象となってしまいましたが、その歴史は古く、鎌倉時代までに遡るのです。
その「役座」の歴史も、明治維新後の「天皇の謎」を封印するために、藤原日本史では隠蔽しているのです。ですから、歴史に興味がないひとなどは、「役座」の語源を、「893」だと本気に信じているようです。
「役座」が、「明治天皇のかぶら」となった理由のひとつが、1871年の賎民廃止令です。この発令により、江戸時代に漢訳仏教思想によりイジメられていた穢多・非人の称が、明治政府により禁止されたのです。
何故、「役座」が、賎民廃止令と関係があるかと言えば、それは、「役座」の発生が、第二百済王朝の北条鎌倉時代に仏教勢力が、平安時代初期に錬金術師空海が唐から持ち込んだ騎馬民族差別語の「施陀羅」から「穢多」を発明して、賎民の秦氏末裔をイジメていたのを、武力で秦氏末裔の賎民を護ったのが、「役座」の発生であったからです。
「役座」とは、仏教勢力が滅ぼした前政権の「夷神」を封じた異界の神社(モリ・ホコラ・ヤシロ)境内に同業者が集まり「座」を形成してたのですが、イザコザが絶えなかったので、その「座」を武力で仕切る「顔役」が語源であるのです。つまり、「座の顔役」から「役座」となったわけです。
その「役座」は、武士道思想の「弱者擁護」と同じである「任侠思想」(弱いひと達の仲立ちとなること)をもっていたことは、「役座」とは、神社(モリ)で武芸による魂鎮めの儀式をおこなっていた「もののふ」を祖とする「武士」と同じに、そのルーツがオリエント渡来の秦氏であったからです。
正統「役座」が、天照大神ではなく、中国古代の道教の「神農様」を祀ることは、「役座」の祖の渡来が、天照大神を発明した藤原氏よりも古いことを示唆します。それは、「神農様」の渡来が四世紀以降で、「天照大神」が発明されたのが八世紀だからです。
その正統「役座」が祀る「神農様」は、薬草の神様で、日本の創薬地は、騎馬民族末裔の秦氏末裔が住む地と重なるのです。高杉晋作や伊藤博文などの明治革命のシシ達により、明治維新のシンボルに祭り上げられた吉田松陰も、その祖は、創薬業で暮らしを立てていた吉田部落出自で、吉田松陰は、長州藩の「サムライ」から「乱民」と言われていたのです。
現代では、薬学部の学生が、国家試験合格祈願に「神農様」をお参りするそうですが、その「神農様」が、正統「役座」の神様であることを知っているのでしょうか。
「清盛のかぶら」は、庶民を無言で威圧するために異様な風体をしていましたが、「明治天皇のかぶら」である「役座」も、庶民を無言で威圧する演出をおこなっていたのです。そのひとつが、「刺青」です。
「刺青」文化の日本列島渡来は古く、四・五世紀の日本列島の情勢を記述した中国の「梁書」には、日本列島には小さな国がそれぞれあり、その中に、文身国があったと記述しています。文身とは「刺青」のことです。藤原日本史では記述がないのですが、刺青をした民族国が、四・五世紀の日本列島には存在していたと「梁書」では述べているのです。
その刺青は、海洋民族にとっては、「赤フン」と同じ効能で、海の悪魔サメから身を護る聖なる印であったのです。赤フンとは、朱砂を水に溶いて染めた布のフンドシのことで、その赤フンから、海中で朱(水銀)が溶け出すことにより、サメを水銀毒により避けさせるための防御具であったのです。
その刺青は、第三百済王朝の江戸時代には、犯罪人を識別するための「入墨」としていたのですが、江戸中期になると、仏教思想で庶民を縛り付けていたのが、オランダ人だけではなく、イギリス人やロシヤ人も来航するにおよんで、蘭学が庶民にも盛んになると、ミトラ教、ゾロアスター教、バラモン教、道教などの教義・儀式の寄せ集めの漢訳仏教思想による幕府の庶民統制も緩んでくるのです。そのような時に、1783年浅間山が噴火して、作物に多大な被害を及ぼし、天明の大飢饉が発生したのです。
幕府は、このような非常事態を統制するために、1787年松平定信が老中筆頭となり、倹約令を発して、日常生活の細々としたことまで統制し、庶民を締め付けにかかるのです。そのような閉塞時代に、政府の動向に左右されずに勝手に生きる、中国のアウトローたちの群像を主人公にした反抗文学「水滸伝」の百八人の英雄物語が、江戸庶民に受け入れられていくのです。
その翻訳本「水滸伝」に、英雄達の雄姿を挿絵として、武者絵師の歌川国芳が描いたのです。オリジナルの中国「水滸伝」の挿絵では、貧弱な刺青姿の雄姿が、歌川国芳の絵師としての才能により、浮世絵のような芸術性の高い刺青姿となったアウトロー達は、江戸幕府の政策に反抗する庶民達にとっては、庶民のヒーローとなっていったのです。
その結果、江戸庶民に刺青が爆発的に流行っていったのです。江戸時代での刺青は、「役座」の専売特許なのではなく、庶民が「見栄を張る」(彫りは死ぬほど痛いため、刺青は男伊達のシンボルだった。)手段としてのものだったのです。
第三百済王朝の江戸幕府は、武闘派の「武士」ではなく、秘書役の「サムライ」が支配する時代であったので、儒教の考経「身体髪膚之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは考の始めなり。」の呪文により、幕府の体制側の「サムライ」は刺青をすることができなかったのです。そこで、倹約令で庶民を縛り付ける幕府に反抗する庶民は、刺青をすることで、反幕府としての意志行動をしていたのです。
しかし、イギリス東インド会社にコントロールされて行われた明治革命に成功すると、イギリス風文化を取り入れることで文明国として仲間入りを切望する明治新政府は、鹿鳴館などを建設して一刻も早く日本人を文明人にしたいため、太政官府令により「刺青の禁止」を発令したのです。
これ以降、一般庶民の刺青文化は消滅してしまったのです。しかし、北条鎌倉時代より純粋なアウトローである「役座」は、この太政官府の命令に逆らったので、「役座」の刺青文化は今日に至るのです。
では、反権力のアウトローの「役座」が、誰の仲立ちにより、明治新政府権力の中枢の「明治天皇」を擁立した勢力と接触し、そして、「明治天皇のかぶら」となったのでしょうか。
明治革命において、不思議な人物がいるのです。それは、江戸幕府の要人であったのに、明治革命で幕府が武力で倒されると、生き残り、更に、敵側の明治新政府の要人となっていたのです。その人物とは、江戸幕府海軍指揮官の勝海舟とその部下の榎本武揚です。
この二人の祖は、「武家」ではなく、賎民で、共に三代先がお金で「武家株」を買い取って、「武家」となっていたのです。更に、榎本武揚はオランダに、そして、勝海舟はアメリカ合衆国への渡航経験者なのです。そのオランダやアメリカには、フリーメーソンのロッジがあったのです。では、この二人は、明治革命でどのような活躍をしたのでしょうか。
勝海舟の部下である榎本武揚は、長崎の幕府海軍学校で航海術を学ぶと、オランダに軍艦を買い付けに行くのです。それが、オランダ製軍艦開揚丸です。では、明治革命で、榎本武揚は、鳥羽伏見の戦いで、その軍艦開揚丸で、薩長軍に対して攻撃をしたのでしょうか。
それが、不可思議なことに、1868年1月2日に会津・桑名藩兵が、幕府軍総大将の徳川慶喜の先鋒隊となって鳥羽・伏見の両街道から京を目指して進撃を開始するのです。そして、翌日3日京都郊外の鳥羽・伏見の関門を守る薩長軍との戦いが始まるのです。そして、戦闘が膠着状態の中、6日深夜大坂城から、幕府軍の総大将徳川慶喜が脱走するのです。
榎本武揚は、大阪湾沖の天保山沖に停泊して、戦闘中に脱走した徳川慶喜を乗せると、江戸湾に向けて出航していたのです。誰が、この戦争中の脱走劇を計画して、実行したのでしょうか。
そして、1868年1月5日江戸幕府に対しての反乱軍から官軍に変身した薩長軍が、江戸攻めを始める直前に、幕府軍のシンボル的軍団の副長土方指揮いる新撰組残党を開揚丸に乗せて、北海道函館の五稜郭へ向けて出航するのです。その開揚丸には、フランス軍事顧問も同乗していたのです。
その五稜郭は、何故か、函館湾から遠方に築かれたのではなかったため、イギリス軍事顧問指揮下の薩長海軍の艦砲射撃により、開戦から短時間で崩壊していたのです。そして、副長土方以下新撰組残党軍は壊滅していたのに、何故か、フランス軍兵士と榎本武揚は生き残っていたのです。
この明治革命での榎本武揚の活躍は、薩長軍に利する行為ではないかと考えられます。鳥羽伏見での戦いで、榎本武揚が軍艦開揚丸を大阪湾深く進行させ、薩長軍に向けて艦砲射撃をしていたら、鳥羽伏見の戦いは、幕府軍の惨敗とはなっていなかったかもしれません。
更に、薩長軍が江戸攻撃をおこなう直前に、榎本武揚が開揚丸に新撰組残党を乗せないでいたとしたら、新撰組残党も上野戦争に参加して、数時間の戦いで幕府軍は壊滅していなかったかもしれません。
では、榎本武揚の上司である勝海舟は、明治革命でどのような活躍をしたのでしょうか。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が軍備面と指揮面で不利であると知ったフランス公使レオン・ロッシュは、幕府にフランス進駐軍の戦闘参加を申し出るのです。しかし、その申し出を断ったのが、勝海舟なのです。そして、江戸攻撃で脅す薩長軍に対して、幕府正規軍は無抵抗とするとしたのが、勝海舟であったのです。
勝海舟については、自書「氷川清話」や「海舟座談」などがあるため、その自慢話が史実であるように思っているひとが多くいるようです。例えば、鳥羽伏見の戦いの最中に脱走した徳川慶喜について、その直後の出来事を「海舟座談」で次のように述べているのです。

慶喜公は、洋服で、刀を肩からコウかけて居られた。己はお辞儀も何もしない。頭から、皆んにそう言うた。アナタ方、何という事だ。これだから、私が言わない事じゃあない、もうこうなってから、どうなさるつもりだとひどく言った。上様の前だからと、人が注意したが、聞かぬふうをして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかえてたいそう罵った。己を切ってでもしまうかと思ったら、誰も誰も、青菜のようで、少しも勇気はない。かくまで弱っているかと、己は涙のこぼれるほど歎息したよ。

鳥羽伏見の戦いから脱走した幕府軍総大将徳川慶喜に対して、このようにベラメイ調で語る勝海舟とは、一体何者であったのでしょうか。
勝海舟の曾祖父は、越後小千谷(おじや)から江戸へ出稼ぎに来た盲人の座頭であったのです。江戸幕府は、盲人の生活救済のために、高利貸しを認めていたのです。その曾祖父には、利殖の才があったため、殖財で財産を築き、幕臣(旗本)男谷家の株を買い取り、息子の平蔵を当主としたのです。その平蔵の三男が、勝家に養子に入った小吉(後の海舟)であったのです。
江戸時代初期の座頭は、長吏頭弾左衛門の支配下で営業を認めてもらえたのです。しかし、第三百済王朝となり秦氏末裔の徳川家康の威光が失せると、徳川家康の配下であった長吏頭弾左衛門の威光も失せり、穢多頭弾左衛門と蔑称で呼ばれていくのです。そして、中国の京劇を真似た京文化の歌舞伎が、江戸に持ち込まれると、座頭や芸能民を支配していた弾左衛門は、歌舞伎劇の「助六」で、助六になぶられる「意休」として悪役に貶められてしまうのです。そして、江戸幕府の警察機構の下部組織としていた、その長吏頭弾左衛門の配下の「目明」も、「岡引」と蔑称で呼ばれていくのです。
徳川家康の威光が存続していた時は、表の世界で暮した長吏頭弾左衛門も、第三百済王朝の江戸時代では闇の世界で暮していくのです。その闇の世界には、「役座」もいたのです。 その闇の世界に、勝海舟は繋がっていたのです。
勝小吉は、旗本小普請組、禄四十俵で無役の旗本最下級であったのです。その最下級の勝小吉が、幕府要人になるキッカケは、1854年米使ペリーの来航の結果による、1859年の安政の大獄です。
御三卿が支配する幕府の転覆を目論む、開国派の徳川家康直系の御三家の流れを汲む井伊直弼は、江戸幕府を牛耳る御三卿派の壊滅を企てたのが、安政の大獄の実態です。その安政の大獄により、幕府要人はことごとく抹殺、或いは謹慎させられ、政界から排除されてしまったのです。
井伊直弼は、徳川家康の忠臣の流れにあるということは、百済系や藤原氏系ではないということです。そこで、井伊直弼が実効支配した幕府では、秦氏系の者が、幕府に登用されたのです。勝小吉の祖は、座頭であったので、秦氏末裔であったのです。
勝小吉は、蘭学を収得していたため、1855年幕府が、長崎に海軍伝習所を開設すると、その教官として就任したのです。そして、勝小吉が、幕府に上書を提出したことにより、天文方の蕃書和解御用(洋書翻訳部門)を独立させ、洋学所の設置が計られたのです。そして、その洋学所が蕃書調所となると、1864年蕃書調所(後に東京大学となる。)の幕府役人西周(にしあまね)は、オランダフリーメーソンの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ」で、「徒弟」「職人」として承認されたのです。その一ヵ月後、津田真道もフリーメーソンとして記録されたのです。
その勝小吉も、1860年(万延1年)軍艦操練所教授方頭取勝麟太郎となり、艦長として、オランダ製咸臨丸により浦賀からサンフランシスコに向い、フリーメーソが建国した米大統領ジェームス・ブキャナンに謁見後、9月品川沖に到着していたのです。
勝海舟は、江戸無血開城の談判が決裂した場合を想定して、弾左衛門や「役座」に、もし、薩長軍が江戸攻めをおこなったら、江戸町に火をつけ炎上させるように指示をしていたのです。
この勝海舟の脅しに、明治革命の実質的指揮官であるイギリス公使パークスは、第三百済王朝に平安時代からイジメられていた秦氏末裔の西郷隆盛に、江戸攻撃を止まらせたのです。
その「役座」との繋がりのある勝海舟は、1868年明治政府が樹立されると、その政府要人となるのです。「役座」と「明治天皇」を結びつけたのは、勝海舟であることが示唆されるのは、イギリス公使パークスが計画した明治革命での活躍(?)によるのです。
因みに、藤原日本史を基に創作された明治革命物語で、必ず登場する「坂本竜馬」とは、どのような人物だったのでしょうか。
坂本竜馬の明治維新での評価のひとつに、密貿易で犬猿の仲の薩摩藩と長州藩との軍事同盟の仲介者であったと、多くの明治革命物語にあります。しかし、その薩長軍事同盟の真の立役者は、坂本竜馬ではなく、キリシタン大名の流れを汲む大村藩の渡邊昇(のぼり)であったのです。では、坂本竜馬は、薩長同盟で何をしたかといえば、武器商人グラバーのダミー会社の亀山社中の船により、アメリカ南北戦争で使われた武器や売れ残った武器を薩摩藩や長州藩に運搬していたのです。
では、坂本竜馬は、何故、明治革命完成前年に暗殺されたのでしょうか。それは、坂本竜馬は、土佐藩の密偵であったからです。坂本竜馬が、藤原日本史に登場したのは、勝海舟の「氷川清話」によるところが大であったのです。その「氷川清話」には、坂本竜馬を次のように描写しているのです。

坂本竜馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。

その暗殺者坂本竜馬は、幕府の海軍の中枢となった勝海舟から航海術を学んでいたのです。その後、航海術を収得した坂本竜馬は、武器商人グラバーの配下となり、薩摩藩や長州藩に入り込み、情報収集をしていくのです。そして、土佐藩を脱藩したはずの坂本竜馬は、1867年(慶応3年)土佐藩に復帰して、海援隊長となり、大政奉還運動を提唱していくのですが、明治革命完了の前年、明治革命の裏を密偵として調べ尽くしていた、明治革命の本質を知ってしまった坂本竜馬は暗殺されてしまうのです。
イギリス東インド会社により企画された、明治革命が成功すると、「刺青」をした「役座」が、「明治天皇のかぶら」となったのは、賎民廃止令だけではなく、経済的理由もあったのです。それが、「ジンジャ」での屋台の営業権と、神国ニッポンを演出するために、明治新政府により発明された「ジンジャ」で行う、神輿を担ぐ「お祭り」の仕切り権であったのです。
「役座」が、明治維新の謎を、武力と威圧で封じ込めたことは理解できますが、仏教国を、どのようにして、神国ニッポンに変身させたのでしょうか。その謎を解明するのが、明治維新後に発明された、「ジンジャ」です。では、神社(モリ・ホコラ・ヤシロ)を、、明治新政府が、どのようなトリック作業により「ジンジャ」へ変身させたかを考えてみましょう。
イギリス東インド会社にソフト支配された明治新政府は、異民族で構成されている日本国を支配するために、近代天皇制としての、神道国教主義(第三藤原王朝、第一藤原王朝は奈良時代、第二藤原王朝は平安中期)を確立するために、古来から全国的に行われていた梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑祈祷(よりきとう)、狐下げ等の民間の呪術行為を厳禁したのです。
そこで、明治新政府は、古代神道を持ち出すのですが、その古代神道とは、藤原氏が先住民族の「神」を隠蔽して創作したものですから、その古代神道の祭祀論争が決着が付かなかったのです。その祭祀論争とは、伊勢派と出雲派との論争です。
672年天武天皇が、壬申の乱により近江百済王朝を倒した時、伊勢を支配していたアラブ系海洋民族が援軍として参加したお礼に、685年伊勢の地に道教思想による北極星(太一)を祀る道観を創建したのです。
伊勢派の神道とは、天武天皇の死後、藤原氏が持統天皇を傀儡として、その伊勢の北極星(太一)を祀る道観を破壊した跡に創建した神宮で、太陽神ミトラを祀る民族の歴史を隠蔽するために「アマテラスオオミカミ」を発明して行っていた、ユダヤ教の儀式に酷似した祭祀儀式であったのです。
それに対して、出雲派の神道とは、古代新羅の神を祀る祭祀儀式であったのです。そして、出雲の神は、島根ではなく、三輪山の麓の磯城(しき)に鎮座していたのです。その磯城とは、713年の好字令により、二文字の日本語化により命名された地名で、その祖は、古代新羅(秦羅・秦の国)のことです。
奈良盆地にある三輪山の麓は、古代から、宇陀で産出される朱砂の、異民族による、沈黙交易を行っていた処なのです。古代では、朱砂は呪術にはなくてはならないものだったのです。その朱砂を、傷口に塗ると、化膿していた傷口が治癒することが、祭祀者には知られていたのです。更に、死者に朱砂を塗りつけると、腐敗から免れたのです。
日本列島の奈良の宇陀で産出される、その貴重な朱砂は、中国大陸や朝鮮半島の民族の知るところなり、大陸や朝鮮半島の異民族が、日本列島の三輪山麓に渡来するわけです。仏教文化国の高句麗や百済民は、北九州から瀬戸内海を通過して、河内湾から三輪山を目指すわけです。それに対して、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅民は、出雲に上陸すると、そこから再び海路で丹後を経て、琵琶湖から三輪山を目指すわけです。
紀元一世紀には、西の果ての東ローマ帝国と、東の果ての後漢との間で、絹交易が始まっていたのです。日本列島にも、その世界交易の地として、異民族が渡来していたのです。
そして、四世紀後半になると、朝鮮半島では、高句麗、百済、古代新羅は三つ巴の戦いを始めたのです。その頃の日本列島には、「梁書」にあったように文身国や扶桑国などの弱小都市国家が無数に点在していたのです。その朝鮮半島の三国は、奈良盆地にそれぞれのコロニーを建設するのです。
そして、七世紀になると、中国大陸の覇権を争う南の農耕民族国の唐帝国と、北の騎馬民族国の突厥帝国が激突すると、日本列島の飛鳥ヤマトを軍事支配していた突厥帝国進駐軍を壊滅するために、唐進駐軍と、一世紀にはユダヤ教ヨシュア派の教会が建設されていた南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来していた中臣族が、飛鳥ヤマトに渡来して、645年飛鳥ヤマトを軍事支配していた突厥帝国コロニーを壊滅するのです。そして、突厥帝国の配下にあった、三輪山麓を支配していた古代新羅のコロニーも壊滅させるのです。
この飛鳥ヤマトを軍事力で乗っ取った歴史を、藤原日本史では、古代新羅(秦羅)の秦氏を「物部氏」とし、突厥帝国部族を「蘇我氏」として、飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽・改竄したのです。そして、その略奪戦争を、出雲の国譲りとし、場所を、三輪山麓から、日本海の島根県の出雲へと改竄するのです。ですから、藤原日本史史観による、「物部氏」と「蘇我氏」のルーツが、未だに確定していないのは、藤原日本史の飛鳥時代(古墳時代)の記述は「ウソ」だからです。
そのような闇の歴史がある伊勢派と出雲派とが、どちらが正統の日本神道かと祭神論争をしたところで決着など付くはずがないのです。そこで、明治新政府は、祭祀と宗教(「しゅうきょう」は、明治維新後に発明された言葉)を分離させ、国家神道体制を打ち立てたのです。
そこで、神道国家主義を確立するために、明治革命で復活した祭祀者のルーツを持つ藤原氏(近衛家)は、明治天皇が宮中で行う十三の儀式を発明するわけです。その十三の儀式の内のひとつは、江戸時代末期に禁門から現れた孝明天皇の時代に復活した「五節の舞」であったのです。
その新発明の天皇の古代(?)からとする儀式を演出するために、明治革命勃発と同時に創建された「ジンジャ」や「神宮」施設は、形の上では可能な限り古く装われ、ジンジャの伝統と時代の断絶を意図的に埋める作業をおこなっていたのです。
更に、そのような作業に加えて、日光東照宮に封印されている騎馬民族で、秦氏末裔の徳川家康の宗教的権威を低める目的で、徳川家康の上司であった、アラブ海洋民族末裔の織田信長を祀る別格官幣社の健勲神社(ケンクンジンジャ)と、出自不詳の藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉を祀る別格官幣社の豊国神社(ホウコクジンジャ)を創建していたのです。
別格官幣社とは、明治革命後に発明された、「臣民」を祭神とする有力神社(ジンジャ)のことで、国家神道のもとで新設された社挌で、南朝を支援した楠木正成を祀る湊川神社(ミナトガワジンジャ)が最初であったのです。
そして、国家神道の普及を目的に、全国各地に「アマテラスオオミカミ」を祭神とする「ジンジャ」と遥拝殿が創建されていくのです。そして、国家神道を確立するために、1869年木戸孝允の建議により、祭政一致の布告の翌日、3月14日宮中で五箇条誓文の誓蔡が、明治天皇の親蔡により執行されたのです。そして、明治天皇は、持統天皇以来始めて伊勢神宮に参拝することにより、伊勢神宮が皇神を祀る処となっていくのです。
明治天皇が参拝した伊勢神宮は、藤原氏の流れにある近衛忠房が神宮祭主となり、全国のジンジャの本宗と定められ、「神宮御改正」により、内宮・外宮が明確に区別され、神仏習合の神宮寺から、国家神道の中心的宗教施設として造りかえられ、格式の新しい内宮が、格式の古い外宮よりも、上位におかれ、天皇家の祖先神が古来から(?)祀られてきた「ジンジャ」の本宗施設と変身して、今日に至るわけです。
このように、神道が、古来から仏教組織から独立して存在していたのではなく、1869年の神仏分離令以降に、初めて独立できたのです。奈良時代(第一藤原王朝)に発明された中臣神道の流れを汲む、仏教、道教、儒教、ユダヤ教の教義・儀式を取り込んで、室町時代に発明された、吉田兼倶による神仏習合の吉田神道でも、仏教組織が発明した本地垂迹説思想から独立していなくて、その神職は社僧に対して従属を強いられていたのです。そして、その神職の家族も、寺院の檀徒として登録されていたのです。そのような時代に、神道が、仏教組織の威光に逆らって、独立して神道祭祀儀式などできるはずはなかったのです。
この明治革命時の宗教摩り替えのトリックは、1300年前の「大化の改新」と同じプロセスです。1868年の明治革命では、藤原氏(近衛家)は、イギリス東インド会社の支援の下、その第十三部族が祀るユダヤ教に酷似した儀式により明治天皇が「神」の代理として祀られたのです。
それに対して、645年の「大化の改新」では、藤原氏(中臣族)は、唐進駐軍の支援の下、奈良の興福寺を飛鳥ヤマトから移築して、その唐帝国の国教となっていた漢訳仏教を、オリエント文化の飛鳥ヤマトに持ち込んで、宗教をすり替えていたのです。
宗教施設は、臣民を統制するには大切な仕掛けであるのです。その宗教施設が、替わったということは、支配層が替わったことを意味しているのです。
飛鳥ヤマトが、645年以降、唐進駐軍に乗っ取られ、漢訳仏教文化が、唐帝国より持ち込まれたという根拠のひとつとして、飛鳥ヤマトの建築遺跡が示す、南北軸に対して、西に約二十度傾いている建築基準が