プロカメラマンになれる本(3)

自立篇




この本のテーマは、如何にして、プロカメラマンとして自立していくのかを、技術として取得するためのヒントを述べることです。
プロカメラマンとして自立する早道は、
@写真の仕事を取ってくる技術と、
Aその仕事を遂行することができる技術と、
Bそして、その仕事をお金と交換する技術とを、修得することです。
そのためには、ひとのこころの流れ、仕事の流れ、お金の流れ、そして人脈の流れを研究し、それらの流れを自己実現の方向へコントロールするための技術を修得することです。
この本の目的は、撮影技術を修得するためではなく、ものの見方や考え方、或は生き方に対し、そのヒントを提示することです。
撮影技術を修得しようとするカメラマンは、他の撮影技術書籍で勉強して下さい。

第一章  こころの流れ  


    プロカメラマンの自立とは   




カメラマンを職業としている人なら誰でも、自己の撮影能力を何の束縛もなしに表現したいと思う欲求を持っていることでしょう。
では、現実はどうなのでしょうか。カメラマンという職業は、表面上は自由気ままのように見えるようですが、実際は色々な束縛があるようです。
カメラマンの職業も含めて、あらゆる仕事を遂行する上では、色々な制約や面倒な約束事があるものです。
それは、仕事とは相手の要求を満たすために、自己の技術や能力などを提供し、そのことに対して代償を受け取るゲームですから、自己中心ではなく、他者中心となるからです。つまり、相手の要求に合わせることが、仕事の基本というわけです。
その仕事において、自己のこころをいかなる条件下でもコントロールすることができるとするならば、仕事相手のいかなる要求にも気軽に応じることが可能でしょう。
と言うことは、自己のこころをコントロールする技術を修得することができれば、相手の要求を満たすことと、自己主張との葛藤も回避することも可能でしょう。
そのように考えるとするならば、自己のこころをコントロールできることは、プロカメラマンとして自立するためには絶対必要条件であることが分るでしょう。
それでは、どのようにすれば、仕事上のあらゆる条件下でも自己のこころをコントロールすることができるプロカメラマンになれるのでしょうか。
そこで思いつくのが「心理学」の学習です。しかし、心理学を学ぶだけで、ことは解決するのでしょうか。
物質文明をもたらした知性尊重の西欧文明の基礎である分析的思考の結果か、あらゆることは、分析的思考をすることにより解明できると信じ込んだ多くの人達は、理論的に矛盾を孕んだ原始的な魔術の世界を引きずった「多神教」を蔑視し、契約により選民になれる「一神教」を信じるようになり、更に、その宗教世界の矛盾点に気づいた一部の分析的思考のできる人達は、その宗教世界から決別して、宇宙の根本的原理を理論という言葉を道具として分析する学問である「哲学」を研究するようになっていったのでしょう。
しかし、その崇高な学問である哲学も、ひとのこころの不可思議な働きを哲学用語では分析することが出来なくなった結果か、多分に文学的才能を要する「心理学」を発明したのでしょう。
その心理学は、ひとびとの注目を集めることができたのは、ひとのこころの働きを、文学的に易しく表現したことによるのかもしれません。
そこで、文学的才能で、言葉を道具として、分析機器を駆使して科学的証拠集めとして、理論的にひとのこころを「心理学」すれば、ひとのこころの根本的悩みを解明でき、そのことにより、こころの不可思議をコントロールすることができる方法を、見つけることができると信じたのでしょう。
しかし、その科学的心理学も、時代の流れとともに色々な理論を発明しても、結局、こころを分析すればするほど、その実体もその流れも知ることが出来ないだけでなく、コントロールさえも出来ないと悟った心理学者の中には、その分厚い書物を投げ出し、再び宗教世界へと向かっているようです。
心理学の弱点は、原因が分れば、こころの問題は解決すると考えていることです。そのことは、漢字を多く知っていれば、小説が書けると思っていることと似ています。漢字を知っていることと、文章を上手に書くこととは、次元が異なるのです。
こころは、分析をして、原因を解明したところで、それをコントロールすることはできません。次元が違うからです。
さて、話を現実の世界にもどして、そのこころの流れを考えてみましょう。
例えば、あなたが一所懸命努力して撮影した写真作品を、クライアントに提示したとします。その自信のある作品に対して、「アンタそれでもプロカメラマン?」とか「これがプロの写真?」などとマイナスイメージの評価を、面と向かって言われた場合、あなたの期待に膨らんでいたこころは、憤りとも悲しみとも表現できないような気持ちに落ち込むことでしょう。
それは、自己の写真作品に対しての期待が大きければ大きいほど、その期待に反する対応を相手から受けるとすれば、自己のこころの流れは怒涛のようになり、その流れを抑えようとすればするほど、その流れは沈静するどころか、ますます手がつけられなくなってしまうことでしょう。
そのような時、言葉を道具として、そのこころの流れを自己分析したところで、その解決の糸口を見つけることができないだけではなく、抑えることもできないことは、「心理学」を少しでも勉強したひとには理解できるでしょう。
こころの流れを心理学的に分析することと、その流れをコントロールすることとは別の次元のことであり、「なぜ」とか「どうして」とかの理論的疑問を言葉を道具としてこころを分析したとしても、そのようなこころの流れをコントロールすることができないことは、東洋では、紀元前五百六十五年にインドに生まれたゴータマ・シッタルダ(シャカ)は、菩提樹(一説にはいちぢくの木)の下で悟っていました。
悟りとは、言葉を理論的に展開して思考することではなく、思考を停止し、智恵(般若)を使い、ものごとをあるがままにこころで感じとることです。
そのような、思考を停止し、瞑想により答えを求める非理論的なこころへのアプローチ方法を蔑視する、西欧文明を上位と信じる知性尊重の科学的文化人の中には、理論的ではなく、非理論的に展開するこころの流れについては、それを解決するための何の知識も持ち合わせていないどころか、その流れの存在を無視する傾向があるようです。
しかし、実際にこころは一瞬とも安定せず、流れているのです。
そこで、あなたが、その流れの存在を無視するひとたちの仲間ではなく、その流れの存在を認識し、その流れをコントロールする方法を研究し、それを必要とする時、その技術を実行することができるとするならば、仕事上、クライアントのどのような態度にも応じることができるようになり、仕事も今以上にやり易くなり、さらにクライアントを満足させることにより、その結果、仕事を依頼されることが増えて、プロカメラマンとして楽しく生活ができることでしょう。
そのように考えるならば、プロカメラマンとして自立するとは、撮影技術を修得するだけではなく、自己のこころの流れを、どのような条件下でもコントロールすることができる技術を修得しなければならない、ということが理解できるでしょう。
一般的に、ひとは日常における色々な出来事に対処するために、自分のこころの流れを観察するよりも、その出来事の対象物について観察する傾向があるようです。
例えば、対人関係においてトラブルがあるとすると、自分のこころの反応やその連続の流れについてではなく、相手がどのように反応しているのかなどの情報を得ようとする傾向があるようです。
そして、その相手の反応に対して、「なぜ」とか「どうして」などの疑問を解く言葉により、分析する傾向があるようです。それで事が解決するのであれば、その方法も有意義でしょう。しかし、自分のこころも流れているのと同じに、相手のこころも流れているのです。そのような、安定していないこころを、言葉を道具として分析したとしても、その答えが出るはずはありません。堂々廻りをするだけです。
「あのひとはなぜ、、、」とか「どうしてあのひとは、、、」などと言葉を道具として分析したとしても、流れているこころを分析などできるはずはないのです。その「なぜ」、「どうして」を、何十年間も問い続けているひとは、結構いるものです。
そして、その出ない答えを得ようとして、自己のこころのコントロールを失ってしまうと、自己の殻に篭るか、或はそれを紛らわすために、酒を飲んだり、ギヤンブルをしてこころの乱れを忘れようとする傾向があるようです。篭ることや酒、ギャンブルは否定しません。使い方を考えるべきです。篭ることはエネルギーを充電するために、そして酒やギャンブルは、人生の目的とするのではなく、人生の骨休めと考えるべきです。
そこでこの章では、プロカメラマンとして自立するために、その流れをコントロールする技術の修得の仕方のヒントを中心に話を進めていくことにしましょう。

なぜ思うようにいかないか   



一般的に、プロカメラマンとして自立するということは、写真の仕事をすることにより暮らしを立てる、と考えられているようです。そこで、そのように自立を望むプロカメラマン予備軍は、写真撮影技術に磨きをかけて、努力するわけですが、そのように撮影技術を修得できれば、すぐにでもプロカメラマンとして自立できるのであれば、この世は幸福なプロカメラマンで溢れていることでしょう。
しかし、どうでしょう。毎年写真学校卒業生が、この世界に送り出されているのに、自立したプロカメラマンは増えているのでしょうか。
写真の需要が多くあった高度成長時代であるならば、その仕事量に比例して、プロカメラマン予備軍も自立できたことでしょう。しかし、低成長あるいはマイナス成長では、プロカメラマン予備軍が市場に供給されたとしても、写真の仕事の需要が、それに比してないわけですから、プランドマーケティングにより新人プロカメラマンが一人自立したとしたら、当然その市場から既存のプロカメラマンが一人抜ける結果になるわけです。
そのようなパイの奪い合いのようなカメラマン市場に、仕事の開拓の仕方や人脈の作り方も知らないプロカメラマン予備軍が、ブランドカメラマンと仕事の獲りあいをしたとしても、勝負にならないことは理解できるでしょう。
それでは、プロカメラマン予備軍は、永遠に自立できないのでしょうか。
そんなことはありません。仕事の開拓の仕方や人脈作りの方法が分れば、ブランドカメラマンと互角に戦えるでしょう。
そして、写真を上手に撮影できることと、写真の仕事を開拓することとは、別の次元のことである、と認識することです。
さて、この世には、物事に行き詰まってしまって「人生は思うように行かない。」と言うひとがいるかと思えば、同じ時の流れにいても物事がトントン拍子でうまく行き、「人生は思うとおりに行く。」と言うひとがいるのはどうしてなのでしょうか。
「人生は思うように行かない」ひとは、運が悪かったから、それとも生まれが悪かったからでしょうか。
運や生まれは、ひとにはコントロールできません。ですから、それらを嘆いたところで、何の解決にもならないでしょう。
では、生まれが悪いひとは、人生が思うように行かないのでしょうか。そのようなことはないでしょう。現在の名家や財閥でも、何代か遡れば、一般レベルの祖先がいるものです。その一般レベルのひとが、何かのキッカケで、時の流れに乗って、財が財を呼び、名家や財閥になれたわけです。この世には、初めから名家や財閥として生まれたひとなどひとりもいないのです。
それでは、何がその分岐点となったのでしょうか。
世間のひとたちの言動をよく観察してみますと、二種類のひとがいることが分るでしょう 。
考え方の違いでは、ひとりは、物事を悪い方へ、悪い方へと解釈し、そして、もうひとりは、その同じ物事をよい方へ、よい方へと解釈するのです。
感情については、ひとりは自己の感情に振り回されていて、そして、もうひとりは、自己の感情を上手にコントロールしているのです。
このように異なる考え方や行動は、一体何によるのでしょうか。
その原因のひとつに考えられるのは、幼い頃からの情報のインプットです。
その主な情報とは、
@一生懸命努力すれば成功する。
A悪いことをせず、言われたとおり真面目に働けば成功する。
B偉い人の言うことに従っていれば成功する。
Cよい学校を卒業すれば成功する。
D怠けると人生の落伍者となる。
等など、物心付いた幼児のころから、両親や周りの大人達により、嫌と言うほど聞かされてきたことでしょう。それにより、これらの呪文は、こころの回路に刷り込まれ、強迫観念のように信じ込んでしまっているひとも多くいることでしょう。
それらの呪文を唱えて暮らして行けば、人生の成功者となり、楽しく暮らせるのであれば結構なことです。しかし、それらの呪文で人生はバラ色に染まるのでしょうか。
それらの呪文は、ある条件下では、ご利益を得ることができるかもしれません。その条件下とは「他者中心」で、「自己中心」に考えないということです。
@自分が一所懸命努力したからといって、それを認めてくれる他人がいなければ、そんな努力は無駄骨であるわけです。他人に認められる方法を考えましょう。
A命令するひとは、そのひと自身のために他人を働かせているのです。言われたとおりに働いても、その働きに報われることはないでしょう。自分のスキルアップのために働きましょう。
Bそもそも何が偉いかは、相対的な問題です。偉い人の言うことが必ずしも正しいとは限りません。自分に都合のよいことだけ受け入れましょう。
Cよい学校などイメージで実体などないのです。自分の能力に相応しい学校がよい学校です。偏差値が高いのがよい学校ではないのです。実力の世界では、イメージは通用しません。学歴を誇るひとは、実力のないひとだと考えましょう。
D怠けるとは、別表現では充電期間のことです。充電することで、パワーアップすることができるのです。怠けられる時はおおいに怠けましょう。但し充電のために。
そのように呪文を解釈できるとすれば、ご利益を得ることが可能でしょう。しかし、親達がそれらの呪文を唱える時は、「子羊」のように反抗もせず従順にせよ、と脅しに使うようです。
世の中のシステムが、自分が思うように作動しない時、その原因を外に求めるのではなく、まず自分のこころの中を探してみましょう。そして、不都合な思考回路が見つかったら、それを消去しましょう。
なぜ思うようにいかないかの原因のひとつは、言葉の使い方の技術を正確に修得していないからです。これは、あなたには責任ありません。多分両親がその責を負うことでしょう。それは、子育ての時、両親がポジテイブに言葉を使っていたのではなく、ネガティブに使っていたことが原因のひとつなのです。
言葉には力が潜在しているのです。その言葉が組み合わされ、思考という行動を左右する大きな力になるわけです。ですから、これからは言葉の使い方に注意しましょう。ポジティブな言葉を使うことにより、行動もポジティブになるからです。
話を戻して、
「人生は思うように行く」プロカメラマンは、仕事上の無理難題を、自己中心的に処理しようとするのではなく、相手の本心を読んで、その解決方法を自己の智恵を使い、そしてその結果をよい方へよい方へと解釈することにより、「人生は思うように行く」ことが自然の流れとなるわけです。
例えば、仕事の開拓のために、潜在顧客を訪問して、提示した自信作に対して、その潜在顧客が、「アンタそれでもプロカメラマン」とか、「ウチとしてはこの程度の腕では仕事を発注できないね。」とかを面と向かって言われた場合、それを言われたプロカメラマンが頭にカチンと来て、ドアーを後ろ足でバタンと閉じて帰るのではなく、「この潜在顧客は、自分の撮影技術の未熟さを、授業料も取らずに指摘してくれた」と考え感謝し、その場の自己のこころの流れを上手にコントロールして、「それでは、どのような作品をお望みですか」とか「具体的にどのようにすれば仕事を発注されるのでしょうか。」とかを、その潜在顧客に素直に教えを乞えば、十人に一人ぐらいは、それらの質問に真面目に答えてくれるだけではなく、後々のアドバイザーとなってくれる可能性だってあるわけです。
そのように考えられるプロカメラマンであるならば、仕事を上手にことわられたことにより、後々のお付き合いのキッカケが出来る場合もあるわけです。
しかし、実際問題として、自己に不都合な条件下では、そのような絵に描いたような立派な態度で物事に対処することは、なかなか難しいことでしょう。たとえ、よい方へと考えることは出来たとしても、怒涛のようなこころの流れを上手にコントロールして、それを態度に示すことは、非常に難しいことです。
そこで、どのようにすれば、波立つこころの流れをコントロールすることができるのかを、次に考えてみましょう。

意志の力は逆作用   



ひとは、こころをコントロールできなくなると、その解決を外に求める傾向があるようです。宗教にそれを求めるのが一般的のようですが、知的なひとは「心理学」に求めるようです。そのことを証明するかのように、知的雑誌の特集には「○○の心理学」というタイトルを多く目にすることでしょう。
心理学って、言葉によりこころを分析することでひとの悩みを簡単に解決することができる、宗教より凄い、学問なのでしょうか。
ひとのこころの働きのひとつとして、感情があります。この本では、感情のことを「こころの流れ」と言っています。その感情について、心理学の本で、コントロールする技術を修得しようと勉強しても、スッキリした説明が得られないのは私だけでしょうか。
例えば、感情について、心理学書や哲学書の索引を調べれば、そのことが納得できるでしょう。たまたま、それらの書籍の索引に感情についての項目があったとしても、その説明は、「感情は持続的で、より平静な情感性を指し、表面にあらわれる身体的変化はわずかである。また広義の感情は、快、不快、情動感情、情念(情熱)、情操などすべての情感的体験を含めていう。」(現代哲学辞典:講談社)のような説明以上は望めないほど、理解するのに困難が生じるでしょう。
そのように理解困難なのは、感情とは固体のように形のあるものではなく、また気体のように眼にみえないものだからでしょう。さらに感情は、長時間その状態を維持することができるものではなく、液体のように流れているからでしょう。
ですから、感情について、理論的科学的用語や最新科学的測定器を駆使してデータを集積し、それらの情報を基にそれを定義しょうと試みても、感情は時の流れに流され、一定の状態を留められないため、感情について納得できる説明はできないのでしょう。
でも、感情を、川の流れに浮かぶ「うたかた」と考えるとすれば、そのイメージを理解することができるかもしれません。川の流れにある「うたかた」は、かつ結びかつ消えてとどまるためしはないのです。
さらに感情は、シャボン玉のように、今赤色になったかと思えば、すぐに緑色になってしまうように刻々と変化しているのです。
そのような捉えどころのない感情をコントロールするのに、科学的にコトバや測定器械を駆使して分析したところで、解決できないことは「現代哲学辞典」を読んだひとには理解できるでしょう。
感情を分析することと、それをコントロールすることとは、次元が異なるのです。
でも、感情は捉えどころがなくても、実際にひとのこころにあり、時としてひとびとを悲しませたり、楽しませたりしているわけです。
何がそのようにさせるのかは分かりませんが、同じ刺激を与えても、ある子は泣くし、他の子は笑うことも日常的にあるわけです。そのように観察すると、感情とは、外界の刺激だけによるのではなく、そのひとのこころの中に、喜怒哀楽の種(子供の頃に構築された潜在回路)があるようです。
それでは、感情を言葉で定義づけすることができないため、それをコントロールする方法は見つからないのでしょうか。
物事を分析し、その原因を解明できなければ、その解決方法が見つからないことはないでしょう。たとえばそれは丁度、最先端医療のアロパシー医学では病気の原因を突き止めないと「くすり」を処方することができませんが、しかし、古来から伝承されている東洋医学の治療方法では、その病気の原因に対してではなく、病人の体質や状態を考慮して「くすり」を処方するようなことです。病気の原因を分析して病名を確定し、その原因を叩くのも治療法のひとつなら、病気の原因を追求するのではなく、そのひとに合った「免疫力」を高める治療もひとつの方法なのです。
しかし、東洋医学は、西洋医学よりも治療法が劣っていると信じられているのは、そのくすりの薬理効果がエビデンス(科学的な証拠による裏付け)に基づいていないからでしょう。
でも、その考え方はおかしいです。治療の目的は、病気を癒すことです。原因を見つけることは、手段のひとつなのです。目的と手段が転倒している医療を揶揄するとすれば、瀕死の病人に向かって、「検査ができるような体力が付いたら来院して下さい。」と言うようなものです。
それに、薬理理論だけが病気を癒すのではありません。自然の法則下にある、いまだ科学的に解明されていない自然治癒力も、有用な治療方法のひとつなのです。
自然治癒力とは、分厚い書籍を読まなければその力を利用できないわけではなく、ことさら学習しなくても、その力を利用することができるのです。自然治癒力は、言葉が発明される以前から存在しているものです。そして、だれにでも内在しているのです。
ひとにはその自然治癒力のほかに、まだまだ未知の力が内在しているようです。最新科学で証明できないことは、存在していないことの証明にはなりません。その科学で証明できない未知の力を利用することにより、こころの流れをコントロールすることができるかもしれません。
そこで、こころの流れをコントロールする理論をコトバで構築するのではなく、実践でこころの流れをコントロールする方法を探してみましょう。
そこで思い出すのが、基礎篇の「リラックスの仕方」を訓練していた状態です。その自律訓練法を実行したひとには、次のような困難が生じたことでしょう。
それは、指示された暗示語を「さりげなく」ではなく、効果を出そうと「一所懸命」に思い浮かべ続けていると、何がなんだか分からないけれど、気がつくとその指示された暗示語とは全然関係ないことを次から次えと考えてしまっていることです。
つまり、効果を早くだそうと、意志の力で「一所懸命」その暗示語を思い続けていると、いつしか暗示語とは全く別のことを考えてしまうわけです。
意志の力を使い一所懸命努力すると上手くいかないなんて、「常識的」に考えればおかしなことです。意志を使い、一所懸命努力することが、物事を成就する早道だと、子供の頃から両親達に学習させられてきませんでしたか。
こころの不可思議には、その逆もあるようです。
そのこころの不可思議とは、忘れようとすればするほど思い出してしまう、ということです。
例えば、何かのミスをしてしまい、必要以上と思われるほど人前で罵倒されてしまった場合、こころの流れは怒涛となり、煮え繰り返ってしまうことでしょう。そのような状態を、「なぜ」とか「どうして」とかで言葉を理論的に使っても沈静出来ない場合、そのことを忘れようとする意図を持って、酒を飲んだり、ギヤンブルをしたりする傾向があるようです。(大人になりきれないひとや子供の場合、弱い者イジメにはしる傾向があるようです。)
そのような解決法を探すのではなく、こころの憂さを転化するような方法で、嫌な思い出をすぐにでも忘れられるならば、この世は幸福者で溢れていることでしょう。しかし、この世で幸福者を探すのは難しいでしょう。
それは、忘れようと、意志の力を利用して一所懸命努力することにより、益々忘れることができなくなるからです。その忘れようと思っていることが、一年前どころか数十年前のことであることなど、別に珍しいことではないでしょう。
そこで、この不可思議な相反するこころの働き、つまり、意志の力で努力して思い続けていると忘れてしまい、それとは逆に、意志の力で努力して忘れようとすればするほどいつまでも忘れられないことを、感情のコントロールに応用できないか、と思いつくわけです。
一般的に、ひとは楽しい思い出を意志の力で努力して思い続けているうちに、いつしかその楽しい思い出は忘れ去られてしまい、それとは逆に、意志の力で努力して、悪い思い出を忘れようとすることにより、何十年も忘れることができないのです。ですから、こころの中には、楽しい思い出が消え去り、悪い思い出だけが残ってしまうわけです。
そこで、その逆をすることにより、幸福者(悪い思い出を消し去り、楽しい思い出を保持しているひと)の仲間になれるかもしれません。
「アンタそれでもプロカメラマン」とクライアントから言われて、こころの流れが乱れてしまった場合、そのことを、酒を飲んだりギャンブルしたりして努力して忘れようとするのではなく、その言われたことによるこころの乱れた状態を、客観的態度で意志の力で努力して思い続けてみることです。
そのこころの乱れが怒りとなっていれば、その怒りの感情を意志の力で努力して思い続けてみるのです。或は、悲しみであるならば、その悲しい状態を、惨めな状態ならその状態を、意志の力で努力して思い続けてみるのです。
そのように思い続けていれば、いつしかはその悪い思い出はこころから消え去ることでしょう。たとえ消え去ることができなくても、酒やギャンブルとは無縁となっていることでしょう。
そのような状態がこころに反映されたとすれば、それはもうこころの流れをコントロールできたことになるわけです。
つまり、意志の力は、こころに対して、逆作用を生じるわけです。
そのようにこころの流れをコントロールする技術を修得できれば、全ては解決できるほどプロカメラマンのビジネスゲームは単純ではありません。
それでは、こころの流れをコントロールするだけでは対処できない場合を、次に考えてみましょう。

「仕方がない」の発想   



仕事にはトラブルがつきものです。そこで、プロカメラマンとして自立する早道は、仕事上のトラブルを回避する技術を修得するか、または起こってしまったトラブルを上手に処理する技術を修得することです。
それには、自己中心にではなく、仕事相手の気持ちを読んで対処することです。このことは、「営業マンは、勝ったら負け。」と言われていることです。ビジネスゲームでは、真理を相手に語ったところでなんにもなりません。そもそも、トラブルにおいて、どちらが正しいかは神様にも分らないでしょう。それは、トラブルの原因は、相対的なもので、自分が正しければ相手は正しくないし、その逆に、相手が正しければ自分は正しくないからです。
このトラブルの処理の仕方を、昔のひとは、「金持ち喧嘩せず。」とか「商人は損をしているうちに倉が建つ。」と言っているわけです。
そこで、前節で、こころの流れをコントロールする技術を考えたわけですが、仕事をとってくるには、更にビジネスゲームの基礎知識を知る必要があるでしょう。
よく聞く話ですが、学校で優秀な成績で卒業したひとほど営業マンには向いていない、或は、優良会社の営業マンは転職先で活躍はできない、と言われています。
何故でしょう。
学校での優秀とは、与えられた課題を期間内に要領よく纏め上げられる技術力のことを言っているのです。優良会社の営業マンの仕事は、相手先が、その営業マン個人よりもその会社のブランドを信頼して発注しているわけです。
ここのところを理解していないと、新人営業マンも元優良会社の営業マンも、新会社で一日中机に座っていることになってしまうわけです。
営利企業での仕事は、机に座っていてもとれません。それでは、どのようにして仕事をとってくるのでしょうか。
仕事の基本は、相手の要求を自分の能力で満たすことです。それには、自分の能力を必要とする相手を探すことです。探すことが、営業マンの仕事の初歩なのです。しかし、優秀なひとほど、相手が自分を求めてくると信じているわけです。ですから、一日中机に座り、電話が鳴るのを待っているわけです。
何日も待っていても仕事が来ない、そこでやっと獲物を求めて新規開拓となるわけです。
野生の動物でも、獲物を獲得するための技術を修得していない子供の頃、何かの事情でひとに飼育されてしまうと、大人になったから自分で獲物が取れるだろうと考え自然に帰そうとしても、野生の世界に溶け込むことができないようです。野生動物でさえも、子供の頃、親から獲物(仕事)の獲り方の技術を修得させてもらえなければ、生きてはいけないのです。
新人営業マンや転職営業マンも、暫くは机に一日中座っていることが赦されるでしょうが、在る期間がすぎれば、外回りをする羽目になることでしょう。そこで、仕事をとるための技術を修得していれば問題ないのですが、その訓練を受けていないとすれば、子供の頃、両親達から与えられた呪文「一所懸命努力すれば成功する。」を忠実に守って行動することになるわけです。
しかし、仕事は相手在っての仕事です。仕事をとるために、自分中心の努力を一所懸命したからといって、仕事がすぐ手に入ることはないでしょう。
新規の仕事を受注することは、「千三つ」と昔から言われているように大変なことなのです。「千三つ」とは、千回訪問して三つ仕事をもらえれば上々だということです。このことを理解しているのなら、営業周りも苦にならないことでしょう。
しかし、自分中心の世界で暮らしていた優秀なひとや獲物の獲り方の技術を修得していないひとは、前述の両親達の呪文に呪縛され、猪突猛進で仕事獲得を目指すわけです。そのようにして、仕事がとれれば結構なことです。
しかし、上手く行かなかった場合、努力に努力を重ねてしまうことでしょう。目的達成のため、一所懸命努力することは、特別な場合以外は、してはいけないことなのです。それは、無理をするとか死に物狂いで事に当たるとは、自然なことではなく、不自然なことだからです。不自然なことは、当然長続きすることはないでしょう。そこで、その結果が、自己挫折か転職或は再転職となってしまうわけです。
それでは、「千三つ」の呪文を唱えながら、一所懸命努力しても仕事がとれない場合、どのようにしたらよいのでしょうか。
その方法のひとつは、「仕方がない」の発想をすることです。
「仕方がない」の発想とは、状況に対処するための方法が無いと考え、その目標に立向かうことを一時放棄し、あきらめることです。
一般的に、ひとは目標に向かって、短期間にそこへ到達する方法を考え、それを実行する傾向があるようです。そこで、事が上手く行くのなら結構なことですが、計画どうり短期間にその目標に到達できない場合、一度引いて、再度計画を立て直す余裕を持つのではなく、その行き詰まりを解消するために、自己のエネルギーを虚脱状態になるまで一所懸命努力して放出してしまい、それでも解消できない場合、その目標に向かうことを完全に放棄してしまう傾向があるようです。
今流行りの不登校や引き篭もりも、このメカニズムによるのかもしれません。社会のシステムと今まで家庭で学習してきたシステムとの歪みを解消しょうと一所懸命努力した結果、生命エネルギーを過放出してしまい、最後の一線の枯渇を回避するために、潜在意識が内側に篭りエネルギーを充電するための回路を作動させた結果が、子供の場合不登校で、大人の場合引き篭もりなのかもしれません。
不登校や引き篭もりには、生命エネルギーの充電が必要です。焦らずゆっくり休ませ、その充電が完了するのを待つことです。そうすれば、再び行動を起すことでしょう。何故かと言えば、ひとはそのようにできているからです。
さて、仕事を獲得する為の一直線的行動は、学習能力のないニワトリの行動に似ています。
ニワトリをコの字形の金網に入れ、空いている側を背にして金網のすぐ外側に餌を置くと、そのニワトリはその金網の状態を三百六十度調べるのではなく、状況を無視して、その金網に直進して餌を食べようと疲れきるまでその行動をやめようとしないでしょう。そして、最後はその餌の存在を完全に無視してしまうことでしょう。
このことは、ひとの行動にも言えるでしょう。餌(仕事)が欲しければ、その状況を観察して、今していた行動が結果を出せないのなら、その行動を一時止め、全方向を観察してみるのです。そのように観察して、後ろに解決の道があると思われたら、そこへ向かうことです。
問題の解決方法は一つだけではありません。目標に立ち向かうことを完全に諦める前に、「仕方のない」の発想をして、成功の早道と信じていた考えを一時放棄して、現在の状況を客観的に把握して、その情報を基に、今までとは逆の考え方、つまり「失敗しない仕方」を考えてみるのです。
そして、その「成功する仕方」ではなく、「失敗しない仕方」を、結果をみながら何度も何度も、一所懸命努力するのではなく、「千三つ」の呪文を唱えながら「さりげなく」実行し続けたならば、後に残るのは「成功への道」でしょう。
例えば、写真の仕事をもらおうと、潜在顧客を何度も訪問しても、思うような結果が得られない場合、「どうしたら仕事がもらえるか」と考えるのではなく、「どうしたら断られないか」と考えることも、仕事をもらうひとつの方法なのです。
仕事をもらうということを、拡大解釈すれば、その基本は物乞いと同一であると考えることも出来るでしょう。そのように考えられるならば、正攻法で仕事をもらえなくても、その逆の方法で仕事をもらうヒントを「ウパニシャド」の文中に見つけることができるでしょう。

かかる人のウパニシャド(聖隠語)は「乞うなかれ」である。喩えれば村落を行乞していたが一物も貰えなかった場合、「おれはこの村の人間のくれるものは食わないぞ」と決心して座り込んでしまうと、却って、往きには彼に拒んだ人達が「あげましょう」といって彼の処へ寄って来るようなものである。これが物乞いの法である。他の場合においても、物乞いの法を守るならば世人の方から「あげましょう」といって寄って来るものである。

仕事をもらおうとするその態度が、それを求めた相手のこころに、仕事をあげようとする気持ちを起させない原因となる場合もあるわけです。そのような相手に対しては、「仕事を下さい」と懇願するのではなく、「あなたの仕事などしたくありません」と無視する態度を示すことも、仕事をもらう方法のひとつになるわけです。
実際に、そのような態度で仕事をもらっている芸術家や芸能人を、あなたは何人も知っていることでしょう。
そのような「仕方がない」の発想をして、目標に向かって行っても、解決できない場合もあることでしょう。それは、自己中心に世界が回っていないことと、時の流れはコントロールすることができず、ただ好機を待つしか方法がないからです。
そこで、更に目標に向かって前進するために、新たな方法を考えてみましょう。その方法とは、「全とりかえ」の発想です。

「全とりかえ」の発想   



世界は自分中心に回っているのではなく、それに、時間の流れもコントロールすることもできません。しかし、自分の考えや行動が、その回転や流れにたまたま偶然に合ったことにより、自分中心に世界が回っているような錯覚を、誰もが人生で一度や二度は経験していることでしょう。
でも、それは錯覚ですが、自己観察力の欠しいひとは、己の能力を過信して、惨めな結果をみることは、経済界でよく見るパターンです。よく言われているように、超一流経済雑誌に記事としてとり上げられた時が、そのひとのピークなのです。後は、下り坂が待っているだけです。
人生は、偶然の連続で出来ているのです。それも一直線ではなく、山あり谷ありです。そして、頂上にいるひとは、下り坂が待っているし、谷底にいるひとは、登りの道が待っているわけです。頂上にいるひとは自惚れることなく、谷底にいるひとは悲観することなく生きたいものです。
さて、前節で自分の思うような流れに乗れない場合、「仕方がない」の発想で切り抜ける方法を考えました。しかし、その発想では、乗り越えられない壁もあるわけです。その壁とは、時の流れ、ビジネスゲームの流れ、そして世間の流れのことです。
ひとの人生は、一般に、運命という巡り合わせにより左右されるようです。
ひとの運命とは、魔術篇で述べたように、簡単に言えば、時間の流れと所在の移動との交点の連続線のことであるわけです。
そこで、今までの運命が良くないと考え、それを変えよとするには、時間の流れはひとにはコントロールできませんから、ひとのコントロール可能な所在の移動について考えることです。
それでは、その所在の移動とは何かと言えば、それは転業、転職、転社、そして転居など色々と考えられますが、要は、今までの自分の周りの環境を変えることです。
つまり、人生の流れ(運命)=時の流れ×所在(環境)の移動
となるのですから、人生の流れが、自分の思うように流れていない場合、所在(環境)を変えることにより、人生の流れ、つまり、運命も多少変化させることができる理屈になるわけです。
そこで、環境を変えるため、所在の移動をしたところで、そのひと自身も変えなくては、完全とはいえないでしょう。それは、自分自身を含めて身の回りも環境の範疇にあるからです。
更に、性格も変えられたら完璧なのですが、性格=遺伝による素質×生活環境、となるわけですから、生活環境を変えたからといっても、そうはいかないでしょう。
でも、ひとの外観を変えることにより、人生の流れも多少は変化するのです。
そこでまず、現在の自分の身の回りの環境を観察してみて下さい。それらの身の回りのもの全てのものが、今現在の環境を構成している部分ですから、それらの環境の一部分を変えてみることにより、運命の流れも多少は変わる理屈になるわけです。
さて、まずは自分の身体を包んでいるものを点検してみて下さい。
下着は清潔ですか。ズボンやシャツはどうですか。靴はどうですか。髪は整えてありますか。メガネをかけているひとはどのようなセンスのものをしていますか。時計はどういうものを使用していますか。
それらの点検が終わったら、次にプロカメラマンの商売道具について点検してみて下さい。
カメラや三脚、カメラバックはどのようなものを使用していますか。感材はどこのメーカのものですか。
更に、事務所または住居はどうですか。室内は綺麗に整頓されていますか。
そのように、身の回りの環境を構成しているものを客観的に点検した結果、それらのものが一流プロカメラマンのイメージを壊すものであるとしたならば、「全とりかえ」の発想をすることにより、運命の流れも多少変化することでしょう。
「全とりかえ」の発想とは、喩えれば、トランプの「ポーカーゲーム」で、配られたカード五枚が思うようなものでない場合、そのカード五枚全てを取り替えることにより、今より良い組み合わせを期待するようなことです。
潜在顧客を何度も訪問しても、思うように行かない場合、その原因が相手にあるのではなく、自分自身にあると考えられるカメラマンは、新しい流れに乗ることができるでしょう。
ひとは、初対面の人物に対して、そのひとの身に付けているものや服装などの情報により、それらを素材としてイメージ化して人物評価する傾向があるからです。アクセサリーや服装などのブランドマーケテイングは、ひとのその潜在欲求を満たすことにより成功するわけです。
今までのセールスが上手くいかなかったのは、潜在顧客に与えたイメージが、意図するも のでなかったからかもしれません。気心が知れている仲ならば、作品自体やその撮影技術だけで勝負できるでしょうが、初対面のひとから信頼感を得るには、まずそのひとの外観の情報が重要な素材となるのです。
そこで外観を取繕うために、自分の目指すプロカメラマン像をこころの中に描いてみましょう。そして、次に、頭のてっぺんからつま先まで、そのイメージに近づけるように身の回りの環境を整えてみましょう。
そのようにして、外観を取繕い自分の目指すプロカメラマン像が完成したら、再び潜在顧客を訪ねてみましょう。そうすれば、今までとは異なる相手の対応の微妙な変化を感じとることができることでしょう。そして、その相手の対応の変化が、自分自身へのリアクションとなり、その結果、自信を湧かせることになるでしょう。(このことは、ビデオで「マイフェアレディ」を見ることで理解できるかもしれません。)
「全とりかえ」の発想とは、つまるところ、今までの身の回りのものを全て破棄し、捨て去ることにより、今までの自分をつくっていたイメージを払拭することにより、新たな運命の出発点とすることです。
しかし、「全とりかえ」の発想を実行して、外観を「変身」させたとしても、それは実像ではなく、イメージにすぎません。一度や二度の仕事であるならば、そのようなイメージ創りで仕事をもらえるかもしれませんが、長い付き合いをするには、実体が伴わなければだめでしょう。メッキはあくまでメッキで、本物とは異なるからです。
ですから、とりあえず目指すプロカメラマン像の外観を執り創ったら、それで終わりとするのではなく、次にその内観も変身させることです。
つまり、精神的な「変身」というわけです。
その精神的変身をするには、まずこころの自己点検をすることです。それは、簡単な方法で行なうことができます。その方法のひとつは、自分の商談会話をレコーダで録音して、後で聞いてみるのです。
ひとのコミニュケーションの手段は、大きく分けるとすれば、二種類となるでしょう。ひとつは態度で、もうひとつは言葉です。態度のほうは、演技をすることにより取繕うことが可能です。しかし、言葉の使い方はそのように上手くはいかないでしょう。なぜならば、何十年間も学習した結果が、現在の言葉の使い方となっているからです。
さて、そのようにして録音した会話を聞いてみましょう。
そのチェックポイントは、話し方のスピード、リズム、音声の高低、話の間のとりかた、相手の話をどれだけ理解して答えているか、そしてその答えはネガティブかポジティブかなどです。
そのようなチェックポイントを自己点検した結果、自分の商談会話の欠陥を客観的に指摘できるならば、今までの言葉の使い方を変えることで、新たな流れに乗ることができるでしょう。
その方法は、人格を変えてみることです。そうは言っても、人格は変えることができるのでしょうか。次に考えてみましょう。

人格を変換することとは   



外観を整えたり内観を変える目的は、潜在顧客との良好なコミニュケーションをとることです。それでは、そのコミニュケーションとは、そもそもどういうことなのでしょうか。
言語を持たない時代のコミニュケーションとは、ひとにおいては、生き残りのための技術であったわけです。その技術とは、脳の発達で言語を道具として利用できると伴に複雑に変化してしまいましたが、基本的には、敵か味方か識別することと、子孫を増やすためのものでした。見知らぬ者と遭遇した時、相手の外観や一寸した動作の変化で、生死を争う相手か、或は生殖に相応しい相手かを一瞬の内に識別するための技術が、コミニュケーションの基本であったわけです。
しかし、言語を使う技術が発達してしまうと、コミニュケーション情報を解析する対象が、動作と言葉の二つになってしまうわけです。そこで、動作と言葉が同じ情報を発信しているのなら問題はないのですが、動作と言葉のメッセージが相反することもあるわけです。そこに、猜疑心が生まれるわけです。その猜疑心を払拭するために、色々なコミニュケーション技術が、今日まで発明されて来ているわけです。
さて、現在でもビジネスにおける初対面のひとに対する相手のこころの状態は、大昔と少しも変わらないでしょう。初対面のひとに対する相手側のこころの奥には猜疑心があるわけです。でも、意識下での態度や言葉はコントロールできますから、無駄な争いは避け生き残りのため、表面上は穏やかに取繕うことで、トラブルを回避しているわけです。
そこで、ビジネス場面では、その猜疑心を消滅させる目的で、自分は何者であるかを証明するための名刺などを、初対面の相手に提示するわけです。その名刺にブランドカンパニーの社名があるとしたら、感染魔術により、そのひとは相手に信用されるわけです。更に相手は、初対面のひとの情報を得ようと、爪先から頭の天辺までを観察するわけです。そして、二三質問するのです。その答えに、出身地が同じ、卒業学校が同じ、或は共通の知人がいれば、コミニュケーションはぐっと近くなるわけです。
そのようなコミニュケーション手段、或は技術で当面は取り繕うことができるかもしれませんが、こころの奥には原初的な識別回路が、相手の動向をチェックしているわけです。そのひとつが、直感です。
ひとの情報処理は、各器官からの入力情報を、脳の各部分に蓄積された過去の情報と照らし合わせて、それを基に修正を加えながら行なうわけです。そのような経路で情報を処理していたら、タイムラグのため、不穏な相手側の一瞬の攻撃をかわせない場合も想定されるでしょう。そこで、そのようにならないために、ひとには別の情報識別装置があるのです。その装置は、脳の眼窩上皮質の回路にあるのです。その装置の働きは、異常を感知することです。
物事に囚われてしまう強迫性障害のひとは、この異常感知装置の反応が、一般のひとに比べて極端に盛んのようです。そして、同じ動作を繰り返し行なうことは、この装置警報解除のスイッチが押されないためのようです。現在の研究では、神経伝達物質を使うことで、その行動をコントロールすることが可能のようです。
それでは、直感は何を情報源として、判断を下すのでしょうか。
ここにギターがあるとします。そこで、同じ太さの二本の弦を、同じ音が出るように張ります。そして、一方の弦を弾いてみましょう。そうしますと、物理的になにもしない弦が、震え出します。その結果、二本の弦は同じ音をだします。このことを共鳴といいます。
しかし、一方の弦の張りを少しづつかえていくと、共鳴は消えてしまうのです。更に張りを強く調整していくと、その張りが、ある所まで行くと、又共鳴が発生するのです。共鳴は、調整可能であることを覚えておいて下さい。
さて、「想像力顕微鏡」でひとを観察してみましょう。ひとの細胞が見えます。その細胞にズームアップすると、それを構成している蛋白分子が見えるでしょう。更にズームアップしていくと、蛋白分子を構成している原子が見えるでしょう。更にズームアップすれば、原子核の周りをグルグルまわる中性子が見えるでしょう。更にズームアップすると、光と振動で瞬時に変化しているクオークというものが見えるでしょう。更にズームアップすると、そこにはもう「波動」しかありません。という言は、ひとは「波動」で構成されているのかもしれません。
それでは、その「波動」からズームアウトしていきましょう。心臓の細胞が規則正しく脈打っているのが見えるでしょう。そのシステム化された「波動」は、いったい何によって制御されているのでしょうか。更に脳のほうに移動してみましょう。各ニューロン間は、電気信号のパルスにより情報を交換しているのが見えるでしょう。そのパルスは一瞬の内、波紋のように広がっているのが見えるでしょう。その波紋は、脳がリラックスしていたり、興奮したりの働き状態により、ある種の波を形成しているのがわかるでしょう。
そのように、ひとのからだは、「波動」により各細胞間の情報を交換しているのです。その「波動」を、東洋では「気」と言っているようです。
「気」は、ひとの五感では認識できないけれども存在しています。視覚や聴覚などの感覚器官が捕らえられない情報を、体が感じることは、誰でも一度や二度は経験していることでしょう。それらは、「殺気」や「胸騒ぎ」などと表現されているものです。それらは「科学的」に証明することは困難ですが、時空を超越した情報を、ひとびとにもたらすことは、否定できないでしょう。
この「気」については、日常の動作においてとり入れられています。例えば、周囲に対して「気を配ったり」、又、間違いがないように「気をつけたり」しているでしょう。昔の子供などは、童歌の「カゴメの歌」を歌いながら、「後ろの正面」のひとを、両手で目隠ししながら「気」で当てる遊びにとりいれていました。
そのように、ひとには生き残りの技術として、「気」による潜在情報収集能力もあるわけです。
そこで、初対面のひとと対峙した時、動作や言葉で友好関係を確認したとしても、その「気」による判断もあるわけです。その場合、言葉では、何故「気に入る」か、「気に入らない」かを説明することができないでしょう。強いて言えば、「何となく」とか「どうしても」とかが答えとなることでしょう。
その「気に入る」とか「気に入らない」とかは、一般的に日常会話では、「波長が合う」、或は「合わない」と表現していることと同じです。
それでは、その波長が合わないひととのコミニュケーションは、どのようにしたらよいのでしょうか。
その方法のひとつとして、ギターの調弦のように、こころが共鳴する閾値を探してみることです。身体が共鳴するとは、こころが通じ合うことだからです。
ひとは無駄な闘争を避けるために、「智恵」を使うことがあります。その「智恵」とは、意識下で動作や言葉をコントロールすることです。しかし、潜在意識は、その作為を「直感」で見抜いています。
そのようにして表面上友好関係を取繕ってみたところで、自分が相手と波長が合わないと潜在意識下で感じとっていることは、相手もそのように感じていることでしょう。しかし、ひとは、一時的に感情をコントロールすることが可能ですから、その場は何とか「言葉」で取繕うこともできるでしょう。
ひとには、学習能力があります。そこで、フィードバックの手法で、解決を図ってみることにしましょう。
自分の動作が、相手の動作を誘発して、それが再び自分の動作に影響を与える、ということを「フィードバック」と言います。このことを応用することで、こころの糸を調弦することが出来るかも知れません。
その方法のひとつとして、自身のこころの流れをコントロールすることを考えてみましょう。
それでは、こころは何処にあるのでしょうか。多くのひとは、心臓の辺りを指差します。では、そのこころを所有している「私」は、何処にあるのでしょう。多くのひとは、自分の鼻の辺りを指差します。その指差した処の延長線上に、脳の前頭葉があります。そうです、「私」とは、その前頭葉で各回路からの情報により合成された「概念」なのです。
その「私」の「こころの流れ」を、生物学的あるいは医学的に調整しようと試みた結果、それらをコントロールしているであろう物質が発見されてきました。それらは、神経伝達物質と呼ばれ、現在では五十種類あまりあるようです。
主なものとして、
ドーパミン
脳のいろいろな場所で喚起レベルをコントロールし、身体面の動機づけを与える。
セロトニン
気分や不安感に大きな影響を及ぼす。それ以外にも、睡眠や食欲、或は血圧にも関係している。
アセチルコリン
脳のなかで注意、学習、記憶に関する領域をコントロールする。
ノルアドレナリン
興奮性の化学物質で、身体的、精神的に高ぶった状態を作り出し、気分を高揚させる。
グルタミン酸塩
興奮性の神経伝達物質の代表で、学習や長期記憶を受け持つニューロンの結びつきを強める。
エンケファリン・エンドルフィン
脳内で合成される一種の麻酔薬で、痛みをやわらげ、ストレスを減らし、浮かんでいるような感覚を引き起こす。呼吸などの身体機能を低下させ、依存性状態を作り出すことがある。
現代医学の発達は、こころの流れをコントロールする物質の解明には、眼を見張るものがあります。しかし、「何故」の答えは用意できても、「如何して」の答えは明確にできないようです。神経伝達物質が、増減すると身体のコントロールが困難になることは分っていても、それでは、今まで普通に生活していたひとが、「如何して」神経伝達物質をコントロールできなくなってしまうのでしょうか。自然の摂理なのでしょうか。それとも、運命なのでしょうか。
運命と諦める前に、こころの流れをコントロールしている「私」である「脳」は、どのようにして開発されて来たかを考えてみましょう。
地球誕生間もなく、原子が集まり分子となり、それが巨大蛋白分子となり、やがて海に生物が誕生したことは、生物の教科書に書かれているとおりです。
ひとの脳の始まりは、海に棲む魚が、身体の各部を制御するためのコントロール中枢と身体の各部分を神経で連結するために、一本の管を発達させたことによるのです。
魚の脳は、脊椎の先のふくらみに過ぎなかったものが、やがて神経が役割を分担して、分子に反応するところは臭覚をつかさどり、光に反応するところは眼になっていくように、独自の回路を作るようになっていくわけです。
やがて、海から陸に上がり爬虫類に進化するようになると、運動神経が発達して、それを専門に管理する小脳が開発され、機械的に運動を管理する意識をもたない脳幹と繋がって行くわけです。ひとの脳の脳幹も、基本的には今もその当時とほとんど変わっていないようです。
爬虫類から定温に身体を進化させるようになると、脳幹の上に、更に回路を開発するのです。それらは、視覚、臭覚、聴覚を総合的に活用できる視床、原始的な記憶システムである扁桃体と海馬、そして外からの刺激により敏感に反応するための視床下部などです。
それらの回路は、まとめて大脳辺縁系と呼ばれていますが、情動はここで生み出されていますが、この時点では、まだ意識は生まれていません。
やがて哺乳類として進化している間に、感覚回路に触発されて、古い回路の上に薄い細胞基質が開発されていくわけです。そこでは、薄い割に沢山の神経接続がおこなわれていて、やがて意識の源である皮質に変化していくわけです。
ひとへと進化した哺乳動物は、その皮質が非常に大きくなってしまったため、小脳は後ろに押しやられてしまうわけです。その発達が著しいのは、思考、計画、組織化そして意思疎通(コミニュケーション)を行なう回路でした。
やがて、言語という道具を開発したひとは、原始人から現代人へと進化していくわけです。言葉を道具として使用できるようになると、色々多くのことを考えられるようになり、それに伴って、新しい脳の組織回路が必要になってくるわけです。その新しい組織回路とは、前頭葉で、新しく開発された大脳新皮質の多くを占めるようになり、特に開発が著しいのは、前頭前野と呼ばれている所です。そこが、ひとが「私」と指差した所です。
そのように、何の力(或るひとは、それを「神」と言っています。)か分りませんが、長い時を経て開発されてきた「私」が、何故コントロールを失ってしまうことがあるのでしょうか。
そのように開発されて来たひとの脳も、生まれたときから完璧に作動できるわけではないようです。そこで、どのようにして、ひとの脳の回路が作動して行くのかを考えてみましょう。
赤ん坊の脳は、生物の進化に比例して形成されているようです。その進化とは、魚→爬虫類→哺乳類→ひとの流れです。脳もその順序で形成されているようです。しかし、ひととしての脳は未完のままで、この世に生まされているようです。
それらは、聴覚と視覚の連絡、網膜と視床(音を認知するところ)との連絡などです。更に、意識的な感情体験(私という概念)と結びつく回路は機能前の状態であるわけです。
赤ん坊は、無意識の感情で行動しているのですが、それは、認識できる感情(私と他人を区別できること)は、生存のためにはそれほど重要でないためです。
それでは、意識がないのであるならば、幼い時にトラウマを受けても大丈夫であるかといえば、そうではなく、無意識の感情は、厳密な意味では、経験したことにはならないけれども、脳にはそのままの形で記憶されてしまいます。
一般に、三歳以前の出来事を覚えていないのは、海馬(意識的な長期保存場所)が、十分に成長していないからです。
しかし、感情に結びつく回路は脳の奥深くにあって、出生と同時に働き始める「扁桃体」という小さな回路に蓄えられるのです。幼い頃に受けたこころのキズの基は、この扁桃体に記憶されているのです。
赤ん坊が成長すると伴に、神経細胞の髄鞘形成が進んで行き、脳の各回路との接続が徐々におこなわれていくわけです。
一番最初に接続されるのは、空間を認識する頭頂葉です。「いないないバー」を楽しむ回路がそれです。
生後六ヶ月頃から、認知の回路が作動するようです。更に、六ヶ月して一歳頃になると、大脳辺縁系の衝動をコントロールできるようになるので、本能ではなく、気に入ることをする、つまり認識することができるようになるわけです。
生後一年半を過ぎる頃になると、言語回路が活発に活動してくるわけです。しかし、言語を理解するウェルニッケ領域のほうが、発話能力をつかさどるプローカ領域よりも早く発達するので、親の言葉は理解できても、言葉で反応できない時期でもあるわけです。「タダをこねる」とは、この反応のことなのです。
そのように、ひとの脳が完成するには、更なる時が必要になっているのです。
注意を必要とするのに大きな役割を果たす網様体の回路が完成するには、髄鞘形成が進行する思春期を経なければなりません。ですから、思春期の子供達は、各回路の接続が上手く行かない為、意識を上手にコントロールすることが困難な為、あらゆることに注意が散漫し、注意力が持続しないことは「アタリマエ」のことなのです。その髄鞘形成が完了するのは、成人してからなのです。
そのようにして、ひとが成人したとしても、その成長過程での回路に入力された情報により、そのひとだけの精神の回路が出来上がってしまっているわけです。それを一般では、「性格」と言っているわけです。
ですから、「性格」は、個人個人異なっているわけですから、同じ物を見たり、聞いたりしたとしても、各自同じ反応をすることは稀なわけです。
「性格」とは、長い期間における、そのひとなりの思考傾向と言うこともできるでしょう。
ひととのコミニュケーションを調整するために、相手の性格に、自分の性格を合わせることは不可能ではないにしても、過大なエネルギーを必要とすることでしょう。何故ならば、性格とは、遺伝形質と生後の環境により形成されているからです。
では、ひとの性格は、変えることが出来ないのでしょうか。
性格は、遺伝形質が作用していますから、完全に変えることはできないでしょう。しかし、性格と類似する「人格」は、変えることができるかもしれません。
「人格」とは、ある固体の認識的、感情的、意志的および身体的な諸特徴の体制化された総体、と広辞苑にはでていますが、詰まるところ、生得的な「思考傾向」であるわけです。
小説「宮本武蔵」は、世の中が不穏な状態に突入している時に、よく読まれる傾向があるようです。その原因のひとつに、どうしょうも無い不良少年が、立派な武士に変身するところにあるのかもしれません。つまり、人格の変成です。
小説「宮本武蔵」では、不良少年「タケゾウ」は、城の屋根裏部屋で三年間幽閉され、その間これまでの人脈や生活環境を強制的に断たれ、その期間そこで、書籍を黙読することにより自己の歴史を遡り、先祖の歴史を遡り、そして人類の歴史を遡り、その新たな知識を基に瞑想することにより、こころに一条の光を見出すことにより、「ムサシ」に人格が変成するわけです。
小説では、その幽閉の前に、「タケゾウ」を沢庵和尚が木に何日間か吊るし、仮死状態にさせる場面がありますが、その方法は、死に直面させることにより、脳の回路を初期化していることになるわけです。それは、前に述べた旧約聖書の瞑想法の、断食と同じ効果があります。
そのようにして人格を変成した「ムサシ」は、以前の「タケゾウ」の痕跡を全て消去しているかといえば、そうではないでしょう。変成したのは、思考回路だけです。
ひとをハードウェアと考えれば、そのソフトウェアは二つ考えられます。ひとつは、先祖から引き継いだ「情動系回路」、そしてもうひとつが、生後学習により修得した「思考系回路」です。
情動系回路とは、「今を生きるための回路」で、動物的に生命を維持増進させるプログラムを司ります。脳の場所で言えば、大脳辺縁系です。
思考系回路とは、「未来を生きるための回路」で、ひととして生きていくためのプログラムを司ります。脳の場所で言えば、前頭葉系です。
その情動系回路と思考系回路とにより創り出される身体的な諸特徴を、「性格」と言い、思考系回路により創り出される身体的な諸特徴を、「人格」と言うわけです。
情動系回路と思考系回路とが、同じベクトルを持っているのならば、人生において問題は発生しないでしょう。しかし、ベクトルが異なってしまった時は、どうなるのでしょう。
そのことは、「分っちゃいるけど(思考系回路)、やめられない(情動系回路)。」とか、「一本(ペン・理想・思考)より、二本(箸・食べること)の方が強い。」と言うように、思考系回路より情動系回路が優位になる傾向があるわけです。
ですから、人格を変成したからといって、こころの流れを全てコントロールすることが出来るわけではないのです。しかし、人格を変成することにより、こころの広さが変わることにより、相手のこころを受け入れられる許容量が増すことは事実です。つまり、共鳴する音域が広がるわけです。
それでは、こころの流れを更にコントロールするために、情動系回路を変成することはできないのでしょうか。
情動系回路は、学習により修得した思考系回路と異なり、遺伝的形質によるわけですから、変成はできないとしても、何かの方法で情動系回路をコントロールすることを、次に考えてみましょう。

行動パターンを変換すること   



脳のメカニズムに対する研究には、眼を見張るものがあります。そのひとつに、情動系回路の解明があります。それにより、何故「分っちゃいるけど、やめられない。」か、が納得できるでしょう。
その行動パターンは、次のようなメカニズムによるようです。
まず外からの刺激を、身体の各感覚器により大脳辺縁系が認知します。それが欲求として(潜在意識により)意識される衝動を作りだします。その欲求を満たすために新皮質(意識)が身体に色々な指示をだします。その活動に対してのリアクションを各感覚器が、大脳辺縁系に送り返すと、その報酬として大脳辺縁系はエンドルフィンなどの麻薬物質に似た神経伝達物質を分泌し、それによりドーパミン濃度が上がることにより脳に満足感が生みだされるわけです。
このメカニズムを知れば、何故パチンコやスロットに「ハマル」か説明できるでしょう。そのゲームで当たりを引くと、脳内に麻薬物質が放出され、ドーパミン濃度が上がるわけですから、その結果、身震いするような快感を得られるわけです。その快感を追い求めることが「ハマル」ということです。病的に「ハマル」には、更に快感の思い出を保持するための記憶のメカニズムも絡んでいます。
それでは、その「ハマル」メカニズムを応用して、バクチではなく、コミニュケーションを円滑にするために、こころの流れをコントロールする方法を考えてみましょう。
その「ハマル」メカニズムを「アメ」とすれば、当然それを制御する「ムチ」(セロトニンなどを枯渇させること。)も存在するわけです。
「アメ」は、別の見方をすれば、エネルギー放出のメカニズムです。そのように、「アメ」を舐め続けていれば、充電もせずエネルギーを放出し続けていることになるので、やがて身体エネルギーが枯渇してしまうでしょう。そこで、それを制御するための「ムチ」で、エネルギーの放出を止めるわけです。
この「アメとムチ」のメカニズムが程よく調和していれば、ひとの身体は健康状態(健康なひとなど、この世にはひとりもいません。たまたま健康状態にいるひとを健康人、たまたま調子の悪いひとを病人と言っているだけです。)を保てるわけです。
この「アメとムチ」のメカニズムは、情動系回路だけでひとが作動しているのならよいのですが、ひとにはもうひとつの思考系回路があるわけです。この思考系回路は、言葉という道具を利用して、色々なトリック(思想やイメージ)を考えだしてしまうのです。
そこで、「アメとムチ」のメカニズムが、思考系回路が考え出した「理論」と合っていれば問題が発生したとしても、致命的にならないけれど、それが合っていないと、身体メカニズムを狂わす原因となってしまうこともあるわけです。
例えば、パチンコで負けたとします。「アメとムチ」だけで作動していれば、負けたことにより、快の神経伝達物質が制御され(ムチ打たれ)、心身は「うつ」状態になるため、なにもする気が起きることがなく、その後の行動は抑制される方向に向かうわけです。しかし、思考系回路に「お前はギヤンブルに強い。」、或は、勝利できるとの「思考やイメージ」をパチンコ情報誌などで刷り込まれてしまっている場合、その負けを素直に認めるのではなく、データを集め理論武装したり、過去の勝利の記憶を呼び覚ましたりして、「アメとムチ」のメカニズムに再挑戦してしまうことになるわけです。その結果は、マチキン(サラリーローン)一直線であることは、新聞の三面記事でよく見かけるストーリです。
さて、色々なタイプのひととコミニュケーションを上手にとるには、前節で述べたように人格の幅を、先輩達の言動を学習することにより広げることですが、更に身体エネルギーの保持増進を図ることも必要です。それには、「アメとムチ」のメカニズムにおいて、「ムチ」にあわないようにすることです。
でも、「アメ」を求めれば、「ムチ」にあうこともたまにはあることでしょう。そこで、「ムチ」にあってしまった場合、そこから脱出するために、こころの流れを調節する仕方を考えてみましょう。
情動系回路と思考系回路のトラブルでは、思考系回路が勝つことは稀です。それは、そのようにひとは創られているからです。そこで智恵を働かせることができるのであれば、そのトラブルも回避できることでしょう。
しかし、ひとは、その解決を図る仕方として、「考える」ことを最重要視してしまう傾向があるようです。それは、そのように「よく考えれば必ず答えが見つかる。」、あるいは「腹を割って話し合えば問題は必ず解決する。」と、家庭や学校で呪文をかけられてきたからです。この世には、真剣に考えても答えがでない問題など、山ほどあるのが現実です。
その考え過ぎの結果が、心身の「うつ」です。うつ状態とは、「もう考えるのは止めて、エネルギーを蓄えましょう。」と、こころの奥から発信された「サイン」のひとつなのです。「うつ」状態とは、脳生理学的観点ではなく、別の観点からみれば、それはエネルギーの充電期間なのです。そのような状態にさせた原因は、思考系回路と情動系回路とのトラブルにより、身体エネルギーの枯渇によるのです。
それでは、うつ状態からの脱出方法はどのようにしたらよいのでしょうか。それには、まず「考えることを止める」ことです。
そうは言っても、この考えることを止めることは、口で言うほど簡単ではありません。自分でトライしてみれば、何も考えないようにすることが、どれだけ大変なことか理解できるでしょう。瞑想をしている時、雑念が浮かばないひとなどいないでしょう。
「うつ」をこころが壊れた状態だと考えれば、修理をすればよいのです。今まで正常に作動していた物が壊れた場合、修理をします。こころも壊れたら修理をすればよいのです。
一般に、修理の仕方は二つあります。ひとつは、専門家による修理方法で、もうひとつは素人修理方法とです。どちらが良いかは、その故障した物が直ればよいわけで、問題はその方法ではありません。
例えば、ここに映らなくなってしまったテレビジョンがあるとします。普通、電気屋さんへ修理に出すでしょう。それが一般的修理方法だからです。しかし、あるリサイクルショップでは、まったく信じられない方法で、映らなくなってしまったテレビジョンを再生(修理ではありません。)しているのです。
その方法とは、物理的外傷を検査して、何もなければ、カバーを外し、中性洗剤を薄めた液をテレビジョンにたっぷりかけて、その後は、ぬるま湯で中性洗剤を洗い流し、後は乾燥させるだけです。そのような方法で、数台の内、何台かは映るようになるようです。
ひとが「うつ」状態になってしまった時、そのようなぬるま湯をかけるだけで再生できれば結構なことでしょう。脳のメカニズムを知ることも、くすりを飲むことも、カウンセリングも、更に宗教ポイ理屈もいらないからです。
ひとにも、そのようにして、心身の乱れを再生する方法はないのでしょうか。
インドのアーユルベーダに、温めたオリーブ油を頭部に垂れ流す療法があるようです。では、本邦にはそのような療法はないのでしょうか。それがあるのです。その方法とは、白隠禅師の「ナンソの法」がそれです。
白隠禅師は、悟りを得ようとあらゆる難解な仏典を勉強しているうちにノイローゼ(流行言葉では「うつ」)になってしまったのです。そこで、ノイローゼから立ち直るために、「ナンソの法」を実践したのでした。その結果、こころが再生すると悟りが訪れたのです。
その悟りとは、

自己の本当の相を観る修行は、別に難しいものではない。ゆったりと呼吸をし気持ちを落ち着ければよい。そのようにすれば、仏の悟りも、自己の悟りも特別変わっていないことが分るだろう。なぜならば、自分自身のこころの中に、すべてが存在しているからだ。実在は自分以外のなにものでもない。これを外に求めるから、様々な迷いが生じるのだ。難解な書籍に答えを求めて、何と時間を無駄に費やしてきたことか。今悟った、自分自身が仏であったのだ。

と言うことです。
その「ナンソの法」とは、温かいバターのようなものが、頭に在り、それが体温で融けて頭から後頭部、後頭部から首筋、首筋から肩へとゆっくり流れる様を「想念」するだけです。 その方法は、リサイクルショップの再生と同じことです。悪いものをイメージを駆使して洗い流すことにより、こころの流れが再生できることもあるのです。
さて、そのようにして、心身をリフレッシュしたら、次は、より良いコミニュケーションを確立するために、好ましい行動がとれるようにすることです。
ひとの日常行動の大部分は、意識して行なっているのではなく、無意識によるものです。その無意識がコントロールしている日常行動を、いかにして望ましい行動に変えていくかを考えてみましょう。
一般的に、ひとが目標を成就しようと思うと、まず計画をたてます。そして、その計画を遂行できるように、精神に渇をいれる目的で、必勝とかガンバロー的スローガンを書いて、壁などに貼るようです。
そのように、青春一直線的行動で、ことが成就できればバンバンザイです。しかし、どうでしょう、その希望溢れる計画は、三日も過ぎれば重荷となることでしょう。
何故そう言えるかは、情動系回路のプログラムを無視した、思考系回路だけによる意志の力は、三日が限度だからです。俗に言う、「三日坊主」がそれです。
しかし、悪癖は、意志の力で止めようと努力しても、なかなか止めることができないでしょう。
可笑しなことです。一方は、ねじり鉢巻で意志の力で、一所懸命努力しても目標達成を「行うことができない」のに、もう一方は、悪癖を止めようと一所懸命努力しても「行なってしまう」のです。これは何故でしょうか。
それは、「身体を動かす回路」と「こころを動かす回路」が異なるからです。そこを理解していないと、こころが身体を全てコントロールしていると誤解してしまうでしょう。
身体は、ニューロン(ギリシャ語・神経の意)とホルモン(ギリシャ語・呼び覚ますの意)により影響を強く受けています。その二つの身体影響系物質は、言葉を理解できません。簡単に言ってしまえば、言葉を理解できないものは、言葉でコントロールできないわけです。
しかし、言葉を固めた意志の力でも、時には身体をコントロールできます。例えば、走ろうと思えば走れるし、歩みを止めようと思えば止められます。それだったら、意志の力で、努力すれば何でもできる理屈になるわけです。
でも、意志の力だけでは、身体を全てコントロールできません。それでは、身体は何よってコントロールされているのでしょうか。
身体の動きは、二重構造になっているようです。それは、意識下による行動と意識外、つまり無意識下による行動とです。
意識とは、「我思う故に我在り」と言うことで、「私」という主人公が居る世界です。それに対して、無意識とは、「私」が居ない世界です。それでは、「私」の居ない世界では、誰が身体をコントロールしているのでしょうか。
それは、情動系回路にある自動行動プログラムによるのです。そのプログラムは、先祖からの贈物で、その基本は「身体の生き残り」です。身体の生き残りプログラムは、倫理的に良いとか悪いとかの判断ではなく、生きるか死ぬかをその判断基準にしています。
その「私」の居ない世界での自動行動プログラムは、情動系回路に組み込まれて、身体の生き残りのために、日夜活用されているわけです。
その生き残りのためのプログラムも、時として場違いなところで現れてしまうこともあるのです。
それは、強迫性障害の場合、一種の儀式、例えば手を何回も洗う、戸締りを何回も確認する、あるいは数字にこだわるなどです。一般に、それらを行なう人は性格の問題で、後天的に身につけた個人的な記憶だと思っているようですが、それは、自動行動プログラムに刷り込まれている生き残りの行動なわけです。
手を洗うということは、清潔を保つためで、何かおかしなことがないかを確認することは、安全のためで、数字にこだわることは、秩序とバランスを保つことなどです。それらは、大昔、ひとが火や武器を発明していない暗い穴倉に隠れ住んでいた時代では、身体の生き残りのために必要なプログラムであったわけです。
しかし、身体的安全であると思われる現在の状況で、それらのプログラムが、時として現われて問題になっているのは、本来のプログラム意図から離れて孤立して出現しまっているため、誇張された行動となり目立っているだけです。それらは、一寸先が闇の危険溢れる世界では、生き残りの為には絶対に必要な行動だったのです。
このことは、アレルギー反応と同じで、ばい菌が化学の力で脅威でなくなったため、身体の免疫系が、本来の戦う相手がいないため、花粉などの取るに足らないものを「敵」とみなし過剰攻撃しているようなことです。
アレルギー反応を改善する方法に、アレルゲンに少しずつ被爆させ免疫力を高める減感作療法があるように、その問題行動を改めるには、その行動の背景を認識する認知療法や行動療法、或は薬物療法などがあるようです。
いずれにしても、強迫性障害の問題行動は、思考系回路を総動員して理論的解決策を発明したとしても、「言葉で」その行動を改めることは困難が予測されます。つまり、「分っちゃいるけど、やめられない。」のです。
それでは、その問題行動を指令している自動行動プログラムに働きかける方法はないのでしょうか。
情動系回路は、言葉ではコントロールできません。それでは、どのような方法があるのか考えてみましょう。
強迫性障害のひとは、とても善良なひとが多く、誤った道に進むことを何としても避けようとし、道徳観があり、徹底的に正直であろうとする傾向があるようです。その為か、宗教の道に入って行くひとが多くいるようです。
宗教組織には独特な儀式があり、その儀式に埋没することにより、自己の問題儀式を一時的に忘れさせてくれるようです。その教祖の言動や宗教儀式も世間的常識から外れていればいるほど、そのひとたちには魅力があるようです。それは、自己の問題儀式がちっぽけなものに感じられるからです。
更に、同じ悩みを持ったひとたちといることは、波長が合うため居心地がよいようです。最近の若いひとたちの新興宗教ブームには、そのような背景が見て取れます。
宗教がある種のこころの問題を解決することは事実です。それでは、それは、その宗教の教祖や儀式によるかは疑問です。その答えは、白隠禅師が述べているように、調息にあるのです。つまり、呼吸のことです。
こころの問題を解決する目的の技法、例えば、禅、ヨーガ、自立訓練法、各種の瞑想法などは、必ず呼吸の調整がその基本となっているようです。
身体をコントロールする機能のひとつとして、神経系があります。主なものは、自律神経系で、それは、交感神経と副交感神経に分けられるようです。その交感神経と副交感神経は、原則として反対の機能を発揮しているようです。
例えば、心臓において、交感神経は促進作用(パワーアップ)を示し、副交感神経は抑制作用(リラックス)を示します。しかし、腸の場合、交感神経が抑制作用を示し、副交感神経が促進作用を示します。そのように、身体の各臓器は、交感神経と副交感神経が同時に分布していて、ひとが意識していなくても、それらの拮抗作用により各臓器のバランスが維持されているのです。
そのようにひとの臓器は、自動行動プログラムにより管理されていますが、ただひとつ、肺臓だけは、ひとの意志を多少なりとも反映することができるようです。試しに、意志の力で、息を吐いたり吸ったりしてみて下さい。生命の危険を脅かされない範囲で、肺の動きを呼吸という手段で、コントロールできることが分るでしょう。
普通の呼吸では、吸息の時に気道が広がり、呼息の時には狭くなりますが、これは気道壁の筋肉が呼吸に伴って、収縮・弛緩するからです。その気道壁の筋肉の収縮・弛緩は、副交感神経を多く含む迷走神経と交感神経とでコントロールされているのです。
呼吸において、息を吐く時は迷走神経で、息を吸う時は交感神経が作用するようです。つまり、吐く時は筋肉の緊張を、吸う時は筋肉の弛緩を示します。
このことは、例えば、ゴルフをする時に実感できるでしょう。息を吸いながらテークバックをし、トップで息を止め、ダウンスイングに入ると同時に息を吐くでしょう。それは、何にを意味しているのかと言えば、息を吸うことは弛緩で、エネルギーを蓄えることで、トップできり返し、息を吐くことで緊張、つまりエネルギーを放出するわけです。ゴルフのスイングの時、その逆をしてみると、呼吸がいかに筋肉をコントロールしているかを理解できるでしょう。息を吸いながらダウンスイングしたとしたら、ボールは通常より飛ばないでしょう。
以上のことを簡単にまとめますと、呼吸をコントロールすることにより、身体の筋肉をパワーアップさせたり、またはリラックスさせたりすることができるということです。
身体が問題行動を起している時の筋肉を調べてみて下さい。それは多分、リラックスしているのではなく、コリコリに緊張していることでしょう。
極一般的な日常行動は、筋肉の緊張の後は、リラックスすることにより筋肉の疲労を回復することができるわけです。仕事の後、「一服する。」ということです。一服すると言うことは、息を吸うことを意味していて、息を吸うことは、それはリラックスするということになるわけです。
しかし、身体が常に緊張状態であるひとは、呼吸が浅いか乱れている傾向があるようです。そこでもし、身体がその様な状態であるならば、呼吸を調整することで、身体の緊張を解きほぐすことができるでしょう。
その方法は簡単です。緊張状態をつくる吐く息ではなく、リラックス状態をつくる吸気にさりげなく注意を向けているだけでよいからです。時間をかけてゆっくり息を吸い、少し止めて、自然な状態で息を一気に吐けばよいのです。その時の姿勢は、座っていてもよいし、寝ていてもよいのです。不自然な座禅やヨーガのポーズも必要ないでしょう。
その様に、さりげない態度で、呼吸の調整をしていれば、今までの不必要な身体の緊張は解きほぐされていくことでしょう。その効果が現われるのは、ひとによりますが、「三日、三月、三年」の内でしょう。そのエビデンスはありませんが、それは自然治癒力のサイクルのようです。
呼吸法により、身体がリラックスできたかを知るには、食事と睡眠をチェックすればよいでしょう。身体からの不調の警告は、基本的に二つです。食欲がない、眠れないという信号は、交感神経と副交感神経とのバランスが崩れていることにより、身体が過度な緊張状態にあることを警告しているのです。
食欲が増し、よく眠れるようになったということは、それは交感神経と副交感神経とのバランスが保たれている状態であるわけです。それは、情動系回路が正常であるということを意味しています。
その様に呼吸法で、情動系回路を回復させたとしても、問題行動は完全に改められないかもしれません。それは、思考系回路にも問題が潜んでいるかもしれないからです。
ひとの行動は、情動系回路と思考系回路とのバランスによりコントロールされているわけですから、問題行動は、その二つを改めないと、解決できないでしょう。
そこで、こころの問題を解決する専門家のひとたちを訪ねてみましょう。
精神分析家は言うでしょう。そのこころの問題は、幼い時受けたトラウマによるのです。こころを催眠により退行させて、その問題点を探り、それを認識し、昇華させれば、こころの問題は解決します。
薬物治療家は言うでしょう。そのこころの問題は、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れているだけです。よいおくすりがあります。おくすりを指示どおり飲んでいれば、こころの問題は解決します。
キリスト者は言うでしょう。そのこころの問題は、日々の行いによるのです。悔い改めましょう。神に祈れば、こころの問題は解決します。
大乗仏教者は言うでしょう。そのこころの問題は、前世の行いによるのです。輪廻転生の悪循環を断つために、先祖を供養し、徳を積み、お布施をし、お経を唱えれば、こころの問題は解決するでしょう。
ひとの思考系回路は、色々なトリックを考えるものです。それでは、それらの専門家達のアドバイスは、問題解決に有効なのでしょうか。それは、相談するひとによるでしょう。そのひとが、そのアドバイスを信じることができれば有効ですが、信じなければ無効でしょう。
それは、催眠術と同じで、催眠術は、術師が催眠をかけるから催眠術にかかるのではなく、かけられるひとが勝手にその術にかかることにより、催眠術にかかるのです。もし、かけられるひとが、その催眠術師の技術を信じていなければ、絶対に催眠術にはかからないのです。
では、信じるということは、一体どういうことなのでしょうか。
辞書によると、「正しいとして疑わないこと。」とありますが、それでは「誰」が疑わないのでしょうか。それは、意識の世界にいる「私」です。
「私」が「正しいとして疑わない」ことを、「信じる」ということならば、その「私」はなにを基準に正しいと判断するのでしょうか。
四人の専門家達のアドバイスを、全て信じるひともいるでしょう。しかし、その全てを信じないひともいることでしょう。その信じるひとも、そのアドバイスの内容を信じるのか、そのアドバイスを言っている人物のバックグラウンドを物語る肩書きの立派さを信じているのかは分りません。
そのようにドンドン言葉により「信じる」ことを分析していくと、何が何だか分らなくなることでしょう。それもそのはず、言葉により構築された思想(信じるということも含む)は、より魅力ある思想により変成されてしまうからです。
「信じる」ということは、思想の別形体で、考え方の別表現であるわけです。ですから、自身のこころにある考え方と同じ内容の「思想」であれば、それはこころに受け入れられます。そのこころに受け入れられることを、「信じる」といっているわけです。
このことを応用しているのが、宣伝広告のブランドマーケティングでしょう。
ブランドを潜在顧客に「信じ込ませる」ことにより、物やサービスの販売促進を狙っているわけです。そのために、より魅力ある思想を「キャッチコピー」に凝縮して、テレビや新聞などのマス媒体で何遍も露出することにより「信じさせ」、絶対に必要で無い物までも購買させているのです。
その宣伝広告の基本は、「刷り込み」です。「嘘も百辺唱えれば真実となる。」と、誰かが言っていたようですが、刷り込みが成功すれば、「白も黒」と「信じて」しまうこともあるのです。
その刷り込みは、何により完成するのでしょうか。それは、記憶です。
脳のブレインマッピングによれば、記憶は種類ごとに、その保存や取り出し方が異なっており、更に、記憶に関している脳の領域もたくさんあるようです。
しかし、その基本は同じで、記憶はニューロン集団の連合であるということです。ひとつのニューロンが刺激を受け、隣のニューロンに刺激を伝達し、その伝達がその隣へと、広がって行き、それがひとつの集団となり、その集団が他の集団と連合していくことにより、思想や観念、或は妄想などになり、記憶として脳に保持されていくわけです。
その記憶には、脳のいろいろな場所がかかわっているようです。
側頭葉 皮質に長期記憶を植え付ける。
被殻 動作の手順記憶が保管される。
海馬 個人的な記憶や道順の記憶を定着させたり、取り出したりする。
扁桃体 無意識に深く傷ついた記憶がここに蓄えられる。
尾状核 遺伝子によって記号化された記憶、つまり「本能」はここから発生している。
そのように、記憶はいろいろな場所にあり、各保存所と連絡をとりながら、それぞれの働きをしているのです。例えば、長期記憶となるであろう経験は、まず海馬に送られ、そこに二三年保管され、その間、その経験は何度も繰り返し再現され、それがやがて皮質に焼き付けられる(刷り込まれる)と、海馬の力を借りなくても記憶を喚起できるわけです。
その海馬による、皮質に刷り込ますための経験の再現は、昼より夜に行なわれているようです。夢の一部は、起きている時の出来事を海馬により再現されているわけで、昔のひとが、「寝る前に争いごとをしてはならない。夢に見るぞ。」と言っていたのは、このことをいっていたわけです。それに対して、寝る前の子供に、楽しい物語を語ってあげることは、智恵ある親の行動です。
さて、信じることは、行動に影響を与えるわけですから、今までの行動が、問題行動であるとしたら、今まである記憶を、消し去ってしまえばよいわけです。つまり、記憶の初期化です。
しかし、記憶の保管場所により、初期化が可能なものと、そうでないものとがあるわけです。初期化が可能なのは、皮質の記憶でしょう。それは、思考回路系情報であるわけですから、より魅力的な思想を与えれば、今まで信じていた思想を改めることが、比較的簡単にできるでしょう。
しかし、被殻、海馬、篇桃体そして尾状核にある古い記憶は、思考回路の言葉を道具として初期化は難しいでしょう。そもそも、それらの記憶はイメージとなって固まっているわけですから、言葉では如何ともしがたいわけです。
それでは、どのようにしたら良いかを考えてみましょう。
問題行動を起していると信じられている、不登校の子供の行動を観察してみましょう。
不登校の原因は、今だはっきりしていないようですが、その子供達に共通していることは、「恐怖」です。その恐怖の対象は、そのこどもの今までの生活環境によるようですが、この本は不登校対策ではなく、復活プロカメラマンになるためのヒントを述べることですから、話を先に進めましょう。
その子供達は、ある一定のプロセスをたどることにより、「自立」して行くようです。そのプロセスは、大の大人が真似をするには大いに勇気が必要ですが、復活のためのヒントを多く含んでいるようです。
そのプロセスとは、不登校初期では、昼夜逆転、暗い部屋にひきこもり、一日中じっとして動きません。やがて、エネルギーが蓄えられてくると、親などに当たれる環境の子供は、親に「クソババア!クソジジィ!」と言いながら暴力を振るうようです。
親に暴力が出来ない時は、ドアーや壁が代用されるようです。その時の子供の無意識は何を求めているかと言えば、親が自分を無限に受け入れてくれるか、ということです。暴力が受け入れてくれたと感じたら、次は、「アレを買え、今すぐコレをしろ!」の無理難題の要求です。その要求が満たされたと感じたら、次に想像もできないことが起こるのです。それは、「幼児がえり」です。
その幼児がえりは、その子供の「ボタンの架け違い」の時期に戻るようです。或る子供は「バブバフ」かもしれませんが、或る子供は「ママぬいくるみがほしいでッゥ。」と幼児言葉で要求するかもしれません。
身体が、母親よりも大きくなった子供の突然の幼児がえりに、ビックリする親もいることでしょう。
そのような一連の行動は、何によって為されたのでしょうか。
それは、子供達が思考系回路を駆使して考えて行なっているのではなく、情動系回路にある自動行動プログラムの自己修復プログラムが作動したからでしょう。
そのように、幼児がえりでの、子供の要求に対しての適切な親の行動により、子供達は見る見るうちに、「自立」に向かって動き出すのです。その子供の行動は、育児の再現と言っても良いほどです。添い寝を要求したり、童話を読むことを要求したり、親の布団に潜り込んできたり、仕事をしている時後ろから抱き付いてきたりと、様々です。
でも、適切に対処したとしたとしても「自立」には、どの位の時期を必要とするのかは分りません。大雑把に言えば、「三日、三月、三年」かもしれません。
いずれにしても、不登校の子供の「自立」への出発点は、「幼児がえり」からです。
そもそも、幼児がえりとは、いったい何なのでしょうか。それは、記憶の初期化かもしれません。今までの自分の問題プログラムを消去するための行動なのかもしれません。つまり、人格形成の零からのやり直しです。
さて、問題行動を起している大人の「自立」の出発点は、それでは何処なのでしょうか。
十代二十代ならまだしも、いい年をした大人が、幼児がえりをするにはよっぽどの覚悟がいるし、出来たとしても、年老いた親がするわけにはいがず、親の役をするひとがいないでしょう。
では、大人の記憶の初期化は、どのようにすればよいのでしょうか。

こころの流れに希望をのせて   



ひとの言動が、記憶に影響されるのならば、もし、その言動に問題があり、それを修正したいと望むのならば、その問題を起す原因の記憶を消去して、新たに望む記憶を刷り込むとすれば、望む言動を行なうことができる理屈になるわけです。
そこで、言動を改めるために記憶の修正を行なうわけですが、その修正個所は、大きく分けて二つあるわけです。ひとつは、情動系回路で、もうひとつが思考系回路です。
そこで、前節でそのふたつの修正方法を考えたのですが、大人の情動系回路は、子供の修正方法で行なうには、不都合であると述べました。
そこで、この節では、おとなの情動系回路にある不都合な記憶を消去して、新たな記憶の刷り込み方を考えてみることにしましょう。
電子媒体の記憶の消去は、初期化のプログラムを使用することで簡単にできます。それでは、ひとの場合はどうなのでしょう。
初期化とは、記憶のない状態を言います。ひとの場合で、そのような状態を探してみましょう。すると、思い当たる事が二三浮かぶでしょう。そのひとつに、極々親しい身近なひとの突然の悲しい知らせを聞いた時です。思い出して下さい、その時、呼吸が止まり、一瞬心臓も停止したように感じたことでしょう。そのような状態を一般的に、「頭の中が真っ白になった。」と表現しているでしょう。
ひとが受けるストレスの強さは、死に直面した時を除けば、「悲しみ」と「恐怖」でしょう。それらの強いストレス下にあるひとの顔の表情の特徴は、表情の固定化です。つまり、物質のような顔の状態です。
一般に、ひとの顔の表情は、プログラムとして、自動行動プログラムの中に組み込まれています。その基本的表情は、悲しみ、満足、嫌悪、怒り、そして恐怖です。それらは、感情という情報操作により、その基本的表情の組合せで、日常生活場面で刻一刻変化して表現されているわけです。
その感情作りの材料としての情報を流す器官のひとつとして、扁桃体があります。その扁桃体には、恐怖と怒りの情報が記憶として保持されています。
怒りと恐怖は、問題行動の重要素です。言葉でその二つの感情の素をコントロールしようとしてできないことが、更に強いストレス下では、消失し現われることがないわけです。
身体のメカニズムの一時停止。顔の表情の固定化。感情の消失。これらのことは、一瞬ではありますが、記憶の消去とも考えられるでしょう。つまり、一時的な記憶の初期化です。
このメカニズムは、人格変成の専門家には昔から熟知されていて、技術として応用されています。
宗教専門家は、断食などにより身体極限の状態に自身を追い込むことにより、人格の変成を図ろうとします。
結社組織の構成員を洗脳するには、死の儀式(骸骨を抱いて穴に埋める。ナイフで血を流し、血判状を作る等。)を通過させることにより、組織員としての人格変成を図るわけです。
企業向けセミナーでは、企業戦士育成のために、今までの人格を徹底的に破壊(初期化)する目的で、死ぬほど恥ずかしいことを人前でさせることでしょう。
小説「宮本武蔵」では、前述したように、身体が極限状態になるまで、タケゾウを木に吊るすわけです。
いずれにしても、強いストレスは、人格を変成させます。よい方向で行けば、これほど簡単な人格変成の方法はないでしょう。しかし、悪い方向に行ってしまうと、新たな問題が生じるかもしれません。それは、心的外傷後ストレス障害です。
つまり、従来の記憶を消去するための、新たなストレスが、消去ではなく、扁桃体に焼き付けられてしまった場合、もう自分ではコントロールできないため、身体が自動的に反応してしまい、その感覚が完全にリプレイされながら、トラウマを再体験することになってしまうこともあるのです。
では、問題行動を改めるために、自動行動プログラムを新たにするには、どのような方法があるかを考えてみましょう。
以上で述べた人格変成の方法をハードプログラムとすれば、瞑想はソフトプログラムとも言えるでしょう。思考系回路の停止、情動系回路の抑制を行なうこと、つまり、瞑想はソフトな「死の儀式」であるわけです。
紀元前五世紀前後の偉人賢人の輩出は、何が原因であるかを、以前仮説とした述べました。それは、当時、脳の尾状核に遺伝子により記号化されて記憶されている宇宙的規模の情報を、何らかの方法で探り出す、アラジンの魔法のランプの中に居る魔人を呼び出す「呪文」のようなものを、極少数の智恵あるひとたちが知っていて、利用していたからではないかということです。
その技術のひとつは、紀元前五世紀頃創作された「旧約聖書」の一部に封印されているのではないかということを、「魔術篇」の「誰にでもある潜在信仰心」で述べました。その方法は、瞑想により光の中に到達することでしたね。
光と人格変成の関係は、古今東西言われていることで、あの「空海」も瞑想していると、口の中に光が飛び込んできた、と述べているようです。
瞑想方法は、色々ありますから、瞑想の専門書で勉強して下さい。いずれにしても、瞑想の基本は「呼吸」にあるわけです。ですから、自分に合った瞑想法(呼吸法)を見つけることは大切です。
さて、自分に合った瞑想法で光の中に到達できたとしたら、それは、初期化が完成したことを意味していますから、次の行動を起すことです。
その行動とは、望ましい行動の「刷り込み」です。
その刷り込みの方法は簡単です。ここでは「何を」刷り込むか決まっているからです。それは、「プロカメラマンになるための好ましい行動を起すこと」です。
しかし、この簡単なメカニズムによる刷り込みも、ある呪文により、思うように刷り込めないのです。その呪文とは、「自由意志」という概念です。
「自由意志」とは、「私」が「私の意志」により、「私」を「自由に」コントロールできるという幻想です。
今を生きるのが情動系回路とすれば、思考系回路は明日を生きることを目指します。しかし、一秒先も、ひとは見ることも知ることもできません。見えないことや知ることができないことは、ひとに恐怖感を与えます。恐怖感は前進を阻止します。そこで、色々なトリックを考え出す思考系回路は、ひとに希望を持たすために、ひとつの幻想を発明したのです。それが、「ひとは自分で何でもできます。」を意味する「自由意志」です。
しかし、実際は、ひとは「ハンマー」を持たせられると、出っ張ったクギを探し出し、それを叩こうとするし、又、「くぎ抜き」を持たせられると、打ち付けられたクギを抜きにかかります。ひとは、他人の言動を気にして、与えられたことを信じて、自分の頭で考えることをしないのです。
いやそんなことはない、と思っていても、現実はそうなのです。宗教教団は、そのメカニズムを基に成立しているのです。その宗教組織の布教メカニズムを応用した、不必要なものでも購買させてしまう宣伝広告(プロパガンダ)の繁栄をみれば分るでしょう。
宣伝広告のプロは、ひとびとのイメージを、クライアントの都合の良いイメージに変換させる目的で、人口統計や心理統計に依拠するのです。
人口統計のデータは、年令、性別、経済状態による嗜好の相違を教えてくれます。心理統計のデータは、ひとが内在させているファンタジーやごく個人的な性癖についての情報を教えてくれます。
そのようなデータは、消費者のパーソナルなプロフィールを提供してくれることにより、宣伝広告のプロは、彼らの宣伝広告を、ひとびとのプロフィールに合うように作成できるのです。
そのようになると、宣伝広告のプロは、ひとびとを自由にコントロールすることができるようになり、その結果、買わなくてもよい物までも購買してしまうわけです。
ひとは、全て自分自身の判断(自由意志)で商品を買う決断を下していると信じているようですが、実際はそうではありません。ひとびとはそのメカニズムを知らないだけで、実際そのような条件下の「自由意志」で日常生活をしているのです。
ブランドマーケティングなどは、その良い例でしょう。高級嗜好に弱いひとに向かって、長期間にわたって刷り込みを行なうことで、「マーク」が物語りをするのですから。
「私」は、外からの刷り込みに影響を受け、コントロールされているだけではありません。ひとの意志は、外部の情報を基に、今までの蓄積された記憶を材料にして、思考回路を駆使して、ひとつのイメージとして構築し、固定化したものです。その情報を外部から得るための感覚器官は、「私」ではなく、自動行動プログラムによりコントロールされているのです。
例えば視覚、自動車を運転して、時速50キロメートルの公道から、高速道路に入り、加速し時速100キロメートル以上のスピードをキープして運転したことを思い出して下さい。始めは、早く感じたスピード感も、時間が経つにつれ、スピード感がなくなってくるのを感じたことでしょう。前方の車と同じ速度で運転していると、100キロメートル以上のスピード感を視覚できなかったことでしょう。そして、今度は、高速道路から、時速50キロメートルの公道に下りてみましょう。すると、町の時間の流れがスローモーションのように視覚できるでしょう。しかし、数秒もすると、また元の感覚に戻ることでしょう。
聴覚も同じです。寝る前に、ラジオをつけるのです。すると、神経が沈静していく過程で、ボリュームを何度も下げることになるでしょう。
そのように、「私」は自由意志の下で全て行動しているわけではなく、情報収集器官の視覚も聴覚も自動行動プログラムにより管理されているのです。
意識的な(自由意志のコントロール下)レベルにおいては、ひとは物事の善悪とか、自分自身の利害関係とか、その他個人的な嗜好の動機から、対象物を取捨選択したり、合理化したりすることができます。つまり、あるものを、受け入れるか、拒絶するか、考慮に入れるかどうかを、自由意志で決めることができます。
しかし、自動行動プログラム(潜在意識)に与えられた情報(生き残りのための情報)に対しては、意識を越えて入力してしまうため、合理的に選択したり、防御したりする可能性はまったく無いに等しいのです。
「私」は、自分の行動を全てコントロールできるという「自由意志」の幻想から目が覚めたら、次の行動に移りましょう。
その行動とは、刷り込む「何か」を明確にすることです。
この本において自動行動プログラムに刷り込むことは、プロカメラマンになることです。そのために、その目標に到達するための言動を、二つの回路に刷り込み、それを情報として保持させることです。
そのひとつの回路である思考系回路は、より魅力的な思想を与えること(ハンマーを持たせること)により簡単に刷り直しは可能です。思考は言葉を道具として構築されたトリック(虚構)ですから、既成の思考を初期化するには、その思考の矛盾点を突いて、それに代わる新しい思想(クギ抜きを持たせること)を刷り込めばよいからです。
しかし、情動系回路への刷り込みは、理論的な言葉では刷り直しが困難です。情動系回路は、言葉ではコントロールできないからです。それではどのような方法で刷り込むことができるのでしょうか。その方法は、言葉ではなく、イメージです。そのイメージ作りの材料は、視覚と聴覚からの情報です。
前述しましたように、生き残りのための情報は、意識を越えて無意識(潜在意識)にダイレクトに到達します。その生き残りの情報とは、要約すれば二つです。ひとつは「死」、そしてもうひとつは「生殖」です。このふたつの情報を含んだイメージは、ダイレクトに潜在意識下の情動系回路に到達します。
このことは、広告業界では、サブリミナル・テクニックとしての技術が確立していることは、魔術篇で述べたとおりです。
成功した広告戦略のベースには、「死」或は「生殖」のイメージを含んだメッセージを、サブリミナル(潜在意識)に働きかけた結果によるわけです。
意識下における認識がたとえどのように立派に脚色されていようとも、ひとの言動をコントロールするには情動系回路が作動しなければ、ひとは行動を起さないのです。その情動系回路は潜在意識のコントロール下にあるわけです。
つまり、成功する宣伝広告とは、意識下では理想的なメッセージを伝え、潜在意識下では「死」或は「生殖」のイメージを伝えることです。
例えば、男が女を射止めるイメージがあります。そのイメージは、大抵のひと達には思い浮かぶことでしょう。そうです、ハートのマークに矢が突き刺さったものです。
意識下の解釈では、「ハートは女性の心臓」で、「矢は男の思い」ということになっているようです。しかし、よく考えてみると何か変なのです。心臓がハートマークに似ていないということはさておき、ハートに矢を突き刺したら、その女性は死んでしまいます。そして、その矢の突き刺さる位置は、決まってハートの真中です。
何故、ひとの生死を司る臓器である心臓の真中を、矢で射抜くことが、男が女を手に入れるイメージとして認識されているのでしょうか。意識下の解釈では、納得できなくても、一流のマスコミや文化人などが、堂々とその表のイメージを吹聴していれば、思考系回路は、よりもっともらしい思想に染まってしまう為、何の疑問も意識下では生じないわけです。
しかし、潜在意識下では、その本当の意味をちゃんと理解しているのです。それは、ハートとは女性性器のシンボルで、矢とは男性性器のシンボルなのです。だから、矢はハートの真中に突き刺さらなければならないわけです。
潜在意識下でそのように理解できるのに、何故意識下では同じように理解できないかは、「思想は、より良いと信じられる思想に簡単に染まる。」ということが理解できれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
一般的に、潜在意識の気づきに、意識が反応し、その合理的理論展開により、明日の為の生き残り戦略を考えているわけです。しかし、宣伝広告のプロは、意識と潜在意識をコントロールする技術により、そのメカニズムを不必要な物品を販促する宣伝広告テクニックに悪用しているのです。
意識は、権威に弱いのです。有名人、権威者からの推薦広告は、宣伝広告テクニックの基本中の基本です。そのために、ひとをコントロールするための権威を創作する必要があるわけです。有名学者、著名文化人、大芸術家、有名評論家そして人徳政治家等等、色々な権威者が存在する必要性がそこにあるのです。それらの権威者は、現代の祭祀者なのです。それらの口から述べられる言葉は、呪文となり、ひとびとの意識をコントロールしているのです。
言葉に「本音と建前」があるように、物事の受け取り方にも、「意識と無意識」とがあることを認識しましょう。
さて、ひとの言動をリニューアルするために、思考系回路と情動系回路を初期化し、情報の刷り直しをするわけですが、その方法のヒントを、宣伝広告テクニックのなかに見つけることが出来るでしょう。
宣伝広告の場合、潜在顧客とのコミニュケーションの手段として、視覚へのポスターなどのビジュアル、そして聴覚へのCMソングがあります。その視覚と聴覚へ任意の情報を伝えることにより、ひとびとの意識そして無意識をコントロールして、クライアント商品の販売促進を図るわけです。
それでは、問題行動を改めようとするひとは、どのようにして新たな情報を刷り込めばよいのでしょうか。それにはまず、自分の望む行動及びその目標について、宣伝広告テクニックのように、言葉ではなく映像としてイメージ化することです。
言葉でもって自分の望む行動及びその目標を書き、その文章を意識及び潜在意識に刷り込もうとしても、思考系回路へはなんとか刷り込めたとしても、情動系回路への刷り込みは成功しないかもしれません。情動系回路は言葉を理解できないからです。それらに働きかけられるのは映像と音だけです。
そのように自分が望む映像をイメージ化できましたら、次に刷り込み方法を考えてみましょう。
情動系回路は、生き残りのための情報を収集することを第一の目的としていますので、一瞬の情報でも入力は可能です。そのメカニズムを応用したものが、宣伝広告映像におけるサブリミナル・テクニックです。何十分の一秒における映像でも、その情報が生き残りのためであるのならば、潜在意識は、意識を飛び越えて、その情報を把握できます。しかし、意識が覚醒していれば、その潜在能力は発揮できないようです。意識が潜在意識の情報処理を無視してしまうからです。
刷り込みのためには、意識が覚醒するのではなく、朦朧としてもらわなくてはならない訳は、意識とは、潜在意識へ入る前の情報チェック機関の門番であるからです。意識が覚醒しているということは、それだけ検査が厳しいことを意味し、その反対に、意識が朦朧としてしていれば、それだけ検査が甘くなるわけです。
意識を朦朧とさせるテクニックは、宗教儀式にみられるでしょう。聴覚は、単調なリズムの繰り返しに弱いのです。お経や牧師の単調なお説教を聴いているうちに眠くなってしまったことを経験しているひとは多くいることでしょう。興味のない授業などもその範疇に入るでしょう。
いずれにしても、意識を朦朧とさせることは、情動系回路への刷り込みの基本です。そのように意識を朦朧とさせているうちに、刷り込むイメージをこころに思い浮かべるのです。ここで断っておかなくてはならいことは、朦朧とは、意識が眠っている状態ではないということです。意識が眠ってしまっているのならば、情動系回路への刷り込みは成功しないでしょう。
その朦朧の状態とは、瞑想で三昧に入っている状態に似ているでしょう。覚醒と眠りの中間の状態は、潜在意識への働きかけには最適です。その状態で情動系回路を司る潜在意識に働きかけることにより、無意識の言動がコントロールできるわけです。
しかし、一回や二回で刷り直しは完了しません。ひとの基本的性格は、大体三歳で確定してしまうそうです。あらゆる情報を蓄えられる海馬から、大脳皮質への情報の焼き付けは、毎晩見る夢として行なわれるわけですが、その情報が定着するには三年程かかるようです。昔のひとは、大脳生理学など分らなくても、「石の上にも三年」との格言を残しています。 そのように、刷り込みに三年をかけたものが、瞬時に刷り直しなどできません。ですから、気長に刷り直しを行なうことです。
その方法のひとつとして、ユダヤ・キリスト教の刷り込みテクニックを真似ることです。安息日を真似て、七日目ごとに、刷り込みを行なうことです。毎日毎日行うことは、記憶力を増すことにならないからです。好きな音楽を毎日毎日聞いている内に、やがてその大好きな音楽が意識外のものになってしまうことを理解できれば、このことが分るでしょう。それよりも、ある一定の間隔を置いて刷り込むほうが、記憶が保持されやすいのです。レミニセンス現象のように、刷り込んだ情報は、その直後よりも後の方が、思い出しやすいからです。
そのようにして刷り直しをしたとしても、全ての言動をリニューアルすることはできないでしょう。それは、遥か彼方の先祖からの遺産としての遺伝子に刷り込まれた記憶は、刷り直しができないからです。しかし、生後、躾あるいは学習の名目で刷り込まれた情報は、刷り直しが可能でしょう。
今の生活状態が、望むものでないのならば、それは多分、社会の問題ではなく、ひとのこころの問題でしょう。そしてそのこころの問題は、多分そのひとの責任ではなく、親を含めた三歳までの養育環境によるのです。しかし、社会や親を恨んでも何の解決にもなりません。その親も、先代の親からの被害者なのですから。
これから先、何年生かされるのかは分りませんが、人生はやり直しが出来ません。ただただあの世に向かって進んで行くだけです。生まれ変われるものならば、人生はやり直しができます。しかし、ひとは生まれ変われません。
でも、ひとには誰にでも「今を生きるため」の「智恵力」があり、また「明日を生きるため」の「想像力」もあるのです。このふたつの力を利用することにより、これからの人生も変えることが出来るでしょう。何故ならば、そのふたつの力は、あらゆる問題を解決することができるからです。そして、そのふたつの力をコントロールできることにより、「こころの自立」が達成されるのです。
プロカメラマンになりたいのならば、そして、人生を楽しみたいのならば、それに相応しい言動を行なうことです。そのためには、外に問題の解決を求めるのではなく、こころの流れをコントロールする技術を修得し、その流れに、成りたい自分のイメージを浮かべることです。潜在意識に受け入れられ、情動系回路に刷り込まれた情報は、やがて現実の世界に現われるでしょう。つまり、こころの流れに希望をのせることで、目的の地に必ず辿り着けるのです。

第二章  仕事と遊び  


    何をたよりに生きようか   


自立するということが、他のひとたちの力を頼ることなしに、自分の力だけで人生を歩んで行くのならば、どのような方法で暮らして行けばよいと言うのでしょうか。
こころが自立することにより、今まで見えなかったことが見えるようになることでしょう。でも、そのことは良いことばかりではないでしょう。つまり、こころが自立するということは、今まで権威者から教育あるいは学習の名目で刷り込まれ真実と信じていたことが、こころが覚醒することにより、虚構であると知ることにもなってしまうことになるからです。
眠っていた脳細胞が覚醒すれば、今までとは異なる世界が現われます。迷える子羊であるならば、神の思し召しで何んにも考えることなしに暮らして行けたわけです。しかし、覚醒した羊は、果たして神の言葉を今までどおり素直に信じることが出来るのでしょうか。
ひとは、生まれただけではひととして自立できません。ひとは、三歳頃(大脳皮質の各ブロックとの連絡網完成期)までに、親を含め他のひとたちに養育される経験を持たなければ、ひととして生きることもできないのです。その養育期間を例えば狼に育てられたとすれば、大脳の配線構造が「狼少年型」となり、後から教育として、ひとの言動を刷り込もうと努力しても、ひととして自立はできないでしょう。
小説ターザンでは、チンパンジーに養育され、後にひととしての言動を刷り込まれて、ひととして自立し、そして、ひとの欺瞞に満ちた社会に失望し、再び森に帰っていくようですが、そのようなことは現実には起こりえないことです。「私」が創造される期間をチンパンジーに養育されたとしたら、そのひとの人格の基本(配線パターン)はチンパンジーとなっていることでしょう。
そのようにして創造される「私」が、他のひとの助けもなしに「自立」することなどできるものなでしょうか。
二三歳に「私」(思考系回路による幻想としての人格)を認識したひとも、そこですぐに自立できるわけではなく、両親やその他のひとたちの保護や養育の手助けが、それから十数年も続くのです。今の法律では、成人となるには二十歳を基準としているようです。しかし、成人式を迎えても、自他伴に自立していると認識できるひとは、一体何人いることでしょうか。
さて、ひとの自立の条件を大きく分けるとすれば、二つあります。ひとつは、こころの自立(精神的自立)で、そしてもうひとつは経済的自立です。
こころの自立に関しての書籍は、本屋さんに沢山見受けられます。しかし、経済的自立に関しての書籍は、それ程多くはないようです。ましてや、プロカメラマン向けの経済的自立についての書籍は、今だ見た記憶がありません。
そこで、プロカメラマンの経済的自立についてのヒントをここで考えてみることにしましょう。
ひとが生きて行く為に、何が必要かを次のような物語で考えてみましょう。その物語とは、

むかしむかし、中東のある国で革命が起こりました。そこで、その国のお金持ち達が、お金を出し合い大きな船をチャータして脱出しました。二三日もすると船旅も退屈になってきます。そこで、この船の中で誰が一番裕福かの自慢話をすることになりました。
先ず始めに、羊飼いの親方が言いました。「この船で一番の裕福者はこのオレ様だ。甲板の羊たちを見るがよい。百頭もの羊を持っているヤツは、この船にはおらんだろう。」
そういい終わらないうちに、商人が言いました。「いいや、オレ様の方が裕福さ。羊は草がなければ乳が出ない。それに餌代だってばかにならない。そこえゆくと、紙幣のお金は、どこへでも簡単に運べるし、欲しい物は何だって買うことが出来るのさ。」そう言って、カバンの中の沢山の紙幣を皆に見せました。
それを見た両替商が言いました。「あんたの紙幣は紙屑同然さ。革命で倒れた国の紙幣なんてお金ではないんだぞ。それはタダの紙屑さ。それに比べて、オレ様は金貨を沢山持っている。これならば、どんな国でも通用する。だから、オレ様がこの船で一番の裕福者だ。」
皆がその話に納得しているのに、旅の導師だけは納得しないようです。そこで、両替商が聞きました。「お見かけしたところ、導師は何も物を持っておらんようですな。それだったら、オレ様がこの船で一番の裕福者だと何故認めなさらないんじゃ。」すると、導師が言いました。「もう暫くすると、誰が一番裕福者か分るだろう。」
暫くすると、北風が強く吹き付け、船は木の葉のように波にもまれ、やがて、船は沈没してしまいました。全乗組員は、着の身着のままで、やっとのことで岸に辿り着きました。そこで導師が皆に言いました。「物はいつかはなくなる。しかし、智恵力と想像力だけは無限だ。無くなることもないものを、誰もが持っていることを忘れないように。」そう言って、導師は去って行きました。

一般的にひとは、金の卵を産むにわとりを探すのではなく、金の卵を集めようとしているようです。それは、金の卵と異なり、金の卵を産むにわとりは、ひとの目には見えないからです。、そのにわとりとは、比喩で実は、「智恵力」と「想像力」のことなのです。そのふたつの力がひとつになると(この瞬間を一般的には「ひらめき」と言っています。)、ある問題を解決することができ、その結果として「金の卵」が手に入ることになるわけです。
それでは、問題解決するための問題(仕事)とは、何処にあるのでしょうか。

旅の導師は、やがて賑やかな街に辿り着きました。
導師はこの街の様子を聞こうと、暇そうにしている客待ち籠の人足に尋ねました。「この街で一番裕福な者と一番貧乏な者の家を知っておるか。」「ワシら、この街で生まれたもんで、この街のことならなんでも知っとるよ。」「では、教えていただけるかな。」「ようござんす。籠にお乗りなせい。」「お金はもっておらんぞ。それでもよいか。」それを聞いた人足が、相棒とごそごそ相談を始めました。「お金はもっておらんが、それを手に入れる方法を教えることができる。それでどうかな。」人足達は互いに頷いて、「ようござんす。お連れしましょう。乗っておくんなせい。」
人足達は、それらの家に導師を案内し終わりました。「ところでダンナ、尋ねた用件は何で。」「この街が住み易いかどうかを知りたかったのじゃ。」「そんなことなら、ワシらに聞けば済むってことよ。何で金持ちと貧乏人なんで。」「それらの者達に尋ねると、この街で何が足りていて、何が足りていないか解かるからじゃ。」「オレ達には、理解できねえことだ。それよりも、約束のこと早く教えてくんな。」
導師は、懐から紙と筆を取り出し、さらさらと何かを書いて、その半紙ほどの紙を人足に渡しました。「なんでい、こんな紙切れでお金が手に入るんか。」「その紙を籠の目立つ所に貼るのじゃ。そうすれば、客が列をなすだろう。」そう言って、導師は立ち去りました。 その紙には、「道に迷っている方へ。この街のことなら何処へでもご案内できます。」と書かれてありました。

金の卵を手に入れるためには、まず、それを産むにわとりを探すことです。そのにわとりが自分の所に居ることを知っているひとは、次に、そのにわとりに仕事をさせることです。 にわとりは、仕事をしなければ、卵は産みません。そこで、仕事を探すわけですが、何処に仕事があるのでしょうか。
旅の導師は、金持ちと貧乏人を訪ね、情報収集しました。このことは、広告業界では、「マーケティングリサーチ」と呼んでいることです。
ひとが仕事を探す基本は、自分に足りているものと足りていないものとをチェックすることです。そして、次に、社会(マーケット)で今足りているものと足りていないものを調べることです。
足りていないものは、それを穴埋めするエネルギーを要求します。その要求に、自分の足りているもので対処することが、仕事の基本であるわけです。
例えば、乳児が泣いています。それは、「仕事」を母親に要求しているとも考えられるでしょう。そして、泣いている乳児が、オッパイが欲しいのか、オムツが濡れているのか、はたまた遊んで欲しいのかを見極め、それらの欲求を母親が満たしてあげるとすれば、乳児はニッコリと笑顔を示すわけです。
実際の仕事の基本も、乳児での仕事と同じです。この場合、「ニッコリ笑顔」が「お金」ということになります。
現実の世間で足りていないものは、時代の流れにより刻々と変化していきます。では、これからの近未来では、一体何が足りなくなるのでしょうか。
未来を知ることが出来れば、この世は幸福者や成功者で満ち溢れてしまうことでしょう。しかし、そのようなひとたちを現実の世界で探すには、困難が生じることでしょう。では、未来を知ることは出来ないのでしょうか。

旅の導師が街を歩いて行くと、ひとだかりが目に止まりました。近づいて行くと、なにやら言い争いが聞こえてきます。「なにかあったんですかな。」導師がひとの輪の端に居る背伸びして見ているひとに聞くと、「客が予言が当たらなかったんで、相場でスッタお金を返せと預言者にどなりこんでいるわけださ。」
導師がひとの輪の中へゆっくり割入って行くと、「導師さま、この男をなだめてくださらんか、お願いします。」預言者は困り果てていたところにチャンスとばかりに助けを求めました。「どういうことか聞かせてくれんか。」導師は、腹の出っ張った男に向かって言いました。「よく聞いてくれ。」男は身振り手振りを交えて言うには、今年の春、預言者に今年の秋の収穫を占ってもらったら、今年は大旱魃になり不作の年になるだろう、ということだったので、それでもって、穀物相場で全財産「ウリ」に掛けたところ、予言が外れて、全財産無くしてしまった、この責任を全て預言者がとれ、ということでした。
「では聞くが、去年も預言者に聞いて相場を張ったのかな。」「もちろんでっさ。」「それでどうじゃった。」「去年はたんまり儲けさせていただきやした。」「ところで占い師に聞くが、去年は儲けのお裾分けを頂いたのかな。」「いいえ、予言料金だけで。」導師は、男に向かって、「去年予言で儲けて、お裾分けをしない者が、損した時だけ無心するとは、いかがなものかな。それに、相場とは、美人コンテストで一位の者を当てるようなもので、自分の選んだ者は大体外れるものじゃ。」周りで聞いていた群集も、導師の話に頷くと、それを見た男は、地面にペッと唾を吐いて立ち去りました。
「ありがとうございます。」預言者は導師にお礼を言うと、導師が「ところで、収穫の予言はどのようにして行なうのじゃ。」「それは秘密ですが、今回は特別にお教えしましょう。」そう言うと、導師の耳元で小声で言いました。「カマキリの巣が例年より下にあれば旱魃、上にあれば雨が多く降る、という事です。」「なるほど理に叶っている。」「ところで導師さま、本当にこの世の未来を予測できるものなのでしょうか。」「ふむ、難しい質問じゃ。未来を予測することは困難かも知れんが、その種なら分る。」「未来の種とは何ですか。何処で手に入るのですか。」「それはこころの中にある。こころの乾きが未来の種じゃ。」そう言って、導師は立ち去りました。

ひとは一秒先の世界も知ることが出来ません。そこで、その渇きを癒すことを「仕事」にするひとの需要があるわけです。宗教などもその範疇にはいるでしょう。ひとには、未来にたいする「精神的不安」と「物質的不安」とが誰にでもあるようです。そこで、「預言者」はいつの時代でも、ひとびとのこころの乾きを癒すために必要とされているのです。
現代のひとは、物語の預言者の行動を笑えません。それは、現在でも、その物語と基本的に同じことが日常的に行なわれているからです。現代では、物質的渇きの根源である経済金融業界の預言者として、「経済学者」、「経済アナリスト」そして「エコノミスト」などが考えられます。でも、科学時代の現代のそれらのひとたちの「予言」は、本当に「たより」にできるものなのでしょうか。もし、たよりにできるものならば、現在のような不況など、簡単に克服できたことでしょう。
そもそも、現代経済学によるの経済予測(予言)は実際に役に立っているのでしょうか。
現代経済学が、どのようにしてひとびとを惑わすようになったかを簡単に述べますと、それは、単なる統計学上の意味を、「科学上の重要性」と同一視したことによるようです。これは、医学にも言えることです。統計学は、単なる仮説により成立つ学問です。それは、科学ではなく、予言の範疇です。
現代人は、「科学」の絶対信奉者です。「科学」に信仰心を持っていると言ってもよいかもしれません。
現代経済学の誤りは、単なる黒板上の統計による存在証明を、科学上の真理とみなしてしまったことによるのです。(広告業界では、ブレゼンテーションで、このテクニックで「広告リーチ率」なる数式でもってクライアントを幻惑させています。)
さらに、それらの擬似科学的経済学を実際に経済政策に適用して、ひとびとの生活における消費行動を「予言」し、管理しようと試みる過ちを犯してしまったようです。
現代経済学の「たより」にできない本質は、コンピュータを駆使して数学的証明手続きを重んじることにより、ひとびとのこころの中の渇望を無視したことにあるようです。
物質にたいする渇望を解決する答えのヒントは、黒板上にある数式にあるのではなく、ひとびとの実生活のなかにあるはずです。
では、物質ではなく精神的渇望にたいする「宗教」は、「たより」にできるものなのでしょうか。
キリスト教についての虚構性は以前述べましたので、ここでは大乗仏教について考えてみましょう。
書店に行けばわかるように、仏教に関する書籍は沢山あります。それは、万巻の書といってもよいかもしれません。しかし、ブッダは教えを書き残してはいないのです。
ブッダの入滅直後、ラージャグリハに集まった修行僧たちに、ブッダの愛弟子のアーナンダが、師の説法を一語一語復唱してみせた、その記憶力のもとが、仏典の基となったようです。
では、ブッダはどのような説法をしていたのでしょうか。

「修行僧たちよ。修行僧は二つの極端に偏ってはならない。ふたつの極端とは何か。一方には官能的快楽、低く、卑しく、世俗的で、下等で、無益なもの、の喜びにふけるものがある。もう一方には苦行、苦しく、下等で、これも無益なもの、にふけることがある。修行僧たちよ、完成した者(如来)は、これらの極端を捨て、中道を見出した。これにより、洞察と認識とが得られ、寂滅、悟り、目覚め、涅槃にいたるのである。」

ブッダは、人生における苦悩を避ける方法を「八正道」に求めたのです。その「八正道」とは、政見(正しい見識)、正思(正しい決意)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい瞑想)です。
ブッダのそのようなシンプルな教えが、後になって、解釈の違いにより二つに分裂するのです。ひとつが、日本に渡来の大乗仏教で、もうひとつが南方仏教です。
インドの方言のマガディ語のブッダの説法が、パーリ語の仏典となり、それがサンスクリット語の仏典となり、さらに漢語となり、それを日本語に翻訳したのが、日本の仏典であるわけです。何人ものひとたちの解釈による「書物」は、果たしてブッタの言葉が生かされているのでしょうか。
ひとが「自立」するには、「精神的自立」と「物質的自立」のふたつの関所を通らなければなりません。そのために、ひとの思考系回路は、明日への生き残りの為、「宗教」や「経済学」などのトリック(虚構)を考え出してきたわけです。しかし、それらのお金集めの為の「宗教」や世界金融シンジケートにコントロールされた「経済学」のトリックは、一般庶民の今の生活状態の渇望を満たすことができているのでしょうか。
もし、それらのものに「たよれない」のであれば、それでは、ひとは「何をたよりに」生きていけばよいというのでしょうか。
「自立」とは、自分以外にたよるものが無い、と悟ることから始まるのです。そして、ひとには、「智恵力」と「想像力」の無限の力があることに気づくことから始まるのです。
それでは、実生活で「自立」するにはどのようにすればよいかを、次に考えてみましょう。

    仕事の基本はかわらない   


プロカメラマンとして自立していくには、仕事をして収入を得なければならないでしょう。一昔前でしたら、プロカメラマンの仕事の流れは大体決まっていたわけです。被写体は何かは別としても、カメラで撮影し、フィルムを現像し、それをクライアントに渡せば、後は集金をするだけでした。
しかし、現在では、プロカメラマンの仕事の流れは激変してしまっているのです。
それは、銀塩フィルムだけではなく、デジタル記憶媒体もあるわけです。そして、そのデジタル記憶媒体は、現像という化学反応をさせなくても、パソコン上で被写体を像として確認出来るのです。さらに、その像は、インターネットにより遣り取りできるのです。
従来の銀塩カメラでしたら、撮影時の確認はポラを切らないとできませんでした。しかし、デジカメは、撮影したその時点で、その像を瞬時に確認できるのです。
デジカメの出現により、プロカメラマンの仕事の流れも概念も変わってきたようです。
物やサービスの流れは、著名な経済学者に教わらなくても分ります。同じ物だったら、安い方に需要があります。同じ値段でしたら、より機能が優れた物に需要があります。
ひとの能力にも、同じことが言えます。
銀塩カメラしか使えないプロカメラマンより、銀塩もデジカメも使えるプロカメラマンは需要があるでしょう。
では、デジカメの技術は、どこで修得すればよいのでしょうか。
現在の各種専門学校の写真科の紹介ページは、数十年前と比べるとホンノ少ししかないようです。これは何を意味しているかと言えば、写真を学びたい生徒の減少かもしれません。でも、街中を見渡せば分るように、カメラを持った若者は多く見られます。しかし、そのカメラの多くは、銀塩ではなくデジカメでしょう。
銀塩カメラは、デジカメに比べてその操作は、ひとの感に頼ることが多くありました。ですから、勘違いにより撮影の失敗も当然あるわけです。しかし、デジカメの場合、プロもアマも、撮影上の技術の差は多くは認められないようです。たとえ、撮影で意図することができなくても、事後処理で修復は可能だからです。
銀塩カメラの場合、事後処理は、その道の匠の技術が必要でした。しかし、デジカメの場合、パソコンと情報処理のソフトウエァがあれば、誰でも簡単に画像処理ができてしまうのです。
そうです、デジカメは、銀塩カメラと似て非なるものなのです。ですから、その技術も、従来と異なるのです。つまり、デジカメを駆使するには、コンピュータの基礎知識が必要なわけです。
現在のチラシ制作過程を知ればこのことは理解できるかもしれません。
以前でしたら、チラシに製品写真が必要な場合、撮影が終わると、フィルムをプロラボに現像に出して、数時間後に製品である「写真」を取りに行き、それをクライアントに届けたわけです。しかし、今や簡単な写真でしたら、デジカメで撮り、そのデジカメの記憶媒体をクライアントに渡せばよいのです。現像行程はいらないことにより、制作時間の短縮が図れるのです。
更に、デジカメ・カメラマンがパソコンに強い場合などは、自宅のパソコンで画像処理したものを、画像がそれ程重くない時など、パソコンネットを使い、その画像を送ることなど実際に行なわれています。
被写体を撮影することは同じでも、銀塩とデジカメとでは、その技術も機能も異なるのです。デジカメの技術は、従来の写真学校では修得が無理でしょう。ひょっとして、コンピュータ専門校がプロカメラマン養成の場となるかもしれません。
時代は流れているのです。そして、仕事の内容も時代の流れに合わせるように、変化して行くのです。
ひとは、そのように流れて行く時代に合わせて日々の暮らしを成り立たせる為に、仕事の技術を学んで行くわけです。
仕事の流れをズームアウトしてみて見ましょう。
狩猟・農業時代でしたら、足腰が強いひとが優位でした。ですから、そのような時代では、身体の優れた人がリーダになれたわけです。
ひとには、身体をコントロールするための情動系回路があると同時に、色々なトリックを考え出す思考系回路もあるわけです。
身体が脆弱でも、考える力があるひとが、ひとの働きを器械にさせることを発明していくわけです。その帰結が、産業革命となり、器械がひとに代わって働く為、思考系回路ではなく、ただの身体だけが頑強なひとは優位でなくなるわけです。産業革命時代の器械は自立装置がないため、ひとの手を必要とするわけです。それが技術者です。ですから、その技術を修得したひとが優位になれたわけです。
器械はひとと異なり、疲れを知りません。やがて、需要より供給が多くなるわけです。すると、余剰製品を何処かに売りに行かなくては成らないわけです。流通の問題がおこるわけです。更に、在庫の調整や工場での労務管理を必要とするわけです。そこで、技術者と異なる管理をするひとの需要がおこるわけです。技術者のブルーカラー(汚れ服)に対するホワイトカラー(白い清潔なシャツ)の管理者の出現です。
管理するためには、色々な技術が必要です。更に、色々なひとたちと接する為、教養も必要です。そこで、それら経理、法律そして流通管理のことを修得する学校が流行るわけです。
そこで、良い仕事を得るための人生の流れができるわけです。その流れとは、良い生活を手に入れるには、給料の良い会社に就職すること。そのためには、良い学校を卒業すること。よい学校に入学するには、一所懸命に受験勉強をすること。ざっと、このような流れは、つい最近の二十世紀には通用していたわけです。
少し前の時代でしたら、良い生活をするには、ホワイトカラーの管理職になればよかったのです。しかし、二十世紀末に、思考系回路はとんでもないもの発明してしまったのです。それは、コンピュータです。
ひとの身体の代わりが「器械」だとすれば、ひとの脳の代わりが「コンピュータ」となるでしょう。つまり、ひとの脳の働きの、記憶、計算、管理はコンピュータが行なうことができるのです。つまり、工場から器械により労働者が追い出されたと同じように、会社からコンピュータによりホワイトカラーが追い出されているのが現在なのです。
現在の社会の混乱の原因のひとつは、時代の流れが、従来の流れと異なってきたと認識していないことにあるようです。
以上の流れを簡単に述べますと、狩猟・農業時代→産業時代→流通時代→情報時代、となるでしょう。現在は、情報時代にあるわけです。ですから、従来の流通時代でのルールでは、事は上手くいかないわけです。
では、情報時代において、どのようにしたらプロカメラマンとして生計が立てられるかのヒントを考えてみましょう。
流通時代と情報時代における仕事をゲームと考えれば、情報時代での仕事の内容が流通時代と比べて激変していることが理解できるでしょう。
流通時代のゲームのルールは、売れ筋をいち早く仕入れ、それを安く大量に販売することでした。
物の流れとしては、生産者→卸→小売店→消費者でした。
サービスとしては、情報提供者→情報加工業者(プロダクション等)→情報発信社(出版社、新聞社、放送局など)→消費者でした。
物やサービスを競合他社より有利に販売するために、流通時代では、「権威(ブランド・肩書き)」が必要でした。それらの権威とは、物の場合は有名デザイナーや有名小売店の包装紙で、サービスの場合は有名作家や有名評論家そして世界的有名芸能人の肩書き等です。
つまり、流通時代では、虚構である「権威」を創造することに長けている部門、物の場合は「小売店」が、サービスの場合は「情報発信社」がそのゲームの主役だったのです。ですから、それらの時代では、物やサービスは、「小売店」や「情報発信社」の威光によりゲームが進められていたわけです。
では、情報時代では、どのようにゲームが変化してしまったのでしょうか。その変化は、二つに集約できるでしょう。ひとつは「中抜き」、そしてもうひとつは「ボーダレス」です。
情報時代でのコンピュータネットワークにより、コミニュケーションが激変してしまったことにより、必ずしも「小売店」や「情報発信社」などの中継者は必要とされなくなってしまったのです。
例えば、或る物が欲しいと思えば、以前でしたら「小売店」へ行きました。しかし、今では、パソコンがその要求を満たします。又、作家としてデビューしたいと思ったら、以前でしたら「情報発信社」の出版社へ売り込みに行かなければ成りませんでした。しかし、今では、パソコンとサーバーとがあれば、個人により情報は広く発信できるのです。
つまり、情報時代の物、サービスの流れは、変化してしまったのです。
物の流れとしては、生産者(パソコンネット)→消費者となり、
サービスの流れとしては、情報提供者(パソコンネット)→消費者となってしまったのです。
「中抜き」とは、コンピュータネットワークにより、今まで必要であったものが、必要でなくなったということです。これは、会社組織でいえば、パソコンにより中間管理職がリストラされたことに似ているかもしれません。
「中抜き」されると、どのように流通ゲームが変化するかといえば、それは「権威」の失墜です。
もともと、権威とは、思考系回路が明日を生きるために発明したトリック(虚構)なのです。流通時代においては、例えば情報分野では、権威者により情報操作をすることにより、色々な思想操作をすることができたわけです。ある組織にコントロールされた著名な大学教授が、権威ある「学会」でその組織に有利な論文を発表し、それを「権威」ある新聞社が掲載すれば、何も知らない(情報制限されている)ひとたちは、その情報を「真実」だと信じ込んでしまうでしょう。
例えば、「○○○の日記」というのを大昔小学校の授業で学習させられました。その物語は、文部省推薦図書で、歴史的事実であるとのふれ込みでした。戦時下の可哀相な十二歳の少女は、残酷な戦争の犠牲となってしまったのでした。当時の学童たちは、その著者である少女に深い感銘と敵国に憎しみを抱いたものでした。しかし、時が経ち、イギリスの歴史家、デヴィッド・アーヴィングが、1988年のトロント裁判で、日記の一部はボールペンで書かれてあることを証言したのでした。少女が亡くなったのは1945年で、ボールペンが市販されたのは1951年以降だったのです。
権威を作る「情報発信社」は、色々なトリックを発明して「神話」を創造し、権威者を利用して、何も知らない読者を騙していたわけです。
情報の統制がパソコンネットで崩壊した結果の「権威」の失墜は、どのような変化を与えるかといえば、専門家と非専門家との壁がなくなることです。つまり、「ボーダレス」です。
情報時代では、知識の流れもその範疇に入ります。流通時代では、知識を得るには「学校」へ通わなければなりませんでした。知識は、学校の「教師」が独占していたわけです。
しかし、情報時代では、大学で学習する内容の知識など、全世界の図書館へパソコンでアクセスできる技術を持っているひとでしたら、瞬時に手に入れることが可能です。知りたいことは、学校という「中継ぎ」を通さなくても入手できる時代なのです。それも、権威者からの一方的な情報ではなく、別の角度からの情報も簡単に手に入れることが出来るのです。
ゲームは変わったのです。そして、そのルールも変わったのです。
それでは、情報時代における仕事は、どのようにしたら探せるのでしょうか。
情報時代といえども、そのゲームをしているひとたちが、今までのひとたちと違うということはないのです。ゲームやルールが変わっただけなのです。ですから、流通時代のゲームやルールを忘れることです。そして、情報時代の物やサービスの流れを見極めることです。
時代がどのように変化しようとも、物やサービスの流れの行き着く先は、決まっているのです。それはお客様である消費者なのです。
現在は、江戸時代に喩えれば、バブルの元禄時代から享保の改革に向かっているようです。バブルに踊った武士階級は没落の一途を辿り、商才のある小売商人の出番となるわけです。
「権威」で飯が食えなくなると、生活の糧をえる手段として、武士も商人とならざるをえません。そこで、武士階級から商人に変身した先輩である、石田梅岩のビジネスにおける考え方をみてみましょう。

学者−−−それならば商人の心得はどうしたらよいでしょうか。
答え−−−前にも言ったように、「一事によって万事を知る」ことが第一です。一例をあげれば、武士は君主のために生命を惜しまなければ士とはいわれないでしょう。商人もこれさえ知っていれば、自分の道がはっきりわかります。買ってもらう人に自分が養われていると考え、相手を大切にして正直にすれば、たいていの場合に買い手の満足が得られます。買い手が満足するように、身を入れて努力すれば、暮らしの心配もなくなるでしょう。

どのような時代でも、仕事の基本はかわらないのです。仕事の基本を忠実に守っていれば、たとえ時代の流れが変化し一時的に落ち込んでしまっても、また新しいゲームやルールを知ることにより、這い上がれることが出来るのです。
仕事は楽しくできることに越したことはありません。それでは、楽しく仕事をするためのヒントを次に考えてみましょう。

    仕事と遊び   


年令的ではなく、精神的な意味で、「おとな」と「こども」との境界線は、「仕事」と「遊び」との区別が付くか、ということかもしれません。
ひとが、小鳥のように毎日空を自由に飛び回って暮らしていけたら、なんと素晴らしい人生を送れることでしょう。更に、小鳥であるならば、ひとに比べて思考系回路が発達していないため、毎日の暮らし向きや将来の不安に対して考えることもないのかもしれません。
それに比べて、ひとはどうでしょう。ひとの脳は、外界に適応するために、今を生きるための情動系回路の他に、明日を生き残るための思考系回路を発達させてきました。この二つの回路がバランス良く保たれていれば、外界の刺激に上手く反応できるために、人生におけるあらゆるトラブルも回避することが可能でしょう。
しかし、この二つの回路は、ベクトルが異なるのです。そのため、その取り扱いを誤ると、色々な不都合が発生してしまうことになるのです。そのように、ひとの行動は、小鳥に比べて複雑なメカニズムにより制御されているのです。
このひとの行動メカニズム機構を自動車に喩えれば、情動系回路がアクセルで、思考系回路がブレーキと言えるかもしれません。そして、それらをコントロールするのが「私」で、その「私」をコントロールしているのが「意識と潜在意識」となるでしょう。
意識は思考系回路(ブレーキ)をコントロールします。そして、潜在意識が情動系回路(アクセル)をコントロールします。そこで、「私」の意識と潜在意識とが同じベクトルでいられるのであれば、アクセルとブレーキを上手く制御できるため、自動車を任意の方向で走らせることができるでしょう。
しかし、何らかの不都合で、「私」の中で、意識と潜在意識とが拮抗してしまった場合は、アクセルとブレーキとの制御は難しくなることでしょう。情動系回路が思考系回路を無視すれば、自動車は猛スピードで驀進することでしょう。その反対に、思考系回路が情動系回路を押さえ込めば、自動車は少しも前に進めないでしょう。進めないどころか、車のクラッチ機構が摩擦熱のため破損して、自動車自体が使い物にならなくなってしまうことでしょう。
ひとを上手に運転する(自分を上手くコントロールする)には、自動車を上手に運転するには自動車教習所で訓練しなければならないように、生まれたそのままでは上手に運転できない為、人間教習所(家庭、学校等)で訓練を受けなくてはならないのです。
その人間教習所で人格形成時に、「私」の運転技術を修得していなければ、人生という路上で色々なトラブルが発生してしまうことになるでしょう。
そのひとつが「悩み」です。悩みとは、情動系回路の行動指示に対して、思考系回路がストップをかけて、進路がとれない状態のことです。この状態は、二つの回路のエネルギー衝突ですから、前に進もうとしても動けないため、やがてエネルギーの枯渇となり、精神的と身体的との疲弊をまねくことでしょう。その結果がガス欠のノイローゼ、流行り言葉では「うつ」と言っていることです。
思考系回路が発達していない小鳥が、「うつ」になったということは聞いたことなどありません。小鳥は、思考系回路ではなく、情動系回路の今を生き残る為だけにエネルギーを使っているからです。
では、その人間教習所では何を訓練しているかと言えば、主に受験勉強という暗記ゲームを行なっているわけです。やっと最近、そのゲームの弊害が認識されたためか、「ゆとり教育」などのレトリックを発明して、子供のためではなく、公務員教師のための週休二日制を実現させました。そのため、子供は土曜日は塾通いです。
しかし、明治の富国強兵の時代ではなく、今の情報時代では、「歯車人間」は必要ではないことが、教養ある教育者には今だ理解されていないようです。国語算数理科社会と同じように、ひとのこころのメカニズムをコントロールさせることを子供の頃から学習させ、個性を発揮させることは、情報時代を生き残るには大切なことなのです。
さらに、人間教習所で、人格形成時にお金に対しての教育をすることも大切なことなのです。
世間一般では、子供が遊ぶのではなく、仕事をしてお金を稼ぐことは「悪いこと」と考え、それに対して、大人が仕事をするのではなく、遊びでお金を浪費することは「悪いこと」、と考えているようです。
その延長線上で、お金を報酬目当てに仕事をすることは、無料奉仕のボランテアの仕事に比べて、卑しいイメージを与えているようです。さらに、お金を条件に仕事をすることを「悪い」ことと考え、無料奉仕のボランテアは「良い」ことと考えているようです。それでは、仕事の仕方に、善悪などあるのでしょうか。
そこで、子供の頃から子守や薪売りでお金を稼いでいた二宮尊徳が、善悪に対してどのように考えていたのかをみてみましょう。

翁曰、善悪の論甚むずかし。本来を論ずれば、善も無し悪も無し。善と云て分かつ故に、悪と云物出来るなり。元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり。故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒蕪を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒らすを善とするなるべし。世法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗を善とし是を制する者を悪とするならん。然れば、如何なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ。此理明弁し難し。

尊徳の考えでは、善悪は相対的なもので、立場が替われば善も悪になり、又悪も善になるということで、単純に善悪の線引きはできないということです。この考え方は正に、キリスト教的単純な善悪二元論ではなく、全てを飲み込む縄文的(あらゆるものに神が宿っていると考える善悪の区別が曖昧な多神教的)考え方と言えるかもしれません。
そのような尊徳的考え方であらゆる仕事の内容を認識できれば、仕事の種類に「善悪」も「貴賎」も区別をつけることもなくなるため、仕事の幅も広がり、どのような種類の仕事でも楽しく出来るかもしれません。
しかし、実際にはどうでしょう。この国では大昔から、現在の学校での子供同士のイジメのようなことを、体制側が弱い立場の者に行なっていたのです。それが制度上廃止されたのが、明治4年8月28日の賎民廃止令です。

布告
エタ・非人等の称廃せられ候条、自今身分職業とも平民同様たるべき事。

そのように発令された差別廃止の制度も、実際、差別をこの世からなくしたのではないことは、明治維新政府の為政者の言動を調べれば理解できるでしょう。
そのひとりに福沢諭吉がいます。彼は「学問のすすめ」の中で、「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となる」の言葉は赦せるとしても、「無学なる者は貧人となり下人となるなり」と平民を脅して、学問の無い者を「愚民」呼ばわりしているのです。このような功利主義的人物が日本の教育界の創始者であったことが、新たな教育差別を生み出していくわけです。
楽しく人生を暮らしていくことと、学問のあるなしは関係ないことです。学問がなければ、貧人、下人になるわけでもありません。情報時代では、真理を追究するための学問ではなく、給料の高い会社に就社するために他人を蹴落とすための暗記力主体の学問などなくても、ひととしての道に外れることなく楽しく仕事ができさえすれば、貴人にも冨人にもなれるのです。
そこで、そのような差別がどのようにして、この国に生まれたのかを考えてみることにしましょう。
お化けも、その正体を突き詰めれば、ある物体をこころの中で勝手に創造したにすぎません。それでは、その差別は、誰によってどのようにして創造されたのでしょうか。
いつの時代でも、歴史の流れは「支配する者」と「支配される者」とで構成されてきています。前者は少数で圧倒的な武器を持ち、後者は多数ではあるが武器を取上げられてしまい、今や戦う意識もなく無気力な状態にいるわけです。
支配する側の武器とは、軍隊や警察力だけではありません。最も強力な武器は「歴史」です。この武器が強力なのは、目には見えませんが、敵側のこころを劣位にし、戦う前に戦う気力を奪い取ってしまうからです。
明治維新が成功し、江戸時代の古い因習が、明治元年とともに「新しい夜明」を迎えたかのようなイメージを持っているひとたちが多くいることでしょう。更に、歴史も江戸時代から明治時代に、ページを捲るように劇的に変化したように信じているひとも多くいることでしょう。
しかし、実際は異なるようです。
明治新政府は、欧米との交流において気づいたことがありました。そのひとつに、欧米に対抗できるような、日本建国から現在までの歴史書がないということです。そこで、1887年(明治維新から二十年後)ユダヤ系ドイツ人ルードヴィヒ・リースという人を、東京に創設させたばかりの帝国大学(東大)の史学科の教授に招聘するわけです。ここから魔術国家「神国日本」が誕生するのです。
現在のマスコミのタブーのひとつとして、「天皇」と「部落」の問題があります。それは、この二つの問題を追及して行くと、ひとつの問題に収束してしまうからです。ですから、支配する側は、この問題をタブーとしてきたわけです。
しかし、支配する側が、ある目的をもって史学学会やマスコミ中枢をコントロールしたとしても、ひとの遺産としての記憶までもコントロールすることはできません。
これから述べる「支配される側からの歴史」は、敗者の歴史は勝者により焚書されてしまっているため、断片的な情報、それも伝聞という情報なので、文献などの証拠を提示できるわけではありません。更に、記憶としての情報なので、時系列的に疑問も生じるかもしれません。そして、歴史を眺める視点が敗者側なので、学校で学習した歴史(勝者側の歴史)と異なるかもしれません。そのようなことを基盤として話を進めていくことにしましょう。
日本での差別が、明治4年に制度上終わったと述べました。その差別のことを、学校では、「士農工商エタ非人」と教えていました。しかし、それは間違いです。「士農工商」までは「ひと」で、エタ非人は「異界の人達」であったわけです。ひととしての同系列での差別などではなかったのです。そのエタ非人にも区別がありました。非人は、「士農工商」のひとが罪を犯した結果です。それに、野非人は十年以内に功労が認められれば「ひと」になれるチャンスがあるのです。それに比べて、エタはエタのままで生涯を終えるのです。それではエタとは何者なのでしょうか。明治4年の賎民廃止令で、新平民のエタの支配者十三代弾直樹(左衛門)の祖先は誰だったのでしょうか。
その糸口が、明治二十五年六月二十五日の「朝野新聞」に掲載されていました。

浅草区亀岡町(往時は新町と伝ふ)に住む弾直樹と伝ふ人なん、往昔よりエタの君主と仰がれたる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以って氏とせり。抑も我国において秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩後扶蘇逃れてかいはくに入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以って百二十七県の民を率い、金銀玉はくを齎して帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を緒郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹ぱく柔軟にしてよく肌膚にかなふを以って天皇特に波多の姓を賜へりと。是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。其後この族より秦左衛門尉武虎といふもの出て武勇を以って平正盛に事へたりしが、適ま正盛の女の姿色艶麗いとろう丈けてたをやかなるに掛想し筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅く高嶺の花のえも折られず、いよいよ想ひ余りて寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく漏れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱としも頼む武虎にかかる不義の振舞あらんとは奇怪なり、いで物見せんとて討手を差向けたるよし、武虎逸早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし関東は源氏の根拠なれば、屈きょうの隠れ処なりとて鎌倉さして落ち延びぬ。此れより武虎は鎌倉長吏(エタの古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦しけるとなん。

以上の記事を全て信じることはできないでしょう。しかし、「エタ」を解明するための二三のヒントが見受けられます。
以前、悪魔(ルシファー)は、敵側の神で、闘いに敗れた者であると述べました。勝者は常に、敵対する者を再び這い上がれないように思索を練ります。そのひとつが、「ひと」以外の存在とする「辱め」です。それが、差別の基です。
中世ヨーロッパでは、キリスト教が、医療行為を独占する目的のひとつとして、草木や小動物の内臓を煮詰めての薬で、病人を治療していた民間治療者の婦人達を、「魔女」のレッテルを貼ることにより、聖なるキリスト教会は魔女裁判を行い、火炙りにして虐殺していました。
日本では、七世紀以降、あるひとたちを貶める目的で、カッパ、鬼、土蜘蛛、大蛇、天狗(山にいるカッパ)などの妖怪を発明してきました。しかし、実際は、それらの妖怪達は、闘いに敗れた側の神様であったわけです。
そのような視点で、朝野新聞記事の「エタ」を考えてみれば、その祖先は「藤原氏」であるということです。それでは、その藤原氏とはどのような素性のひとたちなのでしょうか。敗者側から調べますと、この藤原氏は、歴史上不思議な存在です。
学校での歴史教科書では、藤原氏とは、「大化の改新」で活躍した中臣鎌足(中臣鎌子が後に鎌足となった。何故、「足」をタリの、古朝鮮読みをしているのでしょうか。)が、褒美として天皇からの賜命された「姓」である、との説明です。しかし、東大系歴史学者ではないひとたちによりますと、この「大化の改新」はフィクションではないかということです。更に、その中臣鎌足の出自はどこかというと、定かではないのです。茨城の鹿島出であるとの説もあるようですが、どうも腑に落ちないのです。そのような「日本国の夜明」の基礎を創った立派な人物の出自が、「日本書紀」に掲載されていないことは、いったい何を意味しているのでしょうか。
そこで、朝野新聞記事に述べられているように、藤原氏の祖先は「秦氏」であるのかと調べてみますと、この秦氏も謎の一族であるわけです。
どうも、明治二十年以降に創作された、外国人の指導による「日本国歴史」には、なにかを隠蔽しているのではないか、と考えることは勘ぐり過ぎなのでしょうか。
そこで闇の日本史を調べることにより、その覆いを取り除けてみましょう。
「日本史の黙示録」を解くヒントは、「エタ」、「藤原氏」、「秦氏」です。

歴史を勉強するとは、仏教伝来ゴミヤサン(538年)のように、受験勉強のための歴史年代を暗記をすることではありません。明日を生き残る為の情報を得ることが、その目的のひとつなのです。
何故、過去の出来事を知ることが、明日を生き残る為になるのかと言えば、それは、ひとの行動は、過去に刷り込まれた(学習させられた)情報に左右されるからです。このことを一般に、「歴史は繰り返される。」と言っていることです。
例えば、ポマードの首相は、国際金融機関の侵入を防御する壁を崩すキッカケを作りました。その結果、外国金融資本の侵入で、今や日本経済は壊滅状態です。そして、ワープロの首相は、突然真夜中に消費税を3%から5%に上げました。その増税分はいったい何処に行ってしまったのでしょうか。そのふたつの理解不能の行動は、どう考えても庶民の生活を守るためだとは考え難いことだったのです。
それでは、その二人は、誰の指令で、誰のためにそのような行動を行なったのでしょうか。ニッケイヨクヨムを読んでも、サッパリ分りません。
しかし、その二人の首相は、実は藤原氏の末裔であるとの情報を持っていたとしたら、大体の想像はついたことでしょう。
歴史などを勉強しても、一銭にもならないと考えているひとには、七世紀に突然日本に出現した藤原氏一族が、現在の日本国の中枢(天皇の後ろに隠れて)で、今も活躍(?)していることなど、信じることが出来ないでしょう。更に、日本古来の風習にはユダヤ・キリスト教に影響されているものがある、と言っても、学校で日本歴史を学習したひとたちには、誰も信じることはできないかもしれません。

四世紀の終わり頃、日本の差別発祥の地「京都」に、ある一族、約一万八千六百名が、半島から訪れるのです。彼らは、秦の始皇帝の末裔の秦一族と名乗り、絹、麻、木綿織物、土木技術、瓦の製造、刀剣、金細工、酒造さらに遊芸楽器演奏などの技術者集団だったのです。
秦一族の来島はその後も続き、主として半島を島伝いに、そして、中国から海路の、ふたつのルートを使っていたことを覚えておいてください。
中国では、「南船北馬」と言って、ひとや物の移動は、南方(海洋民族)では「船」で、北方(騎馬民族)では「馬」を利用していたのです。そして、馬を伴って来たひとたちも、船できたひとたちも、皆、「秦」と名のっていました。
彼ら秦一族は、京都右京区太秦(うずまさ)に、大酒神社(おおさけじんじゃ。元は大辟神社と称されていた。)を創建するのです。この神社は、不思議な神社で、天台宗の覚深(かくじん)は、「天竺・支那・扶桑の神なりや、その義知りがたし。支那の神にあらず、また日本の神にもあらざれば、知らざる人疑い起こす輩もあるべきことなり。」と述べています。その祭りは、魔多羅神の祭り、後に「牛祭り」と言い、「おどるもあり。はねるもあり。ひとえに百鬼夜行に異ならず。」と言われるほど、意味不明の祭りだったそうです。
それでは、大酒神社の元である「大辟」とはどのような意味であるかと言えば、「大」は「ダー」で、「辟」は「ビ」と読み、中国語では、ダビデ大王は、大闢(ダービー)大王と表記しています。つまり、大辟神社とは、イスラエルのダビデ大王の神社と読めるわけです。
更に、秦酒公(はたのさけきみ)の六代目秦河勝(はたのかわかつ)は、新羅国が太子に献上した弥勒菩薩を納めるために、「広隆寺」を建立しました。広隆寺は山号を峰岡山と称し、別名は、峰岡寺、秦寺、大秦寺、太秦寺、秦公寺、葛野寺、桂林寺、草野寺、そして、「景教寺」と呼ばれていました。それでは、その景教とは何かといえば、それは、キリスト教の異端とされるネストリウス教であるわけです。更に、弥勒菩薩とは、釈迦の弟子で、釈迦の次にこの世に現われる未来仏ということになっていますが、その「弥勒」とは、サンスクリット語のマイトレイヤの発音を中国語で表したもので、元来はインドのバラモン経典(ヴェーダ)にででくるミトラ、つまり、キリスト教に多大な影響を与えた、太陽信仰のミトラスの神(一世紀頃、キリスト教徒により壊滅)であるわけです。

時代が飛んで、穢多頭の弾左衛門の仕事を、「朝野新聞」で調べてみましょう。

関東の穢多無慮一万戸。之れを総轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は実に関東穢多の中央政府とも主権者ともいふべきものにて、今当時の実際に就いて聞く所一として奇警ならざるはなし。試にそが生活の有様を問へ云く、少くとも万石以上の一諸侯に比すべしと。そが貸殖の有様を問へば云く殆んど東洋の「ロスチャイルド」ともいふべき財産ありしと。そが第宅の有様を問へば云く中爵門大玄関溝へにして門外幾百の家は挙げて皆その家来の居宅なりしと。

穢多は、被差別民であるから貧困かと言うと、そうではなく、東洋のロスチャイルドのように財産があるということです。更に、関東に家来が一万戸もいるということです。では、その家来達は、何を「仕事」にしていたのでしょうか。
その「仕事」を系統別に分けると、武器、防具そして馬具など、皮革による軍事物資生産の仕事。城作りなどの土木の仕事。灯心、草履などの生活物資生産の仕事。渡守、山守、関守などの見張りの仕事。戦況を占う陰陽師。筆結。墨師。そして、獅子舞、傀儡子、舞舞、猿楽(能の基)、鉢たたき、放下などの芸能の仕事などをシノギとしていたようです。
「風姿花伝」の著者、世阿弥は、「猿楽の租は秦河勝である。」と述べています。
秦氏と弾左衛門との「仕事」は、千数百年の時空を越えてオーバーラップしている事実は、一体何を意味しているのでしょうか。

「ペンは剣よりも強し。」の言葉の意味を問えば、一般的な答えとして「正義は勝つ。」或は、「言論は武器に勝る。」などとなるでしょう。しかし、原文の意味は、「ペン(言論)は剣(武力)より残酷だ。」ということです。
翻訳者が意図してか、或は読解力不足のためか、原文を誤訳してしまったものが、この国ではひとり歩きしているのが現状です。
「言葉は残酷だ。」の意味は、ひとのこころに入り込み記憶された言葉は、その言葉がそのひとの口から、他のひとへ発せられ、それを受けたひとの記憶に入り込み、そのようにな連続性で永遠に言葉の呪力は続いて行くからです。だから差別語は、どんなに時が経っても消滅しない。
この言葉の呪力を理解しているひとは、これを武器として利用することを考えるでしょう。そのひとつが「歴史」です。歴史は恐ろしい武器なのです。
ひとは、一度刷り込まれてしまった記憶を消すことには困難を生じます。ましてや、刷り込まれたことを変更することは、それ以上の困難を生じます。
言葉により創られた記憶は、思考に影響を与えます。そして、その思考は、行動を左右します。と言うことは、「言葉」をコントロールすることにより、他のひとをコントロールできる理屈が成立つわけです。ですから、ペンは武器より残酷なのです。
では、「穢多」の言葉を、誰が、どのようにしてひとびとの記憶に刷り込んだのでしょうか。
穢多の文字が、日本の文献上に登場するのが鎌倉時代の「塵袋」の中です。

天竺にセンダラというは屠者なり、生き物を殺して売る、エタ体の悪人なり。

この「天竺(インド)」の言葉で分るように、この国に差別語を持ち込んだのは、紀元一世紀、インド北部に忽然と現われた大乗仏教徒です。(自分たちは南方仏教より偉いんだということで「大乗(大きな乗り物)」と称していた。ちなみに南方仏教を「小乗仏教」とし、蔑視していた。)
もともと釈迦の仏教には差別語も差別思想もなかったのですが、釈迦の入滅後数百年も経つと、釈迦の教えを勝手に解釈するどころか、ヒンドゥー教の教義に染まっていくわけです。元々の仏教には、仏像もなければ(釈迦は仏像を作ることを厳禁していた。)、加持祈祷もないし、閻魔様もいませんでした。それらは、ヒンドゥー教の影響です。
インドのカースト制の思想を日本に持ち込んだ大乗仏教徒達は、釈迦の教えを勝手に解釈した仏典や仏教説話で「穢れ」の概念を、日本の支配者層に刷り込んでいくのです。
それでは、その大乗仏教の「穢れの思想」を日本に招き入れ、利用したひとは誰なのでしょうか。

日本には、二つの文化圏があります。ひとつは落葉樹林文化圏(狩猟・採取)と、もうひとつは照葉樹林文化圏(農耕)とです。食料確保の行動は、その土地の植物の植生に作用されます。ですから、それらの文化圏に生活する人たちの行動も思想も自ずから異なるわけです。その文化圏の境界線は、東海の名古屋と北陸の富山を結んだ線で、東西に分けられます。
大乗仏教による、屠殺に対しての「穢れ」の差別意識が、東日本(騎馬系民族の渡来地)より、西日本(農耕系民族の渡来地)に強いのは、この文化圏の違いかもしれません。
騎馬系民族の屠殺は、農耕系民族が穀物を食べるのと同じことなのですが、文化が異なれば、その解釈も異なってしまうのです。つまり、気候の違いも、衣料に影響を与えます。裸同然で生活できる温暖な地域と、マイナス数十度の厳寒地域では、衣服にも違いがでるのは当然でしょう。厳冬に暮らす民族が、毛皮で身体の保温を保つことは必然のことです。そのことは、温かい地域に暮らすインドの仏教徒には理解できないことでしょう。
狩猟民族の流れを汲む東日本の住民には、屠殺は生活の基盤であり「穢れ」なとではないのです。だから、東日本では、西日本ほど、今も「穢多」の差別が弱いのかもしれません。
その文化圏の違いは、日本国だけではなく、大陸までも含んでいます。そして、大陸の争乱から逃れる為の来訪者も、日本のそれぞれの文化圏に入植していくわけです。
日本には、縄文時代以来の考え方がありました。その考え方は、モノや植物に神(シン・ジン)が宿るということです。それは、ひとの力の及ばない「モノ」であったわけです。「モノ」には神の意味があったわけです。しかし、八世紀になると、「モノ」は悪の代名詞「鬼」と変化させられていくのです。
このような改ざんを行なったひとの行動を突き詰めれば、差別語を何故この国で使用したのかを解明できるかもしれません。その謎のひとを解明する鍵は「聖書」です。
ミステリー小説の醍醐味は、事件が起こり、それに係わった生き残りグループの中で、最も犯人らしくない人が、真犯人であることを突き止め、その動機を解明することです。
現在の世界をコントロールしているひとは誰であるかは、世界で最高の武器である歴史書をもっている民族を探し出せば、自ずと解明できるでしょう。それでは、大昔から現在まで「生き残っている」歴史書は何かといえば、先ず、「聖書」が考えられるでしょう。
つまり、世界最高の武器である聖書をもっている民族が、良い意味でも、悪い意味でも、この世界をコントロールしているのです。
それでは、日本の国をコントロールしている一族は誰でしょうか。日本での最大の武器としては、古事記と日本書紀が思い浮かぶでしょう。しかし、古事記は三巻で、それに対し、日本書紀は三十巻です。いや、古事記は四十四巻あるぞ、と言っても、それは「古事記伝」で、江戸時代に、本居宣長が著したものです。
何故、本居宣長が、古事記伝を著したかと言えば、日本書記は「漢国の言」で記されていて、「後代の意」に汚されている、それに対し、古事記は、「古の語言のまま」で記されている、「皇国の古言」を解明すれば、「上代の清らかなる正実」が得られる、と考えたようです。
つまり、日本書記は、「中国語」で書かれているではないか、それに対して、古事記は「大和言葉」で書かれている、だから、古事記の文章を解明すれば、昔の正しい事柄を知ることができる、と言う訳です。
しかし、古事記全三巻は、中途半端な書物です。と言うことは、日本最大の武器は、日本書記となるわけです。つまり、日本の国をコントロールしていた、そして、今もしているのは、日本書紀を創作させ、今日まで利用している一族になるわけです。その一族が、ある目的で差別語「穢多」を、大乗仏教を利用して日本国中に広めさせたのです。
それでは、その日本書紀は、どのようにして創作されたのでしょうか。
日本書紀を研究したひとによりますと、漢語の文章が、全体をとおして一貫していないと言うことです。特に、「分注」の割書き(説明文)におかしいところがある、と言うことです。その分析によりますと、三つに分類されるのです。
それらは、A群−漢語と日本の風習を完全に理解している、B群−漢語は完璧だが、日本の風習を理解していない、そして、C群−漢語は不完全だが、日本の風習は理解している、と言うことです。
更に、不思議なのは、どうもB群は、A群よりも先に書かれているようなのです。
そこで思い出すのは、「旧約聖書」です。旧約聖書の創世記から始まるモーセの五書は、年代的には、後の物語より、年代的に新しいのです。
更に、日本書記と聖書に共通することは、日本書紀の巻末にある「不改常典」と、ヨハネの黙示録第二十二章十八節「この預言書の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加えれる者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加える。」ということです。
それでは、日本書紀のライターは誰かと言うと、B群は、続守言(ショクシュゲン)と薩弘格(サツコウカク)と言う唐人で、C群の三十巻は、紀清人と推測されています。しかし、A群の「神代から安康」までを誰が書いたか特定できないようです。
そこで、当時、漢語が完璧で日本の風習を良く知っているひとを探してみると、「日本書紀」天武十年、十二月の記に「柿本臣佐留(さる)」の名が記されています。柿本臣佐留とは、百済からの亡命者で、中国語が完璧な歌人「柿本人麻呂」のことです。
それでは何故、佐留(さる)などの言葉を名前に付けられてしまったのでしょうか。
佐留(猿)という言葉は、歴史上いろいろな時代に出てきます。例えば、神代に出てくる「猿田彦」、秦氏が基の「猿楽」、更に時代が下がって、織田信長は秀吉に向かって「猿」と言っていました。秀吉の顔が猿に似ているからと言うのが定説ですが、秀吉の肖像画を見ると、その顔は、「猿」というよりも、「ねずみ」或は「きつね」に似ています。更に、徳川家康が、豊臣秀吉の策略により、穢戸(えど・江戸)へ移り住む時、弾左衛門が馬のお守りに、猿飼(大道芸人の猿回しとは異なる。渡来系騎馬民族の末裔。)を使わしたのは、馬の守護神が「猿」であることを、徳川家康(家康が弾左衛門を穢戸へ招いた。)も知っていたからです。
では、猿(佐留)とは、本来はどのような意味だってのでしょうか。それは、「渡ってきた」、つまり、「渡来」ということです。ですから、猿田彦とは、「渡来人の彦」で、猿楽とは、「渡来の踊り」です。しかし、時代が下がると、本来の意味が忘れられてしまい、「人間に似ているが劣ったヤツ」、との蔑称に変化して行くわけです。しかし、信長は、秀吉の家系を知っていたのかも知れません。(秀吉の周りには、一夜城を作る土木関係者及び間者(スパイ)としての漂白の民がいました。)
それでは、差別語を利用した「真犯人」を特定しましょう。それは、藤原不比等です。
では何の為に、差別語「穢多」を広めたのでしょうか。それは、ライバルの新羅系(騎馬民族系)を追い落とし、日本を乗っ取る為です。(藤原氏の世を「平安時代」と言います。そして、現在の年号は「平成」です。これは、偶然なのでしょうか。)
藤原氏が日本国を乗っ取るための武器は、中国語で書かれた「日本書記」です。そして、その種本は、「百済記」、「百済本記」、そして「聖書」です。
では、藤原氏の姓は、何を語源としているのでしょうか。それは、韓国語の「ブルボン」と言われています。そして、その意味は「日の国」です。つまり、この国で「貴種」とされた藤原氏とは、百済からの渡来者(猿)だったのです。

日本国以外で、「部落」と言えば、村ほどでもない、一族郎党の住む小さな集合体を意味しているでしょう。しかし、この日本では、「部落」と言えば、その前に「特殊」の文字が付け加えられてしまうのです。(特に、今でも西日本においては顕著のようです。)では、その政治的意味付けされてしまった「部落」は、この国では何時代に発明されたのでしょうか。
その「部落」が発明されたのは、どうも藤原氏の時代、つまり「平安時代」のようです。それでは、その藤原氏の時代になる前に、この国で覇権を競っていた部族は何かといえば、それらは、「源平藤橘」でしょう。
「源」とは、源氏系(新羅系騎馬民族)で、「藤」とは、百済系海洋民族で、「橘」とは、契丹(トルコ系)民族です。では、「平」の平氏とは何処からの民族なのでしょうか。
その謎解きのヒントは、平氏の民族カラーである「赤」にあるようです。(因みに、源氏は「白」です。江戸時代、川越人側は「赤フン」で、馬方は「白フン」で区別されていた。)
日本に、半島から秦氏を名乗って上陸した民族は、元々の半島の民族ではなく、大陸内部の争乱を逃れて、騎馬系は中央アジアから、海洋系は中東からインド・中国を経て遥々半島にやって来たのです。
騎馬系のルートは、紀元前からあるシルクロードからですが、では、海洋系のルートは、どこからなのでしょうか。
奈良の正倉院の宝物の中には、遠くペルシャを越えて、エジプトの螺鈿技術の才を極めた美術品も多くあります。それらの緻密で精巧な美術品は、ラクダの背中に揺られてシルクロードを東に辿り、遥々日本へ来たと言うのでしょうか。
インドでは、大昔から現在までも、三角帆を張った木造船「ダウ」が、インドとアフリカ大陸との交易に活躍しています。エンジンがなくても、帆と海流とがあれば、広い世界を陸路より快適に短時間に移動が可能なのです。
ひとや物の移動に付いて、海路による歴史的役割の軽視は、海上文化の担い手を、漁民、漂海民族や土地に住めない弱小民族などの下層民のものとする先入観に基づくのか、或は、知られては不都合の為に隠蔽する政治的意味合いによるのかもしれません。
紀元前千二百年頃、中東カナンの地に、海洋民族が出現するのです。かれらは多民族から構成された海洋商人達で、識別のため「赤い衣装」を纏っていました。その「赤い衣装の商人」のことを、ギリシャ語で「フェニケス」後にフェニキア人と呼ばれていました。
そのフェニキア人商人達は、大型構造船と大きな帆で地中海、アラビア海、そしてインド洋で活躍していましたが、紀元前四世紀にアレキサンダー大王の中東進出で、その活路が塞がれ、その「赤い衣装の商人達」はやがて歴史から消えてしまうのです。
中東から日本までの航海は、陸路のシルクロードよりも安全で短期間で到達可能でしょう。インド洋を海流とモンスーンと海表面に発生する吹送流を帆に受ければ、フィリッピンまではエンジンがなくても到達できます。更に、夏であれば、黒潮に乗れば、対馬海流により、朝鮮半島南端、又は、北九州にたどり着くことでしょう。それとは逆に南下するには、冬の北風を利用すればよいのです。
更に時代が下がり、紀元前二百十九年、総勢三千名の集団が船団を組み、中国大陸から桃源郷を目指すのです。それを先導したのが、秦の始皇帝から不老長寿の仙薬を求められた「徐福」です。徐福到来の伝説は、半島だけではなく日本全国にもあります。
日本へ到達した「赤」を民族カラーとする海洋民族「平氏」は、ペルシャ(西アジア全体を含む地域を平安時代はペルシャと言っていた。)の末裔だったのです。
ここで、「源平藤橘」の渡来民族ルーツが解明されたわけです。
日本民族とは、先住民族の縄文人をベースにした多民族国家だったのです。いや違う、日本は大和民族で単一民族だ、と言っても、その皇国史観は、第二次世界大戦中に発明されたものです。
では、虚構民族・単一大和民族を纏める「天皇」はどのような策略で発明されたのでしょうか。
その解明により、中国語で書かれた「日本書紀」を武器として藤原氏が「平・橘」を利用して、源氏の騎馬民族を「穢多」、「部落」の差別セットで、如何にして落とし込んだかを理解できるでしょう。
歴史は、医学が純粋な科学ではないのと同じように、科学ではありません。それは、不可思議なこころの問題が介在するからです。では、歴史書は何かと言えば、それは文学書とでも言えるでしょう。歴史という物語を書くということは、何かの目的があるからです。その目的のひとつは、こころの問題を解決するためです。
例えば、勝者の場合、以前の不都合な履歴を消し、自分がどれほど偉いか、そして、自分の祖先は如何に偉大であったかを述べることです。それに対して、敗者の場合、自分を落とし込んだ勝者の実態を暴き、今の自分の姿は仮であって、本当の姿は別にあり、祖先は高貴であった、と言うことを述べることです。
そこで、敗者の側から勝者の歴史書である日本書紀を眺めてみることにしましょう。
日本書紀によりますと、神武天皇は紀元前六百六十年に活躍したそうです。しかし、中国の史料によりますと、「倭国」は六百七十年を最後に姿を消し、替わって「日本国」は七百一年、はじめて唐に使いを遣わしたそうです。その倭国が消滅した六百七十年とは、天智天皇の即位第三年ということです。
と言うことは、日本国で最初の天皇とは、「天智天皇」か「天武天皇」かその御后の「持統天皇」か、はたまた天武天皇と持統天皇の孫の「文武天皇」のいづれかでなければ、中国の史料と辻褄が合わないでしょう。
更に、天皇家は万世一系であると言われていますが、壬申の乱(672年)後と明治維新(1868年)とで、天皇家の血脈が取り替わっているようです。つまり、天智天皇(海洋系)と天武天皇(騎馬系)は、日本書記で言うところの兄弟(日本書紀とは逆で天武天皇が年長)ではなく、そして、明治維新での「北朝系」睦仁天皇が明治天皇になったのではなく、「南朝系」大室寅之祐が明治天皇に変身した、と敗者の歴史では語られているようです。
では、そのようなトリックを考えたのは誰でしょうか。
そこで、「カゴメの歌」を思い出してください。鶴(騎馬系)と亀(海洋系)を戦わせ、その後ろで操るのは「カゴメ(ヘキサグラム・藤原氏の子孫は666。)」である「秦氏」でしたね。それでは、その「秦氏」とは何者かと言えば、それは「藤原氏」であるわけです。
ここまで来れば、闇の日本史の半分が解明できたも同然です。
ひとの思考系回路は、明日を生き残る為に、色々な虚構を考え出します。そのひとつに、「民族」という概念があります。
この民族の概念は、第一次世界大戦前年の千九百十三年(大正時代)に、日本で発明されたのです。 その定義は、ソ連のスターリンによる、「民族とは、言葉、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である。」からの借用です。しかし、その論文の題名は、「マルクス主義と国民問題」であり、その定義は、「国民(ナーツィヤ)」についてであるわけです。その国民主義のことを、「民族主義」と訳してしまったのが、この国での「民族」の概念の始まりと言うわけです。
日本人の潜在意識下には、五つの部族(源平藤橘+先住民)から構成された日本国のイメージがありますから、スターリンの論文を理解するのに、「国民」を構成する単位を更に分ける「民族」の訳語が必要であったのでしょう。
その「民族」を束ねるものは何かと言えば、そのひとつに「宗教」があります。
では、日本で天皇が発明された時代では、どのような種類の宗教があったのでしょうか。
学校での歴史授業では、その七世紀での重要項目に「大化の改新(645年)」があります。何故、その大化の改新が、日本の歴史で重要かといえば、その意味はふたつあります。ひとつは、天皇制の始まりを示すことと、藤原鎌足の登場です。しかし、闇の日本史では、それらのふたつは虚構となっています。
大化の改新では、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、蘇我入鹿を滅ぼすことになっておりますが、では、その蘇我氏とは、どのような部族であったのでしょうか。
教科書的には、蘇我氏は聖徳太子と共謀して、土着の豪族で反仏教派の物部氏(この国では古くから、「モノ」とは「神」の意味がある。)を滅ぼし、仏教を導入したことになっております。では、その「神道」を奉ずる物部氏を滅ぼした、仏教派の聖徳太子とは何者であったのでしょうか。
昔から、聖徳太子はキリストではないかと囁かれていました。その根拠に馬屋で生まれたからというものです。しかし、聖徳太子の影には、もうひとりの人物が見えるのです。それは「ダビデ」です。
蘇我氏と物部氏との闘いで、蘇我氏は何度攻撃しても、物部氏を攻め落とせません。そこで十三歳の聖徳太子が登場して、「いまもし我をして敵に勝たしめたまわば、必ず護世四王のために寺を起しましょうぞ。」と願掛けを行うことにより、その強大な物部守屋は自ら崩れてしまったと言うことです。
この物語は、旧約聖書の「サムエル記上」のダビデの少年時代の事績に似ています。サウルとイスラエルは、ペリシテびとに何度対峙しても敵いません。そこで、ペリシテの大男のゴリアテに、少年のダビデは挑み、ゴリアテを打ち負かしてしまうのです。
そこで不思議に思うのは、天智天皇が、神道派の物部氏を滅ぼし(日本書紀では蘇我氏と聖徳太子が滅ぼしたことになっているが、それは疑問です。)、仏教を導入したのなら、万世一系であるはずの現在の天皇家も「神道派」ではなく、「仏教派」でなくてはならないわけです。
そこで、西垣晴次著書「お伊勢まいり」の第一章「伊勢神宮、昔と今」を読むと、

明治天皇の神宮参拝を天皇として史上最初のことだというと、疑問をもつ人もいるかもしれない。一般に、伊勢神宮は皇室の氏神であり天皇家の祖神をまつる神社であると理解されている。だとすると、自分の家の氏神に一家・一族の主の地位にある天皇が明治二年まで全くその社前にぬかずいたことがないというのはおかしいのではないかという疑問である。
さらに、もう一つ注意すべきは、古代以来永年にわたって天皇の神宮参拝の事実がなかったのに、明治になってはじめて参拝があったのは、神宮と天皇、神宮と国家との関係が変化し、神宮自体の性格もそれまでとは変わったことを示すものにほかならない。

伊勢神宮に奉仕する王権の皇女、王女が斎王として送り込ませたのは、七世紀後半の天武天皇時代からです。しかし、後醍醐天皇の時代(1318年)以降は、その制度は廃絶されてしまい、再開されたのは、明治二年であったのです。
そこから推測すると、日本国最初の天皇である天智天皇は仏教派で、壬申の乱後の天武天皇は神道派で、それ以降の天皇は伊勢神宮へ参拝していないわけですから神道派ではないということは仏教派で、明治天皇は神道派であるということです。
それでは、伊勢神宮とはどのような闇の歴史があるのでしょうか。
伊勢は元々は、近江付近にあったものが、三世紀頃半島から侵入してきた部族に追いやられ、今の伊勢に五十余年の歳月をついやして辿り着いたようです。風土記の伊勢国号の由来によりますと、

そもそも伊勢の国は天日分命(あめのひわけのみこと)が平定した国である。天日分命は神武天皇が九州から東の国を征討された時、天皇に従って紀伊の国(和歌山)の熊野の村についた。その時、天日分に命令して「はるか天津の方に国がある。ただちにその国をたいらげよ」といわれて、将軍として標の剣を賜った。天日分は東に入ること数百里であった。その村に神があって名を伊勢津彦といった。その神が神武天皇に国を明渡すことを嫌がったので、天日分が殺そうとしたところ、神は恐れて「私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう」と誓い、東の方へ去っていった。

この物語は、穢多の弾左衛門が、鎌倉へ逃亡するストーリと似ています。つまり、都落ちです。三世紀での伊勢以北は、異界であったのです。十二世紀の鎌倉以北も異界であり、十七世紀の穢戸(江戸)以北も異界であったのです。
では、天武天皇は、何故異界の伊勢神宮を奉ったかといえば、それは、壬申の乱の時、その伊勢にいる異界の「鬼」達のバックアップを受けたからです。
ここまでくれば、「穢多」と「部落」の歴史背景が読み取れるでしょう。
藤原不比等は、天智天皇の娘である、天武天皇の后、「持統天皇」をコントロールして、天武天皇派の武将ら一族郎党を、仏教を利用して、「夷(海洋系)を持って、夷(騎馬系)を制す。」の戦略で、「穢多」に落とし込め、橋の無い中州に閉じ込め、そこを「部落」としたわけです。そこから、河原者→河衆→カッパとなるわけです。
「穢多」も「部落」も、その発生は平安時代まで遡るのです。そして、その差別も、現在も続いているのです。日本書紀の呪縛がある限り、この物語は永遠に続くでしょう。「ペンは剣より残酷です。」
お化けの正体を知ってしまえば、それほど怖くわないのと同様に、差別の根源を知ってしまえば、差別をされても卑屈になることも無いでしょう。なにしろ、「穢多」は、天武天皇の流れに居るわけですから。貴賎も善悪も、所詮ひとの思考系回路が、明日を生き残る為に、勝手に考え出した概念にすぎないのです。
江戸時代も残りわずかな時、浅草の穢多頭、第十参代弾左衛門宅へ、薩摩藩の使者が秘密裏に訪れるのです。「島津家も弾家も、古は秦族ぞ。家紋も同じぞ。つまり、同族ぞ。」と、倒幕を誘うのです。
島津氏の元は、藤原氏とも言われ、平安末期、九州の南端に京都から侵入してきた部族です。先住民を制圧し地盤を固め、琉球王国を支配し、江戸時代、鎖国の禁を破り、諸外国との密貿易を行っていました。諸外国との貿易で使用の船に、「日の丸」の旗を付けていました。日の丸は、古来よりいろいろな形で使用されていましたが、日本の印にすることを江戸幕府に提案したのは、島津家です。鎖国を進める幕府には、諸外国に対する日本国という意識はありませんでした。
江戸末期、諸外国船が開国を求め多数日本国に来るようになり、日本の船との識別が要求されていたのです。更に、東アジアの欧米列国による植民地化に危機を感じた幕府は、部族を超えて団結する必要を感じていたのです。
そこで、1854年(安政元年)、幕府は「日の丸」を我国の総船印にすることを決定したのです。
そこで思い出すのが、藤原氏の語源です。それから連想すれば、藤原氏→ブルボン→日の国→日本→日の丸→国旗となるわけです。
以上、述べてきた「穢多・秦氏・藤原氏」の物語は、学校で学習してきた歴史とは掛け離れているかもしれません。しかし、物事には、表と裏があるのです。その両方の物語を知ることにより、歴史が立体的に見えるのです。そのように見えることができれば、思考の視野が広がる為、ある目的を持っているひとの「策略」を見抜くことができるでしょう。
時代の流れは、昔も今も止まってはいません。しかし、ひとの思考回路のパターンは、昔も今もそれ程変化していません。と言うことは、昔のひとの行動を分析することにより、未来の時代の流れを予測できることが可能なわけです。つまり、「歴史は繰り返される。」のです。
さて、もし、平成の現在が、古の平安時代の流れを辿っているとしたら、その次の流れは、武士の時代になるわけです。つまり、バブルの時代を謳歌していた平成時代のサラリーマン貴族は、虐げられていた野武士にとって代わられるわけです。
では、平成時代の野武士とは、どのようなタイプのひと達で、どのようにして仕事を獲得していくのでしょうか。
そこで、次章で、未来の流れに乗って、生き抜くためのヒントを考えてみましょう。

第三章  温故知新  


   こころのなかに未来がある   


ひとが自立をするためには、経済的自立と精神的自立との、ふたつのハードルを越えなければならないことは、以前述べました。その方法としては、自分以外に頼る者が無い、と悟ることが、その基礎であるわけです。
しかし、人生ゲームでの道程で、何らかのトラブルに遭遇してしまった時、白隠禅師が、ノイローゼの結果、「救いを求める為、難解な仏典を理解しようと無駄な時間を使ってしまった。今悟った。自分自身が仏(解脱したひと)であったのだ。」と悟ったように、自分自身の中にそのトラブルの解決策があることを知らない為、多くのひとのなかには、他のひとや神仏に頼ろうとする傾向があるようです。
ひとが人生ゲームを進めて行く場合、そのゲームの概略を研究し、そのゲーム展開の予測をたてます。そして、その予測の基に、色々な戦略・戦術を企画し、人生ゲームを進めて行くわけですが、予測は、あくまで予測に過ぎないわけで、実際とは異なります。
そこで、その予測が狂ってしまい、人生ゲームが上手くいかない場合に遭遇してしまった時、そのひとの「智恵力」の差が現われて来るのです。
一般的に、ひとは、トラブルを回避或は解決する目的で、情報を集めるようです。しかし、その情報が、トラブルを回避又は解決をするわけではありません。それでは、何が回避或は解決するのかと言えば、それは、そのひとの思考回路です。
ですから、その思考回路に、あらゆるトラブルを回避或は解決するプログラムがインプットされていれば、あらゆるトラブルを他に頼ることなく自分自身で解決できるため、人生ゲームを楽しくできるわけです。
つまり、情報はあくまで情報に過ぎず、その情報を明日を生き残る為のものとするには、思考回路にあるプログラムの良し悪しが、未来への行動を決定してしまうのです。このことを、「二人の靴のセールスマン」の話で考えてみましょう。

ある靴のメーカーが、新製品の靴を販売するにあたって、靴販売の未開拓地アフリカを新市場として開拓する為、二人の優秀なセールスマンを派遣し、靴市場の実施調査をさせて、その調査結果の情報を基に、本社の新製品販売戦略会議において、報告させることにしました。
二人はアフリカで現地調査を一所懸命にし、あらゆる情報を集め、そして帰国し、その情報を基にレポートにまとめ、新製品販売戦略会議に臨みました。
その会議の議長である社長が、パイプをくゆらしながら、二人の報告を聞いています。
「社長、自分の考えでは、アフリカは新製品の靴の市場としては有望ではありません。何故ならば、アフリカでは誰も靴を履いていませんから。」、そう言い終わると、そのセールスマンは満足げに席に戻りました。社長は沈黙しています。
もうひとりのセールスマンが言います。「社長、私の考えではアフリカは新製品の靴の有望市場となります。何故ならば、アフリカでは誰も靴を履いていませんから。」
そのセールスマンが席に戻る時、社長を見ると、社長はパイプを片手に、笑みをうかべていました。

このアフリカのセールスマンの話は、色々なバージョンで広く語られています。この話の意味するところは、どのように正確に情報を集めて分析したとしても、その情報を未来の行動のために「思考」しなければ、それは「唯の情報」に過ぎないということです。
それでは、その「思考」とは、どのようなことで、そして、どのようなメカニズムで、ひとは「思考」するのでしょうか。
「思考」を広辞苑で引くと、「広義には人間の知的作用の総称。狭義には、感性の作用と区別して、概念・判断・推理の作用をいう。ある思想を惹起する心的過程。ある課題に対処する心的操作。」、との説明文があります。
いつも思うのですが、辞書の説明は分るようで、分らない。この広辞苑の「思考」の説明も、分るようで、分らない。
それでは、「思考」をもっと噛み砕いて「思考」すると、次のように説明できるかもしれません。それは、思考とは、あるイメージを情報源として、記憶の中から言葉を引き出し、それらを繋ぎ合わせて、ひとつの物語を創作すること。
この説明を先の物語で考えてみると、アフリカの二人のセールスマンは、同じ情報(アフリカでは誰も靴を履いていない。)を得ていたのに、記憶の中から言葉を引き出し、繋ぎ合わせ物語を創作すること(思考)において、全く反対の結論を導き出してしまったのです。このことは、どのように説明したらよいのでしょうか。
このことを簡単に説明すれば、ひとは外界の情報を在りのままに認識することができない、ということです。さらに、ひとは外界をこころの中に記憶された世界で認識してしまう、ということです。
ですから、上向思考のひととは、なんでも自分に都合良くできている世界のイメージ情報をこころに持っているひとで、それとは反対に下降思考のひととは、「何をやってもダメなんだ。」のイメージ情報をこころの中に刷り込まれてしまっているひと、であるわけです。
いやそんなことはない、ひとは正確に、客観的に外界を認識している、と信じているひとも多くいることでしょう。しかし、そうではないことは、伝言ゲームをしたことがあるひとには理解できるでしょう。
そのゲームの概略は、数十人のひとたちを並べて、最初のひとにある情報を流すのです。そして、最後のひとが受け取った情報と、最初の情報とを比べて、その食い違いを知ることにより楽しむゲームです。
もしも、ひとは、受けた情報を正確に理解し、その情報を在りのままに他のひとに伝えることが出来るのならば、この「伝言ゲーム」などの遊びは流行らないでしょう。
では、ひとの思考のメカニズムはどのようになっているのでしょうか。
思考は、記憶している情報を基に行われるとするならば、その記憶を導き出すメカニズムとはどのようになっているのでしょうか。
ブリストル大学のアラン・バットリー教授の説によれば、「記憶」と「思考」とには厳密な境界線がないことが明らかになったようです。記憶と思考を処理することを、「作動記憶」の概念で説明すると、そのメカニズムは、三つの回路に分かれているようです。
それらは、異なる情報を統合し、整理し、古い記憶を取り出し、他のふたつの回路からの情報を統合する「中央実行部」と、画像を保持している「空間視覚スケッチブック」と、音響情報、発話情報を保持している「音韻ループ」とです。それらの三つの回路が働くことにより、「思考」が行われる、と考えているわけです。
この思考系回路が、外界の情報を刺激として、今まで保持していた映像情報や言語情報を、その都度組み合わせることにより、新しい物語を創作するわけです。このことを、一般では「思考」と言っているわけです。ですから、記憶も思考もその都度創作されるため、その物語は一定していないということです。つまり、記憶も思考も普遍ではないのです。
それでは、その物語のストーリ創作は、「誰が」行うのでしょうか。
そこで登場するのが、「我思う故に我在り」の「自我」です。この自我は、「私は知らないことを知っている」、と認識するほどの得体の知れないものです。
自我は、思考には必要なものです。その自我と切っても切れないものが「意識」です。つまり、自我(私)は、意識することにおいて、「思考」するわけです。
では、意識とは何なのでしょうか。
この意識も広辞苑で引くと、今していることが自分で分っている状態。われわれの知識・感情・意志のあらゆる働きを含み、それらの根底にあるもの、とあります。
意識は、自分と他との区別が前提で、明日を生き残る為に、客観的世界を認識し、情報を集め未来を予測し、その目標に向けて戦略・戦術を練り、状況を判断し決定を下し、価値観の評価を行う役割を「演じて」いるようです。つまり、意識とは、自覚・知覚・自意識・注意・内省を含む精神活動であるわけです。
それでは、意識は何処にあるかと言えば、それは、大脳皮質の前頭葉に位置しているようです。
では、意識がそのように問題解決の為の精神活動を行うことができるのであれば、人生ゲームでのトラブルなど簡単に解決することが出来ると思うでしょう。しかし、前頭葉で活躍する意識も、神経伝達物質であるドーパミンやセロトニン、アドレナリンなどの超微量化学物質の分泌が、何らかの原因で少しでも乱れたとしたら、物事の感じ方や考え方、或は行動の決定に著しい影響を受けてしまうのです。
では、そのような神経伝達物資をコントロールしているのは「誰」なのでしょうか。それは、どうも、今を生きるための情動系回路であるようです。この情動系回路は、大脳辺縁系と言われているもので、感情面の結びつきを作る上で重要な役割をはたしているものです。ですから、感情がハイの状態の時は、神経伝達物質の放出も盛んであるわけです。その逆、神経伝達物質が何らかの原因で枯渇することにより、感情が沈むこともあるわけです。
であるならば、意識の活動を盛んにするには、感情をハイの状態にすれば良いのではないかと考えるでしょう。しかし、ことはそう簡単ではないようです。
と言うのは、思考系回路と情動系回路を同時に作動できないように、ひとは創られているようです。ひとは、熱狂するライブ会場では「思考」することは困難です。又、数学の難問を思考しながら劇の物語に感情移入をするのは困難です。
そこで、意識が、今を生きるための情動系回路に左右されることを少しでも回避することを、大脳は考え出します。それが、意志です。
意志は、意識上で思考した物語の固定化を図ります。しかし、思考系回路は、所詮、情動系回路が長い時間を掛けて創り出したものです。ですから、思考系回路と情動系回路とが拮抗した場合、意志は感情に負けてしまうのです。つまり、男の固い意志も、女の涙一粒で揺らいでしまうのです。
そこで、思考は、意志に自由の文字を更に加え、「自由意志」の概念を発明するのです。その自由意志の力により、ひとは、自分中心に自由に思考することであらゆる問題を解決できると錯覚してしまうのです。しかし、ひとを意識上で自由意志の力でコントロールすることが出来ると考えるのは、思考系回路が創造した幻想です。
ひとの行動は、子孫を残す為に、機械的な仕組みにより制御されているようです。しかし、それでは大脳を発達させたため、その仕組みを「私に悟られる」ことにより「私」が幻滅を感じてしまわないように、明日を生き残る為の夢物語を無限に創作するための「思考力」を、思考系回路が発明したのかもしれません。
思考は、感情に勝つことはできません。このことは、トラブルを回避又は解決するためには、知っておかなければ成らないことです。
ですから、意志と感情が拮抗してしまった場合、意志の力で感情を押さえ込むのではなく、感情は長時間持続することができませんから、ただ静まることを待つことです。そして、感情が静まったと思われる時、意志の力を使い思考することです。それが、トラブルを回避又は解決するためのヒントです。つまり、感情は、決して思考ではコントロールできないのです。
それでは、何が解決するかと言えば、それは「智恵力」です。そして、それは、誰のこころの中にあるものです。
さて、人生ゲームが上手くいっていないひとは、どのようにすれば、上手くいくのでしょうか。
上手くいかないひととは、思考回路に問題があるわけですから、その思考回路に家庭や学校で刷り込まれた不都合な情報を、今までとは全く異なる人生に前向きになる情報に入れ替えれば良いのです。
では、どのようにすればよいのでしょうか。

旅の導師は、次の街に行くために山を二つ越えなければ成りませんでした。お天道様が頭上にあります。ひとつの山を越えたところで小さな集落が目に入ってきました。のどが渇いたので、集落を目指して歩いて行くと、小さな畑を耕しているじい様が、導師に声を掛けました。
「旅の人よ、一服なさらんかい。」じい様は、滅多に他国のひとに会うこともないため、この部落を通るひとに声をかけ、街の話を聞くことを楽しみにしているのです。
「街の様子はどのようじゃ。」
「みなは不景気と言っていたが。」
「この間の旅の人は、街は景気がよいと言っていたがの。景気とはころころ変わるものかな。わしゃ学問がないからわからんよ。」
導師は、粗末な湯のみを飲み干して、「この部落は住み易いか。」と聞きました。
「食う為のものは贅沢をしなければある。夜露をしのぐあばら家もある。景気に左右されんからここは天国じゃ。」
「この部落は見受けたところ楽しみが何にも無いようにみえるが、じい様は未来にたいして何か希望をもっておるんか。」
「わしゃ、未来にたいして希望なんか何んももってねえ。今を生きるだけじゃ。」
「それでは、将来に不安や恐怖を感じないのか。」
「不安、恐怖。そんなもん、わしにゃ関係ねえ。今を生きるだけじゃ。」
「ふむ。」
「希望も恐怖もわしゃ関係ねえ、だからわしゃ自由なのじゃ。」、そう言って、カラカラ笑った口に歯が二本ありました。

人生が上手くいかないとは、どのようなことなのでしょう。好きなことが出来ないから、あるいは欲しい物が手に入らないからなのでしょうか。
それでは、それは何が原因なのでしょう。社会が悪いから、あるいは回りの人達が悪いからなのでしょうか。
人生を楽しんでいないひと達に共通していることがあります。そのひとつが、愚痴です。 その愚痴とは、「こんな私に誰がした。」と言うことです。
昔の偉い人が、「人生とは、そのひとが思っていることそのものである。」と言ったように、今の自分の人生の原因は、そのひと自身の考え方にあるのです。
では、人生が上手くいっていないひとの考え方を改めれば、人生は変わるのでしょうか。それは、変わります。
しかし、その考え方を変えるには、「記憶」を変えなければなりません。なぜならば、考え方の全ての材料は、その記憶だからです。
ひとの記憶は、自己の生命を護ることを第一にしているため、身に危険を及ぼした情報を、楽しみ情報より、強く保持します。そのための特別の記憶装置を脳は自ら創り出しました。それは大脳辺縁系にある扁桃体と呼ばれるものです。ここには無意識に深く傷ついた記憶が、この世に生を受けた時期より保持されています。
ひとが過去を思い出せるのは、大体二三歳までであるようです。それは、大脳の記憶を保持する脳細胞同士の配線が完成するのが、その年令だからのようです。
しかし、扁桃体は、それ以前の自己を傷つけた記憶を保持しているようです。それは、身に危険を及ぼした情報を保持することにより、来るべき危機に備えるためです。それは、危険が渦巻く太古の時代には必要な情報器官だったのでしょう。
乳幼児の最大の危機は、母親に「見捨てられる」ことです。乳幼児は、母親が少しの間でも居ない気配を感じると泣き叫びます。目の機能が作動するようになると母親を目で追います。やがて言葉を理解するようになると、母親の言うことを聞かなくなります。その時の母親の子供をコントロールする時に発する言葉が、子供のこころを深く傷つけます。その言葉のひとつとして、「お前なんか私の子供ではない。橋の袂から拾ってきたのだ。」と言うことです。この一言で、子供はすぐに泣き止むのです。それは、「見捨てる」意味を含んでいるからです。その言葉を聞いた時、扁桃体の見捨てられ記憶が蘇り、言葉と感情が複合し、子供に強い衝撃(パニック)を与えるわけです。
この言葉は、母親は無意識で言う傾向があるようですが、その母親も昔子供の頃自分の母から言われているはずです。
そのような家庭で養育された子供(悪い星の下に生まれたひと)は、母親に見捨てられまいと、本来の自由でありたいこころを懸命にコントロールして、偽りの自分を演技して行動するようになるのです。偽りを演技できなくなると、反抗するのです。それは大体思春期(自立準備期)と呼ばれる年令です。しかし、良い子を演じ続けて、反抗期(自立期)を経ない場合、その「見捨てられ」感が、人生を楽しくさせない原因のひとつとなってしまうのです。 人生ゲームの基本は、人間関係です。しかし、「見捨てられ」感をこころの奥深くに保持しているひとは、在りのままの自分を表現できないため、人間関係に疲れやすくなるため、引き篭もり傾向になるようです。
引き篭もり傾向のひとは、自分が母親に「見捨てられた」と意識下で記憶していることにより、自分自身も「見捨てて」しまう傾向があるようです。
自分を見捨ててしまったひとが、人間関係を上手くできるはずはありません。つまり、人生ゲームが上手くできないのは、「自分が自分を見捨てている」ことも原因のひとつなのです。
このジレンマから脱却するには、どのような方法があるのでしょうか。
それには、まず、「ゆるす」ことです。何をゆるすかと言えば、それは、見捨てたひとであり、そして自分自身を見捨てたことです。
「ゆるす」ことは、「にくむ」ことに比べて、エネルギーの向きが正反対です。つまり、「ゆるす」ことは、エネルギーを充電することになるのです。
引き篭もりとは、ガス欠のエネルギー欠乏状態ですから、そのような状態でさらに「にくむ」ことを行えば、こころがやがて破壊するのは当然なことです。ですから、「にくむ」のではなく、「ゆるす」のです。
そして次に行うことは、記憶を変えることです。しかし、記憶には二種類あることを知らなければならないでしょう。
記憶には、無意識に傷ついた情報としての記憶(扁桃体)と遺伝子によって記号化された本能としての記憶(尾状核)があります。そして、意識下に大脳皮質の脳細胞に焼き付けられた情報を基に創られた記憶があります。
前者の記憶を変えることは出来ないようですが、後者の記憶は変えることは可能です。このことは、記憶と思考との境界線を決めることが難しいことが理解できれば、その説明も必要ないでしょう。
意識下にある記憶も思考も、大脳皮質に刷り込まれた情報を材料に創造されたものだからです。つまり、それらの情報は「学習させられた」ものだからです。
刷り込みのメカニズムは、感覚器から入力された情報は、一時「海馬」に保管され、脳が眠っている時、海馬からそれぞれの大脳皮質に焼き付きを行うのです。これが、夜見る「夢」の正体です。
記憶を長期保存するには、焼き付き期間は三年かかるそうです。
昔の人が、何かを達成するために、「石の上にも三年」と言ってたのはこのことなのです。信念を、こころに刻むには、三年の歳月が必要なのです。そして、こころに刻まれた信念は、やがて実際の行動となって現われるのです。
さて、「思考は思考により変えられる」わけですから、「記憶は記憶により変えられる」ことができるわけです。
記憶を変えるには、その前に以前の記憶の初期化が必要です。その初期化は、精神的ショックにより簡単にできます。つまり、人生の最大のピンチ時が、新しい記憶を創るスタートになるわけです。「ピンチはチャンスだ。」の意味はここにあるのです。
人生が何もかも嫌になってしまった時、「こんな私に誰がした。」と「うらむ」のではなく、「こんな私にしたひと」を「ゆるす」ことです。
「笑う」ことが体の免疫力を高めることは本当です。そして、「ゆるす」ことは、こころの免疫力を高めるのです。
そのように「ゆるす」気持ちを持って、目指す方向の情報を「三年」を目処にこころに刷り込むことです。
何を刷り込むかで人生はかわります。何故ならば、人生とはそのひとが考えたそのものだからです。
未来は、他のひとから与えられるものではなく、自分で切り拓くものです。そして、その未来の種は、こころの中にあるのです。
そこで、次に未来の種とは何かを考えてみましょう。

   隣り百姓の智恵   


ひとは、誰にコントロールされているのでしょう。こう問い掛けると、「自分の意志」に決まっている、と答えるひとが多くいることでしょう。
では、もし、その「自分の意志」により日々の考えや行動をコントロールできるのであれば、「強迫性障害」などの「止めたいのに、止められない、思考や行動」で、ひとのこころを長期間苦しめる現象などは存在しないはずです。しかし、この強迫性障害に悩むひとは、現実に百人に三人の割合で存在しているようです。
そこから考えると、どうも、ひとは、自分の思考や行動は「自分の意志」でコントロールできると言う幻想を、誰かによりもたされているように感じられるのです。
昔からこのこころの問題の解決を求めるため、自分を影でコントロールしているモノを、宗教では「神仏」、神秘主義では「霊」、心理学では「潜在意識」、そして、昔のひとは「知恵」と言っているようです。
その呼び方は色々でも、そのモノ達の「こころの問題解決方法」は皆同じであるようです。それらは、ひとの意識下に働きかけ、ひとの思考や行動に多大の影響力を与えることです。
一般的な常識では、ひとは自由に思考ができ、自由に行動できると信じられています。しかし、このことは本当なのでしょうか。
もしそうだとしたら、こころの問題など存在しないため、宗教家も神秘学者そして心理学者も皆失業してしまうことでしょう。しかし、それらをカンバンのビジネスは廃れることもなく、益々繁盛しているのが現状です。
こころの問題のビジネスには、主に、「偉大な力」の仲介者がいるようです。、神仏には宗教家(牧師)、霊には神秘主義者(霊能力者)そして潜在意識には臨床心理士(精神科医)などが仲介者となっているようです。
しかし、「偉大な力」のひとつである「智恵力」には、その仲介者は存在していません。それに、「智恵力」は、ある集団に入会(入院)しなくても、その影響力を発揮できるのです。つまり、「智恵力」は、こころの問題を持ったひとと、その「智恵力」とは、仲介者を必要とせず、直接コンタクトできるのです。それに、「智恵力」は誰に教えられることもなく、誰のこころにも潜在しているのです。だから、「智恵力」について、有力ビジネス組織が存在できないのかもしれません。
「バアチャンの智恵」と、理論的思考をする知識人から揶揄されている「智恵力」は、問題解決の有力な武器のひとつなのです。では、その「智恵力」とは何で、どのようにすればその影響力を享受できるのでしょうか。

旅の導師は、旅を続けています。
村々を通り過ぎる度に、その村の暮らし易さを尋ねているうちに、あることに気付いたのです。それは、それぞれの裕福さは、畑の広さや立地の良し悪しではないということです。
ある村では、広い立地の良い畑があるのに、村人の暮らし向きも人情もあまり良くありません。それに対して、この村では、山間の狭い畑しかないのに、村人達の暮らし向きも人情も良いのです。そこで、導師は、質素ではあるが風格のある小さな農家を尋ねてみました。
「この村は、隣村と比べて畑が少ないし狭いが、隣村と比べて暮らし向きが良いと感じられるが、何か農業以外の産業があるのかな。」
「いいえ、畑の収穫だけです。」村の若者が答えます。
「では、特別な農法でも開発しているのかな。」
「いいえ。ただ隣の源平さんの真似をしているだけです。」
「それは、どういうことかな。」
「隣の源平さんが、天気の良い日に朝早く畑に出たら、わしも畑に行きます。そして、雨の日、鎌を研いでいたら、わしも研ぎます。わしは、源平さんを尊敬しておるので、源平さんの真似をして暮らしておるのです。」
そこで、導師はその裕福村を一軒一軒訪ね歩き、最後に源平さんの家を訪ねました。
そして、導師は例の質問をしました。それに対して、源平さんは言いました。
「何も特別なことはしていねえだ。隣の伝平さんの真似をしているだけさ。」

ひとは、ひとに教えられなければ「言葉」を話せません。それと同様に「仕事の仕方」も、ひとに教わらなければ出来ません。
しかし、ひとの思考や行動は、自由意志の力でコントロール出来るとの幻想を持っているひとは、自分中心の解決策で、問題を解決しようとする傾向があるようです。
そのような方法で、問題が解決できれば、結構なことです。しかし、そうではない場合、自分に内在している「智恵力」に頼るのではなく、こころの問題解決専門家を尋ね、すがる傾向があるようです。
それらの専門家の存在を否定はしませんが、それらのひとたちは、問題解決のキッカケを与えてくれるひとたちです。実際は「問題を解決するのは自分自身」であるのです。そこのところを理解していないと、長期間こころの専門家に指導されたとしても、精神的な自立は難しいかもしれません。
つまり、自立とは、自分以外に、他に頼る者が居ない、と悟ることから始まるからです。
しかし、だからといって、他のひとたちの「言葉」に耳を塞げと言っているのではないのです。それらは、アドバイスとして受け入れればよいのです。
ひとの特徴のひとつは、「真似」をすることができる、ということです。その特徴をビジネスに取り入れたのが「宣伝・広告」です。
広告の基本は、クライアントの物やサービスを、テレビや雑誌などの宣伝媒体により幻想世界を創造し、その世界を潜在顧客に刷り込みモデルの真似をさせることで、購買力を喚起させることです。莫大な資本を投下して宣伝・広告をすることができるのは、「ひとは真似をする」ことをクライアントが充分理解しているからです。
それらの宣伝・広告に影響されない「自由のひと」の数は、それほど多くはないでしょう。だから、広告代理店は何時の時代でも廃れないのです。
ひとは、人真似をする傾向があります。その傾向を否定するのではなく、その特徴を利用することは、ひとつの「智恵」です。
そこで、今の暮し向きが良くないのであれば、「隣の源平さん」を探すことは、その問題解決方法のひとつかもしれません。
人生ゲームを優位に進めるには、尊敬できる人の生き方を真似ることは、ひとつの方法ですが、しかし、その目標とする人物の生き方を真似たとしても、環境や時代背景が異なります。そこで、人生ゲームの基本ルールを復習することが必要かもしれません。
何故ならば、その基本ルールを知ることにより、喩え環境や時代背景が異なるとしても、臨機応変に対処できることにより充分ゲームを楽しめるからです。
人生ゲームの基本ルールは四つあります。

1.「ひとは永遠に生きられない。」
ひとの寿命を八十年とすれば、29.200日しかゲーム時間はないということです。四十歳とすれば、ゲーム時間は14.600日です。悩んでいる暇もないでしょう。
2.「ひとは過去には戻れない。」
過去を反省するにしても、その経験を明日を生き残るためのものとしなければ、ゲーム時間のロスとなります。たとえゲームで失敗したとしても、「ああすれば良かった。」と立ち止まらずに、「今度はこうしょう。」と前向きに考えましょう。
3.「このゲームはひとりで行うものである。」
人生ゲームは、孤独なゲームです。たとえ一時的に複数人で行っていても、時が来れば、またひとりでゲームを続け、ひとりでゴールを目指して行くのです。ですから、ゲームの途中で気の合う仲間と出会ったら、その時を大切にしましょう。一期一会。
4.「ゲームには、ひとにはコントロールできないサイクルがある。」
草花の春夏秋冬のサイクルと同じように、ゲームにも発芽期、成長期、収穫期、衰退期のサイクルがあります。ですから、今自分がどこの時期に居るのかを知ることにより、将来の不安が解消できるでしょう。その各時期は、三年ごとで移行しているようです。つまり、人生ゲームは、12年をひとつのサイクルとしているわけです。
喩え今が衰退期(リストラ中)だとしても、次に来るのは発芽期であるわけです。ですから、衰退期にいるひとは、次の発芽期を目指しての種まきの時期にいるわけです。

以上のような人生ゲームの基本ルールを復習しましたら、次は「隣の源平さん」を探しに行きましょう。

   無一文から身を起した二宮尊徳   


人生ゲームを楽しめるひとと、そうでないひととは、何が原因なのでしょう。それは、プロローグで述べたように、「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」ことと、「悪い星の下に生まれた」こともその原因のひとつでしょう。その喩えは、自立した両親のもとに生まれたか、そうでないかの違いです。そして、その自立には、精神的と経済的とを含んでいます。
この世に、精神的と経済的に自立しているひとたちは、それ程多くはいないでしょう。何故ならば、一般的に、多くのひとたちは、ものごとを対立する二元論的に考えてしまう傾向があるからです。

ある高校で、倫理の時間に、先生が生徒達に質問をしました。
「君達、世の中を暮らしていくのに、太ったブタか痩せたソクラテスかどちらを選ぶかね。」
「太ったブタとか、痩せたソクラテスとかってどんな意味なんですか。」問題児とされている生徒が聞きました。
「いい質問だ。太ったブタとは、お金儲けしか頭にないひとのことで、痩せたソクラテスとは、赤貧ではあるが志の高いひとのことだ。」
そう説明して、質問した生徒に、先生が問いました。
「君は、どちらを選ぶかね。」
生徒は、暫く考え、答えました。
「太ったソクラテスです。」

この世で、「太ったブタ」や「痩せたソクラテス」を探すことは、それ程難しくはないでしょう。しかし、「太ったソクラテス」を探すには困難を生じることでしょう。それは、家庭や学校で、ものごとを、対立する方向で考えるように学習させられてきているからでしょう。
その対立する考えとは、宗教では「天国と地獄」、政治では「主流(右派)と反主流(左派)」、経済では「資本主義と共産主義(社会主義)」、そして心理学では「右脳と左脳」等などです。
そのように対立するように物事を二分して考えさせることは、支配する側から好都合なわけです。
例えば、宗教で迷える人達を自分の組織に組み入れるには、自分側を「天国」にして、その他の組織を「地獄」に二分して、どちらを選ぶかを純真なひとに迫れば、大部分のひとたちは「天国」を選ぶことでしょう。
しかし、それらの対立は、見かけ上のもので、実際はものごとの裏表で、立場を換えてみれば、表(天国)は裏(地獄)になり、その反対に、裏(地獄)は表(天国)になるのです。
でも、そのように、ものごとを相対的に(相手側に立って)見ることができるひとは、それ程多くはないでしょう。ですから、現在の世界も、ゾロアスター教世界のままで、「光(善)と闇(悪)の永遠の闘い」を繰り広げているわけです。
ものごとは、表だけ、或は裏だけでは存在できません。表と裏が合わさって初めて完結するのです。
生き方もそうです。お金儲けだけ、或は真理追究だけでは、人生ゲームを上手に続けることは困難でしょう。
そこで、「隣の源平さん」を探す条件としては、「太ったブタ」や「痩せたソクラテス」ではなく、「太ったソクラテス」の精神的と経済的に自立しているひとになるわけです。その条件に合うひとの一人として、「二宮尊徳」がいます。
二宮尊徳のことを知っているひとは、団塊の世代までかもしれません。それは、太平洋戦争後、アメリカ占領軍が、敗戦国日本の教育に介入し、その思想を教育(刷り込み)することを禁止したからです。
思想は、強力な武器のひとつです。
つまり、その思想を実践することにより自立することができたひとに、アメリカ式民主主義(新聞・テレビ・映画がコントロールする幻想的世界観。善悪の二元論により分割して統治する戦術。600万人が二億五千万人を統治する戦術。)を刷り込むには困難が生じるからです。(明治新政府から敗戦まで、富国強兵を目的に、その思想を曲解して国民に刷り込みを行っていたことも原因のひとつです。)
思想を広める方法として、二つあります。それらは、「雀の学校方式」と「めだかの学校方式」とです。
「雀の学校方式」とは、偉い先生がいて、「むちをふりふりちいぱっぱ」と強制的に刷り込むことです。
「めだかの学校方式」とは、偉い先生はいません。「誰が生徒か先生か、みんなでお遊戯している」ようにして刷り込みをおこなうことです。
二宮尊徳の思想も、本人が「雀の学校」で広めたわけではありません。それは、「めだかの学校」で広まって行ったのです。
二宮尊徳の生き方や仕事の仕方は、誰にでも真似をすることができることではないし、時代背景も異なりますので、「隣の源平さん」とするには不都合なように思えますが、よくよくその思想を研究してみると、時代を超え、現代にも通じる何かがあるようです。

二宮尊徳は、1787年(天明七年)7月23日、小田原の栢山村に生まれました。祖父の銀右衛門の蓄財による財産も、彼が四歳の頃には、父利右衛門の財産管理運営能力のなさと、天災のため、一つ一つなくなっていき、裕福だった農家は貧乏になっていました。十三歳の時、他家の子守のお礼の二百文で松苗を二百本買い、それを酒匂川の堤防に植えたことは、もうその頃から投資についての才覚があったことを示していました。十四歳の時に父が、十六歳の時には母が他界し、二人の弟の四歳の富次郎と十三歳の友吉は、母の実家に、そして、十六歳の尊徳は、伯父萬平衛の家へ身を寄せ、そこで十八歳まで過ごしました。伯父は根っからの百姓で、六歳から七歳ころに始まった尊徳の読書ぐせは、伯父の叱るところとなりました。尊徳の読書は、乱読ではなく、書物に対して一定の基準を持っていたようです。

兎も角も、人世には益なき書は見るべからず。自他に益なき事は為すべからず。光陰は矢の如し、人生は六十年といへども、幼老の時あり、疾病あり、事故あり、事を為すの日は至って少なければ、無用の事はなすなかれ。(「二宮翁夜話」、以後引用)

尊徳の考えでは、人生には限りがあり、その人生も六十年としても、色々な出来事にであうことにより、実際のゲーム時間はそれ程あるわけではないので、自分のためにならない書物は見ない方が良いし、無駄なことをすることはない、と言う事です。
ためになるかならないかは、そのひとの生き方によりますから、これはダメあれはダメと指摘はできませんが、「他人に誇る為だけの読書や事を行うこと」は、無駄なことと言えるかもしれません。
それでは、尊徳はどのような書物を読んでいたのかと言えば、それらは、「仮名頭」、「実語敬」、「大学」そして「論語」などです。そのような書物を夜中に油の灯の下で読んでいるところを、伯父に叱られたことから、夜、気兼ねなく読書ができるように、菜種油の収穫を思い立ち、友人から菜種五勺を借り、それを堤の廃地に蒔き(税金が掛からない。)、それが翌年には、七升以上の収穫となりました。このように小さなことから、大きなことになることを尊徳は、次のように言っています。

翁曰、大事をなさんと欲せば、小さな事を、怠らず勤むべし、小積もりて大となればなり。凡小人の常、大なる事を欲して、小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて、出来易き事を勤めず。夫故、終に大なる事をなす事あたわず。夫大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり。

尊徳は、菜種の収穫の経験から、小さなことでも、事を行えば、大きくなる事を学んだだけではなく、もう一つの事も学んだようです。それは、封建制度における節税のことです。つまり、廃田や廃地、それに川の堤などからの収穫は、貢租の対象外であったわけです。
その後、尊徳は捨苗を拾い集め、それらを廃田の水溜めに植えておくと、その秋に、それは一俵の収穫となり、いよいよ自分の仕事の仕方を固めて行きました。
十九歳の時には、荒地を拓いて二十俵の米を収穫しました。当時の税制における六公四民、あるいは七公三民において、青年一人で実質二十俵を自己の所得とすることは、正当に働いただけでは到底考えられないことですが、尊徳は税制の盲点を突く「智恵」を働かせ、正当な節税をして、二十俵のうちから税として一俵も納めませんでした。
そのような仕方で働き、二十歳の時、生まれた屋敷に帰って独立の生計を営むようになっていました。もうその時には、尊徳は、他家の仕事をすることで冨貴への道を歩めると考えていたようです。
二十二歳から二十三歳まで、小田原の武家の屋敷に奉公に出て、そのかたわら薪を山から採ってきては小田原の町に売りに出たり、米穀を城下町に売り込みながら、その一方武家へ出入りも忘れませんでした。つまり、武家との人脈づくりです。
そのころの尊徳は、自分は一文の税金もかからない仕事をして、税金がかかる仕事は他人にまかせていました。例えば、薪売り、米穀売り、奉公人としての収入には、貢租の対象外の仕事であったわけです。
節税は合法です。プロカメラマンを目指すひとも、現在の税制を研究しておく必要があるでしょう。
二十六歳の時には、学問をするために、小田原藩の家老、服部十郎兵衛の若党となり、そこで奉公のかたわら、学問をし、さらに家人達に小金貸しをしていたようです。もうそのころには、人脈の流れ、お金の流れを知っていたようです。
二十九歳の時、奉公をやめ、自宅に帰り、三十一歳の時、妻を娶りました。晩婚の尊徳には、尊徳なりの結婚観があったようです。

其村に貧人の若者あり。困窮甚しとしへ共、心掛宣し。曰、我貧窮は宿世の因なるべし、是余儀なき事なり。何卒して、田禄を復古し、老父母を安ぜんと云て、昼夜農事を勉強せり。或人両親の意なりとて、嫁を迎ん事を勧む。某曰、予至愚且無能無芸、金を得る方を知らず、只農業を勉強するのみ。かさねて考えるに、只妻を持つ事を遅くするの外、他に良策無しと決定せりと云いて、固辞す。翁是を聞て曰、善哉其志や。事を為さんと欲す者は勿論、一芸に志す者といへ共、是を良策とすべし、如何となれば人の生涯は限りあり、年月は延す可ならず。然ば妻を持を遅くするの外、益を得る策はあらざるべし。誠に善き志なり。

人生ゲームでの分岐点は、大きく分けて三つあるでしょう。それらは、この世に生まれて来たことと、ゴールまでの道程でのパートナー選びと、そしてあの世への旅立ちです。
人生ゲームの出発点の「誕生」とゲーム終了の「死」とは、ひとの意志でコントロールすることはできません。それらの時期は、「偉大な力」にコントロールされているわけです。
しかし、パートナー選びは、自由意志の力を多少なり(ひとの行動の大部分は無意識によりコントロールされているが、意志は己が主役と信じ込んでいる。)とも参加させることができます。
そのパートナーとは、学生時代の友達、会社での先輩後輩、事業での協力者などが考えられますが、人生ゲームでの最も重要なパートナーは配偶者でしょう。
その配偶者選びにより、人生ゲームの進展が左右されると言っても過言ではないでしょう。あるひとは、結婚によりゲーム展開が良い方向に進展するかもしれないし、又、あるひとは暗転するかもしれません。それほど配偶者選びは人生ゲームでは重要なのです。ですから、適齢期の強迫概念により行動するのではなく、配偶者選びに自信のない時は、無理に結婚することもないでしょう。
尊徳も、仕事に没頭するあまり家庭を顧みず、初婚の女房キノに離婚され実家に帰られてしまっているのです。
そこで尊徳は、妻を養うほどの収入の無い者は、収入が得られるまで独身でいることは良い仕方であり、又、目標を持つ者や一芸に秀でようとする者にも良い仕方である、と考えていたわけです。つまり、人生には限りがあるから、金銭的あるいは精神的に女房を養うほどの余裕の無い者は、余裕ができるまで結婚を遅くすることは、目標に早く到達する仕方である、と考えていたわけです。
尊徳三十一歳の時、服部家の整理を依頼されました。それは、薪売りや米売りなどしながら武家への人脈作りの結果です。
尊徳の考えからすれば、貧富の判断基準は、その収入の多少だけによるのではなく、その収入に対する支出の仕方を基準に考えていたようです。

翁又曰、世人口には、貧富驕倹を唱ふるといへども、何を貧と云ひ何を富と云ひ、何を驕と云ひ何を倹と云ふ、理を詳にせず。天下固より大も限りなし小も限りなし。十石を貧と云へば、無禄の裳のり、十石を富といへば百石のものもあり、百石を貧といへば五十石の者あり、百石を富といへば千石万石あり。千石を大と思へば世人小旗本といふ、万石を大と思へば世人小大名といふ。然らば、なに認て貧富大小を論ぜん。譬ば売買の如し、物と価とを較べてこそ、下値高値を論ずべけれ。物のみにして高下を言べからず、価のみにて又高下を論ずべからざるが如し。是世人の惑ふ処なれば、今是を詳に云べし。曰く千石の村戸数一百、一戸十石に当る。是自然の数也。是を貧にあらず冨にあらず。大にあらず小にあらず、不偏不イ(もたれかかる)の中と云ふべし。此中を越るを富と云。此十石の家九石にて経営むを是を倹といふ。十一石にて暮すを是を驕奢と云。故に予常に曰く中は増減の源、大小両名の生ずる処なりと。されば貧富し一村一村の石高平均度を以って定め、驕倹は一己一己の分限を以って論ずべし。其分限にて依ては、朝夕膏梁に飽き錦繍を纏ふも、玉堂に起臥するも奢にあらず。分限に依ては米飯も奢也、茶も煙草も奢也。みだりに驕倹を論ずる事なかれ。

尊徳の考えからすれば、貧富の基準は、収入と支出との相対関係にあるので、むやみに貧と冨とを区別することはできない、強いて言えば、収入が十ある人が、十一の支出で生計を立てれば貧への道を歩き、それとは別に、九で生計を立てれば富の道を歩いていける、と言うことです。
例えば、月に九十万円を支出したとしても、収入が百万円あれば、それは贅沢をしているわけではなく、それにたいして、たとえ月に十万円で暮らしを立てていても、その月の収入が九万円しかない人は贅沢をしていることになるわけです。
つまり、収入以上で生活することは贅沢で、それにたいして、収入以下で生活することは堅実であるわけです。
尊徳のそのような金銭感覚からすれば、服部家の財政が傾いたのは、収入以上で生活していたのが原因である、と結論づけられるわけです。そこで、尊徳は、緊縮政策と米の投機の二本立てにより、服部家の財政を立て直そうと試みることにしました。しかし、米の投機で百三両の損が生じてしまい、それ以降は緊縮政策一本で、財政を五年間で立て直しました。
尊徳の始末の仕方は、ただ倹約をするだけではなく、利殖の智恵も使うわけです。
尊徳は、五常講と言う金融システムを考え、それを実行するのです。そのシステムは、使用人などが薪の節約や日常の工夫などにより捻出した余裕金を積んで、それを元金として金貸しをするわけです。その金融システムでは、あえて利子をとらないけれども、最後の返済時に、お礼というかたちでチャッカリ利子を取るのです。そのような一寸したアイデアなどにより、服部家の借金は、五年目で完済できたのです。
お金の価値は、不偏ではありません。それは、時間を基準に評価されているのです。つまり、時間の対価がお金の価値と、考えることもできるかもしれません。
そのような考えからすれば、金持ちとは、ひと(サラリーマン)の時間を安く買い入れ、それを物やサービスに転化して商品化して、顧客に高く販売しているひとである、ともいえるかもしれません。つまり、サラリーマンがどんなに一生懸命働いたとしても金持ちにはなれないのは、自分の貴重な時間を売っていることに気付いていないからです。
時間は貯めることはできませんが、ひとの時間を買うことは出来ます。尊徳はそのことを知っていたのでしょう。
尊徳三十四歳の時、十六歳の波と再婚。その時には、三町八反ほどの農地、小作米三十九俵三斗、自作米二十四俵一斗、その他三百五十両の資産家となっていました。
無一文から身を起した尊徳に、そのような資産が出来たのは、ただ努力一直線に働き、そして倹約をしたからではないでしょう。
お金を貯めるだけのために働くのではなく、そのお金を有効に働かせることで「時間」を買い、その時間を有効に働かせる(利息・不労所得)ことにより、資産が増えていったわけです。正に「時は金なり」です。
尊徳三十六歳の時、桜町仕法の正式命令を受ける。野州桜町の領主宇津家は、領地から三千百俵しか収入がないのを偽って、公称四千石と称し、江戸に大きな邸宅を構え収入以上の生活を営んだため、宇津家の経済が破綻してしまったのです。
尊徳の貧富驕倹の金銭哲学からみれば、収入以上の支出で生活を営めば、経済が破綻するのは自然の流れとなる理屈です。そのような破綻経済を立て直す基本は、収入の実際を調べることです。
そこで尊徳は、宇津家の領地を廻村という仕方で実地調査をするのです。その実地調査の仕方は、村民の厠をも調べ、さらに各戸の台所の釜の内容も調査し、その結果、収入以上の生活をしている者に対して、白米と粟との比率をいちいち指導するのです。
そのような調査と指導とにより、その村の実質収入を割り出し、その収入に見合う倹約を村民ならびに宇津家に実行させた結果、十年後には、九百六十二俵の収入が実質三千百俵を越えていました。
尊徳は、勤勉倹約だけのひとではなく、将来の災難のための備えも考えていました。
1832年の初夏の頃、宇津家で茄子を食べた時、その茄子が秋茄子の味がしたのに気付き、天候が秋季の状態に変化してしまっているのではないかと直感し、村民に稗を蒔かせて貯蔵させたため、天保四年の大飢饉にも、尊徳の村では、一人の餓死者も出ませんでした。続いて、天保七年の大飢饉のときには、富者も貧者も平等に一年分の食料の貯蔵をさせました。尊徳は、飢饉対策を次のように述べています。

翁曰、人世の災害凶歳より甚敷はなし、而して昔より、六十年間に必ず一度ありと伝ふ。左もあるべし。只飢餓のみにあらず。大洪水も大風も大地震も、其余非常の災害も必六十年間には、一度は必あるべし。縦令無き迄も必有る物と極めて、有志者申合せ金穀を貯蓄すべし。穀物を積囲ふは籾と稗とを以て、第一とす。田方の村里にても籾を積み、畑方の村里にては、稗を囲ふべし。

尊徳は、災害は自然の流れにあり、六十年間に一度は必ずあると昔から言われている、だから、それに備えて、金銭や食料を貯蓄しておかなければならない、と考え、そして実行していました。更に、将来のアクシデントに備え、三年間無収入でも生活できるほどの貯蓄をすることを勧めています。

翁曰、世の中に事なしといへども、変なき事あたわず、是恐るべき第一なり。変ありといへども、是を補ふの道あれば、変なきが如し、変ありて是を補ふ事あたわざれば、大変に至る。古語に、三年の貯蓄なければ国にあらず、と云り。兵隊ありといへども、武具軍用備らざればすべきやうなし。只国のみにならず。家も又然り。夫万の事有余無れば、必差支へ出来て家を保つ事能わず。然るをいわんや、国天下をや。人は伝ふ、我が教、倹約を専らにすと、倹約を専らとするにあらず、変に備んが為なり。人は云ふ、我道、積財を勤むと、積財を勤るにあらず、世を救ひ世を開かんが為なり。

二宮尊徳の一般的イメージは、勤勉倹約、薪を背負い読書をする堅物です。しかし、尊徳の思想に少しでも触れてみると、それは表面的なイメージにすぎないことが理解できるでしょう。
人生ゲームには、必ずアクシデントが発生します。それに備えるための蓄財は、守銭奴(太ったブタ)のそれとは異なります。
1830年9月1日、尊徳に突然の啓示がやってくるのです。
その後、尊徳は、自分の考え方をあらゆる人達に話し聞かせ、その考えを実行していくうちに、五十六歳の時、御普請役格の待遇で幕府の役人となり、以後、北関東の農業の復興に尽くして行くのです。
「隣の源平さん」の尊徳の思想の粗筋をみてきたわけですが、それをそのまま現在の人生ゲームに利用することは難しいかもしれません。そこで次に、その思想を現代風にアレンジしてみることにしましょう。

   二宮尊徳的生き方の応用   


人生ゲームを、苦しむのではなく、楽しく進めるには、大きく分けて二つの基本ルールを知る必要があるでしょう。ひとつは人間関係についてのルールで、もうひとつは生活を維持する道具としてのお金を集めるためのルールです。
そこでこの節では、尊徳の思想において、交際と投資について研究し、現在の人生ゲームで行なえるように、その応用方法を考えてみることにしましょう。
まず、人間関係のルールからみてみましょう。
人生ゲームの基本のひとつは、他人とのコミニュケーションを手段として、物やサービスを対価と交換することです。つまり、人生ゲームは、動物や物ではなく、ひとを相手に行うゲームなのです。ですから、人間関係が苦手だからと避けることはできないでしょう。
そこで、人間関係を円滑にするひとつの方法として、ハンバーガー屋さんの接客マニュアル訓練が想い浮かぶかもしれません。
しかし、こころの伴わない作り笑いの対応では、人間関係が上手くいくかは疑問です。
世間には、うわべの交際上手を揶揄する言葉として、「巧言令色少し仁」があります。その意味は、「言葉巧みにおせいじを言うひとには、相手を思いやるこころがない。」、ということです。
それでは、尊徳は、ひととの交際の仕方をどのように考えていたのでしょうか。

儒者の説甚むづかしくて、用をなさず。近く譬れば、此湯船の如し。是を手にて己が方に掻けば、湯我が方に来るが如くなれども、皆向ふの方へ流れ帰る也。是を向ふの方へ押す時は、湯向ふの方へ行くが如くなれども、又我方へ流れ帰る。少く押せば少く帰り、強く押せば強く帰る。是天理なり。夫仁と云は、向ふへ押す時の名なり。我方へ掻く時は不仁となり不義となる、慎まざるべけんや。

尊徳は、世間を湯船に譬えて、ひととの交際の基本を説いています。それは、世間とは閉ざされた所ではなく、循環していると考えているわけです。そこで行われる事は、廻り廻って自分のところに帰ってくるわけです。
ですから、自分の都合のよいことだけを独り占めにしたところで、それはやがて他人の処へ行ってしまうでしょう。だったら、まず、都合のよいことは他人に与えることです。そうすれば、その都合のよいことは、やがて自分に帰ってくるわけです。
その他人に対して、都合のよいことを行うことを、「仁」と言うわけです。そして、その反対に、他人を無視して、自分に都合のよいことだけを行うことを、「不仁」或は「不義」と言うのです。
「仁」を行うことは、日常いたる処にあるでしょう。
例えば、乗り物で席をさりけなく譲るとか、階段で重い荷物を持っている人をさりげなく助けるとか、です。昔の人は、このことを、「自分の欲することを他人に施せ。」と言っていました。
そのような考え方で、毎日を暮らしていければ、よいことが、忘れた頃に、自分に訪れることでしょう。
世間を憎めば、その憎しみはやがて自分に帰ってくるならば、世間を楽しい所と考えることです。たとえ今は、楽しい所ではなくても、自分から楽しいことを考え、行っていけば、やがて、世間が楽しい所に変わっていくはずです。
ひとは、暗いところではなく、明るいところに集まる習性があります。そして、ひとは、暗い人ではなく、楽しく明るいひとに集まる習性があります。
「仁」を理解し、そして、その「仁」を実行できるひとには、やがてひとが集まってくるでしょう。そのようにして、ひとが集まって来たら、ひととの交際の仕方を考えることです。

翁曰、交際は人道の必用なれど、世人交際の道を知らず。交際の道は碁将棋の道に法とるをよしとす。夫将棋の道は強き者駒を落して、先の人の力と相応する程にしてさす也。甚しき違ひに至ては、腹金とか又歩三兵と云までに外す也。是交際上必用の理なり。己富、且才芸あり学問ありて、先の人貧ならば、富を外すべし。先の人不才ならば、才を外すべし。無芸ならば、芸を外すべし。不学ならば、学をはづすべし。是将棋をさすの法なり。此の如くせざれば、交際は出来ぬなり。己貧にして不才、且無芸無学ならば、碁を打が如く心得べし。先の人冨て才あり、且学あり芸あらば、幾目も置て交際すべし。是碁の道なり。此理独、碁将棋の道にあらず。人と人と相対する時の道も、此理に随ふべし。

一般的な会話で、あのひとは背が高いとか、低いとかを話題にする時、その基準は話し手である自分自身の背の高さであるわけです。つまり、一般的にひとは自分自身を基準に、物事を判断・評価する傾向があるようです。ですから、ひととの交際において、互いに異なる基準で、コミニュケーションをとっているかもしれません。
そこで、主観的ではなく客観的な会話を望む少し智恵あるひとは、平均値(在りもしない数値)という虚構(ウソ)を、価値基準・評価基準とすることでしょう。
ひととの交際を成立させる基本は、話題の基準値を決めることなのです。
そこで尊徳は、格差のあるひととの交際の基本を、碁と将棋とのゲームの仕方で説いているわけです。
まず、自分が相手より富んでいて、且つ学歴や職歴が高いという場合、相手が貧しければ富んでいることを誇るのではなく、又、相手が無学無芸であるならば学歴や職歴を誇ってはいけないと諭すわけです。つまり、相手の目線に合わせ、自らを低めることが格差のあるひととの交際の基本です。
その反対に、自分よりも相手が富んでいて、且つ高学歴・高職歴の場合、無理をして背伸びをするのではなく、相手の優位を素直に認め、そして敬い交際することがその基本である、と説いています。
そのように、自分中心ではなく、相手の立場、地位、性格等を考慮し、それら交際相手を基準に対応することで、他人との一般的交際は上手くいくはずです。
しかし、交際には、一般的なものと特別なものとがあります。その特別な交際のひとつに、男女交際(配偶者選び)があるでしょう。
未来の配偶者を得る為の交際には、一般的交際の基本を越えた工夫が必要でしょう。それは、一般的な交際であるのならば、たとえ生理的に受け付けないひとであっても、数時間を我慢しさえすればよいからです。しかし、配偶者であるならば別です。それは、二十四時間×数十年の時を共有することになるからです。
その気の遠くなる時を楽しくするも、そうでなくするもお互いのコミニュケーション(交際の仕方)にかかってくるわけです。
世間的常識では、時間をかけて話し合うとすれば、色々な難問も解決できる、と考えられているようです。それは、果たして本当なのでしょうか。
もし、それが真理であるとすれば、世の中は、もっと楽しい場所になっているはずです。
しかし、現実はどうでしょう。
それでは、男女交際におけるコミニュケーションを上手くするにはどうしたらよいのでしょうか。

初夏の汗ばむ午後、旅の導師は丘を一つ越えた向こうに、大きな木の下で四五人の男達が何かを言い争っているのが見えました。
導師が近づくと、「丁度いいところに導師が来た。」、とそのなかのひとりが言いました。 男が手短に今の言い争いの状況を話すには、神が自分に似せて人間を創ったか、それとも人間が自分に似せて神を創ったかをここ数時間も議論しているところである、ということです。
「導師様はどちらだと思いますか。」、とおとこは明確な答えを得られることを期待して聞きました。
「ふむ、難しい質問じゃな。ワシもこのように旅をしている目的のひとつもそれじゃ。 その答えの前に、はたして神は本当に存在するのかを見極めなくてはならないだろうな。」
「神が存在しないとでも言うのですか。」
「居るとも言えないし、居ないとも言えない。なんせワシはこのように旅を続けておるが、今まで神に会ったことも、見たこともないでな。」
そう導師が言うや、また男達は議論を始めました。
やがて日が傾いてきても、男達の議論は続きます。
そこへ背に乳幼児を、両手に幼児を連れた小太りなおんなが、「なかなか帰ってこないと思ったら、こんなところで何してんだい。町での商いはどうだったんだい。」、とすごい剣幕でその中のおとこに詰め寄りました。
「なにも怒る事はあるめいに。俺達は神について勉強しているところだ。文句あるんか。」
「神だかなんだか知らないけれど、子供達は父ちゃんが帰ってくるのを腹をすかして待っていたんだょ。それがどうだい、いい男達が昼間っから夕方ちかくまで、木陰でくだらない事で遊びほけって。」
「俺達、遊んでいるじゃねえやぃ。明日を生きる希望を持ちてえから、神について議論しているんでぃ。」
「えっ、何かい、神様が子供達におまんまを食わせてくれるって言うんかい。そんな夢みたいなこと言って、おまえさんは、女房子供を腹いっぱいにできないだらしない男だよ。」、とおんなは捨て台詞を言うと、おとこの耳を引っ張って議論の輪から連れ出していきました。
それを見た残りの男達がいいました。「夢のねえおんなだ。」

現代の風潮では、男女間には性差が存在しないことになっているようです。しかし、分子生物学的には、男と女は、その染色体の構造が、XYとXXとで異なっています。
性差とは、ふたつの意味合いがあります。ひとつは分子生物学が示すように構造的なことと、社会的風潮のことです。
社会的な性差は、時代と伴に変化して一定ではないでしょう。特に、都会化された社会では、その性差は、非都会化の社会に較べて、ほとんど無いと言ってもよいかもしれません。
尊徳が生活していた江戸時代も、都会での商人屋では、おんなが店や家庭を切り盛りしていたものが多く見受けられていました。商家の娘に、丁稚で優秀なものを婿にすることなど日常茶飯事であったわけです。女房にガミガミ言われる頭の上がらない主人は、お妾さんをかこうことで精神のバランスを保っていたわけです。
都会化することは、非都会化と異なり、筋力での勝負ではありません。それは、物やサービスをお金との交換で生活の糧を得ることです。それは、煎じ詰れば、時間の切り売りでもあるわけです。そうであるならば、男と女の時間には、性差がありませんから、男も女も同じ土俵に登れるわけです。
現在の日本は都会化の傾向にあるわけですから、社会的には性差の存在は薄らいで行くのが自然の流れでしょう。
しかし、構造的には性差は依然として存在しています。
その構造的性差の現われのひとつとして、ひとの行動をコントロールしている大脳の左右半球の情報連絡を司る脳梁があります。この脳梁は、男女では異なります。それは、女のほうが男よりも情報交換的に優れている構造をしているのです。と言うことは、脳梁が大脳の左右半球を、千分の一秒の単位で大量の情報交換をしているわけですから、男と女の情報処理が異なる可能性は大なわけです。
イメージとして、右手と左手を、どちらが男か女かを問うとしたら、一般的傾向として、右手が男で、左手が女であるようです。と言うことは、身体側と大脳半球は交差して連絡しているわけですから、左半球が男のイメージで、右半球が女のイメージと言えるかもしれません。
そうであるのならば、左半球の情報処理は言葉を駆使する理論で、右半球の情報処理は空間の把握やイメージ(感覚)を司ることと一致しているようです。
このことが、「男は空想的で、女は現実的」を意味していることかもしれません。
左半球を駆使するのが得意な男が、議論を好むのはこのためかもしれません。それに対して、右半球は感情の巣であるわけで、それは情動系回路に繋がるわけですから、情動系回路は、明日を生き残る為の思考系回路と異なり、今を生き残る為に働くわけですから、女が現実的な考えになるのは当然なことかもしれません。
男女間の交際の基本として、この大脳の男女間の異なる情報処理機構を知る必要があるでしょう。
男が長々と理論的な日常的でない話題を得意になって喋っていても、女はその理論の立派さなどを、男が思っているほどに、聞き入ってはいないかもしれません。
女が思いつくままに、理論非整然と日常のこまごましたことや旅行や食べ物のことを楽しそうに喋っていても、男は退屈することでしょう。
つまり、男と女が同じ場所に居ても、大脳の中では、異なる次元にいるのです。
更に、男の会話の時制が未来形か過去完了形とすれば、女の会話の時制は現在進行形と言えるかもしれません。そのように次元や時制が異なる会話において、男と女が長時間話し合えば、話し合うほど、お互いのこころの距離は離れていくことでしょう。そのようにならないためには、男女間の会話の基本ルールを知る必要があるでしょう。
それは、相手が話している時は、相手の目を見てしっかり聞いていることです。そして、相槌を打つことです。決して、納得できなくても反論しないことです。これが男女間の会話における基本ルールです。
男女間がある問題を話し合えば、話し合うほどこころが離れていく原因のひとつに、「うそ」の存在があります。
「うそ」とは、相手を騙す目的に虚構話をすることですが、それには、意識的「うそ」と無意識的「うそ」があります。
意識的「うそ」については説明の必要はないでしょう。問題は、無意識的「うそ」です。男女間の会話でのトラブルの原因の大部分は、この無意識的「うそ」なのです。
無意識的「うそ」とは、自分では「うそ」をついているつもりがないのだけれど、結果的に「うそ」をついてしまっていることです。
例えば、ある中近東の独裁国家が超大国の宣戦布告を受けました。その国民全体は、敵に対して武器を持って命を賭して戦うとの忠誠心をこころから示しました。しかしどうでしょう。圧倒的に敵が攻込んでくると、死を持ってその独裁国家へ忠誠を誓った国民の大部分は、敵側の国旗を振りかざして敵国兵士の凱旋を歓迎してしまったのです。
この行動が、無意識的「うそ」の主なパターンです。当人は、戦争が始まるまでは、心底から敵に対して武器を取ることを信じていたのでしょう。しかし、戦闘状況を観察した結果、自分では意識しないのだけれど、何の理論展開(言い訳)もなく、それまでの考えを百八十度変換してしまったのです。
何故、そのような無意識的「うそ」がつけるのかと言えば、思考は一定していないからです。つまり、思考とは、思考系回路により創作され、その基本戦略は明日を生き残る為です。そのため、状況が変化すれば、それに合わせて思考は自動的に(無意識に)変化してしまうのです。
つまり、思考は無意識的に「うそ」をついてしまう宿命にあるのです。そのように思考が変化してしまわないように、「思考は思考を固める」必要があるのです。そのひとつが、「思想」です。
思想とは、任意の思考を固めたものです。しかし、思想も、所詮、思考を固めたものですから、時代が変化して、状況が変わってしまえば、それは「うそ」になる可能性があるわけです。(もしかして、マルクス主義とかフロイトの精神分析なども、その範疇に入るのかもしれません。)
さて、男と女との会話で、女は男に向かって、「うそつき」を連発するのは、以上の説明で理解できるでしょう。
男が、何故に無意識的「うそ」を平気でつけるのかと言えば、それは、情報の入力と出力とが、女と若干異なるからかもしれません。
ひとの行動が思考によりコントロールされていることは事実ですが、もうひとつのコントロール系統があるのです。それが、情動系回路です。
ひとには、情報処理回路がふたつあるのです。ひとつが思考系回路で、もうひとつが情動系回路です。そして、その入力情報は異なるのです。思考系回路は、情報を言葉により入力します。それに対して、情動系回路には、祖先からの遺伝子情報を既に入力されているのです。
つまり、思考系回路は生後の教育(刷り込み)情報を基に構築され、それに対して、情動系回路には自動行動プログラムが遺伝によりインプットされているのです。ですから、生まれたての赤ん坊でも、言葉は喋れないけれども、物事に反応して感情の表出はできるのです。
男に較べて、女は情動系回路が発達しているようです。その情動系回路の入力情報は、言葉ではなく、感覚器からもたらされるものです。その情報のひとつに「ニオイ」があります。
男は、コミニュケーションを主に「言葉」に頼るようです。しかし、女には、「ニオイ」のコミニュケーションは無視できないようです。
女が生理的に嫌悪する「男」に対して、「何かニオウのよね。」と表現することがあるようです。その意味がどういうことかは分りませんが、大体、女の男に対する「感」は当たるようです。それは、言葉と異なり、「ニオイ」は「ウソ」をつかないからです。
男は、女と交際する時、この「ニオイ」について研究しておく必要があるでしょう。
「ニオイ」は、他の感覚情報と異なり、直接本能(情動系回路)に働きかけます。つまり、ある「ニオイ」を嗅ぐと、その情報が脳の情動系回路に直接入力されてしまい、それに対して、瞬時に出力(行動すること。)されてしまいますから、「ニオイ」に対してはごまかし(ウソ)がきかないのです。そして、その出力は、主に「顔」に表現されてしまうのです。ですから、思考と異なり、「ニオイ」に対するゴマカシの手段はないのです。
だからと言って、、化粧品会社の広告戦略に乗って、高い香水を買うこともないでしょう。
目的とする女の好む「ニオイ」は、どのようなものかは、そのひとがどのような「ニオイ」と接してきたか、そして、どのような「ニオイ」に気を配ってきたかの歴史によるようです。
「ニオイ」の個人歴史は、他の情報のように脳の各引出しにそれぞれ分解されて、必要な時、それぞれの情報を繋ぎ合わせ再構築するのではなく、ホログラフィーのように保存されてあるようです。つまり、ある「ニオイ」を嗅ぐと、その時の空間記憶全体が瞬時に思い起こされるようです。
配偶者を選択するには、見た目のカッコ良さよりも、気持ちが和むかに重点をおきたいものです。それには、生まれた環境と育児をした両親を観察することが必要かもしれません。そして、結論を出す前に、両目(言葉だけではなく、感覚器の情報も判断材料とすること。)で良く見ることです。
それでも、結果として検討違いの場合、話し合って問題が解決すると思わないことです。男女間の問題解決の最良の仕方は、「片目をつぶる」ことです。場合によっては。「両目をつぶる」必要のあるひともいるかもしれません。

それでは、次に、投資について考えてみましょう。
投資とは、お金を集めることを第一の目的に行動することです。しかし、この事は今も昔も、世の中ではあまり良くは評価されていないようです。
江戸時代の尊徳も、このことに対して、「人は云う、我道、積財を勤むと、積財を勤るにあらず、世を救ひ世を開かんが為なり。」、とお金を集めることへの自己弁明をしています。
それでは、お金を集めることは、良いことではなく、本当に悪なのでしょうか。
「翁曰、善悪の論甚むづかし。本来を論ずれば、善もなし悪もなし。善と云て分つ故に、悪と云物出来るなり。」、と尊徳が考えているように、お金を集めることを、単純に善悪に分けられないのが現状でしょう。
でも、投資を考える前に、お金を集めるための「目的と基準」を、決めておかなければならないでしょう。と言うのは、お金には不思議な力があり、それに魅せられてしまうと、お金を集めることが、人生ゲームの最終目的となってしまうことになりかねないからです。
それでは、世間一般において、「お金」に対して、どのようなイメージを持っているのでしょうか。
その考えの象徴のひとつとして、「投げ銭」の行動があります。「投げ銭」とは、文字どおり、お金を投げる行動です。まず、そのひとつが、田舎芝居でのひいき俳優へのご祝儀としての「投げ銭」(おしねり)です。そして、もうひとつが、神社仏閣の賽銭箱にお金を投げる行動です。
後者の場合、尊い神仏に対して、お金をはだかのまま投げつけることなどは不謹慎だとは思いませんか。でも、その行動に、お金に対する一般人の潜在認識があるようです。
つまり、賽銭箱にお金をはだかのまま投げ入れることの裏の意味は、ひとの穢れをお金に感染させて、「穢れ落とし」をすることなのです。ですから、賽銭箱に向けて、紙に包んで(おしねり)そおっと置くのではなく、お金をはだかのまま投げつけるわけです。
昔、近所のおばあさんが、お金を「汚い」ものだと言い、お金を触った後、手を洗っていたのを思い出します。お金は穢れていて、それを扱う「商人」もそのように思われていたのでしょう。中世ヨーロッパと同じように、江戸時代の金融業者も、身分としては低かったのも、そのような「穢れ思想」が原因だったのでしょう。つまり、お金は「穢れて」いる、と昔から考えられていたようです。
しかし、その穢れの思想は、日本国古来のものではなく、紀元一世紀突然ガンダーラ地方に現われた、ヒンズー教化した差別思想(平等主義のはずの大乗仏教が、センダラについての不平等思想を否定することなく、仏敵として仏典に掲載している。)の金ピカ豪華絢爛の大乗仏教が、シルクロードの貿易商人等(秦一族)と伴に、日本国に侵略侵攻・支配のための戦術としての布教宣伝に広めた思考なのです。
本来、「お金」は、ひとと同じに、穢れてはいません。
尊徳が、「故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。」、と言うように、「穢れの思想」は、時(538年)の権力を握った者達(大乗仏教徒)が、日本国の先住民達を、精神的・物質的に支配するための「夷を以って夷を制す」の戦術として、従属する農耕民族系を「善人」とし、それに対して反抗する騎馬民族系を「悪人」(センダラ)と勝手に決めた「ウソも方便」にすぎません。
それでは、「お金」をどのように位置付ければよいのでしょうか。
その考えのひとつとして、「道具」と考えることです。つまり、人生ゲームを遂行するための、「お金は道具」なのです。
そのように考えれば、お金(道具)を集めることは、悪いことではないでしょう。しかし、必要以上に集めたところで、それは唯の道具集めにすぎないわけです。つまり、その道具を上手く使って、何にかを創り上げることが、人生ゲームの最終目的なのです。
それでは、道具としての「お金」はどのようにして集めたらよいのでしょうか。
尊徳の人生ゲームから「投資」行動を見てみれば、十三歳の時、他家の子守の駄賃の二百文を、アメなどの消費物に換えるのではなく、松苗を二百本買い、それを酒匂川の堤防に植えたこと、そして、十六歳の時、友人から菜種五勺を借り、それを堤の廃地に蒔き、翌年七升以上の収穫を得たことなどは、投資の基本行動とも言えるでしょう。
しかし、投資は良いことばかりではないことを、尊徳は服部家の財政建て直しで経験しました。それは、米の投機で百三両の損を生じてしまったことです。
ですから、投資や投機は、時によりお金が多く集まるかもしれないし、時には、お金を全て失うかもしれない、ということを知っておくべきでしょう。
いずれにしても、投資には、種銭が必要です。種銭の作り方は、尊徳のように、他家の子守りをする(自分で稼ぐ)ことと、友人に借りる(借り入れ)ことのふたつの仕方があります。
先ほども述べましたように、投資は必ず成功するとの保証などはありません。ですから、将来の成功を夢見て、種銭を借りることは、得策ではないでしょう。と言うことは、種銭は自分で作ることです。つまり、他家の子守りをすることで、投資のための種銭を稼ぐことです。
しかし、今現在の収入からの天引きだけでは、望むような種銭はできないかもしれません。それでは、どのような仕方があるのでしょうか。
尊徳は、そのためのヒントを次のように述べています。

夫汝未壮年なり、終夜いねざるも障りなかるべし。夜々寝る暇を励して勤て、草鞋壱足或は二足を作り、明日開拓場に持出し、草鞋の切れ破れたる者に与えんに、受る人礼せずといへども、元寝る暇にて作りたるなれば其分なり。礼を云人あれば、夫丈けの徳なり。又一銭半銭を以て応ずる者あれば是又夫丈の益なり。

無一文から種銭を作るには、まず、自分の時間を他のひとに売ることです。一部のひとは気付いているようですが、実は「時間」とは誰にでも平等に保持している「資産」なのです。しかしそれは、金持ちであろうと、貧乏人であろうと誰にでも貯めて増やすことが出来ない、一日一日で使い切らなければならない「資産」なのです。
でも、その「資産」である時間を買ってくれるひとを探すには、困難が予想されるでしょう。それは、ひとの目には見えない「資産」だからです。
でも、ひとが必要とする目に見える物(商品)を、自分の時間を管理して造り、それを必要としているひとに差し出すとすれば、その物を買ってくれる可能性は大でしょう。
尊徳の考え方では、夜なべしてワラジを一二足作り、翌日それを作業現場に持っていき、ワラジの破れたひとに差し出すのです。その場合、ワラジを貰ったひとがお礼をしなくても、元々余暇(売れない時間)に作ったものであるから、それまでのことで、場合によってはお礼を言ってくれるひとがいれば気分が良いし、更に、一銭半銭を支払ってくれれば儲けもの、と言うわけです。
この考え方は、あらゆるビジネスを成功させるエッセンスを多分に含んでいます。
一般的に、ビジネスでお金を儲けようと考えるひとは、事業の初めから、潜在顧客の利益ではなく、自分だけが利益を得られるようにと考えて行動してしまう傾向があるようです。その利益獲得行動も、目先のわずかな利益を出すことだけを考えてしまうことにより、長期展望に立ってではなく、一二年の短期で結果を出そうとする傾向があるようです。
しかし、昔から、「石の上にも三年」と言われているように、事を成就するには、最低三年間は必要です。その根拠は、以前述べましたように、潜在顧客の脳に新事業のゲームを記憶として刷り込むには、脳の一時記憶装置の海馬から、新皮質の細胞に長期記憶させるための焼き付け期間は、二三年を必要とするからです。ですから、世界的ブランド創り(刷り込み)などは、仕掛けも大掛かりとなるため最低十年はかかるのです。つまり、ブランドとは、別の角度から見れば、「濃縮された時間」でもあるわけです。
お金を集める気の利いた物が作れないひとは、自分の余暇時間を売ることを考えてみましょう。
それでは、時間を買ってくれるひとは、どのような時間を買ってくれるのかと言えば、例えば、身体各部で言えば、物を運ぶ「足」の時間、物を加工する「手」の時間、物事を考える「アタマ」の時間、そして、ひととひととを結びつける「顔」の時間です。
時間売りの単価は「足」から「顔」へ行くほど高く売れます。
「足」の単価が安いのは、それだけ多くのひとが簡単にできる時間の売り方です。ですから、どの時間を売るかを迷っているひとは、まず、「足」の時間を売ることです。
「足」の時間売りとは、物を運ぶ仕事です。(運送業)
「手」は技術の仕事です。(制作業)
「アタマ」は物事を処理したり、自分の知識を売る仕事です。(塾などの教育業)
「顔」とはコーディネータとしての紹介の仕事です。(コンサルタント業)
自分の売れる時間を考えてみましょう。そして、休日や余暇を利用して、その時間を買ってくれる所を訪ねてみることです。
そのように、本業ではなく、副業で稼いで種銭ができましたら、次は、投資先を探しましょう。
尊徳は、松苗を自家の畑ではなく、川の堤防に植えました。そして、菜種を廃地に蒔きました。それは何故でしょう。その理由は、リスクがあるけれども税金が掛からないからです。
投資は、元金保証の貯金と異なり、儲けと消失との間を往き来しています。そして、危険が大きければ大きいほど、成功した場合の儲けも大きくなります。だからと言って、危険な所に投資をしなさい、と言っているのではありません。
何事も危険は避けたいものです。ですから、投資先としては、一回勝負の投機ではなく、長期戦を行える所が良いでしょう。そのひとつに、「株式投資」があります。
株式投資は、簡単なゲームです。
それは、安いところで買い、高くなったら売って、その差益を得るゲームです。それとは逆に、プロや機関投資家が行う、逆張りと言って、加熱している株を売り、下落した時点で買い戻し差益を得るゲームの仕方もあります。
いづれにしても、株式ゲームには、「買い」と「売り」しか選択肢はありません。
では、こんな簡単な二者択一のゲームなのに、勝つひとと、負けるひととを分けるのは何なのでしょうか。
世間一般では、一流経済情報誌や一流経済学者による講演会などで最新情報を誰よりも早く入手することが、勝者になる必要条件だと信じているようです。果たして、それは本当なのでしょうか。

旅の導師が、ある村に辿り着きました。
その村の一番高い木の陰でひと休みしました。何となく上を見ると、ど真ん中に矢が刺さっている的がぶら下がっているのが目に止まりました。そこに、村のじいさまが通りました。
「じいさま、この村には弓の名人がおるのか。」、導師は遥か遠くを指差して聞きました。
「弓の名人などいねえ。」
「では、あんなに遠くにある的のど真ん中を射ったのは誰ぞ。」
「このわしじゃ。」
「では、じいさまが弓の名人であったのか。」
「いやちがう。わしは名人などではねえ。あんなこと、誰にでもできることじゃぞ。」、そう言って、的にくくりついている紐を緩めて降ろし、的から矢を抜き取り、「これからどのようにしてど真ん中を射ったか見せてやるベえ。」、と言いました。
導師は、これから起こる奇跡を目撃できることに、少し興奮を覚えました。
「導師さま、よおく見ていておくんなせい。」
そう言うと、じいさまは、的を足元に置いて、矢先を的のど真ん中に触れるほどにして、弓の弦を引き、そして、放しました。

予想を的中させることは、株式ゲームの勝者になるには必要なことです。しかし、ひとは未来を知ることは出来ません。そこで、未来を知るために、情報を集めることを考えるわけです。そのための手段として、テレビの経済情報番組や新聞の経済欄を見るわけです。
しかし、そのようして集めた情報は、株式ゲームの勝者になるために、果たして有用な情報となるのでしょうか。
米国のある大統領が、「経済に偶然などは存在しない。物事はそのようになるために、予め仕組まれている。」と言っていたことは、どのような意味なのでしょうか。
マスコミに登場する経済予測の良く当たるひとがいます。そのひとは、どのようにして未来の経済状態を予測し、当ててしまうのでしょうか。
そのことを知るには、株式ゲームはどのようにして発明されて、どのような仕組みで運営されているのかを調べる必要があります。
株式ゲームの胴元である世界初の株式会社は、通説では、1602年設立のオランダの東インド会社であると言われています。いや違う、1600年設立のイギリスの東インド会社であると言っても、イギリスの東インド会社は、株式会社ではなく、一回こっきりの組織である「当座会社」として発足していたのです。
それでは、どうしてイギリスの東インド会社が、オランダの東インド会社より歴史的に有名になってしまったかの理由は、それは、歴史を自分達に都合よく改ざんしたからです。歴史を英語でヒストリーというように、それは過去から現在までの事件や出来事を自分達に都合よく繋ぎ合わせた物語であり、それは時の権力を握ったひと達が、自分達に都合よく他の人達をコントロールする目的で、記憶させるべき価値があると判断した情報を記述し書物に残し、そうではないものは抹殺、或は改ざんし、その組織の好みの筋書きにしてしまうからです。
そのような不確かな物語に真実味をあたえるために、歴史上では「史料」というものが存在しますが、「史料はウソをつく」と言うのが、「常識のある歴史家」の常識です。古い時代の資料の「史料」が「ウソ」をつくように、新しい時代の資料も「ウソ」をつきます。
例えば、中東の独裁国を先制攻撃する目的で、ある超大国の中央情報局は、「独裁国は大量破壊兵器を隠し持っていて、最近アフリカからウランを購入した。」、と議会で報告しました。更に、その超大国を援護する目的で、紳士の国の女王陛下の情報局の報告書の資料に基づき、「四十五分以内に大量破壊兵器がスタンバイできる情報を入手した。」、とその国の首相は議会で大演説をしました。その結果、その二つの国は、先制攻撃で独裁国家を短期間で壊滅してしまいました。しかし、その戦闘で、その独裁国は大量破壊兵器を使わず、更に戦後、独裁国をくまなく探索しても、大量破壊兵器は見つかりませんでした。
どんなに優れた組織が収集した最新情報で資料を作成したとしても、「資料」は真実を語っているかは疑問です。
元々、情報自体には「ウソ」などありません。その情報を物語(資料・史料)として整理する過程でひとのこころが、情報に「ウソ」をつかすのです。ひとの思考回路は、明日を生き残るためにあるのです。ですから、明日を生き残るためには「ウソ」も平気(無意識)でつけるのです。
株の取引をする場合、経済情報は大切な「相場観」の根底になります。
相場観とは、簡単に述べれば、今から先の相場が上がるか下がるかの、考え方です。先ほども述べましたように、ひとは一秒先も知ることは出来ません。ですから、誰も、この先の相場の動向を知る術はないのです。そこに、相場の流れを予測する経済情報の需要が起こるのです。
それらの需要を満たす基が、経済学者や株のアナリスト等です。
しかし、それらのひとたちの経済情報は「信じて」もよいのでしょうか。もし、それらのひとたちが、最新経済情報を先進国のシンクタンクから入手し、相場の予測を正確に当てることが出来るのであれば、この世は大金持ちで溢れかえっていることでしょう。
ひとの思考は千差万別で、ある情報を与えたとしても、それに対する反応は「アフリカの靴のセールスマン」のように様々です。
例えば、経済において悪い材料が表出した場合、普通の世界では、マイナスの反応が起こることでしょう。しかし、相場の世界では、悪材料が出尽くしたと思考し、相場はプラスの反応を示す傾向があります。その反対に、良い材料が発表されると、材料出尽くしと思考し、相場は、マイナスの反応を示す傾向があるのです。相場の世界の行動は、世間一般とは逆なのです。
何故そのように世間一般とは異なる反応を示すのかと言えば、相場は、今ではなく、近未来(半年から一年)を予測するゲームだからです。
更に、相場に勝つには、「ニッパチの法則」を知る必要があるでしょう。
「ニッパチの法則」とは、二割のひとが八割の富を分け合い、八割のひとが二割の富を奪い合うということです。
何故そのような法則が成立つのかは、ひとのこころには「希望」と「恐怖」が内在しているからです。その二つは、実は「欲望」の変形ですが、向かう方向が逆です。「希望」は前に進もうとする「欲」です。「恐怖」は後退(現状を守る)しようとする「欲」です。一般的に、そのふたつがこころの中で戦った場合、「希望」は「恐怖」に負け越す傾向があるようです。その割合がニッパチ(二割対八割)です。
この二つの「欲」を、上手くコントロールできるひとが二割のグループに入り、「欲」に振り回されてしまうひとが、八割のグループとなるわけです。
株式会社は、元々海賊貿易(戦艦の大砲で脅して物品を略奪すること。)をするために、危険を分散する目的で、多くの人達からお金を集めるための方法として発明されたものです。
イエズス会から東インドの地元情報を入手したオランダ東インド会社は、インドネシアを中心に香辛料を略奪していました。イギリス東インド会社は、オランダに出遅れたため、インドを足ががりに「三角貿易」をしていました。
「三角貿易」とは、イギリスの工業製品をインドへ輸出し、その代金で「アヘン」を購入し、それを中国に持って行き、「アヘン」をお茶に換えてイギリスに持ち込むというシステムです。その三角貿易の結果、1840年イギリスと清国は「アヘン戦争」をしたことは学校の歴史で学習したことでしょう。
このイギリス東インド会社の人脈が、明治維新の影のプランナーです。そのプランによって、明治維新が企画され、「日本の夜明」となるわけです。日本国の株式会社の雛型は、イギリス東インド会社なのです。
株式会社の発足当時から、株式会社は市場開拓のため、裏の世界では「アブナイ」ことをしていたのです。
更に、相場と「戦争」は昔からお友達なのです。
ナポレオン戦争とロスチャイルドの相場戦略は、戦争の情報が莫大な富を得ることを証明しています。この話は有名です。粗筋を述べますと以下のようになるでしょう。
イギリスの相場で、ナポレオン軍が勝てば相場は暴落し、負ければ暴騰するとの刷り込みを行い、多くの金持ちに戦争国債を買わすのです。ナポレオン軍が劣勢の情報を流し、「希望」という「欲」に火をつけるのです。相場が加熱して最高潮の時、ナポレオン軍が優勢とのウソ情報を流すのです。すると、「恐怖」という「欲」が国債を投売りにするのです。その投売りのただ同然の国債をロスチャイルドが拾います。実際の情報は、ナポレオン軍の敗退です。その真実の情報を知ると、国債は暴騰します。そこをすかさず「売り逃げる」ことにより「富」が手に入るわけです。
この古典的情報操作は、現在の相場にも健在です。
それでは、情報操作を影で行うひとが、相場でひとり勝ちをしてしまうのかといえば、そうではないでしょう。それほど、株式ゲームは甘くはありません。株式ゲームには、ひとがコントロールできることと、できないことがあるのです。
このことを尊徳は、「天道」と「人道」という考え方で捉えています。
「天道」とは、ひとがコントロールできないことで、それこそお天道さまがコントロールしていることです。例えば、自然現象の台風や雷などは、ひとがいくら努力してもコントロールすることはできないでしょう。
それに対して、「人道」とは、戦争や情報操作など、ひとがコントロールできる事柄です。
この考え方で、相場をみてみますと、株を買おうとする企業の業績資料を集め、分析することは、「人道」でしょう。そして、その分析により、今後の株価を予測したとしても、それはあくまで「人道」です。しかし、ひとは一秒先も知ることは出来ません。未来のことは、ひとがコントロールできない「天道」だからです。つまり、相場とは、「人事を尽くして天命を待つ」ことです。
株の初心者が行う過ちのひとつは、一流経済学者や株のアナリスト等は特殊な才能や最新情報を握っていると錯覚し、それらのひとたちからの未来の株価予測動向を信じてしまうことです。しかし、どんなに優れている人でも、未来を知ることは出来ません。それは、「天道」にあるからです。
それでは、株の専門家の株価予測情報が信じられないのであれば、どのようにして株を買うチャンスを得ればよいのでしょうか。
そのヒントのひとつとして、傘のビジネスが参考になるかもしれません。
傘は、雨が降る日には必需品ですが、晴れてる日には邪魔者です。物には相場というものがあります。需要のある時は、需要のない時より、相場は高くなります。ですから、傘も雨の日は需要がありますから、当然相場は高くなります。品薄の時などは、売り手の指値で売れることでしょう。
ですから、傘を仕入れる時は、日照り続きの時がチャンスなのです。そして、雨の降るときが売りのチャンスなのです。こんなことは、誰にでも理解できることです。
しかし、株の素人が行うことは、「株を買ったところが最高値」で、そして、「売ったところが最安値」だ、ということです。
何故そのようになってしまうのか言えば、「天道」と「人道」のことを理解していないから、「希望」と「恐怖」への情報操作をされることにより、「皆で渡ればコワクナイ。」の心境に落ちいってしまうからです。
そのようにならないためには、証券会社がカンコドリの時株を買い、そして、証券会社が賑わい出したら売ることです。
ひとは未来を知ることはできませんが、予兆を感じることはできます。
尊徳は、初夏に食べた茄子が秋茄子の味がしたので、気候の変化の予兆を感じ、秋の不作を想定し、粟や稗を植えることで、凶作からの危機を脱したのです。
株での予兆もそれと同じことがいえるかもしれません。靴磨きの少年が株を話題にしたり(昔の米国での譬え話)の、株に対してのひとの不自然な行動は、株の売りのサインかもしれません。
さて、今は株の買い時ですか、それとも、売り時ですか。

   時代と伴に変わるもの、変わらないもの   


尊徳の生き方を応用して、ひととの交際の技術を修得して、コミニュケーションの輪を広げることが出来、そして、投資の基本技術を修得して、無収入でも生活できる三年分の資産を持てるとすれば、それにより、人生ゲームにおいて、自分の思いどうりに行動できるわけです。これが、自立のための基礎です。
そのように、人生ゲームの基礎が出来た上に、プロカメラマンゲームが展開できるのです。人生ゲームでの基礎がしっかり出来ていなければ、プロカメラマンゲームも上手く行かないことでしょう。
ひとは、仙人と異なり、山奥にひとり住みそして霞みを食べて生きていくことはできません。そのためには、実社会で生きていくための、生活する為の土台が必要になるわけです。
土台が完成したら、その上に建物を建設する(プロカメラマンになること。)わけですが、その周りの環境(写真市場)を調べないと、思わぬトラブルを背負い込むことにもなりかねません。そこで、専門家(プロカメラマン)や書籍などにより、色々な資料を調べることになるのですが、そのことにより、必要とする情報を知ることができるのでしょうか。
そもそも、ひとは物事を調べることにより、一体何を知ることができるというのでしょうか。

旅の導師は、歴史のありそうな街に辿り着きました。
「もしもし」とうら若き女性が、導師に話し掛けました。
「この街のことを知りたいのですが、ご存知でしょうか。」
「いや、わしは旅のもので、今この街にたどりついたところで、とんとわかり申さぬ。」
そこへ、若者が通りかかりました。
「もしもし。この街のことを知っておるかな。この女性が知りたいそうじゃ。」
「ええ、よく知っておりますとも。」そう言って、若者は、旅行マップを広げ、この街の名所旧跡を教え始めました。
「どうもありがとうございました。それで、この街の四季はどうなのでしょうか。」
「申し訳ありません。わたしは、旅をしている者で、昨日この街に着いたばかりです。」
そこへ、この街の住人らしき男が通り過ぎました。
「もしもし、この女性がこの街の四季を知りたいそうじゃ。教えて下さらんか。」
「この街の四季はよおく知っております。」そう言って、男は丁寧に四季の移り変わりを説明しました。
「ありがとうございました。それで、この街はどのような歴史があるのでしょうか。」
「わっしは、三年前に引っ越してきたもんで、そこまでは知りません。拙宅に居候の歴史学者に聞いたらよかろう。」そう言って、導師と女性を案内して行きました。
「学者先生。この女性がこの街の歴史を知りたがっているそうで。」
「ふむふむ。この街の歴史はわしがよう知っとる。古文書も沢山集めて研究したでな。」そう言って、歴史学者は、この街の歴史を語り始めました。
そこへ、誰かが尋ねて来ました。
「先生。先日お貸したうちの古文書を返してくだされ。あの古文書は三代先のじいさまの道楽で、系図屋に書かせたもので、学問のたしにもならないものですから。」

ひとは、一体何を知っていると言うのでしょうか。
痩せたソクラテスは言います。ひとは、「何も知らないということを知っているだけだ。」
「知る」ということは、マクロからミクロへ向かうほど、問題は複雑になり、その答えを知ることができなくなるようです。物理学における物質の根源の最近の知見、「物質は震動(波動)だ。」、もそのひとつでしょう。この物質探究の話はまだまだ続くことでしょう。
では、このクソ面白くもないと思っている世界のことを、ひとはよく知っているのでしょうか。
世界のことや歴史は、学校で学習したから知っている、と思っていても、それは前述の歴史学者先生と同じかもしれません。
そもそも、世界観を構築する為の歴史観が、ひとが知ろうとするフレームを狭めてしまっていることに、多くのひとは気付いていないようです。
歴史とは、元々脈絡がない出来事を、誰か(権力を握った者)の目的を遂行する為に作られた物語なのです。そのような道筋の曖昧な物語りを、「科学的」なものにすりかえてしまったひとがいました。それが、かの有名なマルクスです。
かれの史的唯物論(マルクス主義の根幹)は、その当時流行のダーウィンの生物進化論のアイデアに啓発されたことはよく知られていることです。その唯物史観とは、歴史には一定の方向があり、原始的なものから近代的へと進化(変化)するというアイデアです。つまり、原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→現代資本制→未来の共産制へ辿り着き、そこで歴史は止まるということです。
この刷り込み「歴史は一定方向に進む。」は、今の学校歴史にも健在です。(歴史年表のとうりに世界が動いてきたと信じている多くのひとがいることは驚異です。今学校で学習しているのはユダヤ・キリスト教を基にした世界史の歴史です。世界史はその他無数にあるのです。)しかし、この思想(以前、思想はウソをつくと述べました。)は、1991年共産主義の大本のソ連が崩壊しても生き延びています。
刷り込み(学習)とは、恐ろしいものです。一度刷り込まれてしまうと、修正することは困難だからです。
そのような唯物史観を刷り込まれてしまった多くのひとは、自分の歴史もそのようなフレームで観てしまう傾向があるようです。つまり、未完から完成へ一定方向へ進む。或は、貧乏人から金持ちへ、又は、カオスからコスモスへと自分の歴史は「科学的」に流れて行く、という錯覚です。
世界の歴史が、不条理で、理論や法則など何もないように、ひとの歴史にも、生命保険会社作成の人生の設計図のような、決まった道筋など何もありません。ひとの人生の歴史(物語)は、「天道」と「人道」との、事の巡り合わせの偶然で、創られて行くわけです。
でも、「学校で」そのような唯物史観を刷り込まれてしまったフレームを取り外し、自由に思考することができるのであればよいのですが、そうではないひとが、人生ゲームやプロカメラマンゲームについて、多くの資料を集め調べたとしても、必要とする情報を手に入れることは出来ないかもしれません。

あなたが持っている情報は、あなたが必要とする情報ではありません。
あなたが欲しい情報は、あなたに必要な情報ではありません。
あなたが必要な情報は、あなたが手に入れられる情報ではありません。
あなたが手に入れられることができる情報は、あなたが払ってでもいいと思っているより以上のコストがかかります。

「知る」ということは、思考のフレームを広げることができますが、同時に、「知らない」という自覚を大きくしてしまう結果にもなってしまいます。「無知の知」、このことを端的に述べたのが、マーフィーの法則、「ひとは無能のレベルに行き着く。」です。このことは、この国でも昔のばあちゃん達が、「道楽もしないで勉強ばかりしていると、バカになるよ。」と言っていました。
最先端技術を研究する科学者が、それとは正反対に位置する宗教や神秘主義に惹かれるのは、無能のレベルから脱却しバランスをとるために、無意識のこころが指図しているのかもしれません。
ひとは、世界や歴史、或は世間の事を知っているつもりでいても、その実、何んにも知らないのと同じように、ひとは自分のこころについても何んにも知らないでいるようです。
世の中は、ひとによりコントロールできない「天道」と、ひとがコントロールできる「人道」との組合せの偶然により運営されているように、ひとのこころも、意志の力でコントロールできない「情動系回路」と、意志によりコントロールできる「思考系回路」との組合せの偶然で運営されているわけです。
ですから、世の中の出来事が、法則性に則っていないように、ひとの行動にも法則性など何もないのです。
そのように法則性のない世の中の流れに上手く乗るには、「天道」に合わせて「人道」を行えばよいのです。つまり、晴れている日は畑を耕し、雨の日は読書に勤しめばよいのです。それは自然なことです。でも、その逆は、不自然で、いくら努力(意志の力を使うこと。)しても無駄なことなのです。それと同じように、ひとの行動(ゲーム)を無理なく行うには、「情動系回路」に逆らわないように、「思考系回路」を作動させればよいでしょう。
つまり、今を生き残る為の「情動系回路」の戦略に合わせて、明日を生き残る為の「思考系回路」を作動させることです。
でも、トラブルを抱えている多くのひとは、その逆を行っているようです。
いくら「思考系回路」を駆使して考えたとしても(思考しても)、その思考系回路は、「情動系回路」が長い長い年月をかけて少しずつ創り上げたものなのです。ですから、今を生き残る為の行動を無視して、明日を生き残る為のことだけを考えたとしても、事は上手くいかないのは道理なのです。
例えば、「思考系回路」が「情動系回路」の戦略を無視したものとして、太平洋戦争後、占領軍の法律で闇米(正規のルート外の米)の購入禁止を施行し、真面目にその法律(思考系回路が考え出した決まりごと。)を必死に守り抜いた法律学者が、その結果餓死してしまった話などは、笑い話にもならない悲惨な例です。
しかし、一般の多くのひとたちは、「思考系回路」が創りだした、「本音と建前」の理論を上手に使い分けて、闇米を購入することで、戦後を生き延びたわけです。
では、その「本音」とは何かと言えば、それは「情動系回路」の戦略で、「今を生き残る為には何んでもする」ということです。そして、「建前」とは、「明日を生き残る為には何でもする(米国の大統領や英国の首相のようにウソも平気でつく)」ということです。
平たく言えば、ひとの基本行動は、場面場面により、この「本音」と「建前」のせめぎ合いによりコントロールされているわけです。
この「本音と建前」を別の言葉で表現するとすれば、「性悪説と性善説」と言えるかもしれません。
一般的にひとは、「太ったブタか痩せたソクラテスか」の二原論の罠に嵌ってしまい、どちらか一方に組するように学習させられてしまっているようです。しかし、ひとのこころは、そのような「白黒」(この言葉の裏の意味は非仏教派か仏教派かを区別することで、勿論「白」は神徒系で「黒」は仏教系です。)の二原論で割り切れるほど単純なものではありません。
ひとのこころには、本音と建前が同居しているように、自分さえ良ければ何をしても良いとの「性悪説」と、自分を犠牲にしてまでも他のひとのことを思い遣る「性善説」も同居しているのです。
そのような複雑怪奇なこころを持っているひとが、複雑怪奇なこの世の中を、どのような方法で人生ゲームやプロカメラマンゲームを進めて行けばよいのでしょうか。
そのためには、それぞれのゲーム背景と自分のこころの作動パータンを調べることが必要です。
でも、それらの事を行うには、「あなたが手に入れられることができる情報は、あなたが払ってでもいいと思っているより以上のコストがかかります。」
この場合の「コスト」とは、お金のことではなく、今まで信じていたものが信じられなくなったり、自分の本当の姿を見ることになる、ということです。つまり、この場合の「コスト」とは「不安」のことなのです。
この世の全ての事は、ひとのこころが信じたとおりのものなのです。このことをあるひとは、「振り返れば、人生は夢のまた夢。」と表現していました。ひとは、外界の出来事を在りのままに見ているのではなく、自分が信じている(実際は信じさせられている。)ものだけを見ているにすぎません。
ですから、自分のゲームを有利にするために世の中を変える、或は、自分が思う自分に変身するためには、今まで信じていた全ての情報を疑い精査し、そして少しでも疑わしいと思われる情報は破棄することにより、初めて実現するわけです。
つまり、自立するということは、今まで記憶させられた納得できない情報を破棄し、だまされ易い「思考系回路」だけではなく、本能をバックにした「情動系回路」の「感」などを駆使して情報を集めそして分析し、その結果、「人道」においては、絶対正しい情報など何も無い、と気付くことです。或は、白隠禅師のように「難解な書物を理解しょうと無駄な時間を使ってしまった。今気付いた。自分自身が仏であったのだ。」と、自分以外に頼る者がいない、と悟ることから始まるのです。
そのような自立した立場で、今の自分を一歩引いて眺めて見ましょう。
今現在の状況は、自分の努力で築いたものなのでしょうか。それとも、誰かの力で導かれたものなのでしょうか。或は、誰かのせいで今の状態に落とし込められたのでしょうか。
人生ゲームを進める上で、「未来」がどのように見えるかは大切なことです。「未来」が明るく見えるひとは、この文章の先を読む必要はないでしょう。今のままで進んで行けば、未来は拓けることでしょう。
しかし、「未来」が明るく見えないひとは、自己点検する必要があるかもしれません。
では、「未来」が明るく見えないひとに問います。「過去」はどのように見えますか。
「未来」が明るくない多くのひとには、「過去」が輝く傾向があります。社会現象でも、経済が閉塞状態に陥っている時代は、回顧主義が跋扈しているようです。つまり、懐古趣味の復活がある時代は、不景気のどん底です。それと同じように、ひとのどん底状態のこころは、「未来」ではなく、「過去」に向かうようです。
では、その輝く「過去」は、本当に輝いていたのでしょうか。
時代が閉塞状態にある場合、歴史が脚光を浴びるのは、ひとびとのこころが、未来ではなく、過去に向かうからです。そこで、「未来」に向けて再び進むための情報を得るために、過去に向かうのならよいのですが、「昔は良かった。」と「現在」を否定するためのものだけであるならば、考えものです。
「現在」が生き難い時代であるように、「過去」も今とは違う基準で生き難い時代であったはずです。ですから、少しでも生き易くするために、ひとびとは創意工夫して時代時代の難問を解決して来たし、これからもそのようにして行くはずです。そのような創意工夫の積み重ねが時代の流れとなり、それが「歴史」と呼ばれる過去の物語となっていくわけです。
誰かが、「歴史はすべて現代史だ。」と言ったように、ひとの歴史(個人の経歴)も、現在の解釈の仕方で、ひとの過去の出来事は如何様にも解釈できるわけです。
例えば、過去の輝かしい肩書きが、紙切れ一枚の辞令で、リストラ状態に陥ってしまって身動きできない場合、今の状態の解釈の仕方で、人生ゲームの進み方は異なるでしょう。
人生ゲームを唯物史観的に解釈するひとであれば、時代は一定方向に共産主義世界の明るい未来に「科学的」に流れているわけですから、会社組織の出世の流れから外れてしまえば、「未来」はお先真っ暗となってしまうことでしょう。
しかし、「人生は一寸先が闇。」、「山があれば谷もある。」、「ケセラセラなるようになる、明日のことはわからない。」と、人生一直線ではなく、フレキシブルに「明るく」考えられるひとには、「挫折」は人生ゲームの仕方を変える分岐点となりえるし、人生の教訓「人生とはその思うことそのものだ。」を知る機会となることでしょう。
では、時代の流れが読めず人生ゲームの迷路に迷い込んでしまって、そこから脱出するにはどのようにしたらよいのでしょうか。
時代は確かに流れているし、目まぐるしく変化しているように実感できます。
カメラの機能及び画像処理を考えてみただけでも、その変化の説明は必要ないでしょう。銀塩カメラの操作情報は、デジカメには不必要です。銀塩カメラの画像処理の情報は、デジカメには不必要です。写真界は激変してしまったのです。それに伴い、印刷業界でも激変し、時代の流れは、銀塩カメラではなく、デジカメに有利でしょう。
そのように、時代は物のあり方や使用方法を変え、仕事の内容も変えていきます。しかし、それらの時代の流れから生産される物やサービスを受けるひとのこころは、時代と伴にかわっていくのでしょうか。
時代が要求する物やサービスを考え出す「思考系回路」は、明日を生き残るために、絶えず新しいものを創造していくことでしょう。しかし、「情動系回路」から産出される「感情」は、今を生き残るために作動するわけですから、「今」しか存在できません。ですから、「感情」は、時代と伴にかわることはないわけです。
では、その「感情」とは何かと言えば、それはひとの行動の「原動力」であるわけです。でも、その「感情」は、直接見ることは出来ないし、又、触ることもできません。唯、身体の出力により、「感情」は、基本的に「喜怒哀楽」の四つに表現されているのですが、ひとの遭遇する環境の場面場面により、それらの四つの感情は瞬時に変化し、一定の状態を保つことはできないようです。
ですから、それらの変化を克服するために、「平常心」の状態に保とうとするわけですが、その技術修得は、並大抵の修行では出来ないようです。
感情は、場面場面により瞬時に変化し、ひとの行動に重大な影響を与えます。しかし、それらの感情は、「情動系回路」により出力されるわけですから、「感情」はひとにはコントロールすることは不可能に近いことなのです。
つまり、ひとの事を成そうとするための修行の原点は、煎じ詰めれば、事において、感情をコントロールするために「平常心」の状態を保つことであるわけです。
ひとの行動の基本は、「感情」が高揚している時は、「思考」は低迷します。ですから、目的を達成するために、ひとの行動をコントロールするには「思考力」を増すことだと思い込み、ひとは「感情」を抑えるために「平常心」を心掛けるわけです。
そのような「思考」が正しければ、この世は成功者で満ち溢れていることでしょう。
人生ゲームが上手くいかないひとの多くは、「感情」と「思考」について、逆に考えているようです。つまり、「感情」は「時」と伴にかわっていき、それに対し「思考」は変化しない、と。
でも実際は逆なのです。「感情」は場面場面で瞬時に変化することは事実ですが、その出力パターンは時代と伴に変化はしません。このことに疑問があるひとは、自分の感情パターンを振り返って考えてみて下さい。同じ様な場面で、同じ様な感情を出力しているはずです。それに対し、「思考」は、場面場面で変化し、一定ではありません。その事実を隠すために、「思考」は絶えず「言い訳」を「思考」しているわけです。
人生ゲームが上手く行かないひとの歴史は、「言い訳の歴史」と言っても過言ではないでしょう。
ですから、人生ゲームを上手く行うようにするには、書物や偉い人の言う事を聞き「思考力」を増す様に努力することよりも、「感情」の反応パターンを変えることが必要なことは理解できるでしょう。
でも、「感情」は、ひとがコントロールできない「情動系回路」により出力されているのに、その反応パターンを変えることは可能なのでしょうか。
「感情」と「思考」とにより、ひとの「基本人格」は形成されています。これらのバランスが上手くとれていれば、人生ゲームの流れに上手く乗れるわけです。しかし、そのバランスが取れていないと、人生ゲームでトラブルに巻き込まれてしまいます。そのひとつが犯罪です。
犯罪を繰り返し犯すひとは、その「感情」と「思考」とのバランスが崩れているひとが多く見受けられるようです。では、それらの犯罪者は、人生ゲームの終着点まで、そのような「人格」を保っているのでしょうか。
ひとつの例として、極刑を受けたひとが「死」と真面目に向き合い「生」の本当の意味を悟り、そのことにより死刑執行実施前に「聖人」に変身していた、ということは、小説「宮本武蔵」の中ではなく、実際にありえることです。
どうも、ひとが変身するためのメカニズムのひとつに、「死」が関係しているようです。つまり、「バカは死ななきゃ直らない」と言われているように、「情動系回路」の初期化は「死」によりできるようです。
しかし、「人格」を変えるために、死んでしまったら、人生ゲームはゲームセットになってしまいます。ひとは一度しか死ぬことはできません。そこで、それに代わることを考えなければならないでしょう。
そのための代替として、古くから色々な宗教儀式や修行が行われて来ているようですが、ひとは「精神的に死ぬことにより人格は変わる」ことができることを昔のひとは、心理学者に教えられなくても、「智恵」で知っていたようです。
物が壊れた時、それを修復するために、その物を構成している部品を解体し、原因を突き止めることは、正しい行動です。
ひとの行動も同じことが言えるかもしれません。
今、人生ゲームが上手く行かないのは、自分の「人格」が故障しているのではないかと考えることは、その解決のひとつの方法です。
人格は、感情と思考とにより基本的に構成されているわけですが、ひとの行動の原動力は、「感情」ですから、「思考」よりも、「感情」の構成を点検することは、人格を変えるために必要なことです。
「分っちゃいるけど、止められない。」と言うことは、「思考」において理解はできたとしても、ひとには行動を起す「感情」をコントロールすることは出来ないことを表現しているわけです。
では、コントロール不能な「感情」の構成を点検するには、どのようにしたらよいかを次に考えてみましょう。
ひとのこころを点検する時、人生の流れについて誤解を与えたマルクスの史的唯物論と同じように、こころのメカニズムについて誤解を与えた思想があります。それは「精神分析」を発明したフロイトの思想です。
フロイトの思想も、マルクスと同じに、「科学的」を冠に付けることによりひとびとを惑わせました。
科学的とは、万人が立証可能な思想です。万人が検証不可能であれば、それは「科学的」ではありません。更に、科学的な思想は、時と伴にひとつの仮説に収束していきます。異なる仮説が平行して長期に成立つ思考は、科学的ではありません。
そのような前提で「精神分析」の思想を調べると、何故、フロイト派から1911年にアドラーが、1912年にシュテーケルが、そして1914年にユングが離脱して、それぞれが派を創り 、それぞれが似たようでいるのに微妙にちがっていたり、矛盾することがある「精神分析」を今だに行っているのが分るでしょう。
もし、「精神分析」がこころの奥底を「科学的」に探れるとしたら、そのように沢山の矛盾する思想は同時に存在できないはずです。
神経組織や脳細胞の働きを研究する「精神医学」においては、科学的な分析は可能でしょう。しかし、今だにこころがどこにあるかも特定できないのに、色々な測定器具を発明したところで計測することは不可能です。
思想は時代の需要に答えます。
1856年、モラビィアの王で伝説上の英雄ジークムントの名をつけた赤ん坊が、チェコスロバキアの小都市に生まれました。やがて成人したジークムント・フロイトは医学を学び、医師の道を歩み始めました。フロイトは自身のこころの悩み(うつ病と言われている。)から、フランスでヒステリーを研究しているシャルコーを知ることになります。彼こそが、フロイトの思想にヒントを与えた人物です。
催眠術を治療に利用していたシャルコーから、ヒステリーは無意識の心理作用から起こることを学び、更に、ヒステリーは性欲が関係している(性が開放された現代では当て嵌まらない。)ことも学んだのです。
そのようなシャルコーの思想に、自身の歴史を重ね合わせ、マルクスの唯物史観のように、口唇期→肛門期→エディプス期などの時系列での発達段階思想を発明していくわけです。
更に、「科学的」にこころを分析するために、無意識や超自我などの「心理学」用語を次々に発明していくわけです。
そこで、後々困ったことが起こってくるわけです。心理学用語(業界言葉)を使うことにより、一般の世界から、こころの究明が離れていくことです。そして、たまねぎの皮を剥くように、こころを解明する為に、物資の究明と同じように、次々と新しい心理学用語が発明されていくわけです。
結論から言ってしまえば、こころの問題は「精神分析」により「科学的」に解明することは不可能に近い、です。
では、現在、精神分析による治療はどのようなものかと言えば、患者の保持している問題イメージをカウンセラーの思い込みによるイメージに、言葉を利用して置き換える作業をしているわけです。その結果、カウンセリングを受けた医師の数と同じ数の「人格」を創られてしまった患者もいるそうです。
精神分析医の著書が面白いのは、精神分析は、科学よりも「文学」に近いからでしょう。毎日、患者の語るフィクション(患者は真実を語れない。)を自分流に解釈してフィクションの再生をしているわけですから。
と言う事で、「精神分析」は、今の時代のこころの問題解決技術の流れから外れて行くようです。
では、今、問題を抱えているひとに、自分の問題点を見つけ、そこから抜け出すヒントを与えてくれるのは何かと言えば、それは、「境界例」の考えです。
境界例とは、一昔前の心理学辞典には出ていないかもしれませんが、今では本屋さんの心理学書の棚には多く見受けられるタイトルとなっています。
現在では、境界例は、正式には「境界性人格障害」と命名された立派な臨床単位であり、その特徴は、こころの不安定さと激変し易い(キレやすい)感情の起伏です。
感情をコントロールするためのヒントが、何故境界例にあるのかと言えば、それは、境界例のひとは、通常は一般人と何ら変わりが無い(境界例のひとは思考系回路が発達しているひとが多いようです。)のに、ある状況下で、或はある言葉に敏感に反応し、感情のコントロールが効かなくなってしまうからです。
その原因のひとつと考えられているのが、フロイト思想の主張である性欲ではなく、幼い頃の母親との負の関係です。つまり、幼い頃母親から「みすてられた」との強迫観念が、情動系回路へ重大な影響を与える器官のひとつである扁桃体(恐怖の倉庫)に刷り込まれ、それがある状況下で、フラッシュバックして思考系回路を混乱させる「感情の爆発」を起すのではないかと考えらているようです。
ひとは、自分の実像を見ることはできません。鏡や写真で見ることができると言っても、それは実像ではなく、虚像です。それと同じに、自分の感情の実体を知ることはできません。
「知る」と言うことは、思考系回路が正常に起動していないとできません。感情が優位となっている時、思考系回路は劣位となります。ですから、感情が激情している時の自分の感情は、言葉では正確には説明できないことは、「言葉で表現できないほど感動しました。」と一般的に表現されています。
では、自分の感情の実体を知ることはできないのでしょうか。
自分の実像を見ることはできませんが、鏡などでその虚像をとおして、実像を推測することは可能であるように、自分の感情の実体を「映す鏡」を利用することで、自分の感情出力パターンを推測することは可能でしょう。
では、その「鏡」とは何なのでしょうか。それは、母親です。「三つ子の魂百までも」と言われているように、ひとの基本人格は、大体三歳位に確立されるようです。その人格に重大な影響を与えた原因のひとつが「母親」です。
ですから、母親の感情出力パターンを観察することで、自分の感情の実体を推測することができるかもしれません。
そのように、親の影響が子供の人格形成に重要な意味を持つことは、心理学者に教えられなくても、昔から、問題行動を起すワルガキに向かって、ばあちゃん達が「まったく、親の顔を見たいもんだょ。」と棄てゼリフを言っています。
そこで、人生ゲームが上手く行かない原因のひとつが、自身の人格の故障かもしれないと思われるなら、母親の感情出力パターンを観察してみることです。
そこで注意が必要なのは、感情は時代と伴に変わることはないのですが、人生の流れの中で、何かのキッカケで悟りを得たりした場合、感情の出力パターンが変化しているかもしれないと言うことです。このことを一般に「年と伴にひとは丸くなる。」と言っています。
感情のエネルギー源は「欲」です。ですから、欲の深いひとは、物凄いエネルギーを内在しているわけですから、感情の放出量も膨大です。所かまわずワンワン泣く赤ん坊などは「欲の塊」と考えることもできるかもしれません。
と言う事は、ひとは、年と伴に「欲」が減少していく傾向にあるようですから、年と伴にひとは丸くなる傾向にあるわけです。
そこで、今現在の丸くなった母親を観察するだけではなく、今を基点として乳幼児時代に接した母親まで時代を遡ってみましょう。その場合、アルバムやビデオなどの映像資料を使うことは優位なことです。その訳は、こころは顔に現われるからです。
何の為に、昔の母親に会いに行くのかと言えば、今現在の「不安感」の原因を探る為です。
人生ゲームを優位に進めるための大きな障壁となるもののひとつが、「不安感」です。「不安感」は、ひとが危険を回避するための危機管理には必要な感情です。しかし、それが度をすぎると、前に進めなくなります。それが嵩じると「引きこもり」の原因となります。つまり、人間関係が上手く行かない原因のひとつが、「不安感」なのです。
その「不安感」の感情を起す原因と考えられているのが、乳幼児期における母親との負の関係です。
「不安感」とは、原因が特定できないため、対処の手段がとれない状態にとどまる事にたいするイラダチの感情です。つまり、感情を放出できない状態です。ですから、「不安感」を起させる原因を見極めることにより、「不安感」を克服する手段が考えられることで、「不安感」から脱出できる可能性を得られるでしょう。
病的な「不安感」の原因のひつとは、乳幼児時代(三歳頃まで)に母親から「みすてられた」と感じたことですが、それは個人個人で異なりますから、記憶を辿る過程でどのような場面がフラッシュバックするかは分りませんが、引きこもりの子供が母親を責めるように、記憶の中で憎むべき状態の母親を感じたとしても、そのことを責めることはできないでしょう。
それは、子供が母親から色々な情報を刷り込まれるのと同じように、その母親もその母親から、同じような情報を刷り込まれているからです。つまり、負の連鎖です。不幸な家庭は皆似通っています。それは、人間関係の粗雑さです。
この負の連鎖を断ち切る方法のひとつは、「不安感」を刷り込んだひとを「うらむ」のではなく、「ゆるす」ことです。
記憶を遡る旅で、「不安感」の原因が特定できたら、それで「不安感」が消えるわけではありません。しかし、何故、病的な「不安感」が生じたのかの原因を知ることで、そして、その原因を作ったひとを「ゆるす」ことで、感情の出力パターンが今までとは異なることにより、今までとは異なる人間関係を築くことができるようになることでしょう。

   「わたし」をコントロールするのは「意識」か「潜在意識」か


人生ゲーム、それにブロカメラマンゲームを優位に進めるために、色々なヒントを今までに述べてきたわけですが、それらのヒントを基にプロカメラマンになるための戦略や戦術を計画したとしても、「計画は破られる為に計画される。」と言われているように、それらを実行することは容易ではないかもしれません。
それは、「わたし」という身体を、「わたし」という概念がコントロールすることが難しいからです。
その難しさを知るためには、「わたし」とは一体誰なのかを知る必要があるでしょう。
概念の「わたし」が、身体の「わたし」を知るのは、おおよそ三歳位からのようです。つまり、基本的人格が形成される頃です。その時期になると、鏡に映る身体の「わたし」は、本物の「わたし」でないことに気付き、鏡の後ろに本物の「わたし」が隠れているのではないかと推測し、鏡の裏を観察するようです。これが、「他人」と「わたし」との概念としての区別の始まりです。
そこで、一般的に考えられていることは、ひとはそれぞれ独立した「わたし」を内包して、「わたし」が「わたし」の行動をコントロールしている、という幻想を信じてしまっていることです。
そこで「わたし」とは誰なのかを知ろうという「欲」が「想像力」の力で、fMRIなどの精密検査機器を発明させた結果、脳の各分野の解明が一段と進み、ブレインマッピングが完成にちかづいてきた現在では、ひとの行動は機械的な仕組みでコントロールされているのではないかとの「思考」が支持されてきているようです。つまり、ひとはプログラミング可能な機械である、ということです。
しかし、そのようにひとの行動が、ドーパミン、セロトニンそしてアドレナリンなどの脳内活性物質などにより機械的にコントロールされていると「科学的」に証明されていても、ひとは、「わたし」の自由意思で「わたし」をコントロールしているという「幻想」を、生得的に刷り込まれてしまっているために、未だに「わたし」が「わたし」をコントロールしている、と信じて疑わないわけです。
この幻想は、「わたし」をして大脳皮質の前頭葉にある思考系回路を駆使して「思考」を展開することにより、無限の「欲」を追求するための「想像力」を発達させてきています。
紀元前四世紀にエピクロスというひとは、「本性が要求する豊かさは限られており、容易に獲得できるが、怠惰な想像が要求するそれは、無限に広がる。」と述べているようです。
ひとの行動は、どうも「欲」を追求する「想像力」に動かされているようです。このことを、十九世紀にジョン・ラスキンというひとが、「世界の需要の四分の三は、ビジョンや理想主義や希望や感情にもとづく空想的なものだ。財布の管理とは、要するに想像力と心の管理なのである。」と述べています。
現代では、ひとの行動の原動力は、「欲」と「想像力」であることが研究され、それは宣伝・広告ビジネスの基本となっています。
広告屋さんは、心理学者と同じに、時代が要求する色々な業界フレーズを発明してきていますが、「ブランドマーケティング」と言ったところで、その基本は、「欲」に火をつけ、「想像力」で煽ることにより、人生ゲームにおいて不必要な物やサービスを購入させ、或はブランドという幻想を刷り込んでいるだけです。ひとの「欲」には、紀元前四世紀も現在も何ら変化はないのです。
この「欲」と「想像力」がひとの行動の原動力であるならば、それらをコントロールするか、或は反対にコントロールされるかでは、人生ゲーム或はプロカメラマンゲームを遂行していく上で、結果は大いに異なることでしょう。
では、どのようにしたら、「欲」や「想像力」をコントロールできるのでしょうか。
ゴルフゲームは、人生ゲームとよく似ていると言われています。それは、両ゲームとも計画どおりに行かない、と言うことです。
そこで、ゴルフゲームにおいて、如何に概念の「わたし」が、身体の「わたし」をコントロールすることが難しいかをみてみましょう。
初めてのゴルフプレーを思い出してください。

生まれて始めてのティショット。ガクガクした膝を抑えようとしても抑えきれずに、パー4のミドルホール。150ヤード程(練習場では軽く200ヤードを飛ばしている。)の右側に横たわる広いバンカー。右にボールが行かないように、「わたし」は左足を開き、身体を左側の広いグリーンに向けます。先輩から教わった「チャー、シュー、メン」のリズムで、思いっきりボールを叩きます。するとボールは勢いよく左側の広いグリーンを目指して飛んでいきます。真っ直ぐ目標に向かっていたのは最初だけ。やがて、ボールは、右旋回してバンカーに着地します。
「何故だ。」と「わたし」は原因を探ります。そのように自問しながら何ホール目かを回っているうちに、「わたし」はあることに気付きます。それは、身体が目標に向かって左に向いていると、ボールは右に曲がりやすく、その反対に、身体が右に向いていると、ボールが左に曲がりやすくなる、ということです。
他のプレーヤーの何倍もボールを打ったことと、「何故だ」の自問でヘトヘトになった大きな池越えの最終ホール。大きな池のことなど考えることもなく無心で振ったクラブは、ナイスショット。終わってみたら最終ホールはパー。「何故だ。」

ゴルフゲームで、「わたし」が「わたし」をコントロールしようとすると、何故に事が上手くいかず、それとは反対に、何も考えないと事が上手くいくのでしょうか。
それは、コース設計者の罠に嵌ってしまっているからです。
何も障害物がない、広い芝生でプレーをしたら、シングルプレーヤもダブルプレーヤもそれほどの差はつかないでしょう。
そのようなゴルフ場は、すぐ倒産してしまうでしょう。面白くないからです。そこで、コース設計者は、ひとの「欲」と「想像力」を刺激するトリックを、木、バンカー、池、白杭、コースのデコボコなどを利用して考え出すのです。
同じコースでも、初心者が見るコースとシングルプレーヤが見るコースとでは大いに異なります。
ひとは、眼を開けば物が見えて、それが何であるかを無意識に認識していますが、その「見る」ということは、多大な脳の働きにより行われているのです。
眼から取り込まれた情報は、網膜に映し出されます。その情報により物事を認識するのであれば、事は簡単です。しかし、ひとが「物を見る」ということは、その網膜に映った情報を更に脳の各分野に伝達し、脳の各分野に格納されている過去の記憶情報などにより、外界の情報は歪められ、或は全く違う情報に創り変えられてしまう場合もあるのです。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花。」
その外界の情報を創り変えてしまう原因のひとつが、「想像力」です。脳の思考系回路は明日を生き残る為の究極の「うそ」、「想像力」を発明しました。脳は、外界からの情報を自分に都合が良いように、自ら想像することで、「わたし」に外界と異なる像を見せてくれます。その反対に、自分に不都合な場合、眼に像として映っていても、「見えない」こともありえます。つまり、「わたし」が見ている外界は、「個人的な世界」(虚構の世界)であるのです。
ですから、場数を踏んだシングルプレーヤは、それだけコース設計者のトリックを情報として入力されているわけですから、初心者と同じコースを見たとしても、脳では同じには見ていないのです。
では、その「欲」や「想像力」で動かされてしまう「わたし」がいない時(無心の時)、ナイスショットをしたのはどうしてなのでしょうか。いったい、誰が「わたし」にナイスショットさせたのでしょうか。
無心とは、意識の無い(「わたし」が存在しない)状態のことです。では、「意識」とは何かと言えば、それは、何かに気付いている状態で、その気付くことの主体は「わたし」です。「意識」は、さまざまな視点を選んで、見るものをある流れに乗せます。その流れに統一を与え、同一視することによりひとつのまとまりを創ります。それが概念となり、そして「わたしの世界」が誕生します。
しかし、それは虚構の世界です。多重人格のひとは、多くの「わたしの世界」を創り出します。
「わたし」は、虚構の世界という不安定な状態に常にいるので、何かをみると、つながりを創り、そして意味を見出そうとします。「わたし」についても、「わたしは何処から来て、何者で、そして何処へ行くのか」をたえず自問しています。その答えを求める潜在要求があるからこそ「完全なひとや理論」を求めるためその帰結として、いつの時代でも時代のニーズを満たす新興宗教ビジネスやブランドビジネスが成立つのです。
「意識」は、「わたし」をして、外界の情報に対処するために、色々な行動を起させます。しかし、ゴルフゲームからも分るように、行動を起させるのは、「意識」だけではないようです。
ひとの思考や感情、或は日常で体験するあらゆる感覚は、脳の神経細胞であるニューロンが発する電気信号の相互交信により引き起こされています。その電気信号の流れは、沢山の波紋を産み出しては消えていきます。「わたし」は、その波紋の大きなものだけを「意識」し、残りは「無意識」の活動として処理されているようです。
では、「無心」と「無意識」とは同じことなのでしょうか。
「無心」とは、物事に対峙した時、こころのなかに「わたしの世界」(想像力による架空の世界)を創造せず、そのままの外界情報と交流する状態です。武道の世界では、「無心」とは相手の身体の部分的動作に囚われるのではなく、相手の「気」全体に対応する状態のことです。
「無意識」とは、物事に対峙した時、「わたし」が何らかの都合で、その物事を認識できない状態です。
と言うことは、両者の根本的違いは、「無心」の時は「わたし」は存在しませんが、「無意識」の場合は「わたし」は存在しています。
では、「わたし」が存在しない「無心」の時、誰が身体である「わたし」をコントロールしているのでしょうか。
概念としての「わたし」が存在しない乳幼児でも、外界の情報に素早く反応し、そしてそれに対処する行動を起します。その状態は、「無意識」ではなく、「無心」の状態に当て嵌まるかもしれません。
ひとの行動は、二つに分けられます。随意と不随意とです。つまり、「意識」でコントロールできる行動と、「意識」してもコントロールできない行動です。
では、「意識」でコントロールできない行動は、誰がコントロールしているのでしょうか。
「意識」は、脳の大脳皮質の各分野のネットワークをコントロールするために創りだされたものです。その大脳皮質の働きをバッアップしているものが、脳幹と小脳(爬虫類の脳)と大脳辺縁系(哺乳類の脳)です。
脳幹と小脳は、身体をコントロールする器官で、大脳辺縁系は外界の情報に素早く対処するために、「感情」というエネルギーの素を創りだす器官です。ですから、爬虫類には「感情」は存在しませんが、哺乳類には「感情」が存在します。
大脳皮質の各分業分野との連携をとるために「意識」を創りだしたのと同じように、大脳辺縁系も各臓器器官との連携をとるために「イシキ」を創りだしたようです。それは、「潜在意識」(一般的には「本能」とよばれている。)と呼ばれるものです。
物の本には、「無意識」と「潜在意識」とを混同して解説しているものもあるようですが、以上で述べたように、それは違います。「無意識」には「わたし」が存在しますか゜、「潜在意識」には「わたし」は存在しないからです。
大脳辺縁系は別名、「情動系回路」と言われているところで、その主な働きは、今を生き残る為です。今を生き残ることが、「潜在意識」の主な使命なのです。
「潜在意識」は「哺乳類の意識」ですが、言葉を理解し、利用できないため、「わたし」は存在しません。「わたし」は「意識」により発明された概念だからです。
「意識」による行動のコントロールは、言葉により可能ですが、言葉を道具として利用できない「潜在意識」に働きかけるにはどのようにしたら良いのでしょうか。
ひとが思い巡らす方法は二つあります。ひとつは「言葉」を道具として構築する「理論」で、もうひとつが「イメージ」です。「イメージ」を創るには言葉は必要ではありません。
他の人に自分のイメージを伝えるには、言葉と映像があります。映像は、言葉よりも多くの情報を内在させています。
映像は、「潜在意識」にメッセージを伝える重要な手段なのです。これを利用(悪用)した宣伝・広告手段が、「サブリミナル」テクニックです。
自分の世界に異質な情報が潜入しないように働く意識が認知できない数十分の一秒で、映像を流すことにより、「潜在意識」にダイレクトに任意の情報を刷り込むことにより、任意の行動を起させる意図で行なうのです。そのように、広告業界は、「潜在意識」に任意の情報を刷り込む作業を「TV・映画」等で日夜行なっているのです。
「潜在意識」は、「欲」をコントロール下に置いています。「欲」は、行動の起爆剤です。 ひとが行動を起すには、「欲」の力が必要です。その力を増幅するには「想像力」が有効です。
「欲」は「情動系回路」により創りだされます。それに対して、「想像力」は「思考系回路」により創りだされます。
「情動系回路」は「潜在意識」にコントロールされています。それに対して、「思考系回路」は「意識」にコントロールされています。
では、「わたし」を人生ゲーム或はプロカメラマンゲームの目標に向かってコントロールするには、「意識」と「潜在意識」をどのように扱ったら良いのでしょうか。
ひとに行動を起させるのは、「欲」と「想像力」であるならば、その二つをコントロールする技術を修得すれば、「わたし」は人生ゲーム或はプロカメラマンゲームにおいて優位に進んでいけるわけです。そこで、「欲」と「想像力」はどのようにして喚起されるのかを考えてみましょう。
「欲」と「想像力」とは、お互いに影響し合い、その力を無限に増幅させていきますが、それらは、それぞれ別の系にあるようです。
簡単に述べれば、「欲」←「情動系回路」←「潜在意識」←「イメージ」←「こころ」の系と、「想像力」←「思考系回路」←「意識」←「言葉」←「わたし」、となるでしょう。「欲」と「想像力」とは、その発生系が異なるのです。そして、「欲」は「こころ」に現われます。「想像力」は「わたし」に夢を見させます。
この「こころ」と「わたし」の系がお互いに影響し合い、人生の場面場面で、それぞれの情報を交換し合い、色々な問題を解決していくわけです。
しかし、人生の道程で、色々なトラブルを解決できないことがあるのは、その「こころ」と「わたし」が上手くバランスが取れていないのが原因のひとつです。
問題解決ができないひとの多くは、「こころ」は「わたし」がコントロールできる、或は、「こころ」は「わたし」のコントロール下にあると思い込んでいるからです。
「こころ」についての定義は、今だ確定していないのは、心理学辞典にその定義が明確にされていないことからも理解できるでしょう。
でも、実際問題として、「こころ」の働きは、「わたし」ではコントロールすることが難しく、その為日常の行動に大いに影響していることは、心理学者でなくても、誰でも気付いていることです。「こころ」の働きの「憎しみ」、「妬み」、「恨み」そして「嫉妬」等などの人生においてのマイナスのエネルギー源を「わたし」がコントロールできたとしたら、人生はバラ色となることでしょう。しかし、実際はその逆のようです。
この「こころ」は、「こころ内にあれば色外にあらわる」と言われるように正直者です。しかし、「わたし」は「米国の大統領や英国の首相」のように嘘つきです。
この「正直者」(「こころ」)と「嘘つき」(「わたし」)を、どのようにしたら仲良くさせることができるのでしょうか。
「こころ」と「わたし」とは同じではないことは、ひとの「こころ」についての個体差を「性格」と言い、それに対して「わたし」の個体差については「人格」と言うことからも理解できるでしょう。
「性格」とは、ひとの「こころ」を身体表現したものです。その「性格」は、遺伝情報を基本に生活環境情報により創られたものです。
「人格」とは、遺伝情報よりも生得的な情報を基に、そのひとの人生の道程における、「家柄」、「学歴」、「職歴」などの情報を材料として創造されたものです。
ですから、「性格」は遺伝情報が基本なので変化し難いけれども、「人格」は生得的に与えられた情報なので変化し易いのです。
ゴルフゲームが面白いのは、「立派な人格者」が、ゲームの途中で林の奥深くボールを打ち込んで困難に陥ってしまった時に、地の「性格」が現われて「セコイこと」を行なうことがよくあるからです。それは、全く人生ゲームと同じです。「立派な人格者」イコール「立派な性格者」ではありません。
そこで困るのですが、「人格」は「言葉」を駆使する「意識」の系にあるわけで、そのことにより物事を「わたし」に都合の良いほうに解釈する傾向があるからです。本当は、「人格」は、「性格」の上に乗っかっているものなのに、「わたし」は、「人格」が「性格」をコントロールしていると誤解し、信じてしまっているのです。
人生ゲームでの問題を解決できない多くのひとの傾向として、「人格」を「性格」よりも優位に考えるか、或は「人格」と「性格」を同じものだと考えてしまうことです。
そのことにより、「人格」は「言葉」を利用して「わたし」に都合の良い「理論」を展開することで、あらゆる問題は解決できると信じているわけです。しかし、それですべての問題は解決するわけではありません。言葉で問題解決できるのは、「人格」上のものだけです。「性格」は、「こころ」の問題で、「こころ」は「言葉」を理解できません。
例えば、文章があるとします。文法上、または語彙が正確に綴られていたとしても、それにより「こころ」を感動させることはできないかもしれません。それに対して、文法上、または言葉遣いが間違っている稚拙な詩が、ひとの「こころ」の琴線を振るわすことは実際にありえることです。
では、人生ゲームあるいはプロカメラマンゲームで困難な問題に直面してしまった場合、「こころ」と「わたし」を仲良くさせるにはどのような方法があるのでしょうか。
ひとの複雑な身体機構をコントロールしていることを表す言葉があります。それは、「ホメオスタシス」です。ホメオスタシスとは、体温、体内の酸素濃度、身体のペーハーなどを自動的にコントロールすることを表す概念です。
この概念は、西洋医学では身体だけに適用できるものと考えられているようですが、東洋では「こころ」と「わたし」とをコントロールするために昔からある概念です。
それは、「こころ」と「わたし」とをコントロールするものは、東洋では「良心」と呼ばれているものです。「良心」とは、利己に偏らない判断のことです。それに対して、「わたし」だけに都合よく「こころ」と「わたし」とをコントロールしようとすることは「私心」と呼ばれています。
ですから、昔のひとは、物事に直面した時、「我れに私心あるやなしや」と、「こころ」と「わたし」に問、その問題解決の判断としたのです。
では、どのようにしたら、「良心」の基により「こころ」と「わたし」に問い、その結果により正しい問題解決の行動を起せるのでしょうか。
行動を起させるには、「欲」と「想像力」が必要です。その二つに問いかけるには、どのような方法があるのかは、宣伝・広告テクニックにヒントがあるようです。
宣伝・広告の基本道具として、クライアントの望む任意の行動を起させるには、「キャッチコピー」と「ビジュアル」とがあります。
キャッチコピーは、任意の行動を思考系回路に訴求します。それに対して、ビジュアルは、イメージとして情動系回路に訴求します。
それらの二つの道具により、ひとの二つの異なる回路に同時に働きかける例は、ポスターに見られます。広告・宣伝の手段としてのキャッチコピーとビジュアルにより構成されたポスターは、潜在顧客に対して任意の行動を喚起させる基本技術なのです。
この技術の源は宗教ビジネスです。それは、「プロパガンダ」と言われ、プロテスタントの布教(宣伝・広告)活動を揶揄したカソリックが発明した言葉です。
この世に、キリスト者は一人しかいません。仏教徒も一人しかいません。ひとりは十字架の上で、そして、もうひとりは流離の旅路で昇天してしまっています。それら二人は人間であるわけですが、プロパガンダ(キャッチコピーとしての経典とビジュアルとしてのイコン)により、二人は神と仏にされてしまったのです。もし、二人がこの世に再来したとしたら、現在のその二つの宗教における立派な法衣と伽藍による活動儀式を見て言うでしょう。「これはいったい何と言う宗教なのですか。」
優れたキャッチコピーとビジュアルを、思考系回路と情動系回路に同時に刷り込まれてしまえば、「うそ」も真実となり、唯の人間も神・仏に変身してしまうのです。
では、その技術を、人生ゲームあるいはプロカメラマンゲームで応用するにはどのようにしたらよいのでしょうか。
まず、目標地点に辿り着いた状況を想像することです。お金持ちが目標だったら、具体的なイメージを、目標がブロカメラマンだとしたら、どのようなプロカメラマンとして活躍しているかのイメージを具体的に想像するのです。想像が固まったら、それらを簡潔に表現する短い文章を考えるのです。それがキャッチコピーです。そして、その場面を象徴する画像を創作するのです。それがビジュアルです。それらの二つの道具を利用することにより、それぞれのゲーム目標に導く道が拓けるのです。
しかし、それらの道具を二つの回路に刷り込むには、もうひとつのハードルを越える必要があります。それは、「常識」と言う壁です。
常識とはひとが日常生活する上で、必要な情報と思われているようですが、角度を変えて見れば、常識を持つということは、思考停止状態にいる、と言うことができるかもしれません。
つまり、常識とは、その時代における社会での議論の余地のない情報のことです。ですから、その常識に対して疑問を持つことは、その社会に敵対することになりかねません。だからと言って、常識が常に正しいとは言えません。
ヴァン・モリソンが言いました。「心で考え、頭で感じるようになれば、世界はまったく新しいものに見えて、何が本物かわかるだろう。」
こころは正直です。こころは自然現象を観察し、なにも脚色なしにそのままのことを感じます。それに対して、頭は色々な情報を集め、それらを分析し、推測しそして新しい物語を創作します。
自然現象を観察し、その時代の常識に疑問を持つたひとが1564年イタリアに現われました。彼の名は、ガリレオ・ガリレイ。自ら制作した望遠鏡で天体を観察することにより、コペルニクスの地動説を説明し、地球が動いていることを発表してしまったのです。その時代では、地球の周りを太陽が回っていることが「常識」でした。
コペルニクスの「天球回転論」は、1543年に出版されましたが、ローマ・カソリック教会は、その理論を暦の計算を簡単にする為の道具であり、数学的な仮説であると考え出版を許可したようです。
その地動説の理論が出版される4年前、キリスト教原理主義者でカソリックと敵対するプロテスタントの旗手マルチン・ルターは、「聖書で、ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽であって、地球ではない。」と言って、地動説を批判しました。それに対して、ローマ・カソリック教会は、1633年にガリレオを宗教裁判にかけました。
カソリックもプロテスタントも、虚構の聖書の世界が正しと信じてしまって、地球が太陽の周りを回っていることを認めたのは、1980年に法王ヨハネス=パウロ2世なってからのことです。
何故キリスト教信者は、そのように実際の世界ではなく虚構の世界に楽しく暮らせたかというと、ヨハネの福音書の冒頭の「はじめに言葉ありき」の呪文に洗脳されてしまい、数百年も思考停止していたからかもしれません。
言葉(ロゴス)は、「わたし」の道具で、「うそ」の素です。それに対して、自然(こころ)は「うそ」はつけません。
人生ゲームやプロカメラマンゲームにおいて、ゴルフゲームにおけるバンカーや池などのような障害物が目の前に現われると、前に進むことが躊躇されてしまうでしょう。そこで、障害物を克服し前に進むエネルギーを得る為に、キャッチフレーズとビジュアルの力により、想像力を利用して欲を増大させようと思考系回路と情動系回路に刷り込みを行なおうと試みても、「意識」という門番が、現状の虚構世界の秩序を守ろうと、その情報の刷り込みを拒否することでしょう。
この「意識」の門番は、思考停止させるか、混乱させるかにより、任務遂行はできないようです。
思考を停止させるには、特殊な修行や宗教ビジネスのように大規模な仕掛けと膨大な時間が必要です。しかし、意識を混乱させることは、短時間にできます。
その「意識」を混乱させて呪文を刷り込む宣伝・広告技術は、毎晩見ているTVCFでその例を見ることができます。その技術とは、意識では考えられないような場面や想像力を越えるビジュアルを提示することです。そのように通常の意識では判断できない状態に意識を持ち込んでしまえば、意識は混乱し、呪文は簡単にふたつの回路に刷り込まれてしまいます。呪文が刷り込まれてしまえば、後は、無意識にその呪文どおりの行動を示すことでしょう。
そのように、一般のひとが広告屋さんの刷り込み技術を真似をすることは、できないこともないけれども、莫大な費用と時間とアイデアが必要です。ですから、ひとの意識が混乱する場面を他に考えてみることです。そのひとつが、ピンチの時です。精神的・肉体的にビンチの時は、意識も混乱しています。その時が、刷り込みのチャンスなのです。「ビンチはチャンス」とは、このことを言っているのです。
さて、障害物としての「常識」のひとつとして、「よーく考えて計画し、そして行動すればすべての問題は解決する。」と言う思考があります。その常識を信じてしまったひとは、問題解決のために色々な情報を集めることでしょう。しかし、それで問題が解決できれば万々歳です。しかし、実際は、考えれば考えるほど解決から遠ざかって行くのは何故でしょう。
それは、「こころ」のことを考えていないからです。
「わたし」と言う身体は、「こころ」と概念としての「わたし」によりコントロールされています。概念としての「わたし」は言葉を道具として「思考」ができます。「思考」は条件を変えることによりあらゆる理論を展開できます。
しかし、「こころ」は言葉を道具として使えません。外界の情報を、唯、好きか嫌いかを感じるだけです。その感じた情報を概念としての「わたし」に伝えることは直接できません。一旦、意識により言葉に変換して、やっと概念の「わたし」に伝えることができるのです。その「わたし」が「こころ」を感じた状態のことを「気持ち」と言っています。
「気」とは、「こころ」の言葉です。この「気」に気付くことが、身体のバランスをとるには必要だし、その「気」を無視して、言葉により身体の「わたし」をコントロールしようとしても、いつかは無理がきてしまうでしょう。なぜならば、「気」は身体の言葉でもあるからです。
良く練られた計画も、実行に移せなかったり、計画の途中で挫折してしまうのは、「こころ」と「わたし」のバランスがとれていなかったのが原因のひとつだったのです。
では、バランスがとれていないと感じ、その状態を是正したいと思うひとには、どのような方法があるのでしょうか。
明治時代の教育は、富国強兵のスローガンの基、こころを育てるのではなく、知識の詰め込みに傾いていました。先進諸国の最先端の情報を、思考回路をフル回転させて刷り込みをさせていたわけです。国が貧しく、そこから脱出するには、その方法は最善ではないにしても、必要な教育だったのでしょう。
しかし、現在では、明治時代の貧しさはどこを見渡しても見つからないでしょう。それなのに、現在の学校でも、こころの豊かさを育む音楽や美術よりも、数学、理科などの思考系回路を駆使する学科を優位だと考えて刷り込み学習をしているでしょう。
一般でも、生活に潤いを与える情動系回路が創りだす音楽や美術よりも、思考系回路の訓練に多くの時間を割く傾向があるでしょう。
そのように、教育現場や家庭でも「こころ」のことを訓練することを考えもしないし、その必要もないと思っているのでしょう。こころの専門家が利用する心理学辞典にも、「こころ」についての学術的情報もないほどです。
しかし、身体である「わたし」は、概念としての「わたし」と「こころ」とによりコントロールされているのです。その概念としての「わたし」は、明日を生き残る為に言葉を駆使することにより、あらゆる理論を展開することにより、時代の流れに沿って物質世界の扉を開き、物質文化を創り上げました。
でも、今を生き残る為の情動系回路による「こころ」は、時代の流れと伴に進化していません。古典文学を現在でも理解できるのもそのためです。
物質文明の現代では、「わたし」と「こころ」のバランスは危険状態と言ってもいいかもしれません。一寸したキッカケにより、簡単にバランスが崩れる可能性が大です。
身体の恒常性がバランスを崩すと病気になります。その原因のひとつに「こころ」があります。「こころ」は情動系回路により創られ、その情動系回路である大脳辺縁系は、身体をコントロールしている脳幹と小脳に、感情の素であるエネルギーを送っているからです。ですから、「こころ」のバランスが崩れると、食欲不振、不眠、下痢の症状が現われることでしょう。
では、快食快眠快便でないひとは、どのような方法でバランスを回復できるのでしょうか。
「こころ」は大脳辺縁系つまり「哺乳類の脳」にあるわけですから、哺乳類の生き方にそのヒントが見つかるはずです。
野生の哺乳類は自然を相手に生活をしています。それに比べて、ひとはどうでしょう。自然を克服(逆らって)することにより、日常生活に便利なものを発明してきました。そのひとつに電気があります。この電気により、ひとの生活サイクルに狂いが生じてしまいました。ひとの体内時計は約25時間サイクルのようです。その25時間は、電気が発明される前までは、野生の哺乳類と同じに太陽の運行に管理されていました。しかし、現代ではどうでしょう。商業主義の享楽のために、自然に逆らって、寝る間を惜しんで活動(?)しています。
睡眠は、ただ眠るだけではなく、身体の修復の時間であり、又、脳における昼間の情報整理の時間でもあるわけです。ですから、自然に逆らって、睡眠時間を極端に減らすことは、「体」と「こころ」に悪影響を与えるわけです。
ひと昔前、「書をすてて街に出よう。」と言ったひとがいましたが、「わたし」と「こころ」のバランスを回復させる方法のひとつは、「書をすてて(思考することを止めて)自然に帰ろう。」です。
ひとは、矛盾する存在です。「意識」は想像力により色々な人工物を発明して自然を破壊してきていますが、「こころ」は昔も今も自然の一部なのです。

終章


何処から来て、何者で、何処へ行くのか


街を歩けば、カメラを持ったひとが多く見受けられます。でも、よくそれらのカメラを観察すると、二種類のカメラが存在しているのを実感できるでしょう。
昭和の時代でしたら、カメラの主流は銀塩カメラです。しかし、平成の時代になりデジカメの驚異的な進化で、今や銀塩カメラはレトロとなり、実用機ではなくカメラコレクションの対象になりつつあります。
コンピュータチップは日に日に極小となり、昭和の時代では考えられないような製品を次々発明しています。カメラ付携帯電話などは、デジカメ中級機並の200万画素を出現させ、更に進化を遂げつつあります。時間を切り取り映像として記録するカメラの機能や概念も、今や昔の面影も薄れつつあるのが現在です。
そのように撮影機材が変革をしつつある現在で、映像を記録する仕事は、どのように変化していくのでしょうか。撮影機材の流れから推測すれば、撮影の技術に関しては、プロとアマの垣根はどんどん低くなっていくことは間違いありません。写真を撮影するということにおいては、誰でもプロカメラマンになれるのが時代の流れでしょう。と言うことは、逆に考えれば、これからはプロカメラマンを職業として日々の生業を稼ぐことは難しい時代となることでしょう。
テクノロジーの発達は、一面ではひとびとに幸福をもたらしますが、そのテクノロジーにより駆逐された仕事に従事していたひと達にとっては不幸をもたらします。これからは、プロカメラマンという職業も、テクノロジーの変革で激変していくことでしょう。
そもそも、日本にプロカメラマンとしての職業が成立したのは、明治の時代からです。百数十年前にはなかった職業なのですから。
では、これから先はどうなるかと尋ねられても、誰もはっきりとは答えることはできないでしょう。でも、時代の流れから一歩外れたとこから眺めてみれば、未来がかすかに見えるかもしれません。
消費文化の流れが早やすぎて、新製品の操作に慣れた時には、その製品よりも性能がよく且つ安い新製品が発売されるのが現在です。このことは、製品だけではなくあらゆることにも言えるでしょう。歌手の名前と曲を一致させることができた時には、もう新人歌手の登場です。それは、芸能プロダクションが生き残りの為、芸能学校を運営したことにより、その卒業生を次々とデビューさせる必要があるからです。
消費文化は利潤や効率を重視します。そのため、使える物まで棄てさせます。ひとも同様で、一流企業でも三十歳台で早期退職勧告です。そのような見識のない行いをするこの国は、一体どのようになっていくのでしょうか。
その結果が、今流行っているのは、宗教、占い、カウンセリング、精神安定剤発売の製薬企業、癒し系業等、こころの問題に関係するビジネスです。
こころの病は時代を反映するようです。だからと言って、昔はよかったと言うこともできません。小説「草枕」で「とかくこの世は住み難い。」と言った明治の文豪夏目漱石は、先進国である西洋からもたらされた哲学思考「我レ思フ故ニ我アリ」の「自我」という呪文に惑わされ、思考の無限の渦巻きに取り込まれ「うつ病」となり、行き着いた先が禅の世界の「則天去私」(他力本願?)です。
夏目漱石も、江戸時代の実践的思想家二宮尊徳の単純な二元論ではない「天道(他力本願)と人道(自力本願)」の考え方を実生活に取り入れていたら、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。」と癇癪を起こさず胃潰瘍にもならなかったかもしれません。
ひとの「こころ」は自然です。自然はひとの力ではコントロールすることはできません。ですから、人生で気に食わないことがたとえ起こったとしても、自然の声に耳を傾け、決して逆らわずに、人道を尽くし好機がくるまで辛抱強く待つだけです。
しかし、ひとの大脳新皮質により創造された「自我」(思い込みにより意思が固まったもの)は自然ではありません。その自我に内在する「意思(方向性を持つた意識)」はひとがコントロールすることは可能です。だからと言って、同じ脳の機能のひとつである「こころ」を、「意思」の力ではコントロールすることができないことは、「天道と人道」の考え方を理解しているひとには説明することもないでしょう。
しかし、明治維新後に輸入された、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」、そして、世界や物事を「天国と地獄」、「神と悪魔」の二つに単純に分ける、ユダヤ・キリスト教を信奉する西洋文化は、神である言葉による科学的思考(哲学)により分析すれば自然も克服できると信じているようです。しかし、実際の世界では、「初めに自然があった。その後に言葉が発明された。言葉はウソの始まりであった。」、つまり、言葉では自然は克服できないわけです。
西洋文化崇拝の明治時代に輸入された西洋哲学思考により、「こころ」をセルフコントロールできないひとは一人前の大人ではない、と今では世間一般のひとも信じているようです。その思考(言葉は神であった。)の行き着く先が、カウンセリングルームでないことを祈ります。
では、時代の流れが読めず、その結果「こころ」が不安定な状態に陥ってしまったひとには、どのような脱出方法があるのでしょうか。
前節で、思考回路の混乱からの脱出方法のヒントとして、哺乳類の生き方に学ぶことを述べました。それは、ひとの思考の基である大脳新皮質をバックアップしている大脳辺縁系は、哺乳類の脳であるからです。
それと同様に、「こころ」が何らかのトラブルを起しているのなら、爬虫類の生き方に学ぶことです。それは、大脳辺縁系をバックアップしている小脳と脳幹は、爬虫類の脳だからです。現在、亀やトカゲなど爬虫類のペットが癒しの目的で静かなブームとなっているのは、そのためかもしれません。
ひとの脳は三重層になっていて、爬虫類の脳(小脳と脳幹=本能)の上に、哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)があり、その上にひとの脳(大脳新皮質=わたし)が乗っかっているわけです。下の基礎土台(本能)がしっかりしていないと、上モノ(こころ→わたし)も安定しません。
「わたし」と言う意識が創造した概念は、言葉を巧みに加工して、明日を生き残るため色々なウソを無意識についてしまいますが、もの言わぬ「こころ」は、そのウソを全て見抜いています。そこで、そのウソの許容限度を越えてしまうと、「わたし」に気付かせるため「こころが痛み」、小脳と脳幹から身体に色々な信号(食欲不振・不眠・下痢)を送るわけです。
「わたし」が「わたし」に、ウソをついていることに気付いたひとは、自分探しの旅に出るようです。旅に出るとは、今までの時間的・空間的系を断ち切ることを意味します。つまり、過去の記憶情報の破棄が、自分探しの旅の目的のひとつです。つまり、旅に出ることにより生まれ変わりたいのです。
では、旅に出れば、過去の記憶情報は簡単に消えるのでしょうか。
旅に出れば、確かに意識に変化を与えます。それにより、今までの自分を忘れることはできるでしょう。しかし、それは一時的なものです。
通常のありふれた情報は、意識が意識外のものとして処理するため、そのような情報は、脳が「見ても見ないこと」にしてしまうからです。ですから、一日を振り返っても、一時記憶の保管所の海馬には記号としての情報が蓄積されていないため、何もない怠惰な一日であったと意識(わたし)が認識するわけです。
それに対して、日常の住み慣れた場所から、未知の場所への移動である旅は、希望と緊張の連続です。一秒先に何が起こるかは予想できません。意識は、常にON状態です。ですから、空気の微かな香りや風のささやきにも敏感に反応します。旅先の何もかもが新鮮だから、それらは海馬に記憶されます。ですから、旅先の一日は、日常の怠惰な一日と比べれば、長く感じられるわけです。そのような、意識の一時的変化は、旅に出なくても経験できます。その方法は、今履いている靴底を五センチ高くすれば、見慣れた街角も新鮮に見えることでしょう。
でも、それらの素晴らしい記憶も、旅先から帰り日常生活をニ三日もすれば、その素晴らしさも日に日に薄らいでいくことでしょう。
今の状態のままで旅に出たところで、旅先で死に直面するようなアクシデントにでも遭遇しない限り、自分の意識も変わらないし、自分探しもできない可能性もあります。それは、外界の情報は、そのまま脳に刷り込まれることではないことを理解しているひとには、その説明も必要ないでしょう。
脳の思考系回路は、自分に都合のよいように勝手に外界を認識させてくれます。ですから、その思考系回路を換えない限り、たとえ未知の世界に旅だっても、情報としては記憶に残っても、新しい情報で今までの情報を消すことなどはできないでしょう。思考系回路を換えることなしには、自分を変えるような旅にはならないし、自分を探すこともできないでしょう。
では、思考系回路は換えることはできるのでしょうか。
科学時代の現在でも、多くのひとは宗教ビジネスの良きお得意様であるわけです。それは、紛れもないご利益があるからです。では、その宗教の教義や儀式そのものが、お得意様にご利益を与えているかといえば、そうとも言えません。そのご利益を与える基本がなければ、宗教ビジネスは成立たないのです。その基本とは、「信仰心」です。
「信仰心」と言えば、宗教ビジネスの独占物だと理解しているひとが多くいるようですが、「信仰心」は、宗教には関係なく誰にでも内在しているものです。「信仰心」の源は、「しがみつく」ことです。赤子が、自らの生命を守るために、無心で「母親」にしがみつくことが、信仰心の始まりです。
理工系の利発な学生が宗教資料(マタイによる福音書と法華経)を科学的に分析して、キリストの奇跡とブッダの奇跡がソックリだということや、聖書に書かれているように男から女が創造されたのではないことは、男の染色体のYは女の染色体のXから変化したことなどの矛盾をついて宗教の非科学性を蔑視して、「私は、神など信じません。信仰心もありません。」などと言うようですが、その学生は、自分が「科学」にしがみついて(科学を信仰して)いることに気付いていないだけです。
無宗教者でも、ひとは、何かにしがみついていないと生きられない動物です。あるひとは「お金」に、あるひとは「家柄、学歴、職歴」に、又あるひとは「思想」(「宗教は麻薬だ。」と言ったマルクスは、共産主義にしがみついていた。)にと。
自分探しの旅をしているひとは、多分、今までの信仰の対象が崩壊し、新しい信仰の対象が見つからない状態にいるのでしょう。信仰の対象が見つかれば、自分が何者か分るかも知れません。つまり、自分とは、信仰心の上に創造された虚構概念なのかもしれません。(もしかしたら自分とは、チルチルミチルの青い鳥かもしれません。)
信仰心は、思考系回路を変えることはできないけれども、意識に何らかの変化を与えることは現実にありえます。
では、何にしがみつくかは、そのひとの生き方の問題で、百人いれば百通りの信仰対象があるわけです。では、どのようにしたら、信仰対象が見つかるのでしょうか。その方法のひとつは、全てのものを「こころで考え、頭で感じる。」ことです。
「こころで考える。」とは、比喩です。こころは動物的直感で、ものごとを判断します。その特徴は、言葉を理解できないことです。ですから、人為的に言葉で創られたものは無視します。それらの無視する対象は、ブランドと言うレッテルです。人物を評価する時、そのひとの行いだけを対象とし、家柄、学歴、職歴を無視することです。書物を読む時は、誰が書いたかを無視することです。勿論、聖書を読む時は、神様が書いたなどの呪文は無視することです。
「頭で感じる。」とは、本来の頭(大脳新皮質)の働きは物事を細分化して分析して推測することですが、過去の情報を基に理論展開をすることを中止して、現在の在りのままを見ることです。感じることは、過去や未来ではなく、今現在しかできません。過去や未来ではなく、今現在のことだけを見ることで、今までとは何かが違って見えるはずです。
そのように、「こころで考え、頭で感じる。」ことにより、この世で何が本物で、誰が偽者(対象としては政治家や経済学者が最適)かが分ることでしょう。
そのような視点を換えた物事の捉え方をすると、今まで信じていた色々なことに疑問が生じてくることでしょう。そのひとつに、「自分自身」があります。「自分の事は、自分がよく知っている。」と信じているひとが多くいるようです。でもそれは、本当なのでしょうか。もしそうであるのなら、この世の悩みの大部分は、存在できないかもしれません。「悩み」とは、答えの出ない状態のことです。その悩む主体は「自分」です。もし、自分自身のことを良く知っているのなら、ある問題に直面した場合、自分の行くべき方向など簡単に結論を出すことができるでしょう。何故ならば、自分自身に対する問題の答えを出すのは、自分自身しかありえないからです。
そこで、答えが出せず自分自身が分らなくなってしまったひとは自問するわけです。「わたしは何処から来て、何者で、何処へ行くのか。」と。
その疑問は、ひとが言葉を発明した大昔からあるようです。まず最初に、その疑問に答えたひとがいました。そのひとは、その答えを求めて瞑想に耽り悟りを開き、ひとつの答えを出しました、それは、「神が人間を創造し、罪深きは人間で、この世で神の僕となり良き行いをしたひとは天国に旅立つ。」、という物語です。
やがて、その物語に疑問を持ったひとが出てきました。そのひとは、言葉を駆使して客観的思考をし、色々な道具を発明して、観察や実験を繰り返して結論を出しました。「150億年前のビックバーンにより物質の基が宇宙に拡散し、その原子が集まり分子となり、それらの分子が集合して蛋白質となり、そこから生物が発生し、五六百万年前に類人猿が出現し、その流れから人類は進化して人間となった。人間は考える葦である。そして心臓と脳機能が停止すると唯の物質に戻る。」、というストーリです。
もし、全能の神が、自分に似せて人間を創造したのなら、何故に不完全な人間を創ったのか。そして、神は全能なら、全世界を七日で創造したのなら、何故に天国と地獄があるのか。
もし、ビックバーンが宇宙の始まりなら、その前はどのような状態だったのか、科学は解明していない。科学が、全てのことを客観的理論で説明できるのなら、「こころ」はどこにあるのか、そしてそのメカニズムはどのようになっているのかを解明していない。
前者の物語は、分り易く「こころ」に感じるのだけれども、科学的には納得できません。後者のストーリは、理論的に納得できても、温かさがなく「こころ」に響きません。
その疑問に対する「こころ」と「頭」を同時に納得させる完璧な答えを出すには、まだしばらくの時間が必要なようです。
でも、ひとの欲と想像力の結果、脳の機能が徐々に解明されつつある現在、ひとは何者であるかは解明されつつあるようです。その思考のひとつとして、「ひとはプログラミング可能な機械である。」ということです。
もしそうであるのならば、人生の迷路に入り込んでしまったひとが、そこから抜け出せるヒントが手に入るかもしれません。

出発は「こころ」の自立から


この本のテーマは、プロカメラマンになるためのヒントを述べることでした。エレクトロニクスの驚異的な進歩により、写真を写す技術はコンピュータが「ひとの勘」の代替わりをし、誰でも簡単に写真を綺麗に写せるのが現在です。プロカメラマンのアマとの差別化は、撮影においては難しくなっています。アマとの差別化のプロカメラマンに残された最後の武器は、「ものの見方と考え方」だけです。それは、ひとのメカニズムを侵食し万能に思えるコンピュータでも、その分野までは、まだ開発されていないからです。
そのために、内なる世界(脳内のこと)と外なる世界(世間・歴史)の裏側からの見方を提示したわけです。その提示の仕方も思いつくままに書き殴ったため、脱線をして何を目的の記述か理解不能の箇所が多々あったかと反省しております。
さて、限られた人生で、目標に到達するためには、無駄な努力をしないことです。無駄な努力をしなければ、それだけ目標に向けてエネルギーを最大限に放出できるからです。しかし、日常の出来事を振り返れば、かなりのエネルギーロスを実感できることでしょう。その多くは、無駄と思われる思考をすることです。つまり、解決のつかないどうしようもないことに思い悩むことです。
悩む結果、目標に向けて進んでいけるのであれば、それも可です。でも、実際は悩むことで人生の限られた時間をロスするのが大部分でしょう。
そこで、その悩みから脱出する目的で、カウンセリングや宗教ビジネスなど色々な事を試すわけですが、それらで解決がつけば万万歳です。でも、そこで解決がつかないひとは、生まれ変わることを願望する傾向があるようです。つまり、変身願望です。
この変身願望は、悩める大人だけではなく、小さな子供にも強くあるようです。少年向け漫画の根性物語(修行物語)やそのものスバリの平凡な子供が超人に変身するストーリなどは、子供の潜在変身願望に向けての訴求でしょう。
細胞からみれば、身体は一年を過ぎれば、変身しているのです。身体の細胞は毎日毎日新陳代謝をして、一年も過ぎれば全く新しい細胞に変身しているのです。そのように、「身体」は時間が経てば変身しているのに、何故に「意識」は変化しないのでしょうか。
悩んでいるひとの中には、何十年も前のことを未だに悩んでいるひとも珍しくはないようです。そのシツコイ悩みから開放される方法のひとつは、脳の一時記憶保持器官である海馬の機能を停止させることですが、そうなれば過去の記憶を呼び起こすことができないため「わたし」が誰なのかも分らなくなってしまいます。
では、悩みから開放される方法はないのでしょうか。
そこで、先人の智恵を拝借することは、賢い方法です。悩みについての二宮尊徳の考え方をみてみましょう。
尊徳は、事を天道と人道とに分けて考えます。例えば、庭先に柿木があるとします。柿木は自然の摂理で秋になれば実をつけ、冬に向けて葉を落とします。落葉は毎日毎日積もります。しかし、庭先の落葉を放っておくのは人道ではありません。人道で落葉を掃除しても、次の日にはまた落葉は積もります。それは天道だから仕方ありません。その落葉にこころを煩わしこころを労して、一葉落ちたからといって、箒を持ってきて掃除をすることは、ゴミに使われていることになります。賢いことではありません。
では、どのような仕方があるのでしょうか。そこで尊徳の考えによれば、落葉が積もるのは天道だから、人道をもって毎朝一度は掃除をすること。掃除の後、また落葉が積もっても、それは放っておくこと。何故ならば、無心の落葉(物)にひとが使われるのは愚かなことだ、毎朝一度掃除をすることが人道である。それで善しとする。
この考え方を応用すれば、悩む対象が、もし、天道の範疇であれば、人道を試みても上手く行かないのであればキッパリと「あきらめる」ことが大切だ。何故ならば、天道は自然で、人道は不自然だから。つまり、人道は天道に随うのが「自然」だから。
自然は、ひとにはコントロールすることはできません。コントロールできない事を思い悩むことは賢いことではありません。それには、「仕方が無い」と「あきらめる」ことも悩みを解決するひとつの方法です。
しかし、無限の「うそ」を創造する思考系回路は、あらゆる解決方法を思考するわけですが、ひとはひとが解決できる問題しか解決することができません。
ひとの思い悩む基本は、「生老病死」と言われています。
「生」とは生きることで、生きることにおいての悩みは色々ですが、その悩みの多くは経済的なもののようです。その経済的悩みが解決できたひとは、次に生きることの意味について悩むようです。
「老」とは老いることです。ひとはこの世に生まれた時から、老化が始まっています。このことは、神様でも止めることはできません。
「病」とは病気のことです。この世に健康なひとなどひとりもいません。不規則な生活を続ければ、誰でも病人の予備軍なのです。
「死」とは死ぬことです。これはいつお迎えが来るかわかりませんが、ひとは一度しか死ぬことができません。
尊徳的「天道と人道」とにより「生老病死」を考えれば、悩みの多くは解決できるかもしれません。
「生」についての経済的問題の解決方法のひとつは、分限を知ることです。分限とは、自分の収支の経済状態を知ることです。そして、収入の八割で暮らす智恵を持つことです。一月百万円の収入のひとは、八十万円で、十万円の収入のひとは、八万円で暮らすことです。そして、余りの二割を貯蓄し、無収入でも三年間暮らせるだけの資産を作ることで、経済的悩みから開放されることでしょう。これらのことは全て人道です。
生きる意味についての悩みは、答えの出ない問題のようです。未だに、納得できる答えにめぐり合っていません。もしかしたら、これは天道の範疇のものかもしれません。もし、そうだとしたら、答えが出ないのは「仕方が無い」と「あきらめる」こともひとつの方法かもしれません。
「老」は天道ですから、悩んでも解決できないでしょう。素直に受け入れるしか方法はないでしょう。
「病」は天道と人道に係わります。規則正しく暮らすのが病気から遠ざかる方法です。もしも、病気になってしまったら、自然治癒力の天道に委ねることもひとつの方法です。
「死」は天道ですから、いつお迎えが来てもいいように、常に心の準備をしておく以外に方法はないでしょう。
基本的に悩みの根底にあるものは「欲」です。「欲」が満たされれば、悩みは解決します。何故ならば、「欲」は行動の起爆剤ですから、その「欲」が満たされて消滅してしまえば、「悩む」と言う行動自体も消滅してしまうからです。
それでは、多くの悩みが消えないのは何故でしょう。
「欲」には、大きく分けて二つあります。ひとつは、「本性が求める」もので、もうひとつは思考系回路が創りだす「想像力が求める」ものです。
本性が求める「欲」は、生得的にプログラミングされているもので、それらの基本は食欲・性欲・睡眠欲です。これらの「欲」は、満たされてしまえば直に消滅してしまいます。
しかし、想像力が創りだす「欲望」は、無限の増殖力があります。ですから、いつまでも満たされることができないため、悩みもいつまでも消滅することができないのです。
では、その「欲望」をコントロールする方法はないのでしょうか。
「欲」と「欲望」とはどこが異なるのかと言えば、基本的には、「欲」は「本性のプログラム」により作動することです。それに対して、「欲望」は「わたし」が想像力で「欲」のエネルギーを増大させることです。
「本性のプログラム」を「わたし」がコントロールすることはできませんが、「わたしの想像力」を「わたし」がコントロールすることは可能です。
「わたし」が「わたしの想像力」をコントロールすることが可能だということは、「欲望」を喚起させる技術をビジネスとしている企業が存在していることでも証明できるでしょう。それは広告代理店です。広告代理店の「おしごと」は、クライアントの望む売上を達成させるための戦略と戦術を実行することです。
その「おしごと」の基本は、潜在顧客の眠れる「欲望」に火を点けることです。
ひとは、自分の意志で自分をコントロールしていると言う幻想を信じ込んでいるようですが、ひとが行動するパターンは決まっているようです。その法則とは広告業界では、「アイドマの法則」と呼んでいます。
アイドマ(AIDMA)とは、A=Attention(注目)、I=Interest(興味)、D=Desire(欲求)、M=Memory(記憶)、A=Action(行動)の頭文字です。
ひとに行動を起させるには、注目→興味→欲求→記憶→行動、の手順が必要になるわけです。
この一連の流れの中で、最も重要なことは「記憶」です。ひとは自分の意志で行動していると信じているようですが、自分の意志で行動しているのは、一日でもほんのわずかな時間でしかありません。大部分の時間は、「記憶」された情報を基に行動しているのです。
ですから、優秀なアドマンは、クライアントに依頼された任意の情報を「記憶」させるために、色々なトリックを駆使するわけです。
注目→興味→欲求を喚起させるのは簡単です。それは、ひとの「本性の欲」である、食欲(御馳走)、性欲(魅力的な異性)、睡眠欲(安らぎ)の情報を提供すれば、一般のひとは、注目→興味→欲求の流れに乗せることができるでしょう。
しかし、「記憶」させるには一工夫が必要です。広告業界で一般的に使われるその技術は、「感染魔術」です。「感染魔術」とは、ある物に、ある者が触れると、その者の影響力が感染すると言う「錯覚」です。その技術例として、あるイメージを持ったタレントが宣伝物を持ってのニッコリポスターを挙げることができるでしょう。
そのような宣伝技術で、任意の情報を刷り込まれて「記憶」として保持されてしまえば、あとは「行動」あるのみです。そうして、日常生活に不必要なブランドと言うガラクタが押入れに詰め込まれ続けていくわけです。
さて、以上の説明で、「欲望」をコントロールするヒントが理解できましたでしょうか。
「欲望」をコントロールするには、想像力をコントロールすることです。その想像力は、今までに刷り込まされてきた情報を基に創造されるのです。
例えば、ユダヤ・キリスト教原理主義者に、夢枕に「ブッダ」を立たせることはできないでしょう。その逆に、仏教原理主義者に「アブラハムの神」を夢枕に立たせることなどできるはずはないのです。つまり、刷り込まれていない情報は、ひとには想像することもできないからです。
ですから、「欲望」をコントロールするには、今までの自分に不都合な「記憶」を消去し、新たに、不健康な実現不可能な情報を避け、自分に望ましい実現可能な情報を自分に刷り込むことです。
しかし、一度刷り込まれた「情報」は「記憶」として保持されてしまえば、簡単には消去することはできないでしょう。
例えば、上野の森の西郷隆盛の銅像にある顔は、本物の西郷隆盛ではないようです。除幕式で奥方が銅像の顔を見て、「これは西郷ではナカ。」と言ったことは有名な話です。しかし、何を目的かは分りませんが、学校の歴史教科書などにはドングリ目玉のあの西郷ドンの顔(ウソの情報)が、今でも堂々と掲載されています。これまでに刷り込まれた西郷ドンの顔が「ウソ」だと分ったからと言っても、一度刷り込まれてしまった情報である西郷ドンの顔(ウソの情報)の「記憶」を消すことは困難であることが分るでしょう。
では、「記憶」は消すことが困難なら、どのように対処すれば良いかと言えば、今までの刷り込まされた記憶情報以上に、新しい自分に相応しい情報を、「他人に頼らず」、自分が自分に不都合な記憶が気にならなくなるまで刷り込み続けることです。このことが、こころを自立させる出発点になるのです。

神輿の黙示録(1)(日本人とは何者か)


人生ゲーム或はプロカメラマンゲームを進めていく上で、それらのゲームを行なうフィールドについて調べておかなければならないことがあります。
見知らぬ国を旅する場合でも、予めそれらの国の実状や歴史などを調べて、情報として保持していれば、これからの旅もし易くなるし、楽しくもなるわけです。
そこで、ゲームのフィールドとしては色々考えられますが、ここでは日本について考えてみることにしましょう。そう言っても、学校で日本について社会科や歴史の教科で学習したから、今更調べる必要などない、と思っているひともいることでしょう。
しかし、学校等で学習した情報は、庶民(王権の子孫ではないひと。王権の子孫は嫡民。)にとって本当に正しいものなのでしょうか。
二十一世紀に入り、軍事大国米国は、イラクを先制攻撃しフセイン政権を打倒しました。勝利宣言をしたブシュジュニァは、記者会見で、新生イラク統治の疑問を発した記者に対して、「百五十年前の日本の統治のように上手くいく。」と自信ありげに答えました。
百五十年前?
勉強があまり得意ではなかったブシュジュニァのことだから、太平洋戦争後の日本統治の五十年前を、百年多く言い間違えたのだろとの新聞記事が掲載されたものです。
本当に新聞記事の言うように単なる言い間違えなのでしょうか。百五十年前と言えば、丁度「明治維新」の頃です。
エール大学の秘密結社スカル&ボーンの結社員であるブシュジュニァは、明治維新の闇の部分を知っていたからの発言ではなかったのでしょうか。
闇の世界に興味のあるひと達が囁いていることがあります。
日本国の旧五千円札と米国の一ドル紙幣を用意して下さい。まず、五千円札の裏にある逆さ富士を眺めてください。一般的常識では、湖面は鏡と同じで、対象物はシンメトリーとなって映し出されるはずです。五千円札を逆さにして湖面に映る富士山を眺めて下さい。それは富士山に見えますか。あるひとが言いました。それはシナイ山だ。
日本国の経済の血液である紙幣に、外国の山がサブリミナルで掲載されている、と言うひともいます。
紙幣が国の経済の血液であれば、政治の骨格は国会議事堂でしょう。国会議事堂と言えば、あの独特の屋根を思い浮かべるでしょう。では、あの屋根を設計したひとは誰なのでしょうか。それが分らないのです。百年も経っていないのに、誰があの屋根を設計したのか分らないのです。でも、設計公募により採用されたデザインによれば、その屋根はドームであったのです。誰かが何かの目的で、屋根のデザインをドームからピラミッドに変更したわけです。ピラミッドは王家の墓場です。そこで、米国一ドル紙幣の裏を見てください。そこには、上部に目があるピラミッドがあります。このピラミッドは、世界的ネットワークを持つ結社のマークと言われています。
五千円札を発行しているのは株式会社日本銀行です。その株の三十八%保有しているところがあります。それはイングランド銀行だと言われています。株式投資を行なっているひとなら分ると思いますが、ある会社の株の四十%を保有していれば、その会社は連結決算の対象となり、一般的には、その会社は「子会社」と呼ばれています。
時代の夜明と言われている、「明治維新」の闇の世界で一体何があったのでしょうか。
この国には確かに闇の部分があるようです。その闇は、庶民に対して陰湿なイジメの基のように感じられます。そのイジメの戦略は、「夷をもって夷を制す。」と言う中華主義そのもののようです。それは、その王権も庶民も四世紀から七世紀の間に、中国大陸や朝鮮半島から渡来した民族だからのようです。つまり、中華式統制は、「八色の姓」でひとの貴賎を差別し、「新撰姓氏録」で出自の差別をするという制度的で、北面するキタナイ庶民がキタナイ庶民をイジメルのを南面する嫡民が遠くで眺める図式です。
これは中華思想によるもので、王権にあって「君子は南面す。」であり、王城の北に位置し、南面することを許されざる者=北に座所をもてない者が、「北無し」つまり、「ヨゴレモノ」で王権傘下のひとでない者であるわけです。大乗仏教と供に中華思想が侵略してくる前の「倭国」(シャーマニズムの世界。巫女(女)が神とコンタクトする女尊男卑の母系社会。呪術カラー赤色。)では神の位置は東西であったのが、倭国改め七世紀に「日本国」(ヒンズー教化した仏教の世界。僧侶(男)が仏とコンタクトする男尊女卑の父系社会。呪術カラー金色。)となってからは神の位置は南北になっている。北は夷(えびす)の棲む蝦夷の国であるのです。
そして、そのイジメの図式(王権にまつろわぬ者→キタナキ者→ヨゴレ者→穢れ者→エンガチョ)は、現在では普通の小学校や普通の会社でよくみられるようです。そのイジメのカラクリを知るには、日本国の歴史を別の角度(庶民側・敗者側)から眺めることです。そして、その闇の扉を開けるヒントは、お祭りの神輿にあるようです。そこで、神輿について調べることにより、この国の闇の部分に、微かではあるけれども光を投じてみることにしましょう。
この国で出世を望むなら、「本音と建前」のテクニックを修得しておく必要があります。出世とは、「ハレ」の場に出ることで、それは高貴な公家衆の前にかしこまることです。庶民の前ではなく、公人や殿上人の前に出ることが「ハレ」で、このことを「世に出る」、つまり、この国での「出世」と言われている本当の意味です。
「本音と建前」とは、本質を言えば、「本当とウソ」のことです。この国では、「ハレ」の場では「本音」はタブーで、「建前」で話さないと「出世」できないのです。
今のように時間潰しの色々な遊技がない頃の日本国では、子供達の楽しみのひとつは秋祭りでした。子供の頃から不思議に思っていたことがありました。それは、祭りでの神輿のことです。威勢よく街路をワッセワッセと練り歩く神輿に向かって、見物人が「水」や「塩」を撒いていたのです。誰かが歌っていた祭りの歌の歌詞の中で、「景気をつけろ、水撒いておくれ、塩撒いておくれ、ワッショイワッショイ、ソレソレソレお祭りだぁ。」というのがありました。しかし、子供の頃の神輿の思い出は、景気付けのための「水」や「塩」ではないように感じていたものでした。
神社へ行くと、本殿の裏にみすぼらしく今にも朽ち果てそうな祠がありました。そのような配置は、あらゆる神社で目撃することができました。本殿の裏の湿気の多い場所にいる神様は一体誰なのか、疑問に思っていたものです。
神輿が日本の記録に現われるのは、天平勝宝四年(752年)奈良の大仏(大ビルシャナ仏=太陽の神)建立にあたり、宇佐八幡を勧請する祭聖武帝の常輿のほうれんをもって代行した時とされています。
宇佐八幡が神輿の日本国におけるルーツだとしたら、その神輿に祭られている神様は誰なのでしょうか。現在の宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后そして宗像の三姫神と言われていますが、それは「建前」で、「本音」は、延喜式(905年から927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯(たらし)姫神、姫神の三神とあるそうです。
では、宇佐八幡の意味はどのようなものかと言えば、宇佐氏とは海部出身で「ウサ」とは「スサ」即ち産鉄民族系の意味で、それが基で地名となったようです。これは、京都の山背の「太秦」と同じで、「うず」とは「宇豆」(偉大、尊いなどの意味)で、「まさ」は「勝」で「すぐり」つまり、朝鮮の「村長」の意味です。ですから「太秦」とは、秦氏一族の勝(すぐり)の偉大な統領が住んだ地を表しているわけです。
では、八幡とは何を意味しているのでしょうか。八幡は「はちまん」ではなく、古名では「やはた」です。「八」は末に広がる多さを表し、「幡」は「秦」を表し、「八幡」とは秦一族か栄えることを願う意味です。更に、「幡」は「秦」で、「秦氏」は「新羅」からの渡来者です。すなわち、八幡の神は朝鮮半島から渡来した外来神であるわけです。
新羅の呪術カラーは白です。鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じ、源氏の旗を「白」とし、守護神を八幡神としたのもそのためなのです。
八幡神社は全国に約二万四千あるそうです。日本国で一番多いのは稲荷社で約三万五千と言われています。「稲荷」も「夷なり」で、渡来神のようです。(その頃の中央にいた大乗仏教も渡来神です。日本国の神の多くは渡来神です。)
この新羅の神は、七世紀に日本国を金ピカの「大乗仏教」をバックに支配した百済系氏族により中央から追い落とされていくわけです。
童歌(こどもの歌ではなく、闘いに破れたひとたち、つまり、王権から子ども扱いされたひとたちの哀歌)の「とうりゃんせ」がこのことをよく表しています。
「とうりゃんせ、とうりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっととおしてくだしゃんせ。ご用のない者とうしゃせぬ。行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ。」
この童歌からも分るように、王権から庶民に落とされたひとたちは、自分達の氏神様にもおいそれとはお参りもできなかったようです。
童謡の歌詞の「建前」ではなく「本音」を知ると、思わずゾッとするものが多くあるのは、庶民が「ハレ」の場所から、湿っけの多い場所「け」に追い落とされた怨念が込められているからでしょうか。
では、新羅や百済とはどのような民族なのでしょうか。それらの民族は元々朝鮮半島に居たわけではなく、新羅(騎馬系民族。太陽「ラー」を信仰。「白」を民族カラーとする。)は西アジアから陸路で半島に辿り着き、百済(海洋系民族。海照「アマテル」を信仰。「赤」を民族カラーとする。)はインド周辺から海路で半島に辿り着いたようです。
倭国は元々海洋民族(ワダツミ)で、北九州と朝鮮半島南部がテリトリーであったので、663年の白村江の闘いでは、倭軍は百済と同盟し、唐・新羅軍と闘い敗れるわけです。そして、倭国は670年には中国の歴史から消滅し、それに替わって「日本国」が現われるわけです。
朝鮮半島での百済国は滅亡しても、コロニーである日本国内の百済系氏族は健在です。白村江の闘いで勝利した唐軍が日本列島に侵攻してくるから、国内の華僑や出自が異なる民族が団結して、倭国王家の基に「日本国」が創られた、というのが歴史的通説のようですが、果たして「本音」はどうなのでしょうか。
七世紀に新生「日本国」が誕生し「近江律令」(668年)などで政治制度が変わったからと言って、民族の血の流れが変わるわけではありません。この国には、「赤」「白」「金」それに「黒」を民族カラーとする集団が存在しているのです。「黒」は、「黒幕」と言えば、事件の背後にいる表にでないひとのことを言うように、正体不明の民族です。
新生日本国が誕生する背景には、仏教による神への勝利があります。激しい戦いの後、神は生き残るため仏の軍門に下り、本地垂迹説が展開されるわけです。神は本来の「血による祭儀」を殺生禁止の仏教に否定され、「火による祭儀」に変化させられていくわけです。
「血による祭儀」とは、祟りを静める儀式であるわけで、仏教によりその儀式が否定されても、その儀式は違う形で生き延びていくわけです。それが宿神であるわけです。神と交流し彷徨える魂(祟り)を静める「宿神」には三つあります。それらは、部落の宿神、能の宿神そして天皇の宿神です。
当時の先進国中国大陸での宗教の始まりは、母系氏族社会において、生き残るために氏族の結束を目的に、日常生活における問題点を解決するためのひとつの手段として自然発生したものです。その信仰(しがみ付く)対象として、自然崇拝、トーテム崇拝、天神崇拝、祖先崇拝などですが、母系社会制度の中で最も特徴的なのは女性崇拝です。女性特有の感情の激しさ、その逆の優しさは、まさに自然そのものです。
その母系氏族の生き方の中から、道家、道教そして神仙の学が現われてくるわけです。
氏族が小規模の部落として暮らしているならば、自然を崇拝しそれに従っていればよかったものが、人口の増加で暮らしのために自然を克服する必要性が生じてくるわけです。そのひとつが、農地の確保のための治水事業です。その治水事業とは、自然に闘いを挑むことになるのです。そこで力の強いものが、氏族を統率することになるのです。それがやがて父系氏族を生み、そして父権家長制の階級社会へと移行していくわけです。
自然に随う母系氏族を源とする道家、道教そして神仙学から、自然に挑戦する父系氏族から厳しい刑法や繁雑な礼儀などにより統制を行なう宗法礼教が確立され、女尊男卑の世界から、男尊女卑の世界と変化し、その流れから儒教が現われるわけです。 そのような宗教の変革の流れが、後進国である日本列島に渡来人達により断続的にもたらされるわけです。
そして、日本国が誕生する前に渡来した神(仏)が大乗仏教というわけです。しかし、その仏教も何かの闇があるようです。
宗教とはひとにとって何なのでしょうか。
宗教は、一方ではひとびとの苦難を救うための手段でもあるわけですが、もう一方ではひとびととの争いの基(宗教戦争)や差別の基にもなるわけです。そのような、宗教の本質は一体何なのでしょうか。
宗教を別の見方から考えれば、それは、日常生活における行動の規範を決める「教え」を無条件に信じることです。このことは、王権側にとっては、最大の武器となるのです。つまり、武力を使うこともなしに庶民を思いのままにコントロールすることができるからです。
日本国での律令制下では、仏教は鎮護国家のための武器でした。その時代の「穢れ」とは、国家の秩序を乱す者のことでした。しかし、平安末期に仏教が民衆に広がっていくと、その「穢れ」の思想が、「不具者・ライ病者」への差別に変化してしまうわけです。その差別の原因のひとつが、「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

大乗仏教の布教により、この「法華経」の「業の思想」が一般民衆に浸透すると日常生活の規範として「不具者・ライ病者」が、律令国家では「穢れ者」ではなかったものが、平安末期(藤原氏の時代)には「穢れ者」になってしまうわけです。ここにこの国における「穢多」の差別の芽生えがあるわけです。
「穢」の意味には本来は「ケガレ」の意味はなかったようです。穢の本来の意味は、「神をまつる。」ということです。「穢」から稲の意味の禾偏を除いた「歳」は年、祭そして祀と同じに「神をまつる」という意味です。しかし、その祭る方法がことなるのです。「歳」は犠牲を用い、それに対して「年」は舞によりまつるのです。
では、日本国に渡来した「仏教」とはそもそも何なのでしょうか。その日本国に渡来した仏教の闇をかすかに照らす光は、弥勒菩薩にあるようです。 弥勒菩薩とは何かと言えば、「建前」では、釈迦牟尼世尊(釈迦族の福徳ある聖者=ブッダ)に次いでブッダ(悟った人或は目覚めた人)になると約束された菩薩(悟りを求めて修行する人)で、兜率天(とそつてん)に住し、釈尊(釈迦牟尼世尊の略)入滅後、56億7千万年後にこの世に下生して、竜華三会により衆生をことごとく済度するという未来仏ということになっています。しかし、「本音」を言えば、弥勒菩薩とはインドでは「マイトレーヤ」と言われ、実はミトラ教の神様なのです。
宗教に興味がないひとも、キリストの誕生日を知っているでしょう。その12月25日(クリスマスの日と言われている。)は、実はミトラの誕生祭の日なのです。
世界的宗教であるユダヤ・キリスト教と大乗仏教に影響を与えている「ミトラ教」とは一体何なのでしょうか。
ミトラ教の起源は、古代メソポタミアに遡れます。ミトラ教は太陽を崇拝し、牡牛を犠牲に捧げる祭儀を持ち、太陽の死と再生の分岐点である冬至はミトラ誕生に相応しい日としているのです。
この冬至の死と再生復活の儀式は、時空を越えて、日本の天皇家の皇位継承である大嘗祭(太陽崇拝の新羅系の第二代天皇の天武天皇が初めてこの儀式を行ったと言われている。第一代天皇の天智天皇は百済系。)に影響を与えています。「建前」では、大嘗祭は収穫祭ということになっているようですが、「本音」は新たに位につかれた天皇が、皇祖天照大神の寝床の枕もとで、神様に食事をさしあげる儀式で、天皇が一代で一度だけ執り行う、亡くなられた天皇が新たに再生するという儀式のようです。もし、単なる収穫祭なら何故「秋」に行わないのでしょうか。陰暦の11月の上巳は冬のまんなか(冬至)の月、つまり「冬」であるわけです。
太陽を崇拝し、牡牛の犠牲を捧げるミトラ教の特徴のひとつは、救世主(メシア)思想と結びついていることです。この思想は苦難にある民衆を惹きつける力が強いため、ミトラ教の思想はあらゆる宗教に取り入れられていくわけです。
古ミトラ教では、三人の神(アフラ・ミトラ・アバムナバート)を崇拝していたのが、拝火教のゾロアスター教(古ミトラ教から分離)により、善神アフラマズダと悪神アーリマンの二元論になっていくわけです。この二元論が、天国(極楽)と地獄の思想を創り出して行くわけです。しかし、三人の神の三原論は、ユダヤ・キリスト教(父と子と聖霊)や日本の神社(三者祭)に受け継がれていくのです。
ローマ帝国での布教を成功させたミトラ教も、新興宗教であるユダヤ・キリスト教がユスティニアス帝と結びつくことにより、311年にユダヤ・キリスト教の寛容令が出ることにより、その組織はユダヤ・キリスト教徒達により地上から抹殺されていくわけです。そして、ミトラ教に替わって、392年にユダヤ・キリスト教はローマの国教となるわけです。ここに西方におけるミトラ教は歴史から消え去るのです。
しかし、東に向かったミトラ教は、時の勢力のある宗教組織の内部に入り込むことにより生き延びていくわけです。
ミトラ教の特徴を整理すると、太陽崇拝、牡牛を犠牲とする祭儀、救世主思想、秘教占星術、イニシエーションの密儀、七つの位階、そして火による密儀等です。
東に向かったミトラ教は、紀元前五世紀にインド(シャカ国)でゴーダマ・シッダルタに出会うのです。
ブッダと言えば、宗教にあまり興味がないひとは、ひとりしか存在していないと思っているかもしれませんが、ブッダとは、「モーセ」と同じに、固有名詞ではなく一般名詞なのです。ですから、ブッタは複数人いたわけで、ゴーダマ・シッダルタ=ブッダだけではないのです。
釈尊(釈迦牟尼ブッダ=釈迦族の聖者であるブッダ=ゴーダマ・シッダルタ)以前にもブッダは六人居たらしのです。さらにブッダは如来(修行を完成したひと)とか阿羅漢(尊敬に値するひと)などとも呼ばれていたようです。
釈尊がブッダになるために、以下のような真理を悟ったと言われています。「幸福とは、聖なる真理を見ること、聞くこと、そして一人心の内に安らぎを体得することである。幸福とはこの世の情と欲とを乗り越えることである。自我意識を乗り越えることこそ、間違いなく最大の幸福である。」
釈尊はその教えを書き残してはいません。では何故その教えが今日まで知られているかと言えば、それは愛弟子のアーナンダが釈尊の教えを全て暗記していたからと言われています。その教えの基本は、八正道にあると言われています。
八正道とは、正見(正しい見解)、正思(正しい決意)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい想念)そして正定(正しい瞑想)の八つの教えです。
当時のインドでは、カースト制度に胡座をかいた儀式偏重の上流階級に向けられた宗教でバラモン達(聖職者階級)が幅を利かせていました。そのような社会では、生活に困窮している非征服者の下層階級のひとたちは、誰でも理解でき実行できる釈尊の教えに救いを求めることは自然の流れです。
暗黒の霊的遺産の管理者を辞任し、神との交信をするための複雑な儀式を考案し独占するバラモン達が説く世界は、人間の魂の奥底の本性である個我(アートマン)は、絶対者(ブラフマン)の不変の本性と同一であるというわけです。しかし、釈尊は永遠不変の自我という考え方を受け入れず、存在は不断の変転と苦悩の中にあると説くわけです。そして、「自我」の真の存在を否定し、「無我」を説いたのです。
その「教え」はやがてひとびとに受け入れられ、裕福な商人のスポンサーが現われ「祇園精舎」ができるわけです。時代と供に釈尊の集団は膨れ上がり釈尊入滅後にはその教えの解釈の違いから、釈尊入滅後四百年して、仏教教団は大分裂するわけです。それは大乗仏教と小乗仏教と呼ばれています。
大乗仏教は、すべてのひとの中に「ブッダとなるための種子」が存在しているから、さまざまな救いの道があると説き、解脱の核心は、憐れみと普遍の愛の実践に基ずいて、生けるものの全てに対して無限の共感を抱くことにある、そして、他者を救うことが必要であるとするわけです。
それに対して、小乗仏教は、一切の観念的思弁を嫌い、現世と人間の苦悩を現実のものとして見て、修行僧として生きることによってのみ救われると説くわけです。
この二つに分裂した教団の思想の違いが、やがて教団の運命を決めるわけです。一般大衆への仏教布教という拡大路線は、権力者の支配権拡大と同じベクトルを持っていることになるのです。つまり、大乗仏教は、時の権力者が庶民をコントロール(統治)する武器として利用されていくわけです
仏教教団が二つに分裂する前の紀元前三世紀ガンターラ地方を支配した第三代アショカ王は仏教に帰依することにより、軍事拡大路線から統治へと政治を変えるための手段として仏教を利用しています。
大乗仏教は、一世紀以降、バビロニア、ペルシャそしてギリシャの西洋文化と交易により接触していたガンダーラ地方で発達を遂げるわけですが、そこで考えられないことが起こるのです。それは、仏像の出現です。
釈尊の存命中のインドでは、魑魅魍魎の宗教世界があり、呪術が現実のものと信じられていたようです。そこで、釈尊は入滅後呪術を掛けられないように仏像を作ることを戒めていたようです。ですから、釈尊入滅後での礼拝対象は、遺骨、仏塔そして菩提樹であったようです。
仏像が作成されたのはカンダーラ説とマトゥラ説のふたつがあるようですが、本々インドには三次元の像を作る文化はなかったので、当然その像はギリシャ的な立体像であるわけです。
では何故仏像を作る必要があったのでしょうか。
宗教の宿命として、信者達の願望に迎合しなければならないことがあります。それは、信者達の願望を満たさないと、その宗教自身が成立たなくなるからです。ですから、僧侶が新天地で布教活動を成功させるには、その土地の土着の神のイメージを取り入れなければならないわけです。
宗教とは、どのような組織でも、その基本は教祖の「教え」を信者に刷り込むことです。その刷り込みの手段も、ひとの脳の構造に合わせて変成してきたようです。 ひとの脳は、爬虫類の脳(脳幹・小脳=いのち)→哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)→ひとの脳(大脳皮質=思い)を積み重ねているわけです。爬虫類の脳と哺乳類の脳は言葉を理解できません。これらの脳に働きかけるには、音と動作です。それに対してひとの脳は言葉を理解できます。
そこで、宗教のプロパガンダの手段として、まず音と動作を駆使した「呪術」が開発され、その後、ひとの言葉の発達に合わせ「経典」によるプロパガンダが開発されて行くわけです。
小アジアのボアズキョイで見つかった紀元前1400年前のヒッタイト王たちに関係する楔形文字の契約文書には、古代インドで崇拝されていた神々の名前が記されています。それらは、ミトラ、ヴァルナ、インドラ、ナサティアスなどです。
呪術は経典ほどの伝播力がありません。それは、ひとを介さないと伝播することができないからです。しかし、文字で書かれた経典は、時空を越えて伝播していきます。
ひとは「呪術」でも「経典」でも、一度刷り込まれた情報はなかなか消去することができません。このことは、旧約聖書「出エジプト記」にみることができるでしょう。
シナイ山(五千円札の裏にある逆さ富士)に登ったモーセは四十日四十夜その山に篭りました。そこで、モーセの帰りが遅いので民はとんでもないことをするのです。
出エジプト記第三十二章の七
主はモーセに言われた。「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と言っている」。
聖書研究家によれば、旧約聖書は長い年月をかけて創作された物語の寄せ集めのようですが、最も古いものでも紀元前八百五十年以降ということです。その古い書物の内容でも紀元前九三ニ年に死んだソロモン王の前後の物語のようで、その物語も驚くほど短いものだったようです。そして、モーセ五書といわれる物語が今日のように纏め上げられたのが、紀元前五五十年ごろから紀元前四五十年ぐらいの間のようです。
紀元前八百年から紀元前二百年までの時代は、思想史において輝ける時代のようです。今日の思想の根底は、その時代に大いに影響されているどころか、全く同じと言えるほどです。 それらの思想家としては、釈迦牟尼ブッダ、孔子、老子、プラトン、ソクラテス、ゾロアスター、エリア、エレミアなどです。これらの人達は、万物は根本的に二つの領域に分けられる、と考えたようです。それらは、「主観と客観」、「精神と物質」、「心と体」などです。そして、「本来の人間は、肉体に繋がれ、肉体に覆い隠され、欲望に捕らわれ、自己自身をぼんやりとしか意識せず、開放と救済を求めているが、しかしこの世界の中において解放と救済を手にできるものである。」とそれらの思想家は皆同じ結論を出したようです。
思想家とは、言葉を駆使してイメージを創造するひとです。この思想家がこの世に出現した時期が、呪術独占の世界が崩壊するターニンク゜ポイントなのです。ここから「呪術」と「経典」の長い闘いが始まるのです。
呪術と経典はどちらとも、神ではなくひとが発明したものですが、発明するのに使用する脳の回路が異なるようです。呪術は情動系回路(爬虫類の脳と哺乳類の脳)で、経典は思考系回路(ひとの脳)により発明されたようです。ですから、呪術は「いのち」と「こころ」に響きます。それに対して、経典は「思い」に語りかけます。
情動系回路は今を生き延びるために作動する回路です。それに対して、思考系回路は明日を生き延びるために作動する回路です。ですから、呪術と経典との場(時空)は異なるのです。呪術は今目の前に起こっている現象をコントロールするための技術です。それに対して、経典は思考することにより問題の解決を、現在から過去或は未来に求めることが可能です。それは、俗に言う「方便」(ウソのこと)ということです。
そのような異なるバックグラウンドを持つ呪術と経典が争った場合、呪術は不利です。呪術は戦う場が現在の今しかないからです。問題解決の為の技術が成功しなければ、その呪術は瞬時に抹殺されていまうわけです。しかし、経典はたとえ現在の今の問題が解決できなくても、思考することにより(ウソを考えることにより)解決の場を過去や未来に振り向けることが可能です。
呪術より有利な闘いをする経典は、問題解決の場を現在だけではなく過去や未来にと駆使することで、苦悩するひとびとを惹きつけていくのです。しかし、時間の流れの考え方の違いにより、その経典も変化いていくわけです。メソポタミアから西に向かうほど、時間の流れは一方向を目指していくようです。
西に向かった時間の流れにのった経典は、救世主思想を秘めた三神の古ミトラ教は、拝火教のゾロアスター教により善悪二神となり、更にユダヤ・キリスト教により一神教へ変化していくわけです。
しかし、東に向かった時間の流れは、インドで円を描くのです。それが、輪廻・転生の思想です。インド文明はこの輪廻・転生に基づいているわけですから、仏教でもジャイナ教(釈尊の良きライバル)でもヒンズー教でも、西に向かった排他的な他の一切の神を認めない一神教と異なり、あらゆる異教の神をも取り入れる要素を持っているわけです。
インドでジャイナ教やヒンズー教と共存していた仏教も十一世紀にイスラム軍がインドに侵入してくると、釈迦牟尼ブッダはヒンズー教の中でヴィシュヌ神の化身として崇拝されていくわけです。ここでインドでの仏教は消滅するわけです。しかし、ジャイナ教は今日まで細々と存続しています。
権力者・宗教教団と同じベクトルを持った集団が現われるのです。それは国際交易商人です。商人は新しい市場を求めて世界を流離います。未知の国の市場開拓には、その国の情報を手に入れる必要があります。その情報入手先に打って付けの組織があります。それが宗教教団です。
宗教教団の活動は物的破壊をすることもないので、困窮するひとびとを救う「教え」の布教を目的に未知の国に、商人と比べれば比較的入り込みやすいのです。そこで、宗教教団と国際交易商人との利害は一致します。例えば、ユダヤ・キリスト教の布教国と国際交易商人の市場開拓地がオーバーラップしているのはそのためです。「僧侶→商人→軍隊→植民地化」、この流れはインドやインドネシアの歴史の流れそのものです。
仏教はインドを経由して更に東の中国を目指しました。
前漢の武帝(紀元前140年〜紀元前78年)が「シルクロード」を開いたと言われています。そして、西国の商人達は、その中国の絹を求めてシルクロードを旅したわけです。その中に仏教もありました。
世間では中国四千年と言われていますが、その実体は、漢民族が四千年を統治していたわけではありません。中国の地には、満州人、モンゴル人、中国人、チベット人そしてイスラム人などの異民族が、昔も今も存在しているのです。
その異民族支配を基に中国を区分すると、秦・漢の中国、随・唐・宋(遊牧民族の鮮卑人が支配)の中国、明(漢人が支配)の中国そして中華民国・中華人民共和国の中国の四つの中国が歴史上存在していたのです。では、「元」や「清」は何かと言えば、元はモンゴル人によるモンゴル帝国であり、そして清は満州人による満州帝国であったわけです。と言う訳で、中国四千年は「建前」であるわけです。
インドで仏教と出合ったミトラ教は、輪廻・転生の思想に飲み込まれ仏教の中で釈尊の次に現われる弥勒菩薩として生き残るわけです。しかし、経典理論に優れる仏教においては、ミトラ教の多分に呪術的な牡牛を屠ることや星辰思想などの密儀部分は闇に葬られ(日本国で九世紀空海により合体し密教となる。)、仏教においてはミトラ教の救世主としての性格だけが維持されていくわけです。
四世紀、趙王朝は、漢民族ではなく遊牧民族の匈奴族による王国で、漢民族の文化に対抗し、そして漢民族を支配する目的で仏教を取り入れ、そして仏教の布教に力を入れるわけです。
五世紀の北魏の時代になると、救世主思想の弥勒信仰が盛んになっていくわけです。時代が困難になればなるほど、ひとびとは救済を求め、弥勒信仰は栄えるわけです。しかし、平穏な時代になると宗教は堕落するのが歴史が示すとおりです。200万人の僧侶がいた北魏も、仏教の戒律が乱れ、446年には廃仏を行うほど秩序が乱れるわけです。
国際交易商人は、シルクロードの終着点の日本列島の奈良を目指して、中国大陸を縦断して行くわけです。それは、日本列島が資源に溢れていたからです。それらの資源とは呪術に使用の朱砂(主な化学成分は硫化第二水銀=鎮静・催眠効果がある=道教では不老長寿の秘薬)鉱物資源に限らず、温暖な気候が桑の育成に最適だったからです。養蚕を営むには最適な場所が日本列島だったのです。その途中には朝鮮半島があるわけです。
国際交易商人と供に仏教が朝鮮半島に伝わるのは、三韓時代と言われています。
1148年に成立した朝鮮史の「三国史記」によれば、新羅は紀元前57年に、高句麗は紀元前37年に、そして百済は紀元前18年となっていますが、それは「建前」で、「本音」は、高句麗が先で、次に百済、最後に新羅が紀元四世紀に建国されたのです。何故、「三国史記」に実際とは逆に建国の歴史が書かれたかと言えば、それは、著者が新羅王家の一族だったからです。あらゆる歴史書は、これと同じ構造で記述されているようです。
中国大陸を通過する内に仏教は色々な宗教組織と出会うわけです。それらは、道教、神仙学、儒教そして景教などです。
景教は不思議な宗教で、キリスト教のような仏教のようなヒンズー教のような得体の知れない宗教組織です。物の本によるとシリア地方に発生した原始キリスト教(ネストリウス派)と記述されているようですが、その僧侶達は、古ミトラ教の発生した地のペルシャ人のようです。
その色々な宗教組織に遭遇した仏教は、紀元三世紀、前秦の北中国から陸路により高句麗に伝来し、三世紀後半百済には海路により南中国の東晋から伝来し、更に、新羅には紀元五世紀初めに陸路により高句麗から伝来しました。
その朝鮮半島で、北の陸路からの仏教と南の海路からの仏教が融合することにより、弥勒菩薩も変身するわけです。
弥勒菩薩の本来の姿は、ミトラ神の変身であるわけですから、正義の力と慈悲の力とで困難にある民衆を救う菩薩であるわけです。それが、インドより海路で朝鮮半島にもたらされた「観音思想」の影響を受け、弥勒菩薩の性格が変身してしまうのです。
観音とは、輪廻・転生思想におけるインドのヒンズー教のシヴァ神などの影響下で誕生した、変化自在により民衆の「現世利益」をもたらす菩薩であるわけです。
本来の弥勒菩薩は未来を志向します。それに対して、観音菩薩は現在に生きるわけです。しかし、困窮する民衆の欲望を満たすために、或は貴族の現世利益を求める流れに合わせて、その二つの菩薩の性格は都合よく合体し、そしてそれぞれが民衆の願望に合わせて変身してしまうわけです。
そして、弥勒菩薩像も、朝鮮半島で変身するのです。
ギリシャ文化の影響で、ガンダーラで創作された像は立像が多かったのが、そして中国大陸では椅子に腰掛ける像が多かったのが、朝鮮半島に辿り着いた弥勒菩薩は片足胡座の坐像となってしまったのです。その座り方は、ガンダーラ仏の三尊像のひとつである、観音菩薩であったわけです。その特徴的姿の弥勒菩薩は、朝鮮と日本にしか存在しません。その弥勒菩薩は、秦氏により、日本列島の倭国にもたらされるわけです。
ここで、朝鮮半島と日本列島が描かれている地図を百八十度回転して下さい。すると、朝鮮半島が南(下)にあり、北(上)に日本列島があることになります。
ひとの脳には、時間の流れと、場の移動の流れが、予めインプットされているようです。時間の流れは、左から右に流れているようです。映像における未来を目指す流れは、大体そのように描写されています。
それに対して、場の流れは南(下)から北(上)に移動するようです。車を運転するひとなら理解できると思いますが、カーナビを北上固定にして南行した場合と、同じ条件で北行した場合との心理的違いを比べてください。前の条件の方が、後の条件よりも運転がしずらいはずです。
そのように地図の見方を少し変えるだけで、歴史の流れ(民族移動の流れ)に変化が起こることでしょう。
紀元五世紀、日本列島が上部に描かれた地図を朝鮮半島側の下部から眺めると、そこには、中国大陸で闘いに敗れた王族、新興宗教や土着の道教・儒教等との闘争に敗れた仏教教団や得体の知れない景教、あるいは市場開拓のための国際交易商人達の新天地が扇状の島々として広がっているわけです。
日本列島は、徐福の時代(秦の始皇帝の時代=紀元前210年)から蓬莱山として方士達(呪術者の一種)に不老長寿の秘薬(朱砂)の産地として知れ渡っていたのです。
しかし、その列島には先住者達が小さな国々を経営して暮らしているのです。
日本列島は、二つの異なる生活環境が存在します。それは、名古屋以北の落葉樹林文化圏と名古屋以南の照葉樹林文化圏です。この異なる文化圏は味覚の違い(醤油・味噌の味の違い)として、現在でも存在しています。
朝鮮半島南端は、照葉樹林文化圏であるわけですから、日本列島の名古屋以南が同じ文化圏に属するわけです。そこで、列島の最初の上陸地点としては対馬列島の先にある北九州となるわけです。しかし、そこには、シャーマンの巫女が支配する国々を引き継いだ「神」を祭る部族国家があるわけです。
シャーマン(中国大陸で発明された道教的呪術者)が活躍する以前の日本列島では、縄文人の世界観による、「カミ」、「モノ」という得体の知れない偉大な存在を認識していました。その「カミ」、「モノ」は、ある時はひとびとに恵みをもたらす善の存在として、そして、時にはその逆に災いをもたらす恐ろしい存在でもあるわけです。
それは、ユダヤの神の性格と似ていますが、違うところは、ヤハウェ(太陽神信仰の古代エジプトのイクナトンの神を模倣=イクナトンの神は太陽信仰のミトラ神を模倣)ひとりが「神」として世界の全てを支配するのではなく、その「カミ」、「モノ」はあらゆる場所や物、或は空間に宿っていると信じられているところです。つまり、縄文の「カミ」、「モノ」はアニミズム(多神教)であるわけです。
縄文人の支配する日本列島は、輪廻・転生思想のインドと同じに、あらゆる「神」を、一神教の「神」のように排斥・絶滅させるのではなく、取り入れてしまう懐の深い所であったわけです。
縄文の「カミ」、「モノ」に取り込まれた、外来の神は、弥生時代の「シャーマン」→古墳時代の「神」(道教色に染まったカミ・モノ。神を「ジン・シン」と呼ぶのは中国大陸宗教思想の影響。神社は仏教建築思想から生まれた。元々「カミ・モノ」は森羅万象に存在しているから、特定の場所(神社)に鎮座するのは可笑しなことです。神社は、本地垂迹説に基づいて仏教側が敵(神)の怨霊を封じ込める場所とてして発明した。)→藤原氏支配時代の国家鎮護の「仏」→明治維新後の「神(お宮参り)・イエス・キリスト(クリスマス)・仏(葬式)」と、現在まで日本列島では受け入れられていますが、その精神的根本には、なんら変化はなく縄文の「こころ」が生き続けているわけです。つまり、現在の「日本人」が、外国の神や文化等なんでも見境なく取り入れる下地は、遥か昔の縄文人のアニミズムに原因があるわけです。
さて、紀元三世紀に出現した「神」を崇める部族が支配する「ヤマト」連合国(卑弥呼の時代。卑弥呼は魏国に、近畿地方に出現した国際交易商人連合国「ヤマト」とウソをついて朝貢した。)を攻略するには、「仏教」は有利です。
「神」側には、仏教教団のような、仏像・経典・伽藍・金ピカ法衣もありません。「神」ができることは、霊を巫女により降臨させ宣託を受け、それに随わせるか(女帝称徳天皇での道鏡事件のように)、或は化学物質や薬物を使用しての「呪術」(忍者の元祖)を執り行うかの戦術しかないからです。
そして、「神」が「仏」に敗れた最大の原因は、仏教のようになリッパな「経典」がなかったからです。(後に、「神」は仏教儀式を真似て、修験道などに変身し理論武装をしていくわけです。)では、その仏教の最大の武器「経典」とはどのようなものなのでしょうか。
江戸時代、大阪商家生まれの町儒学者の富永仲基が、法華経をはじめとする、いわゆる大乗仏教関係の経典は、すべて後世のひとによる創作物であって、釈尊の説法をアーナンダが記憶していたものではない、と「出定後語」という書籍のなかで述べました。
江戸時代は、仏教は庶民統制の道具として権力側から優遇されていたわけですから、仏教の闇を暴露するその書籍は当然無視されました。
ひとの脳力は、時空を越えてシンクロ(同調)するようです。紀元前の思想家出現ラッシュと同じに、日本国における大乗仏教仏典の疑問に後れること数十年、ヨーロッパで聖書について疑問を持ったひとたちが出現するのです。
その「仏典」と「聖書」の疑問についての流れが、二十世紀になり、「仏典」と「聖書」との共通性が指摘されるのです。その基本的疑問は、大乗教仏典と新約聖書の成立年度が前後することと、釈尊とキリストの「説教の内容」と、それぞれの「奇跡の物語構成」が同じだということです。
説教の共通点としては、「憎しみは憎まないことで乗り越えよ。」、「求める者には、だれにでも与えなさい。」、「無条件の愛を求める命令に従う者は誰でも神の子となる。(神に近づく)」等です。
奇跡の共通点としては、「荒れる水面上を歩く釈尊とキリストの奇跡」、「数人分の食事で多くの弟子のお腹を満腹にし、更に食べ残させる奇跡」等です。
国際交易商人が活躍するガンダーラで、大乗仏教は紀元一世紀に突然出現するのです。ギリシヤ風仏像が出現すると同時に、大乗仏教の経典群も同時に出現するのです。経典成立順序としては、般若経系、維摩経、法華経、華厳経そして無量寿経、阿弥陀経などですが、その中で一番古いと言われる般若経でも紀元前一世紀までがせいぜいで、多くは紀元五十年から書き始められたようです。
そして、経典についての疑問は、それらの経典は用語の使用が稚拙なサンスクリットで書かれていることです。
それに対して、新約聖書は、キリスト時代に使用されていたアラム語(シリア語)ではなく、何故にギリシャ語で書かれているのでしょうか。
釈尊は、弟子達に「教え」を、敵対宗教であるバラモン(カースト制度の祭祀階級)達の言葉であるサンスクリットで伝えることを禁じていました。釈尊が使用した言葉は、パーリ語とは少し違う「マガダ語」であったわけです。大乗仏教はサンスクリットで、小乗仏教は「マガダ語」に似ているパーリ語を使用して経典を作成しているのです。
何故、大乗経仏典はサンスクリットで書かれているのでしょうか。
どうも、国際交易国ガンダーラで紀元一世紀、突然出現した大乗仏教は、仏像もその経典群も国際的な情報をもとに創作されたようです。
仏像に関連する蓮華台とは、そもそもどこからもたらされたのでしょうか。元々、釈尊の存命の時は、仏像など存在しなかったのですから、インドのものではないでしょう。
蓮の花は、古代エジプトでは、太陽の母であったのです。蓮は日の出と供に花が開くので、古代エジプトのひとたちは、太陽は蓮の花から生まれると考えたようです。
仏像には、太陽に関するものがもうひとつあります。それは、後光の日輪です。この後光はキリスト像やイコンにもあります。さらに、キリスト教には、マルタクロス(太陽の輝き)を模倣した十字架もあります。
仏教とキリスト教は、表向きは太陽信仰ではありません。
では、何故それら太陽信仰神の象徴であるものが、それらの宗教組織がプロパガンダに利用しているのでしょうか。
そこで考えられることは、それらのふたつの宗教は、太陽信仰神の経典や物語を参考にして創作されたのではないか、と言うことです。
シルクロードは、ガンダーラから東に向かえば、中国の長安を越えて、海を渡り日本列島の奈良に辿り着けます。そして、西に向かえば、ギリシャを越えてローマに辿り着けます。そのシルクロードは、東西の物品だけではなく、文化や宗教も国際交易商人達により運ばれて行くわけです。
シルクロードは、記録上紀元前二世紀に開発されたようです。紀元前一世紀、ローマ軍はペルシャを攻撃して、シリア地域をその支配下に置きました。その時期から、絹織物がローマで爆発的な需要を起しました。なにしろ、絹(布の宝石)と金とが同じ価値なのですから。
ひとの行動を起す起爆剤は、脳の化学物質です。それらは、一般的に「欲」により産出されると考えられています。その「欲」は三つに分けられます。それらは、「性欲」「物欲」「名誉欲」です。「性欲」は爬虫類の脳(幹脳・小脳=いのち)に刺激を与えます。「物欲」は哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)に刺激を与えます。「名誉欲」はひとの脳(思い)に刺激を与えます。
これらの「欲」は、諸刃の武器となります。「欲」の本質を悟り、それをコントロールする技術を開発し、利用できるひとは、その道の専門家となります。それらは、智恵の深さによります。権力者、宗教家そして商人とは、それらの「欲」を自分たちに都合良く利用して、ひとびとをコントロールできる技術を持ったひと達であるわけです。
建前では、歴史はひとりの権力者(ドイツ共和国のヒットラーのように)により作られると歴史教科書では記載していますが、本音は、その三者の協力により創られていくわけです。
ガンダーラから東の果てのChinestan(stan=国)から絹が運ばれて来ると知ったシリアの商人達は、大挙して東を目指すわけです。しかし、そこに辿り着く前には、異教の国々があるわけです。
世間一般では、宗教を困窮するひとびとを救済する「技術」としか見ていないようですが、別の角度(異教徒側)から見ると、それはソフトな武器であるわけです。
他国を侵略するには、その国の情報を手に入れる必要があります。それには、宗教は打って付けの武器となるのです。
宗教組織の異教国侵略の常套手段は、まず貧民救済の病院を設立します。そこで、被救済者から為政者の負の情報を収集します。その慈善活動を異教の為政者に認めてもらえると、次に学校を設立します。そこで裕福なひと達のシンパを組織するのです。そのような手段で入手した侵略のための情報を、宗教組織に多大に寄付する商人に渡します。商人は、シンパの中から有能な商売の代理人を育てるわけです。そして、代理人を反体制組織員とし、支部を開設して全国的に展開するのです。後は、軍隊の出番を待つだけです。
例えば、この流れを日本国の明治維新前に当てはめれば、江戸末期、長崎の出島にシーボルト(ある宗教団体の信者)という医者が来日するわけです。彼は、一生懸命貧民の病気を治療し名声を得るわけです。そして、しばらくすると医学生を養成するために鳴滝塾という医学校を開設するのです。その学校の人脈の中から、伊能忠敬の遠縁の者と知り合うのです。シーボルトは、伊能忠敬の地図をその者と世界地図との交換で入手するわけです。地図は最大の軍事秘密であるわけです。シーボルトは、その伊能忠敬の地図を複写してオランダに持ち帰るのです。それから後、伊豆沖にペリーの艦隊が出現することは、学校の歴史教科書にあるとおりです。
ペリーの来航は、建前では捕鯨のための中継基地と水と食料補給となっているようですが、本音は、オランダ東インド会社(オランダ国ではなく実権は国際交易商人にある。)が長崎出島で独占する、絹織物、金、陶器等の貿易をすることです。明治維新後、急速に日本国が軍事大国に変身できた原因のひとつが、絹織物の輸出だったのです。
歴史は繰り返すようです。
絹織物は、紀元二〜三世紀頃に中国大陸南部からの渡来者達によりもたらされた繭(ポンビックス・モリ)による養蚕の日本列島照葉樹林地域での事業展開により、四〜五世紀の倭国は世界的生産基地のひとつとして国際交易商人達に知れ渡っていたのです。
さて、そのような宗教組織の異教国潜入戦略に基づいて、絹織物を廻って、明治維新前と同じようなことが、日本列島の四世紀から七世紀にかけての倭国で、「神」(倭国の神は、現在の神社に鎮座する「神様」ではなく、道教色に染まった呪術を使う神様。現在の神は仏教色に染まってしまっている。)と「仏」の闘いとして起こるのです。その「神」と「仏」との闘いの本質は、「自然」と「人工」と言えるかも知れません。
縄文の流れにある「神」は、爬虫類の脳(いのち)と哺乳類の脳(こころ)とにより創られた概念です。それらは、ひとの意志でコントロールできません。それは自然そのものだからです。それに対して、大乗の「仏」はひとの脳により創られた概念です。ですから、ひとの意志でコントロールすることができます。ひとがコントロールできることは、世間では「人工」と呼んでいます。
暗黒のヨーロッパでの、魔女対ユダヤ・キリスト教の闘いも、「自然」対「人工」と言えるかも知れません。その闘いの原因のひとつは、病めるひとたちの治療に対する対処の技術です。魔女は、小動物の内臓や草木での「自然」の秘薬での治療を行うのです。それに対して、ユダヤ・キリスト教は、言葉により創作した祈りという「人工」で対抗するわけです。
自然は「ウソ」をつけませんが、人工は「ウソ」を無限につけます。それにより、魔女はユダヤ・キリスト教に敗れ、聖なる「火」により火炙りにされて十八世紀に絶滅されてしまったわけです。
ひとと動物の違いのひとつは、ひとは言葉の使用により、時空を超えて「ウソ」を無限につく事ができるということです。更に、ひとは現実から逃避するために「ウソ」でも信じることができることです。ひとが、最も動物と際立つところは、他の物事や概念を模倣し、ウソの物語を創作することができることです。
小さなウソは、直ぐにバレてしまいますが、大きなウソを見抜くには、「疑い深いトマス」ほどのひとでない限り無理でしょう。
日本の古代史が面白いところは、謎(ウソ)が多く、百人いれば百通りの解釈が成立つところです。特に、大乗仏教の日本列島侵入に関しては、納得できる解釈にお目にかかったことがありません。
仏像に関する文献を探すと、「日本書紀」の推古十一年として、

皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。秦造河勝進みて曰く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。

と言うことで、建前では聖徳太子が秦河勝に仏像を授けたとの説明です。
が、しかし、聖徳太子は実在の人物ではありません。その根拠として、日本書紀には「聖徳太子」との記述は一切ありません。日本書紀にあるのは、厩戸皇子、豊聡耳皇子、東宮聖王、上宮太子、上宮聖徳法王などの名前で記述されているのです。
聖徳太子として歴史上に登場するのは、死後(?)約百年後です。
死後約百年後の登場人物として思い出されるのは、イエス・キリストです。キリストと聖徳太子の共通性は昔から言われています。
聖徳太子が厩で生まれたのは、キリストと偶然としても、少年時代の「神」を崇める物部氏との闘いは、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデの物語構成と同じです。更に、成人しても、聖徳太子と言われているのは、モーセと同じです。「太子」も「モーセ」も、「子供」と言う意味なのですから。ダビデ、モーセそしてキリストのイメージを彷彿させる聖徳太子とは、一体何者なのでしょうか。歴史教科書では解明できないでしょう。
では、秦河勝が授けられた仏像は何かと言えば、それは国宝第一号の「弥勒菩薩」であるわけです。ここでは、もう弥勒菩薩の説明の必要はないでしょう。
その仏像を安置する蜂岡寺とは、太秦寺(ウズマサ寺)つまり、広隆寺であるわけです。広隆寺では、平安時代(藤原氏の時代)から「牛祭り」の儀式を行っています。その祭りの主人公は「摩多羅神」(マタラ神・ミトラ神?)と言われています。
日本国での歴史上有名人が外国の神と共通する事績があることなど、一般のひとは信じることなどできないかもしれません。
更に信じられないことがあります。それは、日本書紀は旧約聖書を参考に創作されたのではないかということです。それらのふたつの書物は、建前では、その民族の成立ちを綴った歴史書と言うことですが、本音は、「簒奪」が共通テーマと言うことです。
そもそも、旧約聖書はどのような背景で創作されたのでしょうか。
旧約聖書物語の創作背景を知るには、渡り鳥の「カッコウ」の習性を知ると理解し易いでしょう。
カッコウは、時代によりその名が変化しているようです。奈良時代は「カホドリ」、そして、平安時代は「ハコドリ」或は「カンコドリ」と呼ばれていたようです。その習性から「冥土の鳥」と言われているように、他の鳥と異なる習性(行動マニュアル)を持っています。それは、自分の卵を他の小鳥の巣に産みつけ繁殖していくのです。
その習性は、自分の卵に一番似通った卵を産んだ小鳥の巣を探し、その親鳥の一寸した隙に卵を産み付けるのです。その産み付けられたカッコウの孵化は他の卵より早く、それだけ他の雛より成長が早いのです。そこでカッコウの雛は不可思議な行動をするのです。それは、親鳥が不在の時を狙って、他の卵や雛を巣から一匹一匹と親鳥に気付かれないように排除してしまうのです。最後に残るのは、カッコウだけです。それとも知らない、親鳥はセッセとカッコウの雛を成鳥するまで育てるのです。
イスラエルの十二部族と言われるのは、後世の創作です。本音は、ヨセフを先祖とする部族、つまり、ヨセフの息子のエフライムとマナセの二部族だけが、いわゆるイスラエルと呼ばれた地方に移り住むようになってからが、イスラエル部族の誕生です。
その二部族に、エジプトの太陽信仰アトン(紀元前十四世紀エジプトを統治していたイクナトンの神)の信仰が広まり、その信仰に同調する他部族がしだいに集まることにより十二部族(八世紀にカザール民族を加え十三部族と言われています。)となるのです。そして、アトンの神は、どういう訳かヤハウェに変身して行くわけです。
そのエフライムとマナセの部族、つまりイスラエル部族の巣に、カッコウがやって来るのです。そのカッコウとはレビ族です。そのカッコウが産んだ卵から孵った雛が、アロン(祭祀者・頭に油を注ぎ王様を誕生させる部族。日本国で言えば中臣氏か。)であり、モーセ(立法者・自分達部族に都合の良い法律を作るひと。日本国で言えば藤原不比等か。)であるわけです。そして、その末裔がダビデであり、ソロモンであるわけです。
では、元々の巣の雛たちであるエフライム部族達はどうしたかと言うと、簒奪者ソロモン王が死ぬとすぐに、エフライム族を頭に十部族が、ベニヤミン部族を残して、ユダ族と決別し、イスラエル王国を創るわけです。しかし、そのイスラエル王国も、紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、真性イスラエルの十部族は歴史から消え去ってしまうのです。
後に残ったのが、レビ族の末裔であるユダ王国です。その王国も紀元前六世紀にバビロニアに滅ぼされてしまうのです。
旧約聖書物語とは、読む角度を替えれば、エフライム部族の歴史を基本に、後から参入したレビ族が、カッコウのように少しずつ敵対部族を抹殺し、イスラエルの王権を簒奪したことを隠すために創作されたものとみなすこともできます。
この簒奪物語のストーリを日本書紀に当てはめて、敗者側から眺めてみると、日本の歴史がガラリと変化して見えてくることでしょう。
古代史を知ろうとするひと達が史料とする重要なバイブル的書籍は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。しかし、物の見方を少しずらしてみると、「日本書紀」とは可笑しなネーミングです。
倭国、或は日本国は、文化の輸入先として中国大陸の国々を選択していました。その中国大陸の国々の史書には、その書籍の体裁により、「書」と「紀」との区別をつけていました。「書」とは、帝紀や列伝を備えた紀伝体の歴史書のことを言うわけです。それに対して、「紀」とは、編年体の歴史書のことを言うわけです。
そのような書籍の体裁により「書」と「紀」とを分けているのに、日本国の国史は「日本書紀」となっているのです。書籍の体裁からすれば、「日本紀」が正しいのではないでしょうか。
その日本書紀は、「続日本紀」によれば、「紀三十巻系図一巻」とあるようですが、系図一巻は今日には伝わっていないようです。では、その現存する三十巻はどのような構成で書かれているかといえば、神代上・神代下・神武・綏靖〜開花・崇神・垂仁・景行〜成務・仲哀・神功・応神・仁徳・履中〜反正・充恭〜安康・雄略・清寧〜顕宗〜仁賢・武烈・継体・安閑〜宣化・欽明・敏達・用明〜崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武上・天武下・持統となっているわけです。
このように、神代から持統天皇まで記述されている書籍を太平洋戦争敗戦までは、日本国民の大多数が史実として信じていたのです。では、昔から史実として信じられていたかと言うと、そうとは言えないようです。
江戸時代、大名貸の升屋の山片ばんとうは、記紀について、

「文字ノ出来ハ国ノ開クルナリ、文字ナケレバ開ケザルナリ。」と考え、
日本へ文字渡リシコトハ、応神天皇ノ御宇ニシテ、ソノ後ノコトハ事実明白ナリ、ソレマデノコトハ、口授伝説ニシテ実ヲ得ベカラズ。日本紀神代ノ巻ハ取ルベカラズ、願クハ神武己後トテモ大抵ニ見テ、十四五代ヨリヲ取リ用ユベシ、然リト雖モ、神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ、応神ヨリハ確実トスベシ。

江戸後期には、天皇を裏でコントロールしている藤原氏の勢力も微弱で、九州南端や山口県南端で隠棲していたので、そのような大胆な事も堂々と発言できたのです。それから百数十年後の太平洋戦争敗戦前、その論説と同様なことを「神代史の研究」で発表した津田左右吉は、「皇室ノ尊厳ヲ冒スル文章ヲ著作シ」ということで有罪を宣告されてしまったのです。
明治維新で、藤原氏が復活し、それに伴い、江戸時代に京都で隠棲していた天皇家も復活するわけです。と同時に、八世紀に、藤原不比等によりプロデュースされた、江戸時代に「古事記伝」四十四巻を創作した本居宣長に「唐ごころ」に染まっていると言われた「日本書紀」も、十九世紀の明治維新で「大和ごころ」として復活するのです。
では、なにを目的に日本書紀が創作されたのかと言えば、それは天皇という君主の正当性を保証するために作られたわけです。天武天皇(新羅の王族金多遂)のお妃の持統天皇(百済系天智天皇の娘)が、日本国の正当な天皇である、と言いたいのです。
では、第一代天智天皇、第二代天武天皇そして持統天皇である「雛」を育てた「巣」は、元々誰が作ったのでしょうか。中学生向けの歴史教科書には、日本国において天皇が誕生する経緯を次のように記述しています。

聖徳太子(厩戸皇子)の死後、蘇我氏の勢力はさらに強くなり、ほかの豪族も蘇我氏をおそれた。中国では、唐が強大な帝国となり、朝鮮半島の諸国に大きな影響をおよぼしていた。中大兄皇子や中臣鎌足は、天皇中心の政治のしくみをつくるため、645年に蘇我入鹿とその父蝦夷をたおした。
そのころ朝鮮半島では、唐と新羅が百済をほろぼそうとしていた。朝廷は百済に援軍を送ったが、白村江の戦いで大敗した。そこで、朝廷は西日本の守りをかため、都を大津に移した。中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
天智天皇の死後、その弟と子の大友皇子が天皇の位を争い、豪族をまきこんだ大戦乱となった。勝利した弟の大海人皇子は、即位して天武天皇となった。天武天皇は、みずから政治をおこない、唐にならって律令にもとづく政治のしくみをつくろうとした。またこのころ、天皇は「大王は神である」と歌われ、天皇の称号が正式に使われるようになった。

学校の歴史教科書によれば、日本国の天皇が誕生する前の「巣」の所有者は、どうも「蘇我氏」ということになるようです。では、その蘇我氏とは一体何者なのでしょうか。再び、歴史教科書に戻り時代を逆行してみます。

六世紀頃、勢力をのばしてきた大臣の蘇我氏は、渡来系の豪族と結びつき、仏教をさかんにしょうとした。六世紀末には、仏教の受け入れに反対する大連の物部氏をほろぼし、政治の実権をにぎった。さらに蘇我氏は、蘇我氏に対立する天皇を殺害した。
かわって即位したのが、女帝の推古天皇である。推古天皇は、593年においの聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とした。聖徳太子は、蘇我氏とともに新しい政治をおこなった。聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。

学校の歴史教科書では、理論整然と日本国における天皇の誕生を説明しています。しかし、別の角度からの情報と照らし合わせてみると、その説明には「ウソ」があるようです。
「ウソ」の第一は、「本朝皇胤紹運録」によれば、弟である天武天皇が天智天皇より四歳年上であるということです。第二は、聖徳太子など実在の人物ではないのですから、蘇我氏とともに新しい政治などできるわけはないでしょう。
そのような「ウソ」を無視して、想像力を使って眺めてみると、渡来系騎馬民族の蘇我氏が渡来系の氏族(蘇我氏をバックアップしたのは突厥の皇子タルトウで、それが聖徳太子のモデルと言われている。)をバックに、海洋系民族連合軍の物部部族を倒し、六世紀に飛鳥の地を統治していた「大王」であったのだろうということです。
しかし、六世紀に忽然と現われたその蘇我氏の出自は、九世紀に突然天下人となり、十ニ世紀には壇ノ浦から忽然と消えた「平氏」のように、どこから来たのか分らないのです。
しかし、ヒントはあります。それは、大乗仏教にあります。騎馬民族系の蘇我氏が、倭国に大乗仏教を持ち込んだという事実は、その出自は中国大陸の可能性が大です。中国大陸での騎馬民族は、農耕民族である漢民族の儒教文化に対抗するために、北魏のように大乗仏教を武器としていたわけです。トルコ民族の言伝えでは、中央アジアにいたトルコ民族(遊牧系チュルク人)は大昔東西に分かれた。西に向かったのが現在のトルコで、東に向かったのが日本人(トルコ系日本人=胡の付く村に住む)となった、と言われています。
日本列島には、元々馬が生息していなかったのに、五世紀に馬が出現するわけです。では、その馬はどのようにして、日本列島に辿り着いたのかと言えば、それはひとと一緒に渡来したわけです。
日本列島は海に囲まれているので、一般的に孤立していると考えられているようですが、それは間違えです。日本列島は、大昔から、海の道(海流)を交通手段として国際的なのです。
中国の史書によると、倭人は自分達の出自は、呉であるとし、又、習俗の刺青や断髪や海に潜り漁をすることは越のものと同じであると記述しています。呉も越も海洋民族で、大きな構造船で近隣諸国と貿易或は戦をおこなっていたのです。その呉は紀元前473年、越により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。その子孫が九州に辿り着き弥生文化を伝えたわけです。それから約百四十年後の紀元前334年、越は楚軍の侵略により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。
越の子孫が日本列島に辿り着いた時には、中国大陸で敵対していた呉の子孫が九州に倭国を作っていたので、日本海を黒潮に乗りさらに北上し、能登、新潟、津軽、北海道そして太平洋を南下して、陸奥、常陸などに上陸し国を作るわけです。そのように、丸木舟ではなく、大量の荷物を輸送する構造船は、弥生時代の日本列島と中国大陸とを海の道により行き来していたのです。歴代の中国皇帝の魔除けの翡翠は、日本国の糸魚川産であることからでも分るように、昔から、日本列島は海の道により国際的であったことが理解できるでしょう。
そのように四方を海に囲まれた日本列島は、縄文時代の昔から海の道により近隣諸国の天変地変や争乱の影響を強く受けていたのです。
では、六世紀に近畿地方を支配していた蘇我氏の前の情勢はどのようであったのでしょう。再び、歴史教科書により時代を逆行してみましょう。

三世紀の末頃、大和や河内の地域には、とくに巨大な古墳が数多く見られる。これは、この地域の豪族たちが連合して強力な政権を作っていたためと考えられる。この政権を大和政権という。大和政権の王は大王といわれた。大王が政治をおこなう場所を朝廷という。大和政権は、しだいに吉備(岡山県)・出雲(島根県)・筑紫(福岡県)・日向(宮崎県)・毛野(群馬県・栃木県)などの地域の豪族をしたがえていた。

歴史教科書によれば、大和朝廷は大和の地の中央に鎮座して、地方の豪族を従えていたように記述しています。では、大和朝廷は、どのような生産手段で、そのような広域の豪族達を養っていたのでしょうか。山々に囲まれた大和地域には、農作物や物品を全国に供給する程の生産力はないのです。
大和の地は、縄文時代から交易のメッカで、地方の物産が集まる地であったのです。ですから、地方の豪族は、大和の地に支店を出していたのです。その各地方の支店の連合会が「大和政権」と言われている実態です。
やがて四世紀には朝鮮半島で、百済や新羅が勢力を増して、日本列島に進出してくると、日本列島に点在する豪族達は、百済系と新羅系とに収束していくわけです。
やがて、「大和支店」の勢力圏は、交易の利害関係や中国大陸や朝鮮半島の政治情勢の影響で、西の葛城と東の磯城との対立に発展し、その流れが、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫→百済(海洋系)の系列となり、それに対抗して、磯城→山城→近江→越・若狭→出雲→新羅(騎馬系)の系列となるわけです。その部族間の流れは、百済国や新羅国を中継基地として中国大陸の国々との交易のルートとなり、物や文化或は部族が行き来するわけです。
日本国の歴史を、教科書を基に三世紀から六世紀までをみてきたわけですが、一寸気になることがあります。それは、中国大陸の物や文化あるいはひとの流れが、朝鮮半島だけからのようだからです。本当に、中国大陸からの日本列島へのルートは、朝鮮半島を経由して北九州または出雲だけなのでしょうか。
中国大陸の南北朝の対立時代の512年に勃興した「梁」の国史「梁書」によれば、扶桑国(北海道南端の国)は北魏(南朝の儒教文化に対抗して大乗仏教を国策として保護していた。)と交通して、北魏の首都洛陽には扶桑館が立てられ優遇されていたとの記述があります。扶桑国は越の末裔の海洋民族国で、敵対する呉の末裔が北九州に倭国を立て南朝と交易していたので、北朝の北魏と海の道により交易をしていたわけです。
更に、日本書紀によれば、蝦夷の部族長アテルイの敗北による王化までは、集団で馬を駆使し短い弓矢を使い、蕨刀(ペルシャの腰刀か)を振り回す(この戦い方は、正に西アジアの騎馬民族の戦法です。)蝦夷(えみし・髭のあるエビスの意味・中東遊牧民族)が住む文化のない野蛮な未開の地、と記述されている東日本の日本海側には、野代(能代)、出羽(秋田)、佐渡、福良津(能登)などの港が、北魏との交易ルートとして確立されていたのです。
何故、日本書紀は、六世紀における中国大陸の国々と東日本の国々との交易の「歴史」を抹殺したのでしょうか。
それは、七世紀に誕生した「日本国」を裏でコントロールした、日本書紀をプロデュースした藤原不比等の戦略によるようです。
それは、藤原氏の出自を、蘇我氏と同じに知られたくなかったからのようです。
藤原氏の誕生は、645年の大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原不比等の父)が、蘇我氏を滅ぼしたその活躍により天智天皇から「藤原」の姓を賜ったからとの説明です。(この説明は、旧約聖書の創生期第三十二章のヤコブがイスラエルになった物語を彷彿させます。)
しかし、大和の地で大化の改新(乙巳の変)などなかったのです。野史(官製ではない歴史。敗者の歴史)によれば、それは朝鮮半島での争乱だと説明しています。だとすれば、日本国の誕生から現在までの国策に影響力を「裏で」発揮する藤原氏の先祖は、一体どこから渡来して来たのでしょうか。
それが解明できれば、この国におけるヒンズー教化している大乗仏教を利用した政策的イジメの「穢多」(人間以下の下層階級・日本的カースト制度)の発生の謎、そして、祭りの神輿に向かって「水」又は「塩」を振り掛ける意味が理解できるかもしれません。
元々この国には、大乗仏教が騎馬民族の蘇我(ワレハミナモトの意味)氏と伴に中国大陸から五世紀に、農耕に適した照葉樹林文化圏の北九州ではなく、狩猟牧畜に有利な落葉樹林文化圏の東日本へ侵入してくる前には、「穢多」の差別思想などなかったのです。
古代インドでヒンズー教化してしまった大乗仏教は、白人種のアーリア系民族が有色人種の非アーリア系土着民族を統治するために発明した呪縛思想のカースト制度を、その教義に取り入れ布教したことにより、わが国の藤原氏が支配する平安時代末期に、「穢多」の思想が庶民に流布されていくわけです。そして、この呪縛は、現在まで生きていて、小学生の「イジメの素=エンガチョ」となっているわけです。
「ブッダのことば」(大乗仏典にあるブッタの言動は後世のひとが創作したものです。)の中には、騎馬民族や狩猟民族の生活基盤を根本的に否定する「教え」が沢山あります。
「生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者、おまえは地獄に堕ちる者だ。」
「生きものをみずから害してはならぬ。また他人をして殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。」
「この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、かれを賎しい人であると知れ。」
大乗仏教の釈迦は、殺生を禁止し狩猟を嫌悪し、猟人、漁師、肉を売買する人々(セダラ)を最も卑しい人々と考えていたようです。そのような倫理観で屠殺に従事するセダラは、低い倫理観しかない人々の集団と位置づけられていくのです。つまり、大乗仏教の釈迦が殺生戒の内容を充実させていくにつれ、セダラ差別が深まっていくのです。そこで、ウソも方便で、僧が食べる肉を「浄肉」とし、セダラの食べる肉を「穢れた肉」との差別思想を発明するわけです。浄、不浄は相対的なものです。(カミ・モノが支配するこの国には、元々浄・不浄の区別などなかったのです。仏教で不浄とされる便所(仏教徒は御不浄と言う。)にも「便所のカミ様」が鎮座していたのです。)僧は、そのようにセダラを見下し、「三浄肉」つまり、動物を直接殺すのを見ない、動物の刹那のうめき声を聞かない、疑わないの三要素を含んだ肉を食べることは、殺生戒を犯したことにはならない、などの方便を発明するのです。
そのような、農耕民族の生活基盤に立って考え出された大乗仏教の殺生戒は、狩猟民族、牧畜民族或は漁労民族には、とんでもない思想なのです。
はっきり言ってしまえば、新生「日本国」における「穢多」の差別思想の布教は、「騎馬民族」を貶めるためのものです。大乗仏教を利用して、騎馬民族と他の民族とを隔離して、壊滅させることが、騎馬民族の蘇我氏の王権を簒奪した民族の戦略なのです。
では、どのような戦術で、「穢多」の思想をこの国に広めたのでしょうか。
古代インドでのカースト制度は、数百年の歳月を費やして「完成」したものです。この国のカーストの差別思想も、平安時代末期から約六百年も費やして、ようやく江戸時代に「完成」したのです。
では、誰がその差別思想を創作し、誰がその差別思想を実行し、どのようにして広められたのでしょうか。
そのカラクリを述べる前に、もう一度この国の歴史の流れの大筋をお浚いしてみましょう。
縄文人が、呉の子孫と北九州で遭遇したのが、紀元前二三世紀のようです。やがて、呉の子孫が北九州に倭国を作るのが一世紀頃です。そして、倭国の女王が魏に使いを送るのが三世紀です。そのころ朝鮮半島で高句麗、百済そして新羅が次々と建国し、日本列島に交易のために進出してくるわけです。そのころにはまだ「日本国」は誕生していません。
中国大陸からの亡命者や交易商人達が、日本列島各地に集落を作り、そこで力を蓄え、縄文時代からの交易地「畿内」をめぐって争奪戦を行うわけです。やがて、国際交易商人連合会が大和にできるのが四世紀頃です。その連合会で有利な立場をとったのが百済国の商人です。北九州の倭国は、百済と同じ海洋民族で、距離的にも近いので友好国として百済人をバックアップしたわけです。その交易ルートに対抗して、新羅は、出雲や敦賀などの別ルートを開拓して畿内との交易を行うわけです。日本列島からの主な交易品は、絹、朱砂、金、銀、銅、翡翠そして奴隷などです。
日本列島各地から出張してきた中国大陸出身の支店長が亡くなると、交易で儲けた莫大な資金で、競って大きな墓を作るわけです。その集大成である前方後円墳は、北九州、出雲、吉備、畿内そして北関東の五つの地域の埋葬文化を集合させたものです。それを歴史書は天皇の墓と言っています。実際に、天皇が誕生するのは七世紀なのです。
五世紀になると、その畿内に突然、九州からの西方ではなく、関東から騎馬民族が現われるのです。それが、「ワレハミナモト」の意味の「蘇我氏」です。蘇我氏は、中国大陸から馬を連れてきた渡来者で、北関東で勢力を張っていた民族です。
そして、蘇我氏は、飛鳥の地に石を多用して水をモチーフにしたペルシャ式庭園などを作り、畿内の「大王」として君臨したのです。君臨していたと言っても、騎馬民族の政治は、合議制なので独裁的ではなかったでしょう。それは、生活様式が関係しているようです。移動式テントのパオの中で車座になって議論をすれば、皆の意見が同等になるからです。それに、騎馬民族は、海洋民族と同じに漂泊性のため、土地に執着することもないからです。
蘇我氏は、中国大陸出身なので、同じ騎馬民族国家「随」や「唐」と交易を盛んにするわけです。
七世紀になると、俄かに政局が激変してくるのです。それは、朝鮮半島での新羅の動きです。三韓の内で一番弱小だった新羅が勢いを増して、百済を攻めたからです。更に、百済にとって最悪は、唐も新羅と共同戦線で攻めてきたからです。
それに対応して、日本列島の畿内で革命が起こるのです。それは、百済系民族による蘇我氏の壊滅作戦です。(歴史ではこれを大化の改新と言っている。)敗れた蘇我氏は、元の勢力地の北関東へ敗走するわけです。
蘇我氏の政治は合議制なので、色々な部族とも友好関係を保っていたわけです。物部氏もそのひとつです。物部氏は、海洋民族の連合民族で色々な部族が混成していたのです。蘇我氏と伴に戦った物部氏は、敗れて後、外物部氏(中央にいるのは内物部氏)と言われるようになるわけです。その外物部氏は伊勢に逃げ込むわけです。
畿内での革命が成功して、北九州の同盟国倭国の海軍と百済救済に赴いても、唐・新羅軍には太刀打ちできず、663年白村江の戦いで、倭国と百済軍は壊滅し、倭国も百済国も歴史から消えてしまうのです。
日本の歴史書では、中大兄皇子(百済国の王子)が668年大津に都を移し、天智天皇として即位した、となっています。そして、七世紀末に、中国の歴史から倭国が消え、それに替わり、日本国が登場するのです。
敗戦国移民の百済系民族に、チャンスが訪れるのです。それは、同盟国の唐と新羅が戦争を始めたからです。唐は、百済を壊滅させ、次に高句麗を攻めるのです。その唐と高句麗の戦いの最中、新羅は、朝鮮半島から、唐軍を追い出し、半島統一国「新羅国」となるわけです。日本国と半島統一新羅国はほぼ同時に建国したわけです。
現在の日本人(百済系日本人)が、韓国人(新羅人)を蔑視する原因のひとつが、ここ(新羅国が百済国を滅ぼしたこと。)にあるのです。
白村江の戦い後、唐の日本列島進駐軍は、新生日本国で、百済系日本人に肩入れし、敵国移民の新羅系日本人を追い落とそうとするわけです。それに対抗して、新羅の王族金多遂(大海人皇子)が、伊勢の外物部氏(海洋民族・赤旗)と関東の蘇我氏(騎馬民族・白旗)の残党の力を借りて、近江朝の百済政権に戦いを挑むわけです。これを、歴史教科書では、壬申の乱と言っています。この戦いに勝って、大海人皇子が天武天皇として即位するのです。
そして、蘇我氏の元の都「飛鳥」に都を建設するわけです。そして、戦いの功労者の外物部氏の伊勢の神社を天武朝の神として祭るわけです。(しかし、第五十代百済系桓武天皇になってから伊勢神宮にお参りしていないのは何故か。そして、約千年後の明治天皇になってからお参りが復活したのは何故か。)
新生日本国の大王となった天武天皇は、百済系日本人を中央から追い払うのです。このことが後の世で、新羅系日本人(騎馬民族)が、藤原氏にコントロールされた百済系桓武天皇からイジメられる原因のひとつにもなるのです。「奢れる者久しからずや。」
やがて、天武天皇が亡くなられると、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が朝廷に返り咲くのです。それと同時に、百済系日本人の地位が向上し、それに反して、新羅系日本人は中央から追い出されてしまうわけです。
ここから、天武天皇系人脈と天智天皇・藤原氏人脈との熾烈な戦いが始まるのです。
七世紀の中頃突然日本の歴史に現われた「カッコウ・藤原氏」は、天武天皇家の巣に入り込み、その人脈がひとり、またひとりと消されてしまうわけです。そして、天武王朝は八世紀後半に、奈良の大仏建立を発案した聖武天皇(神輿の元祖)の子供の称徳天皇の代で滅びてしまうわけです。
では、誰が、天武天皇系・新羅系日本人のイジメ方を考え、そして実行したのでしょうか。
日本国の王権の簒奪方法を、旧約聖書を参考にして推測すれば、出自不明の「レビ族」が「藤原氏」、頭に油を注ぐことにより王様を創る祭祀の「アロン」が外物部氏の伊勢神宮を簒奪した「中臣氏」、自分の部族に都合の良い法律を作る「モーセ」が大宝律令を創作した「藤原不比等」、では、エフライム族のイスラエルを乗っ取り自国のエルサレムに神殿を勝手に作った「ダビデ」は一体誰になるのでしょうか。
それは、日本国のダビデは藤原仲麻呂(恵美押勝)の他には考えられないでしょう。
藤原仲麻呂は、天武天皇の皇子で藤原氏よりの舎人親王の子供の大炊王を息子の嫁にあてがうことにより、養子のように囲い、王として即位させ、この王が即位した後、天皇から「父」と呼ばれるようにした。(天皇に女をあてがうのは、藤原氏の伝統のようです。)
更に、藤原仲麻呂は、仲麻呂一家で太政官を独占してしまうのです。太政官とは国政の最高機関で、天皇の決済のための御璽(ハンコ)をあずかり、業務をおこなう役人です。つまり、天皇は飾りで、実務は藤原仲麻呂一家が取り仕切っていたわけです。
更に、藤原仲麻呂は、天皇からお金を鋳造する権利と仲麻呂の私邸に印(恵美家印)を持つ権利を与えられるのです。これはどういうことかと言えば、仲麻呂家が国家そのものと言うことです。
そのような独裁的性格の藤原仲麻呂の先祖は、中国からの渡来者で合議制で政治を行い、諸外国(特に新羅国)と全方位外交を行う蘇我氏の存在が邪魔であったわけです。
そこで、藤原仲麻呂は、蘇我氏の先祖を貶めるために、皇后に言い寄ったなどのデタラメ物語を挿入し、日本書紀を改竄するのです。更に、蘇我氏や新羅系日本人を貶めるため、それらの歴史的人物に蔑称を付けるのです。
それらの蔑称は動物の名を付けることです。(動物・鳥・魚・昆虫の名前を付けられた氏族は、蘇我氏系か新羅系のひとのようです。)蘇我氏や新羅系のひとには動物の名前、例えば蘇我馬子、蘇我蝦夷(エミシ=エビのようなヒゲのあるエビスの意)、蘇我入鹿などです。その祖父と子供の名前の一字を合わせると「馬鹿」になるように、日本書紀等の歴史書を改竄して手の込んだイジメをするわけです。
そのかわり、高句麗人や百済系人などは、朝鮮名を隠し日本名(勿論日本名藤原の前は朝鮮名です。)にするわけです。そして、藤原仲麻呂は、新羅系天皇に対抗するため、藤原氏を高位におく系図集の「氏族志」を創作するのです。
更に、日本書紀は、新羅系天武天皇の命令で創られたとのトリックを考えるのです。その内容はまったく逆で、百済系天皇に有利に、そして、蘇我氏・新羅系天皇には不利なものとなっているのです。
そのように暴虐不仁の藤原仲麻呂の行動に対して、天武天皇の血が流れている聖武天皇は黙って見ていたわけではありません。天平十二年(740年)、九州の藤原広嗣の乱のさなか平城京から姿を消し、伊勢神宮に行くのです。その頃の伊勢神宮は二派に分かれていて、元々の外物部氏の社(海洋民族の神天照・アマテルと天武天皇の神を祭る)と藤原氏の息のかかった中臣氏の社(中臣神道の儀式はユダヤ教の臭いがする。灯篭にダビデ紋がある。)とがあるわけです。外物部氏は天武天皇派で反藤原氏(反仏教)です。
藤原氏に支えられている百済系役人達に、中央から追い落とされた蘇我氏や新羅の騎馬系民族の人々や外物部氏の海洋系民族の人々は、農奴となるのを拒否して表の世界から闇の世界に入っていくわけです。つまり、仏の敵「鬼」になるのです。しかし、農奴になったもの達は関東に屯田兵として送られ、「夷を以って夷を制す」の戦法の道具として、蝦夷討伐の尖兵とされてしまうのです。この子孫が、後の源氏(白旗)や古平氏(赤旗)の武士となるのです。
もともと鬼の素性は、騎馬民族と海洋民族の子孫であるわけです。つまり、漂泊する非農耕民族であるわけですから、藤原氏などの貴族(律令制度で発明された王権側の奴隷)に農産物を貢かず、政府に反抗する鬼達は、「やくさぬもの」、つまり、役に立たないもの、アウトサイダーの「ヤクザ」との烙印を押されてしまうのです。
その鬼が反藤原闘争を企てる聖武天皇と接近するのです。そして、鬼(部落の宿神)が天皇を「裏で」支える見返り(天皇の宿神)として、鬼達は通行の自由、税、諸役の免除などの特権を得るのです。この流れから、江戸時代、穢多頭の弾左衛門が支配する芸能民、勧進、遊女、鋳物師、木地屋、薬売りなどの「歩き筋」と言われる非農耕民達は税が免除されていたのです。
その聖武天皇が、巨大寺院の東大寺建立を発願するのです。それに対して、鬼達(反体制派の騎馬系や海洋系の漂泊民)の故郷である陸奥の国から、大仏塗金の材料として大量の黄金が寄進されるのです。しかし、王御宝(おおみたから)の体制派の農耕民族には過度の負担を負わせたため、政治が混乱するのです。
では、何のための大仏建立なのでしょうか。そのような体制派の農耕民族を苦しめる大仏建立は護国のためだけではないでしょう。それは、聖武天皇の真の狙いは、平城京を見下ろす丘の上にある藤原氏の春日大社や興福寺(この二つの建物は、鬼との戦いの時は砦となる戦略的建築物。)を、ルシャナ仏(太陽の神/日本国では「大日如来」と言われているが、実体は「遍照鬼」で、インド正統派のバラモン教系の神格ではない、被征服民族の救世主。古ミトラ神の化身か?この東大寺を、平安時代に、海洋民族の百済系平氏=桓武平氏=インド系庸兵団が焼き討ちで全焼させ、後の鎌倉時代に、騎馬民族で太陽信仰の新羅系源頼朝が再建するのです。)で封じ込めるためではないかということです。何故ならば、東大寺が、そのニ寺を見下ろす山の上に建立されているからです。
その東大寺建設に対して、藤原仲麻呂は何度も妨害するのです。そして、やっと天平勝宝四年(752年)に東大寺が完成すると、鬼達は、聖武帝の常輿のほうれんをもってお祝いするのです。これが神輿のルーツと言われているものです。つまり、神輿は「鬼達の神」を祭るものだったのです。
東大寺の大仏開眼の後、756年聖武天皇は亡くなり、騎馬民族天武朝最後の女帝孝謙天皇(聖武天皇の娘)が、藤原仲麻呂との闘争を、父聖武天皇から引き継ぐのです。
孝謙天皇の基本的考えは、「事としいわば、王を奴となすとも、奴を王というとも、汝の為んまにまに。」の言葉に表れています。孝謙天皇は、鬼達の力を借りて、764年宿敵藤原仲麻呂を滅ぼすのです。
旧約聖書における簒奪物語は、ダビデの死後、正当な後継者から祭祀アロンと結託したソロモンはダビデの王権を簒奪し、そして、エフライム族達の正統派イスラエル民族をエルサレムの神殿から追い払い、その財宝を独り占めするわけです。
これが原因で、ソロモンの死後、イスラエル王国と、ユダ国に分裂するわけです。その時、旧約聖書は、エフライム族からレビ族の物語に改竄されるのです。この時にはまだ旧約聖書のモーセの五書は創作されていません。それが創作されるのは、ずっと後の紀元前六世紀から紀元前五世紀の間になるのです。
ダビデの王権を不正な手段で簒奪したソロモン王を日本国に求めると、それは、天武王朝の簒奪者百済系桓武天皇となるでしょう。「桓」とは「韓」で、「武」とは「王」の意味で、桓武天皇とは、「韓の国の王」と言う意味です。
藤原百川の陰謀の助けによりの簒奪者百済系桓武天皇が、新羅系天武天皇が発明した伊勢神宮での世襲儀式の「大嘗祭」を止め、百済系王族を交野に集め、中国式の「封禅の儀」を執り行うのです。そして、桓武天皇以降、明治天皇が即位するまでの約千年間、歴代の天皇は伊勢神宮に参内していないのは、桓武天皇から天皇の血筋が替わったことを意味していると言えるでしょう。つまり、天皇家の万世一系は神話だったのです。
更に、平安京へ遷都した桓武天皇は、その時、今までの完全な漢音式ではなく、倭国の故郷の中国江南地方の「呉音」で祝詞を奏上したのです。ここに、京都「小中華帝国」が出来上がるのです。
そして、桓武天皇はインド系庸兵団(後の桓武平氏の祖先。外物部氏は同じ海洋民族でもその出自が異なるため古平氏と言われる。氏名があるのが古平氏で、インド系傭兵団の子孫の桓武平氏は、「平の何某」と明記され氏名がない。)の軍事力を、桓武天皇のバックスポンサーである唐国が求める金、銀、銅、水銀、朱砂などの鉱物奪取の目的で東北侵略に向けるのです。
唐国の経済を支えていた「絹」は、六世紀に、西域の修道院僧により「繭」が盗まれたことにより、そして、その絹織物の製法も盗まれたことにより、七世紀中頃にはヨーロッパでの需要は激減してしまうのです。その結果、唐国の経済を支えていたシルクロードの交易は日に日に衰えていくわけです。そのような影響が、唐国、新羅国を通して、絹織物生産国の日本国の社会にも影響を与えるわけです。
では、この頃の日本国の情勢について、教科書の歴史はどのように述べているかをみてみましょう。

奈良時代も後半になると、天皇の後継者をめぐって貴族の争いがはげしくなり、政治が混乱した。そこで、母が渡来系の子孫である桓武天皇は、794年に今の京都の地に新しい都をつくり、ゆらいできた律令政治を立て直そうとした。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでのおよそ400年間を平安時代とよんでいる。桓武天皇は、都づくりと東北地方の蝦夷支配に力をそそいだ。

貴族の争いとは、天武系と百済・唐系との争いということで、当時の先進国唐国のバックがある百済系貴族は、百済系でない者を、「百済ではない。」、つまり「クダラナイ」と言うことで、新羅系貴族を中央から追い落としていくわけです。そして、桓武天皇は、百済系貴族に不利な書物を焚書し、日本書紀を改竄し、そして、続日本紀を編纂するのです。
それらの歴史改竄により、現在の日本人は、飛鳥時代、そして奈良時代の実体を知ることが出来なくなってしまったわけです。
更に、桓武天皇は、天武朝系の聖武天皇の遺品を納めた正倉院の保管物を適当に処分することにより、天武朝の北方騎馬文化の臭いを消してしまうのです。
正倉院とは、正倉つまり重要物品を納める蔵が幾棟も集まった所を言うのです。その正倉院には、756年に没した聖武天皇の遺品が納められていたのです。その中に、北の果ての地方豪族が乗るような馬の装具が十具あったのです。これはどう言うことなのか。(平安時代の貴族は、牛を交通手段として利用し、馬(騎馬文化)を蔑視していたので、天皇が馬に乗るなどの発想はなかったのです。)
更に、正倉院の建築方法から、前史の謎解きができるのです。
正倉院は湿気を防ぐための校倉造りで造られているから、それは当然南方系の建物かと思われていますが、実は、中央アジアの遊牧民族スキタイ族の冬の住まいがルーツであるわけです。遊牧民族の建物は、移築可能な組み立て式で、移動が簡単にできるようになっているのです。その正倉院に保管されていた物の中に、不思議なものが多くあるのです。ペルシャ地方の王様をかたどった面の「酔胡王面」、パミール高原の少数部族が使用するワッチ太鼓の「くれの鼓」、そして中国から出土していないカスピ海周辺で制作された「白瑠璃椀」など、西域地方の物品が多数あるのです。
平安時代、文化の面でも、北方系ルーツの伎楽を止め、インドから東アジア経由の雅楽を宮廷音楽とするのは、北方系文化抹殺の手段なのでしょう。
そのように、北方騎馬文化が前史にあったことがバレルと、騎馬民族の蘇我氏が「大臣(臣とは奴隷という意味)」ではなく、実は「大王」であったことが知れてしまい、その結果、後のひと達に、百済王朝が簒奪王朝だと知れてしまうからです。
特に、仏教伝来のストーリ、538年百済王聖王が仏像・経巻を倭王に贈り、「未開の野蛮人の倭人を教化した。」が崩れてしまうからです。
504年に、中国の南梁に渡った北倭国僧慧深の記事が「梁書扶桑伝」にあります。北倭国僧慧深の北倭国についての説明によれば、北倭国は、山陰・北陸の文身国、伊勢・美濃一体の女国、そして相模・武蔵の大漢国に分かれていて、それらを統治していたのが扶桑国(北海道南端の国)であるということです。その扶桑国には、馬車や鹿車(トナカイのソリか?)が交通手段として利用されていたということです。五世紀の東日本については、「日本書紀」には「蝦夷の国」としか記述していないのに、中国史書の「梁書」には北倭国のことが記述してあるのはどう言うことなのでしょうか。
そのような北方文化の目で、飛鳥時代、そして奈良時代を見てみると、やはり行き着くところは「聖徳太子」の謎(ウソ)です。
聖徳太子と言えば、日本人であれば誰でも知っている超有名人です。しかし、「古事記」と「日本書紀」以外の史料は全て裏付けのないものばかりです。(「古事記」、「日本書紀」の史料は信用できるとは保証できませんが。)
いやそれは違う、一昔前の一万円札に、聖徳太子の肖像があったではないか、と反論するひともいるでしょう。でも、その正倉院御物聖徳太子像は、中国大陸人が描いた中国大陸人の像であって、聖徳太子とは全く別なひとであるわけです。
その聖徳太子像は、どこからもたらされたかと言えば、元は法隆寺ではなく、大陸色(騎馬文化色)の強い「川原寺」(天武天皇が建立か?仏教行事には、平安朝廷のインド系雅楽ではなく、大陸調の伎楽を専門的に執り行っていた。)からです。
その聖徳太子像には、二人の侍童を伴っていることは、何を意味しているのでしょうか。
太陽神の古ミトラ教は、三神で構成されています。それらは、日の出の神、天中の神そして日没の神です。日の出の神は「ケプリ」で「創造」を、そして日没の神は「アトン」で「完成」を表しています。その二人の神をともなって、ミトラ神は救世主(メシア)となるわけです。
そこで思い出されるのは、仏像が聖徳太子から秦河勝に渡され、仏像安置のために建立した寺の名前です。蜂岡寺が広隆寺となるのですが、それは後に太秦寺(ウズマサデラ)と言われるのです。その太秦寺とは、中国大陸では、ペルシャ寺と言われているのです。その太秦寺では、牛祭りを行い、ご本尊が魔多羅神(ミトラ神?)であるわけです。
ミトラ神が、牡牛を屠るには意味があります。それは、今から五六千年前のチグリス・ユーフラテス河の住民には、農耕のためには牛は最も大切な労働力であるわけです。毎年、耕作の開始の春分の頃、太陽が通過する星座を牡牛座と呼ぶようになったらしいのです。まだ暦の知識がない時代でしたので、牡牛座が、永遠に太陽の新しい出発点となる聖なる星座と信じられるようになると、「牡牛」そのものが「太陽神のシンボル」に変身してしまうわけです。太陽は、死と再生を繰り返すと信じられたため、太陽のシンボルを屠ることにより、人工的に再生を創り出そうとしたわけです。
太陽の光が最も衰える12月25日の冬至(太陽の死)は、太陽が復活する聖なる日になるわけです。この聖なる日がミトラ教に取り入れられ、そのミトラ教を乗っ取ったユダヤ・キリスト教は、救世主イエスの誕生日とするわけです。
そのミトラ神が、仏教の寺にいることは、一体何を意味しているのでしょうか。
聖徳太子が活躍(?)した時代を飛鳥文化と呼んでいます。その時代を歴史教科書は どのように説明しているのか調べてみましょう。

聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。太子が建てた法隆寺は、今も残る世界最古の木造建築であり、釈迦三尊像や玉虫厨子などのすぐれた美術工芸品がある。また、奈良の中宮寺と京都の広隆寺には、美しい弥勒菩薩が残っている。この文化は朝鮮からの渡来系の人々の手によるところが大きく、その中心が飛鳥地方にあるので飛鳥文化とよばれている。

一万円札にある聖徳太子像が「ウソ」であるならば、607年に聖徳太子により創建されたと信じられている法隆寺は、一体誰が建てたのでしょうか。
教科書によれば、「朝鮮からの渡来人」、となっているから新羅人か百済人だと誰でも考えてしまうでしょう。しかし、それらの飛鳥文化を代表する元興寺や飛鳥寺は、蘇我馬子により中国大陸から招聘された太丈羅未大(タザラーミド)、白味淳(バイミズン)などの非東洋人(ペルシャ人?)の建設指導者により建立されているのです。
では、法隆寺もそれらの非東洋人により建立されたのかと言うと、調べ様がないのです。それは、日本書紀によれば、670年に焼失してしまったからです。しかし、その日本書紀の記述はウソだったのです。発掘された元の法隆寺跡には焼失の痕跡が見つからなかったからです。
更に、法隆寺跡から少し離れた場所に再建された新法隆寺の心柱をエックス線年輪年代学によって調べた結果、その心柱の最終年輪は591年であることが確定したのです。これは一体どう言うことなのでしょうか。
法隆寺の建物にウソがあるように、その建物に納められている釈迦三尊像や救世観音にもウソがあるようです。日本書紀によれば、法隆寺は天智9年に焼失したのならば、それらの仏像(飛鳥時代に制作された。)は焼けなかったとでも言うのでしょうか。
四世紀後半、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教は、敵であるミトラ教の神殿を破壊して、その神殿の上にキリスト教会を建設するのです。ですから、ローマ帝国内の全ての教会の地下を発掘すればミトラ神殿(神殿は地下に建設された。)が現われて来ると言われています。
敵神殿の跡に教会を建てることは二重の意味があるのです。ひとつは、敵宗教の痕跡を歴史から消すことができるからです。もうひとつは、敵宗教の地理的歴史を乗っ取れるからです。
その新法隆寺建立の謎を解いたひとによれば、その法隆寺と呼ばれている寺は、北九州から移築されたと言うのです。更に、奈良に現存する飛鳥時代・奈良時代初期の寺は、全て北九州からの移築だと言うのです。北九州には、無数の倭国時代の廃寺が存在します。
何のための移築かと言えば、それは、蘇我氏、つまり飛鳥時代以降の歴史を隠蔽するためです。飛鳥時代の寺が現存していない(あの秦河勝の広隆寺も再建です。元は現在地ではない所に建立されていた。)と言うことは、抹殺された廃寺は何を物語っているのでしょうか。
日本書紀によれば、大化の改新の時、蘇我氏の館が焼失した時に、国の歴史書は全て焼失してしまったことになっているのです。だから、飛鳥時代の歴史は分らない。
更に時代が下がって、騎馬系天武天皇の流れにある聖武天皇の遺品を納めた正倉院には、西域の楽器や食器、或はお面はあっても、本邦の当時の風俗を顕わす絵画や彫像など一切のものがないのです。しかし、日記類はないのに歴史書はあるのです。だから、飛鳥・奈良時代の風俗は分らない。
では、聖徳太子(=藤原氏による蘇我馬子の事績を基に創作された合成人物像)が広めたと信じられている飛鳥時代の仏教とは、本当のところ何なのでしょうか。
聖徳太子が実在の人物でないとすれば、日本の仏教史どころか古代史のストーリは書き換えなければならなくなるでしょう。それは、古代史のメーンテーマである、「大化の改新」が起こる必然性の根拠(蘇我氏が聖徳太子の遺児一家を滅ぼした。)が消滅してしまうからです。
では、聖徳太子の事績が蘇我馬子だとしたら、渡来した仏像はどのようなものだったのでしょうか。
仏教史によれば、聖徳太子(蘇我馬子)が弥勒菩薩像を秦河勝に渡したことにより、仏教が倭国に広まったことになっているわけです。そして、その仏像安置のための寺が広隆寺であるわけです。しかし、その広隆寺では、仏教開祖の「釈尊」ではなく、素性不明の「魔多羅神」を祭っているのです。更に、その広隆寺の再建前の寺(太秦寺・ペルシャ寺)は、どうも仏寺ではなく、景教寺であったようです。
では、その弥勒菩薩像とは、「本音」ではどのような背景を持った仏像なのでしょうか。弥勒菩薩とは、インドではマイトレーヤと言われ、その素性はミトラ神であるわけです。そのミトラ神の素性の一端は、ローマ帝国内で繁栄したミトラ神に見ることができるようです。
紀元四世紀にユダヤ・キリスト教に滅ぼされた、ローマ帝国内で崇められていたミトラ神(ラテン語ではミトラス神・不敗の神)は、紀元一世紀にローマ帝国軍がシリア地方を攻略した時、敵側の軍神であったわけです。その敵側の軍神のミトラ神が、ローマ帝国軍の軍人達により、ローマ帝国に持ち込まれ、瞬く間に広まったわけです。
敵側の軍神がローマ帝国内に広まった理由のひとつは、戦いの困窮時に現われて救いの手を差し伸べる救世主思想だけではなく、オリエントの神秘としてのイニシエーションの密儀、秘教占星術、そして牡牛を犠牲とする祭儀などを行うからです。(現在の秘密結社の入会儀式は、ミトラ教の「死と再生」の儀式を真似したものと言われています。)
太陽神のシンボルである牡牛を犠牲とし、その血を飲み、肉を食べる密儀式は、現在ではユダヤ・キリスト教に取り込まれ、赤ブドウ酒とパンに変成してしまっていますが、元の意味は、太陽神と一体になることです。
視点をずらせば、戦争とは、「宗教と武器開発の祝祭」とも考えることもできるわけですから、「神」は常に戦場に現われるわけです。つまり、神には、常に軍神としての需要があるわけです。
聖徳太子(蘇我馬子)から弥勒菩薩像を渡された秦河勝の祖先は、五世紀に新羅国からの渡来人であるわけです。そして、その弥勒菩薩は、元は新羅国を経由して、秦人により倭国にもたらされたものなのです。
では、新羅国の軍人は、どのような神を崇拝していたのでしょうか。
新羅人は、元々朝鮮半島にいたわけではなく、出自は西域からです。その西域からの新羅人が四世紀に朝鮮半島南端に小さな国を興した後に、職能集団・国際交易商人の秦人が入り込んだようです。そのように、外からの異民族が流入することにより、新羅国は強大な国に変身していったのです。
その新羅国の軍隊の中核をなすのが「花郎」(この組織運営は九州に渡り「兵児二才」となり、日本国の武士育成の礎となる。美少年天草四郎の青年武士団もこの流れにある。)です。
花郎の源流は、氏族社会において青少年の集団生活をとおして、心身の鍛練と氏族社会の規範を教え込み、有事の際、戦闘員として役立つように組織された機関です。この風習が、六世紀の朝鮮半島の動乱に、新羅国の真興王(540〜575)により、在来の青少年集団を正規軍の国軍として組織化を図ったわけです。つまり、国家軍の総指揮者を「花主」と称し、その下に「花郎」をおいて軍卒を統率指揮したのです。そして、その軍隊は、仏教(騎馬民族は、漢民族の儒教に対抗して仏教を保護した。)の弥勒菩薩を深く信じて、自らを弥勒の化身だと確信していたようです。
「花郎」の「花」とは「弥勒」の訓借字で、「郎」とは「男」の意味です。つまり、「花郎」とは、「弥勒の男」という語義をもつものであるわけです。
そのように、軍神の背景を持つ弥勒菩薩を、蘇我馬子(聖徳太子)が秦河勝に渡したという意味は何なのでしょうか。その意味は、単なる仏教の布教だけではないのでしょう。
蘇我氏が倭国の歴史に突然現われた時代背景をみてみましょう。
まず、新羅国が百済国に屈服した。大和の地を中心に、四十七箇所に屯倉が設置された。そして、突如、蘇我稲目(蘇我馬子の父)が、政治の中央に躍り出た、ということです。
中国大陸の動乱に影響されて、朝鮮半島の高句麗、百済そして新羅は、三つ巴の戦いに明け暮れていたのが、六世紀の東アジアであったわけです。
そのような時代に、朝鮮半島三国のコロニーがいがみ合う倭国において、大乗仏教は殺生禁止の仏の教えを布教していた、とでも言うのでしょうか。そもそも、仏教は、他民族を統治するための、騎馬民族の武器のひとつであるわけです。
ではどうして、その騎馬民族の武器のひとつである仏教が、平安時代になると、騎馬民族を「セダラ」と蔑むようになったのでしょうか。
その謎は、六世紀の近畿地方の政治情勢、つまり「百済系民族」対「新羅系民族」の抗争に原因があるようです。そして、仏教が反騎馬民族となるその謎を解くひとつのヒントは、「聖徳太子の発明」にあるようです。
仏教史によると、仏教が倭国に導入された時、二度の争いがあったということです。一回目は、物部尾輿対蘇我稲目、そして二回目は、物部守屋対蘇我馬子です。(この戦いの時14歳の聖徳太子が登場するのです。)その原因は、仏教史では「神」対「仏」の戦いということです。
しかし、それは可笑しい。その原因が「宗教戦争」と言うのなら、本当に物部氏は「神」だけを崇拝する部族だったのでしょうか。
物部氏は海洋民族の連合部族で、その中核には始祖ニギハヤシの伝説を持つように、新羅系部族とも関連がある部族もいるのです。それに、蘇我馬子のお妃は、物部氏の出なのです。
では何が原因かと言えば、それは「経済戦争」、つまり、大和の地での物流経路の縄張り争いだったのです。
四世紀、大和の地に国際交易商人達が「大和支店」を開設し、その後、その利権を得るために、朝鮮三国の高句麗、百済そして新羅が大和の地に進出してくるわけです。
やがて六世紀、朝鮮本国での三国の争いが、大和の地にも影響して、それぞれの流通経路が確立していくわけです。それが、「高句麗・百済」→筑紫→吉備→難波→紀伊→葛城と、「新羅」→出雲→越・若狭→近江→山城→磯城の二つの物流系列となるわけです。この、「高句麗・百済」対「新羅」の経済戦争が、軍事部族の出番となるわけです。それが、「物部氏」対「蘇我氏」の戦いの本質でしょう。
その戦いで圧倒的な強さを示した蘇我氏の軍事力の基は、なんと言っても「軍馬」でしょう。
十六世紀、スペイン人がインカ帝国を滅ぼしました。その戦いで、「軍馬」の威力を知ることができるでしょう。
インカ帝国最後の皇帝ワイナ・カパクの死後、帝位相続にからむ内戦のさなか、北部エクアドル・インカ帝国のアタワルパが南部インカの帝都クスコを陥落させ、北部カハマルカに数万の軍隊で陣取っていました。そこへスペイン軍が突入するのです。その数、180名。その180名の軍隊が数万のインカ帝国軍を陥落させた原因のひとつが、「軍馬」であったのです。
蘇我軍の強さのひとつは「軍馬」ですが、それに「石弾」が加わるのです。蘇我氏の都「飛鳥」(アスカとはペルシャ語で大鷲の意味。)の遺跡で石が多く見られるのは、それは軍事物資の貯蔵所でもあるわけです。平和時では、道路や堀に石を敷き詰め、戦争時には、それらを掘り起こして「武器」とするわけです。石投げは、騎馬民族の弓が発明される前は、重要な武器のひとつであったわけです。旧約聖書で、少年ダビデが敵将巨人ゴリアテを倒すのも、「石」であったわけです。
六世紀の朝鮮三国の争乱に乗じて、その軍事力をバックに、大和の地の物流ニ系列を支配したのが、蘇我稲目であったわけです。そして、軍事力保持のため、蘇我稲目は、大和の地の四十七ヶ所に屯倉を設置するのです。
歴史教科書では、屯倉とは大和朝廷の直轄地ということですが、本当なのでしょうか。
645年(乙巳の変)を境に、つまり、蘇我王朝の滅亡を境に、屯倉の存在意義も異なったようです。蘇我氏の時代の屯倉は、軍事施設であったわけです。それは、交通上そして軍事上にも拠点になるところに設置していたのです。それに、百済から海路で大和に入る重要拠点の吉備には、541年に蘇我稲目は自ら赴き、吉備五郡に白猪屯倉を設置するのは、高句麗・百済軍を迎撃するための基地としたからです。
では何故に、大和の地が争いの素となったのでしょうか。それは、弘法大師の空海が開いた高野山に原因があるのです。高野山は、銀鉱脈の地(鉱脈は伊勢まで続いている。壬生も水銀の産地。江戸時代、高野山では「京おしろい」、伊勢では「伊勢丹」として水銀を原料に白い粉を、表向きは「白粉」として、裏では男には回春薬として妊婦には堕胎薬として販売していた。江戸末期、九州の出島よりオランダ貿易商人から広まった梅毒の特効薬として白い粉は再び脚光を浴びた。)でもあるわけです。その高野山の入口の関所となるのが、大和の地であるわけです。
古代宗教儀式には朱砂・水銀は重要な道具です。朱砂は、呪術時代には、霊力のある「モノ」であったのです。それは、キズが化膿しているところに塗ると、治癒するからです。その朱砂の効能を知るひとは、呪術者として生きられたわけです。化学を知らない時代では、化膿していたキズを治すのは「カミ」の技であったわけです。
しかし、その治癒力は「カミ」の技ではなく、水銀の威力だったのです。朱砂は、硫化第二水銀です。このキズの消毒にたいする「赤」の力は、日本国では昭和48年まで続いていたのです。(水銀毒が指摘され製造中止となった。)昭和生まれのひとなら知っていると思いますが、それは「赤チン」と呼ばれていました。赤チンは正式にはマーキュロクロムと言われ、「有機水銀化合物」であったわけです。
やがて、この朱砂は布に染み込ませると、海の悪魔「サメ」を撃退することを知るひとが出現するのです。そこで、海洋民族は、海に潜るとき「赤褌」をすることにより、水銀毒でサメを避けることを知るのです。やがて、その赤布は、海洋民族の呪術のシンボルの「赤旗」になるわけです。海洋民族の「古平氏」や「平氏」が赤旗を掲げる意味がここにあるのです。(それに対する騎馬民族は、太陽神のシンボル「白旗」です。新羅を「シラギ」と読むのは「蔑称」です。そのシラギとは、「新羅の奴」と言う意味です。新羅はシンラ或はシルラと読み、その意味は新しい「ラー=太陽」と言う意味です。)
貨幣経済の発達していない縄文・弥生時代では、朱砂は呪術の道具の重要な物質であったのです。
やがて、ヨーロッパや中国大陸で銀の需要が増してくると、銀の争奪戦が行われるわけです。そこに、宗教組織も参戦するわけです。
古代の宗教家とは、科学者、化学者そして医者でもあったわけです。只、一般人と異なるところは、宗教家の目的は金儲けではなく、意識の変成つまり、神に近づくことにあるわけです。
中国の道教では、不老長寿が実践され、仙人になるための手段として、錬丹術が開発されるわけです。それは、朱砂の、鎮静・催眠効果そして殺菌効果を呪力として信じていたわけです。
インドでのバラモン教では、水銀による知覚神経や自律神経を麻痺させる効果を知ることになり、水銀の利用方法が、宗教の名の下で開発されて行くわけです。しかし、水銀毒についての知識が増すと、表の術から裏の術、つまり密教となっていくわけです。
このバラモン教の密教が平安時代に、空海(水銀中毒で即身仏となる。)によりもたらされる訳ですが、蘇我氏が持ち込んだ仏教との関連性はあるのでしょうか。どうも、蘇我氏の仏教と平安時代の仏教とは、同じではないようです。それは、拝む対象の「仏」が異なるからです。
蘇我馬子が秦河勝に与えたのが、軍神「弥勒菩薩」であるなら、どうして、物部守屋との戦いの時、蘇我馬子側の十四歳の聖徳太子は、軍神「弥勒菩薩」ではなく、「ぬりで」で四天王の像を造り、それを頭に縛り付け「もしこの戦いに勝利したならば、護世四王のために寺を建てようぞ。」と祈願したのでしょう。
そもそも、四天王とはどのような素性の者なのでしょうか。仏教史によりますと、四天王とは、釈迦を守護する、持国天、広目天、増長天そして多聞天ということになっています。それは、仏教世界の中心の須弥山の中腹で、東西南北の四方を守るとされ、持国天が東方を、広目天が西方を、増長天が南方を、そして多聞天(ビシャモンテン)が北方をそれぞれ守護するわけです。しかし、このコンセプトは、大乗仏教のものではなく、ヒンズー教(バラモン教)の「世界守護」(ローカバーラ)であるのです。
ヒンズー教のローカバーラとは、東方はバラモン教のインドラ(実力神)が、西方はバラモン教のヴァルナ(水の神)が、南方はバラモン教のヤマ(死者の王)が、そして北方はヒンズー教のクベーラ(財宝神)が守護するわけです。
クベーラ(財宝神)は、日本国にはビシャモンテンの仏名ではいってきたのですが、それは、インド南回りの仏であるわけです。それがどうして、北回りの騎馬民族の蘇我氏の軍神となるのでしょうか。これは可笑しい。そもそも、仏教を拓いた釈尊は、反バラモン教だったのです。それに、バラモン教は、菜食主義の神であり、騎馬民族の牧畜・肉食主義とは反する教義を持っているわけです。
見方を変えれば、十四歳の聖徳太子の、物部守屋対蘇我馬子との戦いでの不自然な物語(少年ダビデと同じコンセプト。)は、どうも蘇我氏のペルシャ系北方仏に、無理やりインド系南方仏を接木するためのものではないか、と言うことです。
そのような見方で、平安時代の仏像を見てみますと、インドのヒンズー教(バラモン教は、やがてヒンズー教に取り込まれて消滅。)の神々が、日本国の仏寺に鎮座しているのが分るでしょう。例えば、金毘羅はクビラで、吉祥天はラクシュミーで、そして鬼子母神はハーリーティで、それらの仏像はインドではバラモン教の「外道の神」であるわけです。それが如何して、反バラモン教の仏寺に鎮座しているのでしょう。そこで考えられることは、蘇我氏の時代の仏教と平安時代の仏教は、「異なる」ということです。
そのように考えるとすれば、蘇我氏が建立した飛鳥時代の仏寺(ペルシャ寺)は、平安時代に徹底的に破壊され、その跡に、北九州(秦王国・辛国)の寺を移築した理由が理解出来るでしょう。それは、恐らく、飛鳥時代の「仏寺」は、仏像を安置するための建物ではなく、戦略的建築物であったのです。
飛鳥時代の戦いは、中国大陸で使用されるような破壊的大型武器などを持たない、槍や弓矢そして石を武器とする先住民相手なので、守備としては環濠を巡らした城郭で充分であったようです。現在のような城が出来る流れとして、朝鮮式山城(奈良時代)→都城・城柵(平安時代)→山城(鎌倉時代)→平山城(室町時代)→平城(江戸時代)となるわけです。
国を運営するには、政治、経済、軍事そして宗教が必要です。しかし、政治と宗教とが分離するのは、約千年後の国民国家成立(1776年アメリカ建国)まで待たなければなりません。それ以前の国家では、政治と宗教とが癒着していたのです。そのような時代に、時の為政者が替わることなく、コンセプトの全く異なる宗教組織だけが替わることはありえません。
では、飛鳥時代の仏教を隠蔽するには、どのようなトリックが考えられるのでしょうか。
そのトリックのひとつが、接木としての人物の創造です。
紀元前932年、ソロモンが死ぬと、レビ族の末裔に苛められていたエフライム族達の末裔は、イスラエル王国を建て、ソロモンは「ヤコブだ」、と言い始めるわけです。「ヤコブ」とは、不正な手段で簒奪した者を意味する言葉です。そこで、レビ族の末裔は、あるトリックを考えるのです。
それは、旧約聖書の創世記第三十五章の九

さてヤコブがパダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現われて彼を祝福された。神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。

そして、この物語をエフライム族の先祖のヨセフの物語の前に挿入するのです。
これはどう言うことになるのか。それは、つまり、ソロモンを「ヤコブ」ということは、エフライム族の先祖のヨセフ(イスラエル)を「ヤコブ」(簒奪者)と言うことになってしまうわけです。そのようなトリックにより、やがてレビ族の末裔ソロモンは、「ヤコブ」と呼ばれなくなるのです。
接木は時代と伴に、その接合面が分らなくなりますが、よおく目を凝らして眺めると、ある不自然さを感じるようです。
では、日本の接木の「聖徳太子」はどのようにして創造されたのでしょうか。
聖徳太子を現在のように有名にした人物のひとりとして、804年遣唐使として唐に渡って、後に天台宗を創設した最澄がいます。最澄のバックを調べると、何故、死後百年後の聖徳太子を宣伝したのかを理解できるでしょう。
最澄を遣唐使にと、百済系桓武天皇に推挙したのは、あの道教事件で、騎馬民族天武天皇系最後の称徳天皇(=孝謙天皇)の逆鱗に触れ、島流しにされた和気清麻呂(しかし、百済系光仁天皇の時代になると豊前国司となり八幡宮の三神職の世襲を決めた。このことは、新羅の神を祀る北九州倭国の八幡宮が、百済系王朝(京都王朝)に乗っ取られたということです。)の子弘世と真綱であるわけです。つまり、百済系日本人が聖徳太子の宣伝隊であるわけです。
では、何故、架空の人物「聖徳太子」(結果として、ヒンズー教のカースト制度を日本国に持ち込み騎馬民族を苛めた人)を、新羅系日本人は疑わなかったのでしょうか。
ローマ帝国には、四世紀にユダヤ・キリスト教が国教となるまで、強力な宗教組織が存在していませんでした。そこで、軍人や国際交易商人達がオリエントやエジプトから神々を勧請していたのです。
紀元前五世紀から、エジプトのイシスの神はローマ帝国で崇拝されていました。その大地母神イシスは、子供とセットの母子の神だったのです。その子ホルスを抱くイシス神は、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教に取り込まれ、イエスを抱く聖母マリアへと変身するわけです。古代エジプトでは、「子供」それ自体が「神」であったわけです。その「子供=神」は、古代エジプトでは「モーセ」と言うわけです。旧約聖書に登場のモーセも、聖徳太子と同様に、エジプトの神(アトン=太陽神)とユダヤの神(ヤハウェ)の接木のようです。ユダヤの神とイスラエルの神は、元々は異なるようです。元々のイスラエルの民(紀元前十四世紀、イクナトン王失脚のためエジプトを追われたヨセフ直系のエフライム族)は、金の子牛(太陽神のシンボル)を祭っていたからです。
西域からの渡来民族の新羅にも、母子神がいたのです。巫女が降神させる神霊の呼称を「太子」と言うわけです。巫女と太子とは、「母子」のセットであるわけです。新羅でも「子供=太子」それ自体が「神」として崇められていたのです。つまり、太子信仰は、新羅民族には、馴染みであったわけです。
この太子信仰を刷り込まされている新羅民族の末裔の新羅系日本人が、死後百年後の聖徳太子(成人しても聖徳「皇子」と言わずに、聖徳「太子」と命名したトリックは、新羅国における「太子信仰」をオーバーラップすることにあったのです。)の輝かしい事績を刷り込まされてしまえば、その存在を疑う気持ちも持てないことが理解できるでしょう。
もしかしたら、聖徳太子を創造したひとは、旧約聖書のヤコブの物語を知っていたのかも知れません。
この、モーセ(神の子)、ダビデ(敵将を倒す少年)、そしてキリスト(厩で誕生し、死後?約百年で復活)のニオイがする「聖徳太子」が架空の人物で、歴史上存在しないとすれば、飛鳥時代はどのようになるのでしょうか。
歴史教科書的に言えば、蘇我稲目の台頭、そしてその息子馬子と聖徳太子の積極的な崇仏の働きかけによって、廃仏派の物部氏を倒し、飛鳥を中心に、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺そして葛木寺の「聖徳太子伝建立七寺」の建立により、仏教は飛鳥を中心に日本列島に受け入れられて行った、ということになっているようです。
しかし、六世紀に仏教伝来の当初は、仏像の保管場所の伽藍と伴にではなく、単独で仏像が秦氏により朝鮮半島からもたらされた時、仏像は「仏神」、「蕃神」そして「他国の神」と呼ばれ、ともすればひとびとの命を奪い、病にさそう偶像ともみられていたのです。つまり、今日考えられているように、仏像はひとびとの命を延ばし、病を回復させ、ひとびとに利益を与える、というようなことにはなっていなかったのです。
では、仏像がもたらされる前は、飛鳥はどのような宗教環境であったのかと言えば、ペルシャ文化の色が濃い蘇我王朝は国際的であったので、飛鳥の地は、シャーマニズム、アニミズム、道教、景教、そして朝鮮民間宗教などの「宗教の坩堝」だったのです。
しかし、蘇我・新羅系天武王朝を倒した百済王朝は、ペルシャ文化の色を抹殺するために、蘇我王朝の戦略的建築物を破壊し、その跡に、九州・秦王国の寺を移築し、「聖徳太子伝建立七寺」とするわけです。
では、そのようなことが「ウソ」であるならば、後世のひとびとは、今日までその「ウソ」を語継ぐはずである、と思うでしょう。しかし、ひとの語継ぐのは、せいぜい三代までの、約百年です。
このことは、先祖のお墓の引継ぎで理解できるでしょう。都心の墓地の募集チラシをよく見るでしょう。そのチラシのキャッチコピーに「永代管理」が書かれているでしょう。もし、永代に渡り墓地を使用していれば、初回に完売をすれば、その後は、墓地の募集などできるはずはありません。なぜならば、「永代使用」だからです。しかし、墓地のチラシ広告は撒かれ続けます。それは、三代続けて管理する家が精々で、四代目になると、墓地の管理に無頓着になる家があるからです。つまり、日々の暮らしが豊かではない家では、先祖代々の墓も百年も立てば、忘れ去られる運命にあるわけです。
だから、英雄(キリスト・聖徳太子)は百年後に現われるのです。
では、書物に残せば、後世のひとびとに「ウソ」を伝えられるであろうと考えても、簒奪者は、焚書で対抗するわけです。蘇我王朝の歴史書の国記・帝記も、645年に藤原氏により焚書されてしまったわけです。
では、飛鳥時代の教科書的「ウソ」を知ることは出来ないのでしょうか。そこで、勝利者側の書籍が活躍するのです。勝利者の歴史は、必ず簒奪された側を悪く言う傾向があります。それに、前政権の事実を抹殺できない場合、「接木」を用意します。その「接木」した個所を丹念に調べれば、前史のことを推測することが可能でしょう。
飛鳥の地を少し広げた地域を「大和」と言います。この「大和」の実体を推測する手ががりとしての「接木」が「万葉集」に見つかるでしょう。
「万葉集」は、八世紀に大伴家持が、四千五百十六首の歌を編纂したものです。その歌のなかにある「大和」の枕詞に、「虚見津」があります。それは「ソラミツ」と読むわけですが、ソラミツは、「空見津」、「虚見都」などの記述がみられますが、一体、大和の枕詞のソラミツとは何を意味しているのでしょうか。
教科書的説明では、神武帝より先に大和国を治めていたニギハヤヒが、天空から大和を眺め、住みよさそうな処と天降ったのにちなみ、「虚空みつ大和」となった、と言うことです。さらに、神武帝が丘に登り、山頂から国見をした故事にならった、と言うことです。しかし、万葉集の研究家には、その語義が定かではない、と考える人もいるようです。
では、大和の枕詞の「ソラミツ」とは、本音では、どのような意味が考えられるのでしょうか。
「空」の字義は「穴」で、それは「むなしい」「うつろ」、「つきる」そして「なにもない」の意味があるわけです。「虚」の字義は、「実なし」、「物なし」の意味で、「ソラ」に転用されたものであるようです。
そこで考えられる解釈として、「ソラミツ大和」とは、「実体の伴わない、空虚な大和国」、と考えられることができるわけです。つまり、「大和国はウソッパチ」となるわけです。では何がウソッパチかと言えば、大和の国の全ての寺は、秦王国から移築された寺である、ということです。では、飛鳥の寺は、仏像を祀る処ではないのであれば、一体何をおこなう処だったのでしょうか。
一般的に、ひとは、一度刷り込まれた情報を訂正することは、非常に困難なようです。このことは、「聖徳太子は歴史上存在しなかった。」、と言うことを素直に認めることができないことで、理解できるでしょう。
歴史とは、あるひとが、ある目的のために綴った物語です。ですから、その物語が全て真実であった、などとは言うことができないわけです。それは、その真実と思われる事柄も、別の角度(敗者側)から眺めると、全く異なる物語となる可能性もあるからです。
一般的に言えることは、現在存在する「歴史」は、勝者側の物語です。それでは、敗者側の歴史は、勝者側に焚書されてしまうから、存在できないのでしょうか。
そこで智恵ある敗者は、勝者の歴史の「ウソ」を、後世のひとに知らせる方法を考えるのです。その方法は、勝者の歴史書に、暗号として「ウソの解き方」を挿入するのです。
例えば、「モーセはいなかった。」と言うことを後世のひとに知らせるために、ヨハネは「ヨハネの黙示録」を書いたのです。それは、暗号として述べた文章を解読させることで、その真実(敗者側の)を後世のひとが知ることができるように工夫したのです。その暗号とは、ヨハネの黙示録第十三章十八節に、

ここに、智恵が必要である、思慮あるものは、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。

この666の謎を研究したひとによれば、エズラ記の第二章十三節に「アドニカムの子孫は六百六十六人」の言葉を見つけ、ギリシャ文字(聖書はギリシャ文字で書かれていた。)による数字の表現方法を「666」に当てはめるのです。その方法によると、A=1 R=100 N=50 O=70 U=400 M=40、そしてE=5とし、「ARNOUME」という単語を探り当てるのです。その単語の合計は「666」です。そして、そのARNOUMEとは、「否定する」という意味です。そこで、その解読単語を先の文章「アドニカムの子孫は六百六十六人」に当てはめると、アドニカムとはヘブライ語で「主はよみがえる」と言う意味からすると、「アドナイ(主)を否定せよ。」となるわけです。
モーセの五書には、二つの異なる文章が存在します。それは、エロヒム(神)とヤハウェ(アドナイ・主)とを主語とする文章です。そこで、ヨハネの暗号解読によれば、「主を否定せよ。」ですから、主が主語の文章は「ウソ」だ、と言うことになるわけです。そこで、モーセ五書の出エジプト記を読んでみると、モーセは「否定」されるわけです。
では、日本国の「聖徳太子」はどのようにして「否定」されるのでしょうか。
日本版「聖書」は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。では、日本版「ヨハネの黙示録」は何かと言えば、それは「古事記」でしょう。
歴史教科書によれば、古事記は712年、日本書紀は720年に完成したことになっているようです。しかし、古事記の712年(和銅5年)は「ウソ」です。古事記は、そこから百年後の平安時代に、忽然と現われたのです。では何故に、712年に完成と信じ込まされているかと言えば、それは、古事記の序に、和銅5年の記述があるからです。
ではなにを目的に、平安時代に古事記は出現したのでしょう。それは、「日本書紀」の「ウソ」を、後世のひとに知らせるためです。
平安時代とは、百済系桓武天皇の時代で、天武天皇系の蘇我・新羅系日本人には生きるのが苦しい時代だったのです。それは、ひとの貴賎を決め付ける「新撰姓氏録」などで、百済系日本人を「貴」とするデタラメ書籍(敗者側にとって)なとで、蘇我・新羅系日本人を政策的に「賎」と貶めたためです。このことは、古事記の序文の天武天皇の言葉(平安時代、多人長側が創作した言葉)に表れています。

私が聞くところによると、諸家のもたらした帝記と旧辞とは、既に真実と違い、偽りを多く加えているという。今この時において、その誤りを改めないならば、幾年も経たないうちにその本旨は滅びてしまうであろう。この帝記と旧辞とは即ち国家組織の根本となるものであり、天皇の政治の基礎となるものである。それゆえ、帝記と旧辞を良く調べて正し、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えようと思う。

それでは、古事記は昔から読まれていたかと言えば、そうではないようです。それは、古事記より八年後に完成した、日本書紀に古事記の存在すら記述されていないからです。勿論、平安時代に創作された続日本紀にもありません。
では、誰が古事記の存在を知らしめたかと言えば、それから千年後の江戸時代、古事記伝四十四巻を著した、反仏教派の国学者の本居宣長であるわけです。
古事記の存在を知るのは、平安初期(812年)に多人長(おおのひとなが/新羅系秦氏の末裔)が書いた、日本書紀の講義録の「日本書紀私記」の序にある、古事記の紹介文によるのです。
古事記を研究したひとによれば、日本書紀と比べると不思議なことを知るのです。そのひとつとして、先に書かれたと信じられている古事記に、日本書紀の脚注の全てに符合する事柄が記述されているからです。更に不思議なことは、古事記は「天之御中主神」から始まるのに対し、日本書紀は「国常立尊(命)」から始まるのです。この「神」と「尊」の対比は、モーセ五書の「神」と「主」の関係を彷彿させます。
更に、古事記に、天武天皇の序があるのならば、それに、後世のために偽りを正すのならば、何故に、四十代天武天皇まで記述しないで、三十三代推古天皇までの記述で終わっているのでしょうか。古事記が、日本書紀を意識して創作されたのであれば、日本書紀に対抗して、せめて天武天皇まで記述するのが当然でしょう。
そこで考えられるのは、サイファー式の暗号解読法です。そのひとつとして、同じ文章か数字がある場合は、その文章か数字を「否定せよ」ということです。このことは、古事記は三十三代推古天皇までで、日本書紀は更に四十一代持統天皇までの記述があるわけです。と言うことは、日本書紀の「初代神武天皇から三十三代の推古天皇までの歴史は否定せよ。」と言うことになります。と言うことは、推古天皇の摂政である「聖徳太子」も、当然否定されるわけです。
つまり、古事記の序で天武天皇(多人長側・敗者)が述べられている、「帝記(日本書紀)と旧辞(古事記)を良く調べ正し、偽りを削り、真実を定める。」とは、日本書紀を読む人に、「日本書紀の神武天皇から推古天皇までは、敗者側にとってウソが語られているから」気おつけなさい、ということにも解釈できるわけです。
では、聖徳太子が歴史上存在しないとすれば、どのように飛鳥時代の歴史は書き換えることが出来るのでしょうか。
新羅系秦人の末裔の多人長のメッセージを解読して、古事記と日本書紀とを精査すると、歴史教科書的古代史の呪縛が解けることでしょう。すると、飛鳥時代の舞台で、輝かしいスポットライトを浴びていた「聖徳太子」が、その舞台からスーッと消えていなくなり、すると、聖徳太子の活躍の光の影にいた、蘇我馬子がスーッと現われてくるでしょう。

正八角形(8はペルシャの聖数)の赤い堂の中で、碧眼の蘇我馬子が車座になっている十数人を前にして、何かを交渉しています。それらの人たちの多くは西域人で、話す言葉も古代朝鮮語や唐語などではなく、アラム語や西域の遊牧民族のものです。飛鳥時代では、朝鮮半島からの瀬戸内海ルート交易は、高句麗、百済、新羅の三国による半島争乱のため途絶えているので、その間隙を縫って、大陸の国際交易商人達は、中国内陸の争乱を避けるため、ペルシャからロシヤステップロードを経由して中国大陸のポシェット港から敦賀などの日本海側の港から飛鳥を目指して来たのです。その交渉で飛び交う数ヶ国語を通訳している若者は、突厥(チュルク系騎馬民族)の皇子タルトウです。
その交易品は、蘇我氏側が絹織物、朱砂、水銀、そしてロクジョウ(鹿角)・ハンピ(乾燥蝮)などで、西域の商人側はペルシャの装飾品やインドの香木などです。
奈良の都に、何故、鹿が多くいるのかといえば、それは小鹿の角を取るためです。小鹿の角(ロクジョウ)は、道教の長生術には朱砂と同じに必要なものです。現在でも、高級ドリンク剤に添加されているように、古代も現在も小鹿の角は高価な強壮剤として服用されているのです。
蘇我氏の館では、豪族達の子弟に講義をおこなっています。講義内容は、仏教経典ではなく、天文地理、易、暦、医術、方術、政治や外交そして軍事などです。その講師陣は、渡来の仏教僧や道教士など最新の大陸の知識をもった者達です。しかし、大和の地に仏教の読経が聞こえるのは、天武天皇の病気平癒祈願(684年)の時まで待たなければなりません。
蘇我氏の時代では読経が公に聞こえたのは、北九州の秦王国です。六世紀の北九州の秦王国は、北魏の廃仏令(446年〜452年)により大陸を追われた200万人の大乗仏教僧の一部が、朝鮮半島に辿り着き、更に、朝鮮三国の争乱勃発により渡来した仏教僧達により、仏寺の建設ラッシュであったのです。
しかし、北九州の秦王国から先に、飛鳥の地に入ったのは、仏教ではなく道教です。道教は、騎馬民族には、仏教に比べると、馴染みやすいからです。それは、仏教の火による祭儀(ゾロアスター教の儀式の模倣)ではなく、犠牲を用いて祭祀をおこなうからです。更に、騎馬民族に馴染みの、天を崇めるからです。漂泊する民族(騎馬民族・海洋民族)は、土着の農耕民族より、「星」・「月」・「太陽」(三神)を特別な存在(神)として崇めていたのです。
道教は、騎馬民族系で天文台を建設し北極星と交信する天武天皇の時代までは、仏教に比べ、かなりの勢力を持っていたようです。それは、家格を示す称号の「八色の姓」から理解できるでしょう。その家格は、上から、「真人」「朝臣」「宿禰」(スクネ:アラム語で勇敢な者の意味)「忌寸」「導師」「臣」「連」「稲置」と格付けされ、その「真人」「導師」とは、道教に大いに関係する事柄だからです。
更に、天武天皇から「天皇」の称号が公に使われてきたわけですが、そのアイデア(天皇=神)は、中国古代(紀元前一世紀)の天文学で天体観測の基準となる北極星(太一)を神格化したものです。その天皇である北極星の紫宮に仕えるのが「真人」というわけです。ここから紫色が日本国では高貴な色になるわけです。その「真人」が八色の姓の最上にいることは、道教は天武天皇から優遇されていたことを証明しています。
道教の始まりは定かではありません。それは、自然信仰を軸に、あらゆる土着の信仰を巻き込み、更に、二世紀頃には大乗仏教の思想までをも取り込んでしまう「現世利益」の宗教だからです。その中で特徴的なものは、長生術のために開発された呪術医療でしょう。その医学医療と薬学の技術を持って、瞬く間に異教の国に侵攻するわけです。
異教国侵攻の法則、「宗教家」→「国際交易商人」→「軍隊」→「植民地化」の流れには、乱世の庶民に対して、現世利益の道教は、時の権力に迎合する文殊の徒により創作された無数の仏典布教をおこなう仏教に比べて、受け入れやすかったのです。
五世紀末その道教は、北九州の秦王国から百済系葛城と新羅系磯城が争う国際交易都市「飛鳥」に、物部氏(三世紀頃、高句麗から侵攻してきたツングース系遊牧民族と呉の末裔の南方海洋民族の連合軍事部族)に従う「奇巫」(道教シャーマン)として登場したようです。その半世紀後、東国から現われた弥勒信仰を持つ騎馬民族の蘇我稲目が軍事力で物部氏を倒し、飛鳥の地を平定した事が、仏教史に言う、物部尾輿対蘇我稲目の「神仏の戦い」と言われている実体のようです。しかし、この時代には、「神道」など、日本列島に存在しなかったわけですから、「神仏戦争」と言っても、「道教」対「弥勒信仰」の図式しか考えられません。(神道は、天武天皇の崩御後、藤原氏系の中臣氏により道教思想の基に発明された。その後室町時代、藤原氏系卜部氏の末裔の吉田兼倶により、儒教・仏教・陰陽五行(道教)を基に吉田神道として復活。)
更に、587年、蘇我馬子は、北九州の秦王国から「豊国法師」を、47の軍事施設である屯倉で固め、石を敷き詰めた軍道を張り巡らせた軍事都市国家「飛鳥」に呼び寄せています。この時期が、仏教史で言う、物部守屋対蘇我馬子との「第二次神仏戦争」と言われている時代のようです。
その当時、飛鳥の地には、高句麗僧恵便が居たわけで、「神事」或は「仏事」を行うだけならば、わざわざ遠方の北九州から「奇巫」や「豊国法師」など呼ばなくてもよいはずです。その訳は、百済系葛城と新羅系磯城との経済戦争に介入した、物部氏対蘇我氏との二度の戦闘で傷ついた兵士を介護するための「医師」としての「奇巫」と「豊国法師」であったのでしょう。
そのように「医療従事者」として、異国に入り込んだ「宗教家」の次なる行動は、異教国侵攻の法則により、革命分子育成のための拠点の「学校」を設立する事です。(教育とは昔も今も権力者にとって両刃の剣であるわけです。)そこで、学校建設のための職人を飛鳥に招聘するのですが、「日本書紀」には不思議な名前の職人が記述されているのです。それらは、「太良未・ダラミタ」「将徳白昧淳・ショウトクハクマイジュン」「麻奈文奴・マナモンヌ」「「昔麻帝弥・シャクマタイミ」などです。それらは、実は漢語ではなく、漢字表記のペルシャ語です。
720年に完成の、百済からの仏教伝来(538年)の経緯を説くが、天武天皇朝の祀りの基本思想である道教についての一切の記述がない「日本書紀」の編纂時には、約百年前の漢字を使用したペルシャ語を理解する事が出来なかったのか、又は単なる編集上のミスか、勝者側は漢語表記のペルシャ語の記述を改竄できなかったようです。
それらの意味は、ひとの名前ではなく、寺院大工、露盤、屋根葺、鬼瓦などの建築に関連する職業名や物品のことです。そのような異国のペルシャの職人達は、飛鳥の地でどのような建築物を造ったのでしょうか。仏教徒でもないペルシャ人達に、蘇我馬子は仏教寺を建設させた、などと想像することはできません。が、しかし、教科書歴史では、聖徳太子と蘇我馬子との崇仏者により仏寺が建立され、日本での仏教寺の発祥地が「飛鳥」となっているのです。
では、蘇我氏の時代、飛鳥の地では、蘇我氏の神(弥勒神)はどのようにして祭られていたのでしょうか。
古代ペルシャでは、ミトラ神(太陽神)は、東方の大きな山の頂きから誕生(再生)すると信じられていました。それがやがて時代の流れにより、東方の山の洞窟に替わり、更に、山から里に下りてくるようになると、窪みのある岩に替わり、それがやがて大石から誕生(再生)すると信じられていたようです。
六世紀、仏像が持ち込まれていなかったペルシャ文化色の濃い飛鳥の地でも、多分、そのような流れで、「山」や「石」を信仰対象としたのでしょう。それは、そこから神(死者)が再生すると信じられていたからです。ですから、蘇我氏の時代には、仏像など存在していないわけですから仏寺などでなく、冬至に太陽が登る「東の山=吉野山」や「石」が神の「住まい」として祀られていたのでしょう。
「山」と「石」で「神を祀る」ということを、広い意味から考えると、石室を内蔵した小山の「古墳」が想像されます。
古墳は、日本列島に出現するのは、三世紀頃のようです。そして、古墳が消滅するのが七世紀後半、天武天皇陵の八角形墳墓「檜隈大内陵」(8はペルシャの聖数・お妃の持統天皇が合祀されている。)で終わるようです。
(天武天皇の死後、左遷されていた藤原不比等の復活と伴に、大和の地に読経が公に聞こえてきたようです。その後平安時代、蘇我馬子の陵である七十七トンの石室の石舞台古墳は、藤原氏により破壊され暴かれてしまったようです。)
死者の祀り方は、その神の基本思想を反映しています。
蘇我馬子が、もしも本当に仏教信奉者だとすれば、当然、葬儀は仏式で行うはずです。それが何故、626年歿の蘇我馬子は、寺ではなく、古墳に祀られたのでしょうか。(歴史教科書では、仏教伝来538年といわれているのです。)
日本に存在する古墳は、ほとんど誰が祀られているのか分らないようです。そのなかで、数少ない祀られているのがわかる古墳があります。そのひとつが、「檜隈大内陵」の天武・持統天皇の古墳です。それが何故天武天皇陵と分ったのかと言えば、それは、1235年(文暦2年)に盗掘にあい、その経緯が「阿不幾乃山陵記」に書き残されていたからです。その書によれば、「件の陵の形八角、石壇ひとめぐり、一町ばかり、五重也」とあり、更に、持統天皇は、「火葬されていた」とあるのです。それに対し、天武天皇は、古墳での伝統的埋葬である「土葬で祀られていた」のです。同じ陵に、異なる埋葬方法、土葬と火葬が合祀されているのです。これは可笑しい。
古墳は、死者の再生(復活)ための装置です。ですから、再生のためには、死者は生前のままで埋葬されなければならないわけです。古墳時代では、死者は、唯の物質ではなかったのです。
それに対して、大乗仏教の死者に対する考え方は、それとは全く異なります。大乗仏教では、生き物は輪廻転生します。この思想はインドで、バラモン(=宗教ブローカー)が発明したものであり、そのカルマから逃れるため「釈尊」は輪廻転生からの解脱を実践、つまり、出家し乞食し、仏と人の中間人の「非人」となったのです。釈尊の思想は、大乗仏教の「他力本願」とは異なる、「自力本願」であるわけです。
その釈尊の思想とは異なる大乗仏教の思想では、肉体は唯の「霊」の借り物にすぎないのです。ひとは、生前の行いにより、人間になったり畜生になったりするのです。つまり、大乗仏教の思想において肉体は、「霊」の乗り物である唯の物質に過ぎないわけです。つまり、死者は唯の物質ですから、腐れば「不浄」な物質に変化するわけです。ですから、その「不浄の死者」は聖なる火で浄物(成仏と方便)にするわけです。つまり、大乗仏教の思想では、死者は「穢れ」であるわけです。
ここから推測できることは、道教思想の天武天皇が崩御した時、その王朝を簒奪した、天智天皇の娘の持統天皇は、道教を排斥し、仏教を、藤原不比等の指導のもと、飛鳥の地に導入したのでしょう。だから、ペルシャ文化の蘇我王朝、そして道教思想の天武王朝の、仏教思想とは異なる文化を抹殺・隠蔽するには、仏教伝来は、538年でなくてはならなかったのです。
つまり、飛鳥時代での天皇の祀り方が変わったということは、「神」が変わったということです。それは、道教から仏教への変換です。そのためのトリックのひとつが、平安時代に発明された「聖徳太子」だったのです。

神輿の黙示録(2)(多民族国家日本の成立とイジメの発生)


三世紀前に日本列島に古墳が存在しなくて、その後、短期間に古墳が出現したということは、今までの「神」と「異なる神」の出現を示唆しています。
その古墳出現も時系列でみると、北九州から畿内へよりも、東北・北関東から畿内への流れのほうが古墳数が多いようです。それも、小古墳から巨大古墳への流れも、西からではなく、東から畿内への流れが多いようです。
そして、四世紀代の古墳に、馬具が埋葬されているということは、元々日本列島には「馬」が生息していなかったわけですから、四世紀に「馬と共存する部族」の出現を示唆しています。そして、その鉄製の馬具の出現は何を意味しているのでしょうか。
金属機器の歴史的流れは、紀元前三千年の西アジアでの青銅器発明から紀元前千四百年のヒッタイトでの鉄器発明への流れです。
時系列的には、日本列島には、先に青銅器が出現してから後、鉄器が後れて出現するのが道理です。それが、北九州・出雲・近畿地域の青銅器文化と時を同じくして、日本列島広域に鉄器が出現し、そして四世紀に東北・北関東に鉄製の馬具が出現するのです。これは、一体なにを意味しているのでしょうか。
それは、四世紀の東北・北関東に、朝鮮半島からだけではなく、ロシアステップロードから直接日本海沿岸からも、オリエントの鉄器文化が、馬を持った部族により日本列島各地にもたらされたことを示唆しているようです。
歴史上謎の部族が存在します。そのひとつに、イスラエル民族がいます。日本にも謎の部族がいます。それは、「秦氏」です。日本版イスラエル民族の「秦氏」とはどのような部族なのでしょうか。日本の古代史の謎を説く鍵のひとつは、その「秦氏」にあるようです。そして、その秦氏を知ることにより、「日本人とは何者か」のヒントが得られることでしょう。
異民族が対峙した時、言葉は強力な武器のひとつとなります。更に、言葉を固定できる文字を持っていることは、最強の武器となります。それは、言葉や文字を駆使することにより、イメージ操作ができるからです。
ひとの行動は、自分の意志で全てコントロールしているわけではありません。自分でコントロールできることは、自分で思うほど多くはありません。ひとの日常の行動は、遺伝子により刷り込まれている本能以外は、生得的な刷り込みにより創られたイメージ(幻想)によりコントロールされているのです。そのイメージは、そのひとの生育に携わったひと達から与えられた言葉や文字により創造されるのです。
ですから、敵対する相手を前にして、自民族の優位性を示し、それに対して、敵民族の劣位性を言葉や文字で示せば、自民族には良いイメージ創りとなり、それに対して、敵民族には悪いイメージの刷り込みができ、その結果、敵側の行動をコントロールできるわけです。
その戦術のひとつが、蔑称です。蘇我馬子・蝦夷・入鹿などの蔑称を、敵側(藤原氏)から付けられてしまえば、その人物が実際は偉大な大王だったとしても、人物像が矮小化してしまいます。このことを理解している民族は、全力で「歴史書」を創作するのです。
文字はイメージを固定します。多くの文字の中でも、「漢字」にはイメージを固定する 呪縛性があるようです。例えば、「祀る」ということを表すには、「祭」と「穢」とで表現できます。「祭」は「歌や踊ることにより祀る」わけですが、「穢」は「犠牲を捧げることにより祀る」わけです。祀ることは同じであっても、「祭」と「穢」とは同じイメージではないでしょう。そうです、漢字には「貴賎」・「善悪」のイメージが元々潜んでいるのです。
例えば、「聖」という漢字の呪縛性は、「侵すべからず。正しいものである。」というイメージを与えます。だから、「聖」の漢字を使用した「ひと」や「もの」に対して、「疑うこと」はタブーとなるようです。例えば、「聖徳太子」や「聖書」などがそれです。「聖徳太子」のウソは、前節で述べましたので、ここでは「聖書」のウソについて考えてみましょう。
「旧約聖書」の物語を一度でも読んだことがあるひとは、異民族壊滅作戦の物語については、史実であってほしくない、と願わずにはいられないでしょう。では、旧約聖書の物語は本当に史実なのでしょうか。それに、消えたイスラエル十部族とユダヤ民族は、本当に同じ民族なのでしょうか。
紀元前十四世紀、鉄器文化を起した小アジアのヒッタイト帝国から、エジプトを目指す鍛冶集団がいました。その頃、エジプトでは、アメンホテプ4世(=イクナトン紀元前1377年〜紀元前1358年)が、独善的祭祀集団からの政治介入を逃れて、新都市アケトアテン造営のため、建設に携わる有能な職人を海外から招聘していたのです。
イクナトン王は、お妃をオリエントから迎いいれました。そのお妃は、オリエントで流行りの太陽神(ミトラ神)を信仰していたのです。その頃のエジプトでは、祭祀階級が勝手に神々を創造して王族や臣民をコントロールしていたので、イクナトン王は、その太陽神を唯一の神(アトン神)として、多神教を奉ずる祭祀階級を排除する宗教改革を強行したのです。そして、イクナトン王は、有能な外国人を高級官僚として迎い入れたため、祭祀階級だけではなく、元からの部下にも評判がよくなかったのです。
ヒッタイト帝国からの鍛冶集団は、その時勢に乗り高級官僚の地位まで上り詰めました。その鍛冶集団は「ヨセフ族」と呼ばれていました。
イクナトン王の強引な多神教から一神教への宗教改革は、不満分子を増加させていき、紀元前1358年まで持ちこたえるのが限度でした。そこで、イクナトン王の高級官僚のヨセフ族は、身の危険を感じてエジプトを脱出するわけです。(モーセの「出エジプト物語」は、それから約500年後のバビロニア幽囚後に創作されたものです。モーセの葦の揺り篭が河に流される物語は、古代メソポタミアのアッカドのサルゴン王(紀元前2350〜紀元前2294年)の物語にソックリです。それに、エジプト時代のヨセフ族は、日干しレンガを造る奴隷ではありません。古代エジプトでは、建築資材は「石」で、「日干しレンガ」は使いません。日干しレンガは、古代メソポタミアでの建築資材であるわけです。それに、古代エジプトではピラミッドや都市建設には、奴隷身分の者は参加できないのです。更に、モーセはいなかったことは、パトモス島のヨハネの黙示録の「666の謎」を解読したひとには、これ以上説明する必要はないでしょう。)
エジプトを脱出した頃には、部族が増えエフライム族とマナセ族の二部族となっていました。そして、イスラエルと呼ばれる地方に移り住むようになってから、その二部族はイスラエル民族と呼ばれるわけです。イスラエル民族は、元の鍛冶技術に加え、都市建設のテクノロジー、物流、労務管理、経理、会計記録、石物の建築技術(メーソン)、運河の掘削などの土木建築全般のノウハウをエジプトで修得していたのです。
シナイ半島を漂泊する鍛冶集団イスラエル民族に加わる部族が出現するのです。それがレビ族です。レビ族はイブリと呼ばれる漂泊する部族です。そのレビ族を加えたイスラエル民族は、エジプト軍が廃墟としたカナンの地に紀元前十一世紀に辿り着くのです。しかし、そのレビ族の祭祀アロンと結託したダビデによりの統一王国も、紀元前932年のソロモン王の死と伴に、イスラエル王国とユダ王国に分裂するわけです。元々、エフライム・マナセ族(太陽神アトン=ミトラ神)とレビ族(ヤハウェ)は異なる神を祀っていたわけですから、強力な統率者の存在がなければ、一緒に居られるはずはないでしょう。
イスラエル王国は多神教で、太陽神のシンボル牡牛やバアル神等を祀ったのに対し、ユダ王国は唯一神ヤハウェであるわけです。旧約聖書では、紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に敗れたのは、異教神を祀り、ヤハウェを祀らなかったからだと述べています。
イスラエル王国を飲み込んだアッシリア帝国も、紀元前625年にはメディア帝国に滅ぼされ、そのメディア帝国も紀元前550年に、アケメネス朝ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。
石物建設の技術を持ち、そして、太陽神を信仰し漂泊する鍛冶集団のイスラエル民族は、アッシリア帝国、メディア帝国、そしてアケメネス朝ペルシャ帝国の砂漠に、その歴史と伴に消えてしまうわけです。
それらの帝国には、共通する神の存在がありました。それは、ミトラ神です。ミトラ神の起源は定かではありませんが、紀元前19世紀にオリエントで発明されたようです。考古学的証拠では、紀元前14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都ボガズキョイ出土(1907年発掘)の条約文によりますと、印欧語族の一部がミトラ神を自らの宗教体系に取り入れていたようです。ミトラとは、「盟約」の意味を含み、崇高な光の世界を支配する陣営にあり、全てを見通す力を持ち、不正など世界の秩序を乱すあらゆる事柄に対する復讐者でもあるわけです。ですから、契約者はミトラ神に誓って契約を交わすわけです。この契約の履行を見守るミトラ神は、国際交易商人と伴に異教の世界に広がっていくわけです。
それがやがてオリエントの土着の宗教儀式を吸収して、太陽崇拝、牡牛を屠る祭儀、救世主思想、イニシエーションの密議(牛の肉を食べ、生血を飲むこと。)、七つの位階、占星術、そして火による密議(ゾロアスター教へ導出)などの儀式をおこなうミトラ教となっていくわけです。
そのような宗教環境のペルシャ帝国内を、エジプト時代から太陽神アトンを祀るイスラエル民族は流離うわけです。
一方のレビ族の末裔のユダ王国は、紀元前586年、バビロニア王国に滅ぼされてしまうわけです。そして、ユダヤ民族は、バビロニア王国で幽囚されてしまうわけです。そのバビロニア王国も、紀元前538年、ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。この時代を前後して、レビ族の末裔は、「モーセ五書」の創作にとりかかるわけです。
約50年後に戻った時のカナンの地は、既に異民族が住んでいました。そこで、幽囚中にカナンの地を占拠していた先住民を追い出すために、神から授かった「旧約聖書」を改竄するわけです。その目的のひとつの、カナンの地の先住民を追い出すための「ヨベルの年」等の法律を、唯一神ヤハウェがユダヤ民族に与えたことを立証するために発明されたのが、「神との契約者=モーセ」というわけです。
紀元前6世紀のペルシャ帝国に、再び、ヨセフ族の末裔とレビ族の末裔が存在したわけですが、ヨセフ族の末裔のイスラエル十部族のその後は定かではありません。しかし、レビ族の末裔は紀元前515年、エルサレム寺院を再建するわけです。それが、今に続くユダヤ民族です。
では、日本版イスラエル民族の「秦氏」は、どのようにして日本列島に辿り着いたのでしょうか。
時代は飛んで、官軍の砲撃が迫った慶応三年の江戸は浅草新町の屋敷に、薩摩藩の密使が訪れるのです。その屋敷には、長屋門(大名格の屋敷門)があり、その門には「丸に十の字」の紋がある提灯に灯りが入っていました。大玄関を入り数間を通り立派な床間を持した数十畳もある表座敷に、その屋敷の主人を前にして、筒袖のむさ苦しい髭面の大男が、「おまはんと島津家は同族ぞ。いにしえは秦氏ぞ。今こそ秦氏の恨みを晴らす倒幕ぞ。」と言うのです。
南九州で鎌倉時代から六百年も続く豪族の島津氏は、「島津」と名のる前は、惟宗氏(これむね)と名乗っていました。それは、鎌倉幕府を拓いた源頼朝により薩摩国島津荘の地頭職安堵により「島津氏」を名乗ったのが始まりです。その惟宗氏とは秦氏が平安時代に改名したものです。
その屋敷の主人の名は、弾左衛門、穢多を束ねる頭です。弾家の祖先は、鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼です。その昔、この族より秦左衛門尉武虎という武勇者が出、鎌倉の源頼朝に認められ、鎌倉長吏(警察業務をおこなう人。平安時代では、専門的な職能をもって、朝廷に使える集団構成員のうち、特に優れた者を長吏と言った。これが何故、江戸時代にアウトカーストになったのか。江戸時代に長吏は、穢多と蔑称された。)の頭領と成り、秦氏を弾氏と改めたのです。
薩摩の密使の言うことは事実でした。しかし、不思議です。江戸時代の身分制度の士農工商のカースト制度の中に入らない穢多頭の弾家が、そのカーストの最上級の士族と同族であることです。そして、その弾家は、昔は藤原氏(平安時代の貴族)を名乗っていたことです。
鎌倉幕府を拓いた源氏は、新羅系の末裔です。その新羅の先は、中央ユーラシアの「ペルシャ帝国」と、紀元前六世紀、騎馬戦車で戦った「スキタイ」の流れを汲む騎馬民族鮮卑の一部族の拓跋部の末裔「元氏」を先祖としていたようです。
その中央ユーラシアから東ユーラシアを疾走する騎馬部族の流れは、「ジンギスカン義経説」の人気を支える要因のひとつのようです。騎馬民族ジンギスカン軍も騎馬民族義経一族も、同じ「笹リンドウ」を部族のシンボルとして戦をおこなっていたからです。新羅系日本人のDNAには、モンゴルの草原が「フルサト」として刷り込まれているからでしょうか。
では、騎馬民族とはどのような民族なのでしょうか。でも、騎馬民族の歴史を知ることは困難です。それは、漂泊する民族の特性として、歴史書をもたないからです。ですから、農耕民族であるヘロドトス(紀元前484年〜紀元前425年)が書いた「ヒストリア」や農耕漢民族の司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年)による「史記」を基に推測するか、あるいは遺跡や考古物を基に推測する以外に方法がないからです。
しかし、農耕民族が書き残した「ヒストリア」や「史記」では、騎馬民族を、凶暴・残虐・略奪の民族として蔑視する視線で書かれているため、それを差し引いて推測する必要があるようです。
農耕民族の漢民族は中華意識により、胡(トルコ系遊牧民族)等の漂泊民族に対して、東夷(夷とは弓と矢をつがえる人間の形象。)、西戎(戎とは鉞で森林を伐採する山岳狩猟民族を指す。)、南蛮(蛮とは蛇竜などを背中、身体に文身刺青をする海洋漁労民を指す。)、そして北狄(狄とは獣の皮を身につけている民族を指す。)などの蔑称をつけていたのです。
騎馬民族の必需動物の馬の出現は、牛ほど確かではありません。牛は、紀元前二千年には、信仰の対象(ミトラ神のシンボル)として崇められていたことが粘土板に記録されています。しかし、馬は、信仰の対象とならなかったからか、記録に現われるのはずっと後のようです。
馬が棲息していたのは、ステップ草原地帯です。ウクライナのデレイフカ遺跡出土の馬頭骨は、紀元前四千年と言われていますが、どうも信憑性に欠けるようです。
オリエント諸国に馬をもたらしたのは、カッシートなどの山地牧畜民のようです。そして、馬と戦車が結びついたのは、紀元前二千年のメソポタミアの北方のミタンニ王国のようです。そのミタンニ王国からヒッタイト帝国、アッシリア帝国そして紀元前六世紀にアケメネス朝ペルシャへ騎馬戦車が引き継がれていくわけです。そのペルシャ帝国に対峙するスキタイも騎馬戦車を駆使して中央ユーラシアを支配していたのです。
騎馬民族スキタイは、民族名ではなく、国家名です。ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、スキタイ国は、農耕・通商・航海をおこなう都市居住民、商業風の農業経営民、純粋農業民、草原地帯に住む遊牧民、そして草原で天幕生活をする支配部族(鎌倉幕府の幕府とは天幕の意味。)を中心としての異部族の「かたまり」であるようです。
この騎馬民族のスキタイ国の国家運営方法は、商社主導の連合国家とも考えることができるようです。本社機能が草原の天幕にあり、農業や牧畜をおこなう生産支社が各地にあり、それらの支社を運営する支社長が現地部族長というわけです。
騎馬民族国家とは、別の見方では、生産に携わるのではなく、情報を操作して物流で稼ぐ国際商社とも考える事が出来るでしょう。支配民族に対して、軍事、警察、そして外交をおこなうことで、更に、囲郭のある都市を草原に造り、そこに技能者とくに平和時には農具などを造り、戦争時には武器が造れる鍛冶集団を、そして、異部族を統制するための、そして他民族国家の情報を収集させるための宗教者などを集めて住まわせ、そこを兵站基地として支配地域を拡大して行ったのです。
そのような商社機能を持った騎馬民族が、市場拡大のため、騎馬戦車などを武器として、他国を侵略するわけです。そこで当然、戦争も起こるわけです。しかし、戦争をおこなうのは最後の手段で、大抵は現地の部族長と婚姻関係を結んで支配地を拡大して行ったのです。そのためか、スキタイでは、騎馬戦車が幌馬車へ変身し、ひとや荷物を大量に早く運ぶものになっていくわけです。
この紀元前二千年オリエントで発明された騎馬戦車が、ユーラシアの草原を東に進み、紀元前十四世紀の殷商後期の遺跡から古代騎馬戦車が出土しているのです。
古代の世界は、現在のひと達が考えているより狭いのです。そのように考えられないのは、タクラマカン砂漠を駱駝の商隊が歩む、テレビ番組の「シルクロード」の刷り込みにあよるようです。
地球の北半球の大陸を、三層のケーキに譬えるなら、真中がオアシス国家などがある乾燥地帯で、その下が湿気の多い照葉・熱帯樹林地帯で、そして、一番上が草原・針葉樹林地帯です。その一番上のケーキがユーラシアの概念です。つまり、東は太平洋、そして西は大西洋までの地がユーラシア大陸なのです。
ヨーロッパから中国までの商業ルートは、その三層にそれぞれあるわけです。砂漠ルート、南洋海路ルート、そして草原ステップルートです。東西貿易ルートとしては、その三ルートがあるのに、何を意図してか、テレビ番組は定期的に「シルクロード」番組を制作・放映しているのです。
シルクロードは、前漢の武帝(紀元前141年〜紀元前87年)に開発されたのではなく、ドイツの地質・地理学者リヒトホーフェンが、十九世紀末に、西と東とは「絹の道」で繋がれていたらいいな、という思いで、「ザイデン・シュトラーゼ」と書いてしまったことに始まるのです。つまり、シルクロードは十九世紀末に発明された言葉なのです。(砂漠ルート「シルクロード」のオアシス国家は、元々匈奴(紀元前三世紀〜一世紀)が支配していたのを、前漢の武帝が、武力でそのオアシス国家を匈奴から略奪したにすぎません。このことを歴史書はシルクロードの始まりとしているのです。)
貿易は効率を大切にします。砂漠を何十ヶ月、或は何年もかけるよりも、海路で行けば、大量の荷物を傷つけずに短期間で運べます。草原ルートでしたら、海難事故もなく、馬車で短期間で運べます。冬にでもなれば、馬車そりを使えば、草原は高速道路に早や代わりします。
しかし、海洋民族も騎馬民族も、漂泊性のため、歴史書を持っておりませんから、そのような南海ルートや草原ルートは歴史書に記述されることもありません。
そのような、二つのルートからも、日本列島に歴史以前の時代から色々な部族や文化が流れ込んでくるわけです。
秦氏の末裔の島津氏や弾家を優遇した騎馬民族の鎌倉源氏も、元を正せば、その草原ルートからの渡来人であるわけです。その源氏に敗れた海洋民族の平氏も、南海ルートからの渡来人であるわけです。中国で言う「南船北馬」とはよくいったものです。
では、それらの異なる民族は、戦いの時、どのような識別方法を持っていたのでしょうか。その識別方法を知ることにより、その部族の出自を知るヒントが得られるでしょう。
源平時代の軍事部族は、白旗(源氏:ペルシャ→突厥→新羅)と赤旗(平氏:フェニキア→インド→百済)で敵味方を識別していました。それが、戦国時代になると、部族を表す「家紋」が突然現われるのです。その発祥地は何所かと言えば、それはオリエントからです。ですから、それらの家紋は、オリエント周辺の動植物や漂泊民族が崇拝する星月などを基にデザインされているのです。「十六花弁のキク」も、その源を正せば、オリエント(ペルシャ)原産であるわけです。戦国時代に突然現われた軍事部族のシンボルとしての「家紋」は、古代オリエントでの戦いに敗れた軍族や進駐軍の傭兵が、その部族のシンボルと伴に、砂漠ルート、南海ルート、そして草原ルートにより、歴史書以前から日本列島にもたらしていたのでしょう。
しかし、家紋はオリエント時代のままではなく、改造することもあったようです。その一例として、島津氏と弾家の家紋は、元は「丸」がなくて、ただの「十字」であったようです。この「十字」家紋は、何をシンボルとしていたのでしょうか。
秦氏は、四世紀の朝鮮半島に小さな国として誕生した新羅から、五世紀には、北九州に秦王国を築いていたようです。では、その北九州の秦王国を拓いた秦氏を先祖に持つ、島津氏と弾家、「士族と賎民」との差別は、一体どのようにして発生したのでしょうか。
その差別の謎を解くヒントは、北九州の秦王国と平安時代の大乗仏教との関係にあるようです。

「キサマ!それでも日本人か!」
「何所の馬の骨か分らぬ奴!」
「クダラヌ奴!」
平安の都で、罵声が飛び交っています。
罵声を浴びせているのは百済系日本人、浴びせられているのが新羅系日本人と秦人達です。
歴史教科書が言うように平安時代は、その漢字の意味とは異なり、実際は、藤原氏と百済系日本人以外には、「平安」ではなかったようです。この時代から「鬼」や「妖怪」が、日本国に出現するわけです。それは、822年に完成の、仏教宣伝パンフレット「日本霊異記」などで、仏教僧が妖怪物語を庶民にひろめた結果によるのです。では、鬼や妖怪の実態は何かといえば、それらは、朝廷にまつろわない漂泊民族や天を祀る道教士達であるわけです。
延暦十五年(796年)、平安遷都から二年目、桓武天皇は、風紀を乱すという名目で、「星祭」の禁令を発します。引き続き、その三年後の延暦十八年、京都近郷の百姓が、斎王(神を世話する巫女)が伊勢斎宮へ入御する日に、北辰を祀ってはならぬと厳しく通達を出しています。北辰(北極星)とは、道教の神で天武天皇が最も崇拝する星であるわけです。
その発令の裏で、桓武天皇は、延暦十六年(797年)、「斎内親王葛野川(桂川)に祓い、すなわち移りて野宮に入る」、とあるように伊勢斎王の潔斎所を死穢の地(墓地)に設けるわけです。平安時代では、大乗仏教思想により、死は穢れで、その穢れを葬る墓地は、穢れの最たる所であるわけです。
何故、桓武天皇は、伊勢神宮の聖所である潔斎所を、そのような穢れた場所にわざわざ設けなければならなかったのでしょうか。
そもそも、斎王派遣の制度を始めたのは、壬申の乱(672年)で百済系天智天皇の皇子(後の弘文天皇)を滅ぼした新羅系天武天皇からです。その天武天皇が始めた制度を否定したことは、その時点で、天武天皇系貴族の没落を意味しています。
更に、桓武天皇は、驚くべき事を、延暦四年(785年)に既に行っていたのです。それは、天神を交野(百済亡命貴族の居留地)の柏原に祀っていたからです。唐制の天神の祀りでは、遠い祖先の高祖あるいは太祖を置くのですが、桓武天皇は、日本書紀にある「天照大神」か「神武天皇」を置くべきところを、なんと父親の「百済系光仁天皇」を置いていたのです。これは、光仁天皇から「新しい王朝」が始まったことを公に主張していることになるわけです。
更に、平安時代から「天皇は男」でなければならないことになるのです。つまり、第四十八代称徳天皇(天武王朝)までは「女帝でも可」であったのが、平安時代から「天皇は男」のみとなるのです。それは、藤原氏の陰謀です。その意味は、大嘗祭(壬申の乱後、天武天皇が始めた、先帝から王権を引き継ぐ一世一代の再生儀式。天津神と国津神の聖婚。)を毎年行うことにより、天皇に聖婚させるための斎王(巫女。藤原氏の女)を捧げることができる為です。歴代の天皇の側室(場合によっては皇后となる。)に藤原氏の女が多くいるのはそのためです。
では、その百済系光仁天皇とその子供の桓武天皇は、どのようにして天皇になったのでしょうか。
桓武天皇の父白壁王(後の光仁天皇)は百済系皇族でしたが、無位の時代が長く続くのです。名もない百済系下級書記官の娘高野新笠を娶り、山部王(後の桓武天皇)が生まれた時に、白壁王は無官から、やっと従四位下に叙せられたばかりでした。この白壁王に目を付けたのが藤原式家の良継でした。藤原良継は、皇位継承権利者である天武天皇の血を引く井上皇后とその息子他戸(おさべ)皇太子を無実の罪で殺害し、白壁王を光仁天皇とするのです。
藤原氏は、藤原氏の基本戦略「夷を以って、夷を制す。」により、日本国乗っ取りの為、この百済系天皇親子(夷)を使い「ニッポン化計画」を実行に移すわけです。その戦略は、飛鳥時代の藤原不比等(天武天皇から左遷されたひと。)により計画されていたものです。それは、藤原氏が、神としての天皇を裏から直接コントロールすることにより、日本国の庶民を間接的にコントロールすることです。
それには、私権を公権にする「装置としての儀式」が必要です。そして、その公権に権威をつけるためには「歴史」(歴史書とは客観を装った主観的物語)が必要です。(藤原不比等は、そのために720年に「日本書紀」を創作していた。その呪縛は現在も健在。)
藤原氏は、儀式としての装置として、仏教(インド・バラモン僧によるヒンズー教化仏教の開発=公費留学僧・最澄の天台宗と聖徳太子の出現。私費留学僧・真言宗の空海は秦氏の末裔のため、桓武天皇から嫌われていたので、桓武天皇崩御まで京都を避けていた。)と神道(天武天皇崩御後、藤原氏と関係が深い中臣氏が開発した中臣神道で、伊勢神宮を支配。)を利用するのです。そのためには、飛鳥時代からの「道教」と「景教」は邪魔な存在です。更に、それらの神を祀る新羅系日本人と秦人も邪魔な存在です。そこで、新羅系日本人と秦人を政権中央から追い出すのです。そのための装置として、814年に「新撰姓氏録」を創作して、「皇・神・蕃(渡来人)」の序列を造り、貴族と賎民とを創り出すのです。(しかし、実際には「皇」も「神」も渡来人です。)勿論、藤原氏と百済系日本人は「皇」の貴種(貴族)となるのです。(ここから現在の皇族の歴史が始まる。)そして、道教の観は「神社」に、そして景教寺(十字寺)は「仏寺」に改造させるのです。(光仁・桓武天皇親子は、「道鏡事件」の主犯の和気清麻呂を使い、北九州の宇佐八幡を乗っ取り、その地の無数の仏閣を解体し、瀬戸内海から船で奈良・京都に運び、道観や景教寺を壊し、それらの地で秦王国の仏閣を組立てるわけです。その和気清麻呂が、桓武天皇に平安京(京都)遷都を進言するのです。)
景教とは秦氏の宗教です。景教の「景」とは、日の京を意味します。それは太陽を祀る国を目指す教えであるわけです。(早朝のお天道様を祀ること。)日本列島に無数に存在する景教の祀り所は、権力の目を誤魔化すために、「稲荷」(表向き「イナリ」と読ませる。)としてカモフラージュするわけです。その意味は、先祖を祀る「塚」つまり「ジュガ=つか」が、「稲(ジュ)荷(ガ)」、つまり「稲荷神社」となるわけです。そして、秦氏のトーテムの「狼」は「狐」に化けるわけです。
そして、秦一族は、権力からの弾圧を避けるため自ら出自を隠し、秦の氏名を、ニッポン名(中国式の一文字から、上・中・下・山・川・田などを加えて二文字にすること。)に替えるのです。それは、645年の蘇我王朝滅亡以降から始まるのです。
そして飛鳥時代の権力者、あの聖徳太子のブレーンと言われている秦氏の統領の秦河勝の墓(大阪・寝屋川に存在)も、秦氏の支配地だった京都(山城国)の地にはないのです。これは何を意味しているのでしょうか。
そして、その秦氏のニッポン名は、「ハタ・パタ」畑、端、畠、渡を基本として、羽田、波多、波蛇、八田、半田、矢田、秦野、畠山、畠田、畑川、波多野、畑中、八幡、服部、林、神保、宗、朝原、太秦、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛島、小松、大蔵、三林、小宅、高尾、高橋、原、常、井出、赤染、大幡へと、時代の激変時(平安・鎌倉・戦国時代)に改名されていくのです。日本国における苗字の流れとしては、飛鳥・奈良時代:氏(うじ)=血縁・地縁名→姓(かばね)=家格名。平安時代:字名(あざな)=私有地名→名字(みょうじ)=家名と変化していくわけです。
では、その秦氏は、いつ何所から日本列島に渡来したというのでしょうか。新撰姓氏録では応神天皇十四年、融通王が百二十七県の百姓を率いて帰化、とあるようですが、その渡来時期は本当なのでしょうか。(言葉や文字は、「日本書紀」のように無限にウソをつくことができます。)
では、秦氏はいつ何所から渡来したというのでしょうか。本当のことは謎の中のようですが、教科書歴史が述べる朝鮮半島からだけの渡来とは異なり、ロシア草原ルートの北からの渡来もあったようです。秦氏は、新撰姓氏録が言うように、秦始皇帝の末裔どころか、もっと西の方から日本列島に長い時間を掛けて渡来してきたようです。
飛鳥時代以前(推古天皇以前)の歴史は、多人長(秦氏の末裔)が812年に創作した古事記の暗号が理解できなければ、藤原氏の陰謀策略(聖徳太子・中臣鎌足・大化の改新の創作による蘇我王朝の抹殺)により、殆ど分らないのが現状のようです。
いや違う、古代の歴史を知るには「日本書紀」があるではないか、と言っても、それは藤原不比等が720年にプロデュースし完成したもので、飛鳥時代の真実を語っているとは信じることはできません。
しかし、「書籍」は無限にウソをつくことが可能ですが、「自然」はウソをつくことがきません。
ひとは誰でも、仙人とは異なり、霞みを食べて生きていくことはできません。そこで、その部族が暮している自然環境に合わせて食生活を営むわけです。その異なる食生活により部族を分けるとすれば、三つです。農耕民部族、漁労採取民部族、そして牧畜民部族です。
そのような三種類の食生活により、日本列島渡来部族を時系列に眺めてみますと、縄文時代の漁労採取部族、弥生時代の農耕部族、そして古墳時代の牧畜部族が考えられるでしょう。
魚介類の渡来ルート特定は困難のようですが、野菜・穀類は可能です。それは、野菜や穀類は、野生植物とは異なり、ひとの世話なくしては育たないからです。
日本列島は、二つの文化圏に分けることが出来ます。それは、名古屋以南の照葉樹林文化圏と名古屋以北の落葉樹林文化圏です。それら二つの文化圏の植生は異なります。
オオムギは世界中で栽培されていますが、大きく分けると、二つに収束します。それは、東洋型(E型)と西洋型(W型)です。
E型の分布の流れは、チベット→ヒマラヤ高地→中国→日本列島中南部(名古屋以南)です。そして、W型の分布の流れは、ヨーロッパ→アフリカ北部→西アジア→インド平原→シベリア→満州→日本列島東北部(名古屋以北)です。
日本列島には昔から、出自の異なる二種類のオオムギが栽培されていたのです。それは、日本列島には、「南」と「北」の二つの渡来ルートがあったことを示唆しているようです。
その他の渡来穀物である、ソバ、ヒエ、アワ、イネ、野菜類のサトイモ、ヒョウタン、マクワウリは、弥生時代に華南から渡来したひと達(海洋民族)と伴に、日本列島照葉樹林文化圏に伝播したものです。
しかし、不思議なのは、中央アジア原産の野菜類が、京都の地(山城国)で栽培されているのです。それも、奈良時代以前からのようです。それらは、胡麻(ごま)、胡葱(ねぎ)、胡瓜(きゅうり)、そして人参です。(京都では金時ニンジンといわれている。漢民族はペルシャ渡来の物やひとには「胡」の漢字をつけて識別していた。)
馬の好物の人参は、肉の臭みを消すので、遊牧民族には好まれる野菜です。でも、中国大陸の農耕民の漢民族は人参を好まないため、中国では長く栽培されることはなかったようです。(現在は、西洋ニンジンを栽培している。)
その中央アジア原産の人参が京都の地で、奈良時代以前から栽培されていたことは、奈良時代以前から中央アジアから渡来して来た部族が暮らしていたことを示唆します。
そして、平安時代になると、そのキュウリ(胡瓜)は、ゲスな野菜に落されてしまうのです。(そのゲスのキュウリは、道教の水神の馴れの果て「カッパ=間の抜けた妖怪」の好物とされてしまうのです。これは手の込んだイジメである。)
そのキュウリは、祇園さんの「神紋」となっているのです。祇園さんは、牛頭天皇を祀ります。牛頭とは、氏神でもあるわけです。そして、山背国(桓武天皇は、その地が山に囲まれ要塞化していることで、「山城国」と名付けた。)を拓いた秦氏の氏寺の大秦寺(景教寺)は、魔多羅神による「牛祭り」を行っています。
平安時代初期には、山城国では氏神を祀るため、牛を犠牲にしていたことは、804年に牛の屠殺禁止令が出でいることで理解できるでしょう。
その祇園御霊会において「牛頭天皇の神輿」が、京都御所の近くに来ると、神輿違御幸(みこしたがえのみゆき)と称して、天皇や皇族達は、穢れを避けるため一時凌ぎに都から避難していました。つまり、「牛頭天皇の神輿」は、「穢れの神」「疫病神」であったわけです。これが後に、中臣神道の「清目(キヨメ)の思想」により、「お祓い」の儀式が開発されると、清目のために「水」や「塩」を「穢れた神輿」に撒くことになるわけです。
京都の先住民の氏神が、「穢れ神」であるのなら、その氏子も「穢れびと」であるわけです。その氏子達を、「何所のウマの骨」扱いをすることは、京都の貴族達(藤原氏・百済系日本人)は、先住民(秦人・新羅系日本人)の出自を、騎馬民族であることを知っていたからでしょう。
穢れ(インド・カースト思想)は、平安時代に、朝廷にまつろわない騎馬民族・漁労民族を貶める目的に、藤原氏が、庶民のためではなく鎮護国家の目的のため、「ヒンズー教化仏教=貴族仏教」と「中臣神道=貴族神道」を使い、貴族達に広めた思想です。
この穢れ思想は、平安末期になると、都の貴族が没落したため、貴族のスポンサーを失った仏教教団は武士団や庶民へ布教を広げたため、全国に広がっていくのです。つまり、日本国における民族的差別(イジメ)は、平安の京都から始まったのです。
しかし、その秦人が、西域から日本列島に渡来していなかったら、日本の文化・技術は萌芽しなかったでしょう。


神輿の黙示録(3)(敗者の反撃:武士団と芸能民の発生)


戦国部将を三名あげなさいとの問いに、戦後教育を受けた日本人であるならば、即座に答えることができるでしょう。それらの部将とは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。そして、それぞれのキャラクターも即座に答えることができるでしょう。それらは、織田信長は古い体制を壊す「革命家」、豊臣秀吉は下層階級から天下人となった「努力家」、そして、徳川家康は抜け目の無い「タヌキ親爺」となることでしょう。
教育という「刷り込み」とは恐ろしいものです。一度でも情報が刷り込まれてしまえば、その後、訂正することが非常に困難だからです。
では、それらの部将達は、戦国の昔からそのような評判を得ていたのでしょうか。それは違います。そのような部将達のキャラクターを創作したのは、実は、戦国末期からではなく、明治時代からなのです。
戦国時代末期には、織田信長と豊臣秀吉が敵対する非戦闘員の人民・婦女子に行ったことを調べれば、彼等が下層階級から憎まれていたことが理解できるでしょう。そのことを裏付ける根拠のひとつとして、織田信長と豊臣秀吉の遺骨がこの世にはないのです。
織田信長は、ユダヤ・キリスト教一派のイエズス会(右手に聖書、左手に銃を持つ教団。侵略目的地に病院設立→学校設立→交易代理人育成→軍事顧問招聘→軍隊侵攻→植民地化。インドとマカオの歴史の流れ。)のフロイス(織田信長と18回謁見した。1569年に謁見後の信長軍の軍備が充実した。特に銃。1575年三河長篠の戦いで信長軍鉄砲隊で武田勝頼を敗退さす。)の報告が事実とするならば、本能寺で「爆殺」されてしまったため遺骨が存在しないのです。織田信長の敵は、明智光秀だけではなかったのです。
豊臣秀吉は、法名「国泰祐松院殿霊山俊龍居士」があり、京都市の阿弥陀ヶ峰にある豊国廟に祀られているから遺骨があるのではないか、と思うかもしれません。しかし、そこにあるのは他人の遺骨らしいのです。始めは、秀吉の遺体は「平氏」としてミイラ状態で埋葬されたのです。その後、大阪夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡すると、その墓を、徳川家康が暴き、そのミイラを火葬にし、どこかに葬ってしまったのです。そして、代わりの遺骨が埋葬された山奥の人も通わぬ墓が、阿弥陀ヶ峰にあるわけです。
しかし、明治時代になると、立派な豊国神社が京都(百済系桓武王朝の都。廃墟寸前の御所は明治時代になると新装されて立派な御所となって今日に至。)に創建されるのです。
では何故、徳川家康が、そのようなことをしたのかを解くヒントは、織田信長も豊臣秀吉も、自称「平氏」を名乗っていたことです。ちなみに、徳川家康は「源氏」を名乗っていました。
と言うことは、慶長5年(1600年)の関が原の戦いとは、平氏(豊臣氏)と源氏(徳川氏)との「第二次源平合戦」とも考えることができるかもしれません。
それでは、日本国の軍事部族、「源氏」と「平氏」とは、どのようにして歴史上出現してきたのでしょうか。ではその前に、武士のおこりを歴史教科書では、どのように記述しているかをみてみましょう。

国司は新しい開墾地にも重い税をかけた。そこで、有力な農民などは国司との争いや、土地をめぐる争いに、武力を使うようになった。争いのときには、一族や下人とよばれる従者をひきいて戦った。これが武士のおこりである。やがて、武士は有力な豪族のもとに結集して、武士団をつくった。武士は、開拓がさかんで良馬の産地である東日本に、とくに多くなった。また、任期が終わった国司なども、そのまま地方に住みつき、各地の武士を家来として、勢力をのばした。武士団のなかで、とくに有力となったのが源氏と平氏であった。

教科書の記述によれば、「有力な農民など」が、武士の前身であるとのことです。では、その武士達は、どのような暮し向きをしていたのでしょうか。

武士は荘園や公領のなかの、土塀や堀をめぐらした屋敷に、武家屋敷といわれる建物を建てて住んでいた。屋敷のまわりに広い田畑をもち、ふだんは下人を使って耕作したり、近くの農民に小作させたりしていた。有力な武士は地頭や荘園の管理者として、荘園を管理し、自作する農民から年貢を取り立てて、荘園領主へ送った。
当時、武士の家は「弓馬の家」といわれた。武士は馬に乗り、弓を引いて一騎打ちの戦いをした。夫をなくした女主人は、武士団を統率もした。結婚しても生家の姓を名のり、その地位はかなり高かった。

政府公認の権威ある教科書の記述なので、武士のおこりの説明をすんなりと納得してしまいます。しかし、よく考えてみると可笑しなことが多々あるのです。
其1、国から派遣された国司に対して、農民が鍬や鋤などの農具を武器として互角に戦えるものなのでしょうか。
其2、何故、東日本が開拓がさかんで良馬の産地であったのでしょうか。
其3、何故、外から襲われることも無いのに、武士は屋敷を土塀や堀をめぐらしていたのでしょうか。
其4、農民が馬を飼育することは納得できても、乗馬しながら弓を引くことなどの高等技術は、どのようにして習得したのでしょうか。
其5、儒教思想を庶民管理に利用した大乗仏教支配の平安時代の「男尊女卑」の世界で、何故、武家の社会では「女尊」であったのでしょうか。
以上の、武士のおこりに対する疑問の答えを探すには、平安時代以前に戻らなくてはならないようです。
平安時代に出現した「武士」と「芸能民」との発祥は同じです。それは、武士のことを、「武芸者」ということからも理解できるでしょう。では、その両者の源(芸)とは何かと言えば、それは清目(キヨメ)です。では、その清目とは何のことなのでしょうか。
清目と言えば、すぐに思いつく事は、葬儀後の「塩」か「食事」のことでしょう。しかし、平安時代に発明された「清目」とは、個人的な葬儀に対してではなく、国家の鎮護(怨霊を、「犠牲」もしくは「舞踏」により祀ること。)を司る重大なことであるわけです。
では平安時代には何を清目たのでしょうか。それは、「敵神の怨霊」です。その原因は、平安時代を築く目的で、藤原氏や桓武天皇は、敵対する「道教の神」や「景教の神」を、ヒンズー教化仏教を道具として呪殺したからです。
更に、式家の藤原兄弟の良継と百川は、白壁王(後の光仁天皇)を天皇にする目的のために、その井上皇后と息子の他戸皇太子(天武天皇の血を継ぐ最後の皇太子)を謀略で殺害しています。そして、その光仁天皇の息子の桓武天皇は、実弟を無実の罪で殺害しているのです。これらのことは、旧約聖書によれば、ダビデの王権を祭祀アロンと結託して謀略により簒奪し、実兄弟を抹殺したソロモンと同じことが、時空を越えた平安時代に再現されたわけです。
古代の神は、「祟り」と「守護」を兼ね備えていたのです。飛鳥・奈良時代では、神に敵対する者は「祟られ」、神を祀る者は「守護された」わけです。
そのため、平安の都は、怨霊の祟りによる奇怪な事件が続発していたのです。藤原氏と桓武天皇は、それらの祟り(怨霊)を静めること(清目)を目的に、敗者の神の氏子(秦氏・新羅系日本人)を「令外官」として雇い入れたのです。それらが、武士と芸能者の先祖であるわけです。
平安時代、天皇を怨霊から守る清目の仕事とは、天皇直属官人として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会、祭礼の守護、行幸路地の巡検及び普請・清掃、そして橋・河などの公界的な場の管理などです。(では何故、鎌倉末期になると、「清目」が下層階級の「汚れ仕事」になってしまったのでしょうか。)
物理的な守護は、正規軍の「武術者」が行うわけですが、怨霊など目に見えない「モノノケ」に対しての守護は、敗者神の氏子の「武芸者」でなければならなかったわけです。(この見えない彷徨う怨霊(宿神)を清めることを、歌謡と舞踏で表現した芸が、後の「能」となるわけです。ですから、嗜みのひとつとして、武士は「能」を舞えなければならなかったのです。ちなみに芸能の「祖」は、秦氏の統領の秦河勝「翁・宿神」です。)これは、王権側の「穢れ」攻撃に対する反作用です。自ら創作した怨霊を恐怖するこころが、そのような敵側の氏子により天皇を直接守護する集団を創りだしてしまったわけです。
その清目の仕事は、やがて「検非違使」という政府権力組織に発展していくわけです。平安時代の検非違使の仕事とは、鎌倉時代以降の「穢多」の仕事などではなく、天皇を護る高貴な仕事であったのです。
このことは、「長吏」にも言えます。鎌倉時代の末期には、長吏は「穢多」の仕事になってしまうのです。では、元々の長吏の仕事はどのようなものだったのでしょうか。
平安時代になると、桓武天皇は、まつろわぬ秦人や新羅系日本人を、京の都から追放するわけです。その追放先は、山や河川のジメジメした湿地帯や中州、或は、産鉄民族の鉱区跡の「別所」「散所」「湯浅」「海渡」などと呼ばれた山奥の小さな盆地です。
しかし、多くの追放者達は、鈴鹿の関を越えて北関東・東北の諏訪(トルファン)、武蔵(ムクラ、これを「ムサシ」と読ませた人は天才です。)、常磐(トコハン=東胡+フン)へ移住するのです。それらの地域は、古代にユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の第二の故郷だったからです。(平安時代、王権は、騎馬民族文化抹殺のため居住所名をニッポン語化していた。西日本は常民「王権に従う民」の中に部落が存在していたが、東日本では部落の中に常民が存在していた。)
しかし、藤原氏にコントロールされた百済王朝が支配する近畿地方に留まった者たちは、過酷な生活環境を克服していくのです。
秦氏とは、元々は民族名ではなく、騎馬民族国家スキタイと同じに、あらゆる職能者の連合部族であるわけです。そこに騎馬民族の末裔のネットワークが加われば、生活圏は無限に広がるわけです。騎馬民族は、その組織機能からして、国際交易商人と同じだからです。
秦人たちは、古代エジプトで土木・建築技術を習得したイスラエル民族のように、灌漑・土木・堀削の技術を駆使して、河内湖を干拓し、湾近くの河川敷に「津」を造り、海外と交易を開始するわけです。その拠点は、「難波」です。やがて、難波は日本一の貿易都市となるのです。それは、難波は、古代からペルシャとシルクロードで繋がっていたからです。
紀元前六世紀、アケメネス朝ペルシャは、騎馬民族国家スキタイ(女戦士が多数存在した。草原に囲郭を造り集落を築く。幌馬車で移動。)と交戦していましたが、紀元前四世紀になると、西方のマケドニアからアレキサンダー大王がペルシャに侵攻してくるわけです。その戦いに敗れた、ペルシャ・スキタイの残党は、西に東に移動するわけです。
スキタイは、紀元前三世紀には、歴史から消え、その後に、騎馬技術と馬上弓射を習得した匈奴(漢民族による蔑称。チュルク系騎馬民族。漢民族と異なり髭が濃い。)が、シベリアの草原に現われるわけです。その匈奴は、シベリア草原から南下してタクラマカン砂漠に「楼蘭」という国際交易都市を造るわけです。
その「楼蘭」も、紀元前一世紀、匈奴が前漢の武帝に敗れると、やがて砂漠の中に消えてしまうのです。そして、前漢の時代、朝鮮半島の根本に「楽浪」の国際交易都市が建設されるわけです。
その「楽浪」は、二世紀の中頃、高句麗が興ると、高句麗の国際交易都市となるわけです。やがて、四世紀になると、日本列島に交易のため侵攻してきた高句麗、百済、そして新羅の三国の商人達が、朱砂、水銀、絹織物等を争奪するため、近畿地域で貿易覇権をかけて三つ巴の戦いを繰り広げるわけです。その、近畿への上陸地点の「津」のひとつが、「難波」であるわけです。
「楼蘭」→「楽浪」→「難波=浪速」、この流れは何を語っているのでしょうか。それは、共通読みの「ロウラン」が答えてくれるでしょう。
平安時代、都を追われた者たちの「津」の交易先は、新羅国(百済系京都王朝の敵国)となるわけです。その津は、いつしか「渡辺津」(新羅の末裔と信じる源義経は、この渡辺津から屋島の合戦へ出陣した。)と呼ばれるようになるわけです。その意味は、「鮮卑(拓跋)」→「済(渡る)」→「渡」への出自隠しの変化によるようです。
教科書歴史では、鎖国を日本国で始めたのは、江戸時代の徳川家康からであると教えています。しかし、それは違います。
811年、新羅人が対馬にやって来るのです。それは、蘇我王朝から天武王朝の奈良時代までは、新羅国とは友好的に交易を行っていたからです。しかし、この後も何度も新羅国の使者が来航するのですが、平安朝廷は、新羅の使節使が唐服を着てきたからなどと色々な難癖を付けて追い返すのです。つまり、新羅国に対して事実上鎖国政策をするわけです。
そして、平安朝廷は、奈良時代まで使用していた貨幣の流通を禁止するわけです。(鎌倉時代になってから貨幣使用が復活する。しかし、その貨幣は中国・宋銭です。)それは、朝廷にまつろわぬ秦人が、海外貿易で貨幣を溜め込み、勢力を再び増強しないようにする目的のためです。
では、新羅国は何を交易品として求めてきたかといえば、それらは、水銀、銀、そして琥珀です。
シルクロードでの絹貿易は、六世紀に繭と絹織物の技法を僧侶に盗まれてしまった結果、ヨーロッパでの需要が衰退したため、ヨーロッパでの需要逼迫の水銀、銀、琥珀を日本国から輸入したかったからです。(銀は、メキシコ銀鉱山が開発されていない十六世紀までは、日本国が世界最大の産出国だった。)
樹脂が化石化した琥珀は、古代から交易品の上位にありました。それは、呪術に関係していたからです。琥珀が歴史上に現われるのは、紀元前十二世紀です。琥珀ロードは、シルクロードより先に開発されていたのです。その琥珀ロードの開発者とは、海洋民族フェニキアです。
そして、その琥珀の産地は二箇所です。ひとつはバルト海沿岸です。そしてもうひとつは日本列島の岩手県久慈であるわけです。
紀元前十一世紀頃、赤いマントを羽織る海洋民族フェニキアは、紅海に面したエドムの港から大型外洋船タルシシ船で、その交易先のインドからクジャク、香木、紫檀、サル等を、琥珀を貨幣の換わりにしてカナンの地に輸入していたのです。
日本国における琥珀は、二万年前の北海道千歳「柏台遺跡」と縄文晩期の日高地方「新冠古墳」から出土しています。教科書歴史では、八世紀までは未開の地となっている北海道最北端の宗谷岬には、紀元前十世紀にはオンコロマナイ文化が栄えていたのです。ロシア草原ルートは、バルト海沿岸から北海道(渡り島)まで続いているのです。
それでは本土ではどうかと言えば、三世紀から出現する奈良盆地周辺に点在する古墳から琥珀製の勾玉・夷玉が出土しているのです。そして、奈良時代に仏教が栄えると、仏教七宝のひとつとして琥珀の数珠が霊力ある道具として珍重されるわけです。このことは、古代から陸奥国と近畿地方とは、交易ルートで繋がっていたことを示唆しています。
その平安時代の難波での交易も、朝廷の鎖国政策と貨幣使用禁止のため長くは続かなかったのです。そこで、秦人たちは、穢れ思想を逆手にとって新たな経済活動を行うわけです。
神社とは、道教の穢れ神(平安初期の「ケガレ」とは、汚れていると言う意味ではなく、反体制の意味。)を封じ込める装置として、国家権力(仏教側)により発明されたものです。その穢れ神を祀る所は、その氏子にとっては神聖な場所であるわけです。しかし、王権はその氏神と氏子との交流を切断する装置を発明するわけです。それが結界を示す鳥居です。そして、その鳥居に標縄(しめなわ)をめぐらし、幽界に氏神を封じ込めるわけです。(ここから「ナワバリ」意識が始まる。つまり、内「公界」と外「異界」です。)
しかし、そのように永遠に氏神を封じ込めては、氏子の不満は爆発することでしょう。そこで王権は、年に一度だけ、氏神と氏子との交流を認めるわけです。それが、神輿による祭りです。しかし、氏神の乗り物の神輿から怨霊が抜け出ないように、神輿の扉は「閉め扉」となっているわけです。
やがて、穢れ思想(王権の秩序を乱すこと。)が変化してしまう鎌倉末期になると、公界の娑婆を穢さないように、清目として、神輿に向かって「水」や「塩」を撒くことになって今日にいたるわけです。(現在では、「清目」の本来の意味が分らなくなり、「塩」や「水」を神輿に撒くことは、「景気付け」と解釈されているわけです。)
この穢れ場所は、神を祀る「社」(やしろ)で、「会」とはネットワークを意味し、その「社」に集まることは、「社会」となるわけです。でも、その社に集まる人達は、王権から疎外された人達ですから、公には集うことは、「とうりゃんせ」の歌詞にあるように、「行きはよいよい、帰りは怖い」、わけです。それは、神社の境内にある横屋の王権側の監視所から、常に参拝者の動向が見張られているからです。
ですから、その「社会」は、必然的に「秘密結社」となるわけです。そして、その秘密結社と王権とを繋ぐ顔役(仕切り人)を「長吏」というわけです。つまり、長吏の仕事とは、疎外された人達を守る(任侠=弱い立場の人たちの間を狭めること。)ために、王権との調停を行う代理人であったわけです。
平安時代、その長吏たちが経済活動を行う場所は、王権が手を出せない、標縄を張り巡らされた神社境内や橋のない中洲であったわけです。ここが経済活動の場であり、「島」(カル=銅。銅が採取できる山=カル山=香具山。神社の祭りで出店を経営するひとを香具師・ヤシと言う。)であったのです。この島が、鎌倉末期になると「穢れ場」となるのです。何故か?
長吏は、王権の穢れ戦略を逆手にとって、無税の地で経済活動を広げていくわけです。そして、財をなすことで独占的販売システムを確立していくわけです。それが「座」です。それに対して王権側の仏寺は、門前「市」でビジネスを行うわけです。
平安貴族達が、朝廷に奉ろう農耕民を奴隷化して利益を独占する装置としての「税制」と貨幣使用禁止の逆手を取って、長吏たちは神社をネットワークに「座」を全国に広げていくわけです。しかし、その特権を維持するには護衛が必要です。それらの護衛任務を行うひとを「神人」(じにん)、そしてその武装集団を「神兵」というわけです。
そのような逆特権の場を利用して、物語を聞かせたり、歌謡をする集団を組織し芸能業を興し、更に、馬を利用しての運輸業や倉庫業等を手広く経営していくわけです。
その全国にまたがる物流を行なう過程で、決済のための為替や小切手の仕組み、つまり、金融業も経営していくわけです。更に、事業の資金調達のため「株」を発行し、「座」の利益を配当する株組織も開発するわけです。その「座」を仕切る「顔役」のことを「役座」(やくざ)というわけです。
つまり、平安時代の「役座」が、物産開発(素麺座の三輪素麺等)、馬を使用した物流業、歌謡・舞などの芸能プロダクション業、為替・株等の金融業を日本で初めて創業したのです。
そして、戦国時代末期に、織田信長が出現するまでは、役座が「難波」を拠点に全国の神社ネットワークを使用して体制外経済をコントロールしていたわけです。(その平安時代の役座が、江戸時代になるとアウトローの「ヤクザ」となり、「与太者」と呼ばれるわけです。「与太」とは、奈良時代までは、道教寺の「観」で、霊を降臨さすために、フェルト状の布の「真床追衾・まとこおうすま」のハンモックのようなものを「揺する」与太職の神職であったのです。その「揺する」が「強請り」と変化して、ひとを脅すヤクザとなってしまうわけです。更に、落語では、「騎馬民族に対する蔑称」の「馬鹿」の代名詞「与太郎」に貶められてしまうのです。)
戦国末期、この日本一の商業都市の「座」の利権を得る目的で、イエズス会の銃器・弾薬で武装した自称平氏の織田信長は、全国の座組織を支配している拠点の「難波」を十一年間も攻撃しても壊滅させることができず、朝廷に和議斡旋の願いを出し、和議勧告の最中、戦闘態勢を崩した難波軍(鉄砲隊の雑賀衆徒や安芸の毛利水軍も援助していた。)を攻めて、その地を壊滅したのです。そして、織田信長はその地を乗っ取り、諸国の市・座組織を解体して「楽市楽座」をおこなったのです。
そして、1582年その難波の地に大阪城を建設する直前に、織田信長は、本能寺で誰かにより仕掛けられた爆薬で、「爆殺」されてしまったのです。しかし、翌年には、羽柴秀吉は、大阪城の建設にとりかかるのです。(この手際よさ、つまり、織田信長が爆殺されるのを予知していたかのごとく、戦闘中の毛利氏と即決和睦し、本能寺に駆けつけるのです。そして、翌年には大阪城の建設に着手するのです。)
そして、渡邊津の住人をその地から追い出し、大阪湾の湿地帯に追いやるのです。そして、1588年あの有名な「刀狩」を行なうのです。それは、大仏を造る(完成した大仏は木製の金張りでした。)という名目ですが、実際は、公家(亡命百済人と藤原氏の末裔)に唆された豊臣秀吉は、朝鮮・明国支配の妄想にかかり、その朝鮮侵略のための武器としていたのです。そして、豊臣秀吉軍は、難波で行ったことを、朝鮮半島でも行なっていたのです。(このことにより、秦氏の末裔により創作された「能」では、豊臣秀吉は善人としては描かれることは決してないのです。)
それらの同族(騎馬民族・新羅人)に対する豊臣秀吉軍の朝鮮半島での「人間にあるまじき仕打ち」に対して、自称源氏の徳川家康は許すことができず、豊臣秀吉の遺体をこの世から抹殺したのでしょう。
朝鮮蔑視をした自称平氏の豊臣秀吉(「豊臣」とは、豊国の僕と言う意味です。では豊国とは何かと言えば、それは九州・秦王国のことです。百済京都王朝は、九州・秦王国を乗っ取って豊国と名称を替えたのです。その豊国から多数の仏閣を移築した都が京都と言うことです。つまり、京都とは豊国の亜流都なのです。と言うことは、豊国の僕は、京都王朝より挌上という理屈になるわけです。)に対して、自称源氏の徳川家康は朝鮮国を敬っていた(朱子学を朝鮮の学者から学んでいた。)のです。ですから、徳川家康は、朝鮮王朝に朝鮮国における豊臣秀吉軍の蛮行の詫びを入れて、国交を復活するのです。
そして、それに対して徳川家の代替わりには、四百人以上の朝鮮通信使が日本国を訪れるわけです。朝鮮通信使たちは、徳川幕府最高の礼遇で日本国に迎い入れられたのです。そして、江戸時代に都合12回の来日があったのです。
平氏発祥の基は、亡命百済人です。そして、明治維新で藤原氏により政府中央に返り咲いた亡命百済人の末裔(夷)は、663年の出来事を忘れる事が、今でもできないようです。
明治維新勃発の謎を解くヒントは、明治維新軍の中核であった薩摩藩の島津氏の天璋院篤姫が、藤原氏の総本家の近衛家の養女となっていることです。(藤原氏の姻戚戦略)つまり、秦氏改め惟宗氏が、鎌倉時代に薩摩国島津荘の地頭職となって「島津氏」に改めたわけですが、その薩摩国島津荘のもとの荘園主が「藤原氏の総本家の近衛家」であったわけです。つまり、鎌倉時代より、島津氏(秦氏)と近衛家(藤原氏)は姻戚関係であるわけです。
ちなみに、日の丸の旗は、江戸時代、島津氏が琉球王国との密貿易に使用した船に付けて自船を識別していたものです。
明治維新で藤原氏が復活して、平安時代の王政復古(摂関政治=近衛家が天皇家を支配)を唱えたことは、「そのこと」で説明できるかもしれません。つまり、藤原氏の基本戦略は、平安時代も明治時代も、「夷(百済系天皇=平氏)を以って、夷(新羅系日本人=源氏)を制す」だからです。

神輿の黙示録(4)(日本密教の発明:「穢れ」から「ケガレ」へ)


ひとは、儀式や呪文の由来や意味が分らないのに、昔からの言伝えだからと、それらの真意を疑ったり、調べようとはしない傾向があるようです。
例えば、子供の頃の真夏の昼下がり、ゴロゴロと雷鳴を聞くなり「クワバラ、クワバラ」と、蚊帳の中で両手を合わせ拝む祖母を見た記憶のあるひとは少なからずいることでしょう。その呪文の意味を祖母に聞いても、「昔からの言伝え」だからと、明確な理由を聞くことができなかったことでしょう。
では、その「クワバラ、クワバラ」の呪文は、いつ頃発明されたのでしょうか。それは、平安時代の延喜3年(903年)以降の約千年前です。
貴種ではないけれども菅原道真は醍醐天皇にも引き立てられ、894年遣唐使として抜擢されるほどの才能がある人でした。しかし、その才能や醍醐天皇に接近したために危機感を募らせた、天皇を裏でコントロール(摂関政治)している藤原時平の陰謀により、菅原道真は、延喜1年(901年)九州の大宰府に左遷させられてしまうのです。そして、翌々年菅原道真は失意のまま、59歳でその地で没してしまうのです。
怨霊とは祟り神です。それは、やましいこころに宿ります。菅原道真を無実の罪で死に追いやった藤原氏は、菅原道真が雷神となって祟ることを恐れて、その怨霊を封じ込める目的でその地に「神社」を建立するわけです。しかし、それでも菅原道真の怨霊は静まりません。(平安時代では、自然現象でも怨霊の仕業だと信じていた。)そこで、その雷神の祟り祓えを発明する陰陽師(道教士が仏教側に寝返った呪術師)が現われ、雷避けの呪文を唱えるわけです。それが、「クワバラ、クワバラ」です。その意味は、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。つまり、「クワバラ・桑原」の呪文を聞いた怨霊(雷神)は、生誕地を避ける、と言う理屈です。
宗教(呪術)は使い方によっては、ひとを幸福にしますが、間違った使い方をするとひとを不幸にしてしまいます。このことを、革命家のカール・マルクス(1818年〜1883年)は、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である。」を引用して、「宗教は、逆境に悩める者のため息であり、それは民衆の阿片である。」と言ったそうです。そのように、宗教を批判したカール・マルクスの唱える「マルクス主義」も、ユダヤ教(旧約聖書とタルムードを信じる宗教。キリスト教は旧約聖書と新約聖書を信じる宗教。ヘブライ語の旧約聖書は、意外にも西暦90年頃確立した。それは丁度、新約聖書が確立した頃です。更に、大乗仏教経典群成立と時を同じにしているのは何故でしょうか。70人訳ギリシャ語聖書は、それらよりも早く紀元前280年エジプトのアレキサンドリアで成立していました。)を換骨奪胎して再構築した「宗教」だったようです。
しかし、マルクスの言ったことは真実でした。それは、阿片は宗教儀式で実際に使用されていたからです。
アヘン・ケシ(学名バパベル・ソミフェルム)の花が散った後の子房を傷つけると、ミルク状の樹液が滲んできます。その樹液が空気に触れると茶褐色の樹脂となります。これが生阿片です。原産地は地中海沿岸で、紀元前四千年頃、オリエントのシュメール人や古代エジプトの神官が、宗教儀式に使用したのが、始まりのようです。その阿片は、シルクロードの国際交易商人や僧侶たちにより、地中海沿岸→ペルシャ→インド→中国へと流れ、659年に著された唐の医学書に「阿芙蓉」と掲載されています。
ひとの意識を、ある種の物質で瞬時に変格させる研究をした宗教組織がありました。そのひとつが、バラモン教です。
紀元前十三世紀、地中海沿岸からインドへ侵入してきた民族がいました。それはアーリア人と呼ばれていました。アーリア人は、インドの先住民の牧畜・農耕民族のドラヴィダ人を支配する装置としての宗教を発明するのです。それが菜食主義のバラモン教です。アーリア人は、ドラヴィダ人を支配するために、複雑怪奇な儀式を発明するわけです。そして、ブラーフマン(梵)を主神として、祭祀(カルマ)、知識(ジュニャーナ)、神への絶対的帰依(バクティ)などの難解な思想で先住民を支配するために、絶対身分制度のカーストを発明するわけです。そして、その制度から絶対に抜け出る事が出来ない装置の、「輪廻転生」の思想も発明するわけです。(釈尊は、このバラモン教のカルマから解脱するために、「非人」となり「乞食」し、「無我」の思想を発明した。)
それらの身分とは、上から司祭階級(バラモン)→王族(クシャトリア)→庶民(ヴァイシャ)→隷民(シュードラ)、そして不可触賎民(セダラ・鎌倉末期にセダラ=穢多が歴史上に現われる。)です。(鎌倉末期、この肉食を極端に蔑視するカースト思想を、騎馬民族を貶めるため、京都王朝側が仏教徒により布教。この思想が、江戸時代に完成する身分制度の、「士農工商穢多非人」となるわけです。)
このインドの地で、秘密の宗教の「密教」が、バラモン教により発明されるわけです。「密教」を一口で言えば、「原初的な科学・化学・薬学・心理学による意識の変成の技術」と言えるかもしれません。つまり、密教とは、錬金術でもあるわけです。(錬金術の真の意味は、卑金属を貴金属に替えることではなく、こころを神の境地に達成させるための技術。)
そのために、バラモン教(四世紀頃ヒンズー教に吸収される。)は組織を上げて、末梢神経や中枢神経をコントロールする「物質」を探究するわけです。そのひとつが、固体→液体→気体→固体→液体→気体と、無限に変成する「水銀」の研究となるわけです。その水銀は、まさに「輪廻転生」の具現化であるわけです。そのため、水銀は、高価な交易品となるわけです。
水銀は、朱砂が採掘される所に埋蔵されています。その朱砂は、日本列島では、縄文時代から呪術の道具として利用されていました。それは、埋葬時に死者の身体に朱砂を塗ると、いつまでも死者は腐ることがないためです。
時代は下がり、四世紀になると、吉野山での水銀の発掘利権をめぐり、ユーラシア大陸から国際交易商人達が、近畿地方に侵攻してくるわけです。
更に時代が下がり飛鳥・奈良時代は、ユーラシア大陸を故郷とする騎馬民族王朝(蘇我・新羅王朝)が続いていましたが、平安時代になるとインド・中国南朝からの海洋民族王朝(百済王朝)になるわけです。このことにより、百済国を滅ぼした新羅国とは国交を断絶したため、[水銀」の交易ルートも変更となるわけです。遣唐使とは、純粋学問探究だけではなく、新交易ルートの開発係りの意味合いもあったのです。
平安京に遷都してから十年後、公費で百済系末裔の最澄を唐に使わしたのは、表向きは仏典の輸入となっているようです。が、しかし、私費の秦氏の末裔の空海が、最澄と時を同じくして唐に渡った意味が理解できません。何か隠された意図でもあったのでしょうか。
当時の留学費は、下級官人の息子の空海に出せる程の金額ではないでしょう。不思議なのは、空海が仏籍に入ったのは、留学の前年なのです。(京都の大学を中退した空海は、四国で鉱山探索をしていたようです。後に寺を建立した付近には銅山・銀山が開発されていたからです。)
そして、最澄が805年帰朝すると、空海も806年帰朝するのです。普通の留学期間は二十年が相場のようです。そのような一二年間で、言葉もあまり通じない異国の地で、仏教の何を学んできたと言うのでしょうか。そして、帰朝するなり、最澄は天台宗を、空海は真言宗を興すのです。
これらのことを考慮すると、二人の行動の裏には、得体の知れない大きな組織のニオイが感じられます。ふたりの唐留学は、実は学問のためではなく、交易ルートの新契約、或は、銀鉱山探索技術や鉱山開発工具購入ではなかったのでしょうか。(空海の「法具」には鉱山開発工具のニオイがします。)
空海は、806年に帰朝後から3年して、やっと九州から京都朝廷へ呼び出されるのです。それは、百済系色の強い桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も病気で退位したため、好奇心旺盛の嵯峨天皇が即位したからです。
そして、812年に、高尾山寺神護寺で、正式に恵果阿闍梨から唐で譲り受けた密教灌頂を開くことが、京都朝廷から許されるのです。その後、京の都から遠く離れた、銀鉱脈がある吉野山に近い、山奥の「高野山」に寺を建立するわけです。
空海の密教は、すんなり京都朝廷に受け入れられたわけではないのです。それは、奈良の東大寺系修験道との繋がりを、京都朝廷は警戒していたからです。
東大寺は752年、反藤原氏の聖武天皇が、河内国の秦氏の末裔の行基(ヨーガの呪術を駆使して賎民に平等思想を布教。)の土木技術や全国行脚により資金調達の援助を基に、建立したものです。
その東大寺の廬舎那仏は大日如来(遍照鬼=無量光仏=ミトラ神=太陽神)とも言われています。その大日如来は平安時代になると、空海が発明した「密教」の、仏菩薩、天(「テン」とはサンスクリット語で「神」の意味。)、明王など、唐、インド、ペルシャなどのあらゆる神々を統一する、「仏」になってしまうのです。
この空海が発明した密教の、大日如来があらゆる神々を統率する「汎神論的理論」が、後に、平安仏教側が、神社ネットワークの座を経営する、朝廷にまつろわぬひとびとを壊滅させる戦略に利用されてしまうわけです。それが、本地垂迹理論です。
本来の本地垂迹とは、永遠不滅の絶対的理想仏としての「仏陀」を想定し、この仏陀を「本地仏」(本当の仏)とし、それに対して、歴史上実在した生身の仏陀を「垂迹仏」(仮の仏)とする考え方です。この「本地仏」と「垂迹仏」との関係を、平安仏教側は、「仏」と「神」の関係に置き換えてしまうのです。つまり、「仏」が現実世界へ「神」の姿で化現すると、理論展開してしまうわけです。これが、神仏習合の基本理論です。
そして、平安朝廷は、それまで九州宇佐八幡神(古は、新羅国から渡来した秦氏の神様。しかし、和気清麻呂により乗っ取られて百済王朝の支配下となる。)で天皇家を祀っていたものを、空海の真言密教(神仏習合・加持祈祷)で祀ることになるわけです。つまり、八幡神宮が、神仏習合の第一号となるわけです。
このことにより、体制側が手出しできなかった「異界」の神社境内の空間が、仏教側の支配下になってしまうわけです。それにより、反体制の民が経済支配できるのは、中洲(河原)か街道だけとなるわけです。ここから「アルキ」筋が発生するわけです。つまり、漂泊する芸能民の発生です。
その漂泊芸能民は「七道の者」と呼ばれるわけです。
では、その「道」とは何を意味しているのでしょうか。「武道」「華道」「茶道」等など色々な「芸」につけられる「道」です。それらは「清目」の者達の「技」についているわけです。
その「道」の意味は、敵の大将の首を刃ね、その首を手に掲げ、包囲する敵陣へ向かって少しずつ歩むことにより、敵陣側に自ずから拓く間隙を進むことです。つまり、生死を賭けて敵陣へ進んで行くことが「道」であるわけです。
その七道の者とは、猿楽、アルキ白拍子、アルキ巫子、かねタタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼です。つまり、それらの芸能民とは、清目の者達なのです。
清目の技の「芸」とは、弱い立場のひとたちに対して、歌や舞や色々な技で、こころの怨霊を取り除く「神芸」であるわけです。元々は、氏神を祭る(歳る)ための技が基であるわけです。それが、王権側に祀り場が奪われてしまったため、中州や街道で清目を行なうことになってしまったわけです。芸能民の清目達は、ひとびとを清めた(こころの怨霊を祓う)返礼として、銭や品物の喜捨を受けるわけです。
そして、このアルキ筋は、平安時代では藤原氏の氏寺の「興福寺」の支配下にあったものが、鎌倉時代になると、穢多頭の弾佐衛門の支配下となってしまうのです。何故か?
701年、藤原不比等が日本国を支配する装置としての「大宝律令」による私有地保持禁止も、ひとの物欲を統制することができずに、「三世一身法」や「墾田永世私財法」等と法律を作り替えても、ひとびとの物欲を押さえることができませんでした。その行き着く先が、荘園の経営となるわけです。
私財に余裕のある貴族や寺社は、農奴を銭で掻き集め、未開拓地を開墾するわけです。それにより、税の負担を軽減させるわけです。この荘園経営が広まることにより、税収減になり朝廷の財政が苦しくなってしまうわけです。
藤原氏は、天皇家を支配するために、藤原の女を側室として提供したことにより、天皇家では子沢山となり、それらの子供たち全てを養うことができなくなってしまったのです。(嵯峨天皇は56歳の生涯で、后妃夫人30人以上。皇子皇女50人。)
そこで考え出されたことが、臣籍降下です。つまり、准皇族を作り出すことにより、側室や皇子皇女の養育費を削減するわけです。それが、臣籍降下の「源氏」姓の誕生です。
814年には嵯峨源氏の賜姓となり、825年には公家桓武平氏の賜姓となるわけです。つまり、源氏も平家も天皇家の臣籍であるわけです。(同じ天皇家から源氏と平氏のニ姓を創作したのは、藤原氏の「分断して、統治せよ」の戦略のようです。それは、天皇家の臣下にある源氏と平氏が、やがて争うことになるからです。)
荘園経営の規模を拡大する寺社は、荘園のナワバリを確保するために、武装集団を組織するわけです。それが僧兵です。百済系比叡山の僧兵と、藤原氏系の興福寺の僧兵が、我が物顔で京の都をのし歩くのです。神輿を担いで強訴することも度々です。(仏敵の氏神の乗り物である「神輿」を、仏教僧達が手荒く担ぐとは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、「イヤガラセ」の何ものでもありません。)
それに対して、氏神を祀る役座側も神兵で武装組織して、神社や中洲の神域権益のナワバリを確保するわけです。
それに対して、天皇や貴族を護る嵯峨源氏も騎馬民族の「武士」で武士団を組織するのです。桓武平氏は海洋民族の武士団を組織するのです。しかし、平安初期の武士の仕事は、怨霊から天皇を護る「清目」です。
源平の軍事力としての武士団の実力が認められるのは、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱まで待たなければなりませんでした。このふたつの乱により、武士が貴族の支配から解放されることになるわけです。
では、814年の「源氏」発生まで、軍隊は存在しなかったのかと言えば、そうではありません。
宝亀五年(774年)、百済系光仁天皇は、藤原氏のコントロールにより、蝦夷の国(東北)を侵略するわけです。その目的は、本国百済を滅ぼした敵の子孫の新羅系日本人追討と陸奥国の「金」と「琥珀」の簒奪です。
その侵略戦争は、光仁天皇、桓武天皇、そして嵯峨天皇までの38年間にも及ぶわけです。そして、その戦いに動員された兵の延べ人数は、六回の出陣で約20万人です。当時の推定人口は600万人と言われているのに比べれば、20万人の軍人の多さが国家挙げての大事業であったことが分るでしょう。それでも、軍事武力により、戦馴れしている騎馬民族の蝦夷を降服さすことができませんでした。
では、その20万人の軍隊は、どのような属性の人達かと言えば、それは定かではないのです。陸奥の敵将アテルイを騙した二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂の容姿は、日本後紀によれば、「赤面黄鬚」とあるようです。この表現を物の本によれば、赤ら顔で「金糸の付け顎髭」をしていた、と説明しています。しかし、それは可笑しい。戦いに望む部将が、何ゆえ「金糸のあごひげ」をつけなければならないのか、説得力に欠けます。極論を言えば、坂上田村麻呂は、「金髪の白人種」であったのでしょう。つまり、亡命王朝の京都百済王朝は、外国の傭兵軍により軍事行動や治安維持をしていたのでしょう。歴史上実際に、北魏国には、ペルシャの傭兵軍が存在していました。
このことは、後の源平合戦の時、源氏勢力に叩かれ兵力が削がれても、暫くすると、再び平氏の軍勢が増すことは、その都度、海外(インド・宋国)の傭兵軍を雇い入れていたからでしょう。それは、平家王朝は、福原の津で、インドと交易をしていた宋国と貿易を行なっていたからです。
平安時代初期までは、日本列島は国際人で溢れていたのでしょう。しかし、その渡来部族の実体を知ることは、藤原氏による焚書のため、できません。それは、藤原氏の出自隠しのためです。日本版レビ族「藤原氏」の出自も、645年に突然歴史上出現する「中臣鎌足」が先祖であることなど、とても信じることはできません。
日本人は本来、複合民族により構成されているのです。それを無理やり単一民族などと刷り込みをおこなうから、色々な弊害、例えば「イジメ」などが発生してしまうわけです。
複合民族を統制するために、平安の王権側は、朝廷にまつろわないひとたちを「鬼」「妖怪」などと創作して、色々な物語を考え出すわけです。そして、更に、反王権のひとたちを精神的トラウマに陥らす目的に、「地獄」世界を平安時代に、ヒンズー教思想を真似て、発明するのです。現在の、閻魔様(ヒンズー教の神様)が、地獄に落ちたひとの「舌」を抜くイメージは、この平安時代に創作されたものです。
10世紀末、平安仏教は、「六道」の世界観を布教するのです。その根底はヒンズー教です。空海の発明した「日本密教」が平安仏教界に取り入れられると、仏寺のあちこちから「おん・ばさら・あらたんのう・うん・なも・あきゃしゃば・らば・おん・あみりきゃ・ありぼ・そわか」の梵語による真言呪文が聞こえてくるわけです。平安の都は、正にヒンズー教世界の様相を示していたようです。そして、寺にはヒンズー教の神々が仏像に成りすまして鎮座して、その神々に対して、ゾロアスター教の拝火を真似て、護摩を炊いて、祈祷するわけです。

江戸末期、大阪の商人学者の富永仲基は、大乗仏教非仏教説を唱えていました。つまり、大乗仏教は、釈尊の唱えた仏の道ではない、ということです。
僧侶が護摩を炊くとき、十字を切るのは何故でしょう。忍者も術をする前に、十字を切ります。忍者の服部家は、もとは秦氏です。秦氏の氏寺は「十字寺」とも言われていました。その十字寺は、景教寺とも言われていました。景教徒の墓には、マルタクロス(十字架)があります。景教の儀式は、ミトラ教(太陽神)を基にしています。そのミトラ教を模倣したキリスト教も、十字架をシンボルとして利用しています。そして、秦氏の末裔の士族の島津家と穢多頭の弾家の家紋は同じで、それは十字です。何故、秦氏の末裔の空海が、大日如来(ミトラ神)を崇拝し、護摩(ゾロアスター教の拝火は、ミトラ儀式を模倣)を炊き、十字(太陽のシンボルのマルタクロス)を切ることは、もしかすると空海にはオリエントの血が流れていた為でしょうか。

そして、984年、源信は「往生要集」を著し、地獄世界を貴族達に布教するのです。(トップダウンによるコミニュケーション戦術。)
六道の世界観とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、そして天です。その「地獄」については、更に詳しく記述するのです。その地獄世界は八つに分けられているのです。それらは、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、そして無間地獄です。(極楽のイメージを布教しないで、地獄ばかり布教するのは何故でしょうか。)
そして、これらの地獄世界を布教することにより、騎馬民族・漁労民族を貶めるのです。それは、等活地獄へは、動物を殺すこと(血の禁忌)により、落ちることになっているからです。つまり、「殺生禁止」のために、この等活地獄を布教するのです。この思想により、騎馬民族・漁労民族の生活基盤が揺らいでしまうわけです。更に、農耕民族による、騎馬民族・漁労民族への蔑視や「イジメ」の根拠になってしまうのです。つまり、藤原氏の戦略、「分断して、統治せよ。」となるわけです。(この思想を発明した菜食主義のバラモンには、植物にも、動物と同様に生命があることが理解できていなかったようです。)
そして、プロパガンダ(布教)の常套手段のビジュアルとコピーで、それらの地獄世界を、庶民に訴求するのです。ビジュアルとしては、六道絵、地獄絵、そして「北野天神縁起絵巻」などです。コピーとしては、地獄草紙、餓鬼草紙などです。この平安時代の地獄世界の刷り込みが、千年後の現在の日本人を呪縛しているのです。
それらの平安仏教の思想布教に伴って、穢れ祓いの「清目」=王権に逆らう者達(怨霊)から護ることの仕事が、汚い物の清掃業務に変えられてしまうのです。つまり、「穢れ」から「ケガレ」となってしまうのです。それには、王権側のもうひとつのトリックがあったのです。
それは、ライ病者(皮膚病者)の扱いです。平安仏教は、仏敵に対して、仏罰の結果がライ病者であると、「法華経」により布教して、そのライ病者の世話を「清目」達の部落に押し付けたからです。これより、反体制の民の顔役の長吏の仕事が、ケガレの仕事になってしまうわけです。
釈尊の説いた仏の道は、弱い立場のひとたちの為にあったのではないのでしょうか。それから考えると、平安仏教(貴族仏教)は、何を目的に、仏の道を説いていたのでしょうか。
「賭博」と「高利貸し」は、役座が創業したビジネスのように思われているようですが、それは違います。日本国で最初にはじめたのは、大乗仏教徒のようです。歴史上では、大乗仏教徒が、唐国よりもたらしたサイコロを使った「双六賭博」が始めのようです。天武天皇が貴族達と双六賭博をおこなったことが「日本書紀」に記述されています。そして、高利貸しの方も、奈良時代の仏寺が始めたことが、「続日本紀」に記述されています。(戦国時代、武士の大将が、必勝祈願に仏寺にお参りしたのは、実際は、武器弾薬を購入するための金策だったようです。昔も今も、宗教組織の教団維持には、金貸し業は、重要な収入源のようです。)
賭博用語で、「テラ銭」とはチップのことですが、それは、賭博を「寺」でおこなっていたから、「寺銭」と言うわけです。寺で賭博をおこない、負けると寺から金を借りる。これは、正に、現代のパチンコとサラ金の関係と同じです。
貸した金を返してもらうことは、昔も今も同じように困難な仕事です。高利貸しは、金を貸すときは「菩薩」と言われ、返済を迫ると「鬼」と言われるようです。
そこで、高利貸しの寺は、貸した金をスムーズに返済させるための仕掛けを考えるわけです。それが、「ウソ」をつくと、地獄に落ち、閻魔様に舌を抜かれる、という刷り込みです。仏教の宣伝パンフレットの「日本霊異記」には、借りたものを返さないことにより、地獄に落ちる物語が多く掲載されているのは、そのためなのでしょう。
平安時代、仏徒が、神徒(道教の神、景教の神、八幡の神を祀る反体制のひと。道教を崇める天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、ケガレ祓いを発明した「中臣神道」は、天武天皇が崩御後、藤原氏系中臣氏により創作された「体制側の神」。ヒンズー教思想が導入される前の日本国には、「浄・不浄思想=穢れ思想」は存在していなかった。ちなみに役座は道教の薬草学の神農様を祀る。)を目の敵としたのは、神徒が、仏徒ビジネスの真似をして、「異界」の神社ネットワークを利用して賭博と高利貸しのビジネスを興したからかもしれません。
しかし、大乗仏教側が発明した日本版本字垂迹説を基に、神仏習合により、怨霊封じ込め施設である「異界」の神社は、ついに、仏教側の支配下になってしまうわけです。そこで、仏教徒による寺の「賭博」「高利貸し」と、アウトローによる闇の「賭博」「高利貸し」が発生するわけです。
「ケガレ」思想を、平安仏教徒が布教した原因のひとつは、もしかしたら神徒側の「賭博」や「高利貸し」のビジネスから庶民を隔離して、仏徒側のビジネスのナワバリ確保のためだったのかもしれません。

神輿の黙示録(5)(鎌倉源氏の謎:何故新羅の神を祀るのか)


奈良時代から平安時代への流れは、物理的に、単に都が奈良から京都へ移っただけではないようです。それは、内外への政策が前政権(天武王朝)とガラリと激変しているからです。それらは、対外的には、新羅国との鎖国です。そして、国内的には、陸奥国(東北)への軍事侵略です。
新羅国に対しては沿岸警備兵の防人で北九州沿岸へ防衛線を築き、そして、陸奥国へは征夷大将軍(征夷とは、弓矢を使うエビスを征伐するという意味。)により延べ20万の軍勢で侵略をおこなったからです。
天武王朝の時代では、719年新羅国は騾馬を元正天皇に献上するほどでしたが、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が政界中央に復帰後から、次第に新羅国からの使節を粗野に扱うようになるのです。
そして、飛鳥時代、陸奥国の蝦夷達は、ペルシャ式庭園を築いた斉明天皇により飛鳥の都に招かれ饗応されていたのものが、百済系桓武天皇の父親の光仁天皇の時代になると、宝亀5年(775年)大友駿河麻呂を始めとして、二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂(初代は大伴弟麻呂)指揮下の外国傭兵軍により、38年もかけて陸奥国への軍事侵略をおこなうわけです。
そこで不思議なことに気付くのです。
それは、陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍と戦った、金髪の坂上田村麻呂率いる軍団の、進撃ルートは知られているのに、蝦夷軍との戦いに使用した武器や装備が史料として遺されていないのです。野史によれば、田村麻呂軍は、腰弓や幅広の剣など中国大陸型の武器で武装していたようです。それに対する蝦夷軍は、チュルク(突厥:トルコ系騎馬民族)の戦術(短い弓矢で、敗走しながら後ろ向きで騎射。)で、応戦するわけです。蝦夷軍の剣は、ペルシャの剣に似た蕨刀です。
外国傭兵の京都朝廷軍は、歩兵が主で、陸奥国の国情や地形を知らないため、当然苦戦するわけです。そこで、坂上田村麻呂は、敵将のアテルイを騙して、京の都に連れて行き、そこで、アテルイを惨殺するわけです。大将を失った蝦夷軍は、弘仁2年(811年)2万の文室綿麻呂軍により壊滅されてしまうのです。
坂上田村麻呂は、弘仁2年(811年)54歳で没しました。それから3年後、嵯峨源氏が誕生するのです。桓武平氏は、それから14年後に誕生するわけです。
そこで、また不思議なことに気付くのです。
それは、征夷大将軍の坂上田村麻呂が没して、間もなく、軍事部族としての源氏と平家が誕生するわけですが、その軍備や武器などの前時代からの継続性が、史料などで確認できないのです。源氏も平家も、中国大陸型の武器ではなく、突然、片刃の日本刀(古墳から出土するのは両刃の剣ばかりです。)と豪華絢爛な鎧兜(装飾過剰で実戦には不向きな武具です。)で武装しているのです。これらの武器の、ほんの少し前の征夷軍の武器や装備からの飛躍は、どのように説明することができるのでしょうか。
645年の政変(「大化の改新」はフィクションです。)の時、蘇我王朝の皇紀と国記は、藤原氏により焚書されてしまいました。(教科書歴史では、蘇我蝦夷が焚書したことになっています。)そして、奈良時代の史料は、藤原氏にコントロールされている桓武天皇により焚書されてしまったのです。正倉院(北方スキタイの建築様式。歴史教科書では、湿気を防ぐ南方系建築様式と説明している。)にあった天武系聖武天皇の遺品も、百済系桓武天皇に都合の悪い物品は、桓武天皇により処分されてしまったのです。
ですから、その時代を知るには、焚書されることのない公家(百済系日本人と藤原氏)の日記などに頼ることになるわけです。しかし、その日記には公家に都合の悪いことは記述されていません。ですから、歴史の真実(あるとしての前提ですが。)を知るには、智恵が必要になるのです。それは、公家の日記にさりげなく悪く書かれている事柄に真実の種が隠されていることもあるからです。
平安時代から日記を書くひとが多くなるのは、大乗仏教の「地獄思想」布教のおかげです。それは、地獄に落ちないように、死の裁判の時、閻魔様に生前の善行の証拠を示すためが、日記を書くことの主な動機のひとつになったようです。
戦国時代、公家の中院通秀の日記「十輪院内府記」に、「およそ源氏の氏神は、平野社を以って正と為すなり、八幡宮に於いては、清和源氏義家以来の事なり。」とあるのです。源義家とは、後の「八幡」太郎義家のことです。弟には、「新羅」三郎(源義光)がいます。源氏の名字に「八幡」や「新羅」をつける意味は何なのでしょうか。
「平野社を以って正と為す。」とは、源氏の氏神の本社は平野社ということです。それは、平野社は、百済系桓武天皇の祖先神を祀る高貴な所だからです。源氏が百済系桓武天皇の先祖神を祀るのは、何故か。それは、源氏も平氏も、基は百済系貴族だからです。その源氏と平氏の貴族達が、下人(武士)として雇った部族が、源氏が新羅の末裔であり、平氏が出自不明(フェニキア・インド軍事部族の末裔)の海洋民族であるわけです。
嵯峨源氏は貴族出であるのに対して、清和源氏は昇殿できる四位のものはほとんどいない、下級の武家源氏であるわけです。つまり、源氏といっても、平安時代では二種類あるわけです。それは、昇殿できる公家源氏と、昇殿できない武家源氏(鎌倉源氏)です。
その昇殿できない武家源氏の清和源氏の氏神が「八幡宮」である、と言う意味はなんなのでしようか。
戦いで勝ち残るための条件のひとつは、兵力と武器です。武器は、最新のハイテク技術で開発されていくわけです。ですから、戦いは、常にテクノロジーの戦いでもあるわけです。 石器武器は、青銅器武器に敗れ、その青銅器武器も鉄器武器に敗れました。槍で武装した軍団は、弓矢で武装した軍団に敗れ、弓矢の武装集団も鉄砲軍団に敗れました。そのように、武器は戦いの勝敗を左右するための重要な要素なのです。ですから、最新式武器は、敵対民族に瞬く間に伝播していくわけです。
武器の伝播は、ひとを介しておこなわれます。ですから、武器の伝播経路を辿れば、軍団の侵攻経路の推測も可能であるわけです。
では、源平の武士集団が発生した時代、世界はどのようなうねりに翻弄されていたのでしょうか。
西暦571年、西アジアでひとりの偉大な男が誕生しました。その名はマホメットです。マホメットは神の啓示を受け、宗教を興すのです。それがイスラム教です。イスラム教は旧約聖書とコーランを信じる宗教です。そのイスラム教は、貴賎に関係なく誰にでも「平等」を説くことにより、戦争による貧困に喘ぐ下層階級の民に瞬く間に広がるわけです。それがサラセン帝国を興すエネルギーとなるわけです。
サラセン帝国は、やがてイスラム帝国となり、ササン朝ペルシャやインドのグプタ朝を飲み込んでしまうわけです。イスラム軍団に敗れたペルシャ軍団やインド軍団は、周辺諸国に敗走するわけです。そして、紀元八世紀には、イスラム帝国は、西は北アフリカから東はインドまでの大帝国に発展するわけです。
紀元八世紀後半、イスラム帝国の膨張に伴い、カスピ海(カザールの海の意味。)周辺で、草原ロード、南海ロードそしてシルクロードにより西(ヨーロッパ)と東(ウィグル・唐・新羅)との国際交易をおこなっていたカザール王国は、東ローマ帝国(キリスト教=旧約聖書+新約聖書)とイスラム帝国(イスラム教=旧約聖書+コーラン)に挟まれてしまうわけです。そこで、カザール王国の民は、生き残るための選択をおこなうわけです。その選択のひとつが、キリスト教でもなくイスラム教でもない、弱小宗教のユダヤ教(旧約聖書+タルムード)に改宗することにより生き残るわけです。しかし、改宗しない者達は、国際交易で得た莫大な財宝と伴に国際交易ロードの彼方に消えてしまうわけです。
紀元十世紀の東アジアに転じると、907年に唐が滅び、そして935年に新羅国が滅んでしまうのです。国が滅ぶ原因は、二つあります。それは、外国からの攻撃と、内側からの崩壊です。その二つの原因の根本は、経済です。国の経済がしっかりしていれば、国内統制も充分におこなうことができるし、武器や軍隊を調える事により外敵を防ぐことも出来ます。
西と東の交易をおこなっていたカザール王国の崩壊は、周辺諸国だけではなく、遠く極東の国々にも大きな影響を与えていたのです。
そのような激動する国際情勢の中に、百済系平安王朝は誕生したのです。
国が崩壊する少し前に、最初に脱出するのは、昔も今も同じです。それらは、権力者、高級軍人、祭祀者、金持ち、そして権力と何らかの関係があるひとたち等です。
奈良時代後半から平安時代初期にかけて、唐からインド高級僧侶達が多数渡来したのは、西アジアの国際情勢を、国際交易商人や諸外国を遊行する僧侶達からの情報で知って、イスラム教軍団がインド侵攻前に、唐に亡命していたからです。(イスラム教がインドで布教開始すると、やがて仏教は消滅し、「ブッダ」はヒンズー教の「ビシュヌ神の化身」になった。インド亡命僧が、日本国にカースト思想を持ち込んだ。インドの神々は七福神に変身して渡来した。)
そして、平安時代になると、新羅国も盛んに使節を送ってきたのは、実際は、朝貢ではなく、新羅国中枢の亡命打診であったのかもしれません。
では、平安貴族の「嵯峨源氏」に雇われた武士達は、何所から来たのでしょうか。
映画の「ラストサムライ」ではありませんが、日本国最後の武士として敗れたのは、明治10年(1877年)の旧薩摩藩でした。薩摩藩は、武士育成のための教育手段として、名門の美少年を「稚児様」として奉り、青少年に武士道の教育や戦の訓練をおこなっていました。
この「稚児様」を中心にした青少年への武士育成のための教育方法は、何所から導入されたのかと言えば、それは新羅です。五世紀の新羅では、「花郎」(ファンラン=弥勒の男=ミトラ神=戦の神)と呼ばれる貴族の美少年を奉じて、騎士道精神を教育し、青年武士団を形成していたのです。
薩摩藩の島津氏(鎌倉時代に改名)は、平安時代では惟宗氏を名乗り、五世紀に、新羅から渡来した秦氏を先祖としていたのです。ですから、新羅の文化は、秦氏をとおして、日本列島(「日本国」の表号は、七世紀から始まる。それ以前は、魏国から倭国と言われていた。)にもたらされていたのです。
日本国の中枢は、平安時代に、藤原氏の陰謀により、百済の亡命政権に乗っ取られてしまったため、敵国新羅の末裔による日本国における事績(新羅・秦氏の末裔の居住地名をニッポン語化してしまった。例えば、「トルファン」は諏訪。「ムクラ」は武蔵。「ジュジ」は住吉など。それらの旧地名は、騎馬民族の故郷の北東ユーラシアでの地名です。)を抹殺してしまったため、日本の武士道のルーツも全く分らなくなっていたのです。
百済(ペクチェ)は、西暦346年、北方ツングースから渡来した夫余や高句麗の末裔と、南海ルートからの渡来民族により建国されたようです。
それに対して、新羅(シルラ・シンラ)は、西暦356年、二つの異民族により建国されたようです。それは、天孫(征服族)三姓の朴(パク)、昔(ソク)、金(キム)と、六土姓(先住民)の李(イー)、崔(チュー)、孫(ソン)、鄭(チョン)、裴(ぺ)、薛(ソル)です。つまり、新羅は、日本国と同じに、天孫族による、先住民に対する征服王朝だったのです。
では、新羅国の、日本の武士道のルーツとなった騎士道精神は、どこからもたらされたのでしょうか。
新羅の王都慶州(キョンジュ)の155号古墳から、天馬の絵が発見されました。その天馬は、騎馬民族スキタイでは、ペガサスと呼ばれ、騎馬民族の族長クラスの馬につけられた名称です。つまり、新羅国の天孫族は、高句麗や夫余のツングース(東胡=トコ=常=常陸=ツングース族の渡来地。)とは異なり、スキタイ・シベリア系の騎馬民族であったのです。
紀元前六世紀、スキタイ(騎馬部族連合国)はペルシャ(騎馬部族複合国)と何度も戦をおこなっていたので、ペルシャの騎士道精神が、スキタイに受け継がれていたのでしょう。
日本の武士による、戦いにおける「名乗り」と「一騎打ち」は、ペルシャ騎士道の真似です。ペルシャの軍隊は、傭兵で構成されていたので、戦いに敗れると、国王は莫大な借金を背負い込むことになるのです。そこで考え出されたのが、全軍激突ではなく、一騎同士による戦いです。これならば、万が一敗れたとしても、負債は最小限にとどまります。
日本の武士道の発生ルート(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅)は分りましたが、では、嵯峨源氏の武士達はどのようにして渡来したのでしょうか。
子沢山の嵯峨天皇は、源氏姓の基です。つまり、嵯峨源氏が、全ての源氏姓の基締めであるわけです。天長八年(831年)、嵯峨源氏が初めて公卿になっても、天暦五年(951年)源等の死により、嵯峨源氏は政界の表舞台から姿が消えてしまうのです。
藤原氏の傀儡政権の百済系光仁天皇、桓武天皇、平城天皇までは、藤原氏のコントロールもよく効いていたようです。しかし、四代目の嵯峨天皇になると、人情も三代過ぎれば何とやら、の譬えのように、反体制側の秦氏の末裔の「空海」を都に呼び親しく交わるなど、桓武天皇時代ではありえないこともおこなわれたのです。ちなみに、桓武天皇は、百済の末裔の「最澄」(架空人物・「聖徳太子」の宣伝隊長。)を寵愛し、比叡山延暦寺を建立するわけです。
嵯峨天皇の、藤原氏を無視する行動に対して、藤原氏は、奈良の興福寺(710年藤原不比等が名付け親。)を拠点として、反撃に転じるわけです。それに対して、百済系比叡山延暦寺も対峙するわけです。
都では、延暦寺の僧兵と、興福寺の僧兵との諍いもよくあったようです。更に、延暦寺側(清水坂)と興福寺側(奈良坂)との、清目(穢れである怨霊を清める重役。しかし、鎌倉時代になると現物の汚れ物の清掃業務となる。古来、「モノ」とは、祟りと守護を兼ね備えた精霊であった。その思想も、仏教伝来により消滅。)のナワバリを廻っての争いも、頻繁にあったようです。
藤原氏の反撃は巧妙です。それは、藤原氏は、陰に隠れ決して攻撃の前面には出てこないからです。(イジメの原点)しかし、藤原氏の異民族支配のための基本戦略を知ってしまえば、その行動を予測する事が可能です。その基本戦略は三つです。それらは、「夷を以って、夷を制す。」「分断して、統治せよ。」「敵の敵は、味方。」です。
藤原氏は、天皇の反乱には、藤原の女を使い、摂政関白のシステムでコントロールすることができても、竹取物語(藤原不比等をコケにした物語)のセリフではありませんが、きたなき都の京で起こる多くの不吉な事件は別です。平安時代では、怨霊の祟りは、清目の武芸者により護ることしかできなかったのです。
そこで、朝廷や貴族達は、近辺護衛のため「清目の武芸者」を募るのです。それが、桓武平氏のライバル、嵯峨源氏の末裔の源綱です。(夷を以って、夷を制す。)源綱は、やがて渡邊綱と名乗り、清目として渡邊党を興すのです。渡辺綱は、清目の大将らしく、怨霊が具現した羅生門の「鬼」退治の伝説に登場するのです。でも、その鬼は、首を斬られるのではなく、腕を斬られ、後ほど、鬼が取り返すストーリーは、同族(清目)が同族(鬼)を退治するからでしょう。本当に、鬼を抹殺したいのならば、腕ではなく、首を落していたでしょう。(ペルシャの腰刀や日本刀の小刀は、敵の首を落すための武器です。ペルシャの騎士も日本の武士も首切りの伝統があったのです。21世紀のイラクでは、現在でもおこなわれているようです。)
名前は、「氏=血族」→「姓=階級」→「字名=地名」→「名字=個人名」と、時代と伴に変化したようです。
そこで、源綱が渡辺綱になったということは、「綱」が「渡辺」という地域に居住したということになるわけです。では、その渡辺の意味は何なのでしょうか。そのヒントは、渡辺党の組織は、松浦党の組織により構成されていたということです。
では、その松浦党とは、何なのでしょうか。その源は、北九州です。魏志倭人伝に出てくる末慮国が、松浦の元です。
松浦党は、海洋軍事部族(河川での船の運航には馬を使役。騎馬部族も構成員として存在。)です。松浦党の基本的考えは、「はじめてのものは後来者をこばまず、後来者は先住者をおしのけず。」との、渡来異部族との共存共栄関係樹立です。その考えにより、連判状の記銘順序も、部族の優劣に関係なく、くじ引きで決めるほどです。
松浦源氏においては、ギリシャ民主制のように、権力者(棟梁)への忠誠規定のない合議制の掟が支配していたようです。これは、藤原氏の支配体制とは全く異なる政治形態です。明治初期まで十三代続く、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門家も、世襲ではなく、頭は、各国組織の推挙による合議制で決められていたのです。
でも、松浦党は色々な渡来部族の連合体であるため、党内の争いを避けるため、「松浦党掟」を定めていました。それが、やがて武士道の心得の基に成っていったようです。
漢字は、それ自体イメージを内蔵しているため、その扱いにより、色々なトリックを考え出せるのです。ですから、王権側が、或は、自らが出自を隠すため、出身地名をある意味を持った「字」に置き換える場合もあるわけです。例えば、鮮卑(魏)=筑紫(ジュジ)=住吉(ジュジ)。匈奴=胸(ムネ)=宗像など。名前では、新羅国の貴族が日本国に渡来すると、朴=パク=ハク=シロ(日本名:白○、志○)、昔=ソク=セキ(日本名:関○)、金=キム=カネ(日本名:金○)に変身するわけです。
松浦は、「マズラ」、或はマがメに変化して、「メズラ」とも読めるわけです。そのメズラ地域を拠点に、日本地図をズームアウトすると、朝鮮南端の島、珍島が視野に入るでしょう。珍島は、チントウではなく、「メズラ」島であるわけです。玄海灘の対馬を挟んで、「メズラ」が対峙しているのです。何故でしょうか。
紀元32年、高句麗(コクリョ)が漢に入貢し、王と称し、そして、紀元ニ世紀に、朝鮮半島を南下するまでは、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏であったのです。
それは、紀元前四世紀、海洋民族「越」に敗れた海洋民族「呉」の末裔が、黒潮に乗り北上し、対馬で西と東に分かれて上陸した所が、朝鮮半島南端と北九州であったからです。呉の末裔はそれぞれの地域に土着し、漢民族により、倭族(イゾク)と呼ばれていたのです。潮目が読める海洋民族には、玄界灘は庭先のようなものです。朝鮮半島南端と北九州では、倭族が頻繁に行き来していたことでしょう。
やがて、紀元四世紀、高句麗、百済、新羅の三国により、朝鮮半島での三つ巴の戦いにより、朝鮮半島南端の倭族は、同朋のいる北九州に押し出されてしまうわけです。追い出された倭族は、航海技術を利用して、半島と交易を始めるわけです。
北九州は、中国大陸から見れば、日本列島の玄関です。つまり、中国大陸の色々な民族、文化が訪れる最初の地であるわけです。と言うことは、京都より、北九州の方が、文化がより進んでいることになるわけです。
その北九州の地に、紀元五世紀、秦一族が新羅国より渡来するわけです。そこで興したのが「秦王国」です。
秦一族の渡来は、446年の北魏の廃仏令(主な原因は、戒律の乱れと現世利益の道教の隆盛。)による、200万人とも言われる仏教僧の追放が原因のひとつかもしれません。
秦氏の神は、仏ではありません。しかし、秦王国には、寺がびっしりと建立していたのです。それは、秦氏は、北魏で、鍛冶技術を駆使して、仏像の制作販売をしていたのかもしれません。秦氏は、仏像販売のための新市場開拓のために、仏教僧と伴に渡来したのかもしれません。
仏寺建造物は、クギを極力使用しない、組み立て式が多いようです。それは、移動に都合がいいからです。北魏で解体された仏寺や仏像は、倭族の船で玄海灘を渡り、秦王国に移築・移動されたことでしょう。
では、秦氏は、どのような神を祀っていたのでしょうか。それは、八幡の神です。では、その八幡神はどのような性格の神かと言えば、それは、鍛冶神です。
秦氏の神山は、香春岳です。その香春岳には、古い採銅所があります。香春とは、カル、つまり銅のことです。機織りで知られる秦氏には、鍛冶技術もあったのです。渡来する前は、加羅で鉱山の開発をおこなっていたのです。
鍛冶には、燃料としての大量の樹木が必要です。ですから、鍛治民族は、燃料を求めて常に大移動する運命にあるわけです。鍛治民族ヒッタイトの滅亡の原因のひとつは、燃料の多量消費のため、緑の山が禿山になって、鍛治に必要な薪が枯渇したからだと言われています。日本では鍛冶は、別名「タタラ」とも言われ、それは、中央アジアの「タタール」が語源とも言われています。
鍛冶は、火と風と水と金属をコントロールする秘術であり、神のチカラを必要とするため、神と交流するシャーマンの業でもあるわけです。そして、火をコントロールするのは鳥(火の鳥)であると考えられていたので、秦氏は、その鳥のシンボルを「鷹」としたのです。「鷹」は、「高」の字に置き換えられ、鉱脈が探索できるように「高」のつく山に、秦氏の神を祀ったわけです。例えば、高尾山、高巣山、高取山などです。
秦氏の神は、魔多羅神と言われています。新羅の花郎は、弥勒の男と言われています。弥勒の神は、山中の洞窟に潜んでいると信じられていました。そこで、弥勒の神に出会うため、花郎は、山岳修行するわけです。修行のため、山に篭るとは、弥勒の神との出会いを求めることです。
魔多羅神は、鍛治神でもあるわけですから、鉱脈探しのために、山の穴に祀られることもあるわけです。やがて、鉱脈探索の穴は、弥勒の神の住む穴にもなるわけです。ここに、魔多羅神と弥勒の神が出会うわけです。でも、その二神は、元々は同じ神であったのです。それは、ミトラ神です。
ミトラ神は、東の山から再生すると信じられていたのです。そのミトラ神とは、太陽神だったからです。西の山に死んだ(沈んだ)太陽は、次の日、再び東の山から再生するわけです。死と再生を繰り返す、太陽神(ミトラ神)は、死を賭して戦う、武士には、心の支えとしてなくてはならない神であったのです。その神を祀るのが、新羅から渡来した八幡の社であるわけです。
源義家が八幡太郎義家、そして、源義光が新羅三郎と自ら名乗るのは、八幡の神は新羅から渡来し、そして、源氏の武芸者も新羅から渡来したからです。

神輿の黙示録(6)(鎌倉源氏の没落:何故三代で滅亡したのか)


日本刀は、「武士の魂」と言われているようです。しかし、「日本刀」は、明治時代に発明された言葉なのです。明治以前までは、直刀は「剣」(つるぎ)で、反りのある片刀は「太刀」(たち)と呼ばれていたようです。
源平時代の実戦主武器は、弓、薙刀、槍です。時代が下がって、戦国時代の実戦主武器は、鉄砲です。歴史上実戦闘では、首切り用以外は、太刀はあまり武器として使用されていなかったようです。それは、すぐ刃こぼれしたり、曲がったり、折れたりしたからのようです。
永禄8年(1565年)、十三代足利義輝が、松永久秀の謀反にあい、刀が折れたり曲がったりするから、名刀を何振りもとりだして応戦したことは有名な話です。いや違う、刀は実戦に使われていた証拠として、剣豪宮本武蔵は、多数の敵に対して、二刀流で応戦したではないか、と言っても、宮本武蔵は、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」との合成人物であったのです。
では、実戦で主武器として使用されない反り刃の太刀が、何故に「武士の魂」なのでしょうか。
奈良時代から平安中期頃までに、刀は直刀から湾刀へ変化したようです。つまり、清目の武士達が登場した時期と同じ頃です。この時代の刀匠として、現在のところ、在銘最古は、伯耆国(島根県)の安綱です。安綱の作品としては、清目の大将渡辺綱が羅生門で鬼の腕を切ったと言われている、「鬼切丸」があります。
刀の学術書によれば、反りの発明は、徒歩戦から、馬上戦へと戦い方が変化したからだと説明されているようです。だとしたら、騎馬民族の蝦夷との戦いで、坂上田村麻呂は、何故に反り刀を使用しなかったのでしょうか。ちなみに、坂上田村麻呂は、自称、漢帝国の末裔と称していました。
どうも、反り刀(日本刀)は、実戦の武器として発明されたものではないようです。では何かと言えば、それは、怨霊との戦い(清目)で、武士の「魂を護る」ための武器であったようです。
平安時代は、源氏物語などによる平安文学の華麗な世界とは異なり、実際は、亡命インド僧達がもたらした魑魅魍魎のバラモン的世界観により、穢れや地獄などのオカルト世界に貴族達は埋没し、藤原氏の陰謀により呪殺されたひとたちの怨霊が渦巻く、おどろおどろしい時代であったようです。 平安の都で、穢れや怨霊退散の祈祷が流行るということは、その需要があるということです。そこで登場したのが清目の武士です。武士による清目とは、「武芸」による「祈祷」でもあるわけです。その祈祷のパフォーマンスに使用されたのが、反り刀(日本刀)であったのです。そして、その清目の儀式の衣装として発明されたのが、豪華絢爛な鎧兜であったのです。その根拠として、この時代に、鎧は、錆びやすく重い鉄製(40kg〜70Kg)から、軽い漆塗りの総皮製に変化しているからです。(鉄砲が渡来してから、鎧は再び鉄製に戻った。)
その武芸者の嵯峨源氏が、天暦五年(951年)に源等の死と伴に、政界の表舞台から消えてしまい、それに替わり、武家の清和源氏が登場するのは何故でしょうか。
嵯峨源氏と清和源氏とは、同じ源氏でも、名前が一字と二字の違いからも分るように、身分が異なります。国風化までは、漢風の一字名の方が、二字名よりも挌上だったのです。
清和源氏の政界登場は、安和ニ年(969年)の安和の変からです。
安和の変とは、藤原師尹(もろただ)による陰謀です。藤原師尹は、村上天皇の次の皇位をめぐって、醍醐天皇の皇子左大臣源高明を貶めるために、源満仲(清和源氏)に「源高明が皇太子守平親王の廃位を図っている。」と密告させるのです。(藤原氏の第三者を使う手立ては道鏡事件とそっくりです。)それにより、藤原氏の有力敵は全て抹殺され、他氏族との権力闘争が終わりを告げ、これより後、摂政・関白を藤原氏が独占するわけです。そして、この手柄により、清和源氏の政界での基礎固めが確立するわけです。
清和源氏は、藤原氏と結び、武士として東国での地位を不動のものにするわけです。しかし、実際には、清和源氏は、清目としてではなく、藤原氏の手先としての軍事部族として利用されていくわけです。
そして、鎌倉源氏(清和源氏)の滅亡から、清目の内容が変化していく訳は何故でしょうか。
鎌倉時代以降、武家の基は清和源氏となっているようです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。万世一系の天皇家の系図も、四歳年下の第三十八代天智天皇が第四十代天武天皇の兄となっていることからも分るように、不確かなものなのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、安和の変で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
その頃、京の都は、平将門の乱(承平5年・935年)と藤原純友の乱(天慶2年・939年)の後遺症により、平将門の手下が京に侵攻してくるとの噂で、大混乱していた時代なのです。
目を外国に転じると、935年平将門の乱が起こった時、935年新羅国は高麗により滅ぼされていたのです。日本国の争乱は、朝鮮半島の争乱と連動していたようです。
そのような都の争乱に、藤原氏の一族は何をしていたのかと言えば、文芸に励んでいたのです。藤原氏の一族は、佐藤(左兵衛府の藤原氏)、首藤(主馬寮の首の藤原氏)、近藤(近江の藤原氏)、尾藤(尾張の藤原氏)などが存在していたのですが、貴種は武人になりえず、の格言どうり、朝廷サロンで美女を相手に歌などを詠んでいたわけです。
優れた軍人になるには、幼年の頃から軍事訓練を行なわなければ、騎馬弓射などの高等軍事技術を習得できないわけです。ですから、京の都では、氏素性など問題にせず、軍事技術のある武士は、就職の口はいくらでもあったわけです。
戦国時代、何故、尾張国の部将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が、数多ある戦国部将の中から頭角を現わしたのでしょうか。知力があったから、或は運が良かったからでしょうか。それは、海外との貿易港として、尾張国には桑名港があったからです。
戦闘は、兵力と武器との差により、勝敗が決まると言っても過言ではありません。つまり、武器弾薬、兵力の補充がより充実している軍団が、戦いの勝利者となるわけです。
織田信長は、イエズス会と組んで、鉄砲や弾薬の調達を行なっていました。更に、軍事顧問として、ジョバンニ・ロルテス(イタリア人。日本名山科羅久左衛門勝成。イエズス会宣教師オルガンティーノと伴に来日。聖ヨハネ騎士団に所属。キリシタン大名蒲生氏郷に砲術師として召抱えられる。蒲生氏郷没後日本国を去る。)を配下に置いていたのです。徳川家康は、ヤン・ヨーステン(1600年渡来。オランダ人。国際航海家。東京駅八重洲の名の基)を顧問として雇っていたのです。日本列島における戦は、飛鳥時代の古より、外国の軍事力の影響下にあったのです。実は、明治維新も水面下では、イギリス東インド会社(薩長官軍)とフランス東インド会社(幕府軍)との戦いだったのです。
そして、その戦国部将の出自は、三人とも不詳です。特に、自称平氏の豊臣秀吉は、いつ何所で生まれたのかも、分りません。自称平氏の織田信長は、先祖が神官だそうですが、四代先が分りません。ですから、武功を立てても、自称源氏の徳川家康(慶長八年・1603年)以外は、征夷大将軍にはなれなかったのです。
では、平安時代の「桑名港」はどこかといえば、それは、摂津国の浪速(難波)です。浪速(難波)は、飛鳥時代、西域から鍛治技術、灌漑技術、都市建設技術、土木技術などをもたらした秦氏により開拓された土地です。浪速は古くから、楼蘭(ロウラン)→楽浪(ロウラン)→筑紫(ジュジ)→浪速(ロウラン)→住吉(ジュジ)の国際交易ルートとして栄えていたのです。その、浪速(難波)の国際港がある摂津国の鍛治・産鉄部族が多く暮す多田荘(多田党はタタール族の末裔か?)から、49歳の源満仲が現われたのです。
平安時代の東アジアは、日本国の戦国時代のように、正に異民族が入り乱れた動乱の真っ只中であったようです。
907年の唐帝国の崩壊→916年の遼(契丹)の建国→960年宋の建国。935年新羅の滅亡→936年高麗の建国。目まぐるしく変わる王権。それに伴う臣民の離散と集合。そのような動乱期に、真っ先に国外逃亡するのが王族、貴族、金持ち、高級軍人など、国を支えていた支配層達です。そして、いつの時代でも、下層階級は、抹殺されるか、奴隷になるかの選択肢しか残されていないようです。
そのような時代に、五代十国の呉越国の天台山(中国本社)に、比叡山延暦寺(日本支社)の僧日延は、呉越国の国際交易商人蒋承勲(しょうしょうくん)の国際貿易船に乗って、呉越国と難波を往き来していたのです。
ちなみに、比叡山延暦寺は、百済系桓武天皇が最澄(日本国天台宗の祖・支社長)のために建立した寺です。
その流れから、比叡山延暦寺僧侶の法薬禅師が現われるのです。法薬禅師は、宋国の国際交易商人から大宰府役人への賄賂の融資を受けて、大山寺を北九州の借上活動(金融営業)の拠点としたのです。そして、宋の国際交易商人は神人(寺の奉仕人。本来は、神社の氏子。神仏混交により寺の使用人となる。)として活躍したのです。
平安時代から鎌倉時代に、比叡山延暦寺が日本国最大の金融業者となったのは、宋国との貿易活動と国際交易港がある北九州での金融業による荒稼ぎによるわけです。
主な輸出品は「真珠、水銀、硫黄、鷲の羽」です。輸入品は唐物の装飾雑貨類や羊やクジャクなどの珍しい動物です。その貿易の決済に使われたのが、陸奥国の金です。そのために、桓武天皇から始まる東北経営とは、蝦夷討伐を名目に、漢帝国の末裔の坂上田村麻呂などの傭兵軍を使役して、陸奥国の金の簒奪のことだったのです。その豊富な財産を保持した百済系延暦寺は、僧兵を組織して、興福寺と春日社を経営する藤原王朝と対峙するわけです。
藤原氏は、武家源氏の軍事武力を背景に、摂政関白システムを駆使して、京の都でやりたい放題を行なっていたのです。それは、藤原道長の、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」、の歌が示しています。でも、藤原氏の栄華は道長が頂点でした。
それに対して、百済系後三条天皇が、藤原氏の摂政関白システムを排斥する、「院政」で対抗するわけです。その院政のシステムとは、天皇を社長と譬えれば、天皇が引退して、代表権のある名誉会長に就任